苦笑するイグニスの手を引いて、僕は彼女をベンチに寝かせた。 介抱しようとして、ふと、悩む。  「これは……いったいどう脱がすんだ?」   あらためて見れば豪奢なドレスだ。 ぴったりと肌に貼りついた黒いシルクは、汗を吸っているはずだが、微塵も崩れていない。  「服が邪魔か?」   挑発するような笑みを浮かべるイグニスに、僕は、わずかに苛立った。 「時間がない。切るぞ」   人差し指に東風を呼べば、メス代わりになるはずだ。  「やめろ」   イグニスが顔をしかめた。  「おまえの腕じゃ、肉まで切りかねん」  相変わらずの、人を小馬鹿にした声だが、かすかにかすれていた。 額に汗が滲んでいる。  「こうすればいい」   僕は、イグニスの脇の下に両手を回した。 豊かな胸を支える留め金の下に、指をねじいれる。  一瞬。 すべらかな絹のはだざわりと、それより、さらに柔らかく熱い感触が指先を覆う。   胸に、どくりと鼓動を感じた。 僕は、唇を噛んで動悸を鎮め、両の指先を持ち上げた。  十分に肌から離し、風を呼ぶ。  「あっ」   風が肌をくすぐったか、少女のような悲鳴が唇から洩れた。  留め金は、鈴のような音を立てて両断された。  ドレスの下には、黒い薄物があった。 豊かな胸からへその上までを覆っている。   女性の服というのは、どうしてこう面倒なんだ?  「このドレスは……オートクチュールだぞ!」   悲鳴の原因は、経済的損失のようだった。 「いいから、黙っていろ」   今度は壊さないでもすみそうだ。 僕は、薄物のすそをつかみ、引っ張り上げる。 下腹部に指が触れる。 傷のせいか、しっとりと汗で湿った肌の上を指先がすべる。  「痛……」   薄物が傷に触れたか、イグニスがもがく。 「傷を見るだけだ。大人しくしろ」   助言を聞き入れずに、半身を起こすイグニス。  「動くなと言っている」   無理な動きをしたせいか、イグニスが、顔をしかめた。 ふいに力が抜けて、また倒れ込む。   頭を押さえようと腕を振ったが、アンダーウェアにさしこんだ指が抜けない。  結果。   薄物は胸の半ばまで持ち上がった。 イグニスは倒れたまま目をそらし、荒い息をついている。   僕は、自分の置かれた状況を検分した。 僕の目的は、イグニスの腹部を露出し、傷を検分し、必要とあらば手当すること。 腹部以外も露出しているが……少なくとも目的は果たした。  ふと脳裏に、第三者的視点で見た現況がよぎる。   汗をかき、怯えた目をして横たわる半裸の女性。 その上にのしかかるように佇む男。 なかなかに犯罪的な状況だが、まずは手当だ。   たくしあげたアンダーウェアは、豊かな乳房の半ばに食い込んでいた。 胸にはブラジャーがあったが、これは、このままでいい。   介抱のために切り裂く必要はない。 ──必要はない。  唾を飲み込むと、喉が、ごくりと鳴った。 左胸の奥で、何かが暴れていた。 これは、僕じゃない。   僕には心臓はない。  「野蛮人か……君は」   呆れた声が響く。 僕は無視して、イグニスの肌を検分した。  つややかな白い肌は汗に濡れていた。   それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからない。運動の結果ならともかく、苦痛をこらえた末の汗なら、問題だ。  下腹部に、大きな痣があった。拳で殴ったような痣の中心が擦過傷になって、じくじくと血が染み出ている。 「コートに……絆創膏がある」   苦しい息の下からイグニスが囁くように言った。 僕は、言われるままに、コートを探った。 「右の内ポケットだ」   持ち上げようとして、その重さに驚く。  指から離すと、がしゃんと音を立てて地面に落ちた。 ……防弾に加え、暗器の数々か。重くて当然だ。  転がったのは、スタンガン、デリンジャーがふたつ、刃が黒く闇に溶けるような月牙、筒型の手榴弾らしき物体、等々。  その中で特に僕の目を引いたのはジッポライターだ。  絵とも文字とも取れない銀のロゴが目を引いたわけではない。 ただ、同じデザインのライターを三つ持つ必要が、本当にあるのだろうか? 「なぜ、こんなに?」 「欲しかったら、ひとつやるぞ」   確かに、手元に灯りが欲しかったところだ。ちょうどいい。 火をつけようと蓋を開けると、突然イグニスが鋭い声で言う。 「ただし、ホイールは手前に回せよ」 「……なぜだ?」 「奥に回すと、信管が外れる」  信管。爆弾を炸裂させるための装置だ。 それが意味するところは、すなわち。 「手榴弾か?」 「小型の、な。なかなかしゃれているだろう?」  イグニスの言葉に、僕は思わず呆れてしまう。 道理で、同じライターをたくさん持っているわけだ。  僕は、ジッポライターの明かりを頼りに、なんとか絆創膏とテープを見つける。 広いが、深くはない傷だ。絆創膏を押しつけて、テープで固定すれば血は止まった。 「さぁ、これでいい」   応急手当だが、とりあえず救急車を呼ぶ必要はないだろう。 メゾンに戻ったら管理人さんに手当してもらおう。  汗をぬぐって、僕は、ドレスを手に取った。金具は完全に割れていた。 どうやって戻せばいいだろう。   結べばなんとかなるかな?  生地を確かめるうちに、僕は、ふと、布地のほつれに気づいた。   イグニスの左胸のあたり、布地が大きく解れていた。 見ればビスチェにも、同じところに傷がある。 「取るぞ」   僕は、ブラジャーに手をかける。 「やめろ」   囁くような声を無視して、僕は、それをひっぺがした。  つんと上を向いた胸の先に、形のよい乳首。 そのすぐ脇に、無惨な痣が、縦に四つ。 「これは……」   僕がつけた傷、か。 指は血袋で止まっていたが、その衝撃は、彼女の肌を傷つけていたのだ。 「たいしたことはない」   のんびりとイグニスが言った。 「見切りを損ねただけだ」  「そうだな」  僕はうなずく。 元はといえばイグニスが無断で仕掛けたことだ。 が、この答えはお気に召さなかったらしい。 「おまえは……乙女の柔肌を傷つけておいて……なんとも思わないのか?」   苦痛をかみ殺した口調で、イグニスがおどける。 「僕も悪かった」   とりあえず、僕は絆創膏を取りだして、痣の上に貼った。 乳首に絆創膏が触れると、イグニスは、小さくあえいだ。 「僕も、とはなんだ。おまえは責任を感じていないのか」  「僕にも責任はある。ということは、責任を感じているということだ」 「ふん」   そう言ってから、イグニスは急に顔をそむけた。胸には、汗が浮かんでいる。 「痛いのか?」  「……ぁ」   イグニスの唇が動いて、吐息を吐いた。 「なんだ?」   僕は、耳を寄せる。 「……ん……」   イグニスの右手が動いた。震える指が額を指さす。 「動くな。大丈夫か?」   僕は、イグニスの額を正面からのぞきこむ。  視界が暗くなる。   一瞬、何が起きたかわからなかった。 視界が暗くなり、暖かな息が顔にかかった。唇が、なにか柔らかなものでふさがれる。  暖かなものが、僕の歯をなぞっていった。それは、やさしく歯を割り、僕の舌に触れる。 そこまで来て、僕は、ようやく気づいた。 ついばむようにして僕の唇を奪ったイグニスは、右手で僕の頭を抱き寄せた。  バランスを崩して、僕はイグニスの上に倒れ込む。 右の掌が、柔らかなものに沈み込む。五本の指先は、熱い肌にくるまれた。 混乱して叫んだ僕の口に、イグニスの舌はますます深く入る。唾液が二人の口腔を行き来する。  舌に舌を嬲られ。 指先は暖かな肉の感触を確かめ。 僕は、とっさにどちらに対応するか迷った。  舌を拒むか。胸を拒むか。 悩む間に僕の舌はイグニスの舌に絡み、その頬を撫で上げる。 悩む間に僕の指は、マシュマロのような感触を確かめ、ピアノを弾くように五指を蠢かす。  終わりは唐突に訪れた。 顎をぐいと押されて、僕は我に返った。 ぽかんと開いた口から犬のように垂れた舌。その先が糸を引く。  あわてて僕は、胸をもみしだいていた右手を引っ込めた。 「退け」   声には、勝ち誇った響きがあった。 まったく非論理的ながら、僕も、イグニスに負けた気がしていた。  イグニスは、ゆっくりと身体を起こす。 血は、止まっているようだった。 顔には、さっきまでなかった余裕があった。  「芝居か?」  「責任を感じているといったな。これは罰だ」   にやりと笑う顔に、僕は、文句を言いそびれた。 「とにかく……メゾンに戻ろう。管理人さんに手当してもらう」  「あの女にか?」   イグニスは顔をしかめる。 僕は、ささやかな勝利を噛みしめた。  「さ、行こう」 「イグニス、僕は……」   匂いが、僕をうちのめした。 いつのまに抱き寄せられていたのか。 僕の頭はイグニスの胸に埋まっていた。   甘やかな雌の匂い。 指が、唇が、うずいた。 血が沸き立つ。 こめかみを叩くように、鼓動が響いた。  身体の奥で、破裂寸前の何かが、求めていた。   目の前の女を。 たわわに実った胸を。 見せつけるように尖らせた唇を。 くびれた腰を。 豊かな尻を。   両腕が、力強く女を抱きしめる。   かすかな嬌声が唇から洩れた時、僕は迷うことを止めた。   水は暖かく、心地よかった。 撒き散らされた花の匂いが、甘く喉をくすぐる。   それよりも甘いのは、目の前から漂う女王の威厳だ。 大いなる乙女にして母となる女王の全身が、かすかに水を桃色に染める。  「女王よ」   僕は、呼びかける。   ──違う。 これはイグニスだ。 僕は魚人じゃない。   桃色の水はあまりにも柔らかく、僕の肌を撫でてゆく。 女王が/イグニスが、かすかに口を開く。  「克綺」   ──僕は克綺。 九門克綺。 僕は魚人じゃない。 だけど……。   その想いを、断ち切ることはできない。 僕の中の、僕でないものが、求めている。 狂おしいほどに、命を懸けても惜しくないほどに。   イグニスは/大いなる乙女は、水底を行く。 艶めかしい笑みを浮かべながら、誘い、試す。   水になびく豊かな髪が、その裸身を隠す。 海草の森ごしに、長い足が見え隠れする。   やわらかな線を描くふくらはぎが、力強く水を蹴る。 両の腕は白い乳房をかばい、その顔には、からかうような笑みがあった。   僕は/克綺は/水の民の男の子は、イグニスを/大いなる乙女を、追う。 矢も楯もたまらず、彼女を追う。  両の腕で水を掻き、両の足で水を蹴り、全身の力で乙女に迫る。   桃色の航跡が水中に描かれる。 螺旋を描いて続く桃色の道を黄金に変えながら、僕は泳ぐ。 自分の中の獣に任せるよう、彼女の身体に触れるべく、渾身の力を込めて。   乙女は逃げる。 最初はゆっくりと、そして力強く。   くねる足に、もう少しで腕が届くその時。 閉じた腕の間から、乙女は蛇のようにすばやく抜け出した。 両腕の間に残ったのは、無数の泡だけだ。 鈴を鳴らすような笑い声がこだまする。   僕は笑わない。 熱いものが胸を満たしていた。   ──試されている。   僕は今、秤にかけられているのだ。 見定められているのだ。 果たして自分が、あの乙女にふさわしい力を持つか否かを。   全身が、震えた。 巡る血が、沸騰するほど熱く、熱く。 周囲の流れが、熱に淀むほどに。   乙女が逃げれば逃げるほど、僕が追えば追うほど、たがいの身体は火照りを増す。 求め合う互いの距離が、徐々に縮まっていく。 狭い岩場をすりぬけ、強烈な水流を遡り、僕は乙女を追う。   最初に触れたのは髪だった。 春の小川よりも柔らかな感触が、指の間を撫でる。 その感触に酔う内に、乙女は先に進む。   ──まだ、足りない。   次に触れたのは、爪先だ。 形のよい爪先を愛でるよりも早く、大きな力で僕を後ろに蹴飛ばした。   ──もっと、近く。   そして、僕の手が、乙女のくびれた腰に触れる。 乙女が、組んでいた腕を解き、僕の手に触れる。   まろやかな白い乳房、深いその谷間が僕を惹きつけた。 そのまま対の膨らみを掴み、吸い付こうとした僕の唇を、黒い手袋が唐突に導いて。   導かれた先は、彼女の唇。   自分の身が、蒼い水を婚姻色に染める。 ゆっくりと広がる蒼い水が、桃色の水と交わった時、黄金の光が弾ける。   僕の中の、僕でないものが喜びにうちふるえる。 婚姻は認められた。 女王の臥所は開かれた!   乙女の柔らかな唇が、熱く燃える舌が、優しく撫でる。 その感触に、僕は/水の民は、忘我する。 優しい腕が僕の手をほどく間、僕は、痺れたように立ち尽くしていた。   乙女が再び泳ぎ出す。 両の腕も使って、全力で。 身をくねらして、ぐんと進むたびに、無数の泡が彼女を包む。 泡ごしに、かすかに見えるのは、豊かに実った胸が揺れるさま。 ひきしまった腰が震えるさま。   僕は追う。 両の腕と両の足に燃える思いをこめて、重い水を蹴って乙女に迫る。   水底の、岩と海草の迷宮から、乙女が急上昇する。 月の光がかすかに差し込み、乙女の姿を照らし出す。 そこへ向かって僕は急ぐ。   逃げる乙女が螺旋を描く。 僕は、その足を掴もうとする。 二人の航跡が円を描き、僕は、乙女を追っているのか、乙女に追われているのか、一瞬、わからなくなる。   ゆっくりと、ゆっくりと、円は小さくなる。 僕の目の前を、乙女の爪先が、胸が、形のよい耳が通り過ぎてゆく。 水の中に満ちるくすくす笑い。 閉じてゆく輪の中で、僕は泳ぎ続ける。 あと3回……あと2回……今だ。   両の腕が、今度こそ乙女をかき抱く。 二人の速度が一体となり、僕たちは勢いで、海中から飛び出す。   水飛沫を上げてふたりは、岩場の台座へと倒れ込んでいた。   乙女が、こちらを見上げる。 くすくす笑いは影をひそめている。   衣服のように纏っていた水を脱ぎ捨てて、かすかに不安な影が覗いた。 水の舞姫は、岩場に上がりその素顔をさらけ出す。   濡れた瞳、頬に張り付いた髪。 僕は、その髪を優しく梳く。 そうしながら、考える。   ……イグニスなのか? はじめての婚姻を前に、不安げな表情を浮かべ、僕にすがりついているのは。 それとも、本当のイグニスは、違う表情を浮かべているのだろうか?   迷いが、彼女まで伝わったのだろう。 乙女が/イグニスが立ち上がり、ゆっくりと僕の顎を持ち上げる。   岩壁を背にして、僕と向かい合う彼女。 その瞳に浮かぶのは、先ほどまでの挑発の色ではない。 僕を受け入れ、求めている。   今は、婚姻の時。 疑問を挟むのも思い悩むのもお門違い。  「……克綺」   かすかに聞こえた声は、誰のものだっただろう。 唇に当たった手が、頬をなでて、首を引き寄せた時、迷いはなくなった。   桜貝の色をした唇が、かすかに開いて誘う。 蘇るあの感触に、僕は抗えない。 抗おうとも思わない。   唇が、重なる。   しばしの間、僕たちは、同じ息を重ねあった。 抱擁が二人を近づけ、僕の胸に、乙女の乳房が、おずおずと触れる。   舌が探りあうと、二人の腕に力がこもった。 豊かな乳房が潰れるほどに。 ゆっくりと寄りかかる、彼女の身体。   感じ取りたかった。 この愛おしい生き物を。   濡れた唇、絡みつく舌、しがみつく腕、こぼれ落ちる胸、情熱の瞳。 そのすべてを自分のものにしたかった。   唾液が絡み、吐息がかかる。 彼女の指先が、まるで焦らすように、ボタンを外していく。 上着を脱がせ、張りついたシャツに指を這わせると、濡れた布越しに爪が肌をさする。   その間も、僕は彼女の感触を執拗に求めた。 ひとつ、ひとつ降りていく指の感触に、いてもたってもいられない。   やがて彼女の唇は、頬に、首に、耳を刺激する。 肺から押し出される熱い吐息が、僕の火照った肌よりさらに熱い。   僕は本能の求めるまま、彼女の胸に手を這わせる。 円を描くように、熱く火照った乳房を撫でる。 布越しに感じるかすかな突起を、指先で弾く。  「──ぁ」   彼女は吐息を漏らして、身体をもたれる。 僕の肩に顔を乗せて、乱れ髪が背に張りつく。   ちらりと瞳を覗けば、彼女に先ほどまでの余裕は、どこにも見あたらない。 立っていることさえ困難であるかのように、僕の身体に身を預けて、その視線は遥か遠く。   肌から漂う彼女の香が、鼻腔の奥をくすぐった。 それは媚薬のように、僕の理性のタガを外す。 抗う術はなかった。   僕の指が彼女の胸を乱暴に掴みあげる。 胸を覆う薄布から、弾けるように露わになる、双の乳房。 薄桃色の先端は、宙に固く突き出している。 海水か、汗か。 突起を舌で転がすと、彼女の味が広がった。   同時に、僕の片手は彼女の胸から這い降りる。 布越しにヘソの窪みへ、胸をねぶりながら、爪先で彼女をくすぐる。  「ん──」   僕の耳が唇で挟まれる。 濡れた髪が小さく揺れて、荒い息が水滴を掠めて、僕の首を刺激する。 背筋がぞくりと痺れる。   彼女はたたみかけるよう、僕の身体を撫で回す。 震える指先が脇腹をなぞり、ゆっくりと落ちてゆく。 僕の背を、脇を、腿を、彼女の指が滑ってゆく。   僕の手も、動きをやめない。 すべらかな曲線をなぞり、さらに下へ。 スリットに手を滑り込ませ、まくり上げる。 下着に指をねじ込ませ、羽毛のような繁みを抜ける。   指の腹がそこに達した時、小さな声が聞こえた。 「克綺……」  僕は、乙女の/イグニスの目を見据える。 熱く潤っていた。  指の腹が割れ目をなぞってゆく。 僕の指が、突起を探し当てる。 指の腹が、まるく、周囲を押し揺らす。 「ん、あ──」  彼女が/イグニスが/乙女が応える。 声には、震えがあった。 初夜を迎える乙女のものか、あるいは皮肉好きの女の仮面の奥の声か。  僕に身体を抱きしめられて、彼女は逃げ場もなく悶える。 指の動きに合わせるよう、大きく揺れる彼女の長髪。 すがるような、彼女の声色。 「んはっ、ん──ん!」  指に蜜を絡ませて、泡立つほどの音を立てて、彼女の秘裂を掻き回す。 彼女の表情が、苦悶に近い形に歪む。  動きが激しくなるに連れ、力が抜けていく白い脚。 彼女の膝が小刻みに揺れる。  助けを求めるよう、僕に寄りかかる彼女。 目が細められ、黒い拳が握られた。  僕は、動きをやめない。 もう逃がさない。 胸に唇を這わせながら、指先で肉芽を直に触れた。 「ふぁっ、んぁ……!」  電気を流されたよう、彼女が身体を震わせる。 荒い吐息が濡れた髪を揺らす。 必死に身体をよじるが、僕に抱えられたままどこにも逃げられない。  水を奪われた大いなる乙女は、水を蹴って舞い上がることもできない。 その代わり、裏返りそうなか細い声を揺らし、背に爪を立てる。 肋が折れるほどに抱きしめ、首筋に歯形を残す。  わずかな抵抗も、すぐに途切れた。 蜜に滑る指先が、彼女の突起を間断なく刺激する。 刺激は直に、彼女の身体を揺らす。 強弱に合わせて声色が漏れる。  いくら逃れようと藻掻いても、逃がさない。 びしょ濡れになった下着の中、僕の動きは止まらない。  ゆらゆらと揺れる彼女の前髪。 その律動に合わせるよう、口から漏れるかすかな吐息が、徐々にリズムを取り始める。 「んはぁ、んぁっ、んっ、ん──」  肩を抱き、口づけし、指の動きをさらに早く。 僕の腕を掴んだ指先が、爪を立てて丸まった。 その痛みすら、心地いい。 僕は懸命に、彼女の敏感な部分を攻めたてる。  彼女の身体が、さらによじれる。 声は、か細く、切なく、今にも途切れそうに。 追い立てられるように背を僕に押しつけ、涙目で宙を見上げる。 「んは、んぁあ、んんん──!!」   急激に上り詰め、そのまま軽く痙攣。 惚けたように表情を緩めて、乙女は僕に力無く寄りかかる。   緊張から解き放たれ、弛緩した彼女の身体。 背に突き立てた指をもう一度広げ、背を撫で回す。 まだ余韻の残る潤んだ声が、不意に僕の名を呼ぶ。  「克綺──」   耳の奥に舌でも差し入れるかのような、優しい囁き。 耳たぶを甘く噛む。   肌を滑る指は、背から脇腹をくすぐり、やがて焦らすように僕の股間へ。 彼女の余韻が分け与えられるかのよう、唇が重ねられる。   そのまま彼女の指先が、布越しに僕の屹立を包んだ。 思わず口から漏れた溜息を、彼女はその唇で受け止める。   軽くさすられるだけで、快感に意識が遠のきそうだ。 十本の指は、今にもはち切れそうなそれを、焦らすように、嬲るように。  ゆっくりと、バックルが外される。   僕の中の、水の民が、求めている。 彼女の唇を味わいながら、舌と舌を絡ませながら、静かに顔を引き離す。   乙女はまだ息も荒く、胸を激しく上下させている。 上気した肌が、濡れた瞳が、さらに求めている。   僕たちは見つめ合う。 重なる前に、一つになる前に。 僕は、目の前の彼女を確かめたかった。   鼓動が聞こえた。 彼女の鼓動が。  僕の鼓動と彼女の鼓動。 二つの律動は共鳴し、周囲の空間を満たしていた。   それでも、まだ、足りない。 もっと、もっと近づきたい。 側にいたい。   僕が/克綺が/水の民が、言った。  「重なりたい」   彼女は/イグニスは/乙女は、言葉を放たずにただ、微笑んだ。   誘うような、表情のまま。 僕に背を向けた。   その光景に、呆然と、見入るしかなかった。   す──と微かな音。 彼女は腰に手を当て、その指を徐々に這わせた。 前屈みになり、腿の下まで下着を降ろしてから、一呼吸。   再び上体を起こす。 長い髪をまとめるように、大きく頭を振るわせてから、まるで焦らすようさらに一呼吸。   岩壁に片手を当てて、ゆっくりと身体を折り曲げる。 黒い手袋が岩壁を掴み、反動のように形の良い尻がこちらを向いた。   突き出された。   腰に当てていたもう片方の腕が、自身の臀部を撫でる。 挑発するように。  「来て……」   彼女は先ほどと変わらない、微笑み混じりの顔で振り返った。 ひらり、とわずかに風をなびかせて、片手が自らドレスをめくりあげる。   濡れた秘裂が覗いた。 ひくひくと小刻みに揺れながら、今か今かと待ち受けていた。   僕の中で、何かが弾ける。   「いくよ」   僕は、白い臀部に身体を密着させた。 片腕で、彼女の肌をしっかり掴んだ。   柔らかく、汗ばんで、ほんのりと赤みが差した彼女の肌。 片腕で自分のペニスを導いて、濡れそぼった彼女の亀裂に、差し込む。 「あぁっ、うんッ」  悲鳴に近い愉悦の声。 その声に、僕は一瞬頭が白くなる。  堅く屹立したものが、たまらなく柔らかなものに受け止められている。 包み込み、絡みつく襞。 潤った彼女を存分に味わいながら、静かに押し入れる。  僕は身体を折るようにして、後ろから彼女と密着させた。 振り返る彼女は、既に息切れするようにこちらを見上げ、唇を求める。 奥まで繋がったまま、貪るように、彼女の身体をしっかりと感じて。  僕は、動く。 求めるままに、身体を揺さぶる。 白い肌をわしづかみにし、腰を打ち付ける。 「ふぁっ、ん……ん!」  髪を前後に揺らして、彼女は声を漏らす。 名残惜しく背後に向けられていた彼女の顔が、耐えきれないようにうつむく。  腿が固く強張っている。 苦悶の色を濃くしていく彼女の声色。  だが僕は、止まらない。 ひたすら身体を前後させる。 僕は、もっと強く、もっと深く。 求めるまま、彼女に身体を打ち付ける。 「あぁっ、ん、んぁ、んん──!」  こぼれ出した乳房が、宙に激しく輪を描く。 後ろに回した指先が、僕の太腿に爪を立てる。  最初は、どこかバラバラに感じられていたふたりの身体が、同調していく。 乾いたリズムに合わせて、追う動きと離れる動きが重なり合う。 僕たちは一体となって、腰を振り、また引き寄せあう。  壁に掛けた手が滑り落ち、藻掻くように岩を掻く。 滑り落ちていく彼女を、後ろから突き立てるように、僕はさらに強く押し込む。 「んはっ! んぁっ、ん!」  一際大きな喘ぎ声。 背が仰け反り、跳ねるように髪が踊る。 潤む瞳が、耐えきれないように背後を向く。  だが──もう、彼女の動きも、止まらない。 「はぁっ、んぁっ、んは、あっ──!」  貫く僕の動きに合わせて、自ら前後に身体を揺らす。 根本まで僕を飲み込み、舐め回し、離さない。  乙女は/イグニスは、貪欲に求める。 この快楽を一滴も逃すまじと、ひたすら押しつける。 「もっと、んはぁ、もっと──」  立っているのもやっとというように、岩壁に寄りかかりながら。 それでも、彼女は艶やかに見返る。 僕を誘う。  鷲掴みにした僕の指が、白い肌に赤い跡をつける。 腿に立てていた彼女の指を、空いた片手でつかみ取る。 絡み合う、指と指。 彼女は顔を上げて、僕は上体を折って、軽い口づけ。  それが、合図。  互いの指を絡ませたまま、リズムをとるよう身体を動かす。 僕が貫き、彼女が受け入れる。 痺れ、溶ける結合部から、感情があふれ出るように蜜が漏れる。 「はぁっ、ん、ん……」  彼女の/乙女の/イグニスの感情が、絡められた指と指の狭間を縫って。 自分の/水の民の/克綺の中に、流れる水のように伝わってくる。  他人の心を感じることのできない僕も、水の民の想いを通じて、理解できる。  ふたりは、互いに、知っている。 この感情は、ただふたりだけのものではなく、延々と受け継がれてきた愛の形なのだと。 自分たちは、この瞬間のために、生まれてきたのだと。  彼女が手を握りしめ、一層強く締め付ける。 それに応えるよう、僕もさらに早く律動する。 彼女と溶け合うほど、身体が痺れるほど、強く。 「はぁっ、んっ、あっ、あはっ──」  彼女の膝は震えている。 動いていなければ、求めていなければ、そのまま倒れてしまうほどに。 反り返る彼女の背で、髪が踊る。  僕は泡立つほどに彼女を掻き回す。 彼女の中を貫き、壊してしまうほどに。 自分の身体が、バラバラになっても構わない。 ただこの瞬間だけに、命のすべてを注ぎ込むように。 「ああっ、んあっ、んあっ、んあっあっ──」  全身に痛みに似た何かが満ちる。 引き絞られる弓弦のように、圧倒的な力が腹の底にたまってゆく。  首筋から背筋を通り、胸から腹を螺旋に降りて、絡めた足先から腰へ登ってゆく。 脊髄が焼かれ、視界が白く染まる。  耳のそばで、がんがんと鳴り響く鼓動が、終わりの近いことを知らせていた。 二人の鼓動は、高まり、やがてひとつになる。  僕たちは、同時に、互いの名を強く念じた。 「克綺……ッッッ!」  稲妻が僕を打つ。 細胞の一つ一つが刺激に震え、つんざく音響が鼓膜を破る。  深く、奥の奥まで貫いた先端から、腹の底に貯まった熱いもの、その全てが、どくどくと音を立てて放出される。  彼女は全て受け止め、いまだ痙攣が収まらない。 大きく背を反り、声にならない声で、昇りつめている。 その姿は、まるで生の歓喜にうちふるえるようだ。  長い髪をひとつ振るわせながら、僕の唇を求めた。 互いの感触を感じながら、完全に重なったことを喜びながら、今までのどれよりも長く、そして切ない口づけ。  誰よりも近く、感じていたはずなのに。 唐突に、望まないまま、身体が離れてしまう。 抗うことはできない。  すさまじい喪失感が、僕を襲う。 指一本さえ、動かない。  僕の鼓動が、ゆっくりと弱まり、そして消える。  それでも、意識を失う僕は、純粋な喜びに包まれていた。   水の民に栄えあれ。 「ふん、なるほどな」   イグニスの右手がベッドを離れる。 身体が傾く。 黒い指先が触れたのは、予感に固くなりかけた股間。 つい先日の甘美な記憶が、脳裏を一気に満たす。 「昨日の未練が、まだ後をひいているな? 私に、欲情しているわけか」  「客観的に、そう判断して間違いないだろう」  「それで、これからどうしたい?」  「おまえと性交したい」  「はは。その率直な物言いだけは、変わらんな」  イグニスは苦笑。 片手を僕の股間に這わせながら、片腕で上着を脱がしていく。  「いいだろう。 おまえにその感情を植え付けさせたのは、私だからな。その程度の責任は持ってやる」   指先が合わせ目をさすり、ボタンのまわりをゆるりと撫でる。 まどろっこしくなるほどに時間をかけて、ひとつひとつ、外していく。   回りくどいことなどせず、両手で一気にボタンを外せばいい。 以前の僕なら、間違いなくそう判断し。行動していただろう。   だがもちろん、今は違う。   時間が経つに連れ、わずかずつ深さを増していくイグニスの呼吸を、愛おしく感じている。 まどろっこしいその時間を、愛しく感じてさえいる。 空気を伝わって、ふたりの心臓の鼓動が同調するような錯覚。  「おまえも、興奮しているな?」   それまで滑らかに形をなぞっていた左手が、止まる。 シャツのボタンを全てはだけさせたところで、イグニスの瞳が僕を睨みつけた。 「バカを言うな。私はただ、おまえの望みに付き合ってやるだけ――」  「『悪くなかった』。昨日は、そう言ったよな?」  「な――」   みるみるうちに、イグニスの口が歪んでいく。 吊り上がる唇の角度に連動するように、その顔も徐々に火照っていく。 「どうした? 顔色が変わったが」  「別にどうもしてない」  「一般的に顔色が赤くなるといわれるのは、アルコール分を摂取した場合、あるいは憤怒や羞恥といった感情を抱いた――」  「黙れ」  イグニスの唇が、僕の言葉を塞いだ。 抗議する間も、抵抗する間もなく、イグニスの舌が口内を蹂躙する。   理不尽だ、と思った。 だがこんな理不尽になら、身を任せてもいい。  唇を吸い、吸われ、溶け合う。 唾液が注ぎ込まれ、息をする間も惜しい。 唇の角度を変え、より深く、より近く。   イグニスの舌は、まるでそれ自身が意志を持つ生き物であるかのように、僕の心を奪った。 喉に出かかっていた疑問を全て吸い尽くし、飲み干してしまった。 「下らんことを聞くな」   反論が、いくつも頭を掠めた。 だが僕は、それを言葉にすることができない。   ただ静かに、頷いた。 身体の芯を震わせる、もやもやとした激情。 この感情の行き場所を教えて欲しい。 高みまで、導いて欲しい。  首筋を撫でる指に身を任せ、彼女の瞳に吸い込まれる。 イグニスは僕の瞳から目を離さない。 はだけたシャツの隙間から胸をなぞる。   僕の肌は汗ばんでいる。 芯を震わせる情動だけが、行き場を失って膨らむ。 指はゆっくりと胸を降り、ヘソをくすぐり、さらに下へ。   手袋に包まれた両手はベルトで重ね合わせられ、バックルを静かに外す。 「相変わらず、立派なものを持っているな」   チャックを開け、下着を半分下ろし、充血したペニスが飛び出した。 血に滾ったそれは、外気に触れてなお熱い。   だが、宙にさらけ出させておきながら、イグニスは一度も触れようとはしない。 硬直した様子を観察するように、一度軽く息を吹きかけただけ。 行き場を失った僕の衝動が、身体を突き破らんばかりに暴れる。  僕のそれは、一刻も早く鎮まることを願っている。 彼女と重なり、溶け合ってしまいたい。 熱く蠢くその身体を、ひと思いに貫きたい。   僕の身体を、魚人になった時の、あの記憶が急かす。 「なぁ、イグニス――」  「そう、焦ることもなかろう?」   起きあがり、一気に組み伏せようとした僕の身体を、イグニスは唇で押しとどめる。 身体が反動で、ベッドに沈んだ。  イグニスは浅く口づけて、唇は頬をなぞり、昨日の記憶をなぞるように耳を食む。   吹き出そうとしていた感情が、無理やりせき止められる。 なま暖かい息が宥め、くすぐるような感触が騙す。   窮屈に押し止められた衝動は、身体の奥底に熱をためながら、やがてさらにその勢いを増し――。 「痕が、残ったのか?」   舌を首筋に這わせたところで、唐突に、イグニスの動きが止まった。 彼女の視線は、首に向けられている。  僕の首筋には、痣に残るほどはっきりと、歯形が残っているはずだった。 「それにしても小さい気がするが――」  「妹に、やられたんだ」  「妹?」   イグニスが声を裏返す。 「ああ」  「しかしなぜ――?」  「わからない。昨日家に帰って首を見られた途端、妹に突然噛まれた」   返す返すも、あの行動は不可解だった。 なぜ恵は、わざわざ首筋に噛みついたりしたのだろうか? 妹に身体を噛まれた記憶など、それまで一度もなかった。  もちろん、人魚の乗り移ったイグニスがやったよう、性行為の一環として歯跡を残すことはあるかもしれない。 しかし、悲鳴を漏らしてしまいそうになるほど強く、愛する人の首を噛んだりするだろうか?   まして、恵の噛んだ首筋は、既にイグニスに噛みつかれた場所だ。 推測するに、あの恵の行為には、何かもっと象徴的な意味が込められているような気もする。 「……くっくっく」  「なんだ? なにがおかしい?」  「はは、あっはっはっは!」   イグニスは腹に手を当てて、笑う。 僕の困惑を嘲るようだ。 長い間、意志の通じないテレパスの間で暮らしてきた僕は、こういうすれ違いは何度も経験した。 だが、理由もわからないまま笑われるのは、やはり気持ちのいいものではない。 「ははは、そうかそうか。なるほど、な」  「なにがなるほどだ。なぁ、なぜ恵が僕の首に噛み付いた?」  「嫉妬さ」  「嫉妬……?」  「遅い時間に帰宅して、その首の傷を見られれば、私とおまえの間になにがあったかは自明だろう?」  恵は先ほど交わした会話の中、「僕がイグニスとしたのかどうか」を執拗に尋ねた。 昨日、首の傷を見た時点で、ふたりの関係は推測されていたのだろう。   年頃の男女が互いに引かれ合う。 客観的に見て、当たり前のことだ。 性交渉で歯形が残るのも、不自然なこととは思えない。 「だが、それに気づかんようでは、おまえも噛まれ損だな。はっはっは」   イグニスはぶり返したように笑い出す。 僕はただ、彼女の発作が収まるのを待ちながら、妙な気分に襲われた。   嫉妬。 イグニスは、恵が僕に嫉妬を抱いていると断言した。 それはつまり、恵も年頃の男女として、僕と性交渉を望んでいるということだろうか?  しかし、恵はもちろん、僕の妹だ。 生物学的にも民族学的にも、近親相姦は禁忌とされている。 恵だって、その程度の分別がない年頃ではないはずだ。   わからない。 他人の心は、全く、理解の範疇を超えている。 「ん? 元気がないな」   イグニスの手が思い出したよう、ペニスに触れた。 宙に剥き出しになったそれは、いつの間にか熱を失いかけている。  「妹のことを思い出して、萎えたか?」  「直接の因果関係は断定できないが、興奮が醒めたことは確かなようだ」  「自分勝手なやつめ」  ベッドが波打つ。 イグニスの身体が持ち上がり、音もなく背後へと下がる。 「ならば、妹のことなど思い出せんようにしてやろう」  しぼんだペニスを両手で包み込み、イグニスは艶やかに笑う。  微かに触れる、黒い指先。 カリを撫でただけで、背筋を電気が走る。 押し込まれていた情動が、再び行き場を求めて暴れ出す。  しぼみかけていたペニスが、みるみる堅さを取り戻していった。 「ふん。現金だな」  イグニスは手袋をはめたまま、膨張するそれを弄ぶ。 強く刺激するわけではない。 熱を計測し、大きさを確かめるかのように、幾度も持ち替える。  敏感な先にほんのわずか触れたかと思うと、すぐさま周囲の長さを測るように指で輪を作り幹を撫でる。 裏筋を指先でなぞり徐々に下へ、袋を両手で優しく包み込む。  焦らすようなその動きに、僕の欲望は行き場を求めて暴れ出す。 一度押さえ込まれたからこそ、その勢いは一層激しい。 だが、いくら心が求めても、イグニスは嬲るように指先で弄ぶだけ。  昨日の記憶が、急きたてる。 一気に押し倒してしまえ。 無理やりねじ込み、欲望のありったけを注ぎ込め。 身体を痺れさせた快楽が、僕の身体を動かした。 「イグニス、僕は――」 「焦るなといっただろう?」 「――ッ!」  瞬く間に、身動きがとれなくなる。 持ち上がりかけた僕の身体は、再び、ベッドに沈む。 「油断したな?」  イグニスの指先が、袋をきつく締め上げていた。 鷲掴みになった指の中、双玉が踊る。  苦痛と快楽の狭間。ほんのわずかに勝った快楽。 だが、あと少しでもあの指に力を込められれば――。  激痛の予感に、背筋が竦む。 そんな僕の様子を見て、イグニスは唇を歪めてさえ見せる。 「逆らわんことだ。 言うことをきけば、昨日の交わりにも劣らぬ快楽を約束してやる」  圧力が去って、全身の力が抜けた。 思わず溜息が漏れる。  満足げに、イグニスの瞳が細められた。 手がそっと先に触れ、敏感な部分をくすぐりながら数度行き来する。  指を立て、熱を冷ますように息を吹きかける。 挑発する瞳。  再び僕の中で、抑えきれない衝動が暴れ出す。 先ほど、背筋が凍るほどの恐怖に襲われたことなど、忘れてしまったかのように。  指先でなぞられた程度では足りない。 行き場を求め、さらに堅く屹立する欲望。  黒い指先は、輪郭を写し取るように。 触れているかどうかさえ、確かに思えないほどで。  懸命に、欲望を押し止める。 だが、手綱を手にしているだけで精一杯だ。  欲望は犯す。 イグニスに抑圧されたまま、何度も何度も、妄想の中で彼女を犯す。     ――無理やり彼女を組み伏せ、上からのしかかる。唇を奪い、好きなだけ舐る。   ――風のメスでドレスを切り裂く。オートクチュール? 構うものか。   ――こぼれだした乳房を揉みしだく。放漫な胸を鷲掴みにし、ありったけの力を込めて蹂躙する。   ――跡が残るほど胸を吸い、歯形が突くほど乳首を噛み、逃げるよう悶える彼女を無視する。逃げ場はない。  弾けんばかりに堅さを増したペニスに、イグニスの刺激はいよいよ強く。 左手で袋を包み、そこから伸ばされた人差し指は肛門を撫でる。  右手は軽く握られ、隙間に亀頭がすっぽりと包み込まれる。 滑らかな布越しに感じる、彼女の感触。  その感触が、欲望をさらに加速させる。     ――下に手を突っ込むと、あのときと同じく、彼女の茂みは濡れている。身体は正直で、前戯の必要すらない。   ――僕は覆い被さり、重ねる。潤み、蠢く彼女の中へ、己のものを押し込む。貫く。   ――欲望のまま、前後させる。突き入れる。強く、深く、さらに深く。   ――粘膜がこすれ、音を立てる。苦悶、悲鳴。彼女が漏らす呻きにも、構わない。ただひたすら、犯せ、犯せ。 「どうした? 触っただけで、果ててしまいそうだぞ」  嬲るように言って、イグニスは指先に力を込める。 指の隙から見えるカリが押しつぶされ、そのまま、軽くしごかれる。  僕の口から、思わず息が漏れる。 全身を舐める快感。  だが、こんなものじゃ足りない。 全く足りない。 欲望は、彼女の顔を睨め付ける。  屹立したペニスを見下ろす、イグニスの顔。 手綱のように指を上下させる。絡みつかせた五指は縛め。 操る悦びに、彼女の唇の端が吊り上がった。     ――この顔を、快楽に歪ませる。生意気なこの女を、滅茶苦茶にしてやる。   ――逃げようと藻掻く彼女の髪を掴んで、引き寄せる。漏れる涙を、舌で掬い取る。   ――喘げ、叫べ、声が枯れるまで。やがてその咆哮は、愉悦の色に染まるだろう。   ――何度も何度も、突き刺す。限界を超えても、終わらない。     ――僕は射精する。欲望のありったけを注ぐ。彼女の奥の奥のさらに奥へと。   ――もちろん、一度ではすまない。何度でも、貫いてやる。   ――彼女の子宮が壊れても。彼女の声が裏返り、意識が遠のいても。   ――欲望のままに、犯し、犯し、犯す。 「それほどまで、いきたいのか?」  妄想を割って、一際鋭い刺激。 ぴくぴくと震えるペニスの先に、イグニスが舌を突き出していた。 赤い唇の先端が鈴口に触れ、唾液と絡まり糸を引く。  僕の息は荒い。 「できれば、一刻も早く、おまえに挿入したい」 「サイズの割には、堪え性がないな、まったく」  言うが早いか、唇がペニスに近づいた。 片手で竿を扱きながら、舌が軽くカリに押しつけられる。  ざらついた感触。 新たな感触に、僕の興奮は一気に高まる。 触れあった場所が熱く、火種は燃えるように全身へと伝播する。  唾液を含ませ、先端を濡らし尽くすよう動く舌。 舌はぴちゃぴちゃと音を立てて下り、反り上がった幹へ。 指での刺激をやめないまま、丹念にその全てを舐め終えると、呆れたように顔を上げた。 「無駄に大きいというか、なんというか。これではくわえるのも一苦労だ」  てらてらと光る竿を右手で強く扱きあげて、イグニスは吐き捨てる。 「まあ、おまえにはこの程度で十分だろうが」  それまでにない、激しい指の上下。 合わせるように、イグニスの舌がチロチロと先端を刺激する。  休みなく上下する腕、絞り上げるように強く扱く指、それを待ち受ける口内。 イグニスはあくまで挑発するように、僕の顔を見下ろしている。  唾液を絡ませ出入りする舌の音に、心臓の鼓動が同調する。 扱く指の動きに合わせ、深く息を吸い込む。  出入りする舌は、首を撫で、裏筋をくすぐり、休むことがない。 こぼれ、垂れ落ちる唾液に、手袋が濡れる。 屹立したペニスは、弾けんばかりに充血している。  だがこのままでは、イグニスの顔にそのまま射精して――。  衝動を抑える手綱が、切れた。 構うものか、と欲望が叫んだ。 ありったけを、顔にぶちまけてやれ。  高まる感情に合わせて、イグニスの動きが急激に速くなる。 熱い。熱い。目の前が白く霞み、意識が薄れていく。 全身に波のようたゆたう快感が、重ね合わさり、深く、高く。  限界を超えて高まるその波は、やがて身体の自由を支配する。 絞り出すように全身が揺らぎ、ただイグニスだけが、僕の意識を支配している。  僕は全身を硬直させ、全身を走る快感の予兆に身を打ち振るわせ、そして――。 「がはっ!」  唐突に、頭を殴られたような衝撃。 予想もしないその感覚に、僕はなにが起こったのか、把握できない。 苦痛なのか、快楽なのか、判断がつかない。 「イグニス、おまえ――!」 「おまえは学習能力がないのか?」  イグニスが、ペニスの根本と双玉を、鷲掴みにしている。  遅れて認識する、激痛。 今までに感じたことがないほどの。  身を硬直させたまま、僕は言葉を継げないでいる。 言葉を放つことすら、思いつかない。 先ほどまでの衝動は、即座に霧散していた。  いたぶる、イグニスの声。 「勝手にいこうなんて、考えるな」 「……この」 「ん? なんだ?」 「だったら、おまえを――」  僕は身体を起こし、イグニスの肩を掴む。 目を見開いた彼女はなすがまま、仰向けに押し倒された。 「ちょっと、待て! なにをする!」  イグニスは我に返り、咄嗟に反抗しようとする。 だが、大きく波打つベッドは、それを許してくれなかった。  勢い、イグニスは無防備に、僕に覆い被されることになる。 「僕がおまえを達させてやればいいんだろう?」 「なにをバカなこと――」  イグニスにのしかかったまま、反論を無理やり唇で塞ぐ。 強張った唇にねじ込み、驚きに萎縮した彼女の舌を解きほぐす。  彼女の唇は思いの外、頑なだ。 それまでと異なる消極的な素振りを意外に思いながら、僕は脇の下へと両手を回す。 「――んぁ、ダメだ!」  唐突に、イグニスが唇を突き放し、大声を上げる。 「また、切る気だろ!」 「仕方がない。僕には脱がせ方がわからない」 「私が脱げばそれで済む!」 「いいや、しかしこれは――」  僕はあの日と同じく、柔らかな胸の感触を感じながら、両の指先を持ち上げる。  もちろんそれは、正しい脱がせ方ではないのだろう。  十分に肌から離すと、風を呼ぶまでもなく、ブチリと音がしてドレスが弾けた。 「意外と簡単に、外れたな」 「――ッ!」  イグニスの表情が、なぜか、みるみるうちに赤くなる。  彼女が突然アルコールを摂取したという可能性はない。 怒りをおぼえたと推測するのが妥当か。 確かそのドレスは、オートクチュールだと言っていた。 やはり壊してしまうのはまずかっただろうか?  しかしそれにしても、ほんのわずか伸ばしただけで弾けるとは予想外だった。 そもそも強度に構造上の問題があったと言わざるを得ない。 これでは日常の使用にさえ、耐えるかどうか。 「ケガを、していたからだ」  俯き加減のまま、唐突にイグニスが口を開く。 脈絡がつかめないまま、初めて見る彼女の表情に、僕は言葉を忘れた。  あれは本当に、怒りの時に浮かべる表情か? 顔色は最早、赤を通り越してしまっているようにも思える。  アルコールでも怒りでもないとすれば、消去法から導かれる帰結は――羞恥?  イグニスは、視線を合わせない。 包帯をした手を見つめて、つっけんどんに言う。 「ケガしていたから、上手く縫えなかったんだ」  そこでようやく、納得がいく。 僕が服を切った翌日から、当たり前のようにイグニスはドレスを着ていた。 あれはきっと、自分で裁縫したのだろう。 「なるほど。あの裁縫は、おまえが縫い合わせたんだな」 「な――!」  イグニスは、なぜか舌打ち。 顔を赤く染めたまま、吐き捨てる。 「そうか。おまえは、そういうやつだったな」 「そういうやつ? なにが言いたいんだ?」 「なんでもない。ただ、余計なことを言わなければ良かったと後悔している」  イグニスが「ケガをした」と告白しなければ、僕は単に「壊れやすい服だ」と思うだけだったかもしれない。 なぜ「余計なこと」だったのか、イグニスの心を知らない僕には、推測するしかないが。 「道理で、簡単に壊れると思った。あれでは商品として失格だろう」 「うるさい」 「しかしそれでも普通、裁縫というのはもっと頑丈に縫い合わされるものでは――」 「だから、ケガをしていたと言っているだろう!」 「ケガをしていたなら、管理人さんに頼めばよかった」 「あれ以上、迷惑をかけられるか!」  イグニスの顔色は、赤く染まったまま。 その様子は、明らかに普段からかけ離れている。 小さく握り込まれた、両拳。  普段、悪辣な罠や必殺の武器を手に、人外のものを手玉にとるイグニス。 時には、人の命を秤にかけることすらなんの躊躇もなくやってみせる。  その彼女が自分の部屋で、裁縫針を手に、ドレスと悪戦苦闘する姿を思い浮かべてみる。 「ふふん」  唐突に。 僕の口から、思わず笑いが漏れた。 「な――おまえ今、私をバカにしたな!」 「バカになど、していない。ただ単に、滑稽だと思っただけだ」 「き、貴様――!」 「だが、それだけではないな」  顔をそらしたままのイグニスから、覆い被さっていた服を退ける。  彼女は抵抗しようと、身をよじらせる。 だがほんの少し押しただけで、波打つスプリングにバランスを崩した。 「不得手を恥じることはない。人は誰も、弱みを持つ。ごく当たり前のことだ」  服を脱がされながら、イグニスは僕を睨みつける。 「……私が裁縫下手で、そんなに嬉しいのか?」 「裁縫だけのことを言っているのではない。イグニス、おまえは弱い」 「弱い、だと?」 「ああ。だが、それを懸命に押し隠しているだけだ」 「バカなことを言うな。弱いならば、私はなぜ魔族と戦える?」 「人間は弱いから道具を使う。違うか?」  イグニスは、答えない。 ただ、静かに唇を結ぶだけ。  僕は、今まで目にした彼女の戦いを、延々と思い返している。   イグニスは策士だ。 地形、罠、武器。 あらゆるものを利用して、いつも魔族たちと互角以上の戦いを繰り広げる。   だが逆にいえば、策を持たないイグニスなど、魔族にとってなんの障害にもならないだろう。 彼女は魔族に対抗するため、罠を張り、武器を使う。   そうしてイグニスの中身は、意外なほど脆い。 ここ数日、彼女はケガをしてばかりだ。 いくら罠を駆使したところで、人間の能力自体が底上げされるわけではない。   彼女は間違いなく、人間なのだ。 「おまえは弱みを見せない。 身の回りを繕って、全てを自分の手ひとつでまかなえるような顔をしている」 「その身体は、傷だらけだというのに――」 「だから、気にくわないというのか? 私を裸にして、弱みを覗き込もうとでも?」 「気にくわないわけではない。 ただ、おまえのことが、知りたいだけだ」  それは、偽らざる僕の本心だ。 イグニスを、もっと知りたい。 「わざわざ、自分の弱みを他人に預ける? ばかばかしい。 全く、論理的ではないな」 「僕が、おまえに刃を向けるとでも?」 「信頼しろと言うのか? それで私になんの得が?」 「他人への愛情は、利害関係で計りきれない。昨日、思い知ったばかりだ」  わだつみの民。 幻想の中で交わった、魚人と女王の記憶。 命をかけた情交は、鮮明に身体の芯まで焼き付いている。  あの情熱を、今更無碍に扱うことはできない。 「今日のおまえには、調子を狂わされっぱなしだな」 「普段と様子が違うことは、自覚している。 だがそれでおまえに近づけるなら、問題はない」 「私が拒めば?」 「ねじ込むまでだ」 「ひゃっ!」  僕は、イグニスの両足をめくり上げる。 勢いよく腿を持ち上げられ、彼女の身体がベッドに沈んだ。  イグニスの悲鳴はいつもの冷静さを失っている。 顔を真っ赤にして、イグニスは抗議する。 「貴様、なにをする?! 今すぐ放せ!」  僕の目の前に広がるのは、イグニスの恥丘。 両足をがっしりと捕まれて、濡れた秘裂が蠢いている。 「本気で離して欲しいなら、力ずくで退ければいい。  強いおまえになら、できるだろう」  もちろん、イグニスがいくら藻掻いてみたところで、体勢は動かない。 武器を奪ってしまえば、彼女はただのひ弱な人間だ。  目に涙すらためて、イグニスは抗議する。 「こんなことをして、ただで済むと――ふぁっ」  最後まで続かない。  僕は、濡れそぼった彼女の茂みに、舌を這わせる。 見ているだけで垂れ落ちる、芳醇な蜜を味わう。 割れ目を押し広げるように、下からゆっくり舐め上げる。  イグニスの身体は強張っていた。 懸命に脚を伸ばし、僕の顔を退けようとするが、僕の腕と柔らかなベッドがそれを許さない。  そうして舌が、彼女の秘裂を掬うたび彼女の力が抜けていく。 「既に、かなり濡れているな」  震える声を繕って、イグニスは反論する。 「ふ、さっきのおまえのザマよりは、まだましだ」 「だが、昨日よりもよほど、湿っているぞ」 「わ、私が知るか――ッ!」  既に、抵抗を諦めたのだろうか。 逃げようとはせず、ただせめてもの反抗とばかりに、押さえつける腕を拳で叩く。  腰も入らず、ぽん、と拍子抜けするほど軽い音。 「あのときも、ここを攻めたのだったな」  細められた僕の舌が、彼女の亀裂を舐め上げ、端に達する。 強く押しつけ、先端を踊らせる。 包皮の下、突起の感触を確かに感じた。 「ぁは、ちょ、やめ……やめろ!」  裏返りかけた彼女の声に、構うことはない。 僕は舌で、彼女の肉芽を攻め立てる。  先を窄め、細かく震わせながら、包皮ごと押しつける。舐め上げる。 彼女の苦悶に踊る身体を、波打つベッドを、完璧に制御する。  泡立つほどに音を立てているのは、僕の唾液か、それとも彼女の蜜か。 舌先が疲れるほど激しく攻めると、充血した芽が姿を現した。 ツン、と尖った彼女の肉芽を、舌全体を使うように舐め上げる。 「ひゃぁ! んぁ、こ、こら、やめろと言っているのが聞こえないか!」 「やめる? なぜだ?」 「なぜって、それは……」 「おまえは僕に、ひとりで達するな、と言った。 つまり、おまえが達させられたい、ということだろう?」 「都合のいいときだけ、論理的になるな! ともかく、その手を放せ」 「理由もなくやめたくはないな。 おまえも苦痛を感じているわけではないだろう?」 「――ぃや、やめろっ!! 頼む!」  再び陰部に顔を近づけた僕に、イグニスは真っ赤な顔で怒鳴りつける。  顔をうつむけたまま、何か言葉を紡ぎ出そうとする。 痛々しいほど必死に動こうとする口元。 だが、声は届かない。 ただ、微かに唇が震えるだけ。 「なにが言いたい?」  剥き出しになった肉芽を舐めるようにして、その奥のイグニスの顔を見下ろす。  イグニスは、蚊の鳴くような小さな声で、答える。 「……しいんだ」 「ん? 聞こえない。なんと言ったんだ?」 「恥ずかしい」 「もう一度、もっと大きな声で言ってくれ」 「恥ずかしいんだ!」  自棄になったように、イグニスは怒鳴りつける。 その瞳には、大粒の涙さえ溜めて。 「おまえがいきたいんだったらいかせてやる、だから、頼むからこの格好――ひゃあっ!」  交渉など、受け入れるはずがない。 濡れてひくひくと震える秘裂を舐め上げる。 舌でこすり上げるように、刺激する。 興奮に震える肉芽を、何度も先でいたぶり、押しつぶす。 「いやっ、こんなことをして……ふぁっ、ん、んん……」  イグニスは、ベッドの上で身体をよじりながら涙目。 赤く火照ったその顔が、苦悶に歪む。  片手で僕の手の甲を摘む。 片手が堅く握り拳をつくって、胸の前に震える。 いつもの彼女からは想像もできない、弱々しい素振り。 「やだ……んはぁ、ん――やめろって……ふひゃっ!」  逃げようとしても、逃げられない。 僕の思うがまま、願うまま、イグニスは踊り続ける。  やがて踊り疲れた彼女は、必死に探していた逃げ場が、どこにもないことを知る。苦悶が、悦びの色を帯びていく。 「ぃやだ、んぁっ、こんな、格好、恥ず、はずかしぃ、のに――」  抵抗することすら忘れて、うわごとのように呟く。 刺激に合わせて、粘膜がぬちゃぬちゃと音を立てる。 小刻みに下半身が揺れる。  良い場所を探すように、自ら脚が開かれる。 胸の前で握られていた腕、求めるように胸に押しつけられている。 人差し指が行き場を求め、頬の隣を引っ掻いた。 「ふぁ、私……ダメ、もう、はず――ふぁぁっ!」  イグニスは震える。 宙を焦点の合わない瞳で見つめたまま、全身が硬直する。 びくり、と一度背が丸まって、大きくベッドが揺れる。  それでも、僕は動きをやめない。 震える腿を押しつけて、身体ごとベッドに沈めてしまうほどに、攻める。 攻めつづける。  苦悶と快楽が混じり、乱れに乱れた彼女の吐息が、一息もつけない。 荒い息に、掠れ混じりの言葉がのる。 「ふひゃ……ぃや、いや、もうだめだって――ぅぁっ」  言葉とは裏腹に、恥丘はさらに押し迫る。 指先が震え、引っかかりを求めるように、濡れた唇に添えられる。 もう片手は宙をさまよい、行き場を求め、シーツに指が絡んだ。  波が去ったばかりだというのに、瞬く間に次の波がやってくる。 肩が狭められ、胸が弓なりになる。 柔らかなベッドに、深く身体がめり込んだ。 「また……ぁ、んぁっ、あっ、ん、んんんんん!」  再び、彼女の動きが固まった。 びくん、と二度三度揺れて、動きが止まる。 真っ赤な顔を背けられたまま、呼吸に胸が上下する。  瞳は拗ねたよう、あらぬ方を向いている。 か細い彼女の吐息だけが、時が動いているのを知らせた。  シーツを指に絡ませたまま、唇が尖る。 「……この、馬鹿が。人の言うことを、聞きもしないで」 「お互い様だ」 「うるさい! その手を放せ!」 「まだ、恥ずかしいのか?」 「なっ――!」 「あんな格好で、達しておいて。しかもまだここは、震えて――」 「黙れッ!!」  イグニスは渾身の力を込めて、僕の身体を蹴り倒した。 抵抗はしない。 両腕で受け止めて、そのままベッドに横になる。  ごろん、と転がった僕は、いつまでも仰向けに転がったまま。 ただずっと、イグニスが起きあがるのを待っている。 「……なんだ、その目つきは?」   普段のペースを取り戻そうとするように。 懸命に、言葉を繕い、イグニスは問いかける。   だが、鈍い僕にも、ようやくわかる。 彼女の本当の姿を知っている。 強がり――そう、それはきっと、強がりなのだろう。 自分の弱さを認めるのが怖くて、彼女はずっと、取り繕ってきたのだ。   だから僕は、剥ぐ。 「早くしてくれ」  「早くって――なにをだ?」  「僕はおまえを達させた。 ならば次は、おまえの番だ」   イグニスに焦らされたまま、吐き出し所を失った衝動は、まだ燻ったまま。 僕の股間には、堅くなったそれがしっかりとそびえ立っている。   イグニスは、断固とした口調で言う。 「……入れたければ、入れればいい。拒みはしない」  「よく言うな。本当は、挿入して欲しいのだろう?」  「そんなわけがあるか! 私はただ、その、責任をとるだけ――」  「ならば、おまえが、入れろ」   僕の一言に、イグニスの顔が歪む。 「さっきは僕が動いた。次はおまえが、奉仕する番だ。何か問題でも?」  「問題だらけだ! 問題だとか、問題じゃないとか、そういう問題じゃなくて、だから……」   イグニスは独り言ように呟きながら、僕のペニスから目を離さない。 顔を真っ赤にして、もごもごと語尾が濁る。 「おまえのは、その……普通より、大きいんだ」  「それがどうした? 入りきらないわけではない」  「それに、『悪くなかった』のだろう?」  「黙れ! それとこれとは、話が違う!」   昨日も彼女は、こんな表情をしていたのだろうか? 人魚と一体になったイグニスと交わったとき、僕は彼女の素顔を見ていなかった。  想像してみる。  イグニスは、誘うような表情を取り繕いながら、緊張に身体を強張らせていた。 本当は、目の前のそれが自分に入ることを、信じられないでいた。 彼女は貫かれる場面を見ていられず、岩壁に手を当てて目をつむり、そして――。 「怖じ気づいたのか?」  「なっ!!」   僕の問いかけは彼女にとって、おそらく、挑発になる。   他人の心なんて想像もできなかった。 自分のことを、ひとり、テレパスの惑星に紛れ込んだ異星人だと思いこんでいた。 つい、先ほどまでは。  だが今、僕は、イグニスがわかる。 彼女の心に、共感できるような気がする。 幻影に覆われて、覗くことのできなかった彼女の素顔。 それを、確かめたい。   心臓が、どくん、と鼓動を刻んだ。 「なにを、言っている!」  「わからないならば、正確に説明してやろう。僕に跨れ。勃起した男性生殖器を、充血した女性生殖器の中に挿入しろ。性器を上下に動かし、摩擦させ、僕の性的興奮を最高潮にまで引き出し、射精せしめろ。以上だ」   呆気にとられた表情の彼女に、駄目を押す。 「それともやはり、怖いのか? 僕に後ろからねじ込まれるのが望みか? 先ほどのよう、自分の制御ができない快感に身を任せながら、興奮に喘ぎたいのか?」  「この、馬鹿が……」   イグニスは、挑発に乗った。 あるいは、欲望に負けたのだろうか。 唇をかみしめて立ち上がると、息も荒く僕の腿にまたがる。  ベッドが沈み、僕の腰が遠ざかった。 彼女の躊躇を表すように。  先ほどとはまるで調子が違う。 充血したペニスに、イグニスの指はこわごわと触れる。 弾力に逆らえぬよう、両手で掴んでそのまま躊躇。 改めてその大きさを計り、彼女は一度大きく息を整えた。 「ならば、入れてやる。本当に、いいのだな?」  整えきれない。 口の端が、声と共に震えている。 予感に潤む瞳。  そろり、と。 割れ物を運ぶように。 はち切れんばかりのペニスを秘裂の入り口まで導く。  熱く充血した、イグニスの感触。 垂れ落ちる愛液が、僕の先を濡らす。 「気絶するほど、いい目を見せてやる」 「楽しみだ」 「楽しみにしてられるのも、今のうちだぞ」  気丈に言葉を放ちながらも、いつまでも、イグニスの腰は落ちない。 先端に、裂け目を当てたまま、指先が震えている。 呼吸を整え、震える語尾を押し隠しながら、何とか優位を保とうとしている。 「早く漏らしてしまわないよう、気をつけるんだな。 おまえにはどうも、焦りすぎるきらいがある」 「見せてやりたかったぞ。さっき袋を鷲掴みにしたときの、おまえの顔――」 「御託はいい」 「きゃあっ!」  僕の片手が、イグニスの状態を支える膝を、押した。 左に大きくバランスを崩し、彼女の腰が下りた。 躊躇なく押し下げられ、半ばまで埋まる。  急激な圧力。 彼女の膣が、ペニスを包み込む。 燃えるような熱さが襲う。 「くはっ、なっ、あっ!」  口が開かれ、まぶたが細められる。 急激に押し広げられ、イグニスの全身が跳ねる。 大きく横隔膜が揺れ動く。 そのたび、髪が踊った。 「かはっ、くぅ、んんん!」  呼吸は、呼吸にならない。 言葉を紡ぐことなど、できない。 衝撃をこらえようと、痛みに堪えようと、懸命に、息を継ぐ。 瞳は焦点を結ばない。 目尻に涙が堪る。  その素振りが、暴れる僕の衝動をさらに掻き立てる。 「どうした? まだ、半分しか埋まっていないぞ」 「こ、このぉ、あほうがぁ!」  イグニスは怒鳴りつけ、身体が揺れる。 そのたび、細かく彼女の膣がうねり、発声がままならない。 自分で自分を追いつめるように、うわずった声で続ける。 「わた、私に、こんなことぉして、ただで――」  彼女のうわごとを遮る。 先ほど投げかけられた言葉を、そのまま、返す。 「おまえは学習能力がないのか?」 「――へ?」  まだ、衝撃から回復しないイグニスは、惚けた顔で僕を見下ろし、気づいた。  僕の両腕は掴んでいる。 状態を支え、震える彼女の膝を。 混乱する彼女が、その意味を悟る前に。 「――――ッッ!!」  僕は、彼女の膝を押し開く。 百八十度、開かれる。  腰が落ちる。 前屈みになって、僕のペニスが貫く。 拒否するように狭まった膣道を、押し広げた。 「――ぁッッ! ――ぁッ、かはっ!」  両腕を僕の胸につき、前髪をだらりと垂れ下げて、ひたすら、イグニスは堪える。 息を整え、咳き込むたびに、肩が揺れ、肘が震える。 肌を、彼女の苦悶の吐息が撫でた。  呼吸に合わせて、イグニスは僕を締め付ける。 奥の奥、限界まで貫きながら、僕は堪えることで精一杯の彼女の髪を撫でる。 垂れる前髪の奥から現れたのは、意識の飛びかけた彼女の顔。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  犬のように喘ぐその唇から、真っ赤な舌が覗いている。 口元から垂れる唾液に、かまけている余裕すらない。 唇の端から僕の胸に、糸を引いて垂れた。 「だらしがないな」  その一言が耳に届いて、イグニスは瞳を見開く。 涙目で僕の顔を睨みつけ、反論しようと大きく息を吸い込む。  少しだけ、腰を揺らしてやればいい。 「――ぁはッ!」  まだ慣れない大きさのそれが、イグニスの中で揺れ動く。 ただそれだけで、言葉を紡ぐ余裕もなく、彼女の息は全て吐き出される。言葉にならない言葉になって。  一度生み出された揺れは、収まらない。 深呼吸が震えを呼び、震えは合わさり波となる。 波を収めるべく深呼吸しても、またその息が震えを呼ぶだけ。 「なにか、言おうとしたんだろう? なんだ?」 「くぅぅぅ……!」  僕の言葉に、イグニスはただ、拳を握った。  ぽん、ぽん、と胸を叩く。 だが、揺れ動くのを恐れて、その抗議はあまりにも無力だ。 「口頭で説明してもらわないと、理解できないな。一体、なにが望みだ?」  大きな呼吸を繰り返して、イグニスは動けない。 いつまでもやってこない返答に、僕は口を開いた。 「僕に、動いて欲しいのか?」  イグニスが、顔を上げる。 唇が、瞳が、歪んでいる。  彼女はなぜ、あんな顔をしているのだろう? 苦しんでいるのか、悦んでいるのか。 それとも――その両方か。  身体が硬直し、時が止まり、喉の奥から吐き出される息が、かろうじて言葉を絞り出す。 「――――ぃや」 「なにがだ?」 「――んんんッッ!!」  僕は、突き上げた。 衝動の赴くまま、本能の貪るまま。 うねる彼女の中に、その奥の奥まで、突き刺した。  彼女は、固まる。 前屈みになったまま、爪を胸に突き立てて、言葉も上げられず。 なすがままに、貫かれている。 人形のよう、無抵抗に跳ねる。 「――ッ! ――ッッ!!」  限界以上に開かれた彼女の口から、音は出ない。 ただ、人間の可聴域を超えたような、か細い、甲高い悲鳴。  僕は、加速する。波打つベッドに押されるように、突き上げる。 リズムを刻む。早く、さらに早く。 彼女は踊る。糸の切れた人形のように。  ステップが重なる。胸に当てた手が、僕の心臓を掴む。 鼓動が合わさる。 彼女の意識が、波の動きをとらえはじめる。 「ん――ッ! んんッッ!!」  イグニスの上体が、ゆっくりと反っていく。 貫く衝撃を、身体の芯で受け止める。 背で、おもしろいように長髪が踊る。 ピンと張った胸が、黒い薄物から飛び出したまま、大きく跳ねる。 「んっ――ああ、んあっ」  僕は突き上げる。 彼女の鼓動を感じながら、今にも吹き出してしまいそうな熱を堪えながら。 頭をギリギリと締め付けるような快感に堪え、イグニスを揺り動かす。 「ぁはっ、ん……あんっ、あっ、んあっ」  突き上げるたび、彼女は動きをコントロールしていく。 ひとつひとつ、ステップを覚えていくように、彼女は僕の上で舞う。  最初は、動きを和らげようと動いていた腰が、イグニスの意志とは無関係に、動く。 受け止めるだけだった襞が、僕のペニスに吸い付き、蜜を絡ませる。 「んぁっ、いやっ、あっ、だめっ、あっ、やめっ」  言葉とは裏腹に、彼女の動きは止まらない。 なすがままに任せていた腰を自ら揺り動かし、奥まで密着させ、肉芽を押しつける。 サイズに慣れた襞が、根本から搾り取る。  いつの間にか、イグニスは動きをリードしている。 強く、弱く。 緩急をつけ、僕の全てを奪い取る。 思考も、理性も。 「あはっ、だめな、のに、んぁっ、んっ、ぅあっ!!」  彼女の声音に合わせ、僕も徐々に自分を抑えきれなくなる。 波打つように、早く、強く。 乱れるイグニスを、滅茶苦茶に突き上げる。  イグニスは我を忘れたよう、身体を震わせる。 心臓の鼓動が、ふたりのリズムが重なり、上り詰めていく。  行き場を失っていた衝動が、僕を突き破る。 秘されていた裸の彼女が、僕に重なる。 ふたりは、絶頂の中で、溶け合う。 「だめ、あっ、い、いく、いっちゃ――ぁぁああッッ!!」  激しく舞って、イグニスは硬直。 衝動は、子宮の奥に突き刺さり、爆発する。  僕は、全てを、彼女に注ぎ込んだ。 どくん、どくんと波打つたびに、垂れ下がった長髪が揺れた。 「ぁつい……よぉ」  串刺しにされ、背筋を伸ばしながら、惚けた瞳で僕を見下ろす。 普段の澄まし顔からはかけ離れた、イグニス。 彼女の素顔が、僕には、愛おしい。  僕は身体を起こし、繋がったまま、イグニスを抱き寄せた。 濡れた唇に、唇を重ねた。 深く、深く、そのまま溶けてしまうほどに。  心臓の鼓動が、重なった。 ふたりの時間を、重ね合わせるように。 「カツキは、ボクのこと、嫌い?」  少女の手が、僕の手を包み込む。 柔らかな包帯の奥に、脈打つ暖かさがある。 「嫌いというほど積極的な悪意はもっておらず、むしろ好意の占める部分が大きいと自覚しているわけだが、ただし、それとこれとは……」 「ねぇ、カツキ。 どこがおいしそう?」 「腿だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、弁解しようとした。 「腿。肉の部位でいえばハム。筋はあるが、その分、味が深い」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間、目は、いやおうなしに少女の太腿に吸い寄せられる。 細身だが、力強い太腿。 「ももね。わかった」  少女の手が、僕を内股に導く。  「腿はね、汁気があって、おいしいよ」  指の先が、僕の意志とは無関係に、少女の肌を撫でる。 いつのまにか、僕はひざまずいていた。 ふっくらとした肌触りに、僕は目を閉じた。  熱をもち、かすかに汗ばんだ太腿は、つややかに指の下ですべった。 押せば、柔らかさの奥に、弾力があった。  僕は、その腿に頬を寄せる。 〈和毛〉《にこげ》は、頬をくすぐり、甘やかな匂いが僕を包んだ。 「おいしそう?」 「あぁ」   言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「カツキは足、速い?」 「100メートル走は13秒。速くはないな」 「そう。じゃぁ、ボクを食べると、きっと速くなるよ」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「うん、これで、安心だよ。ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。  「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの太腿は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「二の腕だな」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「牛や豚なら、四肢はよく筋肉が発達した部位だが、人においては、腕は、足ほどには使われない。二の腕の柔らかさは、その弾力と相まって、無類の味となる」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? 日頃、そんなことを考えていた自分に、僕は感心した。  なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。 脳が空転を続ける間も、白く、細い、その腕は、僕の目を捉えて離さない。 「二の腕? さわってみる?」  少女の差しだした右手に、僕は両手を差しだした。 改めて触れれば、片手の掌で、ほぼ包めるほどに細い。 しかし、華奢にみえるその腕から、必殺の一撃が放たれるところを、僕は何度も見ている。 「二の腕は、柔らかいよね」  肘から肩の線が、僕を魅了する。指の先が、ついと肌をなぞった。 軽く触れただけで肌はへこみ、離せば、ふるふると震えた。 「もう、くすぐったいよ」 「おいしそう?」  その言葉は、僕の背筋をぞくぞくと震わせた。 口が、ゆっくりと開いてゆく。 白く、柔らかな、その二の腕に、僕は、紅く歯形を刻みたいと思った。  二の腕に、口づける。 上気した肌は、唇に熱く、かすかな汗の味が舌先を刺した。  歯を立てようとして、僕は、ふと、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「カツキの腕は、太いよね」  少女の掌が、僕の二の腕に添えられる。 白魚の指先に撫でられ、僕は唇を離して答える。 「君よりは」 「でも、力は、あんまり強くなさそうだね」 「君に比べれば」 「ボクの腕を食べれば、きっと、もっと強くなるよ」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「うん、これで、安心だよ。ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの腕は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 ●5−22−3 「腰だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「肉の部位でいえばランプ。 肉質は柔らかく肉汁も豊富。ステーキとしても一流の素材だ」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間に、目は、いやおうなしに少女の腰に吸い寄せられる。 かすかにくびれた腰と、そこから続く膨らみ。 少女は、その視線を避けるように、一歩、僕に近づく。 「すまない」   僕は、そう言って目を逸らす。 そんな僕に、少女は、もう一歩進んで抱きついた。  干し草の香りが広がった。 胸に広がる暖かさが、一瞬、僕を硬直させる。 「腰だね」  少女の左手が、僕の右手を取った。 その手が、シャツの内側に導かれる。 指先は、背骨を辿って、さらに奥へと進む。 「少し、恥ずかしいや」  そこは、じっとりと汗ばんでいた。   五本の指先が、ふっくらとした丸みを感じる。 その丸みはマシュマロのように、僕の指を埋めた。  指が、勝手に動いた。 マシュマロのような柔らかさの奥には、プラムのような弾力があった。 五本の指が動くたび、少女の口から吐息がもれる。  なだらかな丸みを辿るうちに、親指と人差し指が、双丘の溝をさぐりあてる。 「ひゃん!」   少女は犬のように鳴いた。 「くすぐったいよ、カツキ」 「すまない」   僕は、するりと手を抜く。 指先には、まだ、熱さと柔らかさが残っていた。 僕たちは、抱き合ったまま、しばらくかたまっていた。  先に沈黙を破ったのは少女だった。 「ねぇ、カツキ。ボクは、おいしそう?」 「あぁ」   言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」 「食べるということは、魂を受け継ぐことだから」 「魂を?」 「そうだよ。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」 「腰を食べるとどうなるんだ?」 「女だったら、いい子をたくさん産めるよ」 「男なら?」   少女の身体が固まった。 顔は見えなかったが、真剣に考えていることだけは分かる。 「栄養たっぷりだよ」 「……そうか」 「たっぷり食べて、元気になってね」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「先に死んだら、の、話だろ?」 「うん。備えあれば憂いなし。これで、安心だよ。 ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの腰は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「胸だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、 「肉の部位でいえばバラ、そしてカルビ。 骨ぎしの身は、肉本来のうまみがたっぷりつまっていて、なおかつ脂肪もある」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間、両の目は、少女の控えめな胸から離れなかった。 マフラーの下に息づく小さな二つの膨らみ。  少女は、僕の視線を避けるように、一歩前へ踏み出した。 「すまない」  僕は、そう言って目を逸らす。 そんな僕に、少女は、もう一歩進んで抱きついた。  干し草の香りが広がった。両腕の間に広がる暖かさが、一瞬、僕を硬直させる。 胸板に、やわらかいものが触れる。服の奥に、僕は、確かに、やわらかい何かを感じた。 「胸、わかる?」 「わからないか」  くすりと笑い声。 腕の中で、少女は、くるりと半回転して、僕に背を預ける。 左手でするりとマフラーを解きながら、少女の右手が、僕の右手を取った。  僕の手が、少女の手に導かれる。 細い喉に触れた瞬間、指先に電撃が走った。  次の瞬間、手は胸元をくぐっていた。 少女は下着を身につけていなかった。そこは、しっとりと汗に濡れていた。 「すこし、恥ずかしいや」  その声は、どこか遠くから響いたように思えた。 親指は、鎖骨のくぼみを探り当て、人差し指と中指が肌の熱さを確かめる。  白くすべらかな肌。 鍛えた身体に似合わず、その肌はあくまで柔らかで、僕は指先に〈肋〉《あばら》を確かめる。  少女の手に導かれ、脇から胸骨へ、指は、肋のくぼみをレールのようになぞった。 「ふぁ……」  腕の中で、少女が身震いした。 胸骨を下になぞり、僕は手首を返した。  掌に、すっぽりと収まる小さな膨らみ。 その中央の、やわらかな突起。 二本の指の間に、それはあった。  ゆっくりと指を閉じ、その頂点をなぞる。 「ひゃん!」  とたんに、少女は、犬のように鳴いた。 「くすぐったいよ、カツキ」  ようやく僕は気づく。 少女の手は、既に、僕から離れていた。 「すまない」  上目遣いで見上げる少女に、僕は、思わずあやまっていた。 急いで抜こうとする腕を、少女が両手で抱きしめる。 「どう? おいしそう?」 「あぁ」  言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」 「食べるということは、魂を受け継ぐことだから」 「魂を?」 「そうだよ。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」 「胸を食べると、どうなるんだ?」 「豊かな胸を食べると、いいお母さんになれるよ。子供をいっぱい育てられる」 「僕は男だが……」 「そっか……そうだね」 「現時点では、あまり豊かでもないし」 「ひどいよ! カツキが選んだんじゃないか!」  涙目で抗議する少女に、僕は、非論理的な罪悪感を覚えた。 「僕は別に力が欲しいわけじゃないからな」 「魂は?」 「ずっと一緒にいられるなら……悪くないな」 「よかった。これで、いつ死んでも安心だよ」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの胸は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「指がいい」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「その細い指を味わいたい。 指先から根本まで、しゃぶりたい。 薄い肉を噛みちぎり、骨を囓りたい。 指の腹を舐めて、爪の裏の柔肉に歯を立てたい」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。 脳は空転を続け、口から勝手に言葉が洩れた。  少女の右足が、一歩引かれ、腰の落ちた構えを取る。 かざした右手から、風が吹いた。白い包帯が渦を巻いてなびく。   僕は、目の前に置かれた掌を、息を詰めて見つめた。 この手が、爪が、必殺の一撃を振るうところを何度も見ていた。  包帯が破れ、爪が顔を出す。 間近で見るそれは、太く、鈍く、むしろ鈍器を思わせた。 本来、狼の爪は、地を噛むためのものであって獲物を貫くためのものではない。   そうであっても──風の力を借りずとも、先の尖った爪は、僕の顔くらいは容易に引き裂くであろう。  吹きつける風に、僕は一歩さがった。 渦を巻いていた包帯が次々に解け、細く、しなやかな指が露わとなった。   少女の手の甲は、銀色に輝いていた。かすかな和毛が、風になびく。 そう見えたのは一瞬で。  まばたきするうちに、長い爪は消えていた。白い肌がのぞく。 「どうかな?」  はにかむような少女の声に、僕は、無意味にうなずいていた。 細く、しなやかな指は、見るからに華奢で、握っただけで折れそうだった。  両手をそうっと重ねて、僕は、ひざまずいた。 姫の手を取る騎士のように、その甲に口づける。  白い甲と、伸ばした指には、くっきりと赤黒い傷が走っていた。 指と直角に走る四筋の傷は、癒えてはいたものの、無惨と思わせた。  ふと、手が引かれる。反射的に掴むと、手は止まった。 「ごめん。恥ずかしくて」 「傷が?」 「勲の傷は、恥ずかしくない。けど、それは違う」  かつて侍は、背の傷を恥じたという。逃げる時についた傷と、みなされたからだ。 しかし、少女の手の傷は、逃げてついたようには思えなかった。 「うしろ傷の類には見えないけれど?」 「誇りのある戦いでついた傷なら、どんな傷だって恥ずかしくない。けどね……その傷のついた戦いは、してはいけないものだったんだ」  しょうがなかったんだけどね、と、少女は息を吐く。 うつむいて微笑む顔は、その時だけは、ひどく頼りなげにみえた。 「ゴメンね、カツキ。こんな指で。あんまりおいしくなさそうでしょ?」  答えの代わりに、僕は、少女の指先を含んでいた。 「あ……」  かすかに少女がもだえた。引かれる腕を、僕はすがりつくように押さえた。 中指が口の中で踊る。それを唇が吸い込み、舌が巻きつく。 唇が、肉の柔らかさを味わい、舌先が、その形を愛でる。 甘噛みして、華奢な骨の在処をさぐっても、細い指は拒まなかった。  少女の左手が、僕の首筋に置かれた。 ふるふると震える、その指先に、中指をはさむように、唇は指先から、指の中程へと移る。 第二関節の傷跡を撫でた時、少女の腕が硬直した。首筋に置かれた指が、激しく震える。  一瞬にして、少女の指が引き抜かれる。口の端から銀の糸が宙に跡を引いた。 「ダメだよ、カツキ」  そういう少女の顔は蒼白で、言葉は震えていた。 僕は、ゆっくりと立ち上がる。 「僕は、その指が好きだ。礼を逸したのなら、すまない」  「違う、カツキのせいじゃないんだ」   少女は、犬のように身震いして、気を鎮めた。 「ボクの一族ではね、食べるということは、魂を受け継ぐことなんだ」  「魂を?」  「そう。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなる」  「だからね、カツキ。 ボクの指は食べない方がいい。 食べると、卑怯さがうつる」 「関係ないな」  「第一点。僕は、その迷信を信じない」   そんな、と、抗議する少女に、僕は、指をつきつけた。 「第二点。 風のうしろを歩むものが卑怯なはずがない。 きわめて限定された経験に基づくものではあるが、僕は君が卑怯な行動をしていたところは見たことがない。 卑怯な人間にできないことなら、見てきた。 よって、その指に、君の心が入っているなら、僕は、その心が好きだ。 その心と一つになりたい」  「カツキ……」 「第三点。 なんと言われようと、僕は、その指が好きだ。 食べたい」   少女の顔が、みるみる真っ赤になる。 僕は、それに対し、裏腹な微笑み、というのを浮かべた。 少女に好意をもちながらも、人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 現代世界においては、殺人よりも食人の禁忌のほうが重いはずだ。 「ほんとにいいの? ボクの指、食べてくれるの?」  「約束する。万一のことがあったら、風のうしろを歩むものの指は、僕が食べる」  「よかった。これで、いつ死んでも安心だよ」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「僕を食べるんじゃなかったのか?」  「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」  「だから、安心して死ねと?」  「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」   僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの指は、十本全部カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「唇だ。舌だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「舌は、肉の部位でいえばタン。 独特の弾力と、味がある。 先端ほど固く、付け根ほど柔らかい。 通常は、薄くスライスするが、上タンといわれる付け根は、刺身にすることもある。唇なら……」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間に、目は、いやおうなしに少女の唇に吸い寄せられる。 きりりと結ばれた唇は、僕の目の前でおもむろに開き、白い歯がのぞいた。 「唇はおいしいよね」  少女は考え深げに言った。 「里だと、唇は、歯の弱い、赤ちゃんが食べるところだったからね」 「大人になると、なかなか食べられなくてね」  耳は言葉を聞いていない。 ただ、桜色の唇を、真珠のような歯の奥から、かすかに見える桃色の舌を見ていた。 上の空で、返事をする。 「君もまだ、子供じゃないか」 「ひどいな! ボクは、もう大人だよ」  怒ったように少女が、一歩踏み出す。膨れた頬は、赤ん坊のもののようだった。 その柔らかな頬を、気が付くと、僕は両手ではさんでいた。 「おいしそう?」  無言でうなずくのが精一杯だ。 「味見、してみる?」  言われて、僕は、前にかがむ。 きらりと光る瞳をみながら、ゆっくりと、唇を近づけてゆく。 「待って!」   少女は、そう言って顔をそらした。 僕は、待った。 非論理的な感情が……なんとも名づけようのない熱いものが身体の中を駆けめぐる。 「どうした?」   やっと、それだけいう。  「ボクの一族ではね、食べるということは、魂を受け継ぐことなんだ」  「魂を?」  「そう。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなる」 「それが?」   僕は、顔を近づけた。  「唇と舌には、言葉が宿る。 語り部の舌なら、弟子が受け継ぐけど、ボクは、戦士だから、しゃべるのは苦手なんだ」 「それで?」  さらに近づく。少女の鼻息がくすぐったい。 「ボ、ボクの舌を食べると、カツキも口べたになるかもしれないよ」 「もとより、口はうまくない。知っているだろう?」 「うん。でも……」  それ以上、言わせずに、僕は目をつぶり、少女の唇に覆いかぶさった。 柔らかな唇が、僕の中で踊った。  こぶりの上唇を、端から甘く噛んでゆく。 ふわりと柔らかな舌に歯を立てるたび、両手の中で、少女が、ぴくりと跳ねた。  しっかりと閉じた歯の間を、舌でなぞってゆく。 弱々しい抗議が、吐息の形で発せられた。 開いた口の隙間から顔を出した舌を、僕は思いきり吸った。   少女が、震え、その膝が崩れる。僕は、両手を背に回した。 甘い唾液が二人の間を行き来した。  舌が、舌を味わう。 にげまどっているのか。自ら絡んでいるのか。 柔らかな舌は伸び上がり、また縮み。 尖ったその先端も、広がった舌の平も、僕は、存分に味わい尽くす。  唇を離せば、舌の先から銀の糸が引いた。  目を開ければ、紅く上気した少女の顔があった。 いつも元気そうな目は、とろんとしている。 どれくらい、そうして見つめ合っていただろうか。 「カツキ……腕、もういいから」   恥ずかしそうに少女がそう言った。  腕をほどくと、少女は……ぺたんと尻餅をついた。 「あれれ……おかしいな」  僕の差しだした手を、少女は掴み、立ち上がり……ふたたび、後ろに傾く。 「危ないな」  尻餅をつく前に、僕は背に手をまわした。 「ちょっと、ふらふらするや」 「そうか」  そういう僕も、かなり膝が震えていた。 「ねぇ、カツキ。ボクは、おいしかった?」 「あぁ」  言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「先に死んだら、の、話だろ?」 「うん。備えあれば憂いなし。 これで、安心だよ。 ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。ボクの唇は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「選べない」  僕は、人肉食を……たとえ、目の前の少女が、厳密な意味でのヒトでないにせよ……選ぶことはできなかった。 「ボク、まずそう?」  「そういうわけじゃない。 僕という人間は所属する文化に多くを規定する。 この場合、僕は、文化の外にあるものを受け入れられなかった、というだけだ。 個人的な好意は関係ない」  「好きなら食べてよ」  「無理だ」  「……どうしても?」   はじめてみる、心細げな顔。 目の端にじわりとにじんだのは、涙だろうか? 「どうした?」  「だって……ここじゃ、死んだら焼いて、骨にするんでしょ?」  「普通は、そうだな」   「そんなのいやだよ! 血にも肉にもならないで、ただ埋まるなんて」   涙がこぼれた。     その姿に、ふと恵が重なった。 小さい頃の、恵。   夜の闇。あるいは、その暗示する死、そのものを怖れ。 眠れぬ夜は、あの子は、お気に入りのぬいぐるみを引きずって僕のドアを叩いた。 なにを言っても泣きやまず、最後には泣き疲れて、僕の腕の中で眠る恵。 少女の顔にあったのは、そんな深いさびしさだった。     僕は……小さい頃の恵にしたのと、同じことをした。 両手で、優しく抱きしめたのだ。 そうして口を開いて、はたと悩んだ。 言葉が、浮かばなかった。浮かぶ言葉は、論理的な、意味のない事実の羅列ばかり。 あの頃、僕は、なんといって、恵を、なぐさめていたのだろう。   目を閉じても言葉は思い出せず、僕は、右手で、少女の髪を梳き、左手で、ゆっくりと、その背を叩いた。 「ありがと……」   しばしして、少女は顔をあげた。涙はもうない。  「ねぇ、カツキ。約束してくれる?」  「ボクがもし、ここで死んだら……体は焼かないでほしいんだ」  「わかった」  「烏にでもやって、余った分は、河に流してほしい」  「あぁ」 「約束してくれる?」  「約束する」   死体遺棄が犯罪だ、という知識は僕にもあった。 しかし──法の遵守が全てではあるまい。 どこか山奥にでも運べばいいだろう。 車があればいいんだが。 方策を考える必要がある。 考え込む僕を見て、少女は、はじめて微笑んだ。 「よかった」  「先に死んだら、の、話だろう?」  「うん。これで、安心だよ」   嬉しそうにうなずく少女と、人肉食が、僕の頭の中では、どうしても結びつかなかった。 文化的間隙を埋める努力が必要だ。 「風のうしろを歩むもののところでは、誰かが死んだら、どうするんだ?」  「ううんとね。みんなで踊るよ」  「踊るのか」  「それから、お話するよ」  「お話か」   少し想像して僕は言った。 「楽しそうだな」  「楽しいよ。家族も友達も、みんな集まって、夜通し、遊ぶんだ」  「家族に、友達か」   死んだあとに世界がある、とは、僕は思わない。 だから、僕の死体が、どうなろうと実質的な意味はないが……そのように葬られると確信することは、日々の生活を、少しだけ楽しくするかもしれない。 「お酒は呑むのか?」  「お酒? お酒は呑むよ! 酔っぱらたっていいんだ。 お弔いだからね」  「料理は?」   言ってから僕は、後悔した。 「みんなで、お腹いっぱい食べるよ。なんてったってご馳走があるからね!」  祭壇にささげられた、血塗れの肉にむしゃぶりつく少女が脳裏に浮かぶ。 その口は真っ赤だった。 「最初の一口は、一番近い家族がもらうんだよ。父なら娘。母なら息子」  気分が、悪い。 ひどく、悪い。  血が。血を染めた口が。  気を紛らわすために、口を開いた。 「両親がいなければ、どうするんだ?」 「父も母もいないなら、姉は弟が、兄は妹が……」      血塗れの口が、かっと開く。 血があふれる。 あふれる。   あふれあふれた血が、顎を被い、胸を汚し、大地をぬらす。   ──痛い。  僕は胸を押さえた。無いはずの心臓がずきずきと痛む。 頭痛と同時に吐き気がこみ上げ、僕は、げぇげぇとえずいた。 「カツキ、だいじょぶ?」  少女の声が遠ざかる。 世界が歪む。遠ざかる。頭痛。 紅い闇が、脳の奥から広がって、目の前を覆いつくした。  涼やかな風が頬をなでていた。 遠いところから、笛の声が届く。  か細く、どこか物悲しい音色に、僕は、しばし浸った。 どこだろう。ここは。 耳を澄ませば、さやさやという葉鳴りの音が聞こえる。  草原。 果てしなく続く夜の草原だ。 月明かりに浮かぶ緑の海が、ありありと思い浮かぶ。 「……カツキ」  僕は目を開ける。  途端に、まぶしい街灯の光に顔をそむけた。 「だいじょうぶ? もう気持ち悪くない?」  風が吹いていた。 少女の髪をさやさやと響かせながら、僕の身体をやさしくさます。 「もう、平気だ」 「よかったよ」   少女のほうから吹いていたそよ風は、ぴたりと収まった。  「笛」  「え?」  「さっき……笛の音が聞こえていたと思ったんだけど……」  「あぁ」  少女がうなずいて、口笛を吹く。 あの音色が再び聞こえる。 「それは……」  何の曲か、と聞こうとして、僕はやめた。 答えるには、口を開かなくてはいけない。 そんなことより、もう少し、その旋律を聴いていたかった。 「いい曲だね」  少女は、口笛を吹きながら、ゆっくりとうなずいた。 僕は、少女の手を取って、家路を歩んだ。  胸の痛みは、とうに去っていた。  背を向けて、衣を脱ぐ。脱ごうとした。 うまくいかない。  ボタンを外す指が焦り、シャツを引きちぎりそうになる。 意識すればするほど、指はもつれていった。 「きゃ」  背中に、思い切り、何かがぶつかる。  振り返ると……顔のない、お化けがいた。 上着をぬごうとして、頭が引っかかったらしい。  「カツキー」   服の奥から、もごもごと声がする。 両袖は、盛大にもつれていた。  確か、腕組みしたままシャツをぬぐと、シャツの袖に結び目ができるという手品があったはずだ。 それに挑戦して、おもいきり失敗したような有様だ。   思わず、笑みをもらし、僕は、からまった両袖を解きほぐした。   うーんと伸びをする少女にあわせ、上着をはぎとった。 「助かったよ」   風のうしろを歩むものが、ほほえむ。 不器用、という言葉とは縁がないと思ったが。 あわてていたのか。僕と同じに。 少女が、ふと顔そむける。 「ずるいよ、カツキだけ」   裸の胸を隠すようにして、少女がささやいた。 僕は、かろうじて上着をぬいだだけで、他は着衣だ。  「指が、動かなくて……」   無意味な言い訳。 「カツキも?」   柔らかな笑い声。  「外して、あげるよ」  「ありがとう」   小さな小さな声に、僕はうなずいた。  上から下までと、袖口のボタン。   少女の指にかかると、シャツのボタンは魔法のように外れた。  シャツを脱ぎ捨て……僕たちは、再び背を向けた。 「し、下は、手伝わなくていいよね」 「……あぁ」  じっと見たくて。けれど、見るのが怖くて、恥ずかしくて。 これから起きることを考えるだけで頭が白くなり。  呆然としながら、制服の下をぬぐ。 ボタンは簡単に外れ、重力の法則にしたがって服が落ちる。  心の準備ができていない。できるはずがない。 一刻も早く先に進みたい気持ちと、この期に及んで怯える気持ちが、ぎりぎりと僕の中で引っ張りあう。  脳と心臓の綱引きだ。 引っ張りあうが……それは身体の内側だけ。 指も腕も、迷わず動いた。  下着を捨てて、身軽になる。 「いいか」 「いいよ」  か細い声に振り返る。 そこに、少女がいた。  ベッドに横たわる白い裸身。 肌はうっすらと上気し、僕の目の前に晒されていた。   息を呑む。 甘やかな匂いは、鼻から吸い込まれ、脳を直接ぶんなぐった。   花のようにかぐわしく、そのくせ淫らで。 僕を誘う匂い。   唾を飲む。飲めない。 口の中がからからだ。  視線が絡み合う。 言葉が出ない。 潤んだ目から視線をそらし、ゆっくりと、その曲線をなぞる。   首筋のうぶげが、かすかに銀色に光る。 胎児のように横たわる少女の全身は、余すところなく愛しかった。   引き締まった手足は、どこか柔らかさを残し。 ぴんと張りつめた肌に、浮きでた肩胛骨。 それが、息づかいとともに、上下するさまが、なにより愛おしかった。  細い腕が目の前で組まれ、胸を隠している。 小さな胸の膨らみは、僕ならおおいつくせるが、少女の手には、わずかに余っていた。   その細く、繊細な指の間からのぞくのは……桜色の突起。   ごくり、と、唾をのむ。 その音は、大きく響いた。 響いたはずだ。 少女は、身を縮めて、指を閉じたからだ。  それでもなお、少女の掌と、それが包む膨らみは、僕の目を捕らえて離さなかった。   もう一度、唾を飲む。 両の目をもぎはなすのにしばらく時間がかかった。   ふっくらとしたお腹と、くびれた脇腹。 その先にあるのは……一枚の布。 「ずるいな」   僕は囁くと、少女は顔を手でおおった。  「ゴメン。恥ずかしくて。 ほら、人間ってさ、毛皮ないし」  「毛皮?」  「ほら、狼だから」   草原の民は、人狼。 狼の力を得た人だと思っていたが……。 「狼の姿になれるのか?」  「うん」   話すことで、少しだけ、緊張がほぐれた。  僕は、少女の横に、横たわる。 間近に見た顔に、再び僕は動けなくなる。  鼓動は、もはや、乱拍子。 血は煮えたぎり、胸の中で熱いものが燃えていた。 今、手綱を離せば、この目の前の小さな身体を滅茶苦茶にしてしまいそうで──。  僕は、背を向ける。 「カツキ……?」  心細い声が、ひびく。 「ボク、どこかヘン? ニンゲンと違う?」  背に、指が触れる。 それだけで、全身に電流が走った。 ついと指が、背を撫でる。 それだけで達してしまいそうになる。 「……やめろ」  思いがけず喉から出た声は、荒かった。 指が、去る。 たったそれだけのことで、凄まじい喪失感が身体を包んだ。  非論理的だ。 やめろといって、離せと望んで、今は、その指が、狂おしいほどに欲しい。  たまらずに、僕は振り向く。   悲しげな少女の瞳が、僕を見ていた。 宙に差しのばされた手が、震えている。   僕は、ようやく気づく。 その指は、僕を嬲ったわけではない。 幼子のように、ただ温もりを求めて伸びていただけなのだ。  刺すように胸が痛んだ。 何てことをしてしまったのか。   胸の想いは言葉にならず。 せめて……震える指を、両の手で、包み込んだ。 「ボク、ヘンかな?」  「変じゃない」   ようやく、それだけ言えた。 両手の間に、少女の温かみを、僕は感じる。 指は未だ、震え、怯えていた。   ──僕のせいだ。 背を向け、拒絶の言葉を吐いた僕のせいだ。 どうすれば、この怯えを消せるのか。 「──」   頭の中で、言葉がぐるぐると回る。 単語の羅列の無意味の順列。 今は、今だけは言葉だけじゃ足りない。   答えは、心臓が知っていた。 掌をそっと引き寄せて、その甲に口づける。 「好きだ」   意味不明。 文脈無視。 論理飛躍。 矛盾の極致。   それでも、その言葉が正しいことが分かった。 びくりと、指が……少女の全身が震えたからだ。 「ボクも……カツキが好きだよ」   囁くような声に、僕の身体が震えてゆく。 互いの震えを指先で触れあい、分かち合う。 ゆっくりと、ゆっくりと緊張が解けていった。 「ちょっと……待ってね」  少女が、下着に手をかける。 ゆっくりと腕を下げ、両の足を引き抜きにかかる。  かすかに胸を、下腹部をかばいながら、身をよじるその様が、僕の脳の全ての理性を溶かした。 獣のように僕は襲いかかる。 「ま、待った。絡まっちゃう」  細い……僕に比べれば華奢とさえ言える腕が僕を阻む。 無理だ。止まらない。  胸に押しつけられた小さな手。 そのわずかな力が、かえって僕を煽り立てる。 僕は、その腕を掴み、引き寄せ、熱い半身をぶつけようと──。  急な風が僕を持ち上げ、吹き飛ばした。 風は、僕を、くるくると振り回し、ベッドの外に落とす。  急速に近づく床。  最後の最後で、風は、ふわりと僕を包み込んだ。  さて。 人間の……男性の前面部は、完全に平らとはいえない。 膨らみもあれば凹みもある。  優しい風は、体表のほとんどを守ってくれた。 つまり、顔と手足と胴は、無傷だった。  僕にとって不幸なのは、残った凸部に、重要な……この場合、一番重要ともいえる器官があったことだろう。  ペニスの先端に、凄まじい痛みが走る。 「────────!!!」 「ゴ、ゴメン」  嫌な汗が額から染みた。 身を刺すような痛みが、肺腑から空気を押し出す。 「カツキ、だいじょうぶ? どっかぶつけた?」  無言で転げ回る僕を見て、少女が心配げな声をかける。 僕は、歯を食いしばって笑みを見せた。 「たいした……ことはない」   ベッドの縁に手をかけて、ゆっくりと起きあがる。 「あのね……もういいよ」  少女が囁くように言う。 僕は、その横へ這い登った。  確かに。 下着は、もうなかった。   目が動く。 僕の視線が少女を辿る。   胸の膨らみをなぞり、なだらかなお腹を撫でて、脇腹のくびれを愛でてから、腰を過ぎ、ひきしまった太腿を味わい、ついにその内側……両足の間の淡い繁みに至る。  僕の視線を感じたのか、少女が、その足をもじもじと閉ざす。 けれども、僕は目が離せず。 神秘の秘奥を見極めたくて。   思わず、乱暴に腕が伸びた時、ずきりとしたペニスの痛みが僕を正気に返した。   これじゃ、さっきと同じだ。 乾いた唇を舌で示して口を開く。  だが。 問いかけの言葉が浮かばない。 心臓が脳に反逆していた。   鼓動は、全身に響くほど。 指先まで血が脈打っているというのに、脳だけに血が回っていない気がした。 「欲しい」   ようやく、そう言えた。  「えっと……」   そういう少女の瞳は、僕のほうに……より正確に言えば、僕の下腹部へ向けられていた。 顔が紅潮するのがわかる。 「ソレ、カツキのだよね」   論理的には矛盾した言葉だ。 ただし、今度ばかりはさすがの僕も、ソレが何を指すか聞きかえさなかった。  「然り」   なんだかよくわからない返事を返す。 「……」   少女の躊躇の一瞬一瞬で、理性が焼け爛れていくのが分かる。  「男のヒトって、みんな、そんななの?」  「あぁ。見たことがないのか?」  「ひどいよ。カツキはボクをなんだと思ってるの?」  「いや……なんとなく、その」  僕は早口で、つぶやいた。 何を言っているか、自分でもよくわからないが、とにかくしゃべっていないと、身体が抑えきれない。  「早熟のイメージが。 あぁ、えーと、こいびと……とか、いなかったのか?」  「うーん、あんまり、友達とかいなかったから」   少女が困ったように笑う。  ──あぁそうか。 異性の恋人など、いるはずがない。   衰えゆく一族の……人の世界に忌まれた草原の民の、彼女は、最後の若者だった。   胸を、身体を満たす劣情が、急速に消え、代わりに、何か別のものが満ちた。 暖かな想い。 目の前のものを見守りたいという願い。  今、この瞬間は、柔らかな胸よりも細い首筋が愛しかった。 僕が、手を伸ばし、ゆっくりと少女の髪に触れようとした瞬間。   僕の物思いは、あっけなく破られた。 「あ、すごい」   少女の視線は、依然、下方にあった。 目は、好奇心に輝いている。  「なにが?」  「その……小さくなった」   語尾は、ほとんど聞き取れないほど。  互いの顔が紅くなってゆく。 「さっきはさ、ほら、大きすぎて、ちょっと怖かったから」   早口で少女が言い……言うだけいって目をそらす。  「いや、すぐ大きくなるが……」   何を口走っているのか僕は。 言葉通りの事が起きて、僕は深刻な自己嫌悪に陥った。 少女が息を呑むのが、わかった。 「あぁ、えーと、だから。怖いなら、その。触って、みる、とか?」  「いいの?」   口を衝いて出た妄言。  だが思いがけず、潤んだ瞳で見つめられて、僕は、ぶんぶんと首を縦に振った。   他に、何ができただろう?  くるりと、少女が身体を返してゆく。 膝を立てて、僕に腰を向けてゆく。  こうして見ると思いがけず豊かな腰が。 その奥にある淡い繁みが、ふりふりと揺れながら僕の眼前に立ちはだかる。 「あぁ……」  思わず声が出た。声は出たが、手は出さなかった。 綺麗なふくらはぎと、形のいい足の裏にも、僕は指一本触れなかった。 「なに、カツキ?」  少女が振り向く。足が止まる。 「いや……なんでもない」  そう言うだけにとどめた僕を、僕は大いに誉めたたえるべきだと思うのだが、どうか? 「そう?」  それだけ言って、少女は、僕の腰に近づいた。 「へぇ」  感心したような声が響く。 この時ほど、視線というものを感じたことはない。 少女の視線は、微弱な電流のようなぴりぴりする刺激だった。  風のうしろを歩むものが、僕のペニスを眺めている。 遠慮無く、隅から隅まで、舐めるように見渡す、その視線の全てを僕は感じた。  自分の無防備さに、身体が震える。 それすらも、快感となって、ペニスをそそり立たせる。 「ねね、これって大きいの?」 「知らないな」 「どうして?」 「どうしてとは、ひどいな。僕をなんだと思ってるんだ?」 「ゴメン……っていうか、カツキ、それ考えすぎ」 「そうか?」  無邪気な会話に、僕は理性を集中した。 今さら考えるまでもなく、僕は爆発寸前だった。  がしかし。 緊張をほぐそうとする少女に、いきなりかけるのは問題だろう。 だから、僕は、耐えなくてはいけない。  僕は、少女の挙動の一つ一つを見守った。 急な刺激は禁物だが、予期していれば、なんとか耐えられるだろう。 次の動作は何だ?  少女が、ゆっくりと顔を近づけた。 まさか──。  次の瞬間、僕を襲ったのは、舌よりも柔らかで、指よりも鋭い刺激だった。  少女の息。 ペニスに顔を近づけた少女は、目を閉じて、一心に匂いをかいでいた。 一息吸い込み、吐き出すたびに、甘やかな刺激が僕の身体を揺らす。  僕は、歯を食いしばって耐えた。 じりじりと焼き焦がされる理性の一部が考える。 嗅覚に重きを置くとは……さすが、草原の民、獣の力を持つもの。  やがて、満足するまで嗅いだのか、少女は一つうなずき、そして……僕のモノに頬を寄せた。  再びの予想外。 柔らかな刺激が、先端から半ばまでを覆う。 「あ……」  洩れた声を、拳を握りしめて耐えた。 頬で包み込んだそれに、少女の両手が添えられた。  頬がゆっくりと上下し、十本の指が僕を撫ぜる。 呻きたくなるような刺激を伴って、僕は、僕の形を感じる。 少女が、僕の形を感じていることが、わかる。  拳をいよいよ強く握った。 とうに爪は肌に食い込み、汗に血がまじるのがわかる。 「やっぱり……大きい」  なにごとか、考え込むような声。 少女の頬が離れた。 その間にも、指は僕をなぞるのを止めない。 「なにか、でてるよ?」 「い、言わなくていい」  透明な雫が先端を濡らしていることぐらい、わかっている。 物珍しいのか、少女が、再び、ふんふんと匂いを嗅ぐ。 そして、ゆっくりと口をあけ、桃色の舌をつきだし──。 「待っ!」  僕は、手を伸ばす。 マシュマロのような尻を、指で擦った。 意外に汗ばんでいることに僕は気づく。 「ひゃん!」  仔犬のような悲鳴は、それ自体快楽だった。 「ひどいよ、カツキ?」  いじめられた仔犬の目が、上目遣いに僕を見る。 とにもかくにも、舌は、止まった。 「ちょっと待った。それは、無理だ」 「え?」  小首を傾げる。 「だから。舐めたら、無理だ」 「何が無理なの?」  この時ばかりは、よく峰雪が怒る理由が、少しだけ理解できた。 答えられない問いかけをされると、人は、理不尽な怒りを覚える。 「とにかく無理だったら無理だ」 「何が、無理なの、かな?」  歌うように、少女が僕をつつく。 限界はとうに越え、食いしばった歯は今にも折れそうだ。 「カツキ……緊張してる」  その通りだ。だがしかしそれは、因果関係を誤解している。 「あのね、無理しなくて、いいんだよ」  そう言って、少女は、小さな舌を僕に這わせた。 諺に言う、重荷の上の藁一本。  否。 それは藁ではなく、鉄でできた、特大の重りだった。 しかも、ビルの屋上から落ちてきた。  ぴちゃり、と、湿ったものが、ペニスを這う。 先端の先走りを舐め取った。  快感よりも、むしろ痺れに似た刺激が、骨という骨をぶっ叩いた。 木琴のように、頸椎から脊椎が、かき鳴らされる。 それが、腰骨に辿り着いた時……僕は、達していた。  真上を向いていたそれは、盛大に噴き上げ、少女の髪を、顔を、汚す。  僕は、唇を噛んだ。 無理だ。不可能だ。 あの衝撃に耐えることは、どんな雄であってもできなかった。  だが、それでも。 親しみを与えるべき時に……僕は、怯えさせてしまった。  おそるおそる、少女を見る。 未だ屹立するペニスのそばで、少女は、二、三度、目をぱちくりすると、嬉しそうに笑った。 「怖く……なかったか?」  恐る恐る声をかける。 「ううん。カツキのニオイだもん」  少女は、頬についたそれを、指ですくって匂いをかぐ。 そうしてから指先を口に含む。 「美味しいか?」  呆然と、馬鹿なことをたずねる。 「うーん」  首を傾げたところを見ると、微妙なようだ。 「でも、カツキの味がする」  ぱっと顔を輝かせる。 怯えてないのは幸いだが、嬉しそうなその顔に、僕は罪悪感を感じた。 「拭いたほうがいい」 「そぉ?」 「固まると厄介だ」 「うん、わかった」 「シャワーにしよう」  言って気がついたが、僕も、かなりの汗をかいている。  唇が重なる。吐息が混ざる。 風のうしろを歩むものの唇は、果物のニオイがした。 甘酸っぱいリンゴ。 十分に色づいて、そのくせ、どこかにまだ硬さを残した、若い実。  僕は、そのニオイを貪る。 目をつぶれば、ぴったりと重なった唇は蕩けるようで、どこまでが僕で、どこまでが少女かわかりはしない。  舌が、交叉する。 おずおずと互いを確かめ合い、わずかな勇気をだして進み、そして互いに絡み合う。 優しく、強く、嬲り、嬲られ、時に撫であげ、また絞りあう。  すぐに、わからなくなる。 絡まる舌のどこまでが僕が。 どこまでが彼女か。  どちらがどちらを導いているか。 どちらがどちらを責めているか。 責めたつもりが、誘われて、屈したつもりが抱きしめられて。  根本から先端まで溶け合って一つになった舌を伝わって、唾液が滴る。 少女の唾液を、少女のニオイを僕は受け入れる。  それは、優しい春風のような「好き」のニオイ。 小さな身体につまった勇気のニオイ。 それはとてもいいニオイで、僕は、幸せな気持ちで飲み干した。 口の中に、喉の奥に。 身体の中に広がるように。  僕の唾液を、少女に渡す。 隠せはしない。 この胸の中の、愛しい気持ち、奪いたい気持ち、壊したい気持ち、そのすべてを、奥まで届くように。  深い、深い、吐息とともに、僕たちは、離れた。 身を斬るような痛みと、サビシサ。 指先を失ったような、不安な気持ち。   それは、少女も同じだろう。 けれど。 「わかる?」  「あぁ、わかる」   僕はうなずく。 少女を包む蜂蜜のニオイの中に、鋼のような青い輝きがあった。 それが、僕のニオイ。  鼻をうごめかせて、確かめる。 鋼色の輝きには、大きな不安と怯えがこもっていた。 渦巻く欲望。 今、生まれたばかりの、愛情。   それは、みすぼらしく、ひよわで、あまりにも頑なだったが。 こうしてみると、悪くはない。 悪いニオイじゃない。 「ね、いいニオイでしょ」  「風のうしろを歩むものは、このニオイが好きなのか?」  「大好き!」   言葉とともに、ニオイが輝く。 広い広い草原。 その見晴らす限りの緑を育む夏の風のように、それは僕を吹き抜け、芯まで熱くした。 「カツキは、ボクのニオイ、好き?」  「好きだ。大好きだ。だから──」   二つの唇が、同じ言葉をつぶやく。 「混ざりたい、もっと」  僕は、少女を押し倒す。   血が滲むほどに、爪を立てたい。 強く抱きしめて、壊したい。 熱い血潮を、飲み干したい。 身体を貫いて、砕きたい。 何もかも、一つになりたい。   心臓が、脈打つ。 指先にまで染み通ったマグマが、僕を突き動かす。 組み敷いた腕の下で、優しく待つ彼女の身体を暖めること。 どろどろに溶かすこと。 そのために、どうしたらいいか。  雄としての本能が、僕を導いた。 僕の指が、僕の舌が知っていた。 伸びた腕が、脇腹に指を這わす。 引き締まった肉と、その下の肋骨を数えながら、すばやく撫で上げる。  「ひあっ……あふぅ……」   のけぞる背。 差し出された白い喉に、僕は遠慮無く歯を立てた。 「や、カツキ……だめだよ」  「なにが、だめなんだ?」   紅くなった歯形に、舌を這わせる。  「だって、そんな、急に……」  弱々しく声が抗議する。 両手で脇腹を撫ぜる。 掌の間に、細い身体を確かめながら、絹のような肌触りをゆっくりと味わい尽くす。   蜂蜜のニオイが変わってゆく。 より熱く、より甘やかに。 雌の香りへ変わってゆく。 「予告すればいいのか? なら、言う」  「ちょっ……待っ……そうじゃなくてさ……」   返事を待たずに、僕は、右手で少女の首筋を押さえた。  「耳たぶを、犯す」  左耳に口を近づける。 少女が逃げる。 けれど、その首筋は、僕が押さえている。 難なく追いついて、根本まで紅く染まった耳たぶを、ゆっくりとしゃぶる。   耳たぶの柔らかさを楽しみ、耳全体を舌で撫ぜる。 先の尖った耳の凹凸を楽しみながら、唾を広げてゆく。 僕のニオイに染めてゆく。 掌の中の少女の首筋が、硬く緊張し、やがて弛み、また、緊張する。 「あうぅぅ……」   少女の両腕が、宙を掴む。 僕は、左手で、その腕を僕の背に導く。 すがるものを見つけて、少女の腕は、僕の背で組み合わさる。 再び耳たぶを口に含み、舌で優しく、もみしだく。 安心したように、少女の力が抜ける。 抜けきった時を待って。僕は。   少女に告げた。 「噛む」  「!」   噛んだ。 強く。  「あ……カツキ……っくぅっ……カツキ!」   びくびくと震える身体から暴風が吹いた。  惑乱から放たれた、手加減なしの風。 本来だったら、最初のように、僕をベッドから吹き飛ばし、ついでに壁に叩きつけていたはずの風は、しかし、前髪を嬲っただけだった。 風が吹きすぎる。  「ゴ、ゴメン……カツキ」   あやまる少女の耳に、僕は、まんべんなく歯を立てる。 「あれ……なんで……カツキ……」  「何でとは何がだ?」  「なにって……今の……か……くぅんっ……かぜっっ!」   耳の穴に舌を差し込み、仔犬の鳴き声を味わう。  「平気だったぞ」  「どうして……あ……そこ……じゃなくて!」  弱々しい抗議に耳を貸さず、僕は耳たぶを囓り続ける。  「待って……あぅぅぅ……これじゃ……話、できないよ……」  「わかった。待つ」  僕は、舌を離した。少女の耳から、ついと銀色の糸が伸びる。 「はぁ……はぁ……」  犬のように……いや狼のように、少女は舌をだして、荒い息をつく。 「どうした? 止めたが」 「非道いよ、カツキ」   ようやく息をついた少女が口をとがらす。  「何が非道い?」  「カツキって、いじめっ子だったんだ」  「その話、だったのか?」  「うぅ……違うけどさ」 「風の話だな」  「そうだよ。どうして、カツキ、さっきの風で飛ばなかったのさ。絶対ヘンだよ」  「ふむ……」   僕は、しばらく考える。 そして、唯一にして絶対の結論に達する。 「今、考えてもしょうがない。 あとにしよう」  「そうだね」   少女が、あっさりと同意する。 「で、話はそれで終わりか?」  「えっと……」  「あ、そうだ。 カツキがボクをいじめるって話だよ」  「いじめては、いけないのか?」  「え?」 「いじめられて、嫌だったのか?」   僕は、まだ歯形の残る耳たぶを、軽く舐めた。  「その言い方が、いじめっ子だよぉ……」  「じゃぁ、どうしてほしい?」   舌は、耳の先まで舐めあげる。 「こっち」  「何が?」  「今度、こっち」   真っ赤な顔で、少女が右の耳たぶをさしだした。 「わかった」   微笑むと、少女が、怒った顔で目をそらす。 けれど、耳までは、逃げていない。   羞恥と怒り。 ないまぜになったニオイを飲み干し、僕はピンク色の耳に、口をつけた。   左耳と同じように、丹念に味わい尽くし、僕は耳から舌を離した。 息づかいにあわせて揺れる耳に、言葉を囁く。 「乳房を、犯す」  力の抜けきった身体が、その一言に飛び起きた。  「待って! カツキ、ストップ!」  「待つ」   僕は待った。 「あのさ……犯す……とか、そういうの、ナシ。 もっと優しく言ってよ」  「心得た」  「それと……言うだけじゃなくて……えと、ボクに聞いてよ」  「許可を取れ、というのか?」  「う、うん。だめ?」 「いや、当然のことだろう」  「そ、そうだよね。当然だよね」  「では──」   僕は、頭の中で文章を組み立てる。 心臓と脳が、協力して事に当たる。 「乳房に触れる。 十本の指で裾野から撫で上げる。 少しずつ力を込めてもみほぐす。 螺旋を描いて、ゆっくりと中央に近づく。 二本の指で先端をこする。 舌で舐める。歯を立てる」  「以上の行為の反復および、状況に応じた即興の対応について、許可を求める。 応か否か?」 「え……あの……待って。 早口で、よくわかんないよ。 もう一回」  「乳房に触れる。 十本の指で、裾野から撫で上げる。 少しずつ、力を込めて……」   僕は、ゆっくりと口の中で転がすように繰り返した。  「あの……もういいから」   消え入るような声で、少女が言った。 「では。応か否か?」  「うん……いいよ……して」  両手を、そこに差し伸べる。 まずは下から包み込み、しばし、その柔らかな感触を味わう。 手を離し、指先だけで触れる。   すばやく上から下へ撫で降ろす。 中指が、かすかに乳首に触れた。 「きゃうっ!」  「そこ……あとでって……いった……きゃんっ!」  「そことは、ここか?」   ささやかな胸の突起。 乳頭を残し、その裾野を中指の腹で、触れるか触れないかくらいで撫ぜてゆく。 「即興の対応についても許可を取ったはずだが」  「うぅ……カツキがいじめるよ……」   両の乳房をもみしだく。 少しだけ強めに。  「痛っ……強いよ……もっと……やさしく……ふぁあぁぁっっっ!」   力は緩めない。 けれど、語尾が喘ぎに溶ける。 「認める。どうやら僕はいじめるのが好きらしい」   両手を離す。乳房に、かすかに指の跡が残っていた。  「風のうしろを歩むものは、いじめられるのが好きか?」   目に涙をためながら、少女はうなずいた。 「うん。ボク……カツキにいじめられるの、好きみたい」   乳房に触れる。 今度は、優しく、ゆっくりと、焦らすように、ほぐしてゆく。  「でもカツキだけだからね!」  「僕は……どうだろう」  これまで、他人をいじめることに快感を覚えたことはない。 と思う。がしかし……。  と、悠長に考えていると、背に痛みが走った。 「つ、爪!」  人の爪ではない。鋭く尖り、肉を切り裂く人狼の爪だ。 「ボクだけだよね!」 「なにがだ?」 「カツキがいじめるのは、ボクだけだよね!」 「状況次第ではあるが……」  無意味に人を虐めることは本意ではないが、結果的にいじめてしまうこと、あるいは、いじめざるをえない状況に追い込まれることが無いとは言えない。  故に、確約はできない。 すべては状況次第だ。 「ボク、だけ、だよね!」  爪が食い込む。血が噴き出る。 「いたい、いたい、いたい」  僕は、脳の論理ではなく、心臓のお告げに従うことにした。 「君だけだ」  細いあごを捉え、軽くついばむようなキスをする。 「え?」  狐につままれたような表情。 無防備なその顔が、また可愛い。いじめたくなる。 「だから、いじめる」  二本の指で、乳頭を挟む。 力は、こめない。 少女が身を竦ませる。 恐怖のニオイが伝わる。 僕が、この指で、はさみ潰すと思っている。 その痛みに怯え……半ば期待している。   目をつぶって痛みを待つ、その表情が、愛しい。 僕は、潰すのをやめて、優しく擦りあげる。 「ふぁ……」   両の手を右の乳房に集める。 八本の指を這わせながら、親指の腹で、乳首を弄ぶ。 多少、乱暴に。 リズムをつけて、弾く。 「あ……やだ……」   眉をひそめながら、少女が身をよじらせる。 僕は、残った左の乳房に口をつけた。  「ひゃん!」   少女の背筋が反り返る。 指が乳房に食い込み、軽く、歯が当たる。 「やめて……カツキ……やめて……」   言葉とは裏腹に、少女の腕が、僕を引き寄せる。  「ふわ……だめだよ……ボク……溶けちゃう……」  ゆっくりと、じわじわと、狂わすように、僕は、少女の肌に僕のニオイを刻んでゆく。 乳房から腹へ。 脇腹から肩へ。 細い二の腕から指先までも。   指を這わせ、舌で嬲り、爪を立て、甘噛みし、白く柔らかな肌の全てに、僕のニオイが染み渡るまで容赦しない。 背中に回した少女の腕が、僕の背に爪跡を刻む。 流れる血のニオイに、互いの興奮が震える。 「そこ……だめだ、よ……カツキ、お願い……」   拒絶と哀願が交互に繰り返される。 僕の責めに、その身体は、跳ね、反り返り、もだえ、そして、どろどろに溶けてゆく。 汗と汗が、まざりあう。 ニオイとニオイが溶け合う。  「カツキ……カツキ……」   繰り返される睦言が、不意に途切れた。 「えーと……カツキ……」  「なんだ?」   僕は、腋の下をくすぐるように、指を這わせた。  「きゃぅっ……あの……やめて」  「なにをだ?」   首筋をくすぐり、頬に口づける。 「だから……その……それ」  「それじゃ、わからん」  「あ……そんなとこ……だから……もう、我慢……」  「何だか知らないが我慢は良くないぞ」   僕は、尖らせた舌で、乳首をつついた。 「うぅ……やめてよ……」   哀願が、本気のものだと僕は気づく。 「何をやめるんだ?」  手を休めて、一応、聞く。 「だから……指とか、舌とかで……触るの」 「どうかしたのか?」  もじもじと、少女が両足をこすりあわせる。 「聞かないでよ」  僕は鼻をうごめかせる。 緊張のニオイ。羞恥のニオイ。 両足の間から洩れるニオイに、雌のニオイ以外のものが混じっている。  少女がこらえているものの正体が、わかった。 「よくわかった」 「わかんないで!」  少女の手が、僕の胸を押しのける。 困る。 何が困るといって、その顔が、愛しすぎる。 眉根をひそめ、何かを我慢しながら怒る顔。  約束は破りたくないが、しかし。 「いじめたい」  口に出して言うと、少女の顔色が変わった。 「ダメだよ、カツキ! 絶対ダメ! 指一本でも触れたら絶交だよ!」  ますます愛しい。 けど、そうまで言われては、触れるわけにはいくまい。 ああ、だけど……。  少女が、身体を起こそうとする。 汗に濡れた体が、露わになる。 限界が近そうだ。  ほんの一カ所。 たとえば、あの、喉とあごの境目。 尖った耳のすぐ下。 乳房の谷間の一点。  ほんのわずか、柔らかく羽根のように触れるだけで、少女の身体は決壊するだろう。 押しとどめていたものは、とめどなく溢れるに違いない。 ふるふると震える身体が、あまりにも愛しくて。  心臓が、そうしろと囁いていた。 黒い炎が身体に満ちてゆく。  だが。 今度ばかりは、僕は、灰色の、わからやずやの脳に従った。 それは、してはならないことだ。  世には信義というものがあり、いじめるのと傷つけるのは別のことだ。 そう、自分に納得させながら、僕は、深くためいきをつく。  風が吹いた。 「あ……」  僕の口から洩れた吐息は、渦を巻いて台風となり、一枚の巨大の舌となって、少女の全身を舐め上げた!  その喉を。 鎖骨のくぼみを。 乳房を、脇腹を、僕の知ってる限りの少女の性感帯を、ざらり、と、舐め上げ、吹きすぎる。  予想外の出来事に驚いたのは、僕だったか少女だったか。 「ばかばかばかカツキのばか!」  まぁ、順当に考えて少女だろう。 少女は、僕の首にしがみつきながら、達する。 「もれちゃ……もれちゃう……ふぁぁぁぁぁぁ! ……あふぅ」  安堵の吐息と一緒に、僕の下腹を、暖かいものが濡らす。 思わず、目を下に向けると……。  少女のささやかな繁みから、黄金色の放物線が伸びているのが見えた。 「……」 「……」  放物線は、上向きの初速を徐々に失っていった。 結果、飛距離が徐々に失われ、やがて、線は、水平に近づき、途切れ途切れとなり、そして消えた。 「不幸な事故……」 「バカ!」  思い切り……本当に、思い切り頬を張られ、僕の首が、ぐるりとねじ曲がった。  しかも爪を立てている。五筋の線が頬に引かれた。 「バカ! バカ! バカ! カツキのバカ!」  往復ビンタに、僕の首が左右に弾け飛ぶ。 「いや……それは、さすがに、死ぬ」  というか、常人なら死んでいる。 「死んじゃえ」  それは、見事な一撃だった。  少女の両の足指はシーツを掴み、そこを起点に全身をひねりあげる。 太腿が、腰が、首が、摩擦を利用して、力を貯める。 あらゆる筋肉のベクトルが完全に合成され、一片のロスもなく、全く同時に、一点に集中する。  透徹した、勁。 渾身の力を込めた肘鉄を胸板に受け、僕は、思い切りベッドから放り出された。  今度こそ壁に激突し……僕は、くたりと倒れ落ちる。 立ち上がろうとして……いかん、世界が回っている。  目をつぶり、十数えて、ようやく立ち上がった時。  ベッドの上に、カタツムリがいた。 寝転がったまま勁を放った少女は、頭から毛布を被って、殺意を放射していた。 「どうした?」  毛布の裾をめくった瞬間、頭が後方に吹っ飛んだ。 痛い。  額を撫でながら、毛布から飛びだした蹴り足が、僕を蹴ったのだ、と、認識する。  仕方ないので、僕は、用心しいしい、ベッドに登り、カタツムリの脇に腰を下ろす。 「さきほどの件に関しては、僕の過失だ。あやまろう」   カタツムリが、かすかに揺れる。  「かしつ?」  「あんなことになるとは……いや、あんなことができるとは思わなかった」  「どうして、カツキが風を使えるのさ」  「僕にも、わからない。が、仮説としては、幾つか考えられる」 「仮説の一は、僕の中に、そうした力が内在していたというもの」  「仮説の二は、何らかの理由で、僕に、そうした力が宿ったということだ」  「僕自身は、ただの人間だから、仮説の二が妥当だろう。 この力は……多分、風のうしろを歩むものに、もらったんだ」  少女の言葉を思い出す。   ──ここにね、小さな小さな穴が開いていて、普段は、入り口が閉まってるんだ。 だから、門。 ボクが風に頼み事をする時は、その門を、ぐいっと開けるんだ。  僕は、胸に掌を当て、その鼓動を感じる。 わかる。 この胸の中に、風が渦巻いている。   掌から、その力を引き出す。 鼓動と共に、僕の掌に何かが湧き出てゆく。 熱くて冷たくて硬くて柔らかな感触。  未だ定まらぬモノ。 因果の因のさらに前。 未発の機。   不安定なそれに、僕は、〈容器〉《かたち》を与える。 涼やかな〈微風〉《そよかぜ》よ……。  成った。 かすかな風が、部屋に渦巻き、汗に濡れた肌を吹きすぎる。   毛布の裾が、少しだけ開いて、瞳だけが僕を見る。 「ホントだ。ボクの、風だ。 でも、どうして?」  「僕が聞きたいくらいだな。 僕が力を吸収する性質があるのか、君が僕に力を与える性質があるのか」  「普通のヒトに、いきなり力を与えるなんてムリだよ。 壊れちゃうし……壊れなくても、ヒトじゃなくなっちゃう」  「そうか」 「でも、カツキは、ただのヒトじゃないから……そういうのもアリなのかな」   得体の知れない力が、身体に満ちている。 論理的には、僕は、これを怖れるべきかもしれない。 が、そんな気持ちは感じなかった。   この事態を、僕は二つのレベルで、理解していた。 心臓と脳の、二つだ。  ロマンチストの心臓が告げる。 僕の胸は空っぽだった。 想いが胸に満ちた時、この鼓動が、この力が生まれたんだ。   リアリストの脳が告げる。 僕が力を得たのは、倒れた少女に血を分け与えた時だ。 あの時、僕の中に、少女の記憶が入ってきた。 この力も、同じ時に入ったのだろう。 体液を媒介として、僕と少女の間を、力が行き来する。 そんなところだろう。 「いずれにせよ、意識して使ったのは、今が最初だ」  「じゃぁさ、さっきの、アレ……わざとじゃ、ないの?」  「誓って。多分」  「どっち!」 「いや……意識した行動ではなかったのだが、無意識の欲望……いや違うな。 この上なく意識された欲望が、つい、出てしまったと。 そう考えられる。 無論、僕に、こんな力があると分かっていれば、決してしなかったわけだが」   毛布の隙間が閉ざされる。 このうえなく、きっちりと。 「すまない」   かすかな隙間から、瞳が覗く。  「もう、いじめたりしないから」  「ほんと?」  「あぁ」   僕はうなずく。 「やめてって言ったら、やめてくれる?」  「やめる」   僕は請け合った。  「風のうしろを歩むものの、言う通りにする。 それ以外のことはしない」  「ほんと?」   首が出る。 カタツムリから亀に進化する。 「ほんとうだ」  「絶対?」  「この世に絶対はない」  「……」  「……が、僕の全力の及ぶ限りにおいて、僕は、この約束を守る」  「誓って」  悩む。 僕には誓うべき信仰対象もないし、誓いの言葉も知らない。 いや、一つくらいは知ってるか。  「手を、出してくれ」   亀から、右手が生える。 僕は、その小指に、自分の小指を巻き付ける。 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」  「げんまんって何?」  「なんだっけな」   少女の顔が、むすっと不機嫌になる。  僕らにとって、「誓い」というのは、ただの約束で、意味のない儀式に過ぎない。   けれど、草原の民にとって「誓い」というのは、きっと神聖なものなのだろう。 故に、意味もわからない「誓い」など、有り得ない。   僕は、必死で記憶を探る。 昔、峰雪が何か言っていた気がするな。 あれはなんだっけ。 「……げんは拳で、まんは、数の万だ。 誓いの証に指を切り、破れば拳で撃ち殺される。 そういう意味だ」  「へぇ。ニンゲンは、そんな誓いをするんだ」   少女は、絡み合った指を、しげしげと見つめた。 「指切った」  「え?」  「これで誓いは満たされた」   少女は、僕と彼女の小指を見比べる。 それから、晴れやかに笑った。 「あのね、ボク、カツキ、好き!」  毛布から這いでた少女が、両腕を首に絡めてくる。 「僕も、だ」  僕は、微動だにせず、答えた。 胴の上にまたがり、少女が、僕の胸板に顔をこすりつける。 ニオイが、ゆっくりと混ざり合う。 「さっきの続き、しよっか?」 「無論だ」  僕たちは互いの目を見つめ合う。 少女が、僕の横に横たわる。 「カツキ……来て……」  言われるままに、僕は少女の上に身を乗り出す。 僕の影が、少女に落ちる。 やわらかな手が、僕の背を抱きしめる。   僕は少女を見下ろす。 白く、小さな裸体が、期待に打ち震える様を、じっくりと堪能する。 ニオイが満ちる。期待が高まる。 僕は動かない。 「あのさ……」  「なんだ?」  「カツキ……なんで。 そんなに固まってるの?」  「……? 約束したからだが」  「約束って?」 「もう忘れたのか? 君は」  「え、えっと……」  「九門克綺は、風のうしろを歩むものの、言う通りにする。 それ以外のことはしない」  「だから?」  「命令されない限りは何もしない」 「……それで、止まってるの?」  「無論だ」   少女は、くすりと笑った。  「動いてもいいよ」  「そうか。では……」   僕が、両手を伸ばすと、少女が固まる。 「やっぱり待った!」   僕は、ぴたりと止まる。  「何だ?」  「今、ニヤって笑った。ニヤって!」  「笑ってはいけないか。表情筋を制御するのは難しいな。 努力はするが」  「いや、そうじゃなくて。カツキが悪巧みしてるみたいで……」   僕は肩をすくめる。 「動いていいと言われたから動いたまでだ。 動かないことが望みなら、それで構わない」  「ボクがいいたいのは、カツキに優しくしてってことなんだけど……」  「優しい、というのは、主観的な評価だな。 もう少し具体的に、指定してもらえないと、行動のしようがない」   石のように固まる僕に、少女は悩んだ。 「じゃぁ……ボクを、触って」 「どこを?」 「どこって……あの……」  少女が顔を赤らめる。 「し、下のほうだよ」 「範囲が明確じゃないな。もう少し特定してほしい」 「やっぱり、カツキはいじめっ子だよぅ……」 「誓いを守ろうと努力しているだけだ」 「じゃぁ……右手を、お腹において。おへそのところ」  言われるままに、僕は右手で少女のへそに触れる。 「人差し指で……そのまま、真下に……ゆっくりね」  言われた通りに、指を下げる。 ゆっくりと、少しずつ、緩慢に。  指先に全神経を集中し、柔らかな肌を味わいながら、1ミリずつ、1ミリずつ。 その指の下で、少女は身悶えする。 「あうう……もうちょっと早くてもいいよ……」  僕は、少しだけ指を早くする。 やがてそれが、柔らかな繁みに到達する。 ほとんど産毛のようなそれは、泉から湧いたもので、暖かく湿っていた。  指先をくすぐる感触の中を、ゆっくりとかきわければ、やがて、秘裂に達する。 幼いそれは、十分に潤いながら、未だ、閉じていた。 「はぅ……う……ん」  指を止めず、通り過ぎる。 熱く潤った細い割れ目を、優しく撫でてゆく。 「カツキ……ボク……」  啜り泣くような声。 だが、それは指示ではない。 故に、指は止まらない。  やがて、それは割れ目の終わりに達した。 その下の肌に、僕の指は潤いを塗り広げてゆく。 「きゃうっ! ちょ、ちょっとカツキ! そこ、行きすぎ! 行きすぎだってば!」  指示に従い、僕は指を止める。 きゅっとすぼまった窪みに、指の膨らみが、ぴったりと合う。  指先に、少女の息づかいが感じられる。 吸って吐くごとに、それは蠢動し、潤いを持った指を吸い込もうとする。 「だから……ソコ、違うってば」  指示はない。僕は待つ。 置いているだけの指先が、つぷつぷと埋まり始める。 「ゆ、指! 戻して!」 「わかった」  僕は、ゆっくりと指先を引き抜き、中指を少女の秘裂に這わせた。 「そこを……」 「どうしてほしい?」 「指で……きもちよくして、ほしい」 「どうすれば、気持ちよくなる?」 「どうしてって……撫で……たり、こすったり……」 「そうしよう」  僕は、細い亀裂の両側をなでてゆく。 何度も指を往復させ、それから、時間をかけて、こすり合わせた。  蜜が、あふれだす。 ゆっくりと、それが口を開けてゆく。 たちまち香りが広がってゆく。ニオイが、僕を挑発する。  桃のニオイ。口の中に、甘みが広がる。 欲望のボルテージが上がってゆく。 白い肌の中の、桃色の秘部。  雨に映える南国の花のように。 しとどに濡れたそれは、その美しさをいや増していた。  そのピンク色には指を触れず、僕は、二本の指で、秘裂を開き、閉じ、こすりあわせてゆく。 「あ……はぁ……ふ……」  少女の喘ぎ声に、徐々に、水音が混じりはじめた。 指をこすりあわせるたびに、くちゅくちゅと湿った音がする。 「なか……触ってよ……」 「何で?」  こすりあわせる指に、緩急をつける。 「何でも、いいからっ……」 「そうか。何でもいいんだな」  僕は、顔を下げる。 麗しいニオイを胸一杯に吸い込み、秘裂に舌をつける。 ぴちゃぴちゃと、音を立てて、泉の蜜を舐めとる。 「ず、ずるい……」  少女の腕が、僕の頭を掴む。 両腕は、拒むようでいて、その実、僕を押しつける。  細い、亀裂の奥を割けて、僕の舌は上下する。 やがてそれは、小さな小さな突起を探し当てた。  指で皮を剥き、思い切り吸い上げる。 「はぅぅっっっっっくぅぅぅぅん!」  これ以上ないほどに背を反らし、少女は、がっくりとベッドに倒れ込む。 僕の背で強く爪が立てられ、やがて、腕も解けて、ベッドに落ちた。  しばらく待つが、ぴくりとも動かない。 「達したか?」   僕は、唇を離して問いかけた。  「……」   唇が、かすかに動くが、声さえも出ない。   さて。指示は未だ有効だ。 僕は、両の指を、秘裂にかける。 二本の指で、それを広げ、かすかに顔を出す核を、嬲ってゆく。 「ぅぅ……」   少女の身体が揺れる。 唇が、囁く。 耳を近づけると、それが、僕の名だと分かった。 「中を、触る。いいな?」   耳元で囁くと、こくんとうなずく。 力の抜けきった肉体に、僕は、中指を差し込んだ。   細い、細い道を、徐々に開拓してゆく。 肉は、潤みながらも、ねばりつくように、僕の指を包み、絞り、立ちふさがった。 「痛いか?」  「う、ううん……」   声には出なくとも、ニオイで分かる。 かすかな痛みを、少女は噛みしめている。   だが、止めるわけにはいかない。 この道は、これから指よりも、もっと太いものを受け入れるのだ。   僕は、幼い芽を指で弾いた。 と同時に、奥まで一気に中指を差し込んだ。 「あぅぅっっ!」   少女の身体は、痛みを感じながらも、逃げはしなかった。 僕の指を受け入れるように前に出る。 ちゅぽんと音を立てて、指を、引き抜く。 「さて……」   そろそろ、限界だろう。 風のうしろを歩むもの。 そして何より僕が。 「中を触れ、と、言ったな」  「う、うん」  「何で触ってもいい、と、言ったな」  「う、うん」   少女の視線が僕の瞳を見る。 その視線が、ゆっくりと下がり、胸から腹へ。   そして腹の上にそそり立ったものを見つめる。 ごくり、と、唾を飲む。 「……おおきいよね」  「絶対的にどうかは分からないが、相対的には大きいな」   何と何を比べてかは言うまでもない。  「バカ。おおきいけど……ボク、こわくないよ」  「そうか」 「お願いがあるんだけど……」  「なんだ?」  「あのね……手、握って」  「あぁ」   両手が、少女の手を固く握る。 こうして握りしめると、驚くほど小さな手を、指を、僕は愛しいと思った。 「じゃぁ、行くぞ」  「カツキ、来て……」   少女の指が僕の指に絡まる。 二人の体温と、二人の鼓動が、やがて近づき、一致する。 僕は、少女の中に侵入する。  両手を組み、もどかしげに位置を合わせる。 切っ先は定まらず、少女の腹をなぞりながら、収まる鞘を探す。   ようやくそれは、熱い泉に触れる。 僕が動き、少女が動く。 亀裂をなぞりながら、入り口を見つけ出す。 「……ここだな」  「……そこだよ、カツキ」   熱い声が、僕の最後の理性を奪った。   ゆっくりと腰を沈める。 熱く、猛り狂った切っ先を、少女に押しつけてゆく。 次元の違う快感が、僕の脳みそを真っ白に焼き尽くす。 「ひぁ……ふ……くぅ……ッッ!」   そこは。   これほどに熱いのに。 これほどに柔らかなのに。 これほどに潤っているのに。 これほどに悦んでいるのに。  それでもなお、それは、強く、強く、僕を拒んだ。 まだ切っ先さえ、入りきっていないのに、無理矢理に広げられた入り口は、これ以上は無理だと訴えるよう。   焼けるように熱い肉が、ぴったりと僕を包み、押し返す。 鋭すぎる圧迫が、僕を、さいなんだ。  快感と痛み。 その区別が無くなってゆく。 区別はなくとも、身体は動く。   雄の本能が、僕を駆動する。 力を入れかけた、その一瞬。   唇を噛みしめて、痛みをこらえる少女の顔が、見えた。 見えてしまった。  心と、身体に、ためらいが走る。 それは、伝わった。 ニオイで、少女に伝わる。   指が、痛くなるほどに僕を掴んでいた少女の指が、ゆっくりと解け、優しく僕の手の甲を包む。 「だいじょぶ……だから……もっと……カツキが、欲しいよ……」   途切れ途切れの声に、僕は後悔した。 今、退いて、また、この痛みを繰り返させるのか。 そんなことはできない。できるわけがない。   進む。進むしかない。 「息を吐け」   そう言って僕は、少女を刺し貫いた。  「くぅん!」   肉を裂き、えぐり、ありえないほど小さな隙間に、なんとか切っ先を潜り込ませ、ようやく安定する。 「お腹……いっぱいだよぅ……」   涙さえ浮かべながら、少女が言う。  「まだまだ」  「え?」  少女の情けない顔が、あまりにも綺麗で、僕は、その頬に舌を這わせた。 汗の味。 痛みのニオイ。 恐怖のニオイ。 でも、その中には、僕に身を任せる信頼のニオイがあり……。   なんだか自分が、無罪の人間を手に掛ける、死刑執行人のような気がしてくる。 死刑執行人。 それで、一つ思いだした。 「痛いか?」  「だ、だいじょぶだよ」   汗を浮かべながら、少女が答える。  「三つ数えろ。 一つ数えるごとに息を吐け」  「う、うん」   こっくりと、少女が、うなずく。 「ひとぉつ……」   少女が数える。 痛いほどの緊張を感じる。 恐るべき苦痛に耐えようとして、身体に力が入ってゆく。  「ふぁぁぁぁ」   ゆっくりと息を吐かせる。 身体の力が、抜ける。 心なしか、ペニスへの圧迫が弱くなる。 「ふたぁつ……」   再び恐怖に、身体が竦む。 指が、僕の手を、ぎゅっと掴む。  「吐け」  「ふぁぁぁぁ」   従順に少女が息を吐く。 頑なな表情がわずかに緩む。 肩から、背から、強ばりが取れる。 「もっとだ」  「ふぁぁぁぁぁぁぁ」   指が、僕の手のなかで柔らかく脱力する。 肘が、だらりと垂れる。 まだ大丈夫。 あと一つ数えるまで。 そう思って、僕に身を任せきっている。  そうして息を吐ききった瞬間、僕は、思いきり、少女をえぐった。   速度が、肝要だ。 脱力しきった少女の身体を、痛みに強ばるよりも早く、最奥まで刺し貫く! 「きゃんっっっ!」   少女が叫び、手の甲に爪を立てたのは、すべてが終わったあとだった。  「これで……ぜんぶ……?」   息も絶え絶えに、少女が囁く。 「あぁ。僕の、全部だ」  「そう……よかった」  少女の腕が、僕の背に回される。 僕も、少女を抱きしめる。 固く。固く。 溶け合うまで。 裸の胸に少女の胸がつぶれ、肋骨さえぶつけあうように、僕らは抱擁した。   ゆっくりと、僕は身を離す。 そそり立ったものを、少女から引き抜く。 血塗れのそれは禍々しく、僕は、征服感と同時に、大きな罪悪感を感じた。 「ひどいよ、カツキ。 二つで、入れるんだもん」  「三つ数えろ、と言っただけだ。 何もしないとは言ってない」  「そんなのばっかりだよ。 カツキのいじめっこ!」 「まぁ意図的に誤解させたのだから、僕が悪いな。 だけど……予告通りにやったら、もっと痛かっただろう」  「そっか……そうだね」  僕のやったのは、斬首人の手管だ。   あらかじめ、死刑の手順を、囚人に詳細に伝える。 囚人が、自分の斬られる瞬間を知れば、暴れるかもしれない。 それでなくとも、人間の首は、本気で緊張した時には、恐ろしいほどに固くなる。  それによって斬りそこなえば、囚人は苦しむし、また、斬首人の不名誉でもある。 だから、偽の手順を教えると聞いた。 そして、油断している首を、一太刀で落とすのである。   道徳的かどうかはさておき、一つの方法ではある。 「あのさ……」   少女の視線が、いまだ、そそり立つ僕のモノにそそがれる。  「なんだ?」  「元気だね」   微妙なニュアンス。 「気にするな。 こんなものは処理すればいい」  「そうはいかないよ。 カツキには……その……いっぱい、きもちよくしてもらったし……」   僕も、少女を見る。 足の間。 白いシーツが、小さく紅い染みを作っていた。 「無理する必要はない。 今度というものもある」  「ないよ」   少女は柔らかに答えた。 「何だと?」  「カツキ、明日が来るとは限らないよ。 それに来た明日は今日なんだから、ほんとは今日しかないんだよ」  「うむ」   独特の論理についていけずに一瞬悩んだが、言っていることは、きわめて正しい。 そんな気がする。 「つまり……今日できることは、今日するべきだ、ということだな」  「うん」   少女が嬉しそうにうなずく。  「だから、ね、カツキ……」   潤んだ目で見つめられなくても、僕に否があるわけもない。  「じゃぁ……行くぞ」  〈狭隘〉《きょうあい》な道に、再び分け入る。 だが、道がついているだけ、さっきに比べれば、よほど、楽だった。 風のうしろを歩むものが、うまく、力を抜いているせいでもあるだろう。 「さっきので……あん……だいたい、わかったっっ……からぁ……」  それでも、時折は痛みに顔をしかめながら、彼女は僕のモノを受け入れてゆく。  愛しい。愛しい。愛しい。 小さな身体が、その健気さが、愛しくてたまらない。 僕は、その頬をなで、汗にはりついた前髪を、梳かしてやる。 「きゅうぅ……」  最奥に達すると、少女が、小さく鳴いた。 僕は、そこで止まる。 「えと……あの……どうすれば、いいのかな?」 「無理はするな。何もしなくても、いい。 つらかったら言ってくれ。好きだ」  思ったことを片端から口に出す。 少女の驚いた顔を見つめながら、僕は、ゆっくりと動き始めた。 「あのね……ボクも……カツキのこと……好き」  とっておきの秘密を打ち明けるように、少女が耳元で小さく囁いた。 きつく締めつけるだけの抵抗が、ゆるやかに、変化する。  一本道は、柔らかに形を変えながら、僕を受け止め、また、送り出す。 熱い潤いが、隅々まで染み通ってゆく。  狭いとだけ感じていた時には気づかなかった、道の微妙な起伏に、僕は初めて気づく。  それは、とてもとても気持ちのよいことで。 小径の襞の、その全てを征服したくて、思いきり僕はかき混ぜる。 「くぅ……カツキ……おねがい……もっと……あぅぅぅ」  睦言も耳に優しく。 柔らかな身体が僕の下で蠢いた。  満ちてゆく。 この上なく熱いものが、僕の中に満ちてゆく。 脈打つマグマのようなそれは、腹の中全体をかき回し、出口を求めて、荒れ狂う。 「溶けるよ、カツキ、ボク……ボクたち、溶けちゃう」  少女の言葉が分かる。 いままで、混ざり合うだけだった二つのニオイが、溶け合いはじめている。  〈黄金色〉《かのじょ》と、〈鋼色〉《ぼく》。 鋼が黄金を溶かすのか、黄金が鋼を吸い込むのか、溶け合う二つが、別のモノに昇華してゆく。 「こんなの……うぅ……ボク……はじめて……だよっっ」  変わってゆく。 ニオイは僕で、その僕が変わってゆく。  身体を満たす、熱くどろどろした炎が、僕の内臓を根こそぎ融かしてゆく。 心臓も胃も腸も、すべて融け、それでも炎は満足せずに、僕の中身を、錬り、鍛えあげてゆく。 「カツキ……ボク、ボク……もうっっ」  少女のニオイが変わってゆく。 僕とともに変わってゆく。 内なる炎で、とろとろに融かされ、僕の腕の中で、バターのように柔らかくなる。 「あついよぉ……カツキが……あついよぉ……」  かすかに残っていた脳味噌が嗤う。 熱力学の第二法則。 熱は、一方にしか流れない。 彼女が熱いなら僕は冷たく、僕が熱いなら彼女は冷たいはず。  どうして分からない? 心臓が答える。  現実が、理論を凌駕する。 彼女が、僕が、同時に熱いと感じること。 二人の間に生まれた炎。  それは、小さな奇跡で、その奇跡が僕らを近づけてゆく。 僕の中の炎が、その圧力が一点に……刺し貫く先端に収束してゆく。 「──」  潤んだ瞳を僕は見つめる。 限りなく愛しいそれの、名を、呼ぼうと思う。 開いた口から飛びだしたのは、言葉ではなく──。  うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん。  高く、尾を引く獣の咆吼だった。 風のうしろを歩むもの。 その咆吼の、人の耳には捉えきれぬ、旋律こそが、少女の真名であると僕は理解する。 「くぅぅっ、カツキ、カツキ、カツキィィィィィィィ」  言の葉が溶け、咆吼に変わる。  きゅおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!  互いの叫びの中に互いの名を認めた時、僕と少女は、同時に達していた。  爆発が、起きる。 骨を揺さぶり、身を削り、魂さえ吹き飛ぶ放出。 嵐のようなその余波を、僕たちは、抱きあって耐えた。  ねばるように腕に絡み、左手一本で、両手首を押さえ込む。 管理人さんの腕が、僕の両手を頭上にさしあげる。  錐をねじこむような鋭い痛み。 その痛みは、手首から肘、肩にまで及んだ。  なすすべもない僕に、管理人さんの右手が伸びる。 人差し指が僕の頬に優しく触れた。 「ちゃんと、お行儀よくしたら……」  ゆっくりと頬を伝い、裸の胸をなぞる。 そして、さらに下へ。 「いくらでも、気持ちよくしてあげる」  〈臍〉《へそ》をなぜて、その下に。  屹立した先端を、五本の指が掴んだ。 びりびりと電流が走り、僕の身体がこわばる。 「わかった?」  柔らかな指先で、敏感な部分を嬲るように触れられる。 触れるたびに、全身が、びくびくと震える。  もがく。獣がもがく。 けれど、もがくほどに腕は軋み、管理人さんの指が速度を増す。 痛みと快感に翻弄され、狂おしいまでの悲鳴を上げる。  それは単なる痛みではなく、深い深い、狂気にも似た恐怖だった。 僕の中の獣の望みは子孫を遺すこと。 女の〈胎〉《はら》以外に、子種を吐くことは、大きな禁忌だった。  悲鳴。 獣が悲鳴を上げる。 それは、降参の悲鳴だった。  もがき苦しむ内に、管理人さんの両手が、ふい、と、離れた。 両手が自由になる。 僕は、痛む肩と肘をさすりながら、管理人さんを上目遣いに見つめた。 「さ、克綺クンは、どうしてほしいの?」  柔らかな声。 「Rrrr……」  獣がうなる。  その視線が、管理人さんの胸から腹へ落ちる。 黒い翳りに包まれた下腹部を、まじまじと見つめて、僕は唾を飲み込む。 「どうしたいのか、言ってみなさい」  獣が、喉で蠢く。 声を出そうとする。 「Krr……クァ……クァンリ……」  舌がもつれる。 僕の中の獣は、いまや人語をしゃべろうとしていた。 「クァンリニ……サン……」  もつれながらも、名を呼んだ僕の唇に、管理人さんは、そっと指で触れた。 「はい、よくできました」 「さ、きて」  両手を開いた管理人さんに、僕は、おずおずと近づいた。 両手の爪がひっこむ。 差し出された獣の手を、管理人さんの両手が優しく包んだ。 「こわく、ないからね」  獣が、手を伸ばす。 管理人さんの胸へ。 その白い肌に指先が触れる時、かすかにためらいがあった。  僕のためらい。獣のためらい。 区別なんかできない。  そのためらいを見越したように、管理人さんが、そっと手を導いた。 指と指の間に、僕は、管理人さんの肌を掴んだ。  熱い。 五本の指は、やすやすと乳房に食い込む。 僕の手は、熱いほどの温もりに包まれた。  味わったことのない柔らかさと量感。 下からもちあげるように乳房をもみしだき、指の中の熱さを堪能する。 「それだけで、いいの?」  いたずらっぽく耳元に囁かれ、僕は、指を上へ進める。 うす桃色の突起に、触れる。  親指の腹で撫ぜるように。 人差し指と中指で摘むように。 柔らかな乳房の中の、かすかな硬さを味わう内に。 桃色の先端は、ゆっくりと硬くなってゆく。 「そうよ……いいわ……」  その乳房を。 柔らかな手応えを。 甘やかな匂いを。 もっと、もっと味わいたくて。 僕らは、その胸に顔を寄せる。 「克綺クンは、甘えん坊さんね」  からかうような声に、獣が目を覚ます。 裸の胸に、僕は。獣は。 舌を這わした。  温もりに満ちたその肌は、苦い汗の味はしなかった。 もっと甘い蜜のような味。 そして、花のような香りが僕を包む。 「……ん」  あまりの甘さに、僕らは軽く歯を立てる。 管理人さんが、わずかに身をそらす。 幼子のように僕らは乳房にむしゃぶりつき、舌の先で乳頭を転がした。 「あん……は……くん…」  僕は管理人さんを抱きしめる。 脇をなぞり、ゆたかな腰をつかむ。  僕のそそり立ったものが、管理人さんの太腿に触れる。 それは揺れながら、その奥を探そうとする。  艶やかな腿の感触は、それだけで達しそうだった。 先端から透明な先走りが洩れる。  息を止めてそれをとどめ。 僕のペニスは、管理人さんの腰にぶちあたる。 一枚の下着がそれを阻んだ。  じれったさに気が狂いそうになりながら、獣が腰を振る。 それは、下着の隙間に潜り込み、柔らかな繁みが僕の先端に触れる。  その奥にいくより、一瞬はやく。  僕の根本を管理人さんが掴んだ。 二本の指は羽根のように軽く、それでいて巌のように動かなかった。 「おあずけ」  耳元で囁かれた声に、僕らは、身もだえする。 「いきなり入れたら、お行儀悪いでしょ」  獣が暴れた。 闇雲に腰を突き出そうとして、玉をぎゅっと握られる。 名状しがたい痛みに、僕も、獣も、苦痛に吼えた。 「か、管理人さん……」  僕の声が漏れた。 「あら、克綺クン、しゃべれるようになったじゃない」  そういえば。 「確かに……しゃべれはします」  そういいながらも、喉の奥から不満げな声が漏れる。 「じゃぁ、手足が自由になるまで頑張ってみて」 「わかり……ました」  そうは言ったものの、手足は動かないままで。 どうやったら自分で動かせるか見当もつかない。 「克綺クンの言う通り動いたら、御褒美をあげる」  その言葉は、僕の中の獣に囁かれた。 少しだけ。 ほんの少しだけ、身体に自由が戻る。 「僕は……どうすればいいですか?」 「そうね、まずは」  管理人さんが、いたずらっぽく笑った。 「さっきの、おいたの、お仕置きよ」  再び、僕は、根っこを掴まれ、ぐいと引っ張られた。 「……痛いです」 「我慢して。 それから、もうちょっと、こっち来て」 「……はい」  僕は、膝を立てるようにして管理人さんに近づく。   僕と管理人さんは、屹立する僕のものを挟んで向かい合う。  「元気いいわね」  「緊張で死にそうです」  「そうじゃなくて……」 「克綺クンの――」   それは確かに、その通りで。 さっきから刺激を受けた僕のものは、まっすぐ天を向いてそそり立つ勢いだ。 正直、苦しいほどだ。  「苦しくない?」  「はい」  「じゃ、楽にしてあげる」  ふわりと、管理人さんが僕によりかかる。 その柔らかな胸が。 柔らかな胸が。  僕のペニスをはさみこむ。  はじめて味わう感触に、僕は、打ち震えた。 だが。 「GYAAAHH!」  内なる獣が吠える。  僕の腕を振り回して、管理人さんを遠ざけようとする。 「あら、克綺クン、どうしたの?」  僕のペニスをはさんだまま、管理人さんは、そう言う。 「嫌がってます。いや僕が嫌がっているわけではなく、管理人さんの行為にはむしろ肯定的なのですが、僕の中に存在する魔力の塊が意志を持って……」 「ええ、わかってるわよ」  黒い血が、かつてないほどに暴れていた。 それにとって、子種を浪費することは絶対のタブーなのだ。 「だから、言ったでしょ。お仕置きだって」 「はぁ……」  そう言いながらも、僕の手は管理人さんを押しのけようと勝手に動く。 「克綺クンも、頑張って、その手を止めてみて」 「わ……わかりました」  言われて、僕は、両腕に集中する。 そう思った瞬間。 ゆっくりと。 管理人さんが動き出した。  暖かな乳房に、やわやわとはさまれたペニス。 その袋から根本から亀頭までを、すいつくような肌が、こすり上げてゆく。 腹の底からわきあがる快感が、ちりちりと首筋を灼いた。 「現在僕が置かれた状況は、集中をするのに適していないと思います」 「がんばって!」 「それは非常に困難なことと言わざるを得ません!」  獣は、狂ったように暴れ狂い、両手で管理人さんを押しのけようとしていた。 けれど、集中が難しいのは獣も同じだ。  管理人さんを突き放そうとするたび。 弾力を持った乳房はたわみ、やわやわと形を変えながら、僕のペニスのあらゆるところを吸い付くように、撫でてゆく。  そのたびに、獣の腕からは力が抜けてしまうのだった。 ペニスの先端に、こみあげるものを、僕/獣は、歯を食いしばって抑える。 「克綺クンは、別に我慢しなくてもいいのよ」  管理人さんの声に、ますます獣が猛り狂う。 「いやしかし。汚れますから」 「汚れたら洗濯してあげるわ」 「別に寝具の汚れを心配しているわけではなく、また、寝具が汚れた場合、自分で洗濯します。 ここで問題視しているのは、その、僕ら二人の位置関係的に、放出されたものが管理人さんの顔を汚す可能性であって……」 「あら、私は構わないわよ」 「僕は構います。 むしろ僕が構います。僕は管理人さんを汚したくありません」 「そう……だったら」  ちゃぷ、と、湿ったものが僕を包んだ。 濡れた唇が、僕のものを含んでいた。  あまりにも鮮やかな赤い色が脳裡に焼き付く。 くびれたところから裏筋まで、味わうように愛撫され、その先端を、つんと舐められた。 「……ちょっと待ってください。いったい何をしてるんですか?」  限界寸前。 その一瞬前に、管理人さんは、唇を離した。 銀色の糸がついと引く。 「これなら、顔は汚れないでしょ?」 「それは確かに論理的ではありますが……」 「でしょ?」  何かが違う気がする。 混乱する思考をまとめようとするが、うまくまとまらなかった。 「さ、力を抜いて」  そう言って、管理人さんは、僕の先端に口づけた。 「ふあっ……」  柔らかな、柔らかすぎる唇が、僕のペニスの先端を呑み込んだ。 「んん……ふぁぁ……ん」  ぬめ光る赤い唇が、先端を〈湿〉《しめ》してゆく。 亀頭の微妙な凹凸に吸い付き、たっぷりと唾をまぶしてゆく。  全身から力が抜けていった。 身体の芯を抑えられ、僕も。獣も。 もはや、指一本動かすことができなかった。 全身の神経がペニスに集中する。  ちゃぷ……ちゅぷ……くちゅる……  舌がなぞり、唇がこねあげる。 淫猥な音が鳴り響いた。  柔らかな乳房に僕のペニスはこねあげられ、その先端を舌がもてあそぶ。 嬲るように、鈴口を舌がつつく。 蠢く舌が、くまなく亀頭を舐める。 吸いついた唇が、くびれのところをしごきあげる。 「……あ……うぅ……」  食いしばった歯の間から声が出た。 「どう……いい?」 「いいで…す」 「そう……よかった。痛かったら、痛いっていいなさいね」  その言葉と共に、唇の動きが倍加する。 稲妻のように舌は閃き、唇はひねりをつけて吸い上げる。 過敏になったペニスは、すでにそれが痛みか快感か区別がつかず。 「ん……ちゅ……ふぁ……」  眼前の風景が溶けてゆく。 熱く濃いものが、身体の奥からこみ上げる。 それをとどめる力は僕にはなかった。 「Grrrr」  獣が悲しげな叫びを上げる。 その一言とともに、僕は……  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になる。 ほんのわずかな瞬間は、長く長く引き延ばされ、恍惚感が全てを支配した。  どくどくと、僕は液を吐き出した。   ──止まらない。 痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「んく……ん……」   一瞬の虚脱の後、僕は、その声に気づいた。 口の中一杯に、あふれそうにぶちまけたもの。 こくんと喉を鳴らして、管理人さんが呑み込む。   一心に呑み込むその姿に、僕はざわざわとした罪悪感に襲われた。 「すいません」   そう言って腰を放そうとするが、管理人さんは放さなかった。  「ちょっと待ってね。 今、綺麗にしてあげる」   唇を白く染めたものを舐め取って、管理人さんは、そう言った。 「う……」   まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になってゆく。  このままでは、僕は。 管理人さんを。管理人さんの口を。 ──〈汚〉《けが》してしまう。  その思いが、僕を動かす。 白濁したものがほとばしるよりも一瞬早く。 僕は、管理人さんの唇からペニスを引き抜いた。  結果は言うまでもないだろう。 全てを支配する恍惚感と共に。 白く濃いものが、管理人さんの顔を襲った。 どくどくと、僕は液を吐き出した。  眼鏡のレンズが、べったりと白く濁る。 白い液は、頬といい額といい管理人さんの顔一面を汚していった。  ──止まらない。 罪悪感は快感に勝てなかった。  痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「……も、もうしわけありません」  僕は、荒い息の下で、管理人さんに声をかけた。 「あら、どうかしたの?」  拍子抜けしたような声がかかる。 「いえ、その。 精液で顔を汚してしまって、すいません」 「克綺クン、こういうのが好きなのかなって、思ったんだけど……」  話す内にも、白い液が顔を伝った。 唇の脇に垂れたそれを、赤い赤い舌が舐め取る。 「違います!」 「いいのよ? 隠さなくても」 「本当に違います!」 「そうなの……」 「これを、どうぞ」  ベッド脇のウェットティッシュを渡した。 「あら、ありがと」  管理人さんが、濡れティッシュで顔を拭く。 その魔法の手が閃くと、ほんの一拭きで、魔法のように白濁液がぬぐわれてゆく。  最後に眼鏡を拭くと、もう、そこにいつもの管理人さんがいた。 「取れた?」 「ええ。綺麗です」  僕はうなずく。 「じゃぁ……今度は、克綺クンを綺麗にしてあげる」 「なんですか?」 「ここよ」  管理人さんが、僕のペニスを掴む。 「う……」  まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。 「まだ、いける? いけるわよね」  〈僕は〉《獣は》、こくりとうなずく。 「よしよし」  頭を撫でられて、僕は無上の喜びを感じる。 いや、喜びを感じたのは獣だ。  どちらだろう。 どちらでもいい。 喉をくすぐる管理人さんの指は、ただ、ひたすらに気持ちよかった。 「rrR……」  僕らは豊かな胸に頭をすりよせる。 すっかり飼い慣らされた獣が、甘えた声を出した。 「んふっ。かわいいわよ、克綺クン」  管理人さんの手が、うなじをなで下ろし、僕らは身を震わせた。 「管理人さん」  我慢ができなくなって、僕は、管理人さんの上にのしかかる。 両手を肩にかけて組み敷いた。 「あわてない、あわてない」  そう言われても。息は荒く。 「女には、女の準備があるのよ」 「では、準備をしてください」 「克綺クンも、一緒にするのよ」  管理人さんの手が、僕の手に添えられる。 僕らの手は、もはや暴れることはない。ゆっくりと、なすがままに、管理人さんの腰へ降りてゆく。  僕の指が、レースの下着に触れた。 絹の感触は、張りつめた生地の下の熱い肌とあいまって官能的な肌触りだ。 「まずはじめに、どうしたらいいか、わかる?」 「これを……外す必要があります」 「じゃぁ、ぬがして」 「はい」  僕と、僕の中の獣は、協力して、ゆっくりと管理人さんの下着に手をかける。 指がうまく動かない。 細かな動作には、未だに二人三脚のような違和感があった。  焦る獣と、それを押しとどめる僕。 なんとか指をかけ、ゆっくりと、引きずりおろす。 小さく丸まった布きれを、僕は、形のよい爪先から引き抜いた。 「あの……」 「なぁに、克綺クン?」 「見て、いいですか?」  くすりという笑い声。 「手探りでするつもりだったの?」 「選択肢としてはありえます。管理人さんが望むのであれば……」 「いいわよ。克綺クンなら」  ごくり、と、唾を飲み込む。 柔らかな繁みを、まじまじと見つめる。  繁みの奥の割れ目は、ほんのわずかに開いていた。 その奥のピンク色の襞と、まだ鞘に包まれた肉芽に、僕の目が吸い付く。 「触ります」  声に出す。出すことで、獣に分からせる。そして自分に踏ん切りをつける。 「ええ」  優しい声に後押しされて、僕は、ゆっくりと指を滑らせた。 指先が触れたものは、もう、十分すぎるほどに潤っていた。  亀裂を上から下になぞりさげてゆく。 それだけで、人差し指が糸を引き、濡れた音を立てた。 「これで、いいんですか?」  「だいじょうぶ。うまいわよ」   撫でるうちに、亀裂は優しく開き、秘奥を光の元に晒す。 艶やかな桃色は、光の中で息づき、呼吸するように蠢いていた。 感嘆の吐息が、亀裂を吹く。 「あ……ん」   優しい声に、獣が猛った。 濡れた指を伸ばし、肉芽に触れる。  「ん……ん……いいわよ、克綺クン」   僕と獣が呼吸を合わせる。 柔らかで敏感なそれを、僕らは、ゆっくりと撫でさする。 くちゅくちゅと音を立てて、僕らは愛液をなすりつける。 「は……ん……ん……」   肉芽は、次第に大きさを増し、その莢から顔を出す。 真っ赤に充血した肉芽に軽く触れる。  「あんっ……」   嬌声は悲鳴にも似て。 管理人さんがびくりと動く。 僕の指が、怯えて止まった。 その手に、管理人さんの手が重ねられた。 「いいのよ、大丈夫」  「はい……」   再び指が肉芽に触れる。 愛液に濡れたそれを二本の指で僕はなぞった。  「よく……できました」   声に、甘い喘ぎが混ざる。 「もっと、奥に……おねがい……」  「はい」   僕の指は、ゆっくりと亀裂の奥をさぐる。 待ちかねていたように、秘奥は指先を呑み込んだ。 暖かな肉がまとわりつく。 それは僕を奥へ奥へと誘った。 「そうよ。そのまま……かきまぜて」   二本の指を奥へ突き入れる。 ひらひらと指を振る。 くるくると指を回す。 ぴちゃぴちゃと指が音を立てる。   二本の指が動くほどに、亀裂はすぼまり、また、広がり、そのたびに洩れる声は、僕の血を熱くした。 「もっと……もっと、乱暴でいいのよ、克綺クン」   その声にうながされ、僕は指を早め、左手で、肉芽に触れる。  「あ……ううんっ……」   悲鳴のような声。 けれど、僕はもう、それが悲鳴でないとわかっていた。 二本の指を曲げ、また、伸ばす。 肉芽を撫ぜあげては、軽く弾く。 その挙げ句。 「くぅんっんんっ……!」   童女のような声をあげて、管理人さんの全身が震えた。 二本の指に震えが伝わる。 指は、亀裂の中で、大きく締め付けられた。   震えが静まるのを待って、僕は、二本の指を引き抜いた。 ぴちゃり、と、音を立てて、シーツに雫がこぼれた。 つい、と、指先を舐める。 管理人さんの愛液は蜜のように甘く、指を口に含むと、かすかに花の香りがした。 「克綺クン?」   潤んだ目が僕を見る。  「はい」  「準備はいいわよ」  「僕も、準備はできています」  「そう? まだ、身体が堅いわよ」  「緊張していますから」  管理人さんが僕の首を抱いた。 ゆっくりとひきよせられる。 甘い吐息を顔全体に感じながら、僕は管理人さんと唇を重ねた。  息もできないほど濃厚なキス。 このうえなく柔らかな舌に、僕は翻弄された。 管理人さんの舌は、僕の歯を割って入り、縮こまった僕の舌を弄ぶ。  甘い唾液が流し込まれ、僕の頭が、ぼうっとする。 舌が舌をねぶる。絞る。こねあげる。  僕の舌は僕の中でとろけて、甘い蜜に変わったようだった。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  ようやく唇が離れた時、銀色の糸が二人の間をつないでいた。 僕は荒い息をつく。 鼻息が管理人さんにかかる。 「力は、抜けた?」  管理人さんは、息一つ乱さずに、そう言った。 「は……い……」 「それじゃぁ……来て」 「行きます」  律儀に僕は答える。 声が、震えていた。  胸の鼓動は、獣だけのものではなかった。 この期に及んで、というべきか。 僕は、この状況が信じられなかった。 「まだ、恐い?」 「……はい」  なんだろう、この違和感は。  毎朝会って。 一緒にご飯を食べて。 これからもずっと一緒にいる。 僕の母親みたいな人。  この人と。僕は。今から。 ──交わる。 「じゃ、手を握っていてあげる」  暖かな手は、本当に母親のようで。 目を瞑ると。  感触の想い出が母親のものに重なった。 僕は、自分の意志で、管理人さんを突き放した。 「だめです。できません」 「……どうしたの? 克綺クン」  優しい声は、罪悪感を増した。 「だめなんです。 その……母さんと、しているみたいで」 「お母さんと?」 「僕は……母さんのことは、覚えていないんですが」  あの事故。 父と母を奪ったあの事故より以前の記憶は。 僕の中で、薄闇のように朧になっている。 「管理人さんには……毎朝、ご飯を作ってもらって。恵も一緒に世話してもらって。 考えれば考えるほど、母さんみたいで……。 もしも、母さんが生きていたら……きっと管理人さんみたいな感じで」  なぜだか、涙が出た。 なんの涙だろう。 「非論理的ですね。もうしわけありません」 「だいじょうぶ。克綺クンの言うことは分かるわよ。 とっても光栄だわ」  管理人さんの声が、優しく響く。 「光栄、なんですか?」 「私なんて、たいした世話はしてないんだもの。 克綺クンのお母さんに悪いわ」 「そうですか」 「本当に嫌ならいいけど……」  管理人さんは、僕の腰に視線を落とす。 僕の心は、目の前の人を母親だと思っているのに。 僕のものは、恥ずかしげもなく、そそり立っていた。 「慰めになるかどうかわからないけど……身体って意外と正直よ」 「そうなんでしょうか。 でも、僕は管理人さんが……母さんとしか思えないんです」 「そうねぇ」  管理人さんが考え込む。 「ね。克綺クンが、私のことをお母さんとしか思えないなら……お母さんに、甘えるつもりでしてみたらどうかしら?」 「え?」  声が裏返った。 と同時に、僕のものが、そそり立つのが分かった。 「気にすることないわよ。 昔から、英雄は、お母さんを〈娶〉《めと》るものだし」 「いや、確かに、そういう神話もありますが……」 「だいたい、この国だって、ちょっと前まで、そんな細かいこと気にしてなかったじゃない」 「ちょっと前って、管理人さん、いつの生まれですか!」 「女の人に、歳とか聞かない」 「はぁ」 「そもそも克綺クンにとって、近親相姦が、いけない理由ってなに?」  近親相姦。 管理人さんの口から出た言葉に、僕はぞくぞくした。 その声の響きを反芻する。 「生物学的には、遺伝子のバリエーションを広げるためです」 「そうなの?」 「はい。近親者同士は近い遺伝子を持っているので、その交配が続くと、遺伝子が均一化する。 そうすると、例えば、みんなが同じ病気にかかりやすくなったりしますから、絶滅しやすくなる」 「なるほどねぇ。 絶滅したら困るけど、たまにはいいんじゃない?」 「そうもいきません。 どんな健康な人間の遺伝子にも、致死遺伝子や、様々な深刻な病気や障害をもたらす遺伝子が、劣性遺伝の形で含まれています。 劣勢遺伝ですから、同じ遺伝子と出会わない限り発現しませんが、近親婚の場合は、発現しやすい。 そういうこともあって、近親婚を避ける文化が発達したのでしょう」 「ふぅん。克綺クンは、物知りねぇ」 「生物の授業を、真面目に聞いているだけです」 「じゃぁ、真面目な克綺クンに質問なんだけど」 「はい」 「それって、私と克綺クンに、関係あるの?」 「……」  僕は、しばらく考えた。 「ないですね」  そもそも僕と管理人さんに血縁関係はないわけだから、近親相姦ではない。 「しいていうなら、心理的な抵抗感というか……」 「心理的な抵抗感ねぇ……」  管理人さんの視線が、僕のものに熱く注がれる。 男性の生理は、心理に依存するというが……だとすれば、僕は、これ以上ないくらい「母親」に欲情している。 「母親に欲情するのは変態性欲の一種ですが……」 「それって、悪いことなの?」 「いえ。文化があれば逸脱するのも人間の習性です。 変態性欲にも、それはそれで、長い歴史と伝統もあります。 他人に迷惑をかけない限り、通常の異性愛以外の性欲を否定することは、狭量に過ぎるでしょう」 「つまり……問題はないわけね」 「……そうですね」  自分で自分を論破してしまった僕は、頭をかいた。 「それに……だいぶ身体も動くようになったみたいだけど」 「はい」 「克綺クンの中の魔力を鎮めてあげないとね」 「……そうでした」  僕は、改めて認識する。 管理人さんが、僕を受け入れているのは、僕の窮状を救うためだ。  それというのも、僕が、あの時、人魚の血を浴びたから。 つまり、管理人さんに付いていくと主張したからの自業自得に過ぎない。 「そんな顔しないで」 「はい」  僕は、荒い息を鎮める。 猛り立つペニスのことを一時忘れる。 確かめなければいけない。 「僕は……管理人さんを抱きたいと思っています」 「なぁに、それ?」 「ここにこうしている元々の理由は、身体にたまった魔力を抑えるためですが……それだけじゃないということです」  僕は、自分で言って顔をしかめた。 これは偽善だ。こんなことでもなければ、僕は管理人さんを抱こうとは思わなかっただろうし、今、言うのは、後付けの屁理屈だ。  だけど。 だからって。 言わずに済ませることは。 管理人さんの好意に一方的に甘えることは、それはそれで不誠実だと思う。 「わかったわ」 「教えてください。 管理人さんは、僕のことをどう思っていますか?」 「克綺クンのこと? 可愛い息子みたいに思ってるわよ。迷惑かな?」 「いえ。嬉しいです。 それで……管理人さんは、僕を抱くことをどう思っていますか? 無論、僕は、管理人さんに抱いてもらわなくては困るのですが、もし、それが理由で仕方なくしているのであれば、そのことについて知っておきたいと……」 「あぁ、もう……克綺クンったら!」  管理人さんは、僕のことを抱きしめた。胸に顔が埋まり、僕は目を白黒させる。 「嫌いなわけないじゃない」  優しく穏やかな声に、僕は、安らぐ。 それと同時に、熱いものが股間にみなぎる。 母親に欲情することが変態なら、僕は変態なのだろう。 心の底からそう思う。 「はい」  よかった。僕は、素直にそう思う。 「だいたい、克綺クンは、理屈がすぎるのよ。 子供なんだから、もっとこう……素直になりなさい」 「素直、ですか?」 「そう、素直よ。 克綺クンは、私としたいの、したくないの、どっち?」 「はい。したいです」 「元気でよろしい! 私も克綺クンとしたいわ。何か問題は?」 「ありません!」 「何かリクエストは?」 「え……あの」  予想外の質問に、僕は、一瞬うろたえた。 「手を……握っていてください」  母さんみたいに、という言葉を僕はのみこんだ。 けれど、いたずらっぽく笑う管理人さんを見れば、そんなことはお見通しのようだ。 「いいわよ……握っててあげる」  管理人さんの手が、僕の右手をそっと包む。 僕の身体から、強ばりが、ゆっくりと抜けていくのがわかる。 「他には?」 「ありません!」 「ないわね! よし!」  ぽん、と、背中を叩かれる。 僕の中の何かが、それで、吹っ切れた。 「行きます!」  その一言で、僕は、管理人さんに挑みかかった。  ペニスの先が、亀裂を探す。 あせったそれが肉芽を弾き、僕の腕の下で管理人さんが、かすかに身をそらす。 「落ち着いて、ゆっくりね」 「はい」  重ねた右手が、力づけるように僕を握る。 それは僕の支えとなった。 ゆっくりと、ゆっくりと腰を動かす。  最後に管理人さんが、わずかに動くと、僕の先端は、ようやく割れ目に巡り会った。 つぷつぷと亀頭が沈む。 「う……ん……そう、そこよ……」  かぎりなく柔らかで、それでいて、くいくいと締め付ける柔肉。 僕は、触れただけで達しそうになった。 「くっ……」 「はい、深呼吸して」  柔肉の動きが止まる。 僕は亀頭の先に暖かな感触を味わいながら、大きく息を吸って、吐く。 「入ります」 「どうぞ」  どこか間抜けなやりとりとともに、僕は腰を進めた。  管理人さんの中は、熱く潤っていた。 ゆっくりと、ゆっくりと、僕は身体を沈めてゆく。 じわじわと這い上がる快感をこらえながら、爆発物を扱うように。  ゆっくりと、ゆっくりと。 僕はペニスを埋める。 その先が、こつんと奥にぶつかった。 「あ……ん……」  僕の下で管理人さんの身体がさざ波のように揺れる。 組んだ右手に、かすかに力を感じた。 二人がつながったということ。 その事実を前に、僕はしばし呆ける。 「どう、気分は?」  管理人さんの言葉に、僕は、自分を取り戻す。 つながっている。 その事実が、ゆっくりと身体に染み通る。 「克綺クンは、お母さんと、したかったんでしょ?」  からかうような声に、僕のものが、さらに硬くなる。 「……そうです」  僕の背を抱きしめる腕。 握った手と手。  目をつぶれば、母さんに抱かれている様がたやすく想像できて。 そして僕と母さんはつながっていて。 ぞくぞくするような背徳感が背筋を走る。 「お母さんは、こんなことしてくれた?」  ゆっくりと、管理人さんの腰が動き始める。  ぴちゅ。くちゅり。 淫猥な音が響き渡る。 限りなく柔らかなものが、繰り返し、繰り返し、僕を締め付ける。  快感は全身に満ちて。 気が付けば、僕は。 獣のように腰を振っていた。 「うん……はん……んんっ……あぁんっ」  ぎこちない動きは、やがて、なめらかになり。 リズムはゆっくりと一致する。  がんがんと胸を打つ鼓動。 管理人さんの喘ぐ声。 ぴちゃぴちゃと音を立ててこすれ合う粘膜の響き。 すべては溶け合ってゆく。  快感が、容赦なくつきあげる。 何度となく僕を打つ快感は、時計の秒針のように精確で。 僕は、その快感の虜となる。 「管理人……さん」  うわごとのように、その名を呼ぶ。 「なぁに……あん……克綺……クン」 「そろそろ……射精しそうです」 「いいわよ……ん……来て……」 「今、思いついたんですが……」 「なぁに?」 「その、避妊の問題は……」  ちなみに避妊を考えるなら、入れている時点で問題である。 膣内射精を行わなくても、微量の精子は洩れており、それによって受胎する可能性も存在する。  とはいえまぁ、思いつかなかったのだから、仕方ない。 管理人さんが、僕を、ぎゅっと抱き寄せる。 急に角度の変わったペニスが、膣の中で暴れた。 それだけで漏れそうになり、僕は息が詰まる。 「心配しなくていいわよ」  耳元で管理人さんが囁く。 「それは、どのように心配の必要がないのですか?」  僕も囁き返す。 「克綺クンは、ほんとに考えすぎなんだから」 「そこがいいところなのだけど……考えないほうがうまくいくこともあるのよ」 「考えないこと、というのが……うっうまくできないんです」 「そうねぇ。じゃぁ、考えられなくしてあげる」 「え?」  身体が密着したまま、再び腰が動き始める。 胸と胸が触れあう。 柔らかな乳房がつぶれ、硬く立った乳首が僕の胸をなであげる。  腰と胸。 加えるに、背。 管理人さんの指が、僕の背中をなでていた。  新たな刺激に脳が沸騰する。 三つの刺激が、それぞれ違ったリズムで僕を責め立てる。 指は、背を降りて、腰に達し、やわやわと指に尻を撫でられる。 「管理人……さん!?」  腰は僕のものを、根本からくびれから先端まで、絞り上げるように蠢き、管理人さんの乳首が僕の裸の胸に、くるくると円を描く。 その傍らでは、淫蕩な指が僕の尻を責め立てる。  三つの違ったリズムに、身体が沸騰する。 雨のように降り注ぐ鋭く、強い刺激。  刺激の合間の、産毛だけをさわさわと撫でられるような。 〈隔靴掻痒〉《かっかそうよう》の快感。  その両方が、溶け合い、高めあい。 思いの全てを快感が占め。 思考という思考が奪われてゆく。  管理人さんの、指が乳房が性器が。 それが触れているところが僕であり、その僕は真っ白に塗りつぶされてゆく。  指が。 彼女の指が、僕の尻をかきわけ、その奥の、すぼまりに、するりと潜り込む。  それが、とどめだった。 「くぅっ……!」  全身が痙攣する。 僕という僕の、そのすべてが絞り尽くされる。 熱く、激しく、雄々しく。 僕は、僕の全てを放っていた。  どくどくと、それは音を立てて流れ込んだ。 それは管理人さんの〈膣内〉《なか》を満たし、そして、あふれだす。  長い長い一瞬の後、全てを吐き出し終え、どっと、全身から力が抜けた。 汗みずくの身体が管理人さんによりかかると、結合部から、どろりと濃いものがあふれた。  唇を奪う。 初めは、強張った唇が阻んだ。 本当にいいのか、問いかけてくるようだった。  僕は、迷わなかった。 僕はずっと、ずっと、彼女が好きだった。 愛していた。  ただ、それに気づくのが、遅れただけ。 認めるのに、躊躇しただけ。  やがてこわごわと唇が開く。 僕は舌を入れる。 深く、深く。  堅かった管理人さんが、徐々に、解れていく。 星空の下に、ふたりのシルエットが、溶けた。  管理人さんは、それまでの抑圧から解き放たれるように、僕を求めた。 触れ合う肌からは、もう歯車のきしみなんて聞こえない。 ただ、全身を包む情熱の波に、身を任せた。  長い、長い。 そのまま、夜が明けてしまうのではないかと思うほど長い、口づけが終わる。  少し、調子を取り戻したかのように、管理人さんははにかんで笑った。 その片手は、抱き合った僕の胸の下――堅くなった膨らみに、添えられた。 「これも、克綺クンの意志かしら?」 「人間は、非常に不自由にできていると結論せざるを得ません!」 「だからこそ、人間でしょう?」 「しかし、それを行使するのは意志です。 ――管理人さんも、同様の意志を持ってくれることを期待しています」  宣言して、僕は、管理人さんを押し倒す。 覆い被されて、彼女は抵抗しない。 横顔が、静かに星空を見上げる。  唇が、微かに動いた。 「ありがと、ね」 「なにが、ですか?」 「ううん、なんでもないの」 「……ねぇ、克綺クン」 「はい、なんでしょうか?」 「おねがい、ね?」  そう言って、管理人さんは自ら、僕の手を導いた。  僕は覆い被さり、再び唇を重ねる。 僕と管理人さんが、近づく。 もっと近く、本当の彼女が知りたい、そう願う。  薄暗がりの中、管理人さんの身体に触れる。 手探りでそっと、彼女の敏感な部分を撫でた。 「ん……ん、ん」  唇を重ねたまま、管理人さんが声を漏らす。 彼女の吐息が、直に伝わってくる。  僕は、そっと指を動かす。 全体をなぞり、焦らすように、軽く、円を描く。 それから、わずかな突起に指を添えた。  唇を離して、管理人さんは僕に微笑みを向けた。 「あは、ん……克綺クン、いいわよ。この間より、上手くなってる」 「ありがとうございます」  徐々に、指の動きを強く。 緩急をつけ、強弱をつけ、管理人さんの身体が揺れる。 動きに同調し、豊満な胸がゆさゆさと波打った。  僕は乳飲み子のよう、胸に頬をなすりつける。 獣のように、口だけでむしゃぶりつく。  吸い付き、口いっぱいに頬張り、突起した乳首を舐め回す。 指で激しくこすり上げながら、僕は胸の突起を歯で挟む。 「ん、あ、それ――あ、んんんっ!」  管理人さんの身体が、大きく震える。 蜜が溢れ出し、止まらない。 僕の指は、管理人さんの視線に導かれるよう、襞が蠢く奥へ。  前回のような、躊躇はない。 突っ込んだ二本の指を、遠慮なく掻き回す。 「これは、どうですか?」 「いいわよ、ん――もっと、もっと、ね?」  微笑み。 僕の瞳を見つめたまま、首がわずかに傾いだ。  全身を、震えが襲う。 堪らず、胸に口づけた。  大きく波打っていた乳房は、揺れが徐々に細かくなる。  欲望をたたきつけるように、腕の疲れも忘れるほどに。 温かな管理人さんのなかを、僕は刺激する。 指をねじ込み、ぐちゃぐちゃに前後させる。 「すごい、んん、克綺クン、私、いつもと――ふぁっ、んん!」  止まらない。 さらに激しく掻き回す。 刻みは早く、さらに強く。  管理人さんが、目を細めていく。 身体が、緊張に強張っていく。 一気に駆け上がっていくのがわかる。  僕を求めて、襞が指に絡みつき、締め上げ、限界まですぼまった。  掻き回され。 星空を見上げながら。 彼女はひとつ、ふたつ、大きく息をついて。 「ふあっ、んぁっ、ん、くぅんんんん!!」  乳房の揺れが急激に収まり、管理人さんの身体が弓なりに反った。 二度三度、びくんと身体が痙攣して、天を突く乳房が揺れる。 髪が跳ね、小さく揺れた。  拳は強く額に押し当てられ、その目は星の光さえまぶしいかのごとく、細められている。  僕は、そっと指を抜き出し、仰け反った彼女を正面から見据える。 「はぁ……はぁ……んくっ、はぁ……はぁ……」  胸が激しく上下して、聞いている方が切なくなるほど、か細い呼吸が繰り返される。 息をのむその仕草が、あまりに愛おしくて、僕は堪らず唇を重ねた。 「はぁ、はぁん、んんん……」  収まらない管理人さんの息が僕の耳元をくすぐる。 僕らは深く、長く、お互いを確かめ合う。  ゆっくりと唇を離して、管理人さんは優しく僕の頬を撫でてくれる。 真正面から見つめられて、僕はなんだか急に気恥ずかしくなってしまう。  「ね、克綺クン。急にどうしちゃったの?」  「……質問の意味が、わかりかねます」  「恋人さんでもできちゃった? まさか恵ちゃんなんてことは――?」  「だから、なんの話ですか?」 「いや、だって克綺クン、急にうまくなったから……誰かで経験を積んだでしょ?」  「まさか! 僕が恵と性交渉を持つと思いますか?」  「近親相姦は否定しないんでしょ?」  「僕は理知ある人間です。 少なくとも、妹への自制心を保つ程度には!」  「お母さんが相手だったら?」  管理人さんはそう言って、四つんばいになる。  クッションに肘をつくと、髪をかき上げ振り返った。   片腕で、ゆっくりとビキニを押し下げる。 濡れた秘裂が、待ち受けていた。 突きつけられた彼女の尻が、突き出されている。   僕の身体を、衝動が突き動かした。 巻き上がる芳香をいっぱいに吸い込んで、入り口に押し当てた。 「お母さんだからじゃ、ありません」   ひくり、と伝わる彼女の感触。 僕は大きく息を吸い込む。  「管理人さん、だからです」  一気に、貫いた。 「――ぁっ!」 「僕は、管理人さんだから、自制できないんです!」  打ち付ける。 両腕で腰を掴み、勢いよく貫く。 潤った襞が絡みつく。 きつく激しく締め付ける。  燃えるように熱い。 一度突き立てるだけで、気が遠くなりそうになる。 「あっ、んん、あぁっ!」  管理人さんは、上体を支え続けることができない。  押しつぶされるように、クッションの上に突っ伏した。  僕が前後するたびに、人形のように全身が揺れる。 押しつぶされた乳房が震える。 「んあっ、んん――ありがとう、ね。私も、克綺クンだから――んはぁっ!」  管理人さんの言葉が、僕の動きを加速させる。 芯から沸き上がる衝動を、叩きつける。 ねじ込むように、何度も、何度も、僕は出し入れする。  身体と身体がぶつかり合い、乾いた音を立てる。 管理人さんはなすがまま、上体を持ち上げることすらできない。  僕は、彼女を貫く。 彼女と溶け合うために。 もっと近く、もっと確かに。 「んっ、すご――すごい、ああっ、なんだか、変、だわ」 「変? なにが、ですか?」  管理人さんの刺激は、あまりに強すぎた。 そのまま動き続ければ、すぐに果てていたかもしれない。 身体の動きを緩めながら、僕は管理人さんの言葉に耳を傾ける。  だが、穏やかな動きだというのに、彼女の興奮はどんどんと高まっていく。 肉壁が、僕の動きを強要する。 管理人さんは顔をクッションに押しつけたまま、混乱したように言葉を紡いだ。 「うん、あのね、普段は、こうじゃ、ないの」 「料理の話、したでしょ?」 「味が、わからないという?」 「そう。私、それと同じで、感じないの。 肉体的な快感が、なかったの」  管理人さんの告白に、突然目の前が眩む。  今まで身体を重ねながら、管理人さんは僕と気持ちまでも繋がっているような気がしていた。 彼女の感情も、全て、手に取るようにわかる。 そう、錯覚していた。  けれどもそれは、単なる僕の思いこみだったのか? 「ごめんなさい。でも、本当、なの」  管理人さんは、身体の動きを止めながら、申し訳なさそうに口を開く。 「相手の気持ちよさそうな顔を見て、それに合わせて、自分もうれしくなってた、そんな感じ」 「そんな……。じゃあ今までの素振りもみんな、長年の経験から導き出した演技なんですか?」 「でも、今は違う」  管理人さんが振り返る。 悲愴な横顔に、僕は息を飲んだ。 「私の身体、以前と変わってきてるのかもしれない。 さっきも突然、自制が効かなくなっちゃって――」  確かに、管理人さんの反応は度を越えていた。 彼女の中で、何かが変わりつつあるのかもしれない。 「今更、こんなことを言っても許してなんかくれないかもしれない。 でも……ちゃんと、謝っておきたくて」 「克綺クン、騙してしまって、本当にごめんなさい」 「管理人さんは酷いひとです」  ――今までの彼女の行動が、単なる演技だった。  僕が管理人さんと同じ感覚を共有していなかったのはショックだ。 騙されていた。 そんな感想を持たないと言えば、嘘になる。  だが、だからといって、誰が管理人さんを責められるだろう。  彼女は僕の想いに応えるため、自分のできることをやった。 僕を喜ばせるために、自らを偽った。  一度騙すことができたなら、彼女は過去の罪を隠しておくこともできたはずだ。 過去のことなど素知らぬふりをして、新たな感情に身を任せることもできたはずだ。  けれども、管理人さんは、真実を告げた。 隠し事などできなかった。 同じ感覚を共有したいと願った。 僕のことを信じ、真実を告げてくれたのだ。 「だから、僕は管理人さんのことを許しません」  静かに告げると、管理人さんの表情が曇る。  僕の熱は、一息ついている。 今なら、思う存分、彼女を突き動かせる。 「今まで僕が受け取った分も、気持ちよくなってもらいます」 「え――あッ!」  きょとん、とした表情の管理人さんを、僕は再び貫く。 声を裏返して、彼女の身体が硬直する。 「はぁ、ん! そんな、克綺クン――」 「反論は許しません」  深く、押し込んで。 管理人さんは、顔を崩す。  身体がよじれる。  二度、三度。 突き立てるに、管理人さんの髪が大きく跳ねる。 ぶつかり合う肌に、じっとりと汗が滲む。  戸惑いがちだった管理人さんの身体が、僕を受け入れはじめる。 強く抱きとめるように、僕をしっかり包み込む。  僕は、彼女と、共有したいのだ。 演技ではなく、本物の感情を。 今、ここで、一緒に生きている、その実感を。 「ふぁ、ん――あっ! すごい、また――」  自ら大きく腰を押しつける。 動きに合わせるように、さらに深く。 絞り上げるような快感に、僕は動きが止まらない。 リズムは速まり、狂い、歯を食いしばって堪える。 「あぁっ! んん――ねぇ、克綺クン」 「は、はい。なんでしょう、管理人さん」 「最後は、ちゃんと、あたしの顔を見て、ね?」  管理人さんは、そう言って手を差し出した。 僕は、その細い指に指を絡めると、彼女の身体をゆっくり抱き上げる。  正面から向き合って、管理人さんは僕にしなだれかかった。 背中の後ろで、腕がぎゅっと結ばれたのがわかる。 僕もお返しのよう、彼女の背中に手を回す。  管理人さんの乳房が、僕の胸元に押しつけられた。 ピンと尖ったその先端が、肌をくすぐる。  わずかに漏れる吐息を感じながら、彼女の身体をしっかりと離さない。 お互いに顔を見据え、無言でひとつ、頷きあってから。 管理人さんの身体を突き上げた。 「ぁぅんっ」  管理人さんの途切れそうな声。 切なげに細められるその瞳がさらに促す。  僕はリズムを刻む。 初めから激しく、思い切り彼女を貫く。 「ふぁっ、んっ、んぁっ、んっ!」  管理人さんは、大きく身体を上下させる。 身体を引き寄せ、細かく腰を揺り動かす。 腕の中で、乳房が踊った。 長髪が星空に舞い、腕が背中を必死に掴む。  管理人さんは、前傾気味に身体を丸める。 決して僕から離れないように。  間近に感じる心臓の鼓動。 誰よりも近い息づかい。 僕は突き上げながら、彼女の唇を求める。 「ふぁっ、んっ、ん――!」  細められた瞳で、正面から唇を重ね。  管理人さんの動きが、変わった。 動きが止まらない。 蠕動する彼女の中に、僕は一気に理性を失う。  全身を、電流が走り抜けたような衝撃が襲った。 心臓が跳ね上がる。 目の前が白くなる。  こんな感情は、想像したこともなかった。 あまりの快感の洪水に、僕は一瞬、自分の正気を失う。 だが次の瞬間には、その疑問も押し寄せるそれに、押し流されてしまう。  感じるのは、管理人さんの感触だけ。 誰よりも近く、誰よりも確かに。 「んぁっ、んん――もっと、ね、もっと!」 「だめ、です。そんなにされたら、すぐに――」 「ぁんっ、んぁっ、克綺クン、私も、あはっ、んっ、ん――!!」  耳元で、管理人さんの声が聞こえる。 それしか聞こえない。  突き上げる。 強く、強く。 彼女が導くままに。  ただひたすら、彼女の身体を抱きしめる。  どこからどこまでが、自分の身体かすらもわからないまま。 背中に回した腕を、思い切り引きつけて。 管理人さんの中に、僕の全てを注ぎ込む。 「ふあっ、んぁっ、んん、ん――!」  微かに震える、管理人さんの声。 緩やかに反る、彼女の身体。 肉壁が締め付け、僕の精が搾り取られる。  身体を満たす絶頂感に、息もつけない。 視界が狭まり、それでも懸命に意識をとどめようと、愛しい人の顔に意識を集中させる。  真正面から見つめる管理人さんの瞳は、それでも、まだ強く求めていて。 「あっ、すごいよ、ね、克綺クン、もっと、もっと、ね?」  管理人さんは、動きをやめていなかった。 軽く身体を硬直させてから、さらに強く身体を押しつけた。  どくん、どくんと、まだ震えの収まらないそれを、離さない。 貪欲に、吸い付く。  瞬く間、僕の中に新たな火がともる。 ありったけを注ぎ込んだはずの僕は、再び堅く彼女を貫いていた。 「ん、管理人、さん……」  僕は、上の空で呟いた。 あまりの快感に、視界が遠く、魂が浮いているように思う。  そんな僕を押し止めるよう、管理人さんの唇が僕を優しく撫でて。 休む間もなく、衝動に身体が突き動いた。 僕は堅く、二度と離さないように管理人さんを抱きしめた。  先ほど射精したばかりだというのに、僕のペニスは屹立している。 欲望を吐き出す機会を、今か今かと待ちわびている。 誘われるがまま、管理人さんの動きに合わせて、動く。 「あはっ、ん――あっ、あっ、あっ!」  彼女の動きは止まらない。  真っ白な世界で踊る。 遠くに星空が見える。 柔らかな胸が揺れる。 汗ばんだ肌が星々に光る。 潤んだ瞳が、一滴残らず僕を吸い尽くしたいと求めている。  僕は抵抗できない。 身体を走る快感に、抵抗など考えられない。 もっと近づいて、もっと混じり合って、溶けてしまいたい。  限界を超えた快感に促され、痛いほどに。 心臓が喉から飛び出してしまうような錯覚。  僕は管理人さんの顔を、正面から見据える。 彼女も、僕も、限界は目の前だった。 「克綺クン。私、また、おかしくなっちゃう!」 「管理人さん。僕も、また――」 「いいわよ、んぁっ、それじゃあ、一緒に――んぁっ!」  全身が総毛立ち、管理人さんの身体が触れるだけで吐息が漏れる。 身体を合わせ、これほど近くに息をしている。 ただそれだけで、歓喜に身体が震える。  全てが、遠く消えていく世界のなかで。 強く抱きしめる彼女の感触だけが確かだった。 僕らは同時に、絶頂を駆け上がる。 「ふあっ、またきたっ、んっ――んあはっ!」  時間が引き延ばされ、逆回しになり、ついには途切れる。 お互いに身体を引きつけ、腕が痛いほどに抱きしめ合う。 繭のように、白く、まるく、そして――。 「あは、ん、ふわ、あっ、んっ、んんん――っ!」  管理人さんを、誰よりも近く感じながら、僕は再び果てる。 僕の中が空になるまで、ありったけの力を彼女に注ぎ込む。 身体が仰け反り、芯が痺れた。  痙攣する管理人さんの膣で、僕のペニスが震えている。 全てを注ぎ込むよう、何度も。 「克綺クン、いっぱい……」  潤んだ瞳でそう囁いて、管理人さんは僕に倒れかかる。 荒い吐息を重ねるように、唇が触れる。 ピンと突き出した乳首が、胸にこすれてくすぐったい。  だが僕は、管理人さんのなすがまま、抱きしめられている。 優しく、暖かい、彼女の心音を聞いている。 いつまでもずっと、ずっとこうしていたい。 「ねえ、克綺クン?」 「は、はい、なんでしょう?」  呼びかけられて、僕の身体が現実に引き戻される。 けれどもまだ頭のどこかが、向こうの世界に置き去りにされたままだ。 「ふふっ。やっぱり、克綺クンって、かわいい」  脈絡もなく発せられた言葉に、僕はしばし呆然とする。 「そう、なんですか?」 「そうなのよ」  管理人さんは立ち上がり、頭を抱えるようにして、僕の身体を抱きしめる。 柔らかな胸が、僕の身体に押しつけられた。  ドクン、ドクンと刻む心臓の鼓動。  柔らかな――懐かしい感触に包まれて、僕はしばらく言葉もない。 ただ感触を確かめながら、緩やかな夜風に身を任す。  星空の下、僕はいつまでも、管理人さんの鼓動を感じていた。 「恵」   恵の濡れた瞳。 そこに見えたのは、まぎれもない女としての姿だった。  「恵、恵、めぐみ!」   僕の中の僕が、僕と一つになる。 抱きしめる腕に感覚が戻る。 恵の素肌を僕はやさしく指で、包む。 「おにいちゃん……」   溜息のような声。 恵の腕が僕の首を抱く。  「すまない。 僕は……恵が、欲しい」  「いいよ、お兄ちゃん」   くすり、と、恵が笑う。 見たことのない、大人びた笑み。 それが背筋をくすぐった。 その場で押し倒しそうになる自分を自制する。 「二階へ……」  「ここで、いいよ」   恵の手が僕を押しとどめた。  「なに?」  「ここで……床でしてよ」   意味が分からない。 何を言っている。 恵が変だ。  混乱する僕に、恵は自ら口づけた。 息がつまり、気が遠くなるほどのキス。   糸を引いて唇が離れた時、僕は、前にも増して呆然としていた。 「どうしたんだ?」   そんな間抜けな言葉しか、出てこなかった。  「あのね」   恵が囁く。  「私も、ずっと、お兄ちゃんが、欲しかったんだよ」  「ずっと?」  ずっと。ずっと。 そういえば、そうだ。 僕も、ずっと、恵が欲しかった。   あれは、いつのことだっただろう。 多分、あの時。 僕が心臓を無くした時。 その時から、ずっと、恵が欲しかった。 いや違う。 欲しいのは僕じゃない。 僕は欲しいなんて思っていない。  恵が僕の手を取って、胸に導く。 まだ未熟な胸は、掌で包み込めるほど。 ふっくらとした膨らみの奥に、僕は、鼓動を感じた。   とく、とく、とく。   鼓動は優しく暖かく、そして速かった。 「これはね、私が、お兄ちゃんを大好きな音だよ」  「僕には……心臓が、ない」   ないはずの心臓は、今や胸の中で大きく脈打っている。  「なら、私のをかえしてあげる」  恵は僕を抱きしめる。 胸が重なり、小さな心臓の響きが僕の中に響き合う。 それは、本当に安らかな音色で。 僕は、その鼓動が愛しかった。   僕は身を放して恵の瞳をのぞきこむ。 そして、その胸にゆっくりと手を伸ばす。   手が、止められた。 恵の両手が僕を遮る。 「好きって言って」  「好きだ、恵」  「……お兄ちゃん」  右手を一振りすると、ワンピースの前が一直線に裂けた。 恵が身をよじって下着を脱ぎ捨てる。   かすかに上気した白い肌。 現れた小ぶりな胸は、小さく柔らかく、むしゃぶりつきたいほどに愛おしかった。 「ほんとうに……いいのか?」  「いいよ、お兄ちゃん」   それが、最後の一押しだった。 僕と恵を隔てる全てのものが、それで、消えた。   だから、僕は。 恵を。     ああ、月が綺麗だ。 夜風は冷たく、火照った身体に心地よかった。 ただ、少し乾きすぎていた。 身体は十分に湿っていたが、早く水を見つけないといけない。   月明かりを浴びながら、僕は道を歩いた。 水の匂いを頼りに、跳ぶように歩いた。   満ち足りていた。 飢えも渇きもない。 ただ心地よい疲労感だけがある。    「ふふ」   わけもなく、おかしくなって、僕は笑う。 とてもおかしくて、腹のそこから笑いがこみあげた。 わらって。 わらって。 わらってわらってわらって。 なみだがでるまでわらう。  気が付けば、河原だった。 コンクリの岸辺に、僕は膝を付く。 「どうした?」  聞き慣れない声が、うしろからかかった。 僕は振り向きもせずに答える。 「おかしいんだ。とっても、おかしいんだ」 「おかしいと、泣くのか?」 「ああ」 「なにが、おかしいんだ?」 「だって。僕は」  ぼくはあんなにめぐみがすきだったのに。 すきだったのに。 すきだったから。 「妹がいたんだ」 「ほう」 「妹が好きだったから、抱きしめたんだ」 「抱いたのか」 「抱きしめたんだ」   そう、僕は、恵を、抱きしめ。  冷たい床に組み敷いた。   むきだしの胸に、ぎこちない愛撫。 内からの激情と、いとおしさが交錯して。 僕は恵の胸を、撫でるように責めさいなみ、にぎりつぶすように愛おしんだ。  「くっ……」   悲鳴を噛み殺しながら、恵は僕をこばまなかった。 その両手は僕の下腹部に伸びる。   制服のジッパーを開け、すでに大きくなっていたものを、やさしく取りだした。 外気を浴びて、それは、存分に屹立する。  「これが……お兄ちゃんの……」   十本の指が、僕の大きさを確かめる。 僕は恵の喉に歯を立てる。  「あっ……」   のけぞる恵の背を捕らえて離さず、いくつも歯形を残す。 歯形がふえるたびに、恵の息が荒くなった。   「おにいちゃん……もう、来て……」   息も絶え絶えに恵が言う。 僕は、右手で恵の足に触れる。 腿をなぞり、その奥へ触れる。 細い裂け目は、かすかに湿っていた。  「は………ん……!」   裂け目をかきわけ、指をもぐらせると、恵の身体が動いた。 それはあまりに狭く、指先は熱いもので絞られるようだった。   つぷつぷと肉をかきわけ、指が沈む。   「もっと……お願い、もっと、ちょうだい……」   言われるままに僕は進め、とうとう指は根本まで沈む。 熱く細いそこを僕の指がかき回すに連れ、恵の身体は、胡弓のようにしなった。  「はう……ふ……ふ……あ……あぅ……」   回す内に、ぐったりと力が抜ける。 僕は指を引き抜いた。   糸を引く指先に、かすかに血の色がまじっていた。   「つらいか、恵?」  「ううん」  「つらかったら、言え」  「平気だよ」   恵が、決然とうなずく。  「じゃぁ、行く」   僕の左手が、恵の右手を握る。 恵の左手が、僕をそこへ導いた。 先端が、熱く濡れた門に触れる。 小さく狭く幼いそれを、僕は一気に刺し貫いた。  「うっあっ……あぁんっ……ふぅっ……」   何度も、何度も、刺し貫いた。 恵は、泣きじゃくる赤ん坊のような声をあげる。 少しでも止めようとすると、恵は僕の手を、ぎゅっと握りしめる。 瞳が言っていた。 止めるなと。 だから、僕は、動いた。 動き続けた。        何度目だったかは覚えていない。  心臓が、一つ大きく脈打って、僕は、果てた。 それでも恵は僕の手を放さずに。 僕も動き続けた。 音が、変わる。 肉を貫く衝撃に、ゆっくりと、湿った音が混じりはじめる。 それが、僕の精があふれたせいなのか、それとも、恵の身体のせいかは、わからない。        僕は、何度も何度も果てた。  胸の中で、心臓が生き物のように蠢いていた。 それが冷たい血を放つたびに、僕には力がみなぎり、精が充填されていくのが分かった。  「うぅんっ……あうぅ……ふぅ……」   恵の声は、やがて、すすり泣きに変わった。         何度も、何度も果てて。 最後に、恵の声も、途切れた。 ぐったりと動かない恵を前に、僕は、途方にくれた。   ぼくは、なにをしてしまったんだろう。 こんなはずじゃなかったのに。  僕らはもつれあってベッドに倒れ込んだ。 震える舌先は、唇をむさぼり、そして離れる。 僕の腕の下に彼女がいた。 小さく儚く美しく。 「どうしたんですか?」  甘えるような声。 「どうしていいか、わからないんだ」  僕はつばを飲み込む。 目の前の体は、あまりにも華奢で。 手を触れるだけで。 「壊れそうだから。壊しそうだから」 「壊したいんでしょう?」  その言葉に、僕は従順にうなずく。 「いいんですよ、好きにして」  体全体が、ぶるりと震えた。 「その代わり、私も……好きにしますから」  細い指が胸を撫で、僕の体に電気を送る。 うなずいて、僕は、彼女の肉をついばんだ。 震える舌先で、首筋を、喉を貪り、やわやわと彼女の乳房に触れる。 「んっ……」  形を変える乳房に僕は顔を埋め、唇で味わう。 雪のような肌がみるみる桃色に染まってゆく。 舌の先で先端を転がす。 「ああっ……」  小鳥のような啼き声に、僕の体は熱くなる。 しなやかな腕が僕を包む。 「克綺さんっっ!」  舌を転がすほどに、腕は、強く、弱く、僕を包み、爪が背中に不思議な文字を刻む。 血の匂いさえ僕を奮い立たせる。 僕は、彼女の腕をふりほどき、その右手首を取る。 細く長い指先に、僕は歯を立てた。 「あんっっっっ」  悲鳴は尾を引いた。 「痛かった?」 「ちがいます。ただ、その……んんっ……克綺さん、上手ですね」 「そうなのか?」  僕は彼女の中指に舌を這わす。 その柔らかな曲線は、僕の舌が動くたびに、ぴんと張りつめ、また、緩む。 「そんなの……どこで、覚えたんですか?」  吐息混じりの声に、僕は考えこむ。  一瞬、目の前を無数の裸身がよぎった。 見たことのないはずの裸身。 「どこでもいいだろう」  僕は、舌を指から掌、そして腕に這わす。 「どこ、なにするんですかっ……」  小さな抗議。 「好きにしていいんだよね」  片手で彼女の右腕を高く持ち上げる。 身を引こうとする胴体を、両足で押さえつける。 そうしておいて、僕は彼女の脇の下に顔をうずめる。 「でも……そんなとこっ……」 「だめかな?」 「……いいですよ」  羞恥に染まった声。 酸味のあるくぼみに舌先を這わせるたび、僕の指先と胴体の間で、押さえつけられた彼女の体が踊った。  馬を乗りこなすように、僕は彼女の抵抗を太股に感じる。 それは背骨を伝い、猛り立ったものの先に振動を与えた。 小さく息を吸い、快感をこらえる。  彼女の自由な左腕が僕の頬に触れる。 掌が僕の髪を押す。 僕の頭を押しのけるように、あるいは、また、押しつけるように。 迷いと抵抗を楽しみながら、僕は、彼女の脇の下から脇腹をねぶった。 「ひゃっ……あんっっ……」  びくりと彼女の体が跳ねる。 左腕が、僕を止めようと動く。  僕は、その左腕を掴んで、右腕と一緒に持ち上げた。  顔を上げれば、彼女の裸身がそこにあった。  上向いた乳房が、柔らかなお腹が、息づかいとともに揺れる。 瞳には、かすかな不安の色。 「あの……この姿勢はずるいと思います」 「そうなのか?」  僕は左手一本で、彼女の両手首をまとめて握る。 脇腹に口づけながら、ゆっくりと手を下に這わせる。  掌に感じる息づかいを楽しみながら、ゆっくりと下へ。下へ。 柔らかな茂みの入り口を指でまさぐる。 「あの……待って」  懇願の声。 僕は、指を止めた。 「何がずるいのか、わからないんだが……」 「どうして手を押さえるんですか?」 「こうすると君が綺麗だからだ」  ぴんと伸びた彼女の体は、張りつめた弦の趣がある。 僕はそう思う。 「そ、そんな言い方しても駄目です」 「どんな言い方をしてほしいのかな?」  僕は指を動かす。 「んっ。そ、そうじゃなくて……」 「こうかな?」  指の動きを早めると、彼女の体は、ますます揺れた。 「そ、そうです……ちがいます!」 「どっちなんだ?」 「手を、放してください」  僕は、言われた通りに手を放した。 彼女は小さく溜息をつく。 「克綺さんばっかりずるいです。 私だって……克綺さんのこと、触りたい……」  しばらく考えて、僕はうなずいた。 「それは悪いことをした。 経験がないので至らない点があったことをお詫びしたい」  経験がない? そのはずだ。  だけど、僕は。 今日の僕は、何かいろいろなことを覚えている気がした。 ふと何かが閃く。 「つまり、互いの位置関係が公平であればいいわけだ」 「……まぁ、そうですね」  だったら…… 僕は、彼女を持ち上げる。 その体は思った通り、羽根のように軽かった。 くるりと転がって、体を入れ替える。  見上げた僕の前に、彼女自身があった。 「ちょっと……克綺さんっ!」  あわてた声。 彼女の手が僕の視界を覆う。 「何をするんですかっ!」 「相互に対称な位置関係の確立、かな」 「え……ええ」  放心したような声。 「どうかしたか?」 「あの……克綺さんの……大きいですね」 「よく言われる」  何の気なしに答える。 「誰に、ですか?」  声には、怒りがこもっていた。 しまった。 「記憶の混乱だ。気にしないでくれ」 「気にします」  ぴんっと人差し指で、僕の先端が弾かれた。 痛みが全身を駆け抜ける。 「くっ……」  なぜだろう。 なにか理不尽な気がする。 「克綺さん。他の〈女〉《ひと》のことは、忘れてください」 「努力する」 「じゃぁ……許してあげます」  ゆっくりと。 ゆっくりと舌が僕のものに触れた。 「んっ……ふぅん……」  ぴちゃぴちゃと舐める音。 舌先が、ゆっくりと根本を回ってゆく。 暖かな感触が蠢き、僕の下腹に熱いものがこみ上げる。  僕は、指を伸ばした。 柔らかな茂みをかきわける。 その奥は、すでに湿っていた。 亀裂を指でこすりあげる。 「ふぁ……あ……んん……」  彼女の洩らした吐息が、僕のものを嬲った。 快感の波が全身を駆け抜けるのに、僕はじっと耐えた。 「我慢しなくて……いいんですよ」  彼女はそう言って舌使いを変える。 尖った舌先が、僕の先端に口づける。 「ん……ちゅっ……ふみゅ……」  同時に指先が、僕の根本で踊った。 やわやわと袋をなであげる。 その快感は、ほとんど耐え難く。  僕は逆襲に転じる。 そろそろと亀裂をなぞり、堅いものを見つけて、軽くつまみ上げた。 「んっ……」  身をのけぞらせ、湿った音を立てて彼女の唇が離れる。 今の内だ。  ……何が今の内かはともかく、僕は首を曲げて、舌を伸ばす。 小さな茂みの中に、尖った舌を滑らせた。 「あん……ん……ん……」 「克綺さん……やりますね……」  彼女は、身を震わせながら、再び僕のものに口をつける。 「はむ」  先端を口の中に含み、舌先を転がす。 その指は、根本に落ち着き、袋を撫でる。 柔らかなものが亀頭に巻き付き、また鈴口を嬲る。 「くぅっ……」  体が揺れる。全身に電流が走る。 歯を食いしばって僕は快感を受け流す。  だが、快感はとまらない。 形勢は不利だ。  僕は、人差し指を舐めると、ゆっくりと、亀裂をなであげた。 下から上へ。 その先の小さな窄まりへ。 「あんっ……!」  効いた。 再び彼女は身をのけぞらす。 「そこは……あふっ……反則、です」 「規則があったのか?」  やわやわと僕は、その窄まりを撫で、もみほぐす。 「だって……そんな、ん……汚いですっっ」 「君の体を確かめたいだけだ」  ゆっくりと指で円を描く。 同時に、舌で亀裂への責めを再開する。 「ちょっ……あん……負けませんよ。はむっ」  いつのまに勝負になったのだろう。 先端から全身に電流を感じながら、僕は人差し指を動かし続ける。 最初は締め付けていた窄まりから、力が抜け始める。  そこを。 突いた。 「きゃぁぁっ!」  一気に第二関節まで潜らせる。 熱い肉が、僕の指をきつく締め上げた。 「あ……ん……きゃん……」  指を動かすたび、面白いように彼女が動いた。 舌先に、とめどなく甘い蜜が滴り始める。 「か、克綺さんが、その気なら。私だって!」  やわやわと袋を撫でていた指が、ゆっくりとその先を探り始める。 む、いかん。 「……お、お返しです」  あえぐ息の下で、彼女が囁いた。 僕の体内に、小さく細い指が侵入する。  体内を犯される感覚に、僕は、全身を震わせる。 震えは僕の指に伝わり、彼女の体内に再び震えを送り返す。 典型的なフィードバック。  どんどん増してゆく快感の中で、やがて、僕らは拮抗した。 体を埋め尽くす快感に耐え、それでも、最後の一線を守り続ける。  埒が開かない。 彼女もそう思ったに違いない。  僕は、湿った音を立てて人差し指を引き抜いた。 ふるふると震えながら、まだ、閉じずにいる小さな窄まりに、僕は狙いを定めた。  彼女は、ちゅぽんと音を立てて、唇を放した。 ふぅっと吐息を吹きかけ、裏筋を舐めあげながら、再び口に含む。  わずかの間を置いて、二人同時に動いた。  僕は、人差し指と中指。 二本の指を揃えて、彼女の窄まりを突いた! 一方、彼女は、亀頭の先端に、歯を立てる!  目の前が白くなる。 体が痺れる。  彼女と僕。 同時に達する瞬間、僕は。  熱いものが、迸る。 全身が、ポンプになったように。 熱いものをどくどくと送り出す。  僕は僕の先端になり。 ひたすら濃く白いものを吐き出し続けた。 「んんっ……」  彼女が苦しげな息をもらす。 彼女の腰が揺れる。 目の前で亀裂が開き、そして震えるのがわかった。  快感を越えた快感。 その余韻に、僕らは、しばらく身を震わせる。  やがて、こくり、と、音がした。 彼女は、僕のものを飲み干したのがわかった。 「すまない」  苦しげな息をつく彼女に、僕は声をかけた。 「え?」  まだ夢から覚めないような声。 「苦しくなかったか?」 「そんなことはありませんよ」  声には安らかさがあり、僕は、それを信じた。 「それより、克綺さん……痛くなかったですか?」 「痛いようなことをしたのか?」 「あの……つい。だって、克綺さんが、ひどいんですもの」  すねる声に、僕はあわてて答える。 「いや、痛くはなかった」 「じゃぁ、よかったです」 「あぁ、とてもよかった」 「あの……どこ見て言ってます?」 「君が見ているのと相対的に同じ部位だ」  僕は、ふっと息を吹きかけ、彼女の体が揺れるのを楽しむ。 「もう、なにするんですか!」  ふっと、彼女が息を吹きかけかす。 「あ、すごい……」  何がすごいかは聞かなくともわかった。 「克綺さん、元気ですね」 「君のおかげだ」 「だから、どこ見て言ってるんですか!」  どうやら、その言葉は質問ではないようだったので、僕は、沈黙を守ることにした。  僕の目の前で、彼女の腰が揺れていた。 亀裂が開き、紅い中身を惜しげもなく晒し、大きく震えた。  彼女が、達したのだ。 そして、次の瞬間、僕も。  熱いものが、迸るその瞬間。 僕は、筒先を逸らした。  腹の中が沸騰する。 手が、足が、力をこめて痙攣し、僕の中の熱いマグマを吐き出す。 驚くほど大量のものが、宙に舞った。 「きゃっ……」  小さな悲鳴。 僕は荒い息をつきながら、自分が何をしたのか、ようやく理解した。  声は、まだ、出なかった。 快感を越えた快感。 その余韻が、僕の体を震わせていた。  息がつけるようになって、僕は、ようやく口を開いた。 「すまない……その……汚してしまって」 「いいんですよ。克綺さんのでしたら」  安らかな声に、僕は、安堵した。 「ちょっと、顔を洗って来ますね」  彼女は、ゆっくりと立ち上がり、浴室へ向かう。  全身に、まだ、震えが残っていた。 ゆっくりと息をして、吐く。  部屋には、彼女の甘い匂いがたちこめている。  目を瞑れば、残像のように、彼女の踊る裸身が見えた。 水音に耳を傾け、僕は彼女の声を思い出す。  待っている間の数分は数時間にもおよび、その間中、僕は彼女のことしか考えられなかった。  思うに、男性であることの、利点の一つは、思考、感情が肉体に及ぼす効果(あるいは、その逆)をこれ以上ないほど、明確に把握できる、ということだろう。  この場合の僕の思考も、肉体に確実な変化をもたらした。  故に、彼女が帰ってきた時の第一声が 「克綺さん……元気ですね」  であったとしても、驚くには及ばない。 「君は元気じゃないのかな?」  そう言うと、彼女は、顔をあからめて。 「そんなわけないじゃないですか」  と言った。 「あの……」  「ええと……」   ベッドの上。 僕たちは、見つめ合いながら、同時に音声を発した。 気詰まりな沈黙があたりを満たした。 「すまない。どうぞ」  「いえ、克綺さんからどうぞ」   客観的に見て間抜けなやりとり。 ともあれ、どちらかが譲らなければ始まらない。 「それじゃぁ……あーその、これから行うことについて提案がある」  「提案、ですか?」   少女が、首を傾げて僕をにらむ。 ……僕は、あまり信用されていないらしい。 「つまり、その形式についての提案だ」  「克綺さん、その……ご希望があるんですか?」  「いや、僕の希望というよりは……先ほどと同じく、公平性を優先したらどうか、という提案だ」  「公平性?」  「位置の対照性と言い換えてもいい」   僕は、自分の考えを説明すると、彼女はうなずいた。 「いいですよ。それと、私からもお願いがあるんですけれど……」  「なんなりと」  「あの、さっきの克綺さんの、で、ですね」  「僕の行為、ということか?」  「そうです。行為です」   なぜか恨めしそうな声。 「その、それで、ですね。 あの……そこが、刺激で……」  「どの行為か明確にしてほしい。 僕は色々なことをした」  「ですから、おしり……です」   語尾は消えゆくようだった。 「あぁ、その行為か」   僕はうなずく。  「で、お尻への刺激が、どうかしたのか?」   彼女の顔から、すっと表情が消えた。 矛盾しているようだが、これは彼女の怒りの表現である、ということを僕は学んだ。 「すまない」   僕は急いで言う。  「何がすまないか、まだ理解していないが、とりあえず、それも含めてすまない」   彼女は、しばらく僕を睨んでいたが、やがて小さく溜息をつく。 「いいんです。わかってるんです。克綺さんのことは」  「そうか。それはありがたい」  「ですから、あの……」  彼女は、僕に耳打ちする。 他に聞いている人がいない以上、明白に非論理的な行動であるが、僕は、それを指摘しなかった。   ──たまには僕も、雰囲気というものを理解する時があるのだ。 「それじゃぁ……お願いします」  僕らは向かい合って座り、彼女が、ぺこりと頭を下げる。 「こちらこそ」  そう言って、僕は彼女の脇の下に腕を通した。 軽い体を持ち上げて、抱き寄せる。 彼女の腕が僕を抱きしめ、僕も彼女を抱きしめる。 僕のそそりたつものが、ゆっくりと彼女に触れる。 「本当にいいのか?」 「はい。うしろで、お願いします」  僕の、そそり立った先端が、彼女に触れる。 柔らかな茂みが、やわやわと撫でる。 「あの、そこじゃなくて……」 「わかってる」  僕らは、協力して、位置をずらす。  先端が、かすかな窄まりを掴む。 「そこで……お願いします……」 「あ、あぁ」  先ほど広げたとはいえ、その窄まりは、あまりにも可憐で、僕を受け止めるには、小さすぎるように思えた。 僕は、彼女を降ろすのを躊躇する。 「だいじょうぶですよ、克綺さん」  そう言って彼女は僕の耳たぶをかんだ。 「だいじょうぶです」  ゆっくりと僕は力を抜く。 彼女の体が、ゆっくりと自らの体重で沈み込む。 「は……んっっ」  眉をひそめる彼女を、僕は愛おしいと思った。 その胸にくちづける。 「んっ……ふぅっ……くぅん……」  僕の先端が、熱く狭いものに包まれてゆく。 先端のくびれが通ると、あとはすぐだった。  つぷつぷと音を立てて、僕は彼女の中に埋まってゆく。 彼女が僕を包んでゆく。 暖かなものに引き絞られ、僕は全身を堅くする。  いまや彼女は、僕の目の高さにいた。 唇が、僕の唇を求めて舌をだす。僕は身をのりだして、そこに口づけた。  溶ける。融ける。蕩けてしまう。 抱きしめた僕の腕が彼女の中に溶けてゆく。 抱きしめる彼女の腕は僕の中に溶けてゆく。  僕の胸に、彼女の乳房は触れ、潰れ、やがて、一つになる。 唇と唇は溶け合わさり、僕の猛り立つものは彼女の熱い孔と一つになった。  たとえようのない一瞬。 僕は僕の境を無くし、彼女と一体となる。  ゆっくりと、しかし、容赦なく、時は流れる。 僕たちは、ゆっくりとお互いの汗ばんだ体を意識し、互いの息づかいに耳を澄ます。 「克綺さん……」  小さな囁きに、僕はうなずく。  僕は彼女ではない。 彼女は僕ではない。 それは、悪いことでもなんでもない。 違うからできることがあるのだから。 「動いて、いいかな?」  彼女は、こくりとうなずいた。  だが動こうとしても、彼女のものは僕を痛いほどに締め付けていた。 「力を抜いて」 「はい……」  堅かったそこに柔らかさが宿り始める。 彼女と僕は、息をあわせて互いの体を動かしはじめる。  ひとーつ、ふたーつ。 僕は口に出さずに、数える。  僕と彼女の小さなリズム。 二つのリズムは、溶け合いながらも、一つにはならない。 わずかな違いが、複雑な快感を生み出してゆく。 「あ……ん……克綺さん」  彼女の体がふわりと浮き、そして、すとんと落ちる。 と同時に、僕自身も引っ張られ、そしてまた、押し返される。 今度のは、競争ではなかった。 協力だ。  単純な上下動に、僕はシンコペーションを加える。 「いいです……そこ……」  彼女は、お返しに、小さなひねりをプレゼント。 心地よいよじれが、僕のものを愛撫する。 「ん……」 「克綺さん……克綺さん!」  ゆるやかに始まったリズムは、だんだんと振幅を増し、少しずつ早まってゆく。 複雑な旋律を絡めて、大きく育つ。  彼女は僕を締め上げ、ねじり、撫ぜあげ、絞り尽くす。 僕は彼女を、貫き、突き上げ、ねじこみ、喰らい尽くす。  彼女の腕に力がこもる。 あの華奢な腕が、これほど、という強さで僕に巻き付き、爪は、背に血をにじませた。 「ふああ……ん……深いです……克綺さん……私……私……溶けちゃう……壊れちゃう」  言葉以上に、彼女のリズムが、限界が近いことを告げていた。 それは僕も同じだ。 二人のメロディが、フィナーレへ向けて駈けのぼる。  あと4つ。 「あっっんんっ……あんっっ……」  あと3つ。 「う……くぅん……克綺さん……」  あと2つ。 「もうだめ……です……私……私……」  ラスト。 「私……わた……もう……あぁぁぁあんんんっっんんっ!」  深い、深い、最後の一突きで、彼女は痺れるようにのけぞった。 僕は、僕でのけぞりながら、熱いものを彼女の中に吐き出す。 「あつい、あついですっっ……!」  熱く熱く彼女は締め付けた。 それは、僕の精液の最後の一滴を絞り出し、なお、求めて止まなかった。  凄まじい快感とともに、僕は僕の中の全てを吐き出してゆく。 血が。命が。心が。その全てが彼女の中に流れ込む。 快感は、恐ろしいほどの喪失感と背中合わせだった。  やがて。 僕は、僕の全てを注ぎ込み。 彼女は、僕の全てを受け入れて。  そうして、汗まみれの僕らは、互いの腕の中に倒れ込んだ。 互いに互いを支え合いながら。  僕は笑っていた、と、思う。 「──」  僕は、最後に彼女の名を呼んだ。 あの時、聞いた、彼女の本当の名を。  翼のはためく音が、その答えだった。  やがて僕は目を覚ました。  快感の中に我を忘れ、気絶する。 そういうことがあるとは聞いていたが、体験するのは無論はじめてのことだった。 「克綺さん、起きました?」  気がつけば、彼女は服を着て立っていた。  「あぁ」   僕も僕で、いつのまにか制服を着込んでいる。 「着せてくれたんだ」  「いいえ」   そう言って首を振る。 室内だというのに、彼女は、あの大きな傘を広げていた。 くるくると回る傘は、僕に何かを思い起こさせる。 「何か、忘れてることがあった気がするんだが……」   僕は首をひねる。 少女は、ゆっくりとベッドのほうを指さす。  そこに……僕がいた。  裸で。 少女を抱きしめている。  あぁ、なるほど。 あれが、僕か。 いや、僕だった、というべきか。 「そうか。そうだったな。思い出したよ」   運命の庭園。 行き止まりの森。 そうだ。 そこで、僕は彼女に触れて死にたいと願った。   ──それはいいが。だとすると。   僕は、ふと、気になって、彼女に聞く。 「僕が僕なのはいいとして、僕のそばにいるあの娘は誰だ?」   ええい、指示代名詞が混乱している。  「私の身体ですよ」  「君、身体があったのか? 現実に?」  「現実に出向く時は、身体がいりますから用意します」  「現実から出る時は?」  僕の問いに、彼女はにっこりと微笑んだ。   あぁ、なるほど。そういうことか。   裸の少女は……僕と同じく、息をしていないようだった。 僕は僕の顔をのぞきこむ。 恍惚に歪んだ、しかし、満足げな顔。 「変な顔をしているな」  「誰がですか?」  「いや、僕が」  「悪くない死に顔だと思いますよ」   彼女が言うのなら、そうなのだろう。 「さて、と。 これから、僕は、どうするんだ?」  「歩くんです。自分の足で」  瞬きする間に、僕は、庭園にいた。 否。最初からそこにいたのかもしれない。  目の前には一本の道があった。 道は、ほんのわずか先で、無数に分かれていた。 「じゃぁ、ここでお別れ、ということになるのかな?」  「そうなります」   彼女はうなずいた。 いつもの彼女だ。 仕事モード。 「さっきは、かわいかったのに」   小さな声でつぶやいた。  「もう……何を言うんですか」   彼女の顔が紅く染まる。 「いや、このことも忘れてしまうのかな、と、思うと、寂しくてね」  「また会う時に、思い出しますよ」  「あぁ、それならいいや」  僕は、道に向きなおる。 道は遠く広く広がり、その果ては見えなかったが、僕には怖れはなかった。  なぜなら僕は知っているからだ。 どんな道を選んでも。途中に何があっても。 道の最後には、彼女が待っていてくれる。  彼女は、この世のなによりも公平で、おまけに優しいのだ。 「それじゃぁ……」 「いってらっしゃいませ」  彼女は、小さくお辞儀をした。 別れの挨拶は、さよならではない。 「また、会おう」 「また、お会いします」  僕は手を振って道を歩きだした。  この道は、どこに通じているのだろう。 僕は、今度は、誰と出会うのだろう。  いつのまにかあたりは暗く、僕の前方には光があった。  光に向けて。 一歩、また一歩と歩くたびに。 僕の中から僕が抜け落ちてゆく。  無数の記憶が。 身体の形が。 そして名前さえもが無くなってゆく。  薄れゆく意識の中で僕は思う。 僕の声は、まだ、彼女に聞こえるだろうか。 きっと聞こえるだろう。 彼女がいない場所は、ないのだから。  暗いトンネルは終わり、目の前には光の入り口があった。 最初の一歩を踏み出す瞬間。 僕は、小さくつぶやいた。 道の遠くで待っている優しい人へ届けとつぶやいた。 「僕は、今、ここにいる」 「君に会えて、よかった」  やがてめのまえがおおきなひかりにつつまれてひかりのなかにとけるしゅんかん。  ぼくは。  ぼくは、たしかに、あのなつかしい、つばさのはためきをきいたきがした。     ……そしてぼくは、目をあける。   ながいながい道を歩いていた。 足もとの砂は柔らかく、それでいて、崩れはしなかった。     一つ、また一つと、あしあとがふえていく。   一歩、また一歩と足を運ぶ。 この道がどこへ続いているのか、それは知っているようで…… どうしてか、言葉にはできなかった。   降るような星の光が、額のてっぺんから水のように 染みとおって、体を潤していく。 そのせいか、どれだけ歩いても、手も、足も、疲れを知らず、 ただ、頬をなでる風が心地よかった。   見上げると、空には、吸い込まれるような青い月。 その時、ふと、足がもつれた。膝の力が抜けて、砂の中に埋まる。 熱くも冷たくもない、柔らかでビロードのような砂。 立ち上がろうとした時、手が引かれた。   ……暖かい。   白くて、柔らかい手のひらが、ぼくの手を引いていた。 青い月が照らす中、その人は、にっこりと笑った。 「お疲れさまです」   誰だろう? ぼくはこの人を知っている。 言葉にはできないけれど、とても懐かしい人。  「立てますか? もう少しですよ」   手を握ったまま、ぼくは膝をのばして立ち上がった。 なにか、大切なことを思い出せそうだった。 今、来た道を、ふりかえる。  曲がりくねった砂漠の道には、ひと筋のあしあとが残っていた。 地平線の彼方に消えるあしあとをみると、なぜだか、胸が騒いだ。  「ん? どうかしましたか?」   きさくな声に、返事をしようとしたけど、言葉がでてこなかった。  「わすれもの……」   やっと、それだけ言う。 その人は、少しだけ困った顔をした。 「これから戻るつもりですか? ずいぶん遠いですけど」   ぼくは、うなずく。 自分で歩いてきた道だ。 戻れないことはないはずだ。 戻らなくちゃいけない。 あの道の先には……があるのだから。  「どうしても、ですか?」   その人は、少しだけ困った顔をした。 うなずいて、ぎゅっと握った手を放すと、ひどく心細くなった。風が急に冷たくなる。 「そうですね。わかりました」   その人は、真面目な顔でうなずいた。  「じゃぁ、目をつぶってください」   言われるままに瞳を閉じれば、何かがふわりと顔に触れた。 かすかに暖かく、羽のように柔らかな何かが、頬をかすめる。 背中を押され、ぼくは、そのまま懐に抱き寄せられた。  「送ってあげますよ」  暖かな闇の中に響いたのは、かすかな声と、それから、翼のはためく音。  「またお会いしましょう」   その一言とともに、ぼくは、虚空へ放り出された。   痛みは、いっぺんにやってきた。  両の目の奥から、指先まで、凍えるような冷気が刺し貫いた。 身体の一粒一粒が、水晶のように、硬く、透きとおって、死んでゆく。 悲鳴をあげようとして、凍りついた喉が血を噴いた。   必死で身をよじって目を開けたところに、それが飛び込んできた。   瞬間、痛みを忘れた。 目の前に広がっていたのは、あの青い月。 それはあまりにも大きくて。そして、とてもきれいで。ぼくの心は吹き飛ばされた。  どれくらい、そうしていただろう。 気がつけば、身体は、どこも凍りついていた。 音も風も伝えない虚空の中、ただ、静寂に満ちた世界で、ぼくを目覚めさせたのは、一つの響きだった。   肩を抱いた両腕の奥から、鼓動を感じた。それは、ほんの小さな鼓動だったけれども凍りついた身体には、稲妻のように響いた。   ……そうだった。  ぼくは、眼下の青い月を見つめた。もう、心は乱れない。帰るんだ。あそこに。 腕を伸ばして、手をさしのべれば、全身から血がしぶいた。 紅い血潮が身を包み、やがて、身体が熱くなる。 凍りついた血が再び燃えて、真っ赤な霞が、ぼくを包んだ。   どこまでも大きな青い月に、小さなぼくは落ちてゆく。   焦げた腕が、まず焼け落ちた。真っ赤な火がはらわたを喰らい尽くす。肉という肉が燃え尽きて、骨さえも火を噴いて、ぼくに残ったのは、胸の中の小さな鼓動だけだった。 けれど、とうに失った両の目には、はっきりと月が見えていた。                   ……帰るんだ。あそこへ。 2周目 音声ありバージョン  夢は、ありえない夢は、いつものように唐突に終わった。   目をつぶり、息をひそめ、少しでも夢の余韻を味わおうとしたが、 すでに遅かった。  目を開けて着替えると……まるでそれを待っていたかのように、  ノックの音が響いた。 「克綺クン、起きてる?」  管理人さんの声がした。 「おはようございます」  これは管理人さん。 本名は確か、〈花輪〉《はなわ》さんと言ったと思うが、いつも管理人さんで通している。 この「メゾン・フォレドー」の大家にして管理人であり、僕、〈九門克綺〉《くもんかつき》は、その店子の学生だ。   性格は、一言で言って、家庭的。 誰に対しても優しく裏表がない。 だがしかし、彼女には二つの大きな謎がある。  一つは、このメゾンの経営だ。   貧乏学生の僕に払える格安料金で、しかも部屋は、ほとんど埋まっていない。 維持費だけ考えても採算がとれるとは思えない。 彼女にとってメゾンの経営は、ある種の道楽なのかもしれない。   そしてもう一つは……。 「ね、克綺君、ご飯食べた?」 「まだです」 「よかったぁ。 朝ご飯、多めに作っちゃったんだけど、食べてかない?」   理由は不明だが、彼女は、朝食の量を適正に見積もることができないようなのだ。 毎朝、必ず二人前を作ってしまい、結果、僕が朝食の席に呼ばれることになる。  僕が、ここへ越してきた翌日から、一日も欠かさず同じ間違いを繰り返していることになる。   医者にゆくことを勧めようかとも思うが、そうすると彼女は悲しむかもしれない。 朝食以外に、特に支障はでていないようなので、今のところ様子をみている。  「では。ご馳走になります」 「よろしい」  朝食を冷ますのは、本意ではない。  部屋を出る前に、急いでメールのチェック。 妹から一通メールが届いていた。 Re:旅行   元気ですか? 今、羽田に着きました。明日の14時にこっちを出て、 駅には16時17分の列車で着きます。         ------------                              九門 恵  そう言えば今日だったか。 あいつと会うのも、6年ぶりだ。  僕は、ノートを畳んで部屋を出た。 「はい、どうぞ」  並んでいるのは、ご飯に味噌汁、そして塩ジャケという、基本的なメニューである。 往々にして、こういうメニューこそ調理者の実力が反映される。  「いただきます」  お椀に盛られたご飯は、その香りからして違う。  銀シャリというべき輝きを宿し、口に運べば、かすかな甘みをともなった味わいが、なんともいえない至福を爆発させる。   そこへ少し辛目の塩ジャケを噛みしめて、さらにご飯をかっこめば、もう、ため息の一つも出ようというものだ。   味噌汁は、シンプルに大根。 すっきりとした出汁の味と、しゃきしゃきとした歯ごたえが、抜群の組み合わせだ。 「克綺くん、おいしい?」 「おいしいです」   こと食事に関する限り、僕は管理人さんの料理を全肯定する。 「よかったぁ」   遠慮なくいただいていると、管理人さんが、ふと、こちらの顔をのぞきこんでいた。 「どうかしました?」  「ううん。いつもの克綺クンの顔になったなって」 「顔には注意を払っていませんでした。 どんな顔をしていました?」  「さっき、起きた時ね、少し怖い顔をしてたから」 「そうですか……。 関連があるとしたら、直前に夢を見ていたことが挙げられます」  夢。 あの夢を見るのも、ずいぶん久しぶりだ。 「悪い夢?」 「いい夢なんだと思います。醒めると、つらくなる夢です」  事故で光を失った人、音を失った人たちも、夜にみる夢の中では、まざまざと色を目にし、響きを捉えるという。 それが残酷なのか、慰めなのかは、他人に言えることではないだろう。 僕の夢も、多分それに近い。 「管理人さんは、夢を見ますか?」 「わ、わたし?」   なぜ、あわてるのだろう。 「夢ってあんまり見ないなぁ。年のせいかも」   苦笑して、人生の夢ならあるけど、と付け加えた。 「そうなんですか」   ふと時計に目を遣れば、いい時間になっていた。 そろそろ出ないと遅刻だ。 シャケを骨と皮にし、ご飯の最後の一口を呑み込んで、僕は、箸を置く。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした」  繰り返されるいつもの会話。 僕は、カバンを取って立ち上がった。  メゾンの門を出て、僕は、息を吐いた。   管理人さんは、いい人だけど、時折、一緒にいて、息がつまる瞬間がある。 原因は、僕の側にある。   僕は、時計をしまうと、襟の前を閉めた。   秋の空は綺麗に晴れていて、その分、寒かった。吐く息が白く、背筋を伸ばすだけでも、強固な意志がいる、そんな朝だ。   風に顔を向けて歩きだす。と、その時。 「おはようございます。よい朝ですね」   小さな声が背中からかけられた。  ……誰だ? 見たことのない顔。それなのに、 頭のどこかに引っかかるものがある。 「おはよう。今は朝だ。 しかし、よいかどうかは即答できない。 それは主観的な言葉であって、一概に答えられるものではないからだ」 「私とあなたに限定した場合です」   少女は真面目な顔で応えた。 「まだ朝は終わっていないから断言はできないが、 今のところ僕にとっては悪くない朝だ。 あなたにとっても、そうであれば」  「そうです」 「了解した。であれば、同意する。今日はいい朝だ」 「いい朝です」   少女がうなずく。 きちんと意味の通る会話をするのは、楽しいものだ。 「今日は、挨拶にきました」   依然、少女が誰かは思い出せない。 わざわざ挨拶をするからには、僕を特別視する理由があるのだろう。 無論、少女が、無差別に挨拶をしていることも考えられるが、それは普通、効率が悪すぎる。 問題は、なぜ僕を特別視するかがわからないことだ。 「それは、何の挨拶?」  「職務上の挨拶です。 近日中に、お仕事でお会いすると思いますから」   職務上ときた。 仕事に就いてる年にも見えないけれど、何の仕事なんだろう? そう聞くよりはやく、少女はぺこりと頭をさげた。 「それでは失礼します。 克綺さん、またお会いします」  少女は顔に似合わぬ早足で、さっさと角を曲がっていった。  ふぅむ。 結局、誰だったんだろう? 「よう、朴念仁! いまの子、誰だ?」  記憶を辿ろうとすると、肩が乱暴に叩かれた。 溜息をついてゆっくりと振り向くと……  この口の悪い男は、〈峰雪〉《みねゆき》 〈綾〉《りょう》。 小学校に入る前からだから、ずいぶん古い付き合いになる。 寺の息子で、自称ミュージシャン。  「知らない子だよ。急に話しかけられた」   とりあえず僕は事実だけを伝えた。 「で、何の話、したよ?」   しばらく考える。  「主に、“よい”という価値観の共有についてだったな。あとは職務連絡」  「……なんだかわからねぇが色気のねぇ話してるな。この〈石部金吉金兜〉《いしべきんきちかなかぶと》が」   石部金吉金兜……きわめて物堅く、融通のきかない人。あるいはその様。   この男とつきあうようになって故事成語には、ずいぶん詳しくなった。  この峰雪という人間は、一個の悲劇である。   幼い頃から彼は、実家の寺の跡継ぎとして、父親によって厳格な教育を受けた。 彼自身は、それに反発しており、常々ミュージシャンになると公言している。ミュージシャンとなり、「ナンパ」な生き方をして、数多くの女性をはべらすのだと。   けれど、幼少時からの仏典〈誦読〉《しょうどく》猛特訓のせいか、彼のボキャブラリーには、難解な漢語が非常に多く、どうも女性を口説くのには向いていないという重大な問題があった。  現在の彼は、周囲の人間に「硬派」と認知されているようだ。 僕の理解するところでは、「硬派」というのは、「ナンパ」の対義語である。   彼が、この先、いかに悲劇を克服するのか、はたまた、己の運命を受け入れるのかは、興味深い問題である。    「それで。住所とかは聞いたのか?」 「いや」  「名前は?」 「知らない」   そう言って気づいた。 ──そういえばさっき、あの子は僕を名前で呼んでいなかったか? 「まったくの聖人君子様ってわけか」 「ありがとう」  「そこは、つっこむところだろうが!」 「なぜだ? 聖人君子というのは、誉め言葉ではないのか?」  「皮肉を言ったんだよ! ったく、相変わらずだな」   峰雪は大仰に肩をすくめた。  彼……そして、これまで会った人間の多くに言わせる限り、僕は、何か大事な感覚が欠落しているらしい。 雰囲気を読め、とか、人の話を聞け、とか、怒られるのは、しょっちゅうだ。 違和感の正体に気付いたのは、中学に入ってからだ。   どうやら僕以外の人間には、一種の超感覚があるようなのだ。   彼らは、声や文字、あるいは表情に、表面的な意味とは別に、深い感情的、論理的表現を載せて、しかもそれを共有することができるようなのだ。   それが、「雰囲気」というものらしい。  雰囲気の伝播速度ときたら驚異的である。 さきほどまで、ばらばらなことをしていた人々が、一糸乱れず全く同じタイミングで、大笑いしたり、あるいは、しんと静まりかえって悲しい顔をしたりする。   僕には、雰囲気が形成されるきっかけがわからない。 故に、反応が遅れる。   それは、この人の社会においては、許されない礼儀破りらしく、それ故に悪意を受けたことは数知れない。  ある日、「雰囲気」に取り残された時に、一冊の本に出会った。       “ブリキの〈樵〉《きこり》は心臓がなかったので、楽しいこと、     悲しいこと、正しいこと、間違ったことが     わかりませんでした。    「君たちと違って、僕には、導いてくれる〈心臓〉《ハート》が     ないから、よく考えて、良いことをしなきゃいけ     ないんだ」”   わかってしまえば簡単なことだった。 雰囲気というものを、他の人間は、感じられるらしい。 僕には、雰囲気は感じられないけど、考えることは、できる。   心臓がなくても、暖かく脈打つ血潮がなくても、生きてはいける。  その日から僕は、心臓の代わりに時計をさげて生きていくことにした。   カチカチと鳴る秒針が、僕の鼓動だ。   悟ってみれば、多少生きやすくはなったが、意志疎通の困難は変わらない。   テレパスの惑星に放り出された一般人。 そんなSFは無かっただろうか?  峰雪は、口は悪いが、それでも愛想を尽かさずにいてくれた数少ない友人であり……彼が言うところの、ダンキンバツボクの友、だそうだ。 意味は知らない。 「……にしても可愛い子だったな。〈沈魚落雁〉《ちんぎょらくがん》の風情ってやつだ」  〈沈魚落雁〉《ちんぎょらくがん》。漢語で、魚や鳥も恥じらってかくれるほどの美人を意味する。  ちなみに元々の意味では、いかに人間にとって美人でも、魚や雁は怖がって逃げる、という意味だそうな。合理的である。 「今度会ったら、名前くらい聞いとけよ。 袖振り合うも多生の縁ってやつだ」 「わかった」  そんなことを言う間に学校に到着。  私立〈海東〉《かいとう》学園。 これが僕の母校の名である。   名前からは分かりにくいが、海東学園はミッション・スクールである。   「海東」は、海を越えた東洋国、日本に布教に来た、という歴史を踏まえているらしい。 考えようによっては、自分勝手な名前だ。   学園創立者にとっては、西洋こそが世界の中心である、ということに等しいからだ。 まぁ、自分で入学しておいて、文句を言う筋合いもないが。  校門には、人の姿はまだ少なかった。   清冽な朝の空気を感じながら、ゆっくりと校門をくぐる。これならば、本当に気持ちのいい朝だ、と言っても差し支えない。 「FUCK!」   前言撤回。 校門をくぐりざま、峰雪が中指を立てた。   指の先にあるのは聖堂だ。 我が校は一応ミッション・スクールであり、その教育方針は、「キリスト教的精神の基本理念」である。   我が友、峰雪が、その教育方針の結果であるとしたら、あまり成功していないと言わざるをえない。 「……みっともないぞ、峰雪」  「なんとでも言え。 〈耶蘇〉《やそ》のやつらにゃ負けてらんねーのよ」  峰雪は、キリスト教に〈敵愾心〉《てきがいしん》を燃やしている。 自分で入学しておいて理不尽なことだ。   そもそも西洋音楽のミュージシャンを目指すなら、寺より教会に親和性を感じるべきではないか、と思うのだが、峰雪に言わせるとそうではないらしい。   その時は、ロックとパンクとメタルの成立過程および、社会と宗教とのスタンスについて、漢語混じりの説明を受けたのだが、よく覚えていない。 「峰雪くん」  「げ! メル!」   何の前触れもなく現れた男が、峰雪の指を掴んだ。 「この指は、な・ん・で・す・か?」 「痛ぇっ!」   回りから女生徒の嬌声が聞こえた。峰雪を応援するものは一つもない。 ナンパへの道は遠そうだ。 「メルクリアーリ先生、おはようございます」 「おはよう、九門君」   先生が笑うと、女生徒の叫びがひときわ大きくなった。  イタリア出身のファーザー・メルクリアーリ・ジョヴァンニ。 通称、メル。あるいは、「最強の」メル。   メル神父は、我が校で英会話を担当している。 そのおかげで、うちの卒業生は、みな、イタリア訛の英語を話す。  その甘いマスクは女生徒たちの憧れの的であるらしい。 純潔の誓いを立てた神父であるところからして恋愛対象には不向きと思われるのだが、そこにはどうやら論理で割り切れないものがあるようだ。 「放せよ、このイタ公が!」   峰雪の暴言に、慌てず騒がず、メル神父は、軽く言い放った。  「いつも言っているでしょう? 紳士たれ、と」   そう言いつつ峰雪の額を、人差し指でこづく。 「ぎゃっ」   解放された峰雪は、頭を押さえて転げ回った。 軽くこづいたように見えたが、その一撃の重さは計り知れない。   先ほどの登場といい、今の両足に軽く重心を乗せた構えといい、ただ者ではない。 最強の名は、伊達ではなかったか。 「そろそろ予鈴だ。早く行きなさい」  「はい」  「……待て!」  ようやく立ち上がった峰雪。 だが、神父は、現れた時と同様、忽然と姿を消していた。  「野郎、どこへ行きやがった」   あたりを見回すが、影すらない。  「峰雪、そろそろ行くぞ」 「ちっ。わぁったよ」  教室の戸を開けて、僕たち二人が入ると、急にクラスの会話が止んだ。 「んだぁ? 俺の顔に何かついてるか?」 「ついてるぞ、額のとこ」   僕は峰雪に声をかけた。 額に手をやった峰雪が、血に染まった指を見て、一言。 「なんじゃぁ、こりゃぁ!」   クラスの皆が、いっせいに視線をそらす。 心臓のない僕でも、はっきりと「雰囲気」をつかめる時はある。 今が、その時だ。 「九門くん、おはよう」   そんな空気をものともせず、 声が響く。 「おはよう、牧本さん」  「峰雪くん、どうしたの?」 「ああ、メルに捕まってね」 「また?」 「あんな〈淫祠邪教〉《いんしじゃきょう》の輩に、負けてたまるかってんだよ」  いきりたつ峰雪に、牧本さんは近づいた。カバンを開けて、絆創膏を取り出す。  「邪教って……好き嫌いはあるかもしれないけど、悪口言うのは良くないと思うよ」   額に絆創膏をはると、峰雪が、かすかに身じろぎした。  「わかった?」 「……おぅ」  牧本さんは、僕の数少ない友達の一人だ。 少なくとも、僕は牧本さんを友人と認識している。 彼女がどう思っているかは確認していない。  ともあれ牧本さんは、僕と峰雪に物怖じせずに普通に話しかけてくる、唯一の女生徒である。 そのことは、礼を言ってもいい足りないくらいだ。そこで僕は礼をすることにした。 「ありがとう、牧本さん」   その声を、予鈴が遮った。  「え、なぁに?」   振り向く牧本さんに、僕は、曖昧に頭をさげた。 「あー、終わった、終わった」  1限目のチャイムが鳴り終わると同時に、峰雪がのびをする。 「で、克の字。今日は暇か?」 「何をするかは、だいたい決めている。 ただ、必要に応じて時間を空けることはできる」 「それを暇ってんだよ。 んじゃ、蓮蓮食堂、行こうぜ」  最近、開店したラーメン屋か。前に峰雪が言っていた気がする。 「いや、断ろう」 「おまえ、さっき暇って言ったろうが?」 「? 暇と判断したのは君だが。 僕は、必要に応じて時間を空けることができる、と言っただけだ」 「……つまり、俺とラーメン喰うより必要なことがあると」  話が通じた。喜ばしいことだ。 「あぁ。妹が来るからな。家で待っていようと思う」 「恵ちゃんがっ!」   峰雪は、血相を変えて、僕の肩を掴む。  「ど・う・し・て! それを早く言わん?」 「聞かれなかったからだ」  「……で、いつ来るんだ?」 「だから、今日だ。 4時過ぎに駅に着くっていうから、放課後は直で、家に帰ることにする」  「出迎えはしねぇのか?」 「それは非論理的だ。 移動距離と時間を考え合わせると、僕が家で待って、恵がそこまで来るのが一番効率的だろう」  「そのこと、恵ちゃんは知ってるのか?」 「合理性を重視すれば、同じ結論に至るはずだ」 「……ちょっと待て。恵ちゃんは、何て言ってきたんだ?」 「駅に、16時17分の列車で着く、と言っていたな。 それに間に合うように家に戻れば……」 「この〈斉東野人〉《せいとうやじん》が!」   峰雪は、今度こそ噴火した。  「……そりゃ、駅で待ってるってことだよ!」 「そうなのか?」   そんなことはメールの文面に書いていなかった。 また、テレパシーだ。 「そうなんだよ! ああもういいから来い!」  「峰雪も、来るのか?」 「バカ、おまえ、当たり前だろ。 〈生者必滅〉《しょうじゃひつめつ》、〈会者定離〉《えしゃじょうり》の心ありだよ。 一期一会だよ、遠くて近きは男女の仲だよ」   何がなんだかわからないが、来たいようだ。  「じゃぁ、来ればいい」   そう言うと、峰雪は、いつもの変な顔をした。  駅についたのは、4時ちょうどだった。 峰雪は授業を抜けて、空港で待ち合わせよう、と言ったが、さすがにそれは無視した。 「空港ってことは、やっぱイギリスから?」 「ああ。向こうの学校が休みだそうだ」  「恵ちゃんが、留学生とはねぇ。 まさに〈竜駒鳳雛〉《りゅうくほうすう》ってやつだな」   峰雪がうなずいている。 竜駒鳳雛……〈竜馬〉《りゅうま》の子に、〈鳳〉《ほう》の〈雛〉《ひな》。俊敏な子供を言う。  「単に金銭的負担を最小にしただけだろう」  小学校一年生の頃、両親を亡くして初めてわかったのだが、九門家というのは徹底的に係累がいない家のようだ。   元々は奈良だかどこかの家だったようだが、祖父の代に東京に来てから、本家とは、とんと付き合いがない。  身寄りがなくなった僕と恵の面倒を見てくれたのは、峰雪の父だった。 押しつけがましいところは何もなく、最低限の干渉で、生活に困らないようにしてくれた。   恵が奨学金で留学し、僕も、特待生で、海東学園に入ったのは、せめてもの、お返しだ。 「〈蛍雪〉《けいせつ》の功か」  そんなところだろう。別に本当に貧乏したわけではないが。 ちなみに成績不良の峰雪は、推薦入学で入ったらしい。 そのへんは私学だから色々と融通が効く。 「そろそろ、かな」  僕は時計を取りだした。  「この列車だな」   轟音と共に階段に人があふれ、改札を抜けてやってくる。  先に見つけたのは、峰雪のほうだった。 「おーい、恵ちゃん、こっち!」  久しぶりに見る恵は、一回り背が高くなっていた。 「え、お兄ちゃん?」   恵は、驚いた顔をこっちに向けた。 「来てくれたんだ」 「峰雪が来いと言ったからな」  「あぁ、こいつったら家で待ってるって抜かしてたんだぜ」  「家で待つほうが合理的だと思ったんだが」  「でも、来てくれたんだ」   恵は静かにうなずいた。そして、くすりと笑った。 「相変わらずだね」 「恵もな」  「峰雪さんも、ありがとう」   恵は、峰雪に笑いかける。 峰雪が、みっともないほどに笑み崩れた。 こいつが僕とつきあってるのは、恵に会うためではなかろうかと、時々思う。 「恵ちゃん、飛行機は疲れなかった? イギリスからだと……十時間くらい?」  「疲れてはいないよ。 羽田で一泊してから来たし」  「そりゃよかった。 〈日月〉《じつげつ》〈箭〉《や》の〈疾〉《はや》きに過ぐ、だ。 さ、いこ、いこ!」  ずんずん歩いていく二人に、 僕は、取り残された恰好になった。   さてと、僕はこれから…… ・二人につきあう。→1−5−1・峰雪に任せて先に帰る→1−5−2 ●1−5−1・二人につきあう。 ●1−5−11−5−1 「さって、と。どこいく? カラオケかゲーセンか……ショッピングモールとか……」   峰雪が一人で、はしゃいでいる。  「そうねぇ、いい?」  「ああ、恵ちゃんはどこ行きたい?」  「スーパー山岡って、まだ、ある?」  峰雪は意表を突かれたようだが、立ち直る。  「あるよ」  「じゃ、そこがいい」  「よっしゃ!」  スーパー山岡は四階建て。だが恵が直行したのは、地下の生鮮食品売り場だった。 「お兄ちゃん……冷蔵庫に何入ってる?」 「消臭剤と氷」  恵は、小さくうなずいた。 「なんだ、その食生活は? 薬より養生だぞ?」  峰雪が説教を垂れる。   実は、この男、料理はうまい。 寺の修行とかで、よく賄いをさせられているらしい。 三角頭巾に割烹着らしいから、見物だと思うのだが。 「今日の晩は、ビーフシチュー」   厳かに恵が宣言した。 「俺もご馳走に……」 「だめ」   言下に恵が宣言した。  すたすたと野菜売り場へ歩み去る。   峰雪が、顔面蒼白にして、二、三歩あとずさった。  ああ、これなら、僕にもわかる雰囲気だ。 それでも、きちんと買い物かごを持って後をついていくあたりはさすがだ。 と思っていたら……。 「おまえも待て」   首根っこをひっつかまれた。 ……まぁ、たまに野菜を取るのも悪くないだろう。  思えば、三人でいる時は、昔からこんな感じだった。   恵は、今と違って泣き虫だったが、好奇心旺盛で、どこまでも歩いていった。   峰雪は、その恵を気遣って前を歩き、僕は二人のあとから、遅れがちについていった。  そして……あの頃は、シロがいた。 シロは、僕と恵の間を、いつも走って往復していた。   恵達とはぐれた時も、シロのあとをついていけば出会えたものだ。 そんな時は、たいてい泣きじゃくる恵と、その側で、怒っている峰雪が待っていた。 「おい! おまえは何してる?」   峰雪に耳を掴まれた。 「食玩を物色しているわけだが……」   『ラヴ・ヴィネ』は、“ピックマンズ・モデル”が、まだ揃ってないんだよなぁ。  「いいからこっちへこい」  見ると、峰雪の買い物かごは、すでに一杯になっていた。 ニンジン、タマネギ、ジャガイモ……ビーフシチューのレシピは知らないが、これは一体、何人前なのだろう? 「了解だ」  棚の食玩を、一通り取って、あとに続く。  恵は、肉売り場の前にいた。 もちろん、あの頃みたいに泣きじゃくってはいなかった。   シロがいなくなって、もうずいぶん経つ。  ……峰雪は、漢だ。   僕は、あらためて彼を見直した。 両手には巨大なビニール袋。 背にはエベレスト登山もかくや、というような量の箱を背負っている。  僕のほうも似たり寄ったりだが、峰雪は笑顔を浮かべている。 そこが違う。  アパートに近づくにしたがい、峰雪の顔には赤みがさし、汗までもが吹きだした。それでも笑顔の消えないところがやつらしい。 「ふぅん、ここがお兄ちゃんの住んでるとこ?」   銀杏並木を歩きながら、恵が言う。  「あぁ。作りは旧いが良いところだ。 おまえの住んでるとこには負けるかもしれないがな」 「冗談。私は寄宿舎で相部屋だよ。 うらやましいくらい」   ふむ。そう言われればそうか。 どうも、外国というだけで気後れしてしまう。 「あら、お帰りなさい」  「あ、管理人さん、おじゃまします」   峰雪が、律儀にお辞儀をし……危うく倒れそうになった。 しょうがないから支えてやる。 「あら、峰雪クン、いらっしゃい。  それと、こちらは……?」  「妹の恵です」   恵が頭をさげる。  「お兄ちゃんが、いつもお世話になってます」  「へぇ。克綺クンの妹さん? こんにちは」  管理人さんが、ふと手を叩く。  「そうだ、よかったら夕食に来ない? 私、少し作りすぎちゃって」  「管理人さんは、食事を作りすぎる癖があるんだ」   僕が説明すると、なぜか恵の顔が曇った。  「け、結構です。準備してきましたから」   管理人さんは、僕と峰雪を等分に見つめる。 「すごい量ね。 あ、私も手伝っていいかしら?」  「大丈夫です」   いやにきっぱり言い切ると、恵は頭を下げて早足で歩き出す。   僕と峰雪も、あとに続いた。 『どっこらしょ』   家の前で荷物を下ろすと、峰雪とハモった。バツが悪いことこのうえない。 「ありがとう……助かったわ」 「おぅ。恵ちゃんのためなら、これくらい」  「せっかく運んできたんだ。 あがってくか?」  「今日は、やめとくわ」  峰雪は、恵の顔色を窺ってから応えた。   彼の一連の行動は、どうやら恵に対する好意を示しているようだ。 だとすると、恵には、それに応えた様子がない(もっとも、例のテレパシーが二人の間で交わされているのかもしれないが)。   こういう時、確か……不憫なやつ、と言うんだったか? 「誰が、不憫だ、コラ!」   しまった口に出していたか。  「君のことだ。報われない努力を憐れむことを、不憫と形容すると理解しているんだけど、勘違いだったら撤回する」   質問に答えたのに、なぜか峰雪は機嫌を悪くした。 「先に帰る俺の親心をわからんのか?」  「親じゃないだろ?」   峰雪は気にせず続けた。  「〈修身斉家治国平天下〉《しゅうしんさいかちこくへいてんか》ってな。陵雲の志も結構だが、身を修めた後は、家を整えよと言うだろ」  「言うのか」   よく知らないが、言うらしい。 「……妹さんと、仲良くしろってことだ」  「言われるまでもない」 「……いや、おまえは言わなきゃわからんからな」  峰雪は、念を押して帰っていった。 →1−7−2へ ●1−5−2・峰雪に任せて先に帰る 「恵、これ、家の鍵だから。場所は知ってるな? なんだったら峰雪に送ってもらえばいい」  「うん、わかった」  「それじゃぁな」 「っておい!」  「ん?」   峰雪は、何でいつも怒るんだろう?  「まさか先に帰るつもりか?」 「そうだけど、何か?」 「おまえなぁ……せっかく恵ちゃんが帰ってきたってのに」 「そのことと、僕が別行動することの関係性が見出せない」  「くっ……これで、悪気がねぇんだからな。あのなぁ……」 「いいよ」  恵が峰雪を止めた。いいらしい。 よかった。  「止めないでくれ、恵ちゃん。善を責むるは〈朋友〉《ほうゆう》の道なり、だ」  「お兄ちゃんは、こういう人だから」   よくわからないが、うなずく。僕は、こういう人間だ。 「これ、家の鍵」  「わかった。晩ご飯までには、帰るから」   スペアキーを受け取って、恵は歩き出す。 「このファッキン〈磔野郎〉《はっつけやろう》が……」  「峰雪さん、いこう」   峰雪は、何故か怒っているようだが、恵に呼ばれて笑顔をそっちに向けた。     溜息をついて、それから柱に手をついて深呼吸した。 特に行くあてがあるわけじゃない。一人になりたかったのだ。   峰雪も、恵も好きだし、そばにいるのは居心地がいい。 ただそれでも……相手に関わらず、人と一緒にいるだけで、急に息苦しくなる時がある。 さっきも、そうだった。   心臓がないブリキの樵は、相手の気持ちを、頭だけで全部考えようとする。 時折、それが辛くなる。 脳に負担がかかるのか、何もかもする気力が失われる。  僕は、ゆっくりと歩き出した。 恵達には、ああは言ったが、今となっては、別に家に帰りたい気分でもなかった。 回り道でもしながら、適当にぶらつこう。  いい匂い。何の匂いだろう?  香ばしい煙に誘われるようにぶらつく内に、ラーメン屋の前に出た。「蓮蓮食堂」とある。   ……峰雪の言ってたとこか。確かに悪くなさそうな店だ。  店の前には、昼間だというのに車が一台、そして使い込んだ自転車が停められていた。  扉を開けて、ノレンをくぐる。 「いらっしゃい」  席は結構空いていた。 中に入れば香ばしい匂いは、ますます強くなった。 胸一杯に吸うだけで、よだれがでそうだ。  潮の香り…… 味わい豊かな魚介系スープの匂いだ。 その繊細な香りを裏から支えるのは、力強いチャーシューの匂いだ。  メニューを見れば、案の定、お勧めは塩ラーメンだった。  なになに、塩ラーメンは『厳選されたクリスマス島の海塩に、マグロ節、国産小麦の平麺をマッチしました』 ちなみに醤油ラーメンは、『本大豆醤油に一番出汁を合わせ、香り高い細麺の歯ごたえをお楽しみいただけます』  どちらもよさそうではないか。 「おじさん、おかわり!」 「はいよ! 塩もう一丁」  隣の子と、ふと目が合った。 「塩、おいしいよ」  小柄な子だった。小さな顔いっぱいに、笑顔を浮かべている。 無邪気、というか、本当においしそうな笑顔。   腰まで伸びた二房の銀髪を、勾玉の髪飾りで留めている。 ・じゃ、僕も塩ラーメンで…… →1−5−2−1へ。・じゃ、僕は醤油ラーメンで…… →1−5−2−2へ。 ●1−5−2−1  ・じゃ、僕も塩ラーメンで…… 「じゃ、僕も塩ラーメンで……」 「あいよ、塩、もう一丁」  少女が嬉しそうに、うなずいた。 見ると、彼女の前には、すでにどんぶりが山と積まれている。 「常連さんなんですか?」   なんとなく話しかける。  「いや、今日見つけたんだけど、大当たり。ボクは鼻がいいんだ」   そう言って鼻をうごめかす。  「そうですね。 僕も香りに釣られて来ましたから」  「おサカナさんの、いい匂いだよね」 「あい、塩ラーメンおまちどう」   そうこういう間に、ラーメンが届く。 潮の香りを胸一杯に吸い込んだのち、スープを一口すすると、繊細な味が口の中に広がった。こりゃぁ、おいしい!   続いて啜った麺は、これまた、極上だった。スープをまとった平麺でありながら、かみしめれば、確かな小麦の味がする。   無我夢中で麺を啜り、スープを呑み込む。 「ごちそうさま!」  ……早っ! それにしても幸せそうな顔だ。なんか、もう一杯食べたくなってきたな。 「おじさん、こっちも、もう一つ!」 「あいよ」  塩ラーメンを、都合、二杯平らげて、お茶を飲んでいた時だ。  隣の女の子が席を立った。 「ごちそうさまでしたー。おじさん、お勘定、お願い」  「あいよ」   おじさんも嬉しそうだ。 ラーメン7杯食べる客というのは少ないのではないか。 あの小さな身体のどこに入ったのだか。  悲劇は次の瞬間に訪れた。  女の子は、古びたポシェットをひっくり返し、小銭を出す。  「あ、あれ!?」   足りない。どう見ても足りない。 「ど、どうしよ……」 →1−5−2−3へ。 ●1−5−2−2 (醤油ラーメン) ・じゃ、僕は醤油ラーメンで…… 「じゃ、僕は醤油ラーメンで……」 「うん、醤油もおいしいんだ、ここは。 おじさん、ボクも醤油追加!」 「あいよ、醤油二丁」  積み上げられたどんぶりは……ひいふうみい、4つ。 しかも少女の顔を見る限り、いささかも無理している様子はない。 何か、末恐ろしいものを感じた。 「お待ちどう!」  少女の目の前には、二つのどんぶりが置かれていた。 片方は、澄んだスープの塩ラーメン。 もう一つは、香ばしい色に染まった醤油ラーメン。  目の前におかれた二つのどんぶりを、じっくりと見比べ、鼻をうごめかして香りを味わった。しかるのちに一気に……食す!  拳が軽くカウンターを叩くと、二つのどんぶりが同時に垂直に飛び上がった。  空中で箸が交差し、レンゲが踊った。 スープが、チャーシューが、麺が、竜巻に巻き上げられるかのように宙を舞い、少女の口の一点に吸い込まれる。 何もかも一瞬だった。  少女が両手でどんぶりを受け止めた時、すでに二つとも空っぽであった。 一瞬の神業に、どれだけ見とれていたのだろう。 「のびちゃうよ?」   言われてようやく、僕は自分が頼んだ醤油ラーメンに気付いた。  「え……うん」  顔を赤くしながらラーメンを啜る。確かに、醤油ラーメンもおいしかった。 スープに絶妙のコクと、香ばしさがあり、わずかに硬めの麺がそれに負けていない。 チャーシューもいい味が出ている。  おもわず、もう一杯お代わりしていた。 「おじさん、お勘定お願いします」 「あいよ」   おじさんも嬉しそうだ。ラーメン7杯食べる客というのは少ないのではないか。  悲劇は次の瞬間に訪れた。  女の子は、古びたポシェットを取りだして、手に小銭を出す。  「あ、あれ!?」   足りない。どう見ても足りない。  おじさんも困っているようだ。 悪気がないのは察せられるが、これだけ食べられてお金がないというのは、困りものだ。   僕は…… ・「おやじさん、お勘定」そしらぬ顔で店を出た。・「お金、足りないの?」少女のほうに話しかけた。 ●1−5−2−3−1 「おやじさん、お勘定」 「あ、はい。ただいま」  見たところ、中学生風だった。 学生証でも置いてお金を取ってくれば解決だろう。 気にするほどのことじゃない。  お腹がいっぱいになった僕は、ゆっくりと我が家に足を向けた。 ●1−5−2−3−2 「お金、足りないの?」 「え?」   少女が、びっくりした顔を、こちらに向けた。  「お金を出そうか?」   少女は、しばらく迷っていたみたいだが、いきなり九十度に身を折り曲げた。  「お、お願いっ!」 「うん」  ……少女は、ラーメン7杯のほかに、チャーシュー盛りと炒飯、豚マヨ丼に水餃子3皿も食べていることが判明した。   危うく、少女の二の舞になるところで冷や汗をかいたが、かろうじて財布の中身は事足りた。  店を出て、ほっと一息つく。 「ゴメン……お金を返したいんだけど、今、時間あるかな?」  僕は、少し考えて首を振った。 もともと一人になりたくて来たところだ。これ以上いると、息が詰まる。  それに、そろそろ恵も帰ってくる頃だ。 「悪いけど、そろそろ帰らないと。このへんの人?」 「違うけど、しばらくいるよ」 「じゃぁ、また今度でいいよ」  携帯の番号を渡す。  「……わかった。じゃぁ、北の果ての山のオオフクロウに懸けて、この借りは必ず返すからね」  厳かに少女は言って、少女は走り去った。   僕も、家路を辿る。  しばらく歩いてやっと、僕は、あの子の名前を聞いていないことに気付いた。 ガラにもないことをしたら、これだ。   ……まったく、今日は、どうかしている。  気が付けば、あたりはすっかり暗い。 メゾン前の銀杏並木は、街灯もなく、夜は、真っ暗になる。   闇の中から声がした。優しい声が。 「あら、克綺クン。妹さん、帰ってるわよ」  管理人さんだ。並木道の掃除を終わるところか。 「あ、どうも」 「あんな可愛い妹さん、どこに隠してたの?」 「イギリスに留学してました」 「へぇ。ひょっとして、イギリスから帰ってきたところ?」 「ええ。6年ぶりです」 「まぁ! そうなの。ねぇ、だったら……」  少しだけ会話が、うっとうしくなる。僕は、管理人さんの言葉を遮った。 「じゃぁ、僕はこのへんで失礼します」 「あら、ごめんなさいね。引き留めちゃった」 「では」 「また明日ね」  頭を下げて、メゾンに入る。  自室の扉の隙間から、灯りがもれているのが新鮮だった。  扉を開けると、トマトを煮込む匂いが鼻をついた。 いい匂い……と言いたいところだが、ラーメン少女の食いっぷりに当てられて、食べ過ぎたみたいだ。 あまり食欲がない。 「お兄ちゃん、お帰り」   エプロン姿の恵が立っていた。 こちらを見る表情が、こころなしか強ばっている。  「ただいま」  「晩ご飯……」   どことなく緊張感のある声。  「ビーフシチュー作ったけど、食べる?」   僕は…… ・うなずいて、テーブルに着いた。 1−7−1−1へ・ラーメン食べたからいい、と断った。 1−7−1−2へ ●1−7−1−1  僕はうなずいて、テーブルに着いた。 「ちょっと待ってね」  恵の声が、さっきから固いのは気のせいだろうか? 「せやっ!」  キッチンのほうから気合いが響いた。気合い?  ……ガスコンロにかかっていたのは、見たこともない巨大なズンドウだった。 バケツと見まごう大きさのそれを、恵が顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。 両腕が、ぶるぶると震えていた。 「危ない!」   さすがに手を出す。  「お兄ちゃん?」 「いいから……ぐっ!」   恵をどかせて、ズンドウを掴む。お、重い……覗き込むと、案の定口まで一杯シチューが入っている。 「ぬぁっ!」  ……なんとか床に下ろして、荒い息をつく。腰に来る重さだな、こりゃ。   恵が、空いたコンロでヤカンを火に掛けた。 「お兄ちゃん、大丈夫?」  ああ……と応える以外に何ができただろうか? 「いただきます」  「いただきます」   そう言って、恵は笑った。 「どうした?」  「いただきますって言ったの、久しぶり」 「そうなのか?」 「向こうは、こんな感じ」   恵は、両手を合わせて目を閉じた。 「God is great, God is good. Let us thank Him for our food. By His hand we all are fed. Give us, Lord, our daily bread. Amen. 」  食前の祈りってやつか。 恵の通ってる学校も、ミッション系の全寮制だ。   夕飯ごとに、一斉に集まって、みんなでアレを唱えるわけか。 ちょっと不気味かもしれない。 そんな僕の心を読んで恵が言う。 「……もう慣れたけど、でも、やっぱり、いただきます、のほうがいいよ」  「そうかもな」  ビーフシチューの匂いをかぐと、気分が悪くなった。   蓮蓮食堂のラーメンは薄味なので、つるつる入った。 がしかし、ラーメンはラーメンだ。 夕食前に、お代わりするのは無謀な行為だったようだ。  スプーンでニンジンを突っつくと、抵抗なく裂けた。 この柔らかさ、1時間は煮込んである。 いや、あのズンドウからすると、もっとか?   スーパーに寄ったあと、家に直行して、ずっと煮込んでいたわけか……。 つきあった峰雪の悲しそうな顔が目に浮かぶようだった。 「おいしい?」   気が付くと、恵がこっちを覗き込んでいた。 ・うん、おいしいよ。俺は無理に笑顔を作った。 1−7−1−1−1へ・おいしくない。 1−7−1−1−2へ ●1−7−1−1−1  俺は無理に笑顔を作った。 恵が、僕の顔をまじまじと覗き込んだ。冷や汗が流れる。 「よかった」   そう言って浮かべた笑顔は、どこか固かった。  僕も、おいしいと言った手前、ビーフシチューに取りかかる。   じっくり煮込んだ、すね肉。 味が染みて非常においしい。はずだ。 けど今は、見るだけで、あのラーメン屋のチャーシューを思い出して胸が悪くなる。  スープで流し込むように胃に入れる。   しばらくの間、かちゃかちゃと、食器の動く音だけが響いた。  僕がスプーンを置くと、  「嘘つき」   恵がぽつりとつぶやいた。 「……すまない。途中でラーメンを食べてきた」  「言ってくれればよかったのに。 ビーフシチューだから、ずっと保つよ」   返す言葉がなかった。今日はどうも、調子が変だ。 「でも、ありがと」  そう言って、恵は、流しに皿を持っていった。   何が、ありがとうなんだろう? 僕には、よく、わからなかった。 →1−8−1へ ●1−7−1−1−2 「おいしくない」   僕は、正直に話した。恵の顔が固くなる。 「……何か食べてきたの?」 「うん。ラーメンを2杯。おいしかった」   仏頂面の恵は、突然、吹き出した。何が起きたんだ? もしかして、また「雰囲気」を読み違えたのだろうか? 「なに?」  「お兄ちゃん……本当に、ちっとも変わってないのね」  「あぁ」   自分でも変わったつもりは、ない。 「うん、わかった」  恵は、僕の分にラップをかけて冷蔵庫にしまった。 何やら中身が色々増えている。 ビーフシチュー以外に、どれだけ買い物したんだろう?  僕は食卓を立って自室へ向かった。 振り向くと、恵はビーフシチューを食べながら、まだ、笑っていた。 →1−8−1へ  ラーメン食べたからいい、と断った。  「ラーメン?」   恵が、恨めしそうな声を出す。  「あぁ。おいしかったので2杯食べてきた」  「わたし、晩ご飯までに帰るって言ったよね」  「言った」   確かに恵は、そう言った。 「あのね、あれはね。一緒に晩ご飯を食べましょう、ってことだったの」  「なるほど、そうだったのか」   二重の意味。宣言に混じった懇願。 同じ兄妹でも、恵は問題なくテレパシーが使えるのだ。  「では、そう言ってくれればよかったのだが」   僕はテレパシーが受信できないのだから。 「そうよね……お兄ちゃんに会うの久しぶりだから」   恵は難しい顔で、腕を組んで、そして吹き出した。  「でもお兄ちゃん、ほんっとそういうとこ、変わってないね。安心したよ」  「あぁ」  「ビーフシチュー、明日も食べられるし、冷凍もできるから。気にしないで」  別に気にしてはいない。   僕は食卓を立って自室へ向かった。 振り向くと、恵はビーフシチューを食べながら、まだ、笑っていた。 →1−8−1へ ●1−7−2(恵と一緒に帰宅)  部屋に帰ると、恵が、怖い顔をして、こっちをにらんでいた。 「お兄ちゃん、さっきの、どういうこと?」 「さっきのってなんだ?」 「管理人さんが……その、ご飯を作りすぎる癖があるとか」 「あぁ、言った通りだ。あの人は、よく、朝ご飯を作りすぎるんだ」 「それ、お兄ちゃんが、食べてあげてるの?」  論理的には飛躍した文章だ。管理人さんがご飯を作りすぎたからといって、僕が食べるとは限るまい。とはいえ、この場合は的中している。 「よくわかったな」 「……どれくらい、お呼ばれしてるの?」 「毎朝だな」  僕は、少し考えて、言葉を継いだ。 「管理人さんは、物覚えが悪いところはあるが、非常にいい人だ。 恵が気にする必要はない」 「気にするわよ!」  「恵、記憶力で人を差別するのは……」  「お兄ちゃん、本気で管理人さんが、ご飯を作りすぎてると思ってるの?  ……思ってるんだよね」   恵が、肩を落とす。 「どういうことだ?」   例によってテレパシーだ。管理人さんと3年以上のつきあいがある僕に分からないことが、恵には一瞬でわかったらしい。  「それはね、お兄ちゃんが一人暮らしだから大変だろうと思って、管理人さんが朝ご飯を作ってくれてるの」 「……ほう」   僕は、恵の主張を検討した。 確かに、管理人さんのしそうなことだ。いろいろと辻褄も合う。 「それは理解できる。そうであるなら、しかし、どうして最初から、そう言わないんだ?」  「そう言わないと、普通の人は遠慮するからよ」   身に覚えのない施しを受けるわけにはいかない、というわけか。そうかもしれない。 僕は、頭に引っかかったことを聞いてみた。 「わかった?」 「あぁ、わかった。だが一つ疑問がある」  「なに?」 「もし、本当に朝食を作りすぎた時、人はなんて言うんだ?」   恵は、一つ溜息をついてから、微笑んだ。 「……お兄ちゃん、本当に、変わってないね」   言ってることの意味はわからない。 けれど、恵の、その顔を見て、僕は、少しだけ、ほっとした。 恵も変わっていない。そう思う。 「私、晩ご飯、作っちゃうから」 「わかった。僕は少し休む」  椅子につくと、どっと疲れが出た。  峰雪も恵も好きだし、そばにいるのは居心地がいい。 ただそれでも……相手に関わらず、人と一緒にいるだけで、身体の芯が疲れてゆく自分がいる。   心臓がないブリキの〈樵〉《きこり》は、相手の気持ちを、全部頭で考えようとする。それが、時々、辛くなるのだ。   カーテンを閉めて、曲をかける。 ゆっくりとしたリズムに乗って深呼吸をする。   次第に気が落ち着いた、と思ったその時。  耳障りな音が台所から響いた。恵が、料理をしているのだろうか。 僕は…… ・不安になり、台所に様子を見に行った。→1−7−2−1へ・ヘッドホンをかぶり、音量を上げた。→1−7−2−2へ ●1−7−2−1・不安になり、台所に様子を見に行った。→1−7−2−1へ  台所をのぞき、改めて峰雪がいないのを残念に思った。 あいつなら、この状況を形容するにふさわしい故事成語を知っているに違いない。   僕のボキャブラリーで形容するなら……「それは、包丁というには大ざっぱすぎた」もとい「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」と言ったところか。  恵は、見たこともない巨大な包丁を握っていた。 どうやら食材だけでなく、料理道具も買い込んでいたようだ。   まな板の上で、野菜も肉も、すべてが音を立てて寸断されてゆく。   恵がまな板を傾けると、切断された食材は、なにやらバケツほどもあるズンドウの中に、がらんがらんと転がり落ちていく。 さっきの騒音は、これだったか。   問題は、その手つきが、どうにも危なっかしいことだ。 「あ、お兄ちゃん」   振り向いた顔が上気していた。  「晩ご飯、作っているから、もう少し、待って」 「わかった」  料理は、得意ではない。口を出しても混乱が増すだけだろう。 僕は、恵を信じることにして、部屋に戻った。  地獄の鍛冶屋を思わす衝突音は、やがて、途絶えた。 煮込む段階に入ったのだろう。  メールをチェックし終え、本を読んでいると、遠慮がちなノックの音が響いた。 「どうぞ」 「お兄ちゃん、晩ご飯」   ドアが開くと、いい匂いが漂ってきた。ビーフシチューだろうか。 ……唯一、恵が、肩で息をしているのが、気になるが、指は十本揃っているようだし問題はないだろう。  「あぁ、今行く」 →1−7−3へ ●1−7−2−2・ヘッドホンをかぶり、音量を上げた。→1−7−2−2へ  曲目を変えて重低音を響かせる。   ゆっくりと、外の世界のことを心から追い出す。 二、三度深呼吸して、ようやく身体の震えが止まった。   ゆっくりと目を開いて、僕は、ぼんやりとパソコンを立ち上げた。  メールとネットをチェックしてゆく。 音もなく、感情もなく、ただとりとめなく表示される情報に没入する。  ………。 ……。 …。   画面が光って、メールの到着が告げられる。 sub:お兄ちゃんへ。      晩ご飯できました。  ……ああ、もう、そんな時間か。 ヘッドホンを取って振り向くと…… 「ッ!」  喉に息が詰まった。 こめかみが、ガンガンとする。  「お兄ちゃん、やっと気付いた?」   片手に携帯を持っている。 そこからメールを送ったのか。  「ノックをしてほしいんだが」 「したよ」   冷たい声。  「何度もしたし、声もかけた」 「……そうか。悪かった」  ふと、鼻をひくつかせる。  「……いい匂いだ」 「晩ご飯は、ビーフシチューだよ」   恵が、笑った。 顔が上気しており、息が荒いのが気になる。   ……何があったのだろうか? →1−7−3へ 「せやっ!」  食卓に着くと、キッチンのほうから気合いが響いた。 気合い?  ……ガスコンロには、巨大なズンドウがかかっていた。   バケツと見まごう大きさのそれを、恵が顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。 両腕が、ぶるぶると震えていた。 「せやっ!」  食卓に着くと、キッチンのほうから気合いが響いた。 気合い?  先ほどの、バケツと見まごう巨大なズンドウを、恵が顔を真っ赤にして持ち上げようとしている。 両腕が、ぶるぶると震えていた。 「危ない!」   さすがに手を出す。  「お兄ちゃん?」 「いいから……ぐっ!」   恵をどかせて、ズンドウを掴む。 重い……覗き込むと、案の定口まで一杯シチューが入っている。  「ぬぁっ!」  ……なんとか床に下ろして、荒い息をつく。腰に来る重さだな、こりゃ。   恵が、空いたコンロでヤカンを火に掛けた。 「お兄ちゃん、大丈夫?」   ああ……と応える以外に何ができただろうか? 「いただきます」 「いただきます」   そう言って、恵は笑った。 「どうしたんだ?」  「いただきます、なんていったのは久しぶりだと思って」  「そうなのか?」   恵は、両手を合わせて目を閉じた。 「God is great, God is good. Let us thank Him for our food. By His hand we all are fed. Give us, Lord, our daily bread.Amen.」  食前の祈りってやつか。 恵の通ってる学校は、カトリック系の全寮制だ。   夕飯ごとに、一斉に集まって、みんなでアレを唱えるわけか。 ちょっと不気味かもしれない。   そんな僕の心を読んで恵が言う。 「……もう慣れたけど、でも、やっぱり、いただきます、のほうがいいよ」  「そうかもな」  スプーンでニンジンを突っつくと、抵抗なく裂けた。 スネ肉のいい味が出ている。 「おいしい?」  気が付くと、恵がこっちを覗き込んでいた。  「うん」   特に味に異論はなかったので、 うなずいた。  「まだ、おかわりはあるよ」   それは、あるだろう。  「しかし、何でこんなに一杯作ったんだ?」   僕は疑問を口に出した。 「寮の食事当番だと、いつも、これくらいの量だから……でもほら、ビーフシチューは、冷凍しておけるから」 「から?」 「冷蔵庫見たら空っぽだったよ。 外食ばっかりしてると、身体に悪いでしょ」   冷たい宣告の言葉。 「栄養バランスは考えているから、心配しなくてもいい」 「そういう問題じゃないの」 「どういう問題なんだ?」   素朴な疑問に対して、恵は、眉をひそめて押し黙った。 「私は、お兄ちゃんに、いつも、おいしいご飯を、食べていて、ほしいの」   子供にするように、ゆっくりと区切るように、説明する。 ・「わかった」そう言って僕は、うなずいた。→1−7−3−1へ・僕の食事に干渉しないでくれ。→1−7−3−2へ ●1−7−3−1  食事に干渉されるいわれはないが、これもまた、好意の形なのだろう。 それに、きちんと調理された食事が嫌いというわけでもない。   だとすると……ああ、そうだ。 「ありがとう、恵」   シチューを食べていた恵が顔を上げた。 まるでシチュー皿の中にイリオモテヤマネコを見つけたかのような、呆然とした表情。   僕が、礼を言うことは、そんなに変なことなのだろうか? 「今、お兄ちゃん、なんて言った?」   僕の感覚だと、それは失礼な物言いというやつではなかろうか? まるで僕が感謝を忘れやすいみたいだ。  「ありがとう、恵」 「そのありがとうは、何に対して?」 「僕の食生活に、干渉してくれたことに対してだ」 「どういたしまして」   恵は安心したように、うなずいた。 ちょっと、嬉しそうだった。   わからない。 恵の考えることは、さっぱり、わからない。 →1−8−2へ ●1−7−3−2 「そう言うと思った」   恵は、軽くうなずいた。  「とにかく、準備はしたから、食べたくなったら言って。 峰雪さんにあげてもいいし」   ……あのズンドウを持ち帰らせるのか? いや、峰雪なら持ち帰るか。 「いや、そういうわけではない。 シチューは、おいしかった。 その干渉を受け入れよう」  「ほんと、変わってないよね。 お兄ちゃんとしゃべるのって、宇宙人と話すみたい」   恵は、面白そうに言った。 「それは、こちらも同じだ。僕なんか、同じ星の仲間がいないので苦労している」   そう言うと、恵は、はっとした顔をした。  「……そうだよね。ごめん」 「恵が謝ることじゃない」  そう言っても、なぜか恵の顔は暗いままだった。 →1−8−2へ 「明日、お兄ちゃん、何時に起きる?」  「聞いてどうするんだ?」 「朝ご飯よ。ビーフシチューが残ってるから、一緒に食べましょ」 「朝ご飯よ。一緒に食べましょ」 「朝ご飯なら、管理人さんが、また余らせるかもしれないな」 「……え、何? どういうこと、それ?」   急に恵があわてる。  「言った通りだ。きっと忘れっぽいのだろうな。朝ご飯を、毎朝、余分に作る癖がある」  「もしかして、それ、お兄ちゃんが、食べてあげてるの?」   論理的には飛躍した文章だ。管理人さんがご飯を作りすぎたからといって、僕が食べるとは限るまい。とはいえ、この場合は的中している。 「よくわかったな」  「……どれくらい、お呼ばれしてるの?」  「毎朝だな」  僕は、少し考えて、言葉を継いだ。 「管理人さんは、物覚えが悪いところはあるが、非常にいい人だ。恵が気にする必要はない」  「気にするわよ!」  「恵、記憶力で人を差別するのは……」  「お兄ちゃん、本気で管理人さんが、ご飯を作りすぎてると思ってるの? ……思ってるんだよね」  恵が、肩を落とす。 「どういうことだ?」   例によってテレパシーだ。管理人さんと3年以上のつきあいがある僕に分からないことが、恵には一瞬でわかったらしい。  「それはね、お兄ちゃんが一人暮らしだから大変だろうと思って、管理人さんが朝ご飯を作ってくれてるの」  「……ほう」   僕は、恵の主張を検討した。 確かに、管理人さんのしそうなことだ。いろいろと辻褄も合う。 「それは理解できる。そうであるなら、しかし、どうして最初から、そう言わないんだ?」  「そう言わないと、普通の人は遠慮するからよ」   身に覚えのない施しを受けるわけにはいかない、というわけか。そうかもしれない。 僕は、頭に引っかかったことを聞いてみた。 「わかった?」  「あぁ、わかった。だが一つ疑問がある」  「なに?」  「もし、本当に朝食を作りすぎた時、人はなんて言うんだ?」   恵は、一つ溜息をついた。  「とにかく、明日、朝ご飯の時、管理人さんには挨拶しなきゃ」 →1−8−2へ。 ●1−8−2 「そういや恵、こっちでは、どこに泊まるつもりなんだ?」 「お兄ちゃんの家に泊まるつもりだったんだけど」 「初めて聞くが」  日本に来るとは聞いていたが、泊まるとは聞いていなかった。 あるいは言ったのかもしれない。テレパシーで。 「無理?」 「邪魔だ」  「私、邪魔?」 「あぁ、部屋が狭いからな。 二人で寝起きするのは大変だろう」  「泊まって泊まれないことはないが、用意がない」   寝具の余分は、この家にはない。 「あ、それなら大丈夫」   恵がにやりと笑う。 「こんなこともあろうかと、いっぱい買ってきたから」   恵は、買い物袋の中から、寝袋をとりだした。 そして、一人用の簡易テントまで。 道理で重いはずだ。  誰だろう? 管理人さんかな? 「はい、九門ですが」 「今晩は」  「ああ、管理人さん。 今、晩ご飯を食べたところです」  「そうなの。ちょうどよかったわ。 お茶でもいかが? 恵ちゃんも一緒に?」  誰だろう? 管理人さんかな? 「はい、九門ですが」 「今晩は」  「ああ、管理人さん」  「お茶でもいかが? 恵ちゃんも一緒に?」  断る理由もない。  僕は、恵に向きなおった。  「どうする?」  「うん、いこ、お兄ちゃん」  階段を歩いて一階に下りる。 「狭いところだけど、ゆっくりしていってね」  管理人さんの部屋には、毎朝のように来ている。 入るとすぐに大きな台所があり、奥に大きな物置部屋があるようだ。  ここは居間。 隅に、大きな暖炉がある。 これは飾りではなく、火がはいっている。  暖炉の他には、小さなテーブルがあり、3人入ると手狭ではある。  「確かに狭いですね」   テーブル下で、恵が僕の足を蹴飛ばす。見ると、顔が赤い。 「どうかしたのか?」   当人の意見を追認することが、なぜ、いけないのか。 恵は、なぜか目を伏せた。 「はい、どうぞ」   綺麗なティーセット。薄い磁器は、かすかに橙色に染まっている。 いずれも年代物なのだろう。 「克綺君に、妹がいるなんて、全然知らなかったわ」  「言ってませんから」   痛っ。今度は、もろに向こうずねを蹴られる。  「あ、あの。いつもお兄ちゃんが、お世話になってます。 こんな人ですけど……悪気はないんです」   どんな人なのだろう。 「お世話なんて、とんでもない。 克綺クン、裏表がなくって気持ちいいわ」   管理人さんが微笑むと、恵は、驚いた顔でうなずいた。  「裏も表も……何にもない兄ですけど」   どんな兄だ。 「恵ちゃんは、どちらからいらっしゃったの?」  「留学してました。 今は、向こうの学校が休みなんです」 「そうなの。しばらくこちらにいるの?」  「ええ。今晩は、兄の部屋に泊まらせていただこうかと」 「そう。それで、さっき部屋が狭いって話を……」   痛い痛い痛い。 「よろしいでしょうか?」 「もちろんよ。よかったら、お部屋を用意するけど?」  「え? そんな、悪いです」 「いいのよ。どうせ空いてるし、ほら、部屋って使わないと、痛むでしょ。 風でも通してくれると嬉しいのだけど……」  「あの……私」 「遠慮は無用よ。克綺クンの妹さんなら、大歓迎だから」 「わかりました。そうしましょう」 「……ちょっと、お兄ちゃん!」 「ん、何だ?」   僕の顔を見て、恵は、何かをあきらめたように溜息をつく。 「ありがとうございます。 じゃぁ……部屋をお借りします」  「何日くらいいるの?」 「え?」   恵が驚く。 今日だけ泊まっていくつもりだったらしい。  「あ、あの10日くらいです」 「10日と言わずに、もっといてくれてもいいのよ」  管理人さんは笑う。エプロンの中から鍵束を取りだし、鍵を抜いた。  「はい、これね。お部屋は、お兄さんの隣だから」 「ありがとうございます」   恵が頭を下げる。  部屋を出ると、恵が大きく溜息をついた。 「管理人さんがいい人で、よかったね」 「うん」   それには異論がない。  「普通の人なら、怒ってるよ」 「そうなのか」  「そうだよ」   恵は熱弁する。 「部屋のことだって……あんなんじゃ、 厚かましいと思われても仕方ないよ」  「向こうが言ってきたことだろう。 了承すると厚かましいのか?」 「社交辞令ってこともあるでしょ!」   「あ、管理人さん。こんばんは」   困った顔をした管理人さんが、そこにいた。 「ごめんなさい、聞こえちゃった」  「す、すいません!」  「あ、でも、社交辞令じゃないわよ、安心して」  「だそうだ、恵。よかったじゃないか」   僕と管理人さんは、顔を見合わせて笑った。  恵の狙い澄ました一撃が、膝を襲う。  「くっ……」 「えと……今日から、お世話になります。よろしく、お願いします」  「メゾン・フォレドーにようこそ」   管理人さんは、そう言って恵の手を取った。 →1−9へ ●1−9 「お兄ちゃん、お先に」  そう言って恵が脱衣場に入った。   恵の入る空き部屋には、家具もベッドもあり、くわえて管理人さんが毎日掃除している。 電気も入ったが、ただガスだけは、ガス局への手続きが必要らしい。   管理人さんは、明日にでも手続きしてくる、と言ったが、僕らは断った。 ガスを通すと、基本料金は一ヶ月分になる。 また、恵が帰る時にも手続きが必要だ。 であれば、浴室は僕の部屋を使う、というのが合理的だ。   旅行鞄、その他を恵の部屋に運び込んだ頃には、風呂が入っていた。  僕は、ベッドに寝転がる。  浴室からは、シャワーの音が聞こえてくる。   自分の部屋に、他人がいるというのは妙な気分だ。 峰雪とはよく遊ぶが、この部屋に長く入れたことはない。   部屋に戻り、ドアの鍵を閉め、ベッドに横たわった瞬間、僕は一人になる。 「雰囲気」を計算することもなく、「顔色」を分析することもなく。 空転していた脳を休ませ、ただ、ぼんやりとする、その一瞬。 僕だけになれる、その瞬間。   それが心地よいと思っていた。  浴室から、恵の声が聞こえる。歌を歌っているのだろう。 これはこれで、悪くない。 誰かが、そばにいる、ということも、時には気が休まる。   思えば、そんな簡単なことを忘れていた気がする。 天井を見ながら、そんなことを覚えた。 「お兄ちゃん?」   肩を揺り動かす手に、僕は、うっすらと目を開ける。 「あぁ、恵か」   どうやら、制服のまま眠ってしまっていたらしい。 目をこすって、上体を起こす。  「お風呂、まだ、入ってるけど、どうする?」  風呂上がりの恵の髪は濡れていて、頬は赤く上気していた。 そういえば、ドライヤーまでは持ってきていなかった。  「あぁ、あとで入る」  「じゃ、私、戻るから。おやすみなさい。戸締まりに気をつけてね」  「あぁ、おやすみ、恵」  僕は、恵を送り出すと、風呂に入った。  足を入れて、僕は顔をしかめる。 熱い。爪先が赤くなる。 思えば恵は、子供の頃から、熱い風呂が好きだった。 一緒に入っていた頃は、よく、喧嘩になったものだ。   二人で、お湯と水を入れあって、しまいに風呂桶から水がじゃんじゃんあふれ、もったいないと親に怒られた。   そんなことを思い出す。  お湯を、手に取る。熱いが、耐えられないほどではない。  僕は、眉根に力を入れて、ゆっくりと湯船に体を沈めた。 肩まで浸かると、湯が大きくあふれる。    つまりは、アルキメデスの原理。 いま、あふれた分が、僕と恵の体積の差ということになる。    あふれた水は、過ぎた年月。 そんな、とりとめのないことを思った。  風呂から出て、ベッドに入る。 長風呂しすぎたか、それとも、気疲れのせいか。   僕は、すぐに眠りに落ちた。  窓から漏れる光を、紅いコートの女は、じっと見つめていた。  カーテン越し、わずかに見えるシルエット。 水音が止み、しばらくして、その灯りも消える。 もう、光は漏れない。  時間は10時。 今日はなかなか普段にはない出来事が多いようだった。 疲れて、いつもより早めに就寝したのだろう。  彼女は、そう結論づけると。  コートを翻し、背後の気配に微笑む。 「久しいな。何年ぶりだ?」 「――――」  言葉が向けられたのは、女性。 肩からかけた布が、緑の髪が、夜の風になびいている。  顔立ちは、美しい。だが、ほんのわずかな感情も、〈窺〉《うかが》えない。 人形を思い起こさせる、顔立ち。  だが、目を奪うのは、彼女の左腕だ。 なびく布の切れ端から覗くその腕は、人間のものではあり得ない。  奇妙に長い、骨を模したからくり細工。 腿まで届くその指先が、ゆっくりと紅いコートの女を向く。 「挨拶もなしか、ヒトガタめ」   吐き捨てて、紅いコートの女は背後に下がる。  飛び去りざまに、どこからか取り出した黒い短剣――月牙が、闇を切り裂いた。 黒塗りの刃は音もなく、楕円を描いてヒトガタを目掛ける。  だが、ヒトガタは、動じない。 全く表情を変えないまま、無造作に腕を振るう。  閃光、ふたつ。   けたたましい金属音とともに、小さな火花を散らして、月牙がたたき落とされる。  無表情のまま、ヒトガタの身体が滑るように動いた。 指先が、捕らえに来る。機械的に、迫る。  紅いコートの女は、しかし、動じない。  背負った刀を地面に突き刺し、体重を預けると、背後の壁を駆け上がるように反転、跳躍する。 勢いよく飛びかかったヒトガタをいなすよう、宙を回転。  音もなく振り返り、渾身の回し蹴りを放つ。  雷が奔ったかのような、鋭い音。 彼女の蹴りは、届かない。 ヒトガタの長い腕が折れ曲がり、しっかりと一撃を防いでいた。  ニヤリ、と微笑む紅いコートの女。 微塵も表情を変えない、ヒトガタ。 「私は、あいつを傷つけに来たわけではない」  紅いコートの女は、そう宣言すると、身を翻した。  後ろを振り返ることすらしない。脱兎のごとく逃げ出した。  半瞬遅れて、ヒトガタがその後を追う。 「――今はまだ、な」   と、追いかけるヒトガタの手前に、金属音をたてて、何かが放り投げられる。 月明かりが照らすのは、銀のジッポライター。     疑問も持たず、飛び越えようとしたヒトガタ。 その真下で、そのライターが破裂する。   爆発が、ヒトガタを直撃した。 衝撃を浴びて、人影が浮き上がる。 無表情のまま、その肌に金属片が突き刺さる。   だが、紅いコートの女は振り返らない。 こんなダメージでは、到底相手を倒せない。   それを知っているかのように、その場から飛び去った。      やがて、土煙が消える頃。 いびつな腕のヒトガタも、音もなくその場を去る。   苦悶の表情もなく、逃がしたことへの舌打ちもなく、その表情はあくまで静かだ。 身体の真下で爆発が起こったのが信じられないほど、軽やかに闇へ飛ぶ。   何事もなかったかのように吹く、秋の風。 夜の闇に平穏が戻る。ほんのつかの間の、平穏が。      「うぃーす。じゃ、ここで解散ね」  「駅はどっちだ?」  「喜田、酔いすぎ。置いてくぞ、もう。比呂乃は?」  「あ、あたし、先に帰るわ。家、近くなの」   飲み友達と別れて繁華街を出ると、住宅街の暗さが心にのしかかった。 比呂乃は時計を見た。  22時17分。 そんなに遅いわけじゃない。   確かめたくなるほどに、町はしんと静まりかえっていた。 呼び込みの声も酔客もなく、ネオンも看板もない。ただ、それだけのことだ。 空に月を探したが、見あたらなかった。 登っていないのか、雲に隠れたか。      誰もいない道に、足音だけが響く。   今、この町で生きて動いているのが自分だけな気さえしてくる。   その足音に耐えられなくて、比呂乃は携帯電話を取り出した。 「あ、もしもし? カナちゃん? あたし。今、帰るとこ。そっちはどう?」   確かに、その道は暗すぎた。人も少なすぎた。 街灯の明かりは、いつもより暗かった。  「なにそれ、サイアクー。喜田って、ホント、バカだよね」   闇が、あたりを覆い始めていた。 音も、光も、ゆっくりと吸いこまれてゆく。   比呂乃は気づかなかった。 否。気づきたくなかった。 「あ、クサい。いや喜田じゃなくてさ。 今、生ゴミの臭いがぷーんとしてきて」   比呂乃は鼻をつまんだ。  「夜にゴミ捨てるやつってサイアクだよね。 カラスがいるっつーの」   臭いは、ますます耐え難くなっていた。 このへん、ゴミ捨て場ってあったっけ? あたりを見回したが……指の先から遠くは見えなかった。 携帯の液晶だけが心許ない光を放っている。 「今、停電? あ、停電じゃ携帯使えないか」   それとも使えるのかな、と、比呂乃は思った。アンテナとかって、どんな仕組みになってるんだろ? 首筋に、濡れたものが触れた時も、比呂乃は携帯について考えていた。手の中の小さな光。       「え? なに? 今、なにか――」   ――なにか、言わなかった?   彼女の言葉は、最後まで、続かない。 「……ぇ?」   生臭い息は、耳元から。   喉に、食い込んでくる。 鋭利な先が気道に突き刺さり、内側に触れる。  「あ、ん、あぁぁぁ……!」   悲鳴は出ない。逃げられない。 身体を捕まれて、崩れ落ちることすら、できない。     生臭い臭いは、やがて血の臭いとまざりあった。     「あ、もしもし? もしもし比呂乃? ごめん、電波遠い……」   「今の誰?」  「比呂乃。帰り道だって。なんか停電とか言ってたよ」  「歩きだろ? 関係ないじゃん」  「まぁね」   パチンと音を立てて、携帯が閉じた。 それで終わりだった。    夢は見なかった。ただ目が覚めると頭が重かった。 昨日は、人と話しすぎた。人と会うのが嫌いなわけじゃないが、どうしても芯が疲れる。 「克綺クン、起きてる?」   いつもの管理人さんの声。 「おはようございます」  「朝ご飯、作りすぎちゃったんだけど、食べる? 恵ちゃんも、一緒にどう?」   僕は思案した。 恵によれば、管理人さんが朝ご飯を作りすぎるのは、僕にご馳走するためらしい。知ってしまった今となっては、素直に受けるのも気が引ける。 「結構です」   そう言った瞬間、管理人さんの顔が固まった。  「そ、そう? 迷惑だったかしら?」  「迷惑もなにも。管理人さんが作りすぎるのは管理人さんの勝手ですから」   フォローしたつもりだが、管理人さんは、さらに落ち込む。なぜだ? 「お兄ちゃん、おはよう」   でてきた恵が、管理人さんを見て固まった。  「おはようございます。 あの……兄が、何か?」  「……あ、別にいいのよ。 ただ朝ご飯をご一緒しようかなって思って」  恵の顔が青くなる。  「すいません、ちょっと失礼します。 ほら、お兄ちゃんも来て」  恵は、僕の手を引っ張って部屋に連れ込んだ。 「お兄ちゃん、管理人さんに何て言ったの?」  「ほら、昨日おまえが言ってただろ。管理人さんは僕にご馳走してくれてるって。だったら世話になるのも悪いかなと思って」 「それで?」  「今日は朝ご飯は結構です、と」 「それだけ?」  「管理人さんが恐縮したようだったからフォローした」 「なんて?」 「迷惑もなにも。管理人さんが作りすぎるのは管理人さんの勝手ですからって」  あ、倒れた。 「……お兄ちゃん、ちょっと」  恵に言われて僕はしゃがむ。 と、恵は、僕の頬を引っ張った。 「言・い・か・たってものがあるでしょう」  「気を使ったつもりなんだが……」  「わかってる。わかってるけれど……」  恵は、決然とした表情で、立ち上がった。 「……というわけで、お兄ちゃんは遠慮しただけなんです」  「そうだったの」   管理人さんの顔に、笑顔が戻った、と思う。 「ぜひ朝食をご一緒させてください」  「あら、いいの?」 「もちろんです」   恵が足を踏みつけているのは、しゃべるな、というサインらしい。 僕は無言で頭を下げた。  意味の曖昧なやりとり……社交辞令の果てに、どうやら僕達は管理人さんとご飯を食べることになったらしい。 それはそれで嬉しいことだ。   気を使うというのは、本当に難しい。  「恵」 「なあに、お兄ちゃん?」  「慣れないことはするものじゃないな」   きっと恵がにらむ。なぜだろう。  管理人さんの朝食は、ちゃんと三人前あった。 二人前作りすぎた……じゃなくて、恵の分まで用意してくれたのだろう。  今日のメニューは、アジの干物、そして鶏とゴボウの煮物だ。 「久しぶりの日本食でしょ? お口にあうかしら」  「そんな、すごくおいしいです」   恵は、感激しっぱなしだった。 「よかった。その干物、自家製なの」   どうりで味が深いと思った。天然塩を使い、天日で熟成しないとこの味はでない。 なんといっても干物で一番おいしいのは、この背骨にへばりついた身だ。 お日様の味がする身を、僕は骨を〈囓〉《かじ》るようにいただいた。 「お兄ちゃん、行儀悪い」  「いいのよ。そこが一番おいしいところですもの」  「あぁ」  そのことは恵も、よく知っているはずだ。恵は、迷うように僕と管理人さんを見渡すと、やがて決心した。  「じゃ、失礼して」  かぶりついた恵の目が、恍惚に見開かれる。 ひとしきり溜息をついてから、恵は、しみじみと言った。  「ねぇお兄ちゃん、毎朝、こんなの食べてるの?」 「まぁな」  「そう……」  箸を置くのが惜しまれる朝食を終えて、僕は手を合わせた。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした。 今、お茶いれるわね」  香りのいいほうじ茶をすすりながら、まったりする朝の一時。 「恵ちゃんは、今日、どうされるの?」  「お兄ちゃん、学校だっけ?」 「あぁ」 「ねぇ、よかったら一緒に来ない? 町を案内するわよ」 「それは嬉しいですけど、何から何までお世話になって……」 「じゃ、ついでにお買い物、手伝って」 「あ、はい」  非効率な会話だ。 テレパシーを使えるというのに、なぜ、会話のほうはまわりくどくなるのか。 それは永遠の謎だ。 「克綺クン、そろそろ学校じゃない?」  「そうですね。じゃぁ行ってきます」        風の冷たさは身を切るようだが、それも心地よい。そんな朝だった。 東風の吹く日に、傘と一緒に降りてくるメイドさん。  そんな童話がなかったか。    その人は、今日も傘を持っていた。 「おはようございます、またお会いしましたね」  「おはよう」   しばしの沈黙。 ナンパ志望の峰雪ならともかく、僕には初対面の女の子と話す話題の持ち合わせなどない。 悩んだ末に、口を開いた。 「いい朝だね」 「いいえ」   違ったようだ。  「いやなことでもあったのか?」 「私にはないのですけど」   じゃぁ、僕にあるのか。 僕は、話題を変えた。 「友達に峰雪ってのがいてね。 君のことを話したら会いたがっていた」 「そうですか。いずれお会いしますから、急がないでいいです、とお伝えください」   運命論的なことを言う。  「そうとは限らないんじゃないかな」 「そうでしょうか」 「例えば君か峰雪のどちらかが急に死ぬかもしれない」   少女は首を傾げた。 「そうですね。私が死んだ時のことは、考えてませんでした」  「人間というのは、そうしたものさ」   少し嬉しくなった。 この子とは、話が噛み合う。 僕が論理的に話そうとすると、なぜか怒りだす人が多い。 「多分、ずっと先だと思いますけど」 「そればっかりはわからない」  「そうかもしれませんね」  「じゃ、僕は学校があるから」  「はい、克綺さん、またお会いしましょう」  ……別れてから、気がついた。また名前を聞き忘れた。  しばらく行くと、警官に行く手を遮られた。 パトカーが何台も止まっている。  「ここ、通行止めだから、回ってくれる?」   見れば、他の生徒も回り道している。  「理由を聞かせてください」   警官は疲れた顔で応えた。  「ごめんね。今、現場検証してるところなんだ」  通行止めの看板の奥に、毛布が見えた。  ブロック塀に点々と染みているのは、血か。  「そうですか。お仕事ご苦労様です」   回れ右して、歩き出す。 「どうした朴念仁。自主休校か?」  「九門君、おはよう」   峰雪と出会う。牧本さんも一緒だ。  「牧本さん、おはよう。 いや、自主休校じゃない」  そう言って歩き出すと後ろから声がした。 「おい、どこいくんだよ?」 「学校へ行くところだ」 「方向、反対だよ?」 「こっちの道が通行止めになっている」 「最初に言え!」   峰雪が僕の頭をはたく。  「通行止めって、事故かなにか?」  「可能性はあるが、多分、違うな」  僕は、現場を思い出した。 血の飛び散った跡はあったが、何かがぶつかった跡はなかった。  「どういうこった?」 「多分、殺人事件だ」   峰雪が、口の中で経文をつぶやく。 牧本さんが、手を口にあてた。  「物騒な話だな。警察が、そう言ってたのか?」 「いや。現場の様子だ。事故の跡はなかったが、血痕が前後6メートルくらいに散っていた」  「重傷を負ったまま動き回ったか、あるいは、連れ回されたかだな。毛布をかけられた死体があったが、形がおかしかった。あれは多分……」 「いい加減にしろ。この〈安本丹〉《アンポンタン》」   峰雪にはたかれた。  「痛いな、何をする」  「牧本が顔青くしてるだろうが」   言われて僕は牧本さんの顔を見る。 「牧本さん、僕の話に生理的嫌悪を感じたのか? だとしたら、すまなかった」  「ううん、そうじゃなくて。こんなすぐそばで犯罪が起きると、怖いよね」 「まぁな」  「いや、怖くはならないが」   峰雪が肩をすくめる。 「まぁ克綺だからしゃぁないな」  「失礼なことを言うな。峰雪。 僕が恐怖を感じないみたいじゃないか」 「え、違ったの?」   牧本さんまで。 「僕は、この事件に特別、恐怖を感じない、というだけだ」  「そうかなぁ。私なんか心配になるけど」 「犯罪に巻き込まれるのは確率の問題だ。 統計によれば、ここは比較的治安のいい町だ。 今度の事件を計算にいれても、確率は、ほとんど変わらない」  「そりゃぁ理屈だがな」   峰雪が肩をすくめる。 「でも、そういう考え方もあるかもね。 ちょっと元気でたわ。ありがと」  「礼には及ばない。君の論理の不備を指摘しただけだ」  「……そ、そう」  学校に着いてみれば、クラスも事件の問題でもちきりだった。 学校中の人間が知っているのだから、話題にもなるというものだ。 「2組の勝本が、警察に捕まって、事情聴取されたってよ」  耳の早い峰雪が、どこかから聞きつけてきた。 「そうか」 「興味なさそうな顔してんな」 「その通り。興味はない」  僕に何ができるわけでもない。また、するつもりもない。 「縁無き〈衆生〉《しゅじょう》ってやつか」 「それは、多分、引用が間違っている」 「あぁ?」  響き渡る予鈴が、会話を断ち切った。   僕にはどうしてもわからないことがある。   宮崎教諭のことだ。ミッション系の学校に、どうして、あそこまで体育系……いや、旧日本軍の鬼軍曹みたいな男がいるのだろう。   火曜の4限目、宮崎教諭の柔道が終わると、皆、息も絶え絶えとなる。なかでも今日はひどかった。 「畜生、宮崎の野郎」   峰雪が文句を言う。  「今日の説教は長かったな」   僕は、痛む足をひきずりながら廊下を歩いた。   宮崎教諭の授業中、柔道場は、冬でも窓を開けっ放しである。 動いていれば寒くない、というのが理屈だ。   動いていれば、確かに寒くはない。しかし宮崎教諭は説教が大好きときている。  きっかけは、例の殺人事件の話題だった。私語を聞きとがめた宮崎教諭が、一大説教大会を開始したのだ。 四角四面の宮崎教諭が、延々二十分に渡って説教するのを、こちらは正座で聞くはめになった。  「にしても、おまえが一番元気そうだな」   背筋を伸ばして歩いてるのは峰雪だけだ。 僕を含む、他の全員は、抜き足差し足で歩いている。痺れきっているのだ。  「ん、そうか?」 「さすが、寺の子だな」   そう言うと、峰雪が、暗い顔をして溜息をついた。 当人が否定しても事実は変わらない。峰雪の正座はクラスの中で一番さまになっている。  「最近、オヤジがうるさいんだ」 「いいお父さんじゃないか」 「ありゃぁ鬼だ」 「FUCK! 俺は絶対坊主になんかならんぞ!」 「無駄だと思うけど」  「あぁん?」  足を引きずって教室まで戻ると、意外な人間が待っていた。 「恵じゃないか」   教室の前で、小さくなっている。人見知りのところは治ってないらしい。  「お、お兄ちゃん!」   その声に男子がどよめく。 口笛を吹くやつまでいる。 峰雪がじろりとにらむと静かになった。 「どうしたんだ、こんなとこで」   恵の足が震えている。  「お弁当、持ってきたから」 「どうした、急に?」   昼飯は学食の予定だったんだが。  「天気はいいし、屋上でも行かないか?」   さりげなく峰雪が割り込む。  「まぁいいが」  屋上は、建前上進入禁止になっているが、ドアは開いている。 春先は人も多いが、こう寒くなっては、わざわざ来る物好きも少ない。 「恵ちゃん、このウインナーあげるわ」  「あ、じゃぁ卵焼き、食べます?」  「うん、いただくわ」 「おぅ、克綺、その煮っ転がし寄越せ」  「断る」  弁当は、本気でおいしかった。 煮物にしても、野菜一つ一つの甘さがひきだされている。 「それはそうと、なんで、牧本さんもいるんだ?」   僕は疑問を口にする。 「いちゃいけなかった?」 「いや、単純な疑問だ」 「廊下で会って、案内してもらったの」 「そうか」 「ていうか、お兄ちゃん、なんで携帯かからないの?」 「授業中だったからな。電源は切ってある」 「〈一言居士〉《いちげんこじ》め。そんな校則守ってるのはおまえぐらいだ」 「それにしても、なんで弁当なんか持ってきたんだ?」   僕は疑問を口にする。  牧本さんと峰雪が、僕を犯罪者のような目で見る。 「お兄ちゃんが喜ぶかなと思って」 「どうして?」 「ちょっと、その言い方はひどくない?」   牧本さんが口を挟む。 「なにが?」 「それじゃ迷惑みたいじゃない」 「どうして?」  「えっと、あの……こう見えても、お兄ちゃん、悪気はないんです」   恵がなぜか恐縮している。 うん、僕に悪気はない。  「ああ、僕に悪気はない」  三人が一斉に僕を見つめる。  「こいつは、こういうやつなんだ」  「なぁ克綺。世間一般では、手料理を作るってのは思いやりを意味するんだ。ありがたく受け取るのが普通だ」  「じゃぁ、峰雪。僕がおまえに弁当を作ってきたとしたら……」 「食わん」   速攻で言い切るか。 自己矛盾したことを言う男だ。 一方的な思いやりが、迷惑になることもあるだろうに。 「……結局、九門君は、お弁当をもらって迷惑だったの?」   牧本さんが口を挟む。  「いや、ありがたくいただいている」 「じゃぁいいじゃない」 「もちろんだ」  三人が揃って溜息をついた。 僕も肩をすくめる。   地球人との交流は難しい。  昼休みが終わって恵は帰った。  午後の眠い授業を終えて、僕は立ち上がった。 「克綺。今日はどうするよ?」  「一人で帰る」 「どうした、調子悪いのか? 恵ちゃんにうつすなよ」   余計なお世話だ。 おざなりに手を振って学校を出た。  峰雪や牧本さんが嫌いなわけじゃないが、あまり長く話していると疲れる。 恵が来たせいで今日は長く話しすぎた。   帰り道くらいは、一人でゆっくりしようと思うわけだ。  道の端っこによって、ぼーっと人波を見るのが好きだ。   目の前には、たくさんの人がいて、一人一人違う顔をしていた。違う顔の影には、違う心があって、違うところを見て違うところを目指している。   数十、数百の人間が、別々のところを目指しながら、目の前の道を歩いてゆく。狭い道の中を、ぶつかりもせず、するりとすりぬけてゆくその様は、まるで機械みたいだと思う。  テレパシーで結ばれた一つの機械。 その群からはみ出した僕は、とぼとぼと歩き出す。 一人でいるのは嫌いじゃない。  物思いにふけっていると、ふと、腹の虫が鳴いた。 どうしよう。   ラーメンでも食べに行こうか。   そう思った時。  人混みの中に、気になる影が見えた。   今、歩いてったのは、朝会ったあの子じゃないか。   ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はまっすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。   ──『神曲』ダンテ   ──僕は、死んだ。   この言葉は、形式的には矛盾していないが、現実に照らせば矛盾している、と言えるだろう。 なぜなら、死んだ人間は、語らないからであり、この場合の話者は死者だからだ。   しかし。   今、ここにこうして、僕は死んでいる。 生きている時に生きていることが分かるように、死んでいる僕は、全身に死が満ちているのが感じられた。   実証性を欠いた主観的な物言いで恐縮だが、今の僕は、それを疑うことはない。   故に。   ──僕は、死んでいる。   それにしても……ここは、どこだろう。   今、僕がいるのは暗い森の中だ。 木々は鬱蒼と生え、枝は行く手を遮り、鋭い下草の葉は刃のよう。 空の光は、この地の底には届かず、わずかな明かりを元に、僕は道なき道を歩み続けている。   ずっと、この森にいたわけではない。 さっきまでは、もっと丁寧に手入れされた庭園の中を歩いていた気がする。 麗しい花壇の中を、無数の小道は迷路のように枝分かれし、どこまでも続くように思えた。 そこここの木陰で足を休めながら、僕は青空の下を歩いていたのだ。 その道の一筋が、この暗い森につながっていた、というわけだ。   後を振り返っても、もはや道は見えず、あの庭園へ戻ることはかなわなかった。 どこを向いても、森は同じように繁って見えた。 何度も方向を変えたが、そのたびに、森の密度は増していった。   一歩動くたびに枝は僕を縛り、蔦は足を捕らえる。 枝は、蔦は、僕を包み、押し流す。 僕は操り人形のように、ただ引っ張られるままに歩き続ける。   昏い森の中に吸い込まれながらも、心は不思議に落ち着いていた。   ──これが、死ぬということか。   身動きもならず、永劫に流されてゆくこと。 生が己の道を選ぶことであるなら、死はそういうものなのかもしれない。 そう思った瞬間。   ──違う。   胸の中で小さな灯りが灯った。 これは、違う。 これは、まだ、死じゃない。 足りないものがある。   それは……。  それは……。   そうだ。僕は、それを探していたのではなかったか。 蔦はいよいよ締め付けを増す。 痛みはないが、体が軋むのがわかった。   まだだ。 まだ、ここで朽ちるわけにはいかない。 胸の中に灯ったぬくもりにかけて。 僕は、腕を伸ばした。 冷たい枝をかきわけて、全身の力を指先に込める。 あと少し。もう少し。   蔦がめりめりと肉に食い込む。 枝が目を貫く。 骨も神経も一緒くたに絞られる。   痛みはない。 血もでない。 ただ意識だけが遠ざかる。   ぽっかりと抜け落ちる感覚の中で、ぼくは、ゆびをのばす。 ゆびをのばす。 のばす。           このくらいもりからあのひとにとどけとのばしたゆびさきにたしかにふれたちいさなぬくもりが──。     くるくると回る、紫の傘。 くるくると広がる、紫の傘。 目の前一杯に広がった傘には、宝石が散りばめられて。 くるくると回る傘は夜のようで。 散りばめられた宝石は星のようで。   かすかな羽音に、僕は、瞬きする。   今は、夜。空は日が落ちる寸前の、綺麗な紫色だった。 夢で見た通りの淡い紫。 綺麗な星々。 「九門克綺さん」  聞き覚えのある声に、僕は、立ち上がった。 立ち上がったということは、寝ていたわけだ。  僕が仰向けに寝ていたのは、見覚えのある芝地。 ここは、芝地。闇の森に迷う前にいた、庭園の小径らしい。 「いったい、こんなところで、何をしてるんですか?」  いつもの傘を傾けて、少女が僕のほうを見ている。  「なに、と、言われても」   僕の記憶は、ぽっかりと抜けている。 ずっと昔から、この庭園の中を歩いていた気がする。 少女は、辛抱強く待っていた。 「聞いていいかな。 ここは……どこなんだ?」  「ここですか? 運命の小径ですよ」  「運命の小径?」  「ええ。人が一生の間に歩く道が、この小径です。 皆さんは、曲がり角にさしかかるたび、意識してかせずか、小径の一つを選んで歩いているんです」 「克綺さんの道も、ほら」   そう言われて、僕は、うしろを振り返る。 小径には、真っ赤な血の足跡が記されていた。 それはねじれた小径をずっとずっと遡ってゆく。  「運命の分かれ道、というわけか。 そういうのは、概念的な存在で、実在しないと思っていたが」  「実在も不在も概念です。相が違えば概念も実在します」 「たとえば……君みたいに?」  「ここは、兄の庭ですけどね」   少女は、そう言って笑った。  「じゃぁ、僕は、どんな道を選んで来たんだ?」   僕は振り返って、血の足跡に触れる。 「あっ」   少女の止める声がした。 遅かった。 指を大地についた瞬間、無数の記憶が僕に流れ込んでいた。         ──胸を撃たれる九門克綺。 ──サムライに首を落とされる九門克綺。 ──魚人に身を裂かれる九門克綺。 ──己の力により身を滅ぼす九門克綺。 ──老齢で息を引き取る九門克綺。         何度も何度も僕は死んだ。 無数の女と出会い、また、出会わなかった。 ある時は女を愛し、ある時は、女に殺された。 人外の戦いに巻き込まれ、あるいは巻き込まれずに死んだ。         その全ての終点に……記憶があった。 くるくると回る傘。 僕を優しく包む藍色の闇。 声が、僕を呼んだ。 「克綺さん」  呼ばれて僕は、目を開いた。 僕のいるのは、藍色の空の下。 運命の小径だ。 「今のは……いったいなんだったんだ?」  「克綺さんの知らなくてもいいことです」  「気になる」   少女は小さくため息をついた。 「これ、秘密ですからね」   僕はうなずく。  「……人間は、自分が思ってるよりも、寄り道してるんです」  「寄り道?」  「そう。皆さん、過去から未来へまっすぐ歩いてると思ってるでしょうけれど……本当は、道を戻ったり、同じところをくるくる回ったり……それから、時々、克綺さんみたいに、道を外れて迷い込んでみたり」 「……じゃぁ、僕は、あの全部を体験したというのか?」  「ある意味では、そうです」  「その説には、大きく分けて7つの矛盾がある。まず、僕だけの話なら理解はできるが、複数の人間が、それぞれ過去を変えて歩く場合、相互の現実認識に食い違いが起きるはずだ。逆に、一個の人間の過去への影響が全ての人間の現実に影響を及ぼすなら、そもそも未来というものが……」  考えていると、さきほどの記憶がぶりかえした。        ──魔力が復活した地球に暮らす九門克綺。  ──わだつみの民を護るために闘う九門克綺。  ──草原の民とともに、異界を駆ける九門克綺。  ──ストラスの脱走者をかくまう九門克綺。  ──三つの護りの跡を継いで、人類を護る九門克綺。  ──恵とともに、無くした心臓を取り戻す九門克綺。 「だいじょうぶですか?」  少女の声が、再び僕を現実らしきものへ引き戻す。 「あぁ、なんとか」  「あんまり深く考えないほうがいいですよ。 あの……人間がわかるようにはできてないんです。 すいません」  「あやまる必要はない」  僕は深呼吸する。   世の中が僕の理解より複雑なことはわかっていた。 あるいは、過去の選択は、量子力学的な重ね合わせの……いやいや、考えるのはやめよう。 「それより、思い出したことがある」  「そうなんですか?」  「あぁ。どうして、あの森に迷い込んだのか、だ」  「それは私も気になります」 「確かに、僕は、遠回りしていたらしい。 運命の小径をまっすぐに進むだけじゃなくて、何度も、戻って確かめている。 その回り道の記憶が、少しだけ残っていたみたいなんだ」  「あ」   少女は、口を開けた。 「ごめんなさい」  「なぜ、あやまる?」  「記憶の管理は、私の管轄なのです。 その心臓のせいだと思うんですけど、とにかく、私の取り扱い不注意です。すいません」   僕は苦笑した。 頭をさげられても、特に怒ることもない。 「で、何を覚えていたのですか?」  「傘」  「え?」  「君の、傘」   少女の背で、くるくると回る紫の傘。 どの道を選び、何が起きても、その傘は、いつも僕のことを待っていてくれた。 少女の顔が、なお暗くなった。 「それは……深刻な管理ミスです」  「上司とか、いるのか?」  「いえ、そういうわけじゃありません。矜持の問題です」  「そうなんだ」  「でも、それでわかりました」  「ん?」 「私がいない道を、探し続けて、道から外れちゃったんですね」  「いや」  「お気を悪くされないでいただきたいんですけれど、それは、原理的に無理です。 仮に私が迎えにいかなくても、あまり楽しいことにはなりませんし……」  「いや、そうじゃないんだ」  「え?」  きっと何度も説明したことがあるのだろう。   慣れた口調で、丁寧に語る彼女を、僕は遮った。  「君を、探していた」   少女は目をまるくした。  「私を、ですか?」  「あぁ。えーと……」  なんて言ったらいいだろう。   生きることというのは、おおむね、楽じゃない。   幸せに生きるのには労苦がいるし、選択を間違えれば不幸になったり、他人に犠牲を強いたりすることになる。  その、つらく、苦しい道のりの最後に、いつも、彼女がいた。   僕が、納得のできる生き方をした時も。 志半ばで倒れた時も。   自暴自棄となって、自ら命を絶つような真似をした時も。   彼女は、いつも、そこにいて、手をさしのべてくれた。  だから僕は。 彼女を捜した。 かすかに見える傘の影を追い求めた。 その意味さえ、わからないままに、何度も、何度も。   そういう衝動を客観的に言うなら。 「君が好きだ」  「え?」   一瞬の間。 客観的には短く、主観的には長い間が流れた。  「君が好きだ」   僕は、繰り返した。 「そ、そうなんですか?」   少女は傘で顔を隠す。 僕の告白は、どうやらあまり肯定的に受け止められなかったようだ。 僕は説明を切り替える。  「もうしわけない。 論理の飛躍があったようだ。論旨を整理すると……」  しばらく考えて、僕は、間違いに気づいた。 感情というものは、おおむね、非論理的である。 好きなものは好きであるがゆえに好きなのだ。  「つまり、その……お礼が言いたかったんだ。 いつも迎えに来てもらってたし、そのことのお礼を言ってなかった気がする」   いや、もしかしたら言ったのかもしれないが、少なくとも記憶にない。 「好きだというのも本当の気持ちだけれど、それは強制はできない。 ただ、お礼をさせてもらえれば、僕は嬉しい」  「あ、その、ありがとう、ございます」   しどろもどろになる少女。 「どうかしたのか?」  「いえ、ちょっと、嬉しかったんです」   はにかんだ笑顔。 それはとても綺麗だった。 「いつも、待っててくれて、ありがとう」   僕は、深々と頭を下げる。  「どういたしまして」   少女も、ゆっくりと頭をさげた。 「それで……どうしても聞きたいことがあるんだけど」  「守秘義務に抵触することでなければ……」  「名前を聞かせてほしい」 「いろいろありますけど。 克綺さんのところでは、英語とラテン語がメジャーですね。 もちろん、日本語でも構いませんし。 でも、私が言わなくても、ご存じではないですか?」  「よくわからないけど、それは、僕らが勝手につけた名前のような気がする。 もし、なんというか、本当の名前……あなたが呼ばれたい名前があるなら、それを教えてほしい」  少女は、ちょっと考えこんでから笑った。  「克綺さん? 耳を貸してください」  言われるままに、僕は、少女に顔を近づける。 「内緒ですからね」  小さな声が念を押す。 「私の名前は……」  その日、そこで囁かれた小さな名前。 終わりに来るものの本当の名前は。 僕と彼女だけの秘密だ。  耳元で囁かれた秘密の名前。 僕は、その音を口に出し、舌の上で何度か転がして見る。  それは、悲しげに響いて明るく、軽そうな音だが揺るぎが無く、優しい響きの中に強さを持つ、まさしく彼女そのもののような音の連なりだった。 「いい名前だね」  「そういってもらえるのは、はじめてです」   生真面目に彼女が頭を下げる。  「さて、そろそろ仕事の話なんですけれど……」  「あ、あぁ」   僕は、うなずいた。 「僕は死んだんだったね」  「違います」  「違うのかい?」  「えぇ。克綺さんは、まだ、亡くなってません。 言った通り、ここは兄の領域ですから。私の国じゃありません」  「そうなんだ……じゃぁ、なんで、ここに?」 「克綺さんが見えなくなったから、探していたんです!」  「そうか。それは失礼」  「じゃぁ、僕は、その……現世に戻って、普通に生きればいいのかな?」  「それが……そういうわけにもいかないんです。 道のない森の中をずっと歩いてたせいで、克綺さんの体からは、生きる力もすっかり抜けてますから」 「生きる力が、ない? じゃぁ、あのまま森の中にいたら、どうなってたんだ?」  「どうにもなりません」   少女は、少し厳しい顔で言った。  「あぁ、なるほど」   彼女が職務遂行に熱心でなければ、僕は、あそこで生きることも死ぬこともなく、ずっと「どうにもならずに」いた、ということなのだろう。 「で、現状を打開するには、どうすればいいのかな?」  「克綺さんに、亡くなっていただく必要があります」  「それは、お任せしていいのかな?」   彼女は、少しだけ傷ついた顔をした。 「いえ、誤解されてることが多いみたいですけど……私の仕事は出迎えと案内です。 殺すことは職務に入っていません」   なるほど。 死ぬのは僕らの側の出来事であって、彼女は、ただ、迎えに来てくれる、ということか。  「すまない。知らなかったんだ」  「となると……」   僕は、庭園を見回した。 枝振りのいい木は何本かある。 「何をご覧になってるんですか?」  「いや、あのへんの木を。 ロープの一本でもあれば……」  「別に、今すぐでなくてもいいんですよ」   あぁ、それはそうか。 これだけ探して、せっかく会えてすぐ首を吊るというのも間抜けな話だ。 「会話をしよう」   そう提案すると、少女は真面目な顔でうなずいた。  「ええ、少し、歩きましょうか」  僕が手を取ろうとすると、彼女は、それをついと避けて歩き始めた。 ……最初の告白が、まずかったのだろうか。 僕は、空いた拳を握って、ゆっくりと後を追う。  いつのまにかあたりの小径は姿を変え、僕は、あの馴染み深い通い道。 メゾンの銀杏並木を歩いていた。  日が落ちる寸前の薄紫の輝きの中で、彼女の横顔は、不思議な色に輝いていた。 いくら見ても見飽きない。  そうして見つめている内に、ふと目があった。 つい、と、彼女が目をそらす。 ふむ。 やはり彼女は僕について、ネガティブな印象を抱いているようだ。 「なんですか?」   目をそらしたまま、彼女が聞く。  「いや、話題を探しているところだ」   それも、嘘ではない。 「世間話をしよう。 仕事は、大変なのか?」  「どうでしょうね」  「比較の対照がないから、大変かどうかの判断は意味がないか。 しかし、主観的に考えれば大変そうな気がする」  「そうかもしれませんね」 「休みとかはないのか?」  「私が休暇を取るとすごいことになりますよ」   そう言って少女は、くすくすと笑った。 「年中無休か。それは疲れそうだ」  「働きながらでも休めますから。 こうして克綺さんとお話ししてるみたいに」  「気晴らしになれば嬉しいが」  「なってますよ」  「それは、よかった」   しばらくの沈黙。 「すまない。 僕は世間話というものが苦手なようだ」   少女は、くすりと笑った。  「そんなに難しいことじゃありませんよ」  「……そうなのか?」 「どうして難しいと思うんです?」  「会話というのは情報の交換だ。 あなたが興味を示しそうな情報が思いつかない」  「克綺さんは勘違いしてますね」   傘がやさしく回った。 「情報交換のためだけだったら、人は、こんなにおしゃべりじゃありませんよ」  「確かに。常々僕は、そのことを疑問に思っていたんだ。多くの人間は、とりとめもなくしゃべり続ける。 無意味な情報、論理的に連関しない内容を、しゃべり続けてやめようとしない。 いったい、どうして、そんなことをするんだ?」  「それは、時間を共有するためなんですよ」 「時間を共有? そもそも時間は専有できないと思うが。 誰もが誰もと同じ時間を共有している。 無論、相対性理論を考慮する場合は話が別だが。ウラシマ効果による座標系の変換を考えた場合、それは違う時間とは言えなくもないが、同じ地球に暮らす場合は、その差は、おおむね無視できるほど小さいはずだ……」  「確かにそうですね。 でも、ちょっと話がずれています」  「ふむ」 「時間の共有というのは、一緒に過ごす、ということです」  「一緒に過ごすなら、過ごせばいい。 話すことに何の意味があるんだ?」  「確認するためですよ」  「何を?」 「人間は、色々なことをしゃべりますけれど、本当は、二つのことしか言ってないんです。一つは……」   少女は自分の胸に手を当てた。  「私は、ここにいます」  「そして、もう一つは……」   少女は僕の胸、すれすれに手を差しだした。  「あなたが、そこにいてよかった」   ふわりと風が吹いたような気がした。 暖かく柔らかな風。 「それだけなのか? それだけのことなのか?」  「それだけですよ。 でも、何度言っても、それを言い尽くせないから、みんな、しゃべるのをやめないんです」  「そうか……」  「だから、話すことがなくなったら、そう言えばいいんですよ」 「僕は、ここにいる」   呼びかける。 それは目の前の少女への呼びかけであり、もっと、遠くへの呼びかけでもあった。   過去に出会った人々。 これから出会う人々。 耳を傾けるものなら、誰にでも届かせたい想い。 「あなたが、そこにいてよかった」   口にだすと心が浮き立った。  「あなたが、そこにいてよかった」   僕は、もう一度、繰り返す。 「たとえ、あなたが、そう思わなくても、僕は、あなたがそこにいて嬉しい」   心は浮き立ち、同時に、渇いた。 言えば言うほど言い足りない。 なるほど、それで人はしゃべり続けるのか。 この心臓の空虚を埋めるために。 言葉では埋まらない空白を、しかし、言葉しか埋めるものを持たずに。 「……私も、克綺さんがいて嬉しいですよ」  「そうなのか?」  「そうですよ?」  「いや、僕は、あなたが僕に悪印象を抱いていると思っていた」  「どうしてですか?」 「先ほどから、身体的接触を避けているからだ」  「ああ」   少女はうなずいた。  「ごめんなさい。それは私の都合です」  「都合?」 「ちょっと、ごめんなさい」   形のよい指が、ほんのわずかに僕の手の甲を撫でる。  ふい、と、僕の全身から力が失われた。  深い眠気に襲われたように、一瞬、全てが遠ざかり、膝が折れる。  僕は、立ち上がって息を整えた。 「人の身で、私に触れると、命を失います」  「ですから、克綺さんのことは好きですよ」  「それは……よかった」   僕は、嬉しくなった。 そこで、ふと、気づく。 「そういうことなら……最初の問題を解決できるのではないか?」  「最初の問題ですか?」  「ここから、僕が、どうやってでるか、という問題だ。 僕は首を吊るより、あなたの手を取って去りたい。 無論、あなたが嫌でなければ、だが」   言われて少女は考え込む。 しばらくしてその口が開いた。 「そういうことでしたら、場所を変えましょうか」 「どこへ行くんだい?」  僕は、再び、あの運命の庭園にいた。 「ここだと、私の力が強すぎますから。 もう少し、現世に近いところに行きましょう」   僕がうなずくと、少女は、傘をつぼめて差しだした。  「これを、持っていてください。 風の吹く方向にいけば、戻れます」  「あなたは来ないのか?」  「私は、違う道から行きますから」  「そうか。じゃぁ待っている」 「無くさないでくださいね。 大切なものですから」  「無くすと、世界のバランスが崩れるとか?」  「いえ、お気に入りなんです」  「ああ、そうなんだ」  「それでは、ごきげんよう」  そう言って彼女は、小径を歩いていった。 その姿は、すぐに薄れて消えた。 僕には見えない道を辿ったのだろう。  僕は、傘を広げる。  傘は、ふわりと跳んで僕の肩に収まる。 小さな風が感じられた。 その風を受けながら、僕は、ゆるゆると歩き出す。  足下を見ると、血の足跡が続いていた。 爪先が僕を向いているということは……僕は、過去に向けて歩いているのだろう。  やがて、傘の導く道は、足跡から逸れて、僕は、まっさらな道を歩き始めた。  それとともに、記憶が入れ替わる。 知っていたことが抜け落ちる。 それはちっとも不快ではなかった。  いうなれば、心地よいシャワーを浴びるようなもの。 僕という芯は変わらず、心の上面を擦り落とすことで、かえって、僕自身がはっきりする。  やがてシャワーは終わり、すっかりなくなった僕の記憶を、未知の体験が埋めていった。 それはそれで、新品の服に袖を通すような爽快さがあった。  道を辿り終えた時、真新しい僕が、そこにあった。  僕の名は九門克綺。 僕には心臓がない。 人の心、雰囲気というものが、僕には、よく分からない。 僕以外の人間が持っているテレパシーが、僕にはそなわっていないのだ。   故に。 僕にとって、人間社会というのは、暮らしにくいものであった。 無論、この暮らしにくさは、比較対照を持たない主観的なものだ。 仮に人間以外の社会があったとして、僕が、そこで暮らしやすいかどうかは疑問だ。  そんな僕を救ってくれた人がいる。 彼女は、たった二つの言葉で、僕がずっと感じていた人間社会の謎を解き明かしてくれた。 そのおかげで、僕は、劇的に生きやすくなった。 僕は彼女のことを大切に思い、幸いなことに彼女も僕のことを大切に思ってくれているようだ。 要約すると、相思相愛。世間では、恋人同士、ということになるらしい。   以上の理由によって、僕は、現在、幸福だ。  僕は、今、彼女を待っている。ここで会う約束をしたからだ。 会ったことは何度もあるが、今日は、特別だ。 これまで、僕と彼女は、主に言葉によって、互いの存在を確かめ合っていた。 今日は、はじめて、別の方法を試そう、ということになった。   肉体的接触を基本とするその方法は、聞くところによると、非常に快適で心休まることらしい。  僕は、時計に目を落とす。 彼女は時間に精確だ。 僕とのつきあいの中で、一度たりとも時間を違えたことはない。  秒針が、動く。 時を刻む小さな音に合わせて、足音が聞こえた。 二つの音は、綺麗にシンクロし、秒針が頂点に来た時、僕は、振り向いた。 「こんにちは、克綺さん。いい天気ですね」   彼女の言葉の意味を翻訳する必要があるだろう。 論理的には、それは、天候に関する情報を伝えているが、実際には、それ以上の意味がある。 彼女が本当に言っていることは── 「克綺さん、私は、ここにいます」   そういうことなんだと、僕は、彼女に教わった。   よって僕は答える。  「ごきげんよう。いい天気だ」   この言葉の意味は。 「あなたが、そこにいて、嬉しい」   そういうこと。  「これを、返さないとな」   僕は、彼女に傘を渡す。 この前、彼女の家で雨に降られた時、帰りに借りたものだ。 「ありがとうございます、克綺さん」 「行こうか」  僕は、彼女の手を取る。 一瞬、身を震わせたけれど、すぐに彼女は僕に手を預けた。  メゾンまでの短い道を、僕らは手をつないで歩いた。 鼓動と足音と秒針の響き。  美しい調和は、しかし、しばらくして破れた。 僕と、彼女の手の中で、鼓動は少しずつ早まっていったのだ。 「どうぞ」  僕は彼女を部屋に迎え入れる。 「こんにちは。お邪魔します」  「邪魔している、とは考えないでほしい。むしろ歓迎している」  「社交辞令ですよ、克綺さん」  「なるほど」 「綺麗な部屋ですね」   彼女はあたりを見回す。  「社交辞令か?」  「違います!」   日本語というのは難しい。 確かに僕の部屋は整頓されている。 単に物が少ない結果だが。 「お台所、広いんですね」 「ああ。使ってないがな」 「冷蔵庫は……」 「見ない方がいい。あとのお楽しみだ」  数少ないサンプルからすると、部屋に入った時、女性は家事に関わる場所に興味を示す。 どうやら彼女も例外ではないようだ。  ちなみに男性(サンプル数1)は、僕が、どこに猥褻な本、画像媒体等を隠しているかに興味を示していた。   何度無いと説明しても、彼は、探すのを止めようとしない。 あたかも聖杯を求める騎士のように、夏への扉を求める猫のように、彼は僕の部屋を家捜しするのをやめようとしない。   何か深刻なトラウマでもあるのだろうか? 「これが洋服入れですか?」  「興味があるのか?」  「ええ。あ、ほんとに制服しか入ってないんですね」  「他の服を必要としたことがない」 「パジャマとかは……」  「着ない」  「もったいない」  「ん? 何がもったいないのだ?」 「克綺さん、パジャマ、似合いますよ。 ボンボンのついたナイトキャップとか」  「僕は気にしないし、他に見る人もいないのだから、たとえ似合っても関係ないのではないか?」   彼女は、黙った。 少し首を傾げる。 これは、彼女の不快を示すボディーランゲージなのだ。 もっとも本気で不快であるというよりは、僕が彼女にとって不快なことをしたということを指摘するのが主な目的らしい。 「その表情は、感情の結果というよりは、伝達手段としての意図的な演技であり、僕に間違いを悟らせようという意図があると解釈していいのかな?」  「克綺さんは、フクザツなことをおっしゃいますね」  「僕から見ると、あなたが、複雑なことをしているんだ」  「日本語では、これは、すねるっていうんです」 「なるほど。 つまり、僕の言動および行動に見落としがあったというわけだな。 ヒントをくれないか?」  「言動のほうです」  「ふむ」  僕は記憶を遡る。 彼女が、あの表情を示した直前の言葉は、そう。  (僕は気にしないし、他に見る人もいないのだから……)   ああ、そうか。 「僕の寝ているところを見る人物は確かに存在する。 故にパジャマを着る意味はある」  「そうですよ。 そのために来たんですから」  「ふむ。 パジャマはどこで買えるのかな」  「いいですよ、今日は。 別にパジャマだけが見たいわけでもありませんから」  「なるほど。では、何が見たいんだ?」  彼女は答える代わりに、僕の頬をつまんで引っ張った。 「いたひ。ひょれも、すねるのひょうへんなのひゃ?」(痛い。これも、すねる、の表現なのか?)」 「いいえ、慎みの表現です」  ぱちんと音を立てて、頬が戻る。  慎み、か。 僕にはまだ、わからない日本語が多い。  世間一般では、こういう時の食事は、高級レストランが、雰囲気が良いとされるらしいが、僕には違う意見があった。  ディナーは、冷蔵庫の中身……すなわち、管理人さんの用意してくれたフレンチコースだった。  何も言ってないのに二人分のディナーを持ってきたところを含め、あの人の腕は、本当に底知れない。 軽く暖め直すだけで、本場フランスの香りが立ち上った。  オードブルは、薄く切った茄子のソテーにバジルペースト。   茄子は、ジューシーさと香ばしさの両方を残した絶妙の焼きかげん。 じわりとしみだす甘みに、バジルペーストの刺激が加わって、後を引くおいしさだ。  メインは、牛タンのココア煮。   信じがたいほど柔らかく煮込まれたタンは、唇でかみきれるほど。 すみずみまで味が染みたタンは、肉のうまみというものを、これ以上ないくらいに表現していた。  自家製フランスパンは、薫り高く、皿に残ったソースを、すくっていただくと、これまた、天上の美味。 あわせる赤ワインは……ラベルが読めなかったが、しっかりしたボディで、牛タンのココア煮の味を受け止める。   ココア煮を一口。 ワインを一口。 そうするうちに止まらなくなり、二人前にしては多いかな、と、思った量も、結局、僕たちは、鍋を空にしていた。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまです」  万感の思いを込めてセリフを言う。 「克綺さん、毎日、こんなご飯食べてるんですか?」  「よく言われる。 その言葉は、あなたも料理に満足してくれたと取っていいのかな?」  「もちろんです。おいしかったですよ」  「それはよかった」   僕らは、しばらく言葉を切って、自らの幸運に感謝した。 「さて……料理が終わったわけだが」  「はい」   腹はほどよく満たされ、赤ワインは、体を芯から温めている。 目を閉じれば、そのまま夢を見そうだ。 「このまま、睡眠をとったら気持ちいいだろうなぁ」  素朴な感想を口に出すと、彼女は、とびきりの笑顔で、僕の頬を引っ張った。 「いひゃいいひゃいいひゃい」  ぱちんと音を立てて指が離れる。 「いや、あくまで仮定の話だ」  「私と料理と、どっちが大切ですか?」  「基準が違うので比べようがない」  「私より料理のほうが魅力的ですか?」  「魅力という言葉の定義……  いや君だ。間違いない」  「そうですか。 では、やり直してください」   僕は、うなずいた。 「さて、料理が終わったわけだが」  「はい」  「今後の手順について、何か、提案はあるかね?」  「克綺さんは?」  「ふむ。この前の約束を履行しようと思うのだが」  「もう少し、こう、違った誘い方はないですか?」   僕はしばし考えた。 「人間には、三大欲求とされるものがある。 そのうち食欲は満足のゆく形で満たした。 睡眠欲については、さきほど議論が終わったところだ。 故に僕は三番目の……」  「ストップ」   僕は黙った。  「もう少し雰囲気のあるおっしゃりようはありませんか? 克綺さんのことは知っていますが……こういう時くらいはロマンティックな扱いを要求します」  雰囲気か。 苦手なものだ。 特にロマンティックというのは鬼門だ。  だが、こんなこともあろうかと、「雰囲気のある誘い方」については峰雪に教えを乞うてある。 ヤツのアドバイスに頼るのは危険すぎるかもしれないが、こうなった以上、試してみる価値はあるだろう。  僕は、二本の指で、彼女の頤(おとがい)を押さえて、こちらを向かせた。 深い、紫の瞳を正面から覗き込む。  「……今夜は、寝かさない」   一瞬の沈黙。  彼女の綺麗な唇が微笑の形を取る。 見る間にそれは大きな笑顔になり……端的に言えば、吹き出した。  笑い転げる彼女を見るうちに、気がつけば、僕も大声で笑っていた。 「か、克綺さん……いまの……誰に、習ったんですか?」  「峰雪という男だ。 やつの言葉を信じた僕が愚かだった。 責任を回避するつもりはないが、この借りは、きっちりと返す予定だ」  「怒らなくてもいいですよ。ただ、ちょっと、びっくりしただけです」 「びっくりしたというよりは、笑い転げていた」  「ひょっとして……克綺さん、すねてます?」  「あー、どうやら、そのようだ。 人間は、自分の失敗を笑われると、屈折した態度をとる。 僕もその例に漏れないようだ」 「失敗じゃ、ありませんよ」  「雰囲気の選択に間違いがあった」  「ありませんよ」   優しい声。 「だから、もう一度、言ってください」   細い、柔らかな手が、そっと僕に巻き付く。 おずおずと、僕も抱擁を返す。 「今夜は、寝かさない」   今度の返答は、柔らかな接吻だった。  抱き合う手に力がこもる。   触れあう体。唇と唇。 力と力は拮抗し、僕らは、内に炎を駆けめぐらせながら、氷の彫像のように、ぴくりとも動かなかった。   永遠とも思われる時間がすぎ、僕らは、ゆっくりと身を離す。 「シャワー、借りますね」   彼女の囁き声が、耳元に響いた。 「灯りを消して待っていてくださいね」   彼女はそう言った。  僕は、言われるとおりに灯りを消す。   この部屋は、そうすると、ほとんど真っ暗になる。  暗闇の中で、僕は、シャワーの水音に耳を澄ましていた。   彼女の白い肌の上に、水滴がすべるさまが、目に浮かぶ。 体が熱いのは、ワインのせいだけではないだろう。  やがて水音は、薄れ、そして消えた。  ドアの開く音。 彼女の足音。  タオルを探し、身を拭き清め、ふたたび衣をまとう音。  そして足音。   扉がノックされた時、僕は息を呑んだ。 「克綺さん?」  「あぁ」  「入れてください」  僕は、ドアを開いて彼女を招き入れる。  扉を閉めると、再び部屋は闇に閉ざされた。 「見えないな」 「それがどうかしました?」  からかうような口調。 「君のことを確かめたい」 「確かめてください」 「どうやって?」  返事の代わりに彼女は僕に身を投げる。 その腕が僕の背を辿る。  僕も、そうする。 腕の中に、指の中に、彼女を確かめる。 肌は陶器の人形のように、すべらかで、そして繊細だった。  細い首を撫でる。 形のよい肩胛骨は服の上から確かめられた。 輪郭の一つ一つを撫でるたび、彼女の体が柔らかに震える。  彼女の掌も、僕の背を探る。 僕の手は、彼女の腕に移る。 指が回るほどの華奢な腕。  彼女の腕も僕の腕を探る。 蜘蛛のように、やわらかな指は僕の腕をなぞってゆく。  二人の手は、互いの腕をさぐり、そうして指を絡め合わせた。 まるでダンスを踊るように、僕らは手を取ったまま静止した。 「このあとの段取りについてだが……」 「段取りという言葉は、ロマンティックではありません」 「それは失礼。 ただ、これからどうしたらいいのかわからなかったんだ」 「じっとしていてください」  組まれた指がほどかれる。 ふわりと喉をなでられて、僕は、思わずうめきを洩らす。  猫にするように喉から顎をなでたあと、彼女の指は、僕のネクタイに移った。 手品のように、一瞬で、するりとほどく。 「克綺さん?」  僕も、指を伸ばす。 暗闇の中で服をさぐる。  彼女のようにはいかなかった。 布地と、その下のやわらかな肌は感じられたが、服の仕組みがわからない。  焦れば焦るほど、指は滑らかな生地の上を滑るばかり。 手がかりの一つさえ見つからない。 「だめだ。どうしたらいい?」 「……引き裂いてください」  囁かれた声に、僕は、うなずいていた。他のことは考えられなかった。 生地の上に爪を立てる。  力を込めて腕を引けば、綺麗な音を立てて服は破れていった。  彼女が身を震わせる。  千切れた生地は落ち、しとやかな肌が現れる。  僕は夢中になって服を剥いだ。  彼女も、腕を絡ませたまま、器用にボタンを外してゆく。 上着が抜き取られ、シャツの袖が外れる。 彼女の手がベルトに掛かり、僕は彼女のスカートを掴む。 「灯りを……」  柔らかい肌を慈しむ前に。 僕は、この目で確かめたかった。 闇の中で、少女が小さく首を振る。 「こうしましょう」  ふわりとカーテンが開かれた。街灯の光が室内を照らす。  そこに彼女がいた。 月光に照らされた肌は透き通るよう。 形のよい胸をかるく腕でおさえたそのシルエットは……目に快かった。 「綺麗だ」  僕は、素直な感想を口にした。 「そのセリフは、峰雪さんの入れ知恵ですか?」 「いや、単なる事実の指摘だ。 峰雪のアドバイスだと確か……いや、やめておこう」 「どうして?」 「雰囲気が壊れそうだ」 「気になります。言ってください」  いたずらっぽい瞳。 柔らかな唇が近づく。 「後悔するなよ」  僕は大きく息を吸った。 「君の瞳に、乾杯!」  彼女は笑っただろうか。 あきれただろうか。  それはわからない。  声を出す前に、その唇を僕が塞いだからだ。  僕らはもつれあってベッドに倒れ込んだ。 震える舌先は、唇をむさぼり、そして離れる。 僕の腕の下に彼女がいた。 小さく儚く美しく。 「どうしたんですか?」  甘えるような声。 「どうしていいか、わからないんだ」  僕はつばを飲み込む。 目の前の体は、あまりにも華奢で。 手を触れるだけで。 「壊れそうだから。壊しそうだから」 「壊したいんでしょう?」  その言葉に、僕は従順にうなずく。 「いいんですよ、好きにして」  体全体が、ぶるりと震えた。 「その代わり、私も……好きにしますから」  細い指が胸を撫で、僕の体に電気を送る。 うなずいて、僕は、彼女の肉をついばんだ。 震える舌先で、首筋を、喉を貪り、やわやわと彼女の乳房に触れる。 「んっ……」  形を変える乳房に僕は顔を埋め、唇で味わう。 雪のような肌がみるみる桃色に染まってゆく。 舌の先で先端を転がす。 「ああっ……」  小鳥のような啼き声に、僕の体は熱くなる。 しなやかな腕が僕を包む。 「克綺さんっっ!」  舌を転がすほどに、腕は、強く、弱く、僕を包み、爪が背中に不思議な文字を刻む。 血の匂いさえ僕を奮い立たせる。 僕は、彼女の腕をふりほどき、その右手首を取る。 細く長い指先に、僕は歯を立てた。 「あんっっっっ」  悲鳴は尾を引いた。 「痛かった?」 「ちがいます。ただ、その……んんっ……克綺さん、上手ですね」 「そうなのか?」  僕は彼女の中指に舌を這わす。 その柔らかな曲線は、僕の舌が動くたびに、ぴんと張りつめ、また、緩む。 「そんなの……どこで、覚えたんですか?」  吐息混じりの声に、僕は考えこむ。  一瞬、目の前を無数の裸身がよぎった。 見たことのないはずの裸身。 「どこでもいいだろう」  僕は、舌を指から掌、そして腕に這わす。 「どこ、なにするんですかっ……」  小さな抗議。 「好きにしていいんだよね」  片手で彼女の右腕を高く持ち上げる。 身を引こうとする胴体を、両足で押さえつける。 そうしておいて、僕は彼女の脇の下に顔をうずめる。 「でも……そんなとこっ……」 「だめかな?」 「……いいですよ」  羞恥に染まった声。 酸味のあるくぼみに舌先を這わせるたび、僕の指先と胴体の間で、押さえつけられた彼女の体が踊った。  馬を乗りこなすように、僕は彼女の抵抗を太股に感じる。 それは背骨を伝い、猛り立ったものの先に振動を与えた。 小さく息を吸い、快感をこらえる。  彼女の自由な左腕が僕の頬に触れる。 掌が僕の髪を押す。 僕の頭を押しのけるように、あるいは、また、押しつけるように。 迷いと抵抗を楽しみながら、僕は、彼女の脇の下から脇腹をねぶった。 「ひゃっ……あんっっ……」  びくりと彼女の体が跳ねる。 左腕が、僕を止めようと動く。  僕は、その左腕を掴んで、右腕と一緒に持ち上げた。  顔を上げれば、彼女の裸身がそこにあった。  上向いた乳房が、柔らかなお腹が、息づかいとともに揺れる。 瞳には、かすかな不安の色。 「あの……この姿勢はずるいと思います」 「そうなのか?」  僕は左手一本で、彼女の両手首をまとめて握る。 脇腹に口づけながら、ゆっくりと手を下に這わせる。  掌に感じる息づかいを楽しみながら、ゆっくりと下へ。下へ。 柔らかな茂みの入り口を指でまさぐる。 「あの……待って」  懇願の声。 僕は、指を止めた。 「何がずるいのか、わからないんだが……」 「どうして手を押さえるんですか?」 「こうすると君が綺麗だからだ」  ぴんと伸びた彼女の体は、張りつめた弦の趣がある。 僕はそう思う。 「そ、そんな言い方しても駄目です」 「どんな言い方をしてほしいのかな?」  僕は指を動かす。 「んっ。そ、そうじゃなくて……」 「こうかな?」  指の動きを早めると、彼女の体は、ますます揺れた。 「そ、そうです……ちがいます!」 「どっちなんだ?」 「手を、放してください」  僕は、言われた通りに手を放した。 彼女は小さく溜息をつく。 「克綺さんばっかりずるいです。 私だって……克綺さんのこと、触りたい……」  しばらく考えて、僕はうなずいた。 「それは悪いことをした。 経験がないので至らない点があったことをお詫びしたい」  経験がない? そのはずだ。  だけど、僕は。 今日の僕は、何かいろいろなことを覚えている気がした。 ふと何かが閃く。 「つまり、互いの位置関係が公平であればいいわけだ」 「……まぁ、そうですね」  だったら…… 僕は、彼女を持ち上げる。 その体は思った通り、羽根のように軽かった。 くるりと転がって、体を入れ替える。  見上げた僕の前に、彼女自身があった。 「ちょっと……克綺さんっ!」  あわてた声。 彼女の手が僕の視界を覆う。 「何をするんですかっ!」 「相互に対称な位置関係の確立、かな」 「え……ええ」  放心したような声。 「どうかしたか?」 「あの……克綺さんの……大きいですね」 「よく言われる」  何の気なしに答える。 「誰に、ですか?」  声には、怒りがこもっていた。 しまった。 「記憶の混乱だ。気にしないでくれ」 「気にします」  ぴんっと人差し指で、僕の先端が弾かれた。 痛みが全身を駆け抜ける。 「くっ……」  なぜだろう。 なにか理不尽な気がする。 「克綺さん。他の〈女〉《ひと》のことは、忘れてください」 「努力する」 「じゃぁ……許してあげます」  ゆっくりと。 ゆっくりと舌が僕のものに触れた。 「んっ……ふぅん……」  ぴちゃぴちゃと舐める音。 舌先が、ゆっくりと根本を回ってゆく。 暖かな感触が蠢き、僕の下腹に熱いものがこみ上げる。  僕は、指を伸ばした。 柔らかな茂みをかきわける。 その奥は、すでに湿っていた。 亀裂を指でこすりあげる。 「ふぁ……あ……んん……」  彼女の洩らした吐息が、僕のものを嬲った。 快感の波が全身を駆け抜けるのに、僕はじっと耐えた。 「我慢しなくて……いいんですよ」  彼女はそう言って舌使いを変える。 尖った舌先が、僕の先端に口づける。 「ん……ちゅっ……ふみゅ……」  同時に指先が、僕の根本で踊った。 やわやわと袋をなであげる。 その快感は、ほとんど耐え難く。  僕は逆襲に転じる。 そろそろと亀裂をなぞり、堅いものを見つけて、軽くつまみ上げた。 「んっ……」  身をのけぞらせ、湿った音を立てて彼女の唇が離れる。 今の内だ。  ……何が今の内かはともかく、僕は首を曲げて、舌を伸ばす。 小さな茂みの中に、尖った舌を滑らせた。 「あん……ん……ん……」 「克綺さん……やりますね……」  彼女は、身を震わせながら、再び僕のものに口をつける。 「はむ」  先端を口の中に含み、舌先を転がす。 その指は、根本に落ち着き、袋を撫でる。 柔らかなものが亀頭に巻き付き、また鈴口を嬲る。 「くぅっ……」  体が揺れる。全身に電流が走る。 歯を食いしばって僕は快感を受け流す。  だが、快感はとまらない。 形勢は不利だ。  僕は、人差し指を舐めると、ゆっくりと、亀裂をなであげた。 下から上へ。 その先の小さな窄まりへ。 「あんっ……!」  効いた。 再び彼女は身をのけぞらす。 「そこは……あふっ……反則、です」 「規則があったのか?」  やわやわと僕は、その窄まりを撫で、もみほぐす。 「だって……そんな、ん……汚いですっっ」 「君の体を確かめたいだけだ」  ゆっくりと指で円を描く。 同時に、舌で亀裂への責めを再開する。 「ちょっ……あん……負けませんよ。はむっ」  いつのまに勝負になったのだろう。 先端から全身に電流を感じながら、僕は人差し指を動かし続ける。 最初は締め付けていた窄まりから、力が抜け始める。  そこを。 突いた。 「きゃぁぁっ!」  一気に第二関節まで潜らせる。 熱い肉が、僕の指をきつく締め上げた。 「あ……ん……きゃん……」  指を動かすたび、面白いように彼女が動いた。 舌先に、とめどなく甘い蜜が滴り始める。 「か、克綺さんが、その気なら。私だって!」  やわやわと袋を撫でていた指が、ゆっくりとその先を探り始める。 む、いかん。 「……お、お返しです」  あえぐ息の下で、彼女が囁いた。 僕の体内に、小さく細い指が侵入する。  体内を犯される感覚に、僕は、全身を震わせる。 震えは僕の指に伝わり、彼女の体内に再び震えを送り返す。 典型的なフィードバック。  どんどん増してゆく快感の中で、やがて、僕らは拮抗した。 体を埋め尽くす快感に耐え、それでも、最後の一線を守り続ける。  埒が開かない。 彼女もそう思ったに違いない。  僕は、湿った音を立てて人差し指を引き抜いた。 ふるふると震えながら、まだ、閉じずにいる小さな窄まりに、僕は狙いを定めた。  彼女は、ちゅぽんと音を立てて、唇を放した。 ふぅっと吐息を吹きかけ、裏筋を舐めあげながら、再び口に含む。  わずかの間を置いて、二人同時に動いた。  僕は、人差し指と中指。 二本の指を揃えて、彼女の窄まりを突いた! 一方、彼女は、亀頭の先端に、歯を立てる!  目の前が白くなる。 体が痺れる。  彼女と僕。 同時に達する瞬間、僕は。  熱いものが、迸る。 全身が、ポンプになったように。 熱いものをどくどくと送り出す。  僕は僕の先端になり。 ひたすら濃く白いものを吐き出し続けた。 「んんっ……」  彼女が苦しげな息をもらす。 彼女の腰が揺れる。 目の前で亀裂が開き、そして震えるのがわかった。  快感を越えた快感。 その余韻に、僕らは、しばらく身を震わせる。  やがて、こくり、と、音がした。 彼女は、僕のものを飲み干したのがわかった。 「すまない」  苦しげな息をつく彼女に、僕は声をかけた。 「え?」  まだ夢から覚めないような声。 「苦しくなかったか?」 「そんなことはありませんよ」  声には安らかさがあり、僕は、それを信じた。 「それより、克綺さん……痛くなかったですか?」 「痛いようなことをしたのか?」 「あの……つい。だって、克綺さんが、ひどいんですもの」  すねる声に、僕はあわてて答える。 「いや、痛くはなかった」 「じゃぁ、よかったです」 「あぁ、とてもよかった」 「あの……どこ見て言ってます?」 「君が見ているのと相対的に同じ部位だ」  僕は、ふっと息を吹きかけ、彼女の体が揺れるのを楽しむ。 「もう、なにするんですか!」  ふっと、彼女が息を吹きかけかす。 「あ、すごい……」  何がすごいかは聞かなくともわかった。 「克綺さん、元気ですね」 「君のおかげだ」 「だから、どこ見て言ってるんですか!」  どうやら、その言葉は質問ではないようだったので、僕は、沈黙を守ることにした。  僕の目の前で、彼女の腰が揺れていた。 亀裂が開き、紅い中身を惜しげもなく晒し、大きく震えた。  彼女が、達したのだ。 そして、次の瞬間、僕も。  熱いものが、迸るその瞬間。 僕は、筒先を逸らした。  腹の中が沸騰する。 手が、足が、力をこめて痙攣し、僕の中の熱いマグマを吐き出す。 驚くほど大量のものが、宙に舞った。 「きゃっ……」  小さな悲鳴。 僕は荒い息をつきながら、自分が何をしたのか、ようやく理解した。  声は、まだ、出なかった。 快感を越えた快感。 その余韻が、僕の体を震わせていた。  息がつけるようになって、僕は、ようやく口を開いた。 「すまない……その……汚してしまって」 「いいんですよ。克綺さんのでしたら」  安らかな声に、僕は、安堵した。 「ちょっと、顔を洗って来ますね」  彼女は、ゆっくりと立ち上がり、浴室へ向かう。  全身に、まだ、震えが残っていた。 ゆっくりと息をして、吐く。  部屋には、彼女の甘い匂いがたちこめている。  目を瞑れば、残像のように、彼女の踊る裸身が見えた。 水音に耳を傾け、僕は彼女の声を思い出す。  待っている間の数分は数時間にもおよび、その間中、僕は彼女のことしか考えられなかった。  思うに、男性であることの、利点の一つは、思考、感情が肉体に及ぼす効果(あるいは、その逆)をこれ以上ないほど、明確に把握できる、ということだろう。  この場合の僕の思考も、肉体に確実な変化をもたらした。  故に、彼女が帰ってきた時の第一声が 「克綺さん……元気ですね」  であったとしても、驚くには及ばない。 「君は元気じゃないのかな?」  そう言うと、彼女は、顔をあからめて。 「そんなわけないじゃないですか」  と言った。 「あの……」  「ええと……」   ベッドの上。 僕たちは、見つめ合いながら、同時に音声を発した。 気詰まりな沈黙があたりを満たした。 「すまない。どうぞ」  「いえ、克綺さんからどうぞ」   客観的に見て間抜けなやりとり。 ともあれ、どちらかが譲らなければ始まらない。 「それじゃぁ……あーその、これから行うことについて提案がある」  「提案、ですか?」   少女が、首を傾げて僕をにらむ。 ……僕は、あまり信用されていないらしい。 「つまり、その形式についての提案だ」  「克綺さん、その……ご希望があるんですか?」  「いや、僕の希望というよりは……先ほどと同じく、公平性を優先したらどうか、という提案だ」  「公平性?」  「位置の対照性と言い換えてもいい」   僕は、自分の考えを説明すると、彼女はうなずいた。 「いいですよ。それと、私からもお願いがあるんですけれど……」  「なんなりと」  「あの、さっきの克綺さんの、で、ですね」  「僕の行為、ということか?」  「そうです。行為です」   なぜか恨めしそうな声。 「その、それで、ですね。 あの……そこが、刺激で……」  「どの行為か明確にしてほしい。 僕は色々なことをした」  「ですから、おしり……です」   語尾は消えゆくようだった。 「あぁ、その行為か」   僕はうなずく。  「で、お尻への刺激が、どうかしたのか?」   彼女の顔から、すっと表情が消えた。 矛盾しているようだが、これは彼女の怒りの表現である、ということを僕は学んだ。 「すまない」   僕は急いで言う。  「何がすまないか、まだ理解していないが、とりあえず、それも含めてすまない」   彼女は、しばらく僕を睨んでいたが、やがて小さく溜息をつく。 「いいんです。わかってるんです。克綺さんのことは」  「そうか。それはありがたい」  「ですから、あの……」  彼女は、僕に耳打ちする。 他に聞いている人がいない以上、明白に非論理的な行動であるが、僕は、それを指摘しなかった。   ──たまには僕も、雰囲気というものを理解する時があるのだ。 「それじゃぁ……お願いします」  僕らは向かい合って座り、彼女が、ぺこりと頭を下げる。 「こちらこそ」  そう言って、僕は彼女の脇の下に腕を通した。 軽い体を持ち上げて、抱き寄せる。 彼女の腕が僕を抱きしめ、僕も彼女を抱きしめる。 僕のそそりたつものが、ゆっくりと彼女に触れる。 「本当にいいのか?」 「はい。うしろで、お願いします」  僕の、そそり立った先端が、彼女に触れる。 柔らかな茂みが、やわやわと撫でる。 「あの、そこじゃなくて……」 「わかってる」  僕らは、協力して、位置をずらす。  先端が、かすかな窄まりを掴む。 「そこで……お願いします……」 「あ、あぁ」  先ほど広げたとはいえ、その窄まりは、あまりにも可憐で、僕を受け止めるには、小さすぎるように思えた。 僕は、彼女を降ろすのを躊躇する。 「だいじょうぶですよ、克綺さん」  そう言って彼女は僕の耳たぶをかんだ。 「だいじょうぶです」  ゆっくりと僕は力を抜く。 彼女の体が、ゆっくりと自らの体重で沈み込む。 「は……んっっ」  眉をひそめる彼女を、僕は愛おしいと思った。 その頬にくちづける。 「んっ……ふぅっ……くぅん……」  僕の先端が、熱く狭いものに包まれてゆく。 先端のくびれが通ると、あとはすぐだった。  つぷつぷと音を立てて、僕は彼女の中に埋まってゆく。 彼女が僕を包んでゆく。 暖かなものに引き絞られ、僕は全身を堅くする。  いまや彼女は、僕の目の高さにいた。 唇が、僕の唇を求めて舌をだす。僕は身をのりだして、そこに口づけた。  溶ける。融ける。蕩けてしまう。 抱きしめた僕の腕が彼女の中に溶けてゆく。 抱きしめる彼女の腕は僕の中に溶けてゆく。  僕の胸に、彼女の背が触れ、互いの感触を確かめ合う。 唇と唇は溶け合わさり、僕の猛り立つものは彼女の熱い孔と一つになった。  たとえようのない一瞬。 僕は僕の境を無くし、彼女と一体となる。  ゆっくりと、しかし、容赦なく、時は流れる。 僕たちは、ゆっくりとお互いの汗ばんだ体を意識し、互いの息づかいに耳を澄ます。 「克綺さん……」  小さな囁きに、僕はうなずく。  僕は彼女ではない。 彼女は僕ではない。 それは、悪いことでもなんでもない。 違うからできることがあるのだから。 「動いて、いいかな?」  彼女は、こくりとうなずいた。  だが動こうとしても、彼女のものは僕を痛いほどに締め付けていた。 「力を抜いて」 「はい……」  堅かったそこに柔らかさが宿り始める。 彼女と僕は、息をあわせて互いの体を動かしはじめる。  ひとーつ、ふたーつ。 僕は口に出さずに、数える。  僕と彼女の小さなリズム。 二つのリズムは、溶け合いながらも、一つにはならない。 わずかな違いが、複雑な快感を生み出してゆく。 「あ……ん……克綺さん」  彼女の体がふわりと浮き、そして、すとんと落ちる。 と同時に、僕自身も引っ張られ、そしてまた、押し返される。 今度のは、競争ではなかった。 協力だ。  単純な上下動に、僕はシンコペーションを加える。 「いいです……そこ……」  彼女は、お返しに、小さなひねりをプレゼント。 心地よいよじれが、僕のものを愛撫する。 「ん……」 「克綺さん……克綺さん!」  ゆるやかに始まったリズムは、だんだんと振幅を増し、少しずつ早まってゆく。 複雑な旋律を絡めて、大きく育つ。  彼女は僕を締め上げ、ねじり、撫ぜあげ、絞り尽くす。 僕は彼女を、貫き、突き上げ、ねじこみ、喰らい尽くす。  彼女の腕に力がこもる。 あの華奢な腕が、これほど、という強さで僕に巻き付き、爪は、背に血をにじませた。 「ふああ……ん……深いです……克綺さん……私……私……溶けちゃう……壊れちゃう」  言葉以上に、彼女のリズムが、限界が近いことを告げていた。 それは僕も同じだ。 二人のメロディが、フィナーレへ向けて駈けのぼる。  あと4つ。 「あっっんんっ……あんっっ……」  あと3つ。 「う……くぅん……克綺さん……」  あと2つ。 「もうだめ……です……私……私……」  ラスト。 「私……わた……もう……あぁぁぁあんんんっっんんっ!」  深い、深い、最後の一突きで、彼女は痺れるようにのけぞった。 僕は、僕でのけぞりながら、熱いものを彼女の中に吐き出す。 「あつい、あついですっっ……!」  熱く熱く彼女は締め付けた。 それは、僕の精液の最後の一滴を絞り出し、なお、求めて止まなかった。  凄まじい快感とともに、僕は僕の中の全てを吐き出してゆく。 血が。命が。心が。その全てが彼女の中に流れ込む。 快感は、恐ろしいほどの喪失感と背中合わせだった。  やがて。 僕は、僕の全てを注ぎ込み。 彼女は、僕の全てを受け入れて。  そうして、汗まみれの僕らは、互いの腕の中に倒れ込んだ。 互いに互いを支え合いながら。  僕は笑っていた、と、思う。 「──」  僕は、最後に彼女の名を呼んだ。 あの時、聞いた、彼女の本当の名を。  翼のはためく音が、その答えだった。  やがて僕は目を覚ました。  快感の中に我を忘れ、気絶する。 そういうことがあるとは聞いていたが、体験するのは無論はじめてのことだった。 「克綺さん、起きました?」  気がつけば、彼女は服を着て立っていた。  「あぁ」   僕も僕で、いつのまにか制服を着込んでいる。 「着せてくれたんだ」  「いいえ」   そう言って首を振る。 室内だというのに、彼女は、あの大きな傘を広げていた。 くるくると回る傘は、僕に何かを思い起こさせる。 「何か、忘れてることがあった気がするんだが……」   僕は首をひねる。 少女は、ゆっくりとベッドのほうを指さす。  そこに……僕がいた。  裸で。 少女を抱きしめている。  あぁ、なるほど。 あれが、僕か。 いや、僕だった、というべきか。 「そうか。そうだったな。思い出したよ」   運命の庭園。 行き止まりの森。 そうだ。 そこで、僕は彼女に触れて死にたいと願った。   ──それはいいが。だとすると。   僕は、ふと、気になって、彼女に聞く。 「僕が僕なのはいいとして、僕のそばにいるあの娘は誰だ?」   ええい、指示代名詞が混乱している。  「私の身体ですよ」  「君、身体があったのか? 現実に?」  「現実に出向く時は、身体がいりますから用意します」  「現実から出る時は?」  僕の問いに、彼女はにっこりと微笑んだ。   あぁ、なるほど。そういうことか。   裸の少女は……僕と同じく、息をしていないようだった。 僕は僕の顔をのぞきこむ。 恍惚に歪んだ、しかし、満足げな顔。 「変な顔をしているな」  「誰がですか?」  「いや、僕が」  「悪くない死に顔だと思いますよ」   彼女が言うのなら、そうなのだろう。 「さて、と。 これから、僕は、どうするんだ?」  「歩くんです。自分の足で」  瞬きする間に、僕は、庭園にいた。 否。最初からそこにいたのかもしれない。  目の前には一本の道があった。 道は、ほんのわずか先で、無数に分かれていた。 「じゃぁ、ここでお別れ、ということになるのかな?」  「そうなります」   彼女はうなずいた。 いつもの彼女だ。 仕事モード。 「さっきは、かわいかったのに」   小さな声でつぶやいた。  「もう……何を言うんですか」   彼女の顔が紅く染まる。 「いや、このことも忘れてしまうのかな、と、思うと、寂しくてね」  「また会う時に、思い出しますよ」  「あぁ、それならいいや」  僕は、道に向きなおる。 道は遠く広く広がり、その果ては見えなかったが、僕には怖れはなかった。  なぜなら僕は知っているからだ。 どんな道を選んでも。途中に何があっても。 道の最後には、彼女が待っていてくれる。  彼女は、この世のなによりも公平で、おまけに優しいのだ。 「それじゃぁ……」 「いってらっしゃいませ」  彼女は、小さくお辞儀をした。 別れの挨拶は、さよならではない。 「また、会おう」 「また、お会いします」  僕は手を振って道を歩きだした。  この道は、どこに通じているのだろう。 僕は、今度は、誰と出会うのだろう。  いつのまにかあたりは暗く、僕の前方には光があった。  光に向けて。 一歩、また一歩と歩くたびに。 僕の中から僕が抜け落ちてゆく。  無数の記憶が。 身体の形が。 そして名前さえもが無くなってゆく。  薄れゆく意識の中で僕は思う。 僕の声は、まだ、彼女に聞こえるだろうか。 きっと聞こえるだろう。 彼女がいない場所は、ないのだから。  暗いトンネルは終わり、目の前には光の入り口があった。 最初の一歩を踏み出す瞬間。 僕は、小さくつぶやいた。 道の遠くで待っている優しい人へ届けとつぶやいた。 「僕は、今、ここにいる」 「君に会えて、よかった」  やがてめのまえがおおきなひかりにつつまれてひかりのなかにとけるしゅんかん。  ぼくは。  ぼくは、たしかに、あのなつかしい、つばさのはためきをきいたきがした。  あてどなく歩く脚は、振り子のようだ。 交互に振りだして前へ進めば、コツコツと鳴る足音が、時を刻む。  小学生たちが跳ね回りながら、僕の横を通り過ぎる。 文庫本に目を落としたまま、早足で通り過ぎる学生服。 まっすぐ前を見て、競歩するように家路につくサラリーマン。  ……みんな心臓があるんだろうなぁ。 そんな脈絡もない考えが頭をよぎる。 一人に一つずつ。 胸の真ん中で、時に激しく打ち鳴らされる生のリズム。  僕は金時計を掴む。ゆっくりとした、あまりにもゆっくりとした、変わることのない〈拍子〉《リズム》が僕を動かす。  携帯に囁きながらすれ違う女子高生。 すれちがいざまに吹く風に、くるくると僕は揺れる。  ……違う時間が流れてるんだ。  濃密な時間を持って通り過ぎる人の群れ。 薄い時間の僕は交わることがない。  目をつぶれば道は大河のようで、流速の深い川底を激流が流れ、僕は岸の近くをゆるゆると流れる。  それはまるで早回しのフィルム。 灰色の群衆がしゅるしゅると入れ替わってゆく。 少しずつ。少しずつ。灰色の群衆が、赤みづく。 夕暮れ。  走る、走る、人が走る。 回る、回る、フィルムが回る。  灰色の人の群れは、ぐるぐると回り続ける回転ドアのようで。 道ばたに押しつけられた僕は、そこに混じるタイミングが掴めなかった。  大通りから、押し出されるように、僕は路地に迷い込んだ。  人のいないほう、人のいないほうに歩く内に、気がつけば僕は暗い裏路地に迷い込んでいた。 新開発区の入り口あたりだ。  妙なところに来てしまったものだ。 僕は、深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうとする。  さすがに、ここから先に行くのはまずい。  かなり昔。 新副都心構想がどうとかで、この狭祭市に白羽の矢が立ったことがある。 多くの企業が青田刈りとばかりに進出し、新開発区が作られた。  だが計画は白紙になり、ほとんどの企業が撤退し、あとに残ったのは、廃ビルの山。 なぜか取り壊しにもならず、今まで残っている。  当然、治安は最悪という噂だ。 確かめる気もないし、その必要もない。  実際、今も、ひとっこひとりいない。  ……なんだ?  気づくより早く、僕は、走り始めていた。 なぜ走っているのか。それもわからず。 脳の中で、ぼんやりと何かが弾ける。 一瞬、見えた人影。見知った顔。  廃ビルの間の妙に広い通り。その間を。 真剣そのものの表情で全力疾走しているのは、恵だった。 「恵っっ!」   走りながら、僕は全力で叫んだ。 届いてない。いや、聞こえていない?  「めぐっっ!」   もう一度叫ぼうとして、息が切れた。  目眩がする。ふがいない身体に苛立つ。   声は届かない。 ぐずぐずしている間に恵の姿が急に小さくなる。 恵の走りは、それほどに速かった。    何かに追い立てられているような、本当に必死の走り。 少しでも遅れれば、見失う。   僕は、呼吸を整える。 声をかけるのは、もっと近づいてからだ。   走る。走る。膝をあげて、腕を振って。   一歩でも近く。 一瞬でも速く。   喉に血がせりあがる。 呼吸するたびに、肺が痛む。   恵は運動神経は悪い方じゃないが、僕のほうが体力とコンパスで勝る。 それでも追いつけないというのは、いったい、どれほどの速さなのか。   何が、恵を駆り立てるのか。   一瞬だけ見えた恵の横顔。 真剣すぎて無表情な顔の裏にあるもの。   思い返せばそれは。   ──恐怖。  過熱した胸の奥で、冷たいものが走る。 論理思考があとから追いつく。   恵が恐れているもの。それは、なんだ?   走りながら、あたりを見る。 赤黒い光が照らす夕暮れのビル街。 紅いコートも黒い髪も、夕焼けに溶け込み、いまはもう、かすかな輪郭でしか見えない。   頼りにするのは、その足音。 路地を越えてこつこつと地面を蹴るその足音。   足音は。一つだけか?   息が苦しい。 血の流れがごうごうと耳元を流れる。 聞き分けようとしても、無理だ。   だけど。 確かにノイズが混じっている。   かすかなノイズ。 何かをひきずるような音。   ずるり、ずるり。 それは足を引きずる音にも似て……。  思考は唐突に断ち切られた。  目の前が急に明るくなる。 街灯。そして車のライト。 新開発区の、出口だ。  どこをどう走ったか、気がつけば、開発区をぐるりと回っていた。 光っているのは駅前大通りの信号だ。  ノイズはもう聞こえない。 車の音が全てをかきけす。  恵は、まだ走っている。うしろを見ないで。前も見ないで。  汗の全部が冷たくなる。 僕は、最後の力を両足に込める。 肺一杯に空気を吸って、耳がちぎれるほどに叫んだ。 「恵っっっ!」  車の喧騒を越えて。距離を超えて。声は届いた。  恵が、振りかえった。  その顔が、僕のほうを向き。  そして、瞳が恐怖に見開かれる。口元が凍りついたように固まる。  恵は、あとずさり、あっさりとガードレールを越える。  そのまま、何かに背を押されるように走り出す。 数歩歩き、そして、車道の真ん中で、ばったりと倒れ込んだ。  声は、でなかった。 ただ足を動かした。  ──間に合わない。 冷徹な声がした。  僕は、走る。 時間の流れが鈍くなる。空気が重くなった。  アスファルトを蹴って、ガードレールを乗り越える。 宙に浮いた足が地に着くまでのもどかしさ! 「わぁぁぁぁぁぁぁ!」  自分の声が、遅れて聞こえた。  大地に倒れた恵に、僕は上から覆いかぶさる。  エンジン音。 ブレーキ音。  タイヤがきしり、空気が震える。 悪夢のようにゆっくりと、バンパーが近づく。 恵を抱き起こすより速く。  僕は、宙を舞った。  衝撃が意識を奪うまでの一瞬の間。僕の視界は、出てきた路地を捉えた。 闇の中に凝る、闇よりもなお暗い影が。  人に似て。それでいて、人と違うシルエットを。 僕は、確かに見た。  背骨をつきぬける痛みが、僕を目覚めさせた。 頬が当たっているのは、ざらざらとしたアスファルト。  どうやら意識が飛んだのは、ほんのわずかな間だったらしい。  起きあがろうとして、地についた掌が痺れていた。 無意識の内に受け身を取ったらしい。  脇腹、そして背中が燃えるような刺激があった。 痛みじゃない。痛みは、今、押さえ込まれていた。  僕は、ふらりと立ち上がる。  こっちを見ていた中学生くらいの少女が、足早に歩み去った。   吐き気はない。 めまいもない。 僕は、平気だ。   それより恵だ。 病院。救急車。  僕は、必死に携帯を探る。 ポケットに入れたはずのそれは、どうしても見つからなかった。  大通りの片側に、巨大なトラックが止まっていた。あれが僕を? それより恵は?   道ばたに集まった人の壁。 恵は、きっと、あの向こうだ。  もつれる足が、何かを蹴飛ばした。 それは、液晶の割れた、僕の携帯だった。  救急車が来るのは思ったよりも早かった。   車に入ると、手当をされた。 血をぬぐわれ、絆創膏がはられる。   何か、いろいろ聞かれたのを覚えてるが、ろくに答えられなかった。   恵が、糸が切れたかのように動かない恵が、そばにいるだけで、ものが考えられなかった。   壊れた携帯を見せると、隊員の人がPHSを貸してくれた。   管理人さんにかけようと思って、番号が思い出せなかった。     思い出せるのは、峰雪。   電話は、つながった。   何を言ったかは覚えてない。 途中から、隊員の人が代わってくれた。   病院の名前を言っていた、と、思う。     恵がキャスターで運び込まれる。  ついていこうとしたら、腕を掴まれた。 僕は僕で検査があるらしい。   あらがおうとして、膝が、崩れた。 力強い手に支えられて、僕は、廊下を運ばれた。   簡単な問診と、検査。 この間、僕は、軽い、無気力状態だったらしい。 恵のことは、常に頭にあったが、焦燥感や心配は、なくなっていた。 ただ、医者の言うままに答え、動いた。   結果、僕の怪我は、軽い打撲程度だった。 あのトラックに跳ね飛ばされたとすれば、まぁ、奇跡的に軽いと言ってよかろう。   診断と治療が終わっても、僕は、呆然としていた。  恵の病室を告げられて、ようやく、我に返る。 「よぉ、この、死に損ない」  ドアを開けて、峰雪が、でかい声で言った。 管理人さんも来ていた。  「静かにしろ。他の人に迷惑だ」   自分でも信じられないくらい冷静に僕は言った。  「ぬかせ、この石頭」 「お医者さまが言ってたけど、恵ちゃん、心配ないですって」   恵は、ベッドに眠っていた。 その寝顔を見て、ようやく僕は、ためた息を吐き出した。 急に全身に疲れを感じた。  「精密検査もしたけど、普通に寝てるだけだから」 「よかった」   そう言ってから、僕は気がつく。  「どうして管理人さんがいるんですか?」 「どうしてっておめぇ、俺が呼んだからに決まってんだろ」  「ふむ。峰雪。君にしてはいい判断だ」  「ンだと、こら」 「ありがとうございます」   僕は、改めて管理人さんに頭を下げた。  「何、言ってるの。 困った時は、お互い様でしょ」   にっこり笑った管理人さんの顔をみると、なぜだか、身体の強ばりがほぐれるような気がした。  「でね。克綺クン。警察の方が、連絡くださいって」 「どうして……警察が?」 「うーん、交通事故だからじゃないかな」  「あぁそうですか」  我ながら間抜けな会話だ。 トラックが人をはねれば、事件性がある。 そんな当たり前のことを忘れていた。 というより、トラックには運転手がいる、という事実に、今、思い当たった。   今回の場合、責任は完全に僕と恵だ。 運転手に罪はない。   恵のそばにはいたかったが、仕方がない。  警官に来てもらうこともできたが、僕の怪我は軽いし、これ以上、第三者の手間を増やすのも嫌だったので、僕は、直接、警察署に向かうことにした。  「わかりました。警察に行ってきます」 「もっとシャキっとしやがれ。 テメェが犯人みたいな顔してるぜ?」  「法律的にはともかく、道義的には、その通りだ」  「あ?」 「では行ってきます」 「あ、ちょっと待って」   管理人さんに呼び止められる。  「何でしょう?」  「克綺クン、今、お金、いくらある?」 「現金は少ないですが……」  「いいから、これ、持っていきなさい」   管理人さんが、小さな袋をくれた。 「金銭をもらう謂われはありませんが……」  「もらっとけっつの」   なぜか峰雪が凄む。 管理人さんと僕の問題に、峰雪が口を挟む非論理性を指摘したかったが、いかんせん、疲れすぎていた。  「いただきます」   僕が、頭をさげると、管理人さんが、ほっとしたように笑う。 峰雪と管理人さんに別れを告げ、僕は病室を出た。   運転手の人は、30歳くらいの男性で、痛々しいほどに恐縮していた。 警察署に出頭して、僕は、開口一番。  「今回は、我々の責任です。この人に問題はありません」   と言った。 僕の主張は、それで全部だったが、警察は満足してくれなかった。  長々とした事実確認。こまごまとした質問。 取り調べというものは、主観を客観に変えてゆくプロセスだと知った。   警察官から聞いたところでは、トラックの運転手は、僕を見て、ブレーキをかけたそうである。 つまり、倒れた恵には気づいていなかったわけで、僕がいなかったら、完全に轢かれていたわけだ。   ずきずきとする頬の痛みに、多少の意味があったと知って、僕は、少しだけ、ほっとする。   責任の配分。保険、賠償の問題。 面倒な話は幾つかあった。   取り調べが終わった時。僕は、心底、疲れていた。   病院に電話をかけようとして、携帯が壊れていることに気づく。 携帯を落として壊したことは、さっき何度も証言させられたのだが。   公衆電話を見つけるのに、しばらく時間がかかった。   電話をかけようとして、病院の番号を知らないことに気づく。 ついでに管理人さんの番号も思い出せない。   僕の手際の悪さを救ったのは管理人さんだった。   もらった袋の中には、一万円札二枚と、それから、病院の地図および管理人さんのPHSの番号までが書いてあった。   しばらく迷った末に、管理人さんの番号にかける。 「……もしもし、九門ですが」  「克綺クンね」   管理人さんの柔らかい声が耳に響く。 疲れを感じさせないその声は、心地よかった。  「恵ちゃん、一度、起きたけど、また寝たところ。元気よ」 「わかりました」   僕はうなずく。 「僕にできることはありますか?」  「うちに帰って、ゆっくり寝て」  「はい」  「病人の相手は体力勝負よ。暇な時は、休む。それが鉄則」 「なるほど」  「ま、恵ちゃんは大したことないと思うけど、一応ね」 「今日は、私が泊まってくから、克綺クンは、そのまま帰りなさい」   恵の顔を……寝顔でもいいから、もう一度見たい、と、思った。 だが、正直、僕の身体も限界に近かった。  「では、そうします。ありがとうございます」  「じゃ、明日の学校、寝坊しちゃだめよ」 「はい」  帰るのにはタクシーを使った。 分不相応という言葉が頭をよぎったが、まぁ、こんな日くらいは許してもらおう。  深夜、道ばたに立つ顔に大きなガーゼを貼り付けた学生服の少年を、運転手さんは何も言わずに家に送り届けた。 使ったのは管理人さんのお金だ。降りる時に、一応、領収証というのをもらった。  おそるおそる 「領収書ください」   と言ったが、運転手の人は、はい、と言って紙をくれた。  レシートと変わらないような紙だったが、一応、領収書と書かれていた。  メゾンの門をくぐり、ドアを開けて中に入る。  部屋につき、カバンを放り出してベッドに倒れ込む。 まぶたがくっつき、全身から力が抜ける。  眠り込む前に、なんとか起きあがって、制服をぬいだ。  記憶があるのは、そこまでだ。  月は雲に隠れ、街灯の蒼い光が差していた。 狭祭市新開発区に面した、街路。 深夜ともなれば、車もなく、ひっそりとした道の中に、沈黙だけが漂う。  現場検証の終わった事故現場はすでに跡形もなく、何の痕跡も残されていなかった。 人間の目には。  開発区の奥から、影が現れる。  革の靴は音も立てずに。 尖った耳をぴんと立て。 足音一つ立てずに、影が歩きだす。   その足取りは、軽やかで、急がず、迷わず。 目指す一点を目が見すえる。   蒼いアスファルトの黒い染み。 人には見えぬ血の滲み。   細い指が、大地に触れる。  膝を曲げ、身をかがめた瞬間。待っていたかのように、それは飛来した。   少女は避けようともしない。 風を切って、音を立てて、煙まで上げて飛ぶ礫など、避けるにも値しない。   冷たく迫る鉄の拳。 振り返りもせずに、風で弾こうとした瞬間。 それは、爆裂した。  灼熱の風とともに、砕けた無数の礫が襲いかかる。  爆風を味方に、少女は宙に舞った。  浮いた少女に向けて、掃射される弾丸の雨、雨、雨。  少女の知覚が加速する。 狙いもつけずに放たれた弾幕は、躱すには濃すぎた。  ひゅ、と、口から呼気がもれる。 先頭の一発を風で掴む。 とたんに少女が顔をしかめた。  止まらない。弾は、脂を塗ったかのように、風の指をすりぬけた。  長老に聞いたことがある。 風殺しの弾。 秘文字を刻んだ弾を、溶かし、鋳つぶし、烏の風切り羽根を燃して墨を作り、その火で再び鍛え上げる。 古の禁法を知るものがいたとは。  逡巡は一瞬で、その一瞬で弾幕は目前に迫っていた。  無数の弾を眼前に、少女は、吼えた。 まじりけのない狼の咆吼。 空中で、少女の身体が跳ねる。  最初は爪だった。 鋼よりも鋭い爪で、弾という弾を斬り飛ばす。  その爪が鈍り、血を噴けば、掌だ。 重ねた掌で顔を護り、能う限りの弾を受け止める。  掌が死ねば腕。そして膝。 両の腕を盾にして、血も肉も骨までも削りながら、少女は弾幕を突破する。  全身を真っ赤に染めながら、少女は、足先から大地に降り立った。 煮えたアスファルトの上で、少女はかすかに息をつく。   膝はつかない。だが、腕は上がらない。 ちりんちりんと音を立てて、無数の弾が地に墜ちた。   その胸に、どん、と、衝撃が走る。  少女が目を落とす。 胸の中から、真っ赤な刃がのぞいていた。 「ふむ。この手数で、殺せんか」   背後で声がする。  最後の瞬間。少女は剣風を察知し。 刃は、わずか数ミリで、心臓を外していた。  草原の民は不死身ではない。だが、脆くもない。 急所を外した刃は、致命ではない。  えぐられぬように、両の掌で、少女は刃を挟んだ。  ぐいと力を込めて、押し戻す。 「誰だ!」   吐いた声には生気があった。  「イグニス」   闇の奥から声がかえる。 するり、と、刃が抜かれた。   びちゃり、と、血が吹き出て、少女の足が揺れる。 「あきれた不死身ぶりだ。さすがは草原の民。血が古い」   傷口に左の拳をねじり入れ、少女は血を止める。 少女が振り向く。  「ボクは風のうしろを歩むもの。門を求めて街に来た。おまえも門を捜す者か!」   牙をむき、目を光らせて少女が叫んだ。  紅いコートの女は、艶然と笑った。  「いかにも、門を求めるものだ」 「イグニスっていったね。風のうしろを歩むものは、これより戦いを挑むよ。恨みもないが、容赦もしない。死にたくなければ……」  銃声。 イグニスの手には拳銃があった。 額を狙った弾を、少女は首を傾けただけで躱した。 「うるさい。黙れ、犬ころ。その命、次会う時まで、預けてやるから、尻尾を巻いて消え失せろ」  風のうしろを歩むものは、目の前の女をにらみつけた。 目の前の女は、まだ、いくらでも奥の手を持っていそうだ。 そして今の自分は深手を負っている。  草原の民は、名誉を尊ぶ。よりよく死ぬための名誉。 汚い罠にかかって、勤めを果たさず死ぬのは、名誉ではない。 「また会うよ」  言葉は風を呼び、一陣の風とともに、その姿は消えていた。 「やれやれ……罠が無駄になった」  静かにイグニスが呟く。  真っ赤な色の刃をぬぐい、鞘に収めた。  煮えたアスファルトの中に、もはや血痕は影も形もなかった。 人にして強い魔力を帯びたその血こそは、人外の民の求めて止まぬもの。「門」を開くコードマスターの生き血。   故に。 先回りして罠をかけたわけだ。   魚はどうにでもなる。 できれば、この段階で、犬は排除しておきたかったが……イグニスは肩をすくめる。  仕留め損なったものは仕方がない。 仕掛けておいた対戦車榴弾と、小銃を回収し、新たな布石を練り……朝までにやるべきことはたくさんある。  爆破音が通報され、パトカーが駆けつけるのに、約7分。 溶けたアスファルトと無数の小銃弾をみて、警官達が絶句する頃には、人外たちの姿は影も形もなかった。  その建物に、地階があることを知る者は少ない。  この町の深部を知る、一握りの者。ごくわずかな例外だけが、この町の真の姿を知っている。 「入りたまえ」   黒い、大きな執務机。実用本位のデスクで、男は書類に目を通していた。 軽やかなノックの音に、顔も上げずに返答する。  「は、失礼します。報告にまいりました」  「例の九門克綺に関してですが――」 「九門、克綺……?」   それまで、休む暇もなく書類をめくり、視線を行き来させていた男の動きが、止まる。 「あくまで未確認ではありますが、九門克綺が“最も気高き刃”と接触した、という情報がありました」  「なに? “最も気高き刃”? やつがとうとう、この町へ?」  「いまだ、確認は取れておりませんが」  「早急に事実関係を確認しろ。最優先事項だ」 「は、承りました。それともう一つ、ご報告が――」 「構わん。続けろ」  「蝕を目の前にして、人外の動きが活発化している様子です。今日も一体、新たな草原の民が確認されました」  「ふん、門を探しに、こんな辺境までやって来たか」  「協定内には含まれていない要素です。いかがいたしましょう?」 「捨て置け。今は、些末にかかずらわっている場合ではない」 「何よりもまず、“最も気高き刃”だ」   ――無論、簡単に尻尾を掴ませるわけもないだろうが。   男はそう呟いて、小さく唇を歪めた。 「計画の完成は目前だ。下手に手出しはするな」  「時間はないが、我々も慎重に動く必要がある」  「は、承りました」  「わだつみの民は、どうだ。夜闇の民との決議は、届いているだろう?」  「そちらの方も、順調に準備が進んでおります」  「これ以上余計な注目を浴びたくはない。速やかに準備するように」  男は秘書を下げると、男は背もたれに身体を預け、机の上に足を投げ出す。  積み重なった書類が、音を立てて床に崩れた。  「これで、三つの護りが揃ったか。さすがにコードマスターを、見捨ててはおかないな」   ひとりごちて、自分でも気づかないうちに、顔が歪む。 全てが順調に進むなどと、考えたこともなかった。 だが、それはそれとして、目の前に障害が立ちはだかると、やはり気落ちするものだ。  来るべき障害を目の前にして、男はひとり、忌々しく呟いた。  「……それにしても、厄介なものがやってきたものだ」 →3日目へ  電話の音で、目が覚めた。  重い頭をおこして、受話器を取る。 「はい……」  「よかった克綺クン。いたのね」 「はぁ」   金時計を見て、僕は眉をひそめる。 遅刻どころじゃない。 一時間目が始まってる時間じゃないか。   寝坊は、しないたちだ。 一応、携帯にアラームをつけてはいるんだが……ああそうか。 携帯は昨日、壊れたんだった。 「恵ちゃんが起きたの。克綺クンも、ちょっと病院まで来てくれない?」 「わかりました」   そう言ってから、僕は、ふと首をひねる。  「昨日は、遅刻してはだめ、と、おっしゃってませんでしたか?」  「うん。ちょっと……恵ちゃん、身体はなんともないんだけど……」 「心に問題があるということですか?」 「……うん。少し、ショックを受けてるみたいなのね。克綺クンにも来てほしいかな」  「了解しました。すぐ行きます」  僕は、すぐさま服を着て病院へ向かった。   ショックを受けている……。 病院に行く間中、その言葉の意味を考えていた。   交通事故に遭ったのだ。トラックにはねられたのだ。 精神的後遺症はいくらでも考えられる。   いや、それよりも。 僕は思い出す。   恵が浮かべた恐怖の表情。 そして、あの時、見た影。   あれは、いったい、なんだったのか。  影の形。あのいびつな形が、目の錯覚、気の迷いだとすれば話は簡単だ。   恵は、誰かに追われていたことになる。 犯罪者。ストーカー。   金時計を握りしめる。 怒りを感じるべきなのかもしれない。 だけど、僕には、正体のわからない存在に対する怒りは湧かなかった。   正体。 恵に直接聞けばすぐわかるだろうが……それが恵の症状の原因だとすると、問いただすこと自体が恵を傷つける可能性もあるわけだ。  小さく息を吐く。   それでなくとも僕は、他人を傷つけると言われる。 今日は、言葉に注意しよう。   恵にかけるべき言葉と様々な応対を、一つずつ頭の中で予行演習する。   最初にかける言葉を十種類。 それに対する恵の反応を、それぞれ十通り。 さらに僕の反応が十通り。   組み合わせは全部で千。 重複をのぞいても、約300というところか。 僕は、端から埋めにかかった。  全部埋まるより速く、病院に着いた。  巨大な受付には、いろいろな人が行き交っていた。 昨日は感じる暇もなかったが、やはり独特の空気がある。  きびきびと動く白衣の男女。 ゆっくりと動くガウンの入院患者。 その中を所在なげに歩き回る外来。  面会手続きを済ませ、恵の病室へ向かう。  ドアを開けた時の、恵の顔を、僕は生涯忘れないだろう。  暗い影が、その顔にあった。 両の腕で頭を覆い、ベッドの中に埋まるような、その姿。  つらそうな、その瞳。 それを見て、僕は、理解した。  僕は、怒ることができる。 恵に、こんな顔をさせるに至った何かを。 それが、誰であっても、何であっても、たとえ何かの間違いでも。  だが、今は、怒る時じゃない。 「……おにい、ちゃん?」  心細い声がベッドからした。 「そうよ、お兄ちゃんよ」   横に座っていた管理人さんが、恵の腕に、そっと触れる。   恵に言う言葉。 十通りの言葉が、喉で凍る。 「めぐみ」   それだけで、言葉は足りた。  ゆっくりと、ゆっくりと恵の緊張がほどける。 「恵、だいじょうぶだ」  僕は、ゆっくりと繰り返す。 力無く落ちた手を、僕は、両の手で取った。 冷たく、強ばった指を、手の中で温める。 「おにいちゃん」   恵が、息を吐いた。 「あのね……わたしね……」   固く結んだ唇の内から、恵が、ちいさなちいさな声で囁く。 「無理しなくていいぞ」  ノックの音がした。ちいさく、控えめなノック。 だが、この病室の中では、無神経なまでに大きく響いた。  小さな悲鳴を上げて、恵が再び固まった。  おずおずと顔を出した看護婦を、僕は振り返った。 たぶん、にらんでいたんだと思う。 まだ若い看護婦は、顔を蒼白にしてあとずさった。 「あ、すいません」  のんびりとした声が緊張を破る。 「検温、ですよね? やっときますから。あとで、三上さんに届ければいいんですよね? ええ、だいじょうぶです」  管理人さんが、やさしく、しかし有無を言わさない手際で、看護婦の手から、体温計をとりあげる。 看護婦は、もごもごとつぶやいて、病室から出た。 「ごめんなさいね、恵ちゃん」   管理人さんは、そう言って、おびえる恵に触れた。  「汗、ふきましょうね。万歳して」   ぎこちなく、しかし、言われるままに、恵が、両腕をあげる。  僕は、息を呑んで、目を逸らした。 「外で……待ってます」 「ええ」  ふりかえろうとして、僕は足を止めた。 恵が、制服の端をつかんでいた。 小さな指には、精一杯の力がこめられている。 「恵……」 「恵ちゃん。だいじょうぶよ。おにいちゃん、すぐ帰ってくるから」 「ほんと?」   幼い頃に帰ったような、その小さな声に、僕は、精一杯うなずいた。 「あぁ」  恵は、僕の目を見て、それから、ようやく、手を放した。  僕が、部屋から出るまでの間。その目は、ずっと僕を追っていた。   ドアの外。看護婦は、すでにいなかった。   僕は、ドアの前に立つ。 誰も入れぬように。 音を立てぬように。   足早に通り過ぎてゆく看護婦と医者。 僕は目をあわさずに、じっと待っていた。 ノックは、できない。   身体を拭いて、体温を測って。どれくらいかかるだろう? 5分、いや10分というところか。  僕は、金時計を開いて時刻を確かめた。   時計の秒針を数えてゆく。   10。20。胸が重い。 30。40。息が苦しい。   ドアの向こうで怯える恵。 なにもできずに、じっと待っている身の苦しさが、僕を苛んだ。  意志の力で目を閉じる。   きちきちと時を刻む秒針は、容赦なく響いた。 数えるのが止められない。   59、60。まだ1分か。   あと9分。540秒。   僕は、叫び声をあげたくなる。  大きく息を吸って、叫び声を無理矢理ねじふせたその時。 秒針の音に混じって、聞こえる声があった。   部屋の中から響くそれは、やさしく、ゆったりとした歌声だった。  ドア越しの声は、ほとんど聞きとれないほど穏やかな声だったが、それでも、僕の前を歩く人たちのほとんどが、一瞬、足を止めてゆく。  僕は、目を閉じて、その声に聞き惚れた。  〈嫋々〉《じょうじょう》と尾を引いて、ゆっくりと、歌が、終わる。  僕は、できるだけ、音を立てないように、静かに、静かにドアを開けた。 「あら、克綺クン」   管理人さんが、ベッドに腰掛けたまま、にっこりと笑う。  「だいじょうぶよ。もう、寝付いたから」   その腕の中で、恵は、眠っていた。 ベッドに半身を起こした姿勢で、管理人さんの豊かな胸に頭を預けている。  その寝顔には、さっきまでの影は、微塵もない。 ほんとうに安らかな笑顔。   管理人さんは、両手で、ゆっくりと恵をあやす。 「えい」  可愛い気合いを入れて、管理人さんは両腕でゆっくりと恵をもちあげ、ベッドに寝かせる。 「力、強いんですね」  僕は、間抜けなことを言った。けど、それは事実だ。 見ないうちに恵も大きくなった。 両腕で抱えあげるのは、僕でも、つらいと思う。 「え? あ!」   管理人さんは、ふと気づいたように、苦しそうな顔を見せた。  「恵ちゃん、軽いから」 「軽くないですよ」  「だめよ、克綺クン」  「恵ちゃんくらいの歳の女の子は、絶対に体重が軽いものなの」  「はぁ」  非論理的な主張に、僕は、言葉を失った。  管理人さんは、寝かせた恵に布団をかけた。柔らかな布団を、肩までかけ、最後に軽く、ぽん、と叩いた。   その様子を見て。 なにか、安心した。 肩の荷が下りたような気がした。   人間の肉体とは正直なもので、そう思った瞬間、お腹がくうと鳴った。 「あら、克綺クン。ごめんなさい。 朝ご飯、作ってなかったわね」  「いえ……」   僕は首を振ってから気づく。  「管理人さんこそ……昨日の晩から、何か、食べました?」  「私? 私は平気」  「代わります。帰ってお休みになってください」 「昨日は、ちゃんと寝たから大丈夫よ」  「椅子でですか?」  「そうよ。いけない?」  「いえ……ですが、椅子では体力回復がしにくいかと」  「平気。こうみえても、私、若いんだから」 「おいくつなんですか?」  「……」  「……」   管理人さんの顔が強ばる。 冷たい沈黙が流れた。  「今の質問には問題がありましたか?」 「うん。ちょっと、ね……」 「わかりました。これから管理人さんの年齢に関わる話題は避けるようにします」  「ありがと、克綺クン」  「いえ、礼を言われるほどのことでは」   僕らは、笑いあった。 屈託なく笑ったのは、昨日の晩から、はじめてかもしれない。   管理人さんが、壁の時計を見上げる。 「まだ……授業には間に合うわよね。 午後からでもいいから、いってらっしゃい」  「いえ、ここは僕が代わります」  「克綺クン。いいから、学校行ってらっしゃい」  「なぜですか?」  「子供は勉強。そして大人は子供の面倒を見る! これが、世の中の基本!」  そう言われると確かにそれはそうで、僕は、渋々と腰をあげる。  管理人さんをじっと見る。 疲れた様子はない。 本当に、元気そうな、いつもの管理人さんだ。 僕は、頭を下げた。  「恵を、お願いします」  「任せて!」   管理人さんの声は、本当に、頼もしく、そして、嬉しそうだった。  学校へ行く。 受付で遅刻手続きを済ませ、僕は、教室へ向かった。  無人の廊下を歩き、教室の戸の前に、僕は立った。  時刻はまさに授業中。3限目だから、メル神父の英語の授業か。 どうやら小テストをやっているようで、中は、しんと静まりかえっていた。  さすがに少し緊張する。 が、待っていてもしょうがない。 僕は、ゆっくりと戸を開けた。  クラス中の目が、僕に注がれる。  黒板には、「あと10分」とあった。  メル神父は、無言で、テスト用紙を差し出す。  僕は、皆の好奇の視線をあびながら、静かに席についた。 →3−5  予鈴がなり、テスト用紙は回収された。 「起立! 礼! 着席!」  牧本さんの号令で、授業が終わる。  メル神父が出ると同時に、ひゃーとかふーとか、もうだめだーとかいう叫びが充ち満ちる。 「よぉ」 「なんだ?」   峰雪が詰め寄ってくる。  「ちょいと顔貸せや」 「あぁ。どこだ?」  「屋上」  「長いと授業に差し支える」  「直ぐに済む」 「ならいい」  僕は、席を立つ。  屋上の風は、少し肌寒かった。 「で、何のようだ?」  「恵ちゃん、まだ病院か?」 「あぁ。しばらく入院するかもしれない」  「そうか。お見舞い行っていいか?」 「まだ、いかないほうがいい」   僕は、恵の状態について、ざっと説明する。 「そっか……。つれぇなぁ」 「話は、それだけか?」  「ん? あぁ、そうだ。 一応言っとくが、治療費は、うちの親父が出すってよ」  「ありがとう」   両親を亡くした時、峰雪の父が僕らの後見人になった。そのへんの事情は、学校の友人には伝えていない。 「なぁに、たいしたことじゃねぇ」 「君に言ったわけじゃない。 お父さんによろしくということだ」  「かわいげのねぇ野郎だ」   そう言って峰雪は、笑った。 「人手は足りてるか?」  「恵の面倒は、管理人さんが見てくれている」  「管理人さんが? へぇ〜」   峰雪が、感心する。  「管理人さんに迷惑をかけっぱなしというわけにもいかないからな。人手も、借りるかもしれない。その時は、よろしく頼む」 「任せとけ! なんか、俺にできることはあるか?」  「ふむ」   僕は、しばらく考える。  「病院から直で来たので、昼飯がない。パン買って来てくれ」  「よっしゃ……って、金ないのか?」 「あるぞ」 「購買行く気力もねぇと?」 「あるが」  「俺をパシリにする気か?」  「質問したのは、そっちだろう。峰雪が僕にできることの一例として、答えたまでだ」  「あぁ、そうですかい。 なんなら、肩でも揉みやしょうか?」  「それはいいな。だが、どちらかといえば、肩よりも足が疲れている。足を揉んでくれ」 「克綺」 「なんだ?」  「今のは、嫌みだ」  「嫌み? どこが嫌みなのだ? 僕には有りがたい申し出に思えたが」  「……すまねぇ、俺が悪かった」 「よくわからないが……それはつまり、足を揉んでくれない、ということか?」  「たりめぇだっ!」   いきなり怒った。よくわからない男だ。  「残念だ」  その時、屋上の扉が開いた。 「あ、いた」   牧本さんが、顔を出す。  「四時間目、始まっちゃうよ!」  「わざわざ呼びに来てくれたのか」  「ううん、別に……」   牧本さんが笑顔になる。 「なぜだ?」  「え?」 「何言ってんだ、おまえ?」   二人が呆れた顔をするので、僕は説明した。  「牧本さんの行動の理由がわからないだけだ。僕らは時計を持っている。故に、時間は把握している。であるなら、時間の管理はできるはずだし、また時間内に戻るとなると相応の理由があるはずだ。そのことは牧本さんも推測できるはずだ」  「え、えと……」 「つまり、牧本さんは、我々が、時間の管理ができないと踏んだか、あるいは、我々の意志に反しても時間内に我々を連れ戻す必要があったか、さもなくば……」 「いいかげんにしろ」   頭をはたかれた。  「なぜだ? 峰雪は理由が気にならんのか?」  「私、ほら、学級委員だから」   牧本さんが、心細げな声で言った。 「なるほど。クラスを統括するものとして、我々の規律に反する行動を律しようと言うわけだ。立派な心がけだ」  「えと、そうじゃなくて……」  「では、なんだ?」   牧本さんは、どうしてか泣きそうな顔をしていた。 「落ち着け。克綺」  「僕は常に落ち着いている。理由を聞いているだけだ」  「おめぇのは尋問っていうんだ」  「ふむ。ニュアンスの違いだな」  牧本さんが、ようやく口を開いた。  「あのね。なんか……二人とも深刻な顔してたから、ちょっと心配だったの。それだけ」  「あぁなるほど」   僕は、大きくうなずいた。  「たいしたことはない。 ちょっと妹が事故に遭っただけだ」  「え?」  峰雪が手で顔を覆う。 それが、自分の手に負えない、というボディーランゲージであることくらいは、僕も理解している。  「恵ちゃんが?」   牧本さんが、心底、驚いた顔を見せる。  「昨日、僕と一緒に、トラックにはねられてな」  「え? え?」   峰雪が、ためいきをつき、割ってはいる。 「恵ちゃんが、道路ですっころんでな。このバカが、うまいことかばったんで、たいした傷じゃねぇ」  「わたし、お見舞いに行こうか?」  「少し、立て込んでいてな。気持ちだけ受け取っておく」   僕は、牧本さんに頭を下げた。 恵と牧本さんは、昨日、会っただけだ。 それなのに、これほど気にかけてくれるのは、正直、ありがたかった。 「わかった。何か、私に、できることがあったら言ってね」  「ふむ。昼食のパンと、あと足を……」  言い終わる前に、顔面が暗くなった。 衝撃と痛み。峰雪の裏拳が、顔面にヒットしていた。 「峰雪くん! 怪我人に、なんてことするの!」   牧本さんが怒る。 「そうだ。怪我人に何をする!」 「黙れ、この、この!」   暴れる峰雪を、僕と牧本さんが取り押さえる間に、チャイムが鳴った。 「やべ! 次、なんだ?」  「獅子堂の現国」  言いながら、僕らは走り出していた。  現国の獅子堂教諭。人呼んで「スマイル」獅子堂。 彼の授業だけは遅刻してはならない。   普段の獅子堂教諭は、仏像のように穏やかで、糸のように細い目を半眼にしておこなう授業は、中身も濃く、人気がある。 だが、万一、授業中に居眠りやら遅刻やらしようものなら。  細い目をかっと見開き、 「君、減点5ね」 と、言い放つ。  その際、一瞬だけ見せる笑顔は、獲物を前に舌なめずりする快楽殺人者を彷彿とさせ、罪を犯したものの心に生涯消えぬ傷を刻むという。 伝説では、彼が、両目を大きく見開く時は、海東学園最期の時だという。 「遅くなりました」   扉を開け放ったときには、すでに授業は始まっていた。  「どうかしましたか?」   獅子堂が笑った。 目尻をさげ、片頬だけが、ぴくりと震える。唇の端の舌なめずりを、僕は確かに見た。 その嗜虐的な笑みは、顔は、確かに、「スマイラー」の名にふさわしい。 「いえ。理由はありません」  「では、それぞれ減点5」  僕らは悄然と席につく。 峰雪ですら逆らわなかった。  減点5より恐ろしいものは一つしかない。 それは。 減点10だ。  伝説では、減点40を喰らって、試験前に補習が確定した男がいるという。 あな、おそろしや。  最初を別にすれば、4限目は、無事に終わった。  やることがあるのはありがたい。 授業を聞いて、ノートを取っているだけで時間が過ぎる。 その単純作業が、今日ばかりは、ありがたかった。  家に一人でいたら、神経がまいってしまっただろう。 同時に、罪悪感を感じる。 恵が苦しんでいる時に、僕は、こんなところで、のうのうとしている。  6限目が終わると、メル神父が顔を出した。 「あ、九門君いましたね」 「なにか、御用ですか?」  「ええ。時間はありますか?」 「それは哲学的な問題ですね」  「え?」  「時間という概念が実在のものかどうかということですね。 最終的には、哲学の範疇だと思います。 無論、物理学における時間の取り扱いは前提知識として必要でしょうが。 ところで、その質問が、用ですか?」 「……九門君。今、時間は空いてますか?」  「時間は常に空いているとも空いていないとも言えます。 すべては優先順位の問題です。 目下のところ、僕は家に帰る予定です」  「……こみいった話があるんですが、差し支えなかったら来ていただけますか?」  「はい」  僕は、峰雪と牧本さんに手を振る。  「そういうわけだ。先、帰っててくれ」  「おう、死ぬなよ」  「じゃ、また明日」  峰雪の挨拶は、相変わらず意味不明だ。  職員室に行くまで、メル神父は、ずっと、くっくと笑っていた。 「九門君は、面白いですね」 「そうですか」  何が面白いのかが、わからない。 やがて職員室に着く。 「話とはなんですか?」 「さて、いくつかあるんですがね。まず、面倒なところから行きましょうか」   面倒?  「九門君。警察から照会がありました」  「警察から?」   僕は、眉をひそめる。  「事故ですか?」 「ええ。恵さんの事故ですが……警察は、事件性があると判断したようです」 「僕に関する照会ですか? そうか。僕が加害者の可能性もあるわけですからね」  「九門君は、率直に物を言うんですね」 「まわりくどく物を言うのが苦手なんです」  「なるほど」   メル神父が笑う。 「警察は、最近の事件で、いろいろと過敏になっているようです」  「事件?」  「連続殺人事件、ですよ」  「なるほど」   まだ捕まっていなかったのか。 「恵さんの事件も、交通事故にしては不自然ですから。そのへんで調べているそうです」  「……なるほど」   殺人犯に追われ、そしてガードレールを乗り越えたということなら理解もできる。  「捜査に協力したいとは思いますが、恵の状態は、あまりよくありません」 「ええ。一応、念のために聞きますが、君は、今回の事件に関わっていますか?」  「いいえ」  「わかりました。本校としては、生徒である君も、そのご家族も守りたいと考えています。警察に何か言われたら、私まで連絡をください」  「はい。ありがとうございます」  僕は、礼を言う一方で、考える。 私学は体面を重んずる。 事件と結びつけられて報道されたら迷惑だろう。 生徒と事件の関係は隠蔽したいに違いない。 無論、それが必ずしも悪いことではない。  「お次は?」 「はい?」  「いくつか、と言われました。 いくつか、という言葉は通常2以上を指します」 「ああ、次の話ですね。 恵さんは入院されるんですか?」  「はい」  「その間、九門君は、どうしますか? 休学という選択肢もありますが。 峰雪君と違って単位は足りてますからね」  「僕は……」   休学も一つの選択肢ではある。 「一つ言っておきますが、無理はしないことです」  「は?」  「迷ったら、恵さんのことより、自分のことを考えなさい」 「嫌です」   僕は即答した。  「僕は、できる限り、恵のことを優先したいと思います」   メル神父は、真面目な顔でうなずいた。 「あなたのその気持ちはよくわかります。ですが、あなたが倒れたら、誰が恵さんを介護するんですか?」  「……」   僕には返す言葉がなかった。  「恵さんが大切なのはわかります。大切にしてあげてください。しかし、最終的に恵さんのためになるのは、君が元気でいることです。  恵さんのため、と、思うと、無理をしがちになります。それは誰のためにもなりません」  僕は無言で、うなずいた。 未だ、納得はできないが、理解はできた。  「そういう意味で、できれば学校は来たほうがいいと思いますよ」 「なぜですか?」  「気晴らしになります。一つのことだけしていると、人の視野は狭くなりますからね」 「わかりました」  「今日は、学校にいて、どうでした?」 「いる間は、気が楽でした。  しかし……今は、あまり気分がよくはありません」  「なぜですか?」  「恵のことを忘れて、楽しんでいたからです」   胃のあたりに重い物が沈む。 「それは別に悪いことじゃありませんよ」   神父が微笑む。  「ゆっくりと。気を楽にして。介護のことを忘れて。それで、いいんです」  「論理的にはそれが正しいことは理解します。しかし……納得はゆきません」 「そうでしょう。ですから、せめて、頭の隅にとどめておいてください。それと、少しでもつらくなったら、誰かに助けを呼ぶことです」  「わかりました」  「私の話は、これで全部です。恵さんに、よろしく」  「はい」     帰り道。 僕は神父の言葉を反芻した。   迷ったら、自分のことを考えろ、か。   ゆっくり考える内に、少しずつ納得がいった。   それは冷酷なようでいて、有効な助言だ。 人間に、常に、公平かつ冷静な判断ができるのであれば、できる限りの力で人を助けるのもいいだろう。  けれど。 人間の判断は、その願望で、歪むものだ。   愛しい人を助けようという気持ちは、自分に、より大きな能力があるという錯覚を生む。 その結果、できないことまでやろうとして、かえって能率を下げてしまうことがある。   判断に誤差があるとわかっているなら。 最初から誤差を組み込んでおこう、ということだろう。   自分は、思うほど万能ではない。 だから、休みも必要だし、忘れることも必要だ。   そう考えると、少しだけ、心の整理がついた。   そうして落ち着くと、神父の前半の言葉が気になった。   連続殺人。犯人。   もしも恵が、犯人の目撃者なら。 恵の元に危険が及ぶ可能性がある。   無論、よほどの事情がなければ、警察も気づいている目撃者の口をわざわざ封じにいくよりも、逃げたほうが確実だろうが、合理的な人間は、そもそも連続殺人など行うまい。   少しだけ、背筋が冷たくなった。         気がつくと、足は、現場のほうに向かっていた。 万一のことを考えて新開発区の中に入るのは避け、ぐるりと回って、事故現場へ。   ……なんだ?    緑の制服の男が、紅いライトを振っていた。 交通整理だ。   四車線のうち、一車線と歩道……恵と僕がはねられたところが、通行止めになっていた。 歩道は完全にふさがれていて、横断歩道を渡って迂回するしかない。   信号を待って、逆側から見渡す。   工事中の柵に囲まれてよく見えなかったが、どうやら道路工事をしているらしい。 大きな車がアスファルトを舗装し、叩いている。  僕は、しばらく、動けなかった。   なんだ? なにが起きている? もし恵が殺人犯から逃げていたとして。 手がかりのある現場を封鎖するならわかる。   がしかし、道路工事? 何かの偽装だろうか? 考えがまとまらない。   単なる偶然……その可能性が一番高い。   だが、今頃、急に、あの区画だけ、道路工事するという理由もわからない。 そもそも工事内容の札がでていない。 わからないことだらけだ。  僕が立ったまま現場を見つめていると。  ぽん、と、肩が叩かれた。 「見つけた」  あどけない少女の声。 だがそこには、強い確信と、決意があった。 僕は、ゆっくりと振り返る。 →3−7  いたのは、僕の胸の高さほどの、女の子。 だがその子を僕は、幼いとは思わなかった。   黒い帽子と、黄色いジャンパー。 それにジーンズ。   奇妙な出で立ちの少女は、僕をじっとみつめていた。   大切なものを見つけたような、決意に満ちた瞳。 ふんふんと、鼻をうごめかし、やがて確信したように言った。 「やっぱり君だ。 君が『門』の持ち主だね」 「門? 何を言っている? 君は誰だ?」  「ボクは、風のうしろを歩むもの」   奇妙な少女は、奇妙な名を名乗った。  「君はなんて呼ばれてる?」 「僕は九門克綺」   得体の知れない相手に本名を名乗るべきではなかったかもしれない。 だが堂々とした名乗りに、つい僕は、そう答えていた。 「じゃぁ、カツキ。恨みはないけれど、ボクは、これからカツキを狩る」  「かる?」  「その血と肉、草原の民に貰い受ける」  「血と、肉?」   殺人事件。犯人。 そんな言葉が脳裏をよぎる。   少女が本気であることを、僕は、これっぽっちも疑わなかった。 「思い残すことはある?」   少女の瞳が突き刺すように僕を見る。  「ある」  「そう。ごめんね」   少女は、そう言って頭を下げた。 声には、一点の曇りもなく。 本当に、少女は僕のことを想っていることが、わかった。   それはつまり。 少女に、本気の殺意の裏返し。  顔を上げた少女は、ふわりと、無造作に手を振るう。 沈みかけた陽を浴びて、その指の先の爪が、きらりと光った。  細いナイフのように伸びたその爪を見ながら。 僕は……そう。 蛇に魅入られた蛙のように。 ゆっくりと、爪の輝線に見とれていた。  それは、ゆるやかに、僕の喉へ吸い込まれようとしていた。  びゅんと、目の前を何かが突き立った。  びぃんと音を立てて突きたつ。 目の前で揺れるそれが、古風な矢だと気づくのに、しばし時間がかかる。  少女が、たまらずうめき声をもらす。 その小さな手は、太い白木の矢に、縫いつけられ、紅い血を噴いていた。  揺れる矢羽根。非常識にも、ブロック塀に突き立った矢に、僕はしばしみとれる。 「がぅっ!」  少女の咆吼に、僕は我に返る。 帽子の下から尖った耳が飛び出す。まくれあがった唇の端から牙がのぞく。 僕を見る黄色い瞳は、獣そのものの怒りをたたえていた。  がん、と、左手がブロック塀を叩く。 もうもうと埃が立ちこめ、ブロック塀に丸い穴が開く。  くるりと身を翻し、駆け出す瞬間に、それだけ見えた。  走った。必死で走った。  後ろから、ひゅんひゅんと矢が飛ぶ音がした。  それが、僕を狙っているのか。それとも、あの少女なのか。 それはわからなかった。 どうでもよかった。  日の当たる大通りに沿って、僕は、できる限り早く走った。 喉に血が上ると、頬の傷がずきずきと痛んだ。  恐怖。 僕は、恵の気持ちを、少しだけ思い知る。 あの人外の存在。小さな少女。 あれが……恵を追ったのか?  だけど……あれは……風のうしろを歩むものと名乗った少女は、僕を探していたと言わなかったか?  なぜ恵を狙う? そもそも矢を射ったのは誰だ? わからないことだらけだ。  わからないままに、気がつけば、僕は、メゾンの前に来ていた。  日は落ちて、真っ暗な銀杏並木を駆け抜ける。  門が見えた時には、心底、ほっとした。  きぃ、と、音を立てて、門が開く。  念のために振り返るが、僕を追う影は、なかった。  階段を駆け上がり、部屋に入り、気休めに鍵をかけると、僕はベッドに倒れた。  呼吸を鎮めるうちに、いろいろなことが、ごちゃごちゃに思い出された。  そういえば。 帰りには、病院に寄るはずだった。 恵が、僕を待っている。  面会時間は過ぎているが、今から行くこともできる。 そう思って、僕は、窓の外を見る。  塗りつぶしたような黒い闇をみるだけで、さっきの恐怖が蘇った。  ──無理だ。  この闇の中。もう一度、外に出る勇気が僕にはなかった。 そう思い知った時。暗い波が、僕の胸を満たした。  恐怖と自己嫌悪に苛まれ、僕は、息さえ止めて、ベッドに横たわった。  電話のベルに、飛び起きる。  受話器を持ち上げるのに勇気がいった。  誰だ? 管理人さんだろう。  何の話だ? もしも恵が……僕が来なかったせいで……体調を崩したら……。  そして、管理人さんじゃなかったら?  あの、きっぱりとした少女の声が響いたなら?                 ――見つけたよ、カツキ。  想像するだけで、ありありと声が聞こえた。 一つ息を飲み下し、僕は受話器を取る。    「……もしもし」  「克綺クン。私」   のんびりとした声に、僕は全身の緊張が抜けるのがわかった。 へたへたと足から崩れ落ちそうになる。 「今日は……そちらに行けないで、すいません」  「いいのよ。恵ちゃん、ずいぶん調子がよくなったわよ」 「そうですか」   よかった。 管理人さんは、嘘や気休めを言うような人じゃない。   受話器を持つ手が汗ばんでいたことに、僕は、ようやく気づいた。  「あ、ちょっと待って。今、代わるわね」 「え?」 「もしもし……おにいちゃん?」  恵の声。 舌足らずで、幼いが、昨日に比べれば、声には、張りがあった。 「ごめん。今日、いけなくて……」 「へいき、だから。おにいちゃん、あしたは、来てくれる?」 「行くよ。朝一番で行ってやる」 「あさ? あさになったら、あえるの?」 「あぁ」 「やったぁ」   その声に、僕は涙がにじんだ。 「恵が、今日、ゆっくり寝て、朝、目を覚ましたら、きっとそばにいるから。 だから、今日は、ゆっくり眠るといい」 「うん」 「今日は、どうだった?」 「おうた」 「え?」 「かんりにんさんが、いっぱい、おうたをうたってくれたの」 「よかったな」 「うん。たのしかったけど、すこし、さびしかった」 「もう、寂しくないぞ。明日は、行ってやるからな」 「わかった。まってる」  精一杯、気丈な声。 しばらく間があって、管理人さんの声がした。 「ね、恵ちゃん、元気になったでしょ」  「ありがとう……ございます」   そう言うだけで、精一杯だった。  「じゃ、私、今日も泊まってくから、メゾンの戸締まりだけお願いね」 「いいんですか? 無理は、しないでください」  「言ったでしょ。私は平気」 「お世話になります」  「それじゃ、明日は、来てね。朝、8時くらいがいいかな」 「わかりました。それでは、失礼します」 「じゃね」  管理人さんの元気な声が、耳に残った。  戸締まりをしながら、僕は、幸せだな、と思った。 つらい時に、手を差し伸べてくれる人が僕にはいる。  だが、僕は、まだ、本当の幸せというものを知らなかった。  それは一風呂浴びて、メゾンの玄関の戸の鍵を閉めた時だった。  どんどん。 ドアを、叩く音がした。  僕は、身がすくんだ。   鍵はかけてはあるが……ブロック塀を貫く力の持ち主には気休めだ。   旧式なメゾンの扉には、マジックアイなどついていない。   僕は、息を殺して耳をすました。  「おい、克綺! いるか!」   拍子抜けする。 「峰雪か?」 「俺だ、俺。牧本もいるぞ」   牧本さん? なぜ?  「今、開ける」  一瞬、狼と子ヤギの話を思いだしたが、扉を開けてでてきたのは変装した狼ではなく、本当に峰雪と牧本さんだった。 「なにしに、来たんだ?」  歩きながら、僕は聞く。 「テメェが電話に出ねぇからだろうが」   峰雪が絡む。  「電話? あぁ、〈PHS〉《ピッチ》か。 あれ、事故の時に壊れた」  「それなら、そう言え! 心配するだろうが!」  「メゾンの番号……教えてなかったか?」  「いやまぁ、その」   峰雪が頭を掻く。忘れてたな。 「で、何しに来たんだ?」 「あぁ、聞いて驚け」 「私たち、九門克綺を応援する会を作ったの」  「応援する……会?」 「おう。年中不景気な顔してるテメェだが、今朝は、輪をかけて仏滅、暗剣殺、三隣亡な顔、してやがったからな」  「そうなのか?」 「そうよ」   牧本さんが、うなずく。 「自分の顔のことは分からないが……それで、応援しに来たのか?」 「おう。恵ちゃんが入院して、管理人さんもいなけりゃ、寂しいだろ」  「待て。管理人さんがいないとなぜ知ってる?」 「そりゃおめぇ」  「応援する会の会長、管理人さんなの」   牧本さんが秘密を明かす。 僕は、ぽかんと口を開けた。 「僕より、管理人さんのほうが、よっぽど苦労してるだろ」  「ううん。こういうのは、身内のほうがつらいからって言ってた。他人のほうが気楽に手伝えるからって」   牧本さんが言う。  「てなわけだ。 俺たちが来たからにゃぁ、テメェも、肝すえて応援されやがれ」  「あ、あぁ……」  僕は、二人を部屋に招き入れる。 普段、一人で暮らしてる部屋だ。二人が入ると、狭いわけじゃないが、何か、違う部屋のようだった。 「いい部屋使ってやがんな」   峰雪が言う。  「さっきから聞いてると、峰雪は悪態しかついてないが、それがつまり、応援ということか?」  「こきゃぁがれ。これからが俺たちの応援の真骨頂よ。な、牧本」 「う、うん」   牧本さんが取りだしたのは、スーパー山岡の袋だった。 野菜とパック。食材のようだ。  「晩ご飯、食べた?」  「いや……」 「腕によりをかけて、スゲェ飯を用意してやるからな」  「なるほど」  「あと、鍵だせ、鍵」 「鍵?」  「管理人さんと相談したんだけど……3人で夕食だと、この部屋じゃ入らないでしょうって」   言われてみれば、その通りだ。 食事用の小さな丸テーブルがあるにはあるが、3人分の食事はとても載らない。 「そういうことなら」   僕は管理人さんから預かっていた部屋の鍵を渡す。  「よっしゃ。行くぜ」  「九門君は、ゆっくりしてて」  言われるままに僕は、ゆっくりした。 ベッドに寝転がる。  どたどたと(峰雪が)足音を立てて階段をくだったあとは、急に静かになった。 僕は、一人で部屋に取り残される。  天井を見上げると、何もかも夢のような気がしてくる。  道路で女の子に襲われたのも。 矢が飛んできたのも。 二人が来たのも。 現実感がなさすぎる。  控えめなノックに物思いは破られた。  「ご飯、できたよ」  牧本さんの声に呼ばれて、正気に返る。 「いい匂いだ」  僕は、階段をおりながら、鼻をうごめかせた。 「でしょ」   牧本さんが控えめに胸を張る。 「来やがったな、この。 こいつを見て驚きやがれ」   峰雪に引っ張られるように、僕は椅子に座る。 テーブルに、ずらりと並んだ食事を見て、ようやく僕にも実感が湧いてきた。  「どうでい。絢爛豪華な酒池肉林にもなおまさる、こいつこそが日本古来の伝統料理ってやつよ」  テーブルの真ん中には、コンロ。昆布をしいた土鍋。 まわりにあるのは、ざくに切った野菜。 白菜、春菊、長葱、えのきに、しらたき。  取り皿には、酢醤油と、山盛りのおろし大根。 メインは、鱈。 切り身とたっぷりの白子! 「管理人さんのアイディアなんだけど……どうかな」   牧本さんが、控えめにいう。  「好きだ」 「え?」  「鱈ちりは大好物だ。さすが管理人さん」 「そう。よかった」 「たりめぇだ。鍋が嫌いな日本人がいたら、この俺がぶっとばしてくれる」  「物騒な応援もあったものだ」  「いいから、とっとと姿勢を正せ! 箸を握れ! 昆布が煮えすぎるだろうが」 「いただきます」   僕らは、声を揃えて手を合わせる。 「さぁいくぞ。野郎共、準備はいいか?」   菜箸を構えて仁王立ちとなったその姿は、まさに鍋奉行。  「野郎ばかりではないが、準備はいい」   峰雪の箸さばきは、実際見事だった。 手際よく、身を沈め、あくをとりながら野菜を入れてゆく。 煮上がったものを、すばやく取り皿に放り込む。   山盛りの大根おろしに、ゆずを搾って醤油をかけた、自家製ポン酢。 それを鍋の出汁で割り、鱈の切り身をいただく。  おいしい! かすかに生を残した火の通りが、歯ごたえと風味の両方を生む。 大根おろしと一緒に食べると、口の中が幸せになる。  「相当、奮発したな」   魚偏に雪と書いて鱈と読む。 鱈の旬は冬。 だが、この鱈は、おいしかった。 「魚西の親父さんが、管理人さんのためならって、いいのを競ってきたみたい」   どこまで気が利くんだ、あの人は。  「おう、白子いれるぞ、白子」 「おぉ!」  「待ってました!」   無意味にもりあがる我々三人。 わずかに桃色の白子は、峰雪が、湯にくぐらせると、雪のように白くなってゆく。 「ありがたくいただきやがれ!」  「いただきます」   白子を、口にふくむ。   心地よい弾力を噛みしめると、口の中に、とろりとつゆが広がる。 舌の上で旨みが踊った。   この心の隙間をぴったり満たすような味を何に喩えれば良いだろう。 魚介の旨みの到達点の一つ。 日本人の心の原点。 「おいしい!」   牧本さんが驚いた顔をする。 「そうだろうそうだろう」   そう言って峰雪が、うまそうに白子を口に放り込む。 「しかし……」 「んだ? 文句あっか?」 「あるとも。酒がいる」   酒は、それほど飲むほうじゃない。 だが、これだけのいい鱈ちりを前に、酒を飲まないのは罪悪というものだ。  「そういうと思ったぜ。ほらよ!」   峰雪が勝ち誇った表情とともに、一升瓶を取り出す。 「越後本醸造、〈霊見〉《たままみ》えだ」  「たままみえ? 幽体離脱でもするのか?」  「まぁいけ」  峰雪は、手品のように杯を取りだした。器用な男だ。 杯は管理人さんのものらしく、小さいけど綺麗な焼き物だった。  一升瓶の紙を剥いで、蓋を開け、とくとくと注ぐ。 わずかに金色の酒は、においたつようで。  くっと飲むと、喉に熱いものがしたたりおち、白子とあいまって、強い風味を口に残す。 いい酒だ。鍋には、こういう酒がいい。 「いい酒だな」  「だろ? 牧本も飲むか?」  「うん」  良い酒と、良い魚。 箸と杯が進み、しばし、皆、無言になる。 幸せすぎて、話す言葉もない。  やがて、箸のつつくのが湯ばかりになる。  ふぅ、と、僕は溜息をつく。   鱈も白子もおいしかったが、まだ少しだけ物足りなかった。   しかし腹八分目という言葉もある。 これくらいがちょうどいいのかもしれない。 「足りねぇか?」 「まぁな」   峰雪の言葉に、僕は答える。  「安心しろ。この峰雪。ぬかりはねぇ」   峰雪が、腕時計で時間を確かめる。 「ちょうどいい頃合いだ」  「もってくるね」  牧本さんと峰雪が、台所に立つ。  ふっと台所から湯気が出た。 おなじみの香りが、ふわりと漂う。ご飯だ。 「ご飯、炊いてたのか?」  「あたぼうよ。鍋の〆めときたら、雑炊に決まってる!」   管理人さんのご飯は、おいしい。 米がいいだけでなく、ガス釜を使っているからだ。 炊いてむらして、桶にあけて湯気を取って冷ます。   その味たるや。 本当に、おいしいご飯は、なんのおかずもなしに、ご飯だけで食べられる。  ましてやそれを雑炊にするというのは、僕に考えられる贅沢の極みだ。   取り皿に、輝くばかりの銀シャリをとりわけ、上から、たっぷりと鍋の出汁をかける。 大根おろしも、ここぞとばかりに足して、酢、醤油、ゆずで味を調える。   一口食べる。 「〈雑炊一口値千金〉《ぞうすいひとくちあたいせんきん》」   妙な言葉が口をついてでた。 それくらい、うまかった。  「美味なるかな、美味なるかな、旬の鱈が、〈値千金〉《あたいせんきん》たぁ ちいせえ、ちいせえ。この峰雪には〈値万両〉《あたいまんりょう》。もはや切り身も身を尽くし、まことにふくよかな出汁に、飯の盛りも又ひとしお、ハテ、艶やかな、雑炊じゃなあ」 「よっ! 峰雪屋」   牧本さんが合いの手をいれる。 意外とノリがいい人だった。  一口一口がおいしい雑炊を啜れば、今度こそ、食事は終わりだ。 「うまかったな」 「九門君、元気、でた?」   牧本さんに聞かれて、僕はうなずいた。  「鍋を食べるなんて、ほんとに久しぶりだ」  「私も」   牧本さんが笑う。 「これが最後の鍋と思うなよ」   そう言って峰雪が、〈呵々大笑〉《かかたいしょう》した。  酒をちびり、と……飲んでいるときりがないので、そこは切り上げて、後始末。  鍋と食器を三人で洗う。  一段落した頃には、ずいぶんな時間になっていた。 「それじゃ、私、そろそろ帰るね」   牧本さんが言う。  「そうか。気をつけて」   僕はうなずく。  「克綺、送ってったらどうだ?」   僕は、眉をひそめる。 「そんな、悪いよ」   牧本さんが遠慮する。  「家は空けたくない。 管理人さんから連絡があるかもしれないしな」  「峰雪が送ればいいんじゃないのか?」   峰雪は、俺のほうを見て、露骨に、わかってねぇな、という顔をした。 「ま、なんにせよ、夜道は危ない。 タクシー呼ぼうぜ」 「そうだな、それがいい」  「でも、タクシーなんて」   遠慮する牧本さんに僕はたたみかけた。  「金銭的な事情であれば問題ない。管理人さんから、お金を預かっている」 「俺も乗るからワリカンでいいんじゃないか?」  「だから、お金は出すと」 「う、うん、わかった」  「うし。それで決まりだ」  タクシーが来るまでの間、僕らは、管理人さんの部屋で、しばしくつろいだ。 「で、恵ちゃんの様子はどうだったんだ?」  「朝、会った時は、つらそうだった。 帰りには、用事があって見舞いにいかなかった。 管理人さんによれば、ずいぶん元気になったらしい」  「用事ってな、なんだ?」  「見知らぬ女の子に殺されかけて、逃げ出した。連続殺人事件の犯人かもしれない」 「あはは……」   牧本さんが、おざなりに笑う。 小さな笑い声が、部屋の中に虚ろに響く。  「何か、おかしいところはあったか?」   僕が首を傾げる。  「……冗談、だよね?」 「こいつの冗談は、〈蚯蚓〉《みみず》の阿波踊りよか珍しいぜ」   峰雪が、僕をじっと見る。  「一応、聞くが、そりゃほんとか?」  「本当だ」   僕は、うなずく。 「客観的に見れば、確率的に低い事象と思えるだろうが、これは作り話ではない」   僕は、二人に、事故現場に出かけたこと。 夕暮れの少女と、刺し貫いた矢のことを告げる。 「わけわからん……」   峰雪が首をひねる。  「うーん」   牧本さんも悩む。  その時、電話が入った。 「タクシーだ。門の前にいるって」 「おう」 「あ、じゃ、私、行くね」   二人が荷物をまとめるが、どことなく釈然としない顔をしている。 「そういうこともあるから、夜道は十分に気をつけてくれ」   僕が言うと、牧本さんの顔が青ざめる。 「やだ、脅かさないでよ」  「単なる事実だ」   あいたっ。 峰雪にどつかれた。 「それじゃ、九門君。また、明日ね」  「明日は、朝から病院に行ってる。 学校出るのは遅くなるかもしれない。ともあれ、また明日、だ」  「うん」  僕はメゾンを出て、タクシーまで、牧本さんと峰雪を送った。  門の鍵を閉じ、玄関を閉じ、管理人さんの部屋の鍵を閉じる。  廊下にただよっていた、かすかな料理の匂いも、階段をあがって部屋に入ると消えた。 一人きりだ、ということを、否応なしに意識する。  妙な一日だった。 優しくされ、殺されかけ、また、優しくされ。  しかし、とりあえず生きていることを考えると、総体としては、楽しい一日だったといえるだろう。  電気を消して、布団にもぐりこむ時。  一人でいることに、妙に不安を感じる自分がいた。 数年間、このメゾンで独り暮らしをしていて、こんな気分になったのは初めてだった。  管理人さんがいないからだろうか。 それとも峰雪たちと会ったからだろうか。  しばらく考えて。 この気持ちが、寂しさというものだ、と、気づいた。  寂しさのせいで、なかなか寝付けなかった。 起きていればいるほど、頭が、ぐるぐると痛んだが、それでも、眠りが訪れない。 そんな調子だったせいか、夢を見た。  ずいぶん昔の夢。 僕と、母さんと、恵。 母さんを中心に、三人で手をつないで帰った夢。  何の帰りだったのだろう。思い出せない。 シロの紐は恵が握っていた。 恵の遅い足に合わせて、シロが、ゆっくり、ちょこちょこと、歩いていた。  街は夕暮れの色に染まって、記憶の彼方の光景を、薄赤く塗りつぶす。  僕は、母さんの顔を覚えていない。 写真が嫌いな家族だったらしく、着飾った七五三に一緒に写っていたりするが……日常の、僕が知ってるはずの母さんの顔はそこにもなく。 だから、いつも見る夢では、母さんの顔は、いつも空白だ。  今日こそは、と、思って、僕は、母さんの顔を見上げる。 紅い逆光の中で、母さんが優しくたずねる。 「どうしたの?」  その声を聞くと、僕は、とても安らぐ。 あぁ、これが母さんだったっけ。 「決まってんだろ、ンなことも忘れたのか」  シロが峰雪の声で応える。 いつのまにか、シロの紐を僕が握っている。 「お母さん……」  恵が、両腕で母さんの胸に飛び込む。 それは、とても、幸せな光景に見えた。 「どうした? 遠慮してんじゃねぇぞ」  シロがせっつく。 僕は、少しだけ胸がどきどきする。 久しぶりに。 ほんとうに久しぶりに母さんに甘えられるのだ。 「母さん!」 →4日目へ 「母さん!」  そう叫んだ、自分の声で目が覚めた。  全身が、何か、暖かいもので包まれているような、そんな気がした。 重い肩の荷が下りたような、安堵の気持ち。  布団から身を起こす。 ぽかぽかとした空気が抜け、秋の朝の清冽な冷気が身を浸す。  徐々に、現実感が戻ってくる。  妙な夢を見たものだ、と、苦笑する。 わかりやすいといえば、わかりやすい、単純きわまりない夢。  今の恵にとって管理人さんは、母親代わりだし、僕にとっても頼れる存在だ。 夢の中とはいえ管理人さんに甘えかかる自分は、少し間抜けだ。  しかし、そこまでわかっても、幸せな気持ちは一向に薄れなかった。  時計を見ると、ちょうどいい時刻だ。 これから病院に行けば、面会時間に間に合うだろう。  僕は、服を着て、病院に出かける。  三度目ともなれば、慣れたものだ。 恵の部屋をたずねる。  ドアを軽く叩いて、そっと開ける。  恵は、まだ寝ていた。  その寝顔を管理人さんが見ている。椅子に座ったまま。 カーテン越しに、朝日が管理人さんの横顔を照らしていた。  ふと思う。 この人は、こうして一晩中ずっと、恵を見ていたのではなかろうか。 昨日の晩も。一昨日も。  頭を振る。 それでは、ただの妄想だ。  管理人さんは、僕のほうを見て、静かに手を振った。 「克綺クン、おはよう」 「おはようございます」  「恵ちゃん、よく寝てるわよ。そろそろ起きる頃」   その言葉が聞こえたかのように、眠っていた恵が、ゆっくりとみじろぎした。 両手をあげて、目をこすり、ゆっくりと目を開ける。   幼い顔に、ぱぁっと笑顔が広がる。 「おにいちゃん」 「おはよう、恵」   ゆっくりと身体を起こし、僕の胸に飛び込む恵。  僕は両腕でしっかりと抱き留めた。 「気分は、どうだ?」  「うーん」   恵が、あくびをする。  「わたし、事故に、あったんだよね」  「ああ」  「あんまり、よく思いだせないんだ」  「気にしなくていい」 「おにいちゃん……これから、学校?」  「あぁ」  「学校、終わったら、また来てくれる?」  「もちろんだ」   僕は、真面目な顔でうなずいた。 「じゃぁ、待ってる」   恵が大きな笑顔でうなずく。  「あぁ」   恵が差しだした手を、僕は、しっかり握る。  ずっと、そうしていたかったが、手は、離れた。 「それじゃ、行ってらっしゃい」   手を振る管理人さんは、快活で、疲れた様子がまったくなかった。  着いたのは、ちょうど1限目の終わりだった。 休み時間になるのを待って滑り込む。 「よぉ!」   峰雪が〈目敏〉《めざと》く声をかける。 「九門君、おはよう」 「おはよう」  「恵ちゃん、どうだった?」 「だいぶ元気になっていた」   僕は、病室の恵の様子を語る。   初日のような、おびえた様子はなく、状況も、ずいぶん把握しているようだった。 「ま、めでてぇ限りだな」   峰雪がえらそうに、うなずく。  「お見舞いとか行ってもだいじょうぶかな」   牧本さんが言う。  「峰雪や牧本さんなら、もう大丈夫だと思う。あとで管理人さんに聞いてみよう」 「聞くって、おまえ、携帯ねぇだろ」  「だいじょうぶだ。 来る途中に機種変更してきた。番号は同じだ」  「そういえば病院って、携帯かけていいの?」   牧本さんが素朴な疑問を出す。 「電波が、機械に悪いとかって」 「PHSはいいらしいぜ」  「あぁ。病院にもよるだろうが、あの病院ではOKだった」  「そっか。ごめん。変なこと聞いちゃって」  「いや、当然の配慮だ」  昼休み。  PHSの電源をつけると、留守電が入っていた。管理人さんからだ。  僕は管理人さんにかけ直す。 「もしもし、九門ですが」  「あら克綺クン」  「ご連絡いただいたので、折り返し電話しています。 授業中なので、電源を切ってました」  「うん。あのね、恵ちゃんが、退院できそうなの」  「それはよかった」   元々、外傷の問題で入院していたわけではない。 単に、外に連れ出せる状態じゃなかったので、様子をうかがっていたというところもある。 今日の朝の調子からいって、退院は問題ないだろう。 「メゾンのほうが、私も楽だし」  「何から何までお世話になります」  「じゃ、放課後、病院、来てくれる?」  「ええ、わかりました。 峰雪と牧本さんが、見舞いに来たいと言ってました」  「ええ、じゃぁメゾンに来てもらいましょ」  「そうですね、そうします」  僕は、電話を切る。 「退院か。そりゃよかった」   教室に帰って伝えると、峰雪が、わがことのようにうなずいた。 くっくと悪役のような含み笑いをする。  「どうやら、九門恵応援団の底力を見せる時が来たようだな」  「九門克綺応援団じゃなかったのか?」  「同時結成したの」 「なるほど。それはそれとして、九門恵応援団には、僕も入っていいのか?」  「うーん」   二人が顔を見合わせる。  「いんじゃねーの?」  「いいと思うよ」 「というわけで、新入り」   僕のことらしい。  「恵ちゃんの歓迎パーティをするから、あとで相談に乗れ」  「ああ、わかった」  放課後。 僕は、峰雪たちに鍵を渡し、病院へ向かった。  先に電話はしてあった。  一応、軽くノックする。 「おにいちゃん!」   元気な声が扉の向こうから跳ね返ってきた。 「恵ちゃん、ちょっと」   管理人さんが、あわてて押しとどめる声。 「おにいちゃん、おかえり」  ドアを開けると、仔犬のように恵が飛びついてきた。 その髪は、まだ湿っていて、僕の胸を濡らした。 「おかえりなさい、克綺クン」   櫛とドライヤーを持った管理人さんが立っていた。  「ただいま」   恵に合わせ、論理的にはおかしい返答を僕は返す。 「もう、大丈夫か?」   そう聞くと、恵は首を縦に大きく振った。  「わたし、だいじょうぶだよ!」   ぴったりと身をよせる恵。 ほのかな体温が僕を暖めた。  「ちょうどお風呂を借りてたところだったの」 「そうですか」 「はい、恵ちゃん、こっち来て」 「うん」   恵が、僕のほうを見ながら、管理人さんに寄ってゆく。 屈託ないその様子は、本当の母娘のように見えた。  「これから、お出かけしますからね。 はい、恵ちゃん、ばんざいして」   管理人さんが、恵のパジャマを脱がしにかかる。 「外で待ってます」  僕は、ドアを開けて病室の外に出る。  しばらく待つ内に、管理人さんと手をつないだ恵が現れた。  日本に来た時と同じコートの恵。 身体も目鼻立ちも大人びて、それでいて、表情だけが幼い。   そのアンバランスさが、壊れやすい陶器を見ているようで、僕は、少しだけ息を詰めた。  「さ、行ってらっしゃい」   管理人さんが、小さく背に触れて、送り出す。  僕との間の、わずかな距離を、恵は、泳ぐように、不安定な足取りで詰めた。 その手に触れる。  恵が、ぎゅっと手を握った。痛いほどに。 「管理人さんは、どうするんですか?」  「うーん、途中で買い物していくわ」   そう言って、少しだけ眠そうに、ゆっくりと伸びをした。  「では、行ってきます」  「いってきます」  僕は、正確には帰るわけだが。   目の前の管理人さんから離れること。 それは、帰るというよりは、旅に出る気持ちがした。   小さく頭を振って、妙な感覚を振り飛ばす。  「恵ちゃん、克綺クンの言うことをよく聞くのよ」   その言葉に、恵が、こくんと、うなずく。 「じゃ、私、受付行ってくるから、あとはメゾンでね」  「はい」  僕は、恵の手を引く。 「それじゃ、いこうか」 「うん」  そう言いながら、恵の目は、ずっと管理人さんの背を追っていた。  外は、もう、ずいぶん暗かった。  病院の玄関から出た瞬間。 恵の足が、ぴたりと止まった。 僕は、無理に手を引かず、じっと待った。 「おにいちゃん……こわい」 「どうした? 何がこわい?」   恵は、小さく首を振った。 その目は、じっと目の前の夕闇を見つめていた。  無人の闇というわけではない。 暗黒というわけでもない。  家路に着く人々が行き交う広い道路。 恵には、そこに、他の何かが見えているようだった。 「だいじょうぶだ」   僕は、そう言って恵の肩を抱く。 「なにもいない。いても僕がいる」  ぎゅっと恵が身を寄せる。 寒風に身を寄せる二匹の猫のように。 僕らは、風に向かって歩き出した。   家までの帰り道。 恵は、ほとんど口も利かなかった。   大通りも、人通りの少ない道も。 電車に乗っている間さえ。 僕に身を寄せて、あたりに目を配っていた。   小さな身体の体温が僕に泌み渡る。 それは、あまりに熱くて。 怪我で発熱しているかと僕は疑った。   握った手は冷たく。 顔は蒼白で。   小さな身体は、一歩ごとに、何かと戦っているように思えた。   ゆったりと、急かさぬように、歩調を合わせて歩く。   気を逸らすように、何か話でもしようと思ったが。 話すべきことを、僕は、どうしても思いつけなかった。   それが、少し悲しかった。  どうやら恐怖というのは伝染するらしい。 それに気づいたのは、駅を出て、メゾンへの帰り道に着く頃だった。  ……なんだ、この感触は?  気配。 いや、そんな生やさしいものではない。  何かが、そこにあるという、感覚は。 あたかも、目をつぶって歩く時のような。 実体さえある危機感として感じられた。  夜の空気の匂いが違っていた。 かすかな血の匂い。  遠くにパトカーのサイレンを聞いた時。 恵と一緒に歩く、その歩幅が、ゆっくりと縮まり、やがて、足が動かなくなる。 「おにいちゃん」   めりこむほどに身を寄せる恵を、僕は抱きしめた。  錯覚だ。そうに違いない。 自分にそう言い聞かせる。  今、恵を怯えさせてはいけない。 せっかく元気になったのに。 そう思っても、足は根が生えたように動かなかった。  大声を出して。 地面を踏みならせば。 ふがいない足を拳で叩けば。 そうすれば動けるかもしれない。  けれど、恵の前で、そんなことをする勇気はなく、僕は、その場で息を整えた。 「おにいちゃん、こわいの?」   小さな声で恵が囁く。 「だいじょうぶだ。僕は、大きいから」  声が出た。 声が出れば、大丈夫だ。 「恵は、どうだ?」 「へいき。おにいちゃんがいるから」   かすかに震える声が僕に力をくれた。  メゾンまで、ほんの少し。 僕は、恵の手を引いて、ゆっくりと歩き出した。   いつのまにか、ずっと昔に戻った気がした。   恵が旅立つ前。事故の前。 父さんと母さんがいた頃。   二人で遊んでいて迷子になって。 見知らぬ街を、手をつないで歩いていた時があった。   見知らぬ街で、夕暮れから夜を迎え。 ゆっくりと暗くなる街。 それだけのことが、本当に怖くてしょうがなくて。     あの時も、強がる僕がいて。 恵は、目に涙をためながら、それでも泣かずに僕についてきた。   ずいぶん昔のこと。  あの頃の僕には、まだ、心臓があった。   怒って。意地を張って。怯えて。   あれから、ずいぶん変わったと思ったが。 僕は恵の手を握る。 そんなに変わっていないんだな、と、ふと思う。     あの時は、僕が恵の手を引っ張って大またに歩いていた(道もわからないのに)。 恵は、引きずられるように後からついてきた。   僕と恵は、今、ぎゅっと身を寄せあい。 数年という時間を隔てて再び巡り会った僕と恵の間の距離は、あの時よりもなお縮まっている。   考えてみれば、それは奇妙なことで──。 僕は、少しだけ気が楽になった。 「恵は、峰雪を覚えてるか?」  「みねゆき? うん」  「牧本さんは、覚えてるか? この前、一緒にお弁当を食べた」   今度は、少し時間がかかった。  「まきもとさん……」   こっくりと首が振られる。 「あと少しで家だからな。そうしたら、管理人さんもいるし、峰雪も、牧本さんもいる」  「おうち……シロはいる?」   恵が僕を見上げ、僕は言葉に詰まる。  「ごめんなさい」  そう言った恵を、僕は、ただ抱きしめた。 「シロはいないけど……きっと、いい家だ」 「うん」  腕の中のこわばりが解けるまで、僕は、ずっと恵を抱きしめていた。    影が、動いていた。   屋根から屋根へ。 塀から塀へ。   風よりも速く。 そのくせ、塵一つ乱さず。 肌にも触れず、目にも止まらず。   気配を殺した風が跳ぶ。   それは、風に乗って跳んでいた。 風の行く末を探していた。 街全体の風が集まる一点を。 「やれやれ」  それが降り立ったのは、廃ビルの屋上。 その縁だった。 「ひどいニオイだ。血のニオイだ。 街中、どこもかしこも汚れた血のニオイがする」   少女は、ぶるりと身を震わせた。   穢れた血。 喰うためでも競うためでもなく、ただ、殺すためだけに殺されたものの血。 少女の鼻は、町中で繰り広げられた死闘を正確に、かぎとっていた。  目を閉じた少女。 その脳裏に、ニオイでできた地図が描かれる。 「まんなかにいるのはカツキ」  中心で光る硬い蒼。 それがカツキのニオイだ。  隣にも連れがいる。 「カツキを狙うのがいっぱい。カツキを守るのが一つ」  街中に、点々と、真っ黒な炎が灯っていた。 それらは、ゆっくりと蒼い点へ群がろうとする。  一個だけ、違う色の点があった。 純白のニオイを放つ大きな点。 「強いな。ずいぶん強い」  純白の炎が、黒い炎を蹴散らしてゆく。 一つ、また、一つと、圧倒的な速度で黒の点は消えてゆく。 「わだつみの民が……消えてゆく」 「強いのも道理。あれは、三つの護りの一つです」  背後から、陰々滅々とした声がかかった。 「三つの護り……へぇ、あれが」  振り向く視線の先に、男がいた。   くたびれた背広に、几帳面にセットしたすだれ頭。 角張った眼鏡にネクタイ。   人生の苦渋を残らず舐めたような中年の顔。   本来なら場違いであるはずの、この廃墟に、うらぶれたサラリーマンは、妙に合っていた。 「人類を護る三大の一つ、"最も古い祈り"。お相手なさらないのが、賢明かと」  「ものしりだね。おじさん、誰?」 「私、田中義春と申します」  「ボクは、風のうしろを歩むものだよ。 何か用?」  「それが、ですね。えー、まことに僭越ながら、ご忠告など申し上げさせていただきます。あなた様が獲物と見込まれました九門克綺氏をですね、我々のほうで頂戴しますと、まぁ、そういうことです」  「そう」   少女は、真摯な顔でうなずいた。 「カツキはボクが目をつけた獲物だから、あげるわけにはいかないな」  「ご忠告と申しました」  「うん」 「お聞き入れいただけない場合には……その、多少、不作法になりますが、後悔なさっていただく、ということになります。  私としてもですね。手荒なことは気がすすまないのですがね。 これが、夜闇の民のほうでの結論ということで、ご了解いただければと思います」   田中は、いかにも気のなさそうな声で言った。 「おじさん、やるの?」  「先ほども申しました通り、その、お手を引いていただけるのであれば、双方に取りまして幸いと、これ、思うわけですが……」  「メンドウな話は苦手なんだ。 つまり、邪魔するのなら相手になるってこと?」 「いかにも」   どっしりと、田中が構える。 腰を落とし、拳を構えた。 「わかったよ」   少女は、嬉しそうに応えた。  両腕を無造作に胸の前に構える。 開いた五指の爪が光った。 「じゃ、おじさん、いくよ」  「まいります」   サラリーマンの足が火を吹いた。  どのような足さばきか、一切構えを変えずに間合いを詰め、震脚と同時に、拳を突き出す。  一撃が、少女の胸を捉える。  否。 一瞬速く、少女の身体は地を蹴っていた。  木の葉のように、衝撃を受け流し、少女は風に舞う。  ふわりと宙に舞った身体が地につくより速く。  ぴしり、と、音を立てて、コンクリの床にひびが入った。 「これは、私としたことが」  作用ないところに反作用はない。 踏みしめる地がなければ、剄は成らない。 「ボクの番だね」  くるりと回って、少女は宙を蹴った。 頭から先につっこむと、尖った爪を、縦横無尽に振り回す。 「わっとっとっと!」   宙に浮いたまま、田中が巧みに掌底で手首を弾く。 爪が肌をかすめ、田中の顔に、血の筋を刻む。 「あれれ?」   風のうしろを歩むものが手を引こうとしたその時。 「捕まえましたぞ」   田中の左手が、その手首を捉えていた。  とん、と、田中の爪先が、一階下の床を踏んだ。  右手が、ぐんと引かれる。  どん、と、足が地を踏む。  足から膝へ。 膝から腰へ。 腰が回り背がよじれ、肘がたわみ。  浮いた少女の身体に、渾身の剄が叩き込まれる。 瞬間。 田中の前髪が、すだれのようになびいた。  大鐘を突いたような音が、鈍く、深く響く。 宙に浮いたまま、少女が全身から血を噴いた。  と同時に、田中が膝をつく。 「おじさん、強いね」   顔を朱に染めながら、少女が淡々と言った。 「なんの。まだ修行が足りません」  「風が呼んだら、また会おうね」   そう言い残して、少女は宙に跳んだ。   背を向けた少女になすすべもなく、田中は腰を下ろした。 「この私としたことが……まいりましたな」   最後の瞬間。 剄を避けられぬと見た少女は、臆せずに蹴りを繰り出した。 相打ち狙いの必殺の蹴り。   迷わずに打ちきっていれば、田中の肘が先に届いたかもしれない。   だが。 一瞬迷った。  迷ったが故に、剄の打点はずれ、かつ、少女の蹴りは田中をかすめた。 田中は胸に触れた。 背広の下のシャツには、小さく、だが深い穴が背中に抜けていた。  「修行のしなおしですな」   この身は死んだ身。 そう悟ったつもりだったが……。  やがて、田中は立ち上がった。 乱れた髪を、手櫛で直す。 ふらりと歩き、闇に消える。  やがて廃ビルには静けさが戻った。 「恵、あれが家だぞ」  銀杏並木につくと、急に、息が楽になった。 それは恵も同じらしく、歩幅にゆとりがでている。 「おうち?」 「あぁ。管理人さんのいる、メゾンだ」  位置の関係か。 街からそう離れてるわけではないのに、この並木道には、車の音も響いて来ない。 その静寂が、肌を柔らかに包み、護ってくれる気がした。  いかなる悪鬼が街に住もうと、ここまでは、やってこない。 そんな錯覚さえする。 「おう、お帰り!」   メゾンの扉を開けるなり、峰雪が、でかい顔をつきだす。 「恵ちゃん、こんにちは」  「まきもと、さん?」  「覚えててくれたんだ。 嬉しいな」 「おう、克綺」  峰雪に呼ばれて僕は脇へ行く。 「恵ちゃん、調子はどうだ?」  「見ての通りだ。 かなりよくなった」  「ちょいとしたパーチーを準備したんだがな。だいじょうぶそうか?」  「あまり疲れさせてはいけないと思うが……様子を見てれば大丈夫だと思う」  「そいつぁ、よかった」 「管理人さんは?」  「まだ帰ってきてねぇけど……」  「そうか」   恵と一緒にゆっくり来たせいで、ずいぶん時間がかかった。 管理人さんのほうが先に着いていると思ったんだが。  奇妙な胸騒ぎがした。 管理人さんは、平気な顔をしているが、体力的に無理をしている。 街中で倒れたのではなかろうか。   あるいは……考えたくないことだが、事件に巻き込まれたとか。  「なんだったら電話してみりゃどうだ?」  「……そういえば、そうだな」  峰雪に言われて、僕は携帯を取り出し、管理人さんの番号にかける。 「もしもし……九門です。」 「あら、克綺クン」  柔らかな声に、僕は、そっと安堵の溜息をつく。 「今、メゾンに着きました。 峰雪と牧本さんも来ています」 「あ、そう。ごめんなさいね、遅れちゃって」 「いえ……無事でしたら構いません」 「無事って……何かあったの?」 「いえ。無根拠な不安です」 「そ、そう。心配してくれたんだ。 もう、駅過ぎたから、あと5分くらいで着くわ」 「わかりました。お待ちしています」 「……なんだって?」  「駅を出たところで、もうすぐ着くそうだ」  「そいつぁよかった」  「お兄ちゃん」  とてとてと恵が近寄ってくる。 手に、大きな箱をもっている。 リボンのかかった箱だ。 「どうした?」 「まきもとさんが、お祝いだって」   どこか、ためらいがちに僕のほうを見る。 しかし両手は、しっかりと箱を抱きしめていた。 「あの……退院祝いだけど……迷惑じゃなかったら」   僕は首を振る。  「迷惑ということはない」 「よかったな、恵」 「うん。開けていい?」 「そうだな……すぐ管理人さんが帰ってくるから、そうしたら開けよう」 「わかった」 「ま、とりあえず入れや」 「あぁ」  管理人さんの部屋に入って、思わず、僕は声を漏らした。 「おぉ」  折り紙で作った鎖が天井からぶらさがっていた。 暖炉の上には、模造紙が張ってあり、色ティッシュの造花が囲んでいた。  模造紙には、切り紙細工で  “めぐみちゃん、たいいん、おめでと”   とあった。  めぐみが、目を丸くする。  「おめでと?」  「まだ、ちぃと完成してねぇんだけどな」   峰雪が頭を掻く。 テーブルには、鋏と糊、そして無数の折り紙などの図工道具が散乱していた。 「全部、峰雪君がやったのよ」   牧本さんが言い添える。  「私は、料理してたから、飾り付けは俺に任せろって……」  「そうか」 「管理人さんが来る前に、片づけよう」 「おう」  「それと、峰雪」 「なんだ?」  「ありがとう」  「いまさら、改まんな。気色悪ぃ」   唇をゆがめた顔は、まんざらでもなさそうだった。 「荷物置いて着替えてくる」 「万年一張羅の癖しやがって」   峰雪が毒づいた。 「恵ちゃん、独りで着替えられる?」   牧本さんに言われて、恵は、ふと首を傾げる。  「じゃ、一緒にいこ」  「うん」  「牧本さん、お願いします」  「はい」  恵を牧本さんに預け、僕は自室に戻った。 カバンを置いてベッドに横たわる。  全身の力が抜けた。 疲れ。しかし、心地よい疲れだった。  最悪は終わった。 これからは、よくなるばかり。 そんな気がした。  こもった空気を追い出すために窓を開ける。  ここからはメゾンの裏庭が見える。 管理人さんが手入れしているハーブガーデンがあるところだ。 暗闇は部屋の灯りを呑み込み、緑の園は半分闇に沈んでいた。  その闇の中で、影が動いた。  紅い影。   管理人さん……? 声をかけそうになって、僕は口をつぐむ。 管理人さんなら、こんな裏庭から来るはずもない。   じゃぁ、牧本……峰雪……恵。 誰にせよ、こんな時間に何をしに来るというんだ?  それに。 一瞬のことだし、見間違いだと思うのだが。 あの紅い影は……大量の血をかぶったかのようにみえた。  ベッドにばったりと沈み込む。 吹き払われた嫌な気分が、再び頭をもたげていた。  深紅の影。鮮血。死。喪失。 連想はネガティブな方向につながってゆく。  ぐったりと、ベッドに横たわっていると。  響いたノックの音に、僕はのけぞった。 「克綺! 遅ぇぞ。 管理人さん、帰ったぞ」 「そうか、今、いく」  呼吸を整え、僕は立ち上がった。 「ただいま」   いつもの笑顔。 いつもの優しい声。   管理人さんは管理人さんだった。   その顔を見て、僕は、少し、ほっとする。 「ごめんなさい。遅くなっちゃって」  「ご飯、作っておきましたから」   牧本さんが、恥ずかしそうに言う。  「あら、おいしそう」   色とりどりのサンドイッチ。 フライドチキン。   急に空腹を意識する。  暖炉の火が入った管理人さんの部屋は、ぽかぽかと暖かく、さっきの不安は、消し飛んだ。ほとんど。 「お兄ちゃん」   恵が、服の袖を引っ張った。 片手には、あのプレゼントの箱を抱きしめている。 「開けていい?」 「あぁ、いいとも。牧本さんにお礼は言ったか?」 「開けてから」  頑なな声は、食卓に笑いを誘った。 「いいよ、開けて」   牧本さんが笑う。 これ以上ないほど真面目な顔で、恵が、リボンをほどく。  包装紙は、時季外れのクリスマス仕様。 赤い色に、緑のもみの木と、白い雪だるまがあった。 「はいよ」  タイミングよく峰雪がカッターを渡す。 恵は、包み紙のセロテープを、丁寧に切り取ってゆく。 切り取り終わった包み紙を丁寧にたたみ、それから待ちかねたように箱を開けた。  箱の中からでてきたのは。 一抱えもあろうという犬のぬいぐるみだった。 恵が、目を見開いて、なんども瞬きする。  偶然だろうか。あるいは峰雪が言ったのだろうか。 白い毛並みのピレネー。 ぬいぐるみは、昔飼っていたシロにそっくりだった。  思い出が胸に蘇り、棘のように残る。 けれど、それは痛みというほどではなくて。  恵は、ぬいぐるみに頭を埋めた。 ぬいぐるみの影から、顔をひょっこりだす。 「まきもとさん、ありがとう」 「どういたしまして」 「じゃぁ、ご飯にしましょうか」  管理人さんの提案。  恵は、大切そうに、ぬいぐるみを床に置いた。 食事の時のシロの定位置も、恵の椅子の横だった。  「いただきまーす」  サンドイッチをつまむ。   おいしい。 「味はどうかしら?」 「絶対評価か相対評価か?」  「絶対評価だとどうなるの?」 「技術的には悪くないが、完全とは言い難い。 トーストの冷ましが足りないから、湿気ってしまっている。 バターは湯煎すると、味がまろやかになる。 隠し味にマスタードを入れたほうがいい。 それからキュウリの切り方が……」 「お兄ちゃん!」 「いいかげんにしとけ」   峰雪のチョップが脳天に決まる。  「あの……相対評価だと」  「十分に、おいしい」  「そうなんだ。よかった」   牧本さんが、笑った。 「気にしないでね。 克綺クン、悪気はないの」  「あ、それは知ってます」 「ほんっとにお兄ちゃんは、無神経なんだから」   恵が言うと、皆が笑った。 僕も笑った。   恵の回復ぶりが嬉しかった。  サンドイッチは、あっという間になくなった。 フライドチキンも、だ。 「お茶入れてくるわね」 「私、手伝います」  二人が席を立つ。  戻った時。 牧本さんはティーセットを。 管理人さんは、小さな箱を抱えていた。 「これで遅くなっちゃったのよね」   蓋を取って現れたのは、チョコレートのログケーキだった。 砂糖菓子のプレートで、恵ちゃん、おめでとう、とある。 「わぁ」   恵が目を丸くする。  「ケーキ」  「今、切るわね」   すいと包丁を入れ、ネームプレートのついた一切れを、恵の皿に置く。  「ありがとう」   恵の目が輝いていた。 「子供の頃さぁ……あのケーキのプレートとか、サンタさんとか、えらく欲しかったよな」   峰雪が、しみじみと言った。  「そんな気もするな」  「おまえら、クリスマスの時、それで、いっつも喧嘩してたよな」  「そうだったか?」   正直、記憶にない。 「あぁ。どっちがサンタさん取るかで揉めてた」  「まったく子供というのは仕方ないな」  「他人事みたいにいいやがって。 牧本ん家はどう?」 「うん。私もあったよ。お姉ちゃんと喧嘩して。 っていうか、私が泣き出して、それでお姉ちゃんが、譲ってくれたのかな」  「牧本、姉貴いたんだ」  「もういないけどね」  「そっか……」   峰雪が頭を掻く。 「悪いこと聞いちまったな」  「ううん」   牧本さんが、首を振る。  「こんな楽しいパーティ、すごく久しぶりだから」 「確かに、おいしいケーキだな」   ビターチョコのクリーム。生地にはブランデーが入っている。 かすかにほろ苦いケーキに、アッサムティーが、また合った。  「そういうことじゃねぇと思うが……」 「おいしい? よかった」   管理人さんが笑う。  「ほんとだったら、うちで焼こうと思ってたんだけど……」  「無理しないでくださいよ」   峰雪が真顔で言って、僕もうなずく。  「あら、こう見えても、まだ若いんだから」  ケーキを食べ終わる頃には、僕らの身体は、ぽかぽかと温かくなっていた。 恵の瞳が、半分閉じられ、こっくりこっくりしている。 「んじゃ、そろそろお開きにすっか」   何事もしきらずにはいられない男が宣言した。 「ほら、恵ちゃん」   管理人さんが、やさしく恵を揺り起こす。 「ん……」  恵が、目をこすって頭をおこす。 「それじゃ……」 「ごちそうさまでした」  どやどやと立ち上がる。  「後かたづけだな」  「早めに帰ったほうがいいわよ。もう、夜、遅いし、最近、なにかと物騒でしょ。牧本さんもね」  「了解」 「おう、克綺、恵ちゃんは、いつまでいるんだ?」 「様子見だな」  「学校とか、大丈夫なのか?」  「向こうの学校は、今、秋休みだからな。 ミカエルマスが始まるまで、しばらく余裕はある」 「み・みかえるます?」 「秋学期のことだ」   ちなみに、年度は10月のミカエルマスにはじまり、冬学期のヒラリー、春学期のトリニティと続く。  「そういうもんなのか。 なら安心だな」 「んじゃま、また会おうぜ。恵ちゃんもな」  「うん」   ぬいぐるみを抱き上げた恵がうなずいた。  「それじゃ、さようなら」  辞去する峰雪と牧本さんに、僕と恵は手を振った。 「いい人たちね」   二人を戸口に送り出し、管理人さんはつぶやいた。  「はい」   僕もうなずく。  「部屋の片づけ、手伝いましょうか?」 「すぐ終わるから、いいわよ」  「わかりました。 おやすみなさい」  恵の手を引いて階段を上る。  僕らは、並んで、恵の部屋の前に来た。  扉を開け、電気を点ける。 「じゃ、おやすみ」  そう言ってうしろを向いた僕の服を、恵が掴んだ。 左手にぬいぐるみをかかえ、右手でしっかりと生地を握っている。 「どうしたんだ?」  「お兄ちゃん……こわい」   恵の目を見て理解した。 怖いのは夜の闇。怖いのは孤独。 怖いことには理由がない。   僕は…… 「こわくないぞ。 僕がいる」   ずっと昔にも、よく、こんなことがあった。 父と母がいない夜。 怯える恵を寝かしつけるのは僕の役目だった。  「ずっといてくれる? ずっと?」   ずっとはいられない。 だけど。 「目をつぶって眠る時まで、一緒にいる。 目を覚まして起きた時にも一緒にいる」  「それで、いいか?」  「いいよ」  「着替えは独りでできるか?」  「……できる」   そう言いながら、恵は、ぎゅっと、ぬいぐるみを抱きしめた。  外で待つことしばし。  内側からノックの音がして、僕は部屋に入った。  パジャマ姿の恵の手を引いて、ベッドに寝かしつける。  恵は、ぬいぐるみを抱いたまま布団に入った。 僕は、ベッドのそばに椅子を引き寄せた。 「そのぬいぐるみ……名前は、何にする?」 「シロ」   恵の声には迷いがなかった。 「シロか」   僕は昔を思い出す。 「今度は、だいじょうぶだな」 「うん」   それだけで、恵には通じた。     あの頃。 僕らが犬のシロと一緒に寝たがった頃があった。 アニメで、そんなシーンを見たからかもしれない。   けど、汚いからということで、シロをベッドに入れるのは禁止されていた。   ある日、両親が留守にした晩。 僕らは、こっそりシロをベッドに入れた。   ストレスのせいか、シロはベッドで下痢をして、翌朝、僕たちは、こっぴどく怒られた。     それでも、どうしても、と、ごねた挙げ句、一回だけ、許してもらった。 庭にテントを張らせてもらって、その中で、二人と一匹で寝たのだ。   今にして思えば、両親は、シロを労っていたのかもしれない。 子供二人の遊びにつきあうのは、どんな犬でも大変なものだ。 夜寝る時まで一緒にすれば、どんな元気な犬も保たなかっただろう。  ぬいぐるみを抱きしめた恵は、長年の夢が叶ったようだった。 「お兄ちゃん」 「なんだ?」 「おはなしして」 「お話か……」 「こわいおはなしはだめだよ」  期待に満ちた目に見つめられ、僕は困った。  ずいぶん昔。恵を寝かしつけていた頃。 僕は、お話が得意だった。そんな記憶がある。  子供ならではの、でたらめな話を、とにかく続けて、恵が眠るのを待った。  だけど、あれは、僕にまだ心臓があった時のことだ。 心臓のない僕に、お話の元はわきあがって来なかった。 絵本でもあれば読み上げてやれるのだが。 「おにいちゃん?」  期待に満ちた目で見つめられ、僕は、観念して語り始めた。 「むかし、むかし、あるところに。 おおむね仲の良い兄妹がいました。 兄妹は、それなりの期間、一緒に暮らし、主観的には、おおむね幸せな毎日を暮らしました。以上」 「それ……お話?」 「お話だ」   僕は有無を言わさず断言した。 「もっと、お話して」   む、しぶとい。 「じゃ、本を取ってくるから、ちょっと待ってくれ。すぐ戻るからな」 「うん」  力無い声で恵が言う。 僕は、急いで自室に取って返した。  部屋の本棚を見回す。  「世界殺人ツアー」「世界魔法大全4 心霊的自己防衛」「スカトロジー大全」   ノンフィクションが多いな。   フィクション系は……。  「ドグラ・マグラ」「O嬢の物語」   ……あまり子供向きとは思えない。  恵が心配してるだろうから、急いで戻りたいのだが……。   僕は、ふと、思いつく。 要は眠くなればいいわけだ。   そう考えて、僕は、馴染み深い一冊の文庫を取った。  部屋に戻ると、恵は、大きな目で僕のことを見ていた。 「遅くなったな」 「ごほん、みつかった?」 「あぁ、見つかったとも」  僕は文庫を取り出す。 恵の目が、細まった。 「それ、こわいおはなしじゃない?」 「気にするな」 「ごほん、真っ黒だよ?」 「心配いらない。恐怖小説という人もいるが、僕はむしろ幻想小説の線で評価している」   あからさまに警戒する恵。 「まず、目をつぶって。ゆっくり息を吸って」 「はーい」  電気を消し、スタンドだけ点ける。  目をつぶる恵の髪を、僕は、指先でかきあげる。 本を開き、ゆっくりと読み始めた。    「わたしが思うに、この世で最も慈悲深いことは、人間が脳裡にあるものすべてを関連づけられずにいることだろう……」  思った通り、数ページを読むまでもなく、恵は眠りに落ちた。 安らかな寝顔……とは少し違うかもしれないが、とにかく意識は失っている。  僕は、スタンドの灯りを消し、ゆっくりと音をたてずに、部屋から出た。  眠る恵の吐息に、ときおり、溜息のようなものが混じっていた。 「ちょっと待ってな」  僕は、恵を置いて階段を降りよう……としたが、恵は服を握ったまま着いてきた。  しかたなしに、管理人さんの部屋をノックする。 「夜分遅く失礼します」 「あら」   管理人さんは、恵を見て、すべて察したようだ。 にっこりと笑う。  「恵ちゃん、眠れないの?」   こくり、と、うなずく。  「じゃぁ、ごほん、読んであげましょうか?」  「うん」 「何から何まですいません」   僕は管理人さんに頭を下げた。  「いいのよ。 私も楽しくてやってるから」  管理人さんは、部屋の奥から、絵本を取りだしてきた。  「さ、行きましょ」  恵を中心に、僕たちは三人で手をつないで階段を上がった。 「よろしくお願いします」  僕は、頭をさげて、部屋に入る二人を見送った。    自室に戻り、僕は服をぬいでベッドに入った。 身体はくたくたで、すぐに眠れる、と思いきや、闇の中で目が冴えて、寝付けなかった。 閉めきった窓が、無闇に気になった。 あのカーテンの先に、紅い影が潜んでいそうで。   子供の頃みたいだ。 あの頃は、こんな風に闇が怖かった。 カーテンの隙間が、たとえようもなく恐ろしかった。 このメゾンは、こんなにも安らぐのに。 ここにいれば安全だと、わかっているのに。 なにかが、外からやってくる。 そんな不安がぬぐえない。 紅い影。   ──それは、夜の盗人のように現れた。   馴染み深いフレーズが、僕の脳裏をよぎる。 ポーの「赤死病の仮面」。 全身から血を噴いて死ぬ病。 赤死病の蔓延する国にて。 王子プロスペローは一計を案じる。 生き残ったわずかな臣民を集め、城門を閉ざし、扉を閉ざし、いつ果てることのない宴を続ける。 闇を退けるために煌々と火を焚き、たえまない楽の音で静寂を殺し。 笑いさざめく紳士と淑女。楽師に踊り子、獣使い。 そこには死の影はなく、外の世界は切り離されている。 ただ、時計の音が、厳かに時を刻むのみ。   王子によって催された仮面舞踏会は、退廃の極み。 あらゆる狂気が演じられ、あらゆる奇人がまかり通る。 美しくもおぞましい舞踏会の中で、許されぬものは何もない。   ただ一つ。王子の怒りを買った姿があった。   それは、死人の扮装だった。 屍衣をまとい、死者そのものの仮面をつけ。あまつさえ、その仮面には、紅い斑点……赤死病の印が刻まれていた。   怒り狂った王子は、兵とともに、仮面の男を追った。 一足ごとに怒りは去り、一足ごとに、えもいわれぬ恐怖が王子を満たした。 いつしか兵達は足を留め、それでも王子は走り続けた。   七つの部屋を駆け抜けて、王子は、ついに、その屍衣に触れ、仮面に手をかけた。 はぎとった仮面の下には何もなく、屍衣は、ただ、地に墜ちた。   王子の腕にも顔にも、紅い斑点が現れた。 血を噴いて倒れる王子。 そして独り。また独り。人々が悲鳴を上げる。 その悲鳴が絶えるのに、さして時間はかからなかった。   ──そんな話だったと思う。   幼い頃。 ポーの原典を読んだはずはないが、どこかで、この話を聞き……しばらくうなされたことがあった。 堅牢に備えれば備えるほど、軽やかに滑り込む死の使者。 それは僕の心に、深く刻まれた。   あの紅い影は、多分、なんでもないものだろう。 ただ、僕の昔の記憶を刺激したに過ぎない。 僕は無理矢理そう思いこもうとし、半ば成功した。   嫌な気分に包まれたまま目を閉じると、今度は眠ることができた。     乾いた咳の音が、夜の静寂を切り取る。  音は数を増やし〈谺〉《こだま》を呼び、狭い街路に響き渡る。   銃声を縫うように影が走る。   新開発区。 路地の出口を、装甲車が横付けに封鎖していた。 銃眼からつきでた銃口が、一斉射撃を加える。   銃声の中で影が躍る。 秒間百発を越える密度の鉛玉が、路地裏に叩き込まれた。  その一つたりとも肉を噛まず、虚しくアスファルトをえぐる。     影が、跳ねた。 空高く。 一瞬。  蒼くさえざえと輝く月を背に、影が浮かぶ。   その姿は、いまだ幼い少女のものだ。二筋の髪をなびかせて、少女は身を翻した。   歯の根を振るわす異音が響いた。  鉄と鉄をこすりあわせたような、鈍く太い音。 厚い鋼板の護りの中で、銃手たちが悲鳴を上げた。     星の光が差し込んでいた。 装甲車の天板には、太く、長い三筋の裂け目が刻まれていた。   誰が信じただろう。 その裂け目が、飛び越しざまに少女が振るった片手に拠るものだと。   裏路地を跳びだした少女に、眩しい光があびせられた。 小さな広場は、くまなくサーチライトで照らされ、厚いバリケードの裏には機銃が配置されていた。    「追いつめられた……のかな?」   無邪気な声で少女が囁く。  警告はなかった。 無数の火線が空間を満たすその間を、少女は堂々と歩いた。   たちまち火線が集中し、華奢な少女を薙ぎ倒す。  あおむけに倒れこんだ少女を、さらに銃弾が踊らせた。   十秒。二十秒。  銃声が、ゆっくりと静まる。  最後の一発が、場違いな拍手のように響き、静寂が訪れた。   銃弾に代わって浴びせられる無数の視線の中。 少女の死体が、わずかに動いた。   動揺する空気。   否。 それは死体ではなかった。 銃弾は、その身に食い込み、服を破ってはいるものの、血の一滴たりとも流れてはいなかった。     風に流れるものがある。 緊張。 そして恐怖。   足指が地面を掴み、そこを支点に少女の身体が、ぐるりと跳ね起きる。 十指の爪は長く伸びて月光に輝き、帽子の下から尖った耳が顔を出す。   そして、その眼。     大きく丸い瞳は、人のものではなかった。   弾かれたかのように銃手たちが動き始める。  銃口が少女に狙いを定めてゆく。  「じゃっ!」   鋭い咆吼が、銃手達を打ちすえた。 女のような悲鳴が洩れる。     恐怖が引き金を引かせた。 そして恐怖が銃口をそらした。   鉛玉は、ことごとく少女を逸れた。   少女が笑う。 狡猾なる獣の笑い。     軽く右腕を振る。   三筋の爪痕が、音をたてて大地をえぐった。   それは音の速さでバリケードを紙のように引き裂き、その後ろの人の群れを血と肉に変えてゆく。     悲鳴が上がった。 男達が逃げ出す。   引き金を引いたまま、少女に背を向ける者たち。 乾いた咳の音とともに、バリケードの向こうで血のしぶきがあがった。   紅く芳醇な血のニオイに、少女は鼻をうごめかせた。 悲鳴が上がる。   悲鳴が上がるということは、まだ生きているということだ。           少女は闇の中、凶鳥のように宙を跳んだ。 慈悲は、すぐに与えられた。 →4−14      鋼色の門は、星の光を浴びて、冷たく光っていた。 少女は、ゆっくりと左手をその門に近づける。   指が触れるより速く、その手が血を噴いた。  「うーん、やっぱり無理か」  腕を戻す。 掌から指先まで、切り刻まれたように、無数の傷跡が残っていた。 息を止め、力をこめると血が止まる。 「獲物は巣穴にこもってる、と」   少女は、ゆっくり振り向く。 「風が吹いてる。 白く輝く、清らかな風だ」   少女は歌うように言った。  「溶けない雪みたいな、鋭い風」   少女の前に、闇がわだかまっていた。 緋色の外套を着た闇が。 「不思議だな。 そんなに血塗れなのに、ケガレのニオイがしない」   べっとりと血の染みついた外套からのぞく腕は、白い骨だった。   人骨ではない。 象牙を削ったかのような、人形の骨組み。   無表情な仮面は、死、そのものを感じさせる。 「会うのは、はじめてだよね。 ボクは、風のうしろを歩むもの」  「あなたは、三つの護りの一つ、最も古い祈り、で、いいのかな?」   風は動かず、仮面は止まったままだった。 にも関わらず、言葉は届いた。 それは、聞こえたというより、心に刻まれたかのようだった。                     “これは王の刃                王の眠りを護る刃” 「王様? 王様に用はないけど、カツキはもらうよ!」  風のうしろを歩むものが地を蹴った。 それが戦いの始まりだった。  それは静けさに満ちた戦いだった。   電光の如く駆ける少女は、そよとも空気を揺らさず。 人形は、微動だにせず、それを待ち受ける。   初撃。  少女の右腕が、外套に沈んだ。  「くっ」   だが苦鳴をもらしたのは少女のほうだった。 外套の下に手応えはなく、次の瞬間、手首に痛みが走った。   少女の腕から風が吹く。外套が翻り、人形の中身を現す。 そこにあるのは象牙の肋骨。 肋骨は、その口を大きく開け、罠となって、少女の右腕を、がっちりと挟み込んでいた。                 “刃は断つ。刃は殺ぐ。刃は刻む”  骨が震え、軋む。 刃と化した肋骨が少女の右腕を肉塊に変えてゆく。   血がしぶき、骨さえ見えたが、肋骨はくわえこんだ腕を放さない。  きしり、と、音を立てて、人形の左腕が引かれた。 指先からは、鋭い針が伸びている。  少女の唇が大きく開かれた。   牙がのぞく。  ぞぶり。  突き出された人形の腕は、空を切っていた。  一跳びで距離を取った少女の足下が、わずかにふらつく。  さもあらん。 その唇は血にまみれ、右腕は肩から、ちぎれ血を噴いていた。  否。 自ら食いちぎったのだ。  壮絶な少女の有様にも、仮面は表情を動かさなかった。 ただ、細く、不自然なほどに華奢な足を、ゆっくりと進める。  「今日は死ぬにはいい日だ」   唇に真っ赤な血をたたえ、少女は笑った。 「ボクも片腕。これで、五分」   一瞬の攻防で少女は見抜いていた。 自動人形には右腕がない。 マントの下にあるのは、あの左腕だけ。 ならば、勝機はある。                 “右の〈腕〉《かいな》は、王のため。                     王の眠りを揺らす腕”  人形の胸の中で歯車が軋んだ。 それは千切れた腕を呑み込み、〈解体〉《ばら》し、空虚な胸の内に消し去った。   こぼれた血の一滴までも、紅い外套に吸い込まれる。 「北風の向こう側をみせてあげる」  少女が、片手を天にかざした。 音もなく、風がその掌に集まる。 その全身は、深緑の光を放った。 「東から風が吹くよ。 満ちる潮の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  少女の姿が掻き消える。  一瞬で背後を取った少女が、大地に沈み、地を這うような回し蹴りを叩きつける。  狙ったのは、人形の足首。 その骨組みの継ぎ目だ。  ぐらり、と、人形が揺れる。 緑の光が、その身体に染み通った。 「南から風が吹くよ。 燃える太陽の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  揺れた背を、少女の右足が蹴り上げる。  全身を支える背骨は、砕けはしないまでも、震えた。 背から肋骨までもが緑色に光り始める。 「西から風が吹くよ。 萌える草原の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  ゆっくりと人形が振り返る。 だが、遅い。  その腰に、少女の掌底が叩き込まれた。  人形の全身が震える。 いまやその全身は、眩しいほどに光り輝いていた。 「北から風が呼ぶよ。 終わらない冬の向こうから、北風の向こうから、暖かな春風が呼ぶよ」  最後の一撃が、その仮面を襲った。 人形を包む緑の光が一瞬にして凍てつく霜に変わる。  紅い外套が白く染まった。 腕も、足も、凍りついたように動かない。 「さよなら」  優しい一言とともに、暖かな風が吹き、人形の全身が砕け散った。  紅い外套が粉々に吹き飛び、骨の一本一本ががしゃりと音を立てて大地に落ちる。 その中から、ころころと歯車が転がりだした。 「ふぅ……」  風のうしろを歩むものは、がっくりと膝をついた。 さすがに血を流しすぎた。  右肩の傷口に左の拳をつっこみ、力を込めて出血を抑える。 ゆっくりと深呼吸する内に血は止まったが、足はまだ、ふらつき、目は霞んでいた。  霞んでいなければ気が付いただろう。   足元の歯車が、風に吹かれたかのように転がり続けていた。  後に続く歯車が、二つ、三つ。  二つの歯車が噛み合い、三つ、四つと形を成し、人形の心臓を作り上げる。歯車は心棒を拾い、やがてそれは骨につながる。 がしゃり、と、骨が立ち上がった時。  風のうしろを歩むものは、歯を食いしばった。 左腕で塀にすがり、むりやり身体を持ち上げる。 右肩からは、再び血が噴き出した。   骨を骨が拾い、みるみるうちに人型ができあがる。  血なまぐさい風が吹き、外套となって人形を覆った。 「まいったなぁ……」  少女は拳を握った。  弱点を秘匿する人外は数多い。 秘文字を生命の根幹とする〈土人形〉《ゴーレム》。 自らの心臓を取りだして隠す北の魔女。  それらは、弱点さえ潰さなければ、何度でも蘇る。  問題なのは。 目の前の敵の弱点の見当がつかないということではない。 目の前の敵に弱点などなかった、ということだ。  化かされたわけでもない。 相性が悪かったわけではない。 さきほどの一撃は、確かに人形の芯に達し、粉々に砕いていた。  だが人形は立ち上がる。  不死ではない。 不死身でもない。  それは──そう。   不屈なのだ。  全身を粉々に砕かれても止まることができぬほどに充ち満ちた決意。 「重いなぁ」  少女は、苦笑した。 両肩に背負うは、一族の命運。 ひけを取るつもりはないが、自分にあれができるかどうか。  時計仕掛けで歩を刻む人形に向けて、少女は、片腕で構えを取った。 一歩。   額に汗が滲む。握った拳は、わずかに震えていた。 一歩。   策などない。 全力の一撃を叩き込むしかない。 残った力の全てをかけて。  一歩。   人形が、間合いに入る。 きりきりと音を立てて、その左腕が引かれた。 少女の拳の震えが止まった。   一歩。  神速で突き出された少女の拳を、人形は左腕で受け止めた。  ぐちゃり。  熟れた果物の落ちた音とともに、少女の拳は砕け散った。 それでも人形の腕は、少女の腕を放さない。   四本の指は、機械のように。 手首を、肘を。 ローラーのように巻き込んでは肉塊に変える。 「くっ!」   放たれた少女の蹴りは、いかにも弱々しく、その足先を、肋骨に噛まれる。  歯車が回る。 きちきちと音を立てて、肋骨が足を喰う。   膝まで喰われても、少女の眼は前を見ていた。 目と鼻の先にある、白い仮面を正面からにらみつける。  その視界が隠れる。  左腕が、少女の顔を掴んだ。  乾いた音とともに、頭蓋が砕ける。  音は、すでに少女には届いていなかった。  朝日に目が覚めた。 嫌な夢を見た気がする。 寝汗を全身にかいていた。  シャワーを浴びて着替えた頃に、ノックの音がした。 「朝ご飯、食べる?」  「いただきます」  「じゃ、恵ちゃん、起こしてきて」  「はい」  隣の部屋。ドアをノックしようとして、昨日の約束を思いだした。   目をつぶって眠る時まで、一緒にいる。 目を覚まして起きた時にも一緒にいる。  隣の部屋。  僕は、ドアをノックする。 返事はない。   僕は病院のことを思い出す。 看護婦のノック一つで怯えていた恵。  遠慮気味にもう一度叩いてから、僕はノブをひねった。  鍵はかかっていなかった。  そっとドアを開ける。  静かに恵は眠っていた。 シロと仲良く並んでいる。 あどけない寝顔は見飽きなかったが、学校もある。  僕はカーテンを開けた。  朝の光を顔に浴びて、恵がかすかにみじろぎする。 わずかにまばたきしたあと、その瞳が開いた。 「おはよう、恵」 「……お兄ちゃん」  恵の目の焦点があう。 やがて、にっこりと笑った。 「おはよう」   恵は、ベッドにゆっくりと身を起こす。 「朝ご飯、できてるぞ」 「うん。いまいく」   声にも、ずいぶん張りが戻ってきた。  「お兄ちゃん?」  「ん、なんだ?」 「あの……着替えるから……出てって」   そう言って恵は、抱きしめたシロに顔を埋めた。  「あぁ」  僕は、牧本さんに感謝した。 もう少しで。 あとほんの少しで。 いつもの勝ち気な恵に戻るだろう。  階段を降りる足は軽かった。 「それじゃ、いってらっしゃい」  管理人さんの横に、シロを抱いた恵が、ぴったりくっついていた。 「いっちゃうの?」 「午後には戻る。待てるか?」  メルクリアーリ先生も言っていたが、授業日数は足りている。 必要なら休むことは訳はない。 「待ってる」  恵は、決意したようにうなずいた。 「そうか。なるべく早く帰ってくるからな」  僕は、恵の頭を撫でた。 「いってらっしゃい」  管理人さんの言葉に、恵も、うなずく。 「おにいちゃん、いってらっしゃい!」 「いってきます」 「よぉ。無事息災か?」   通学路。 見知った顔が、現れる。  「何かあったか。坊主の息子」  「なんでわかる?」  「おまえがこの時間に登校していること自体、奇妙だ」  「ぬかしやがれ」   峰雪は真顔になる。 「ま、その調子だと聞いてねぇみてぇだな」  「何がだ?」  「新開発区、立ち入り禁止だってよ。 一晩中、銃声やら悲鳴やら聞こえてたらしいぜ」  「寺の息子は情報が早いな」  これは軽口ではない。   近所づきあいというものが減る一方の都市部で、もっとも優秀な地元民のネットワークを持っているのは、市役所でも警察でもなく寺かもしれない。 「へへ、まぁな。 で、おめぇんとこはなんともなかったか?」  「無論、何もない。 そもそも新開発区とはずいぶん離れている」  「ま、そうだな。 恵ちゃんは、どうだ?」  「どうだとはどういうことだ?」  「いや、調子とかよ」 「精神状態は改善されたようだ。 だいぶリラックスしてきた」  「そうか。 ならよかった」  それきり、峰雪は口をつぐんだ。  学校に着いて僕はたずねる。 「峰雪。君の沈黙は不自然だ」  「俺が黙ったらいけねぇのか?」  「黙るのは個人の自由だし、君の場合はむしろ望ましいが、それはそれとして、不自然だ。 統計的に判断するならば、何か言いたいことがあるのではないか?」  「克綺のくせによく言うぜ」   峰雪は、ちょっと迷うそぶりをしながら、話し出した。 「恵ちゃんな。 よくなってきたから、まぁいいんだが……本当に、交通事故だけで、ああなるものなのか?」  「ふむ?」  「なんだ、その、と、と……」  「トラウマか?」  「その、とらうまよ。何か怖い目にあって子供に返る。そりゃぁわかる。 けど、その怖かったことってのは、ほんとに事故なのか?」 「事故でない、と、考える証拠は?」  「んなもんねぇけどよ……そういや聞いてなかったが、恵ちゃん、どうやって事故に遭ったんだ?」  「……ガードレールを乗り越えて、車道に走ったんだ」  「どうして?」  「理由は知らない」 「テメェ、何か、隠してねぇか」  「聞かれたことには答えている。聞き方が悪いんじゃないか?」  「ったく、この冷血野郎が。 じゃぁ聞くぞ。 恵ちゃんの事故に、なんか心当たりがあるんじゃねぇか?」  「心当たりならある」  「おめ、さっき、知らねぇって……」 「確実なところはわからない。 恵が車道に飛び込んだ理由も知らない。だが、関連すると思われる事象はある。故に、心当たりがあると応えた」  「……で、その心当たりってのは?」   僕は、二日前のことをかいつまんで話した。 恵が、何かに追われたように走っていたこと。 事故現場が通行止めになっていたこと。 奇妙な少女に殺されかけ、矢で射られたこと。 「恵ちゃんは、新開発区の中を通ったんだな?」  「そうだ」  「んで、今日は、新開発区が封鎖か」  「そういうことになる」  「いろいろキナ臭ぇなぁ。 どう思うよ?」  「データがない。 結論は出せない。 君の当てずっぽうに期待する」 「なんかよう連続殺人事件とか言ってるが、独りでこんなにどでかいことやれるわきゃねぇ。 テロリストみてぇのが、あのへんを根城にしてんじゃねぇのか?」  「警察だって無能ではない。 場所がわかっていれば鎮圧するだろう」  「そうもいかねぇ理由があんじゃねぇのか?」 「どうしたの?」   牧本さんが顔を出す。  「恵の事故と近年の連続殺人事件と新開発区の封鎖問題について議論していたところだ」   牧本さんが驚いた顔をする。 「恵ちゃん、事件と関係あるの?」  「現在のところは、確証はない。 主に峰雪の妄想のレベルだ」  「妄想言うな」  「あぁ、そうだ。 ぬいぐるみをありがとう。 恵も喜んでいた」  「ほんとう? よかった」  ドアが開き、メルクリアーリ先生が現れて、僕らは席に着く。  授業中も、僕は、峰雪の言葉を考えていた。  テロリスト、か。 確かに単独犯であるよりは、そちらのほうが考えやすい。   だが、それが、僕を襲った少女と、どうつながるのだろう? あるいは、なぜ、恵はテロリストに襲われた? 少女は、僕のことを探していた、と、言ったが。  もしも。 もしも恵が僕のせいで襲われたとしたら。   気分が悪くなった。身体が震える。 深呼吸して息を落ち着かせた。  「九門君」   今のところ根拠はない。 また仮にそうであっても、テロリストに襲われる事情も思い浮かばない以上、できることもない。 「九門君!」 「はい」 「携帯が鳴っていますよ」  僕は、ようやく気づく。 普段は授業中は切っているのだが、恵の件があって以来、つけている。  着信元は管理人さんだった。 「失礼します」  僕は、廊下に出る。 「……では授業を続けますよ」  背後で、そんな声が聞こえた。 「もしもし、克綺クン?」   管理人さんの抑えた声には、いつもの陽気さがなかった。  「はい。なんでしょう?」   嫌な予感はとめどなかった。管理人さんが、無意味に授業中に電話をかけてくるはずがない。  「授業中悪いけど、戻って来られるかしら?」 「物理的には可能ですが、何でしょうか?」  「恵ちゃんが……気分悪くしちゃって、克綺クンのこと呼んでるの」 「すぐ行きます」  僕はそう言って電話を切った。 「先生、家庭の事情で早退します」  メルクリアーリ先生がうなずくのも待たずに、僕は、廊下をかけだした。  家に帰る間中、いやな予感が脳裏に渦巻いていた。  ──気分を悪くした。 ──僕を呼んでいる。  その二つの言葉が、とめどなく膨れあがる。 本当に危険な状態だったら、管理人さんも、あんな言い方はしないだろう。 そうわかってはいても、悪い想像はとめどなくふくらんだ。 「ただいま」  だから。 ある程度、覚悟はしていた。 無論、覚悟は現実の前に、何の意味もなさなかったのだが。 「おかえりなさい」   階段から降りてきたのは、管理人さんだった。  「恵は?」  「さっき、寝ついたところ」   管理人さんの顔に、少しだけ疲れの陰が見えた。 「ごめんなさいね。 呼び出しちゃって」  「いえ、妹のことですから」   僕は、軽く頭を下げると、階段を上った。  部屋に鞄を投げ捨て、恵の部屋の前に立つ。  ゆっくりと扉を開けて、僕は過ちに気づいた。   真っ暗な部屋。 ベッドの上で目が光っていた。   恵の目。ぎゅっと、つぶれるほどにシロを抱きしめ、ぶるぶると震えている。 悲鳴さえもでない恐怖に押しつぶされそうな恵。 「恵」   僕は、できるだけ陽気な声を出した。  「おにいちゃん……?」   あまりにも弱々しい声。 三日前の事故の時を思い起こした。   何があったんだ。 いや、そんなことよりも。  僕は近づいてベッドに腰掛ける。  「遅くなって悪かったな」   恵は、確かめるように僕の腕にふれて、それから、両手で袖をぎゅっとつかんだ。  「……」   聞き取れないほどの小さな声。僕は耳を近づけた。 「おかえりなさい」  「ただいま」   なんとか僕は、それだけ言った。 恵は、ひっそりと、声を殺して泣いていた。 泣いている様までもが、何かを恐れているようで、痛ましかった。  なにがあったのか。 その一言も、僕は聞けなかった。  ただ、恵を抱きしめた。  押し殺したすすり泣きは、やがて、大きな泣き声に変わり、僕は、泣きじゃくる恵の涙を、何度もぬぐった。 「もうだいじょうぶだ」   何度もそう言って背を撫でた。  泣くことは、大きく体力を消耗する。 だから、いつまでも泣いていることはできない。 人は泣くことでストレスを吐き出し、泣きやむことで、心身のスイッチを切り替える。  心臓のない僕は、泣いた記憶がない。 だから、これは、ただの伝聞にすぎない。 ただ、今日ばかりは、それが真実であることを願った。  腕の中の恵から、泣くほどに強ばりがとれてゆく。 僕は、そう信じた。  ひとしきり泣きじゃくると、恵も、少し落ち着いた。 マフラーの端で涙をぬぐうと、かすかな笑顔さえ浮かべた。 「なにかあったのか?」 「うん。あのね……」  答えようとした恵の目の端から涙がこぼれる。 僕は、それ以上聞くのをやめて、恵をベッドに寝かした。  ふとんをかけて、上からぽんぽんとたたくと、その顔の恐怖も、だいぶ薄らいだように思えた。 枕元の椅子に僕は腰掛ける。 「おにいちゃん……学校は?」   思い出したように恵が聞いてくる。 「早退してきた」 「そうなんだ」   恵は、目を伏せる。 「ごめんね。私が……」 「あやまる必要はない」 「え?」 「病人と怪我人は、他人に甘える権利と義務がある」 「ぎむ?」 「そうだ。 病人が、無理してるほうが落ち着かない」 「でも、お兄ちゃん、こまってない?」 「恵の世話でか? 望んですることは困るとはいわない」 「ほんとに? ほんとに、そう思う?」 「僕は嘘はつかない。嘘をつくのは面倒だ」 「そっか……」 「だから、恵は安心してわがままを言えばいい。 万一、無理だったら、無理だという」 「じゃぁね、おにいちゃん」  恵は、小さく僕の耳にささやいた。 「お水、もってきてくれる?」 「よしきた」  テーブルの上には、お盆とポットがあった。 管理人さんのものだ。 湯冷ましを湯飲みにつぐ。 「ほら、お水だぞ」  背に手を当てて、ゆっくりと恵の体を起こす。 恵は、両手で包むように湯飲みを受け取り、ゆっくりと飲み干した。 「おいしい」 「そうか」 「私、眠い……」 「眠るといい。ご飯になったら、起こすから」  目を閉じかけた恵が、急に真顔になる。 「あんまり眠って、夜、眠れなくなったらどうしよう」 「その時は、朝まで一緒に起きていてやる」 「よかった……」  今度こそ、恵は、シロを抱きしめて、ゆっくりと目を閉じる。 ゆっくりと、規則正しい吐息。 僕は、その寝息に耳を澄ました。  ……いつのまにか寝ていたらしい。 肩をたたかれて、目が覚めた。 「おつかれさま」   管理人さんが後ろに立っていた。  「ご飯、できてるわよ」   恵はといえば、安らかな顔で、ぐっすりと寝ている。 今、起こすことはないだろう。  「いただきます」  僕と管理人さんは、足音を忍ばせて、恵の部屋をでた。 「あまり、お腹は減っていないんですが……」   緊張のせいか、空腹は全然感じなかった。 むしろ、喉の奥に何か詰まったような重い感触があった。  「だめよ、食べないと。 看護は体力勝負なんだから」   確かに、その通りだ。  扉を開けたとたん、お腹にしみるいい匂いが漂ってきた。  まろやかに煮込まれた肉と野菜。 そして刺激的な香辛料。 カレーの匂いだ。 「管理人さん。 前言撤回します」  「なぁに?」  「お腹がすいてきました」  「そうこなくっちゃ」   管理人さんが笑う。 「はい、めしあがれ」  管理人さんがよそったのは、とろりとしたカレーが、白米の上にのっかった、いかにもという感じの日本風ビーフカレーだ。  前に一度、本格派のインドカレーをごちそうになったことがあるが……相変わらずレパートリーの広い人だ。 「おいしい」   一口食べて、素直に感想がでた。  辛すぎず、甘すぎず、元気を煮詰めたようなカレーは、ごはんによくあった。  すね肉には、カレーの味わいと野菜の甘さが芯までしみ込み、ぷつんとかみ切れた。  にんじんはとろける寸前。 ほくほくとしたジャガイモは、カレーとあいまって、口福を感じさせる。  すべての材料が絶妙に溶けあったこの味は、三日は煮込まないとでないはずの味だが……まぁ深く考えるのはよそう。 「恵ちゃん、どうだった?」 「少し、落ち着いたみたいです」  おかわりをもらいながら、僕は答えた。 「何が……あったんですか?」 「たぶん、テレビだと思うわ」 「テレビ?」 「ええ。恵ちゃんの調子がよかったみたいだから、買い物に行って帰ってきたら……テレビが点いてたの」 「番組はわかりますか?」 「例の事件のニュースだと思うわ。 死体が見つかって、ずっと現場から実況中継だったから」 「なるほど……」  もしも……恵を追っているのが、事件の殺人犯なら。 あるいは峰雪の推測通り、組織なら。 その話を聞いて、事故の時の記憶がぶりかえしたのかもしれない。 「本当に、ごめんなさい」   気がつくと、管理人さんは、食卓に手をついて、頭を下げていた。  「管理人さんに責任はありません」   僕は答える。 当たり前のことだ。  「そもそも管理人さんに恵の面倒を見る義務は存在していません。 これだけ助けていただいて感謝します」  管理人さんが、顔をあげて僕を見上げる。 「恵ちゃん、せっかく良くなるところだったのに」 「テレビが原因であるなら不可抗力でしょう」  僕は、想像して嫌な気分になる。 今の、この世の中で、マスメディアにふれないでいるのは不可能に近い。 もし、殺人事件の情報に接しただけで、恵の調子が悪くなるなら。 事件が終わるまで、恵が回復することは不可能ではないか?   僕は、首を振る。 いや、それは違う。 恵の調子がもっとよくなれば、事件の記憶にも向き合えるようになるだろう。 テレビを見ただけで取り乱すようなことはなくなるはずだ。   そのはずだ。 そうに決まっている。 「こんな嫌な事件、早く終わってくれないかしら」 「終わってほしいです」  僕は同意する。 だが。 願望と推測は別だ。  今回の事件。 これだけ大規模になり、警察が出動しているにもかかわらず、これまで逮捕されなかったとしたら。  警察には、犯人を捕まえられない何らかの理由があるということだ。 長期化する可能性もきわめて高い。 「とはいえ、仕方がない」 「え?」  言葉が口に出ていたようだ。 「あまり気にしても仕方がないということです。 恵の調子がよくなるまで、目を離さないようにしようと思います」 「あら、大変ね。 はやく警察が捕まえてくれればいいのにね」 「これまでのところ、警察は、あまり頼りになっていませんね。 誰かに捕まえてほしい、という点では同意しますが」 「そうね、そうだわ」  管理人さんは、妙に熱を入れて、うなずいた。 「克綺クン、学校はどうするの?」 「休みます。 単位は足りてますから問題ありません」 「そう……でも無理しちゃダメよ」 「管理人さんこそ、大丈夫ですか?」 「まだ心配してるんだ」 「あのね、何度も言ってるけど、私のことは心配しなくていいから」 「了解しました。心配しないようにします。 しかし、疑問はあります」 「なぁに?」 「管理人さんの働きは、通常の人間の限界を超えているように思います」 「ちょっと、なによ、それ?」   笑い声まじりに管理人さんが言う。 「単純な感想です。 見ず知らずの人間のために、これだけの労力を払い、かつ、肉体的心理的に疲れた様子がない。 僕の経験では説明がつきません」 「うーん。なんて言ったらいいかなぁ」  管理人さんは、指で眉間を押さえる。 「あのね。 こういうと不謹慎かもしれないけど、私は、少し嬉しいの」 「僕は、不謹慎という概念が、よく理解できません。 管理人さんが嬉しいのであれば、それは良いことだと思います」 「私、子供の世話とかするの得意なの。 その勉強も、ずっとしたわ」 「ほう」  管理人さんの過去について聞いたのは、これが初めてな気がする。 保母さんか何かをしていたのだろうか。 それは確かに似合う。 「ずっと自分でがんばって身につけたことだから、それが発揮できると、ちょっと嬉しいわけ。 だから、はりきってるの」 「なるほど。理解できました」 「もちろん、恵ちゃんが怪我したのを喜んでるわけじゃないんだけど……」   管理人さんは、遠慮がちに言う。 「能力を発揮できる機会を与えられたことを喜ぶことと、その原因を憎むことは矛盾なく両立します」 「そうやって、割り切れるのは克綺クンだからよ」 「そうなのですか」  管理人さんの言うことには、うなずける点があった。  僕以外の人間……つまり、心臓のある人間は、単純な論理構造を混同することが多く、そのことを指摘すると、逆に怒られることが多い。 たぶん、今回も、そうした事例なのだろう。 「では、僕が僕でよかった。僕は割り切れますから」  管理人さんは、変な顔をしてから、笑った。 「そうね。克綺クンでよかったわ」 「だから、恵ちゃんの世話するのは、私にとって嬉しいくらいだから、克綺クンは気にしなくていいわよ」 「管理人さんの心情は理解しました。 ただし、肉体的、物理的な限界はあるでしょうから、無理がでた場合は言ってください」 「そうね。そうするわ」 「ご協力、感謝します」 「こちらこそ」  僕が頭をさげると管理人さんも、頭を下げた。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさまでした」  腹の皮がつっぱれば目の皮がたるむ、とは、よく言ったもので、管理人さんのおいしいカレーを二杯平らげた僕は、あっという間に眠くなった。  部屋に戻って一休みする。 そういえば、まだ着替えてもいなかった。  昼寝して目が覚めたのは夕方だった。 「恵ちゃんのご飯できたけど……どうする?」  「僕が持っていきます」  言うまでもなく、すっかり管理人さんは用意してくれた。  僕はお盆を受け取って、恵の部屋に向かう。 「恵、起きてるか?」 「お兄ちゃん?」   思ったより元気な声に、僕はほっとした。 「ドア、開けてくれるか?」  ぱたぱたという足音とともに、恵が扉を開ける。 「晩ご飯、もってきたぞ」  「わぁ」   恵が目を丸くした。 二枚の盆にのっているのは、コーンスープとゆで卵。 それに、イチゴジャムつきのトーストに、ミルクティーだ。 イチゴジャムは管理人さんの自家製だから、まだイチゴの形が残っていて、甘酸っぱい。 「これ、食べていいの?」  「晩ご飯は食べるものだ」  「ううん、ここで食べていいの?」  「あぁ。ベッドで食べればいい」  恵はとても嬉しそうな顔をして、ベッドにもぐった。 「お兄ちゃんも、きてよ」   テーブルで食べるつもりだったが、僕は恵の誘いにつきあった。  シロには、ちょっとどいてもらって、恵の横に入る。 シングルベッドは、二人で入ると窮屈だったが、入れないことはない。 「いただきます」  僕らは盆を膝に載せて、手を合わせた。 「なんか、楽しいね」   恵が、くすくすと笑う。 「確かにな」  ベッドで食べる食事というのは、背徳的な楽しさがある。 管理人さんお手製の食事であれば、なおさらだ。 「王様のごはんみたい」 「王様?」   聞き返すと、恵が、ほおをふくらませた。 「お兄ちゃんが、言ったんだよ!」 「僕が?」 「ほら、昔、王様ゴッコで……」 「王様ゴッコ?」  そういうと、恵が、ぷいと横を向いた。 僕は、急いで記憶をたどる。  そういえば。昔。 まだ、僕に心臓があった頃。 よく、恵と、ゴッコ遊びをした覚えがある。  僕が本で読んだシチュエーションを、きわめて子供らしく適当な解釈で押しつけた、そんな記憶がある。 「お兄ちゃん、言ってたよ。 王様は、朝、ベッドから出ないで食事するんだって」 「今にして思えば、むしろ、王様は、そんな不作法なことはしないだろうな」  たぶん、海外ドラマかなにかを見て、勘違いしたのではなかろうか。 「いいの。お兄ちゃんが、王さま」 「ふむ。僕が王様か。では、恵は?」 「私は、王女さま」 「つまり、僕の娘か」  恵は難しい顔でしばらく考えて。 「私、お姫さま」 「娘、あるいは、姪」 「……女王さま」  それが言いたかったらしい。 「なるほど」 「王様は、おはよう、マイハニーって言うんだよ」 「……今は、朝じゃないし、王様は、あまり、そういうことを言わないのではなかろうか」  いやしかし。 格言にもある通り、若さ故の過ちというのは、認めがたいものだ。 「言うの!」  病人の言うことには逆らわないに限る。 「おはよう。まいはにー」  そういうと、恵は、嬉しそうに、わらった。 本当に、嬉しそうにわらった。 「おう、俺だ。峰雪だ。そっちは……その、どうだ?」  「僕はいたって健康だ」  「おめぇじゃねぇよ! 恵ちゃんだよ!」  「おおむね大丈夫だ」   僕は、テレビの件を説明した。 「なるほどな……無理もねぇや。 俺だって、テレビ見てると、気が沈む。なぁ?」  「いや、僕はテレビを見てないから」  「……そうかよ」  「そういうわけだから、恵に会っても事件の話題をさけてくれ」  「しねぇよ、最初から! むしろテメェのほうが心配だ」  「僕は、そんな無思慮なことは言わない」   そういうと、電話口の向こうで、妙に長い沈黙があった。 「……ま、それなら安心だ」  「あぁ。安心だ。用はそれだけか?」  「まぁな。明日、学校は……」  「休んで、恵と一緒にいるつもりだ」  「そうか。なんだったら、見舞いがてら顔だすぜ」  「あぁ。歓迎する」  それじゃぁ、と、僕が携帯を切った瞬間、待ちかまえていたかのように携帯が鳴った。 「もしもし、九門君?」  「牧本さん。こんばんは。何か用かな?」  「あの、九門君。そっちはどう? 急に帰ったから、私、ちょっと心配で……」  「僕はいたって健康だ」  「あの……九門君じゃなくて、恵ちゃんは?」   ふむ。さっきも似たような会話があったな。 どうして人は要点から語らないのだろう? 僕は、恵が無事であること。テレビ番組が原因だったこと、事件の話題をさけてほしいことを告げた。 「うん、わかった。九門君も気をつけてね」  「……峰雪と同じことを言うな」  「うーん、九門君、そういうこと、うっかり言っちゃいそうだから……」  「……君らの僕に対する評価には異議がある」  「ご、ごめんなさい」  「あやまることはない。 人それぞれ見解がことなるのは通常で、むしろ望ましいことだ」 「そ、そう……とにかく気をつけてね」  「あぁ、気をつける」  電話を置いてしばらく考えた。 二人とも僕を誤解している。  僕は、他人の心を読めないだけで、いたって論理的に話す人間だというのに。  僕は、部屋の本棚を検分した。 昨日の晩は焦ったが、今日は、余裕をもって事にあたろう。 隅から隅までさがせば、子供向けの童話の一冊や二冊……。   あった。 文庫版、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」。  ざっとページ数をチェックする。 長さ的にちょうどいいのは、「貝の火」「ツェねずみ」あたりか。  文庫を小脇に挟んで、意気揚々と恵の部屋に向かう。 「恵?」 「なぁに、お兄ちゃん?」 「お話してあげようか?」  「うーん」   恵は、妙な顔をした。  「管理人さんがいい」  「え?」   正直に言おう。 僕は呆然とした。 兄としての自信が失われたといってもいい。 ・昨晩、お話したなら→5−7−1へ・管理人さんに任せたなら→5−7−2へ ●5−7−1 「お兄ちゃんのお話、怖いんだもん」  「眠くならなかったか?」  「眠くなったけど……怖いゆめ、見たんだよ!」  「……そうか。 今日の話は怖くないぞ」  「お兄ちゃん、昨日も、そう言ったよね」  恵にじっと見つめられ、僕はすごすごと退散した。 ●5−7−2 「管理人さん、お話うまいんだもん」  「僕だって、うまいぞ」  「管理人さんは、とってもうまいの」   恵にじっと見つめられ、僕はすごすごと退散した。  「また、今度ね」  ……病気の妹に、お話を聞かせることが、そう何度もあっては困るんだが。 「管理人さん」  僕はドアをノックする。 「あら、どうしたの? しょんぼりした顔して」  「しょんぼりしてますか? それはともかく、恵がご指名です」   そういうと、管理人さんの顔が、いつにもまして明るくなる。  「お話してほしいそうです」  「ええ、すぐいくわ。あら、それなに?」   管理人さんは、僕の小脇の文庫本をめざとく見つけた。 「恵に読もうと思っていた、お話です」  「……残念だったわね」  「まったくです。 では、よろしくお願いします」  「はいはい」  管理人さんは、絵本の束を一抱えも抱えると、浮き立つような足取りで恵の部屋に向かった。  その足取りを横目に見ながら、僕は部屋に戻った。  真夜中。 ぱっちりと目が覚めた。  時計を見る。 もう一時を回っている。 どうにも目が冴えてしかたがない。  考えてみれば、今日は、たっぷり昼寝したし、恵に合わせてずいぶん早く寝付いた。 こういう時は、無理に寝ようとしても無駄だ。  僕は、明かりを点けて、読書を始めた。  現国の獅子堂がだした課題図書を引っ張り出す。  本は好きな方だが、課題と言われると、どうしても読む気になれないのはなぜだろう。  こういう時でもないと目を通さないその本は、まぁ、読んでみると、それなりに面白く、僕は熱中して時が過ぎるのを忘れた。  そうして夢中でページをめくるうち、ちょうど章の区切りあたり。 とんとんと、ドアをたたく音に、僕は驚いた。 「管理人さんですか?」  声は、か細いものだった。 「お兄ちゃん、あたし」  僕は、急いでドアを開ける。  そこにいたのは、シロを抱きしめた恵だった。  「どうした?」  「管理人さんが……いないの」   僕と同じく、夜中に目が覚めて、独りが不安になったのだろう。 「下で寝てるんだろ」  「……いないの」   恵は、かたくなに繰り返す。 管理人さんを起こすのも忍びない。 「僕じゃだめか?」  「おはなし、してくれる?」  「いいとも」  「じゃぁ、きて」  恵の部屋。 テーブルには、あの絵本が積み重ねられていた。 その一冊を恵が抜き取って、僕に差し出す。 「これ、よんで」 「宮沢賢治じゃダメか?」 「これ」  そう言われては仕方がない。  僕は、その本を受け取る。 テーブルのスタンドに明かりをつけ、僕は、ゆっくりと本を読み始めた。 「むかし、むかし、あるところに。 まずしいおかあさんと、むすめがいました」  本は、驚いたことに、手製だった。 手触りからすると和紙。 糸で綴じたページには、絵の具で、綺麗に絵が描いてあった。  もしかしたら、管理人さんのお手製だったかもしれない。 恵は、目をらんらんと輝かせて僕のほうを見る。 「それで?」 「待て。ちゃんと布団に肩まで入って。深呼吸して目をつぶって」 「はぁい」  恵が言われる通りにするのを見て、僕は、ふたたび絵本を読み始める。   それは、貧しい家族の物語。 父が倒れ、母が倒れ。 娘に唯一残されたのは、母の手製の人形だった。 体は藁で、衣は端切れ。 目はビー玉で、金色の髪は母の髪だった。 人形は母ではなかったけれど、両親を失って泣く娘を、人形は毎晩、母の声でなぐさめた。   両親のいない家に、狼が来る。 人形は娘を寝かしつけ、娘に化けて、狼をあしらった。 腕一本と引き替えに、人形は狼を追い返す。    朝になって、娘は、不思議に思った。 どうして、この子は腕がないんだろう。 人形に聞いても教えてくれない。   両親のいない家に、夜盗が来る。悪魔が来る。 そのたびに人形は娘を寝かしつけ、手足と引き替えに、追い返した。   朝が来るたび、娘は、不思議に思った。 どうしてお人形さんの手足がないの? ひとりで勝手に遊びにいったから? 手足を切られるのは、悪いことをした人じゃないのかな?   ある夜大きな嵐が家を襲う。  「嵐さん、嵐さん、どうか、この家だけは、よけて通ってください」   そう言って、嵐の前に、すっくとたった人形は、娘を救う代わりに、ついに、その体をばらばらにされる。 嵐の中、ついに眠りから覚めた少女は、その一部始終を見てしまう。 「あらしがやんで、むすめのてのなかにのこったのは、いっぽんの、かみのけでした。にんぎょうのかみのけ、おかあさんのかみのけでした。 にんぎょうのきもちが、やっとわかったむすめは、あさひとともに、一粒のなみだをながしました。そのなみだが……」  僕は、ゆっくりと本を閉じた。 安らかな吐息とともに恵は眠っていた。 →5−10  恵に布団をかけなおし、僕は階段を降りた。 ──管理人さんがいないの。 恵のその言葉が気になっていた。  管理人さんが恵を放っておく訳がない。 恵が夜中に目を覚ましておびえるようなことがあれば、たとえ下の階にいても駆けつけてくる。  なぜか、そんな確信があった。  非論理的な確信だ。そのことには自覚があった。 管理人さんだって人間だ。 気配に気づかないことくらいあるだろう。  というか、気づかないほうが普通だろう。 どうしてこんなことを思うのか、自分でも、わからない。  けれど。 ぬぐいきれない違和感が、僕を階段の下に向かわせた。  特に何をするつもりもない。 寝てる管理人さんを起こすつもりもない。 下まで行って……扉が閉まっていたら、そのまま引き返すつもりだった。  真夜中。 絨毯を敷いた石の階段は、こそとも音を立てなかった。 息を殺して、下の階へ降りる。  廊下を照らす薄明かり。 管理人さんの部屋のドアは、かすかに開いていた。  不意に、嫌な予感が背を抜けた。  開いたままのドアを軽くノックする。 「克綺です。いらっしゃいますか?」  返事は、ない。  焦燥にかられて、僕は、ドアを開けた。  電気を、つける。  灯りに照らし出された管理人さんの部屋。 何度も朝食を食べた、あの馴染みの部屋。 そのはずなのに。  何かが違った。 主のいないその部屋は、とても寒々しかった。  床には塵一つなく、ゆったりとした食卓はぴかぴかなのに、なんだろう。 この感触は。  しばらくみつめて、その理由に思い至った。 この部屋には、生活感と呼べるものが、全くなかった。  ホテルの一室。あるいはモデルルーム。 そんな感じだ。  電話機の横には充電器があり、管理人さんの携帯が収まっていた。 この部屋に人が住んでいる証は、それくらい、だった。 「管理人さん。いますか?」  管理人さんを探して、部屋を探す。  食卓も。 キッチンも。 物置も。 完璧に整頓され、無菌と呼べるほどに清潔で。  最後に残ったのは、寝室だった。 開いていた寝室のドアを、僕は、思い切って開けた。  部屋を間違えた、と、思った。 次に、やはり管理人さんは、引っ越したのだろうかと思った。  初めて入る管理人さんの寝室は……空っぽだった。  壁も床も、石がむき出しで、ベッドどころか、布一枚なかった。 電気さえ来ていない部屋に、僕はゆっくりと入る。  足下から寒さが染みいった。 古い石の冷気が、僕の体温を奪う。  今の季節。 この部屋で人が寝ることがあれば、確実に凍死するだろう。  ドアからの灯りを頼りに、広くもない部屋を見渡す。 やはり、なにもない。空っぽの石の床。 いや、あった。  部屋の真ん中に、細長い風呂敷包みがあった。  紫の絹布に、丁寧にくるまれたそれを、僕は、ゆっくりと開く。 「……腕?」  でてきたのは、五本の指と肘の関節を備えた腕だった。  大きさも、ちょうど、人の大人ほどだったが、その表面は白く滑らかだった。 指も、肘も、細かい細工が為されており、色さえなければ、人間の腕と見間違えてもおかしくない。  義手だろうか? しかし、なぜ、義手が、こんなところに?  僕は、その腕をじっと見つめる。 細く、しなやかな指は、男のものではないだろう。 こんな腕を、どこかで見たことがある。  ──管理人さん。  目立つ傷やほくろがあるわけじゃない。 管理人さんの腕に似ているかどうか、本当のところは、わからない。 そんな気がするだけだ。  よしんば似ていたとして。 この腕が、もし管理人さんの持ち物なら。 管理人さんが、自分の腕を模して作ったのかもしれない。 デスマスクのように、自分の腕を、そっくり型どりして、この義手を。  そう考えるのが論理的だ。 だが、脳裡に浮かぶイメージは違った。  管理人さんの腕が、そのまま切って転がされている。 氷のように冷たく硬い管理人さんの腕。 そんな印象が、どうしても消えなかった。  僕は、恐る恐る腕に触れた。 石畳の上に置かれていたそれは、手がかじかむほどに冷たかった。 布をかけて抱き寄せると、胸の中で、ずっしりと重かった。  僕は、ふらふらと部屋を出た。  管理人さんを。 管理人さんを探さないと。 きっと全てに論理的な説明があるに違いない。  深夜に管理人さんが留守なのも。 寝室が空っぽなのも。 この奇妙な腕も。  管理人さんを、探さないと……。  玄関は、開いていて、夜風が吹いていた。 それがまた、僕を呼んでいるようで。  玄関を閉め、門を抜け。  僕は、象牙の腕を抱いたまま、メゾンから逃げるように走り出した。      外の空気は、秋とは思えぬほど、じっとりと湿っており、並木道から一歩出ると、深夜とは思えない喧騒が迫ってきた。   サイレンの音だ。 救急車、それにパトカー。 無数のサイレンが、夜の街のあちこちで響き渡り、共鳴して、奇妙な音楽を作り上げていた。 その数だけ事故現場があると思うと、一つ一つのサイレンが悲劇に群がる腐肉くらいのように思えてくる。      理性と切り離されたところで、妄想がふくらみ続ける。   血を浴びて魔性を得るなら、凶事に出会って化けるなら。 夜を切り裂き、惨事に集うあれらは、いつ化けてもおかしくない〈物神〉《ものがみ》ではないか。 こんな夜には、そのサイレンで互いに囁き交わし、血を吸うために惨劇の現場に集まるのではないか。 夜歩く愚かな人間を踏みにじり、その血と肉を糧に……。 「すいません」  声をかけられて、首筋に電流が走ったかと思った。 「なんでしょうか?」 「どちらに向かわれるところですか?」   そこにいたのは、青の制服を着た中年の男だった。 どこかの警備会社だろう。 前の道は、大きな通行止めになっている。 「あてはありません」  「でしたら、お帰りになったほうがよいですよ。 この時間は物騒ですから。 お名前を伺ってよろしいですか?」   なるほど職務質問、という、ところか。 「九門克綺です。 向かうあてはありませんが、目的はあります」  「はぁ、どうされました?」  「知り合いが家を抜け出したようなので、そのへんにいないかと」   男はレシーバーに小声で何か囁く。 「お知り合いの名前はわかりますか? こちらで見かけましたら、ご連絡して、お家にお送りしますが」   頭をひねって管理人さんの本名を思い出す。  「花輪といいます」  「花輪さんね。 字は、どういう字かな……」  話している内に、少しずつ、迷いが覚めた。   何があったかはわからないが、夜の街を彷徨って、どうなるわけでもないだろう。 家に戻ったほうがよかろう。 「帰ります」  「そうしたほうがいいですね。 今日は、ちょっと……いろいろあるみたいですから」   僕が頭をさげて去ろうとすると、男が声をかけてきた。  「それと、失礼ですが……」  「はい」 「手にお持ちのものは何ですか?」  「これ、ですか?」   腕の中に、ぎゅっと握りしめたもの。  「何でしょうね。 僕にもわかりません」   正直にそう言うと、男の表情が急に冷たくなった。 「中身を見ても、よろしいですか?」  有無を言わせない口調で、男は、僕の荷物に触れる。 自然、腕に力が入った。  警備員は別に、力ずくで奪おうとしたわけじゃない。 僕も、全力で抱きしめたわけじゃない。  小さな力が、妙なバランスの崩れを生んで、僕の腕の中から、荷物が、すっぽ抜けた。  ごろり、と、荷物が転がり、くるくると布が解ける。 そこからのぞいた五本の指と手首。  瞬間、警備員は銃を抜いた。 銃?  その意味を、頭が理解するより早く、身体が動き出していた。 「動くな!」  その声を背後に聞き、僕は走り出していた。 「不審人物発見。応援願います」  男がインカムに早口で囁く。  何もかもが悪夢のようだった。  気の抜けた爆発音が僕の周りで弾けた。 初めて聞く拳銃の銃声は、思ったよりも軽かった。 「止まれ!」  叫ぶ男の声が、間延びして聞こえた。  よく考えれば、逃げるほどのことじゃない。 僕が落としたのは義手であって、人間の腕ではない。  男は多分、誤解している。 あるいは怯えている。  しかし、なぜ、警察でもない男が銃を持っているのか。  そして、こうも躊躇わずに撃つのか。  じっとりとした空気を両手でかき分ける内に、男の叫ぶ声が、だんだんと甲高くなる。  やがてそれは、信じられないほど甲高い悲鳴になる。  ようやく、僕は気づいた。 男の撃っているのは僕じゃない。 何か、違うものだ。  足を留めると、どっと疲労が襲いかかった。 急に走ったので、呼吸が苦しい。喉が痛い。 僕は電柱に手をついて、振り返った。  男は、片膝をついて、銃を握っていた。  とうに弾の切れた銃の引き金を、なんども引き絞っている。  銃口の先にあるのは、マンホールの蓋だった。  少しだけずれたマンホールの穴に向かって、男は虚しく銃を突きつけていた。 街灯に浮かぶ男の顔色は土気色で、僕は、どうして男が逃げないか不思議に思った。  ようやく気づく。 男は、片膝をついて狙っているのではない。 ──片膝が、ないのだ。  血塗れの棒が、男の側の暗がりに転がっていた。 棒の先に靴があるのは、どこか滑稽だった。  がたがたとマンホールの蓋が揺れた。  蒸気が噴き出す音とともに、マンホールの隙間から、白い光が走った。  光は、男の身体をゆっくりと這い回る。  それが動くと、青の制服に黒い軌跡が残った。 それは子供の落書きのように、じぐざぐと一筆書きで、男の身体の上を這い回った。  喉が潰れたのか、甲高い悲鳴はもう聞こえなかった。 とぎれとぎれの、かすれたうめき声。 無事な足から入った光は、男の腹の上で、ぐるぐると螺旋を描き、やがて、右脇に抜けた。  身体の落書きから、男はぴゅうぴゅうと血を噴いていた。 血の滴る音が、鼓膜を叩くように響き渡る。  ずるり、と、男の身体がずれた。 安物のパズルのように。 線に沿って男の身体がずれ、ぐちゃりと地面に堆積する。  マンホールの蓋は、今や完全に、ひっくりかえり、〈暗渠〉《あんきょ》へ続く口を開けていた。  ごぼり、と、水があふれた。  その水とともに、現れた影。  街灯に照らし出されたそれは、紫色の鱗と、まぶたのない、大きな丸い、瞳。  現れた異形。 それは一体ではなかった。  無数の魚人たちが、一匹、また一匹とマンホールからはい上がる。 狭くもない公道は、たちまちむせかえるような魚臭さで満ちた。  凍りついたように動く僕を、何かが引っ張った。 出かけた悲鳴を噛み殺す。  僕の足下にあったのは、あの象牙色の腕、だった。   騒ぎに紛れて転がって来たのか、それは僕の足下にあった。   考える暇はない。  僕は、腕を拾って走り出した。      サイレンが響いていた。 あの禍々しいサイレンが。 僕を中心に。 僕を囲むように。 僕を追いつめるように。   行く先などなかった。 街はすでに戦場で、全ての逃げ道は閉ざされていた。       口の閉じた袋でもがく鼠のように、僕は、ただ、走り続けた。   あの時。 僕が走ると同時に。 魚人たちが動き出した。 幸いというべきか、地上を歩く彼らの足は鈍く、なんとか振り切れそうだった。   じきに、あの、ぺたぺたという足音が消えた。     終わってみると、それは夢のようで。 僕が怪異と出会った証拠は何もなかった。   怪異があったこと自体、僕は疑い始めていた。 銃撃も、死も、異形も、何かの勘違いではないかと、そう思った。 余計なことは考えず、家に戻ろうと、その時の僕は思った。   すぐに思い知らされた。 怪異は終わってなどいないこと。 僕が想像するより遙かに大きな口を開けて待っていることを。   きっかけは、道ばたの酔っぱらいだった。 電信柱の影で、だらしなくうずくまる酔っぱらい。 今日は秋にしては蒸し暑いが、だからといって、外で寝て死なない保証はない。 放っておいても夢見が悪いので、せめて声ぐらいかけようと思って僕は近づいた。   男がいる電柱の陰は、街灯の明かりのちょうど死角だった。 おかげで、すぐそばに近づくまで気づかなかった。   男の姿勢が、不自然なこと。 胸を濡らしているのは、〈吐瀉〉《としゃ》物ではないこと。 アスファルトをえぐった穴の数々。   頭のどこかでは気づいていたのかも知れない。 だが、本当に理解したのは、男の頬に触れてから、だ。  その、あまりにも異様な感触、冷たいわけではないが、人肌に人肌のぬくもりがない違和感に、ようやく、頭が、切り替わった。   切り替わった瞬間、あたりの不自然な光景がパズルのようにはまった。 胸を濡らしているのは血だ。 アスファルトの穴は弾痕だ。 目の前の男は、男ではなく。   死体だ。      悲鳴より先に、吐き気がこみ上げた。  僕は、電柱に手を付いて、男の横に胃の中身をぶちまける。 鼻に感じるつんとした痛み。 僕の思考が回り始める。   男の着ているコートには、ブーツの痕があった。 つまり、男を殺した何者かは。 その死体を無造作にブーツで道の隅に蹴込んだのだ。      僕は、走りだした。  夜道はサイレンと悲鳴で満ちており、死体は、それ一つではなかった。   サイレン。 銃声。 悲鳴。 人のものと、人でない、カエルを踏みつぶしたような声。   蒸し暑い夜は、おぞましい音で満ちていた。      銃声や悲鳴を避けて走る内に、僕は、いくつも死体を見た。 点々と道を彩るのは、さっきの男のような、ただの通行人。 なかには中学生くらいの子供も交じっていた。   そして、あの青の制服。 たいていは一つではなく。 押しつぶされ、切り裂かれた肉塊の中に、青の布が混じっていた。      数は少ないが、魚人たちの死体もあった。 身体の半分を失い、もう半分に、無数の銃弾を呑み込んだ凄絶な死体の数々。   そしてもちろん。 注意に注意を重ねていても、「現場」に出会うことはある。      たとえば、ふと角を曲がった先で。 装甲車と魚人たちがおぞましい戦いを繰り広げていること。 無数の銃弾を叩き込まれながらも、じりじりと前進する魚人たち。 あるいは、ひっくり返った装甲車。   炎上するその中から、黒く焦げ、時に紅い断面を見せる肉塊を引っ張り出す魚人たち。 肉にかぶりつき、ねぶるような音を立てて食い尽くす魚人たち。      僕は、ただ、走るだけの機械と化していた。   どこへ? 行く先はない。 メゾンに戻りたかったけれども、戦場の数が多すぎて、僕は好きな道を選ぶこともかなわなかった。   何度も何度も走った。 同じところをぐるぐると回っているような気さえした。  いつしか僕は新開発区を走っていた。 すでに方向感覚がない。 街灯の無い荒れ果てた区画。 乱立するビルは、どれも同じに見えた。  闇夜の中で、ただ足音が、びちゃびちゃと響く。 マンホールからあふれた下水なのか、流された血か。 足下は血でいっぱいだった。  小さな広場で、僕は、足をとめた。 膝に手をついて、必死に酸素を吸い込む。  音。足音。 僕の足は止まっているのに、ぴちゃぴちゃという音は、響いていた。  認めたくない事実を認めるために、僕は、息を一つ呑み込んだ。  ビルの向こうから、魚人たちが顔を出す。  前も。 後ろも。 右も左も。  おびただしい数の魚人たちが、僕を囲んでいた。  輪が閉じるその前に。 僕は、震える膝に叱咤をくれて、細い路地に向けて走りだした。  ──考えろ。 街中の魚人がここに集まっているなら。 この囲みさえ突破すれば、彼らの全部から逃げられる、ということだ。  僕は走る。 水音が大きくなり、足が重くなる。 いつのまにか足下の水は、足首に迫っていた。  ──水位が上がっている? 水が足を取り、濡れた靴が、一足ごとに、がぼがぼと鳴った。  まずい。 これでは、速度が遅くなる。 僕は危険を冒して、一度だけ振り返った。  ──やはり。   魚人たちの速度があがっていた。  足のない下半身を、すばやく動かして、水の上を滑るように走ってくる。  時間がない。 あとほんの少し。 水が膝まで来るようなことがあれば、僕は決して逃げられないだろう。  僕は……  恵。 それが、僕の心に浮かんだ全てだった。 ここで死ぬわけにはいかない。 恵をメゾンに置いたまま、死ぬわけにはいかない。   あの魚人たちは、理由はわからないが、明らかに僕を狙っている。 建物に入れば、時間は稼げるかもしれないが、袋の鼠だ。 それでは時間稼ぎにしかならない。 それじゃ駄目だ。  僕は、ただひたすらに、水を蹴立てて走り続けた。  水位の上昇は、思った以上に早く、足をあげさげするたびに、膝が悲鳴を上げた。 僕は道の端により、ブロック塀を手で掴みながら、なんとか走った。  ──間に合わない。 逃げられない。 頭の中で冷静な計算結果が弾き出される。  足はすでにくるぶしをこえ、〈臑〉《すね》を浸している。 もう無理だ。 振り返るのが恐ろしかった。  恐ろしくて、あまりに恐ろしくて。 僕は、前のめりに倒れた。  びしょぬれになった身体を持ち上げる。  水に、顔が映っていた。  噛みしめた唇と、ひきつった頬。 見開かれた瞳と皺のよった眉。  目の前の顔の造作が、恵のそれに重なった。  直感した。 これが。これが、恵の感じた恐怖。  恵を襲ったのは、こいつらか。 ──だったら、ここじゃ死ねない。  感情が裏返ることがある、と、僕は、初めて知った。 全身の恐怖が、そのまままるごと、別の感情になってゆく。 焦燥だけはそのままに。  僕は、怒っていた。  怒りをバネに、僕は立ち上がった。 頭の冷たい部分が冷静に告げた。 戦って勝てる相手じゃない。 だが。 逃げられないのなら、立ち向かうしかない。   象牙の腕が、浮いていた。 せめてもの抵抗に、僕は、それを握りしめる。 硬そうなそれは棒きれ代わりにはなるだろう。 「来い!」  僕は振り向いた。  魚人たちの群れは、ほんのわずかな先だった。 僕が、足を止めたと見るや、一斉に殺到する。  水面が波立ったかと思うと、次の瞬間、魚人たちは僕の前にいた。  夢中で突きだした腕が、その勢いを借りて、魚人を突き刺す。  だが、それだけだった。 刺された魚人さえ、痛みの様子はなく。  無数の手が、鰭が、僕に襲いかかって水の中に引きずり倒した。  ──間に合わない。  そう悟って、僕は、手近の建物に駆け込んだ。  6階建ての雑居ビルだ。  最後の力で廊下を走り、階段を探し当て、乾いた地面を蹴って上へ上へとひた走る。  水面の上昇率が一定なら、これでずいぶん時間が稼げる。  3階まで来て、僕は、いったん、息を整えた。 肺が焼けつくようで、喉がぜいぜいと鳴った。 とりあえず、びしょぬれの服と靴を絞り、体勢を整える。  二三度、深呼吸すると、ようやく思考が回り始めた。  新開発区を走り回るのは二度目だ。 あの日、あの時、恵を追い回していたのは、今、下にいるやつらに違いない。 可能性としては、僕を襲ったあの少女や、弓を射た者も考えられるが、彼らなら、あっさり恵を捕らえていただろう。 恵の足で、必死に走って、しばらくは逃げられたということから考えて、魚人たちと考えるのが妥当だ。   理由はわからない。 今は、どうでもいい。  あいつらが恵の笑顔を奪ったというのなら。 僕は、あいつらを許さない。   それだけのことだ。  僕は、階段の下に耳を澄ました。  ぺたり、ぺたりという足音がかすかに響いてきた。 魚人たちは、乾いた階段を上がっている。  僕は、深呼吸をする。 これで、状況は、少しはマシになった。  この増水を呼んでいるのが魚人達だとして。 彼らの力はビルの6階までは埋められない。 あるいは、埋まるまで待つ気がない。 そのどちらかだ。  僕は、再び階段を上り始めた。 今度は時間稼ぎではない。 勝つためだ。  ビルは、内装工事の途中で放棄されたようだった。 あちこちに瓦礫や、朽ちたブロック。 さらには、板材や鉄パイプまでがある。  僕は、コンクリブロックを落として割り、手頃な大きさにして、ポケットに詰め込んだ。  そして即席の罠を仕掛け、4階の踊り場に陣取る。  ゆっくりと近づく足音。 僕は、自分から跳びだした。  魚人たちに、奇襲が通じたのかどうか。 それはわからなかった。 僕を見ても、彼らのゆっくりとした足取りにはなんら変化はなかった。  だが、それならそれで構わない。 僕は、真ん中の魚人に、上から思いきり鉄パイプを叩きつけた。  腕に伝わってきたのは、石を殴ったような手応えだった。 最初から強くは握っていない。 鉄パイプは、くるくる回ってすっ飛んだ。  僕は、逃げながら、ポケットのブロックを投げつける。  鈍い音がして、肉が潰れた。  だが、それでも、魚人たちの足取りは変わらない。 ゆっくりと、階段を上り始める。 その速度は歩くくらいで、僕は、十分に距離を取り、ブロックを投げながら階段を上った。  通じていない。 何一つ通じていない。  当たり前だ。 銃弾を喰らって平気なやつらが、石の一つ二つで、どうにかなるわけがない。 だが。  5階へ通じる階段を、僕は、できるだけゆっくり登った。 捕まらない距離で。 ぎりぎりまで引きつけて。 魚人たちの群れが、踊り場に満ちた時。  僕は、ダッシュした。  魚人たちは理解しただろうか。 僕が身体で隠していたのは、階段の上に敷いた板だ。 そして、板の天辺にあるのは……。  それは、巨大なブロンズ像。 皮肉の効いたことに、人魚の像だった。  こんな狭いビルに、ブロンズ像があっても、意味がないと思うが。 何のテナントに入る予定だったのだろう。  だが、そんなことは、どうでもいい。  僕は、巨大なブロンズ像の背後に回ると、思いきり像を蹴飛ばした。   ゆっくりと、像は、板の上を滑る。だがそれもつかの間のことで、重心の高い像は、ごろごろと階段を砕きながら転がった。 鈍重な魚人たちに逃げる術はない。  肉と骨が砕けるのを、僕は待ってはいなかった。 身を翻して、廊下を走る。  牛のような低く野太い声は、あれは多分、悲鳴なのだろう。  バリンと音を立ててガラスが割れる。  僕は、下を覗き込んだ。 遥か下にあるのは地面ではなく水面だった。 くらくらするほどの高さ。 だが水面の高さは、ビルの二階に届いていた。   ──これなら、行ける。  数秒の間を置いて、水面に大きな波紋が広がった。  割れたガラスを見た魚人たちは、次々と窓から身を躍らせる。 水に落ちた波紋めがけて。  6階の窓から、僕は、その様を、こっそり見つめた。   そう。落ちたのは僕じゃない。手頃な大きさの瓦礫を、下に落としてすぐ、僕は6階に上がったのだ。  魚人たちを片方に誘導し、僕は、なるべく音を立てないように逆側の窓を開けた。 これで、だいぶ時間は稼げる。 無論、僕が着水で死んだり気絶したりしなければのことだが。   6階から見る高さは圧倒的で、かすれた横断歩道が、掌に収まるほどだった。  僕は窓枠に足をかけ、そして、迷っている暇はない、と、決める。  人形の腕を抱いたまま。 一躍。宙に身を躍らせる。  風が。 ひらめく風が、僕の全身を、ひっぱたく。  痛い、と、思った時には着水していた。  骨を揺らす衝撃と共に、僕は泡を吐いた。 全身に、コンクリのやすりで削られたような痛み。 そこに水が染みこむ。  勢いのまま沈み、アスファルトに背中からぶつかって、また、浮かんだ。  無我夢中でもがいた時には、頭が出ていた。  生きている。 まだ生きている。 あとは生き続けるだけだ。  懸命に水をかいて泳ぐ。 最初は平泳ぎだったが、すぐにクロールに切り替えた。  水面には、思ったより早く、あの魚人たちの姿が見え始めていた。 思ったより早く戻ってきたのか、全員がビルに入ったわけじゃないのか。  そんなことはどちらでもいい。 僕は、残った体力の全部を費やして、新開発区の中を泳いだ。  魚人たちの速力は恐ろしいほどで、水面を滑るように突進する。 僕の泳ぎは、焦れば焦るほど遅くなり、しまいに水の流れそのものが僕を阻む気さえしてきた。  いや、錯覚じゃない。 力を抜いたその一瞬。 僕は、明らかに背後に流されていた。  ──冗談じゃない!  全身に力を込めるが、水の流れは速く、魚人たちの泳ぎは、さらに早かった。  僕の足に、なにかぬめるものが巻き付き、一瞬で水の底へ引き込まれた。  ──畜生! 畜生!  叫びは泡に変わり、生ぬるい水を僕は思いきり呑み込む。 暗い水が視界を奪い聴覚を奪い嗅覚を奪い触覚を打ちのめす。  泥のような闇に塗りつぶされる僕の五感を。 言葉が上書きした。  声ではない。 光でもない。 言葉そのものが、心の上に重ねられる感触。  見ようとしても何も見えない。 動こうとしても動けない。 是非もなく、僕は、その言葉に従った。  ざぶんと、何か重いものが傍らに落ちた。  水が泡立ち、波が立った。  渦を巻いて、水が引く。  一瞬で、僕は、乾いた大地の中に横たわっていた。 全身からしたたり落ちる水を、振り落とし、げぇげぇと水を吐いた。  再び、声のない言葉。 だが、今度ばかりは僕は目を開けた。  僕がいるのは乾いた大地。 だが、ほんの十歩先には、水が満ちていた。  吹き飛ばされた魚人たちが起きあがりはじめる。  水面は、あらゆる物理の法則に反して、四方になだらかな坂を描いて深くなっていた。  あるいは。 新開発区に満ちた水が一カ所だけ、ドーム状に切り取られている、というべきかもしれない。  ドームの中心にあるもの。 それは。  星粒一つの灯りを捉え、紅い外套は闇の中に咲き誇っていた。 君臨する隻腕のヒトガタ。  外套から突き出た左腕は、人間のものではなかった。 いびつな骨を持った絡繰り細工。  その顔は、白い仮面。  その片足は、魚人の死体を踏み貫いていた。 急所を突いたのか、あの生命力の強い魚人が動きもしない。  ざわり、と、水面が動いた。 魚人たちが気圧されたように一歩動く。  ヒトガタの腕が、がしゃりと音を立てる。 肘が内側に折りたたまれ、内部からバネ仕掛けで銃身が跳びだした。  ヒトガタの言葉の意味は明白だった。 僕は、両手で耳をふさぐ。 その瞬間。 無造作にもちあがった銃身が、火を吹いた。  重い衝撃が僕の前半身を打った。 一瞬、身体が浮く。 嵐のような上昇気流が、それに続いた。   金属薬莢がずしんと響きを立てて足下に落ちた。   ヒトガタの一撃は、散弾だった。 正面に位置していた魚人は、もはや、影も形もなかった。 その周囲の魚人が、身体に文字通り無数の穴を開けて立ち尽くしている。  魚人が動いた。 逃げるほうではない。   向かう方へ。  どん!どん!どん!  発射音が連続する。 ヒトガタ前方の魚人たちが、文字通り消し飛ぶ。  一瞬遅れて、生臭い血と肉の飛沫があたりに降り注いだ。   後方の魚人たちが襲いかかる。  カシャンと音を立てて、銃身が収納された。 四指を備えた隻腕を構え、ヒトガタは、魚人たちに向かい合った。  無数の魚人が宙を舞った。  ヒトガタの隻腕が迎え撃つ。  四指の先から尖った針が伸び、螺旋を描きながら、四体の魚人を刺し貫く。  そこが急所なのか、鰓の内側を刺された魚人たちは、痙攣しながら、ばたばたと大地に落ちた。  だが、魚人たちは止まらない。 あとから、あとから、飛びついてくる。  針を刺して四匹。  縮め、また伸ばして四匹。  ならば、四匹以上で飛びかかれば。 広い街路のこと、その作戦は功を奏した。  最初の一匹がヒトガタに取りつく。  肘がその頭をたたき割るが、その瞬間には、次の六匹がヒトガタに取りついていた。  六匹の次にまた六匹。 一体のヒトガタに、無数の魚人が飛びつく。  魚人の上に魚人が乗り、それを押しつぶすように、また魚人がのしかかり。 触手と触手がたがいにしっかり結び合わされ。  一瞬にして現れた魚人の山の中に、ヒトガタは埋もれ、消えたかのように見えた。 「……あ」   僕は、呆けた叫びを上げた。 思考が止まる。 目の前に起きていること。起きてしまったこと。 それに、身体がついていかなかった。  ぎゅるぎゅると蠢く肉の塊。 その中心に囚われたヒトガタ。 言葉に変えてようやく、理解が及ぶ。   論理が告げる。 やるべきことは二つ。 ヒトガタを助けるか。 あるいは逃げるか。 僕は……  今、逃げるわけにはいかない。 今日、逃げたとしても、いずれまた魚人たちは僕を、そして恵を襲うだろう。   ならば。 僕は、このヒトガタを助けなければいけない。   どうやって? 悩む暇はなかった。  僕は、勇気を奮って、魚人の山に近づく。  最初に気づいたのは異音だった。 低い重低音。  ギアとピストンが動き、歯車が回る。 油を喰らい鉄を引き裂き、煙を吐く巨大な機械。 そんな響きがあたりを満たす。  音は、山の中からしていた。 僕の前で、魚人の山が、縮んでゆく。 次々と内側へ陥没してゆく。  鉄と鉄をこすりあわせ、引き裂くような機械音の中に、くぐもった太い悲鳴が混じっているのを、僕は、ようやく理解する。  魚人の山が、みるみる半分ほどの大きさになった時。  ずぼり、と、音を立てて、魚人の胸を貫いて、あの隻腕が現れた。  何かを探るように差し出されたその手を、僕は、両手で受け止めた。  力を込めると、ヒトガタが、がぶりと音を立てて引き出される。 同時に、生臭くぬるい血潮があふれた。 羊水にも似たそれは、蒼い色をしていた。  血にまみれたヒトガタ。 外套は翻り、人形そのもののような肋骨を見せている。 足先から脳天、指先まで、どれ一つとして、蒼い血肉にまみれていない箇所はなかった。  あまりにも凄絶。 あまりにも最強。  それは、したたる血潮をそのままに、片腕を銃に替える。   ヒトガタが消えたことで、魚人の山が完全に崩れる。 生き残っていた外側の魚人たちが、組み合っていた触手を解いて、もぞもぞと動き始める。  ヒトガタは、その中心に銃を向けた。 僕は耳をふさぐ。 腹の底をゆらす大砲のような衝撃。  魚人の山を、肉塊の山に変えるまで、弾は、わずか三発で足りた。  逃げる、しかない。 あのヒトガタが、魚人に敵わないのなら。 僕は今、少しでも遠くに逃げるしかない。   それが論理だ。  僕は、塊に背を向けて走り出す。  ヒトガタから離れるほどに水かさがあがり、すぐに僕は、胸まで使った水をかきわけて歩み始めた。  次の瞬間。  魚人の山から一匹の魚人が離脱する。  それは大きく宙を跳んで着水し、優雅に素早く水面を渡り、あっという間に、その触手で僕を捕らえた。  水の中に引きずり込まれるのと、その鋭い歯が喉に食い込むのは同時だった。  暗転してゆく視界の中に、くるくると回る綺麗な傘が見えた。 気がした。        静かに水は流れ去っていった。  遠くから、かすかに届くサイレンの他は、新開発区は、静寂に閉ざされていた。  空気を覆っていた湿り気が消え去り、乾いた秋の夜気が戻り始めていた。  肉塊、としか表現できない物を前に、ヒトガタは立っていた。  脳裡に刻まれる文字。 それは、ほとんど、強制力さえもって響いた。 「拒否する」   僕は、言い返す。  ヒトガタが、こちらを見た。   無表情な仮面の目が僕をみすえる。   視線の力が僕を押し、目に、鋭く熱いものが射し込まれる思いさえした。  単純にして鋭い一言。  「僕が生きているからだ。見たことを忘れるような生き方はしていない」   僕は、返り血を浴びた紅い影に、見覚えがあった。 昨日の夜、ハーフガーデンに見たその人影。 そしてその直後、彼女は、メゾンに帰ってきた。 「管理人さん……なんですね」   ヒトガタは動かない。 ただ、仮面の向こうの視線が、わずかに揺らいだ。 そんな気がした。   もちろん、あの紅い影と管理人さんの間に、関連性がある証拠はない。 確信もない。 論理は通らない。 無意味な直感しか存在していない。 だが、今日くらいはいいだろう。 「教えてください。 あなたは、管理人さん、なんでしょう?」   脳が熱い。 思考が空転する。 仮定1:ヒトガタは、僕の味方をした。  仮定2:管理人さんなら僕の味方をしてくれる。  結論:仮定1、2より、管理人さんはヒトガタである。   この三段論法は間違っている。 僕を助ける存在が、この世に管理人さんだけということはない。   では消去法。 仮定1:管理人さんの力は……恵の面倒を見た時の精力は、人間の範疇を越えている。  仮定2:その他に、僕がこれまで出会った、人間の力を越える存在は、風のうしろを歩むものと名乗ったあの少女、魚人、そしておそらく弓の射手である。  結論:以上の中で、僕の味方をする者は、管理人さん以外に存在しない。   これもまた穴だらけだ。  消去法が正しいためには、あらかじめ全ての可能性を網羅していることが前提だが、そんなことは現実には有り得ない。 推理に消去法は意味がないのだ。   だが、それでも。 僕は、目の前の隻腕の人形が、管理人さんに思えて仕方なかった。  僕は、傍らに落ちていた、あの象牙の腕を拾い上げる。 これは右腕。 ヒトガタの腕は左腕だ。   もっとも、右腕は、人間そっくりに造形されているのに対し、ヒトガタの左腕は、骨組みの見えた人形然としたものだ。  左手で右腕を受け取ったヒトガタが、己の右肩に、象牙の腕をセットする。 かちり、と、音がして、腕がはまった。  外套の内側。 肋骨の中で、どくん、と、赤い血が脈打った。  ヒトガタの右腕が、うっすらと桃色に色づいてゆく。 指先に桃色の爪が現れ、硬い象牙の肌は、柔らかな人肌に変わった。  そこから先は一瞬だった。  仮面は縮んで眼鏡になり、赤い外套がばさりと振られると、それはエプロンに変じ、目の前には……  見慣れた管理人さんが立っていた。  「克綺……クン?」   それは管理人さんから初めて聞く、色濃い疲労の声だった。 「どうしました? だいじょうぶですか?」  「私は、だいじょうぶ」   そう言う内に、管理人さんの顔に、いつもの笑顔がのぞいた。 その笑顔が……あまりにも完璧すぎて、作り物に見えたのは、僕の主観だろうか? 「それより、克綺クン。 ひどい怪我じゃない。大丈夫?」   いつもの笑顔で、いつもの口調で、そう言われて、僕の身体から緊張が抜ける。 どっと疲労が戻ってきた。 鈍い痛みが全身を覆う。 「ほら、びしょぬれ」  管理人さんの手がやさしく髪と服をなで、水気を絞る。 暖かな手が触れたところからは、それだけで水気が退くようだった。 人心地がつく。 「管理人さん」 「なぁに?」  いつもの顔で言われて、僕は、言葉に詰まった。    いったい何から聞けばいい? どう聞けばいい?  あなたは本当に、さっきのヒトガタなんですか? あなたはどうして、そんなに強いんですか? あなたはどうして、魚人たちを殺したんですか? あなたは……。  僕の困った顔を見たのか、管理人さんは、やさしく微笑んだ。 「ごめんなさいね。 今まで内緒にしてきて」 「それは別に構いません。 ただ……僕は、今晩起きたことの意味が、知りたいだけです」 「そうね……歩きながら話しましょうか」 「……はい」  ゆっくりと、僕らは新開発区を歩き出す。 血塗れの死体の山が、やがて、角の向こうに隠れて消える。 「克綺クン、あのお魚さんたちは見たわよね」 「はい」 「世の中にはね。 普通の人には見えないところで、ああいう人外のものが沢山暮らしているの。 沢山といっても、もうずいぶん数は減っちゃったけど」 「人外……ですか。 それはどういうものなのですか?」 「どういったらいいのかしらね。 いろいろなものがいるから。 そうね。日本だと、神様、というのが一番近いかな」 「神様……ですか?」 「そう。克綺クンの通ってる学校のじゃなくて、〈八百万〉《やおよろず》のほうね。 日本だと、確か、犬でも猫でも人でも、えらくなると、みんな神様なのでしょう?」 「……そうだった気もします」 「そんな感じよ」 「そんな感じですか」 「とにかく人間の理解の外にある力を身につけたもの。 それが人外」 「管理人さんは……人外なのですか」 「ええ。さっき見たでしょう」  僕は、管理人さんの両腕を見つめる。  象牙のように硬かった右腕も。 恐るべき武器に変化していた左腕も。 どちらも、面影はなかった。  いつもの、管理人さんの暖かな腕だ。 「人外というのは、想いのかたまりなの。 人が人でいられなくなるほどの。 獣が獣でいられなくなるほど。そして……」 「あの魚人たちも、ですか?」 「そう。昔のことは分からないけれど、人になりたかったお魚さんがいたのか。それとも、お魚みたいに泳ぎたい人がいたのか。 あまりに強い想いのせいで、魚でも人でもない力を身につけた」 「じゃぁ、管理人さんは? 管理人さんは、どんな想いなのですか?」 「私? 私はね。お母さん、かな」 「お母さん?」  僕は首をひねる。 「普段の管理人さんならわかりますが……さっきの姿が、お母さん、なんですか?」 「お母さんはね。子供を護るものよ」  僕は絶句する。 「今は、そうでもないけれど……昔は、よく、あったのよ。 今度みたいに、人外の民が人間を襲うこと」 「その頃は、まだ、人間には力もなかった。 人の身では、とうてい立ち向かえない力が子供を〈攫〉《さら》うなら……人でないものになるしかないでしょう?」  そう言って笑った顔は、何一つ変わらないいつも通りの笑顔で。 それは、僕の空っぽの胸に、こだました。 「いつのことですか?」 「ずっと昔よ。本当に昔のこと」 「昔から、ずっと、なんですか?」 「ええ。いつの時代も子供は可愛いですもの。ね?」 「そうですか」  子を護るために戦う母。 怯える子供を寝かしつけ、寝静まる深夜に異形となって殺戮を繰り広げる、母。 どれほど昔から、この人は戦っていたのだろう。 「恵のため……なんですね」  僕は、振り返る。 積み上げられた死体は、もう見えなかった。 「あら、そんな辛気くさい顔しないで。だって克綺クンも言ってたでしょ?」 「え?」 「犯人を、誰かに捕まえてほしいって」 「……そうですね」  僕は、確かにそう言った。 その何気ない一言のために。 恵の笑顔を得るために。 この人は腕を抜き、血にまみれて戦ったというのか。 「一つ言っておくことがあるんだけど……」 「はい」 「克綺クンはね。 生まれつき、人外に襲われやすい体質をしてるの」 「体質……ですか?」 「ええ。人外は、人間を食べて力をつけようというものが多いのだけど……克綺クンの身体には、すごい魔力が含まれてるの」 「僕を食べたがってるんですか?」 「そういうこと」 「ひょっとして、恵が事故に遭ったのも……」 「たぶん」  管理人さんは、言いにくそうに言った。 「克綺クンと間違われたんでしょうね」 「そうですか……」  胸が重くなった。 論理的には不可抗力だ。 だが、気分が悪いことには変わりない。  うつむいた僕を、管理人さんが抱き寄せた。 「安心して。 克綺クンも、恵ちゃんも、私が絶対護ってあげるから」  柔らかな胸が、暖かな腕が、僕を埋めた。 すうと息を吐くと、胸のつかえが、少しだけ取れた。 「じゃぁ、先に帰っててくれる?」  「え?」  「私、ちょっと寄るところがあるから」  「どこですか?」  「……魚人の巣」  「僕も行きます」   僕は、そう言っていた。 「危ないわよ!」   管理人さんがいう。  「帰り道には、軍隊がうろついています。 不審人物と見られたら銃で撃たれるでしょう」  「でも……」 「管理人さんのそばにいるほうが安全です」  「じゃぁ家まで送ってあげるから……」  「恵のことです。 足手まといになるかもしれませんが……僕は、最後まで、見届けたい」   管理人さんは、しばらく考えて、そして、うなずいた。 「じゃぁ、絶対に私のそばを離れちゃだめよ。 約束してくれる?」  「はい!」  「それじゃ、行きましょうか」   いつもの笑顔。 まるで買い物にでも行くように、管理人さんは、そう言った。  しばらく歩く内に、蓋のあいたマンホールが見つかった。 「ここから行くわ」  錆びた梯子を、管理人さんは、危なげなく降りていく。 僕も、その後に続いた。       時刻は夜だ。 数メートルも降りると、外の灯りは届かず、目の前は真の闇に閉ざされた。 冷たい鉄棒を掴む指の感触が薄れ、登っているのか降っているのかも、段々とわからなくなる。   朦朧とした意識の中で、手と足を機械的に動かす内に。  指が滑ったのか、足が先か。  気が付くと、僕の上半身は宙に浮いていた。  アドレナリンが覚醒を促す。 眼を見開いて腕を伸ばすが、闇の中のこと。 指が触れたのは梯子段ではなく、つるつるとした壁だった。 「あっ」  悲鳴が口から響いた頃には、全身は闇の中に落下していた。 底の知れない闇の中で、ただ、ふわりと下からの風に吹かれ、首筋がざわざわと揺れた。 「よいしょっと」  右腕が引かれ、身体全体が、がくり、と、静止する。  はしご段に肩からぶつかり、目の奥に火花が散った。 「だいじょうぶ、克綺クン?」  上のほうから声がした。管理人さんの声。 「すべるものね、この梯子。 灯り持ってくればよかったわね」  ぼくはといえば、喉にせりあがった大きな塊を、なんとか飲み下す。 「はい……そうですね」 「もう少し、降りるのよね、あ、そうだ」  その一言とともに、僕は、かろやかに引っ張り上げられる。  胸が、何か暖かいものに触れる。  抱きすくめられた、と、気づく。 「腕、動く?」  僕は夢中でうなずく。 両腕で、僕は管理人さんの首にしがみつく。  闇の中で僕は、暖かな二つの膨らみに顔を埋めていた。 管理人さんが、片手でそっと僕の腰を持ち上げる。 「じゃ、降りるわよ」  そのまま管理人さんは、僕を抱きしめたまま片足で降りはじめた。  柔らかなリズムに揺られる。 暖かな空気に包まれる。 頭の中がふわふわとする。 「あの……重くないですか?」 「克綺クンは心配性ね」  声は、耳元から響いた。 「我がものと、思えば軽し、傘の雪ってね。 抱いた子供が重いわけないじゃない」 「僕は管理人さんの子供ではありません」 「言ったでしょ。 大家といえば親も同然。店子といえば、子も同然。 遠慮しないで、子供らしくしなさい」 「議論の余地はあると思いますが、お言葉に甘えます」  管理人さんの小さな笑い声。 それきり、声は絶えた。     そうして僕らは闇の中を降りていった。 僕の重さを片手で支えながら、管理人さんは足音さえも立てずに静かに梯子を降った。 暗い闇に溶け込んで、胸に顔を埋めていると、何もかもが闇に溶け込みそうで、肌がとろけていくような気がした。 生まれる前は、こんな気持ちだったのだろうか。 静寂の中で響く、小さなリズム。 とくん、という響き。 心臓の、鼓動。 耳元に響く柔らかな声は、ゆるやかに時間を包み込んでいた。     その音に応える響きがあった。 かちり、かちり、と、響く音。 胸の中の金時計。 正確なほどに時を切り刻む秒針。   ──僕には心臓がない。   時計の音はあまりにも冷たくて。管理人さんの鼓動の中で、僕は、自分の胸が空っぽであることを意識した。 空っぽの胸の中に、響き続ける時計の音。 なぜだか、涙が出た。 「どうしたの?」  おだやかな声に僕は、うろたえた。 涙を、こんな理由もない涙を管理人さんに見せたくなかった。 「何か、悲しいことでもあった?」 「なんでもありません……ただ」  僕は、足を段にかけ、胸から時計を取りだした。 「心臓がないのが、悲しくなったんです。 僕には、この時計しかない」   意味不明の感想を、それでも管理人さんは笑ったりしなかった。 「あら、綺麗な心臓じゃない」 「冷たくて、硬い心臓です……」  遙か上からの星の光。 それを受けて、時計は一瞬だけきらりと光った。 「そんなことないわよ」  管理人さんの声は、春の風のよう。 「金色で、すべすべしてて、ピカピカで。 働き者でまじめさんな心臓ね。 克綺クン、そっくりよ」 「そう、でしょうか」 「ええ。 とてもいい心臓だと思うわ」  僕は、金時計を胸にしまう。 管理人さんも、ゆっくりと降りだした。  金時計の音は、相変わらず規則的で冷徹だったが、少しだけ誇らかに響いた。 「着くわよ」  その言葉とともに、僕の足は、冷たく濡れた大地を踏みしめた。 ゆっくりと足に体重をかけ、管理人さんから身を離す。 「ここは……」  相変わらず真っ暗で、僕は何も見えない。 ただ、ごうごうと水の流れる音が聞こえた。 「下水の岸。落ちると危ないわよ」  さっさと、管理人さんが、僕の手を握る。 暖かで柔らかな右手。 僕の手は、少しだけ汗ばんだ。  どれだけ優しく手を引かれていても、闇の中で歩くというのは、不安なものだ。 その気持ちをまぎらすために、僕は、かすれた声を出す。 「魚人……でてきませんね」 「さっきので、最後だったのかもね」 「じゃぁ……もう、いいんじゃないですか?」 「いいえ。巣には、親玉がいるわ」 「親玉……ですか?」 「ええ。一番強いのよ」  あの魚人より強大なもの。 僕は、想像して嫌な気分になる。 「さ、もう少しよ。少し、目をつぶっていて」  言われるままに僕は目をつぶる。 真っ暗闇の中を歩いてきたあとだ。 そんなことは何でもない。  管理人さんに手を引かれて歩いていると、急に、風が変わった。 下水流の水音が遠ざかり、空気がもっと湿った、暑いものに変わる。  ぺきり、と、足下で、何かが折れる。まるで枯れ枝のように。 「もう少しよ」  管理人さんの言葉にはげまされて、僕は、歩き続ける。  足下の床は、ねばつくようで。 そのくせ、枯れ枝はポキポキと音を立てた。  だから、それが終わった時は、ほっとした。 「さ、目を開けて」  声をかけられる前から、僕には着いたことが分かった。 空気が、急に涼しく冷たく、清浄なものになったからだ。 ぷんとただよう水の匂いは、かぐわしく、高原の湖に来たような気がした。  僕は、ゆっくりと目を見開く。  光が、あった。 目の前には、蒼い水をたたえた湖があり、その前には白い砂浜が広がっている。 「ここですか?」 「ええ」  管理人さんが、僕のそばにしゃがむ。 右腕で砂浜に、僕を囲む小さな円を描いた。 「いい、ここから絶対、出ちゃだめよ」  「……はい」   僕は上の空で返事をする。  水が、湖の水面が、一瞬に深紅に染まる。  真っ赤な水面が、大きく盛り上がった。 それは、ありえないほどの膨らみをみせ、なお上昇する。 まるでゴムの膜のように、信じられない高さまで盛り上がっていた。 「克綺クン?」  「はい」  「これ、預かっててくれる?」   管理人さんが差しだしたのは、その右腕だった。  「は……い」  生返事で、僕は管理人さんの手を取った。  かたり、と、音を立てて、腕が外れ、僕の手に残る。 暖かい管理人さんの右腕が、みるみる血の気を失い象牙色の棒となる。   それと同時に管理人さんが……。  僕は、目をそらした。  管理人さんが、あの、無慈悲な機械に変わる様を、僕は見たくなかった。 両手で右腕を抱いていたから、耳まではふさげなかった。  ごきり、と、何かがねじ曲がる音がする。  かちり、と、歯車がはまる。  鉄板を引きずるような音とともに、すべての機関が動き始める。  最後に、深い、深い排気音。  顔を上げれば、目の前に立っていたのは、あのヒトガタ。 深紅の外套と、象牙色の手足。  その仮面は心を映さず、故に、無慈悲。 研ぎ澄まされたナイフのように、鋭い機能美。  ヒトガタの後ろで、深紅の水面が砕けた。  巨大な卵のような水が、ぬめ光る魚人を生み出す。 ぬめぬめとした鱗を持った巨大な胴体。  その先端には、あたかも船首像のように、女ににた何かがそびえていた。 見上げるほど高みから見下ろすその瞳は、真っ赤な涙を流しながら、ただ凍てついた視線を浴びせていた。  それは。 女に似た何かは、大きく口を開けて哭いた。 澄んだ、信じられないほど高い音色の叫びが洞窟の中に響き渡る。  それほどまでに力強い、それほどまでに大きな声。 けれど僕は、それが、雨に濡れた仔猫の鳴き声に聞こえた。  悲しみ。孤独。不安。 思わず、膝が崩れる。 僕は、守護円の中にうずくまった。  ヒトガタが動く。 叫びの重さを意に介さぬ、いつもどおりの、ゆっくりとした足取り。   意味が、脳に響く。   それが、戦闘開始の合図だった。  人魚の腕が閃くと、水面が尖った。 一つ、二つ……六つ。  一本一本が人の身体ほどもある巨大な錐は、宙に飛び出すと、方向を変え、ヒトガタを狙い撃つ。  ヒトガタが跳んだ。  左腕を振って銃に変え、片端から錐を撃ち飛ばす。 轟音が洞窟を震わせ、錐の四、五本が砕けて水に戻る。  残りの一本が、ヒトガタを捕らえる。 空中でヒトガタを打ちすえ、水の錐は、爆発した。  水滴が飛び散り、僕の顔を打った。 オイルまじりの水。 それがヒトガタの血と理解する。  ヒトガタが立ち上がった。 胴体だけが、立ち上がった。 右足は取れ、左腕と頭部も、胴体のそばに散らばっていた。  腕が動く。 まるで、フィルムを逆に再生するように、独りでにヒトガタにくっつく。  カチリ、と、音を立てて、頭がはまった。  人魚が歌う。 数を増した水の錐。   数十に及ぶそれが、四方八方からヒトガタを襲った。  ゆっくりと。 ゆっくりとヒトガタは歩いた。  機械仕掛けの、堅実な歩み。 だがその歩みは、水の錐の包囲をやすやすと突破する。  左腕が天を向く。 目標を失い、空中で交叉した水の錐を、銃弾はやすやすと撃ち抜いた。  しぶきが洞窟全体を満たした。 僕は頭から水をかぶって、目をしばたく。  まぶたを開いた時には。 ヒトガタは、もう砂浜にはいなかった。  いかなる方法で水面を渡ったのか。  それは、人魚の胴体に立っていた。  否。 尖った両足は、その鱗をえぐり、肉にまでめりこんでいた。  再び銃声。 青黒い血が宙に花を咲かせ、人魚の胴体に、子供ほどの穴が開く。   人魚が再び悲鳴を上げる。 胴体を大きく水面に打ち付けるが、人形は微動だにしない。  いや、動いている。  一歩進むごとに、尖った足先が鱗をえぐる。 血を噴かす。  それは、機械のように着実に、時間のように容赦なく、人魚の上半身に近づいていた。  ――HAAAAAAA!   悲鳴とともに、人魚が振り返る。 長い腕をヒトガタに向けると、その腕に水が螺旋に巻き付く。 肩から指先まで巻き付いた水は、ばねのように、大きくたわむと、次の瞬間、鋭い槍となってヒトガタを襲った。  澄んだ音が響いた。 長く伸びた水の槍。 その先端を、ヒトガタは四本の指で掴んでいた。   ぐい、と、無造作に引っ張る。  ごきゅり。 胸の悪くなるような音とともに、人魚の右腕が、引っこ抜かれた。   それは水面に落ちて、ぱしゃりと音を立てる。  ――KYEEEEEE!  一瞬遅れて、つんざくような悲鳴が轟いた。  洞窟の天井がぐらぐらと揺れ、岩が落ち始める。 僕は、象牙の腕を地面に置き、両腕で耳をふさいだ。  ヒトガタは、その瞬間、胴体を蹴っていた。  かしゃり、と、音を立てて、腕が銃に変わる。 空中で、人魚の上半身に銃を向ける。  爆発音と共に、唐突に悲鳴が途切れた。 ヒトガタの一撃は、人魚の胴体に大きな穴を開けていた。  ヒトガタは、胴体に着地する。 再び、歩き始める。  ヒトガタは。 ヒトガタは──。  微塵も急がず、ただ、ひたすらに破壊に向けて歩く姿に、背が寒くなった。  ヒトガタ。 管理人さん。 その二つを並べて考えるだけで、頭がくらくらした。  管理人さんにとって、母にとって。 子供を守る力が必要なことはわかる。 子供を護るために修羅となる。 それが、あの姿なのだろう。  だから、強さはいい。 それはわかる。 戦いに慈悲は不要だろう。 ためらいも要らない。  だけど、それにしても。 子を護る母親には、暖かな祈りや愛があるのではないか。 あるいは、底なしにどす黒い、怒りや憎しみがあるのではないか。  目の前の殺戮は、あまりにも機械じみていて。 愛も祈りも怒りも憎しみさえも、まったく感じられなかった。 「──管理人さん」  僕は、小声で囁いていた。 「管理人さん?」  戦闘のさなかに声をかける愚かさ。 それは分かっている。分かった上で。 僕は確認せざるを得なかった。  目の前のそれが、本当に管理人さんなのか。 それが確かめたかった。  ヒトガタは、振り向かない。 ヒトガタは、揺れもしない。  それは、人魚の、もう一本の腕をちぎり取ると、胴体に、一歩一歩血の足印をしるしながら、穴のあいた上半身へゆっくりと距離を詰めた。  目の前の人魚が。 恵から笑顔を奪ったその原因だとわかっていても。 僕は、その足取りを見るのが耐えられなかった。 「管理人さん!」   そう叫んだ時は、一歩踏み出していた。 足先が、管理人さんの描いた守護円を、わずかにはみだす。   ──途端。  人魚が動いた! それは一瞬で宙に舞った。  巨大な下半身を、脱ぎ捨て、スレンダーな身体を見せて宙に舞う。 それは、宙を滑るように跳ぶ。  僕の方へ!  後を追うように、ヒトガタが跳ぶ。 宙からの射撃。  二発。三発。 その一発一発は、人魚の身体を、大きくまるくえぐりとった。 尾びれがちぎれ、左胸をすかして向こうが見えた。 遅れて砂浜が散弾で爆ぜる。  人魚は、宙でよじるように僕を狙う。 かっと開かれたその口には鋭い牙が生えていた。  僕と人魚とヒトガタが一直線に並ぶ。  瞬間。 僕は、人魚と共に撃たれることを覚悟した。  だが銃声はいつまでたっても響かず。 僕と人魚は、もつれあって倒れ込む。  冷たい右胸が、僕の上で潰れる。 大きく開いた唇の中に、鋭い歯が見えた。  牙が、喉につきたてられる。  そう、悟って目を閉じた。  だが、痛みは、いつまでたっても訪れなかった。 代わりに、僕の唇に、冷たく柔らかなものが触れた。  ごぶり、と、口の中に血があふれる。 人魚の蒼い体液。 それは、海のように塩辛く、喉を灼いて僕の胸まで降った。  とっさのことに狼狽して身体を動かす。 と、人魚の唇が、退いた。  まぶたを、開く。  目の前にあったのは、針の切っ先だった。 ヒトガタの指から伸びた針が、人魚を貫き、空中に縫い止めていた。  四本の針が、人魚の胴体から顔までを貫き、その針の先から僕に向かって血が滴っていた。  ──熱い。  身体に触れた血は、まるで電気のように身体を疼かせた。  血を滴らせた人魚が、断末魔の苦悶に身をよじる。 その血はあまりにも甘美で、僕は、両手を広げ、一滴余さず、血を受け止めた。  血が止まる。 否。  人魚は、宙に舞っていた。 ヒトガタが腕を振ったのだ。  全身を貫く針が動く。 ヒトガタの手首に従い、四本の針は精妙に動いた。  人魚の身体が、ミリ単位で解体される。  最後にそれは、肉塊となって、湖に落ちた。  僕の脳裡に字が刻まれる。 なぜだか僕は、吐き気がした。 足下の腕を、掴む。  近づいてきたヒトガタに腕を渡し、僕は目を背けた。 「克綺クン、だいじょうぶ?」  その言葉とともに、僕は抱きすくめられる。 「平気です……少し、血をかぶっただけで」  血をかぶった? 肌も制服も乾いていた。 あれだけ浴びたはずの蒼い血糊は、一滴も残っていなかった。 「よかった……」  「ご心配、おかけしました」   守護円から出たのは、僕の責任だ。  「いいのよ、克綺クンが無事なら。 さ、帰りましょうか」  「はい」  管理人さんに手を引かれながら、僕らは、ゆっくりと浜辺を歩いた。  背後で、ゆっくりと天井が崩れ始める。  目をつぶって、あの生臭い廊下を抜ける間、背後で、何かが崩れるような音が響いた。  それだけだった。  家に、着いた。 星の光を浴びて建つメゾンを見て、僕は、深い溜息をついた。 「どうかした?」  「いえ。帰ってきたな、って思ったんです」  「そうね……いろいろ、あったものね」  「ええ……」 「ただいま」 「ただいま」  誰にともなく、僕らは言う。 「疲れたでしょ。お夜食、食べる?」 「いえ、結構です」  正直、腹が空いていないわけでもなかったが、手足がだるかった。 ベッドにつけば、すぐに眠れるだろう。  暗い廊下に灯りをつけ、僕は二階に走った。  軽くシャワーを浴びて着替えてから、恵の部屋の扉を、軽く開ける。  足音を忍ばせて近づき、恵の寝顔を確認する。  その顔は、やすらかで、曇りがなかった。  ──もう大丈夫だ。 おまえを悩ます悪夢は、もういない。 すべては夜の底に葬られた。 ゆっくり、眠れ。  僕は、ずれていた布団をかけてやる。  幼く見えるその顔の髪をかきあげて。 一瞬の衝動。  胸が、とくんと、脈打った。 僕は、その小さな桃色の唇に口づけた。  ついばむような一瞬のくちづけ。 恵の眉がひそめられる頃には、僕は顔を上げていた。  ──何をした? 自分のしたことの意味が、わからなかった。 「うっ……ううん」  一瞬、乱れた恵の吐息に、鼓動が騒いだ。  だが、恵は目覚めなかった。 ゆっくりと落ち着く寝息。 それを確認してから、僕は足音をひそめ、部屋に戻った。  部屋に戻ってベッドに倒れ込んでも、動悸は止まらなかった。 僕は、夜食を頼まなかったことを後悔した。  夜は長く、すぐには眠れそうになかったからだ。   海東学園。 創立は古く、外見は古風だが、私学ということもあり、環境は整備されている。 教室は冷暖房を完備しており、コンピュータルーム、視聴覚室には、おしげもない予算が注ぎ込まれている。 そんな学園の中で、ただ一カ所、創立当時の姿を残している場所がある。 それが、図書室だ。 膨大な書籍を移転する手間から、図書室だけは、古びた書架と木の床を残していた。   今、その図書室の前に、静かに男が立っていた。  メルクリアーリは、音もなく図書室の扉を開ける。   窓のない図書室。 真の闇の中を、メルクリアーリは、しっかりとした足取りで歩む。 迷路のような書架を抜け、小さなアーチをくぐり、鍵のかかった扉を幾つも開き、やがて、鋼鉄の扉の前に立つ。   プレートには、特別閲覧室、と、あった。 重く、錆び付いた扉は、しかし、よく油が差してあり、音も立てず開いた。  メルクリアーリが指を振る。 その爪の先に炎が宿り、〈壁龕〉《へきがん》の蝋燭を点火した。  黄色い光が、ゆっくりと室内を照らし出す。  質素な石造りの部屋。  部屋の中心にいるのは少年だった。  愛くるしい黄金色の巻き毛。 その赤い瞳は、しかし、何も映していなかった。 蝋燭の炎もメルクリアーリにも向かず、ただ、手にした薄い本を見つめている。  少年の服は、黒一色のローブ。 聖歌隊にも似た質素なものだ。  そして、その全身は……細い、黄金色の鎖で、幾重にも巻かれ、天井と床につながれていた。  鎖はあまりにも細く、少年の力でさえ軽く引きちぎれそうだったが、少年は微動だにせず、ただ、手元の本に目を落としていた。 「〈闇の聖母よ〉《Hail,our lady in Darkness》」  メルクリアーリが唱える。 「〈王は御身とともにありて〉《The Lords are with thee》」  「〈王ならざる汝は祝せられ〉《Blessed art thou among Nephilim》」  「〈その孕みし果実は呪われん〉《and cursed is the Fruit of Forbidden》」 「〈闇の聖母よ、我ら人ならざるもののために祈り給え〉《Our lady of Darkness,pray for us,Nephilim》」  「〈今も、そして、終末の時も〉《Now and at the end of time》」  「〈かくあれかし〉《Amen》」  メルクリアーリの一言ずつに、黄金色の鎖は輝き、やがて、少年の体内に吸い込まれる。  いまや、少年は縛られてはいなかった。 ただ、少年の身体から放射状に伸びた無数の鎖が、天井、壁、床に、吸い込まれる。   その鎖の一本が伸びて、メルクリアーリの身体を這い回る。  わずかののち、鎖は、少年の胸に吸い込まれた。 「〈暗証〉《パスコード》認識。 メルクリアーリ・ジョヴァンニ、認証完了」   薔薇色の唇が言葉を紡ぐ。 声は鈴をふるようだった。  「質問をどうぞ」   メルクリアーリは、ついと息をついた。 「狭祭市の勢力状況についてアップデートを。経済および武力面での分析をお願いします。まずは、そう、ストラスの戦闘部隊と、あの魚人たちですね」  薔薇色の唇が再び言葉を紡ぐ。 メルクリアーリは、それに耳を傾けた。  詳細かつ正確な報告に耳を澄ます内に。 その顔に、ゆっくりと笑みが、浮かんだ。  それは、邪悪な笑みだった。  朝、目が覚めた。最悪の目覚めだった。 昨日の無茶で全身が痛む。 おまけに寝不足で頭痛がする。 それでも、目覚ましより五分早く目覚めるのだから、因果なものだ。  制服を着る時、妙なことに気づく。 怪我が、ない。  転んで溺れてすりむいて。 あちこち、血が出ていたはずだが、身体には、かさぶたの一つもなかった。  念のため、鏡でチェックするが、どこにも、傷跡はない。  こうしてみると、全部が夢だったような気がする。 あわてて、衣類入れを確かめる。  昨日着た制服。 こっちのほうは、やはり、傷だらけだった。 下水の臭いや潮の臭いが染みついて、着られたものじゃない。 「克綺ク〜ン、恵ちゃん。朝ご飯よ〜」 「今、行きます」  下からかかる管理人さんの声に、僕は、うなずいた。 「あ……」   廊下で恵と出会う。  「もう、いいのか?」  「なにが?」  「朝ご飯。 ベッドで食べるかと思ったんだが」 「だいじょうぶ。 今日は調子がいいんだ」   そう言った恵の顔には、年相応の落ち着きが戻っている。 欲目かもしれないが、そんな風に見えた。  「それは、よかった。 じゃぁ、行くか」  「うん」 「階段、気をつけろよ」  「もう、子供じゃないんだから」  それでも差し出された手を僕は握って、ゆっくりと階段を降りた。 「いただきまーす」 「めしあがれ」  今日の朝食は、オムライス。   ふわりと丸いオムライスは、スプーンで触れると、さくりと分かれた。 ライスはスパイスが入ったカレー仕立てで、とろりとした半熟の卵と良くあった。  つけあわせは、ラムチョップ。   じっくりと煮込み、そして蒸されたラムチョップは、箸で触れるだけで肉が剥がれた。   たっぷりとした肉汁はそのままに、脂だけ落とした淡泊な味は、朝食にぴったりで、オムライスとの相性も最高だった。   ……これだけの料理を作るには、昨日の深夜から下ごしらえがいっただろうに。  目の前の管理人さんは、全く疲れた様子がなかった。 その理由を、僕は、昨日知ったわけだ。 管理人さんは。   ──人じゃない。   どれだけ徹夜で恵を看病しても、管理人さんにとっては、文字通り楽なことなのだろう。 ――克綺クンは心配しないで。   その言葉が耳の奥で響く。  あれは、本当に、文字通りの意味だったのだろう。  「……お兄ちゃん」   だけど、今、目の前の管理人さんを見ても。 昨日の夜の悪夢。 魚人を虐殺するヒトガタの姿は、浮かんでこなかった。 「お兄ちゃん?」   優しい顔で、ミネストローネをよそう管理人さんの横顔。 どれだけ見つめても、あの無表情な仮面には結びつかない。 「お兄ちゃん!」  「……何だ、恵?」  「もう、さっきから、どこ見てるのよ?」   じっと見つめる瞳。 それに、尖らせた唇。  とくん。 胸の奥で、心臓が脈打つ。 「管理人さんを観察していた」   恵が、テーブルの下で、僕の足を蹴る。  「ちゃんと、ごはん、食べなさい!」  「そうする」  僕らを見て、管理人さんが、くすりと笑う。  「恵ちゃん、元気になったわね」  「ご心配おかけしました」  そう言った恵の顔は、本当に、いつもの恵で、僕は、衝動的に抱きしめていた。 「……」  柔らかな、とても柔らかで小さな肩。 僕の腕の中にすっぽりと収まる小さな恵。  胸に、恵の心臓の音がこだまする。 それは、僕の心臓の音と共鳴した。 「……お、お兄ちゃん?」 「なんだ?」 「なにしてる、の?」 「恵が回復したことを喜んでいる」 「わ、わかったけど、もう、放して」 「そうしよう」  僕は、しぶしぶと腕を解く。 恵の顔は、真っ赤だった。  「きゅ、急に、何するのよ。 びっくりしたじゃない」  「ふむ。これからは、あらかじめ予告するようにしよう」 「お兄ちゃん……どうしたの? 変だよ?」  「そうか?」  「まぁまぁ。 克綺クンも、嬉しかったんでしょ?」  「はい」 「そっか……お兄ちゃんにも心配かけたよね」  「あぁ。非常に心配していた」  「……そういうとこは、元のお兄ちゃんだね」 「ふむ。僕の受け答えは、通常の人間の行動基準に照らすとおかしかったわけだな。 ああいう時は、何と言えば良かったんだ?」  「いいよ、気にしなくて。 お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだし」  「わかった。 気にしないことにする」  僕は、スープの最後を飲み干す。 「ごちそうさまでした。 それじゃ、行ってきます」 「いってらっしゃい」  「いってらっしゃい」 「恵、一人で大丈夫か?」  「うん、もう、大丈夫」  「そうか」  「どうしてか知らないけど……もう、大丈夫って気がするの」  「あぁ、そうだろう。 きっともう、大丈夫だ」   僕がうなずくと、恵は意外そうな顔をした。 「どうした?」  「ううん。お兄ちゃんにしては、あっさり肯定したね」  「してはいけないのか?」  「それは非論理的だ、とか、昨日も今日も危険の確率は変わらない、とか、そういうこと言うかと思った」 「たまには、そういうこともある」  「たまにはね」   恵は考え込むような顔でうなずいた。 「じゃぁ、行くぞ」  「うん、行ってらっしゃい」   その笑顔が、妙に脳裏に焼き付いた。 「よぉ!」  聞き慣れた声とともに、どん、と、背中が叩かれた。 「何をする!」   僕は振り返って、こづき返す。 「……痛ぅっっ!」  「どうした? 平気か?」  「こら克綺! てめぇ自分で殴っておいて、平気かとはなんでい!」  「ふむ」  「ふむじゃねぇ!」 「反射的な行動だ。 そして、先に触れたのは君だ」  「ありゃ、おめぇ、なんだ。 スキンシップってゆうやつだよ」  「暴力かどうかは、この場合、被害者が判断すべきことだ。 そして僕は、あれを程度は低いもののある種の暴力と認識した」  「……腹立ったんなら、悪かったけどよ」 「殴り返したのは僕も同じだ。 あやまろう。 すまない、峰雪」  「そりゃいいが、どうした? 虫の居所でも悪ぃのか?」  「どうしたんだろうな」   僕は考えこむ。 「峰雪が身体的接触に訴えかけることの多い粗暴な性格であることは、よく知っている。 普段は腹も立たないのだが」  「誰が、粗暴だ、おい」  「なぜか、今日は、腹が立った。 といって、別に、気分が悪いわけではない」  「悪くないのか?」 「あぁ。恵の調子が、だいぶ良くなったんでな」  「そか。そりゃぁ、よかった」   峰雪が、うんうんとうなずく。 「昨日は、学校休むとか言ってたからな。心配したぜ」  「心配の必要はない」  「……しかし、事件がまだ終わったわけじゃねぇしなぁ。大変だよな」  「終わったぞ」  「なに?」   こと僕と恵に関する限り、事件は終わったわけだが……峰雪にそれを説明する術がないことに、僕は気づく。 「……気にするな」  「気になるっつーの! 昨日の晩も、ひどかったらしいぞ」  「あぁ、ひどかったな。 だが、もう終わったことだ」 「克綺! おまえ、何か知ってるだろ」  「知ってるな」  「教えろ」  「拒否する」  「なんで」 「個人のプライバシーが関わっているからな。 知る必要のない人間には教えられない」  「まぁ、いいけどな」 「あれ、九門君」   教室で声をかけてきたのは牧本さんだった。  「おはよう、牧本さん」  「学校休むんじゃなかったの?」  「思いのほか、恵の調子が良くてな」 「そうなんだ。よかったね」  「あぁ、非常によかった」   牧本さんの微笑み。  胸が、どくんと、高鳴った。 その微笑みは快く、僕は、それをずっと見ていたいと思う。 見る以上のことを、したいと思う。  牧本さんが席に戻る、その、肩が。 うなじが。僕の目をとらえて放さない。   ──妙だ。   どうも今日は、調子がおかしい。 今まで感じたことのない矛盾した気持ちが胸の中にある。 「なぁ、峰雪?」  「なんでぇ?」  「特に理由もなく、他人が意識されて、浮き立つような気持ちと焦燥感を同時に味わうことを、なんて言うんだ?」  峰雪が妙な顔をして、僕のほうを、まじまじと覗き込む。  「克綺。おめぇ、どっか……頭でも打ったか?」  「頭を打つとこうなるのか?」   そういえば、昨日の晩、何度か頭を打った。  「誰かに惚れたか?」   峰雪が声を潜める。 自然、僕の答えも小さくなる。 「恋に落ちるということは、特定の異性が気になる状態を含むな。 とすれば違う。 特定の異性に恋に落ちたわけじゃない」  「不特定か?」  「そうだ。不特定多数だ」  「そうか」   峰雪は、失礼にも僕の肩に手を置いて、しみじみと呟いた。 「克綺も、とうとう大人になったか」  「大人の定義によるな。 君は何が言いたいんだ?」  「わけもなく、もやもやすんだろ? 女見てどきどきすんだろ? 男見てぶんなぐりたくなんだろ?」 「……ふむ。 いささか単純化がすぎるが、客観的に自分の行動を観察する限り、その通りだ」  「おめぇにも春が来たって話だよ」   春が来た……今の季節は秋だから、文字通りの意味ではないだろう。 となると、つまり。 「僕は発情しているのか?」  「バ、バカ! てめぇ、そういう事を口に出すな」  「自分の状況は把握しておきたい。 そうか。僕は発情しているのだな」  「まぁ、そうなんじゃねぇか?」   なぜか、えらく投げ遣りに峰雪が言う。 「しかし……なぜだ?」  「なぜってなにがだ?」  「昨日までは、こんな気持ちはなかったんだが」  「おめぇが遅すぎんだよ。 誰でも大人になっと、そういう思いをするようになんだよ」  「そういうものか」 「そういうもんだ」   峰雪は大仰にうなずき、僕も納得した。 「なにか、注意事項はあるか?」  「ちゅ、注意事項ってな、なんだ?」  「峰雪は、この状態を通過したのだろう?」  「通過してねぇ! 俺の青春は、まだ終わっちゃいねぇ!」  「ともあれ、僕より経験が深いわけだ」  「お、おうよ」 「僕にとっては初めて経験する状況であるが故に、経験深い先人として、何か助言があればありがたい」  「助言なぁ……まぁ一度しかねぇ時だ。 後悔のないように、せいぜいやりな」  「了解した。 己の快楽に忠実に生きようと思う」  「……ま、犯罪にだけは走るな」 「奇妙なことを言うな。 どうして僕が犯罪を犯す?」  「……まぁ、恥と汗は掻くほどいいってな」   投げ遣りな声に、僕は肩をすくめた。  ちょうどその時、チャイムが鳴る。  妙な気分は、時間を追って強くなっていくようだった。 授業が終わっても、胸の中の妙な焦燥感は強まるばかりだった。 喧騒に満ちたクラスから、声が響いた。 「克綺。メシ喰おうぜ」  「弁当だが?」  「あ、私もお弁当」  「屋上でも行くか?」  「ふむ。構わん」 「いただきます」  今日は天気もよく、屋上もほどよく温まっていた。  僕は、弁当箱の蓋を開ける。 卵焼き、唐揚げ、塩鮭、ひじきと胡麻の煮付け。 非の打ち所のない和風弁当といえよう。 「その弁当、管理人さんが作ったのか?」  「そうだが?」  「一個寄越せ」  「交換だ」   僕は、峰雪の弁当をのぞきこむ。 峰雪の弁当は、ゆで卵に、おにぎり3つを包んだものだ。 「おら」   峰雪は、おにぎりを半分に割って寄越した。  「梅おかか握りだ。 ありがたく喰らいやがれ」  「よかろう」   僕は、唐揚げを一つ渡す。 「私も欲しいな」  「どれかな?」  「卵焼き」   僕は、牧本さんのお弁当箱をのぞきこむ。 クリーム色の小さなお弁当箱には、色とりどりのおかずが入っていた。 「アスパラ1本」  「いいわよ」   交渉成立。 「克綺、あれから調子はどうだ?」  峰雪が聞く。 「調子か。奇妙だ」 「そうか。まぁ養生しろや」 「どうしたの?」  「いや、ま……」  「峰雪によると、僕は、発情しているらしい」  「そっそっそ……」  牧本さんがご飯を喉につまらせる。 「だいじょぶか、ほら、お茶」  峰雪が、水筒の茶を渡す。 「……あ、ありがと」   真っ赤な顔をしている。 よほど息が苦しかったらしい。  「どうかしたのか?」  「う、うん。九門君、なにかあったの?」  「今朝から調子がおかしい」  僕は、峰雪に言ったようなことを説明した。 最初は、妙に目を伏せていた牧本さんだが、きちんと聞いてくれて、最後にはまじめにうなずいた。  「うん……急に意識しちゃうことってあるよね」 「こいつみてぇのは、そうそうねぇと思うがな」   峰雪が茶々をいれる。  「持て余すものだな。 性欲というのは」  「調子狂うから、真顔で言うな」   峰雪は、溜息をつく。 「妄想が邪魔して思考に支障を来す。 今この瞬間も」  「いいかげんにしろっ!」   峰雪がかるく頭をはたく。  「痛いぞっ!」   拳を握り、殴り返す。  その瞬間、まずい、と、思った。 腕には感じたこともない力がみなぎっている。 先端が火のように熱く、ぴしりと空気の裂ける音が響く。  ──これが当たると…… 腕を振りながら思う。  ──人は死ぬのではないか。 「っつぁっ!」  峰雪がのけぞりながら、僕の腕をいなす。  ベクトルは修整され、腕は大地にめり込んだ。  痛みはない。 ただ、拳の先で、何かが砕ける感触がした。 鈍い響きが、床を伝わってゆく。 じんじんという揺れが、僕の足にも届く。 「っぶねぇ……」   峰雪は、顔面蒼白で、座る位置をずらした。 腕を引っ張り出す。 指の骨は砕けていない。 「なに……どうしたの? 九門君、大丈夫?」   牧本さんが僕のほうを向く。  「驚くべきことに平気だ」  「平気なわけないじゃない。 今、思いきり床殴らなかった?」  「この通りだ」  僕が見せると、牧本さんが、両手で僕の拳に触れる。  細い指が僕の指に絡むその感覚は甘美で。 僕の鼓動が大きくなった。  「平気……みたいね」 「殴られた俺も心配してくれ」   峰雪がぼやく。  「あ、峰雪君も、平気?」  「まぁ平気だけどな。 克綺、テメェ、いつから、そんないいパンチ打つようになった?」 「知らん。発情すると、こうなるのか?」  「こっちが聞きてぇよ」   そう言って、峰雪は、吹きだした。   牧本さんも、不安げな顔で少し笑う。 「その指、一応診てもらったほうがいいんじゃないかな? 保健室、行く?」   牧本さんと一緒に保健室に行くという考えは非常に魅力的だったが、僕は、首を振った。  「大丈夫だ。問題ない」 「じゃ、行くか」 「あぁ」  僕と牧本さんが立ち上がる。 「峰雪、早くしろ」  「うっせぇ、先、行ってろ」   もたもたと弁当を片づける峰雪。 「じゃぁ、先に行く」 「う、うん」  僕は、歩きながら、ちらりとうしろに目をやった。  ようやく立ち上がる峰雪。 その足下には、彼が身体で庇っていたもの。   即ち、コンクリートに印された拳型のくぼみが、あった。 「克綺、ちっとつきあえ」   帰り道。 峰雪は、声をかけてきた。  「ふむ。僕も質問があったところだ」   僕はカバンを持って峰雪につきあう。  校門を出て、歩きながら話し出す。 「さっきの事だがな……おまえ、本当に手、平気か?」   僕は、右手を広げて見せる。  「平気だ。 僕も質問があるんだが……どうして、穴を隠した?」  「牧本を怖がらせても仕方ねぇだろ。 ちょっと見せてみろ」   峰雪は僕の手を、さぐって、ひっくり返す。 「拳ダコもねぇか。 別段、秘密の特訓してたってわけでもなさそうだな」  「当たり前だ」  「じゃ、さっきのは一体なんだ?」  「人間は普段は筋力のほとんどを使っていない。 何かのはずみでリミッターが外れると、怪力を出すと聞いたことがある」  「火事場の糞力ってやつだな」 「だが……別段、肉体の強度が上がるわけではないから、コンクリを殴って穴を開けたら、手も壊れるはずだ」  「まったくだ」  「しかるに僕の手は壊れていない。 謎だ」  「まぁ殴り方が良かったのかもしれねぇな」   峰雪は一人で納得してうなずいた。 「おまえ、しばらく人殴るのは止めといたほうがいいぞ。 ありゃ、俺じゃなけりゃ死んでたぞ」   さらりという峰雪。 この男は、この男で、どんな人生を生きてきたのか、時々、不思議になる。 「確かに。 ただ、意識して殴ったわけじゃないのが問題だ。 なぁ、峰雪」  「なんだ?」  「また殴るかもしれんから、その時は、うまく避けてくれ」  「……なんだそりゃ」   そう言って峰雪は豪快に笑った。 「今日は、恵ちゃんの見舞いに行こうと思ってたんだが……」  「いや、見舞いはいらない。 一人で頭を冷やしたほうが良さそうだ」  「そうだな。 牧本にも言っとくわ」   峰雪がうなずく。 「ま、若い頃は色々あらぁな。 落ち着いたら知らせてくれ」  「あぁ。じゃぁ、また明日」  「おぅ。またな」 「ただいま」  メゾンのドアを開けると、階段から、どたどたと足音がした。 「お帰りなさい、お兄ちゃん!」  恵が飛びついてくる。  髪が胸の上で広がる。  穏やかなシャンプーの匂い。 巻き付いた腕の、細く、柔らかな感触に、僕の胸が高鳴る。 「ただいま」  僕は、もぎはなすように恵の抱擁から逃れた。 「管理人さんは?」  「今日は、お出かけ。 晩ご飯、用意してあるって」  「そうか」   一抹の危機感。 恵のあどけない笑顔は、なんというか、僕にとって危険だった。 「調子はどうだ?」   そう言いながら、僕の指は、恵の柔らかな髪に触れたくて震えていた。 髪を梳き、ふっくらとした頬をなで、その首筋を味わい……。   拳を握る。 止まらない妄想を、手に爪を立てて押しとどめる。 「大丈夫だけど……お兄ちゃん、どうしたの?」  「なにが?」   食いしばった歯の間から声を出す。  「すごく、怖い顔してるよ」  「体調がおかしくてな」 「お兄ちゃん、病気?」  「そうとも言える」  「うーんと」  恵が、背伸びして、額と額を重ね合わせる。 「熱は、ないみたいだけど……でも早く寝ないとだめだよ。 暖かくしてね」   どこか舌足らずな口調に、僕は笑った。  「ああ、そうするよ」  部屋に入って、カバンを置く。  制服をぬいで、ベッドに横たわった。       目を閉じると、恵の姿が浮かんだ。 無防備に抱きつく恵の姿。 背伸びした時の、伸びた爪先。 部屋着の下に揺れる身体の線。 服の下の白い裸身が、目の前にちらちらと泳ぐ。 集中すれば薄れ、気を抜けば現れる。   心音が、津波のように響く。 隣の部屋の恵にまで聞こえそうな、そんな轟音。  目を開けて、身体を起こせば、毛布が三角形に屹立していた。  単なる生理現象。 とはいえ、とても恵には見せられない状況だ。  冷たいシャワーを浴びて、身体を冷やす。  電気を消して、もう一度ベッドに横たわり、無理矢理目を閉じた。  白い裸身が僕を悩ます。   眠りは浅く、悪夢に満ちていた。  白い裸身が目の前を通り過ぎ、手を伸ばしても届かない。 豊かな胸と管理人さんの声。 牧本さんが遠くを走る。 それに恵。 僕のほうを熱っぽい目で見上げる恵。 その裸身に、手を触れたかったが、僕には手が届かない。 僕の手はなくなっていた。足も。身体も。 僕は、ただ一対の目として、目の前の光景を、食い入るように見つめている。 恵は僕を捜す。 だけれども、ただの瞳となった僕には気づかずに、悲しそうな顔をする。 声をかけたくても口はなかった。                          ──恵。  瞳が瞬く。 突然、あたりに満ちた、眩しい白い光が瞳を焼き尽くしてゆく。 「……お兄ちゃん」 「……お兄ちゃん、ご飯だよ」 「……ん、あぁ」  目を開けて、恵の声が背後から響く。 夢。夢なのか?  いや、現実だ。 現実だから、僕には手がある。 熱く火照る身体がある。 そして。  心臓が、ある。 どくどくと脈打つ心臓。 深呼吸して、僕は自分を落ち着かせる。 「ごはん、食べる?」 「あぁ」  生返事をする。 そうか。もう、晩ご飯の時間か。 僕は、身体を起こそうとする。 「お兄ちゃんは寝てて」   ベッドの脇に腰掛けた恵が、僕を制する。  「ご飯、持ってきたから、食べさせてあげる」  「自分で食べられる」  僕は、身を起こし……自分が服を着ていないことに気づいた。 「お兄ちゃん、パジャマは?」   恵が目を丸くしていう。  僕の顔は、多分、赤かったと思う。 ずりおちかけた毛布をつまんで、下半身にできるだけ強く巻き付ける。 「寝る時は、服は着ないんだ」  「そ、そう」   恵が、赤い顔でうなずく。  気まずい時間が流れた。 「いい匂いだな」   僕は、とりあえずつぶやく。   実際、それは、いい匂いだった。   ジューシーなカキフライと、酸味のきいたニンジンの千切りサラダ。 ご飯はおにぎりだ。 「私が、暖めたんだよ」  「ふむ、おいしそうだ」   恵は、ベッド用のテーブルを僕の前に置き、お盆を置いた。 箸でフライをつまむ。 ちょうど昨日と立場が逆だ。 「はい、あーーん」   一口で食べる。 うまい。 さくさくとした歯ごたえ。 一口噛むとジューシーな汁が口の中にあふれる。 電子レンジで暖めなおしたのだろうが、それにしては衣もぱりっとしている。 「キッチンペーパーを敷いてあっためたの」  「なるほどな」  「はい、もう一つ」  「いや、自分で食べられる」   僕は、箸を取る。  「じゃ、私も。 お兄ちゃん、ちょっと脇、どいて」  僕もベッドの端によると、恵が、そこへ入ってくる。  毛布ごしに、僕と恵の足が触れあう。  「いただきまーす」  「いただきます」     僕は、のろのろと、おにぎりを食べ、フライをつまんだ。 正直、味がわからなかった。   二の腕が触れあうたびに、頭の奥に火花が散った。 口の中にあふれる唾は、料理に対するものではなかった。 中の熱いカキフライを苦労して食べる恵の頭の天辺を見ながら、僕はその肩を抱きしめたいと思っていた。     抱きしめる。 押し倒す。 まさぐる。 犯す。 胸の中で、どろどろとした思いだけが渦巻く。   僕の思いを知らぬげに、恵は、落ち着いた様子で食事をしていた。 「このサラダ、おいしいね」  「あぁ」  「何使ってるのかな」  「さぁな」   生返事をしていると、恵が僕のことをじっと見上げる。 深呼吸して、衝動を抑え込む。 「お兄ちゃん、疲れてるんだよね」  「あぁ」   ある意味、恵がそばにいるせいで、とは、言わなかった。  「早く、元気になってね」  「あぁ」  味気ない食事が、やがて終わる。 「ごちそうさまー」 「ごちそうさま」  恵は、てきぱきと食器を片づける。 昨日まで寝ていた分、元気がありあまっているかのようだ。 「じゃ、お兄ちゃん、お休みなさい」  「あぁ」  部屋に取り残された僕は、しばし自己嫌悪に浸った。 昼寝した分、眠気はない。  服を着て、机に着いた。   ここのところの事件のせいで、宿題が結構、溜まっている。 一気に片づけようと思ったが、うまくいかなかった。 本でも読もうかと思ったが、ページをめくっても、一向に内容が頭に入らなかった。   そばにいてもいなくても。 頭の中に浮かぶのは恵のことばかり。 指は手触りを求め、鼻は香りを欲し、舌は……柔らかな肉の味に焦がれていた。  恵を。 柔らかな身体を。 ねじきるほどに、かき抱きたい。 その唇を奪い、喉に歯形を印したい。 その足を開いて、自分の全てを注ぎ込みたい。   ──なんだ、これは。   学校にいた間は、ここまでひどくなかった。 僕の中の欲望は、時間を追って、大きくなっている。 それが感じ取れた。   それは、ほとんど、独立した意志を持って、僕を動かそうとしていた。 胸の中は熱く燃えるようで、首筋の毛がちりちりとしていた。    ──危険だ。   このままでは僕はおかしくなる。 おかしくなるだけならいい。 確実に、僕は。   ──恵を傷つける。   血が沸騰し、頭が割れそうだった。 全身を甘美な快感が走り抜ける。 理性という理性が消え失せそうだった。         目の前が、真っ青になる。 視界に電撃が走った。 心臓が叫ぶ。   ねじふせたいくみしきたいきずつけたいこわしたい。 おかしたいくらいたいすすりたい──ころしたい。   違う。 これは僕じゃない。 僕の気持ちじゃない。 恵は愛しいし、恵を求めてはいても。 僕は、こんなことは考えていない。   どくり、と、心臓が脈打つ。 何かとてつもなく冷たい血が、身体を流れる。   どくり。 鼓動の一拍ごとに、身体の自由が奪われる。 僕は居ながらにして全身を冒される。 血のめぐりが、細胞の一つ一つが、僕でないものに従ってゆく。  僕は、指を伸ばす。 固まった指を、無理矢理開き、机の上の携帯を取る。  勝手に動く右手の指を左手で押しつけ、苦心して恵にかける。  「もしもし……お兄ちゃん? どうかしたの?」   安らかな恵の声に、僕は憩い、僕の中の何かは舌なめずりした。  「もしもし、恵」   舌がもつれる。 何かが僕の邪魔をする。 「な、なに、お兄ちゃん?」  「鍵だ。部屋に鍵をかけろ。いや、逃げろ。早く」  「もしもし? お兄ちゃん、なに言ってるの?」  「いいから!」  「ちょっと待ってよ。どうしたの? お兄ちゃん、こわい夢でもみたの?」   悪夢は見ている。 今、この瞬間に。   「夢じゃない……逃げろ……早く」   切れ切れに囁く。 僕は祈る。 恵が逃げてくれることを。   さもないと僕は。 僕の中の何かは。   「待ってて。今すぐ、いくね」  「やめろ!」   受話器に叫んだが遅かった。 通話は切られていた。  ばたばたと、隣の部屋から足音が聞こえる。 だめだ!          僕は走る。 ドアに向かって。 鍵を。鍵をかけないと。 急いで。         手も足も、まるで自分のものじゃないようだった。 気ばかり焦って、のろのろとしか動かない。 ドアまでの四歩が、埋まらない。          三歩。 身体が、どんどん奪われてゆく。 脈打つ心臓は、氷のよう。 冷たさは胸から膝に広がっている。          二歩。 僕には、わかっていた。 この冷たさが全身に広がれば……僕に為す術はないことを。        一歩。  僕は、転がるようにノブを掴む。 ──鍵を。 あとは鍵を閉めれば。 安堵の溜息。 その瞬間、僕の身体は、ぐいっと引っ張られた。 「おにいちゃん、平気?」   ドアを開けた恵が、そこにいた。  「……Uwuwwwwww」   喉からは奇妙な唸り声が出た。 牛のような低く野太いうなり。  「めっぐっみっ!」  「なぁに、おに」  最後まで言わさずに、僕は恵の身体を思いきり抱きしめた。 その唇にむしゃぶりつく。 がちがちと歯が当たる。  その歯をこじあけて、思いきり舌を吸った。 口の中に甘いものがあふれる。 「くっ……はっ……」  恵が、両の手で僕の顔を押しやった。 瞳には、驚きと……それから恐怖がある。  ──だめだ。 僕の中の僕は、その恐怖に力を増した。  僕の腕は、小さく細い胴を折れそうに抱きしめる。 ぴったりと胸をあわせ、恵の息を絞り出す。 「おにい……ちゃん……くるしい……よ」  止まらない。 抱きしめた感触を腕が知っていた。 肉の熱さを指が望んでいた。  僕は、恵の背に爪を立て、薄いワンピースを一気に引きちぎる。  爪の先に血が滲み、その匂いが僕をさらに駆り立てた。 「めぐみっっ!」  叫んだのは僕だったか、僕の中の何かだったか。  両の掌で恵の顔をはさみこみ、正面からその瞳を覗き込む。 これから蹂躙する獲物の、その恐怖を、糧とするために。 「おにいちゃん」   思いがけずかけられた優しい言葉に、僕は、動揺する。 恵の腕……僕を押しのけようとしていた両の手は、今は、僕の手をやさしく暖めている。 その身体からはこわばりはぬけ、ただ、やさしく立ち尽くす。  それは、恐怖でもなく絶望でもなく。 たぶん、やさしさ。 あるいは。   ──何かを待つように。 期待するように。 その目は、かすかに潤んでいた。   僕は…… 「恵」   恵の濡れた瞳。 そこに見えたのは、まぎれもない女としての姿だった。  「恵、恵、めぐみ!」   僕の中の僕が、僕と一つになる。 抱きしめる腕に感覚が戻る。 恵の素肌を僕はやさしく指で、包む。 「おにいちゃん……」   溜息のような声。 恵の腕が僕の首を抱く。  「すまない。 僕は……恵が、欲しい」  「いいよ、お兄ちゃん」   くすり、と、恵が笑う。 見たことのない、大人びた笑み。 それが背筋をくすぐった。 その場で押し倒しそうになる自分を自制する。 「二階へ……」  「ここで、いいよ」   恵の手が僕を押しとどめた。  「なに?」  「ここで……床でしてよ」   意味が分からない。 何を言っている。 恵が変だ。  混乱する僕に、恵は自ら口づけた。 息がつまり、気が遠くなるほどのキス。   糸を引いて唇が離れた時、僕は、前にも増して呆然としていた。 「どうしたんだ?」   そんな間抜けな言葉しか、出てこなかった。  「あのね」   恵が囁く。  「私も、ずっと、お兄ちゃんが、欲しかったんだよ」  「ずっと?」  ずっと。ずっと。 そういえば、そうだ。 僕も、ずっと、恵が欲しかった。   あれは、いつのことだっただろう。 多分、あの時。 僕が心臓を無くした時。 その時から、ずっと、恵が欲しかった。 いや違う。 欲しいのは僕じゃない。 僕は欲しいなんて思っていない。  恵が僕の手を取って、胸に導く。 まだ未熟な胸は、掌で包み込めるほど。 ふっくらとした膨らみの奥に、僕は、鼓動を感じた。   とく、とく、とく。   鼓動は優しく暖かく、そして速かった。 「これはね、私が、お兄ちゃんを大好きな音だよ」  「僕には……心臓が、ない」   ないはずの心臓は、今や胸の中で大きく脈打っている。  「なら、私のをかえしてあげる」  恵は僕を抱きしめる。 胸が重なり、小さな心臓の響きが僕の中に響き合う。 それは、本当に安らかな音色で。 僕は、その鼓動が愛しかった。   僕は身を放して恵の瞳をのぞきこむ。 そして、その胸にゆっくりと手を伸ばす。   手が、止められた。 恵の両手が僕を遮る。 「好きって言って」  「好きだ、恵」  「……お兄ちゃん」  右手を一振りすると、ワンピースの前が一直線に裂けた。 恵が身をよじって下着を脱ぎ捨てる。   かすかに上気した白い肌。 現れた小ぶりな胸は、小さく柔らかく、むしゃぶりつきたいほどに愛おしかった。 「ほんとうに……いいのか?」  「いいよ、お兄ちゃん」   それが、最後の一押しだった。 僕と恵を隔てる全てのものが、それで、消えた。   だから、僕は。 恵を。     ああ、月が綺麗だ。 夜風は冷たく、火照った身体に心地よかった。 ただ、少し乾きすぎていた。 身体は十分に湿っていたが、早く水を見つけないといけない。   月明かりを浴びながら、僕は道を歩いた。 水の匂いを頼りに、跳ぶように歩いた。   満ち足りていた。 飢えも渇きもない。 ただ心地よい疲労感だけがある。    「ふふ」   わけもなく、おかしくなって、僕は笑う。 とてもおかしくて、腹のそこから笑いがこみあげた。 わらって。 わらって。 わらってわらってわらって。 なみだがでるまでわらう。  気が付けば、河原だった。 コンクリの岸辺に、僕は膝を付く。 「どうした?」  聞き慣れない声が、うしろからかかった。 僕は振り向きもせずに答える。 「おかしいんだ。とっても、おかしいんだ」 「おかしいと、泣くのか?」 「ああ」 「なにが、おかしいんだ?」 「だって。僕は」  ぼくはあんなにめぐみがすきだったのに。 すきだったのに。 すきだったから。 「妹がいたんだ」 「ほう」 「妹が好きだったから、抱きしめたんだ」 「抱いたのか」 「抱きしめたんだ」   そう、僕は、恵を、抱きしめ。  冷たい床に組み敷いた。   むきだしの胸に、ぎこちない愛撫。 内からの激情と、いとおしさが交錯して。 僕は恵の胸を、撫でるように責めさいなみ、にぎりつぶすように愛おしんだ。  「くっ……」   悲鳴を噛み殺しながら、恵は僕をこばまなかった。 その両手は僕の下腹部に伸びる。   制服のジッパーを開け、すでに大きくなっていたものを、やさしく取りだした。 外気を浴びて、それは、存分に屹立する。  「これが……お兄ちゃんの……」   十本の指が、僕の大きさを確かめる。 僕は恵の喉に歯を立てる。  「あっ……」   のけぞる恵の背を捕らえて離さず、いくつも歯形を残す。 歯形がふえるたびに、恵の息が荒くなった。   「おにいちゃん……もう、来て……」   息も絶え絶えに恵が言う。 僕は、右手で恵の足に触れる。 腿をなぞり、その奥へ触れる。 細い裂け目は、かすかに湿っていた。  「は………ん……!」   裂け目をかきわけ、指をもぐらせると、恵の身体が動いた。 それはあまりに狭く、指先は熱いもので絞られるようだった。   つぷつぷと肉をかきわけ、指が沈む。   「もっと……お願い、もっと、ちょうだい……」   言われるままに僕は進め、とうとう指は根本まで沈む。 熱く細いそこを僕の指がかき回すに連れ、恵の身体は、胡弓のようにしなった。  「はう……ふ……ふ……あ……あぅ……」   回す内に、ぐったりと力が抜ける。 僕は指を引き抜いた。   糸を引く指先に、かすかに血の色がまじっていた。   「つらいか、恵?」  「ううん」  「つらかったら、言え」  「平気だよ」   恵が、決然とうなずく。  「じゃぁ、行く」   僕の左手が、恵の右手を握る。 恵の左手が、僕をそこへ導いた。 先端が、熱く濡れた門に触れる。 小さく狭く幼いそれを、僕は一気に刺し貫いた。  「うっあっ……あぁんっ……ふぅっ……」   何度も、何度も、刺し貫いた。 恵は、泣きじゃくる赤ん坊のような声をあげる。 少しでも止めようとすると、恵は僕の手を、ぎゅっと握りしめる。 瞳が言っていた。 止めるなと。 だから、僕は、動いた。 動き続けた。        何度目だったかは覚えていない。  心臓が、一つ大きく脈打って、僕は、果てた。 それでも恵は僕の手を放さずに。 僕も動き続けた。 音が、変わる。 肉を貫く衝撃に、ゆっくりと、湿った音が混じりはじめる。 それが、僕の精があふれたせいなのか、それとも、恵の身体のせいかは、わからない。        僕は、何度も何度も果てた。  胸の中で、心臓が生き物のように蠢いていた。 それが冷たい血を放つたびに、僕には力がみなぎり、精が充填されていくのが分かった。  「うぅんっ……あうぅ……ふぅ……」   恵の声は、やがて、すすり泣きに変わった。         何度も、何度も果てて。 最後に、恵の声も、途切れた。 ぐったりと動かない恵を前に、僕は、途方にくれた。   ぼくは、なにをしてしまったんだろう。 こんなはずじゃなかったのに。 「それで、終わりか?」 「それで、おわり」 「馬鹿げた話だ。 妹が、いきなり押し倒されて悦ぶなんて。 そんな馬鹿なことがあるものか」 「え?」 「酔っていたんだろう。 聞きたいことしか聞こえないほどに」 「あ……」 「本当は、悲鳴を上げてたんじゃないか? 嫌がって、拒んで、それでも、ねじふせられて、嫌々身体を開いたんじゃないか?」 「やめろ」  僕は、弱々しくつぶやいた。 「冷静に考えろ。 おまえの妹は、はじめての時に、兄と床でやりたがるような淫乱なのか?」 「やめろ! どうして、そんなことを聞くんだ?」   僕は、腹が立った。  「ぼくは、めぐみが、すきだったんだ。 とっても、とっても、すきだったんだ」  「あぁ、好きだったんだろうさ」   赤髪の女は、嫌な笑い方をした。 「続けろ」  「え?」  「好きだったんだろ? 好きだったから、どうしたんだ?」  「ぼくは……」  そう。僕は。 好きだったから。恵を。 恵を。 どうした?      精を放ち尽くした僕は。 ゆっくりと身を起こした。 ぐったりとして動かない、恵の身体は、それでも魅力的で。 僕は、その肌を舐めた。 首筋。 白い肌に赤く滲んだ歯形をなぞる。 喉の肉を口に含み、唇と舌先で転がす。 歯を立てると、かすかに口中に血の味がした。      「あっ……」   恵は、弱々しい悲鳴をあげたが、それだけだった。 手も足も、ぐったりと動かなかった。 鎖骨。硬い骨の上に、ぴんと張った肌。 胸に降り、柔らかみの増す肉を、ゆっくりと唇であじわう。 乳首を口に含んだ。 微妙に硬くなったその先端を、舌で転がす。 歯を立てる。      「ふぁっ……」   恵の声が、少し大きくなる。 だが、声だけだ。 手も足も、動かそうとしても動かないようだ。 恵の目を見る。 そこに、懇願の色があった気がする。 僕は乳首から口を離し、恵の胸に頬をすりつけた。       とく、とく、とく。 鼓動の音。 暖かな血の流れる心臓。 指先から爪先、唇から乳首まで、その温もりを伝える心臓。 僕はその心臓が。 ほしくてほしくてほしくてほしくて。 両手を胸に当てた。 いつのまにか爪が伸びていて、恵の肌に触れると血が吹き出た。 十本の指。十本の血の玉。      「ひっ……」   悲鳴。 僕が腕を引くと、十本の筋が、恵の白い肌に引かれる。 僕は、それがとても綺麗だと思う。   右手の親指で、乳首を刺し、人差し指を伸ばす。 くるりと腕を回すと、コンパスのように、赤い円が描かれた。      いまや、恵はもがいていた。 動かない手足を必死に震わせて。 けれどもそれは実を結ばず。 弱々しい足掻きは、僕を興奮させる。   恵が好きだから。   僕は、五本の指を揃えて、赤い円の中にねじりこむ。      「やっ! きゃっ!! いやぁああああ!」   悲鳴。 耳をつんざく悲鳴。 左手で唇を押さえる。 恵が暴れた拍子に、長い爪が、頬にざっくりと食い込んだ。      皮膚を裂き、肉をちぎり、邪魔な骨を僕は掴んで折り取る。  めきめきと音がして、たくさん血がしぶく。 血は僕の肌を熱く焦がす。 血を。 あふれる血を。 僕は、身体に塗りたくる。   二本目の肋骨を折り取る頃には、恵の悲鳴は、ほとんど絶え、身体の震えも止まる。      でも、僕は、知っている。   恵は、生きている。   だって、僕の右手の中には。   鼓動するものが。   熱くて柔らかな心臓があるんだから。           とくん。とくん。   とくん。とくん。とくん。とくん。       ぎゅうっとそれを握ると、恵の身体が、びくんと跳ねた。  かまわずに、僕は、それをちぎり取る。   滴る真っ赤な血を唇に受け。   僕は、その真っ赤な果実を。   食べた。 「すきだったんだ。めぐみが……すきだったんだ」 「知ってるさ」  コートの女が、僕の肩を叩く。 「性欲と食欲の結びつきは、そう珍しいものじゃない。 有名なのは、カマキリだな」  「かま……きり?」  「あぁ。戦略においては、雌は、より多くの卵、子供を作ることが重要となる。 そのために、受精を終えた雄を栄養にすることは理に適っている」   女の言っていることは難しくて、僕には、さっぱりわからなかった。 「魚人たちも同じようだ。 彼らは、そのための文化を発達させていた。 母が夫を喰うことを認め合う文化だ。 だが、不幸なことに、おまえには、それはない」   魚人? 雌? 僕は男だ。 一体、何の話だ?  「まだ気づいてないか。見ろ」  女の指の先。川面を、僕は見下ろす。  晴れた夜のこと。  水面は静かで、大きな月と、赤髪の女を鏡のように映しだしていた。 そして、その横には。 その横には。 「あれが……僕?」  顔は、かろうじて人の形に似ていた。 けれど、その目は丸く大きく。 髪はなく。肌は、鱗だった。 一面に生えた鱗は、月の光を浴びて、青黒い光沢を放っている。 「人魚を喰ったか? 血を浴びたか? その報いだ」 「ああ」  そうか。 僕は、ようやく理解する。 ずっと感じていた血のざわめき。 僕の中の冷たい血を送る心臓。  あれは。 あの、人魚のものだったのか。 ただひたすらに、子孫を残すことを望んだ人魚の思い。 それは血と共に、僕に受け継がれて……。 「おかしいな」 「何がだ?」 「すきなひとがいて、とてもすきなひとがいて」 「すきなひとといっしょになったのに」 「どうして、なみだがとまらないんだろう」  僕は腕をあげる。 五本の指はくっついて鰭になっていて、涙さえも拭けなかった。 「なぁ、九門克綺」   女が、ゆっくりと言った。  「おまえは、人か、魚か?」  「僕は……僕は、九門克綺だ。 人間だ」  「そうか」   女は、僕の手を取った。 両方の手で、鰭を包み込む。 その手は、暖かかった。  たとえ肌は鱗に変わっても。 僕は、僕だ。 そのことの重さが。 今、ようやく、感じられた。  たとえようもないほどの、ずっしりとした重さ。  「そうだったな。思いだしたよ」  「人間は……好きな人を食べないんだったな」  僕は、胃を押さえる。 ここに、恵がいる。 心臓だけじゃない。 肉も。血も。爪も髪も骨も。 みんな、みんな、僕の中にいて、新たな命になっているのを待っている。   ああ、でも。 僕は人魚じゃなかったんだ。 僕は命を育めない。 僕が食べた命は、僕だけの命で。 それは命が一個減ったことで。 恵。 「それが分かるなら、おまえは、人だ」  「そうだ。でも、もう、僕は……」   人としては、生きられない。 女は、わかっている、というようにうなずいた。  「終わらせてほしいか?」   僕は、泣きながら、こくりと、うなずいた。 「少し、歩こうか」   女が、言う。      川べりを、僕らは、ゆっくりと歩く。 空には青い月。水面からは湿った風。 とても、心地よかった。   胸は、痛かった。恵のことを、思い出すほどに涙があふれた。   でも、女と歩いていると、少しだけ、心がくつろいだ。   なぜだろう。初めて会う人なのに。 僕のことを分かってくれている。そんな気がした。 幻想かもしれない。勝手な思いこみかもしれない。      でも。 少なくとも、この人は、僕の事情を分かってくれた。 妹が好きで交わって食べた人間のことを分かってくれる人は、たぶん、そんなにいないだろう。   だから、たぶん、これでいいんだろう。 何がいいかはわからないが、そんな気がした。   歩くほどに、道は行き止まりになった。 河原の先は大きな橋桁で、いったん道に戻らないと前には進めない。      このへんでいいだろう。 僕は女に目配せする。 女はうなずいた。   ああ、そういえば。 「名前を聞いていなかった」 「イグニス、だ」  女は、背の刀を、ゆっくりと抜き、そして、振り下ろした。        僕の中で、何かが弾けた。 それは怒り。 僕の中の何かへの怒り。   もうひとつは、たぶん、恐怖。 そして、生まれて初めて見た、妹の中の、女への。  一声叫び、僕は恵を押し返した。 転げ落ちるように階段を降りる。 「お、お兄ちゃん?」  背中から、心配げな声が降ってきたが、振り返る間も惜しかった。 「すまん、恵」  そう叫んで、僕は走り出した。  少しでも遠くへ。 恵から遠くへ。 それが、僕に残された最後の理性だった。     夜風は冷たく、僕の中の血は、なお冷たかった。 胸の中心で心臓が脈打ち、蒼白な血を送り出す。  凍える氷の高揚。 僕はすでに僕でなく、夜気に酔う一個の獣だった。   乾いている。 肌が喉が胃の腑が。 乾き渇き餓えている。   それは血を求めていた。 肌を濡らし、喉を潤し、胃の腑を満たす赤い血を。 血の浮いた桃色の肉を。     乾いた夜気を鼻が吸い込む。 かすかにただよう血潮を、かぎあてる。   僕は走る。両の足を揃え、宙を跳ぶ。  信じられないくらい高く跳んだ。 塀を越え、通りを越えて、僕は、血の臭いに辿り着く。   視界が徐々に暗くなる。 失われた視覚に聴覚が取って代わる。 微細な振動を感知し、三次元像を描き出す。 色の失われた世界で、ついに僕は、血の源に辿り着いた。  道の真ん中にしかれた青いビニールシート。  まるで遠足でもするように、セーラー服の少女が、その片隅に座っていた。 その脇で寝そべるのは、革ジャンに紅い髪の少年。 少女よりも若い。まだ、14、5だろうか。  革ジャンの前ははだけられ、裸の胸は、一直線に切り開かれていた。 長い臓物が、腹腔からあふれている。 顔の真ん中には、大きな肉切り包丁が、奇妙な花のように突き立っていた。  男は、まだ生きていた。 その証拠に。 その手足は、未だ、ぴくぴくと動いている。 喉は裂かれていて、声にでない荒い呼吸がひゅうひゅうと聞こえた。 「誰?」   セーラー服の女が僕を見る。 何か棒のようなものを、くちゃくちゃと囓っている。 その顔には、ハートの入れ墨が入っていた。   僕は答えない。 〈馥郁〉《ふくいく》たる血の香り。 そして肉。 「なに、食べたいの?」   女は、片手を差しだした。 スティックのように囓っていたそれは、男の指だった。 赤いのは血だけじゃない。 指には、べっとりとケチャップが塗られていた。 「お腹空いたの? 一緒に食べる?」   腹は減っていた。  僕は、女から指をひったくる。 口に詰めようとして。   がり、と、歯を立てた瞬間。 喉の奥から吐き気が襲った。   僕は、指を放り捨てる。 「ちょっとあんた、何、その態度? キョウコの獲物が食べられないってゆーの?」  「うるさい」   喉の奥から僕はうなった。  「なに、やる気?」   心臓が、冷たい血を吐き出す。 吐いた溜息が、霜になって凍った。 目の前の女が、うっとうしい虫けらに見えてくる。 「あんた、サカナでしょ? 陸にあがって、勝てると思ってるの?」   女が軽く手を振った。  瞬間、銀光が僕をかすめる。  遅れて爆音が轟いた。 〈超音速衝撃波〉《ソニックブーム》か。   今、僕のそばを通り抜けていったもの。 それは、細身のメスだ。 「なんだそれは?」  「なによ? キョウコに逆らうと、どうなるか分かった」  「うるさいと言っただろう。 うるさいと言ったのに、なんで、そんなにうるさい音を出すんだ。 人の話を聞いてなかったのか注意力がないのか理解力がないのか頭が悪いのか頭が悪いならそんな頭はいらない消えろうっとうしい」  「あーもう、あんたのほうがうるさい! 刺身になっちゃえ」  女が、両手を振るう。 今度は、見えた。  女の爪から下がぱっくりと割れ、血を噴き出しながら十本のメスが顔を出す。 血はメスに絡みつき、縦横無尽に宙を舞う。  十本の血の糸に操られ、十本のメスが十方から飛ぶ。 それは無音にして高速。 死角という死角から、盲点という盲点を縫い、急所という急所を目指してメスが踊る。  馬鹿馬鹿しい。   僕が目で見てるとでも思ってるのか。 風の流れは水の流れより読みやすい。  幻惑のつもりだろうが、遅すぎる。  僕は、指の股で、メスを挟み止める。 片手で四本。両手で八本。  残りの二本は掌で受けて握りつぶした。 握った指の間から、青い血が滴る。 「あら、頑丈なのね」  「馬鹿馬鹿しい」  「え?」  「馬鹿馬鹿しいと言った。 曲芸につきあう暇はない」 「あんた……ただのサカナじゃないね。もしかして、クモンカツキってやつ?」  「黙れ。うるさい」  「むぅっ!」  女は、頬をふくらます。 そのまま大きく上を向いた。  腹を押さえると、ごぼり、と、音がして、黒い棒を吐き出す。  曲芸師が剣を呑む。 それと逆の要領で、女が吐き出したのは、黒光りする銃身だった。  口が、がばりと耳まで裂け、機関部から銃把を吐き出す。  女が吐き出したのは、巨大な両手持ちの機関銃だった。 弾帯は身体に食い込んでいる。  馬鹿みたいだ。 動作が鈍い。 銃を取り出す間に七度は殺せた。  だけど、せっかくだから。  僕は、とん、と、足下を踏む。  10歩先でアスファルトがひび割れて、噴水のように水が噴き出した。   僕は両の腕に水を呼ぶ。 左手に盾。右手に槍。 「あんた、クモンカツキなんだろ?」 「クモンを捕まえたらメルさまが誉めてくれるってね」  メルさま? まぁいい。 「死なない程度にミンチになっちゃえ!」  女は銃を撃った。 機関銃は、女の叫びのような声を立てた。 下品なやつだ。  赤い弾が吐き出される。 弾は、女の血、そのもの。 弾帯の先は、女の口から出ていた。  深紅の弾丸は、生き物のように呻いた。 秒間10発の弾丸。 その一つ一つが、宙を切り裂き、身悶えしながら、有り得ない曲線を描く。  今度は無線誘導というわけか。   くだらない。 本当にくだらない。 左手を振る。  ぴちゃぴちゃと音を立てて。 深紅の弾丸は、そのことごとくが吸着された。 透明な水の盾が、みるみる桃色に染まってゆく。  ゆっくりと歩みを進める。  「ちょっとぉ、なんで……」  「うるさい」  僕は右腕を振る。 巻き付いた水が、伸びて、女の心臓を〈剔〉《えぐ》った。 「げぶっ……い、痛い。痛いじゃないよ!」 「黙れ、と言っている」  どくり、と、水の先に、女の鼓動を感じる。  水の槍は、その腐った赤黒い血を、飲み干してゆく。 「ちょっと……これ、ひどい!」 「いいから死ね」  血が、右腕から僕の中に入り込む。 指先から掌から、それは僕の血管に吸い込まれ、静脈を生き物のように動いて心臓に入り込む。  どくりどくりどくりどくり。  赤黒い血が僕の中に入り込む。 僕を貫き僕を満たし僕を蹂躙する。  青い血と赤い血。 どちらも冷たい穢れた血。  その二つが混ざり合い、真っ黒な混沌になる。  ずぼり、と、音を立てて、赤黒く染まった槍が僕の中に吸い込まれる。 「ひぃいいいやぁぁぁぁあぁ!」  血を抜かれ、皺がよった女が、しわがれた悲鳴を上げる。 最期まで下品な女だ。  僕が、蹴りをくれると、それは、かさかさの塵になって崩れ落ちる。 「……あがっ!」  僕は、胸を押さえて崩れ落ちた。 心臓の中で血が暴れていた。 全身が風船のように膨れあがる。  頭が、がんがんする。 はちきれそうだ。  欲しい。 ──が欲しい。  血か? 肉か? 足下に転がる男。 すでに息はないようだったが、はみ出たはらわたは、まだ湯気を上げている。  違う。 血が求めているのは、そんな肉じゃなかった。  もっと柔らかで。 もっと麗しく。 もっと〈艶〉《つや》やかで。 もっと生きのいい、そんな、肉。  目の前が真っ黒に染まる。 黒く黒く黒く染まった世界の中で。 僕の目の前に浮かんだものは。 白く細い裸身。 見慣れた笑顔。  僕は。 僕は、恵が、欲しい。     メゾンへの帰り道。 風となって走る僕の中で、黒い血が燃えていた。   目の前に浮かぶ恵の裸身。 その上に爪を這わし、白い肌に傷を刻み、血の臭いをぞんぶんに味わう。 喉を絞め、指を折り、哀願の言葉に耳を傾け、また指を折る。 痛みに震える唇に分け入り、その舌をねぶり、そして、食いちぎる。 細い足をこじ開け、その奥の花園を踏みにじり、奥の奥まで貫き通す。     目を見開いて驚く恵が。 小さな唇を開いて、絶叫する恵が。 細い眉をしかめ、痛みに耐える恵が。 涙を流して、哀願する恵が。 すべてに絶望し、虚ろな目で横たわる恵が。   僕の目の前を、繰り返し、繰り返し、通り過ぎる。   それが、僕が望んだことなのか、血の見せる幻なのか。 僕にはとうに区別がつかず。 ただ、僕はひたすらに。 恵に。妹に。飢え渇いていた。  鉄の門を飛び越え、扉を開いて、僕は、メゾンに入る。   近い。 恵の匂いが、近い。 押さえきれぬ欲望に、僕は、ぶるりと身体を震わせた。 腕が。足が。歓喜に震えていた。 殺してはいけない。すぐに喰ってはいけない。 たっぷりと時間をかけて味わい、泣き叫ぶ恵を目に焼き付ける。 そのために、深呼吸をして、自分を落ち着かせる。 そして、ゆっくりと。  一歩、一歩。階段を上った。 どす黒い血が、身体の中でうねっていた。 ドラムのような鼓動が耳元で響く。  ……私はあなたを覚えています  鼓動のむこうにかすかな音がした。 小さな声。 それは歌っていた。     ――夕暮れの中、一人だけ。 みんなみんな、消えてゆきます。茜の中に……   ――呼び返す声に、返事がなくても   ――私はあなたを覚えています  階段を上りきる。 薄暗い廊下の向こう。恵の部屋から、その声は漏れていた。        ――風の吹く夜、一人だけ。小さな蝋燭一つだけ。 ゆらゆら揺れます、怖い影――   ――毛布の中で、息を殺して隠れている時   ――私はあなたのそばにいます  ドアを、開ける。 ベッドに眠る恵のそばに。  管理人さんが歌っていた。 いつものエプロン。眼鏡の奥で、優しい瞳を恵に注いで。 恵の手を、握っていた。        ――日の沈まない北の果てにも   ――夜の夢の中にでも   ――私はいます  恵が、そこにいる。僕の中の黒い血が叫ぶ。 それを喰えと。犯せと。涙と血をかき混ぜろと。  けれど。 その綺麗な歌声に、どうしてか、僕の手も足も、動かなかった。     ――小さな涙を拭かせてください。 ――悲しいことを聞かせてください。 ――恐い夢は、一緒に見ましょう   ――だから、呼んでください。私のことを   ――私は祈り。この世で最も古い人の祈り」   ――私は、母  歌が、終わる。 再び、身体が、動く。 管理人さんが顔を上げた。  恵から僕へ。 その瞳は、強く、強く、僕を射抜いた。  途端に、黒い血が悲鳴を上げた。  心臓の中で、ごぼごぼと泡だった。  それは、理解していた。 目の前にいるものが、自分の。 ──天敵だ、と。  ――私は、未来の王を護る夢。 幼子の涙を〈惡〉《にく》む夢。 あらゆる悪夢の悪夢。 その最悪のもの。  血が暴れる。 目から。耳から。毛穴から。 それは、逃げだそうとしていた。 その声がなければ、僕は、全身から血を噴いて死んでいただろう。  けれど、恵を起こさぬように、そっと囁かれたその声は。 僕の中の黒い血をぎりぎりと縛り上げた。  死の恐怖に苛まれ、退くこともならず。 ついにそれは、玉砕を求めて、僕を突き動かした。  両の足が大地を蹴る。 黒い血が右腕を包み刃と化す。 それは管理人さんを一直線に突き刺した。  冷たい琥珀色の瞳が僕を見る。 瞬間。僕と、僕の中の血が。 死を、悟った。  幾多の料理を魔法のように取りだし、恵の悪夢を取り去る、その柔らかな手は。 僕の一撃を軽くいなす。  渾身の一撃をそらされた僕。 喉も。胸も。腹も。 隙という隙を晒し、逃げることもできず宙を泳ぐ僕を。  管理人さんは、その両方の腕で、そっと受け止めた。 暖かな手が、僕を包む。 「お帰りなさい、克綺クン」  耳元で囁いた、小さな声。 それは、僕の身体を暖かなもので満たし、僕は、ゆっくりと気が遠くなった。  茶色い薄明かり。 蛍光灯の常夜灯。 天井。  気がつけば、僕は、部屋の中に戻っていた。 制服の上がぬがされている。 「あら、克綺クン」   濡れ手拭いをもった管理人さんが、座っていた。 すい、と、僕の額から顔をぬぐってくれる。 それでやっと、完全に目が覚めた。 「起きた?」  「はい」   口に出して僕は顔をしかめた。 胸が、痛む。  僕の空っぽの胸で、黒い血が騒いでいた。 それは、胸から先へは出られないようで、無為に壁を叩く囚人のように、どんどんと僕の胸を叩いていた。 「ごめんなさいね」   管理人さんが、僕の胸に触れる。 暖かな指先が触れて、胸が、すっと楽になる。   冷静になって、僕は、家を出る前に、自分のしでかしたことを思い出す。 「あの、恵は……」  「恵ちゃん?」  「はい。恵は、大丈夫ですか?」  「聞いたわ。急に克綺クンが恐い顔をして、それで、家を出ていったって」  「それだけじゃ……ないんです」 「ええ。わかるけど……恵ちゃんは、平気だったみたいよ。 それより、克綺クンのこと、すごく心配してたわ」  「そうですか……よかった」   よかった、というのは、あまりに身勝手な言葉かもしれないが、それしか出てこなかった。 病み上がりの妹を、実の兄が襲ったのだ。 どんな心の傷になってもおかしくないというのに。 「何かしたの?  恵ちゃんには、明日、あやまってあげて」  「……はい」  「教えて。何があったの?」  「今日は……最初から調子が変だったのです」  管理人さんに言われて、僕は、今日のことを話した。  学校で、コンクリートに穴を開けたこと。 胸の中の血に憑き動かされ、新開発区に向かったこと。 人食いの女と渡り合い、水の力を発揮して倒したこと。 女の血を啜り、混ざり合った血が、さらに僕を支配したこと。 「そう……だいたいわかったわ」   管理人さんが切り出した。  「まず、あやまらなきゃいけないのは私ね。ごめんなさい。 気づいてあげられなくて」  「よくわかりませんが、僕の行動は僕の責任ですから、管理人さんのせいじゃないと思います」  「そう……ありがとう」   管理人さんは、かすかに笑った。 「昨日、人魚の血を浴びました。 考えてみれば、変になったのは、それからです」  「そうね。見落としてたけど、それが理由だと思うわ」   そう言うと、管理人さんは、うなずいた。  落ち着いてみれば、簡単なことだった。 コンクリを割るだけならまだしも、水を操る超常の力。超常の現象には、超常の理由がなくてはならない。   僕が遭った超常の現象は、管理人さんと、あの人魚達だけだ。 あの人食い女の血を吸い込んで、さらに、力が増したことからすれば。 原因は、管理人さんではなく、人魚の血であることは必然だ。 「こんなことができる人は滅多にいないのだけど……克綺クンは、どうやら、人外の力を、身体の中に貯められるみたいね」  「それは……前に言っていた、僕が人外から狙われてる理由なんですか?」  「いいえ、違うわ。 克綺クンの中には、魔力が詰まってるけれど……人外の魔力を吸い込めるのは、また別の話」  「そうですか」 「昨日言った通り。 人外の力は、想いのかたまりなの。 それを、身体の中に受け入れたから……」  「思いに振り回される?」  「ええ。 妄執、怨念と言ったほうがいいかしら」  「人魚の怨念……ですか」 「ええ。あれは、子供を残そうとしていたわ。そのために、人の血肉を喰らおうと」  「だから、僕は……人を襲いたくなった」  「そうね」  「なるほど……」  僕は溜息をつく。 今朝からの、どうにもやりきれない気持ちは、あの人魚のせいだったというわけか。   気がつくと、管理人さんが、僕の腰をじっと見つめていた。   毛布が、そそりたっている。 ズボンの中が苦しかった。   僕は気まずい顔で、管理人さんを見る。 「……あ、ごめんなさい」  「いえいえ」  「で、この怨念は、いつまで続くんですか?」   管理人さんがそばにいる限り、黒い血は落ち着くようだったが、このままでは、学校に行くのも……恵のそばにいくのさえ、危険だ。 「時間が経てば……薄まることもあるけど、あの魚人のは消えにくいと思うわ」  「消えにくいって、どれくらいでしょう?」  「千年は、かかるかな」   管理人さんは苦笑する。 「千年?」  「ええ。あの人魚の想いは、わだつみの民全体の、宿願だから」  「そうなの……ですか」   あの人魚は、蜂でいえば、女王蜂のようなものなのだろう。   一つの巣、全体を支える想い。 子孫を作ろうという、生き物として、もっとも根本的な情。 それは確かに……消えにくいかもしれない。 「それでね、克綺クン」  「はい」   千年待つわけにはいかない。  「質問があるの。 本当に大切な質問だから、よおく聞いて答えて」  「はい」 「それじゃ、第一問。 克綺クン、好きな子とか、いる?」  「好意をもっている人間ならいますが」  「異性として、好きな子は?」  「異性として……は、いません」   恵、と、心臓が、騒ぐ。 うるさい、と、僕は胸の中へ呟く。 「では、第二問。 女の子としたことある?」  「は?」   予想外の質問に、僕は、思わず、口を半開きにした。  「克綺クン、結構、綺麗な顔だから、女の子にもてるんじゃないの?」  「僕自身はもてるとは思わないのですが」  心臓のない僕には空気が読めない。   そして、どうやら恋愛というのは、その「空気」というのを最大限読み合うものらしいのだ。 故に。 僕は、恋愛などというものには縁がなかった。 「あら、そうなの?」  「ただ、峰雪は、僕がもてると主張します」  「変ね。心当たりとかないの?」 「無いわけではないです。 急に、馴れ馴れしいそぶりをした挙げ句、怒って疎遠になる女子は、結構、いました。 理由はわかりませんが、幻滅した、と、言われることも、よくあります」   峰雪に言わせると、僕が振った女の子は、小学三年生の時に始まり、物凄い数に及ぶらしい。 「あ、なんとなくわかるわ」   管理人さんは、大きくうなずいた。  「僕にはわからないんですが……」  「それじゃ、初めてなのね」  「何が、初めてなんですか?」  「今から、すること」   そう言って、管理人さんは、人差し指で僕の唇に触れた。 じん、と、痺れるような心地がした。 「つまりね」   管理人さんは、話し出す。  「怪談とかでもあるでしょ。 怨念を晴らすには、願いを叶えてあげないといけないわけ」  「ふむ。この場合、怨念は、子孫を残したいというわけですから……ああ……その……なるほど」   僕は、バツの悪い顔をして黙った。  沈黙を埋めるように、胸の鼓動が騒ぐ。 それは、期待に沸いていた。 「で、今の克綺クンは……私以外の女の子だと、ちょっと酷いこととかしちゃうでしょう?」  「ええ。強姦後、殺人および屍食に及ぶと思います。 ちょっと酷いではすまないでしょう」  「だから、好きな子がいると、ちょっと、悪いなと思ったんだけど……」  「特にいません」  「よかった」   管理人さんは、にっこりと笑う。 「じゃぁ……」  「こんな私が初めてで、よかったら」  「いえ、管理人さんでしたら、よい以上です。 ふさわしい、いえ、もとい、望むべくもありません」   言っていて顔が赤くなる。 「じゃ、克綺クン、よろしくね」  「よろしく……お願いします」   つばを一つ呑み込む。  「その前に……」  「はい?」 「シャワー、浴びて来たら? 汗かいたでしょ」  「……そうします。 管理人さんは?」  「私は、さっき浴びたからいいわ」  「では」  そそくさと浴室に入り、シャワーのコックをひねる。  ほとばしる湯を浴びながら、念入りに身体を洗う。 首も顔も背中も指のまたまで、いつもの倍の時間をかけて洗った。  丁寧に洗うのは、これから起きる事態に備えて清潔感を増そう、という気持ちもある。  だがそれ以上に、僕は、時間稼ぎをしたかった。  洗い場に出て身体を拭く。 バスタオルを腰に巻く。 ドアの一枚向こうに管理人さんが待っている。  どうして、こんなことになったのか。 いや、経緯は理解しているが、自分が置かれた状況に納得しがたいものがある。  かといって、状況自体を拒んでいるわけではない。 なのに、扉を開けるのに勇気がいる。  ああ、つまり、これは。 覚悟ができてないという状態か。 「克綺クン?」  ドアのすぐそばから、管理人さんの声がした。 待っているのだろう。 「はい、今行きます」  僕は、意を決して、扉を開けた。  管理人さんは下着姿だった。 これから行うことを考えると当然ではあるのだが。 柔らかくたわわな胸に、食い込むようにレースの下着が載っている。  僕は、目のやり場に困った。 むしろ、この場合、目をそらすほうが、失礼にあたるかもしれないと思うが。 かといって、正面から見るのは気が引けた。 「どうしたの?」  僕は慎重に言葉を選び、答える。 「未知の状況において緊張し、また既知の経験を生かすことができず、どのように行動したものか困惑しています」 「堅くなることはないわよ」 「そう思いますが、なかなかそう振る舞えません」 「あら」  管理人さんは、そう言って急に僕を抱きしめた。 拒もうと力を入れるより早く。 豊かな胸に顔が埋まる。  頬が胸に触れ、花のような匂いに僕は包まれた。 一瞬の夢見心地。  ゆっくりと、ゆっくりと管理人さんが、抱擁を解く。 「少し、力抜けた?」  「……はい」  「それじゃ、来て」  管理人さんに手招きされて、僕はベッドの上に向かい合って正座した。 「それじゃ、克綺クン、よろしくお願いします」  そう言って管理人さんが、深々と頭をさげる。 きれいなうなじに一瞬見とれてから、僕も頭を下げた。 「こちらこそ、よろしくお願いします」  お辞儀した瞬間。 バスタオルの下で、僕の屹立したものが窮屈に蠢いた。 「ちょっと手荒になるけど、いい?」 「手荒?」  管理人さんは、僕の裸の胸に触れた。 「だいたいわかってると思うけど……克綺クンのココ。 ここに、怨念が貯まってるのね」  胸の真ん中を指に触れられて、大きな鼓動を僕は感じた。 「はい」 「今、私の力で抑えているけれど、これをこれから、解き放つわ」 「解き放つんですか?」 「そう」 「……僕はどうすればいいですか?」 「うーん、しばらくは、なにもしなくていいわよ。 自然の成り行きに任せるのね」 「しばらくのあとは?」 「できる限り、自分をコントロールしてみて。 自分の身体を自分で動かすべく、努力するのよ」 「はぁ」  つまり、僕の身体は、しばらく僕がコントロールできなくなる、というわけだ。 さっきみたいに。 正直、不安が多い。 「そんな顔しないで。 克綺クンに怪我なんかさせないから」  そう言って管理人さんは、顔を近づけて、僕にキスした。 柔らかな唇が僕を撫ぜる。 「い、今のは……」 「おまじない。じゃぁ克綺クン、準備はいい?」 「は、はい」  管理人さんは、ぼくの胸を掌で優しく押す。 暖かな力が、胸に広がり、胸骨を揺らして、僕の心臓を、こくりと揺らす。  その瞬間だった。 →6−13  どくり、と、黒い血が巡った。  一拍。 それは胸から身体を駆けめぐり、はらわたをぎゅっと掴んだ。 黒い血が僕を抑えつける。 僕はベッドの上にへたり込んだ。  二拍。 それは四肢に至った。 指の先まで熱くなり、僕は、喉が渇き始める。目から涙がとめどなく噴き出す。  三拍。 それは僕の脳髄を焼き尽くし、理性を吹っ飛ばす。  四拍。 唇の間から牙が伸びた。 指先は、すでに鋭く尖っている。  血。肉。女。 目の前にある白く豊かな肉体に、僕は、飛びかかった。  腰にかけたタオルが宙に舞った。  長い五本の爪。 胸をちぎりとるその一撃を、管理人さんは、寸前に見切った。  爪の先が、下着を引っかけ、たわわな乳房がまろびでる。 薄桃色の乳首に、目が吸い寄せられた。 「GAH!」  僕は咆吼をあげる。 牙をむいて、その柔らかな肉に歯を立てようとする。 「えい!」  瞬間。何が起こったのかわからなかった。  僕は、ベッド上をごろごろと転がる。  起きあがった僕は額を押さえた。 痛い。額の真ん中が、燃えるように熱かった。 頭がぐらぐらした。  管理人さんは、にこにこと微笑んでいた。 伸ばされた人差し指。 あの指が、僕の額を弾いたのだ。  デコピンというやつか。 「お行儀悪いのは、めっ!」  戸惑い。屈辱。そして怒り。  管理人さんの声に、内なる獣が猛り狂う。  あの綺麗な顔をえぐる。 訳知り顔の美貌に、斜めに線を引いてやる。  ベッドを蹴ると、スプリングが軋んだ。  体重を乗せた右腕のスイング。 軽く手首を掴まれ、いなされた瞬間、僕は左腕を振る。 「GAHHH……」  喉から洩れたのは、苦悶の声だった。  管理人さんの手は、僕の手の甲を外側から掴む。 右手が高々と差し上げられ、左手は地面につくように。 まるで、ダンスでもするような形で僕は手首を決められていた。  揺れる胸を。綺麗な喉を、文字通り、目と鼻の先にぶらさげられて、僕の中の獣が暴れる。  けれども、もぎはなそうとすればするほど、みしみしと手首が軋み、僕は一歩も動けなかった。  もがき、ひねること十数秒。 とうとう、僕の中の獣があきらめ、全身から力が抜ける。  その時。 ふと、両手が引き寄せられる。 管理人さんの胸が、僕の裸の胸でつぶれる。 くすぐったいような気持ちいい感触が、僕の背筋を登った。 「はい、いい子ね。ごほうび」  吐息が顔にかかり、ゆっくりと唇が近づく。 唇がねぶられ、ピンク色の舌が僕の唇を割った。 「ふぁ……ん……ん……」  花のような匂い。 柔らかな舌が僕の舌をこすり、なぞり、そしてねじりあげる。 その感触に、僕は陶然とする。  甘い唾液の味に、獣が、再び目覚める。 柔らかな舌は、たまらなく食欲を刺激した。  僕は、かっと顎を開く。 両の牙で、舌をくいちぎろうとした瞬間。  がっと、顎が閉ざされるより早く。 僕は、ベッド上を投げ飛ばされていた。 「言ったでしょ。お行儀悪くしちゃだめ」  甘い笑いを含んだ声。 獣は耳を貸さない。  がっと牙を剥いて、喉首を狙う。  届くと思った瞬間。  管理人さんが、ふっと、躱す。  僕は、左右の抜き手を剔りこむように、管理人さんの両の乳房へ向けて叩き込む。  管理人さんの手が、閃いた。  ねばるように腕に絡み、左手一本で、両手首を押さえ込む。 管理人さんの腕が、僕の両手を頭上にさしあげる。  錐をねじこむような鋭い痛み。 その痛みは、手首から肘、肩にまで及んだ。  なすすべもない僕に、管理人さんの右手が伸びる。 人差し指が僕の頬に優しく触れた。 「ちゃんと、お行儀よくしたら……」  ゆっくりと頬を伝い、裸の胸をなぞる。 そして、さらに下へ。 「いくらでも、気持ちよくしてあげる」  〈臍〉《へそ》をなぜて、その下に。  屹立した先端を、五本の指が掴んだ。 びりびりと電流が走り、僕の身体がこわばる。 「わかった?」  柔らかな指先で、敏感な部分を嬲るように触れられる。 触れるたびに、全身が、びくびくと震える。  もがく。獣がもがく。 けれど、もがくほどに腕は軋み、管理人さんの指が速度を増す。 痛みと快感に翻弄され、狂おしいまでの悲鳴を上げる。  それは単なる痛みではなく、深い深い、狂気にも似た恐怖だった。 僕の中の獣の望みは子孫を遺すこと。 女の〈胎〉《はら》以外に、子種を吐くことは、大きな禁忌だった。  悲鳴。 獣が悲鳴を上げる。 それは、降参の悲鳴だった。  もがき苦しむ内に、管理人さんの両手が、ふい、と、離れた。 両手が自由になる。 僕は、痛む肩と肘をさすりながら、管理人さんを上目遣いに見つめた。 「さ、克綺クンは、どうしてほしいの?」  柔らかな声。 「Rrrr……」  獣がうなる。  その視線が、管理人さんの胸から腹へ落ちる。 黒い翳りに包まれた下腹部を、まじまじと見つめて、僕は唾を飲み込む。 「どうしたいのか、言ってみなさい」  獣が、喉で蠢く。 声を出そうとする。 「Krr……クァ……クァンリ……」  舌がもつれる。 僕の中の獣は、いまや人語をしゃべろうとしていた。 「クァンリニ……サン……」  もつれながらも、名を呼んだ僕の唇に、管理人さんは、そっと指で触れた。 「はい、よくできました」 「さ、きて」  両手を開いた管理人さんに、僕は、おずおずと近づいた。 両手の爪がひっこむ。 差し出された獣の手を、管理人さんの両手が優しく包んだ。 「こわく、ないからね」  獣が、手を伸ばす。 管理人さんの胸へ。 その白い肌に指先が触れる時、かすかにためらいがあった。  僕のためらい。獣のためらい。 区別なんかできない。  そのためらいを見越したように、管理人さんが、そっと手を導いた。 指と指の間に、僕は、管理人さんの肌を掴んだ。  熱い。 五本の指は、やすやすと乳房に食い込む。 僕の手は、熱いほどの温もりに包まれた。  味わったことのない柔らかさと量感。 下からもちあげるように乳房をもみしだき、指の中の熱さを堪能する。 「それだけで、いいの?」  いたずらっぽく耳元に囁かれ、僕は、指を上へ進める。 うす桃色の突起に、触れる。  親指の腹で撫ぜるように。 人差し指と中指で摘むように。 柔らかな乳房の中の、かすかな硬さを味わう内に。 桃色の先端は、ゆっくりと硬くなってゆく。 「そうよ……いいわ……」  その乳房を。 柔らかな手応えを。 甘やかな匂いを。 もっと、もっと味わいたくて。 僕らは、その胸に顔を寄せる。 「克綺クンは、甘えん坊さんね」  からかうような声に、獣が目を覚ます。 裸の胸に、僕は。獣は。 舌を這わした。  温もりに満ちたその肌は、苦い汗の味はしなかった。 もっと甘い蜜のような味。 そして、花のような香りが僕を包む。 「……ん」  あまりの甘さに、僕らは軽く歯を立てる。 管理人さんが、わずかに身をそらす。 幼子のように僕らは乳房にむしゃぶりつき、舌の先で乳頭を転がした。 「あん……は……くん…」  僕は管理人さんを抱きしめる。 脇をなぞり、ゆたかな腰をつかむ。  僕のそそり立ったものが、管理人さんの太腿に触れる。 それは揺れながら、その奥を探そうとする。  艶やかな腿の感触は、それだけで達しそうだった。 先端から透明な先走りが洩れる。  息を止めてそれをとどめ。 僕のペニスは、管理人さんの腰にぶちあたる。 一枚の下着がそれを阻んだ。  じれったさに気が狂いそうになりながら、獣が腰を振る。 それは、下着の隙間に潜り込み、柔らかな繁みが僕の先端に触れる。  その奥にいくより、一瞬はやく。  僕の根本を管理人さんが掴んだ。 二本の指は羽根のように軽く、それでいて巌のように動かなかった。 「おあずけ」  耳元で囁かれた声に、僕らは、身もだえする。 「いきなり入れたら、お行儀悪いでしょ」  獣が暴れた。 闇雲に腰を突き出そうとして、玉をぎゅっと握られる。 名状しがたい痛みに、僕も、獣も、苦痛に吼えた。 「か、管理人さん……」  僕の声が漏れた。 「あら、克綺クン、しゃべれるようになったじゃない」  そういえば。 「確かに……しゃべれはします」  そういいながらも、喉の奥から不満げな声が漏れる。 「じゃぁ、手足が自由になるまで頑張ってみて」 「わかり……ました」  そうは言ったものの、手足は動かないままで。 どうやったら自分で動かせるか見当もつかない。 「克綺クンの言う通り動いたら、御褒美をあげる」  その言葉は、僕の中の獣に囁かれた。 少しだけ。 ほんの少しだけ、身体に自由が戻る。 「僕は……どうすればいいですか?」 「そうね、まずは」  管理人さんが、いたずらっぽく笑った。 「さっきの、おいたの、お仕置きよ」  再び、僕は、根っこを掴まれ、ぐいと引っ張られた。 「……痛いです」 「我慢して。 それから、もうちょっと、こっち来て」 「……はい」  僕は、膝を立てるようにして管理人さんに近づく。   僕と管理人さんは、屹立する僕のものを挟んで向かい合う。  「元気いいわね」  「緊張で死にそうです」  「そうじゃなくて……」 「克綺クンの――」   それは確かに、その通りで。 さっきから刺激を受けた僕のものは、まっすぐ天を向いてそそり立つ勢いだ。 正直、苦しいほどだ。  「苦しくない?」  「はい」  「じゃ、楽にしてあげる」  ふわりと、管理人さんが僕によりかかる。 その柔らかな胸が。 柔らかな胸が。  僕のペニスをはさみこむ。  はじめて味わう感触に、僕は、打ち震えた。 だが。 「GYAAAHH!」  内なる獣が吠える。  僕の腕を振り回して、管理人さんを遠ざけようとする。 「あら、克綺クン、どうしたの?」  僕のペニスをはさんだまま、管理人さんは、そう言う。 「嫌がってます。いや僕が嫌がっているわけではなく、管理人さんの行為にはむしろ肯定的なのですが、僕の中に存在する魔力の塊が意志を持って……」 「ええ、わかってるわよ」  黒い血が、かつてないほどに暴れていた。 それにとって、子種を浪費することは絶対のタブーなのだ。 「だから、言ったでしょ。お仕置きだって」 「はぁ……」  そう言いながらも、僕の手は管理人さんを押しのけようと勝手に動く。 「克綺クンも、頑張って、その手を止めてみて」 「わ……わかりました」  言われて、僕は、両腕に集中する。 そう思った瞬間。 ゆっくりと。 管理人さんが動き出した。  暖かな乳房に、やわやわとはさまれたペニス。 その袋から根本から亀頭までを、すいつくような肌が、こすり上げてゆく。 腹の底からわきあがる快感が、ちりちりと首筋を灼いた。 「現在僕が置かれた状況は、集中をするのに適していないと思います」 「がんばって!」 「それは非常に困難なことと言わざるを得ません!」  獣は、狂ったように暴れ狂い、両手で管理人さんを押しのけようとしていた。 けれど、集中が難しいのは獣も同じだ。  管理人さんを突き放そうとするたび。 弾力を持った乳房はたわみ、やわやわと形を変えながら、僕のペニスのあらゆるところを吸い付くように、撫でてゆく。  そのたびに、獣の腕からは力が抜けてしまうのだった。 ペニスの先端に、こみあげるものを、僕/獣は、歯を食いしばって抑える。 「克綺クンは、別に我慢しなくてもいいのよ」  管理人さんの声に、ますます獣が猛り狂う。 「いやしかし。汚れますから」 「汚れたら洗濯してあげるわ」 「別に寝具の汚れを心配しているわけではなく、また、寝具が汚れた場合、自分で洗濯します。 ここで問題視しているのは、その、僕ら二人の位置関係的に、放出されたものが管理人さんの顔を汚す可能性であって……」 「あら、私は構わないわよ」 「僕は構います。 むしろ僕が構います。僕は管理人さんを汚したくありません」 「そう……だったら」  ちゃぷ、と、湿ったものが僕を包んだ。 濡れた唇が、僕のものを含んでいた。  あまりにも鮮やかな赤い色が脳裡に焼き付く。 くびれたところから裏筋まで、味わうように愛撫され、その先端を、つんと舐められた。 「……ちょっと待ってください。いったい何をしてるんですか?」  限界寸前。 その一瞬前に、管理人さんは、唇を離した。 銀色の糸がついと引く。 「これなら、顔は汚れないでしょ?」 「それは確かに論理的ではありますが……」 「でしょ?」  何かが違う気がする。 混乱する思考をまとめようとするが、うまくまとまらなかった。 「さ、力を抜いて」  そう言って、管理人さんは、僕の先端に口づけた。 「ふあっ……」  柔らかな、柔らかすぎる唇が、僕のペニスの先端を呑み込んだ。 「んん……ふぁぁ……ん」  ぬめ光る赤い唇が、先端を〈湿〉《しめ》してゆく。 亀頭の微妙な凹凸に吸い付き、たっぷりと唾をまぶしてゆく。  全身から力が抜けていった。 身体の芯を抑えられ、僕も。獣も。 もはや、指一本動かすことができなかった。 全身の神経がペニスに集中する。  ちゃぷ……ちゅぷ……くちゅる……  舌がなぞり、唇がこねあげる。 淫猥な音が鳴り響いた。  柔らかな乳房に僕のペニスはこねあげられ、その先端を舌がもてあそぶ。 嬲るように、鈴口を舌がつつく。 蠢く舌が、くまなく亀頭を舐める。 吸いついた唇が、くびれのところをしごきあげる。 「……あ……うぅ……」  食いしばった歯の間から声が出た。 「どう……いい?」 「いいで…す」 「そう……よかった。痛かったら、痛いっていいなさいね」  その言葉と共に、唇の動きが倍加する。 稲妻のように舌は閃き、唇はひねりをつけて吸い上げる。 過敏になったペニスは、すでにそれが痛みか快感か区別がつかず。 「ん……ちゅ……ふぁ……」  眼前の風景が溶けてゆく。 熱く濃いものが、身体の奥からこみ上げる。 それをとどめる力は僕にはなかった。 「Grrrr」  獣が悲しげな叫びを上げる。 その一言とともに、僕は……  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になる。 ほんのわずかな瞬間は、長く長く引き延ばされ、恍惚感が全てを支配した。  どくどくと、僕は液を吐き出した。   ──止まらない。 痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「んく……ん……」   一瞬の虚脱の後、僕は、その声に気づいた。 口の中一杯に、あふれそうにぶちまけたもの。 こくんと喉を鳴らして、管理人さんが呑み込む。   一心に呑み込むその姿に、僕はざわざわとした罪悪感に襲われた。 「すいません」   そう言って腰を放そうとするが、管理人さんは放さなかった。  「ちょっと待ってね。 今、綺麗にしてあげる」   唇を白く染めたものを舐め取って、管理人さんは、そう言った。 「う……」   まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。  痺れるような刺激が、脊髄を貫く。 目の前が真っ白になってゆく。  このままでは、僕は。 管理人さんを。管理人さんの口を。 ──〈汚〉《けが》してしまう。  その思いが、僕を動かす。 白濁したものがほとばしるよりも一瞬早く。 僕は、管理人さんの唇からペニスを引き抜いた。  結果は言うまでもないだろう。 全てを支配する恍惚感と共に。 白く濃いものが、管理人さんの顔を襲った。 どくどくと、僕は液を吐き出した。  眼鏡のレンズが、べったりと白く濁る。 白い液は、頬といい額といい管理人さんの顔一面を汚していった。  ──止まらない。 罪悪感は快感に勝てなかった。  痙攣と共に快感が断続的に襲いかかり、僕は、何度も、何度も、白いものを吐き出した。 すべてを吐き出し終わり、ぐったりと、力が抜ける。 「……も、もうしわけありません」  僕は、荒い息の下で、管理人さんに声をかけた。 「あら、どうかしたの?」  拍子抜けしたような声がかかる。 「いえ、その。 精液で顔を汚してしまって、すいません」 「克綺クン、こういうのが好きなのかなって、思ったんだけど……」  話す内にも、白い液が顔を伝った。 唇の脇に垂れたそれを、赤い赤い舌が舐め取る。 「違います!」 「いいのよ? 隠さなくても」 「本当に違います!」 「そうなの……」 「これを、どうぞ」  ベッド脇のウェットティッシュを渡した。 「あら、ありがと」  管理人さんが、濡れティッシュで顔を拭く。 その魔法の手が閃くと、ほんの一拭きで、魔法のように白濁液がぬぐわれてゆく。  最後に眼鏡を拭くと、もう、そこにいつもの管理人さんがいた。 「取れた?」 「ええ。綺麗です」  僕はうなずく。 「じゃぁ……今度は、克綺クンを綺麗にしてあげる」 「なんですか?」 「ここよ」  管理人さんが、僕のペニスを掴む。 「う……」  まだ奥に残ったものを、胸がしごきあげ、ちゅうちゅうと音を立てて、唇が吸い取る。 いまだ敏感な亀頭を、すみずみまで管理人さんの舌が這い、舐め清めてゆく。 「はい、これでいいわ」  さっぱりとした声で言われた時には、僕は、後ろへ倒れていた。 はぁ……はぁ。 息は荒く、静まらなかった。 ふわりと、管理人さんが僕の横に寝転がる。 「まだ、元気みたいね」  僕のものを指さし、淫蕩とさえ言える声で、管理人さんが囁く。 それは確かに、一仕事終えたあとも、まったく萎えずに屹立していた。 「身体は、動く?」 「……はい」  指を動かす。それから腕も。 ぎこちなくはあるが、なんとか動いた。  獣が弱ったのか。 というよりは、僕と獣が近づいた。 そんな気がした。 「まだ、いける? いけるわよね」  〈僕は〉《獣は》、こくりとうなずく。 「よしよし」  頭を撫でられて、僕は無上の喜びを感じる。 いや、喜びを感じたのは獣だ。  どちらだろう。 どちらでもいい。 喉をくすぐる管理人さんの指は、ただ、ひたすらに気持ちよかった。 「rrR……」  僕らは豊かな胸に頭をすりよせる。 すっかり飼い慣らされた獣が、甘えた声を出した。 「んふっ。かわいいわよ、克綺クン」  管理人さんの手が、うなじをなで下ろし、僕らは身を震わせた。 「管理人さん」  我慢ができなくなって、僕は、管理人さんの上にのしかかる。 両手を肩にかけて組み敷いた。 「あわてない、あわてない」  そう言われても。息は荒く。 「女には、女の準備があるのよ」 「では、準備をしてください」 「克綺クンも、一緒にするのよ」  管理人さんの手が、僕の手に添えられる。 僕らの手は、もはや暴れることはない。ゆっくりと、なすがままに、管理人さんの腰へ降りてゆく。  僕の指が、レースの下着に触れた。 絹の感触は、張りつめた生地の下の熱い肌とあいまって官能的な肌触りだ。 「まずはじめに、どうしたらいいか、わかる?」 「これを……外す必要があります」 「じゃぁ、ぬがして」 「はい」  僕と、僕の中の獣は、協力して、ゆっくりと管理人さんの下着に手をかける。 指がうまく動かない。 細かな動作には、未だに二人三脚のような違和感があった。  焦る獣と、それを押しとどめる僕。 なんとか指をかけ、ゆっくりと、引きずりおろす。 小さく丸まった布きれを、僕は、形のよい爪先から引き抜いた。 「あの……」 「なぁに、克綺クン?」 「見て、いいですか?」  くすりという笑い声。 「手探りでするつもりだったの?」 「選択肢としてはありえます。管理人さんが望むのであれば……」 「いいわよ。克綺クンなら」  ごくり、と、唾を飲み込む。 柔らかな繁みを、まじまじと見つめる。  繁みの奥の割れ目は、ほんのわずかに開いていた。 その奥のピンク色の襞と、まだ鞘に包まれた肉芽に、僕の目が吸い付く。 「触ります」  声に出す。出すことで、獣に分からせる。そして自分に踏ん切りをつける。 「ええ」  優しい声に後押しされて、僕は、ゆっくりと指を滑らせた。 指先が触れたものは、もう、十分すぎるほどに潤っていた。  亀裂を上から下になぞりさげてゆく。 それだけで、人差し指が糸を引き、濡れた音を立てた。 「これで、いいんですか?」  「だいじょうぶ。うまいわよ」   撫でるうちに、亀裂は優しく開き、秘奥を光の元に晒す。 艶やかな桃色は、光の中で息づき、呼吸するように蠢いていた。 感嘆の吐息が、亀裂を吹く。 「あ……ん」   優しい声に、獣が猛った。 濡れた指を伸ばし、肉芽に触れる。  「ん……ん……いいわよ、克綺クン」   僕と獣が呼吸を合わせる。 柔らかで敏感なそれを、僕らは、ゆっくりと撫でさする。 くちゅくちゅと音を立てて、僕らは愛液をなすりつける。 「は……ん……ん……」   肉芽は、次第に大きさを増し、その莢から顔を出す。 真っ赤に充血した肉芽に軽く触れる。  「あんっ……」   嬌声は悲鳴にも似て。 管理人さんがびくりと動く。 僕の指が、怯えて止まった。 その手に、管理人さんの手が重ねられた。 「いいのよ、大丈夫」  「はい……」   再び指が肉芽に触れる。 愛液に濡れたそれを二本の指で僕はなぞった。  「よく……できました」   声に、甘い喘ぎが混ざる。 「もっと、奥に……おねがい……」  「はい」   僕の指は、ゆっくりと亀裂の奥をさぐる。 待ちかねていたように、秘奥は指先を呑み込んだ。 暖かな肉がまとわりつく。 それは僕を奥へ奥へと誘った。 「そうよ。そのまま……かきまぜて」   二本の指を奥へ突き入れる。 ひらひらと指を振る。 くるくると指を回す。 ぴちゃぴちゃと指が音を立てる。   二本の指が動くほどに、亀裂はすぼまり、また、広がり、そのたびに洩れる声は、僕の血を熱くした。 「もっと……もっと、乱暴でいいのよ、克綺クン」   その声にうながされ、僕は指を早め、左手で、肉芽に触れる。  「あ……ううんっ……」   悲鳴のような声。 けれど、僕はもう、それが悲鳴でないとわかっていた。 二本の指を曲げ、また、伸ばす。 肉芽を撫ぜあげては、軽く弾く。 その挙げ句。 「くぅんっんんっ……!」   童女のような声をあげて、管理人さんの全身が震えた。 二本の指に震えが伝わる。 指は、亀裂の中で、大きく締め付けられた。   震えが静まるのを待って、僕は、二本の指を引き抜いた。 ぴちゃり、と、音を立てて、シーツに雫がこぼれた。 つい、と、指先を舐める。 管理人さんの愛液は蜜のように甘く、指を口に含むと、かすかに花の香りがした。 「克綺クン?」   潤んだ目が僕を見る。  「はい」  「準備はいいわよ」  「僕も、準備はできています」  「そう? まだ、身体が堅いわよ」  「緊張していますから」  管理人さんが僕の首を抱いた。 ゆっくりとひきよせられる。 甘い吐息を顔全体に感じながら、僕は管理人さんと唇を重ねた。  息もできないほど濃厚なキス。 このうえなく柔らかな舌に、僕は翻弄された。 管理人さんの舌は、僕の歯を割って入り、縮こまった僕の舌を弄ぶ。  甘い唾液が流し込まれ、僕の頭が、ぼうっとする。 舌が舌をねぶる。絞る。こねあげる。  僕の舌は僕の中でとろけて、甘い蜜に変わったようだった。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  ようやく唇が離れた時、銀色の糸が二人の間をつないでいた。 僕は荒い息をつく。 鼻息が管理人さんにかかる。 「力は、抜けた?」  管理人さんは、息一つ乱さずに、そう言った。 「は……い……」 「それじゃぁ……来て」 「行きます」  律儀に僕は答える。 声が、震えていた。  胸の鼓動は、獣だけのものではなかった。 この期に及んで、というべきか。 僕は、この状況が信じられなかった。 「まだ、恐い?」 「……はい」  なんだろう、この違和感は。  毎朝会って。 一緒にご飯を食べて。 これからもずっと一緒にいる。 僕の母親みたいな人。  この人と。僕は。今から。 ──交わる。 「じゃ、手を握っていてあげる」  暖かな手は、本当に母親のようで。 目を瞑ると。  感触の想い出が母親のものに重なった。 僕は、自分の意志で、管理人さんを突き放した。 「だめです。できません」 「……どうしたの? 克綺クン」  優しい声は、罪悪感を増した。 「だめなんです。 その……母さんと、しているみたいで」 「お母さんと?」 「僕は……母さんのことは、覚えていないんですが」  あの事故。 父と母を奪ったあの事故より以前の記憶は。 僕の中で、薄闇のように朧になっている。 「管理人さんには……毎朝、ご飯を作ってもらって。恵も一緒に世話してもらって。 考えれば考えるほど、母さんみたいで……。 もしも、母さんが生きていたら……きっと管理人さんみたいな感じで」  なぜだか、涙が出た。 なんの涙だろう。 「非論理的ですね。もうしわけありません」 「だいじょうぶ。克綺クンの言うことは分かるわよ。 とっても光栄だわ」  管理人さんの声が、優しく響く。 「光栄、なんですか?」 「私なんて、たいした世話はしてないんだもの。 克綺クンのお母さんに悪いわ」 「そうですか」 「本当に嫌ならいいけど……」  管理人さんは、僕の腰に視線を落とす。 僕の心は、目の前の人を母親だと思っているのに。 僕のものは、恥ずかしげもなく、そそり立っていた。 「慰めになるかどうかわからないけど……身体って意外と正直よ」 「そうなんでしょうか。 でも、僕は管理人さんが……母さんとしか思えないんです」 「そうねぇ」  管理人さんが考え込む。 「ね。克綺クンが、私のことをお母さんとしか思えないなら……お母さんに、甘えるつもりでしてみたらどうかしら?」 「え?」  声が裏返った。 と同時に、僕のものが、そそり立つのが分かった。 「気にすることないわよ。 昔から、英雄は、お母さんを〈娶〉《めと》るものだし」 「いや、確かに、そういう神話もありますが……」 「だいたい、この国だって、ちょっと前まで、そんな細かいこと気にしてなかったじゃない」 「ちょっと前って、管理人さん、いつの生まれですか!」 「女の人に、歳とか聞かない」 「はぁ」 「そもそも克綺クンにとって、近親相姦が、いけない理由ってなに?」  近親相姦。 管理人さんの口から出た言葉に、僕はぞくぞくした。 その声の響きを反芻する。 「生物学的には、遺伝子のバリエーションを広げるためです」 「そうなの?」 「はい。近親者同士は近い遺伝子を持っているので、その交配が続くと、遺伝子が均一化する。 そうすると、例えば、みんなが同じ病気にかかりやすくなったりしますから、絶滅しやすくなる」 「なるほどねぇ。 絶滅したら困るけど、たまにはいいんじゃない?」 「そうもいきません。 どんな健康な人間の遺伝子にも、致死遺伝子や、様々な深刻な病気や障害をもたらす遺伝子が、劣性遺伝の形で含まれています。 劣勢遺伝ですから、同じ遺伝子と出会わない限り発現しませんが、近親婚の場合は、発現しやすい。 そういうこともあって、近親婚を避ける文化が発達したのでしょう」 「ふぅん。克綺クンは、物知りねぇ」 「生物の授業を、真面目に聞いているだけです」 「じゃぁ、真面目な克綺クンに質問なんだけど」 「はい」 「それって、私と克綺クンに、関係あるの?」 「……」  僕は、しばらく考えた。 「ないですね」  そもそも僕と管理人さんに血縁関係はないわけだから、近親相姦ではない。 「しいていうなら、心理的な抵抗感というか……」 「心理的な抵抗感ねぇ……」  管理人さんの視線が、僕のものに熱く注がれる。 男性の生理は、心理に依存するというが……だとすれば、僕は、これ以上ないくらい「母親」に欲情している。 「母親に欲情するのは変態性欲の一種ですが……」 「それって、悪いことなの?」 「いえ。文化があれば逸脱するのも人間の習性です。 変態性欲にも、それはそれで、長い歴史と伝統もあります。 他人に迷惑をかけない限り、通常の異性愛以外の性欲を否定することは、狭量に過ぎるでしょう」 「つまり……問題はないわけね」 「……そうですね」  自分で自分を論破してしまった僕は、頭をかいた。 「それに……だいぶ身体も動くようになったみたいだけど」 「はい」 「克綺クンの中の魔力を鎮めてあげないとね」 「……そうでした」  僕は、改めて認識する。 管理人さんが、僕を受け入れているのは、僕の窮状を救うためだ。  それというのも、僕が、あの時、人魚の血を浴びたから。 つまり、管理人さんに付いていくと主張したからの自業自得に過ぎない。 「そんな顔しないで」 「はい」  僕は、荒い息を鎮める。 猛り立つペニスのことを一時忘れる。 確かめなければいけない。 「僕は……管理人さんを抱きたいと思っています」 「なぁに、それ?」 「ここにこうしている元々の理由は、身体にたまった魔力を抑えるためですが……それだけじゃないということです」  僕は、自分で言って顔をしかめた。 これは偽善だ。こんなことでもなければ、僕は管理人さんを抱こうとは思わなかっただろうし、今、言うのは、後付けの屁理屈だ。  だけど。 だからって。 言わずに済ませることは。 管理人さんの好意に一方的に甘えることは、それはそれで不誠実だと思う。 「わかったわ」 「教えてください。 管理人さんは、僕のことをどう思っていますか?」 「克綺クンのこと? 可愛い息子みたいに思ってるわよ。迷惑かな?」 「いえ。嬉しいです。 それで……管理人さんは、僕を抱くことをどう思っていますか? 無論、僕は、管理人さんに抱いてもらわなくては困るのですが、もし、それが理由で仕方なくしているのであれば、そのことについて知っておきたいと……」 「あぁ、もう……克綺クンったら!」  管理人さんは、僕のことを抱きしめた。胸に顔が埋まり、僕は目を白黒させる。 「嫌いなわけないじゃない」  優しく穏やかな声に、僕は、安らぐ。 それと同時に、熱いものが股間にみなぎる。 母親に欲情することが変態なら、僕は変態なのだろう。 心の底からそう思う。 「はい」  よかった。僕は、素直にそう思う。 「だいたい、克綺クンは、理屈がすぎるのよ。 子供なんだから、もっとこう……素直になりなさい」 「素直、ですか?」 「そう、素直よ。 克綺クンは、私としたいの、したくないの、どっち?」 「はい。したいです」 「元気でよろしい! 私も克綺クンとしたいわ。何か問題は?」 「ありません!」 「何かリクエストは?」 「え……あの」  予想外の質問に、僕は、一瞬うろたえた。 「手を……握っていてください」  母さんみたいに、という言葉を僕はのみこんだ。 けれど、いたずらっぽく笑う管理人さんを見れば、そんなことはお見通しのようだ。 「いいわよ……握っててあげる」  管理人さんの手が、僕の右手をそっと包む。 僕の身体から、強ばりが、ゆっくりと抜けていくのがわかる。 「他には?」 「ありません!」 「ないわね! よし!」  ぽん、と、背中を叩かれる。 僕の中の何かが、それで、吹っ切れた。 「行きます!」  その一言で、僕は、管理人さんに挑みかかった。  ペニスの先が、亀裂を探す。 あせったそれが肉芽を弾き、僕の腕の下で管理人さんが、かすかに身をそらす。 「落ち着いて、ゆっくりね」 「はい」  重ねた右手が、力づけるように僕を握る。 それは僕の支えとなった。 ゆっくりと、ゆっくりと腰を動かす。  最後に管理人さんが、わずかに動くと、僕の先端は、ようやく割れ目に巡り会った。 つぷつぷと亀頭が沈む。 「う……ん……そう、そこよ……」  かぎりなく柔らかで、それでいて、くいくいと締め付ける柔肉。 僕は、触れただけで達しそうになった。 「くっ……」 「はい、深呼吸して」  柔肉の動きが止まる。 僕は亀頭の先に暖かな感触を味わいながら、大きく息を吸って、吐く。 「入ります」 「どうぞ」  どこか間抜けなやりとりとともに、僕は腰を進めた。  管理人さんの中は、熱く潤っていた。 ゆっくりと、ゆっくりと、僕は身体を沈めてゆく。 じわじわと這い上がる快感をこらえながら、爆発物を扱うように。  ゆっくりと、ゆっくりと。 僕はペニスを埋める。 その先が、こつんと奥にぶつかった。 「あ……ん……」  僕の下で管理人さんの身体がさざ波のように揺れる。 組んだ右手に、かすかに力を感じた。 二人がつながったということ。 その事実を前に、僕はしばし呆ける。 「どう、気分は?」  管理人さんの言葉に、僕は、自分を取り戻す。 つながっている。 その事実が、ゆっくりと身体に染み通る。 「克綺クンは、お母さんと、したかったんでしょ?」  からかうような声に、僕のものが、さらに硬くなる。 「……そうです」  僕の背を抱きしめる腕。 握った手と手。  目をつぶれば、母さんに抱かれている様がたやすく想像できて。 そして僕と母さんはつながっていて。 ぞくぞくするような背徳感が背筋を走る。 「お母さんは、こんなことしてくれた?」  ゆっくりと、管理人さんの腰が動き始める。  ぴちゅ。くちゅり。 淫猥な音が響き渡る。 限りなく柔らかなものが、繰り返し、繰り返し、僕を締め付ける。  快感は全身に満ちて。 気が付けば、僕は。 獣のように腰を振っていた。 「うん……はん……んんっ……あぁんっ」  ぎこちない動きは、やがて、なめらかになり。 リズムはゆっくりと一致する。  がんがんと胸を打つ鼓動。 管理人さんの喘ぐ声。 ぴちゃぴちゃと音を立ててこすれ合う粘膜の響き。 すべては溶け合ってゆく。  快感が、容赦なくつきあげる。 何度となく僕を打つ快感は、時計の秒針のように精確で。 僕は、その快感の虜となる。 「管理人……さん」  うわごとのように、その名を呼ぶ。 「なぁに……あん……克綺……クン」 「そろそろ……射精しそうです」 「いいわよ……ん……来て……」 「今、思いついたんですが……」 「なぁに?」 「その、避妊の問題は……」  ちなみに避妊を考えるなら、入れている時点で問題である。 膣内射精を行わなくても、微量の精子は洩れており、それによって受胎する可能性も存在する。  とはいえまぁ、思いつかなかったのだから、仕方ない。 管理人さんが、僕を、ぎゅっと抱き寄せる。 急に角度の変わったペニスが、膣の中で暴れた。 それだけで漏れそうになり、僕は息が詰まる。 「心配しなくていいわよ」  耳元で管理人さんが囁く。 「それは、どのように心配の必要がないのですか?」  僕も囁き返す。 「克綺クンは、ほんとに考えすぎなんだから」 「そこがいいところなのだけど……考えないほうがうまくいくこともあるのよ」 「考えないこと、というのが……うっうまくできないんです」 「そうねぇ。じゃぁ、考えられなくしてあげる」 「え?」  身体が密着したまま、再び腰が動き始める。 胸と胸が触れあう。 柔らかな乳房がつぶれ、硬く立った乳首が僕の胸をなであげる。  腰と胸。 加えるに、背。 管理人さんの指が、僕の背中をなでていた。  新たな刺激に脳が沸騰する。 三つの刺激が、それぞれ違ったリズムで僕を責め立てる。 指は、背を降りて、腰に達し、やわやわと指に尻を撫でられる。 「管理人……さん!?」  腰は僕のものを、根本からくびれから先端まで、絞り上げるように蠢き、管理人さんの乳首が僕の裸の胸に、くるくると円を描く。 その傍らでは、淫蕩な指が僕の尻を責め立てる。  三つの違ったリズムに、身体が沸騰する。 雨のように降り注ぐ鋭く、強い刺激。  刺激の合間の、産毛だけをさわさわと撫でられるような。 〈隔靴掻痒〉《かっかそうよう》の快感。  その両方が、溶け合い、高めあい。 思いの全てを快感が占め。 思考という思考が奪われてゆく。  管理人さんの、指が乳房が性器が。 それが触れているところが僕であり、その僕は真っ白に塗りつぶされてゆく。  指が。 彼女の指が、僕の尻をかきわけ、その奥の、すぼまりに、するりと潜り込む。  それが、とどめだった。 「くぅっ……!」  全身が痙攣する。 僕という僕の、そのすべてが絞り尽くされる。 熱く、激しく、雄々しく。 僕は、僕の全てを放っていた。  どくどくと、それは音を立てて流れ込んだ。 それは管理人さんの〈膣内〉《なか》を満たし、そして、あふれだす。  長い長い一瞬の後、全てを吐き出し終え、どっと、全身から力が抜けた。 汗みずくの身体が管理人さんによりかかると、結合部から、どろりと濃いものがあふれた。 「どうだった、はじめては?」  甘い囁きに答えることもできず。 僕は、ただ荒い息をついて、うなずいた。  管理人さんの腕が、僕の髪に触れる。 髪を、ゆっくりと撫ぜるその指先は、とてもとても心地よかった。  僕は、一息つき、握りしめていた手を放した。 ずっと握りしめていた掌は、汗ばんでいた。 ゆっくりと身を起こすと、ぺちゃりと音がした。  引き抜いたペニスに、下腹に。 管理人さんに。 乾きかけの精液が粘っていた。  さっきまで、あれほど熱かったものが、いまはもう冷たい。 僕は、溜息をついた。 「待ってて。今、綺麗にしてあげるわ」  管理人さんが、枕元からウェットティッシュを引き抜く。 魔法の指先が一拭きすると、下腹の汚れは、一瞬でぬぐわれた。  ティッシュを変えて、今度は。 「ひゃっ!」  冷たいティッシュが局部に触れて、僕は、声を出した。 「ほら、逃げちゃだめよ」 「……はい」 「はい。いま、きれいにしてあげますからね」  自分で拭けます、と、なぜ言えなかったのか。  まるで、ほっぺたの食べ汚しをぬぐわれる幼児のように。 管理人さんの手が、僕のペニスをぬぐってゆく。  幼児のもののようにうなだれた僕のペニス。 濡れたティッシュごしに、細い指先が僕のものをしごく。  そうしてあふれた精液をぬぐい去り、再び下から上へ丹念に拭いてゆく。 やがてそれは亀頭に達し、表から裏まで、隅々を触れてゆく。 「……あらあら」  理の当然として、僕のものは、幼児とはかけはなれた姿に変わってゆく。 「やっぱり元気ねぇ」  管理人さんの感心した声に、僕は顔を赤くした。 「もう一度……する?」 「いえ、結構です」  「あら……」   残念そうな声に、僕はあわてて補足した。  「管理人さんとの性交が魅力的でないわけではなく、あくまで全身の疲れによるものです」  「元気そうだけど?」 「他の部分が疲れているんです!」  「冗談よ」   ぬぐい終わって、管理人さんは、笑った。 あれほど激しい運動だったというのに。 その顔に、疲れの影はなかった。 「それで、身体の調子はどう?」   僕は、息を吸って、そして、吐く。  胸の鼓動は強く、安定しており、もはや暴れてはいなかった。  「大丈夫、みたいです」  「そう……よかった」 「あの……管理人さんは?」  「私が、どうしたの?」  「大丈夫ですか?」  「私は、大丈夫よ。 どうしたの?」  「いや、その」   僕は、口ごもる。 「管理人さんは……無理とかしてませんか?」  「無理?」  一瞬。ほんの一瞬。 管理人さんの顔が、凍りついた。  いつもの笑顔をそのままに。 しかし、生気はなく。  それはまるで笑顔を描いた仮面のようで。 けれど、それは、ほんの一瞬のこと。 まばたきする内に、溶け去った。 「別に、平気だけど、どうして?」  「それは……全面的に、僕の都合につきあっていただいたわけですから」   僕は取り繕う。 どうして「無理」なんて言ったのだろう。 疲れていることと、無理していることは、別のはずだ。 「克綺クンのためなら、これくらい、いつでもしてあげるわよ」   そう言って、管理人さんは、僕の唇をつつく。  「ありがとうございます」   そう言った途端。  胸が、疼いた。 今までにない鋭い痛み。 「どうしたの、克綺クン?」 「が……く……」  痛みに息がつまり、返事は、ろくに言葉にならなかった。 鋭く、澄んだ痛みが、心臓に巣くっていた。 管理人さんが、僕に手を伸ばす。 右手が胸に触れる。  甘い感触とともに、痛みは、疼きに変わった。 「まだ……残ってたみたいね」 「はい……」  痛みの元は消えたが、鋭い痛みは、まだ身体の節々にこだましていた。 「どうすれば、いいでしょう?」 「そうね……」  管理人さんが、僕の胸に触れる。 その目は、僕の中を見通すようだ。 「だいぶ、力が弱ってるみたいだから。 直接、引き出してみるわ」 「何を、引き出すんですか?」 「魔力の元。怨念よ。 克綺クンの表に出しても、今なら大丈夫だわ」 「そうですか」  よくわからないが、特に代案があるわけじゃない。 「お任せします。僕は、どうすればいいですか?」 「リラックスして、心を落ち着かせてみて」 「はい。それだけですか?」 「ええ」  さて、具体的にリラックスする方法というと、何があるだろうか。 僕は、大きく深呼吸する。  管理人さんの目が、遠慮無く僕を見つめる。 鼓動が早くなった。 「もう少し……リラックスできない?」 「やってはみますが、方法は思いつかない」 「そうね……じゃぁ、こういうのはどうかしら?」  管理人さんが、僕を抱き寄せた。 熱い乳房が僕の顔を覆った。 甘く、ミルクのような匂いが、ゆっくりと僕を包み込む。  気が付くと、赤子のように、僕は、その乳首にむしゃぶりついていた。 口の中に広がる甘い味。 限りない安らぎが僕らを満たした。  僕の中でうずまく黒い血が。 ゆっくりと、その怒りをほぐされてゆく。 「あ……」  泣いている。 僕の中の獣が泣いている。 頬を伝い、大粒の涙が、いくつも流れた。 「あぁーん。あん……あぁあん」  しゃくりあげるように、それは泣いた。  胸の内を、僕の身体を、悲しみの波が洗ってゆく。  ゆっくりと。 深い深海から浮かび上がる泡のように。 水底に暮らす人魚の想いが、ゆっくりと広がりながら僕を満たしてゆく。  そこにあるのは帰らぬ過去の想い出と、 苦痛に満ちた地獄。     それは、春、水ぬるむ頃。 無数の卵を割って産声を上げる赤子達の合唱。 それは、地下深い水の中で、孵ることなく腐れ落ちる無数の卵。   それは、星の明るい夜。 水面で跳びはねる稚魚たちのじゃれ合い。 あるいは互いに戯れ、あるいは、母の周りにくっついて泳ぐ稚魚たち。 それは、幼くして病に倒れた稚児達。     それは、月の晩の若人たちの求愛の宴。 一人の母を巡り、若者たちは、その優美な姿態を誇示し、また、その力を競い合う。 それは、〈爛〉《ただ》れた身を引きずるように生きる若者たち。 緩やかな狂気が、やがて、その身体を満たし、地上で無惨な死を遂げるまで。     それは、清水の中で、人に敬われ、崇められ、晴れやかに暮らす、わだつみの民。 それは、日のあたる場所を追われ、流れ流れた地の底に。 毒の水を注ぎ込まれ、ゆっくりと、ゆっくりと、滅びてゆく、わだつみの民。   それは、そのすべてを見届けた母の心。 変わりゆく世界に何事も為せずに、ただ、子らの滅びるさまを見つめ続けた母の心。     僕は。僕らは。赤子のように泣いた。 涙は涸れず、管理人さんの胸を滝のように流れ落ちた。   悲しみは涸れることがなく。 ただ、悲しみを顕すことに、かすかな安らぎがあった。 管理人さんの指が、僕の頭を撫でる。 一撫でごとに、人魚の心が解きほぐされる。   悲しみは涸れることがなく。 ただ、涙は流れるのを止めた。 僕は、顔をあげる。 管理人さんが、涙にぬれた頬をぬぐった。    「聞こえる? あなたを殺したのは、私よ」   管理人さんの声が、重く、響いた。  「妾は、それを恨んでいない。 我らは既に生きていなかった。 迅速な死の恵みを感謝する」   僕の中の人魚が応える。  「では、何を恨むの? あなたがたを滅びに追いやった人を?」    「滅びの定めは遙か昔に定められた。 そして、我らは、それを受け入れた」  「晴れがましき日々があり、苦しみの日々があった。 滅びの道は火のように苦く、岩を穿つ水のように長かった。 しかれども──」  「決して言うまい。 苦しみが喜びに勝ったとは。 〈一度〉《ひとたび》、子らを抱きしめる喜びは、永劫の責め苦を贖って余りある」  「なら、あなたは何を悩んでいるの?」   「妾は恨まず。憎まず。ただ、嘆くのみ。 失われた命を。生まれる前に死した子らを。 育たずに死んだ子らを。もはや永劫に生まれることのない命を」  「悲しいのね」 「然り」  「ずっとずっと悲しくて、寂しかったのね」 「然り」  「悲しくて寂しいときは……どうしていたの?」   「妾は耐えた」   たった一言。重い一言。  「悲しみは子らを怯えさせる。 栄えた過去を知る寂しさは、妾一人のもの」  「そう」   管理人さんは、小さくうなずいた。  「でも、もっと昔は? 思いだして。まだ大人になる前の頃」   管理人さんの声は、歌うようだった。   「まだ、あなたが小さくて。嵐の夜に、星がみえなくて泣いた時」  「晴れた夜。水底から見あげる月が、あんまりきれいで、さびしくなった時」  「思いだして。あなたは、どうしてた?」   僕の中に記憶が蘇る。 それは、暖かな抱擁の記憶。 優しく、しっかりと身体を包む腕。 それは、悲しみを吐き出す場所。寂しさを癒す場所。 刺すような悲しみも、 深い深い孤独さえも。 その暖かな手で触れられるだけで、どこかへ行った日々。   「置いていきなさい」   声は、限りなく優しかった。  「悲しみも、寂しさも。ここへ置いていきなさい」  「あなたは精一杯生きて、そうして死んだ。 あなたのことは、私が覚えている。 あなたを殺した私が覚えている。だから」  「もう、いいのよ」        僕の右目に、涙が、湧いた。 真珠のような、大粒の涙。 それは、ゆっくりとあふれ、そして弾けて消えた。   それで、終わりだった。 「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」  柔らかな声と、ノックの音。 「ご飯だよ!」  ゆっくりと僕は、目を覚ます。 窓から入る日が赤い。  朝焼け、ということはないか。 夕焼けだ。  僕は、大きく伸びをする。 ずいぶん寝てしまったようだ。 というより。 「遅刻だ!」  あわてて制服を着込み、ドアを開ける。  カバンを持って階段を駈け降りようとすると、恵が声をかけてきた。 「お兄ちゃん、どこ行くの? ご飯は?」  「学校に行く。食べてる暇はない」  「学校?」  「そうだ。遅刻だ」   そこまで言って、ようやく気が付く。 夕方から学校に行ってもしょうがあるまい。 「まだ、寝ぼけてるの?」   あきれたような恵の声。  「そうだな。 もう、学校は終わってるか」  「ていうか、今日、日曜だけど」   ああ、僕は、本当に寝坊していたようだ。 「そうか。そうだったな」   気が緩むと、急に眠くなった。  「なら学校に行く必要はないわけだ。 お休み」   僕は部屋に戻ろうとする。 「ちょっと、お兄ちゃん! 晩ご飯は?」 「ん、晩ご飯?」  「大丈夫?」  「たぶん、大丈夫だと、思う」  僕は、部屋に戻って顔を洗う。 それでようやく目が覚めた。  昨日の夜のことを思い出す。 「大丈夫? 克綺クン」  管理人さんが、白い裸身を起こす。 「ええ……」  僕も、もたれかかっていた身体を離した。 少しだけ名残惜しかった。  全身を大きな疲れがおおっていた。 胸に手を当てる。  ゆっくりとした鼓動が、そこに時を刻んでいた。 「僕の魔力は、もう、なくなったんですか?」  そう言うと、管理人さんが首を振った。 「消えたのは、魚人の執念だけよ。 力自体はまだ、そこにあるわ」  僕は、コンクリに穴を開けたことを思い出す。 あの力は、まだ僕の中にあるわけか。 「封印とかは、できないんですか?」 「できなくはないけれど、長持ちはしないわね。 克綺クンの身体にも悪い影響が出るかもしれないし」 「そうですか」 「もう勝手に暴走することはないと思うけど、多少の訓練はいると思うわ」 「気が重いです」 「そうね。 でも……そのほうがいいかもしれないわね」 「どういうことですか?」 「前に言ったでしょ。 克綺クンは、人外のものに狙われてるって」 「えぇ」 「自分を護る力があったほうがいいわ」 「この力……人外に対抗できるんですか?」  言ってから自分の間抜けさに気が付く。 僕は、あの時。 人食いの女を殺している。  そんな重大なことも。 すっかり忘れていた。 「ポテンシャルは、あの魚人と同じ。 鍛えれば、すごく強くなるわ。でも……」  管理人さんは、僕の頬をはさむ。 「はい」 「無理はしちゃだめよ。なるべく逃げて、私を呼んで。 そうしたら、いつでも助けてあげるから」 「はい」  うなずく僕を、管理人さんは、じっと見て、そして笑った。 「じゃ、お疲れさま。あ、シャワー借りていい?」 「はい」  管理人さんは、服をまとめて浴室へ入っていった。 ほどなくして水音が響き始める。  その音に耳を傾けながら。 急に眠気が襲ってきたことを覚えている。 「僕の力、か」  魚人には、水を操る力があったはずだ。 僕は、顔を洗いながら、そのことを思い出す。 掌を蛇口に近づける。  まるで、静電気に引き寄せられるように、水流は僕の手に吸い寄せられ、腕に巻き付いた。  心臓が大きく鼓動しはじめる。 そこから力が生じて、全身にみなぎるのがわかった。  蛇口を止めても、水流は僕の腕から落ちなかった。  その光景に不自然さを感じた瞬間。  水は、ぱしゃんと音を立てて下へ落ちた。 洗面台に流れてゆく。  もう一度試す。 再び水を流し、腕に巻き付ける。  今度は目をつぶって、腕の感覚に意識を集中した。 触れている水が、僕の身体の一部になる。 それは指のように繊細で、耳のように響きを感じ、腕のように長く伸びていた。  目を開ける。  水は僕の腕を覆い、指先にそってうねうねと蠢いていた。 意識して、水を動かす。  右へ。左へ。 数度動かしたところで集中が切れた。  再び、ぱしゃんと水が落ちる。  ──案外、難しいものだな。 「お兄ちゃん、まだ? ごはん、冷めちゃうよ?」  ドアの奥からの声に僕は訓練を切り上げた。 「今、行く」 「起きた? 克綺クン」  「ええ、もう、お兄ちゃん、寝ぼけてばっかりいるんですよ」   いつもと変わらない管理人さんの顔。 その顔が、なぜか、まぶしかった。  顔を見るたび、昨日のことを否応なしに思い出す。  あの時の顔が。そして裸身が。 目の前にちらつく。  心臓が、どきどきと脈打った。 「どうしたの、お兄ちゃん。 変な顔して?」  「どうやら、僕は、当惑しているらしい」  「変なお兄ちゃん」  恵は、そう結論づけて座った。 「さ、どうぞ」   うつむいている僕に、管理人さんの声が、空から降ってきた。  「「いただきます」」   声を揃えて、僕はいう。 「わぁ、これ、おいしい」  「恵、おまえ、ニンジン嫌いじゃなかったか?」  「いつの話よ、それ」  「もう、子供じゃないんだから、ニンジンくらい食べられるって」  「そうか」  それにしても、おいしいニンジンだ。 ことことと煮てからバターを絡めたグラッセ。 ブイヨンとバターが、ニンジン本来の甘みを引き出している。 「おいしい? よかった」   管理人さんが微笑む。  「ニンジンは、やっぱり好き嫌いもあるものね」  「管理人さんのニンジンなら大丈夫です」   うんうん、と、恵がうなずく。  個人的な信条だが、この世にまずい料理はないと思う。 好き嫌いがあるとしたら、それは、たまたま、悪い素材か下手な調理にあたった記憶のせいだ。   上品な甘みと、最高級のケーキのような絶妙な歯ごたえ。 この世の、どんな子供であっても、このニンジングラッセを最初に食べれば、ニンジン嫌いになることはあるまい。 「よかった。いっぱい食べてね」  「はい」   僕は、管理人さんを、まっすぐ見て、そう答えていた。 もう、僕は当惑していなかった。  結局。 あれだけのことがあっても。 管理人さんは管理人さんで。 僕は僕だ。  管理人さんは、あの優しい笑顔で、ご飯を作ってくれる。 これからも、それは変わらない。 そんな当たり前のことが、ようやくにして感じられた。 「お兄ちゃん、もう食べないの? よかったら……」  「食べる!」  「ちょうだい?」  「あげない」  「ケチ!」 「ニンジン、お代わり、あるわよ」  「わっ。いただきます!」  「僕も」  「あらあら」  嬉しそうに、管理人さんがニンジンをよそってくれる。 ちなみに、ニンジングラッセはつけあわせで、メインは地鶏のグリル。   これがまた、素晴らしい。 香ばしく、ぱりぱりとした皮。   噛めば口の中にあふれる肉汁。 味付けは塩とハーブだけ。 チキン本来の味を、これでもかというほどに味わえる素晴らしい料理だ。 「おいしい!」   恵が、かぶりつきながら、言う。 全くだ。 「ずいぶん元気そうだな。身体のほうは、もう大丈夫なのか?」  「うん」   恵は、大きくうなずく。 おいしいものに、食欲を感じる。 これは健康の何よりの証だ。  「よかった」   昨日、僕が恵にしたこと、しかけたことを考えれば、再び心を閉ざしていても仕方ないというのに。 「ごちそうさま」   僕は、満たされた気持ちで、食器を置いた。 「おそまつさまでした」   恵は、まだ、食べている。 「ああ、そういえば」 「なぁに、お兄ちゃん?」 「昨日は、すまなかった」 「なにが?」   恵が警戒の表情を見せる。  「いや、情欲のままに押し倒し、唇を奪ってすまなかった、と」  「っっ!!」   爪先に鋭い痛み。 テーブル下で、恵が思いきり踵を落としたのだ。 「どうした、恵!」  「どうしたじゃないわよ!」   顔を真っ赤にした恵が叫ぶ。  「過ちを犯したら謝罪をするものだ」  「いいから、後にして!」  恵は、すごい勢いで、晩ご飯を食べ終わると。 「ごちそうさま」  そう言い捨てて、僕の腕を引いた。  ずんずんと僕を引っ張って階段を上る。 「恵?」 「なによ?」 「早食いは消化によくない。 昨日までは病人だったんだから、もう少し身体を労ったほうがいい」  ぎぎ、と、音を立てて、恵がこっちを向く。 その顔には、鋭い殺意が、はっきりと見て取れた。 引っ張られた腕に恵が力を込める。   僕をここから突き落とそうかと逡巡するのが分かった。 「恵?」  「なぁに、お兄ちゃん」  「怒っているようだな」  「わかってもらえて嬉しいわ」  「何を怒っている?」  「いいから、こっち来て!」  僕は、腕を引っ張られて、恵の部屋に放り込まれた。 「はい!」  放り投げられたクッションが顔に当たる。 その上に僕は座り直した。 「それで、何をそんなに怒ってるんだ? 昨日のことについては、あやまる」  「そうじゃなくて! 管理人さんの前で! 大声で言わなくてもいいじゃない」  「何が問題なんだ?」  「恥ずかしいでしょ!」 「あぁ、なるほど」   管理人さんは、だいたいの事情は知っているわけだが。 さすがに、それは言わないほうがいい気がした。  「なるほどじゃなくて」   恵は、一つ溜息をつく。 「お兄ちゃん、昨日は、どうしたの?」  「情欲のままに押し倒した件か?」  「そう、それ」   恵は、何かをあきらめたようにうなずいた。 「説明が難しいが、憑かれていた、というのが正確なところか」  「疲れてたのね」  「そうだ」   僕らはうなずきあう。 「そりゃ、疲れるわよね。 交通事故からこっち、お兄ちゃんも大変だったでしょ?」  「あぁ。端的に言って、色々あって大変ではあった」  「ごめんね。私のせいで」  「恵のせいじゃない」   僕は首を振る。 「憑かれたのも恵を襲ったのも僕の責任だ。 恵には関係ない」  「責任はなくても、関係はあるよ。 家族なんだから」  「……そうだな。 だからといって僕のしたことが免責されるわけではない。 昨日はすまなかった」  「いいよ。 急だったから、びっくりしたけど……なんていうか、そんなに嫌ってわけじゃ……なかったから」 「ん? よく聞こえないぞ」  「もう。知らない!」   恵が横を向く。 「どうやら大丈夫だな」  「なにが?」  「恵も僕も、さ」   昨日のことがあったあとで。  こうして二人きりで恵といると、心臓が脈打った。 愛しさとともに、それだけで終わらない劣情が、自分の中に感じられた。  可愛らしい唇を。息づく小さな胸を。 見たい。触れたい。奪いたい。   けれど。 だからといって、僕は、それに流されるようなことはなかった。 自分のことは自分で決められる。   僕は、大丈夫だ。 恵のことを守ってやれる。  僕は、笑った。 「どうした?」  「お兄ちゃんが変な顔してる」  「笑ってるつもりなんだが」  「わかってるよ。 でもさ、お兄ちゃん、いつも、もっと仏頂面で笑うじゃない」  「そうなのか?」 「うん。今、普通に笑ってる。 何かあったの?」  「色々あったわけだが、要約が難しい。 普通に笑うのは、嫌か?」  「そんなことないよ」   恵が笑い返す。  「そうか」   かすかな響きに僕らは沈黙した。 壁の向こうから響くのは、電話の音だ。 「電話、鳴ってるよ? お兄ちゃんの部屋じゃない?」  「だな」  僕は、急いで部屋に戻る。  駆け足で受話器を取る。   「はい、もしもし」  「おう、俺だ」  「どうした?」  「せっかくの日曜だ。 恵ちゃんも誘って遊びにいかねぇかと」  「今からか?」  「そう思って、朝から電話をかけてたんだが、どこいやがった?」   「あぁ、寝てた」  「寝てたぁ?」  「昨日の夜、色々あってな。 疲れがたまっていたらしい。夕方まで寝てた」  「……ま、いいけどな。恵ちゃん、せっかく日本に来たんだろ。 どっか遊びに連れてってやったらどうだ?」  「ふむ……確かにそうだ。調子もよくなったみたいだしな」   「なんなら明日でもいいぜ」  「学校を休むのは感心しない。 早く帰って、午後から遊ぶというのはどうだ?」  「構わねぇが……アレだろ、最近、夜は物騒だろ?」  「連続殺人事件か。あれなら気にする必要はない」  「あぁ、どういうこった?」  「言葉通りの意味だ。事件はもう起きないはずだ」 「克綺、てめ……なに……」   峰雪の声に雑音が混ざった。  「すまないが、電話が遠い。もう一度言ってくれ」  「かつ……きこ…の…い!」  「もしもし? 聞こえるか?」   次の瞬間。  耳に痛いノイズが響き、電話が沈黙した。  切れたのではない。 受話器は、全くの無音だった。 「もしもし?」  フックを何度も押すが、受話器は沈黙したままだった。 心臓の鼓動が不吉に高鳴る。  おかしい。 停電……のわけはないか。 電灯は点いている。  電話線のモジュラージャックを触るが、回復はしなかった。  ふむ。 僕は、部屋を出た。  まず、原因を確定させる必要がある。 問題が、僕の電話にあるのか、それとも電話回線にあるのか。 それを特定しよう。  階段を降りて管理人さんの部屋をノックする。 「管理人さん、電話機を貸してください」 「あら、克綺クン、どうしたの?」  「部屋の電話が通じないんです」  「そう。どうぞ」  僕は、受話器を取る。 が、聞こえてくるのは沈黙のみ。  電話機自体の故障が重なるとは考えにくい。 このあたりの電話回線が、ダウンしているのだろうか。 「これもだめですね」 「え?」  管理人さんに受話器を渡す。  その間、僕はテレビをつけた。  一面の砂嵐だった。 きれぎれに画面らしきものが映るが、ほとんど判別不能だった。 チャンネルを変えても同じだった。  携帯を出してみたが、案の定、アンテナは立っていない。 「妙ですね」        この家は、現在、通信が遮断されている。 可能性は二つ考えられる。 偶然か、作為か、だ。   偶然なら……たとえば、太陽黒点の影響等で、電子機器に影響が出ている場合などが考えられる。 そして。 作為ならば。  僕は、恵がいないことを確認して管理人さんに聞いた。 「電波を途絶させる人外というのはいますか?」  「克綺クン?」  「攻撃を受けている可能性があります」  「このメゾンに?」   管理人さんは眉をひそめる。  「恵を見ていてください。 外を見てきます」  管理人さんは、小さくうなずいて部屋を出た。  僕は、玄関から外へ。  日は既に暮れていた。 メゾンの周りは、街灯もなく、家から数歩出れば、真っ暗闇だった。  僕は、息を吸って思い出す。 昨日。 あの夜。 僕は、暗闇の中、見えていた。  目を閉じて胸に手を当てて、あの時のことを思い出す。  風に当たる風。 そしてその中の水気。  鼓動が一つ打つたびに、僕は、風を泳ぐ魚となる。  閉じた瞼の裏で、ゆっくりと周囲の風景が像を結んだ。   魚類には側線と呼ばれる感覚器があり、水流を感知する。  今、僕の細胞の一つ一つは、風の動きを捉えていた。   立ち並ぶ並木道から吹くまっすぐな風は、背後にそびえるメゾンで左右に分かれて吹きすぎる。  その滑らかな線のひっかかり。 点々と立ち並ぶ障害物。 ぼんやりとした影は、人の形をしていた。 数は数十。   メゾンは、完全に包囲されていた。 「管理人さん」  僕は、階段を駆け上がりながら、声をかけた。 「克綺クン」  恵を連れて降りてくる管理人さん。 その表情は、硬い。 「お兄ちゃん? どうしたの?」  「屋敷が包囲されている」   僕は端的に事実を述べた。  「逃げなきゃいけない」  「包囲って」   管理人さんが息を呑む。 「人影が数十ほど」  「数十?」  「わかりますか?」  「この街で、それだけの人外といったら、吸血鬼たちくらいね。 でも……それなら、私が気づかないはずは……」  「あとにしましょう。 管理人さんは、恵を連れて逃げてください」 「お兄ちゃん?」   状況を理解できない(当然だ)恵が、不安そうな顔をする。  「なぁに、管理人さんについていけば大丈夫だ」  「お兄ちゃんは?」  「彼らの狙いは僕だ。 だから囮になる」 「だめよ、克綺クン」  「いいえ、これが一番合理的な方法です」  「でも……」  「僕には力があります。 そのことを、彼らは知らない」 「お兄ちゃん、どういうこと? 説明して!」  「僕を殺そうとする連中がメゾンに集まった。 危険だから逃げなきゃならない。 二手に分かれよう」  「わかったけど、わからないよ! それに、お兄ちゃんは?」  「言った通りだ。 僕は一人で逃げる。 恵は管理人さんと行け」 「本気……だよね」   恵が、じっと僕の顔を見る。  「大丈夫だ。 僕なら、それなりの勝算がある」   僕は、笑顔を作った。 勝算は単純だ。 僕が先行して彼らを引きつければ、少なくとも恵は助かる。 そうすれば僕の勝ちだ。 「絶対、戻ってきてよ」  「世界に絶対は、ない」   恵の瞳に、みるみる涙がたまった。  「約束して」   約束、か。 生きのびるために僕が全力を尽くすのは当然のことだ。 そんなことは恵も知っている。 互いにわかりきったことを、口に出すことに、どんな意味があるのだろう。 それは多分、祈りのようなものなのだろう。  不運。不幸。事故。苦難。 常に隙をうかがう、確率という名の不条理に。 真綿で首を絞めるように、ゆっくりと迫り、決して逃げられない統計という名の運命に。 それらを避けるには、人の力はあまりにも無力で。 無力であるが故に、その願いを口にする。 明日に平和を。 あなたに平穏を。 口にして、どうなるわけでもない。 何も変わりはしない。  それでも。人は祈る。   自らの力が及ばぬ事象を前にして、なおも生きようとするその決意。 それが祈りなのだろう。 「約束する。僕は帰ってくる」  「帰ってこなかったら怒るからね」   目にいっぱい涙をためて、恵が言う。 僕は、その涙に、ふっと息を吹きかける。 きらきらと輝く涙は、僕の指先に移る。  恵が目を丸くした。  指先のものを、僕は口に運んだ。 恵の涙は暖かく、塩辛かった。   僕は笑った。 笑うことは祈ることだ。 生きることを、生き抜くことを信じることだ。 「恵を頼みます」   僕は管理人さんに向きなおる。  「任せて」   管理人さんは胸を張って笑った。  「さ、恵ちゃん、コート着て。 外は寒いわよ」  「はい」 「あ、克綺クン、これ、持ってって」  管理人さんがくれたのは、小さな香水の瓶だった。 「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」  恵たちは廊下を走って裏口に向かった。 僕は玄関前に立つ。  唐突に、メゾンの灯りが落ちた。  暗闇の中で、ざり、と、耳障りな音が響いた。  ドアからだ。 鋸のような音は、二度、三度と響き、がらん、がらんと、間抜けな音がする。  ドアは切り裂かれ、星灯りが差し込んでいた。  大きく長い影を伸ばして現れたのは、仮面の巨人。  その右手がふりかぶられ──。  ゴムのように伸び、ハンマーのように振り下ろされた一撃を、僕はすんでのところで躱した。  爆音とともに、床が爆ぜる。  宙を薙ぐ左腕の一撃。  とっさにスウェーしたが前髪がもっていかれる。 壁に食い込む腕を蹴って、僕は、巨人に向けて走った。  ──狭いところでは不利だ。  長く伸びた腕の死角。 脇の下をくぐり、転がるようにして玄関を抜ける。  起きあがるより早く、白く強い光が僕の目を灼いた。 視覚に頼っていたら、数瞬、ひるんでいただろう。 だが、僕が見ているのは目じゃない。  風の流れと振動を感知する三次元知覚だ。  視野に、無数の点が映る。 無数の小物体が、空気に穴を穿って高速で飛来していた。 それが銃撃と悟るより早く、僕は宙に飛んでいた。  心臓が強く脈打つ。 魔力は全身にみなぎっていた。 空中で身を翻し、探照灯の範囲外に出る。  地面についた時には、準備はできていた。 メゾンの前庭は、舗装されていない土の地面だ。 それは、夜露にたっぷりと濡れていた。  たんと、踏むと、土の中の水が答えた。  氷結。 鋭く尖った棘が、一斉に大地から生える。 あちこちから悲鳴が上がった。  喉から歌が洩れていた。 それは水に呼びかけ、僕の手に引き寄せる。 氷の柱が瞬く間に溶け、かすかに血に染まった水が僕の手に飛び込む。  それはバネ仕掛けのリボンのように僕の全身に巻き付いた。  僕は走る。 急ぐ必要はない。  できるだけ彼らを引きつけ、恵たちから引き離す。 それが目的だ。  空気を引き裂く銃声。  その一つ一つが僕には〈視〉《み》えた。  腕から伸びる水の鞭が、その一つ一つを叩き落とす。  それた弾丸が大地をえぐり、僕の後ろに跡を残す。  銃を撃ちながら撤退する男たち。 多くは足をひきずり、また、互いに肩を貸しあっている。   その姿は──見覚えのある制服。 おととい、魚人と戦っていた、あの兵隊達だ。 しかし、なぜ、ここに? さっき、ドアを破ったやつは、間違いなく人間ではなかったが。 「待て!」  僕は水の鞭を伸ばし、うち一人を引きずり倒す。 浴びせられる銃弾は止まず、僕は、男も弾から守る。  「おまえたちは何だ?」   こうして見下ろすと、わかった。 これは、ただの人間だ。 人外の持つ、あの威圧的な気配……あたりの〈理〉《ことわり》をねじまげる魔力がない。 「九門、克綺か」   男が苦しい息の下から言った。 氷の棘にやられたのだろう。 靴を濡らし、地面にしたたる血は、致命傷とは言えないが、相当深い。  「投降しろ」  「明確な理由を聞きたい。 そもそも君たちは何者だ?」  男が何を言おうとしたのかは、わからない。  花火のような間の抜けた音とともに、飛来したものがあった。 気がついた時には、それは避けようのない距離にあった。  爆発。 紅蓮の炎に混じった金属片。  僕はとっさに、両手の水を盾にする。  爆炎が水を沸騰させ、粘る水の層に破片がめり込んでゆく。   ──足りない。 これだけじゃ、水が足りない。 爆発が広がりきるまでの数ミリ秒で、僕はそう判断する。  目をつぶって僕は、水分を探す。 水がいる。 大量の水が──あった。  考えるより早く決断し、新たに水を注ぎ込み、盾は、かろうじて持ちこたえた。 沸騰はしたが蒸発はせず、無数の破片は、水の渦に阻まれ、はじかれた。 「大丈夫か?」  僕は、制服の男に呼びかけ、そして、絶句した。  男の体は、完全に、ひからびていた。  乾燥は、つま先から始まり、胸に至っていた。 顔だけは、生前のまま、瑞々しかった。 それは、恐怖というよりは、驚きの形に目を見開いて固まっていた。  どうしてこうなったかといえば。 僕が、吸い取ったのだ。 つま先の傷口から流れる血。 そこから心臓までの水分を一気に吸い上げたのだ。  ──殺人。  走りながら、僕は想う。 その言葉が、ぐるぐると頭の中を回り、胸がずっしりと重かった。  無論。 あそこで僕が躊躇していたら、僕も男も死んでいた。  他に方法があったかといわれれば、あの時には、ああするしかなかったとしか言いようがない。  けれど。 死ぬ運命の人間なら殺していいということにはなるまい。 あの男を殺したのは、明白に僕だ。  とりとめのない心を、再びグレネードの発射音が切り裂く。  見えていれば、怖くはない。  水の壁でくるみ、爆発するより早く、水圧で圧潰させる。  ぱしゅん、と、コーラの栓を抜いたような、気の抜けた音がした。  鉄塊が転がる。 じゅうじゅうと音を立てて白熱したそれは、地面を溶かし、めりこんだ。  男たちの顔に、あからさまな恐怖の色が宿る。 銃を捨てて、くるりと背を向けるものまでがいた。  逃げてくれるなら、それが一番いい。 できれば、二度と現れないでくれれば。  思い出したように、ぱらぱらと飛ぶ弾幕を払いながら、僕は、しばし立ちつくす。 その時だった。 「きゃあああっ!」  全身が震えた。 響き渡る銃声を圧して、僕の耳に聞こえたのは、恵の悲鳴だった。  考えるよりまず先に僕は走った。 大地を蹴って、恵たちの逃げた方向。 屋敷の裏口へ走り出す。      いやな予感が胸の中で膨れあがっていた。 断続的な銃声が響く。 僕だけでは引きつけきれなかったらしい。   風の振動に心を集中する。   荒い息をついているのは、恵だ。 怪我をしているか、あるいは、恐怖のせいか。 恵を抱いて走っているのは管理人さんだろう。 足音は響いたが、呼吸の音、一つしていなかった。     そして、物陰に潜み、じっと狙いをつける四つの影。   ――恵っ! 僕は、声に出さずに叫んだ。 兵士達を刺激したくない。 兵士達のいるのは、アスファルトで、さっきの手は使えない。 こっちの姿を見せれば、恵たちが人質に取られる危険がある。  屋敷の角を抜けると、恵を抱いて走る管理人さんの姿が小さく見えた。 管理人さんは……満身創痍だった。  恵をかばって掃射を受けたのだろう。 背中のセーターには、無数の弾痕がうがたれていた。 それでも、しっかりと両手で恵を抱きしめていた。  おそらくは。 致命傷ではないのだろう。 僕は、そう自分を納得させる。  生身の管理人さんはいざしらず。 あの時見た、ヒトガタであれば、銃の一発や二発で傷つくとは思えない。 だが、恵に、それがわかる道理もない。 「おろして! 死んじゃうよ!」   恵が、泣きながら叫ぶ。 「だめよ、危ないわ」   その小さな声が、僕には、はっきりと聞き取れた。 「いいから、放しなさい!」  恵の声に、管理人さんは、一瞬、ためらった。 動作が鈍くなる。 その隙をついて、恵が腕から逃げた。 「だめだ、恵!」  そっちは兵士のいるほうだ。 だが、声をあげたのは最悪の結果を生んだ。 「お兄ちゃん! お兄ちゃんなの?」  悪夢のように、ゆっくりと、恵が、駆け出す。 僕のほうに。 兵士達のほうに。 「止まれ!」  たちまち、物陰から兵士達が姿を現した。 銃口は、恵と管理人さんを向いている。  僕は、ひたすらに走った。 遠い。遠すぎる。  それは、悪夢のような光景だった。  恵が、走る。 僕のほうへ。 「止まれ、恵!」  恵は泣きながら走っていた。 極限状況で、言葉は耳に入っても、理解はできないのだろう。  彼女は、ただ。 兄を。僕を頼って走り続ける。  降伏せず、走り続ける恵を、兵士達は、当然のように狙う。 その指が引き金にかかるのが、僕にはミリ単位で知覚できた。  間に合わない!  ──管理人さん!  管理人さんが動く。 立ちつくしたままの状態から、目を見張るほどの急加速で走る。 いままさに放たれようとする銃弾の前に立ち、その身で、恵をかばおうとする。  間に合う。 あの速度ならば、間に合う。 僕は、息が苦しくなるほど走りながら、かすかに安堵した。 「動くな!」  叱咤の声。 兵士の声。 その声に、管理人さんは、立ち止まった。 管理人さんが、立ち止まった。   恵は、その手をすりぬけ、走り続ける。 引き金が引かれ、銃弾がばらまかれる。  一発。  二発。  三発の弾丸が、恵に向けて放たれる。 管理人さんは動かない。  銃弾が走る。 銃声に、身をこわばらせている恵に向けて、弾丸が、走る。 僕は、間に合わない。  管理人さんが、動く。 再び、夢遊病のように。  だが、遅い。 遅すぎる。 指先が、かすかに恵の髪に触れたが、それだけだった。  飛来する弾丸は、恵に触れる。      一発目は、腹だった。 コートを焼き焦がし、血と肉を吹き上げ、大きな穴をうがちながら、それは内臓に潜り込む。   二発目は、足だった。 右のすねを割り、骨を貫通して、後ろへ抜ける。   三発目は、胸。 胸骨で曲がり、心臓をぶち抜いて、脇へ抜けた。       たぶん、苦しまなかったと思う。 コンマ数秒。 痛みが伝わるよりも早く。 三発の弾丸は、迅速に恵の命を奪っていた。   血の気を失って恵は、管理人さんの腕に倒れ込んだ。 その衝撃で。 できの悪い人形みたいに、恵のまぶたが、ぱちぱちと開閉する。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」  誰かが叫んでいた。 頭の中が、がんがんする。 僕は、水の槍を放った。  それは蛇のように伸びて、恵を撃った男達四人を串刺しにする。 「あぁぁぁぁぁあぁあああああ!」  叫び声は止まらない。 水蛇は、たちまち朱に染まった。 男達が、人形のように断末魔をもがく。  水蛇は、どくどくと血を吸い取り、四人の男達が、かさかさのミイラに変わる。 もはや人ではない、服を着た棒きれを、僕は、地面に振り捨てた。 「あぁぁぁぁぁあ……」  喉に激しい痛み。  叫んでいたのが自分だと、僕は、ようやく気づいた。 激しく咳き込む。 咳には血が混じっていた。  心臓の鼓動。 血はこれ以上ないほど熱く、そのくせ、頭はひどく冷たかった。 胸の底から、なにか、暗く冷たいもの、熱くて痛いものが、わき上がろうとしていた。  だが。 今、それに身を任せては。 僕は、一歩も動けなくなる。 そのことが分かっていた。  だから。 僕は、それを一旦、押し込めた。 機械みたいだな。 僕は自嘲する。  ──が死んだっていうのに。 やめろ。考えるな。それはあとだ。 「管理人……さん」  ──を抱きしめたまま動かない管理人さんに、僕は声をかけた。  近くで見たその背は、とてもとても小さく思えた。 刻まれた弾痕は、服を焼き焦がし、穴からは肌がのぞいていた。  けれど、桃色の肌には傷一つなく。 血の一滴も流れてはいない。  人間じゃない。 この人は人間じゃない。 だから、銃弾くらいじゃ傷つかない。  ──じゃぁ、なんで?  胸の底に押し込めたものが、狂おしく叫ぶ。  なんで、この人は。  ──を救わなかったのか?  あの時、足を止めていなければ。 ──を庇っていれば。 死なないですんだのに。  穴だらけの背は、振り向かずに応えた。 「かつき……くん」  生気のこもらない声。 あのいつもの、何があっても変わらない管理人さんの声の張りが、そこにはなかった。 「逃げましょう」  僕は、ささやいた。  今、できることをしろ。 冷たい声が僕にささやいた。 余計なことを考えるな。  僕は、そうした。 胃のあたりが、ぎりぎりとねじれるようで、吐き気がした。  こくり、と、頭がうなずく。  管理人さんは、ゆっくりと歩き出した。 「管理人さん……」 「なぁに、かつきくん」   間延びした声。 恵を抱いたまま、管理人さんが振り向く。 どろどろの血が、指からしたたり落ち、エプロンを真っ赤に染める。   管理人さんの顔には、どんな表情も浮かんでいなかった。 悲しみも、怒りもない、ただの、空白。   たぶん、僕は、おびえたのだろう。 自分の顔がひきつるのが、分かった。  それを見て、管理人さんが笑った。 背筋に冷たいものが走った。   その笑いは、いつもの管理人さんの暖かな笑みと変わらない。 変わらないが故に、僕は。   ──壊れている。   そう直感した。 どうして、この人は、こんな時に笑みを浮かべることができるのか。 まるで、笑みを浮かべることが義務のように。 機能のように。 「なぁに、かつきくん」   再び、問いかける声に、僕は、言おうとしていたことを思い出す。   管理人さんが腕に抱く──。   ──置いていけ   冷たい声が告げる。 逃げるには邪魔だ。 それを。 それを置けとは、僕には言えなかった。 「行きましょう」  「ええ」   いつもの暖かい声。 その言葉は、いとも空々しく響いた。  壊れている。 壊れている。 壊れている。 管理人さんは、壊れている。   僕は、自分に言い聞かせる。 ──を救えなかったショックで。 おかしくなっているんだ。  今、浮かべている笑顔も。 優しい声も。 壊れた結果にすぎない。 そう考えないと。 もっと恐ろしい結論になってしまいそうで。   僕は考えたくなかった。  屋敷の裏手は、小さな森。 森には夜霧が立ちこめていた。  清澄なはずの夜気は、無数の男たちの汗と息で、汗ばむほどにぬくもっていた。 べったりとする霧の中を、僕は管理人さんを連れて歩いた。  囲まれていることは分かっていた。 慎重に距離を取りながら近づいてくる男たち。  だが、撃ってはこない。 今は、まだ。 散開して、陣形を整えている。  つまり。 密集していては使えないような武器を準備しているわけだ。  こちらから攻めるべきか? けれど、この状態の管理人さんを、放って走り出すのは気が引けた。  森を抜け、公道を目指していたその時。 ごうっと風が鳴った。  爆風。否。炎風。  視界が……風の流れに頼っていた視界が、熱風でぐにゃりとゆがむ。  僕は、めまいを感じて、うずくまる。 「かつき……くん?」  管理人さんの声。 心配して声をかけた、と、言いたいところだったが。 今では、確信がもてなかった。  僕は、立ち上がる。  僕らめがけて、真っ赤な火線が、数条放たれていた。 線はあっという間に広がってゆく。  煙臭さ。そして、目が痛くなるような、ガソリンの強いにおい。 火炎放射器だ。  歩き出す内に、僕らは炎に囲まれていた。 「ちぃっ」  僕は、水の鞭をふるって、炎を遠ざける。 火はともかく、早くしないと煙に巻かれそうだった。 「急ぎましょう」 「ええ」  身を低くして僕は、森を駆け抜ける。  視界が利かない。 赤く燃える炎と、熱風のせいで、人の目も、魚人の目も同様に封じられていた。  だから。 目の前で、めりめりと大木が倒れた時。 僕は、かわすのが精一杯だった。  黒く細いものが、ひゅんひゅんと音を立てる。 煙を切り裂いて、あたり一体の木を切り倒す。  炎の中に浮かび上がった影。  それは、あの時見た、黒い巨人だった。  ごうごうと炎が燃える。 ばちばちと火がはぜる。  火の粉が飛び、燃える下生えの中、巨人は、立ちつくしていた。 まるで急ぐ必要はないというように。  その通り。 巨人が炎と煙に耐えられるなら、先に死ぬのは僕だ。  急がなくてはいけない。  ふわりと、巨人が動く。 右腕を大きく振りかぶる。 腕がゴムのようにぎりぎりと伸びた。  ひゅんと、風を切り裂き、腕が伸びる。 僕は、とっさに水の鞭で腕を受け流す。  ぱしゃん、と、音がした。  ぶおんと鳴る触手を、僕は、地面にはいつくばってかわす。 焼けこげた草の中に顔をつっこみ、僕は、悲鳴をかみ殺した。  かろうじて立ち上がる。 幸い、目はやられなかったようだが、髪が焦げていた。  ──何が起きた?  僕の手には、もはや水はなかった。  あの時。 鋼の強度を持って巨人の一撃を受け流すはずだった水の鞭は、腕に触れた瞬間。 ただの水に返っていた。  巨人が、ふたたび腕を振りかぶる。 このままでは、まずい。 それは明らかだった。  鈴が鳴るような音を立てて、二本の腕は宙に伸びた。  挟み込むように襲い来るそれを、僕は、かろうじて避けた。  荒い息をつく。 遠くから一直線に飛んでくるそれをかわすことは、そう難しくない。 集中していれば。  だが、背を向けて逃げ出して。 後ろから斬られたら? 僕には後ろからの攻撃をかわす自信はなかった。  とはいえ、とどまることもできない。 こうしている間にも、煙は、どんどん濃くなってきているのだ。  覚悟を決めるしかない。 そう思った時だった。  巨人の腕が、地面に伸びる。  巨人の周囲に散らばる無数の木。 その一本を無造作につかみあげた。  ごうんと音をたてて、大木が宙を舞う。  よけた。 いや、当たらなかったというべきだろう。  轟音を立てて、丸太は、僕のすぐ前に落ちた。 火の粉が飛び散り、視界をふさぐ。  まずい、と、思った。  放られた丸太は最初の一本でしかない。  ひゅんひゅんと音を立てて、無数の燃える丸太が僕のほうへ飛ぶのが、わかった。  だが、僕は、どこに逃げていいかもわからなかった。 「克綺クン!」  堅いものが、僕を突き飛ばす。 それは、管理人さんの腕だった。  ごろごろと僕は転がる。 地面に触れた頬に。腕に。鋭い痛みが走った。  火の粉を払い落としながら僕は、見た。  それは、あたかも巨大なキャンプファイアのように。 無数の木が積み重なり、火を噴いていた。   顔を向けるのも痛いほどに燃えさかる炎が、動く。  そこには、紅蓮の炎の中に、立ちつくす、管理人さんがいた。  管理人さんの肌の上で、真っ赤な炎が音を立てて燃えていた。 髪もエプロンも服も火を噴き、それでいて、何一つ焦げてはいなかった。  ──いや。 管理人さんの右腕を、炎がなめていた。 指から、腕から、焦げた皮膚が、ぼろぼろと落ちてゆく。 その下から姿を現したのは。  あれは──人形? それは、象牙色の人形の腕だった。  炎の中に青白く光それを、僕は美しいとさえ思った。 「管理人さん!」  僕は、炎の中のヒトガタに向けて叫んだ。 「かつき……くん?」  か細い声は、しかし、燃え上がる炎の中から届いた。 「早く、逃げないと!」 「めぐみちゃんを……さがさないと」  管理人さんの腕には、すでに死体はなかった。 木の山に埋もれた時に落としたのだろう。  のろのろと。のろのろと。 象牙の腕が、足下の地面をさぐる。 「やめろ!」  僕は、ほとんど悲鳴のように叫んだ。 燃える炎に埋もれた──の死体。 そんなものを、見たいとは思わなかった。 「でも、めぐみちゃんが……」  その言葉を聞きたくなかった。  僕は、走って、管理人さんの腕を、象牙の右腕をつかんだ。  手のひらに、嫌な痛みが走る。 じゅうと、焼けこげる音がした。 「くっ」  それが、引き金だったかのように。  管理人さんが、倒れた。 それは糸の切れた人形のような。 人にはあり得ない倒れ方だった。  管理人さんの体を受け止めた瞬間。  それは、かたり、と、音を立てた。  意識を失った管理人さんの身体は、石の塊のようだった。 膝が揺れ、景色が揺れた。 衝撃は、頭から背筋に走った。   未だ炎が弾ける地面に、僕はつっぷしていた。 背には石のような塊──管理人さんだ。   とっさに息を吸い、激痛が走った。 火の粉が鼻と喉を焼いたのだ。 僕は、もがいた。 痙攣するように四肢が動く。 だが、動けなかった。   管理人さんは、すっかり意識を失っていたようだ。 痛みが意識を縛り付けていた。   ──早く。早く立ち上がらないと。 逃げないと。   この炎の向こうに巨人がいる。 一歩ずつ、こっちに迫っている。   今にも。 今にも、炎の壁を貫いて、黒い腕が現れるのではないか。 粘るような恐怖が、胸の奥で、うごめいた。  ごうっと音を立てて、目の前で炎が割れた時。 だから、僕は、死を覚悟していた。   だが、そこにいたのは、あの黒い巨人ではなかった。 背の低い、くたびれた背広の男。 「九門克綺君ですね」   燃える炎の中で、どこか愛嬌のある声が、そう囁いた。  「お迎えにあがりました」   差し出された手。 朦朧とする視界の中で、その手を、僕は取った。 妙に冷たい手。  それが、最後の思考だった。  目が、覚める。 不思議なもので、目覚めた瞬間に、学校だ、と分かった。  静かで広い気配。そして匂い。 おそらく教室だろう、と、見当をつけて目をこする。  違った。 学校だったが……ここは、礼拝堂だ。 僕が寝てるのは、座席の上だった。毛布がかけられている。  息を吸い込もうとして、ひどい咳が出た。肺を吐き出すような咳で、血の混じった痰を吐く。 背中をさする手。大きな、だが冷たい手に振り返る。 「大変ですね」   仏頂面の男が、僕を見ていた。  「こ……」   しゃべろうとして、咳がぶりかえしかける。 僕は、小さく息を吸って、ささやくように聞いた。 「ここは……?」  「メルクリアーリ様の御領地です」  「メル……」  「〈私〉《わたくし》、田中と申します」   男は、そう言って、律儀に頭を下げた。 すっかり寂しくなった頭頂が見える。 静かに、静かに、深呼吸をする。 「これをどうぞ」   差し出した湯飲み。 中身は……湯冷ましか。 こくり、と、喉を鳴らして呑み込むと、不思議に落ち着いた。  「今、メルクリアーリ様を呼んで参ります。 今しばらくお待ちを」  そう言って、田中は去っていった。  立ち上がると、夜気の冷たさが身にしみた。 手と、顔が、ひりひりする。 火傷。火事。  あぁ、と、ため息が出る。  まぶたの裏に、あの光景がよみがえった。 恵と……  管理人さん。  心が痛かった。 苦いものがうずまく胸に、僕は、制服の上から爪を立てる。 「九門君」  快活そのものの声が、僕を闇から引っ張り出す。 「メルクリアーリ……先生」   ステンドグラスに紅く染まった月光が、神父の白い肌を彩っていた。 見慣れたいつもの笑顔が冷たく見えたのは、そのせいか。   僕は身を起こした。 何のため? 逃げる、ためだ。  ──足音さえも、聞こえなかった。   僕の耳は……魚の耳は、かすかな、衣擦れも聞き分ける。 それなのに、目の前の神父が近づく瞬間を、僕は全く感知していなかった。 僕の聴界の中で、それは無から湧き出たも同然だった。   静かに起きあがりながら、僕は、手足の力を計っていた。   心のざわめきを知らぬげに、神父は歩を進めた。 「落ち着いてください。 なんて顔をしてるんです」   そう言って苦笑する。   緊張は消えない。 手は、動く。 足は、体はまだだ。  「聞きたいことはいろいろあると思いますが──」   声が、耳をすりぬける。 僕は、神父の全身の動きだけに意識を絞っていた。 「花輪さんも、恵さんも、ひとまず無事です。ゆっくり、お休みなさい」   言葉が、僕を、打ちのめす。 顔が、怒りに歪むのがわかった。 見え透いた嘘。慰め。  「恵はっ!」   叫んで、咳き込む。 「ええ、無事です。 病院に運びたいところですが……それも剣呑ですからね。 今は、ここが一番安全です」   咳をこらえ、僕は、立ち上がった。 動かない足を投げだすように進み、神父にむしゃぶりつく。  「嘘をっっ! 言うなっっ!」   神父の手が、僕の手をつかむ。 柔らかに添えられたその手は、しかし、氷のように冷たかった。 「九門君、気持ちはわかりますが無理は禁物ですよ」  神父が、僕の腕を肩に〈背負〉《しょ》い、そのまま、ゆっくりと歩き出す。 僕は、なすすべもなく、引きずられた。 「心配なのはわかりますがね」  つま先が、床に線を引く。 僕に肩を貸す形で、いとも軽々と神父は、礼拝堂を進んだ。 袖のほうにあるドアを開ける。  司祭室には、ベッドがしつらえてあった。 そこに──。  恵が、いた。 すやすやと寝息を立て、管理人さんの腕に抱かれて、まるで母娘のように、毛布にくるまれていた。 「めぐ……み?」  神父が、口に指を当てていた。 「安心しましたか?」  僕は、うなずくことしかできなかった。 「では、あなたも眠ったほうがいい」  神父は、かすかにほほえんだ。 神父の発する気配。 人外の気配は衰えなかったが。 その言葉で、僕の力が抜けた。 「お眠りなさい。ここは安全です」  耳元に、声は、甘く、遠く響いた。  目覚めた時は、すでに暗かった。 寝袋の中から、僕は、ゆっくりと体を起こす。  ──どこだ?  風の流れを感じれば、それは、広い広い空洞だった。 冷たい岩の天井と地面。 見渡す限り横たわる、無数の……柩? 「おはようございます」  渋い声がかかる。  背広の男。 田中が、執事のように腕を折って立っていた。  「お加減は、いかがですか?」   言われて、痛みがぶりかえした。 頭痛と疲労がのしかかる。  「……主観的には、最悪。 しかし客観的に状況を考慮すれば、好調と言うべきだろうな」  肩に膝。 腰に首。 あらゆる関節が痛んでいたが、肺も、喉も、痛みは、ほとんどなかった。 皮膚の火傷も、ほとんど感じない。   ──僕の力、というわけだろう。 「それは、ようございました。 お食事は、いかがいたしますか?」   腹は、減っていた。猛烈に。 よほど物欲しそうな顔をしたのだろう。 答えるより早く、田中はうなずいた。  「では、こちらへどうぞ」  言われるままに、僕は寝袋を出て、田中についた。 制服は、相当ひどいことになっていた。 煤は綺麗にぬぐわれていたが、焼けこげは仕方がない。 汗もふくめてひどい臭いだろう。  「湯浴みされますか?」   見透かしたような一言に、僕は首を振った。 神父も、この男も、まだ完全には信用できない。   まずは、説明だ。  階段を上ると、神父の私室に出た。 「待っていましたよ、九門君」   窓から、まぶしいくらいに陽が入っていた。 どうやら、まだ朝早いようだ。   陽の光で見る神父は、昨日の冷たさは感じられなかった。 感じられはしなかったが──それが、そこにあったことは忘れまい。  ぷん、と、香ばしい匂いが鼻をつく。   神父の机には、カリカリに焼いたベーコンと、目玉焼き。 そして熱々のトーストが並んでいた。 皿は、二人分あった。 「花輪さんの手料理には、及ばないかもしれませんがね。 よかったらご一緒にいかがですか?」   否応もない。 皿の上でジュウジュウと音を立てるベーコンに、僕は手を伸ばす。  「いただきます」  「めしあがれ」  カリカリのベーコンは、かみしめるほどに味が出て、目玉焼きの焼き具合も、最高の半熟だった。 食べれば食べるほどに空腹が意識される。  幸い、おかわりは山のようにあった。  牛乳を飲み干して、ようやく人心地がつく。 「ごちそうさまでした」   たとえ相手が誰であれ、ごちそうになったことは確かだ。  「おそまつさま」   笑う神父。 「ところで、メルクリアーリ先生」  「あなたは、何者ですか? 目的は何ですか? 恵と管理人さんの調子はどうですか?」  「そうそういっぺんには答えられませんよ」   苦笑する神父から、僕は目をそらさない。 次の言葉に神経を集中させる。 「では、順番にお願いします。 先生の正体と目的を」  「朝食にふさわしい話題ではありませんね。 それに、だいたいのところは分かっているのではありませんか?」  「人間ではない、ということですか?」  「そう。人外の民です。 俗な名前で言うならば、吸血鬼ということですね」 「先生は……人を殺すんですか?」  「ええ、生きるためにはね」   静かに言い切ったその言葉に、僕の背筋に冷たいものが走った。  僕は武器を求めて辺りを見回す。魔力を集中させる。 皿に残る水蒸気、コップについた水滴、それから――。  「おっと……物騒なことはなしですよ」   神父は両手をあげた。 「僕の血も狙っているわけですか?」   管理人さんが言っていた。 僕の血肉は、人外にとって大いなる力となる、と。  「答えは、ノンです」  「なぜですか?」  「私を信用してください。 あなたを襲うなら、昨日の晩にでもできましたよ」 「助けていただいたことには感謝します」  「それはどうも」  「助けた意図を聞いてよいですか?」  「良きキリスト者として、困っている生徒に手をさしのべたまでですよ」  「質問を変えます。 僕を殺さずにいることで、先生は、いかなる利益を得るのですか?」   神父は、小さく息をついた。 「政治ですよ、政治。 確かに、九門君の血をいただければ、大いなる力が手に入りますがね。 過ぎた力は身を滅ぼします」  「説明してください」  「さて、どう説明したものやら……」   神父は一瞬目を閉じて、それから口を開いた。 「九門君は、人外を、どういう存在と考えていますか?」  「人間以上の能力を持った存在」  「間違いではありませんがね。 しかし、人間より力があるのなら、とうの昔に、人類を支配してしかるべきだと思いませんか? 少なくとも、あの魚たちのように、こそこそ隠れたりせずに」   確かに、そうかもしれない。 僕は、首を振った。 「我々はね。 人間以上の存在などではないのですよ。 むしろ、天敵に怯える小動物のようなものです」  「管理人さんのことですか?」  「ええ。 九門君もご存じの通り、彼女は強大な守護者です」  「しかし、管理人さんは、昨晩は倒れていたのでしょう?」 「ええ。 天敵は彼女だけではありません」  「何ですか?」  「あなたを襲った存在ですよ」   軍服の男達。  「ストラス製薬といいます」   神父は、はき出すように、その名を言った。 「ストラス……」  「あなたを襲った兵士達ですよ。 どうやら、最初から話をしたほうが良いようですね」  「お願いします」   すっと、盆が差し出された。 湯気の立つカップが載っている。 田中が一礼して去る。 僕は、思わず中をのぞきこんだ。 「ただの紅茶ですよ。 血じゃありません」   神父は、そう言ってにやりと笑った。  「どうですか? 田中の入れる紅茶はうまいですよ」  「いただきます」   カップからは、リンゴの薫りがした。 口の中で、心地よい酸味がはじける。 「この狭祭市には、いくつか裏の顔があります。 一つは、我々人外の民。 そして、ストラス製薬です。 あなたが見た、あの兵士達ですよ」  「製薬会社が、なぜ?」  「さっき九門君が言った通り、我々は、様々な力を持っています。 たとえば、人間なら死ぬような怪我や病からも回復できる」 「生薬の材料にするというんですか? 量産が効かなそうですが」  「生薬であればね。 薬効成分は抽出し、合成することもできます。 ストラスは、その方法で、新薬を開発してきたんですよ」  それなら、うなずける。 既存の薬品の薬効成分は、そのほとんどが、元を辿れば生薬から分離されたものである。   自然の多様性は、人類の化学実験を遙かに凌駕するのだ。 未知の植物や生物から、新たな薬効成分が見つかることも数多い。 そう考えれば、自然の理さえ越えた人外の民から薬物を抽出するというのも理解できる。 「ストラスにも人外がいるようですが……それも政治ですか?」  「何のことです?」  「黒い巨人がいました」  「あれは……人間ですよ」  「人間とは思えないことをしていましたが」 「それでも、人です。 人が、人の力で作りだした実験体です」   神父は肩をすくめる。  「人であるが故に、人外の技が通じない厄介な連中です」 「ストラスが人外を狙っているのは、わかりました」  「はい。あなたの血を吸ってもいいですが、それでストラスに目をつけられ、潰されてしまっては割りにあいませんからね」   僕は紅茶をすする。 「そのストラスが、どうして僕らを襲ったんです?」  「さぁ。 それは彼らに聞いてみないことには」   吸血鬼の神父は、優雅にカップを傾ける。  「人外の民が、あなたの力を手に入れるのを恐れたのかもしれない。 あるいは、あなたの力自体が狙いなのかもしれない」 「いずれにせよ、しばらくは、ここにいたほうがいい。 この学校の中なら、あなたも安全です」   僕は、うなずいた。  「恵と、管理人さんに会いたいです」   神父が、かすかに眉をひそめたのを、僕は見逃さなかった。  「容態が、悪いのですか?」   神父は、かるくうなずいた。  胸にくろぐろとしたものが渦巻く。 「病院は……」  「ストラス総合病院に、ですか? 今、外は危険すぎます」   神父の言葉に、僕は、うなずかざるをえなかった。 「会わせてください」  「もちろんです。 けど、その前に……」  「なんですか?」  「着替えを用意しましょう。 シャワーも浴びたほうがいいですよ」   僕は、うなずいた。  シャワーを浴び、糊のきいた制服を身につけて、僕は神父と一緒に教会の外に出た。  一時間目が始まった校舎内。 廊下は静まりかえっていた。 「ここですよ」   神父が立ち止まったのは、四階の外れ。 今は使っていない、空き教室の前だった。 戸は、金色のレースで飾られていた。   いや、違う。 目を近づければ、それは、信じられないほど細い、金の鎖だった。 それらがつづれ織りのように、戸口の上にかけてある。 「触らないでくださいね」  「何ですか、これは?」  「人目を引かないおまじないです」   神父はそう言って、戸を開けた。  机のない、すっかり片づいた教室には、簡易ベッドが持ち込まれていた。  がらんとした風景は、ひどく、痛々しく思えた。 「……お兄ちゃん?」  ベッドから、恵が体を起こす。 「恵、平気か?」  近づく。 恵の白い肌は、赤く上気していた。 小さな胸が上下していた。 「……ん」  そう言ってうなずくのも苦しそうだ。 「ここ、どこなの?」 「学校だ」 「そう……」  苦しげにそう言って、恵はベッドに倒れ込んだ。 「だいじょうぶか?」 「ん……」  枕の上で、かすかにこくん、と恵が頭を動かした。 「きっと、よくなるからな」  僕は、毛布の下の恵の手を取った。 その手は、汗ばんでいたのに、ぞっとするほど冷たかった。 かすかに恵がほほえむ。 「九門君、そろそろ……」  耳元で、神父がささやき、僕もうなずいた。 僕がいると恵が興奮する。 部屋を出たほうがいいだろう。 「じゃぁ、また来るからな。ちゃんと寝たほうがいい」  目でうなずく恵。 顔にかかる髪を、僕はそっと揃えて、背を向けた。  思いは残るが、仕方がない。  神父とともに廊下に出る。 「管理人さんは?」  「こっちです」   神父は、隣の教室を指す。  「先に言っておきますが、ショックは受けないでください」  「どういうことですか?」  「彼女は……特殊な状態にいます」   それ以上の言葉を聞かず、僕は戸を開けた。  恵と同じ、教室の真ん中のベッド。 急ごしらえの看護室。 そのベッドの縁に管理人さんは窓のほうを向いて腰掛けていた。 「……管理人さん?」  声をかける。 それが、ゆっくりと振り返る。  首が回り、  それに、つられて肩が、腰が回る。 ひどくばらばらな動きだった。  人という入れ物の中で、その滑らかさを保証する大事な糸が切れてしまったような。 壊れてしまった部品を無理矢理に針金で結んだような。  管理人さんの顔には微笑が浮かんでいた。 背筋を冷たいものが走る。  僕は、思わず、神父のほうを振り返った。  ──あれは、なんだ? 管理人さんを、どこへやった? そう、思い切り問いただしたかった。  かすかに細めた目。 つりあがった唇。 茶色の瞳は、こちらを見つめる。 けれど、そのすべては、どうしようもなく壊れていた。  それが、立ち上がる。  全身から歯車の軋む音が響いた。  手足を不揃いに振って、僕へ近づく。  我知らず、僕は、あとずさっていた。 「もういいでしょう。彼が、怯えています」  神父の声は、僕にではなく、目の前の……それに向けられていた。 それは、神父の言葉を理解したのだろう。  ぎくしゃくと背を向けて、ベッドに戻る。 「さぁ」  神父に促されるまでもなく、僕は、駆けるように部屋から出た。 「あれは……あれは、なんなんですか!」  神父の私室に戻り、僕は、そう叫んだ。 「花輪さん……あなたのご存じの管理人さんです」   論理的には、その通りだ。 その結論は認識している。 にも関わらず。 僕は、やはり、あれを管理人さんと認めたくなかった。  「落ち着いて。お茶をどうぞ」  言われた通りにする。 琥珀色の香りに、僕の動悸は少しだけ静まった。 「あなたは……彼女から、どこまで聞いています?」  「管理人さんは……母親、お母さんだ、と」  「人外は、想いの結晶です。 そして彼女は、母親の想いを集めたものだ」  「集めた?」   僕は神父をにらんだ。 「ええ。母の想いを託す形代。 人形なんですよ、あれは」  人形。ヒトガタ。 あの、魚たちを屠った姿のほうが、本来の管理人さんであるということなのか。  おかしいな。 昨日までは。 管理人さんがヒトガタであると知っても、平気でいられたのに。 なぜか──涙が。 「あれは、母が子を守る想いが、人形に宿ったもの。 子を失った父の武器を載せたもの。 人に仇なす人外を殲滅する意志なき機械として始まったのです」  「それが……」  「私にはわかりませんが……計り知れない年月の中で。 あれは知ったのでしょう。 子供を守るには、力だけでは足りないと。 敵を屠るだけでは足りない、と」  「……それで?」 「人形の本質は、人をまねることです。 あれは、慈しむことを真似、覚えたのでしょう」   その言葉は、僕を揺さぶった。 管理人さんが。  あの笑顔が。 人真似だったというのか。 倦まず、たゆまず、ただひたすらに恵を看護できたのは、機械だったからだというのか。 「真似というな」   精一杯の怒りを載せた言葉は、しかし弱々しかった。  「お好きなように」   神父は肩をすくめる。 「なぜ、管理人さんは……あんな風に」  「私は、現場にいなかったものですから正確なところは、わかりかねます。 ただし、想像はできます」  「あれは、己をなげうって、人を護り、人に尽くすために作られた機械です。 機械が壊れるのは、作動目的を違えた時です」  「あの人は……恵を見殺しにした。 いや、しかけた」   恵は生きている。 生きているのだから。 「では、それでしょう」   神父は、小さくうなずいた。  「人を殺すなかれ。 それは、あれにとって一番重要な作動原理でしょうから」  「それだけで……」  「我々人外は、少なからず、己の想いに縛られているのですよ。 力の強いものほど、その縛りも大きい」 「どうすれば、治りますか?」  「見当も付きません。 また、時が流れれば、あるいは」  「そうですか」  僕は、ふらふらと、司祭室を出た。 「それから、九門君」  ゆっくりと振り返る。 「もうすぐ授業が始まりますよ」  「授業?」   それは、どこか遠い国の言葉に聞こえた。  「この学校にいる限り、安全です。 ならば、出席数を減らすことはない」   言っていることは、分かった。 けれど、言っている意味はわからなかった。  常識外の力を手にし、家を焼かれ、恵は撃たれ。 それでも、日々は同じように進むということか。  「さぁ、早く。授業が始まりますよ。 2時限目は、美乃先生の数学でしょう」   こくり、と、僕は、うなずいた。  そうか、今日は、月曜だったんだ。 そんな、らちもないことを思った。 「九門です。遅刻しました」 「九門君、カバンはどうしたの?」 「なくしました。それで遅れました」  より正確には、カバンを無くすに至る出来事によって、遅刻することになったわけだが。  僕は、自分の席に着席する。  美乃先生の授業は、評判がいい。  思うに、評判のいい先生には、二つの系統がある。  一つは、授業、あるいは受験というものを一個のゲームと割り切り、そのテクニックを効率よく伝えるのに特化したタイプ。 点数を取るのに必要な技術を最短距離で伝えるタイプだ。  もう一つは、やたらと脱線し、話芸で受けを取るタイプだ。 美乃先生は、どちらかといえば後者だろう。  方程式の話、一つするにせよ、世界中を縦横に駆けめぐる。 ギリシャの数学者たちが、互いに問題を出し合い、金と名声をかけて勝負していた時、式の解法は、門外不出の秘伝だった。  僕にとっても、集中できる授業はありがたかった。 「そこでだ。もし、君たちが、これらの解の公式を覚えて。 古代ギリシャ……3世紀に赴けば、金は稼ぎ放題だ。 ついでに歴史に名前を残してくるといい」  らちもない話を聞く一方、板書をノートに写し写し写し問題を解いて解いて解いて解く。 めったにないほど集中力が発揮される。  これは一種の現実逃避なのだろう、と、僕の中の何かが思う。 そんな思考さえも脇に押しやるために。 僕は数字と記号操作に没頭した。 「いや、どーやって古代ギリシャに行くんすか?」  峰雪のツッコミに美乃先生が肩をすくめる。 「……それは、物理の岩沢先生に聞いてくれ」  教室中の笑い声に、僕は、身をゆだねた。 教室の匂い。 ざわついた空気が心地よかった。  僕は、深々と溜息をついた。 神父の言う通りだ。 授業に出ることは、確かに、頭を冷やす効果がある。  古代ギリシャから、エジプト、アラビアをぐるりと回った頃に、チャイムが鳴った。 牧本さんが号令をかける。 「起立! 礼! 着席!」  そうして授業は終わった。 「よぉ、どうした?」   峰雪が寄ってきた。  「何のことだ?」  「ん? カバン落としたんだろ? テメェにしちゃ珍しい」  「ふむ」  「ふむじゃねぇ!」 「カバンは落ちたんじゃない。 焼けたんだ」  「カバンが焼けたぁ? 何すりゃ燃えるんだ?」  「簡単なことだ。家が焼けたんだ」  「火事かよ! おい、だいじょぶか? 恵ちゃんは?」  「僕は大丈夫だし、恵も無事だ」  「ならいいけどよ」   峰雪は、一つ大きく息を吸った。 「ンな大事なこと、なんで今まで言わなかった!」  「僕にとっては大事だが、君にとって大事とは限るまい?」  「限るか限らねぇか、聞いてみろってんだ、この唐変木が!」  「……そうだな。 そこまでは頭が回らなかった」 「で?」  「で、とは、なんだ?」  「なんだ、その。片づけとか引っ越しとかあんだろ? 手伝うぞ?」  「それには及ばない。 片づけるようなものはないし、引っ越しの必要もない」   片づけるべきものは燃え尽くしたし、引っ越しはすでに終わっている。  「そうか。ならいいけどよ」 「九門君、火事って、ほんと?」  「家が燃えたのは確かだ」   火事と形容すべきかどうかは微妙だ。 焼き討ち、というほうが正確な気がする。  「ノートとか、だいじょうぶ? 焼けちゃったんでしょ?」   ──そういえば。 教科書はともかく、取ったノートは、どうにもしようがない。 「コピーいる?」  「あると、ありがたい」  「じゃ、明日、持ってきてあげるね」  「お願いする」   牧本さんは嬉しそうだった。  僕が不幸だから嬉しい。 というわけではなく、僕を助けることができるから嬉しいのだろう。 管理人さんも、よく、あんな風に笑っていた。 「なぁ峰雪、心ってなんだろうな」 「なんでぇ、藪から棒に」  「人工知能というのがあるな。 あれに心はあるのかな」  「学問の進歩ってなぁスゴイらしいなぁ。 俺ぁよく知らねぇが」   焦点の外れた答え。 いや質問が悪かったか。 「もしも、コンピュータプログラムが進化して、人間みたいに笑ったり泣いたりしたら……心というのは、あるのかな」  「同じだろ」  「何がだ?」  「人間みたいに話して、笑ったりすんなら、そりゃ人間と同じだろ」  「計算された機械の反応であってもか? 痛いという機械は痛がってるのか?」 「あぁ。 〈色即是空〉《しきそくぜくう》、〈空即是色〉《くうそくぜしき》、〈受想行識〉《じゅそうぎょうしき》、また、かくのごとし、だ。 人間サマだって機械と変わらんだろ」   そんなものか、と、思う。 「何の話?」   牧本さんも顔を出す。 説明すると、少し考え込む。  「えーと、なんだっけ、それ。 チューリングテストって言うのよね」  「チューインガムがなんだって?」  「チューリングテストだ」   頭の片隅に残っていた単語を引っ張り出す。 「人工知能のテスト法でな。 要するに、チャットして、相手が人間か人工知能かわからなかったら、それは知性がある証拠だ、という考え方だ」  「へぇ」   峰雪が、面白そうな顔をする。 「克綺なんか、それやったら落ちるんじゃねぇか? おまえのしゃべり、機械っぽいからな」  「可能性はある」  「その場合、克綺は人間じゃないってことになるのか?」  「そ、そんなことないよ」   牧本さんが、なぜか、フォローに回る。 「チューリングテストには、そういう問題もある」   確か、他にも問題点があった気がする。 確か、“中国人の部屋”という反論があったはずだが……。 「何だかしんねぇが、一人で悩んでんじゃねぇぞ」  「うん」  峰雪と牧本さんが、早口でそう言って席に戻った。 僕は、かすかにうなずいた。  放課後。 6限のチャイムが終わると、ほぼ同時に、放送が入った。 神父からの呼び出しだ。 「なんかしたのか?」  「今後の相談だろう。 火事の件もあったしな」  「そっか。んじゃま、またな」  「また明日ね」  「あぁ」  二人と別れるのは、妙に物寂しい気がした。 明日も会えるというのに。 会えるのだろうか。  ともあれ、僕は、職員室に向かった。 「行きましょうか」   職員室に入ると、神父が僕に声をかけた。  4階の奥へ入る。 「九門君の部屋は、恵さんと一緒で構いませんか?」  「はい」   僕は、答えてから、少し考えた。 「いつまで、続くんですか?」  「はい?」  「匿っていただけるのはありがたいですが、ずっと、ここにいるのは、ぞっとしません。 せめて恵だけでも」 「心配はいりません。 今夜あたりにでも、話をつけてきますよ」  「ストラスと?」  「ええ」  「うまく行かなかった場合は?」   神父は、肩をすくめた。 「悪いほうに考えても仕方ないですよ。 その時は、その時、考えましょう」   もっともではある。  僕が戸を開けた時。  恵は、まだ、眠っていた。  この教室。 ここが、しばらく暮らす部屋になるわけか。 前の自室より広いといえば広い。 だが、なにもない。 「カーテンと、九門君のベッドは用意します。 他になにか、必要なものはありますか?」  「机があれば。 あとは、できれば、ネットにつながるマシンを」  「用意させましょう」   神父は、うなずいた。  神父が去り、一人部屋に残った僕は、大きく息を吸った。 管理人さんを見舞いに行こう、と、思う。 だが。 それを考えると足が竦む。 汗が、じっとりと、にじんだ。   「あれ」について、考えたくない。 理不尽な恐怖が体を満たし、自己分析さえできなかった。   握った拳。爪が食い込む。 「失礼します」  「田中さん」  「はい」   仏頂面のサラリーマンが礼をする。 「こちらをお持ちいたしました」   銀の盆に、ノートパソコンを載せて掲げている。 こんな時でなければ笑える光景だったかもしれない。 「セッティングはいかがいたしますか?」  「いえ、自分でできると思います」  「何かございましたら、こちらでお呼びください」   携帯もついてきた。  「わかりました」  僕は、田中を送り出して、一息ついた。 当面やることができたことに、安心していた。  教室の片隅のコンセントを見つけ、ノートパソコンをセッティングする。 通信カードもついていたので、ネットにもつなげる。  接続設定。メールチェック。 機械的な作業は気が紛れた。  一通りのカスタマイズが終わった頃には、少しだけ落ち着いていた。 さっきの峰雪たちとの会話を思い出す。 チューリングテスト。 中国人の部屋。  開通したネットで、関連語彙を調べてみる。 かなり多くのページが引っかかった。時間をかけて整理する。  チューリングテストを提唱したのは、アラン・チューリングという数学者。 人工知能どころかまだコンピュータ自体がほとんど存在しない頃に、コンピュータの基礎概念を作り出した人らしい。  彼の提唱したチューリングテストは、すなわち、人と同じ受け答えができるのなら、それは人と同じ知性を持つのではないか、という、アイディアだ。  細かな問題はともかく、納得はできる。  チューリングテストの反論としてあったのが、「中国人の部屋」だ。 これは、言ってみれば、カンニングペーパーの話だ。  もしも。 チューリングテストで行われる、あらゆる質問に対して、あらかじめ答えが書いてある紙が用意してあったら。 そして、コンピュータは、単に、入力に対して、その紙を読み上げているだけだったら。 「おはよう」と言われたら「おはよう」  「調子はどう?」と言われたら「まぁまぁだ」  そんな風に。 あらゆる会話のあらゆる流れに対して、あらかじめ用意された答えを読み上げる場合。 果たして、コンピュータは、考えている、と、言えるのだろうか? そういう疑問だ。  神父の言葉が耳によみがえる。  「人形の本質は、人をまねることです。 あれは、慈しむことを真似、覚えたのでしょう」  それが、もしも、人真似の積み重ねならば。 管理人さんの心は……僕が心と思ったものは。 果たして、本当に心の名に値するのだろうか。  僕は、小さく溜息をついた。 ようやく腑に落ちた。  僕が恐ろしいのは、今の管理人さんの有様ではない。 僕の知っている管理人さんが。 元々いなかったかもしれない。 すべてはただの幻想だったということ──。  しかし。 それを言うなら、そもそも人間の心だって、幻想ではないのか?  一個の脳細胞。 ニューロンが、物を考えていないことは確かだ。 それは単に、与えられた刺激に反応しているだけだ。  無数のニューロンがネットワークで結びつく時、「思考」と呼ばれるものが、立ち現れる。 では、その思考は、どこにあるのか?  頭を振る。 考えてもしかたがない。 すべては、自分で確かめるしかない。 管理人さんの……その心の場所を。  僕は、ノートパソコンを閉じ、部屋を出た。 足取りは重かったが動けないほどではない。  管理人さんの教室の前に立つ。  軽くノック。返事はない。  がらりと戸を開けて、原因が分かった。 ──部屋には、誰もいなかった。  僕は、携帯を取りだした。    「もしもし、九門君ですか?」   電話に出たのはメルクリアーリ神父だった。  「管理人さんが部屋にいません」  「……なんですって? わかりました。 今すぐ行きますから、その場を動かないでください」  僕は、携帯を切った。 急がなくてはいけない。  僕は廊下に飛びだした。  携帯がうるさく鳴り出す。  応えずに電源を切った。  急いで階段を駈け降りる。  下校途中の生徒達に混ざった。 ここまで来れば、彼らも僕を止められないだろう。 足をゆるめ、ゆっくりと外に出る。  非論理的な行動である、とは思う。 僕が、ストラス製薬……あの黒い巨人に命を狙われているのなら。 単独で管理人さんの捜索をすることは危険きわまりない。  だが、それはわかっていても、教室で一人で待っている気にはなれなかった。  学校を出る。 管理人さんのいる場所。 思い当たるところは一つしかなかった。  馴染みの坂道を登る。 燃えがらになった街路樹に、胸が痛んだ。  坂を登り終えると。 メゾンが。  その残骸が、見えた。  一面の瓦礫の山。 瀟洒な石造りの壁は、見事になくなっていた。 その瓦礫の上で、動く影が一つ。 「あら、克綺クン」  声だけは。 いつもの管理人さんの声だった。 優しくて快活で、聞くだけで元気がでるような、あの声。  それだけに。 「それ」を見るのが辛かった。 貼り付いたような笑みを浮かべた首は肩の上で、出来損ないのおもちゃのように揺れていた。  壊れた右手は、人形の本性を晒した象牙色。 手にも足にも、あの優美な動きはなく、ぎくしゃくとした動きで、「それ」は、僕のほうを振り返る。 「管理人……さん」  そう応えるのが、精一杯だった。 「待っててね。いま、お茶を入れてあげるから」  それは、腰をかがめて、瓦礫の中を探る。 その場所が。 管理人さんのキッチンがあったところだと、僕は、ようやく気づく。 「待っててね。いま、お茶を入れてあげるから」  録音された音声のように。 まったく同じトーンで、それはしゃべる。 瓦礫の下に、あるはずのない茶器を探す。 「待っててね。いま、お茶を入れてあげるから」  優美な声の響きが。耳に。残って。 「待っててね……」 「やめろ!」  僕は、叫んでいた。  びくり、と、それが、身を強ばらせる。  カタカタと音を立てながら、立ち上がって、虚ろな顔で僕を見る。 「やめて……ください」 「克綺クン」 「どうしたの!」 「つらそうだけど……何か、悲しいことがあったの?」 「うるさい!」  管理人さんの声。 いつも通りの優しい声。 そして、決められた通りの応え。 機械的な反応。  音が消えた。 目の前のそれは、身じろぎ一つしていない。 まったくの、無音。  それが、僕の命令の結果だと気づくのに、しばらくかかった。 「どうして、黙るんですか」  身勝手な、矛盾した物言い。 自覚はあった。  けれど。けれど。 そんな風に、命令通りに動かれたら。 ──本当に、機械みたいじゃないか。 「管理人さん?」  僕は、呼びかける。 ああ、でも、誰に。何に呼びかけているんだろう。 「はい」  こくりと人形がうなずく。 命令通りにうなずく。  カタカタと音を立てて、歯車が軋む。 「あなたは……誰ですか?」 「どうしたの、克綺クン」  馴れ馴れしい声が耳に障る。 「忘れちゃったの? 私は克綺クンの大家さん。メゾン・フォレドーの管理人よ」 「そんなことは聞いてません」  声が。命令が、人形を縛る。  応答を否定され、そのメカニズムが軋むのが分かった。 「あなたは……何なのですか?」 「私は……人を守る……」 「それは、意志ですか。それとも機能なのですか」  言葉は剣のように人形をえぐった。 手足が強ばり、からからと音を立てて歯車が落ちる。 「これは……みんなの母。人を護るもの」  耳を澄ませば音が聞こえた。  さらさらと粉になる。きりきりとねじれる。ぷちぷちと弾ける。  人形の中の、大切なものの一つ一つが、今、崩壊している。 それでも言葉は止まらない。 どろどろとした冷たい思いが口をついてでる。 「でも。あなたは恵を守らなかった」  びん、と、ひときわ大きな音が鳴った。 張りつめた弦を、ナイフで断ち切った音。 くたくたと人形が崩れ落ちる。  僕は、その肩を両手で支える。 まだ足りない。逃しはしない。 「あの時……あなたは、恵を見殺しにした」  僕は思い出す。そして気づく。 あの時。 恵を助けるべく走り寄った人形に。 銃を構えた兵士は叫んだのだ。  動くな、と。 そして、彼女は足を止めた。 命令に従って。 「あなたは人の言葉に逆らえない。 恵を守ることもできない。 あなたは管理人さんじゃない。ただの、機械だ」  息が乱れる。胸が痛む。けれど、吐き出さずにはいられない。 「克綺クン……」  冷たい手が頬に触れる。硬い腕が僕を抱きしめる。 一瞬、僕は身をすくめる。 殺されるかと思う。  けれど、目の前の人形は怒りさえしない。 そんな機能は最初からないのだろう。不必要だから。  かすかな、囁き声が僕の耳にひびく。 「……克綺クン、悲しいのね」 「うるさい!」 「悲しい時は、泣いていいんだからね」 「やめろ!」  そして、人形は、やめた。 命令に従い、全機能を停止する。 目からは光が消え、腕は、僕の肩からすべりおちた。  瓦礫の中に、がしゃんと音を立てて横たわり。 そのままそれっきり。 動かなかった。 「……」  しばらくは、息もできなかった。 「あ」  喉が叫ぶ。 「ああ……」  頬に濡れる感触。 「ああああああああああああああああああああああああああ!」  叫びが、止まらなかった。 赤子のように僕は号泣した。 跪き、瓦礫に頭を埋めて、僕は、泣き続けた。  夕闇が夜闇になる頃、風は、ひどく冷たかった。 泣きはらした目は痛み、手足は氷のようだ。  動きたくない。疲れた。体も。心も。 凍死、という言葉が頭をよぎる。  このまま動かないだけで。 動きたくない気持ちに身を任せるだけで、そうなることは間違いない。 案外、簡単なものだ、と、頭の片隅で思う。  じっとする。息を吐く。 ただそれだけのものになる。 考えることが面倒くさかった。  だから、瓦礫を踏む足音。 それが聞こえた時も。 深くは考えなかった。  神父の迎えでも来たのだろう、と、そう独り合点した。 そうして気づいた時には、遅かった。  いつのまにか星は雲に隠れ、街灯の明かり一つない全き闇。  そこに、無数の眼が浮いていた。  赤い瞳。青い瞳。 ちらちらと揺れるものも、大きく燃え立つものもある。  死にかけた心にも、その恐怖は届いた。 冷たい手足を、のしかかるように恐怖が押し潰す。 目の浮かんでいるのは、わずかに先。  かつてのメゾンの門近く。  メゾンが呪力で守られていたことは、想像がつく。 だが、今は?  浮かぶ目が、徐々に大きくなる。 見開いたのか。それとも近づいたのか。  その時。 吐息が、耳に届いた。  絶望したと思っていた。 死ねると思っていた。嘘だった。 気がつけば、僕は走っていた。   瓦礫を蹴り、暗い山道に飛び込む。 焼けこげた木々の跡を踏みしめ、ただひたすらに。 胸の中は、かつてないほど熱かったけれど。 魔力を編むことさえままならなかった。   怖い。   僕の中を、その感情だけが満たしていた。 恐怖は寒さだ。 どれだけ走っても。どれだけ汗を噴いても。 粟だった肌、手足の先の冷たさは消えなかった。     ──首。首筋を噛み裂かれる。 ──胸。穴が空いて血を噴く。 ──足。へし折られ、膝を割られる。 ──目。曲がった爪に、えぐられる。   ありとあらゆる死の光景が、確信となって肌を刺す。   ぎゅおん、と、闇が哭く。 恐怖が心臓を掴み、足がもつれる。 僕は、山道の中、転がった。      ──逃げられない。 その確信とともに、僕は顔を上げる。   吼え声があがる。音高く。 それは、長々と尾を引き、そして、唐突にとぎれた。 ようやく、僕は気づく。 これは雄叫びではない。 悲鳴だ──。      闇に浮かぶ瞳。その数は、明らかに減っていた。 今も、ひとつ。揺れて消える。 何かが戦っている。 いや、互いに喰らいあっているのか。 ひとつ、また、ひとつ、消える瞳。 やがて残ったのは、たった一組。 紅く、煌々と輝く瞳。   闇から、それが現れた。 「九門克綺、だな?」  男の威風があたりを払い、暗雲さえも吹き飛ばす。 星明かりに輝いた髪は、金髪だった。  「あなたは……」   白い羽織。 片手に握った血刀からすれば、サムライと呼ぶべきか。 金髪のサムライは、美しい唇をゆがめた。 「答えろ」  「僕が、九門克綺だ」  「彼方左衛門尉雪典、メルクリアーリ聖上の命によりまかり越した」  刃をふるって血糊を落とす。 鞘に収める澄んだ音がしたと思うと、太刀はどこかに消えていた。 「迎えに来てくれたのか?」 「聖上の命であれば、な」   言葉の端から、嫌悪の情がしたたりおちる。  「あの女はどうした?」  「あの女?」  「三つの一つだ。 花輪とかいう名乗りの」   花輪さん。管理人さんか。 僕は、黙って首を振る。 「消えたか」   その顔に、はじめて笑みが宿る。  「嬉しいのか?」  腹が、鋭い力で打ち抜かれた。  僕が倒れ込むと、ゆっくりと雪典が拳を引く。  雪典は、あたりを見回し、そして笑った。  「はは、いないか。 あの目障りな護りは消えたか」  「何が言いたい」   吐き気をこらえて僕は立ち上がる。  「逝け」  一閃。  見えた。 袖口から滑り落ちる短刀。 右腕が掴み、一振りで鞘が落ちる。 金色の刃が弧を描いて、こっちへ伸びる。   見えた。 しかし、動けなかった。  うしろにつんのめる。 それが限界だった。   サムライが指の中で短刀を滑らす。 金色の軌跡が喉をかする。  真っ赤な血が噴きあげた。  風が吹いていた。 紅い風が。 僕の喉から噴く血は、霞んだ風となって、雪典の短刀に吸い込まれてゆく。 「うまいな」   サムライが傲然と僕を見下ろす。 かろうじて、僕は生きていた。   両手で喉の傷を押さえる。 暖かな血が指を濡らす。 肘まで流れる頃には、冷め、粘つく感触が気色悪い。  本来なら致命傷だろう。 魔力を使った血流制御。   それが僕にできる精一杯だった。  僕は走る。 否。走ろうとして。  目眩に倒れた。 足が、もつれる。 つま先が冷たくなるのが、分かる。  雪典の腕から短剣が消える。  代わって袖から現れるのは、手槍だ。  朱塗りの柄を無造作に構え、突き降ろす、瞬間。   こつり、と、小石の飛ぶ音がした。  僕と、雪典は、目を見開く。   雪典の手の甲に、錆びた歯車が一つ。 何かの間違いのように、生えていた。  闇の中に音があった。  かたかたと揺れる音。 ぎしぎしと軋む音。   〈発条〉《ばね》の悲鳴に、弦糸の嘆き。 ああ、それは今にも崩れ落ちようとしていた。 「……ふん。 小僧の言葉などあてにならぬか」   雪典が振り向く。 そこに、それがいた。  人形というには人の形をとどめていない。 絡繰りというには、つながっていない。 機械と言うには壊れ果てている。 無論、人ではありはしない。  それは一本の腕だった。 象牙色をした人形の腕。  鋼の腱は切れ果てて、精巧に作られた五指は死んだように動かない。 それは、殻の下に詰まった歯車を回しながら、ゆっくりと、ごくゆっくりと、大地を這いずっていた。 「三つの守護者。その最上位が、この有様、か。ざまはない」  雪典が言い捨てる。 その通りだ。 「絡繰りの分際で、人などに操を立てるから、そうなる」  ああ、その通りだ。 「挙げ句に、生き恥をさらすか。醜い」  そうなのだろう。  これは、あらかじめプログラムされた最後の行動。 壊れかけた機械の断末魔。  雪典は、ゆっくりと歩き出す。 蠢く腕に槍を向け、無造作に腕を引く。  そして僕は……。 「やめろ」  叫ぶと、喉がぜいぜいと鳴って、血があふれた。  視界が一瞬かすむ。 雪典が、振り返る。 僕は、膝に片手をついて、まろび歩く。 「がらくたに、用か?」   雪典が、僕を見下ろす。  僕は、片手に腕を……管理人さんの右腕をつかむ。 右腕は、僕の手の中で、かすかに動いた。 多分、僕を護ろうとして。 「管理人さんに触るな」  「管理人だと? 笑わせる。 ぬしには、これが人に見えるか?」   人。そして人外。 人の外にあるものと機械。 ああ、どうして、そんなものにこだわったのか。 「人も機械も関係ない。 これは、命だ」  「命だと?」  「僕とおまえと同じ、命だ」  「儂の命が、このがらくたと同じだと言うか?」  「そうだ」  「戯れ言よ。聞き飽きたわ」  手槍が飛ぶ。 僕は、無様に手を伸ばす。  なんとか、掴めた。 「阿呆が」  ぐい、と、雪典が槍をねじる。  指の二本が落ち、掌の肉がえぐれる。 吹き出した血が、槍の柄を伝い、雪典に流れ込む。  気が遠くなるほどの痛み。 けれど、僕は、その痛みにしがみついた。 「あなたは、なぜ、僕を殺す?」 「貴様の血に力があるからよ。目障りな守護者もその有様だしな」 「それは、たぶん、正しい」  血を吸って生きながらえる吸血鬼。生きるために僕を喰らう。 人に尽くすために生まれた機械。 人の命に従い、その命を救うために身を投げ出す。  それが、不自由だと。 愚かだと言う前に。  僕は、何をした。 僕は、何の役に立つ? 何のために生きる? 「僕は、正しいことをする。僕は生き残る」  心臓が、熱い血を送り出していた。 全身の細胞が熱くなる。 流れ出るよりも速く、新たな血が生み出される。  槍を握った手に力を込める。  僕の腕の中で、それは砕け散った。 穂先と木っ端は、黒い霞となって消え去る。 「ふん、ようやく、やる気になったか」   無手の構え。 だが、あの袖口には、無数の武器が詰まっていること間違いない。  「ああ。僕は、生きる」  背を向けて走り出す。  二歩。三歩。 背後で、ひゅんと風を切る音が響き、かしゃりと何かが崩れた。  四歩。五歩。 胸が痛む。 「どこへいく」  声は耳元で聞こえた。  振り向くよりも速く。  ぼっ。と音を立てて。 胸に丸い穴が空いた。  ショックが神経を揺らし、脳細胞が枯死を開始する。 地面に落ちるよりも速く。  僕は、死んでいた。        血だらけの右掌を、胸に当てる。  これなるは人魚の力。歳ふりた〈汀〉《みぎわ》の民の、そのすべて。 夜闇の族の若造一匹。なにするものぞ。 「来い!」  僕は叫ぶ。 右手の穴。流れる血を鞭に変える。 「下郎が。いきがりおって」  サムライの指から光が閃く。 投剣。  そう思うよりも速く、鞭がたたき落とす。 長く伸ばした鞭が戻るよりも速く。  サムライは一歩で間合いを詰めていた。 額と額がふれあうほどの、至近の間。  重く鋭い膝と肘。かわした、と、思った瞬間。  左腕に痺れが走る。 短刀が突き立っていた。  続くサムライの手刀をかろうじてかわし、僕は背後へ飛ぶ。 「片腕で、よくもしのいだ」   雪典が笑う。 左の腕は、管理人さんの欠片を抱きしめていた。  「だが、次はないぞ。 捨てるなら今のうちだ」   僕は……  僕は首を振る。  「よかろう」  サムライは、距離を取る。  今度は、大きな和弓を取り出す。  つがえた矢は四本。  放つ音は一つに聞こえた。 一本一本が、曲がりくねった弧を描いて僕を狙う。  雪典の姿が風に溶けた。 矢よりも速く。 矢を供として。 サムライは一迅の風となって襲い来る。  速い。 さっきよりも速くなっている。  抜き打ちの一刀を、かろうじて受けた。 右腕に鞭を巻き、刃の威力を殺す。 衝撃だけで骨まで痺れる。   だが、そこまでだ。  あっさりと刃を捨てた雪典の五指が開き、腕をえぐる。  足が浮いたと思った時にはひきずり倒されていた。  間髪いれず、四本の矢が襲いかかる。  両の肩、そして膝を、地面に刺し貫く。 「さすがだな、この血は」   声には力が満ちていた。  「これほどとは思わなかったぞ」   白木の矢が紅く染まる。 それはまるで生き物のように脈動しながら貪婪に傷口を啜り、流れる血潮を吸い尽くす。  雪典は、膝を腹に落とす。 身をよじることもできないまま、呻く。 「まだ抱えているか」   雪典は、僕の左腕を面白そうにみつめたあと、その指で、僕の首筋に触れた。  にやりと笑うと、鋭く尖った牙が現れる。 ゆっくりと、その顔が近づいた時。  僕の腕の中で何かが蠢いた。 雪典が飛び退くより早く。  肉を食い破る音がした。 「な……」  雪典の羽織。 その真ん中に、黒い腕が突き立っていた。  半ばまでめり込んだ五指が、何かを掴み、そして握りつぶす。 「ごぁっっ!」  重いものが僕にのしかかる。 どす黒い、冷たい血がふりかかる。 いまや息のない死体に押しつぶされながら、僕の意識は、ゆっくりと遠ざかった。  僕は、管理人さんの腕を静かに大地に横たえた。これで、両腕が空く。  「それでいい」   サムライは唇をゆがめてうなずいた。  「彼方左衛門尉雪典、まいる」  大地を蹴ってサムライが飛び込む。 その胸板に僕は、血の鞭を放る。  かすかな銀光。  たったそれだけで、深海の水圧を持ち、あらゆるものを圧搾するはずの鞭は、頭を絶たれた。            夕焼けの中を走っていた。 足下にはシロ。そして脇には恵。 少しだけ肌寒い風の中を、僕は走る。 ただよう暖かな匂い。夕餉の香り。  「ただいま」   そう言って、僕は玄関の扉を開ける──。  目を開いた時も。 そのおいしそうな匂いは漂っていて。 僕は、しばらく夢と区別がつかなかった。 「克綺クン、起きた?」 「母さん……?」  そう言ってから、ようやく気づく。 母さんはいない。そして、管理人さんも……?  頭の下にあるのは、暖かな膝枕。  身を起こそうとして、僕は管理人さんの胸に顔をぶつけた。 「すいません」 「からだ、大丈夫?」  「はい」  生返事をして、あたりを見回す。 一面の瓦礫。メゾンの跡地だ。  だが僕のいる一角は、瓦礫がどけられ、綺麗に掃き清められた絨毯だ。 ここは、管理人さんの部屋なのだろう。 「待っててね。いま、ご飯作るから」  部屋の外では、管理人さんが、たき火をしていた。 〈飯盒〉《はんごう》とヤカンを火にかけている。 「炊き出しなんか久しぶりだわ。倉庫にあってよかった」  そう言って笑った管理人さんは。 まるで、今日までのことがなかったような。 優しい笑顔。 「あの……どうされたんですか?」  僕は、その問いを口に出す。 「克綺クンが助けてくれたのよ」  答えに胸が痛んだ。 「聞いたでしょう?  克綺クンの血は、人外に力を与えるって。 それは私にも、よ」  ずっと離さずに抱いた腕。 そこには僕の血が滴って……。 「まぁ、しばらく無理はできないけど、ゴハンくらいなら作ってあげられるわよ」  僕は、押し黙った。 言いたいことが多すぎて。 まとまらなかった。 「ほら、そんな顔しないで」  管理人さんの笑顔。 それは、どこかはかなくて。 僕は、うなずきながら涙を流した。 「はい、できたわよ」  瓦礫を重ねたテーブルと椅子。 焼け残った布とクッションを敷く。 それだけのことでも、管理人さんがすると魔法のように整った。  子供の頃。森で秘密基地を作った時。 そんな思い出がよみがえるほどに。 「お茶をどうぞ」  さすがにティーカップは割れていたようで、もらったのは管理人さんがほじくり出した大きなマグカップだ。 「はい。熱いから気を付けてね」  熱いのも道理。 食器は金属のボールだった。 中身は、味噌煮込みうどん。 箸は、枝を削った管理人さんの手作りだ。 「いただきます」  僕は、うどんを啜りこむ。 寒空に、この熱さはごちそうだ。 「おいしい?」 「はい。あの……管理人さんは、食べないんですか?」 「私は食べなくても平気だから。味、わからないし」 「え?」  僕は思わず聞き返していた。 「それは……どういうことですか?」 「私が生きるのに食べ物は要らないの」 「いえ、それではなく。味がわからないと……」 「あぁ、そのこと。 そうよ。克綺クンには、もう隠すこともないけど。 私、人形だから、味覚はないのよね」 「そんな……じゃぁ、どうして、料理が」 「そこはそれ、長年の経験です」  誇らしげに笑う管理人さん。 「だからね、今日の料理はちょっと心配。 いつものキッチンじゃないと、自信ないのよね。おいしい?」 「はい、おいしいです」  うなずきながら僕は畏怖に打たれていた。 味覚なしで料理を極めるには、どれだけの経験が必要なのだろう。 どれだけの時間が。どれだけの決意が。  一箸一箸に、その思いを感じながら、僕はうどんを食べ終わった。  うどんを食べ終わり、食器を積むと、やることがなくなった。 燃え続けるたき火を、僕は、ぼんやりと見つめる。  ──平和。 久々に訪れた、あまりにも平和な時間。 この時間を乱したくはなかった。  けれど。 いつまでもこうしているわけにはいかない。 あのサムライはメルクリアーリの部下だと言った。 それが、僕を襲ったということは恵も危ない。  僕は、立ち上がった。 「あら、克綺クン、どこへいくの?」  のんびりとした声がかかる。 「恵を、助けないと」 「待ちなさい」  管理人さんの声は、厳かだった。 「今は夜よ。今行ってもいいことはないわ」 「でも……恵が」 「あの人なら、恵ちゃんを切り札に使うはずよ。 今すぐ行かなくても命に別状はないわ」  どこに行くのか一言も口にしてはいないというのに、管理人さんは僕を押し止めた。 ――あの人なら、恵ちゃんを切り札に使う。 管理人さんの口調はおそらく、メルクリアーリを指している。 「しかし……」 「今、無理したら克綺クンのほうが死んじゃうわよ」  優しく、そして威厳に満ちた声。 自分が幼子に返った気さえする。 それでも、僕は彼女をねじ伏せることができる。  一言命令すれば。 いますぐ僕を助けて恵を取り戻せといえば。 彼女は否応なく従うだろう。 そんなことを思いついた自分が嫌で、僕は、仕方なく膝を折った。  沈黙。 ぱちぱちと、薪が爆ぜる音ばかりが響く。  夜が怖いわけじゃない。恵のためなら命など惜しくはない。 けれども僕は、管理人さんを道具のように扱いたくはなかった。 彼女の忠告を無視したくはなかった。  あるいは、あのメルクリアーリ神父が、恵を傷つけることなどあり得ない。 そう、信じていたかったのかもしれない。  暗闇の中、揺れる光に照らされて、管理人さんの横顔が浮かび上がる。  はかない。 今にも壊れてしまいそうな、笑顔。  よく見れば、その手は、震えていた。 何かを押しこらえるように、細かく、細かく。  唇が、機械的に、開く。 「ごめんなさい」 「なにが、ですか?」 「私、恵ちゃんを、助けてあげられなくて」  僕はまた気づかないうち、自分の感情を顔に出していたのだろうか? 無意識のうちに、無言のうちに、管理人さんを責め立てていたのだろうか?      あの一瞬が、鮮明に脳裏に蘇った。 恵が小さな身体を、弾丸に踊らせる。 腹、足、胸。立て続けに、銃弾が身体をえぐる。 僕は、届かない。恵を、守ることができない。 届くのは、管理人さんだけ。   でも、管理人さんは、動かなかった。 「動くな!」という敵の声に従って、恵を見殺しにした。 決められた入力に、決められた反応を返すだけ。 彼女は、機械だったのだ。 「あそこで恵ちゃんを守れるのは、私、だけだったのに」 「僕も、そう思います。 もしも神父が助けてくれなければ、今頃恵は命を失っていたかもしれません」 「そう、ね。 あたしはもう少しで、克綺クンの大切な人を……」  声が震え、視線がうつむけられた。 管理人さんはそう言ったきり、肩を落とす。  動きは、ぎこちない。 どこからか、みしりと音がする。 熱せられた薪の曲がる音だろうか。 それとも、歯車の軋む音だろうか。  頬が細かく揺らぐのは、炎のつくる陰影か、それとも……。 「私ってば、母親失格ね」  そんなことはありません。  その一言が、出なかった。 出せなかった。  その代わり、管理人さんの、身体を抱きしめた。 抱きしめずにはいられなかった。  以前、僕を優しく包んでくれた身体が、細かく震えていた。 歯車が軋み、今にも砕けてしまいそうなほど。 「ありがとう、克綺クン。でも、無理しないで」  無理なんかしていません。 そう、嘘がつけなかった。 僕は、無理をしている。 その証拠に、身体が震えている。 「僕は、どうして、嘘をつけないんでしょう?」 「無理なんて、する必要ないってば」 「僕は、もう、壊れてなんて欲しくないんです。 いつもの、管理人さんでいてほしいんです」  管理人さんを、慰めてあげたかった。 だから、僕は、抱きしめた。 ジレンマに挟まれ、自分の形さえ壊してしまいそうな彼女を。 「でも、これ以上してあげられません」  管理人さんは、恵を見殺しにした。 彼女は、ただの人形。 人間のいいなり。  僕が一言「消えろ」と言えば、この場を去るだろう。 昨日、恵を見殺しにしたように。 「僕は、管理人さんを、憎んでもいるんです」 「うん。そう、よね……」 「僕は、どうすればいいんですか? 管理人さんを、助けてあげたいのに、なにもできない」 「それじゃあ、私を嫌ってみたら?」  管理人さんは、それがごく当然のように、笑顔。 違和感を覚えるほど、繕われた機械の笑顔だった。 「嫌いになれば、私を助ける理由なんてなくなる」 「ふざけないで下さいッ!」   僕は、管理人さんに迫る。 見開いた目は、焦点が合わないほど、近く。  「管理人さんの提案は合理的ですね。 全く、合理的です!」   感情が、爆発した。 一度噴き出た感情の奔流は、とどまることを知らない。 「あなたは確かに、僕の妹を見殺しにした! 僕の命の恩人だが、それ以前にただの機械であるあなたに、これ以上の思い入れを抱かなければならない理由はない!」  「じゃあ、ね。 やっぱり、ここでお別れしましょう」  「別れられるなら、僕はあなたを助けてなどいない!」   決定的だった。 僕の中で、論理が弾ける。  ただの理屈で、管理人さんを見捨てられるわけがない。 嫌えるのならば、雪典が襲ったとき、彼女をかばうことなどしなかった。   僕はあの時、管理人さんを、助けようとした。 逃げ出さなかった。 今のこの僕なら、言える。 たとえ何度、同じ立場に立とうとも、僕は管理人さんを助けようとするだろう。 彼女を見捨てるなんて選択肢は、最初から存在しなかったのだ。   僕らは本当に、何かを選ぶことができるのか? 自由意志なんてものが、本当に、存在するのか? 「論理が正しいことを知っていても、選べない。 感情だけが吹き出しても、割り切れない。 僕はとても不自由だ」  「そして、それは、あなたも同じなんだ」  「え……?」   燃え上がる炎の中、管理人さんは壊れていった。 恵を助けられなかった自分を罰するように、炎の中で、恵を求めた。  さっきまでの僕が、どうしても、管理人さんに嘘をつけなかったように。 管理人さんも、恵を助けることが、できなかったのだ。  「すみません。 僕はずっと、勘違いをしていたようです」  「そんな、謝らないで。 悪いのはみんな、私なんだから」  「違います」  僕は、強く、管理人さんを抱きしめた。 さっきとは違う。 彼女の震えを抱き留めるように、強く、しっかりと。 「あなたに罪があるなら、僕も同等に罪を持つはずだ」 「でも、私は――」 「僕はもう、この感情を押し止めることができません。 自分の意志で、言います」  管理人さんの、今にも崩れそうな顔を、正面から見据えて。 「僕は、あなたを愛しています」  唇を奪う。 初めは、強張った唇が阻んだ。 本当にいいのか、問いかけてくるようだった。  僕は、迷わなかった。 僕はずっと、ずっと、彼女が好きだった。 愛していた。  ただ、それに気づくのが、遅れただけ。 認めるのに、躊躇しただけ。  やがてこわごわと唇が開く。 僕は舌を入れる。 深く、深く。  堅かった管理人さんが、徐々に、解れていく。 星空の下に、ふたりのシルエットが、溶けた。  管理人さんは、それまでの抑圧から解き放たれるように、僕を求めた。 触れ合う肌からは、もう歯車のきしみなんて聞こえない。 ただ、全身を包む情熱の波に、身を任せた。  長い、長い。 そのまま、夜が明けてしまうのではないかと思うほど長い、口づけが終わる。  少し、調子を取り戻したかのように、管理人さんははにかんで笑った。 その片手は、抱き合った僕の胸の下――堅くなった膨らみに、添えられた。 「これも、克綺クンの意志かしら?」 「人間は、非常に不自由にできていると結論せざるを得ません!」 「だからこそ、人間でしょう?」 「しかし、それを行使するのは意志です。 ――管理人さんも、同様の意志を持ってくれることを期待しています」  宣言して、僕は、管理人さんを押し倒す。 覆い被されて、彼女は抵抗しない。 横顔が、静かに星空を見上げる。  唇が、微かに動いた。 「ありがと、ね」 「なにが、ですか?」 「ううん、なんでもないの」 「……ねぇ、克綺クン」 「はい、なんでしょうか?」 「おねがい、ね?」  そう言って、管理人さんは自ら、僕の手を導いた。  僕は覆い被さり、再び唇を重ねる。 僕と管理人さんが、近づく。 もっと近く、本当の彼女が知りたい、そう願う。  薄暗がりの中、管理人さんの身体に触れる。 手探りでそっと、彼女の敏感な部分を撫でた。 「ん……ん、ん」  唇を重ねたまま、管理人さんが声を漏らす。 彼女の吐息が、直に伝わってくる。  僕は、そっと指を動かす。 全体をなぞり、焦らすように、軽く、円を描く。 それから、わずかな突起に指を添えた。  唇を離して、管理人さんは僕に微笑みを向けた。 「あは、ん……克綺クン、いいわよ。この間より、上手くなってる」 「ありがとうございます」  徐々に、指の動きを強く。 緩急をつけ、強弱をつけ、管理人さんの身体が揺れる。 動きに同調し、豊満な胸がゆさゆさと波打った。  僕は乳飲み子のよう、胸に頬をなすりつける。 獣のように、口だけでむしゃぶりつく。  吸い付き、口いっぱいに頬張り、突起した乳首を舐め回す。 指で激しくこすり上げながら、僕は胸の突起を歯で挟む。 「ん、あ、それ――あ、んんんっ!」  管理人さんの身体が、大きく震える。 蜜が溢れ出し、止まらない。 僕の指は、管理人さんの視線に導かれるよう、襞が蠢く奥へ。  前回のような、躊躇はない。 突っ込んだ二本の指を、遠慮なく掻き回す。 「これは、どうですか?」 「いいわよ、ん――もっと、もっと、ね?」  微笑み。 僕の瞳を見つめたまま、首がわずかに傾いだ。  全身を、震えが襲う。 堪らず、胸に口づけた。  大きく波打っていた乳房は、揺れが徐々に細かくなる。  欲望をたたきつけるように、腕の疲れも忘れるほどに。 温かな管理人さんのなかを、僕は刺激する。 指をねじ込み、ぐちゃぐちゃに前後させる。 「すごい、んん、克綺クン、私、いつもと――ふぁっ、んん!」  止まらない。 さらに激しく掻き回す。 刻みは早く、さらに強く。  管理人さんが、目を細めていく。 身体が、緊張に強張っていく。 一気に駆け上がっていくのがわかる。  僕を求めて、襞が指に絡みつき、締め上げ、限界まですぼまった。  掻き回され。 星空を見上げながら。 彼女はひとつ、ふたつ、大きく息をついて。 「ふあっ、んぁっ、ん、くぅんんんん!!」  乳房の揺れが急激に収まり、管理人さんの身体が弓なりに反った。 二度三度、びくんと身体が痙攣して、天を突く乳房が揺れる。 髪が跳ね、小さく揺れた。  拳は強く額に押し当てられ、その目は星の光さえまぶしいかのごとく、細められている。  僕は、そっと指を抜き出し、仰け反った彼女を正面から見据える。 「はぁ……はぁ……んくっ、はぁ……はぁ……」  胸が激しく上下して、聞いている方が切なくなるほど、か細い呼吸が繰り返される。 息をのむその仕草が、あまりに愛おしくて、僕は堪らず唇を重ねた。 「はぁ、はぁん、んんん……」  収まらない管理人さんの息が僕の耳元をくすぐる。 僕らは深く、長く、お互いを確かめ合う。  ゆっくりと唇を離して、管理人さんは優しく僕の頬を撫でてくれる。 真正面から見つめられて、僕はなんだか急に気恥ずかしくなってしまう。  「ね、克綺クン。急にどうしちゃったの?」  「……質問の意味が、わかりかねます」  「恋人さんでもできちゃった? まさか恵ちゃんなんてことは――?」  「だから、なんの話ですか?」 「いや、だって克綺クン、急にうまくなったから……誰かで経験を積んだでしょ?」  「まさか! 僕が恵と性交渉を持つと思いますか?」  「近親相姦は否定しないんでしょ?」  「僕は理知ある人間です。 少なくとも、妹への自制心を保つ程度には!」  「お母さんが相手だったら?」  管理人さんはそう言って、四つんばいになる。  クッションに肘をつくと、髪をかき上げ振り返った。   片腕で、ゆっくりとビキニを押し下げる。 濡れた秘裂が、待ち受けていた。 突きつけられた彼女の尻が、突き出されている。   僕の身体を、衝動が突き動かした。 巻き上がる芳香をいっぱいに吸い込んで、入り口に押し当てた。 「お母さんだからじゃ、ありません」   ひくり、と伝わる彼女の感触。 僕は大きく息を吸い込む。  「管理人さん、だからです」  一気に、貫いた。 「――ぁっ!」 「僕は、管理人さんだから、自制できないんです!」  打ち付ける。 両腕で腰を掴み、勢いよく貫く。 潤った襞が絡みつく。 きつく激しく締め付ける。  燃えるように熱い。 一度突き立てるだけで、気が遠くなりそうになる。 「あっ、んん、あぁっ!」  管理人さんは、上体を支え続けることができない。  押しつぶされるように、クッションの上に突っ伏した。  僕が前後するたびに、人形のように全身が揺れる。 押しつぶされた乳房が震える。 「んあっ、んん――ありがとう、ね。私も、克綺クンだから――んはぁっ!」  管理人さんの言葉が、僕の動きを加速させる。 芯から沸き上がる衝動を、叩きつける。 ねじ込むように、何度も、何度も、僕は出し入れする。  身体と身体がぶつかり合い、乾いた音を立てる。 管理人さんはなすがまま、上体を持ち上げることすらできない。  僕は、彼女を貫く。 彼女と溶け合うために。 もっと近く、もっと確かに。 「んっ、すご――すごい、ああっ、なんだか、変、だわ」 「変? なにが、ですか?」  管理人さんの刺激は、あまりに強すぎた。 そのまま動き続ければ、すぐに果てていたかもしれない。 身体の動きを緩めながら、僕は管理人さんの言葉に耳を傾ける。  だが、穏やかな動きだというのに、彼女の興奮はどんどんと高まっていく。 肉壁が、僕の動きを強要する。 管理人さんは顔をクッションに押しつけたまま、混乱したように言葉を紡いだ。 「うん、あのね、普段は、こうじゃ、ないの」 「料理の話、したでしょ?」 「味が、わからないという?」 「そう。私、それと同じで、感じないの。 肉体的な快感が、なかったの」  管理人さんの告白に、突然目の前が眩む。  今まで身体を重ねながら、管理人さんは僕と気持ちまでも繋がっているような気がしていた。 彼女の感情も、全て、手に取るようにわかる。 そう、錯覚していた。  けれどもそれは、単なる僕の思いこみだったのか? 「ごめんなさい。でも、本当、なの」  管理人さんは、身体の動きを止めながら、申し訳なさそうに口を開く。 「相手の気持ちよさそうな顔を見て、それに合わせて、自分もうれしくなってた、そんな感じ」 「そんな……。じゃあ今までの素振りもみんな、長年の経験から導き出した演技なんですか?」 「でも、今は違う」  管理人さんが振り返る。 悲愴な横顔に、僕は息を飲んだ。 「私の身体、以前と変わってきてるのかもしれない。 さっきも突然、自制が効かなくなっちゃって――」  確かに、管理人さんの反応は度を越えていた。 彼女の中で、何かが変わりつつあるのかもしれない。 「今更、こんなことを言っても許してなんかくれないかもしれない。 でも……ちゃんと、謝っておきたくて」 「克綺クン、騙してしまって、本当にごめんなさい」 「管理人さんは酷いひとです」  ――今までの彼女の行動が、単なる演技だった。  僕が管理人さんと同じ感覚を共有していなかったのはショックだ。 騙されていた。 そんな感想を持たないと言えば、嘘になる。  だが、だからといって、誰が管理人さんを責められるだろう。  彼女は僕の想いに応えるため、自分のできることをやった。 僕を喜ばせるために、自らを偽った。  一度騙すことができたなら、彼女は過去の罪を隠しておくこともできたはずだ。 過去のことなど素知らぬふりをして、新たな感情に身を任せることもできたはずだ。  けれども、管理人さんは、真実を告げた。 隠し事などできなかった。 同じ感覚を共有したいと願った。 僕のことを信じ、真実を告げてくれたのだ。 「だから、僕は管理人さんのことを許しません」  静かに告げると、管理人さんの表情が曇る。  僕の熱は、一息ついている。 今なら、思う存分、彼女を突き動かせる。 「今まで僕が受け取った分も、気持ちよくなってもらいます」 「え――あッ!」  きょとん、とした表情の管理人さんを、僕は再び貫く。 声を裏返して、彼女の身体が硬直する。 「はぁ、ん! そんな、克綺クン――」 「反論は許しません」  深く、押し込んで。 管理人さんは、顔を崩す。  身体がよじれる。  二度、三度。 突き立てるに、管理人さんの髪が大きく跳ねる。 ぶつかり合う肌に、じっとりと汗が滲む。  戸惑いがちだった管理人さんの身体が、僕を受け入れはじめる。 強く抱きとめるように、僕をしっかり包み込む。  僕は、彼女と、共有したいのだ。 演技ではなく、本物の感情を。 今、ここで、一緒に生きている、その実感を。 「ふぁ、ん――あっ! すごい、また――」  自ら大きく腰を押しつける。 動きに合わせるように、さらに深く。 絞り上げるような快感に、僕は動きが止まらない。 リズムは速まり、狂い、歯を食いしばって堪える。 「あぁっ! んん――ねぇ、克綺クン」 「は、はい。なんでしょう、管理人さん」 「最後は、ちゃんと、あたしの顔を見て、ね?」  管理人さんは、そう言って手を差し出した。 僕は、その細い指に指を絡めると、彼女の身体をゆっくり抱き上げる。  正面から向き合って、管理人さんは僕にしなだれかかった。 背中の後ろで、腕がぎゅっと結ばれたのがわかる。 僕もお返しのよう、彼女の背中に手を回す。  管理人さんの乳房が、僕の胸元に押しつけられた。 ピンと尖ったその先端が、肌をくすぐる。  わずかに漏れる吐息を感じながら、彼女の身体をしっかりと離さない。 お互いに顔を見据え、無言でひとつ、頷きあってから。 管理人さんの身体を突き上げた。 「ぁぅんっ」  管理人さんの途切れそうな声。 切なげに細められるその瞳がさらに促す。  僕はリズムを刻む。 初めから激しく、思い切り彼女を貫く。 「ふぁっ、んっ、んぁっ、んっ!」  管理人さんは、大きく身体を上下させる。 身体を引き寄せ、細かく腰を揺り動かす。 腕の中で、乳房が踊った。 長髪が星空に舞い、腕が背中を必死に掴む。  管理人さんは、前傾気味に身体を丸める。 決して僕から離れないように。  間近に感じる心臓の鼓動。 誰よりも近い息づかい。 僕は突き上げながら、彼女の唇を求める。 「ふぁっ、んっ、ん――!」  細められた瞳で、正面から唇を重ね。  管理人さんの動きが、変わった。 動きが止まらない。 蠕動する彼女の中に、僕は一気に理性を失う。  全身を、電流が走り抜けたような衝撃が襲った。 心臓が跳ね上がる。 目の前が白くなる。  こんな感情は、想像したこともなかった。 あまりの快感の洪水に、僕は一瞬、自分の正気を失う。 だが次の瞬間には、その疑問も押し寄せるそれに、押し流されてしまう。  感じるのは、管理人さんの感触だけ。 誰よりも近く、誰よりも確かに。 「んぁっ、んん――もっと、ね、もっと!」 「だめ、です。そんなにされたら、すぐに――」 「ぁんっ、んぁっ、克綺クン、私も、あはっ、んっ、ん――!!」  耳元で、管理人さんの声が聞こえる。 それしか聞こえない。  突き上げる。 強く、強く。 彼女が導くままに。  ただひたすら、彼女の身体を抱きしめる。  どこからどこまでが、自分の身体かすらもわからないまま。 背中に回した腕を、思い切り引きつけて。 管理人さんの中に、僕の全てを注ぎ込む。 「ふあっ、んぁっ、んん、ん――!」  微かに震える、管理人さんの声。 緩やかに反る、彼女の身体。 肉壁が締め付け、僕の精が搾り取られる。  身体を満たす絶頂感に、息もつけない。 視界が狭まり、それでも懸命に意識をとどめようと、愛しい人の顔に意識を集中させる。  真正面から見つめる管理人さんの瞳は、それでも、まだ強く求めていて。 「あっ、すごいよ、ね、克綺クン、もっと、もっと、ね?」  管理人さんは、動きをやめていなかった。 軽く身体を硬直させてから、さらに強く身体を押しつけた。  どくん、どくんと、まだ震えの収まらないそれを、離さない。 貪欲に、吸い付く。  瞬く間、僕の中に新たな火がともる。 ありったけを注ぎ込んだはずの僕は、再び堅く彼女を貫いていた。 「ん、管理人、さん……」  僕は、上の空で呟いた。 あまりの快感に、視界が遠く、魂が浮いているように思う。  そんな僕を押し止めるよう、管理人さんの唇が僕を優しく撫でて。 休む間もなく、衝動に身体が突き動いた。 僕は堅く、二度と離さないように管理人さんを抱きしめた。  先ほど射精したばかりだというのに、僕のペニスは屹立している。 欲望を吐き出す機会を、今か今かと待ちわびている。 誘われるがまま、管理人さんの動きに合わせて、動く。 「あはっ、ん――あっ、あっ、あっ!」  彼女の動きは止まらない。  真っ白な世界で踊る。 遠くに星空が見える。 柔らかな胸が揺れる。 汗ばんだ肌が星々に光る。 潤んだ瞳が、一滴残らず僕を吸い尽くしたいと求めている。  僕は抵抗できない。 身体を走る快感に、抵抗など考えられない。 もっと近づいて、もっと混じり合って、溶けてしまいたい。  限界を超えた快感に促され、痛いほどに。 心臓が喉から飛び出してしまうような錯覚。  僕は管理人さんの顔を、正面から見据える。 彼女も、僕も、限界は目の前だった。 「克綺クン。私、また、おかしくなっちゃう!」 「管理人さん。僕も、また――」 「いいわよ、んぁっ、それじゃあ、一緒に――んぁっ!」  全身が総毛立ち、管理人さんの身体が触れるだけで吐息が漏れる。 身体を合わせ、これほど近くに息をしている。 ただそれだけで、歓喜に身体が震える。  全てが、遠く消えていく世界のなかで。 強く抱きしめる彼女の感触だけが確かだった。 僕らは同時に、絶頂を駆け上がる。 「ふあっ、またきたっ、んっ――んあはっ!」  時間が引き延ばされ、逆回しになり、ついには途切れる。 お互いに身体を引きつけ、腕が痛いほどに抱きしめ合う。 繭のように、白く、まるく、そして――。 「あは、ん、ふわ、あっ、んっ、んんん――っ!」  管理人さんを、誰よりも近く感じながら、僕は再び果てる。 僕の中が空になるまで、ありったけの力を彼女に注ぎ込む。 身体が仰け反り、芯が痺れた。  痙攣する管理人さんの膣で、僕のペニスが震えている。 全てを注ぎ込むよう、何度も。 「克綺クン、いっぱい……」  潤んだ瞳でそう囁いて、管理人さんは僕に倒れかかる。 荒い吐息を重ねるように、唇が触れる。 ピンと突き出した乳首が、胸にこすれてくすぐったい。  だが僕は、管理人さんのなすがまま、抱きしめられている。 優しく、暖かい、彼女の心音を聞いている。 いつまでもずっと、ずっとこうしていたい。 「ねえ、克綺クン?」 「は、はい、なんでしょう?」  呼びかけられて、僕の身体が現実に引き戻される。 けれどもまだ頭のどこかが、向こうの世界に置き去りにされたままだ。 「ふふっ。やっぱり、克綺クンって、かわいい」  脈絡もなく発せられた言葉に、僕はしばし呆然とする。 「そう、なんですか?」 「そうなのよ」  管理人さんは立ち上がり、頭を抱えるようにして、僕の身体を抱きしめる。 柔らかな胸が、僕の身体に押しつけられた。  ドクン、ドクンと刻む心臓の鼓動。  柔らかな――懐かしい感触に包まれて、僕はしばらく言葉もない。 ただ感触を確かめながら、緩やかな夜風に身を任す。  星空の下、僕はいつまでも、管理人さんの鼓動を感じていた。  陰鬱な鐘があたりに響いた。 校庭の端にある小さな教会、その鐘楼の鐘。 夜響くその音は、たいそう精妙で、人の耳には届きもしない。  その音に目覚めるのは、夜闇を住処とする者たちである。 「メルクリアーリ様」   田中は銀盆をささげもつ。 黒髪の神父が、コーヒーカップを取る。 「約束の時間でございますが。 雪典が未だ戻りません」  「ええ。返り討ちにあったようですね」  「今夜の会見は、中止にいたしますか?」  「いえ」 「しかし……三つの護りの復活も考えられますが……」  「それだから、ですよ。 早めに動いて押さえないことには安心できない。 五分後に出発します」  「は」   背広の男は、深々と頭をさげる。 すだれ髪が額から滑って下を向いた。 「下がってよろしい」   その言葉に、田中が顔を上げた時には、髪は額に張り付いていた。  狭祭市郊外のストラス製薬研究所。  エレベータを降りた、地下の会議室に、メルクリアーリ神父は通された。 長いテーブルの向こう側に座るのは、背広の男だ。 「ようこそ、メルクリアーリ神父」   言葉はやさしく、声は冷たかった。 背広の男は、両腕を胸の前で組んでいる。  「お招きにあずかり参上しました、神鷹社長」  神父は深々と辞儀をした。  いやにごつい男がドアを開け、神父に緑茶を差し出す。 秘書というよりはボディーガードに見える。 「これはどうも」   メルクリアーリは、優雅に湯飲みに口をつけた。 「コーヒーのほうがよかったかね?」  「いえ、お構いなく。 本日は、直接、お招きいただけて光栄です。 協定の見直しに関するご用件ということでしたが……」  「あぁ」   神鷹士郎がうなずく。 ボディーガードが渡した書類束に神父は目を通した。 「……配給の70%減と、土着種の名簿作成および管理、ですか。 いったい、どういった心境の変化で?」   顔色一つ変えずに神父は言った。  「君たちは、この街では、もう必要とされていない、ということだ。 いずれは、この世界となるだろう」  「ほう」   メルクリアーリは笑顔のまま答える。 その背後の闇が、わずかに濃さを増した。 「宣戦布告、というわけですか?」  「降伏勧告だ」   メルクリアーリは、ごくゆっくりとした動作で、懐から拳銃を取り出す。  優美な動作で銃口を向け、引き金を引いた。  ぱん、と、音がした。 たなびく紫煙を吹き消し、メルクリアーリはつぶやく。 「まぁ、そんなところだとは思いましたが」   拳銃弾は、部屋の中ほどで止まっていた。 神父と社長、その間に張られた透明なスクリーンが拳銃弾を受け止めていた。  「なんとも時代遅れな武器だな」   悠々と社長が言う。 「こういうのが性にあってるんですよ。 武器は不便なくらいがちょうどいい」   神父は肩をすくめた。  その瞳が紅い光を発する。 瞬間。  ボディーガードの男が、神父の肩をつかんだのだ。  神父の目から赤光がかき消えた。 否。かきけされたのだ。 わずかに触れられただけで、神父の体からは、あらゆる魔力が消えていた。  ──やれやれ、報告以上ですね、この力は。 「なるほど、これが、あなたの新しい玩具ですか」  「玩具ではない。 人類の尊厳を護る盾と、剣だ」  「この筋肉ダルマがですか? もう少し見栄えに気を遣ったらいかがです?」  「まだ実験段階だからな。 大量生産においては、外見の調整も考慮しよう」   メルクリアーリは、肩をすくめた。 「まったく、あなたがた人間というのは面白い。 せっかく爪も牙も持たずに生まれたというのに、殺戮の兵器を生んで止まない」  「爪や牙は、生まれつきのものだ。 だが武器は誰にでも扱える。 武器故に、弱いものは強いものと対等になれる」  「行き着く先は、核の平和に無差別テロですよ。 神父としてはお勧めできない道ですね」 「人類のことは人類で治めよう。 貴様ら、人外の民をかき消してからな」  「夢があることは結構なことです」   メルクリアーリは陽気に肩をすくめた。  「長年の友誼に基づいて言うが、君には二つの道がある。 生きたまま帰って勧告をするか、死体となって帰って警告となるか、だ。 無論、生きたままとは言っても、多少の処理はさせてもらうが」 「魅力的な選択肢ですね」  「無駄なことはしないほうがいい。 実験体が触れている限り、貴様にはいかなる力も使えない」  「わかってますよ、それくらいは」   メルクリアーリは微笑む。 「さて、どちらがいい?」  「どちらがいい、と言われましてもね。 すぐには帰れませんよ。 神父としてする仕事が残っています」  「人の血で喉を潤すおまえが、いまさら説教か?」  「はい。お手間は取らせません」   人なつっこい笑顔を向けられ、神鷹は苦笑した。 「やってみろ。 ただし私の心を変えられるとは思わぬことだ」  「人の心を変えるのは、他人の言葉ではありません。 それは、その人自身の想いと行いです」  「では、神父は何のためにいる?」  「人が道を選ぶ時、その助けになるためですよ。 そして、そのきっかけを与えるためです。 あくまでも道を選ぶのは、その人自身ですから」 「さて、神鷹社長。 あなたは、さっき武器について語られた。 聖書で武器は、なんと語られているかご存じですか?」  「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり。 マタイ伝26章52節。 そんな箴言で、私の気を変えるつもりか?」 「いいえ。 しかし、聖書の言葉には常に意味があります。 いみじくも、さきほど社長がおっしゃったように。 武器とは、誰にでも扱えるものです。 武器を握った弱者は……たとえ幻想でしかないにせよ……強者と対等になれる」  「その通りだ」 「神鷹社長。 あなたの完成させた強化実験体は完璧だ。 一方で人間に人外の能力を与えながら、人外の能力を無効化させる。 これを使われたら、いかなる人外の民も、ひとたまりもありません」  「何が言いたい?」  「あなたがた人類の優れたところは、これほどの力を、誰にでも簡単に使える形で完成させたことにあります」   誰にでも、と、神父は言う。 「つまらんな。時間切れだ」   神鷹は、サインを送る。  指示を受けた実験体は、ゆっくりとメルクリアーリの首に手をかけ、  そして、離した。 「な……!」  神鷹の顔が、わずかに歪む。  メルクリアーリは立ち上がって男の肩を撫でた。  「確かに、これは、いい兵器です。 徹底した洗脳と条件付けで、命令には絶対服従する。 そうですね?」  「……貴様、どうやって」  「私が一人で来たとでも思われたのですか? とんでもない」  神父の言葉を裏付けるように、非常用ベルが鳴る。  「彼には私の力は通じない。 けれど、オペレーターには通じますとも」  神鷹が立ち上がる。  椅子を蹴って出口へ向かって走った。  その鼻先でシャッターが降りる。 「もう、遅いですよ。 これは、完璧な兵器だ。 それゆえに使い手を選ばない」  ──Trr。 メルクリアーリは携帯を取り出した。 「あぁ、田中ですか。ええ、会議室です。予定通り。 そちらは? なるほど。では、後ほど合流します」 「では行きますか」   メルクリアーリが立ち上がる。 その背後に実験体が付き従った。 数歩歩いて、部屋の真ん中のスクリーンに触れる。  「これ、お願いします」  実験体の男が無言でうなずいた。  その拳を握る。 たちまち腕が膨れあがり、頭ほどもある拳ができあがる。  ぶん、と、風を巻いて拳がスクリーンにたたきつけられる。  一撃で、蜘蛛の巣状の罅が入り、もう一撃で、スクリーンは砕け散った。 破片を髪から払いながら、メルクリアーリは歩を進めた。  部屋の端でうずくまる神鷹。 その目には、追いつめられた獣の凶暴な光があった。 神鷹は懐から拳銃を取り出す。 黒光りするそれを、己のこめかみに押しつける。  「……おっと」   引き金を引くよりも速く、メルクリアーリは、その手を押さえていた。  神父の細い指の下で、神鷹の指が砕け折れる。  悲鳴を上げる神鷹を、メルクリアーリは、見つめた。 紅い妖光の宿る瞳で。 それだけで神鷹の動きが止まる。  「これほどの武器を完成させてくださったことに、感謝しますよ、神鷹社長」  神父は、そう言って神鷹の頬をはさんだ。 深紅の唇が開き、象牙色の牙がのぞく。  神鷹は、二度うめき、そして、静かになった。  夜が明ける。夜が明ける。 瓦礫の上にも、茜色の夜明けが訪れた。 刺すように冷たい夜気と、まぶしいほどの紅い朝日が、僕の眼を覚ます。  ……いや、それは夢だ。  細めた目をゆっくりと開ければ、まだあたりは夜闇の中。 大きく伸びをして空を見上げれば、満天に星が満ちていた。  ずいぶん眠った気がするが、まだ早いのだろう。 もう一度大きく伸びをして、僕は、ふと笑った。  管理人さんは、まだ眠っていた。 寝ているところを見るのは、はじめてかもしれない。 僕は、小さく管理人さんを揺する。  「起きてください」  「……はい……」   眠そうに眼をこする姿は、少女のように綺麗で。 「なに、見てるの」   軽く額を小突かれる。  「もう、大丈夫ですね」  月光を浴びて立つ管理人さんは、すっかり人の姿が馴染んでいた。 右腕は、手袋で覆われていたけれども。  「管理人さんの寝顔、はじめてみました」  「わたし、眠らないから」   ほつれた髪を整えながら管理人さんが言う。 「そうだったんですか? 今、眠ってましたよ」  「そうね。はじめて」   夜の守り手は、童女のように笑った。 「人に、近づいているのかも」   彼女の力が僕に由来するものならば。 僕の願いが彼女を変えることがあるかもしれない。  「ねぇ克綺クン。 私は一度だって、人になりたい、なんて思ったことはないわ」   ゆっくりと、彼女は言った。 「さ、ゴハン作るから、克綺クンは、着替えてらっしゃい」   そう言った管理人さんは、もう、いつもの顔に戻っていた。  心臓から魔力を腕に伝える。 気合いを入れて瓦礫をどける。  自分の体ほどの山をどけた頃、衣装箪笥が見つかった。 表面が焦げて、あちこち罅が入っているが、中身は、ほとんど無事だった。 すべてが失われたと思っていたけれど、探せば残っているものは沢山ある。  生きている蛇口から水を流し、魔力で操りシャワーに変える。  埃を洗い落とし、新品の学生服を着れば、気分は爽快だった。 「ゴハン、できたわよ」  管理人さんの声に、僕は瓦礫の山を乗り越える。 「はい、昨日と同じで悪いけど……」 「いただきます」  管理人さんが、僕を、じっと見つめる。 「一緒に食べませんか?」  僕は、声をかける。 「あら、どうして?」 「そのほうが……楽しいですから」  そう言うと、管理人さんは、にっこりと笑った。 「そうね。そうしましょうか」  味噌仕立ての雑炊には、具がたくさん入っていた。 ニンジン。ゴボウ。それに鶏。 一日おいたせいか、味がなじんでいる。  「玉子があったら、よかったんだけど……」  「いえ、おいしいですよ」   僕は、心の底から言った。  「よかった」  管理人さんの煎れた緑茶を飲みながら、僕は雑炊をいただく。 「あの……」 「なにかしら?」 「さっきの話です。人になりたいと思わないって言いましたね」 「えぇ」 「それは、どうしてですか?」  管理人さんは、一瞬とまどった。 そんな当たり前のこと、という顔をする。 そして、僕を真正面から見つめる。 「それはね。私が、私だからよ」 「どういうことですか?」 「人が、人の身でできないことをするために、私がいるの」  声には、力があった。 人が戦えない夜の闇と、彼女は戦ってきたのだろう。 幾千、幾万の夜を越えて、子供の夢を守ってきたのだろう。 「でも……あなたは、それでよかったんですか?」 「克綺クン、私は楽しいのよ」 「戦うことが、ですか?」 「いいえ。子供たちを守ることが、よ。 一人一人が大きくなって、そうして、また新しい子供が産まれて。 その一人一人が無事に、大きくなるように。こんなに楽しいことはないわ」 「でも……もしかして、他の生き方があったら、と、思いません?」  言ってから僕は唇を噛んだ。 残酷な質問かもしれない。 幼子の守護者として生を受けた彼女には、選ぶ権利など最初からなかったのだから。 「そうね」  管理人さんは、とまどうように笑った。 「考えたこともなかったわ。だから、考えておくわ」  僕は、うなずく。 「ごちそうさまでした」 「はい、おそまつさま」  食事を平らげて、僕は携帯を取りだした。  時刻を確かめて驚く。  もう、昼じゃないか。 空は相変わらず昏く、太陽の昇る様子はない。 「管理人さん、太陽が変です」 「ええ」  管理人さんはうなずく。 ずっと前から気づいていたのだろう。 「動いたみたいね、メルクリアーリ」 「何が起きてるんです?」 「座って。お茶を、もう一杯いれるわ」  長くなるということか。 僕はうなずいた。  紅茶の薫りを吸い込みながら、僕は管理人さんに話しかけた。  「メルクリアーリ先生がどうしたというんですか? どうやって、太陽を止めたのですか?」  「克綺クン、誰の、どんな力でも、お日様を止めることなんてできない」  「はい」 「メルクリアーリのしたことは、街全体に結界を巡らせたこと。 お日様が昇らないようにしたわけ」  「そんなことが、できるんですか?」   いや、できるなら、なぜ、今までしなかったのか。 「そんなに難しいことじゃないわ。 夜闇の民は、本来、昼には動けない」  「でも、メルクリアーリ先生は、授業をしてましたが……」  「そう。 それは、あの学校が結界だったから。 日は差しても、夜闇の民だけは避けるようになっていたの」   確かに、僕は、神父を昼、学校の外で見たことはない。 「その結界を、街全体に広げた?」  「ええ」  「でも、どうして今頃?」   管理人さんは、小さく首を振った。 「克綺クン?」  「はい」  「少しだけ、待っててくれる? 恵ちゃんは、私が取り返すから」  「待ってください。僕も行きます」  「今度の相手は、人外よ。 だから、私の仕事」  いかなる敵であっても。 それが人外である限り。 彼女は負けはしまい。 その意味はわかった。   だけれども……。 「克綺クン、お願い」   真摯な瞳で見つめられた。  「私は、あなたの身の安全を守らなければ、いけない」   もし今ここで。 僕が彼女に命令すれば。 僕は一緒に行けるだろう。 だがそれは彼女を傷つける。 再び打ち砕くかもしれない。   だから僕は。 不承不承に、うなずいた。 「行ってきてください。 ここで、待ってます」  「ええ。心配しないで」  そう言って管理人さんは、僕にくちづけた。 「え?」  顔が紅くなるのが分かる。 あわてた僕が顔を上げた時。  彼女は、もう、いなかった。 「なんてこった」   峰雪綾は、その朝、何度目かにそう叫んだ。 朝、というのは語弊がある。 なんというかつまり、その朝が来なかったのだ。 寺の中でくすぶっててもしょうがないから、こうして街に出てきたわけだ。 服はいつもの学生服。 手には、大きな街の地図。 ついでにコンパスまで持っている。 持っているのだが。 「なんてこった」   再び、峰雪は、叫んだ。 戻ってきている。 確かに街から出る道を選んで歩いたはずなのに、気がつけば駅前に戻っている。 何度試しても駅から出られない。 どこかで逆戻りしてるはずなのだが、どこで戻っているかが分からない。 それはまどろみの瞬間にも似て、捉えがたい。 外へ呼びかけようにも、携帯は完全に圏外だった。 電話、ネットも通じない。 「ったく。こういう非常識なことは親父の管轄だろうに。 ま、そうも言ってらんねぇか。 この様子じゃ」  両手を打ち合わせて気合いを入れる。 調べること、試すことはいくらでもある。  ……なにより、この分じゃ、学校は休みだろう。 ちょいと暗いが、休日が増えたと思えば、ありがたい。  峰雪は、星明かりの中を走り出した。 「なんてことだ」   僕は、瓦礫の上を歩きながら呟いた。   管理人さんを見送りはしたが、無論のこと放っておくつもりはなかった。 しばらく待ってから、出かける。 そのつもりだった。 管理人さんの姿が消えるのを待ってから、歩き出す。 そこで奇妙なことに気づいた。 抜け出せないのだ。  メゾンの跡地の瓦礫を、まっすぐに歩いているはずなのに。 すぐそばに門が見えているのに。 気がつけば、また瓦礫のなかをぐるぐると歩いている。   ……どうやら、僕の考えは、お見通しだったようだ。  目をつぶって歩く。 後ろ向きに歩く。 足跡をつけながら、まっすぐに歩く。 夜空を見て、星のほうに歩く。  思いつく限りの方法を試した後、僕は、足を止めて瓦礫に腰掛けた。 外に出ようとさえ思わなければ、メゾンの跡地を歩き回るのは問題がない。  さっき片づけた管理人さんの部屋に腰を落ち着ける。  ──落ち着け。   この夜が、メルクリアーリの仕業ならば。 管理人さんが負けるはずはない。 だが。 あのメルクリアーリが勝ち目のない勝負を仕掛けるとも思えない。  どうにかして、ここから脱出しなければならない。 管理人さんが勝てない敵に、僕が手助けできるかはわからない。 ただ、だからといって、座して待つことはできなかった。 管理人さんが闘って、傷つくのを、知って見過ごすことはもうできない。   つまるところの自己満足。 エゴイズム。 最大多数の最大利益を考えるなら、僕は、ここでじっとしているべきかもしれない。  ──落ち着け。   そもそも選択の余地がない以上、行動の是非を考えても仕方がない。 胸にのしかかる重い塊をかみつぶしながら、僕は、いらいらと考える。 今は、ここから抜け出す方法を考えることだ。   胸の中の力に触れる。 魔力を使えば、あるいは?   その時だった。  瓦礫を踏む足音に気づいたのは。  こつり、こつりと足音が響く。 小さく、風にまぎれそうな幽かな音。 それでも音はそこにあり、何かが、そこに立っている。  ようやく気づいた僕が振り返る。 「誰だ」  闇の中に紅い髪が燃えていた。 黒のドレスを着た音は、皮肉な笑みを浮かべた唇で、こう言った。 「なに、気にするな」   太刀を背負い、この明けない夜にメゾンを訪れる者。 気にするなが、聞いて呆れる。  「何もの……」  「通りすがりの野次馬だ」   こちらの言葉を遮るように女は言った。 「名前は?」  「人に名を聞く時は、自分から名乗るものだろう」  「そ……」  「違うか、九門克綺?」  「知って……」  「知っていたならどうだというのだ? 不作法の言い訳になるのか?」   深呼吸。落ち着こう。 「不作法は詫びる。 僕は九門克綺。あなたは誰だ? こんなところに何をしに来た?」  「答えよう。我が名は、イグニス。 そして二番目の質問について言うならば……おまえこそ、こんなところで何をしている、九門克綺?」  「……っ」   僕は言葉に詰まる。 「なんだ、その顔は? “最も古き祈り”に置いていかれたか?」   “最も古き祈り“。 口に出して分かった。 管理人さんのことだろう。  「あぁ図星か。邪魔したようだな」   女はくるりと背を向ける。 「待て!」  「……なんだ?」  「僕を……ここから、出してくれ」   イグニスは、一瞬、とまどったが、しばらくして、鼻で笑った。  「そうか。足止めされたか」   僕はうなずくしかない。 「待っていろ。そこを動くな」  イグニスは、まっすぐに瓦礫を踏んで近づいてきた。 白い肌から、酒のような香りが匂った。 「さぁて……と」   あとずさりしたくなるほど顔を近づけると、イグニスは、ふわりと指を滑らせた。 僕の肩から何かをつまみ上げる。  「これだな」   イグニスが拾い上げたのは、もつれた糸くずだった。 「それが……」  「糸玉の魔法だ。 古臭くて黴の生えた魔術だ。 見ていろ」   もつれた糸の端を探しだし、器用に両手の指で摘む。 摘んだ糸くずを、イグニスが、ぴんと引っ張った瞬間。  ぐるりと天地がひっくり返った。 頭が地面に落っこち、足が空を向く。 伸ばした手は宙を掴み、僕は、無重力の宇宙にのたうつ。  ぐい、と、指が肩を痛いほどに掴む。 その腕に支えられ、僕は、平衡を取り戻した。  両の足を踏みしめて、大地に立つ。  「今のは……」  「同じことを言わせるな」  「イグニス」   僕は疲れた声で言った。 「僕は、あなたが嫌いなようだ」  「そうか」  「……好悪の情を乗り越えて頼みたいのだが、あなたが知っていることを僕にとって分かり易く最初から全部話してくれはしまいか?」  「最初からそう言えばいい」  イグニスは、瓦礫の一角に腰を下ろした。 「私はイグニス。人外を狩る者だ」  「……ストラスの手のものか?」  「ストラスは壊滅したぞ」   女は、こともなげに言い放った。  「え?」   僕は耳を疑ったが、今は、脱線すべきではない。 「それで、人外の狩人が何の用だ?」  「人外を狩りに来たに決まってる。 おまえには、この夜が見えないのか」   僕は仕方なくうなずく。  「メルクリアーリ先生か」  「そう。あの吸血鬼だ。 だが、ここまで派手に動かれると、私の手にも余る。 そう思って“最も古き祈り”を訪ねたわけだが……」 「それは、管理人さんのことか?」  「管理人?」  「このメゾンの……管理をしていた人だ」  「あぁ、それだろう。 とにかく黒の人形だ」   人形という言葉に、少しだけ胸が痛んだ。 「その“最も古き祈り“というのは?」  「三つの護りの一つだ」  「三つの護り?」  「ヒト族の三つの護りだ」   イグニスは、皮肉げにつけくわえた。  「何も知らないのだな、おまえは」   僕はうなずくしかなかった。 「一度しか言わないからよく聞け。 世にはヒトの〈族〉《うから》と、人外の民がいる。 人外の民は、それぞれに魔力を持つ。 一方、ヒトは、個々の魔力は微弱だが、人類全体で、その魔力が相乗することがある」  「人外の民の魔力は……相乗しないのか?」 「人外の民にとって、魔力は自己そのものだからな。 魔力が溶けあえば、身体も溶け合う。 逆を言えば、己がある限り、溶け合わない。 強大な人外とは、すなわち、強大な魔であり、強大な自我だ」   言っていることは半分程度しか理解できないが、それはいい。 「相乗した人類の魔力は、己の護り手を生み出した。それが三つの護りだ」  「管理人さんと、他の二人、か」  「あれはヒトが生んだ、魔を討つための魔。人外を越えた人外だ。 故に負けない」  「心配は、ないということか?」  「そうはいかん」   イグニスは首を振る。 「あれには大きな弱点がある。 ヒトを護るものであるが故に、ヒトを傷つけられない」  「知っている」   声が、震えた。  「メルクリアーリが人間の楯を用意していたらどうだ?」  「……確かにな」 「それに、この夜だ。メルクリアーリ程度の〈魔力〉《ちから》では、これほどの結界を張ることはできない。おそらく……」  「おそらく?」  「“闇の聖母“が、動いている」  暗闇と静寂が包み込んだ街。 スピーカーが唸り、役所からの緊急放送が鳴り響く。 「ただいま日照が欠如しております」  拡声器の放送を聞いて、峰雪は渋い顔をした。 なにが、「日照の欠如」だ。 お役所言葉にも程があらぁな。  最初聞いた時は、吹きだしたものだが、こう何度も聞かされると、つらいものがある。 「この異常気象の原因は不明です。 繰り返します。原因は不明です。 町民の皆様は、戸締まりをしっかりして、外に出歩かないよう、お願いします」 「なお、午前10時より海東学園にて対策会議を行います。 ご参加を希望の方は、十分注意して、ご近所でお誘いあわせの上、お越しください」  間の抜けたアナウンスだが、何にせよ、対応が早いのはありがたかった。 電話一本通じない中で、よく、これだけ早く、対応をまとめられたものだ。  そのせいかどうかはわからないが、今のところ、パニックらしいパニックはない。 街は静まりかえっていた。 コンビニさえもがシャッターを閉じている。  賢明だ。 この夜が、いつまで続くかわからないのだ。 街から出られないことが広まったら。 最初に問題になるのは食糧だ。  暴動。打ち壊し。 そんな言葉が脳裡をよぎる。 「ツイてねぇぜ、ったく」  峰雪は、軽口を叩いて気を紛らわした。 足は学校に向いていた。 他に、行くところもない。  校門のところには、制服の男たちが立っていた。 携帯で何やら連絡を取っている。  峰雪が近づくと、無言で顔を上げ、陰気に頭を下げた。 わけもなく、背筋に悪寒が走った。 ……あいつら、誰だ?   これでも役所のやつなら、大体は顔見知りだ。 さっきの二人は、明らかに違った。 あの制服は……どこかの警備会社のものか。  その警備員は、どこから調達した? 街にいたのか? 電話もないのに、どうやって呼び出した?  「あ、峰雪君」 「うぉっとぉりゃぁ、どっこいしょぉ!」   不意に声をかけられて、峰雪は、思いきり声をあげた。  「な、なに……」  「とと……ワリィ、牧本」   牧本は目を丸くしていた。 「どうかしたの?」  「ちっとばかり考え事してたんでな」  「ふぅん。でもへんな天気だよね」  「まぁな」   へんな天気。 そう言えないこともないか。 「峰雪くんのお家、確か、お寺だよね。 何か聞いてない?」  「んにゃ、さっぱり」   峰雪は、首を振る。 街から出られないことは、まだ告げないほうがいいだろう。 タイミングってものがある。 「そっかぁ……」  「牧本は、なんで?」  「え、説明会するんでしょ?」  「いや、そうだけどな。 女の子の夜歩きは感心しないぜ?」  「もう朝だよ」   面白そうに言う牧本を峰雪は見直した。 こいつ、こんなに肝がすわったやつだったんだ。 「どうなるのかな……これから」  「〈色不異空〉《しきふいくう》。〈空不異色〉《くうふいしき》。〈色即是空〉《しきそくぜくう》。〈空即是色〉《くうそくぜしき》。 〈受想行識〉《じゅそうぎょうしき》 。〈亦復如是〉《やくぶにょぜ》。〈舎利子〉《しゃーりーし》。〈是諸法空相〉《ぜしょほうくうそう》 」  「それ、お経?」  「お経もお経、ありがてぇ般若心経だ。 いいか、この世の一切の物ってのは所詮空で、空こそが物。 まして人間が触って知れるものなんざ、たかが知れてる」  「ふぅん」 「だから、たまにゃぁ昼が夜になったりすることもあらぁな。 ま、気にすんなってことよ」  「峰雪君はすごいね」   牧本は、そう言ってくすりと笑った。  「俺が?」  「うん。さすがお坊さんって感じ」  「まぁな。こちとら江戸っ子でい」   峰雪は、口が軽い自分を自覚する。  ──なんだろな、こりゃ。  さっきから風邪っ引きの時みたいに首筋がひりひりしてしょうがない。 悪い予感。 まぁ、予感もなにも、悪いことが起きてるわけだが……。 「こちらへどうぞ」  陰々滅々とした声で制服の男がつぶやく。  校舎の入り口の前にはテントが立てられ、人々が列を作っていた。 先頭にプラカードがある。  男子10代、20代、30代、40代以上。 女子も同じく。 が、こちらは、人数のせいで、ほとんど列が出来ていない。 「あのー、これなんすか?」   峰雪が声をかけると、制服の男より早く、前の学生が向きなおった。  「なんか、説明のあと、仕事すっから年齢別にばらけるんだってよ。 どうせ俺ら力仕事だぜ」  「ふーん」  ひとまずうなずく。 確かに、すべき仕事は沢山ある。 連絡するにも一軒一軒走ってかなきゃいかんし、爺ちゃん婆ちゃんの面倒もある。   だけど、それなら、地域別に分けたほうがよくはないか? 何かが、引っかかる。  ふと横から響いた電子音は、牧本のものだった。 皆の注目が一度に集まる。 「おい、そのケータイ使えんのか?」   峰雪も詰め寄った。  「ご、ごめんなさい。これ、アラーム」   牧本は、携帯を手で覆うようにして音を止めた。 「なんでい、アラームか!」   わざと大声をだすと、辺りの騒ぎも静まってゆく。  「ほんとに、ごめんなさい」  「いいって。 別にワリーことしたわけじゃねーんだし」  そう言いながらも峰雪は。  ふと、首筋に電気が走った。 ──携帯は、使えない。 そのはずだ。   校門のところにいたあの警備員。 確かに携帯を使っていた!  ──どういうこった?   峰雪は、頭をかきむしった。  ふと前を見る。 きれいに列を作って並ぶ男女。 それが何か、とても禍々しいものに見えて。  峰雪綾は、我知らず後ずさっていた。 「どうしたの?」  「ワリィ、ちょっと用事ができた」   峰雪は迷った。 このまま帰れば、牧本を見捨てることにならないか。 だが、説明できるほどの根拠はない。  「そ、そう?」  「あぁ。またな」  手を振りながら、峰雪は牧本をじっと見つめた。 声に出さず、唇で、形を作る。   ニ・ゲ・ロ。   牧本がうなずくのを見て、峰雪は、ゆっくりと歩き出した。  校門に着くまでの間。 制服の男から呼び止められないかとひやひやしたが、なんとかなった。 警備員は、ただ、無言のまま見送った。  外に出て、そっと息をつく。 「さて、と……」  このまま帰るわけにはいかない。 幸い、学校のことなら知り尽くしている。 たとえば、この校舎裏へ行く道。 そして音を立てずくぐれる、金網に空いた穴。  何気ないふりをして角を曲がり、穴をくぐる。  ――夜中来ると雰囲気違うな。  峰雪は、大きく深呼吸する。  かすかな足音が大きく響く。 そんな感じがする。 校舎の隅の非常口を開けて、ゆっくりと中の様子をうかがう。  校舎内は灯りが煌々とついていた。 狭い廊下の向こうには、受付があり、列ごとに入ってきた人たちを、一人ずつゆっくりと上へ誘導しているようだ。  音をたてずにドアをくぐり、警備員の目を避けて2階へと急ぐ。  2階は、1階とは、がらりと様子が違っていた。  まず警備員の数。 階段で待ち受ける警備員たちが、下から来た人を、有無を言わせず押し包み、そのまま引きずって教室の中へ放り込む。  峰雪の目の前で、抵抗した中年の男に、警棒が振り下ろされた。  鈍い音が響く。何度も。何度も。  警棒だけではない。 腰にぶらさがっているものは、峰雪の位置からはよく見えた。  ──銃だ。 悪い勘は当たったらしい。 最悪の形で。  校舎内にいるやつ。 何だかは知らないが、そいつらは、あらかじめ、武装警備隊を用意していたことになる。 つまり、この夜が来るのを知っていたわけだ。  そんなやつらが、町民を監禁して何をするつもりか。 いずれよからぬことを企んでるのは確かだろう。 問題は、それが何か、だ。  いまさら逃げようとは思わなかった。  ──だいたい、だ。  峰雪は、不敵に微笑む。  ──ここは、俺の庭だぜ。  ……だるまさんが、  ころんだ。  峰雪は、口の中で唱える。 廊下の柱。トイレ。 見通しのいい廊下の中の、数少ない陰から陰へ、峰雪は走る。  ぎりぎりまで近づいて、峰雪は、教室のほうの様子をうかがった。  警備員たちの顔が間近に見える。 いやに蒼白い、無表情な顔だ。 一階から昇ってくるのは……女。学生服。 牧本、じゃぁない。  いきなり警備員に囲まれ、悲鳴をあげようとした口をふさがれる。 腹を何発か殴られ、静かになった。  口をふさがれ、両腕を掴まれたまま、教室のほうに連れていかれる。  ゆっくりと教室の扉が開き……女の目が、大きく見開かれた。  恐怖の表情。 それも、怯えや、恐れといった穏やかなものではない。 絶対的な嫌悪。  人の顔が、あんなに醜く歪むものであることを峰雪は初めて知った。 女は手足をばたばたと振り回し、必死でそこにある「なにか」から逃れようとする。  ……何だ?  何があるってんだ?  峰雪は、少しずつ。 少しずつ身を乗り出した。  女生徒が、戸口にしっかりと足をかける。  スカートがめくれ、太腿をあらわにして踏ん張るその足に、警棒が振り下ろされる。  向こうずねの一撃。 くぐもった悲鳴が上がるが、それでも足は離れない。  二撃。三撃。 鈍い音が、峰雪の耳に、はっきりと伝わった。 戸口が大きく開かれ、女生徒は中に蹴込まれる。  教室の中。 もうすこしで見える。 紅い。何が紅いのか。  身を乗り出していた峰雪。その肩が。  ……叩かれた。 「……っっ!」  悲鳴を噛み殺して振り向こうとする。それより早く。  峰雪は背後から腕をねじ上げられていた。 続いて聞こえてきた声は、馴染みのあるものだった。 「静かに」        静かな晩だった。 家々は戸を閉ざし、店も鎧戸をおろす。 道には酔漢がなく、犬や猫さえも声をひそめて、じっとねぐらにこもっていた。   ゆっくりと。ゆっくりと。人々は気づき始めていた。 夜の闇の中に、何かがいる、と。      それは音も立てず、光も漏らさず。 わずかに月光を浴びて輝く闇の眷族。   祭りが始まったのだ。 虐げられたものたちが頭を上げる。 天の元に、その身をさらす。 吹く風に、わずかに笑い声がまじった。   それともう一つ。 血の匂いが。 「メルクリアーリ……テメェ、こんなとこで何してやがる」  峰雪は、目の前の男に向けて囁いた。 「それは、こちらの質問ですよ」   黒髪の神父が、今日ばかりは頼もしく見えた。  「様子が変なので、ちょっと探ってみたんですけどね。君も同じですか?」  「おうよ」   峰雪はうなずく。 「あの警備員……何者だ?」  「あの制服からして、おそらくは、ストラス製薬でしょう」  「ストラスって……あの病院のか? なんで病院が銃持って学校占拠してんだ?」  「よくない噂はいくつかあります。 生体実験とかね」 「……この夜と関係あんのか?」  「そこまでは私にも」   メルクリアーリは首を振る。 「峰雪君、教師としては君に退去を命じるところですが」  「何、言ってやがんでい、このすっとこどっこい。 ここで引き下がって男が立つかよ」  「……嘆かわしい言葉遣いはさておき、気持ちはわかりました。 では一つ協力といきますか」   差し出された手を、峰雪は、握った。 「メルクリアーリよ」  「なんですか?」  「内緒にしといてくれよ。 センコーと組んだなんて知れたら、笑いものだ」  「君は大物ですね」   神父は、くすくす笑いから急に真顔になる。 「……何か、起きたようですよ」   警備員たちの間に動きがあった。 廊下中の警備員が階段を降りてゆく。 見る間に警備員は、教室の前に張りついた一人だけとなった。  「なんだ、ありゃ」  「とにかく。今が、チャンスです」 「おい……」  峰雪が止めるより早く、神父は床を蹴っていた。  体重を感じさせない動きで警備員の後ろに忍び寄るや、ねらい澄ました肘の一撃で昏倒させる。  ぐったりと崩れ落ちる警備員を受け止め、無音で床に横たえる。 「……なんて、手際だ。 あんた、ほんとに神父なのか?」  「人に歴史あり、ですよ」   神父は笑って教室の扉を開けようとした。わずかな隙間が開くと同時に、神父の動きが固まった。 「峰雪君」  「なんだ?」  「君は、入らないほうがいい」  「……ここまで来て、それで通るかよ。 どきやがれ、このエセ神父」  肩を割り込ませて扉を開ける。 次の瞬間、峰雪は後悔した。  峰雪は寺の子だ。 ホトケは見慣れている。  〈白粉〉《おしろい》を塗った〈経帷子〉《きょうかたびら》なら、幾体見たかは知らない。  だからこれも。 平気だ。 そう思おうとする。 だが、無理だった。  こみあげる酸っぱいものを、峰雪は教室の床にぶちまけた。  教室の有様は、肉屋の冷凍庫に似ていた。  天井から、無数の鉤がぶらさがっている。 そこに無造作に引っかけられているのは、冷凍肉ではなく、無数の人間だ。  服は剥がれ、太ったものも痩せたものも、足首のところでフックに縫いつけられている。  頭の下にはバケツが置かれ、首筋から垂れる血を受け止めている。 「立ちなさい」  鋭い声が峰雪を打った。 鼻と口を覆い、酸っぱいものを飲み下して峰雪は立とうとする。 無理だった。膝が動かない。 「立ちなさい。足手まといは無用ですよ」  声とともに、鋭い手が頬を打った。 「テメッ! 何、しやがる」 「その元気です」  神父は、峰雪の腕を取り、立ち上がらせた。 「いつ、あいつらが戻ってくるか、わかりません。早く廊下に出てください」 「お、おう」  峰雪は、よろよろと歩き出す。 「私は、外の様子を見て来ます」  ベランダに出たメルクリアーリは、視線を落とした。 馴染み深い人影が、そこにいた。 「来ましたか、“最も古き祈り“」  小さく呟いた声は、ぞっとするほど冷たかった。   校門に現れた影。 それは一個の異形であった。   顔立ちは女のものだ。 親しみやすい丸い目に、長く艶やかな髪。 だがその片腕は、人のものではなかった。 白い肌は象牙のように硬い人形の腕。 なによりそれは、真っ黒な血にまみれていた。   指先から、ぽたりと血がしたたり落ちる。   恐怖。そして嫌悪。 校庭に並んでいた人々は、それを指さしながら、ひそひそと囁きあった。   人形の女は、かすかな笑顔を向けて手を振った。 誰も答えない。 男も女も大人も若者も、目線をそらしながら、囁き続ける。 ただ一人。 若い女の抱いた赤子が、くすりと笑い、血塗れの人形に両手をさしのべようとした。   ゆっくりと女は歩み続ける。 群衆は、困惑しながらそれを見守った。 逃げなければならない。 だが、一人駆けだして、孤立するのは恐ろしい。 誰かが先に逃げだせば、その後についていく。 自分以外の誰かが。   逃げたい。だが逃げられない。 その微妙な均衡の中。 女は群衆の中に分け入った。   さわさわと道が空く。 人の海の中に生まれた一筋の道を、無数の好奇の目が注がれる中、女は歩いた。   ふと、女の歩みが止まる。 校舎内から現れたのは警備員達だった。   群衆が一斉に動いた。 警備員に向かって、一斉に走り出す。   「助けて」 「人殺し」   そんな声さえ聞かれた。  「待ってください!」   女が初めて口を開く。 その機械の腕が、ゆきすぎる人の腕を、次から次へ掴む。  「離せよ!」 「離して!」   その声に、女は、腕を放す。           群衆達が駆け寄るその先で。 警備員達は、一斉に銃を構えた。   小気味よい小銃の音は、たちまち無数の悲鳴に掻き消された。   人形の腕を持つ女は、大地を蹴って走った。 群衆は恐怖の叫びを上げて女から逃げまどう。   女は両手を広げていた。 飛び交う銃弾に身をかざし、すこしでも犠牲を減らそうとする。 その意味に気づいたものはいなかった。  無闇に放たれる銃弾の中で、人々はくるくると踊りながら血を噴いた。 赤ん坊の泣き声が、ひときわ鋭くあたりに響く。   群衆をかきわけた女が警備隊の前に辿り着いた時には、生きた群衆の数は半分に減っていた。   銃を乱射する警備員。  その胸を、ぶん、と、引かれた人形の腕が、ざくりと音を立てて、えぐった。   群衆の悲鳴が増す。 残りの警備員たちは逃げなかった。  棒立ちのまま、至近距離から無数の銃弾を浴びせ続ける。   無数の銃弾は、女の柔らかな肌に食い込む。 肉が弾け、血がしぶく。骨がのぞき、その骨が砕ける。 だが、それだけだった。   一秒ごとに無数の鉛を食い込ませながらも、女は歩むのを止めない。   その腕が引かれ、再び、えぐる。  最後の一人が倒れ、銃音が完全にやんでから、女は、ようやく足を留めた。   ふわりと身体を振れば、全身から無数の弾丸がこぼれおちる。 骨の上を肉が覆い、血を残して傷跡は消える。  女は小さく息をついて、振り返った。  遠巻きに眺めていた群衆は、それだけで走り出した。 女を置いて、死体を置いて、学園の外に逃げ出す。 あとに残った大きな血の海と壊れた死体。  女は、その死体の海に分け入り、やがて、小さな身体を抱き上げる。赤ん坊、だった。   銃創は、ない。腕が折れ、腹が裂けていた。 母親が死んだ時、地に墜ちた赤子は、同じ人間に踏まれたのだろう。 唇から流れる血は赤く、未だ、かすかに手指が震えていた。   女は、腕の中の赤子を、ゆっくりと、あやした。 澄んだ声で子守歌を歌う。   やがて子供は目を閉じ、最後の痙攣が過ぎて、指が落ちた。 女は赤子を地面にそっと横たえ、目の前の校舎を、燃える目でにらみつける。 「だいじょうぶですか? しっかりしてください」  壁にもたれて荒い息をつく峰雪に、メルクリアーリは語りかけた。 「おうよ。 こちとら江戸っ子でい。 こんぐらい……屁の河童よ」  「急がないと、警備員が戻ってきます。 二手に分かれましょう。 私は3階。峰雪君は4階を探してください。 何か見つけたら、脱出します」   峰雪は、曖昧にうなずいた。  「さぁ、早く」  峰雪を階段に押し上げて、メルクリアーリは溜息をついた。  携帯を取りだし、警備員たちに連絡を入れる。 学生服の青年に触れないように、と。  「やれやれ。びっくりしました」  最初は殺すつもりだった。 だが、正面から名前を呼ばれた瞬間。 思わず、教師として返事をしてしまった。 不思議なもので、そうなると、改まってとどめを刺すのも気が引けた。 偽装も長く続くと身の一部になる、ということか。   メルクリアーリは、頭を振る。  いずれにせよ、人間の一匹。 大した問題ではない。 問題なのは、この次。 かの“最も古き祈り“だ。  校舎の扉が開く。 姿を現したのは黒髪の神父だった。 「我が、幽宮へようこそ、花輪さん。 いえ……三つの護りの一つ、“最も古き祈り“」  「メルクリアーリ」   闇の中から、いらえがあった。 疲れをにじませた女の声。  「あぁ、そちらにいましたか」  神父が指を鳴らす。 それだけで、雲が晴れた。 星が揺れた。 月の光が輝きを増し、校庭の闇の中を一筋の針のように貫いた。   光の中に若い女が浮かび上がる。 血に染まった異形の左腕は、重そうに揺れていた。 「どうして、こんなことをしたんですか」  「それは……平和のためですよ」   神父の声には迷いがなかった。  「遍く人外の民の聖地を、私は、この地に作ります。 決して明けない夜を、この地に」  「愚かですね」   静かな声が響き渡る。 「どれほど闇が愛しくとも、どれほど光が厳しくとも、日は昇り、また沈むもの。 それが、〈理〉《ことわり》です」  「たとえ、“最も深き飢え”の力をもってしても、永劫に夜をとどめることは叶わぬ願い。 それくらいのことが、わからないあなたではないはずですが」  「確かに。 私のささやかな結界は、そう長くは保たない。 けれど……九門君がいれば違います」 「私がいる限り、克綺クンには、触れさせません」  「ええ。 ですから、あなたを排除します」   声は、冴え冴えと夜を渡った。 「本気……ですか?」  「はい。 あなたは、ご自分で思われているほど、無敵ではないのですよ」  「あなたの力の源は、人類の自己防衛本能だ。 それ故に、どれだけ砕こうとも、決して、あなたを倒すことはできない。 けれど、今、狭祭市は結界によって封鎖されています。 あなたの力の源は、たかだか数万の市民に過ぎない」 「足が重くはありませんか? 腕は? 今のあなたなら砕くことも封じることもできる」   神父が嗤う。 女は、微笑んだ。 その姿がぶれる。  答えの代わりに女が放ったのは、左拳の一撃だった。 刹那。  鋼と鋼を打ち合わせる鈍い音が響いた。 「やれやれ、気の早いお人だ」  女の拳を受け止めたのは、白い仮面の巨人だ。 音も立てずにそれは、メルクリアーリの目の前に出現していた。 どれほどの速度で動いたのか、その足下は煙を上げていた。  思いだしたかのように風が吹く。 吹き抜ける風に髪をゆらしながら、女は優しく微笑んだ。  「これが……あなたの自慢の源ですか?」  「そう。ストラスが作り出した実験体の一つです。 あなたには分かるでしょう? 彼らは、人間です」  一体、また一体と、仮面の巨人が現れる。 「ええ」 「彼らの力は、人外の異能を無効化し、そして、あなたは、彼らを傷つけることができない」 「そうですね」 「あなたの力が、どれほど強力だろうと、今度ばかりは、あなたに勝ち目はない」  女は悲しげに目を伏せた。 「あなたは……勘違いされています」  「勝てるとでも?」  「いえ。 私は、自分が強いと思ったことは、一度もありません」  「それだけの力を得て、なお不満ですか」   声には憎悪があった。 「はい」   女は素直にうなずく。  「いいでしょう。 では力不足を覚えて消えてください」  メルクリアーリは、くるりと背を向けた。 校舎に入る寸前、苛立たしげに、手を振り下ろした。  それが戦いの始まりだった。  九体の実験体。 その一つは炎を放ち。 その一つは電光を放ち。 その一つは不可視の衝撃波を放ち。 その一つは二千気圧の圧搾水流を放つ。   紅い炎は髪を焦がし。 紫の電光はその身を貫き。 不可視の衝撃波が、肉を刻み。 炎に触れた水蒸気が爆発を起こす。   四つの力が相乗した爆発は、女の芯をえぐり、そして吹き飛ばした。 耳を聾する爆発音。あがる土煙。 女は、人形のように、高く飛び、そして、かたりと落ちた。  骨を砕かれ肉を焼かれ、倒れた女は星を見た。 ぎり、と、歯を噛む。  折れた腕に力を込めて、大地を掴む。  血の通わぬ足に命をこめて、身を起こす。  口の端から、錆びた歯車がこぼれ落ちる。   ……なに、簡単なことだ。 折れた腕は継げばいい。 もげた脚はつなげばいい。 砕けた人形は直せばいい。 けれど。  女は、立ち上がる。  その瞳は大地を見ていた。校庭に並ぶ無数の死体。 その命の一つ一つを刻みつける。  男、女。老人。若者。そして子供。 それは、決して還らぬ命。 断たれた希望。 失われた明日。 「もしも私に力があれば」  悲しげに呟く。 「この世に、泣く子は一人もいなくなるでしょうに」  標的の生存を確認し、仮面の巨人たちが散開する。 最高効率で、とどめの一撃を与えるべく、陣を組む。 「この身は非力。けれど、まだ動く」  声はやさしく、仮面の向こうの素顔に女は語るようだった。 「動くなら、私は、願う。 この身が一枚の盾とならんことを。 未来の王を護る一枚の盾に。 折れれば継ぎ、砕け散れば鍛え、決して屈せず、しかして、平和となれば打ち捨てられる一枚の盾に」  脚は伸び、腕には輝きが戻る。 残り僅かな魔力は高密度に練り上げられる。 「それは、幼子を見守る母の願い。 夜に旅立つ父の決意。 それは、この世で最も古き祈り」  殺到する巨人たち。 女は下がらず、前を見る。 その瞳には、慈しみがあった。 「いらっしゃい。虐げられた人よ。 この身は、あなたを護るために」  二度目の爆発は、最初のものよりも大きかった。 轟音は四階まで届いた。 「……まずいな、こりゃ」  峰雪綾は揺れる廊下の上で、眉をしかめた。  廊下には、警備員の姿はなかった。 一か八か、空いた教室に飛び込んでみる。  慎重に窓から校庭を覗き見る。 「……こりゃ帰ったほうがいいな」  それが峰雪の出した結論だった。 校庭を人外の速度で動き回る無数の人影。  無数の光が煌めくと共に、爆発が起きる。  何と何が何のために闘っているかはわからなかったが……いずれにせよ、自分の出る幕はなさそうだ、と、思えた。  溜息をついて、廊下に出る。 どうやって学校の外に出ようかと考えた時。  峰雪の耳にかすかな声が聞こえた。 かすかだが、聞き慣れた声。 「誰か、いるの?」  怯えた少女の声。 ……恵の声。  ――恵ちゃん?  峰雪は叫ぼうとして、自制した。 警備員を呼んでは逆効果だ。 「おにいちゃん……」  耳を澄まし、声のする教室にゆっくりと近づく。  そこは、普段は使われていないはずの空き教室。  峰雪はそれまで、その教室を気にかけた記憶すらなかった。 教室の戸口の上、よく観察しなければレースと見まがうほど細い金の鎖が、つづれ織りのようにかけてある。  峰雪は軽く、中にいる恵にだけ聞こえるように、戸を叩く。 「お兄ちゃん?」  はずんだ声。 「わりぃ、俺だ、恵ちゃん」  静かにドアを開けて、峰雪は、囁いた。  奇妙な教室だった。 机はすべて片づけられ、仕切とベッドだけが置かれている。  恵は、そのベッドに寝ていた。  こんなとこで何してるんだ? 浮かんだ疑問を振り払う。 今は、そんなことを考えてる場合じゃない。 峰雪はベッドの恵に近づいた。 「恵ちゃん……ここは危ねぇ」  「みねゆき? おにいちゃんは?」   まったくだ。 克綺の野郎、恵ちゃんを置いて何してんだ? 「わからん。あとで探そう」   恵は、不満げにうなずいた。  「恵ちゃん、歩けるか?」  「……うん」  どこか夢遊病めいた動作で、ベッドから降りる。 その危うい足取りに、峰雪は決断した。 「おんぶだ、恵ちゃん」 「うん」  峰雪は、恵を背に背負った。 恵の手が、ふわりと頬をなでる。 その冷たさに、峰雪は、ぶるりと震えた。 「さ、いくぞ」 「あのね、みねゆき」 「何だ?」 「おみず……のど、かわいた」 「水か……ワリぃな。もうちょっと待ってくれ。な?」 「うん……」  峰雪は、恵を背負って、歩き出す。 「だいじょうぶ。きっと、克綺に会わせてやるからな」  恵の答えはなかった。 ただ、その背で、落ち着かなげに震えた。 「まだだ。急ぐな」   管理人さんの危機を知り、学校に走ろうとした僕を抑えたのは、イグニスだった。 「どうして!」  「おまえが行って足手まといにならないという証拠がいる」  「必要ない」   しばらく考えて、僕は答えた。 「必要ないだと?」  「たとえ足手まといになっても、僕は行く。そう決めた」  「ずいぶんと勝手な動機だな」  「動機というのは、そもそも身勝手なものだ」   イグニスが奇妙な顔をする。  「僕は行きたいと願うから行く。 たとえ足手まといになっても、だ」  理由はない。 あえていえば、僕の心臓が、そう叫んでいるから、だ。 それは、とても自分勝手な願いで、他人のことなど考えていないものだったが。 しかし、願いというのは、そういうものではないか? 他人の無事を望むのは、無事を喜ぶ己を望むことだ。 それ以上でもそれ以下でもない。   そして今、僕は。 管理人さんと共に危地に立つことを望んでいる。 「わかった。わかった」   イグニスは両手を広げた。  「ならば、せめて、どんな芸ができるかでも見せてくれ」   僕はうなずく。  「水が……」  「水芸か?」   言われて僕はうなずく。 「わだつみの民の力、と、聞いた」  「見せてみろ」  瓦礫の中を歩いて蛇口を捻る。  生まれた冷たい水を、僕は身体に巻き付けた。 水の鞭で瓦礫を跳ね上げ、まっぷたつにする。 「こんなものだ」  「水道がいるのか? ずいぶん役に立たない術だな」   イグニスが意地悪く嗤う。  僕は、眉をひそめた。  腕に巻いた水を、捨てる。  水。 どこまでが水なのか。 水蒸気が水であるならば……。  僕は目を閉じて、心臓から流れる青い血に身を任せる。 大気に満ちる水気を感じ、ゆっくりと、それを指先に集める。  水蒸気は凝結し、小さな水滴となる。 やがてそれは指の間で流れ始める。 「そう、それでいい」  遠くから声が聞こえる。 声には水気が含まれていた。大きな水の塊。 吸収し、同化し…… 「っやめろっ!」  腕を掴まれて僕は、目を開ける。 「それは私だ」   ああ、そうか。 僕は、この女から、水気を取ろうとしたのか。  イグニスは、思いきり咳をした。 「喉が……」  白い指で自らの喉をなで回す。 「すまない。気づかなかった」  「まぁいい。力の使い方はわかったか?」   僕は首を振る。 「わかっていないことが、わかった」  「そうだな。 本来、人外の力は、その心によって決まる。 水辺に住まう魚人には、空気から水を取り出す知恵はなかろうが、おまえならできる。 その調子、ということだ」  「可能性があるということか」  「そういうことだな。 使い方は、お前次第だ。 よく考えるがいい」 「さっき言っていた闇の聖母というのは、なんだ?」   ふと思いだして僕は問う。  「三つの護りの一つだ。 “最も深き飢え“とも言う」  「三つの護りということは、管理人さんと同じ、なのか?」  「同格ということだ。性質は違う。 黒の人形が母性ならば、闇の聖母は、知を司る」   イグニスは、ゆっくりと話し出す。 「知識……言うなれば情報だな。 それは絶対の結界をつくり、内外の情報を完全に断絶させることができる」  「この夜と関係あるのか?」  「察しが良いな。 この町自体を巨大な結界で包み、流入する情報から“朝”を排除しているのが闇の聖母だ。 同時に、この町の情報が外に洩れることも遮断している」 「町の外からも、内部へと入り込めないのか?」  「ああ。 闇の聖母が、許可しない限りはな。 だが、メルクリアーリはそれを許さないだろう」   僕は首をひねる。 「そもそも、三つの護りが人類を護るものなら、どうして、闇の聖母はメルクリアーリに従っているんだ?」  「さてな。 気まぐれでも起こしたんだろう」  「情報を操るものと、どうやって闘うんだ?」  「怖じ気づいたのか?」   イグニスは鼻を鳴らす。 「確かに三つの護りは強大だ。 たかが人間ひとり、簡単に押し潰してしまえる」  「だが、恐れることはない。己の力を蔑むな。長い歴史の中で、人は自然すら従えてしまったのだ」  人類の歴史は、ある意味自然との闘いだった。 原始の人々は、自然を神として崇めるしかできなかっただろう。 だが、人類は知恵で自然と闘った。 火を操り、水を従え、自らのために利用した。 今や人類は、物の理すらその手中におこうとしている。   相手の力が強力だからといって、怖じ気づく必要はない。 勇気と知恵を振り絞り、その力をうまく利用してやればいい。 「聞きたいことは、それだけか?」  「今のところは」  「ならば、急がねばな」  イグニスは、言うが早いか走り出す。  髪を揺るがし走り出す彼女の後を、僕は慌てて追いかけた。 「おい、さっきと言っていることが違うな」 「状況が動いた」 「状況?」 「後ろを見ろ」  言われて、僕は異変に気づく。 そこにはあるべきもの――メゾンはおろか、破壊された瓦礫すら見あたらない。 つい先ほど、僕が蛇口をひねった水道も、幻だったかのように消えている。 「どうなってるんだ……?」 「ここはそもそも、〈幽宮〉《かくりのみや》だ。 人間とは異なる理が支配する、“最も古き祈り“の領地だな。 無論、主が力を失えば、幽宮もその姿を消す」 「じゃあ、管理人さんは――!」 「早合点は禁物だ。さっき言っただろう? 闇の聖母は、結界内外の情報を、断絶させることができる。 もし主人が結界内に囚われれば、外部に存在していた幽宮は消えるだろう」  つまり管理人さんは、命を失ったか、あるいは新たな結界に閉じこめられたか。  いずれにしろ、のんびり歩いていられるような状況でないことは確かだ。 僕は胸の苦しさも忘れて、イグニスの後を懸命に走る。  街は、奇妙なほど静まりかえっていた。 街の見た目は確かに真夜中だが、しかしこの異常事態である。 人々が混乱に暴れ回っていても、決しておかしくない。  だが、それ以上のことを考えている余裕はなかった。 イグニスの後を必死で追いかけ、夜の町を一気に駆け抜ける。 行き着く先は、学校。 「ところで、だ」   校門の手前で足を止めて、唐突にイグニスが振り返る。 そのまま校庭に飛び込みたい気持ちを必死に抑え、僕はその場に立ち止まった。 「世のため、人のために死ぬ気はないか?」   鯉口を切る、かすかな響き。 音もたてず鞘から切っ先が抜け出し、それは僕ののど元につきつけられている。   からかうような声だが、迫力がある。 うっかりうなずこうものなら首が飛びそうだ。 「状況によるわけだが……」  「メルクリアーリの目的は、多分、おまえだ」  「僕が?」  「あぁ。これだけの結界を維持し続けることは、まず不可能。 やつの目的は、おまえが持つ魔力を取り込むことだろう」  「なるほど」 「それを食い止めるためには、今、ここで、おまえが死ぬのが、一番早い」  「確かに」  「納得してくれたか」   のど元に突きつけられた刃が、ゆらりと揺れる。 返答を待たずに、刀が僕の首を刎ねる、そんな錯覚。 「いや、死ぬことは納得していない。 僕にはやることがある」  「なんだ? 人形を救うことか?」  「管理人さんと、それと、僕の妹だ。 両方とも人質になっている」  「……なるほど。 二人とも私が助けるから、おまえは、今、ここで死ね」 「断る」  「そうか」   名残惜しげにイグニスは納刀する。 「ならば、別行動だな」  「どういうことだ?」  「おまえは、正面から乗り込むのが安全だろう。 向こうは、おまえを生きたまま手に入れたいわけだからな」 「イグニスは?」  「おまえが、ひっかきまわしてくれれば、裏からつけこむさ」   唇の端を歪めて嗤う。 それを見ただけで、この女は敵に回したくないな、と思った。 「わかった」  「達者でな」   イグニスは、背を向けた。  「あぁ」   何か嫌な予感がしたが、呼び止めることはしなかった。  歩き始めてすぐに。 「九門克綺様ですね」  陰々滅々とした声がかかった。 「えっと、あなたは確か……」  「わたくし、田中でございます」   不景気このうえない顔をした男が頭を下げると、スダレ状の髪が、ぱさり、と、垂れた。  頭をあげると、バネ仕掛けのように元に戻る。 「お迎えにまいりました」  「恵は? 管理人さんは?」  「恵さまは、大切にお預かりしております。 お加減も大分よくなったかと」  「管理人さんは?」  「……いやいや」   田中は、目をそらして言った。 「回答は明確にお願いします」  「この場では、お答えしかねます。 メルクリアーリ様とお会いいただけた時にでも」  「まだ会う、と、決めたわけではありません」  「それはそれは」   田中の不景気な顔が、ますます暗くなった。 「失礼ながら、わたくし、克綺様をお連れするよう指示を受けておりますので」  「同意しなければ力づく、ということですね」  「まぁ、そのようなことも考えられなくはない、と、こう申し上げざるをえないわけでして」   田中はしきりに汗をふいた。 「……行きましょう」   僕は、うなずいた。 今、彼を敵に回す理由はない。 「どうぞ」  田中が押した門を僕はくぐる。 「何が、あったんですか?」  校庭は荒れ果てていた。 あちこちに巨大な穴があいている。 月光を浴びて輝いているのは、表面が溶けてガラス状になっているからだ。  グラウンドの回りに立っていた木々は、稲妻を浴びたように炭化していた。 そして何より点々と散らばる死体。 「いやまぁ、その、なんともうしましょうか」  「戦いが、あったわけだ」  「はぁ。まぁ、そうでございますね」  「片方は、管理人さん。 勝ったのも管理人さん」   かまをかけて田中を見つめたが、男は片眉を上げただけだった。 「どうぞ、こちらへ」  田中のあとについて校庭を渡る。  僕が案内されたのは、あの礼拝堂だった。 「やぁ、九門君。お待ちしていました」  メルクリアーリは、説教台に立って、僕を迎えた。  見慣れぬ人影……金髪の少年が、そのそばに立っている。 「メルクリアーリ。 恵と管理人さんを返せ」  「相変わらず単刀直入ですね」   神父は……否。 神父の顔を装う人外は苦笑した。 「田中が言ってませんでしたか? 恵さんは無事ですよ」  「管理人さんは?」  「彼女は我々にとって脅威ですからね。 監禁させてもらっています」  「返せ」 「返すのは構いませんが、交渉と行きましょう」  「早くしろ」  「おおせのままに」   神父は肩をすくめた。 「その前に、熱いコーヒーをいかがですか?」   僕はうなずいた。 仏頂面をしていたと思う。 わだつみの民の力には、水に対する嗅覚がある。 コーヒーに毒が入っていれば嗅ぎ分けることは簡単だ。 「……どうぞ」   田中が出したコーヒーには、毒はなかった。 ただ、強く苦い芳香があるだけだ。 「最初から説明してもらいたい。 この結界は、一体、何のつもりだ?」  「それを説明するには、少々時間を遡らなければならないのですが……」  「時間稼ぎはごめんだ」  「わかっていますよ」  メルクリアーリは、ゆっくりと語りはじめた。 それは古から続く人と人外の定め。   人外は、人よりも強大な力を持ちながら、人の世を治めることはできない。 なぜなら、人は人外の毒となるからだ。 人の持つ微弱な魔力は地球全土を覆い、その魔力に触れた人外は、例外なく滅び果てる。 それを避けるには、人のいない深山幽谷に隠れ住むか、あるいは、人の命を喰らい続けるしかない。 「それで?」  「私はね、九門君。この町を、人外の民の聖地とするつもりなのですよ」  「聖地?」  「ええ。そのための結界です。 この狭祭市が夜である間は、いかなる人外の民も傷つくことなく堂々と生きることができる」  「そのために、人を殺したのか?」   僕は、校庭に散らばった死体を思いだしていった。 「人の毒を避けるために作った結界ですからね。 人がいては何にもならない」   メルクリアーリは陽気に言う。  「いいですか? 結界が完成すれば、我々は二度と血を吸わなくても、人を喰らわなくても生きていけるのですよ」   言葉は真摯だった。  ――殺す必要はなかった。 ――外に出せばよかった。  「多少、浮かれたことは認めましょう。 なんといっても、我らの悲願が達成されるのですからね」   神父はうまそうにコーヒーを飲んだ。  「それで、そちらの要求は?」  「我々の要求は、九門君、あなたの命です」   僕は、大きく溜息をついた。 「一応、聞こう。なんのためだ?」  「結界を維持するには魔力が必要です。 あなたを結界の一部として取り込みたいのですよ」  「なるほど」   僕は、しばらく考えて、コーヒーカップを置いた。 「あなたが人外の聖地を作るのは勝手だ。 だが、そのために人を殺したことは僕は許せないし、僕も死にたくはない」  「なるほど。 それで、どうするつもりです?」  「この場で、あなたを倒す。 そして恵と管理人さんを連れて帰る」  背後で風が揺れた。   田中が構えを取るのが分かる。 心臓から血が巡る。 魔力が身体を循環する。 「やめなさい」   田中を制したのはメルクリアーリだった。  「九門君、落ち着いてください。 あなたは誤解している」  「誤解だと?」   油断なく僕はメルクリアーリをにらむ。 「田中、恵さんを」  「は」   メルクリアーリに従い、田中は一礼すると、礼拝堂を出る。 「なんのつもりだ?」  「言った通りですよ。 お預かりしていた恵さんを、お返しするだけですよ」   メルクリアーリは両手を大きく広げて応えた。 「人質を解放する、と?」  「人聞きが悪いですね。 預けたのは、あなたでしょう? 私は、恵さんをストラスから護っていただけですよ」   僕はうなずくしかない。  「最初から、お返しするつもりでしたとも」  「そうか」  僕は冷たくなったコーヒーを啜った。 恵に刃をつきつけて交渉を進めるつもりか。 たとえそうであっても、近くにいたほうがやりやすい。 田中が帰ってくるまでの間、僕とメルクリアーリは、ひたすら無言でにらみあった。   静かな晩だった。 風に耳を澄ませば、近づく足音まで聞こえるほどに。 「戻ってきたようですね」  「ああ」   田中と、もう一つの足音が近づいてくる。  「ところで九門君」  「なんだ?」   メルクリアーリは、笑いながら言った。 「心臓を撃たれた人間が、助かると思いますか」 「貴様っ!」  考えるより先に手が動いていた。 握りしめた拳がメルクリアーリを打つ。  ふわりと、その拳は止まった。 きらきらと金色に輝く拳。   いや、違う。 これは糸だ。 感じることもできないほどに細い無数の糸が僕の拳をしばりあげ、中空にとどめていた。  糸の先にあるのは……メルクリアーリの脇に控えた、あの少年だ。  「落ち着いてください」   メルクリアーリの声とともに、扉が開く。 「恵!?」   いた。 恵。 目は伏せられ、肩は力無く落ちているが。 ……無事だ。 「どういうつもりだ」   僕はメルクリアーリをにらみつける。  「言った通りですよ。 心臓を撃たれれば人間は、助からない」  「人間は、ね」   神父の言葉の意味が、ゆっくりと染み通る。  「それじゃぁ……」 「お兄ちゃん」  声は、か細かった。  恵の伏せられた目。 その瞳は、泣きはらしたにしても、紅すぎはしないか。 閉じた唇から、わずかにのぞく犬歯は、鋭すぎはしないか。  組んだ両手の指は、赤茶色いものに汚れていた。 「ごめんなさい……私、わたし……」  紅い瞳がうるむ。 組んだ手が、ぶるぶると震え、そして、指先が唇に運ばれる。 恵の全身が愉悦に震えた。  ゆっくりとその両手が僕の首にかかる。 べっとりとした血が首にかかる。 恵の指は、ぞっとするほど冷たかった。 「恵……」  動けなかった。 紅い紅い唇は、ゆっくりと僕の喉に触れる。 「恵さん、そこまでです」   神父の声とともに、恵の唇が離れる。  「なんて、ことだ」  「信じてほしいのですが、助ける方法は、他にありませんでした」   神父の声には悲しみの色があった。 「……何が望みだ?」  「我々の望みは、恵さんが安心して暮らせる土地を作ることですよ」   頭が痛い。 目の前がぐるぐるとまわるようだ。  「九門君。 それは、あなたの望みでもありませんか?」   僕は、しばらくためらって、そして、決めた。 「わかった」   僕は、うなずいた。 後ろで恵が身体を硬くする。  「ご理解いただけて、幸いです」   訳知り顔にメルクリアーリが、うなずく。  脇に控えていた少年が、かすかな笑みを僕に向ける。 胸元にかざした手。 そこに黒い闇が現れる。 闇から伸びる黄金色の鎖。  それは、全く重さを感じさせずに、僕の身体に巻き付く。  「おにいちゃん……」   遠くから声がする。 恵が伸ばした手を、僕は優しく振り払う。 「メルクリアーリ。恵を……」 「ええ」  幽かに鎖が引かれ、僕は、ゆっくりと前に進む。 進むに連れ、闇が広がり大きくなる。 いや、僕が縮んでいるのか。  気が付けば僕の視界は闇に染まる。 熱くも冷たくもない空間の中に、僕はゆっくりと溶けた。       「断る」  そう言って僕は立ち上がり、恵を抱き寄せた。 冷たい身体。けれど、その下には熱い鼓動がある。 「恵さんを見殺しにするつもりですか?」  「恵は助ける。 だから、ここで死ぬわけにはいかない」   メルクリアーリは、じっと僕の瞳を見て、そしてうなずいた。 「他に……方法はなかったのか?」  「人類の力は増しています。 ストラスの技術は、いずれ我々を滅ぼしたでしょう。 そうなる前に、動く必要があったのです。 九門君を巻き込んだことについては言い訳にしかなりませんが……」  僕は首を振った。 目の前の男を憎む気には、どうしてもなれなかった。 それは教師としての印象が抜けないこともある。   それに、結局のところ、恵を死から救ったのは、彼だ。 吸血鬼にならずに、あそこであのまま死んだほうがよかったとは、僕にはどうしても思えなかった。 「恵を助けてくれたことは感謝している」  「ほんとうに残念です」  「僕もだ」   軽くうなずく。  「それで……どうする?」  「やりにくいですね」   メルクリアーリは苦笑した。 「教師のふりが板についてしまったようです」  「確かに、やりにくい。だけど」  「僕は、殺されるわけにはいかない」  「そして、私は、あなたを殺さなくてはいけない」  「ねぇ九門君。やはり、人と人外の民は、相争う定めなのですよ。 そういうことにしましょう」   僕は、首を振った。 「……それは言い訳だ。 我々は、些細な利害を調整することができずに暴力に訴える無能者に過ぎない」  「戦いましょう、メルクリアーリ先生」  「そう呼んでくれますか」   神父は、かすかに目を細めた。 「僕が死んだら恵を」  「無論です」 「おにいちゃん?」  恵が、腕の中で、不安げに身じろぎした。 「眠りなさい」  その言葉に従い、恵のまぶたは落ちた。 「ありがとう」   僕は、恵を田中に預ける。  「いえ」   神父は手袋をはめた手で、十字を切った。 「愚かにも戦いましょう。 醜くも戦いましょう。 卑劣にも戦いましょう。 いもしない神に赦しを乞うて。 ありもしない大義に目を眩ませ。 これが最善だと偽って」  「では、戦いです。九門君」  メルクリアーリは、ゆっくりと歩を進めた。 果たして、この男が、どんな力を使うのか。 僕は何も知らない。  であれば、先手必勝だ。 距離が詰まる前に、僕は右手を高く掲げる。  宙から水分を取りだし、一本の水の鞭とする。  床を蹴って間合いを詰める。 同時に、鞭を振り下ろした。  鞭が砕いたのは石の床だ。 メルクリアーリは、軽いステップを踏んで、鞭を躱している。  傍らに寄り添う少年。 その胸に右手を突き刺した。  瞬間。 悪寒を感じて、飛び下がる。  わずかに遅れて、黒い刃が空を薙いだ。 「……その力、わだつみの民のものですね」  息を整え、間合いを取り直す。  今、メルクリアーリの右手には、黒い闇が握られていた。 鋭く尖ったそれは、さしずめ闇の剣か。  その源は、傍らに控える金髪の少年だ。 胸元にかざした手は黒い闇を握っていた。 メルクリアーリが腕を射し込んだのは、その闇の奥だ。 「それは?」 「“最も深き飢え”。三つの護りの一つです」  メルクリアーリは律儀に応えた。 「行きますよ」  メルクリアーリの姿が、ふいに溶けた。  ──突進。  考えるより早く、僕は転がる。  闇色の切っ先を、かろうじて躱していた。  水の鞭を両手に握り、メルクリアーリの返す一刀を受け止める。   その刹那。   ぎちぎちと闇が哭いた。 切っ先は二つに分かれ、牙さえ生じて鞭を喰らう。  「な!」  叫びが洩れた。 鞭は、水滴を撒き散らしながら、あっさりと両断されていた。 「トウシェ!」  メルクリアーリは手首を返して二撃目を──やられる!  身をひねるがかわしきれない。 切っ先が急激に大きくなる。  視界が黒く染まる!  剣が顔をえぐった時、僕は咄嗟に、手に持った水を、水滴にして顔にぶちまけた。  さすがにこれは避けられず、メルクリアーリは、顔をぬらして、飛びすさる。   ゆっくりと顔を拭き、やがて、ただの水であることに気づいて、微笑んだ。  左目が痛んだ。 否。痛みではない。 熱くも冷たくもなく、それでいて感じる圧倒的な違和感。   こらえきれずに指でさぐる。 一度、二度。 指先が何度も行き来して、固まる。 思考が追いつかない。 自分の感覚が、信じられない。   瞳。頬。 あるべきものがそこになかった。      峰雪は、暗闇の中を泳いでいた。   奈落の底まで落下していくような感覚の中、必死で手足をばたつかせる。 だが、いくら抵抗しようと試みても、身体が浮き上がらない。 ただ、暗闇に吸い込まれていく感覚ばかりが続く。   なぜ、自分がこんなところにいるのか?   峰雪は、薄れかけていく記憶を辿る。       校舎の四階で声を聞き、部屋の中で恵を見つけた。  一体なぜ、学校の中にこんな部屋があるのか訝しみながらも、恵を背負って外へと脱出しようとした。  次の瞬間、首筋に痛み。悲鳴は、途中でかき消えた。 痛みはすぐに収まった。 その代わり、身体中を恍惚が走る。 頭の心がぼやけ、そのままその場に立っていられない。 首からはしゅうしゅうと空気が抜けていくような音。  途切れた悲鳴を聞きつけて、遠くから警備員が駆け寄った。 だが、恵を隠す暇もなく意識は薄れ、そして――。     峰雪は、暗闇の中を落下し続けている。 自分はこれから、どこへ向かおうとしているのか。 このまま行けば、一体どこまで落ちるのか。   等活・黒縄・衆合・号叫・大叫・炎熱・大熱・無間……。 教え込まれた地獄の名前が、次々と脳裏を掠める。 これだけ落下を続けながら、今更極楽浄土へたどり着けるはずなどなかった。 ――後生は徳の余り。こんなことなら、オヤジの言うことも、ちっとはまじめに聞いときゃよかったか? そう、後悔しかけたその瞬間。  耳をつんざく爆音が、峰雪を現実世界に引き戻した。 「ななな、なんでぇ!?」  起きあがろうとして、目が眩む。 頭に血が回らない。  そのまま失神して、闇の世界に舞い戻りかけた意識を、峰雪は根性で呼び戻す。 「畜生っ。この俺が立ちくらみなんて――」 「ほう。もう動けるのか?」  半ば以上、ブラックアウトした視界。 かろうじて床に見えるのは、横向きになって倒れた男の影。  おそらく、意識が途切れる前に駆けつけた警備員だろう。 その向こうには、粉々になったガラス片が散らばっていた。 「あれだけ血を吸われれば、普通はしばらく動けないものだが?」 「はぁ? おいおい、この峰雪綾を、普通の人間と一緒にしてくれるな!」  くらくらと揺れる頭を叱咤して、峰雪は気合いで立ち上がる。 身体は無論、絶不調。 だが、そんなことに構っていられる余裕はない。  無惨に倒れた警備員。周囲に恵の姿は見あたらない。 廊下いっぱいに、ガラスの破片が広がっている。 あの爆発音と合わせて考えれば、ガス爆発でも起こったのか。  目の前には、悠然とした口調で話しかける、紅いコートの女性。 これほどの爆発があったというのに、全く態度を揺るがさない。 彼女が爆発を起こした可能性は、決して低くない。  「ま、さすがは九門克綺の友人、といったところか」  「……九門? おめぇ、克綺を知ってんのか?」  「ああ。先ほどまで、一緒にいたぞ」  克綺の、知り合い。   峰雪の不安が軽減される。 そもそもこんな貧血状態では、立っているのが精一杯。 仮に子供と戦ったところで、まともに勝負できる自信はなかった。 わずかな安堵と同時、ふつふつと沸き上がってくるのは克綺への怒りだ。 「あの野郎! 恵ちゃんをほっといて、一体どこをほっつき歩いてんだ?」  「おまえは他人の心配をするより、自分の心配をした方がいいのではないか?」  「自分の心配?」  「首の傷に気づいていないのか?」   峰雪は言われるがまま、首に手をやる。 指先には、べっとりと真っ赤な血が付いている。 「これは、一体――?」  「誰に噛まれた?」  「たぶん、恵ちゃんを背負ったときに――」  「ああ。 九門克綺の妹が、そんな名前だったか」  紅いコートの女は、倒れた警備員の前にしゃがみ込んで、胸ポケットをまさぐった。  煙草を取り出して、無造作に放り投げる。 「ほら、取っておけ」  「いらねぇ」  「おまえ、不良だろ? 校内禁煙なんて気にしてどうする」  「気にしちゃいねぇよ!」  「なんなら火もサービスしてやる」   放り投げられたのは、ずしりと重いジッポ。 反射的に受け取るが、峰雪は別に火がなくてわめいていたわけではない。 「俺は煙草はやらねぇ」  「なんだ? 不良のくせに」  「最近の不良は健康にも気ぃ使うんだよ!」  「まぁ、いいからもらっとけ。 このまま、吸血鬼になりたくはないだろう?」  「吸血鬼?」  突然飛び出した単語に、峰雪は思考が追いつかない。  すぐ側の部屋――恵が眠っていた部屋の扉、金の鎖を弄りながら、紅いコートの女は淡々と続けた。  「ああ。九門克綺の妹は、既に夜闇の民――吸血鬼と化している」  「血を吸われたおまえも、いずれその仲間になるだろう」  「おい待ちやがれ! 吸血鬼だと?」  「ああ、そうだ」 「……ちょっと待ってくれ。 わりぃが俺は、これでも一応仏教徒だ」  「ミッション系の学校に通っているくせにか?」  「……俺は一応、常識ある人間でな」  「常識ある世界では、延々と夜が続くか? 学校が突然銃を持った何者かに占拠されたりするか?」   間髪入れない反論。 峰雪はぐうの音も出ない。  紅いコートの女は、取り外した金の鎖をじゃらりとコートに突っ込んで、背から刀を抜いた。  首に突きつけられた刃は、震えひとつなく静止する。  「いいか、おまえが今から選ぶことのできる道はふたつ」  「私の言うことを聞いて人間に戻るか、それとも吸血鬼のまま死ぬか」 「てやんでぇ! 坊主の息子が吸血鬼になってたまるか!」  「良い返事だ。 ならば、私についてこい。 道すがら、これからの作戦を教えてやる」  「ちょっと待て。 その前にふたつほど、聞いておきたいことがある」  「なんだ? 余り時間はかけるなよ」 「恵ちゃんも、元に戻れるな?」  「善処しよう。 そうでなければ、おまえも九門も、協力しないだろう?」  「期待してるぜ」 「それで、あとひとつは?」  「名前を聞きたい」  「名前?」   意外な問いかけに、目を丸くする紅いコートの女。 峰雪は、真剣な目つきで見返した。 「傾国ってのはまさにこのこと。 あんたみたいな美人の名前を知らないまま、死にたくねぇ」   紅いコートの女は、にやりと笑って背を向けた。  「私の名前はイグニス。 ――そうだな、別に怪しい者じゃない」  「魔法もなく、力もなく、道具を使って罠を仕掛けるがせいぜいの、卑怯者さ」  言うが早いか、階段に向かって走り出す。  卑怯者。 その言葉の意味を考えながら、峰雪も慌ててその後を追った。  紅いコートを翻し、風のようにイグニスは走る。 校舎の外れの非常階段。 その先にある校内の建物は、礼拝堂だけだ。  ――吸血鬼、っていえば確かに礼拝堂だが、そういえばメルクリアーリはどこに……。  峰雪が階段にさしかかったところで、先行くイグニスが振り返る。 「ところで峰雪。 身体の調子はどうだ? 血は、足りているか?」   尋ねられて、今更気づく。 さっきまでは、立っているのが精一杯だった自分が、今は息を切らせることもなく、階段を駆け下りていた。   ――こりゃあ、本気でイグニスさんの言うことを聞かねぇとまずいな。 「けっ! 峰雪家の血、甘く見るんじゃねぇぞ!」  「その意気だ」  イグニスは微笑んで、音もなく階段を駆け下りる。  あるべきものが、ない。 戦闘中にもかかわらず、ただそれだけのことで、混乱に陥った。  僕は咄嗟に、生きた片眼で自分の手を見下ろす。 瞳の虚を、探った手のひら。 だがそこには、予想していた赤い血痕はついていなかった。  顔がえぐられ、血が噴き出したなら、すぐさま反撃に転じることができただろう。  だが、僕を襲ったのは混乱だった。 自分の身になにが起こったのか把握できず、想定外の出来事は僕の理性まで冒していく。 「咄嗟の反応には、拍手を送りたいところですが。 ――さすがに、ただの水滴ではね」   メルクリアーリは、顔にかかった水滴を拭いながら、悠然と笑う。 だが僕の視線は、かつての恩師のさらに向こうに焦点を合わせていた。  それまで、メルクリアーリの背後、一度も身動ぎもしていなかった闇の聖母。 彼の衣服が、風もないのに揺れていた。  それだけではない。 輪郭がゆらゆらとぼやけ、上着の裾から今にも彼の身体が膨れ出しそうだ。 「さすがはコードマスター。 その瞳だけで、これほどまでに力があるとは」 「今にも魔力がはち切れてしまいそうです」  魔力……僕の魔力を、吸い取ったというのだろうか? イグニスが言うには、メルクリアーリの目的は、僕の身体から魔力を奪い取ることらしい。  ということは、つまり、僕の瞳があの黒い剣に、喰われた? 「考え事ですか?」  言うが早いか、メルクリアーリは闇の剣を振り下ろす。 大上段から、凄まじい速度で闇が牙を剥く。 食らいつく。  僕は、転がるようにして避けるのが精一杯。 振り下ろされた一撃は、空を切り裂き勢いを止めず、そのまま床を砕――かない。  その先端が食い込んでいるというのに、床も刃も砕けない。 風も、衝撃も、起こらない。  ただ、ぎちぎちと闇が哭く。  微笑みをたたえたまま、静かに、メルクリアーリが刃を抜く。  「な――!」   刃の先、床に穿たれた穴。 割れ目もなく、破片もなく、ゼリーをスプーンですくったように、滑らかな断面。  あの剣は、普通の剣ではない。 過去の記憶を遡る。   メルクリアーリはあの剣を、闇の聖母から受け取った。 闇の聖母の能力は、情報の切断。 結界の内側に喰われた物体は、外部との連絡を完全に絶たれ得る。  つまり、僕の目が片方見えず、また頬を触ることすらできないのは。 あの結界内に情報を全て奪われたから?  「闇の聖母は飢えています。 その飢えに限りはありません。 永久の飢え、それが闇の聖母に課せられた罪」  「しかし九門君――門を開く者よ。 あなたの力は永久の飢えすら満たすでしょう。 供物が、我々に永久の安寧を約束するのです」 「管理人さんも、その中にいる?」  「黒の人形を、呼び戻して欲しいのですか?」   人形。 その単語が耳を掠めて。 全身が、沸き立った。 「その名で呼ぶな!」  水の鞭が、風を切って襲いかかる。 だが、メルクリアーリは避けようともしない。 ほんのわずか、眉間を歪めただけ。  水の鞭は、メルクリアーリに当たらない。 ほんのわずか背後に逸れ、祭壇を砕く。  割れた木片が飛び散るが、メルクリアーリが腕を横に差し出しただけで、闇の剣が盾のように広がった。  飛び込む木の欠片に噛み付き、咀嚼し、飲み込む。 闇の剣が、結界の内部に情報を取り込み、隔絶させたのだ。 「不調のようですね」  メルクリアーリは言うが早いか、低い姿勢で地を這うように直進。 それまで盾のように広がっていた手の闇が、再び棒状に戻り前方へ突き出される。  闇の剣は風音すら飲み込んで、ただメルクリアーリの足音だけが礼拝堂に響いた。  違和感。 迎撃か、回避か。 僕の身体は、半瞬迷う。 その半瞬で、選択肢がひとつ消える。  僕は横っ飛びに身をかわすと、イスの間で身を反転。  こちらを振り返ったばかりのメルクリアーリに水の鞭を振るう。 「なっ!」  指先――まるで自分の手のように動く水の鞭が、予想外の障害にぶつかり飛散する。  整然と並ぶ木の椅子が、水圧に砕かれる。 水玉に混じる木屑が、花火のように周囲へ飛散する。  その水滴と木屑の隙を縫い、再びメルクリアーリの剣が貫いた。 「トウシェ!」  二度目の衝撃。 今度は左腕を、根本から喰われた。  転がるように闇を引き抜く。 痛みもなく、苦悶も漏れない。 だからこそ余計に、えぐられた気がする。 名状しがたい恐怖が身体を震わせる。  もし今、追撃されたら――。  黒い闇が全身を食らいつくす映像が、僕の脳裏を占めた。 その光景に、思考が一瞬、停止する。 身体の動きが鈍くなる。  喰われたはずの左腕を動かそうとし、バランスが崩れた。  決定的な隙。 無様に床を転がりながら、とどめの予感に心が凍る。  だが、予想の一撃はない。  メルクリアーリは追わない。 彼の視線は、狩られる寸前の獲物ではなく、闇の聖母を向いていた。   暗闇が――膨張している。 闇の聖母の身体が、破裂寸前だった。 喰らった魔力に、内側から押し出される。 広がる上着が辺りの空間を包み込んでいる。 暗闇は歯を剥いて、今にも手当たり次第、周囲の物体に食らいつかんと――。 「停止せよ!」  礼拝堂を震わせる一喝。 膨らみかけていた闇が、急激に収縮する。 音も風も起こさない。  その中心に残ったのは、相変わらず無表情のままの闇の聖母。  「九門君、どうやら闇の聖母は、君の味がお気に召したらしい」   小さく一息ついて、メルクリアーリは僕に笑いかけた。 「とどまるよう、命じるだけで一苦労ですよ」  「どうですか、このあたりで降参してみては?」  「断る。 僕は、あなたを殺さなければならない」  「既に、戦力は挽回できないほど開いています。自覚はあるでしょう?」   戦力差――。 片眼になった時点で既に、僕とメルクリアーリの力関係は、大きく変化していた。  人間の脳は遠近感を掴むため、様々な情報を活用する。   対象物の大小、色の濃淡から得られる純粋に感覚的な視覚的情報だけではない。 焦点を合わせるレンズ調節の度合いや、眼球の回転角といった生理的な情報も、遠近感を掴むのには欠かせない要素だ。  だが、遠近感はその多くを三角測量に依存している。 右目から得られる情報と、左目から得られる情報のわずかな差異から、対象物の遠近を測定するのだ。   片眼を失ったことで、僕の視界からは遠近感に関する多くの情報が抜け落ちることになった。 それだけでも大きなハンデであるというのに、まして僕は片腕。  だが。それでも、僕は戦う。 戦わなければならない。   自分のため、恵のため、そして、管理人さんのために。 「あなたなら、状況が不利になった程度で、自分の意志を曲げますか?」  「非常に残念です。 できることなら、九門君のような人間こそ、我が一族に迎え入れられて欲しいのですが」  「僕は、人間です。 あなたを許すわけには、いかない」 「……これも神の思し召しか」   メルクリアーリは、ふと視線を横にずらす。 視界の中心は、祭壇に立ちつくす闇の聖母か、その向こうの十字架か。  「ならば、最後まで足掻きなさい。 手加減はしません」  「無論です」  水蒸気を凝縮させ、液体の水にする。 だが、それまでの鞭をつくるのではない。   もっと細く、もっと強く水を練り上げる。     僕は今、片眼で遠近感が掴めない。 そのせいで、祭壇や椅子など、関係ないものを破壊してしまった。 曲線を描き目標をとらえようとする鞭を、うまく操ることができないのだ。   曲線が駄目なら、点で貫けばいい。 真正面から、敵へと直線を引く。 正面から見れば、その軌跡は点。 どこまでも貫く直線に、遠近感は必要ない。     ウォータージェット。 金属を切るには研磨剤が必要だが、所詮人間は肉と骨だ。 僕はレーザーのように貫く高圧の水をイメージする。 体積変化がわかるほど強い力で押し込まれた、超高圧の刃。   水の刃は闇の剣に防がれ、結界内に閉じこめられるかもしれない。 あの暗闇に、飲まれてしまうかもしれない。 だが他に、メルクリアーリに立ち向かう術はなかった。 飲み込む闇を、一筋の光となって、貫け。   魔力に従い、水が踊る。 球形に押し込まれ、今か今かと出番を待つ水に、細長い噴出口を。 浮かんだイメージをそのまま、メルクリアーリに――。  「待て、克綺!」   峰雪の怒声が、礼拝堂に響き渡る。 僕は、唇を噛み締める。 解けかけた集中を、壊れかけた水球を、必死にこの手の中にとどめようとする。   だがそんな努力も、次の一言で瓦解した。 「殺しちゃならねぇ! 今そいつを殺したら、恵ちゃんも命がなくなるんだ!」   ――恵。   その一言に、僕の心は乱れる。   魔力が途切れ、圧縮されていた水が力を失って周囲に飛び散った。   メルクリアーリを倒すと、恵の命がなくなる? 「どういう、ことだ?」 「私が、お答えしましょう」   峰雪に代わって返答したのは、メルクリアーリ。 これ以上の戦闘を拒否するように、闇の剣が音もなく床に落ちた。 「夜闇の民は血を啜ることで、親子の因果を結びます。 自らの力を、分け与えることができるのです」  「無論、学校を警備している木偶人形とは違います。 不死の貴人、真の夜闇の民になれるのです!」  「けっ、反吐が出らぁ!」  「その因果関係は厳格です。 もしもその親が命を絶たれれば、……その子孫は皆、灰燼に帰すでしょう」 「なぜだ?」   手の震えを、抑えることができなかった。  「なぜ、それを隠していた?」  「あなたは、恵さんを愛している。 明かしていたら、私と戦うことができましたか?」  「それは……」 「それに私とて、これから自分の一族となる仲間の命を、盾にしたくはありません。 正々堂々、君と戦いたかった」  「どうやらもうその望みも、かなわぬようですが」   剣を捨てたメルクリアーリから、殺気は感じられない。 ただ、もうすべてが台無しになってしまったとでも言うように、ひとりごちる。  僕はなにに怒っているのだろう。  真実を伝えなかった、メルクリアーリに? いや、彼の言っていることは間違いではなく、彼は僕に心から敬意を払ってくれている。  では、こんな真実をわざわざ伝えた、峰雪に? いや、仮に峰雪が真実を伝えなければ、僕は一生彼のことを恨んでいただろう。  違う、違う。 僕が怒ってるのは、誰か他の人間じゃない。  メルクリアーリを倒すことも、恵を助けることも、管理人さんを助けることもできない。  無力な自分に怒りを覚えているんだ。 「闇の聖母も、そろそろ待ちきれないようです」   メルクリアーリは厳かに告げ、闇の聖母が一歩踏み出す。  上着が、風もないのに脈打つように揺れている。 鎖がはち切れんばかりの勢いで、見えない縛めに抗している。 顔はわずかも動いていないはずなのに、僕にはその表情が、歓喜を浮かべているように思える。   ぞくり、と背筋が震えた。 なくなった瞳と左腕が、痛みのないはずの身体がうずく。 「〈浸食せよ〉《Eat away》!」  メルクリアーリの号令と共に、闇の聖母の戒めが、解けた。  身動きする暇も、逃げ出す意志も、なかった。 背後で横たわる恵が、幸せに生き続けること、ただそれだけを願った。  最も深き飢えは、襲いかかった。 黒い獣が、僕の身体の全てを喰らった。  足にかぶりつき、腿を引きちぎり、腰を切断した。 腹を食い破り、胸をしゃぶりあげ、頭を飲み込んだ。 僕の身体の欠落さえ喰らい、瞳と腕は二度喰われた。  痛みはない。 悲しみも、苦しみも、驚きも。 空間を喰らい、時を喰らい、最後に、僕の意識を喰らった。  僕は、この世界から消えた。  ――こりゃあ、なんてこった!   峰雪はただ立ちつくして、その光景に見入っていた。   祭壇に立つ少年。 その身体の一部が黒い獣となって、呆然と立ちすくむ克綺に襲いかかる。 黒い獣は克綺を一飲みにする。 顎を天に向けたとき、先ほどまでの場所に克綺はいない。  獣はそのまま、無音で吠え、震えた。 人間の能力を超えた大音声に、世界の音が消え去ってしまったようだった。   懸命にマグマを押さえ込み、それでも抑えきれないように、輪郭は震える。 「停止せよ!」   一喝がなければ。そう、峰雪は想像してしまう。 もしそこでメルクリアーリの一喝がなければ、黒い獣はどうなったのだろうかと。 もてあます力がその喉から噴出し、彼をとどめる鎖もなく、そのまま礼拝堂を――いいや、さらにその外までもを、飲み込んでしまったのではないか。  だがいずれにしろ、メルクリアーリの声は、大聖堂に鳴り響く。 唐突に、獣の震えは収縮する。 喉まで出かけていた劫火の炎を、胃の中に押し込んでしまったかのように。   ――こりゃあ、なんてこった!   峰雪はただ立ちつくして、その光景に見入っていた。   ――本当に、イグニスさんの言うとおりになりやがった!  耳にしただけでは、信じられなかった。 この礼拝堂にやって来たとき、イグニスの説明を半信半疑に思っていた。正直、信じ切れていなかった。  だが実際に、それは目の前で起こった。 峰雪は命じられたまま、自分の役割を演じただけだ。  だが、メルクリアーリも克綺も、あたかもそれが演劇が初めから用意されていたかのよう、行為した。 イグニスが描いた筋書きに寸分違わず、ストーリーは進行している。  だから――峰雪は、信じる。 これから繰り広げられる、冗談抜きで命がけで、顎が外れるほど非常識な作戦が、成功裏に終演を迎えることを。 カーテンコールのその時を、皆が笑顔で迎えられることを。   だから峰雪は、ほんのわずかの後悔もなく、自分の役割を演じる。 「……なぁ、メルクリアーリ」  「君が気に病むことはありませんよ」   メルクリアーリは、静かに峰雪を慰めた。 声色は、心なしか悄気ているよう聞こえる。彼もやはり、恵を夜闇の民としたことを、悔いている。 「君は、正しいことを行いました」  「黙りやがれ、このすっとこどっこい! 今更教師面しやがって!」  「教師面、ですか」  「俺は騙されねぇぞ。 おめぇが、この事件の黒幕なんだろ?」  「よくもまぁ、克綺を手玉に取ったもんだ」 「私が、恵さんを人質に取ったとでも?」  「事実、そういう状況じゃねぇか」  「私が恵さんを夜闇の民としたのは、まさに不可避の悲劇でした。 命を見捨てるか、それとも我が一族に迎え入れるか――」  「けっ! 黙れ黙れ黙れ! てめぇの言い訳は耳が腐らぁ!」 「克綺のことを思ってたんなら、なんであいつに真実を教えなかった?」  「てめぇは恵ちゃんがケガしたとき、喜んだはずだぜ。 これで、克綺を手玉に取れるってな」  「私を、侮辱する気ですか?」  「侮辱されたと感じるなら、そうだろうよ」   メルクリアーリの瞳が、見開かれる。 その瞳が怒りに燃えているのは、彼の苦悩を言い当てているからだ。 「一度助けられたからといって、二度目があるとお思いですか?」  「俺も恵ちゃんに噛まれた。 仲間を見殺しにすんのか?」  「外の警備兵のように、あなたを操ることだってできるのですよ」  「てめぇの手下になるくらいだったら、死んだ方がマシだ。 いつ仲間を、裏切るかわからねぇからな」 「偶然ですね。 私もあなたを、夜闇の民として迎え入れたくはありません」  メルクリアーリは胸元から、拳銃を取り出す。 銀の銃口が、まっすぐに峰雪の胸を貫いた。 「……センコーが銃刀法違反かよ」 「エクソシストのみが所持を許される、対吸血鬼用カスタム。 ――無論人間も殺せますが」 「職業柄、こういうものには事欠きませんでね」 「そいつぁよかったじゃねぇか」 「安心しなさい。苦しまずに――とは言いませんが、確実に死ねます」 「なぁ、メルクリアーリ」 「なんです? 命乞いしても無駄ですよ」 「そんな肝っ玉の小せぇ男じゃねぇよ」 「ただ最後にな、一服させてもらえるとありがてぇんだが」 「一服、ね」 「いいじゃねぇか。教師と生徒の間柄だろ?」  言うが早いか、峰雪はポケットから煙草とライターを取り出す。  顔をしかめるメルクリアーリの前で、一本口にくわえ、ジッポの蓋を開けた。 「ところで峰雪君、君は煙草を吸いましたかね?」  ホイールを回したが、ジッポの火はつかない。 甲高い音を立てて蓋が閉じられる。 妙なことを言うからだ。  そう言わんばかりの目つきで、火のついていない煙草をくわえたまま、峰雪はメルクリアーリを睨む。 「センコーに見られる間抜けがどこにいるよ?」 「そうですか? 長年教師をやっていると、なんとなくわかるものですが」 「不良を舐めるなよ」 「ところで、ずいぶん使い込まれたライターですね」  蓋を開けて、ホイールに指がかかったところで、動きが止まる。 メルクリアーリを睨みつけて、そのまま閉じた。 「悪いかよ。俺は筋金入りだぜ」 「無論、悪いですよ。 不良を更生させるのが、教師の務めでしょう」 「そいつぁ初耳だ。 〈面々の蜂を払う〉《めんめんのはちをはらう》って聞いたことあるかい?」 「不良生徒の君に、国語の指導を受けるとはね。 これではあべこべだ」 「ところで、話は戻りますが――」  ピン、と三度目に蓋を開いて、峰雪はゆっくりと顔を上げる。  「あなたに妙な入れ知恵をしたのは、誰ですか?」   銃口をこちらに向け、悠然と微笑みを浮かべるメルクリアーリと、薄ら笑いが交差する。 「さて、誰だろうなぁ?」   峰雪は笑ったまま、ホイールを回した。   引くのではない。 教えられたとおりに、勢いよく、奥へと押し込む。   峰雪は速まる心を抑えて、無言のままふたつ、カウントする。  まるで、タイミングを計ったかのように、ステンドグラスが割れる。 背後に振り返るメルクリアーリ。 月に踊る長髪の人影、その手には刀。  筋書き通りの展開に微笑みながら、峰雪はジッポライターを放り投げた。  僕は黒い獣に、飲み込まれた。  外の世界から消えて、僕の身体は結界の中で再構成される。 内と外で情報が隔絶されていた目も、左腕も、僕の中に戻ってくる。  久々に戻った視界。 辺りは薄暗いが、しかしなにも見えないというわけではない。 遠くは闇の壁に塗りつぶされているが、しかし特別に息苦しいわけではない。   足下に転がっているのは、僕が砕き、闇の剣が飲み込んだ、木屑。 濡れているのは、同じく喰われた水の鞭だろうか。   そしてその向こう。 暗闇の真ん中に、見覚えのある腕があった。  骨組みの見える、人形然とした腕。 抱えて走った、象牙の腕。 その骨組みは半ば崩れかけ、歯車が散乱し、人の面影は消えかけている。 「管理人、さん……?」  崩れていく。 どんどんと、崩れていく。 意味のない、物に、還っていく。  人間だって、機械だって、行き着く先は変わらない。 「管理人さん――!」  呼びかけても、応えはない。 いくら待っても、あの優しい笑顔は返ってこない。  それでも、僕は、彼女のことを想う。 バラバラになった歯車の瓦礫に膝を突き、崩れていく腕を抱きながら。 僕の熱が、象牙色の腕を彩り、暖めることを願う。  僕は管理人さんを愛している。 彼女が機械だなんて、僕にとっては些細なことだ。  愛するものを区別するのは、想いだ。 想いだけが、僕の世界を、彩りで満たす。  時の流れが、緩やかになったような錯覚。 それでも、歯車は戻らない。 ゆっくりと、時間は、進んでいく。  ――もう、取り戻しがつかないのか?  僕の瞳から、こぼれる。 あふれる想いが、届かない悲しみが、流れる涙を針にした。  ――聞いたでしょう? 克綺クンの血は、人外に力を与えるって。 それは私にも、よ。  管理人さんの言葉が、蘇る。  僕は、自分の肌を刺して、血を抜き取る。  血管から吹き出す赤い雫が、一滴、二滴。  唐突に、歯車が、踊り出す。 赤い血を吸い込んで、風に吹かれたように、転がり出す。 糸で宙につられたように、飛び跳ねる。  歯車が噛み合い、崩れかけた腕が再生する。 時間を巻き戻したかのように、徐々に腕が元の姿を取り戻していく。  歯車が、心臓を形作る。 冷たく堅い歯車が重なり合い、作用しあって、熱が生まれる。 懐かしい鼓動を刻み出す。  胸元で刻まれていた、鼓動。 僕は、闇の中に光る管理人さんの身体を抱いた。 「お帰りなさい」 「ただいま」  管理人さんは、いつもの顔で、笑う。 「……もう、二度と会えないかと思いました」 「私は泣く子のために。 あなたの涙が枯れるまで、ひとり旅立つその日まで、いつまでも側にいます。 あなたが、私を必要とする限り」 「管理人さんが必要ないなんて思ったことは、ありません」 「……でも、克綺クン。 君はどうして、ここに?」  「来ては、いけませんでしたか?」  「ここに来なければ、こんなことにはならなかったのに」  「後悔は、していません」  僕に迷いはない。 管理人さんが生きていて、彼女の笑顔が見られるなら、僕はどんな目にあったっていい。 非論理的であっても構わない。 たとえ、命を失っても、僕は管理人さんと一緒にいたい。 「そう、か。ありがとう。 私は克綺クンのおかげで、帰ってこれました」  「私は、人類に生み出された、三つの護りのひとつ。 必要とされなくなれば、消えるしかないの」  管理人さんは、母親の想いを集めたものだ。 そう、メルクリアーリは言っていた。   管理人さんの身体が崩れたのは、闇の聖母による結界のせいかもしれない。 外部との情報が断たれ、人々の想いが彼女まで届かなくなってしまったのだろう。 「それじゃあ、いつまでも僕が側にいます。 いつまでも、僕はあなたを想い続けます」   管理人さんは、微笑んだまま。 返答なく、小さく首を振った。  「私にはわかるのよ。 三つの護りは、徐々に人類から必要とされなくなっている」  「今、闇の聖母がメルクリアーリのいいなりになっているのも、それが原因」 「闇の聖母も、必要とされなくなっている……?」  「ええ。今の人間達は、以前とはずいぶん様子が変わった。 神様はおろか、自ら生み出した科学にすら敬意を払わなくなってしまったのよ」  「私たちは、自らを維持することすら精一杯、といったありさまね。 それも、いつまで続くか……」 「だから闇の聖母は、メルクリアーリと手を組んで、僕の魔力を?」  「愚かなことよ。 人を護るはずの力が、人類を陥れる立場に立つなんて」   闇の聖母は、自分の身を守るために、メルクリアーリと手を組んだ。  メルクリアーリだって、好きであれだけの人間を殺してしまったわけではない。   自分の命を守るため、種の繁栄を護るため、他の存在を傷つける。 それは、動物学的には正しい行為だろう。  数十億年の生存競争に勝ち残った種だけが、今この世界に存在する。 もっとも生き残る力の強い種――彼らが生きるために手段を選ばないのは、しごくまっとうな論理的帰結のようにも思える。   しかし、だからといって。 管理人さんを傷つけ、恵の人間としての命を奪ったやつらを、許すことはできない。 このまま黙って、命を奪われるわけにはいかなかった。 「管理人さん」  「はい、なんでしょう」  「僕と一緒に、ここを出ましょう」  「私も、出たいのは山々だわ。 でも――」  そう言って、管理人さんは立ち上がり、暗闇の中を歩き出した。 その床は、よく見ると礼拝堂と同じ物。 闇の聖母が立っていた辺りのスペースが、丸ごと結界の中へと取り込まれている。  管理人さんは、闇の壁に触れた。 寄りかかる管理人さんを支え、壁はしっかりと立ちふさがっている。  試しに僕は、床にこぼれた水を鞭にする。  岩をも砕く、凄まじい一撃。 しかし、壁は揺るがない。 衝撃もなく、その音までも吸い込む。 「この結界から、外に干渉することはできないの」  「絶対に、ですか?」  「ええ。今、闇の聖母に命令を下せるのは、〈暗証〉《パスコード》を知るメルクリアーリだけ」 「それじゃあ、なんとかして彼に交渉して――」  「だから、こちらからは、彼に呼びかける手段がないのよ」  「私たちは二度と、外に出られない。 闇の聖母が、それを許さない限りは」  僕は、周囲の闇を見回して、言葉を詰まらせる。 暗闇の牢獄。 一度中に入れば、二度と出られない。  人間は水だけで、一体どれだけ生きていられるのだったか。 あるいは、それよりも先に精神が参ってしまうだろうか。  全く変化のない、狭い空間。 たった数分いるだけで、息が詰まりそうだ。 いくら側に管理人さんがいるといっても、平然としてはいられない。 「なにもしてあげられなくて、ごめんなさい」  「管理人さんが悪いわけじゃ、ないです」   やりどころのない怒りは、胸の中で渦を巻くだけ。 その感情が絶望となるのは、どれだけ先のことだろう?  街は、結界に包まれている。 僕たちは、外に出ることはおろか、外部と意思疎通する手段すらない。 恵は夜闇の民――吸血鬼になってしまった。 メルクリアーリを殺せば、恵も命を失う。 僕が死ぬか、恵と共にメルクリアーリを殺すか。 しかし僕には、メルクリアーリを倒す手段がない。   出口のない思考が、ループする。 だがいずれにせよ、結論は芳しくない。 「そんな顔、しないで」   僕の顔を見て、管理人さんが笑いかける。 その表情はあくまでも優しい。  「泣きたかったら、泣きなさい」   なにも考えず、このまま時間が止まればいい、とぼんやり思う。 考えることにも、もう、疲れた。 ただ、管理人さんの胸に抱かれて、眠りたい。   そう、溜息をついた瞬間。  唐突に、見覚えのある刀が、視界に飛び込む。 暗闇から吐き出されたそれは、さっき僕の首に突きつけられたばかりの――。  イグニスの、刀。  ステンドグラスが割れ、粉々になる。  月の光を乱反射して、躍り出たのはイグニス。 刀を手に、一足飛びで距離を詰める。 「来たな、“最も気高き刃”」  メルクリアーリが微笑み、背後に片手を伸ばす。  動きを察して、闇の聖母が腕を翻した。  指先から放たれた闇が、剣の形を取ってメルクリアーリの手に収まる。  一対一、向かい合うイグニスとメルクリアーリ。  だが、峰雪は椅子の陰に飛び込んでいる。 背を向けたメルクリアーリに、先ほどまで峰雪が手にしていたジッポライターが、放物線を描いていた。  ただのジッポではない。 イグニスから手渡された、ジッポ型の手榴弾。 勢いよくホイールを逆回しにすることで、信管が抜ける。  まるで無防備な、メルクリアーリの背。 あれが至近距離で直撃すれば、さすがの吸血鬼もただでは済むまい。 峰雪が椅子の陰を駆け抜け、ジッポが弾けようとしたその時。  すだれ髪が宙を舞う。 金属音をたて、ジッポが弾き飛ばされた。  礼拝堂の隅、無人のスペースで弾ける手榴弾。  田中は人間離れした動きで宙を舞い、目にもとまらぬ速度でジッポを蹴り飛ばし、音もなく身廊に降り立った。  震脚と共に拳を構える。 テープを逆回転させたかのよう、崩れた髪が元通りに収まる。  メルクリアーリの信頼。 彼は田中が背後を庇うことを知っていた。 だから、悠然とイグニスに対峙できたのだ。     剣が一閃。 イグニスとメルクリアーリの刃が、無音のまま衝突した。   月光に輝く刀が、黒い刃の牙に襲われる。 ぎちぎちと火花を散らすように哭き、食らいつき、根本まで飲み込む。  イグニスは反転、懐から短剣を投げ込む。  割れたステンドグラスの向こう、月光を浴びて煌めく楔。 立て続けに襲う短剣の刃を、メルクリアーリは踊るようにかわす。  そのまま距離を一気に詰め、闇の剣を突き出した。 ぎちぃ、と黒い刃が吠える。  イグニスは怯まない。 バックステップで距離を取りながら、さらに短剣を投げつける。  音もなく飛来する刃たち。 「月光!」  メルクリアーリの命に従い、光が濃さを増した。  割れた空から差し込む月光が、飛来する対の月牙の影を、しっかりととらえる。 メルクリアーリは顔をしかめ、腕を振るうだけ。  獰猛な黒剣が、刃を飲み込んだ。 「見損ないましたね。その程度で、私をどうにかできるとでも?」  そのまま、追撃。  イグニスが身体を反転させようとした闇に、黒い剣が突き出された。 両者の動きが、止まる。  「それとも奇襲のあてが外れて、気が焦りましたか?」  「さて、どうだかな」 「いくら一族の中で力が劣ると言っても、私は夜闇の民」  「力のほとんどを失ったあなたには、負けません」  「吠えるな。 独力ではなにもできないくせに」  「それは私に限ったことではないでしょう」   微笑みを浮かべながら、メルクリアーリは闇の聖母に振り返る。 上着を無風にはためかせながら、闇の聖母がゆっくりと進み出た。 「偶然か必然か、三つの護りがこの場に揃ったわけですが」  「失望した。 最も古き祈りは、まだ生きているわけか」  「すぐに消えてなくなりますよ。 闇の聖母に閉じこめられれば、ね」  「いいや、失望するには早いか。 生きているなら、私が直々に引導を渡すこともできる」 「だから彼女を、結界から外に出せと?」  「頼めば聞くか?」  「断ります」  「力ずくでは?」  「無理ですね。あなたは私に勝てない。仮に勝ったところで、闇の聖母に命令を与えられるのは、私だけだ」 「どうしても引導を渡したいというのなら、解決法はひとつだけですね」  「どうすればいい?」  「あなたが結界の中に閉じこめられればよいのでは?」  「断る」  イグニスのコートが翻る。  素早く動いた両腕の先、目にもとまらぬ早さで飛び出したのは、二挺のデリンジャー。  立て続け、四発の銃声。 「やれやれ、そういう武器は、最後までとっておくべきでしょう?」  メルクリアーリは、避けようとすらしない。  かざした闇の剣が、四つの弾丸に食らいついた。 「しかし、これも何かの縁です」  闇の聖母が、一歩踏み出す。 新たな獲物の予感に、黒い獣が今かと待ち受ける。 「存分に、再会を楽しんで下さい」 「いらん気遣いだ」  ふたりの微笑みが、交差した。 月光を全身に浴びて、メルクリアーリが命じる。 「浸食せよ」  闇の聖母の身体が、弾けた。  膨張。  ほとばしる黒い光は、闇よりも黒く、奔流となってイグニスに飛びかかる。 その先は、牙。多頭の獣のごとく、幾筋もの流れが襲いかかる。  逃げ場はなく。 まして、逃げる気もなかった。  イグニスは、デリンジャーを放り投げると、闇の聖母を正面から迎え撃つ。 武器ひとつ手にすることなく、襲い来る黒い獣に、飛びかかった。 「馬鹿な!」   闇の聖母は、どんな情報でも体内に飲み込む。 一度飲み込まれれば、外部と完全に隔絶されてしまう。  イグニスから聞いた闇の聖母の魔力を反芻しながら、峰雪はひとり頷く。 メルクリアーリから見れば、イグニスが行っているのは単なる自殺行為。 予想外の行為に、動転するのも無理はない。   だが、その動転が、メルクリアーリの足下を掬うのだ。  イグニスが両肩に力を込める。 黒い獣が巨大な〈顎〉《あぎと》を開く。  直後、イグニスの身体が、止まった。  完全な静止ではない。 背後から引っぱられるよう、急激にその勢いを削ぎ。 「なっ?!」  背後で、メルクリアーリが転ぶ。 足下には、彼方へ投げ捨てられたはずのデリンジャー。 それを重しにして、金の鎖が微かに光っている。  四階で恵が寝ていた教室の戸口、レースのようにかけられていた極細の鎖。 それがいつの間にか、足に巻き付いていた。  鎖のもう片方を巻き付けたイグニスが、黒い獣に立ちはだかる。  ――初めから、これが狙いだったのか?  メルクリアーリが気づく頃には、時既に遅し。 イグニスの脚本には、そう書いてある。 「峰雪!」 「おうよ!」  イグニスの呼びかけに応え、峰雪は恵の身体を担ぐ。  田中は反応できない。 ただ呆然と、見入っている。  イグニスを喰らう黒い獣。 彼女の身体は飲み下される。  直後、メルクリアーリの身体が引きずられる金の鎖は砕けることなく、バランスを失ったメルクリアーリの身体ごと、黒い闇の中に引き込む。  浸食停止を命じる暇もない。 襲い来る闇の聖母に、主であるはずのメルクリアーリが、飲み込まれる。  イグニスが予言したとおりの展開。  峰雪は恵を担ぎ、身廊を一目散に逃げ出した。  背後で、主を失った闇の聖母が、暴走を開始する。  イグニスの刀に続いて、黒塗りの短剣が飛び出した。 闇の壁から飛び出したそれらを見て、僕は確信する。 萎えかけてきた僕の心に、再び勇気と希望が沸いてくる。  刀を手に、僕は振り返る。 「管理人さん!」  「は、はい」  「まだ、勝負はついていません」  優しい顔で、僕を抱き留めようとした管理人さん。 あの優しさは、僕を護るための方便だ。   彼女は、傷ついていた。 子の知らないところで。   愛する者を護るために、微塵の隙もない母の仮面を被っていた。   愛する者を護るために、人々の知らない闇の世界で戦っていた。  僕がもし、あの腕で眠れば、また彼女は傷つくのだろう。   僕が夢の世界に遊ぶ間、彼女は僕の夢を護るため、自分が傷つくことも顧みず、戦うのだろう。  ――冗談じゃない!   管理人さんは、危険から遠ざけるため、僕をメゾンに閉じこめようとした。 メルクリアーリは、僕に正しい行動を取らせるため、恵のことを隠した。  なにも知らず、ただ親や教師の言葉を信じ、盲目のまま生きる。   それが、本当に正しいことなのか? 愛する人を傷つけても、無知ならばその罪は許されるというのだろうか?   僕でない誰かが、罪を背負って生きていく。 それに、僕は、気づかない。 気づこうともしない。 そんな生き方が、本当に許されるのか?  ――まさか!   僕は、戦う。 愛する人を護るために。 自分が傷つくことも、恐れずに。 愛と勇気と知恵を持って。  「僕があなたを、護ります」   そう、告げた瞬間。  銃声が、立て続けに鳴り響いた。  闇の壁が、揺らめく。 それまで暗闇で距離感さえうまく掴めなかったその壁が、動いた。 まるで外の世界を食い破るように、黒い壁が後退していく。 「浸食、している?」  管理人さんの言葉を待っていたかのように、結界が身動きした。  壁を突き破って飛び込んできたのは、イグニス。 肩に金の鎖をめり込ませながら、必死の形相で飛び込んだ。  「イグニス!」  「刀をよこせ!」   イグニスが一喝する。  僕は逆らわない。  すぐさま彼女に刀を手渡すと、空中から水を凝縮させた。  理由など、聞く必要もない。 彼女の動きを見ればわかる。   敵が、来るのだ。 「いいか、猶予は短い」   イグニスは、腕に食い込んだ金の鎖をむしり取り、怒鳴りつける。   直後、メルクリアーリが結界の内側に引きずり込まれた。  石の床に、金の鎖が微かに鳴り響く。 結界は広がり続け、今や天井すら飲み込もうとしていた。 「恵と峰雪が内側に来る前に、片づけろ!」   イグニスの、心強い後押し。 水の鞭をしならせながら、僕は推論する。  闇の聖母の結界は、内外の情報を全て遮断する。 夜闇の民は親子の因果関係により、能力が分け与えられる資格を持つ。 祖である親が死ねば、子も命を失わねばならない。   以上から、ひとつの仮説が立つ。   闇の聖母の結界により、夜闇の民の因果関係が、遮断されるのではないか? 今メルクリアーリを倒せば、恵の命もまた、助かるのではないか?  無論、常識的に考えれば、馬鹿げた仮説だろう。 吸血鬼の能力は、血を媒介して他人の体内に埋め込まれる、一種の伝染病と考えるべきだ。 「親子関係」という抽象的な概念が、物理的な能力に干渉するなど、信じられない。   だが――イグニスは言った。 恵と峰雪が内側に来る前に、メルクリアーリを片づけろ、と。 それはすなわち、今なら恵を助けられる、ということを意味しているのではないか。  論理的飛躍。 穴だらけの推論。 それでも、希望がないよりはよほどいい。   僕は、その希望に賭けた。 「はは。 なるほど、こんな手がありましたか」   メルクリアーリがゆっくりと立ち上がり、苦笑混じりに言う。  「しかも既に、実験体のコントロールまで破壊されている、と。 手回しのいいことだ」   裏からつけ込む、と笑ったイグニス。 詳細はわからないが、恐らく彼女は、メルクリアーリに不利な工作を行ったのだろう。  しかし、メルクリアーリは動じなかった。 愉快に顔を歪めながら、懐に手を入れる。  取り出したのは、十字模様があしらわれた、銀の銃。  結界の内側から外側に、情報は伝わらない。 メルクリアーリがいくら命じても、闇の剣が手に現れることはないだろう。 「停止を命じても、無駄のようですね」 「外は内に、内は外に、ですか。ふふん、なかなか哲学的だ」  僕は、自分が結界に飲み込まれたときのことを思い出す。  「浸食せよ!」 そう、彼は命じた。  闇の聖母は、メルクリアーリの命令しか聞かない。 だが、結界の内側から、外側へと情報は伝わらない。  ――メルクリアーリが浸食を命じたまま、内部へと取り込まれてしまったら?  結界の拡大は止まらない。 闇はゆっくりと範囲を広げ、とうとう礼拝堂を飛び越える。  壁の向こうから、呆気にとられた表情の田中が姿を現した。 「モノのついでだ。こいつは、私たちが引き留めてやる」  言うが早いか、状況が把握できていない田中に、刀が一閃。  田中は慌てて背後に飛び退き、間一髪で刃を避ける。 そこへさらに襲いかかる、狙い澄ましたイグニスの回し蹴り。  田中の身体が、軽々と吹き飛んだ。  その間にも、黒い壁は爆発的な勢いで拡大している。 猶予はまるでなかった。  僕は管理人さんを背に、立ち向かう。 「メルクリアーリ先生」  「ええ、感心している場合ではありませんね」   静かに頷くメルクリアーリ。 敵であることを知りながら、僕は彼に感謝する。  理屈で言えば、彼は今すぐここで僕と戦わねばならない理由はない。 刻一刻と結界は世界を飲み込んでいる。 どこまで、峰雪が逃げているのかはわからない。 けれども恵を人質にしたいのならば、時間稼ぎを行うべきだろう。   だが、メルクリアーリは、逃げない。 彼はやはり、恵を好きで吸血鬼としたわけではないのだ。  ――どちらが死ぬにしても、遺恨なく。   メルクリアーリの心が、読み取れたような感覚。 だから、僕は、敵の彼に感謝する。 「先生、戦いましょう」  「今度こそ、存分に」   お互いが、頷いた。 勝負は一瞬。  膨張していく結界の中心、僕は好きな人のことを思う。 護られるばかりだった僕が、今度は護る番だ。   管理人さんを背に、僕は、大きく息を吸った。  銃口が、爆ぜる。 水の鞭が、唸る。     峰雪は、貧血気味だった。  「うおりゃあああああああ!」   それでも、目の立ちくらみを根性で押しのけて、走る。 背には、ずっしりと恵の重み。 鉛のように重い腕を振りまわし、礼拝堂を駆け抜ける。 崩れかける身体を前に倒し、踏ん張るように足を踏み出す。   灯りが照らす校庭の惨状。 だが、足を止めている暇はない。 なるべく血溜まりを避けながら、懸命に突き進む。     直後、背後から迫る暗闇。   内部の圧力に耐えかねたように、膨張する。   太陽から吹き出す紅炎のごとく、黒い柱が吹き出す。   ぎちぎちと空間が震える。   手当たり次第に飲み込まれる。   ゆっくりと、しかし確実に、峰雪に迫る。   「うりゃりゃりゃりゃあああああああ!」   あれは、内外の情報を遮断する結界。 一度内部に取りこまれてしまえば、二度と外部と関係を持つことができない。 そう、イグニスに説明されていた。 恵が取りこまれる前に、克綺がメルクリアーリを倒せば、恵が元の人間に戻れる、とも。   手足が重い。息が切れる。 いくら心臓が弾んでも、酸素を運ぶ血が足りない。 頭がクラクラする。 このまま背後から迫る黒い獣に飲み込まれることができれば、どれだけ楽だろう?     だが、峰雪は、諦めない。 校庭を抜け、校門を過ぎ、正面の通りを駆ける。 一秒でも長く、一秒でも遠く。 気合いと根性で走り続ける。   果てしなく膨張していく闇の聖母の結界。 その勢いは止まるところを知らない。 いや、むしろその体積が広がって、さらに拡大の速度が増したようにも思える。   世界が、結界に、包まれていく。      「うりゃああぁぁああぁぁああぁぁ!」   恵を背中に負って、力の限り走りながら。 限界を超えた無理に、微妙に語尾をビブラートさせながら。 ふと、峰雪は疑問に思った。     ――一体俺は、いつまで逃げ続けりゃいいんだ?  勝負は、一瞬だった。  メルクリアーリが放つ銀の銃弾が、僕の身体を目がけて飛ぶ。  立て続けに二発の銃声が、礼拝堂に響き渡った。 時間差で襲い来る弾丸。  周囲に逃げ場はない。 だが、逃げる必要もなかった。  僕は魔力を操る。 宙に波打つ水を掻き集める。 弾丸の軌跡に合わせて、長方形の箱ができた。  その先端に、弾丸が突き刺さる。  激しくまき散らされる飛沫。 だが、弾丸がその壁を突き抜けることはない。  旋条痕特定の際、FBIは水の詰まったタンクに弾丸を撃ち込む。 水の抵抗で減速した弾丸が、底に穴を開けることはない。  捻れながら飛ぶ銀の弾丸は、水に捕らわれた。 壁を突き破ることができず、音もなく床に落下する。 水の壁を、数え切れない水泡が満たした。  代わりに僕は、超高圧をかけた水の塊に、細い穴を開ける。 噴出口を与えられ、光と見紛う速度で水が飛び出す。  真っ直ぐに伸びる白い刃が、一直線にメルクリアーリを貫いた!  水の刃は、胸を裂く。 内臓を切り、骨を断ち、吸血鬼の身体を寸断する。 激しい水飛沫が、辺りを濡らした。  メルクリアーリの身体が、ゆっくりと崩れ落ちた。  苦悶など、微塵も見せないままに。 二度と、立ち上がらない。  僕は、倒れる恩師の身体を見下ろしながら、力を緩めた。  宙に浮かんでいた水の壁が、床に落ちて飛沫を上げる。  僕は、為すべきことを為した。 管理人さんを、恵を、自分の命を守った。  なのにどうして、こんなにも心が苦しいのだろう? 心臓が、呻いている。 苦しく、喘いでいる。  僕は水浸しの床を進み、倒れるメルクリアーリに跪いた。 「メルクリアーリ先生」 「私は、残念です。実に、残念だ」 「私が、人外でなければ……我々は、良い友人になれたでしょう」 「僕も、そう思います」 「ああ、返す返すも、残念だ」 「できることなら私も、あなた達の行く末を、見届けたかった」 「君たちの選ぶ未来が、いったいどんな形をしているのか、見てみたかった。 だが……どうも、なにかを誤ってしまったようだね」 「さようなら、九門君。 君の選んだ道が、君の望む未来へと繋がることを、願っています」 「先生。メルクリアーリ、先生……」  言葉が途切れ、息が止まり、表情が固まる。  命を失ったメルクリアーリの身体が、静かに風化していく。  身体の外側から灰となり、ゆっくりとその表情が失われていく。 崩れていく、輪郭。  僕はそれ以上見ていられず、背後に向き直る。  それまで、イグニスと戦いを繰り広げていた田中。  彼もまた、メルクリアーリと同じく、灰と化している最中だった。 取っ組み合いをしていたイグニスのコートが、灰にまみれる。 「恵……そうだ、恵は?」 「私が知るか」 「峰雪が、まだこっち側に来ていないことを祈るんだな」 「克綺クン!」  「は、はい」  「行きましょう。 恵ちゃんの無事を確かめに」  管理人さんの足取りは、まだおぼつかない。 だがそれでも、率先するように、礼拝堂を走った。 僕は管理人さんに肩を貸し、後から追いかけるイグニスと共に外へ出る。  礼拝堂を出る。 相変わらず、辺りは暗い。  だが、先ほどまで辺りを包んでいた闇の結界は、遙か彼方。 夜に霞んで、もうその感触すら掴めない。 「結界は、膨張に連れてその速度が増す」  「今頃は、世界中が結界の内側に取りこまれてしまったかもしれないな」  「そんな。 でも、もしそんなことが起こったら――」 「心配する必要はない。 あの結界は、内外の情報を断絶させるだけだ」  「だが、もう誰も、闇の聖母に命令を下せるものはいない」  「それじゃあいつまで、この浸食は続く?」  「さて、な。魔力が切れるか、それとも、宇宙全てを飲み込んでしまうまで」  結界が宇宙全てを飲み込んでしまえば、外からの情報を制限する結界は、無意味になる。  管理人さんとふたり、結界の中に入ったとき。 僕は自分が檻の中に閉じこめられてしまったように感じた。  だが、今はどうだろう。 閉じこめられているのは僕らか。 それとも、イグニスの罠にはまった、闇の聖母か。  僕は、膨張を続けたまま、虚空の世界に浮かぶ闇の聖母の姿を想像してみる。 彼は全てを飲み込んでしまっている。  ただ彼だけが、結界の外側に存在する。 内側と意志を通じ合わせることもできない。 ただ静かに、命令を待ちながら、宇宙の外に浮かび続けるのみだ。 「イグニス、あなたは、何者なんだ?」 「ただの卑怯者さ」  「しかし、あなたが知恵を貸してくれなければ、今頃――」  「私は、私の利益のために行動しただけだ」  「おまえを闇の聖母に渡して、好き勝手されるわけにはいかなかったからな。 単なる利害関係の一致さ」 「動機がどうあれ、結果は僕の利に適っている。 僕が感謝しても問題ないだろう?」  「礼は、全てが丸く収まってからでも遅くない」   イグニスの言うとおりだ。  僕は管理人さんと一緒に、校庭を走る。  そこは、先ほど見た惨状のまま。 僕はその校庭の中に、峰雪や、恵の姿がないことを願った。  全力で、妹の名を呼んだ。 「恵――!!」 「おにいちゃーん!」  遠くから、聞き覚えのある返答。  僕は、校門の向こうを見やる。  恵が、走っていた。  メルクリアーリや、一緒に灰となった田中とは違う。 両脚で、しっかりと、校門を走り抜けていた。 「恵っ!」  僕は校門の前で、恵の身体を抱き上げる。 瞳は赤すぎず、犬歯は鋭すぎず、なによりその身体が温かい。 心臓が、とくんとくんとなっている。  キュッと痛いほどに僕の首を抱きしめて、恵は矢継ぎ早に話しかける。 「おにいちゃん! こわかった。私、こわかったよ」 「ここをうたれちゃって、死んじゃうと思ったの。 でも、気がついたら、いつの間にか学校の中で、それで――」 「いいんだ、恵」  僕は恵の小さな身体を抱きしめながら、ゆっくりとその背中を撫でてやる。  今の彼女を、必要以上に怖がらせることはない。 確かに彼女も、いつか自分の責任で、世界と立ち向かわなければならない日がやってくるのかもしれない。  けれども、それはもっと先のことだ。 その日まで、僕は恵を護り続けよう。 雨風を防ぐ壁となり、屋根となり、恵のことを包んでやろう。 「おにいちゃんが、たすけてくれたんだよね」 「僕だけの力じゃない。みんなが、助けてくれたんだ」 「うん。そうだよね。みねゆきさんも、わたしを助けてくれた」  恵が指さした先には、峰雪の姿もあった。 力尽きて道路の真ん中、大の字になっている。 「峰雪、ありがとう。――というかおまえ、大丈夫か?」 「うるせぇ。ありがてぇと思ったら、俺に誰か輸血しろ!」  道の真ん中に倒れてはいるが、その騒ぎようを見ると、まだ十分元気そうだ。 僕はわめく峰雪を無視して、恵に命の恩人を紹介しようとする。 「峰雪だけじゃない。 イグニスの助力がなければ――」   そう言ったところで、僕の動きが固まった。 イグニスが、いない。 嫌でも目立つあの赤いコートが、どこにも見当たらなかった。  「いぐにす、さん?」  「ああ。彼女の機転が、僕たちを救ったんだが――」 「彼女は、照れ屋で意地っ張りだから」   僕の言葉を継ぐように、管理人さんが口にした。  「先に、どこかに行っちゃったんじゃないかしら?」  「そう、か……」  それにしても、彼女はいったい何者だったのだろう? 自分の名前しか名乗らなかったが、彼女は闇の聖母や、管理人さんとも面識があるようだった。 「管理人さん、あなたはイグニスとどんな関係――」  訊ねかけて、僕は、絶句した。 「管理人さん?」 「なぁに、克綺クン?」 「管理人さんの、身体が……」 「ああ、このこと、ね」   笑顔のまま。 いつも絶やさぬ笑顔のまま、管理人さんの身体が崩れ出す。   礼拝堂で彼女を見つけたときと同じく、ゆっくりと、彼女は歯車に分解されていく。 「もう、だめみたい」  「だめ?」  「せっかく、呼び戻してもらったのにね。ごめんなさいね」  「ごめんなさいって、そんな。 なぜですか?」  「力が足りないなら、いくらでも――」  そう言って、僕は再び力を操ろうとする。 目を閉じて、空気中の水蒸気を凝縮させ、先ほどと同じく僕の手首に小さな傷を――。   つかない。 僕の肌が傷つかないどころか、空中から水分を取り出すことすら、できなかった。 「克綺クン、もういいの。 あなたにはもう、以前のような魔力がないわ」  「そんな、なんで急に……?」  「闇の聖母が結界を広げるに連れて、あなたの魔力は減っていく」  「あなたひとりの力では、どうにもならないのよ」  「しかしすでに、結界は世界を包み込んでいます! あなたを支えているのは、僕だけではありません!」 「私は、幼子を見守る母の願い。 夜に旅立つ父の決意。 私は、この世で最も古き祈り」  「かつて、人が弱かった時、子らを守って魔物と戦ってほしいという願いが、私を生み出した」  「けれど今や人は、夜の闇を克服し、人のまま魔物と戦う力すら得るようになった」  「私はもう、人類に必要とされていない。 いつか、子は親を離れるでしょう? それと同じ」 「アナロジーはアナロジーです。 どれだけ直感に訴えかけても、それ自体が論理の整合性を強化するわけではありません!」   僕の反論にも、管理人さんは首を振るだけ。  「あなたたちは、強くなったわ。 もう、私たちの庇護がなくても、生きていけるほどに」  「でも、僕にはまだ、管理人さんが必要です!」 「克綺クンは、初めて歩いたときのことを憶えているかしら?」  「……いいえ」  「あのね、最初子供は、お母さんが恋しくて歩き出すの」  「ちょっとでも早く、お母さんのところに行きたい。 ひとりが怖くて、お母さんが恋しくて、歩き出すのよ」  ボロボロと、崩れていく輪郭。 音もたてずに、ゆっくりと、歯車が崩れていく。   管理人さんの瞳に、少しだけ涙が浮かんだ。 それまで見たことのない、管理人さんの涙だった。 「でも、それからほんの少ししたら、お母さんが見ていなくても、好き勝手に歩き出すわ」  「だからといって、子供に母親が不要なわけはない!」  「克綺クン。 私のために、泣いてるの?」   言われて初めて、僕の瞳から、涙が流れていることに気づく。  「泣いちゃ、いけませんか?」 「ううん。いいのよ、いくら泣いても」  「でもね、克綺クン。 その涙を、いつまでも引きずらないで。 人は出会えば、いつか別れなければならないの」  「それは単なる理屈です」  「そうね。いくら辛い思いをしても、私たちは出会うことをやめられないわ」  「別れを嫌って、出会いを諦めることなんて、誰にもできない」  僕は、管理人さんの覚悟に、うたれる。 彼女がどれだけの間、人びとの世話をしてきたのかは、わからない。   ただ、長い間。 味覚のない彼女が、あれほどまでに料理に熟達するほどの長い間。 管理人さんはずっと、ずっと、母親でいたのだろう。 たくさんの愛するものを、迎え、もてなし、そして、別れたのだろう。  数え切れないほどの出会い。   数え切れないほどの別れ。   育て、見送り、それでもまた、出会うことをやめられないでいるのだろう。 「私は、克綺クンと出会えて、幸せだった」  「管理人さん……」   彼女の意志は、強い。 いくつもの出会い、いくつもの別れを繰り返して、   だからこそ、決心する。  僕は、管理人さんと、別れなければならない。  管理人さんの腕の中は、あたたかい。 できることならば、いつまでもあの腕の中で微睡んでいたい。  けれども、僕にも――護らなければならないものがあるのだ。 誰かに任せるのではなく、この自分の手で、護りたいものがあるのだ。  だから、僕は、笑顔だ。  そのまま、崩れ落ちてしまいそうな心を、ぐっと堪えるんだ。 僕は、笑顔で別れるべきだ、そう思う。 「ありがとう、ございました」 「僕も、管理人さんと会えて、幸せでした」  潤む視界の中で、管理人さんも笑っている。 ボロボロと涙をこぼしながら、笑っている。  ことん、と音をたてて歯車が落ちて。 管理人さんは、その場にしゃがみ込む。 もうそれ以上、自重を支えていられないように、俯きながら囁く。 「なんだか、克綺クン」 「はい、なんでしょう」 「おっきく、なったよね」 「ここ何日かで、急に」 「そうでしょうか? 身長に大きな変化があったようには……」 「ううん、そうじゃ、なくて。あはは」  管理人さんは、悲しいのか、可笑しいのか、辛いのか、嬉しいのか。 いろんな感情がごちゃ混ぜになった、顔で、笑う。  今なら僕も、管理人さんの心がわかる。 きっと彼女も、僕と同じ気持ちでいるはずだ。 「どうも、すみません。僕はまた――」 「ううん、いいの。その方が、克綺クンらしくて」 「そうなんですか?」 「そう、なのよ」  僕と管理人さんは、顔を合わせて笑う。 そんなふたりの間に、人影がひとつ、立ちはだかった。 「……管理人さん」  一瞬、管理人さんの表情が、固まる。 少しだけ、顔をうつむけて、重い唇が開いた。 「恵ちゃんも、ごめんなさいね」 「私、あなたを護ってあげられなかった」 「いやだよぉ」  管理人さんの身体に、恵は抱きつく。 顔を上げる管理人さん。 その頬に、恵のこぼした涙がなすりつけられた。 「私、管理人さんが、大好きだよ」 「ほんとに、ほんとに大好きなんだから! だから、行かないで!」 「恵ちゃん……。でも、私は、恵ちゃんのことを見捨てちゃった――」 「見捨ててなんてないよ! 私、知ってるもん! メルクリアーリさんが、みんな、教えてくれた!」 「そうなの。でも……」 「でも、じゃないの! 最初はお兄ちゃんを取られるみたいで嫌だったけど、管理人さんは優しく看病してくれたり、おいしいごはんつくってくれたり!」 「私、管理人さんが大好きなの! もっといっぱいお話しして欲しいし、料理も教えて欲しいの! だから、だから――!」  戸惑いが浮かんでいた管理人さんの表情が、ゆっくりと、安らぐ。 管理人さんは、寄りかかるように、恵を抱きしめた。 「恵ちゃん、ありがとう。本当に、ありがとうね」 「えぐっ、ひっ、いやだよぉ。管理人さん、行かないでよぉ!」 「ごめんなさい、恵ちゃん」  大きく震える肩に手を当て、ゆっくり撫でる。 恵の背中を、ほんの数度、手が行き来しただけで、まるで、魔法がかかったように、恵の泣き声が収まる。 「でも、大丈夫。あなたには、お兄ちゃんがいるでしょ?」 「うっ、うぐっ、でも……」 「でも、じゃないの。それとも、お兄ちゃんのこと信じられない?」 「そんなっ! そんなことないよ!」 「それじゃあ、泣くのをやめて。ね?」  管理人さんは、恵の顔を覗き込んで、言い聞かせた。 恵は懸命に、涙を拭う。  僕は恵の手を取って、優しく頷いてやる。  管理人さんの腕には、もう力がこもらない。 輪郭がぼやけていて、今にも崩れ落ちてしまいそうな、細い腕。  僕は、恵を受け取る。  恵の腕をしっかり握って、抱きかかえる。 「あ……」  涙を拭う恵が、ふと顔を上げた。  空から光が差し込んだ。 涙を拭うように。 温かい腕で、抱きしめるように。  闇に包まれた世界が、ゆっくりと、光に包まれていく。 澄み渡るような青が戻っていく。 「これで、世界は元通りね。安心して、休めるわ」 「恵ちゃんも、もう、大丈夫ね?」  恵は、無言のまま。 大きく肩を揺すって、頷いた。 涙を目に浮かべたまま、懸命に、笑顔を浮かべようとしていた。 あの顔は、たぶん、僕と同じだ。 「克綺クン」 「はい」 「恵ちゃんのこと、大事にしてあげてね」 「もちろんです」  日の光を浴びて、管理人さんの笑顔は、輝いていた。 輪郭がぼやけてるのは涙のせいだ。 僕は彼女のこの笑顔を、焼き付ける。 絶対に忘れない、そう、心に誓う。 「私は、ずっと、見守ってるから。遠くに行っても、ずっと」 「僕も、ずっと、想ってます。管理人さんのことを、ずっと」 「さようなら、克綺クン」 「さようなら、管理人さん」  日の光に、溶けるように、管理人さんが崩れていく。 幾千の歯車となって身体は砕け、そのまま、消えていく。        人びとの想いを乗せるように、欠片は光を放ちながら、ゆっくりと空へ。 青い、抜けるような青空へ。 僕は、恵の肩をしっかりと掴みながら、空を見上げる。   風と共に、歌声が届いた。 遠くから聞こえる、子守歌。 僕らを優しく見守り、包む、子守歌。        僕は、管理人さんに、会えてよかった。 管理人さんから、いろんなところで助けてもらった。 いろんなことを教えてもらった。   楽しいこともあった。 つらいことも、たくさんあった。 でも、彼女がいなければ、今の僕はない。        そよ風と共に響く、母の歌声。 その音色は、甘く、切なく。 ずっとずっと、身を任せていたくもあるけれど。   その歌声は、やがて、遠く、遠く。  やがて、風が、涙を拭う。 僕は膝を曲げて、アスファルトに落ちたそれを見つける。  管理人さんのあとに残った、歯車がひとつ。 朝日を浴びて、光り輝いている。  手のひらにのせて、その感触を、しっかりと確かめる。  例え、管理人さんがいなくなっても。 メゾンがなくなって、管理人さんがいた証拠が全てなくなってしまっても。  僕は憶えている。 日の光に包まれるたび、優しい気持ちになれる。 この青空を見る度、思い出す。  管理人さんは、僕と一緒に、生きた。 「恵、もう、大丈夫だな」 「うん」  僕は、恵に微笑みかける。 恵は、僕の手をギュッと握りしめる。  管理人さんは、いなくなった。 子守歌は、もう聞こえない。  それでも、僕は、憶えている。 管理人さんの強さを。優しさを。 絶対に、忘れない。 涙を流す必要なんて、どこにもない。  僕は、もう一度だけ、空に向かって呟いた。 「さようなら、管理人さん」  僕は、管理人さんと、別れない。  「管理人さん。僕は、あなたと一緒にいたい」  僕はそう言って、自分の中に残った魔力を、掻き集める。 身がちぎれるほど強い水の流れを、強く、強く意識する。   管理人さんの言ったように、僕の力は闇の聖母に吸収されているのだろう。 ほんの一握りの水滴を操るだけで、ギリギリと締め付けられるように頭が痛くなる。 息が荒く、立っているのが辛い。 「克綺クン。だめよ。あなたは――」  「こんなに、相手のことを想っているのに、どうして別れなきゃいけないんですか?」  「例え独り立ちしたって、子供は母のことを忘れるわけじゃない!」  「いつまでも一緒にいたい、そう願っては、いけないんですか?」  「克綺クン……」  僕は、残った魔力を掻き集めて、水の刃をつくる。 細く指先を切って、僕の手から血が滲み落ちる。   ぽたり、ぽたりと赤いしずくが落ちた。  崩れかけていた管理人さんの身体が、徐々に、元の姿に戻っていく。   けれども、こんな程度じゃ足りない。 もっと、もっと。 管理人さんをこの世界に呼び戻すには、もっと力が必要なんだ。 「ありがとう。でも、残念だけどもう、無理なの」 「無理なんかじゃありません!」  僕は、管理人さんの身体を抱きしめる。 壊れそうな身体を、強く。 ボロボロの肌を、跡がつくくらいに、強く。 「やってみなきゃわからないじゃないですか!」 「ううん、わかるわ。ね、言ったでしょ? 私はもう、必要とされていないのよ」 「それは、あくまでも主観的な判断です!」  ドクン、ドクン。僕の心臓が、鼓動を刻む。 強く、管理人さんに身体を押しつけて、この心臓の鼓動が、伝わるように。 「管理人さんが、そう、勝手に決めつけただけです!」 「そんなこと、ないわ」 「管理人さんは、怖いだけでしょう?」 「怖い?」 「あなたは、傷つけてしまった。 護るべき人間を、失いかけてしまった」 「もう二度と、あんな想いをしたくない。 そう、思っているんでしょう?」 「それは……」  管理人さんは、恵を助けることができなかった。 心臓を射抜かれて、普通ならば恵はあのまま命を失ってしまっただろう。  あのあと、管理人さんは、まるで別人のように壊れてしまった。 現実から逃げ出すように、自分の行為から、目を逸らすように。  恵を助けに、ひとりで無謀ともいえる行動に出たのも、恵に引け目を感じていたからだろう。  管理人さんは、まだ、恵と会話が交わせないでいる。 顔も、合わせられない。 歯車は、僕の血に濡れたまま、軋んで動かない。 「管理人さん」   俯いた管理人さんの前に、ひょい、と一足踏み出して。   恵は、笑顔だった。 これ以上ない、笑顔だった。 「大丈夫。私、管理人さんが、大好きだよ」  「ほんとに、ほんとに大好きなんだから! だから、行かないで!」  「でも、私は、恵ちゃんのこと――」  「見捨ててなんてないよ。 私、知ってるもん。 メルクリアーリさんが、みんな、教えてくれた」 「そう、なの。でも……」  「でも、じゃないの!」  「ホントのこと言うとね、最初は、管理人さんのこと、好きじゃなかったんだ」  「そう、なんだ」   突然、なんてことを言うのだろう? 人の心がわからない僕にだって、今の恵の発言が逆効果であることくらいは、わかる。 「おい、恵! なんてこと――」  「お兄ちゃんはちょっと黙ってて!」   抗議しようとした僕の口を、恵はものすごい剣幕で塞ぐ。 勢い余って小指が鼻を打って、痛い。   けれども黙るように言われたので、「痛い」と言葉が漏れ出るのを懸命に我慢。 「だってね、管理人さんって、完璧なんだもん! 優しくて、きれいだし、お料理はうまいし」  「だから私、お兄ちゃんを取られちゃうみたいで……」  「もう、そんな心配はいらないわ。 私はもうすぐ――」  「だから、それじゃダメなんだって!」  「私、決意したんだから!」  「決意?」 「私、管理人さんが大好きです! もっといっぱいお話しして欲しいし、料理も教えて欲しいです!」  「だから、大好きだから、お兄ちゃんを取っちゃっても仕方ないです! 許します!」   恵はヤケになったように大声を張り上げる。 管理人さんは、キョトンとした表情でそれを聞いている。 「だから、いいよね? お兄ちゃんも、管理人さんとさよならなんてしたくないでしょ? ね?」  「お兄ちゃん……? ね、返事は?」   恵が、不思議そうに僕の顔を覗き込む。   だが、「黙ってて」と言われた以上、言葉を出すわけには……。 「お兄ちゃんっ!」  「は、はい」  「お兄ちゃんも、そう思うよねっ?」  「ああ。そう、思う」  恵の剣幕に負けて、僕は声を出して頷くが、彼女が怒る気配はない。 どうも、いつの間にか「ちょっと黙ってて」という命令は、効力を失っていたらしい。   そもそも、恵が「ちょっと」などという曖昧な単位を持ち出したのが悪い。 きっちり時間を指定してくれるか、それともなにか効力が切れる合図のようなものを……。 「……ふふ、ふふふ」   それまで沈んだ目つきで言葉少なだった管理人さんが、笑い出す。  「ど、どうしたんですか?」  「え、ううん。あのね、私、思ってたの」  「克綺クン、ここ何日かで、急に大きくなったなぁ、って」 「そうでしょうか? 身長に大きな変化があったようには……」  「お兄ちゃん!」  「あは、あはは」   恵に思い切り足を踏まれる。 それを見て、管理人さんは笑う。   その笑顔を、僕は、失いたくないな、と思う。 「恵」  「なに?」  「もう一回だ」  「え?」  「もう一回、僕の足を踏んでくれ」  「……なんで?」 「そうすると、管理人さんが笑ってくれる」  「はは、違う違う。 そうじゃなくて……!」  「僕は、管理人さんのあの笑顔が見れるなら」  「何回、恵に足を踏まれたっていい」  「……お兄ちゃん」 「なんだ、恵」  「それ、愛の告白にしてはかっこわるすぎ」  「そうなのか……?」   どうしてこれが、愛の告白になるのかはよくわからないが。 ともかく、そういうことになってしまうらしい。 「ほら、お兄ちゃん。もう一回、やり直し」  「やり直しって……」  「管理人さんと、離れたくないんでしょ?」  「あ、ああ」  「だったら、ちゃんと説得しなきゃ!」  管理人さんは、好きでこの世界から去っていくわけではない。 僕の身体に残った魔力が少ないのは、自分でもわかる。   論理的には、説得したからといって、意志が翻ったからといって、どうなるような問題でもないのかもしれない。  けれども僕は、恵の言うとおり、管理人さんを説得する。 説得、しなければならない。 管理人さんがそれを望まなければ、きっと、意味がない。   僕の心臓が急かしている。 「管理人さん、あなたは今まで、ずっと、人びとを護ってきた」  「もっとも古き祈り。 あなたは母親として、多くの魂に安らぎを与えた。 その代わり、自らに幾多の傷を負った」  「でもそれは、私の役目だから」  「意志だろうと義務だろうと、あなたに対する感謝の意は、変わりません」  ドクン、ドクン。 心臓が鳴る。 僕の言葉ひとつひとつに合わせるように、どんどんとその勢いが激しくなる。 隅々から魔力を掻き集めて、それでも止まらず、心臓はさらに強く。   熱は、止まらない。 身体の外から、魔力が僕の身体に流れ込む。 それは、僕の願いで、恵の願いで、みんなの願いだ。 血が、鳴っている。 ごうごうと、音がする。  熱い。 燃えるように、身体が熱い。   これなら、いける。 管理人さんを、引き留めることが、できるかもしれない。 「あなたのおかげで、僕たちは、ここまでやってくることができました」  「だから今度は、僕たちが、恩返しをする番です」  「本当に、私が、いいの……?」  「お願いします。 もう、あなたが矢面に立たずとも、僕らはきっと、生きていける」 「だから、僕たちの姿を、いつまでも見守ってやってください」  「そう、か。そう、ね」   管理人さんは、ひとり呟いて、僕の手を取った。 僕の血を受けたその指は、もう歯車の跡など見えない。 柔らかくて、あたたかい、あの管理人さんの手だ。 「すぐに、放り出したら、あんまり無責任だもの。 しばらく、見守ってあげなきゃね」  「その通りです。 最後まで見守るのが、親の責任です」  「でもね、克綺クン」  「はい、なんでしょう」 「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」   管理人さんの手が、優しく僕の頭を撫でた。  「苦しいとき、悲しいときは、いつでもおいでなさい。 その傷が癒えるまで、ずっと抱きしめてあげるから」  「はい。甘えさせて頂きます」  例え、僕が恵を護るような立場に立っても、管理人さんは管理人さん。 僕の想いが、消えてしまうわけではない。   身体に流れ込む魔力を、集める。 自分の胸に集まった、力。   その力を、そっと胸から離して。 その鼓動を、管理人さんの思い出に、移すように。 「管理人さん、どうもありがとうございました」  「これからも、どうぞよろしくお願いします」  「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」   僕たちは、お互いに、少し照れくさそうに微笑む。  そのまま、ふたりの想いを繋ぐように、口づけた。  流れ出す力。 流れ出す未来。 全身を、力が、奔流となって駆けめぐる。  強く、激しく、身を焦がす。 流れる力の濁流に、僕は意識が遠ざかる。  僕らの鼓動が重なって、ドクン、と震えた。 魔力は、僕たちの前に、新しい世界を開く。  メルクリアーリは、ゆっくりと歩を進めた。 果たして、この男が、どんな力を使うのか。 僕は何もしらない。  であれば、先手必勝だ。 距離が詰まる前に、僕は右手を高く掲げる。  宙から水分を取りだし、一本の水の鞭とする。  床を蹴って間合いを詰める。 同時に、鞭を振り下ろした。  鞭が砕いたのは石の床だ。 メルクリアーリは、軽いステップを踏んで、鞭を躱している。  傍らに寄り添う少年。 その胸に右手を突き刺した。  瞬間。 悪寒を感じて、飛び下がる。  わずかに遅れて、黒い刃が空を薙いだ。 「……その力、わだつみの民のものですね」  息を整え、間合いを取り直す。  今、メルクリアーリの右手には、黒い闇が握られていた。 鋭く尖ったそれは、さしずめ闇の剣か。  その源は、傍らに控える金髪の少年だ。 胸元にかざした手は黒い闇を握っていた。 メルクリアーリが腕を射し込んだのは、その闇の奥だ。 「それは?」 「“最も深き飢え”。三つの護りの一つです」  メルクリアーリは律儀に応えた。 「行きますよ」  メルクリアーリの姿が、ふいに溶けた。  ──突進。  考えるより早く、僕は転がる。  闇色の切っ先を、かろうじて躱していた。  水の鞭を両手に握り、メルクリアーリの返す一刀を受け止める。   その刹那。   ぎちぎちと闇が哭いた。 切っ先は二つに分かれ、牙さえ生じて鞭を喰らう。  「な!」  叫びが洩れた。 鞭は、水滴を撒き散らしながら、あっさりと両断されていた。 「トウシェ!」  メルクリアーリは手首を返して二撃目を──やられる!  身をひねるがかわしきれない。 切っ先が急激に大きくなる。  視界が黒く染まる!  剣が顔をえぐった時、僕は咄嗟に、手に持った水を、水滴にして顔にぶちまけた。  さすがにこれは避けられず、メルクリアーリは、顔をぬらして、飛びすさる。 ゆっくりと顔を拭き、やがて、ただの水であることに気づいて、微笑んだ。  左目が痛んだ。 否。痛みではない。 熱くも冷たくもなく、それでいて感じる圧倒的な違和感。   こらえきれずに指でさぐる。 瞳。頬。あるべきものがそこになかった。 ぽっかりとあいた虚ろ。 外気に触れたような冷たさだけが指先に伝わる。  ──喰らう剣、か。   呼吸が乱れた。 心臓が高鳴った。 冷たい汗が頬を伝う。  「恐ろしいですか」   静かな声に、僕は気づいた。 そうか。   ──これが、恐怖か。 「ええ、恐ろしいです」   喉に支えた塊を口に出す。  「私もですよ」   その顔に焦りの色はない。 ただ慎重さがあるだけだ。  「……なぜ、あなたが闘うんです?」   それが疑問だった。 「勘違いしないでください。 これが一番確実に、あなたを殺す方法だからです」   声には静かな自信があった。  「それにしても一騎打ちをしなくても」  「不確定な要素は少ないほどいいのですよ」  神父が大地を蹴る。  その突進に、僕は、水をぶつけた。  ただの水ではない。 水圧をかけ、重く鋭い礫に加速をかける。 並の小銃よりは威力がある。  無数の礫の前に、神父は剣をかざした。  闇が吼え、水弾を食い尽くす。  はずれた礫が背後の壁をえぐる。  僕は、急いで後退した。 せめて、受けで体勢を崩すことを期待したのだが。 神父の剣は、どうやら、礫の勢いまでも喰らうらしい。 というより、あの闇は、穴に過ぎないのだろう。 異界に通じる穴。  「……なるほど」   僕は、息を整えて、恐怖を鎮める。 「どうしました?」   応えながらも神父は、ゆっくりと間合いを詰める。  「あなたのほうが、僕の力を高く評価している」   神父は言った。 不確定要素を減らす必要がある、と。 だが、ここに第二、第三の敵がいたとして、僕の有利になるだろうか。 いや、ならない。 「……つまり、僕の力は、使いこなせば今より強い」  「その通りです」   授業で生徒を誉めるように神父は笑ってうなずいた。 それはつまり。 僕が力を使いこなした上で、勝てる自信があるということだろう。  僕は素早く思考を巡らせる。 剣戟は不利だ。 あの剣は、こちらの武器ごと喰らい尽くす。   ならば、こちらにある利点は。  水の力が通じないわけではない。 受けられるだけだ。   ならば。 受けられないように戦うのみ。 そのために、僕が選んだのは機動力だった。  水よ! 命の水よ!  両手に集めた水を、僕は靴底にまとった。 足で動くのではない。 水を魔力で直接滑らすのだ。 「行きますよ!」  神父が宙に舞った時には、用意はできていた。 床を蹴り、滑るように僕は神父の懐に飛び込む。 「せいっ!」  速すぎた! 懐に飛び込んだのはよかったが、こちらもタイミングを逃す。  かろうじて、すれちがいざまに、水流の一刀を浴びせたはいいが、僕は、そのまま、座席に突っ込んだ。  椅子の二、三脚を吹っ飛ばして、立ち上がる。 「……なるほど。やりますね」  振り返れば、神父の脇から血が流れていた。 だが、まだ浅い。  「力余って、意、足らずというところですか」   その通りだ。 速度は得られたが。 目が。腕が、追いつかない。 だが、迷っている時間はない。  僕は、再び床を蹴った。  計画はできていた。 牽制に水弾。 大地を蹴って急加速。  寸前で、左に跳び、神父の眼前から消える。 ステップを踏んで背後に回り込み、水流刀で切り上げる。  うまくいったのは、急加速までだった。  神父が無造作に剣を振る。 闇色の剣から銀光が閃いた。  散弾のように飛ぶ礫が僕の胸に食い込む。  口から血を吐きながら左へステップアウト。 身をひねって水流刀を振り上げる。  だが、膝が落ちた。  刀の一撃を、神父は、軽いフットワークで躱していた。  勢いのまま、僕は床を滑った。 血が床に線を引く。  幸い、血は水の内だ。  魔力を巡らせて僕は血を止める。 「九門君。どうしますか?」   神父は距離を取って声をかける。  「どうするとは?」  「望むなら、痛みなく送りますが?」   胸の痛み。 そして尽きせぬ恐怖。 緊張からくる疲労。 誘惑は、甘美だったが。 「いえ、結構です」   僕は首を振る。  「そうですか。では」  神父が走った。  僕は急いで後退する。 水の力を借り、椅子を片っ端からなぎ倒しながら教会を跳び回った。  考えろ。 考えなくては。  先ほどの礫。 あれは、形あるものではなく、水の弾丸だった。  僕が最初に神父に打ち込み、剣に消された水だ。 あの剣は、どうやら吸収したものを放出もできるらしい。  うかつに水を浴びせるのも危険だ。 ならば、どうやって?  考えている暇はなかった。  神父は滑るように教会を駆けた。 体術にも向こうに長がある。 こちらが振り回す水流刀を、たくみにかいくぐり、繰り出される突き、また、突き。  転がるようにして避ける。 一撃目のフェイントにあっさりひっかかり、大きく避けようとして体勢を崩す。  転がって二撃目を躱すが、それが限度。  三撃目の突きが、まともに当たる。  胸に穴が空いた。 文字通り。 ひどく頼りない、虚無感。 吐き気を呑み込んで、床に倒れたまま右足で蹴りを放つ。  胸板に当たるより速く、神父は飛び離れた。  「九門君。お別れです」   ……いや、まだだ。 声は、出なかった。 胸に穴が空いてれば当然か。  立ち上がろうとして、僕は、見事に転んだ。 脚。左足が、ない。   離れたざまに神父に斬られた、か。 「心貧しき者は幸いである。天の御国はその人のものなればなり」  ゆっくりと近づく神父から、僕はわざと目をそらす。 まだチャンスはある。 足下の水を僕は背中に集め、神父の間合いを窺う。  ……まだ遠い。引きつけて。 「悲しむ者は幸いである。そは慰められるだろう」  神父が右腕を引いた瞬間。  僕は倒れたまま宙を舞っていた。  背中が焼けるように痛んだ。 僕がやったのは水蒸気爆発だ。  水は、気体に変わる瞬間、その体積を数百倍に膨張させる。その力に指向性を与えれば、それは大きな推進力となる。 文字通り爆発的な加速力で、僕は神父に迫った。  その顔にあるのは驚き……ではない。 かすかな微笑。  ──まずい! だが、もう戻ることはできない。 僕の目の前で。  神父は闇の剣を横薙ぎに振った。  名状しがたい悲鳴に、僕は顔をしかめた。神父も眉を寄せていた。 それは金属を捻り、こすりあわせたような轟音。  空間が悲鳴を上げ、真っ黒な傷口を晒した。 「義に飢え乾く者は幸いである。そは満ち足りるだろう」  僕の目の前に、真っ黒な闇が現れる。 それは、うろたえる僕を、頭から呑み込んだ。  水の力が通じないわけではない。 受けられただけだ。 ならば。 受けられないように戦うのみ。 そのために、僕が選んだのは火力だった。   所詮は剣の一本。 受けきれる面積には限りがある。  水よ。命の水よ。   僕は空中から水を集める。  できる限り多くの水を。 見る間に僕の周りを雲が包む。 両手をしとどに濡らし、僕は心臓に手を触れた。 ……まだ足りない。 「やめなさい九門君」   神父の声を無視して、僕は胸を指でえぐった。 吐き気を伴う痛みとともに、紅い血がだくだくと流れ始める。   チャンスは一撃。 ならば妥協はできない。  全身を覆う脱力感に耐え、僕は血をまとった。 血で胸の傷を固める。 「これで、終わりです。あなたには避けられない」 「ええ。これで、終わりです」   神父は剣を構えた。   いまや全身にまとう雲は紅かった。それを僕は雪に変える。 薄い雪片は刃となって僕の周りを回る。 ダイヤモンドダスト。 それが僕の選んだ力だった。 「雪よ! 紅い雪よ!」  声とともに紅い刃は宙を舞った。 一陣の旋風となって、神父を襲う。   避けられる速さではない。 果たして神父は避けず、ただ、剣を横凪に振った。  その瞬間。 あたりに響いた轟音に僕は耳を押さえた。  名状しがたい悲鳴。 まるで、金属をひねり、ねじ切り、こすりあわせたような轟音。 空間が悲鳴を上げ、真っ黒な傷口を晒した。  現れた巨大な闇は、紅い雪を残らず吸い込む! 「な……!」  渾身の一撃を避けられ、僕は息を呑む。 「九門君」   神父は目を伏せた。  「お別れです」   神父は刃を返した。  闇がめくれあがり、真っ赤な雪を吐き出す!  なぜ。 そう思うより速く、全身が切り裂かれた。  真っ赤な血が流れ落ちる。 水。命の水。  けれど。 僕には、それを操る力は残ってはいなかった。        落ちてゆく。落ちてゆく。 僕という僕が、落ちてゆく。  ほのぐらい闇の中へ。 ほのぐらい光の中へ。 ほのぐらい無の中へ。  叫ぼうとして口がなく。 伸ばそうとして手はなく。 つぶろうとして目はなく。 すでに耳も鼻も腕も体もない。  僕は、一個の器。 虚空に引かれた閉じた線。  その一本の線さえ闇が襲う。 闇が溶かす。闇が喰らう。 その一本の線を守るべく。 僕は(無いはずの)歯を食いしばり、(不在の)両足に力を込める。  闇の力はあまりにも大きくて。 線はあまりにもか細くて。  線が。罅を生じ。  そして、くしゃりと潰れた。  闇が襲う。 僕の僕という僕をおぼれさせる。 視界の端に、かすかに七色の光が映る。  くるくると回るそれは。 どこか見覚えのある形をした。 傘……。        闇に満ちていたのは無数の僕だった。 男。女。 年も心もばらばらで。 その全部が僕だった。 気がつけば、どの僕が僕だか僕は忘れ。 僕は僕僕僕と区別がつかず。 僕僕僕は僕僕僕僕と対峙する/溶け合う/分かち合う。        僕の記憶。僕僕の記憶。僕僕僕の記憶。 僕には妹がいた。 僕には姉がいた。 僕は妹だった。 僕は姉だった。 僕は父で母で娘で息子で。 殺すものであり殺されるものであり奪うものであり奪われるものであった。        僕が僕でない僕を味わう僕となる。 それはあまりにも圧倒的な体験で。 僕と僕僕と僕僕僕の体験がつなぎ合わされて僕の心を満たす。   そうして僕が僕僕になり僕僕僕になるたびに。 何か大切なものが抜けてゆく。        峰雪。                                みねゆき?                     ミネユキ。                      恵。         めぐみ。                                    メグミ。                 管理人さん。               かんりにんさん。                       カンリニンサン。         小さな顔が浮かんでは消える。 その顔は無数の顔の中に埋もれ、そして無くなる。 かすかな痛み。 痛みの意味は分からない。   それは無数の僕の一つの記憶。 すでに過ぎ去った記憶。        僕の中に僕がいた。 生涯を正義に捧げた僕がいた。 愛に生きた僕がいた。 子を育てあげた僕がいた。 みじめに暮らし、ひとりっきりで死んだ僕がいた。 言葉にできない残虐な楽しみにおぼれた僕がいた。   ヒトという種のありとあらゆる体験が僕の中にあり、そのすべてが僕のものだった。           僕は僕のまま僕を愛し犯し殺し僕僕は僕僕僕に愛されながら僕僕僕僕を犯し僕僕僕僕は僕僕僕僕を殺し殺し殺し僕僕僕僕は僕僕僕僕僕僕僕僕僕僕僕僕僕僕──。     十分だ! すべての僕が叫ぶ。 もういい!   僕は僕であることに満足した。 これ以上の僕はなくこれ以下の僕はない。 今の僕が僕の全部で、すべてだ。 他に望むものはない。 時よ、止まれ。 おまえは美しい。 もう終わりだ。 終われ。           そう、叫んだ。 そうして僕は全き闇の中に溶け。 そのままそれっきり──。  全き闇。 その中に、かすかな違和感。  尖った光。 ……なんだ、あれは。  そう思うからには心があり。 見えるからには目がある。  目だけの僕は、それを見つめた。  それは、七色に光る傘に似ていた。 「──ごきげんよう」 「──僕は。死んだのか?」  声は静かに響く。 傘の主は、かすかに首を振る。 「──まだです」 「──これから死ぬのか?」 「──ええ。いつかは。誰もが」 「──迎えに来てくれたのか?」 「──いいえ」  女は、かすかに首を振った。 「──話しにくいですね」  くるくると傘が回る。 傘からこぼれた七色の粒が僕を包む。  体が。 手足が現れる。 すべてがより、くっきりと見え始める。  瞬きした時には。  僕は、銀色の小道に立っていた。 「これで、いいでしょう」  「ありがとう」   僕は、頭を下げた。 彼女と歩く、この小道には、どこか見覚えがあった。 だが思い出せない。 「それで……僕を迎えに来たのですか?」   少女は小首をかしげ、そして、うなずいた。  「それは、あなたが決めることです」  「僕が?」  「はい」   ゆるやかな沈黙。 僕らは、無言で銀色の小道を歩く。 足下で砂が、かそけき音を立てた。 「そもそも、ここはどこですか?」   少女は首を傾げる。 そのままずっと傾げていたので、僕は肩をすくめた。 「僕が、どうなったか、教えていただけますか?」  「あなたはメルクリアーリ神父に斬られました」  「ええ」  「そして、闇の聖母に喰われた」   僕は、メルクリアーリ神父のそばにたたずむ、あの少年を思い出す。 神父は闇を少年から取り出した。 ならば、あれが、闇の聖母か。 「喰われて、どうなったんですか?」  「中へ入りました」   僕は軽くうなずく。 あの闇は、闇の聖母の中へつながっていたわけか。 闇の中で。 僕は無数の人間の記憶と出会った。 それは僕という人格と記憶を飽和させた。 「僕は……消化されている最中というわけですか?」   少女は、こくりとうなずいた。  「その中で、あなたは時間が無いを望みました」  「忙しいということ?」  「いいえ。時間が無い、流れないことです」  ああ。そうだったかもしれない。 変化を求めることが人の欲望であるならば。 僕は、あそこですべての欲望を満たされた。 無数の人生を味わい、これ以上は必要ないと思った。願った。 「時間が無い……全く変化がないなら、それは死んだということですか? だから、あなたが来たんですか?」   少女は、軽く首を振る。  「時間が無くても死にはしません。 ただ……命がないだけです」  「どう違うのですか?」  「ずっと、あそこにいるか。 私と一緒に来るか、ですよ」  僕は、少女にうなずいた。 あそこには何もない。空っぽだ。 ただ、過去の記憶があるだけに過ぎない。 僕は、少女と歩くことを、ほとんど決心しかけていた。   その時だ。  僕の耳に、小さな声が聞こえた気がした。 それはとても小さな声で。 けれども、どうしても聞き過ごせない声。 太陽よりも温かく、海よりも深い。 そんな声。   僕は、ふと思い立って聞いた。 「あの……僕の前に、ここに来た人っていませんでしたか?」   少女はうなずく。  「ずいぶん長生きな人なんですけど」  「ええ」  「その人は……もう?」 「いいえ」   少女は首を振った。 なるほど。 では、答えは一つだ。 「克綺さんは、どうしますか?」  「残ります」  「そうですか」   少女は生真面目な顔でうなずいた。 「またお会いします……。  それでは、また」   くるくると傘が回る。 少女が、風景が七色の粒に変わる。      再び僕は闇の中に放り込まれた。 今度は勝手が分かっている。   僕は、(ありもしない)手足を踏ん張って、(不在の)目を見開いた。 唇を噛んで、襲い来る闇の圧力を受け止める。   それは山を支えるのに似ていた。 圧倒的な圧力が、みるみるうちに僕を押しつぶすのが分かる。      残り時間は少ない。   僕は全身を耳にする。 それは幽かな歌声だった。  「……私はあなたを覚えています」   声。 声の記憶に僕はしがみついた。         「夕暮れの中、一人だけ。 みんなみんな、消えてゆきます。茜の中に」  「呼び返す声に、返事がなくても」  「私はあなたを覚えています」        誰かが。僕を。覚えている。 僕は僕僕ではなく僕僕僕でもない。僕は僕で。 その僕とは    「克綺クン」  あまりにも懐かしいその声に、涙さえ出た。 「管理人さん!」  僕は叫んで、腕の中に飛び込んだ。  夜。 気がつけばそこには天地があり、僕……九門克綺は五体が揃っていた。 一面の星空の元、僕は管理人さんの腕に抱かれて安らいでいる。 「克綺クン、もう大丈夫?」  温かく安らかな気持ち。 ほとんど眠気に近い安心感。 僕は、こっくりとうなずいた。 「ここは……どこですか?」  「闇の聖母の中よ」   つまり。 まだ外には出ていない。 ここは管理人さんの中の心だ。 その証拠に。ほら。  背後には、あのメゾンが。 未だ焼けこげずに建っていた。  メゾンと門。庭。 その向こうには……あの黒々とした闇が広がっていて。 見つめるだけで僕は引き込まれそうになる。 「危ないわよ、克綺クン」   管理人さんの手が、そっと頬に触れて僕は正気に返る。  「ありがとう」   そうか。 今、僕が僕でいられるのは管理人さんの心に護られているからだ。 管理人さんが僕を僕だと知っているからだ。 「お礼なんて……克綺クンまで巻き込んで本当に、ごめんなさいね」  「いえ」   僕は首を振る。  「僕が自分で選んだことです。 管理人さんを一人で戦わせたくない、と」   その結果はさっきのざまだったわけだが。 「ありがとう、克綺クン。私、嬉しいわ」   まじまじと微笑まれて、僕は、視線をそらした。 外の闇……黒い混沌が目に入る。  「管理人さんは、あれ、平気なんですか?」  「私? 平気よ」   声は優しく。 けれども、少しだけ性急すぎた。 心配をかけまいという声。 「嘘だ。本当のことを言ってください」  「……すこし、つらいかな。 でも、少しだけだから」   管理人さんは、優しく微笑んだ。 微笑みという仮面。 その奥にこの人は何を宿しているのだろう。  「どうして……どうして耐えられるんですか?」   管理人さんは、少しだけ困った顔をした。 「そうね……克綺クンがしてくれた質問、覚えてる?」  「質問?」  「他の生き方があったらどうするって聞いてくれたじゃない」   ああ、そんなことを確かに聞いた。 ここ。この闇の中では。 人間は、どんな生き方も体感することができる。 「今日、ここで分かったの。 やっぱり私は私だって」  「そんな……」  「他に何があっても。 私は私の仕事をするだけ。 簡単でしょ?」   簡単なものか。  「大変じゃ、ありませんか?」  「だから、やりがいがあるのよ」  管理人さんの微笑み。 その疑いのなさ。迷いのなさは。 機械故のものかもしれない。 人としての多様性を欠いた反応なのかもしれない。 あるいは。 数千年の歳月を、ただ一つの想いのために捧げた者だけが保ちうる結論なのかもしれない。   どっちでもいい。 どっちも僕には分からない。 分からないけれど。 分からないままに。 愛することはできる。 「克綺クン。泣いてるの?」  「いえ……」   言葉は喉に絡まった。  「嬉しいだけです」   嬉しいだけ。 なぜ嬉しいのかは分からなかったけれど。 僕は極めて非論理的に嬉しさを感じていた。 「外では、何があったの?」   管理人さんの言葉に応えて、僕は、今までの話をする。  「……そう。恵ちゃんが」   気遣うような声に僕は応える。  「生きていて、よかったと思います」   それが、たとえ人の血を吸うものだとしても。 「あら、元気あるのね」  「ええ。 生きていれば何とかなりますから」  「そうね。ほんとうにそうね」   うきうきとうなずく。 「それで、克綺クンはどうするの?」  「どうするって?」  「ここで……一緒に暮らすこともできるわ」   僕は笑って首を振った。 「外に出る方法が、あるんですね?」   管理人さんが真顔でうなずく。  「もう一度、あそこをつっきることになるけれど」   その指が門の外の闇を指す。  「大丈夫です」  「空を見て」  管理人さんは夜空を指した。 頭上に輝く星は、都会の空のものではなかった。 見慣れた星座は一つもなく。 全天を満たす星々は、その一つ一つが色とりどりに輝いていた。   大きい星もある。 小さい星もある。 星は時に消え失せ。 また生まれている。 「なんだか……懐かしい気がする」  「それは、どの星?」  「あれ」   管理人さんに言われて僕は天の一角を指さす。   それは物静かに紫に輝く小さな星。 「あれが何だかわかる?」  「星じゃないのか?」  「もっとよく見て」   言われるままに目を凝らす。 星は星のまま変わらないが、胸に広がる懐かしさは大きくなる。 この暖かさ。 この喜びは。 「めぐみ?」  「ええ。あれが、恵ちゃんの星ね」   管理人さんはうなずいた。  「あれが……」   目をつぶり、星の光を浴びる。 胸に満つる懐かしさ。愛しさ。 そしてかすかな不安。 この気持ちは……確かに恵だ。 「人は誰も人とつながってるの。 克綺クンは特別多くの人とつながっているんだけれど……」   僕はうなずく。 イグニスという女が確かそんなことを言っていたな。 「さぁ、行きましょう」  ゆっくりと僕らは小道を歩く。 それは、管理人さんのメゾンに続く、あの小道に似ていた。  かすかに上向きの道を、僕らは、ゆっくりと夜空に向けて歩いていく。  小さな礼拝堂は荒れ果てていた。 嵐が通り抜けたかのように、椅子は引き倒され、木っ端が飛び散っている。 男は丹念に、それを直していた。  まだ夜だ。 いやずっと夜だ。 だから時間はある。  そう思うと男の顔に微笑みが表れた。 それは、男が得たもっとも安らぎに近い気持ち。 「邪魔するぞ」  扉が開く。 星明かりを背に受けて、女が現れた。 「おや、こんな夜遅くどうしました?」  「茶番はいい」  「主の家の扉は常に開かれております」   メルクリアーリはそう言って笑った。 「何の用ですか、イグニス?」  「克綺はどうした?」  「闇の聖母の中に」   メルクリアーリは肩をすくめた。 「お気に召しませんでしたか?」  「当たり前だ」  イグニスは、椅子の一つに、腰を預ける。  「私はストラスとは違います。 世直しするつもりはありませんよ。 ただ……ささやかな領土を広げただけでね」  「ささやかね」   女は皮肉げに笑う。 「で、何の用ですか?」  「野次馬、見物人というところだな」  「それは残念。 見所はもう終わってますよ」  「……そうとは限らん」   イグニスは、メルクリアーリのそばに目をやる。 「まさか、あの中から現れるとでも?」  「なんなら賭けてもいいぞ。 九門克綺が生還したら、私の勝ちだ。 素直に狩られてくれる、というのでどうだ?」  「私が勝ったら? ……いえ、やめておきましょう。 賭け事は性に合わない」  「つまらんやつだ」  イグニスは笑う。 闇の聖母の仮面のごとき顔。   そこに、かすかな表情が浮かんだ。  道の終わりは、唐突に現れた。  目の前に広がるのが、ある種の実在なのか、それとも僕の心象風景を反映したものなのか、それは分からない。  ともかく目に見えるのは、巨大な門だった。  門の上は空よりも高く。 門の左右は地平線の向こうに消えている。 それほどに巨大な鉄の扉。  門の前には少年が立っていた。 メルクリアーリのそばで見かけた、あの少年。 おそらくは……闇の聖母。   少年の体からは、無数の黄金の鎖が伸び、それは幾重にも門を綴じていた。 「道をあけて欲しい」   僕は少年に呼びかける。 少年は無言で首を振った。  「僕は、その向こうに行かなくちゃいけない。 どいてくれないか?」   少年は、またしても首を振る。  僕は小さく息を吸って心臓の鼓動を感じる。 この「中」では、魔力は使えるのだろうか?   果たして、心を集中しても、掌に水は生じなかった。 「克綺クン」   管理人さんが僕の腕をとり、首を振った。  「ですが……ここを通らないと」  「私に任せて」  管理人さんは、つかつかと少年の元に歩む。 「門を開けなさい」   少年はかたくなに首を振る。  「なぜ開けないの?」   少年は口を開かなかった。 声は響かなかった。 けれど。 何かが僕の胸に響く。 それは言葉だった。 たった一言。 「──死」  「克綺クンは死なせない」   その言葉はこの世の何よりも強く。 少年は、やがてうなずいた。  黄金色の鎖がしゅるしゅると音を立てて少年の中に戻ってゆく。 少年は、門に向き直ると、その両手を鉄扉につけた。 「さ、行きましょ」  管理人さんが僕を抱きしめる。 動けないほど強く。 胸の中に。 「管理人さん?」  声をかけた瞬間。 鉄の門が開いた。  次の瞬間。 僕は、紅蓮の炎の中にいた。 当たり一面は朱に染まり、炎は轟々と燃えさかる。 「行くわよ」  管理人さんが僕を抱きしめていなければ。 僕は。僕という心は一瞬で焼けこげていただろう。 ……死ぬわけだ。  門の外にあるのは現実の世界。 そこから差し込んだのは、たった一筋の暗い光。  けれど門をくぐった僕らにはカタチがない。 カタチがないものには、そんな光の一箭さえもが身を貫く業火となる。  そんな理屈を知ったのは、もっとずっとあとの話。 僕は、ただ、炎の中で目をつぶり、全身を固くして縮こまっていた。 「安心して。克綺クン。絶対にここから出してあげる」  業火が声をかきけす。 それでも管理人さんの声は。 その想いだけは僕の耳に届く。  痛いほどに抱きしめられて胸に顔を埋めたまま。 僕は歩いた。  一歩歩くごとに炎は勢いを増し、耐え難くなる。 ありもしないうなじを炎が焼き、僕は動けなくなる。  僕は痛みに泣き叫んだ。 けれど管理人さんは歩みを止めない。  鋼鉄のような腕に僕を抱き留めたまま。 一歩。また一歩と足をひきずる。  そうして何歩歩いたことだろう。 炎はいよいよ耐え難く。 僕の意識が苦痛に塗りつぶされた時。 唐突に声が響いた。 「克綺クン。歩いて」  かぼそい声に、僕は、おそるおそる目を開ける。  管理人さんが、そこにいた。  炎は管理人さんを焼いていた。 足はすでに焦げ落ち。 僕を抱きしめた両腕は溶け合って一本の棒となり。 それでも管理人さんは、その背で炎を防いでいた。  炎の中。 管理人さんが微笑む。  ──大丈夫よね。克綺クンなら。  声にならない声。 僕は、うなずいた。 歯を食いしばり、意識を塗りつぶす熱さを忘れる。  そうして一歩を踏み出した。  業火にあって眼前は暗く。 耐え難い熱さの果てには冷たささえあると知った。  燃え尽きる。 何もかもが燃え尽きる。  いや。 僕はまだ燃えていない。 燃えているのは……管理人さんだ。  燃え尽きてなお。 管理人さんは、灰になって僕を包む。  黒い灰が、僕の中にしみ通ってゆく。 僕の中に入ってゆく。  心は体に思いを刻み、刻まれた想いが灰となる。 僕の吸い込む灰の一粒一粒に、その思いが宿っていた。   それは、一個の人形の物語。 まだ夜が暗かった頃の、お話。   それは、この世で最も古き祈り。 夜、眠る赤子の顔を見る母の、ささやかな願い。   ──この子が、明日を迎えられますように。   布と骨。 それをヒトのカタチに織りなした、粗末な形代。 それが、彼女だった。      母から子へ。そしてそのまた子へ。 受け継がれる内に、形代は目覚めた。 地上のすべての幼子に、明日を与えるために、それは目覚めた。   生まれた「それ」は、弱かった。 粗末な人形には手足はあれども爪も牙もなく。 赤子を護るには力が足りなかった。   最初の千年、「それ」は、力を乞うた。 無数の母たちを訪ね、古のまじないを己が骨に刻む。 無数の父たちを訪ね、鋭く鍛えた武具を身のうちに埋め込む。   そうして、「それ」は、力を得た。 無数の化け物を狩って、狩って、狩り尽くした。 負けて倒れず勝てば力を増し、やがてそれは、地上に敵を無くした。   まとった薄衣は朱に染まり。 肉をえぐり骨を砕く内に、両手は鋼鉄となった。 顔は白く固い仮面となり、あたり一面に、畏れと恐れを撒き散らした。      ふと気づくと。 「それ」の周りに、子供の姿はなかった。   赤子は「それ」が近づくと泣くこともできずに顔を白くし、幼子は、危うい足取りで逃げ出した。   けれども「それ」は、その意味に気づかなかった。   気づいたのはある日のこと。 敵は、死体を遣わす汚れた術者。 己の心臓を器に封じてかりそめの不死を得たもの。 負ける気遣いはないが、ただ手間はかかった。 右手に赤子を庇い、左手を槍に変え。 腐汁にまみれ、汚れた肉と骨を華のように散らし、一晩の間、戦い抜いた。 ようやっと封じの器を砕いて日が昇った時には。   赤子が、事切れていた。   人というのは。恐怖によっても死ぬものだと。 「それ」は、その時、学んだ。   次の千年。 それは「こころ」を学んだ。   「こころ」というのは、とらえどころがなく、目でも見えず、指でも触れられぬ。 身をさいなめば、「こころ」も砕けるが、身を養っても「こころ」が無事とは限らない。 なにより。 「それ」は、近づくだけで赤子を追いつめ、幼子を泣かした。 「それ」は、ただいるだけで「こころ」を痛めるのだ。   故に。 「こころ」を学ぶには時間がかかった。   知れば知るほど、「それ」は、とまどった。 ひとのからだは、ひたすらに脆く、その「こころ」は、なお儚かった。 それは、風前の灯火に似て。 殺す力、狩る力、潰す力では、護るには至れない。   それは、「こころ」を護る力を欲した。 否。それは力であって力でない。   泣きじゃくる子の涙を受け止める。 夢に怯える子に笑顔を与える。 立ちすくむ子の背を、そっと押す。   それは、そんな力を望んだのだ。   まずはじめに、「それ」は、己の本分に立ち返り、人を真似た。 ほほえむための仮面を創り。 抱きしめるための柔らかな腕を、こねあげた。   それでも「こころ」は、つかめなかった。   「それ」は、子をあやす母をみつめ、その真似をした。 やさしい言葉をかけ、傷つけぬように触れた。   それでも「こころ」は、つかめなかった。   いくら学んでも答えはなく。 そうする内に、千年が過ぎた。   次の千年。 それが学んだのは「ほろび」だった。 「それ」が「こころ」を学ぶうち。 ゆっくりと。ゆっくりとヒトは力をつけていた。 人外の民は闇の中、昔語りの中に退き、炉端の火のそばで笑われるものに成り下がった。   ゆっくりと。ゆっくりとヒトは豊かになった。 もはや狼が子らを引くことはなかった。 食うに困ることも減った。 はやり病さえも忘れられた。 言うなれば。 ヒトは、「死」を忘れた。   奇妙なことに。 ヒトが豊かさを得て、死を忘れるほどに。 ヒトは「こころ」を忘れるようだった。 母は母たることを忘れ。 父は父たることを忘れ。 望まれぬ子が生まれ。 生まれた子は、ただ、死なないからという理由で育つようになった。   かつて。 母たちは、毎夜「それ」に祈った。 けれど。 気がつけば。 「それ」を呼ぶ声は失せていた。   「それ」は、望まれるが故にある。 そういうものであった。   故に。 ヒトに忘れられた「それ」は、ゆっくりと、すりきれはじめた。 風が石を削るように。 ゆっくりと。毎日。 それは、ほろびに近づいた。   「それ」は、「死」を知ったのだ。   それが、すべてのはじまりだった。 「死」を知ることで。 それはすこしずつ「こころ」に近づいた。 「それ」は、日々の短さを想い、はじめて焦りを知った。 「それ」は、己が消えたあとの子らを想い、はじめて不安を知った。 そのようにして、ゆっくりと「それ」は、「こころ」を学んだ。   「死」が忘れ去られた時代の中で。 「それ」は、子を護り、慈しみ、育てた。 ヒトの子も。人にあらざる子も。 もはや「それ」は区別しなかった。    そのようにして、千年が過ぎ、「それ」の寿命が近づいたある日。 地上に、一人の御子が現れた。   御子とは、ヒトの総意を背負い、時代を変えるもの。 「それ」は、御子を護ることに決めた。   これが最期になる。 「それ」は、そう悟っていた。    「──それが、僕?」  「──ええ、そうよ。だからほんとうはね。 克綺クンと恵ちゃんのことは、子供の頃から知ってたの」  「──そうなんだ」  「──ごめんなさいね、言わなくて」   僕は心の中で首を振る。 それよりも。    「──管理人さんの寿命って……」  「──もうすぐよ」   声には、まるで暗いところがなく。 さりとて死を待ち望んでいる様子はなく。  「──内緒にしててごめんなさいね」   僕は再び首を振る。    「──そんなのはいやだ」   意味のない希望。無責任な言葉。 すなわち駄々。 僕は子供のように無理を言う。  「──泣かないで」   胸の中に悲しみがつかえた。 涙は、こぼれる前に、炎の中で燃え尽きた。    「──僕は。僕たちは。ひどいことをした」   あなたという存在を作り。忘れ。捨てた。 どれほど恨まれても。あるいは軽蔑されても。 仕方がないことをした。 それなのにあなたは。   ずっと忘れなかった。 僕たちを助けてくれた。    「──克綺クン。私は嬉しいのよ」   ゆっくりと穏やかな声がする。  「──どうして!」   どうしてだ。 これ以上の理不尽はない。 僕たちはあなたを虐げ続け、そのことすら忘れるというのに。    「──それはね。子が育つのを喜ばない親はいないからよ」  「──子は、育つ内に親を忘れるものよ。 親のことなんか忘れていいの。そうして強く旅立てばいい。 ヒトが、私をいらないのは、それだけ大人になったということよ」  「──でも」   忘れてはいけない。 忘れていいわけはない。    「──だいじょうぶ。克綺クンは、私がいなくても平気よ」  「──だって」   ずっと、そこにいるものだと思っていた。 今日も明日も。ずっと。 それなのに。 そして僕は気づく。 声が衰えている。 薄れている。 僕をつかむ腕さえも細り始めている。    「──さ、立って。涙を拭いて」   今。 泣いてはいけない。 僕には、そのことだけが分かった。 胸の中の何もかもを一瞬だけ呑み込んで。 僕は、うなずいた。         「──いってらっしゃい。克綺クン」  それっきり。 声は。 途絶えた。 「どうだ?」  「どうやら、賭は、私の負けですね」   メルクリアーリは、傍らの少年を気遣わしげに見つめた。 少年が広げた両手の間の闇。 その闇の奥に、かすかに光るものがあった。   全く闇に光る星。 それが何なのかは、もうわかっていた。 「で、どうするつもりだ?」   メルクリアーリは小さく息を吐く。  「……もう一度。 来たところに送り返すまでですよ」  「そうか。勝手にしろ」  イグニスは、ふらりと席を立つ。  「どうされますか?」  「帰る。巻き込まれたくはないからな」   女は短く応えた。  「では、ごきげんよう」  「地獄へ堕ちろ」  挨拶のようにそう言ってイグニスは礼拝堂の扉をくぐった。  扉が閉まるのを待って、メルクリアーリは苦笑を収めた。  闇が大きくなる。 ゆっくりと何かが生まれつつある。 青白い炎が形を取る。 それは。 「おかえりなさい。九門君」  メルクリアーリは、呼びかけた。  涙は押さえたつもりだった。 悲しみは呑み込んだつもりだった。 けれど。  外に出ていれば。 目は泣きはらして赤く。 嗚咽は止まらなかった。 「おかえりなさい、九門君」  誰かの声がする。 息を吸う。 嗚咽を抑える。  僕は夜の中で裸だった。  宙から制服を取り出して、身にまとう。 「……まさか、抜けてくるとは思いませんでしたよ」   目の前の男、メルクリアーリの声が、少しずつ頭に入る。 そうか。 僕の中で、ゆっくりと状況が整理される。  「メルクリアーリ先生」  「やれやれ。それのおかげですか。 これは失敗だった」  言われて僕は気づく。 僕の握っているのは。   あの管理人さんの象牙色の腕だった。   それは今や、焼けこげ、ひび割れ、僕の手の中で砂になる。  さらさらと砂がこぼれ、こぼれきったあとに芯が残った。 それは、ひどく小さな人形だった。 古の文字が刻まれた骨。 それで手足を作り、荒い藁の着物が着せてある。   あの時、見た通りの。 管理人さん。 その最初の姿。   涙がこぼれそうになり、僕は喉の奥に力を入れる。 「気まずい再会ではありますが……私としては、もう一度、同じことをするしかありません」   メルクリアーリは、少年の中から闇の剣を引き抜く。  「九門君。九門君。聞いてますか?」   僕は、焼け付いた喉から、声を絞り出す。 「よせ」  「遺憾ながらそうはいきません。 私は……人外の民は、生きねばならないのです!」  「あなたでは、勝てない」  「はっ。たいした自信だ」  神父は床を蹴った。 その足取りに、必死の決意が見て取れた。  僕の体に魔力はなかった。 あの門をくぐる時に枯渇し尽くしたらしい。 いずれ回復するかもしれないが、今は無理だ。  だが問題ない。 僕は右手で人形を抱いたまま地を蹴る。  神父の一撃。 今なら、その鋭さがよくわかる。  振り抜く腕には力があり、かつ、正中線はぶれていない。 全身の力を的確に腕に伝え、その先端が、宙をえぐる。  触れれば食われる闇。 けれど、振る腕は一本しかない。  僕は、剣の一撃をやすやすとかいくぐり、その腕を取った。 「……っ!」  神父の驚愕の表情を見ながら、僕は神父を、ねじり倒す。 「あなたでは勝てない」  僕は繰り返す。 「なら、これではどうですか?」  剣が吼えた。 メルクリアーリの一撃が空間を切り裂く。 轟と音を立てて空気が吸われる。風が吹く。  僕は風に身を任せる。 吸い込まれるように見せて、闇の亀裂の寸前で宙に舞い、メルクリアーリの背後に飛ぶ。 「接近戦ですか」  メルクリアーリは剣を振るい、僕は拳で迎え撃った。 懐に入れば長剣は無用の長物。 とはならなかった。   剣の切っ先は、鞭のように。 否、生き物のようにねじ曲がり、僕を襲う。  メルクリアーリが振るのは剣だけではない。   逆の手も。肘も膝も踵も。 あらゆる部位が僕を襲う。   ……だが、遅い。  僕は二つの拳で、メルクリアーリの腕と足を捌いていた。  駄目押しに、心臓の真上(夜闇の民の数少ない急所だ)に肘を打ち込む。  壁まで吹っ飛ばした。  所詮は魔力のない人の拳。 効いてはいまい。 だが、少しでも思いとどまってくれれば。 「驚いた」  メルクリアーリは軽く立ち上がり、埃を払った。  「いつの間に腕を磨いたんです?」  「僕じゃないです」  「え?」  「管理人さんです」   僕の中には管理人さんの記憶があった。 それは千年かけて磨いた殺しの技であり。 いかなる人外をも滅する知識の蓄積だった。 「なるほど」   メルクリアーリは疲れた声で、剣先を下げた。  「あれを受け継いだというのですか」  「はい」   彼にしてみれば理不尽このうえないことだろう。不公平の極みだろう。 だが、それはそういうものだ。 「それでは確かに。 私に勝てる気遣いはない」   メルクリアーリは両手をあげた。 その手から闇が、消える。  「どうしますか?」  「負ける戦は無意味でしょう」   神父は悲しげに眉をよせた。 「私は……夜闇の民は滅びるわけにはいかないのですから」   神父が軽く手を振ると、背後で扉が開く音がした。 男の足音。 何かを背負っている重い響き。  「人質、ですか?」   僕は振り返らずに言った。  「いえ」   男の足音が近づく。 「こちらを」   僕は、田中から恵を受け取る。  「これを、どうぞ」  メルクリアーリは、一個の宝石を放る。 翡翠色の曲玉だ。  「これは?」  「生玉といいます。 身につければ、彼女も人としての生活ができる」  「……貴重なものではないんですか?」  「夜闇の民の誠意と考えてください」 「あなたは……先生はこれからどうするんです?」  「外に行きましょうか」  メルクリアーリは、そう言って、ふわりと歩き出す。  僕は、恵を椅子に寝かせて、その後につく。  闇に沈んだ校庭。 冷たい空気を僕は胸一杯に吸う。 「九門君は、この街をどう思いますか?」  「客観評価ですか、主観評価ですか?」  「どちらでも」  「……今日という日が終われば、客観評価はずいぶん下がるでしょうね」  「確かに」   神父は微笑んだ。 「私は、この街が、結構、気に入っているのですよ」  「そうですか」  「今日の夜より前から、闇の聖母の結界は、この街を薄く覆っていました。 人外の民には住みやすい街ですよ」 「人知れず人間が死んでいるということですね」   死体が見つからなければ殺人事件にはならない。 闇の聖母の情報を遮断する力は、事件の隠蔽には都合がいいだろう。  「ええ。適切な手順さえ踏めばね」   神父はうなずく。 責める気にはなれなかった。 「私が、日の光を浴びられるのも、そのおかげです。 この校舎の中でだけですがね」  「そうですか」   僕はしばらく考える。 「街は元に戻るわけですね」   人外は闇に隠れ、人を襲い、その事件は人知れず葬られる。  「そうはいきません」   神父は首を振った。  「なぜですか?」  「闇の聖母にも、寿命が近づいている」   神父の声が、夜を渡った。 「寿命?」  「ええ。 あれも、人に見捨てられて久しい。 十年先か二十年先か。 あるいは来月か明日か。 いずれ、消える。 そうなれば……この街も、ひどく住みにくくなる」 「そうしたら、どうするつもりですか?」  「先のことはわかりません。 わだつみの民のように、狂い果てて人を襲うかもしれませんし……あるいは」   続きを待ったが、神父は口を閉ざしたままだった。 「九門君。日が昇りますよ」  神父が指さした先。 空が赤く染まっていた。  朝日の先端が見える。 紅い光の矢が僕らの足をなでる。  その時。 耳元で耳障りな音がした。 振り返れば。  メルクリアーリ神父が燃えていた。 「先生!」  光が触れた足から神父は炎を発していた。 炎は徐々に体へ登り、やがて顔までも覆う。 常の炎ではない。 服は焼かず、ただ、その肌から立ち上る紅蓮の炎。 「大丈夫です」  メルクリアーリが口を開くと、炎がこぼれた。 無論のこと大丈夫には見えない。 「行きましょう」  僕は、燃え上がる神父の腕を取る。 炎は僕の手を傷つけず、それはまるで幻のようだった。 「ああ、ありがとう九門君」  ささやくような声。 僕らは、礼拝堂に向かって歩き出す。 「なぜ……」 「日光浴ですよ、日光浴。 あぁ、ここでいいです」  神父は礼拝堂の前に立って、そう言った。 「九門君には覚えていてほしい」 「何ですか?」  神父は扉を押した。 指は焼けこげ、ほとんど骨が見えていた。 「我々が生きるというのは、こういうことです」  その言葉を残して、神父は倒れ込むように礼拝堂の中へ消えていった。  僕は、礼拝堂の扉の前に立ちつくした。 日は、ゆっくりと昇っていた。 暖かな感触が頬を伝い、僕は眠気を感じる。  ──我々が生きるというのは、こういうことです。  人外の生き様。 苛烈な日に身を焼かれ、夜の闇の中でのみ息をつく。 生まれながらに帯びた日陰の運命。  一方の僕は、朝日の中で、のうのうとあくびをしている。 人に生まれたというそれだけで。 日射しを謳歌する。 僕は腕の中の人形に目をやる。  管理人さん。 夜の闇の中で、誰にも知られず人のために戦い続けた彼女。 それもまた、一つの不条理だ。 「なぜだろう」  ひどく子供っぽい、あるいは根源的な疑問。 「なにが、なぜなのですか?」  くるくると傘が回る。  「不公平と不条理。 どうして、こんなにも差があるのだろう」  「不公平、ですか?」  「あるさ。 生まれてすぐ死ぬ人がいる。 長生きする人もいる。 生きるためだけに闇の中で苦しむ人もいる。 何一つ不自由なく、怠惰に時間を潰す人がいる」 「……私は公平ですよ」   真面目な顔で、そう言われて、僕は苦笑した。  「そうかもしれない。 今日は仕事?」  「はい。それをいただきに」   少女が手を差し出す。 その手にのせるべきは、ちっぽけな人形。 僕は少女に人形を渡した。  少女は赤子を抱くように人形を受け取った。 その背を優しく叩くと、人形の輪郭が溶けた。  朝靄の中に、薄く、管理人さんの姿が現れる。   管理人さんは、少女を見て、深々とお辞儀をした。   話しかける声までは聞こえなかった。  少女が応える。   二人は手をつないだまま、ゆっくりと歩き始めた。  管理人さんが、最後に一度だけ、僕のほうを振り返った。 いつもの笑顔とは違う。  遠い旅に出る時の顔。 少女のような、興奮と期待、そして、わずかな不安に満ちた顔。  僕に向かって、何か、ささやいた。 唇は読めなかったけど、何を言ってるのかは見当がついた。 「さようなら、管理人さん」  僕も、ささやき返す。  登る朝日に向かって、二人は歩いてゆく。 七色の傘に朝日がぶつかると、光の砂となってきらきらと散った。 散った砂は天に昇る道となり、二人はその上を歩いてゆく。  管理人さんは、何度も少女にたずねている。 少女は、そのたびに、簡単な答えを口にする。  二人の影が朝日に重なると、僕の目ではまぶしすぎて見えなくなった。 それでもしばらく僕は、そこに立っていた。  去ってみると、それは夢のようで。 いや、きっと夢だったのだろう。 校庭には足跡一つなかった。  目をつぶり、開く。 もう、僕は、彼女の顔さえ思い出せない。 ただ、くるくると回る傘だけが残る。  ──私は公平ですよ。  夢の中で、彼女はそう言った。  どんな悲惨な死でも。 どんなに報われぬ死でも。 どんなに孤独な死でも。 そのすべてを彼女が看取るのなら。 それは、少しだけ嬉しいことだ。  夢だとすれば、これはいい夢だろう。  僕は、立ち上がってのびをすると、恵を迎えに歩き出した。        「拝啓            お兄ちゃん、お元気ですか?          私はもちろん元気です。       もうすぐ、あれから一年ですね。 なんだか、長いような、短いような。 ちょっと不思議な気持ちです。   こっちでも一年間、いろんなことがあったはずなのに、お兄ちゃんと過ごした日にくらべると、なんだかちょっと味気ない気がします。   今思い返してみると、日本であったことは、やっぱりなんだか夢みたいですね。       学校を卒業したら、私は約束通り、日本に帰ります。   お兄ちゃんの新しい家は、広いですか?   ふたりで暮らせる部屋かなぁ?   前みたいに、同じアパートで暮らすのもいいんだけど、そんな都合のいいことってあんまりないと思うし、やっぱり引っ越さなきゃならないかもしれません。 ちゃんと、掃除しておいてね。     たくさんたくさん、話したいことはあるんだけれども、この手紙に書くと何十枚も使ってしまうので、来週までとっておきます。 私が着いたら、覚悟しておいてください。   お兄ちゃんも、一年間の出来事、私に教えてください。 隠し事なんてしたら、許さないからね。   それと、一年前もそうだったけど、お兄ちゃんは、ちょっと自分のことを考えなさすぎです。   みんな、周りの人は心配してるんだから、あまり無茶なことはしないでください。          引っ越しの荷物とかがあるので、空港まで迎えに来てくれるとうれしいな。   それでは、一緒に暮らせる日を、楽しみにしています。                                     敬具」  恵の几帳面な文字に、砂埃が舞った。  日本に届いた日付は一ヶ月前。 僕の手元に届いたのは、ついさっき。  元の住所に届いた手紙を、峰雪がわざわざ転送してくれている。 だからまだ、恵は僕が日本にいると思っているはずだ。  手紙をポケットにしまいながら、僕は顔を上げる。  僕はもちろん、恵との約束を守りたい。 けれどもすぐには、戻れない。 理由がある。  魔力を失って、もう水を操ることすらできないけれども、僕は戦う術を知っている。  人外は徐々に力を失っていくというけれども、子供の声が泣きやむ気配は感じられなかった。  僕は、管理人さんの意志を継ぐ。 幼子の夢を守る。 そのために、僕は、戦わなければならない。  それは吹けば飛ぶような村だった。 先祖代々受け継いだ土地は、いまや紛争地帯の真ん中に位置し、民族解放という名の内乱に翻弄される。  国境もひけないほど入り組んだ地図に、載ることもないほどの小さな点。 明日消えたところで、誰も気づかないほどの村。  その日の夜は、ことのほか暗かった。  停電だけが理由ではない。夜に明かりをつける習慣は、この村にはない。 暗雲だけが理由ではない。この季節、星一つない闇夜は、珍しくない。 政情だけが理由ではない。この貧しい村を奇襲する必要はどこにもない。 兵士達は昼に現れる。  村人が、夜に休らうことができない理由。 それは歌だった。  村境の奥から響く、歌。 それは獣の遠吠えにも似て、決して人には出せない声でありながら、まごうことなき歌だった。  噂には聞いていた。 一夜にして消えた村。 その数々。  辺境の村である。 村が消えることは珍しくない。  強制連行。 徴発。 戦火に煽られて消えた村は、後を絶たない。 一人も残さず、便りもなく、気づいたら消されていた村さえ珍しくはない。  壁に残る弾痕。 焼けこげた家々。 蹂躙された倉庫。 そして、死体。  だが、聞こえて来た噂はそんなものではなかった。  人だけが消えた空っぽの村。 弾痕の一つ、血の一滴すらもなく、家々の形をそのままに、ただ消え去った村。  歌が聞こえた、という。 ただの噂だ。 根も葉もない噂だ。  第一。 一人残らず消えた村に響いた歌を、誰が聴いたのか。  そして今夜。 暗い村に歌が響いていた。  ――約束に、間に合えばいいが。  呟いて、暗闇に身を躍らせる。 首にかけた、小さな歯車をしっかり握りしめながら。        その日。 小さな村の小さな小屋。 その粗末な寝床で、兄と妹は一心に祈りを捧げていた。   届かない祈り。 祈りが届かないことを、知っていた。 神様なんていないことも、知っていた。 もしも祈りが届いたら、神様が本当にいたら。 父さんも、母さんも、殺されなくて済んだはずだから。             つぅうぅ うぉおおおん うぉおおおおん        暗闇の向こうから、聞こえる。 聞き覚えのある声ではない。 さっきまで響いていた友達の悲鳴も、すぐにかき消えた。 逃げられない。 絶対に、逃げられない。   兄妹は、神様のいないことを知りながら、祈るしかない。            ばりばり、ばりばり        歌の合間に、聞こえる。 なんの音だろう。 そう尋ねる好奇心を、必死に押さえる。 想像したら、壊れてしまうから。   耳を塞いで、互いの身体を抱きしめて、祈る。 祈るしか、ない。             ばりばり、ばり うぉおおおん うぉおおおん        音が止んで、歌が響く。 その意味を、考えたくはない。 ただ一心に祈り、祈り、祈る。 音もなく、歌が近づく。   部屋の扉の前で静止し、扉が開いた。        兄妹の身体が、固まる。   吹き込む風。 痛いほどに頬を掠める砂の粒。 ツンと薫る生臭い匂い。 部屋を満たす、歌声。             うぉおおおん うぉおおおん        兄妹は、顔を上げる。   立ち塞がるのは、赤い巨躯。 頭部を覆う長い毛が、激しい風になびく。 ダランと垂れ下がった指の先には、鋭い爪。 前屈みになった顔に、赤い瞳が光る。   ――おとりになろう。 咄嗟に、兄は思った。        自分が相手をしている間に、妹だけでも逃げられる。 妹だけでも、助かるかもしれない。 だから、僕が、立ちはだかろう。   そう思ったのだけれども、身体が、動かなかった。 恐怖に身が竦んで。 ただ、妹と顔をつきあわせたまま。 祈りすら忘れて。 その場に、硬直していた。             うぉおおおおおおおん!!        一際大きく、歌声が響いて。 空気がビリビリと震え。 赤い巨躯が、傾いた。   爪が寝床に触れ、木枠が割れた。 薄い布が跳ね上がる。 兄妹の身体が跳ね上がる。        前のめりになり、生臭い息が頬を舐める。 怒りに燃える赤い瞳が、兄妹の身体を射抜く。   逃げられない。 覆い被さるように、抱き合ったまま。 身体が固まって、悲鳴すらない。        だが、それは、とどめを刺そうとしたのではなかった。   赤い獣は、立ち上がり、背後を向く。 唐突に背を向けられ、ふたりは呆気に取られる。 怒りに苛立つ、咆哮。 すぐ目の前、獣の背に突き刺さっているのは――黒い短剣。 直後、歌声を割る怒声と共に、刃が奔った。 「うぉぉおおおお!」  月牙を投げ、間髪入れず、距離を詰める。 元々致命傷を与えられるような武器ではない。 子供に当たると危険なので、必要以上に力をこめることもできない。  けれども、注意を引くには十分だ。  僕は、無防備を覚悟で飛びかかる。 刀を振り上げて、斬りかかる。 赤い獣は、振り返りざま、太い腕を一閃。  振り上げられた腕を受け止めて、ぼくの身体が吹き飛んだ。 刀が折れるのではないかと思えるほどの、激しい衝撃。  軽々と吹き飛ばされた僕の身体は、扉の半分を突き破って、家の外へと転がる。  片腕で受け身を取るが、勢いは殺せない。 頬が砂地に擦れる。 「ぐっ、がはっ!」  遅れてやってくる、激しい痛み。 予想できていた衝撃とはいえ、気が遠くなる。  このまま、大地に突っ伏して眠りたい。 そう、思う。  受け損ねた腹部から漏れ出す、赤い血。 以前なら、魔力でその流れを制御することもできたのだろう。  だが、今の僕にその力はない。 世界に青空を取り戻す代償として、僕は魔力を失った。  だから、ただの非力な人間として、戦わなければならない。  僕は、大地に突っ伏したまま、薄目を開ける。 怒りに目を燃えたぎらせ、こちらに向き直る赤い獣。 その後ろに、抱き合いながら息を飲む、ふたりの幼子。  僕は、胸元に手を当てる。  歯車。 小さな、小さな歯車。  それだけで、どこからか力が沸き上がる。 闇に包まれたこの世界でも、この記憶がある限り、何度でも立ち上がれる。 次の青空を、信じていられる。 「この身は非力。けれど、まだ動く」  刀は折れない。 杖代わりにして、立ち上がる。  吹き飛ばされた僕目がけて、ゆっくりと獣が外に出る。 獣の意識が、あの兄妹から離れる。  ――狙い通りに。  僕は、管理人さんのように、子守歌を歌うことはできない。 管理人さんほど上手く、本を読み聞かせることはできない。  けれども、戦うことは、できる。  どれだけ非力でも、勇気と知恵で、立ち向かうことは、できる。 「僕は、意志を継ぐ者」  ふらつく身体を支えながら、上着に手を。 そこにあるのは、銀の拳銃。 銀の十字架が刻まれた、恩師の意志。  僕は、ひとりで戦っているんじゃない。 意志、希望、未来。 皆の希望を受け継いで、僕は、戦うのだ。  どれだけ、この身が傷ついても。 例え、罪を背負うことになろうとも。  うおおおおおおん!!  無人の村に、歌が鳴り響く。 怒りの歌。  赤い獣の注意を惹きつけて、銃口を向ける。 「この世で最も古き祈り――僕はその意志を継ぎ、幼子の夢を護る!」  銃口が爆ぜると同時。  僕の胸元で、からん、と歯車が鳴った。       以下、jdl0913に同じ文章があるので、スキップ。●9−32ー2  僕は、管理人さんと、別れない。 「管理人さん。僕は、あなたと一緒にいたい」  僕はそう言って、自分の中に残った魔力を、掻き集める。 身がちぎれるほど強い水の流れを、強く、強くイメージする。 管理人さんの言ったように、僕の力は闇の聖母に吸収されているのだろう。 ほんの一握りの水滴を操るだけで、ギリギリと締め付けられるように頭が痛くなる。 息が荒く、立っているのが辛い。 「克綺クン。だめよ。あなたは――」 「こんなに、相手のことを思っているのに、どうして別れなきゃいけないんですか?」 「例え独り立ちしたって、子供は母のことを忘れるわけじゃない!」 「いつまでも一緒にいたい、そう願っては、いけないんですか?」 「克綺クン……」  僕は、残った魔力を掻き集めて、水の刃をつくる。 細く指先を切って、僕の手から血が滲み落ちる。 ぽたり、ぽたりと赤いしずくが落ちた。 崩れかけていた管理人さんの身体が、徐々に、元の姿に戻っていく。  けれども、こんな程度じゃ足りない。 もっと、もっと。 管理人さんをこの世界に呼び戻すには、もっと力が必要なんだ。 「ありがとう。でも、残念だけどもう、無理なの」 「無理なんかじゃありません!」  僕は、管理人さんの身体を抱きしめる。 壊れそうな身体を、強く。ボロボロの肌を、跡がつくくらいに、強く。 「やってみなきゃわからないじゃないですか!」 「ううん、わかるわ。ね、言ったでしょ? 私はもう、必要とされていないのよ」 「それは、あくまでも主観的な判断です!」  ドクン、ドクン。僕の心臓が、鼓動を刻む。 強く、管理人さんに身体を押しつけて、この心臓の鼓動が、伝わるように。 「管理人さんが、そう、勝手に決めつけただけです!」 「そんなこと、ないわ」 「管理人さんは、怖いだけでしょう?」 「怖い?」 「あなたは、傷つけてしまった。護るべき人間を、失いかけてしまった」 「もう二度と、あんな想いをしたくない。そう、思っているんでしょう?」 「それは……」  管理人さんは、恵を助けることができなかった。 心臓を射抜かれて、普通ならば恵はあのまま命を失ってしまっただろう。  あのあと、管理人さんは、まるで別人のように壊れてしまった。 現実から逃げ出すように、自分の行為から、目を逸らすように。 恵を助けに、ひとりで無謀ともいえる行動に出たのも、恵に引け目を感じていたからだろう。  管理人さんは、まだ、恵と会話が交わせないでいる。 顔も、合わせられない。 歯車は、僕の血に濡れたまま、軋んで動かない。 「管理人さん」  俯いた管理人さんの前に、ひょい、と一足踏み出して。  恵は、笑顔だった。 これ以上ない、笑顔だった。 「大丈夫。私、管理人さんが、大好きだよ」 「ほんとに、ほんとに大好きなんだから! だから、行かないで!」 「でも、私は、恵ちゃんのこと――」 「見捨ててなんてないよ。私、知ってるもん。メルクリアーリさんが、みんな、教えてくれた」 「そう、なの。でも……」 「でも、じゃないの!」 「ホントのこと言うとね、最初は、管理人さんのこと、好きじゃなかったんだ」 「そう、なんだ」  突然、なんてことを言うのだろう? 人の心がわからない僕にだって、今の恵の発言が逆効果であることくらいは、わかる。 「おい、恵! なんてこと――」 「お兄ちゃんはちょっと黙ってて!」  抗議しようとした僕の口を、恵はものすごい剣幕で塞ぐ。 勢い余って小指が鼻を打って、痛い。 けれども黙るように言われたので、「痛い」と言葉が漏れ出るのを懸命に我慢。 「だってね、管理人さんって、完璧なんだもん! 優しくて、きれいだし、お料理はうまいし」 「だから私、お兄ちゃんを取られちゃうみたいで……」 「もう、そんな心配はいらないわ。私はもうすぐ――」 「だから、それじゃダメなんだって!」 「私、決意したんだから!」 「決意?」 「私、管理人さんが大好きです! もっといっぱいお話しして欲しいし、料理も教えて欲しいです!」 「だから、大好きだから、お兄ちゃんを取っちゃっても仕方ないです! 許します!」  恵はヤケになったように大声を張り上げる。 管理人さんは、キョトンとした表情でそれを聞いている。 「だから、いいよね? お兄ちゃんも、管理人さんとさよならなんてしたくないでしょ? ね?」 「お兄ちゃん……? ね、返事は?」  恵が、不思議そうに僕の顔を覗き込む。  だが、「黙ってて」と言われた以上、言葉を出すわけには……。 「お兄ちゃんっ!」 「は、はい」 「お兄ちゃんも、そう思うよねっ?」 「ああ。そう、思う」  恵の剣幕に負けて、僕は声を出して頷くが、彼女が怒る気配はない。 どうも、いつの間にか「ちょっと黙ってて」という命令は、効力を失っていたらしい。  そもそも、恵が「ちょっと」などという曖昧な単位を持ち出したのが悪い。 きっちり時間を指定してくれるか、それともなにか効力が切れる合図のようなものを……。 「……ふふ、ふふふ」  それまで沈んだ目つきで言葉少なだった管理人さんが、笑い出す。 「ど、どうしたんですか?」 「え、ううん。あのね、私、思ってたの」 「克綺クン、ここ何日かで、急に大きくなったなぁ、って」 「そうでしょうか? 身長に大きな変化があったようには……」 「お兄ちゃん!」 「あは、あはは」  恵に思い切り足を踏まれる。 それを見て、管理人さんは笑う。  その笑顔を、僕は、失いたくないな、と思う。 「恵」 「なに?」 「もう一回だ」 「え?」 「もう一回、僕の足を踏んでくれ」 「……なんで?」 「そうすると、管理人さんが笑ってくれる」 「はは、違う違う。そうじゃなくて……!」 「僕は、管理人さんのあの笑顔が見れるなら」 「何回、恵に足を踏まれたっていい」 「……お兄ちゃん」 「なんだ、恵」 「それ、愛の告白にしてはかっこわるすぎ」 「そうなのか……?」  どうしてこれが、愛の告白になるのかはよくわからないが。 ともかく、そういうことになってしまうらしい。 「ほら、お兄ちゃん。もう一回、やり直し」 「やり直しって……」 「管理人さんと、離れたくないんでしょ?」 「あ、ああ」 「だったら、ちゃんと説得しなきゃ!」  管理人さんは、好きでこの世界から去っていくわけではない。 僕の身体に残った魔力が少ないのは、自分でもわかる。 論理的には、説得したからといって、意志が翻ったからといって、どうなるような問題でもないのかもしれない。  けれども僕は、恵の言うとおり、管理人さんを説得する。 説得、しなければならない。 管理人さんがそれを望まなければ、きっと、意味がない。  僕の心臓が急かしている。 「管理人さん、あなたは今まで、ずっと、人びとを護ってきた」 「最も古き祈り。あなたは母親として、多くの魂に安らぎを与えた。その代わり、自らに幾多の傷を負った」 「でもそれは、私の役目だから」 「意志だろうと義務だろうと、あなたに対する感謝の意は、変わりません」  ドクン、ドクン。心臓が鳴る。 僕の言葉ひとつひとつに合わせるように、どんどんとその勢いが激しくなる。 隅々から魔力を掻き集めて、それでも止まらず、心臓はさらに強く。  熱は、止まらない。身体の外から、魔力が僕の身体に流れ込む。 それは、僕の願いで、恵の願いで、みんなの願いだ。 血が、鳴っている。ごうごうと、音がする。熱い。燃えるように、身体が熱い。  これなら、いける。 管理人さんを、引き留めることが、できるかもしれない。 「あなたのおかげで、僕たちは、ここまでやってくることができました」 「だから今度は、僕たちが、恩返しをする番です」 「本当に、私が、いいの……?」 「お願いします。もう、あなたが矢面に立たずとも、僕らはきっと、生きていける」 「だから、僕たちの姿を、いつまでも見守ってやってください」 「そう、か。そう、ね」  管理人さんは、ひとり呟いて、僕の手を取った。 僕の血を受けたその指は、もう歯車の跡など見えない。 柔らかくて、あたたかい、あの管理人さんの手だ。 「すぐに、放り出したら、あんまり無責任だもの。しばらく、見守ってあげなきゃね」 「その通りです。最後まで見守るのが、親の責任です」 「でもね、克綺クン」 「はい、なんでしょう」 「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」  管理人さんの手が、優しく僕の頭を撫でた。 「苦しいとき、悲しいときは、いつでもおいでなさい。その傷が癒えるまで、ずっと抱きしめてあげるから」 「はい。甘えさせて頂きます」  例え、僕が恵を護るような立場に立っても、管理人さんは管理人さん。 僕の想いが、消えてしまうわけではない。  身体に流れ込む魔力を、集める。 自分の胸に集まった、力。 その力を、そっと胸から離して。 その鼓動を、管理人さんの思い出に、移すように。 「管理人さん、どうもありがとうございました」 「これからも、どうぞよろしくお願いします」 「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」  僕たちは、お互いに、少し照れくさそうに微笑む。  そのまま、ふたりの想いを繋ぐように、口づけた。  流れ出す力。流れ出す未来。 全身を、力が、奔流となって駆けめぐる。 強く、激しく、身を焦がす。流れる力の濁流に、僕は意識が遠ざかる。  僕らの鼓動が重なって、ドクン、と震えた。 魔力は、僕たちの前に、新しい世界を開く。 →E−1−2  くるくるくる、と、傘が回る。 学校の裏手。 暗闇の中、たった一人で歩くイグニスを、彼女は迎えた。 「お久しぶりです」  「なぁ、おまえ。以前から聞きたかったんだが、ひとつだけいいか?」  「なんでしょう?」 「雨は、降っていない」  「はい。そうですね」  「かといって、日も照っていない。  それなのに、なんで、傘を差してるんだ?」   イグニスの問いかけに、彼女はほんの少し顔をかしげてから、笑う。 「でも、じきに、晴れますから」   一辺の曇りもない笑顔。  それに合わせたかのように、空から光が差し込む。 太陽が、久しぶりに顔を出した。 「……微妙に、答えになっていない気がするが」  「他に質問はありますか?」   答えないつもりだ。イグニスは嘆息する。  「ないよ」 「私がここにいる理由も、おわかりですね?」  「ああ。もちろんだ。時間なんだろう?」   陽光に照らされて、自分の足下から伸びる影は、もうすでに薄らいでいる。 三つの護り――人類を護るために生み出された三つの庇護は、その役目を終えようとしていた。 闇の聖母がメルクリアーリに荷担しなければならなかったのも、それが原因だ。  “最も気高き刃”。 そう呼ばれたイグニスもまた、近く、この世界から去らねばならない。   だからイグニスは、一足先に克綺たちの前から姿を消したのだ。 「湿っぽいのは、好きじゃない」  「でしょうね」  「闇の聖母は、来ないんだろう?」  「ええ。しばらく予定はないようです」  「それじゃあ、さっさと“最も古き祈り”を連れてきてくれ」  「なぜですか?」 「なぜってそりゃあ――あいつも、一緒に行くんだろう?」  「その予定は、ないようですが」  「……なんだって?」  「彼女は、この世界に、残ります」  「なぜだ? どうやって?」  「さぁ。私は、そこまでは知らされていませんが」  イグニスは、自分の身体が薄らいでいくのと同時、管理人の身体もまた、形をとどめていられなくなっていくのを、しっかりと目撃していた。 闇の聖母に取りこまれたときは、克綺の魔力でなんとか蘇らせることができた。 だが残念なことに、今の彼は魔力を吸い取られている。 もし、門を開いたとしても、世界を変えるほどの力はないはずだ。   そこで、イグニスは、気づく。 「そうか、そういうことか……」   管理人だって、自分のために世界を作り替えられることは、望まないだろう。 きっと克綺は、門を開いて、小さな世界をつくるのだ。   闇の聖母が行ったように、この世界の中にありながら、ほんの少し位相のずれた、新たな幽世を。 「疑問は、解消されましたか?」  「ああ。こんなことなら、もう少し九門に媚びでも売っておくんだったな」  「まだ、この世界に未練が?」  「ある、といったら見逃してくれるか?」  「残念ですが、私はこう見えても勤勉なタイプなんですよ」  「ふん。そうは、見えんがな」   イグニスは、鼻でひとつ笑う。 「それじゃあ、参りましょうか」  「ああ、そうするか」  イグニスは、校庭を振り返る。 日の差したその場所に、管理人や九門の姿はない。  ほんの少しだけ、寂しそうに、溜息をついて。  彼女の後を追いかけるよう、イグニスは、歩き出す。  差し込む陽光に、くるくると、鮮やかな傘が回っていた。  季節は巡り、時は流れているというのに、その場所だけは変わらない。  小さな小さな世界。 いつ訪れても、そこは秋。 銀杏並木の黄金色に包まれ、柔らかな頬を撫でる。  だが、どれだけ葉が落ちようとも、銀杏並木が枯れることはない。 柔らかな風が、木枯らしに変わることはない。  やさしく、懐かしく、そして、少しだけさみしい世界。  その真ん中に、メゾンが建っている。 瓦礫になったはずの、メゾン・フォレドー。 その瓦礫すらも、一度は管理人さんと共に消えてしまったはずだった。  だが、ここは、もう変わらない。 変わらない姿。変わらない笑顔。 「おかえりなさい、克綺クン」 「ただいま、管理人さん」   いつものように、門の前で箒を持って、いつものように、僕に挨拶する。 でも管理人さんは、自分から、メゾンの中に迎え入れてはくれない。 僕も、中に入りたいと言ったことはない。   僕は、まだ、大丈夫。  数週間に一度、僕は、管理人さんの様子を伺いに来る。 魔力のほとんどが吸い取られてしまった現在、どれだけ頑張っても、それが限度だ。   本当は、恵にもっとたくさん行くようせっつかれるのだが、これだけはどうにもならない。 僕だって、できれば毎日、ここにやってきたいのだ。 「オムライスは、上手くできたかしら?」  「はい、おかげさまで。 管理人さんのように――とまでは、まだまだいきませんが」  「やはり見栄えが、劣ってしまいます。 味は、すでに管理人さんのものに匹敵する出来映えになってはいるのですが……」  「なら、いいじゃない。 あとは、慣れなんだから。 見栄えが悪いからって、あんまり文句を言っちゃだめよ」 「僕は別に、文句を言っているつもりはありません。 ただ、客観的な評価を下しているだけです」  「で、そんな青あざをつくったり?」  「ええ、まったく、理不尽極まりないです」  僕は思わず、大声を出している。 もちろんこんなところで大声を出しても、なんの解決にもならない。それはわかっている。   けれども、管理人さんの前だと、どうしても甘えが出てしまう。 建設的でないことはわかっているのに、愚痴をこぼしてしまう。 「最近は、恵も手が早くなってきて――」   そんな愚痴も、管理人さんは笑顔で聞いてくれる。   それから続く、たわいもない会話。 むこうはもう熱くなってきただとか、最近夏風邪をひいただとか。 交わす会話の内容に、意味はない。 でも、そんなおしゃべりを、僕はいつの間にか楽しめるようになっていた。  ただ、管理人さんの声を聞くだけで、うれしい。 ただ、管理人さんの笑顔を見ただけで、胸が躍る。 管理人さんが、喜んでくれると、僕も、うれしい。   そんな当たり前の感情に、僕はやっと、気づくことができた。 「それじゃあ、これ。 ミネストローネのレシピ」   管理人さんは、まるで僕の魔力を計ったかのように、僕にレシピを手渡してくれる。 これが、このメゾンを出る合図。 そうしてまた、このメゾンへやってくるための口実だ。   とはいうものの、恵は本気で管理人さんのレシピを重宝がっている。 ここに通うよう頻繁にせっつかれるのは、単に恵が料理に熟達したいがため、とも考えられた。  その紙を受け取ってしまうと、なんだかいつも、心が揺れる。 もう少しだけ、管理人さんと話していたい。 もうほんのちょっと遅れたって、構わないじゃないか。そうも、思う。   けれども僕は、ちゃんと、帰らなきゃならない。 連絡もせずに遅れたら、また恵に怒られてしまう。  銀色の葉が、風に踊った。 そうして最後、管理人さんは、いつものように僕に告げる。 「ね、克綺クン。 私は、いつでも、あなたのことを見守っているから」 「どうしようもなくなったら、ここにおいでなさい」  僕はいつものように、ただ、笑って頷く。  いつか僕も、管理人さんの胸の中で泣き崩れたい日が来るかもしれない。 唐突に、辛い別れがやってくるかもしれない。  もしかしたら、それは今日かもしれない。 明日かもしれない。  思ったよりも薄情な自分を恥ずかしがるかもしれないし、思ったよりも立ち直りの遅い自分を情けなく思うかもしれない。  わからない。 僕の未来に、なにが起こるのか。 どんな楽しいことや、嬉しいことや、辛いことが、待っているのか。  でも、僕は、歩いていける。 辛くなったとき、本当に苦しくて、立つことさえできなくなっても。 僕の耳にはあの子守歌が響いている。  ゆっくりと目を閉じて、柔らかな鼓動に包まれて、再び目を開ければ。 僕はきっと、朝日の中にいるだろう。 「その時は、どうぞよろしくお願いします」  僕はまだ、本当の意味で、管理人さんの助けを、必要とはしていない。 まだ、この両脚で、歩いていける。  だから、僕は、僕のいるべき世界に戻る。 その、やさしくて、懐かしくて、少しだけさみしい世界に背を向けて。 大声で、言うのだ。 「それじゃあ、管理人さん。いってきます」 「行ってらっしゃい、克綺クン」       →スタッフロール  とにもかくにも夜は明けた。 死んだ者は死んだし生き残った者は生き残った。 それだけといえばそれだけのことだ。  生き残ったものには、多大な面倒が残された。 いつものことといえばいつものことだ。  あの日、日が昇りきった時、最初に現れたのはヘリコプター達。 それと防護服を着た落下傘部隊だった。  一軒一軒の家が、ほとんど暴力的に暴かれ、僕らは街の一角に集められた。 あとで聞けば、外にでる道も封鎖されていたらしい。  僕らが手荒な扱いを受けたわけじゃない。 むしろ、その逆だ。  政府機関だという話だが、とにかく金がかかっていた。 街の一角には巨大なプレハブがいくつも作られ、そこが臨時住居となった。 一人一人に個室が与えられたし、水と食事、清潔な寝床もあった。  病人、怪我人は手当され、残る僕らも、温厚な笑顔の白衣の医者達に、長い長いカウンセリングを受けた。  手際の良い説明。 付近の製薬会社から廃棄物が拡散したこと。 それは強い幻覚剤を含み、暴動の引き金となったこと。  よくよく考えれば、それは何の説明にもなっていないが、多くの人間は受け入れていたようだ。  ストックホルム症候群というものがある。 ハイジャックなどで、長期間人質に取られている時に見られる現象で、虐げられる側の人質が、本来、憎むべき犯人を強く信頼するようになるというものだ。  それと似たようなものかもしれない。 強いストレスに置かれた人間に、明白で安心できる説明を刷り込まれれば、信じてしまうものなのだろう。  人間誰しも、つらい時に優しくされれば相手を信用してしまう。 そういうことだろう。 あるいは、闇の聖母の力も作用しているのかもしれない。  避難宿舎に寝起きする内に、多くの人間と知り合いになった。 僕の周りでは、峰雪が生き残った側だ。 あの事件の最中、学園にいたというから、運が強い。  牧本さんも、無事だった。 学園で気絶しているところを見つかったという。 怪我は、ほとんどないそうだ。  メルクリアーリ神父の姿は注意深く探したが見あたらなかった。  一週間ほどの検疫隔離が終わり、僕らは街に戻された。 これから狭祭市がどうなるかはわからない。  政府の援助やストラス製薬からの賠償金やら臨時見舞いやらで、金銭的な補償はされたものの、この街に残りたい、と思う人間は多くはないだろう。  市の産業の中心を占めていたストラス製薬が壊滅し、職員のほとんどが撤退したこともあり、住民の顔も、ずいぶん入れ替わるようだ。 海東学園も閉鎖された。  僕らはといえば、峰雪家の好意もあり、しばらく護藤寺に間借りすることになった。 事件直後は、葬儀のラッシュで、僕も恵も、峰雪や寺男と一緒にかり出された。  時が経つ内に、街は平常に……少なくとも目に見える部分は平常に復した。 避難宿舎は取り壊され、マスコミの攻勢も減った。  新たな学校、新たな職、新たな住居。 失われたものは、ひとまず埋め合わされた。  あの日。 狭祭市最悪の日となった、あの数十時間。 それは多くの人を深く傷つけた。  だが、結局のところ、一日は一日でしかない。 目の前には、新たな一日がある。  そうして人々は歩き始める。 そしてまた、僕らも。   少年は息をひそめていた。 狭い家の隅で、必死に息を殺していた。 悲鳴をあげたかった。 床を踏みならしたかった。 じっとしていることには耐えられなかった。 かわりに、少年は、目をつぶり、両手を合わせて祈っていた。 祈るのは勇気のため。 腕の中にいる、まだ年端もいかない妹のため。   ──神様。   少年は無言で祈る。   ──僕のことはいいです。どうか、ターニャを護ってください。  それは吹けば飛ぶような村だった。 先祖代々受け継いだ土地は、いまや紛争地帯の真ん中に位置し、民族解放という名の内乱に翻弄される。  国境もひけないほど入り組んだ地図に、載ることもないほどの小さな点。 明日消えたところで、誰も気づかないほどの村。  その日の夜は、ことのほか暗かった。  停電だけが理由ではない。夜に明かりをつける習慣は、この村にはない。 暗雲だけが理由ではない。この季節、星一つない闇夜は、珍しくない。 政情だけが理由ではない。この貧しい村を奇襲する必要はどこにもない。 兵士達は昼に現れる。  村人が、休らうことができない理由。 それは歌であった。  噂には聞いていた。 一夜にして消えた村。 その数々。  辺境の村である。 村が消えることは珍しくない。  強制連行。 徴発。 戦火に煽られて消えた村は、後を絶たない。 一人も残さず、便りもなく、気づいたら消されていた村さえ珍しくはない。  壁に残る弾痕。 焼けこげた家々。 蹂躙された倉庫。 そして、死体。  だが、聞こえて来た噂はそんなものではなかった。  人だけが消えた空っぽの村。 弾痕の一つ、血の一滴すらもなく、家々の形をそのままに、ただ消え去った村。  歌が聞こえた、という。 ただの噂だ。 根も葉もない噂だ。  第一。 一人残らず消えた村に響いた歌を、誰が聴いたのか。  そして今日の夕暮れ。 村に歌声が届きはじめたのだ。      村の前の森から響く、歌。 それは獣の遠吠えにも似て、決して人には出せない声でありながら、まごうことなき歌であった。   腕に覚えのある若い者が何人か猟銃をもって、村を出た。 夜半になっても彼らは戻らなかった。   村はずれの教会に、大人たちは集まり、そして帰ってきた。 貧しい村のことだ。 できることは何もない。      収穫前の畑もある。 身重もいれば、老人もいる。 村を捨てて逃げることはできなかった。   そして人々は、恐怖の予感に身を焼きながら、それぞれの家に籠もった。   戸締まりに手間をかけ、いつもより、少しだけ長く祈りの言葉を唱える。  その日の夕暮れ。 隣村に出かけたきり、まだ帰らない両親を待ちわびながら、少年と妹も、その歌を聴いた。   森の奥から聞こえる、どこか悲しい声に、少年は眉をひそめた。 「お母さんたち、遅いね」  「きっと、向こうの村に泊まってるんだろう」  「そうかな……」   両親が、二人に言わずに、そんなことをしたことは、今まで一度もない。 「今年のトウモロコシはできがよかったからな。 きっと、すごく歓迎されてさ、帰るに帰れないんだ。 帰ったら、すっごいおみやげ持ってくるぞ」  「おみやげ!」  「こーーんな大きいパイさ」  「こーーーんなに大きいの?」  「そうさ。 あっまいイチゴがたくさん入ってる」  少年は笑顔を見せる。 ターニャの笑顔が見たかった。   そうして少しでも怖さを忘れたかった。  日が落ちて、少年は、重い箪笥を引きずって、戸口の前に立てかけた。  「なにしてるの?」  「おまじないだよ。 さ、早く寝よう。 明日になったらイチゴのパイだ」  「イチゴのパイ……」   ターニャの目が、痩せた顔の中で、くりくりと動く。 「寝て起きたら、すぐだよ」   少年は、そう言って布団をかけた。  寝て起きれば、朝になって、父さんと母さんがいて。 できたら、イチゴパイも焼いてもらおう。  その、ささやかな希望は、無論、叶わなかった。  夜がふけるにつれ、歌は次第に大きくなり、ほとんど村の中から聞こえるようになった。 少年は耳をふさぐようにして眠りにつこうとする。  そして、最初の悲鳴が町中に響いた。 「お兄ちゃん……」  「だいじょうぶ」   目をこすり起き出すターニャを、少年は優しく抱きしめた。   ランプの火を消す。 暖炉の火かき棒を引き寄せ、お守りのように握りしめる。  毛布を寄せて二人でかぶる。 出来ることはそれだけだった。   毛布をかぶっていても。 声は耳に飛び込んできた。   あの太い声は肉屋のホフマンだ。 痛みに呻き、怒鳴り、そして、その声が遠ざかる。 メイヤー先生の悲鳴。 それから、いつもよく遊ぶコット!  歌とともに、悲鳴が近づく。 やがてそれが途絶えた時。   コツコツと扉を叩く音がした。  「お兄ちゃん!」   少年は、ぐっとターニャを抱き寄せる。  箪笥ががたがたと揺れたかと思うと、一気に倒された。  耳障りな音を立てて、扉が開く。  隠れるところはない。 逃げるところもない。 少年は、火かき棒を強く握る。   月光を浴びた影。 それは犬に似ていた。 真っ黒で肉の間から骨がはみでている犬がいれば、だ。 背といわず顔と言わず、べっとりと血で汚れている。  犬は歌った。 ひどく綺麗で、美しい歌だった。 終わった何かを嘆くような。 未来を前に途方にくれるような。 それは、そんな歌だった。   一瞬、少年は、恐怖を忘れた。 まじまじと犬を見つめる。  濡れた瞳。 大きな口。 その端っこから、はみでた一本の腕。 小さな手の小さな指は、まだ、ぶるぶると震えていた。   犬が口を開ける。 子供の手首がぽろりと落ちる。 放たれた咆吼さえも歌声だった。 「うぁあ、うぁあ、うぁあああ……」   力無い少年の悲鳴が、歌声に和す。   犬は、ゆっくりと歩を進める。 吐き気を催すような獣臭さ。 腐った肉の甘い匂い。   少年は立ち上がって火かき棒を……あまりに小さな武器を構えた。 「逃げろ!」   声は、ターニャにかけたものだった。 あれを引きつければ。 自分が喰われている時間に。 妹だけでも逃げられまいか。 いや逃がす。   体は熱くほてっているのに、こんなにも寒いと感じたのは初めてだった。 「でも……」  「早く!」   叱りつける声がきいたのか、ターニャは、ふらふらと出口へ向かって歩き出す。 「うわぁぁぁぁ!」   少年は怒号とともに鉄棒を振り回した。  鈍い音がして、指が痺れる。 犬は、根を生やしたように動かない。   だが、ターニャは。 ターニャは、犬の脇を抜け、出口へ向かった!  少年は、かすかに微笑みを浮かべた。 近づく犬を前にしながら。 神様、ありがとう。 心からそう思う。   その時だった。  遠くから哀しく、甘い歌声が響いたのは。 目の前の犬は、口を閉じている。 すなわち。 犬は一匹ではない。 「そんな」   目の前が暗くなる。 暗くなって倒れる前に、少年は走った。 戸口に向かい。   ふわりと犬が宙を舞う。  その前足が、少年を床に押さえつけた。 背に乗った足は石のように重く、少年は肺腑の息を残らず吐き出した。 「ターニャ!」   血を吐くような叫びの答えは悲鳴だった。 絶対に聞き間違えることのない、その悲鳴。   少年の体から一気に力が抜ける。 それを見て、犬は大きく口を開けた。  神様なんていないんだ。   そう、思う。  何もかもが絶望に沈んだその時。  凛とした声が響いた。  少年の背筋がぴんと伸びる。 炎のような声は女のものだった。  どん、と、音がして、熱い空気が顔をあぶった。 犬が吹っ飛び、急に体が軽くなる。  あげた顔の前に、少女が立っていた。   天使だ。 少年はそう思う。 お祈りに応えて、神様が天使をおつかわしになったんだ。   天使は女性で、肩には煙を吐く散弾銃を背負っている。 「遅くなってごめんなさい」   聞き慣れぬ異国の言葉。 けれど、それは、闇の中で光のように輝いていた。 東洋風の顔立ちは、逆光に沈んで見えなかったけれど。 それは、きっと笑顔だろう。 「歩ける?」   天使が声をかける。 片手には、まだ煙の上がっている巨大な散弾銃。 もう片手には……ターニャだ! 少年は駆け寄った。 「はい」   少年はものも言わずにターニャを抱きしめた。 吹っ飛ばされた犬のほうに目をやる。   犬は、壁にはりつくように倒れていた。 土手っ腹に大穴を開け、ひくひくと手足がもだえている。 見る間に肉が殖え、穴をふさぎ始める。   天使は、銃を再装填し、頭の真ん中に大穴を開けた。 「大変だっただろうけど……もう大丈夫。 これから、夜が明けるまで、君たちにはいいことしか起きない。 それが、私の約束」   澄んだ目が少年を見て、そう言った。 言葉の一つもわかりはしなかったけれど。 意志は伝わった。 そう思う。 「さ、行くよ」  「はい!」  少年は、ターニャの手を取って、走り出す天使の後を追った。         噂の噂を追って、大陸中を旅した。 ようやく追いついた時は、手遅れになる寸前だった。   異形の月は、すでに天空に赤々と輝いていた。 紅い光を浴びて、天から降り来る数知れぬ犬鬼。 そして、哀しくもきらびやかな歌声。   九門克綺は。否。 “三つの護り”は知っていた。   それは触と呼ばれるもの。 地球が異界と接近することで開く門。 多くの場合、触は短期間、小範囲にとどまるが、中には、安定化するものもある。   それは、必ず、夜、現れる。 人々の常識が揺らぎ、目の前の異界を受け入れる夜に。   そして、それは浸食する。 空間が空間を蝕み、その根底を変えてゆく。 放っておけばそれは爆発的に増殖し、地球全土を呑み込む。   現れた異界。 その実体は歌。 それを担うは犬鬼。   故に、九門克綺は。 この世界の護りとして、犬鬼を。  肘でたたき落とし、膝で潰し、眼窩に抜き手をたたき込む。   死体を投げて道を作り、大地を蹴って進撃を続ける。   殺戮のさなか、ふと思う。   ──人は才能に拠って生きるのか。 それとも才能が人を生かすのか。 人間は、己の能力で道を切り開くと信じているが、その実、与えられた能力に人生を決められてしまっているのではないか。   能力が大きければ大きいほど。進む人生は決められてしまう。 それは、ある種の錯覚かもしれないが、しかし、錯覚に踊らされる面があることは否めない。   僕は想う。 今の自分の選択。 これは錯覚ではないのかと。   九門克綺は、巨大な力を受け継いだ。 “最も古き祈り”……管理人さんが数千年の時を経て磨き上げた、人外殺しの技。   人を救うために生き、そして、人知れず消えていった管理人さん。 僕は、その志に少しでも報いたかった。 闇に泣く子が一人でも減ること。 その願いを叶えようと思った。   そうして僕は戦場に身を投じた。 人外の身となった恵も一緒だ。 それは僕の、僕自身の選択のはずだ。   四方から襲う犬鬼。  身を沈めてかわしながら、回し蹴りで顎を砕き、拳で鼻っ柱を叩き折る。   ほとばしる青い血をあえてかわさずに全身で受け止める。  冷たく、生臭い血。 吐き気を催すような、その匂いを胸一杯に吸い込む。   心臓が脈打つ。 力が湧く。 口から笑いが洩れる。  えぐる指が歓喜に震える。  砕く肘がぞくぞくする。 振り上げた踵に電気が走る。      戦場。恐怖。緊張。死。生。勝。敗。血。肉。臓物。   そこに身を置くことが、たまらなくたまらなくたまらなく嬉しくて仕方がない。   僕は殺す。進む。殺す。進む。殺す。 手も足も目も耳も鼻も心も。 すべてが一つに〈綯〉《な》い合わされ、僕は一個の機械となる。 効率がすべてを支配し、僕は最大限に機能を発揮する。 殺戮という機能を。   すべてが一つに。 だが一つになりきれないかすかな残りカスが、憂鬱を囁く。   救えぬ人を救うことを選んだ。 そんなのは錯覚で。 殺すための力が、僕という器を操っているのではないか。 ありあまる力の命ずるまま、殺すために殺しをしているのではないか。 条件さえ揃えば、僕は躊躇なく無実な者も殺すのではないのか。   骨を砕き、肉を裂き、血を浴びながら、僕は思う。   管理人さんは、どうだったのだろう。 人外を屠る時に、あの人は、何を感じたのだろう。 果てしのない高揚か。 静かな満足か。 それとも、何も感じず、ただ淡々と自らの機能を果たしていただけか。   たまらなく、あの人に会いたかった。 会って、聞きたかった。 僕の中に蓄えられた記憶。 それは、燃えて灰となった彼女の人生の、ほんのわずかな澱に過ぎない。 あの人が何を想い、どう生きたのか、その根本のところは、僕にはわからない。   だが。 結局。 いずれにせよ。 錯覚であろうがあるまいが。 人形だろうが機械だろうが人だろうが。 僕らは生きられるように生きるしかない。   だから僕は、膝を砕き、頭蓋をひねり、腹をえぐり、見知らぬ人外の命を奪う。   それが、僕の選んだ道だ。  恵は幼い兄妹を連れて、外に出た。 空に真っ赤な月が登っていた。   黒い雪のように犬鬼が落ちる。  渦巻く雪を従えて、兄が、そこにいた。 無数の犬鬼を身に群がらせ、一匹ずつ一匹ずつ、無惨にしとめる。   それは荒れ狂う暴風。 人外を喰らう人外。 このうえなく純粋な殺戮機械。 血反吐にまみれた黒い悪鬼。  兄を知り尽くした恵さえも、一瞬、息を呑む。 子供たちの体が硬くなるのがわかった。  「あれは……私のお兄ちゃん」   伝わらないと知りつつ、声をかける。 腰を落とし、二人の肩を抱いて囁く。 「ちょっと怖いけど……でも、頼りになる人」   自分に言い聞かせるように、囁く。  「ここ、動かないでね」   二人の肩を叩くと、恵はぽんと走り出す。 兄のいるところ。 戦場のただ中に向かって。  走り出した恵は気づいていなかった。 子供達の顔に浮かんだ表情。 それは恐れではなかった。 「おまたせ!」   大地を蹴って宙に舞う。 闇色の爪を幻視し、犬鬼を引き裂く。 「村人は?」  「全員確保。 犬鬼は、ここにいるので全部よ」  「そうか」   和やかな言葉。 鞭のようにしなる手足。  斬る。突く。裂く。そして、えぐる。  「……ここは一人で十分だ。 村人についていてやれ」  「だめだよ! お兄ちゃん、一人にすると無茶するんだもん」   いかな人外の技を持とうが、克綺の体は人のものだ。 魔力を治癒に回しているとはいえ、無事ではすまない。 「ほら! こんな怪我して!」   切り裂かれた背中。 じくじくと血が沁みる。  「急所ははずしてある。問題ない」  「なくないよ!」   恵は、背中を克綺にくっつけた。 克綺が大きなためいきをつく。 「……調子が狂うな」  「また、変なこと考えてたんでしょ」  「変なことではない。自由意志の在処と、その意味についてだ」  「……お兄ちゃん、変わらないね」  恵はため息をつきながら、犬鬼の腹をつきあげた。   青い血を顔中にあびて、瞬きする。 舌が。紅い舌が顔の血をねぶった。 ふぅ、と、熱い吐息をもらす。 「日の出は何時だ?」  「えっと、あと3時間」   朝になれば。 人々は気づく。 目の前の犬鬼が、あってはならぬものだと。   人類の魔力が、異界を押し返す。 そして、悪夢は忘れ去られる。  あるいは、克綺が、恵が、ここで倒れれば。 その朝は永遠に来ない。   風船が割れるように。 地球は変わる。 それだけのことだ。  ふと、犬鬼の勢いが弱まる。 数が減り始めている。 だが、なぜ? 朝までは、まだ長い。   犬鬼の、最後の一匹を倒し、克綺と恵は、同時に空を見上げた。 深紅の月。 空に空いた穴から、巨大な、とてつもなく巨大なものが落ちようとしていた。  それを何と呼ぶべきか。 あるいは巨人。 それは巨大なヒトの形をしていた。   あるいは天使。 それには翼があった。   あるいは異形。 それに頭はなく、六本の腕は、それぞれ、剣と弓を持っていた。   ゆっくりと羽ばたき、暴風のような風を巻いてそれは降下する。 克綺と恵は、村人のほうに顔を向ける。 「逃げろ!」   空を指さす。  「どこでもいい。遠くだ!」   家々の窓から、人々が、顔を出す。 空と、克綺を見比べ、ゆっくりと家の外に出る。 「はやく!」   そう言って、腕を回す。 村人たちは、最初はためらうように、後には、足早に歩き出した。   ゆっくりと空っぽになる村。 最後に残ったのは、恵が救った兄妹だった。 「どうした! 早くいけ!」   空が、暗い。 すでに村は巨人の影に入っていた。  「お兄ちゃん、そんな言い方ないでしょ」   恵が、二人に走り寄る。 「危ないから、ね?」   少年は首を振って、何事か言う。 通じない言葉で、もどかしそうにしながら、最後は自分の胸を指さす。 「ミハイル!」   兄が叫ぶ。  「ターニャ」   妹も、少しはにかんだ声で続く。 「あ、私は……メグミ!」  「カツキ」   落ち着いた声で克綺は応える。 「メグミ、カツキ」   兄妹は、奇妙な響きを味わうように口の中で転がした。  「メグミ、カツキ……」   続く言葉は、聞き取れない。 けれど、その意味は、恵にも分かった。 (がんばれ!)   二人は、そう言っていた。  (がんばれ、恵、克綺)   手を振りながら駆け出す二人。 恵も力一杯手を振り返す。 振り返れば、克綺も、そこにいた。 「ミハイル、ターニャ」   振り返る二人。  「ありがとう」   静かな声が風を渡った。 果たして、その言葉が通じたかどうか。 二人は、笑顔でうなずいて走り去る。 「お兄ちゃん」   恵は、空を見上げながら囁いた。  「何だ?」  「どうして、ありがとうなの?」  「うむ……あぁ」   珍しく克綺は口ごもった。 「あの二人には、大切なものをもらったからな」  「なになに?」  「名前だ」  短く言うと、克綺は空を見上げた。  巨人の胸に口が開き、異界の歌を奏で始める。 「僕は、もう迷わない」  からみつく音を断ち切るように、克綺は叫ぶ。 僕の意志などないかもしれない。 僕を動かすのは、殺戮の衝動かもしれない。  たとえそうであっても。 僕という一個の存在が血に飢えただけの機械であっても。 今の僕には意味がある。 なぜならば……。 「僕が戦うのは……」  巨人は弓を引いた。巨大な鏃が電光を集めて白銀に輝く。 恵が克綺を抱き上げた。  目に見えぬ翼を羽ばたき、闇の中へ舞い上がる。 「ミハイルとターニャのため。そして、恵と克綺のためだ!」  矢は天地を引き裂き、大地を灼熱の溶岩に変え、熱風が森の木々をなぎ倒す。 「行くよ!」 「行くぞ!」  あまりにもちっぽけな二人が空を舞う。 克綺が右手を天にかざし、吼える。  それは晴天に嵐を呼び、激しい雷雨を巻き起こした。  雨は川のように流れ、その首をもたげて、克綺の元に集まった。 巨大な水流を一個の槍と為し、克綺は空を翔る。  焼けこげた森の中で。 兄妹がそれを見ていた。 互いに手をつなぎ。 恐怖に怯えながら。 目だけはそらさず。     そうして戦いが始まった。 大地が揺れる。空が焦げる。 それは遠い遠い昔から続く夜と昼の戦い。 日は、ただ昇るのではない。 夜は、ただ明けるのではない。 日ごと日ごとに、夜が退くのは。 夜ごと夜ごとに戦うものがいるからだ。 それは闇の中で血を流す。 幼子が眠り、また、目覚めるまでの、一秒一秒を勝ち取るために。   それは、人知れず託され、人知れず受け継がれる。 この世で最も古い祈り。     ミハイルとターニャは、抱き合いながら、その名を唱えた。 カツキ。メグミ。 両手をあわせ、祈りを捧げる。   一心に二人は祈る。 困っている時に天使を遣わした神への感謝を。 ターニャは祈る。 身を傷つけても戦い抜く天使へのいたわりを。  ミハイルは祈る。 そして。 いつか自分も、誰かを護って戦えるようにと。           そうして二人は祈り続けた。 夜が明けるまで。   ついに、夜が明けるまで。       →スタッフロール  何をしようと思ったわけではないけど、僕の足は、自然と、その子のほうへ向いていた。  角を曲がった時には、その子は人混みにまぎれていた。 かすかに見える傘を頼りに、僕は、人の波をかき分けて進む。   追いかけることに大した意味はなかったが、追いつけないとなると意地にもなる。 くるくると回る傘はとても綺麗だけど、どうしてか、あと少しのところで追いつけない。  何度目かに角を曲がった時、唐突に人波が途切れた。  人気のない裏路地に僕はいた。   傘は、ない。あの子はいない。 「変だな」   口に出してみた。 確かに、あの傘を追ってきたはずなのだ。 こんな狭い路地で、姿を見失うはずはないのだが。  僕は、空を仰いだ。いつのまにか日は暮れかけて、雲が紅く染まっていた。  沈む夕日に目を細めた時。   そこに、彼女がいた。  女は夕日の中から現れた。  吹きすさぶ秋風が、彼女の回りで紅く染まっていた。 ゆらめくオーラを影のように従えて、女は僕を見て笑う。  二、三度まばたきすると、炎は吹き消すように消えた。 夕日のいたずら、と思うには、あまりにも綺麗な光だった。  僕には心臓はない。 けれど、心臓があれば、恐怖に脈打っていただろう。   胸の時計は、規則正しく秒を刻む。 それは、恐怖とは似て非なるもの……すなわち危険を告げていた。 「やはり、この道を来たか」   女の声は透き通っていて、そのくせ、空っぽの胸に響き渡った。   僕は…… ・彼女に興味を覚えた→2−4−2−1へ・反射的に、背を向けて逃げ出そうとした→2−4−1へ ●2−4−1  背を向けるより早く、女が口を開いた。  「急くな、九門。大切な話がある」   僕は、逡巡した。 ・「何の話だ?」→2−4−1−1へ・身を翻す。→2−4−1−2へ ●2−4−1−1 →2−4−2−2へ ●2−4−1−2  夕闇に包まれた裏路地から、僕は逃げ出した。背を向ける瞬間、女の寂しそうな笑みが目に焼き付いた。 それはとっても、澄んだ顔で、僕は、よほど立ち止まろうかと思った。   それでも立ち止まらなかったのは……全力で走り続け、今、壁に手をついて休んでいるのは、彼女から感じた何か大きなものに他ならない。  あの人は僕に悪意はない。 好意さえあるかもしれない。   ただ、危険とは悪意で決まるものではない。 僕が感じたのは、何かとても巨大な力だった。 僕のちっぽけな毎日を軽く吹き飛ばすような、そんな力。   そんなものに巻き込まれるのはイヤだった。  息を整えていると、角のわずか先に、あの見覚えのある傘が見えた。 意外なところで会うものだ。  声をかけようとして、僕は言葉に詰まった。   まだ、あの子の名前を知らない。 「やぁ」   そんな間抜けな言葉を口に出すと、傘の動きが止まった。  「また会ったね」   そう言って歩を進めた瞬間。  僕は、胸の違和感に気が付いた。   一瞬、火傷するほどの熱さを、次には背筋が凍るような冷たさをそこに感じた。  胸に当てた手が、どろりとぬれる。 口を開いたが、声にならなかった。   足下に、黒い染みが広がるのが見える。 あの子が、ゆっくりと近づいてくる。   ──近づかないほうがいいよ。   僕はそう思う。   ──汚れるから。そんな綺麗な傘なのに。  もつれた足を動かそうとすると、時計が、胸から外れて落ちた。   路上に落ちて、澄んだ音とともに砕け散る。  ああ、終わりなんだ。僕はそう思う。   くるり、くるりと回る傘。それはとても綺麗で……。       →2−4−1−3へ ●2−4−1−3 →終了処理 ●2−4−2−1#名前言ってないバージョン。 「誰だ?」 「名を問う時は、自ら名乗るのが礼儀だと習わなかったか? まぁいい、私はイグニスだ。〈羅馬〉《ローマ》人の言葉にて、〈焔〉《ほむら》という」    言葉は流暢だが、どこか歌うような響きがあった。日本人ではないのだろう。   紅紫の瞳がうながすまま、僕は答えた。 「僕は克綺」 「九門克綺だな?」   女は念を押した。  「どうして僕のことを知っている?」 「知っているのも当然だ。 おまえに用があって来たのだからな。 言っておくが、これは、ずいぶん名誉なことなのだぞ」  「何か用があるのなら、言ってくれ」 「聞いて驚け。 おまえと友好を深めに来た」  そう言って、女は笑った。 人なつっこい笑みだった。  「それが、用?」 「何事にもはじめはある。 次のことは次のことだ」  「このイグニスが直々に申し込むのだ。 我々は、友達になれるのではないかね?」  こんなに得体の知れない申し込みは初めてだ。 峰雪なら、うまく調子を合わせるだろうか。 あいつ好みの美人ではある。   僕は。 ・「なれるとも」→2−4−3−1・「わからないな」→2−4−3−2 ●2−4−2−2#名前を聞いているバージョン。 「誰だ? なぜ僕の名を知っている?」  「私はイグニスだ。〈羅馬〉《ローマ》人の言葉にて、〈焔〉《ほむら》という」   言葉は流暢だが、どこか歌うような響きがあった。 日本人ではないのだろう。 「……それで?」  「ああ、君、九門克綺を探していたんだ。名前を知っているのは当然のことだ」  「何か用でもあるのか?」 「聞いて驚くがいい。おまえと友好を深めに来た。 言っておくが、これは、ずいぶん名誉なことなのだぞ」  そう言って、女は笑った。 人なつっこい笑みだった。  「それが、用?」 「何事にもはじめはある。 次のことは次のことだ」  「このイグニスが直々に申し込むのだ。 我々は、友達になれるのではないかね?」  こんなに得体の知れない申し込みは初めてだ。 峰雪なら、うまく調子を合わせるだろうか。 あいつ好みの美人ではある。   僕は。 ・「なれるとも」→2−4−3−1・「わからないな」→2−4−3−2 ●2−4−3※イグニスと握手するかどうか。※・「なれるとも」→2−4−3−1※・「わからないな」→2−4−3−2 ●2−4−3−1 「ふむ。それでは、我らの友情のために」   イグニスが片手を差し出す。 僕は、その手を握りかえした。   鍛えた手、というのだろうか。 それは柔らかさの奥に、揺るがぬ力を感じさせる手だった。 →2−4−4へ ●2−4−3−2 「そうか、今は友達以前ということだな」   イグニスは、落胆した風もなく言った。  「会ったばかりの人を友達とは呼べないさ。可能性を否定するわけじゃないけど」  「では私は、その可能性に賭けよう。 いずれ貴様に私を友と呼ばせて見せる」  そう言って差しだされた手を、僕は取った。  「じゃぁ、その可能性に」   イグニスの微笑は、何か、遠い昔のことを思い出しているようだった。 →2−4−4へ ●2−4−4 「さて、と。克綺。 友好を深めるには何がいいと思う?」   ずいぶんとまた、一般的な質問だ。 思いつくままに、僕は答えた。  「同じ時間を長く過ごすこと」 「時間は、あまりない」   どういう意味だろう。 時間をかけるつもりがないのか。 それとも、あまり長い間、ここにいられないというのか。 「共に劇的な体験を、くぐりぬけること。 互いのことを知ること」  「確かにな。では、どちらにしようか?」  「劇的な体験には、あまり興味がない。 とりあえず、あなたのことを教えてくれないか?」   僕は、この人が好きになりかけていた。 正体不明で尊大だが、少なくとも口にすることは、はっきりしてる。 「よかろう。何が知りたい?」 「まず、イグニスは何をする人なんだ? 僕は学生だ」  「私か? 私は……」 「見つけたぞ、殺し屋!」   背後から声がかかった。 ※人狼と出会っているか? ・出会っていない→2−4−4−1 ・出会っている→2−4−4−2 ●2−4−4−1  声の主は、まだ幼い少女だった。 背ときたら僕の胸ほどしかない。  風が吹いて、髪をゆらす。 それは肌寒い秋風ではなかった。 それは、どこまでも続く草原を渡る春風。 その風からは、お日様の匂いがした。  しかし……殺し屋か。 言われてみれば、しっくりくる気がする。  「そうなのかい?」   イグニスは肩をすくめた。  「それは否定? それとも肯定?」 「部分的肯定だ」   これはまた、聞き捨てならないことを。 「そこの人、早く離れて」  「あぁ、さがっていたほうがいい」   二人の声に気圧されるように、僕は一歩下がった。 →2−4−5へ ●2−4−4−2  あれは。確かラーメン屋であった、あの子じゃないか。 名前は確か……。 「こんなところで会うなんて、オオフクロウのお導きかな」   少女は僕に微笑んだ。冷たい秋風が途切れて、暖かな空気が、僕を包む。   少女の髪は、お日様の匂いがした。 「心配はいらない。君のことは、ボクが守る」   そう言って、その子が僕を背中に庇う。 対するイグニスは、邪悪な……少なくとも性格の悪い笑みを浮かべた。 →2−4−5へ ●2−4−5 「今日は、死ぬにはいい日だ」   風が勢いを増した。 それが少女のほうから吹いていることに、僕はようやく気づいた。  「願わくば、山の向こうの三柱の女神が、あなたの道行きに微笑みますように」  「よい覚悟だ。私はイグニス。 おまえは?」  「ボクは“風のうしろを歩むもの”」   ふいに突風が吹いた。  まばたきした瞬間、少女はイグニスの背後に現れた。  掲げた右腕が、銀光となって振り下ろされる。  閃光。  宙に舞ったのは少女だった。 長く伸びた爪の一撃を、イグニスは柔の要領で投げ飛ばしていた。  猫のようにまるまって着地した少女が、かるく跳ねて距離を取る。  「出し惜しみか?」   イグニスは癇に触る笑みを浮かべた。  「殺したくなかったんだけどね」  少女が顔を伏せた。  顔を上げた少女の瞳は、緑に光っていた。 ぴんと尖った耳が左右に動く。 桜色の唇からは牙がのぞいていた。  人外の相を露わにした少女に、イグニスは静かに構えを取った。 両足を前後に開き、拳を前に出す推手の型だ。   少女がそれを受けた。 足を合わせ、拳を差し出す。  二人の拳が重なった瞬間、風が悲鳴を上げた。  少女の上体は、信じられないほど柔軟に動いていた。  肩があたるほどの距離を前後左右に旋回しながら、無数の手刀を放つ。  その腕は、すでに見えず、ただ稲妻のように放たれる銀光だけが見えた。  対するイグニスは、背筋を伸ばしたまま、最小限の動きで、そのことごとくを捌いてゆく。  速さで勝る少女と、技に優れるイグニス。二人の足は微動だにしない。  風の音が、やがて薄れた。否。薄れたのではない。高まったのだ。 耳の奥が痛くなる。  交錯する銀光に、血煙が混じりはじめた。 かすかな傷が、イグニスの頬に浮かび、やがて血が流れはじめる。  いよいよ鋭さを増した銀光がイグニスの喉元に迫った時。  真っ赤な血がしぶいた。 少女が腕を押さえていた。指の先から血が滴っている。  「卑怯な!」   イグニスの指の間に光るものがあった。 刃物を握りこんでいたのだ。 暗器というやつだろうか。 「そっちには爪がある。これで五分だ」   うそぶくイグニスに、少女が表情を険しくする。  イグニスの両腕が、蟷螂のように揺れた。  少女が防御の構えを取った時、今度こそ悲鳴が洩れた。  足だ。 少女の足が、楔のようなものに貫かれていた。  「獣には罠がお似合いだ」  イグニスが、楔を、もう一度踏みつけ、にやりと笑った。   一歩下がって少女の腕を避け、内懐から一振りの剣を取り出す。  放ったコートは、じゃらりという音を立てて地に墜ちた。  「獣の手、獣の足、獣の目。そんなものに頼っているから、技が錆びる。心が朽ちる。 所詮は、滅ぶべくして滅んだ愚か者か」  嘲るように言い放ち、刀を抜く。  あまりと言えば、あまりの非道ぶり。 僕は…… ・「殺すことはない」イグニスと少女の間に割って入った。→2−4−6・それでも、そこに止まった。→2−4−7 「何の真似だ?」  「殺すことはない」   イグニスは唇を歪めた。  「下がっていろ。 おまえは何もわかっちゃいない」   確かにその通りだ。 何が起きているのか、まるでわからない。 だが、それだけではないだろう。 「命を無駄にしてはいけない。 それくらいはわかる」 「見ろ」   イグニスは、少女のほうを指した。  少女は大きく息を吸い込むと、ぶちぶちと嫌な音を立てて、罠から足を引き抜いた。  血塗れの足を、大地に叩きつけ、すっくと立つ。 「あれが私の相手だ。 殺したくらいで死ぬなら苦労はしない。 わかったら、さっさと下がれ」 ・僕は言われるままに下がった。足が竦んでいた。→2−4−7 ・「……こんなことはやめよう」そう言って、僕は、少女とイグニスの間に立ちふさがった。→2−4−6−1 ●2−4−6−1  デッドエンド。死神。 「取り消せ!」   少女の声が、僕の足を止めた。  「平原を走る者は、滅びはしない」  少女が、罠から足を引き抜いた。ぶちぶちと嫌な音を立てて肉がちぎれた。  荒れ狂っていた風が、止んだ。 少女のあらゆる動きが止まる。  「北風の向こう側を見せてやる」  視界が、わずかに緑に染まる。 少女の身体から、緑色のオーラが溢れ出ていた。 それは、イグニスの紅いオーラを見る間に侵食する。 ゆっくりと、一歩ずつ少女はイグニスに近寄った。 「東から風が吹くよ。満ちる潮の匂いを乗せて、風が吹いたよ」   少女は悲しげに歌った。   無造作に振り下ろされた右腕は、瞬間、風に溶けて消えたように見えた。  次の瞬間、イグニスの肩が弾けて血を噴く。  「南から風が吹くよ。燃える太陽の匂いを乗せて、風が吹いたよ」  胴体を薙いだ一撃は、風のように少女を通り抜け、何の傷も残さなかった。 代わりにイグニスの右腕が血を噴いた。 「西から風が吹くよ。萌える草原の匂いを乗せて、風が吹いたよ」   イグニスが、こっちへ走る。  その背で血しぶきが弾けた。  左手が、僕の肩をむんずと掴む。   気が付けば、僕は腕をひねられ、背を取られていた。 目の前に、困り顔の少女が見える。  「人質かい? やめてくれると嬉しいな」   少女の爪は、間近に見ると、華奢で繊細で、そして冷たく光っていた。 胸の時計が、きりきりと音をたてて時を刻む。 「ごめんね。大丈夫」   そう僕に前置きして、少女はイグニスに語った。  「約束してくれればいい。門は譲ると。 そうすれば、命までは取らない――」 「え――?」「な――?」   僕と、少女の悲鳴が、重なった。  少女の右胸に、僕の胸から生えた刃が突き立っていた。  紅く、血が流れる。 「油断のしすぎ、というものだ」  紅くぬめった刃を、イグニスが引き抜くと、ゆっくりと僕の目の前が暗くなった。 不思議と痛みは感じなかった。 びょうびょうと、秋風が胸の穴を吹き抜けてゆく。  ああ、僕には本当に……心臓が、ない。 →2−5  月は紅く太っていて、大爺様の目玉のようだった。 それはとても悪い〈徴〉《しるし》で、里のみんなは歌を歌って月を慰めたけれど、やっぱり月は怒ったままだった。   元服の日だってのになんてこった。  まぁいいさ、と、僕は自分を慰める。凶兆は慣れっこだ。 今夜僕は、山神様を迎えにいく。  今宵の、お山は荒れていた。 フクロウたちは、弔いの歌ばかり唄っていたし、風を嗅げば、〈栗鼠〉《りす》たちが巣穴で縮こまる匂いが漂ってくる。   全ての元は一つ……この血の匂いだ。  大爺様は言っていた。 山神様は、山の向こうから宝物を届けに来る。紅い肉を背負い、黒い毛を着て、僕たちの前に現れる。 山向こうから来た神様をもてなして、河へ返すのが僕のお役目だ。   それなのに……。  僕より先に神様と会い、僕より先に傷つけたやつがいる。 しきたりを知らず、贈り物を尊ばない、傲慢な者。人の族。 それを思うと血が沸き立った。  木々の梢を渡りながら、僕は息をつく。 月は紅く怒っていたけれど、風は優しかった。 山向こうの風の源の大フクロウ様に感謝する。   血の匂いは、どんどん強く、濃くなり、僕の血も沸き立つようだった。  その日。   紅い影の元で、僕は、山神様と出会った。  山神様は、里の一番大きな兄より、なお大きくて、両の腕ときたら、丸太みたいだった。 胸には三日月の〈徴〉《しるし》をつけ、その吠え声と来たら、四方八里の枯れ木を打ち倒すほど。 その右目と胸から血が流れていた。 「ここに参ったのは風のうしろを歩むもの。しきたりによってまかり越した。昏き月の御遣いよ、贈り物を賜りたまえ」  丸太のような腕が振られ、風が悲鳴を上げた。 顔に紅い血がかかる。山神様の血、そして僕の血だ。   お役目は、血を流さず皮を痛めず、そして決して骨を折らずに山神様を迎えること。 けど禁忌の一つは、もう破れた。  風に乗って梢をかける。 月に頭を垂れ、遠吠えに、罪を叫ぶ。 一族の兄と父と姉と母たちよ。山神様と山の長よ。 山向こうの大フクロウ様。   どうかこれから行うことをお許しください。  牙にあふれる血に焦がれながら、僕は、枝を蹴った。     むせかえる血の匂い。 喉にしたたり落ちる甘美な血潮。 深い罪悪感にかられながら、僕は肉を咀嚼する。   血はとめどなく流れ、気がつけば、胸まで血の海に浸っていた。 粘つく血が手足をぎりぎりと縛り、胸の中で、心臓が燃えるように脈打つ。   いまや首に届くに至った血の海に圧迫された肉が血を噴き、あふれる血の匂いと混ざりあう。     血に溺れそうになったその時、かすかな風が吹いた。 それは、暖かいぬくもりで血を洗い流し、僕の髪をすいてゆく。 それが僕のまぶたをなでた時、目が、開いた。   ゆっくりと視界の焦点が定まる。 僕は、血を遠ざけるために弱々しく腕を動かす。   その手が、しっかりと握られた。 「克綺君、大丈夫?」   それが管理人さんで、自分が悪夢から目覚めたことに気づくのに、しばらくかかった。 「はい、大丈夫です」   反射的にそう言ったが、まだ、胸が恐怖に脈打っていた。 僕は、左胸を掌で触った。   こんなにも強く脈打つ感覚を味わうのは、何年ぶりだろう。 「一体、どうしたの?」   管理人さんに聞かれて、僕は、思い出した。   イグニスと名乗った謎めいた女。そして、人間離れした動きをする少女。なによりも、胸に感じた冷たい鋼の感触と、突き出した紅い切っ先を。  もう一度、胸に触る。 傷といえる傷はない。   顔を上げると、管理人さんが、気ぜわしそうな顔で見ていた。 僕は、質問に応える。 「日本刀を持った女性と、牙の生えた女の子の戦いに巻き込まれて、心臓を貫かれました」   言ったあと、あまりに非現実的だなと思い、一応フォローする。 もっとも非現実的なのは僕のせいではないのだが。 「夢でなければ、の話ですが」   管理人さんは、眉をひそめたあと、笑みを浮かべた。 「どっちにしても、無事でよかったわね」 「まったくです」   体を起こそうとすると、無理矢理、寝かされた。 「だめよ、もう少し休んでなさい」   ふと気づく。  管理人さんが、上から覗き込んでいる、ということは、位置的に考えて、僕の頭の下にある柔らかいものは、管理人さんの太ももだろう。  つまるところ、これが世に言う膝枕というものなのか。 管理人さんに、指で優しく額を押さえられて、僕は顔を上げるのをあきらめた。確かに、まだ軽い目眩がある。 「僕は……どうしたんですか?」  「克綺君はね……あら」  どんどんと、せわしなく戸を叩く音がした。 「恵ちゃんね。どうぞ」  鍵はかかっていなかったらしい。 声と同時に、戸が開き、走るように恵が入ってきた。   僕を見て、大声を上げる。 「お兄ちゃん、大丈夫? 何してるの!」   気遣う響きが声から消えて、怒りに変わる。 恵は何に怒っているのだろう。  「ちょっと!」   恵は、座ると、僕の頭を、管理人さんから奪い取るように抱きあげた。 不自然な姿勢で引っ張られて首が痛かったが、恵の二の腕は柔らかかった。 「道で倒れたって聞いてきたのに、いったい、何してるわけ?」   恵が僕をにらみつける。  「そうか。道に倒れてたのか」  「そうって何よ!」   ああ、世の中は、かくも理不尽だ。 「そのへんの記憶がないんだ。 今、目が覚めたところ」  「そうなんだ……どこか痛くない?」  「その持ち方は首が痛い」  恵が、はっとしたように手を離すと、力学的な帰結として、僕の首は管理人さんの膝の上に落ちた。   ……いったい、どうして僕が恵ににらまれなければならないのだろう? 「それじゃ、兄がお世話になりました」   恵の言葉には、どこか棘があった、と思う。  「いいえ」   送り出す管理人さんは笑顔だった。 「そういえば……お弁当、ありがとうございました」   僕は、ふと思い出して声をかける。 あの煮物の味付けは、管理人さんの技だ。  「あ、私は、ちょっと手伝っただけよ」  「おいしかったです」 「そう、よかった」   なぜか恵は、横でふくれっつらをしていた。  自室のドアを開けると、なぜか恵がついてきた。  「何しに来たんだ?」   そう言って僕は驚いた。 恵は目に涙をためていた。  「晩ご飯……一緒に食べようかなって」  「いいとも」   そういえば、例のビーフシチューは、僕の部屋にあったんだ。 「シチューでも温めよう」  「私がやる」   きっと恵が僕をにらむ。  「ああ、ありがとう」  事態が今ひとつ分からないまま、僕は、ベッドに横たわる。   馴染みの枕に顔を埋めると、疲れがどっと押し寄せた。  昨日といい、今日といい、色々なことがありすぎた。 新しいことと出会うのは嫌いじゃぁないが、もう少し、間を置いて来てくれるとありがたいのだが。 偶然に偏りがあるのは確率統計の保証するところだから、仕方ないのだろうけれど。 「お兄ちゃん、できたよ」   峰雪がいたら、「陰々滅々」と表現しそうな声で、恵が呼んだ。 「いまいく」   僕は応えてベッドを立つ。 「いただきます」 「いただきます」 「おいしい? お兄ちゃん」  「あぁ、おいしいな」   シチューというものは一日おけば味が染みて、よりおいしくなるものだ。 ニンジンの甘みも、スネ肉の味わいも、格段に深くなっている。 「そぉ?」   恵が、猜疑心に満ちた目で、こちらを見る。  「おいしくなっていると僕は思う。 恵は、違うのか?」  「そういうわけじゃないけど……」  「変な恵だ」   そう言うと、恵はテーブルに突っ伏した。 「お兄ちゃん、管理人さんと、どういう関係なの?」   ようやく顔だけ上げた恵が、それだけ言った。  「大家と店子の関係だな」 「それだけ?」 「それだけだ」  「管理人さんの部屋で、何してたの?」  「介抱されていた。 目が覚めたら、膝枕されていてな」  「目が覚めたらって、何があったか覚えてないの?」 「日本刀を持った女と、牙の生えた女の子の戦いに巻き込まれて、心臓を刺された」  「え?」  「覚えているのは、そこまでだ」   恵は、おそるおそる、と言ったふうに僕の顔を見た。 「お兄ちゃん……もしかして、冗談を言おうとしてるの?」  「いや。そのつもりはない。もう懲りた」   前に何度か「冗談を言う」というのを試したことがあるが、ことごとく失敗に終わった。 どうやら冗談というのは、例のテレパシーと密接な関係を持っているらしい。 「よかった……ってよくないよ。 本当なの、それ?」  「少なくとも主観的には事実を述べている。無論、記憶の混乱や妄想の可能性はある」   僕は淡々と告げた。 「そうね……それも困るけど、とにかく気をつけてね」  「あぁ、気をつける」   ビーフシチューを食べ終えて、僕はスプーンを置いた。 フランスパンをとって、シチュー皿に残ったシチューをこそげて食べる。   これがまた絶品で。 「心配したんだからね。管理人さんから連絡が来て、お兄ちゃんが道で倒れてるって」  「そうか。心配かけたな」  「無表情に言われると、嫌み言ってるみたいだよ」  「地顔だ」  状況に合わせた表情……というのを試したことがあるが、「冗談を言った」のと同じくらいの失敗に終わった。   あの時は、峰雪に、 「おまえのそれは愛想笑いとは言わん」   と言われたっけ。 やつの足が震えてるのを見るのは、後にも先にも、その時だけだった。 「ねぇ、お兄ちゃん。私が事故にあったら……心配してくれる?」  「心配とは、事故に遭いそうな時にするものだ。事故に遭ってしまったら、もう心配じゃない」   僕は、正しい言葉を探した。  「おまえが事故にあったら、僕は……そう……悲しむ」  ふと恵を見ると、見たこともない表情をしていた。  「どうした、顔が紅いぞ?」  「そんなんじゃないわよ! もぅ」   もはや何が何だかわからない。  「今日は、怒られてばっかりだな」   恵は、今度は、吹きだした。 よくわからないが、嬉しいならいいことだ。 「ごちそうさま。お兄ちゃんといると退屈しないわ」  「ごちそうさま。ちなみに退屈しないというのは、中国では……」 「いいから! 今日はこれ以上余計なこと言わないで」   恵が憤然と席を立ち、ドアに向かう。  「おやすみなさい」 「……」  「挨拶は、余計なことじゃないの!」  なるほど。  「おやすみなさい、お兄ちゃん!」 「おやすみ」  恵がいなくなると、部屋ががらんとした。  皿を洗っていると、静かすぎる部屋が落ち着かなかった。 さっきまでは、あれほど静けさが恋しかったのだが。 人間とはおかしなものだ。  部屋にシチューの匂いがこもっているので、僕は窓を開けた。 夜風が体を冷やす。火照った体に心地よい。 見上げると、欠けた月があった。  ……その時。   大地を照らす月の青い光は、矢のように僕の目を射抜いた。   光は脳髄を裂き、延髄をえぐり。 喉を灼きながら胃で暴れ回り。 やがて、それは、左胸に落ち着いた。  胸が、熱い。 真っ赤な塊が僕を内側から燃やす。 口が開く。 叫びが漏れ出る。 人でない叫びが。   風が。荒々しい風が。 喚きに従い僕を囲む。   飛べ、と北風が呼ぶ。 狩れ、と月が招く。 喰らえ、と血が叫ぶ。  僕は、跳ぶ。 窓を抜け、軽々と夜の街を走る。 どれだけの速さなのか。 耳元でごうごうと風が鳴る。   ようやく気づく。   ああ、これは夢だ。 けれどそれは。 夢にしては、あまりにも甘美で。 幻にしては、あまりにも生々しく。  口に肉の味が、爪に血の温もりが、感じられた。 そして鼻が、僕を導いた。 獲物は……あそこにいる。   人。二本足の。弱々しい。 雌。   雄叫びを上げて、僕は大地を蹴った。  宙を走り爪が伸びれば、真っ赤な血がそこにしぶいた。  その建物に、地階があることを知る者は少ない。  この町の深部を知る、一握りの者。 ごくわずかな例外だけが、この町の真の姿を知っている。 「入りたまえ」   黒い、大きな執務机。 実用本位のデスクで、男は書類に目を通していた。 軽やかなノックの音に、顔も上げずに返答する。  「は、失礼します。報告にまいりました。  例の九門克綺に関してですが――」 「九門、克綺……?」   それまで、休む暇もなく書類をめくり、視線を行き来させていた男の動きが、止まる。 「あくまで未確認ではありますが、九門克綺が“最も気高き刃”と接触した、という情報がありました」  「なに? “最も気高き刃”? やつがとうとう、この町へ?」  「いまだ、確認は取れておりませんが」  「早急に事実関係を確認しろ。 最優先事項だ」 「は、承りました。 それともう一つ、ご報告が――」  「構わん。続けろ」  「蝕を目の前にして、人外の動きが活発化している様子です。今日も一体、新たな草原の民が確認されました」  「ふん、門を探しに、こんな辺境までやって来たか。  だが、捨て置け。今は、些末にかかずらわっている場合ではない」 「それが、どうも九門と接触したようなのです」 「接触? ……風の力を、受けたのか?」  「確認は取れていませんが、その可能性は決して低くありません」  「厄介事は、まとめて起こるものだな」   男は、一度大きく首を振って、吐き捨てる。 「九門も軽視はできないが、しかし取り立てて大きな変化があるわけではあるまい」 「何よりもまず、“最も気高き刃”だ」   ――無論、簡単に尻尾を掴ませるわけもないだろうが。   男はそう呟いて、小さく唇を歪めた。 「計画は完成目前だ。下手に手出しはするな。  時間はないが、我々も慎重に動く必要がある」  「は、承りました」  「わだつみの民は、どうだ。夜闇の民との決議は、届いているだろう?」  「そちらの方も、順調に準備が進んでおります」  「これ以上余計な注目を浴びたくはない。速やかに準備するように」  男は秘書を下げると、背もたれに身体を預け、机の上に足を投げ出す。  積み重なった書類が、音を立てて床に崩れた。  「これで、三つの護りが揃ったか。 さすがにコードマスターを、見捨ててはおかないな」   ひとりごちて、自分でも気づかないうちに、顔が歪む。 全てが順調に進むなどと、考えたこともなかった。   だが、それはそれとして、目の前に障害が立ちはだかると、やはり気落ちするものだ。  来るべき障害を目の前にして、男はひとり、忌々しく呟いた。  「……それにしても、厄介なものがやってきたものだ」  目覚めは最悪だった。 汗に濡れた服は、ぴったりと肌にはりつき、口の中は、べとべとしていた。  起きあがってから、自分が部屋着のまま寝込んだことに気づく。 全身の筋肉が熱っぽい痛みを持っていた。  夢。 ひどい夢を見た。  月の光に酔ってあの窓から飛び出し……ふと見れば窓は開けっ放しだった。   僕は首を振る。 夢のストーリーが作られるのは、起き抜けだ、と聞いたことがある。 ぼんやりとした印象の塊が、覚醒しつつある意識によって「物語」に組み替えられ、「夢」として記憶される。   さしずめ僕は、窓を開けっ放しで寝たせいで体を冷やし、悪夢を見たのだろう。   そして、窓が開いていた、という事実から逆算して、窓から跳びだして夜の街を走る夢を作り出したわけだ。   朝の秋風は冷たかった。  僕は体を震わせて、窓を閉める。 ──窓枠には、べったりと裸足の足跡がついていた。   溜息をついて僕は服を着替え、顔を洗った。 口の中の嫌な味を洗い流そうとうがいをする。 吐き出した水は茶色かった。 鏡に映った歯列は、茶色く汚れていた。   ふむ。 「お兄ちゃん、起きてる?」   戸を叩く声が、僕の思いを中断させた。 「あぁ」   僕は扉を開ける。 「朝ご飯、どうする?」   僕は胃の腑に手をあてた。重い塊が、そこにあった。 有り体に言って気分が悪い。  「今日は遠慮する。体調が良くない」  「そう……あの、お弁当は?」   恵は、弁当箱を差しだした。  「あると嬉しい」   恵がかすかに笑った。 「今日のは、私一人で作ったから、味は保証しないけど……」  「弁当のメリットは味だけではない。 購買にゆく労力と、食費が軽減できることが大きい」  「そういう話じゃなくてね」  「ふむ、確かに、食費が軽減されるとは限らないな」  僕は恵を見つめた。  「なぁ恵、今日の弁当の原価は、どれくらいだ?」   恵は、しばらく黙りこみ、10数えるほどの間を置いてから、〈訥々〉《とつとつ》と語り始めた。  「お兄ちゃん、地球では、朝早く起きてご飯を作ってくれた人には、お礼をすることになっています」   顔が真顔だ。 「僕が頼んだわけではない。 恵が、自分で弁当を作りたかったのなら、それに、お礼を言うのは変だ」  「早起きして、お弁当を作るのは、大変なんです」 「人それぞれだろう」 「私は大変なんです。大変なことをして、お弁当を作ったのは、お兄ちゃんのためなんです」  「……そうなのか?」 「そうです」 「では、ありがとう。覚えておこう。 でも言ってくれないとわからない」 「どういたしまして」   恵は、真顔でうなずいた。  「では言っておきますけど、晩ご飯も、お兄ちゃんのために用意して待ってますから」 「そうか。じゃぁ早く帰ろう」  珍しく、地球人と、ちゃんとした会話が出来た。 僕は満足して家を出た。恵は疲れているようだった。 弁当の準備は大変らしい。  入り口のところで管理人さんと出会った。 「あ、管理人さん、行ってきます」  「あら克綺クン、ご飯は?」 「体調が悪いので、朝は抜きます」  「そうなの? じゃ、お弁当持ってく?」 「恵にもらいました」   僕はカバンを叩く。 「そう……体には気をつけてね。また倒れたりしたら、大変でしょ」  「気をつけます」  「じゃ、いってらっしゃい」  「いってきます」  朝食を抜いたせいで、学校に着いたのは早かった。 「おはよう、今日は早いですね」  「メルクリアーリ先生、おはようございます」  「九門君、ちょっとした手伝いをお願いしたいのですが」 「はい」   “最強の”メルの頼みを断るのは難しい。 いや、断ったからといって殺されるわけではなかろうが。 この人の場合、優しい表情をすればするほど、いかんともしがたい迫力が宿るのだ。  着いたところは、教会の中だった。  僕は、あたりを見回す。 外から見たよりは、広い印象を受ける。 「珍しいですか?」 「ええ。初めて来ます」   ミッション系の学校なので、キリスト教系のイベントなどもないわけじゃない。 ただそれは、全校生徒が集まる講堂で行うので、この小さな教会は、結局使われないのだ。   毎朝、ミサをやっているらしいが、当然、出たことはない。 あとは卒業生が結婚式に使うことがあるらしいが、それも当分、縁がない。 「こちらのプリントのホチキス留めを頼みます」   聖堂の机の上には、ずらりとプリントが並べられていた。   楽譜と歌詞が書いてある紙だ。  「今度のミサで使う聖歌なんですが」 「なぜ僕を?」   並んだ紙を取りながら僕は聞いてみた。 担任というわけでもないし、さして付き合いが深いわけでもない。  「君は、ずばりと核心をつきますね。 性格なのですか?」   「性格じゃないです。単なる欠落です」 「まどろっこしいのが苦手、ということですか?」   「まどろっこしいというのが、よくわからないんです」   テレパシーのある人間は、はっきり物を言わなくても通じさせることができる。 『ほのめかす』というらしい。 僕には無理な芸当だ。  「まぁ質問の前に、お茶をどうぞ」  「作業が止まりますよ?」 「いいんですよ。 君とは少し話をしたかったから」  メル神父が入れたお茶は、かすかに薔薇の香りがした。  「何のお話でしょうか?」 「そうですね、非公式の進路相談とでも思ってください」  「質問に応えていただいてませんが」 「そうですね。何から話しましょうか。 私は神父で、告解の秘蹟というのを長年、執り行ってきました。 いわゆる懺悔というものです」   僕は、軽くうなずく。 「懺悔というと、深刻に聞こえますが、なに、信者の人は毎週しています。 ちょっとした相談の時間、みたいなものですね」  「はい」   つまるところはカウンセリングなのだろう。 どちらも受けたことがないから本当のところはわからないが。  「そうは言っても、やっぱり深い悩み、人に言えないことを抱えている人も見てきました」 「今の僕がそうだ、と?」  「そうですね。悩みというのとは違いますが、何か、もてあましていることがありませんか?」   僕は、ちょっと眉をひそめる。 この質問自体には、さほど意味がない。   一時期、僕以外の人間が持つテレパシーについて知りたくて、勉強したことがある。 その時、知ったことだが、今、メル神父が使ったのは、コールドリーディングと呼ばれるテクニックだ。  たいていの人間は、もてあましているものを抱えているわけだから、こう言われれば、「はい」と応える。 そうやって、さも相手についてよく知っているかのように振る舞うことで、相手を信用させることができる。   占い師のテクニックと聞いたが、考えてみれば、神父にとっても使えるテクニックかもしれない。 「メルクリアーリ先生」 「なんですか?」  「それは本当にそう思われているのですか? それとも僕を信用させる手管のおつもりですか?」  「本当に核心から入りますね」   面白そうに笑うメル神父。 「別に引っかけようとしたわけじゃありません。今日の九門君の顔は、本当に、深刻でしたから、聞いてみたまでですよ」  「そうですか……確かに、もてあましてることはありますが、先生に相談するようなことではありません」  「わかりました。ただし、自分で世界を狭くしないほうがいいですよ。いつ誰が助けになるかはわかりませんからね。 私はいつでも、この教会にいます。もし相談したいことがあったら声をかけてください」  僕は、うなずいた。 世界を狭くしないほうがいい、という言葉には考えさせるものがあった。   もっとも、今、この場で、「最近、心臓を突き刺されたり、夜中に窓から飛び出したりするんです」と相談して、どうにかなるとは思いにくいのだが。 「長居させてすみませんでした。 よかったら、また遊びに来てください」  「わかりました」  僕は、紅茶を飲み干した。 少し冷めてはいたけれど、心地よい薔薇の香りは、そのままだった。 この時点では、僕は神父の真意をはかりかねていた。 「あ、九門君、おはよう」 「あぁ、おはよう、牧本さん」   席に着こうとした時、牧本さんが、まだこっちを見ているのに気がついた。  「何か、用?」 「えっと……用ってわけじゃないんだけど……」 「どうしたの?」 「うん?」  「九門君、何かあった?」 「何かは常にあるわけだけど、特定すると、それはどんな何かかな?」   一瞬、牧本さんが泣き出しそうに見えた。 次の瞬間には怒り出しそうに見える。 「あの、ごめんなさい。 無理して聞きだそうとか、そういうんじゃないの」  「いや、そうじゃなくて。 何のことを言ってるのかな?」  「何もないならいいんだけど……」   むぅ、話が進まない。 「整理しよう。牧本さんは、僕に“何か”があった、と、推理したわけだ。しかしその内容までは特定できていない。  それはつまり、内容は特定できないが、通常と違う出来事があった、という予測でいいのかな?」   牧本さんは、人形のように、ぶんぶんと首を縦に振る。  「よかったら教えてほしいんだけど、どうしてそう推理したのかな?」  「今日の九門君、なんだか、疲れた顔してたから」 「僕でも疲れることはあるわけだけど、牧本さんにそう言われるのは今日が初めてだ」   今朝は本当に体調が悪かったわけだし。  「うぅん、そんなのと違うよ。普段の九門君は、疲れても、ほら、肩が下がるだけでさ。顔は全然変わらないんだけど、今日は、なんだか、本当に疲れてる顔してる」   そうか。僕の顔は疲れても変わらないのか。 「なるほど。推理の理由はわかった。 で、牧本さんは、それを知ってどうするつもりなのかな?」   その時の牧本さんの顔を見て、僕はどこかで間違えたことに気づいた。  声をかけるより早く、始業のベルが鳴った。  顔を伏せて背を向け、牧本さんは席につく。   何か言おうかと思ったが、良い言葉が浮かばなかった。  休憩時間に声をかけそびれて、昼休みになる。  立ち上がろうとした時、後頭部で、鈍い音が弾けた。 「克綺。おまえ、牧本に何て言った?」  「別に。質問しただけだが」  「おまえの質問は、人を精神崩壊に追い込むんだよ」   心外な言われようだが、事実としては正しい。そこが難しいところだ。  「そのつもりはないが」 「知ってる。だからタチが悪い」   そこまで言ってから、峰雪は、僕のほうをしげしげと見た。 「おい、克綺。 おまえ、何かあったのか?」   どうやら今日の僕の顔は、非常にわかりやすいらしい。僕は、少しだけメル神父のことを信用することにした。  「そのことを知って、どうするつもりなんだ?」   僕は、牧本さんと同じ質問を繰り返した。  「馬鹿の総領か、おまえは。 心配するのに理由がいるか」 「なるほど。つまり心配してくれたわけだな」  峰雪は、深い溜息をついた。  「おまえ、もしかして牧本にもそう聞いた?」 「あぁ」   僕は、試みに聞いてみた。  「僕の言葉は、牧本さんを傷つけたのかな?」 「本人に聞いてみろ。いや待て、俺もいく」  「それはありがたい」 「よう、邪魔するぜ」   峰雪と僕が近づいた時、牧本さんは、一人で弁当を食べていた。  「え、なに?」  「こいつが、あやまりたいことがあるってよ」  峰雪に言われて、僕は、今朝のことを説明した。 僕のしたことは他意のない質問であり、それ自体が牧本さんの意図を示唆しているとしたら、それは誤解であること。 もし心配していてくれたのであれば、それは非常に、ありがたいということ。   牧本さんの顔は、ときおり、ひきつったが、最後には、どうやら納得してくれたようだ。 「──というわけで、もし牧本さんを傷つけたとしたら、それは僕の間違いだ。 許してくれるかな?」 「許すっていうか……気にしないで。勝手に誤解しちゃった私も悪いし」  「そうだな」 「おい、コラ!」  うなずく僕に、峰雪が、ひねりこむような肘をいれた。  「何をする。僕は、牧本さんに同意しただけだ」 「おまえは己に克ち礼に復るというのを知らんのか」  「知らない」 「私も」   そこで峰雪、少しもひるまず、とうとうと語る。 「子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す、と言ってな。少しは反省しやがれってことだ」   かろうじて後半だけ分かった。 しかし、理由が分からなければ反省もできないのだが。 「もういいからさ、お弁当食べよ」 「っと、いけね」   見れば、昼休みも終わり近かった。 僕は、恵の弁当を取りだした。 「お、克綺、今日も弁当か?」 「あぁ、妹が作ってくれた」  「ちゃんと、お礼言ったか?」 「最終的には言った」  袋の下から出てきたのは、タッパーウェアと、アルミホイルだった。   タッパーウェアにはビーフシチューが入っていた。 アルミホイルのほうは、トーストだった。   冷めたビーフシチューは、思ったよりおいしかった。 よく煮込んで味が染みている。 一方、冷めた上に、ぐにゃりとなったトーストは、まずかった。   ただ、気分は悪くなかった。   ビーフシチューを食べ終えて、弁当箱をしまう。 「ま、そんなわけで、こいつは天然で無神経なやつだから、何か言われても気にすんな」   峰雪が、失敬なことを牧本さんに言っている。  「私も少し、九門君のことが分かった気がする。 わからなかったら聞き返せばいいんだよね」  「そんなことは、当たり前のことじゃないか?」  峰雪の回転肘打ちを、僕は今度は受け止める。  「確かに……当たり前のことだよね」   牧本さんは、深くうなずいた。  予鈴が鳴る。 「それじゃ」  挨拶をかわして席に戻ってから、僕は、そういえば心配された原因を話してないことに気が付いた。  6限目の授業が終わって、僕は家に向かった。 帰り際に峰雪に誘われたが、恵が待ってるというと、分かってくれた。  見覚えのある傘を見かけたのは、踏切にさしかかった時だ。  声をかけようかと思う間に、少女は踏切をくぐる。  追いかけて踏切に入った時、ベルが鳴りだした。 足早に駆けだしたその時、ふと頭上に気配を感じる。  見上げると、遮断機の棒が怖ろしい勢いで、落ちてくるところだった。  僕は、痛みに呻いた。地面についた頬が熱く痛む。 どういう故障か、ゆっくり落ちるはずの遮断機の棒が、勢いをつけて、落ちてきたらしい。  僕の顎の下に線路があった。耳元では、鐘が鳴り響いている。 その二つを合わせて考えるのに、しばらく時間が、かかった。  僕は、地面に手をついて、頭を持ち上げた。 とたんに吐き気がこみ上げる。 膝が折れて、もう一度、アスファルトに転がった。  ──立つのは無理だ。  すでに、鐘の音にまじって、轟音が近づいてきている。   僕は、身をひねった。 両手を使って、思い切り地面を転がる。  間一髪と言っていいだろう。  通り過ぎる電車の車輪を間近で見るのは得難い経験だった。  向こう側の遮断機が開いた時には、当然、あの子の姿はなかった。   そういえば、昨日も似たようなことがあったな。  ようやく立ち上がって、僕は、埃を払った。 制服の肘と膝が、ずいぶん痛んでいる。 僕を殴った遮断機は壊れているらしく、電車が去っても降りっぱなしだった。 緊急の問題はないだろうが、放ってもおけない。  緊急呼び出しボタンというのを押して、僕は先に進んだ。  昨日の出来事を数に入れると、これで、二日で二回、死にかけたことになる。その確率は、どんなものだろう。   そんなことを考えながら街を歩いている。 後頭部は、ずきずきと痛みっぱなしだ。  頭をなでる拍子に、ふと上を見上げると、巨大なクレーンと鉄骨の束が見えた。駅ビルの工事だ。  クレーンの先の鉄骨は、風のせいか、ずいぶんと揺れていた。   ああやって揺れるほうが、かえって安定するのかな、と思っていると、ふと、鉄骨の一本が、束から滑り落ちる。   その鉄骨は、くるくるとバトンのように回りながら、僕のほうめがけて落ちてきた。  当然、走った。  僕のすぐ後ろで、鉄骨が落ち、ガードレールをひん曲げて、車道に出たところで止まった。   わずかな沈黙のあと、思い出したように悲鳴が上がる。  僕は、二日に三回死にかける確率を、ゆっくりと計算しはじめた。 人間が十年に一度くらい死にかけるとして、二日間で一度死ぬ目に遭う確率は、おおむね1/1825。 三乗すれば、約六十億分の一(僕は暗算が得意だ)。  六十億分の一の偶然か、あるいは、誰かが意図的に僕を殺そうとしているか。   その時。  クラクションが鳴り響いた。 タイヤの焦げる音がする。   巨大なトラックがハンドルを切り損ねて、僕のほうへ滑ってきていた。  僕は、息切れしていたことも忘れ、再び走った。 危ういところで直撃を免れる。  トラックは、工事中のビルに突っ込んだ。  フロントガラスの破片が、あたりに飛び散る。  さぁこれで、一兆と80億分の一。 立ち止まって、その確率に賭けるつもりはなかった。  トラックは、わずかに間を置いて、爆音とともに炎上した。 ほとんどの者は、足をとめて、炎上するトラックをただ見ている。 よって、爆音に紛れた小さな銃声には、誰も気づかなかった。   頭を横からぶん殴られたような衝撃だった。手をやると、髪にはべっとりと血がついていた。  わずかに遅れて、破裂音が届く。 足下のアスファルトに、小さな穴があいていた。   狙撃。その言葉が、頭に染みるより早く、僕は駆け出していた。  聞いたことがある。   ライフル弾の速度は音速を超える。 よって、遠距離から狙撃された場合、弾着のあとから、銃声が届く、と。  物見高い連中が事件を見に集まってくる。 あれに巻き込まれたら足が止まる。  僕は人混みを避けて、闇雲に走り出した。  背後から、何度か破裂音が響いたが、振り向く余裕はなかった。  駅近くまで辿り着いたところで、僕の前に道が分かれた。  左にいけば、裏路地だ。   僕は……  駅前広場を目指した。→3−3−1へ 裏路地に入った。→3−4へ ●3−3−1 駅前広場に逃げ込んだ(デッドエンド)  さっきの事故現場では、誰も狙撃に気づかなかった。だが駅前広場なら、一般人も多い。そこにまぎれこめば、向こうもあきらめるかもしれない。   そこから駅構内に入って、電車に乗れば、とりあえずは逃げられるだろう。  僕は走り出す。人混みの群れをかきわけるように、とにかく内に入ってゆく。  ……何かを見落としている気がする。 もし、これまでの事件が、僕を殺すためにあったのなら。 敵は、(そう、敵がいるのだ)踏切に細工し、鉄骨を叩き落とし、トラックを暴走させる覚悟があるわけだ。   ならば……白昼堂々、狙撃するくらい、簡単じゃないか?  背中に冷たい汗がにじんだ。 心臓が早鐘のように打つ。 頭の傷が鼓動に合わせて痛む。 これが、冷静さを失う、ということか。   だからといって、もう振り向く暇はない。  誰かと肩がぶつかった。 反射的に頭を下げた。  そのまま僕は、ゆっくりと前のめりに倒れた。 一拍遅れて、破裂音がやってきた。  遠くのほうから、かすかな悲鳴が聞こえてきた。 人混みが、さっと四方に分かれる。  残ったのは一人だけ。僕が肩をぶつけた人。誰だろう。 僕は、最後の力で顔をあげた。  日傘が、くるりと回る。その下の顔が、微笑みかけた。        広い場所は、まずい。  僕は即座に、そう判断した。 人を殺すために、トラック一台暴走させるようなやつだ。  広場にいたら狙撃されるに決まってる。  僕は、狭い建物が入り組んでいる裏路地に向かって走った。   このあたりは、もともと新開発区だったところだ。 かなり昔、新副都心構想がどうとかで、こんな街にも多くの企業が進出した。 計画は白紙になり、ほとんどの企業が撤退し、あとに残ったのは、廃ビルの山。   なぜか取り壊しにもならず、今まで残っている。   夜ともなればチーマーも近づかないという、この場所。 もちろん僕は今まで足を踏み入れたことがない。   不思議と、怖くはなかった。   銃声が途絶えたところで、僕は慎重にビルの影に隠れた。   ぜぇぜぇと鳴る喉を休め、息を整える。 がくがくと震える膝を押さえ、背を壁に預けた。   僕は、おそるおそる後頭部に手をやった。 痛みを我慢して指で傷を探る。膝小僧なら大したことのない傷だ。 手についた血を見ている内に、僕は胸が苦しくなった。   ──狩り。これは狩りだ。   深呼吸して息を整えようとする。   大きく息を吸い込むと、肋骨の奥で心臓が脈打つのが感じられた。 指の血を舐める。   血には、ほのかな暖かみがあった。 心臓は、まだ強く脈打っている。 その脈拍の一つごとに、胸の中に何か熱いものが溢れる。   なぜ、僕なんだ? どうして僕を狩る? 殺し屋だかなんだかしらないが、どうして僕が、こそこそ逃げる必要がある?   無秩序で、非論理的な思考の群れ。 それと共に胸を満たす熱い塊。 それに身を浸すのは、心地よかった。   僕は、やっと気づく。  ──ああ、これが怒りというやつか。   胸の中で、僕じゃない誰かが怒りを燃やしていた。   そいつは叫ぶ。   爪で引き倒せ。 肉を裂き、骨を砕け。 牙を埋めろ。   血に浸れ。 悲鳴を浴びろ。  ──を狩る愚か者に思い知らせろ。   ──狩られるのは俺じゃない。   狩るのが俺だ。   風に鼻を向ければ、ぷんと火薬が匂った。 獲物は近い。   路地から顔を出せば、音よりも早く空気を切り裂いて飛来する弾が、僕の目にありありと見えた。  右手の甲でなぎ払う。   弾道の先に目をやれば、屋上に佇む赤い影が見えた。      ──獲物だ。    血をもとめて爪がうずき、舌が唇をねぶった。 さっきまでの疲れはとうに消し飛び、四肢には力がみなぎっている。  鞄を放り捨てて、僕は走り出した。 「ここだな」   新開発区の中で、ひときわ高いビル。 元々はショッピングモールか何かになるはずだった。   この屋上から、あいつは狙撃したのだ。   かすかに流れる風が、獲物の兆しを告げた。   ここにはやつがいる。  ガラスの割れた入り口を蹴破った瞬間。  小さな機械音がした。 弓弦の放たれる音と共に、銀光が飛来する。  とっさに身を沈め、頭上の矢を掴み取る。  見れば、それは木彫りの矢に、カッターナイフの刃先をつけたものだった。 刃先についたべったりと黒いものは毒だろう。多分、ニコチンか。  部屋の奥にはブービートラップの正体があった。 たわめた板と、革ひもで作った、あきれるほど簡単な弓。 ドアにつけた糸が切れれば、矢が飛ぶ仕組みだ。  胸の中で声が囁いた。 ちゃちな仕掛けだ。獲物の悪あがきだ。  冷たい声が反論する。 ちゃちな仕掛けだが、効果的だ。 敵は罠を張って待っている。  相反する二つの声に耳を傾けながら、僕は歩を進めた。  これぐらいの罠なら怖れるに足らない。僕は最短距離を通ってまっすぐ屋上へ向かった。→3−4−1へ 慎重になるに越したことはない。僕は、罠の気配を確かめながら、一歩一歩屋上へ向かった。→3−4−2へ ●3−4−1  これぐらいの罠なら怖れるに足らない。 僕は最短距離を通ってまっすぐ屋上へ向かった。  獲物の正体は見えた。穴蔵にこもって罠を巡らす小利口な蜘蛛だ。 蜘蛛の遊びにつきあう必要はない。蜘蛛の網など突き破ればいい。   廊下には、金気の匂いがぷんぷんしていた。縦横無尽に張り巡らされたワイヤーと、その先の弓矢。 あわれなほどに貧弱な罠だ。 前足……片手で全部のワイヤを弾き、全方向から飛来する矢を片端から叩き落とす。  最後の一本がカラリと床に落ち、顔をあげた瞬間。   部屋の隅から、かすかな音が聞こえた。視界の端っこから、黒塗りの矢が飛来する。   先ほどのトラップは、これを隠す囮か。   僕は……  無造作に矢を打ち払った。→3−4−1−1へ 飛来する矢を、かろうじて掴んだ。→3−4−1−2へ ●3−4−1−1  黒塗りの矢を打ち払った瞬間。  顔の真ん前で、矢は爆発した。   目の前に紅い霧が広がり、目と鼻に鋭い痛みが走った。〈鏃〉《やじり》の中身は、唐辛子、胡椒、アンモニア……そんなものだった。視覚と嗅覚が閉ざされ、僕は、黒い闇の中を転げ回った。  「かはっ! はっ、かはっ!」   喉から悲鳴が上がる。目からはとめどなく涙がこぼれ落ち、鼻は火を吹くように痛んだ。         廊下の先から足音が近づいても、僕は、無力に転げ回ることしかできなかった。     ごとり、と、音を立てて僕の首が転がる。 涙はまだ、止まらなかった。       ●3−4−1−2  飛来する矢を打ち払おうとした瞬間。首筋が、ちりちりとした。 ──なぜ、一本だけなのだ?   時間差で黒塗りの矢を放つ。そうすれば当たりやすくなる。それはいい。 だけど、たった一本の矢だ。僕が気づかなくても、刺さるとは限らない。当たっても服で滑るかもしれない。ここまで用意周到に罠を仕掛け、その詰めの甘さはなんだ?   僕は、飛来する矢を、避けるでも受けるでもなく、中途で掴み取った。   ──何が、この矢に?  矢柄は、これまでと同じ、木製だった。ただし黒く塗られている。〈鏃〉《やじり》にはナイフではなく、黒く膨らんだビニールだった。見る間に、それが膨らんでゆく。   ──爆弾?  僕は、矢を放り投げ、背を向けた。   爆発はくしゃみの音に似ていた。部屋中にふりそそぐこの匂いは……アンモニアか! 僕は、鼻と口を押さえて、あたりをうかがった。   つんとくるアンモニアの匂いは、部屋に強く漂っていた。唐辛子や胡椒も混じっている。これをまともに喰らっていたら、目鼻をやられていただろう。   ……がしかし、死にはしない。   目鼻をやられ、無防備な僕に、とどめを刺す必要があるはずだ。   間違いない。獲物は近い。  鼻が利かないのが問題だが、僕は、闇雲に廊下を走り始めた。 →3−4−3へ ●3−4−2  どうも、おかしい。 本気で殺そうと思えば、やつは、いつでも僕を殺せたんじゃないか?   いまにして思えば、踏切で、遮断機が落ちてきたのは、やつが狙撃して部品を壊したせいだろう。   では、僕が線路で倒れてる時に、なぜ、撃たなかった? 事故死に見せかけるのが目的なら、そのあと、白昼堂々狙撃してきたのは何故だ?   つまるところ、僕は、もてあそばれている。  そう思っただけで、胸の中の誰かが烈火のように怒った。 全身を熱い血がかけめぐり、手指の爪が鋭く伸びる気さえする。   僕は、懐から時計を取りだした。 ゆっくりと呼吸を落ち着け、心拍が、秒針の動きに重なるのを待つ。      論理的に分析すれば、今、分かっていることは二つ。   ──敵は、僕を殺すことを躊躇しない。 ──しかし、僕を殺すことが、敵の最終目的ではない。   秒針の音は精確にして静謐で、僕は、ここが戦場ということを忘れられる。   ──つまり、僕を死ぬような目に遭わせることが目的ということだ。それによって、相手に何の利益があるのか。     ──仮説1。    僕が死ぬような目に遭うこと自体が、    敵の利益である場合。    例えば僕に恨みを持っており、    恐怖で苦しめることで満足を得ようという場合。   ──仮説2。    僕が死ぬような目に遭うこと自体が、    何かの結果を生み、それが相手の利益となる場合。     ──仮説1を検討すれば、可能性はあるといえる。   人は誰かの恨みを買っているものだ。 ただし、すぐに思い当たる節があるわけではなく、これ以上の絞り込みは不可能なので、この仮説は現状打開の役には立たない。   ──仮説2。   死ぬような目に遭うことで変化したこと。   それは、僕の、この身体能力と精神的な変化だ。 思い返せば、さっきから僕は、撃たれた弾を目で見て避けたり、飛んできた矢を掴み取ったりという非常識な行動を繰り返している。   これらの変化は、肉体の危機に応じたものである可能性が高い。     ──仮説2を採用する場合、敵の目的は、僕の身体能力を引き出すことである、と考えられる。 しかし、僕が死なないように努力してる節は見られない。   よって。   ──仮説2−1。   敵は、僕が死ぬと思っていない。   僕の潜在能力を、よほど信頼している。   ──仮説2−2。   敵は、僕が死んでもいいと思っている。   おそらく、攻撃で死ぬ程度の能力は必要としない。   現状、行動方針とすべきは、仮説2−2だろう。 つまり、これらはテストであり、僕は、そこに生き残らねばならない。 テストにつきあう必要はないが、影から襲われ続けるのは、問題がある。   時計を胸にしまう。   再び心臓が脈打ち始める。 熱い血潮が体の隅々に行き渡る。   僕が生き残るには、この力……獣の力が必要だ。   けれど、それだけでは足りない、という気がした。  暗い廊下に、かすかに光るものがあった。目をこらして眺めれば、廊下には縦横無尽にワイヤーが張り巡らされていた。 トリップワイヤというやつだろう。 引っかけると、どこかでトラップが起動するわけだ。   踏まないのが一番だが、ただ、数があまりにも多い。全部避けて歩こうとすると、かなり無理な姿勢を取ることになりそうだ。   僕は…… ・慎重に、一本ずつワイヤを引っ張った。→3−4−2−1−1・ワイヤを踏まぬよう、注意して廊下を歩き始めた。→3−4−2−1−2 ●3−4−2−1−1  指先で、まず、最初のワイヤを引っ張る。   ひゅんと音を立てて矢が飛来した。  足で蹴り上げて勢いを殺し、地面に落ちた矢を検分する。 入り口にあったのと同じ、木の矢だ。毒を塗ってある。   僕は、矢を握って、一本ずつワイヤを切り離した。 飛んでくる矢を、一本ずつ叩き落とす。  そうしながら、罠の仕組みについて考える。 このトラップは何のためにあるのか?   後先見ずに飛び込んだら、矢が一斉に飛んでくる仕組み、それは、わかる。 けれど、それなら、どのワイヤを引っ張っても、全部の矢が飛ぶようにすればいい。 同じところに、同じトラップを、何組も仕掛ける意味はなにか? ──仮説1。    時間稼ぎ。    一斉に矢が飛ぶなら、それを避ければ終わりだが、    一つずつトラップを解除してゆくのは時間がかかる。    敵はそれを狙っているのかもしれない。        問題点としては、敵が時間を稼ぐメリットが    見えないことだ。    わざわざ、これだけのトラップを準備して、    僕を誘い込んだわけだ。    今さら時間を稼ぐ意味が見あたらない。  ──仮説2。    一つずつ解除させることが、罠である場合。  ワイヤを引き、そして矢を落とす。 これだけ数が多いと、その行為自体が、単純作業になりかけている。   僕は、ふと手を止めた。 もし、ワイヤを引っ張って、矢以外のものが飛んできたら? あるいは、ワイヤを引っ張る以外の罠があったら?  踏み出した爪先に、かすかな違和感があった。  床石が沈み、カチリ、と音を立てる。  きっかり2秒後に飛来したのは、黒塗りの矢だった。   息をひそめて、僕は、近づく矢を見つめた。 〈鏃〉《やじり》は、いつものカッターナイフではなかった。 その代わり、黒いボールのようなものが付いている。    ──爆弾?   僕は、矢をかわすと、目と耳をおさえて、地面にうずくまった。  爆発はくしゃみの音に似ていた。部屋中にふりそそぐこの匂いは……アンモニアか! 鼻と口を押さえて、あたりをうかがう。   つんとくるアンモニアの匂いは、部屋に強く漂っていた。 唐辛子や胡椒も混じっている。これをまともに喰らっていたら、目鼻をやられていただろう。   これが本命の仕掛けというわけか。 危うく引っかかるところだった。 一つ問題があるとすれば、これは致死性の罠じゃない、ということだ。   目鼻をやられ、無防備な僕は、どうなるはずだったか。 考えるまでもなく、とどめを刺されていたはずだ。おそらくは、敵自らの手によって。  廊下の奥で、これ見よがしな足音がした。   僕は、眉をひそめた。 この持って回った手口には、少々うんざりしている。 文句の一つも言ってやらないといけないだろう。   僕は、廊下の奥へと歩を進めた。 →3−4−3へ ●3−4−2−1−2  ワイヤーは、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。 廊下の真ん中にさしかかるころには、立って歩くのは無理だった。   僕は、四つん這いになり、手足、首をひねりながら、一歩ずつ進む。 柔軟体操は苦手なほうだ。すくなくとも、こんな風に軟体動物さながらの姿で歩き回ることは無理だ。 身体能力の上昇は、こんなところにも及ぶらしい。   右手と左足をそのままに、右足をあげ、かすかな隙間を通して、3センチ前に降ろす。    特に微妙な位置にさしかかった時、廊下の奥から足音が聞こえた。 冷や汗が流れる。  今の態勢を狙われたら、ひとたまりもない。   しかし、今、あせっては、さらに危険だ。 今度は左手をあげ、肘をひねって斜めに伸ばし、ゆっくりと手のひらを下に向ける。   足音が、途絶えた。  角の向こうから、空気を切り裂いて、銀光が飛来する。   ──かわせない!   かろうじて首をひねり、歯でナイフを受けた。が、それで終わりだった。   飛来する銀光は一つではない。二本目のナイフを肩口に受けて、僕はバランスを崩した。無数のワイヤを巻き込んで、僕は倒れる。   風を巻いて襲いかかる無数の矢・矢・矢。その全てを叩き落とすことができようはずもなく。僕は、血を流して横たわった。矢には毒が塗られていたのだろう。すでに指先が痺れ、呼吸が苦しい。   足音が近づく。僕は、唸り声をあげようとするが、喉に血がたまって、それも叶わない。          ゴトリ、という音とともに、僕の首が転がった。全身に矢をつきたてたまま、珍妙な恰好で倒れている体が見えた。 それはとても滑稽で、僕は笑おうと思った。     ──なんて、ぶざま。       ●3−4−3  目の前には、黒い、鉄の扉があった。聴覚は、その奥に、呼吸音を聞き分けていた。   ──やつはここにいる。   ついでにいえば、待ち受けている。 血の高ぶりが僕を動かす。  扉を蹴破り、咆哮とともに僕は部屋に突進した。  甘やかな匂いは雌のものだ。 背を向けて椅子に座っている。 椅子の主が振り向く瞬間、僕は大地を蹴り、天井を走っている。   そして僕は……。 ・そのまま爪の一撃を振り下ろした。→3−4−3−1へ・最後の瞬間に、躊躇した。→3−4−3−2へ ●3−4−3−1  爪を振り下ろすより早く、女は抜刀していた。  切っ先が爪を逸らし、そのまま翻って胴を打ちすえる。  肋骨をしたたかに撃たれ、僕は地面に転がった。 息がつまって起きあがることもできない。 だが、生きている。僕は、生きている。  ──峰打ち?   頭によぎった疑問は、首筋へ振り下ろされた強烈な一撃で断ち切られた。 「──合格だ」  かすかな声が頭上から降ってきた。 そんな気がした。 ●3−4−3−2  寸前で僕は、爪を止めた。女は動かない。 「何のつもりだ?」 「殺してしまったら、何もわからない。イグニス、何のつもりだ?」  イグニスは……そう、椅子に座っていたのは、昨日、僕を殺した、あの女だった……愉快そうに笑った。 「生存本能より知識欲を優先するのか?」 「対処療法に意味を認めないだけだ」  理由が分からなければ、ここでイグニスを殺しても、また別の者に襲われるかもしれない。それは望ましくなかった。 「今、教えてやれることは、一つだけ」   イグニスの手が、やさしく僕の手を取る。 柔らかな指が、僕の手首を押す。      それだけで、膝が崩れた。 急に気が遠くなる。  「おまえは、合格だ」   倒れ行く僕の頭上から、かすかな声がした。 そんな気がした。 ●3−5     「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」  懐かしい声に、僕は目を開けた。   恵がいた。 顔を涙でぐしゃぐしゃにして、僕の肩をつかんでいる。 「どうした、恵?」 「お兄ちゃん……よかった」   恵は、泣き顔をそのままに、笑みを浮かべた。  僕は、恵を抱き留める。 「何かあったのか?」 「あったじゃないわよ!」   怒りと、そして安堵のまじった声。 僕は、首をひねる。何があったのだろう。 あぁ、僕のことか。 「僕なら無事だ。まだ生きている」  「いい加減にしてよ!」   恵は、今度こそ怒り出した。 「遅くまで待っても、お兄ちゃん、帰って来ないし。 変なメールが届くし……」 「メール?」  「お兄ちゃんが、ここにいるって。 来てみたら、こんなとこだし……」  恵が、イギリスにいったのはずいぶん前だ。 開発区がスラムになっているとは知らなかったのだろう。  「問題ない。僕もおまえも無事だ」  僕は、身を起こした。 ご丁寧なことに、僕の隣に鞄まで置かれていた。  「待ってよ。何があったの?」   しばらく思案して、僕は応えた。  「今の段階で、おまえに言えることはない」   これまでの事件を、どうまとめたものか、僕も考えあぐねていたし、それに、恵を巻き込むことの危険も考えないといけない。 「なによそれ!」  「話せない理由がある、ということだ」   眉をひそめる恵に、僕は、続く言葉を探した。  「心配してくれて、ありがとう」  「だったら、少しは心配させないようにしてよ! 何が起きてるのか、ちょっとくらい話してくれてもいいじゃない。兄妹なんだから」   非常にもっともな答えだ。 「だが説明すると、ますます心配させることになる」  「それ聞いて、もっと心配になったわよ!」  「そうだろうな」   僕は、うなずく。  「だから、これ以上、何も言わないことが最善と判断した」   僕は、論理的な解決を提案した。 「もういいっ! お兄ちゃんのバカっ!」   論理的な解決が受け入れられることは少ない。そのことを、僕は、これまでの人生で学んでいた。  メゾンに帰るまでの間、恵は、ずっと僕に背を向けていた。  「……恵? 恵?」  「なによ!」   背を向けたまま、恵が応える。  「弁当、ありがとう。嬉しかった」  「そう」   応えた恵の声は、囁くようだった。 「おいしかった?」  「シチューは、おいしかった。 しけったトーストはまずかった」   恵が、ためいきをつく。  「お兄ちゃん、別に変わったわけじゃ、ないんだね」   僕は、変わっただろうか?   脈打つ心臓。体を燃やす怒り。 さっきまで身近にあったものは、とうの昔に去っていた。 「隠し事するようなお兄ちゃんじゃない、って思ってたんだけど」  「僕は変わったわけじゃない。 ただ……今は恵が心配なだけだ」  「そっか」 「あぁ、そうだ」  「じゃぁ、いつか、話してくれる?」 「危険が消え次第、可及的速やかに話すことを約束する」  「ん」 「あ、それと」  「なぁに?」 「晩ご飯、遅れて悪かったな」  「事情があったんでしょ?」 「約束を破ったのは僕だ」  「気にしなくていいよ。 今日は、パーティだって」 「パーティ? おまえのか?」   管理人さんは、入居者が増えるたびに歓迎パーティを開く。 「私と、あと、もう一人。 今日、新しく入ってきた女の人がいるから」  「そうか」  「どんな人か聞かないの?」 「すぐに見られるのだろう?」  「そうだけど……」  恵がすねた顔で僕のほうを振り向いた。 なぜすねてるのかはわからないが、振り向いてくれたことが嬉しかった。 遠くのほうから、いい匂いが漂ってきた。 肉の焼ける香ばしい匂いは、管理人さんの得意料理、ローストチキンだ。 →3−6へ 「あら、お帰りなさい」   入ったところで管理人さんに会った。 「制服、どうしたの? 喧嘩?」   そういえば、肘のところが破れたままだった。  「喧嘩ではありません」   殺し合いは、喧嘩とは呼ばないはずだ。  「そう。縫ってあげるから、あとで持ってきてね」 「い、いえ、ご迷惑ですから」   なぜか恵が応えた。  「いいのよ、遠慮しなくて」 「わかりました」   僕の横で恵が、すべてをあきらめたような顔をする。 「今日はパーティだけど……出られる?」 「ええ、出られます。 新しい人が来たそうで」  「そうなの! すごくきれいな人で、びっくりしたわ。 あとで準備手伝ってくれる?」  「いいですよ」 「はい」 「それと……そうだ。7号室の吉良さんに声かけてくれる? よかったらパーティに来てくださいって」  「わかりました」  部屋に戻って着替えてから、恵と合流する。 「吉良さんって誰?」 「実は僕も会ったことがない」   このメゾンには、僕以外の住人もいる。が、ほとんど顔を合わせたことがない。 みな変わり者ばかりで(峰雪曰く、僕こそが、一番の変わり者らしいが)、普通に出勤、通学してるような人が少ない。また、出入りも激しく、すぐいなくなる。   吉良さんはミュージシャンということだが、旅に出てることが多く、出歩くのも、もっぱら夜中と決まっている。  僕は扉をノックした。  「3号室の九門ですけど、吉良さんはいますか?」   答えはない。だが、ドアの向こうで何かが動く気配があった。  「……はい……」   蚊の鳴くような声で、返事があった。 ドアは、動かない。 「今日は、新住民の歓迎パーティがあるので、よかったら来てください、と管理人さんが言っていました」  「……わかりました……」 「恵、聞こえた?」  「うん、多分。わかりました、って言ってたよね」  「よかった」   可聴域ぎりぎりの返事がしたあとは、部屋は、ぱったりと静かになった。 僕は恵と顔を見合わせる。  「管理人さんとこ、行こうか?」 「そうだな」 「あ、待ってたわよ」  管理人さんの部屋の大きなテーブルは、料理で一杯だった。 見事に焼き上げられたローストチキン。香ばしい匂いに混じるクランベリーソースが、なんとも食欲を誘う。  その横には、色とりどりのサンドイッチと、スズキの焼き物。 サラダは、京水菜を主体に、さまざまなハーブを合わせたもの、そこに粉チーズと半熟卵を絡めたシーザーサラダだ。 「よう、邪魔してるぞ」   その端っこで、峰雪が包丁を握っていた。  「何をしに来た?」 「水くさいぞ、恵ちゃん歓迎パーティなら、なぜ、俺を呼ばん?」   耳の早い男だ。 「というか、その恰好はなんだ?」   峰雪は、いつもの制服の上に、エプロンをつけていた。  「なにって、管理人さんの手伝いよ」 「似合うぞ」   そう言うと、峰雪は親指を立てた。 わからん男だ。 「とりあえず、克綺クンと恵ちゃんは、飲み物から持っていって」  「わかりました」   僕は、ふと思いついて聞く。  「そういえば、今度来る人って名前はなんていうんですか?」 「ええっと……忘れちゃった」   管理人さんは、小さく舌をだした。  「庭にいると思うから聞いてみて」  いや、声をかけるためにこそ、名前くらい知っておきたかったのだが。 まぁ仕方がない。  僕はビールとワインを両腕に抱えた。恵はグラスを持つ。  庭に向かうと、果たして人影があった。 〈瀟洒〉《しょうしゃ》なテーブルに腰掛けて、ブランデーグラスを傾けている。  僕の手からビールが滑り落ちた。 地面に落ちて派手に割れた。  驚く恵を、僕は背中に庇った。 「イグニスという。仲良くやろう」  「はじめまして」   前に出た恵を。 「そいつに触れるな」   僕は引き留めた。  「お、お兄ちゃん?」   考えが足りなかった。 恵にメールしたのが誰なのか。 そんなことも忘れていた。 体がぶるぶると震える。  「恵、ちょっと部屋に戻っててくれるか?」 「……あとで、説明してよ」   恵が耳打ちする。 「何をしに来た?」   心臓のない僕だが、感情が消えたわけじゃない。恐ろしいと思う時は、確かにある。今が、その時だ。   どんな理由にせよ、恵が傷つくさまを想像しただけで、僕は息がつまり、汗が噴き出した。  「安心したまえ」   そう言ってイグニスは、皮肉な笑みを浮かべた。 「君を守りに来た」  「どういうことだ?」  「物には全て、ふさわしい時と場所がある。夜に輝く星も、昼には薄れて見えぬ。真実もかくのごとし、さ」   とぼけるイグニスを問いただそうと思った時だ。 「克綺クン、イグニスさんと、お知り合いだったの?」   管理人さんが現れた。 恵もついてきている。   僕は、イグニスを軽く睨んだ。 イグニスは楽しそうに笑い、そして囁いた。  「夜、時計台で」 「……わかった」 「では、恵ちゃんと、イグニスさんの到着を祝って、かんぱーい」   乾杯、という声が響く。 「へぇ、イグニスさんって言うんですか。外国の方ですか?」   管理人さんが作るローストチキンは、ほんとうに絶品だ。どこの地鶏を使ってるか知らないが、淡泊な部位の肉でさえ、噛みしめるだけで、滋味が広がる。特製のクランベリーソースと合わせると、絶妙の味になるのだ。   だが、今日に限っては味がしなかった。 そう思っているのは俺だけのようで、峰雪なんかは料理をパクつきながら、しきりにイグニスに話しかけている。 「イグニスで結構だ。ところで、どうして外国人だと思った?」 「ええっと……顔とか、綺麗で、日本人離れしてますから」  「これでも日本国籍は持っている。 日本人でないと言われるのは心外だな」 「おっと、そいつぁ失言でした」   峰雪をやりこめるイグニスは、明らかに楽しんでいた。 本当に日本国籍があるかどうかも怪しいものだ。 「お兄ちゃん、これ、おいしいね」   恵は、つとめてイグニスから視線をそらして、こっちに話しかけてきた。 「そうだな」   僕も、フォークで皿をつついた。 「お料理、おいしい?」   そういう管理人さんは、ほとんど料理に口を付けない。 小食なのだそうだ。 「おいしいなんてもんじゃない。天上の美味ってやつっすよ」   峰雪の叫びに、イグニスが深くうなずいた。 「確かにな。かつての〈羅馬〉《ローマ》の皇帝といえど、これほどのものは味わえなかっただろう」  「おいしいです。どうやったら、こんなおいしいチキンが作れるんですか?」  「あら、そんなに難しくはないわよ。 あとで恵ちゃんにも教えてあげる」 「おい、克綺、何、仏頂面してんだ?」 「個人的な理由だ。気にするな」 「気にするなっておめぇ……」  気が付けば、管理人さんと恵も、僕のほうを見ていた。 イグニスは、といえば、そしらぬ顔で、酒を飲み干している。 僕は、腹を決めた。今、ここで心配しても仕方がない。  ゆっくり味わって食べれば、確かにローストチキンは天上の美味だった。 よく焼いた皮は、香ばしくも味わい深く、肉は一口噛むごとに肉汁をあふれさせた。  「おいしいな」 「よかったわ」   管理人さんが笑い、僕も笑った。 結局のところ、本当に、おいしいものを食べて、笑顔でいないのは難しい。 「ごちそうさま」  食事のあとは、紅茶とデザートがふるまわれた。 薫り高いダージリンと、紅玉リンゴで作ったアップルパイは、よくあった。 「……そういえば、吉良さんは?」 「え? さっきまでいたけど」   恵が応える。  「あ、あれが吉良さんか。 いい飲みっぷりだったな」   峰雪がうなずく。 確かに、テーブルの隅には、空いたグラスの山がある。 「吉良さん、恥ずかしがり屋さんだから」   管理人さんが手を振って笑った。 恥ずかしがり屋でミュージシャンがつとまるのだろうか?   僕は、首をひねりながら、食事の後かたづけに、取りかかった。 「私も手伝います」 「あ、恵ちゃんは、いいのよ。今日の主賓だし」  「そうですか? じゃぁ、失礼します。 お兄ちゃん、あとでね」  「あぁ」  そんなわけで、僕は管理人さんと、二人で台所にいる。 「克綺クン?」  「何ですか?」  「何か、話があるんじゃないの?」  「……どうして、そう思います?」  「難しい顔して、ご飯食べてたでしょ。 なんか悩みがあるんでしょ? そうじゃないと私、傷ついちゃうな」 「難しい顔をしていたのは、食事の質とは別の事情です」  「うんうん、それで?」   管理人さんを巻き込むかどうかについて、ふと、考えたが、僕はやっぱり話すことにした。 同じ屋根の下に住む以上、無関係ではいられない。 「あのイグニスという女性についてです。個人的な事情になりますが、彼女とは〈諍〉《いさか》いがありまして」  「あら。それは大変ね」   管理人さんが目を丸くする。  「イグニスと、同じ場所で暮らすのには不安があります。 恵や管理人さんが危ないかもしれない」 「あの人を追い出せ、ということなら聞かないわよ?」 「命の危険があるのです」   誇張でもなんでもない。  「克綺クンは知ってると思うけど、うちに来る人は、訳アリの人が多いわけ。 他のところで暮らせなくなって追い出されて来た人とかね」  管理人さんは、皿を洗う手をとめて、僕に向きなおった。 今まで見たことのない真剣な目つきだった。  「だから、せめて私の家からは、誰も追い出したくない。どんなことがあってもね」  「恵が死んでも、ですか?」  「心配しなくても、この屋根の下で、誰かを死なせたりなんかしません。私に任せて」  非論理的な感想だが、胸を張る管理人さんは、とても頼もしく思えた。 僕は、思わずうなずいていた。  「それと、イグニスさんだけど……ちゃんと、お話してみた?」  「え?」 「世の中の諍いというのは、たいてい、互いの話をよく聞かないところから始まるわけ。克綺クンは、そうならないでね」  「はい……これから、話してきます」  「うん、じゃぁ、行ってらっしゃい」  僕は会釈すると、時計台に向かった。 「遅かったな」  振り向くイグニスの長髪が、月光をとらえて輝く。 「夜というのは相対的な概念だ。 待ち合わせをするなら正確な時刻を指定すべきだ」 「心臓のない者は言うことが違うな」 「何を……」  イグニスは、一歩前にでて僕の胸に触れる。  かっと胸の中が熱くなる。 僕は胸の奥で、獣の咆哮を聞いた。 「知っているだろう? おまえのここは、空っぽだ。 何も入っていない。おまえは、空の器なのさ」 「比喩表現は結構だ。本当の話を聞きたい」 「言った通りさ。あの未熟な狼のことを覚えているか?」 「おまえが殺したやつか?」 「あぁ、あれだ。人狼という。深山の結界に隠れ暮らしている一族のはずだが、のこのこと都会に出てきたようだ」 「人狼、だと?」  イグニスは、眼下の光景に手をふった。 「他にもいるぞ。猫人も蟲人も。 地の下には土地神もいるし、海には海神がいる。 この街には、特に多い」 「何の話をしている?」 「魔だ。人でないもののことさ」  僕は2秒かけて、その情報を呑み込み、やっと応えた。 「それと、僕と、どんな関係がある?」 「いっただろう、おまえは器なのさ」  イグニスは、ドレスを翻した。 まるで手品のように、その右手に短剣が現れる。  「これは月牙。 人外を相手にするには力不足だが、人間相手なら十分だ」  言うが早いか、イグニスは月牙を投げつけた。 暗闇に、楕円を描いて飛ぶ刃。 人間の視力では、黒塗りで回転するそれを捕らえることができない。 だが――。  胸の奥で獣が吼えた。  思うよりも早く右手が動き、二本の指で掴み取る。 「その力だ。それは、おまえという器に注がれた人狼の力さ」   胸の中の咆哮と、あの少女の横顔が、唐突に重なった。 唇が言葉を紡ぐ。   ──イグニス!   僕の右手が月牙を投げ返す。  甲高い音がして、イグニスは抜き打ちに短剣を弾いた。  「だいぶ恨まれてると見える」 「ボクを殺しといて、何を言うんだ!」 「九門克綺!」  イグニスの鋭い声が、僕の意識を引き戻す。  「……人狼の力? 魂じゃないか。 僕の中に、あの子がいる」   心臓は、まだ名残のように強く脈打っていた。 「それが、おまえの力だ。 いや、力にしてくれないと困る」   イグニスは僕に背を向けた。  「ついてこい、克綺。 おまえには教えることがある」  前庭を抜け、銀杏並木を抜け、イグニスは歩き続ける。 「僕の中に力があるのはわかった。 でも、まだ聞いてないことがある」 「ふむ?」  「僕を守る、というのは、どういうことだ? そして、なぜ僕を殺そうとした?」  「あせるな。 物事には順というものがある」  月明かりが音を吸い取ったようだった。 くっきりと影の浮かぶ夜の中、一切の音が絶えたようだ。 「おまえは力のつまった器だ。 それは魔物にとっても同じだ」  要するに、とイグニスは語る。 「おまえが人狼の力を吸い取ったように、魔物も、おまえを喰えば、大きな力を得るのさ」 「力?」 「あぁ。血の一滴でも、肉のひとかけらでもいい。 丸ごと食ったりすれば、並の魔物じゃ千年経っても得られない力が手に入る」  僕は眉をひそめた。 「僕を襲う魔物がいる、ということか?」  声を掛けた時にはイグニスは、いなかった。 代わりとばかりそこに落ちているのは、先ほど彼女が投げつけた黒い短剣――月牙。 「イグニス? どこにいる?」  月光が声を吸い取った。  代わりに漂ったのは、すえた肉の臭いと、微かに届く荒い息。 肉食獣の呼吸。  足音はない。 ただ、興奮を抑えきれずに漏れ出す息が、確実に近づいている。  そのくせ、どこから近づいてくるのか、まるでわからない。 胸の中で獣が唸る。 僕は、かろうじて彼女を押さえ込み、あたりの気配をうかがった。  暗闇が弾ける。 咆哮と共に、頭上を魔物の影が走る。  外れたのではない。 敵の突撃を、僕がしゃがんでかわしたのだ。  そのまま前転し、イグニスが残した月牙を拾う。 ――彼女はこれを、見越していたのか?  舌打ち混じり、ナイフのように握りしめると、すぐさま向き直る。 威嚇するように突きつける。   暗闇のヴェールが脱げ、再びゆっくりと間合いを詰めるそれ。 僕は視界に捉えて、硬直した。 目の前の怪異に、息が止まる。  それは、立ち上がれば僕の背丈ほどもあろうかという、大型犬。 荒い息と共にすえた死臭を漂わせながら、鋭利な牙を剥いている。  だが無論、それはただの犬ではない。  怪異――それは四本の足もなく、滑るよう宙に浮かんでいた。  常識外の生物。 立ちすくむ僕を嘲るよう、鋭い牙が剥き出しになる。 赤く熟れた喉が覗く。  何の予備動作もなく、そいつは宙を泳ぐように間合いをつめた。 虚を突かれた僕は、食いかかる犬の牙を、黒い刃で受け止めるのが精一杯。  犬が無造作に首を振り、僕の身体は軽々と投げ飛ばされる。 銀杏の幹に激しく背中を打ちつけ、一瞬意識が遠ざかる。  僕は歯を食いしばりながら、震える月牙を敵に向ける。 獣の牙に噛み砕かれ、黒い刃がわずかに欠けている。 まともに食いつかれたら、命はない。  イグニスはどこへ消えたのか、その気配すらうかがい知ることができない。 助けを呼んでいる余裕などなかった。  落ち着け、落ち着け。 僕は、身体を硬直させる恐怖を押さえつけながら、欠けた月牙を握りしめる。  敵は宙を飛んでいるが、飛び道具を放つわけではない。 食らいつくときは、必ず、頭から飛びかかってくるだろう。 敵の動きさえ読めていれば、対処はそう難しくない。  それに、僕には人狼の力が宿っている。 犬ごときになど、負けてはいられない。  魔物は宙を滑り、音もなく加速した。 予想通りの接近。  僕は月牙を強く握りしめながら、上半身を滑らすように突撃を躱す。 その牙が、ほんのわずかに肌を掠めた錯覚。  僕は体勢を入れ替えざま、腕を振るう。 通り過ぎる犬の脇腹に、渾身の力を込めて月牙を突き立てる! 「――なっ?」  だが、月牙は空を切った。  ぐううう、とすえた臭いが鼻を突いた。   腹を切り裂くはずだった黒い刃は、自ら開いた魔物の胴に、吸い込まれる。 胴だと思っていたそれは、ただの胴ではなかった。   上下に幾本もの突起を生やし、大きく切り裂かれたそれは――第二の、顎。  宙で急制動した魔物。 ゲシュタルト、という単語が脳裏を過ぎる。 先ほどまで犬に見えたその魔物は、胴をまっぷたつに裂いた今、宙を飛ぶ巨大な頭だった。   窪みにしか思えなかった肩口が、瞳となって嘲笑する。 身体が竦む。  逃げられない。 魔物の笑みが、抵抗する気力を根こそぎ奪った。   殺される。 死の恐怖が、目の前を覆い尽くした。   広げられた魔物の顎が、ゆっくりと、止まる。  反転。 肩を飲み込むべく、開いた口が勢いよく狭められようとした、その瞬間。  銃声が鳴り響いた。  闇を切り裂いて、何かが飛来する。 腕先を掠めたそれは、今にも閉ざされようとしていた犬の口に飛び込み、破裂した。  粉末が飛び散り、魔物が悲鳴を上げて背後に仰け反る。 糸が切れた操り人形のよう、激しく宙を上下しながら、懸命に闇に後退していく。 「納得したか?」  耳元で声が囁く。 いつの間にか僕はイグニスの腕の中にいた。 緊張から解放され、立っていられなかったらしい。  豊かな胸に顔を埋めた姿勢から、僕は立ち上がる。 犬の姿が見えなくなっても、まるで夢の中にいるように、身体に力が入らない。 現実感を取り戻すよう、ひとつ大きく呼吸する。  すえた魔物の口臭に混じって、刺激臭が鼻をついた。 この臭いは――唐辛子?  イグニスの手元を見る。 握られているのは、いつものライフルとは違う、やや小振りの銃。 「唐辛子入りの弾が入っている。犬に喰らわせるにはもってこいだろう?」  「僕を、囮にしたのか?」  「最も効果的な手段を選んだだけだ。 魔物が月牙の刃程度で怯むと思うか?」  僕は反論できない。   もしあそこで、僕の突き立てた月牙が、あの犬を切り裂いたとしても、それで敵の動きが止まるわけではない。 むしろ、死にものぐるいで、僕に食らいついてくるだろう。   敵の動きさえ読めていれば、対処はそう難しくない。 同士討ちを避け、魔物を撃退するために、味方に当たっても命を奪うことのないペッパー弾を使ったイグニス。 彼女の判断は、客観的に判断して、道理にかなっているといえるだろう。  だが、どこか釈然としない。   一歩間違えれば、僕は今、ここにこうして立っていられなかった。 それなのに彼女は、どうしてこんな平然とした顔でいられるのだろう。 「これが、おまえの生きる道だ。いいか、おまえの命はおまえだけのものじゃない」  「なにが、言いたい?」  「万一、魔物にお前が喰われることがあれば無尽蔵の力を持った化け物が、一匹、解き放たれることになる。そうなれば……」  「そうなれば?」  「人の世が滅ぶ」  そう言ってイグニスは刀を構えた。  「選べ。誰にも殺されぬ力を身につけるか、それとも、ここで死ぬか」   僕は……。 ・力を身につけることを、生きることを選んだ。→3−8−1へ・人外の力などいらない、と、つっぱねた。→3−8−2へ ●3−8−1 「死ぬつもりはない」  「ほぅ?」  「僕は、生きる。何をしてもだ」  「そうか。ならば、私と一緒に来るがいい」  「おまえは、何者だ?」   月が雲に隠れる。訪れた闇の中で、赤髪の女はうそぶいた。 「私はイグニス。わけあって人類の守護者を名乗るものだ」 →4−1 ●3−8−2 「人外の力などいらない。僕は、人として生きる」   胸の奥で叫ぶ獣を、僕は、ぎりぎりと鎖で縛り付けた。  「そうか。残念だ」   イグニスの声は平静だった。 「ああ、そうだ。頼みがある」  「なんだ?」  「恵を……妹を、頼む」  「無理を言ってくれる。だが……引き受けよう」   何が無理なのか、それを聞くより早く、刃が唸った。 「たのんだ、ぞ」   肩から落ちる首が、最期にそんな言葉を発した。       →3−8−2−1へ ●3−8−2−1  デッドエンド。死神。 「お兄ちゃん、起きてる?」  恵が戸を叩いた時は、僕は着替え終わったところだった。 寝不足だが、気分は悪くない。 「ああ、今開ける」  入ってきた恵は、僕の顔をじっとみて、そしてうなずいた。 「心配事は片づいた?」 「あらかたな」  僕も、うなずく。 「お話してくれる?」 「もう少しあとになりそうだ」 「ま、いいけど」  「それはよかった」  「言っとくけど、今のはヒニク。 で、朝ご飯は?」  「まだ食べていない」  「じゃ、私、作ってくる」  「ああ、待ってる」  ベッドに座って恵を待ちながら、昨日のことを思い出す。  あの時、荒い息をついて横たわる僕に、イグニスが手を差し出す。  その手を僕は払いのけた。 「出来すぎているな」  「なに?」  「さっきのが僕の力を狙う魔物だ、と言いたいんだろう?」   イグニスがうなずく。  「魔物がいるのは納得したが、それが、ちょうど今、たまたま襲いかかってくるというのは出来すぎた偶然だ」 「前提が違っているぞ。たまたま襲いかかってきた訳じゃない」   そう言ってイグニスは首を振った。  「今、私がいるから襲いかからないだけだ。聞け」   僕は耳を澄ます。 獣の耳、谷渡る風を聞き分ける狼の耳で。  門の外には、無数の声があった。 ひそやかな息づかい。 人のものではない声には、怨嗟のうなりが混じっていた。  「……なんだ、これは?」  「聞いた通りだ。言っただろう、おまえを守っている、と。 私が消えれば、すぐに新手が現れるだろう」 「筋は通っているな」   僕はうなずく。  「で、なぜ、僕を殺そうとした?」  「なにせ、この有様だ。 私一人が守るには限界がある。 早めに、自分の力を分かってもらう必要があった」  「途中で死んだら、どうするつもりだ?」 「どうにも。問題が片づいて万々歳だ」   僕は、しばらく考えて、応えた。  「僕は、あなたが嫌いだ。 とはいえ、協力はできるだろう」  「十分だ」   イグニスは、再び手を差しだした。 僕は、その手をつかむ。 「まず、おまえには、その力に慣れてもらう。 いつでも使えるように、そして手綱を手放さぬように、だ」  「訓練は明日からだ」 「おにいちゃん、ご飯できたよ」  恵の声に、僕は顔をあげた。 「いただきます」  今日のメニューは純和風だ。塩鮭と、小松菜のおみそ汁、それに卵焼き。 「どう?」 「なかなか」  管理人さんのとは比べものにならないが、甘さをおさえた卵焼きの味付けといい、香ばしい塩鮭といい、なかなかのものである。  「管理人さんに、色々教えてもらったの。久しぶりに作ってみたんだけど……」 「うん。おいしい」  「よかった。お兄ちゃん、今日は、何時に帰ってくる?」 「わからない。なるべく早めに帰ろうと思う」 「そう……晩ご飯、ちゃんと作って待ってるからね」 「ごちそうさま」 「今、お弁当作るから」 「ありがとう」  「どういたしまして」   短いやりとりの末に、僕は家を出た。 「おはよう、九門君。悩み事は解決したようですね」 「おう、克綺、ちったぁマシな顔になったじゃねぇか」 「九門君、おはよう。今日は元気そうだね」  学校に着くなりこれだ。 どうやら僕の顔は、本当に読みやすいらしい。 「おはようございます、メルクリアーリ先生、おはよう、峰雪、おはよう、牧本さん」 「で、何か知らんが、片づいたのか?」  「ふむ」  この状況は、どうすれば片づいたことになるのだろうか? 僕が一生魔物に狙われるとすると……狙われても平気になった時か。  「おい」   不特定多数に命を狙われて平気でいられる状態、というのは、まだ想像が及ばない。 そもそも、そんな時が来るのかどうか。  「おい、克綺」   ……となれば、状況がクリアになった現在は、「解決」に近いと言えるかもしれない。  後頭部に衝撃を感じて、僕はうずくまった。  敵意。攻撃。狩り。  胸の中で熱いものが脈打ち始める。喉の奥からかすかに唸りが洩れた。  僕は……僕の中の獣が、傲然と立ち上がる。  狼の誇りを傷つけるものに死を!  赤い血を地面に注ぎ、白い骨を高い木に懸けろ!  走り出す寸前、僕の肩を誰かが押さえた。誰だ? 「おい、克綺!」   赤く霞がかかった視界の中に峰雪の姿が見えた。牧本さんが目を見開いているのは……怯えているのか?  「おまえ、大丈夫か?」   峰雪が呆れたように言う。 僕は、深呼吸をして胸を押さえた。   足下をころころと転がるサッカーボール。  それを峰雪がトラップする。 「おい、気をつけろ!」  遠くのグラウンドにそう叫んで、蹴っ飛ばした。 朝練のサッカー部が、頭を下げるのが見えた。 「ぼーっとしてるのは、いつものことだが、さっきの顔、ありゃ、なんだ?」 「……あぁ」 「あぁじゃねぇ。おまえが怒るなんて何年ぶりだ?」 「ふむ」 「だから、ふむじゃねぇ! おまえが、あんなに激怒するなんて、何があったか気になるだろうが!」 「個人的な事情だ。残念だが、君たちには説明できない。 ただし心配はいらない」 「うーん、ちょっとそれは無理かも」  牧本さんが控えめに言う。 「心配せずにいられないことは仕方がない。ただ、必要はないというだけだ」 「えーと……」  混乱する牧本さんに峰雪がうなずいた。 「深く考えないでいいぜ。こいつの言葉は言ってるだけの意味しかない」  言葉に、言ってる以上の意味があるほうが異常ではないか、というのが僕の意見。ただ、このテレパシストの惑星では通じないようだ。 「ったく。人情紙風船野郎め。 おまえでなかったら、ブン殴ってるぞ」  峰雪が肩をすくめ、それで、この話にはけりがついた。  朝礼が終わり、授業が始まる。  一時間目は、斉藤先生の化学Ⅲ。ミスター・サンドマンの異名を取る、手強い教師だ。   感覚遮断性幻覚という言葉がある。 刺激の少ない単調な行動を続けていると、大脳が慣性化し、感覚刺激を受け取りにくくなる。 その連関によって、覚醒状態を維持することが困難になり、注意力が低下して意識が狭まる。 そこで人間は一種の催眠状態に陥り、幻覚を見たりすることがあるというものだ。   椅子に座って授業を聞く、というのは、刺激の少ない単調な行動であり、学生の脳が慣性化することは珍しくない。   これは純粋に生理的現象であり、学生の集中力に帰結させるのは大いなる間違いといえよう。   数ある教師の中でも、斉藤先生こそは、〈眠りの王〉《サンドマン》と謡われた男。 可聴域ぎりぎりの穏やかな声がリズムを刻む時、眠る学生は授業時間の二乗に比例するという。 これを防ぐには、授業を無視して自習するか、内職するか、悪友たちと語り合うくらいしかない。   教室内には、はや、抵抗をあきらめて顔をつっぷしたもの、船をこぎながら、時々、はっと目覚め、必死で意識を保とうと無駄な努力をする者など、様々な学生がいた。   僕は、といえば、昨日の夜の睡眠不足がこたえていた。 さっきからノートを取っているつもりだが、すでに文字は、みみずののたくりと化しており、何度書き直しても進みやしない。   ゆっくりと視界がぼやけ、肌と空気の境目が混然とする。 秋の日差しが照らす窓際の席で、ぼくはゆっくりと、眠りに至る長い階段を降りはじめた。  内なる獣が僕を目覚めさせた。  獣は咆哮をあげ、僕を振り回す。 ふと、朝の牧本さんが浮かんだ。僕に怯えてあとずさった顔。  僕は獣に鎖をかける。そうしてやっと目を開けた。  白い光。 日の光。 その中を、無数のガラス片がキラキラと輝きながら飛んでゆく。 中心にあるのは、回転する一個のボールだ。   咄嗟に僕は片手でボールを掴みとった。  次に、飛び散るガラスを、ノートではたき落とす。  澄んだ音を立てて、ガラスは残らず、床と机に落ちた。  一息ついてボールを置いた時、ようやく、クラスのあちこちから悲鳴が聞こえた。 寝ていた連中が目を覚まし、左右を向いて状況をうかがう。  「ん? どうしたのかね?」   一心不乱に板書していた斉藤先生が、ようやくこちらを向いた。  僕が、野球のボールを見せると、クラスから感嘆の声があがった。 「校庭からこれが飛び込んで来たんです」  「あぁ。怪我はないかね?」  「ありません」  「……そうか、ないか。それはよかった」   斉藤先生が迷うのも無理はない。 僕の席の窓ガラスは、完膚無きまでに粉々にくだけていた。僕の席には、大小無数の破片が、きらめいている。 普通のボールじゃ、こんな割れ方はしない。 「あぁ、九門、一応、保健室、行ってこい。クラス委員は?」   はい、と牧本さんが立ち上がる。  「九門の席を掃除しとけ」   僕は、牧本さんに軽く頭を下げて、教室を出る。  廊下に出て、僕はポケットからボールを取りだした。 何の変哲もない硬球だが、一カ所、焦げ目がある。   あのガラスの割れ方は普通じゃなかった。 そもそも、教室の窓ガラスは、かなり分厚い(掃除の時に開け閉めするのが大変なのだ)。普通の打球が、あれだけ粉々にガラスを割るとは考えにくい。   となると、ボールは通常以上の運動量、回転を持っていたことになる。 地上からカタパルトで発射した、というのでなければ、打った打球に、あとから運動エネルギーが加えられたことになる。  つまり、こういうことだ。 誰かが絶妙なタイミングでボールを狙撃し、ボールを破壊せずにかすらせ、運動量だけを上乗せした。   携帯を取りだして、電話をかける。 そんな真似ができる相手に僕は一人しか心当たりがなかった。 「イグニス? 今のはおまえなのか?」 「いっただろう。訓練は今日からだ、と」 「朝のサッカーボールの件はいい。 だが、今のはなんだ? 僕の反応が遅れていたら、クラスの連中も怪我していたかもしれない」 「遅れなければいい」 「そういう問題じゃない」 「クラスメートの安全を考えるなら、首をくくれ。それが一番の早道だ」   言葉は鉄のようだった。 「おまえを狙う敵は誰であろうと容赦しない。 おまえがクラスメートを守りたいなら、自分だけでそうできるようにならねばならん」 「言いたいことはわかった。 訓練で必要だというなら仕方がない。 だが無駄にクラスメートを危険にさらすな」 「訓練の必要がなくなるように精進することだな」  電話は、それだけで切れた。 僕は、重い足取りで保健室に向かった。  保健室にいって見てもらったが、怪我一つあったわけもなく、僕は〈蜻蛉〉《とんぼ》返りで教室に戻ってきた。  二時間目から四時間目がきつかった。 窓が割れたせいで、風がびゅうびゅうと吹き込んだ。 薄っぺらな新聞紙を張ってはみたが、すぐに破れてしまって始末に負えない。  おまけに、いつイグニスが仕掛けてくるかと思うと気が抜けなかった。 峰雪と牧本さんが、何か言いたそうだったが、僕は、あえて二人をさけた。 なるべく巻き込みたくなかった。  だが昼休みになると、そうも言ってられない。 「おう、克綺。今日という今日は説明してもらうぞ」  峰雪が僕の机に詰め寄る。   牧本さんも顔を出す。 「……屋上に行こうか」  屋上の風は背筋に染み渡るように冷たく、僕だけでなく峰雪までもが震えていた。 おあつらえむきに人はいない。 「おまえ、どうしちまったんだ?」  「何のことだ?」 「とぼけるな!」   峰雪の、こんな顔は初めて見る。 「俺はな、ちょうど、おまえのほう見てたんだよ。 よく寝てやがんな、と思った次の瞬間、ガラスが割れた。 そして……おまえが、動いた」   唇をなめて峰雪が続ける。 「どう動いたかはわからねぇ。とにかく動いた。 次の瞬間、ボールも破片も消えてなくなってた。ありゃ人間技じゃねぇ」  「ふむ」 「あのね、さっき先生に言われてガラスを片づけたんだけど、私、びっくりしちゃった。どうやったらあんなことができるの?」  「あんなことって、なんだい? 牧本さん」  「九門君の机の回りに、ガラスの欠片が、きれいな円を作ってたの。 その外には一枚も落ちてなかった」  「つまり、おまえは、あの瞬間、ボールを掴み取った。それだけじゃねぇ。 飛び散るガラス片を一枚残らず、はたきおとしたってことになる」 「論理的な推理だ」   僕は、うなずかざるをえない。 事実から導き出された推理は美しい。  「そんなことを聞いてるんじゃねぇ」  「君は君の見解を述べた。僕もそれを否定していない。 では、何が聞きたいんだ」  峰雪が拳を固めた。 胸の奥で、鼓動が脈打った。   ──いけない。  峰雪の右腕が、ゆっくりと伸びる。 腰の入った、いいパンチだ。  けれど、悲しいかな、その拳の行き先は定まっている。 その拳は僕の頬に当たる。それより近くても遠くても、拳は威力を発揮しない。  僕は、掌で、そっと拳を押さえる。   たったそれだけで、峰雪は、つんのめった。 「ぐぁっ!」   痛そうに手首をさする。 なるべく優しく触れたつもりだが、肘にも相当な負担がきたはずだ。 峰雪は、それでも立ち上がる。 「なろっ!」   今度は左。  「やめてくれ……頼む」   僕は、声を絞り出す。  敵意。それも僕に向いたもの。 胸の中の獣は猛り狂い、鎖を外そうともがいている。 熱い血が全身をかけめぐっていた。   急に笑いがこみあげた。 級友を守るどころの騒ぎじゃない。 僕は、今、この手で、級友を殺そうとしている。 『クラスメートの安全を考えるなら、首をくくれ。それが一番の早道だ』   ふむ。 確かに、それが最も論理的な答えだろう。   僕の意志と関係なく、右腕が伸びる。 爪先は鋭く尖っている。 「やめて!」   僕という人間は、神も運命も信じない。 けれど、そのどちらかに感謝したくなる時はある。今日が、その日だった。  牧本さんがすがりついたのは峰雪だった。 とまどう峰雪。 敵意の消滅を確認し、僕は右腕を降ろすことができた。  これがもし……もし、僕にすがりついていたら。   僕は、自動的に障害として牧本さんを排除し、峰雪にとどめを刺していただろう。   荒い息をついて、僕は、屋上にうずくまった。 ポケットの中の時計を壊れそうになるまで握りしめる。 「仕方ないじゃない……そりゃ、悔しいけど、九門君にも、言えない事情があるんでしょ?」   僕は無言で頷いた。 戦いの血が抜けて、貧血を起こしそうだった。 ふぅ、と峰雪が溜息をつく。 「悪かったな、熱くなってよ。 だけどまぁ、本当に心配してるんだぜ?」  「約束しよう。いつか話せるようになったら、教える」  「そん時は一番最初に教えろよ」 「一番は無理だな。恵に言わなきゃならない」  「わーったよ。なら二番だ」 「私、三番?」  僕は、肩をすくめてうなずいた。   なんなら、全世界の人に説明したっていい。 この面倒な事態が収拾したら、だ。 「いけない、こんな時間」   牧本さんがつぶやく。  「早いとこ、お昼ご飯、食べちゃお」   「賛成。バカやったせいで、腹が減ったぜ」  「手首、すまなかったな」 「あやまるな。悪いのは俺だ」  「わかった。確かに、おまえの自業自得だ。僕にあやまる必要はない」  「なんだと、この!」  「もういいから、さ」  「そうだな、飯だ、飯」  「いただきます」   牧本さんがそう言う。  僕も、弁当のフタを開けた、その途端。  一瞬の光と音。 何が起きたのか、わからなかった。 顔に何か、べっとりと貼り付いていた。指でぬぐい、口に運ぶ。  ──うまい。  それは、弁当の中身だった。 白ご飯に、塩鮭(の破片)、芋の煮っ転がしと、ほうれん草のおひたし。 掌で顔をぬぐうと、爆笑している峰雪と牧本さんが見えた。  恵、の、わけはないか。 弁当箱の底には、一枚の紙きれが入っていた。                         「油断が過ぎる。I」 「は、はい……」   泣き笑いしながら牧本さんがハンカチを差し出す。 ありがたく受け取って顔をぬぐいながら、僕は、イグニスの顔を思い浮かべた。その顔には、あの薄笑いがはりついていた。  なんて訓練だ、まったく!  5時間目、6時間目は、訓練は休みのようだった。  チャイムが鳴って伸びをする。 今日は、本当に疲れた。 「で、〈謀〉《はかりごと》の〈密〉《みつ》なるを〈貴〉《たっと》ぶ御仁は、放課後、どうするね?」   さっそく峰雪が寄ってくる。  「今日は一人で帰る。 やることがあるのでな」  「そうか。やることあんなら、早いとこすませてこい。牧本は?」 「私は……最近、門限が厳しくて」  「あれか? 連続殺人か?」  「そう」   牧本さんがうなずく。 「連続殺人事件ってなんだ?」  「新聞読んでないのか? おまえも死体みただろ?」  「あの犯人、捕まってなかったのか?」   僕は、軽い驚きを感じる。 「ないどころか、同じ手口で五件目だよ。他にもいるんじゃねぇかって言われてるけどな」   五件だと? 聞いてみれば、先日の事件を含め、ここ数週間で、五件もの不審な死体が発見されたということらしい。  「内緒の話だけどな。うちの親父に言わせると、もっと多いらしい」 「お父さんが?」  「うちは坊主だからな。 マスコミには隠せても、葬式は隠せないだろ」  「五件か……」 「なんだ? また統計がどうって話か?」   この前、確か、僕は「殺人事件の一つでは、統計的な街の安全は揺るがない」と言ったんだった。  「意見は撤回する。 現在、この街は、統計的に見て、大変危険だ。 安全管理面で、何かとてつもない問題が起きている可能性がある」  「やだ、やめてよ」   牧本さんが、おどけた仕草で肩をすくめる。 「いや本当だ。五件もの連続殺人事件というのは、統計的に有り得ない」  「ん? 有り得ないってこたないだろ。 アメリカとかにゃよくあるし、日本でも何件かあったはずだぜ」  「全然違う。いいか、一人で複数の人間を殺すことは、さほど難しくはない」   牧本さんの顔色が変わる。 意味はよくわからない。 「同じ人間とばれない内は、逃げ切ることもできるだろう。いわゆる連続殺人は、ほとんどが、このパターンだ。  逆に言うと、手口などから、同一犯と推定された時点で、ほぼ逮捕は秒読みとなる。 複数の事件の手がかりから、一挙に絞り込まれるわけだからな。そして日本の警察は優秀だ」  「なるほどな」  「今回の事件の場合、この狭い街で、短期間に五人もの人間が殺され、しかも同一犯が疑われている。 その状態で逃げのびることなど、通常ではありえない」 「ありえないって……どういうこと?」  「異常な状況だ、ということだ。 警察が機能していないか、あるいは、常識を越える犯人が存在するか、だ。 どちらにせよ状況の改善が見込めるまで夜間の外出は控えたほうがいい」  「う、うん。そうする」  僕なりに有益なアドバイスをしたつもりだが、なぜか牧本さんの顔は、ひきつっていた。  秋の日はつるべ落としという。   峰雪から別れ、しばらく歩くと、すでにあたりは真っ暗だった。 僕は、連続殺人事件に思いを巡らす。   常識を越える犯人のほうなら、心当たりがある。   例えば、僕ならできるだろう。 夜闇にまぎれて、素手で人を引き裂き、証拠を残さずに帰ることは簡単だ。 あの人狼にもできるだろうし、そういう人外の存在が、この世には、たくさんいるらしい。  無論、この仮説にも問題点はある。 魔物が存在して人を殺すのであれば、こうした連続殺人事件や不可能犯罪は、とうの昔に話題になっているはずだ。 「連続殺人事件は希」という前提自体が、ひっくり返ることになる。   しばらく熟考して、僕は、この問題に関しては、情報が足りないと結論づけた。 あとでイグニスに聞いてみよう。   ふと、背後から気配を感じる。 やれやれ。また試験か。  僕は、素知らぬ顔で、角を曲がった。 気配は案の定、ついてきた。   胸を押さえ、僕は、掌に鼓動を感じた。   ──獣の力を僕のものに。   峰雪と牧本さんを殺しかけた苦い思い出がよぎる。   ──二度と、振り回されてはいけない。  ゆっくりと、胸の奥にある門が開く。 そこから熱いものが噴きだし、僕の体に満ちてゆく。   甘い、血の匂いに僕は溺れそうになる。   手が、足が。 敵意を察して勝手に動き出すのを、僕は懸命にこらえた。   力をこめて、指を一本一本開いてゆく。   ──これは、僕の指だ。僕が動かす手だ。   そう言い聞かせるうちに、体の震えが静まった。   よし、試験だ。  角で待ち伏せし、相手が曲がった瞬間に奇襲する。 そこにいたのはイグニスではなく……。   半魚人――そう、表現するしかなかった。  二本の足もなく、そいつは宙に浮かんでいた。胸のエラが、ぺたぺたと音を立てる。   怪異。明らかにそれは、日常の住人ではなかった。  やつも僕と同様、驚いていたのかは読み取れない。 けれども、動き出したのは、ほぼ同時だ。  拳を固めた瞬間、僕は腹に痛烈な衝撃を感じる。 槍のようなものが突き刺さる感触。   僕は血を吐きながら身をねじり、空中で態勢を立て直した。   ──早い。  鼓動の高ぶりとともに、風が、僕の回りで渦を巻く。 手を伸ばせば掴めそうな気がして、僕は右手を開いた。  轟と音を立てて、風は腕を包み、鋼より鋭い爪となる。   獣の耳が半魚人を捉え、獣の耳が気配を探る。   ──後ろ。   爆音と共に、水が噴き上げていた。 マンホール。 高く、高く登った水柱のてっぺんには、重い鉄の蓋があった。  フリスビーのように飛来する蓋に、僕は右腕を振るった。   耳障りな音を立て、蓋は両断された。思い出したようにふりそそぐ水しぶき。 水しぶきの向こうに気配が見えた。   僕は…… ・風を呼んで水しぶきを打ち払った。→4−3−1・敵の位置をつかみ、反撃を狙う。→4−3−2 ●4−3−1  両手の間に僕は風を呼ぶ。 乾いた北風が鞠のように腕の中に収まる。  「吹き飛ばせ!」   叫びとともに、竜巻が生じ、水煙を巻き上げてゆく。 風の唸りが耳をふさぐ。   そのせいだろう。 僕が背後の気配に気づき損ねたのは。  びゅるり、と音を立てて、胸から触手が飛び出る。   血を噴きながら、僕は薄く笑った。 触手が飛び出たのは、左胸だった。  ──僕には心臓がない。  胸から伸びた触手を、ぐいとつかむ。  ないはずの心臓が、どくんと脈打った。 半魚人から苦鳴が上がる。  触手を通じて、何かが僕の中に流れ込んできた。 蒼く、冷たいもの。深い、地の底の泉の水。 それは僕の胸に入り込み、四肢を満たしてゆく。  背骨が凍りつき、水が詰まった四肢は、ぐにゃりと宙に浮いた。 けれど、それは、とても心地がよかった。  イグニスの言葉が蘇る。  ――おまえは力のつまった器だ。  今、体に入っているもの。 それが、半魚人の力だと、おぼろげに理解する。  やがて貪欲に脈打つ心臓が全てを絞り尽くし、いまや、乾いてひからびた触手が、するりと背中に抜けた。  振り返れば、そこには、干物のような半魚人の残骸があった。  唐突に僕は、気分が悪くなった。  背を折り曲げて、吐く。 口から流れる汚物は、半魚人の臭いがした。 →4−4へ ●4−3−2  水しぶきのせいで、鼻は利かない。視界も遮られている。 ならば、あとは、音だ。   一心に耳を澄まし、しぶきの音に、意識をこらす。   ──見つけた。   かすかなエコーは水の中を、超高速で移動していた。 瞬時に間合いを詰め、僕の背後を取る。水中であれば、泳ぐ速度も増す道理か。 水しぶきが落ちきる瞬間、僕は振り返った。   するりと伸びる二本の触手を、両腕で捌く。  腕を伸ばす瞬間。半魚人と目が合った。 丸い瞳が、僕を覗き込む。  僕は右手を振って、その首を飛ばした。 青黒い血が吹きあがっても、丸く冷たい瞳は、瞬きもしなかった。  そこに、恐怖の色はあったのだろうか? 僕は何も読みとれなかった。  首を失った体が、べしゃりと倒れる。その瞬間、僕の胸が、どくりと脈を打った。   どくどくと流れ出す青黒い血が、空気に溶けて霧となる。 それは僕の目鼻を覆った。  ──攻撃? 罠?  そう思うより早く、血は僕の体に入り込んだ。   最初に感じたのは冷たさだ。   深い、地の底の泉の水。 水晶のように透明で、鋭い水が、僕の体を切り裂き、四肢を満たしてゆく。   咳き込めば咳き込むほど、水は僕の体の奥へ潜った。   背骨が凍りつき、ぱんぱんに水が詰まった四肢は、ぐにゃりと宙に浮いた。  ──ココチヨイ。   そう思ったのは、僕だったか、水だったか。  体内の水は、心臓の鼓動に合わせて僕の体を巡った。 それは細胞を満たし、冷たい怒りとなって僕に力を与える。   イグニスの言葉が蘇る。  ――おまえは力のつまった器だ。   今、体に入っているもの。それが、半魚人の力だと、おぼろげに理解する。 やがて、僕の体が霧を吸い込み終えたころ、足下の死体は、ひからびたミイラに変わっていた。  唐突に僕は、気分が悪くなった。  背を折り曲げて、吐く。 口から流れる汚物は、半魚人の臭いがした。 →4−4へ 「あぁ、あなた、大丈夫ですか?」  背後から中年の男の声がした。 大丈夫、と言おうと思って、また吐き気がこみ上げる。 「落ち着いて。気を楽にして」  背中がさすられ、少し楽になる。僕は胃の中身を吐き尽くした。 「男の子も惰弱になったものだ。儂が最初に人を斬ったのは十二の時ぞ」   もう一つの声がする。 冷たい男の声だった。 「人には、人の事情ってのがあるんです。自分の〈間尺〉《けんじゃく》を押しつけちゃいけません。さ、もう大丈夫ですか?」   僕は、うなずいて振り返った。  頭の寂しい中年男と、着物の侍。 現実離れした光景に、一瞬、目眩を覚える。   現実離れ? 夜の道で、半魚人と戦うのは現実離れしていないというのか?   そこまで考えて、ようやく、侍のセリフの意味に思い当たった。 『惰弱になったものだ。儂が人を斬ったのは十二の時ぞ』 あれは、僕のことを言ってるのか? 「見てたんですね?」   僕の足下には、ひからびた死体があった。  「見てましたよ」  「見て、どうするつもりですか?」   小男のサラリーマンは、ハンカチを取りだして汗をぬぐう。 「いや、そりゃぁ仕方ないと思いますよ。いきなり襲われたんですからね。 でもね、だからって殺して終わりってことにはならないんですよ。うん。 色々とね、ありますから」   警察? いや、そんな馬鹿な。 サラリーマン姿の刑事はともかく、侍姿の警察というのは無理がある。 「あなたがたは、何者ですか?」   ふん、と、侍が鼻で笑う。 まだ分からないのか、というように。  「まぁ、普通の人よりは、そちらのお魚さんに近いほうです。 こっちはこっちで色々ありましてねぇ。 ちょっと、一緒に来ていただけませんでしょうか?」   汗をふきふき語る中年男。  僕は、思わず一歩あとずさった。その時。 「儂は気が短い」   声は背後からした。 首筋に、ぴったりと冷たいものが当てられていた。 侍が手にしているのは、鎖鎌だ。  「水も風も使うな。 主より儂のほうが速い」   いつのまに、と目を疑っていると、 「雪典さん、手荒な真似はいけません」   中年男の声も、背後から響いた。  「ほんのすぐそこなんですけどね。 どうします、来ていただけますか?」   僕は…… ・闇雲に逃げ出そうとした。→4−4−1・二人についてゆくことを同意した。→4−5 ●4−4−1  僕は、走った。両の足に力を込め、思い切りアスファルトを蹴飛ばす。 上体が伸び、見る見る内に間が開く。 「あぁあ」  中年男の声がした。  風を切る音が響く。じゃらり、と鎖が鳴った。  視界がごろりと傾いた。ぐるぐると回りながら、天地が逆になる。 目の前を、首無しの胴体が走っていた。誰のだ? 僕のだ。  胴体は、三歩走ってから、足をもつれさせ、ばったりと倒れた。       ●4−5  僕がうなずくと、鎖鎌の刃がすっと引かれた。 「あぁ、よかった。なぁに、お手間は取らせません」   中年男は、汗をふきふき、僕の前に現れた。  「私、田中義春ともうします」  「九門克綺です」 「存じ上げております。 いやもうね、君みたいな真面目な学生さんに、お手間を取らせて悪いと思ってるんですよ。  でも、やっぱりね。けじめといいますかね。放っておくわけにもいきませんでね」  「そちらの方は?」   無言でつきしたがう侍を僕は指した。 「あぁ、雪典ですね。 彼方左衛門尉雪典です」   それ以上の説明はない。 仕方なく僕は話を切り替える。 「田中さんは何をしている方ですか?」  「何をしている、というのも、難しい話ですね。まぁなんですかね。用心棒って言うんですか。用心棒は古いですね。今だとなんて言うんでしょうね。 ボディーガード? バウンサー? ま、そんな仕事です」  「誰から何を守るんですか?」 「守るわけじゃないんですけどね。まぁ、喧嘩してる人を止めたりとかね。さっきは止められませんでしたけどね。すいませんね」   深々と中年が頭を下げる。 「あ、ここだ。どうぞどうぞ」  着いたところは学校だった。 「こちらです」  すっかり日は暮れて、生徒もほとんどいなかった。 見られたらどうしようかと思いながら、僕は、校門をくぐる。  校庭を抜け、真っ直ぐに教会へと向かっていった。  初めて入る夜の教会は、ひやりとした空気が満ちていた。  半ば、予想していたと思う。 「先生?」 「九門君。よく来てくれましたね」   声をかけたのは、メルクリアーリ神父だった。 中年男と侍は、頭を下げると部屋の奥に退く。  「何の用ですか?」  「田中に聞いていませんか?」 「要領を得ませんでした。 それと僕は、脅迫によって連行されることを好みません」  「ふむ。雪典が迷惑をかけたようですね。 悪いことをしました。別な用件があったものでしてね」  「ですから、その用件を聞いています」  「そうですね……進路相談、とでも言いましょうか」  ふと、室内の灯りが消えた。真っ暗な部屋で、僕は息を呑んだ。  メル神父の目は、闇の中に紅く輝いていた。背筋に寒さが走る。 僕の中で、二つの獣が騒いだ。 「先生……あなたは?」  神父は手のひらで目を覆った。頬がいらだちに歪んでいた。 「誰です?」  投げかけた低い声は、あの陽気な教師のものではなかった。 「進路相談といったな。三者面談にしてもらおう」  懐かしく、憎らしい声。  星の光を浴びて、イグニスが入り口に立っていた。    イグニスは、僕たちのほうへ来ると、どっかりと椅子に腰を下ろす。   ゆっくりと灯りがつく。 「お久しぶりですね、イグニスさん」  温厚な声とともに、陽気な教師の面影が戻っていた。 「見たか、克綺? 今のがこいつの正体だ」 「正体とは人聞きが悪いですね。 人にはいくつもの顔と立場がある。 どれが本当でどれが嘘かなんて、言えるものではありませんよ」 「人? おまえが人を騙るか?」  空中で、二人の視線が絡み合うのを、僕は見ていた。 「イグニス。余計な挑発はやめてくれ。先生、話を進めてください」 「おっと失礼。 まず、どこから話しましょうか」 「まず先生は、何者なんですか?」 「血にたかる死んだ蠅さ」 「イグニスは、黙っていてくれ。先生?」 「あぁ、そうですね。顔役、というのが近いかもしれません。こう見えても、この街では、結構、古株ですから」  神父は笑った。 「それは、魔物の顔役ということで良いのですか?」 「はっきり言いますね、君も」 「この前、申し上げましたが、はっきりとしか言えないんです、僕は」 「そう。この街の人外化生の民をとりまとめるのが私の役目です」 「その人が、僕に何の用ですか?」 「一つには苦情。君の血を追って、様々な人外が動き始めています。この街を平和に保とうとする私達にとっては迷惑な話でね」 「あの半魚人ですか?」 「彼らだけじゃありませんよ」  ふと思いついて僕は、聞いてみた。 「先生は、僕の肉体を得ようとは思わないのですか?」 「君の力は魅力的ですがね。私が求めるのは街の安定であって、突出した力は、その邪魔です」 「では先生にとって合理的なのは、僕を消去することですね」  神父は両手を大きく広げた。 「我々は文明人です。話し合いで解決したいと考えています」  「僕個人の利益と、街の利益を比較して、街を選ぶというわけですか? 信じられません」 「信用されないとは悲しいことです」   イグニスが声に出して笑った。  「いいぞ、克綺。その通りだ。 そいつがおまえを殺さない理由は、私がおまえについているからだ」   神父の表情は、イグニスの言葉を裏付けているように思えた。   イグニスを敵に回すのは危険である、ということか。 「なるほど、了解しました。お話を進めてください」   神父は苦笑して話を進めた。  「こちらも要点から言いましょう。 この街に滞在する代償として、一つ頼まれてほしいのです。 人間にも利益のある仕事ですよ」 「なんですか?」  「最近の連続殺人事件を知っていますね?」   僕は、うなずく。 「あれの犯人は、人ではありません」   当然、予想してしかるべきことだった。  「どこかの人外が、しきたりも守らずに暴れ回っていると見えます。 我々は、事件の後始末だけで大わらわでしてね。君たちに犯人を捕まえてほしいのです」  僕はイグニスのほうを見る。 イグニスは、軽くうなずいた。  「引き受けましょう」   怯えていた牧本さんの顔が浮かぶ。 そして恵の顔も。 誰かが事件を止めなければならないというなら、僕が適任だろう。 「そうですか、それはありがたい」  「お話が終わりでしたら、このへんで失礼します」  「ええ。もう遅いですからね。気をつけて」  「あ、それと先生」  「なんでしょう?」 「しきたりを守ったなら、人を殺してもいいのですか?」  帰り道の間中、イグニスは笑い通しだった。  「まったく、あの時のあいつの顔といったら、なかったな」  「論理的な疑問だったと思うけど」  「インテリ気取りが、うっかり口を滑らしたことに気づいたからさ」   僕は首をひねる。 隠すほどのことだろうか? 「メルクリアーリ先生は、人外であって、人外の利益を守るためにいるわけだろう? そのために街を平和に保つ、と」  「そうだな」  「人命尊重をするとは一度も言ってないし、また、する必要もない。今回の殺人事件だって、事件になっていることが問題なのだろう」   そうなのだ。警察を超える超常能力を持つ者による事件は、頻繁に起きているのだろう。ただ、それは表沙汰にはならないだけで。 「普通は、そこに反発を感じそうなものだが」   僕は、胸に手をやった。  金時計の針が時を刻む。カチカチと。  「僕が気になるのは、僕の友達と家族だ。それ以外の人のことは……」  「人類として気になったりはしないか?」  「色々な国で、色々な人が不幸になっている。僕は、それを見ても何もしていない。到底、人類を愛しているなんていえないよ。僕は身内を差別してるさ」 「じゃぁ出会って知りあった化け物と、見ず知らずの人間。どちらを優先する?」  「何をどのように優先するかは状況次第だろう。問題が不確実すぎる」  「そうだな……こういうのはどうだ? 仲のいい人外と、よく知らない人間が、共に死にかけていて、独りしか救えない。どちらを選ぶ?」  僕は…… ・人外だな→4−5−1へ・人間だな→4−5−2へ・論理的に無理がある→4−5−3へ 「仲の良さと状況に依存するだろうが……それならば人外を選ぶだろう」   口に出して、僕は驚いた。 僕は、そんな風に思っていたのか。 イグニスは面白そうに笑う。  「私はおまえを斬るべきかもしれないな」  「どうしてだ?」  「ポリシーというやつさ」  それきりイグニスは口を閉ざした。 メゾンにつくまで、ずっと僕たちは黙って歩いた。 →4−6へ 「仲の良さと状況に依存するだろうが……僕は人間を選びたい」  「なぜだ?」  「価値観に理由はない。強いて言えば、僕は人間だから、かな」  「それは頼もしい。生物としての務めか?」   イグニスが真顔で言う。 「生物としての務め……僕は、そんなものがあるとは思わない」  「子孫を残し、家族を守るのは生物の本分じゃないのかね?」  「生存本能も生殖本能も、長い年月の間に、生存競争によって作り上げられた解ではある。が、それ以上のものではない。僕個人が、それに従う必要は感じない」  「じゃぁ、なぜ、人類にこだわる?」  「言っただろう? 理由はないって。ただ、そう生きてみたいと思うだけだ」 「そうか」   イグニスは、少し黙って、応えた。  「実は私もだ」   笑顔のイグニス。 しかし、声には、かすかな影がまとわりついているように見えた。 →4−6へ ●4−5−3 「それだけで質問に応えるのは論理的に無理がある。僕は両方救う方法を模索するだろうし、それに失敗して両方殺してしまうかもしれない。また、知り合いといってもどのような知り合いかにもよるし、見ず知らずの人間といえども年齢、性別で対応が変わる可能性もある」  「その場にならんとわからん、と言いたいのか?」  「そうだな。その場になってもわからないかもしれない。ただ、結果は出るだろう」 「それと。イグニスの質問には、一番重要な点が欠けている」  「なんだ?」  「人間、とはなんだ? 人外とはなんだ? それは分けられるものなのか? 例えばそう」   僕は、一息ついた。  「今の僕は、人間なのか?」 「おまえは人間だよ」   イグニスの答えには迷いがなかった。 「これ以上、ないくらいにな」  足を速めて、さっさと歩き出すイグニスに、僕は、その言葉の意味を問えなかった。 →4−6へ  メゾンの玄関には、恵が立っていた。仁王立ちで、こっちを見ている。 「ただいま」 「おかえりなさい、お兄ちゃん」  ふてくされた声で言うと、恵は僕の腕を引っ張った。 引っ張られるまま、僕の部屋に入る。 「もぅ、ただいまじゃないでしょ! 何時だと思ってるの?」  「二十二時一七分。結構遅くなったものだな」  「心配したんだからね」  「どんな心配だ?」   恵は深呼吸した。 「お兄ちゃん、テレビとか見てる?」 「いや、見ない」  「新聞は?」 「あまり」  「……最近、ここいらで殺人事件が起きてるの、知ってる?」 「あぁ。知っている。 そうだ、恵。犯人はまだ捕まっていなくて危険だから、夜は出歩かないほうがいいぞ」 「それは、こっちのセリフよ!」   恵の叫びは壁を震わせた。  「あぁ……つまり、帰りが遅いから、事件に出会ったのではないか、と思ったわけだな」   実際、それで遅くなったわけだが。 無論、恵の考えている様子とは違うわけだが。  「そうよ! 遅くなってもいいけど、連絡くらいしてもいいじゃない」   確かにそうだ。 「わかった。今度からはそうしよう。具体的には何時以降になる時、連絡すればいい?」   恵は、しばし口ごもった。  「うーんと、あんまり遅くなりそうな時」 「それは何時間程度だ?」  「えーと一時間、とか?」 「分かった。予想される通常の帰宅時刻より一時間程度遅れが見込める時、あるいは遅れた時に、連絡しよう」  「う、うん。お願い」   恵は疲れた顔でうなずいた。 心労だろうか。   これからは心配をかけないことを誓う。 「じゃ、おやすみ」 「おやすみ」   服がとても、きゅうくつだった。  大人の人が着るみたいなワイシャツとズボン。 それに黒いネクタイまで着せられて、腕も足も、ノリでかためられたみたいに、うまく曲がらない。   だから僕は、まっすぐ立っていた。 多分これは、まっすぐ立つための服なんだろう。   黒と白。みんな同じ色の服を着ていた。 ぼくも、めぐみも、初めて会う、おじさんやおばさんたちも。   ハンカチで目を押さえたおばさんが、ぼくに声をかける。 なんだか遠くから響く声。   涙のまじった鼻声は、何を言ってるのか、よくわからなかった。 指輪をはめた手に頭をくしゃくしゃにされる。  「かわいそうねぇ、かなしいわよね」   と、いわれた。 なんども、なんども、いわれた。 「お父さんとお母さんが、いっぺんになくなるなんて。なんて、かわいそうなんでしょう」   かなしい、ということ。 どうしたわけか、ぼくには、その意味がわからなかった。 それって、目が赤くなって顔がふくれるまで、泣くことなんだろうか?   じゃぁ、ぼくは、かなしくない。   父さんと母さんに、もう会えない。 そう思うと、胸のあたりが冷たくなる。   でも、それだけだ。泣く気もちになれない。   むかしは、もっと泣いていたのに。 涙がほっぺたをつたって、首をぬらすまで。 めぐみは、もう泣いていないけど、昨日までは、そんなふうだった。  「おにいちゃん」   めぐみがそっと、ぼくの手をとる。 ぴんと、まっすぐに立っていても、めぐみの、ゆびさきは、ふるえていた。  「めぐみ」   ぼくは、その手をとる。 「めぐみは、かなしいか?」  「うぅん」   めぐみは、首をふる。 口をつぐんで、いっしょうけんめい、言葉をさがす。 「こわいの。おにいちゃんは?」  「かなしくないけど……さびしい」  あぁ、そうか。ぼくは、さびしかったんだ。   ここには、ぼくとめぐみしかいない。 ほかの人は、ぼくを見てるつもりで、ぼくを見ていない。 めぐみを見てるつもりで、めぐみを見ていない。 「だいじょうぶ、こわくないよ」   ぼくは、前をむいたまま言った。  「こわくない。ぼくがいるから」  これから先、ずっと二人きりだと思うと、ちょっぴりこわかった。 めぐみの思ってる「こわい」が、ぼくのところに来たのかな、と思う。   だったら、それはうれしい。 めぐみの「こわい」が、そのぶん、へってくれればいい。  服は、とてもきゅうくつで、ぼくは、めぐみの手をにぎるのがせいいっぱいだった。   うちに帰ってきがえたら、めぐみを、ぎゅっとだきしめてやりたかった。  母さんがしてくれたみたいに。 そう思ったら、ちょっとだけ涙がわいた。 でもそれは、こぼれる前になくなってしまった。  ぼくは、かなしくない。 ちょっとさびしいだけだ。  壁越しに伝わるかすかな響き。その心地よいリズムで、僕は目が覚めた。 朝ご飯の音。包丁とまな板の音。お母さんの音だ。  カーテンを開け、朝日を浴びて、それがあまりに心地よかったから、僕はベッドに倒れ込んだ。もう一眠りする。  次に目が覚めたのは、ドアを叩くけたたましい音のせいだった。 「お兄ちゃん、朝よ!」 「うん」  生返事をして、今度こそ目を覚ます。急いで服だけ着替えてから、ドアを開ける。 「朝ごはん、食べる?」 「あぁ」  エプロン姿の恵が、台所にゆくのを、僕は、ぼうっと見ていた。  「恵?」 「なに?」   声がとげとげしい。  「不機嫌なのか?」 「まぁねー」   溜息を一つつく。 「お兄ちゃん、最近、隠し事してるでしょ」 「隠したつもりはないが」  「じゃ、あのイグニスって人と、何してるの?」  「それは言えない」 「やっぱり隠してるじゃない」  「聞かれたのは、今が最初だからな。 それ以前は隠していなかった」  「ふぅ……まぁいいけどね。とにかく隠し事されると、気分が良くないわけ」 「ふむ。そうだろうな」   僕の気分も、あまりいいわけじゃない。  「はい、朝ご飯」  「いただきます」  今日のメニューは、トーストとベーコンエッグ。 それと、ミネストローネスープだ。 「洋風だけど……どう?」 「うん、おいしい」   素直な感想だ。 こんがりと炒められたベーコンは香ばしく、目玉焼きも、ちょうどいい半熟だった。 ミネストローネはミネストローネで、スープに野菜の甘みを引き出しつつ、歯ごたえも失っていない。 「そう、よかった」   声の調子からすると、どうもまだ機嫌がよくないようだ。 ふと思い立って聞いてみる。  「そういや今朝、壁越しに、包丁の音が聞こえたんだが……」  「今朝? し、知らないよ。 夢でも見たんじゃない?」 「夢か……そういや、久しぶりに昔の夢を見たよ」   僕は恵に、葬式の夢を話す。  恵は、なぜか目を伏せた。  「お兄ちゃん、お墓参りとか、行ってる?」  「いや?」   どうしても出る必要のある法事以外は、基本的に出席していない。 「うーん、私も行ってないからえらそうなこと言えないけど……行ったほうがいいんじゃない?」  「どうして?」  「親不孝……とか?」  「墓参りは、死人のためにするものではない。生きてる人間が自分のためにするものだ」  「そりゃそうだけどさ」  儀式というのは人間に自分を見つめ直す機会を与える。 そこに一定の効果があるのは僕も認めるところだ。   ……してみると、僕は今まで、自分を見つめ直す必要を感じていなかったということか。  「そういえば、恵は日本に何をしに来たんだ?」  「何しにって、お兄ちゃんの顔を見に来たんだよ」 「いや観光とかはしないのか、と思ってな」  「少しはしたいけど……久しぶりに会ったんだから、お兄ちゃん置いて、遊びにいくっていうのもね」  「なら、僕と一緒に遊べれば問題ないわけだな。週末にでも、どこかに行かないか?」   恵は、あからさまに警戒心を顔にだした。 「なにか今日、いやに優しくない? 誰かに入れ知恵された?」  「……そういうわけではないが。 お互いの願望が一致した以上、協力して事にあたるのに支障はあるまい?」  「つまり、お兄ちゃんも、私と遊びに行きたいってこと?」 「早く言えばそうだ」 「早く言ってよ!」   相互利益となる提案をして、なぜ怒鳴られなければならないかを僕はいぶかしんだ。   とはいえ、怒鳴った恵は楽しそうで、僕は、それが嬉しかった。 「日曜にでも、遊びにいかないか? ついでに墓参りもしてこよう」  「遊びに行って、墓参りするの?」  「効率的だろ?」  「まぁ、それもいいかもね」  恵は、少し考え込んだ。  「私、遊園地行きたい」  「いいだろう」   日帰りできる遊園地。 調べておこう。 「ごちそうさま。今日は早く帰ると思う」 「いってらっしゃい。はい、お弁当」 「いってきます」  特に理由があったわけじゃない。気が付くと、足がそこに向かっていた。  ──犯人は、必ず現場に戻る。 そんな言葉が胸をよぎった。  ──儀式。 普段と違うことをしてしまった自分がいて、それを受け止めきれない時。 人は、事件を起こした場所に向かって、自分を見つめ直すのかもしれない。 事件が起きたことを噛みしめるために。  ともあれ、僕は、そこにいた。 昨日、僕が、半魚人を殺した、その場所に。   誰かが連絡したのか、外れたマンホールは元に戻っていた。   半魚人の死体も見あたらない。   誰かが片づけたのだろう。 メルクリアーリ神父の差し金あたりだろうか。   血の跡が残っているわけでもなく、花束一つあるわけではない。  僕は首を振った。 何かが残っていると期待していたわけじゃない。   しかし、こうまで何も痕跡が残っていないと、不思議な気持ちがした。 自分の顔を見たくて鏡をのぞいたら、目も鼻もなく空っぽだったような、そんな気分だ。   朝方のことで人通りも少なく、僕は、取り残された気持ちで、しばし、そこに佇んだ。   どのくらいそうしていただろう。かすかな足音に、僕は顔を上げた。  小さな道の向こう側に女の子が立っていた。黒い和服が喪服にもみえる。  とくり。  心臓が脈打った。青黒く冷たい血が体中に回る。  背筋が震え、指が震えた。 気分はまるっきり、刑事とすれ違う犯人だ。  深呼吸して、体を落ち着かせる。怯える必要はどこにもない。 相手はただの女の子だ。  僕は、素知らぬ顔で、歩き出した。   女の子まで、あと五歩、四歩、三歩……。  何事もなくすれ違い、僕は、ほっと息をつく。 それにしても、あの子は、なんだったのだろう? 喪服……法事の帰りだとしたら、こんな人気のない道に、一人でいるのは変だ。   怯える心臓が、早く逃げろとせっつく。 でも僕は、好奇心に負けて振り向いた。  女の子と目があう。  一瞬の気まずい沈黙。  古風な少女は、ついと会釈をし、歩み去った。 ゆっくりと遠ざかる背中を、僕は、ぼうぜんとみつめていた。   心臓が痛いほどに脈打つ。  あの子は誰なんだろう? 学校に着くまでの間、ずっと、そのことを考えていた。 静謐な悲しみをたたえた眼差しは、黒の喪服もふくめて、誰かを悼んでいるようだった。  ──僕は人殺しだ。   けれど、そこには誰かを恨むような色はなかった。   考えすぎだとは分かっている。 彼女と、あの化け物を関連づけるものは何もない。   だけど──。 あの目が、僕を苛む。 心はぐるぐるとまわって離れない。  「よぉ、どうした? 売れ残りのキャベツみたいな顔しやがって」 「なんだ峰雪か。 説明を要求する。それはどういう顔だ?」  「鮮度が落ちて、今にも腐っちまいそうな顔ってことだよ。そんなツラじゃ半額セールでも売れない……おいおい、マジになるなよ」   ふぅっと息を吐く。  「僕の顔は、そんなに読みやすいか?」  「最近はな。いい傾向だろ」 「おはよう。どうしたの? 売れ残りのレタスみたいな顔して」  「いや……なんでもない」  「ほっとけ、ほっとけ。色々あるんだろ」  「九門君、何してるか知らないけど、無理はやめたほうがいいからね」  「あぁ」   大きな疲れを感じながら、僕は教室へ向かった。でも、少しだけ楽になった気がする。  ホームルームは、例の事件についてだった。相変わらず、殺人事件は続いており、件数さえ増えてるらしい。 なるべく集団下校すること。夜中に出歩かないこと、などなどの注意が申し渡される。  一斉にブーイングが出たが、それは先生にというよりは、状況自体に対してだろう。 教師に強制力があるわけではない。言いつけを守らないのは自由だし、死ぬのも自由だ。 「ったく、やってらんねぇよな。若者が夜遊びしないでいつしろってんだ?」  峰雪がグチる。 「なぁと言われてもな。僕は夜に外出する頻度が少ないから、さほど不便にも感じない」 「〈枯淡〉《こたん》の境地かよ! おまえはいいけど恵ちゃんは、どうなんだ?」 「あぁ。恵は大変だな」 「だろ、若い身空で、海まで渡って兄貴のところに来てみれば、家に縛り付けられて」 「その物言いは撤回しろ。人の妹を年季の明けない女郎みたいに」 「で、兄貴には、息抜きさせようって気はないのか?」  そうだ、この男にでも聞いてみよう。 「そこだ。今週末にでも、遊園地に行こう、という話をしててな。 どこか、いい場所を知らないか?」  そう言うと、峰雪は、俄然、鼻息を荒くした。 「よっしゃ! 不肖、峰雪、全力を賭して最高の一日にしてやるぜ。 遊園地って言ったな。他に希望は?」  「帰りに墓参りをしようと思うんだが」 「墓参りだぁ? いや、おまえらしいっちゃおまえらしいが。 どうでもいいが、喪服着て、遊園地いくのか?」  「……それは考えてなかったな。相談しておこう」 「まぁ日曜だな。待ち合わせは駅前でいいか?」   峰雪、来るつもりか? まぁそれもいいだろう。 僕は、うなずいた。  授業が終わった放課後。 僕は、教会を訪ねた。  校庭の片隅にある礼拝堂は、昼なお冷たい風が吹いているように思えた。 おそらくは、錯覚だろう。 人間の五感は、かくも主観に左右される。 「やぁ、君ですか」  「メルクリアーリ先生。お時間をいただきたいんですが」  「どうぞ、座ってください」   目の前の陽気な神父が、人でないというのは、こうして見ていても信じづらいものがあった。 「聞きたいことがあるのでしょう? 何から話しましょうか?」  「あなたは人を直接的間接的に殺したことがありますか?」  「おや、これは手厳しい」   神父は困った笑みを浮かべる。 「結論から言うのであれば、イエスですね」   声の調子は何も変わらないが、空気が変わるのが感じられた。 戸を閉め切った教会は、昼でも暗い。   その暗さが、より深さを増したように思える。 「魔物は人を喰うものです」   神父の目が、灯りを映して、一瞬、紅く光った。  「質問の二つ目です。 あなたがたが人を喰うなら、半魚人と、どう違うというのです?」 「我々は、人の社会を重んじてますからね。なにもそこらに歩いてる人を取って喰うわけじゃありません。 そこはきちんとした商取引ですよ。 ですから、社会の表にいる人には関係ありません。 人が人を殺す数に比べたら微々たるものです。そこへいくと……」   神父が肩をすくめる。 「あの半魚人たちは見境がない。 いつ、誰を襲うかもわからない。 そう、たとえば、あなたの妹さんとかね」   心臓が高ぶるのがわかった。口から獣臭い息が洩れる。 「妹のことを、口にしないでください」   やっとそれだけ言った。 「可能性を指摘したまでですよ。 私はね、この街のみんなが、安心して眠れるようにしたいのですよ」 「最後に聞きたいことがあります。 単なる栄養なら人を喰う必要はないでしょう。 それは、嗜好なのですか? それとも……」 「人間の温かい血潮が美味なのは認めますがね。 これは、ただの嗜好じゃありませんよ。 我々は、それが必要なのです」   静かに言い切った神父の声に、嘘は感じなかった。   「でもなぜ?」   神父は、皮肉な笑みを浮かべて答えた。 「知らないのですか? 魔物が人を喰らうのは、もとはといえば人間のせいなのですよ」  人間のせい、か。   教会をでて、日差しに目を細めながら、僕は神父の言葉を思い返す。  その先を、メル神父は教えてくれなかった。 ただ、「イグニスに聞け」というばかりだった。 「九門君!」 「牧本さん、どうしたんだ?」  「ちょうどいいところで会ったね」  「そうなのか」   僕は牧本さんを見つめる。 牧本さんがあとずさりした。 「ほんとのこと言うと、待ってたんだ」  「何のために?」  「ほら、ホームルームで言ってたでしょ。なるべく独りで帰らないようにって」   あぁ確かに。 「それで?」  「あの……九門君、一緒に帰らない?」  「ふむ。そうしよう」   僕たちは並んで歩きはじめた。 「牧本さん」  「なに?」  「襲われた場合の手順を決めておこう」  「て、手順? そうね」 「重要なのは別方向に逃げることだ。 これまでの事件において、一度に一人以上は殺されていないが、二人殺さないという保証はない」  「それって……一人が殺されてる間に、もう一人が逃げるってこと?」   僕は軽くうなずく。  「だめだよ、そんなの」 「これまでの事件で、争った例は報告されていない。戦闘力は、それだけ圧倒的だということだ。 つまり、狙われたら死を覚悟するべきだ」   牧本さんは、うつむいて考え込む。  「囮役を決めておけば、より効率的だが、いかんせん、敵の狙いが不明だからな。どうすれば囮になれるかがわからない」  「囮って……そんな、死ぬことばかり考えなくてもいいと思うけど」 「生存確率の最適化を考えているだけだ。死ぬことを考えているわけじゃない」  「うまく言えないけど……違うよ、それは。せっかく二人いるんだから、二人とも生き残らないとだめだよ。それ以外は負け」 「難しい注文だな、それは……」   僕は考え込む。 実際のところ、半魚人が襲ってきた場合、僕なら相手になれる。 そのためにも、牧本さんには先に逃げてもらいたいわけだが……。 「では、こうしよう。 犯人が襲ってきたら、牧本さんは逃げて、僕が戦う。 僕が勝てば問題ない」   牧本さんが吹き出した。  「どうした?」 「九門君も、強がりとか言うんだね」   単純な事実だが、僕の力を知らない牧本さんからすれば、確かに強がりだろう。  「そうだ。僕は強がりを言うんだ」  「どうしたの?」   牧本さんは、僕をまじまじと見つめた。 「何が?」  「九門君じゃないみたい」  「よくわからないが、それは多分、失礼な言明というものではないか。僕は僕だ」  「ならいいけど……うん、気持ちはありがたいな」  「無論だ。気持ちだけにしておきたいものだ」 「あれ、なんだろ?」   通行止め、検問だ。 「すいませーん。二列に並んで、一人ずつお願いします」   誘導灯を持った男が、声を枯らして叫んでいる。   検問のそばには、ずいぶんと大きな車が止まっている。 装甲車というやつか?  「警察かな?」  「ただの警察じゃぁなさそうだな」  検問を通り過ぎる瞬間、車の扉が開いた。 中には緑の制服を着た男達が一杯だ。脇にかついでいるのは……銃?  「はい、結構です。お通りください」   誘導灯を持った男が、先をうながす。  「お仕事、おつかれさまです」   牧本さんが頭をさげたので、僕も頭を下げる。 「なんだったんだろね、いまの」 「事件の対策。特殊部隊とかかな」  「犯人、捕まるかな」  「可能性は、それほど高くない。 どんな特殊部隊でも、見つけなければ捕らえられないだろうしな。 今のところ犯人は痕跡を残していないし、それがこの事件の特徴だ」   相手が人間でない、とあらば、人間相手の捜査法は使えない。 単純な論理だ。 「はやく捕まるといいね」  「そうだな。はやく事件が終わるといい」   僕は心からそう言った。 どんな形で終わるのか。 それは見当もつかなかったけれど。 「じゃ、私、こっちだから」 「じゃぁ、また明日」  明日、か。  牧本さんと別れ、角を曲がった瞬間。 待ちかまえていたかのように、彼女がいた。 夕日が差すその道に、イグニスは立っていた。 「やぁ」  「何の用だ?」  「話すことが色々ある。つきあえ」   彼女を評価するなら、うさんくさい。 信用ならない存在といったところか。   二度に渡って、僕を殺そうとした。  しかし、彼女は、いつもシンプルで、核心をついた話し方をする。 そこのところだけは気に入っている。  「わかった」  「どこに行くんだ? メゾンじゃまずいのか?」  「妹に聞かれたいか?」   僕は、考慮の末、首を振った。 確かに、恵には知らせたくない。 「酒は飲むか?」   もう一度僕は首を振る。 酒にうるさいのは峰雪だ。  「まぁ飲め」  「どうしてだ?」  「酒で親睦を深めるのは、この国の伝統だろう?」  「僕は伝統を重視しない」 「ついてこい。なにごとも経験だ」   しばらく考えて、うなずいた。 飲んで飲めないわけでもない。  「なにより、おまえの仏頂面が、酔っぱらってどうなるかを見てみたいしな」  「お互い様、ということではないか? アルコールの分解に伴う酩酊によって、おまえは、どんな顔をするんだ?」  「見たいなら、ついてこい」   そう言ってイグニスは、あでやかに笑った。  入ったのは、繁華街のバーだった。 店を開けている親父にイグニスが手を振ると、笑顔で迎えられた。常連らしい。 コートを預け、カウンターで、イグニスがワインを頼む。 「おまえは何にする?」  「まかせる」   そもそも酒の種類が分からない。 こんな店で何を頼んだらいいのやら。  「好みは?」 ・よくわからないが軽めのやつがいい。→5−4−1・飲みやすいのがいい。→5−4−2 ●5−4−1 「軽いのか。なら、スプモーニだな」   イグニスが注文した酒は、透き通った夕日の色をしていた。  「乾杯だ」   グラスを合わせ、僕は恐る恐る口をつけた。 →5−4−3へ ●5−4−2 「飲みやすい……か。果物は好きか?」   僕はうなずく。  「カシスオレンジを頼む」   イグニスが注文した酒は、透き通った夕日の色をしていた。  「乾杯だ」  グラスを合わせ、僕は恐る恐る口をつけた。 「最初に聞きたいことがある」 「なんなりと」  「おまえは、何者だ?」   イグニスは、ちょっと首を傾げてから、軽くグラスに口をつけた。  「言ったはずだぞ。名前はイグニス。わけあって人類の守護者を名乗る、と」  僕は、バーテンのほうを見た。 律儀にグラスを拭いている。 ずいぶんと現実離れした会話をしているが、気にした様子はない。   職業倫理から来る礼儀正しさか、あるいは。 ──彼も人ではないのか。  「今日、神父と会ってきた」   僕もグラスを傾ける。 喉を通る酒は心地よく、胸の中でゆっくりと熱になった。 「あの吸血鬼にか?」 「あぁ。神父は言っていた。魔物は人を喰う、と」   イグニスはうなずく。  「おおむね、正しいな」 「おまえは人喰いの魔物じゃないのか?」   イグニスは音もなく、空のグラスをカウンターに置く。  バーテンは無言のまま、二杯目を注いだ。 「どうしてそう思う?」  「ただの人間が、人狼や吸血鬼に対抗できるのか?」  「情けないことを言うな」   イグニスの声は、冷たかった。  「おまえの先祖は、槍と弓で、獣の民を滅ぼしたのだぞ? どうして人にできぬと決めつける?」 「なるほど。人間でも修練と知識で、魔物を倒せる、と」 「その通りだ」  「でも、やっぱりおまえは人間じゃない」 「どうして?」  「“おまえの”先祖は、と言っただろう。“我々の先祖”じゃないわけだ」   イグニスは、にやりと笑った。 「耳ざといな。 だが、可能性はそれだけか?」  「パズルか?」  「あぁ」   パズルは嫌いじゃない。 「まず『先祖』の定義を、はっきりさせてくれ」 「同じ種で、世代が前のものだ」   なるほど。 直接、血のつながりはなくても、先祖とするわけか。   僕は、しばらく考えた。 僕の先祖が、イグニスの先祖じゃないとしたら。 にも関わらず、僕とイグニスが同じ種であるとしたら。 入り組んだ謎に、僕は思いを巡らし、やがて、一つの回答にあたった。 「どうした、降参か?」  「いや、わかった。  前提1:イグニスと僕は、同じ種である。  前提2:種が同じで、世代が上のものを先祖という。  前提3:人狼と戦った頃の僕の先祖は、イグニスの先祖ではない。   これらの前提を受け入れるなら、答えは一つだ。  イグニスは、僕の先祖より世代が上。つまり、とてつもなく長生き、ということになる」  イグニスは小馬鹿にした表情を変えずに手を叩いた。  「よくできた」  「信じたわけじゃない。 可能性を指摘しただけだ」   だいたい、常識を越えた長寿というのは魔物に入らないのか?  「無理に信じろとは言わない」  イグニスは、グラスを置いた。  「お代わりはどうだ?」  「もらおう」   僕は、空のグラスを手放した。 握った手が汗ばんでいた。  なるほど、酒を飲みたい気持ちというのが、少し分かった気がする。 これだけ現実離れした会話は、素面ではできない。  「で、その長生きの人が、どうして人類を守る?」  「面白いからさ」   そう言ったイグニスの顔は真剣だった。  「面白い?」 「あぁ。人間の文化は、面白い」 「比較対象がないものについて、面白いもつまらないもない。何と比較して、だ?」  「他の魔物と比べてさ。もちろん」  「他の魔物の文化についてはよく知らないが、それは趣味嗜好の問題ではないのか?」  「ちがう、ちがう。 吸血鬼の城を見たことがあるか? あれに比べれば、アリの巣を見たほうが、よほど面白い」 「それに比べて、人類の、なんと変化に富んで面白いことか」 「人間なんて、根っこのところは変わってない、という人もいるが」  「哀れなことだ。 たった百年の昔も味わえないから、そうなる。たかが百年、二百年で、人がどれほど変わったことか」  「失われたものもあるんじゃないか?」 「それもこれも変化の内さ」   そう言ってイグニスは、うまそうに酒を飲んだ。 「つまり、面白いから人類を守るというわけか? だとすると、面白くするためには人類を害することもあるわけかい?」   イグニスは肩をすくめた。  「手を出さずに見守るのが面白いのさ。手を出すのは……人が外から干渉される時くらいだ」  「それで、人類の守護者か?」   イグニスは頷く。 「そのためにも、おまえを鍛える必要がある」 「鍛える?」  「そうだ。その身に備わった力、使いこなせていないのだろう?」   僕は、重い頭を振ってうなずいた。 少し飲み過ぎたかもしれない。  「さぁ、そろそろ行こうか」 「あぁ」  そう言って腰をあげ……僕はスツールに尻餅をついた。  「酒が回ったようだな」   イグニスはマスターに支払いを済ませる。  「どうして……」  「酒が回っていたほうが、訓練に都合がいいんでな。ほら、立て」   イグニスに腕をとられた。 訓練? なんだそれは?  立ってはみたが、バランスが保持できない。 ただ立っているだけで、地面は近づき、また、遠ざかる。 「しょうがないな」   イグニスが肩を組む。   自分でやっておいて、しょうがないと批判するのは、不合理だ、と言おうと思ったが、そろそろ、ろれつがあやしかった。   頭の力が抜け、僕は、彼女の肩に頬をもたせかけた。   イグニスの髪は、雷雨の前のアスファルトの匂いがした。 「この辺でいいか」  イグニスと歩いてきたのは公園のベンチだった。 僕は、ぐったりと横たわる。  これじゃぁ、まるっきり介抱されてる酔っぱらいだ。 いや、まるっきりじゃなくて、単純にそうなのか。  とにかく訓練という雰囲気じゃない。 と、僕の頭が持ち上げられる。 「やめてくれ。気分が悪い」 「だろうな」  そう言ってイグニスが手を離す。  後頭部は、なにか暖かなところへ落ちた。 ゆっくりと目を開ける。  イグニスの顔がのぞきこんでいた。 「酒に……何か入れたか?」 「あぁ。入れさせてもらった」  イグニスは、指を伸ばすと、僕のまぶたを開いて、瞳を見た。 満足したのかうなずく。  僕は、モルモットか?  胸の中で、何か熱いものが震えた。 あの時に近い、怒り。 「僕を……騙したのか?」 「ふむ。もう少しか?」  イグニスは、僕を無視してそう言うと、顔を近づけた。 思わずそむけると、耳たぶに甘い感触が走った。体が震える。 噛まれた。耳たぶを。 「ぼさっとしてないで出てこい。犬ころが」  瞬時に、血が沸いた。  僕の中の獣が目を覚まし、全身のバネでベンチを蹴って宙を舞う。 一回転して月を見ながら華麗に地面に着地……しなかった。  地面についた両足が、くたりと折れて、僕はごろごろと地面に転がる。   喉から声が漏れる。  「イグニス!」   それは僕でない僕の声。 両の指先が尖り、月光を浴びて白銀色に光る。  靴を突き破って、鋭い爪が地を掴んだ。 熱い怒りが手足を動かす。     僕は、それをどこか遠いところからみていた。 千鳥足でイグニスに近づき、心臓をえぐるべく右腕が突き出される。  電光のように、とはいかぬ、その突きを、イグニスは、しっかりと掴んでいた。 「聞こえるか、克綺? これが訓練だ」   訓練?  なおも攻撃を加える僕の体。   足首に痛みが走り、一瞬の浮遊感。僕は、背中から地面に叩きつけられた。   痛い!   背の痛みが脳天に抜け、一発で酔いが覚めるようだった。  それでも体は立ち上がり、攻撃を続ける。 「山向こうの狐の尻尾にかけて! 復讐の血はボクのものだ!」   僕の中の誰かが叫ぶ。  イグニスは笑って攻撃を避けると、二、三発、僕の頬を張った。  熱い痛みが脳天に響き、目の奥で火花が散る。   それでも、獣はあきらめない。 「痛いか!」 「草原の民が、体の痛さでまいると思ってるのか!」  僕はしみじみと痛みを味わっていた。 と、同時に、少しずつ状況がわかってきた。  僕を乗っ取って暴れている、この魂。 これを押さえ込むのが僕の訓練というわけか。 「この体は……毒を盛ったな!」  獣が叫ぶ。 僕は、意識を集中して、体の感覚を取り戻す。  高速で動く手足を感じ取る。  肩が引かれ次の瞬間、放たれる。  鋭く尖った指先が、イグニスの頬をえぐる。  次の瞬間、僕は、また一回転して、背中を打つ。 痛みにのたうちながら、僕は、受け身を取れたこと……取らせてもらったことに感謝する。 「おのれ! 情けをかけるか!」   だが獣は、そうは思わないようだ。  今度は足を飛ばす。   イグニスが受け流し、僕は前方につんのめった。  「早く、止めないと身が保たないぞ?」   声には面白がる響きがあった。 いや、その通りだ。  僕は、意識を集中して、右手を押さえ込む。 かろうじて、小指の先が僕の意志に従う。  「誰だ? 邪魔をするな!」   獣が吠える。 咆哮とともに、右腕は再び奪われる。   回し蹴り。 右足が、しっかりと大地を掴み、上体が急激に前に倒れて、とんでもない角度から左足が飛ぶ。 ジェットコースターにでも乗ってる気分だ。 「薄汚い悪魔め!」   伸ばした爪先が、イグニスの肩をかすめる。 指の感触で、皮をえぐったのがわかる。 爪先を振ると、血がしぶいた。  僕の体……動きがよくなっている。 獣が慣れてきたのか、酔いが覚めてきたか。 「まだ、できんのか?」   不興げなイグニスが、服の中に手を差し入れる。 僕の脳裏に危険信号が灯る。  「また、騙し打ちか?」   獣の声に、僕は唇を噛んだ。 冗談じゃない。 暗器で手足をえぐられるのはごめんだ。 「そう思うなら、早くしろ」   声と同時に、僕の両足が地を蹴った。  右腕に力が蓄えられ、必殺の一撃を狙うのがわかる。 僕は……。 ・全身全霊で両手を止めた。→5−5−1 ・獣のゆくに任せた。→5−5−2 ●5−5−1  空に飛んだ、と見えたのはフェイントだ。  上体が沈み、地面すれすれを駆け抜ける。   狙うはイグニスの心臓だ。   腕は止まらない。足も止まらない。 かろうじて、口だけが動いた。  「避けろ!」  そう言って飛び出す右腕を、僕は渾身の力でとどめようとした。   意識の中では、ゆっくりと、だが、実際は風を切るほどの速さで、右腕が突き出された。   右腕を。唇を噛みしめ、僕は必死で指先を動かす。   指を。人差し指を。かろうじて指が、曲がった。 抜き手の形が、わずかに崩れる。   あと少し。あと少し。 ほとんど指先が触れる瞬間。 腕の感触が戻った。 僕は五指を折りたたむ。  だが、速度までは殺せない。速度までは。 でき損ないの拳が、イグニスの胸に触れる。   風を巻いて襲いかかった拳が、イグニスの体に触れる。  軽く握った拳の先が、何か柔らかいものに触れ、突き破る。   どろり、と、血が流れた。  イグニスが崩れ落ちる。   「我が事、なれり」   ぞっとするほど冷たい声音で、唇が声をつむぎ、そして沈黙した。   両腕、両足を縛っていた意志が消えていた。 体が羽根のように軽い。   僕は、イグニスに駆け寄った。   「イグニス!」   僕は、ぐったりと倒れるイグニスの体を抱き起こした。 全力で抱きしめる。   その腕が、ぴくりと動いた。  「イグニス! 生きてるのか!」   腕が、僕の背をつかむ。 紅い唇が、わずかに開く。   「……痛い」   かすれた声が、  「あぁ……すまない」 「痛いから……」  「大丈夫だ。今すぐ助けを呼ぶ!」   大丈夫なわけがない。 胸から血を流しているのだ。今も。   「いいから、その手を放せ!」   声は怒声だった。 僕は呆然と、腕を放す。 イグニスが、あとずさりして深呼吸する。  「まったく、肋が折れるかと思ったぞ」   重傷を負った人間の声ではない。 この出血を苦にしないとは。人ではない……のか?  指先には紅い血が染みていた。 血? 指についた血は、さらさらしていて、ツンと薬品の匂いがした。  「ほら、手を出せ」   言われるままに、僕は手を伸ばす。 イグニスが起きあがる。 「何を呆けている?」 「確かに今……指先が胸を……」  「血袋だ」   イグニスは、コートの懐からビニール袋を取りだした。 「芝居? なんで!」   怒りとともに、僕はイグニスを突き飛ばそうとする。  伸ばした手は、風を巻き、刃となってイグニスに襲いかかった。   イグニスが半身になって、それをかわす。前髪が、数本、宙に舞う。 今のは……あの狼の子の力? どうして? 「人の話を聞け」   僕は、神妙にうなずいた。  「おまえの体には」   そう言ってイグニスは、僕の胸に触れる。 「魔物の力が宿っている」   僕はうなずく。 あの狼の力、そして……昨日の魚人の力だ。  「力は意志だ。あの犬ころの思念が強く宿っている。それ故に扱いにくい」   再び僕は、うなずく。 恐怖に歪んだ峰雪の顔が浮かんだ。 「それを使いこなすための訓練だ」   段々、わかってきた。  「酒は……力を抑えるためか?」  「あぁ。素面のまま、襲いかかられると危ないからな」   僕が酔っていたから、イグニスも、軽くあしらえたという訳か。  「ずいぶん手間をかけるな。 この前は、あの子に勝っていたじゃないか?」 「その足を縫われたいか?」   僕は首を振る。  「生身で獣と戦うのは骨が折れるんだ。布石を打たせてもらった」  イグニスはベンチに座った。 僕も、その隣に座る。 「狼の力を使いこなすには、二つ方法がある。一つは、意志の力で屈服させること」  「まぁ、おまえには無理だろうと思っていたがな」   確かにそうなので否定しようがない。  「もう一つは、宿っていた意志の心残りを消すことだ」  「つまり……狼がイグニスを殺せば、無念が晴れる、と」 「そういうことだ。 無論、私も死ぬわけにはいかんからな。準備をさせてもらった。そのためにも酒が要った」   獣の鼻は血を嗅ぎ分ける。 普段ならば、あんなトリックには騙されなかっただろう。  「どうだ? もう力を使えるだろう?」   僕は、指先に風を集めた。  暖かな東風を人差し指に。 中指には荒涼たる西風を。 小指には冷たい北風。   拳を握れば、風が混じり、旋風となって消えた。  胸の内で、熱いものが渦巻いていたが、あの全てを焦がすような怒りは、もうない。 「あぁ。確かに」 「ならば、あとは慣れだ」  「魚人の力は?」 「見たところ、たいした強さじゃない。 おまえの意志で十分に支配できるだろう」  そう言ってイグニスは立ち上がった。 「どこへ行く?」  「散歩にな。あとは勝手にやってくれ」  「待ってくれ。訓練方法とかは?」   さっきみたいに、突き飛ばす拍子に切り刻んだらえらいことだ。  「自分の力だ。自分で慣れろ」  それだけ言ってイグニスは、背を向けた。 →5−6へ ※胸には指の跡がついている。九門が指を曲げなければ、イグニスは死んでいた。あとで、そのへんの描写。 ●5−5−2 「無理だ……」   かろうじて、それだけつぶやいた。 イグニスが避けてくれることを願う。 イグニスの唇が軽蔑の形に歪む。  イグニスの手から、瞬時に月牙が放たれる。 だが、それではだめだ。  左手が風を呼び、軽い短剣は左右に逸れる。  間合いに入る。  右足が地面を掴み、下半身が急停止する。   その勢いが、そのまま上体に宿り、殺意を持った右腕となって放たれる。  風をまとった右腕は、音よりも早くイグニスの胸を狙う。   イグニスの掌が両方から腕を挟む。  煙があがり、肉の焦げる匂いがした。  腕が、服に達し、そのまま胸を、えぐる。   どろり、と、血が流れた。  イグニスが崩れ落ちる。 「我が事、なれり」   ぞっとするほど冷たい声音で、唇が声をつむぎ、そして沈黙した。   両腕、両足を縛っていた意志が消えていた。 体が羽根のように軽い。   僕は、イグニスに駆け寄った。 「イグニス!」   僕は、ぐったりと倒れるイグニスの体を抱き起こした。全力で抱きしめる。 その指先が、ぴくりと動いた。  「イグニス! 生きてるのか!」  腕が、僕の背をつかむ。 紅い唇が、わずかに開く。  「……痛い」   かすれた声が、  「あぁ……すまない」  「腕を……」 「大丈夫だ。今すぐ助けを呼ぶ!」   大丈夫なわけがない。胸から血を流しているのだ。今も。  「腕を……放せ」   きれぎれの声に、僕は、ようやく腕を解いた。 そういえば、ずいぶん強く抱きしめていた気がする。 イグニスは、しばらく息を整えると、上体を起こした。 「まったく、肋が折れるかと思ったぞ」   僕は、呆然として、その様を見つめた。 苦しげではあるが、とても重傷を負った人間の声ではない。 この出血を苦にしないとは。人ではない……のか?   指先には紅い血が染みていた。 血? 指についた血は、さらさらしていて、ツンと薬品の匂いがした。  「ほら、手を出せ」   言われるままに、僕は手を伸ばす。イグニスが起きあがる。 「何を呆けている?」  「確かに今……指先が胸を……」  「血袋だ。ここまで根性無しとは思わなかったぞ」   イグニスは、コートの懐からビニール袋を取りだした。 「芝居? なんで!」   怒りとともに、僕はイグニスを突き飛ばそうとする。   伸ばした手は、風を巻き、刃となってイグニスに襲いかかった。   イグニスが半身になって、それをかわす。前髪が、数本、宙に舞う。 今のは……あの狼の子の力? どうして? 「人の話を聞け」   僕は、神妙にうなずいた。  「おまえの体には」   そう言ってイグニスは、僕の胸に触れる。 「魔物の力が宿っている」   僕はうなずく。 あの狼の力、そして……昨日の魚人の力だ。  「力は意志だ。あの犬ころの思念が強く宿っている。それ故に扱いにくい」   再び僕は、うなずく。 恐怖に歪んだ峰雪の顔が浮かんだ。 「それを使いこなすための訓練だ」   段々、わかってきた。  「酒は……力を抑えるためか?」 「あぁ。素面のまま、襲いかかられると危ないからな」   僕が酔っていたから、イグニスも、軽くあしらえたという訳か。  「ずいぶん手間をかけるな。この前は、あの子に勝っていたじゃないか?」 「その足を縫われたいか?」   僕は首を振る。  「生身で獣と戦うのは骨が折れるんだ。布石を打たせてもらった」  イグニスはベンチに座った。僕も、その隣に座る。 「狼の力を使いこなすには、二つ方法がある。一つは、意志の力で屈服させること」  「まぁ、おまえには無理だろうと思っていたがな」   確かにそうなので否定しようがない。  「もう一つは、宿っていた意志の心残りを消すことだ」 「つまり……狼がイグニスを殺せば、無念が晴れる、と」  「そういうことだ。 無論、私も死ぬわけにはいかんからな。準備をさせてもらった。そのためにも酒が要った」  獣の鼻は血を嗅ぎ分ける。 普段ならば、あんなトリックには騙されなかっただろう。  「どうだ? もう力を使えるだろう?」   僕は、指先に風を集めた。   暖かな東風を人差し指に。 中指には荒涼たる西風を。 小指には冷たい北風。   拳を握れば、風が混じり、旋風となって消えた。  胸の内で、熱いものが渦巻いていたが、あの全てを焦がすような怒りは、もうない。 「あぁ。確かに」 「ならば、あとは慣れだ」  「魚人の力は?」 「見たところ、たいした強さじゃない。おまえの意志で十分に支配できるだろう」  そう言ってイグニスは立ち上がった。 「どこへ行く?」 「散歩にな。あとは勝手にやってくれ」  「待ってくれ。訓練方法とかは?」   さっきみたいに、突き飛ばす拍子に切り刻んだらえらいことだ。  「自分の力だ。自分で慣れろ」  それだけ言ってイグニスは、背を向けた。 →5−6へ ※イグニス、大きく負傷フラグ。あとで魚人の戦闘時に死亡。 魚人の魂を受け継いだ九門は、魚人になってしまう。  自分で慣れろ、か。  僕は、拳を握り、そして、開いた。   どうやって使ったらいいものやら。  足下の空き缶に目が留まる。 拾って、空き缶入れに捨てようとして、ふと思い立つ。  片手に風を集め、そっと空き缶に送る。   ……カラリ、と音を立てて、空き缶は、有らぬほうに転がった。   ふむ。 思ったより難しい。が、これなら練習になるだろう。   しばらく僕は試し、そして、風というのは意外と扱いにくいことに気づいた。 片手で風を仰げば、缶は、転がるばかり。 両手で包もうとすれば、その間をすりぬける。  缶の下に風を潜り込ませ、持ち上げようとしたが、つるりと滑って転がった。   ――だめだよ、そんなんじゃ。   僕の胸から小さな声が響く。 眉をしかめるが、どうやら邪魔する様子はないようだ。 「そう言われてもな。どう使えばいいんだ、この力は?」   ――目をつぶって。もっと風を感じるんだ。  言われるままに、僕は目を閉じた。  最初に感じたのは、頬にあたる風だった。 酔いに火照った体に、秋の夜風は心地よかった。   緩やかに、時に強く吹く風。 しばらく風にあたっているうちに、やがて、風が、ほどけた。 あたかも織物をほどくように。   ただ一つの風、と思っていたものが、無数の気流にほどけてゆく。 その一本一本が、肌をなでていた。   目を閉じれば、風の糸が感じられた。 東西南北から来た風が、あるいは交わり、あるいは弾きあい、やがて僕の周りを経巡り、また去ってゆく。  ──風とは、これほどにも繊細なものだったのか。   僕の肌と、公園は……ベンチも、地面も、木々も、すべて風を介してつながっていた。   足下に転がる缶。そこにつながる気流の糸を、僕は、柔らかくひっぱった。 つい、と、缶がもちあがる。缶が逃げぬように、二重、三重に糸にくるむと、僕は缶を操った。 空き缶は、生き物のように立ち上がり、踊り、最後に空き缶入れに向けて飛んだ。  小気味よい音を立てて、缶は缶入れに入った。   ――うまいうまい。その調子だ。  僕は、ようやく、目を開く。 いまや、目を開いても、公園を巡る風は感じ取れた。  ふと、遠くから足音が聞こえた。 風が伝える音だ。  目をつぶって集中し、音の主を風の糸でなでる。 だいたいの輪郭が、つかめる。 女性? こんな物騒な時間に、どうして?  僕は、通りにでてのぞいた。  最初に見えたのは、制服だった。 うちの学校の女子生徒だ。 街頭が逆光になって顔が見えないが……どこか見覚えがある。   僕が見覚えのある女生徒は限られている(僕は、人の顔や名前を覚えないほうだ。興味のないものには記憶力を割けない。峰雪には、よく、クラスメートの顔くらい覚えろ、と言われる)。 姿形まで覚えているような女生徒といえば……かなりの確率で絞り込める。  街頭の灯りから、女生徒が、ゆっくりと歩み去る。 再び闇に沈む前に、僕は、その顔を捕らえた。  ……牧本さん?   こんな夜中に出歩く牧本さんを……。 ・僕は心配になって追いかけた。→5−6−1・僕は公園に隠れた。→5−6−2 ●5−6−1 「牧本さん」  声をかけたつもりだった。 が、牧本さんは逃げるように、角を曲がる。  僕と気づかなかったのか。 それにしても彼女らしからぬ行動だ。 こんな夜更けに何をしているんだろう。  ……いずれにせよ、危険であることに変わりはない。 僕は、駆け出した。  角を曲がったところで、牧本さんの姿はなかった。鼻を利かせてみたが、牧本さんの匂いは、ぷっつり絶えていた。  代わりにあったのは、冷たい、鉄の匂いだ。 通りには大きなバンが止まっており、緑の制服の男があたりを見張っていた。 「君、こんな夜更けに何の用だね?」  「知り合いの女の子を見かけました。 こちらに来ませんでしたか?」  「いや、知らないな。 それより、早く家に帰りたまえ。夜間の外出は危険だぞ」   風が僕に知らせる。 男の後ろポケットに拳銃。 バンの中にも武器。  「あなたがたは……なんですか?」 「警備会社のものだ。市の依頼を受けている」  警察の特殊部隊ではない、わけか? 嘘という可能性はないだろう。 公務員が要請を受けて動いている時に、名前を隠す必然性がない。   まぁいい。 今、探しているのは牧本さんだ。  「ご苦労様です」   そう言って、僕は、背を向けた。  「一応、身分証を見せてくれるか?」 「いいですけど……そちらのIDも見せていただけますか?」  男は苦笑して、財布を取り出した。  僕も、学生証を取り出すふりをして、指を閃かす。  小さな南風が、男の財布を舞い上げた。  「うわっと……」   地面に転がった紙の束。  「あ、拾いますよ」 「いい、俺が拾う」   男が冷たい声で、言ったので、僕は待った。 「ほら、これだよ」   男が見せたIDカードには、聞いたことのない名前の「総合警備保障」会社が載っていた。  「どうもすいません」   僕は学生証を見せる。  「早く、いきな」   そう言って、男はあごをしゃくった。 僕は言われるままに、そこを後にした。  さっき男が落とした財布から散らばったもの。 そこにまじって、社員証があった。  あのデザインは、どこで見たんだっけ。 この街で見かけたんだと思ったが……。  まぁ、それはあとでいい。今は、牧本さんだ。 ここを通っていないとすると、どこだ?  その時。  後ろの男たちが動き始めた。   見張りがバンに乗り込み、バンが動き出す。  ……事件か? なら、牧本さんがいるかもしれない。 僕は、走り出した。  両の足に風を呼び、空を飛ぶように走る。 脇道を走ってバンを追い越し、先回りしようと試みる。   探す必要はなかった。  派手な銃声がしていたからだ。 銃声? →5−7へ ●5−6−2  牧本さんにも、牧本さんなりの事情があるのだろう。 会って言い訳するのは面倒だ。 これ以上、彼女に嘘をつきたくはなかった。  僕は、公園のベンチの影に身を隠した。 ゆっくりと数を数える。  そろそろ牧本さんもいなくなったかな、と思った、その時。  僕は明るいライトに照らされていた。 「あー、そこの君、でてきなさい」   メガホンの声が響き渡る。 まるっきり犯人扱いだ。  僕は、念のため、両手を挙げてベンチの影から顔を出した。   公園の前にバンが止まっていた。 投光器が僕に向けられている。   バンが開いて、制服の男が、やってきた。 「君、こんな時間に何をしてるんだね?」   ふむ。夜中にベンチの影に潜んで、待ち伏せている男。客観的に見れば怪しいことこのうえない。連続殺人犯と間違えられても、しょうがないか。 さすがに言い訳が思いつかずに、黙っていると、男がよってきた。  「念のため、身体検査させてもらうよ」   言われるままに、僕は立っていた。 男の両手が、手際よく、体を叩いていく。 「学生かい?」 「はい」  「学生証はあるかね」 「はぁ」   言われるままに、僕は学生証を取りだした。  「ふむ……事件のことは知っているだろう? 夜間は危険だから、早く帰りなさい」   高圧的な物言いだが、言っていることはまぁ正しい。 『僕は超能力があるから平気です』   ……と言えればいいが、そうもいかない。  「ご苦労様です」   僕は、そう言って、道を去った。  さて、これからどうするか。 力の訓練なら、家の中でもできるだろう。 それに、そろそろ眠い。  僕がメゾンへ足を向けた、その時。  後ろの男たちが動き始めた。  見張りがバンに乗り込み、バンが動き出す。  ……事件か? なら、牧本さんがいるかもしれない。 僕は、走り出した。  両の足に風を呼び、空を飛ぶように走る。 脇道を走ってバンを追い越し、先回りしようと試みる。   探す必要はなかった。  派手な銃声がしていたからだ。 銃声? →5−7へ  遠目に、銃火が光った。 音を立てて風が千切れ、僕の耳を痛める。  鼻は、馴染み深い匂いをかぎわけていた。鉄と火薬、そして、血。 僕は、走りながら目を見開いた。闇を見通す獣の目を。  そこに浮かぶのは、ぐちゃぐちゃの死体の山。 手を血に染めてたたずむイグニス。 そして……一個の異形だった。   それは、人の形を模していた。 二本の足があり、胴の上下には、頭と足がついていた。   紅いマントの間から見える髑髏と骨は、古い古い物語から抜け出してきた、死神そのもののように見えた。   異様なのは、その動きだった。 四肢の動きは素早かったが、ちぐはぐで、どこか安定を欠いていた。  正確な直線を描いて近づく異形に、イグニスが、暗器を放った。  月牙がマントを切り裂き、ぼろとなった布を風が吹き散らす。   死神が、姿を現した。  その骨格は、人骨ではなかった。 人形だ。匠の技で組み上げられた、陶器と鋼の骨組み。  それは腕の先に銃をつけていた。  腹に響く音と同時に、イグニスがコートの裾を翻した。  紅いコートの上で、閃光が弾ける。防弾か。 「イグニス!」   ようやく追いついた僕は、声をかける。  「克綺か!」   声には苦痛の色があった。 彼女の場合、演技かどうかはわからないが、まぁ危地にはいるようだ。  死神の銃が折れ曲がって腕の中に収納された。 代わりに左腕が繰り出される。  神速の突きを、イグニスは、かろうじて避けた。  転がりながらコートを脱ぎ捨て、刀を抜く。   死神は滑るように地を走った。残像を生むその速度に、イグニスはかろうじて追随する。  交叉する銀光が、二人の軌跡を彩った。   速度は……かすかに死神が勝る。  死角に回り込んだ一撃を、イグニスは、かろうじて剣の刃で受けた。 拳を峰に添え、両腕で剣を支える。  鍔迫り合いは、しかしイグニスに不利だった。 イグニスは両手。 死神は片手だ。  ジャコンと音を立てて、再び左腕から散弾銃が展開する。  銃口が、その額をまっすぐに狙う。 イグニスは一歩も動けなかった。 わずかでも力を緩めれば、刃ごと押し切られるだろう。 「イグニス!」   僕は、全力で二人の間に割り込もうとする。   死神……いや人形は、立ったままキリキリと首を回した。 虚ろな眼窩の奥の光が、僕を視認する。   肌が、寒気立った。  人形は身体を反転させ、イグニスの刀をいなし、突き放した。 直後、アームから伸びた銃が、音を立ててこちらを向く。 躊躇する余裕はない。  「風よ!」   僕は、呼びかけた。   右の腕に凍える北風を集め、左の腕に焼けつく南風を集め、嵐を為して、斬りかかる。  砂漠の熱風も、凍土の雪嵐も、しかし、人形の前に、文字通り雲散霧消した。   なにごともなかったかのように銃が構えられる。かたり、と音を立てて、弾が装填され、アームが僕を狙う。   だが……いつまで待っても、撃鉄は落ちなかった。  死神の左腕が、不意にだらりと垂れた。 「克綺、逃げるぞ!」   イグニスが叫んだ。 言われるまでもない。  僕はイグニスのほうへ走った。  イグニスは、逃げながら、器用にコートを、ひっつかむ。   傷ついたイグニスを気遣って、人間並の速度で走ったが、後から追ってくる気配はなかった。  走りに走り、公園の前まできて、僕たちは、やっと歩を緩めた。 汗をふき、呼吸を整えて、僕はイグニスに尋ねた。 「さっきのは、いったい、何だ? いやそれより、イグニス、何をしていたんだ?」   あの血みどろの死体。  「魚人が、人間を襲っていたのさ。 放ってはおけんだろう」  「人間? 誰を?」   牧本さんの姿がありありと思い浮かぶ。  「ん? 三〇代の男だったぞ。逃げていったから心配あるまい」 「それで、あの人形は?」  「急に間に割り込んできて、あの剣幕だ。魚人はミンチになった」  「何者なんだ?」 「知らんな。おまえの知り合いじゃないのか?」   イグニスがとぼけて、そして、顔をしかめた。 「どうした、痛むのか? それとも演技か?」   単純な質問に、イグニスは苦笑した。  「一応、本物だ。どのみち大した傷じゃない。気にするな」   腹を押さえた指の間から、血が滴っていた。 「腹の傷は危ないぞ。見せてみろ」  「デリカシーのない男だ」  「その言葉の意味が、僕には理解できない。ただし……」  「ただし、なんだ?」  「デリカシーが、人命救助の邪魔となるなら、そんなものは必要ない」  「それは一本取られた」  苦笑するイグニスの手を引いて、僕は彼女をベンチに寝かせた。 介抱しようとして、ふと、悩む。  「これは……いったいどう脱がすんだ?」   あらためて見れば豪奢なドレスだ。 ぴったりと肌に貼りついた黒いシルクは、汗を吸っているはずだが、微塵も崩れていない。  「服が邪魔か?」   挑発するような笑みを浮かべるイグニスに、僕は、わずかに苛立った。 「時間がない。切るぞ」   人差し指に東風を呼べば、メス代わりになるはずだ。  「やめろ」   イグニスが顔をしかめた。  「おまえの腕じゃ、肉まで切りかねん」  相変わらずの、人を小馬鹿にした声だが、かすかにかすれていた。 額に汗が滲んでいる。  「こうすればいい」   僕は、イグニスの脇の下に両手を回した。 豊かな胸を支える留め金の下に、指をねじいれる。  一瞬。 すべらかな絹のはだざわりと、それより、さらに柔らかく熱い感触が指先を覆う。   胸に、どくりと鼓動を感じた。 僕は、唇を噛んで動悸を鎮め、両の指先を持ち上げた。  十分に肌から離し、風を呼ぶ。  「あっ」   風が肌をくすぐったか、少女のような悲鳴が唇から洩れた。  留め金は、鈴のような音を立てて両断された。  ドレスの下には、黒い薄物があった。 豊かな胸からへその上までを覆っている。   女性の服というのは、どうしてこう面倒なんだ?  「このドレスは……オートクチュールだぞ!」   悲鳴の原因は、経済的損失のようだった。 「いいから、黙っていろ」   今度は壊さないでもすみそうだ。 僕は、薄物のすそをつかみ、引っ張り上げる。 下腹部に指が触れる。 傷のせいか、しっとりと汗で湿った肌の上を指先がすべる。  「痛……」   薄物が傷に触れたか、イグニスがもがく。 「傷を見るだけだ。大人しくしろ」   助言を聞き入れずに、半身を起こすイグニス。  「動くなと言っている」   無理な動きをしたせいか、イグニスが、顔をしかめた。 ふいに力が抜けて、また倒れ込む。   頭を押さえようと腕を振ったが、アンダーウェアにさしこんだ指が抜けない。  結果。   薄物は胸の半ばまで持ち上がった。 イグニスは倒れたまま目をそらし、荒い息をついている。   僕は、自分の置かれた状況を検分した。 僕の目的は、イグニスの腹部を露出し、傷を検分し、必要とあらば手当すること。 腹部以外も露出しているが……少なくとも目的は果たした。  ふと脳裏に、第三者的視点で見た現況がよぎる。   汗をかき、怯えた目をして横たわる半裸の女性。 その上にのしかかるように佇む男。 なかなかに犯罪的な状況だが、まずは手当だ。   たくしあげたアンダーウェアは、豊かな乳房の半ばに食い込んでいた。 胸にはブラジャーがあったが、これは、このままでいい。   介抱のために切り裂く必要はない。 ──必要はない。  唾を飲み込むと、喉が、ごくりと鳴った。 左胸の奥で、何かが暴れていた。 これは、僕じゃない。   僕には心臓はない。  「野蛮人か……君は」   呆れた声が響く。 僕は無視して、イグニスの肌を検分した。 ・訓練中、イグニスに怪我をさせていたなら、→5−8−1・そうでなければ。→5−8−2  つややかな白い肌は汗に濡れていた。   それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからない。運動の結果ならともかく、苦痛をこらえた末の汗なら、問題だ。  下腹部に、大きな痣があった。拳で殴ったような痣の中心が擦過傷になって、じくじくと血が染み出ている。 「コートに……絆創膏がある」   苦しい息の下からイグニスが囁くように言った。 僕は、言われるままに、コートを探った。 「右の内ポケットだ」   持ち上げようとして、その重さに驚く。  指から離すと、がしゃんと音を立てて地面に落ちた。 ……防弾に加え、暗器の数々か。重くて当然だ。  転がったのは、スタンガン、デリンジャーがふたつ、刃が黒く闇に溶けるような月牙、筒型の手榴弾らしき物体、等々。  その中で特に僕の目を引いたのはジッポライターだ。  絵とも文字とも取れない銀のロゴが目を引いたわけではない。 ただ、同じデザインのライターを三つ持つ必要が、本当にあるのだろうか? 「なぜ、こんなに?」 「欲しかったら、ひとつやるぞ」   確かに、手元に灯りが欲しかったところだ。ちょうどいい。 火をつけようと蓋を開けると、突然イグニスが鋭い声で言う。 「ただし、ホイールは手前に回せよ」 「……なぜだ?」  「奥に回すと、信管が外れる」  信管。爆弾を炸裂させるための装置だ。   それが意味するところは、すなわち。 「手榴弾か?」 「小型の、な。なかなかしゃれているだろう?」   イグニスの言葉に、僕は思わず呆れてしまう。 道理で、同じライターをたくさん持っているわけだ。  僕は、ジッポライターの明かりを頼りに、なんとか絆創膏とテープを見つける。 広いが、深くはない傷だ。絆創膏を押しつけて、テープで固定すれば血は止まった。  汗をぬぐった時、僕は、もう一筋の血に気づいた。 それは、イグニスの左胸から流れていた。 「取るぞ」   僕は、ブラジャーに手をかける。 「勝手にしろ」   ほとんど囁くような声を待って、僕は、それをひっぺがした。  つんと上を向いた胸の先に、形のよい乳首。 そのすぐ脇に、一本の血の筋が、流れていた。 縦に並んだ四つの傷。鋭い、針のような穴が、深く肉をえぐっている。 「これは……」  僕がつけた傷、か。 指は血袋で止まっていたが、その先にまとった風は、針のように鋭く彼女を刺したのだ。 まっしろな肌に浮かんだ血の筋。 その先端からは、鼓動とともに、新しい血の玉が浮かぶ。 「どうして……」   黙っていたのかと聞こうとして、僕は口を閉じる。 僕は、急いで絆創膏をその上から貼る。乳首に絆創膏が触れると、イグニスは、小さくあえいだ。  白い綿は、たちまち血で染まった。 気休めだ。 早く帰って手当したほうがいい。 メゾンに運ぶ。いや、救急車を呼ぶか? 「……ぁ」   イグニスの唇が動いて、吐息を吐いた。 「なんだ?」   僕は、耳を寄せる。 「……ん……」   イグニスの右手が動いた。震える指が額を指さす。 「どうした。動かないほうがいい」   僕は、イグニスの額を正面からのぞきこむ。  視界が暗くなる。   一瞬、何が起きたかわからなかった。 視界が暗くなり、暖かな息が顔にかかった。唇が、なにか柔らかなものでふさがれる。  暖かなものが、僕の歯をなぞっていった。それは、やさしく歯を割り、僕の舌に触れる。 そこまで来て、僕は、ようやく気づいた。 ついばむようにして僕の唇を奪ったイグニスは、右手で僕の頭を抱き寄せた。  バランスを崩して、僕はイグニスの上に倒れ込む。 右の掌が、柔らかなものに沈み込む。五本の指先は、熱い肌にくるまれた。 混乱して叫んだ僕の口に、イグニスの舌はますます深く入る。唾液が二人の口腔を行き来する。  舌に舌を嬲られ。 指先は暖かな肉の感触を確かめ。 僕は、とっさにどちらに対応するか迷った。  舌を拒むか。胸を拒むか。 悩む間に僕の舌はイグニスの舌に絡み、その頬を撫で上げる。 悩む間に僕の指は、マシュマロのような感触を確かめ、ピアノを弾くように五指を蠢かす。  終わりは唐突に訪れた。   顎をぐいと押されて、僕は我に返った。   ぽかんと開いた口から犬のように垂れた舌。その先が糸を引く。   あわてて僕は、胸をもみしだいていた右手を引っ込めた。 「退け」   声には、勝ち誇った響きがあった。 まったく非論理的ながら、僕も、イグニスに負けた気がしていた。  イグニスは、ゆっくりと身体を起こす。血は、止まっているようだった。 顔には、さっきまでなかった余裕があった。 「芝居か?」 「なぁに、おまえの手当がよかったのさ」  にやりと笑う顔に、僕は、文句を言いそびれた。 「とにかく……メゾンに戻ろう。管理人さんに手当してもらう」 「あの女にか?」  イグニスは顔をしかめる。僕は、ささやかな勝利を噛みしめた。 「さ、いこう」 ●5−8−2  つややかな白い肌は汗に濡れていた。   それが良いことなのか悪いことなのか僕にはわからない。運動の結果ならともかく、苦痛をこらえた末の汗なら、問題だ。  下腹部に、大きな痣があった。拳で殴ったような痣の中心が擦過傷になって、じくじくと血が染み出ている。 「コートに……絆創膏がある」   苦しい息の下からイグニスが囁くように言った。 僕は、言われるままに、コートを探った。 「右の内ポケットだ」   持ち上げようとして、その重さに驚く。  指から離すと、がしゃんと音を立てて地面に落ちた。 ……防弾に加え、暗器の数々か。重くて当然だ。  転がったのは、スタンガン、デリンジャーがふたつ、刃が黒く闇に溶けるような月牙、筒型の手榴弾らしき物体、等々。  その中で特に僕の目を引いたのはジッポライターだ。  絵とも文字とも取れない銀のロゴが目を引いたわけではない。 ただ、同じデザインのライターを三つ持つ必要が、本当にあるのだろうか? 「なぜ、こんなに?」 「欲しかったら、ひとつやるぞ」   確かに、手元に灯りが欲しかったところだ。ちょうどいい。 火をつけようと蓋を開けると、突然イグニスが鋭い声で言う。 「ただし、ホイールは手前に回せよ」 「……なぜだ?」 「奥に回すと、信管が外れる」  信管。爆弾を炸裂させるための装置だ。 それが意味するところは、すなわち。 「手榴弾か?」 「小型の、な。なかなかしゃれているだろう?」  イグニスの言葉に、僕は思わず呆れてしまう。 道理で、同じライターをたくさん持っているわけだ。  僕は、ジッポライターの明かりを頼りに、なんとか絆創膏とテープを見つける。 広いが、深くはない傷だ。絆創膏を押しつけて、テープで固定すれば血は止まった。 「さぁ、これでいい」   応急手当だが、とりあえず救急車を呼ぶ必要はないだろう。 メゾンに戻ったら管理人さんに手当してもらおう。  汗をぬぐって、僕は、ドレスを手に取った。金具は完全に割れていた。 どうやって戻せばいいだろう。   結べばなんとかなるかな?  生地を確かめるうちに、僕は、ふと、布地のほつれに気づいた。   イグニスの左胸のあたり、布地が大きく解れていた。 見ればビスチェにも、同じところに傷がある。 「取るぞ」   僕は、ブラジャーに手をかける。 「やめろ」   囁くような声を無視して、僕は、それをひっぺがした。  つんと上を向いた胸の先に、形のよい乳首。 そのすぐ脇に、無惨な痣が、縦に四つ。 「これは……」   僕がつけた傷、か。 指は血袋で止まっていたが、その衝撃は、彼女の肌を傷つけていたのだ。 「たいしたことはない」   のんびりとイグニスが言った。 「見切りを損ねただけだ」  「そうだな」  僕はうなずく。 元はといえばイグニスが無断で仕掛けたことだ。 が、この答えはお気に召さなかったらしい。 「おまえは……乙女の柔肌を傷つけておいて……なんとも思わないのか?」   苦痛をかみ殺した口調で、イグニスがおどける。 「僕も悪かった」   とりあえず、僕は絆創膏を取りだして、痣の上に貼った。 乳首に絆創膏が触れると、イグニスは、小さくあえいだ。 「僕も、とはなんだ。おまえは責任を感じていないのか」  「僕にも責任はある。ということは、責任を感じているということだ」 「ふん」   そう言ってから、イグニスは急に顔をそむけた。胸には、汗が浮かんでいる。 「痛いのか?」  「……ぁ」   イグニスの唇が動いて、吐息を吐いた。 「なんだ?」   僕は、耳を寄せる。 「……ん……」   イグニスの右手が動いた。震える指が額を指さす。 「動くな。大丈夫か?」   僕は、イグニスの額を正面からのぞきこむ。  視界が暗くなる。   一瞬、何が起きたかわからなかった。 視界が暗くなり、暖かな息が顔にかかった。唇が、なにか柔らかなものでふさがれる。  暖かなものが、僕の歯をなぞっていった。それは、やさしく歯を割り、僕の舌に触れる。 そこまで来て、僕は、ようやく気づいた。 ついばむようにして僕の唇を奪ったイグニスは、右手で僕の頭を抱き寄せた。  バランスを崩して、僕はイグニスの上に倒れ込む。 右の掌が、柔らかなものに沈み込む。五本の指先は、熱い肌にくるまれた。 混乱して叫んだ僕の口に、イグニスの舌はますます深く入る。唾液が二人の口腔を行き来する。  舌に舌を嬲られ。 指先は暖かな肉の感触を確かめ。 僕は、とっさにどちらに対応するか迷った。  舌を拒むか。胸を拒むか。 悩む間に僕の舌はイグニスの舌に絡み、その頬を撫で上げる。 悩む間に僕の指は、マシュマロのような感触を確かめ、ピアノを弾くように五指を蠢かす。  終わりは唐突に訪れた。 顎をぐいと押されて、僕は我に返った。 ぽかんと開いた口から犬のように垂れた舌。その先が糸を引く。  あわてて僕は、胸をもみしだいていた右手を引っ込めた。 「退け」   声には、勝ち誇った響きがあった。 まったく非論理的ながら、僕も、イグニスに負けた気がしていた。  イグニスは、ゆっくりと身体を起こす。 血は、止まっているようだった。 顔には、さっきまでなかった余裕があった。  「芝居か?」  「責任を感じているといったな。これは罰だ」   にやりと笑う顔に、僕は、文句を言いそびれた。 「とにかく……メゾンに戻ろう。管理人さんに手当してもらう」  「あの女にか?」   イグニスは顔をしかめる。 僕は、ささやかな勝利を噛みしめた。  「さ、行こう」   月は、はや雲に隠れ、夜が街を覆う中。 古びたビルの屋上に、紅い闇がわかだまっていた。 夜目の利くものがみれば、人の形をした布と見分けられただろう。   けれど、いかな目利きでも、布の奥までは見抜けまい。 染み出す血のように赤い布は、夜よりなお暗い闇で、その中身を包んでいた。   まったき闇の中に、きらめくもの、二つ。   それが瞳であるとするなら。 瞳を包む闇が顔であるなら。 闇は、下界を見渡していた。   首が、動く。瞳が、動く。 信じがたいほどゆるやかに、しかし、止まることなく。 かすかに歯車を軋ませながら、それは、眼下の光景を走査していた。   路上の石の一粒一粒。吹く風の速度と行方。 街をゆくなにもかも見逃さず、それは、機械の忍耐強さで探索を続ける。   やがて、動きが止まる。 ──瞳は、獲物を見つけたのだ。   首が、わずかに持ち上がる。  一瞬、弓弦を鳴らしたような、風を切る音がした。 それだけで、闇は、もうそこにない。 「そこの男、止まれ」  会社からの帰り道。 ふいに背後から呼び止められ、男は、固まった。   それは、むっとするような晩だった。 秋だというのに妙に蒸し暑い。 おまけに空気が、潮臭かった。 海からの風……いや、そんなものが来るはずがない。 狭祭は内陸の街。海まではかなりの距離がある。   いやな予感はしていたのだ。 こんなことなら会社に泊まればよかった。 「聞こえなかったか? 動くなと言っている」   悩むほどに、再び声がかかる。 軽い口調の恫喝。 凛々しい女の声だが、どこかに外国語じみた訛りがある。   外国人。犯罪者。殺人事件。   三つの単語が短絡し、男は、振り返るのを止めた。 無視して足を速める。 それが一番だ。 そうに違いない。 「手間を取らせるな」  背後から足下が、痛烈に払われ、男は、一瞬で、仰向けに倒れた。 倒れた男に頭から水が浴びせられる。 「な、な、なんだ、きみはっっ!」  鼻血を吹きながら立ち上がった男が見たものは。  声から想像した通りの女だった。 赤いコートを纏い、表情は、怜悧だが、透き通るように冷たい。 女は、右手に、抜き身の刀を握っていた。  (こいつが……殺人犯?)   転がされ、水を浴び、抜き身の刃を目にした男は、今度こそ、完全なパニックに陥った。  カバンを放り出し、つんのめるようにして逃げ出す。 「そっちじゃない」  女は、その男の襟首をつかんで、180度方向修正した挙げ句、背を蹴飛ばした。 「ぎひゃぁぁぁ!」  恥も外聞もない悲鳴をあげながら、男は走り出した。  逃げ行くサラリーマンを見て、イグニスは、小さく、息を吐いた。  柄にもないことをした。 おかげで、コートの襟に染みができた。 男の鼻血が飛び散ったのだろう。 目立ちはしないが、気分は悪い。  とはいえ、ふき取っている暇はない。 イグニスは前方を見た。  青黒い夜の闇から湧き出るように。 そこに異形の影があった。  鱗持つ魚人。 細長い腕は動かず、腰のあたりで二本の触手が揺れている。 最前、それは、水弾を撃ち出したのだ。  あの時、イグニスが斬らなかったら、男の首は、水圧でミンチになっていただろう。  獲物を奪われた魚人達は、ゆっくりとイグニスに向けて距離を詰める。  1対5。 イグニスは、手持ちの武器を数えた。  切り札はあるが……今、ここで手の内は見せたくない。 となれば、剣か。 「……陽焔」  呪言を唱えれば、黒い刀に闇がきらめいた。   刀身に刻まれた呪言に火が入る。 残像を伴って、呪文字が宙に浮かんだ。  イグニスはアスファルトを蹴る。 その疾走の中に構えがあった。 伸びる腕を受け流しながら、ほとんど力任せに刀身をたたきつける。   狙いは顎、だ。  ──だめか。  常人の脳を揺らし、廃人にする一撃を食らって。 魚はかすかに頭を振っただけだった。  たちどころに反撃がはじまった。 五体の影から、五対の触手。 既に街路は戦場と化していた。  触手の死角は、敵の懐。 イグニスは、踊るように魚人の間をすり抜け、十本の触手のいずれをも退ける。  走り終えた時、すでに刀は納刀され、イグニスの指には、月牙が握られていた。  ──さて、どう料理したものか。  イグニスは、月牙を投げる。  渾身の力を込めた一投を、魚人は避けもせず受けた。  澄んだ音がして、鱗の上で跳ね返る。  ──足りないな。 火力が足りない。  対物ライフルでもあれば、まだしも、だが。ないものは仕方がない。 となれば……。  イグニスは、再び、月牙を取り出す。 両の手に八つの月牙。  魚人が蛙のような声を上げた。 多分、あざけりの言葉だろう。   人外の民には、それぞれ、独特の急所がある。 人に似ているからといって、人と同じ急所が通じるとは限らない。 まして、歩く魚の急所などイグニスも、あずかり知らぬ。   だが。  わからねば、調べればいい。      鋭い呼気とともに、イグニスは、八つの月牙を一斉に放った。 目。下腹。喉笛。思いつく限りの急所を、月牙が襲う。   魚人が動いた。 触手が揺れ、月牙を落とす。   ──ほう、そこか。 イグニスは、ほくそ笑んだ。  再び、魚群の中に身を投じる。  イグニスが右手を大きく引いた。  魚人の大きな目に抜き手を放つ。 触手が上がって目を庇った、その隙に。  左の指が蛇のように滑り込んだ。 魚人の側頭部……鰓の中を指が、突き、えぐり、かきまわす。  びくん、と、魚人が痙攣する。 上がった悲鳴は、牛に似ていた。  青黒い血にまみれた指を、これみよがしに、掲げてみせる。 残りの魚群が、揺れた。  それが怒りか恐怖かまでは判別がつかない。 まぁ、どちらでも構わない。  要するに、隙だ。 その隙を縫って、イグニスは、ひた走る。  もとより、全部を相手にする余裕はない。 急なこととて、備えも足りない。 ここは逃げるに限る。  踵を返した時。 魚人が動いた。  ぎょろりとした目玉が一斉に宙をにらむ。  ──なんだ?  イグニスには見えない。 聞こえない。 だが、何かがいるのは確かだった。  五対の瞳の向かう先。 それは遙か上空から宙を飛び、地面へ落下し、そして、イグニスの背後へ!  とっさに地面に伏せる。  と同時に、爆音。そして熱風。 頭上を通過する衝撃が、髪を焼く。  魚人の低い悲鳴があたりを満たす。  イグニスは、魚人に背を向けて跳ね起きた。  赤い闇がそこにあった。 夜に沈む、澱んだ血の色のケープ。 その内側には、真っ白な骨。  ──なんてこった。  骨には首があり、胴があり、二本の足と一本の腕があった。  すなわち、骸骨。 ヒトガタ。  イグニスが最も避けたい相手が、そこにいた。  死神を思わせるその隻腕は、巨大な銃口となって白い煙を吐いている。 隻腕ではあっても、その姿形は、背後の魚人よりは、よほど人に近かった。  だが、それも形だけだ。 目の前のヒトガタは、背後の魚人たちよりも、遙かに異質な気を放っていた。  ヒトガタが腕を振り、かちゃり、と、次弾が装填される。   ──冗談じゃない。  イグニスは走る。 その脇を、炎がかすめた。  耳を殴りつけ、下腹を揺らす重い響き。 二発、三発。  魚人たちは、すでに反抗の意志を失っていた。 逃げることもあたわずに棒立ちになる、その頭が、いびつにはぜる。  触手を痙攣させ踊り狂う胴体に、もう一発。  もう一発。  そしてもう一発。  銃撃は執拗だった。 断末魔の痙攣が完全に止むまで、銃弾は何発でも撃ち込まれた。 百と数発の弾丸の後、魚人の群れはあとかたもなくなっていた。  背後にぶちまけられた内臓と肉塊の山を、イグニスは横目に眺めて小さく息を吐いた。  目の前のヒトガタを見つめる。   ──やれやれ、今夜は本当についてない。  「気は済んだな? おまえとやるつもりはない」   静かに宣言する。 目の前の相手とは。 目の前の相手とだけは。 今ここで、やりあうわけにはいかなかった。  ヒトガタは、だらりと腕を降ろし、動かない。 否。その瞳だけが、わずかに動いていた。   ──ふぅん?   ヒトガタの視線が、全身を、くまなく走査してゆくのが感じられた。 機械的な視線。 レントゲンを受けるような冷たさ。  イグニスは、両手を上げた。 何が目的かわからんが、見たければ勝手に見ればいい。   爪先を走査し、瞳が下腹を登り、胸から襟元に来た時に、ぴたり、と、その動きが止まる。   かたり、と、ヒトガタの左手が動き、イグニスは凍りついた。 「歩くのもつらいだろう。背に乗れ」   僕は、イグニスをうながした。 「いいのか?」   イグニスは面白そうに囁く。 「あぁ」 「では、言葉に甘えよう」  柔らかい感触が背にあたると、同時に、みしり、と、背骨が悲鳴をあげた。  「いっておくが重いのはコートだ」   なに、これくらい、獣の力があれば……。 そう思って、気がついた。   心臓から、あの力強い鼓動が去っていた。  「風の力が、使えないんだが……」 「魔力切れだろう。一晩寝れば、回復する。どうだ、やめておくか?」  ふむ。 人は毎日成長するものだ。   この時、僕は、峰雪の言う「男の意地」という概念を、少し理解した。 一歩あるくごとに、アスファルトに足形が記されるかと思った。   そもそも、この女は、普段から、こんなものを持ち歩いているのか?  メゾンは、遠く、地の果てに思えたが、それでも、ようやく灯りが見えてきた。 門の前に仁王立ちしているのは……。 「恵、こんな夜に、外に出ていると危ないぞ」  小気味よい音がして、頬がはたかれた。  「お兄ちゃん! 連絡してくれるっていったじゃない!」  恵が、これだけ怒ったところは初めてみた。 だが、どうやら、その視線は、僕よりも、僕の背後に向けられていた気がする。  「すまないことをしたな。君の兄上をつきあわせたのは私だ」  そう言って、イグニスが、僕の背から降り、千鳥足で歩き出す。  「手当を……」   言いかけた僕の口を、管理人さんの手がふさいだ。 「イグニスさんの介抱は私がしておきますからね。克綺くんは、ちゃんと恵ちゃんにあやまること」   僕は、無言で頭を下げた。   千鳥足のイグニスが手を振る。 僕は、手を振り返した。   次の瞬間、恵が、僕の足を踏んでいた。  ──恵の説教、否、糾弾は、その夜、数時間に渡って行われた。   彼女の疑問と怒りはもっともであり、かつ、僕には、それを否定する材料がない。そのことは確かだ。   僕は、反省して、その怒りを受け止めるべきだとは思っている。   しかし、それは苦痛だった。  恵は、一切の論理を無視して僕が生まれてから今までの、あらゆる所行において、その無責任さを糾弾した。 彼女によれば、僕は、妹の幸福を全く考えず……否。その不幸を楽しむ最低の鬼畜であった。  やがて、朝が白んだ頃、恵のまぶたは、くっつきはじめ、言葉には、ますますとりとめがなくなったが、それでも糾弾はやまなかった。 「悪かった」   何十回目かに、そう言った時、恵は、ようやく頷いた。  「お兄ちゃんにも事情があるのはわかるけど……」   わかるなら、どうして……とは言わなかった。 「あんまり心配させないでよね。それと、約束覚えてる?」  「何の約束だ?」   そう言った瞬間、恵は、ぐらりと顔をあげた。 墓場から復活する死者のように、鬼気をたたえた表情。その顔に、僕は心底恐怖した。 あわてて記憶を探る。  「週末に、遊びにいく約束だな。もちろんだ。ちゃんとスケジュールを組んでる」 「そう、ならいい」  恵は幽鬼のように立ち上がり、ドアに向かった。    ドアを開けたところで、ゆっくりと振り返る。 「お兄ちゃん、私たち、ずっと一緒だよね」   論理的には意味のない問いだ。 願うことと叶うことは別であり、仮に恵と一緒にいるべく行動したとしても、未来のことはわからない。 それに寿命というのもある。   仮定としては、いますぐ二人で心中すれば、「ずっと一緒」だったことになるのかもしれない。 だが、それを恵が求めているとは思えない。 であれば「ずっと一緒」を願うことに、さしたる意味はない。  ……そんなことを思ったが、僕は、口には出さなかった。   ただ、うなずいた。 それが正しい、と思った。   その証拠に、恵は笑った。 眠りにつく前の幼子の、安心しきった優しい笑顔。 「おやすみ、お兄ちゃん」  「あぁ、おやすみ、恵」  ……結局、眠れなかった。  ドアを開けて廊下に出るが、恵はまだ寝ているようだった。  ふと思い立って、イグニスの部屋に向かう。  扉をノックしたが、返事はなかった。 管理人さんのほうかな。  管理人さんの部屋の扉は、いつも開いている。 不用心といえば不用心だが、夜は玄関の鍵は閉めてるのだし、店子をそれだけ信頼しているということだろう。  扉の向こうから聞こえてきたのは、珍しく、強い調子の管理人さんの声だった。 「……本当に、違うんですね」 「言っただろう、誤解だ。こっちの身にもなってほしいものだ」  冷笑的な声の主はイグニスだ。 「わかりました……ですが、もし……」  決意に満ちた管理人さんの声は、唐突に途切れた。 どうしたものかと思う内に、扉が開く。 「……克綺クン。立ち聞きはいけませんよ」 「そうですね」  「ごめんなさいは?」 「ごめんなさい」  「よろしい! あ、朝ご飯はもう食べた? よかったら食べていかない?」 「恵と一緒に食べますから」  「恵ちゃんも来ればいいわ。久しぶりに、どう?」 「はい」  恵を携帯で呼び出し、僕は久しぶりに管理人さんの部屋に入った。 上半身に包帯を巻いたイグニスが物憂げに座っていた。 「手当してもらったみたいだな」 「あぁ。管理人の優しい手当のおかげで、調子は万全だ」   イグニスの声には、僕にさえわかる皮肉な色があった。 「また怪我したら、いつでも言ってくださいね」   管理人さんは、いつもの調子で言葉を返す。 その言葉には、心からの心配と慈愛があった。  二人の視線が、宙空で絡み合った。  ……驚くべきことに、先に視線をそらせたのはイグニスだった。 あの独善とプライドの塊みたいなイグニスも、管理人さんの笑顔には勝てないらしい。 ふむ。 「なんだ?」 「いや、おまえのような独善とプライドの塊みたいなやつも、管理人さんの笑顔には勝てないのか、と思ってな」   イグニスは、今度こそ渋面を浮かべた。 「それはともかく服を着たらどうだ?」 「ほう? 気になるか?」 「恵が来るからな。心配をかけたくない」 「妹思いなことだ」  遠慮がちなノックに、管理人さんが席を立った。恵だ。 「いただきます」  声を合わせた瞬間から、見えない戦いは始まっていた。 恵は、椅子を僕に近づけ、じっとイグニスをにらみつける。   対するイグニスの微笑は、挑発といってよかった。  無言の視殺戦を続ける二人。   僕は、まず目の前の皿に専念することにした。  今日の朝食は、フランスパンのトーストに、レバーペースト。 それにミネストローネだ。   コクのあるレバーペーストは、カリカリのトーストにマッチして、舌触り、味ともに申し分なかった。 「レバーペースト、おいしいですね」  「うむ。これは豚ではなく鶏のレバーだな。熟成の具合に匠の技がみられる」   イグニスが楽しげに応える。 が、視線は恵を向いたままだ。  「あら、ありがとうございます。 おかわりもありますからね」   管理人さんが微笑む。  僕は、スープを一口含んだ。 思いがけなく酸味の強い味わいだが、それが後を引く。   トマトベースのミネストローネかと思ったが、タイのトムヤンクンに近い。 その酸味が、野菜の甘さを際だたせる。  「おいしいな。 こんなスープは食べたことがない」  「そうですか? また今度作りましょう」   僕は喜んでうなずいた。  皿の半分が片づいても、恵とイグニスは未だににらみあっていた。 スープを口に運びながらも目をそらさない恵と、優雅に視線を受け止め続けるイグニス。 均衡は、突然に破られた。  「恵ちゃん、スープのお代わりはいかが?」  「あ、はい。いただきます」  恵は、反射的に管理人さんに振り向いてしまった。  イグニスが、かすかに……しかし聞こえよがしに……クク、と笑う。  恵の顔が真っ赤になった。  「あ、これ、おいしい」   トーストに口をつけた恵が、感想をもらした。 今まで味も感じないほどに緊張していたのだろうか。  「今度、教えてあげますよ」   管理人さんが優しく応える。 「〈心臓〉《ハート》を掴むには、胃袋か。 変わらぬ手練手管だな」   優位に立ったイグニスがジャブを放つ。  「イグニスさんは料理は得意なんですか?」   恵の目には挑戦の色があった。 正直、恵の腕前で挑むのは無謀だと思うのだが。  「一人暮らしが長いんでな。簡単なものなら作れる。 克綺、弁当でも作ってやろうか?」 「いらん」  イグニスの態度に、恵は頬を膨らませた。  「まぁ、仲がいいのね」   管理人さんが駄目を押す。  「恵君。昨日はお兄さんを借りて悪かったな」 「いえいえ。でも深酒は毒ですよ」   丁寧な言葉は英国仕込みだろうか。 しかし、口調と険悪な表情はそれを裏切っていた。 「今後もあると思うが、よろしく頼む。 なぁ、克綺?」   僕はうなずいた。 どちらかというと肩をすくめたいところだったが、さすがに朝食の席でそれは無礼だろう。 恵の表情が堅くなる。 「お兄ちゃん、今週末は、一緒に遊びにいくんだよね?」  「ああ」   僕はうなずく。 風見鶏になった気分だ。 「週末か……夜の外出は危険だぞ?」 「例の事件か。週末までには片づくんじゃないかな」  「そうだな、そうなるといい」   僕の言葉に、イグニスが面白そうに笑う。  「せいぜい、それまで二人で頑張るとするか」   僕はうなずくしかなかった。 「が、頑張るって……」  「ちょっとした秘密というやつだ。 気にしないでくれ」   恵がすがるような目で僕を見る。  「ごちそうさまでした。そろそろ出ないと」  「克綺、送ってやろうか?」 「わ……私が送ります!」  食事を終えていたイグニスが優雅に席を立つ。   恵は、あわててスープの残りを流し込んだ。熱かったらしく、舌をふうふういっている。 ・僕はイグニスと一緒に出ることにした。→6−1−1へ ・僕は恵と一緒に出ることにした。→6−1−2へ ●6−1−1 「イグニス、少し話がある。一緒に来てくれ」 「よかろう」   恵の落胆した顔を見ると心が痛んだ。 僕は誤解を解くべく精一杯説明する。  「誤解しているかもしれないが、イグニスと出るのは、儀礼上の行為でもなければ個人的な親交を深めるためでもない。 単なる相互利益に基づく行為であって、感情的な意味は一切ない」  恵の顔が、ますます暗くなった。 イグニスは、相変わらずにやにやしている。  「克綺クン、墓穴掘ってるわよ?」 「……はい」  「お兄ちゃん、いってらっしゃい」   葬式前のような声で恵が言う。  「ああ、行ってくる」  外に出るなり、イグニスが笑いだした。 「いや……あれは傑作だった。 単なる相互利益に基づく行為、か」  「違うか?」  「気づいてないならいい」   イグニスの笑みが鼻についた。 あとで峰雪にでも聞いてみよう。  「で、何の用だ?」 「まずは一つ。恵をあまりいじめるな」  「……」  「なんだ?」  「あきれている」  「なぜだ?」  「恵を傷つけてるのは、おまえの態度だと思うぞ」  「それについては改善を考えている。 まず、それが一つ」 「ほう、二つ目は?」  「食卓で言った通りだ。 今日中に事件を解決しようと思う。 可能か?」  「妹思いなことだ」  「目の前で起きている事件を見過ごしにはできんさ」   イグニスが、面白そうに僕をのぞきこむ。 「胸に手を当ててみろ」  「今は力は使ってないぞ?」 「いいから」   言われるままに、僕は胸に手を当てる。  小さな鼓動が感じられた。 「やっぱりか」   表情に出たのだろうか、イグニスはそう言ってうなずいた。  「どういうことだ?」 「空っぽの心臓に、力を取り込んだからな。おまえ自身の感情が生まれているのさ」   僕は、眉をひそめる。 あまり自覚がない。  「自覚はない、か。それもいいだろう」   そう言ってイグニスは立ち止まった。 「さ、このへんでいいだろう」  「作戦の打ち合わせは?」  「私にも準備があるからな。放課後にでも落ち合おう。連絡は携帯によこせ」  「わかった」   そう言って僕たちは別れた。 →6−2へ ●6−1−2 「何だ、私は無視か?」   イグニスがわざとらしくつぶやく。  「おまえと個人的な親交を深めるつもりはない。 すべては単なる相互利益に基づく行為だ」   そう言うと、イグニスが、にやにやと笑った。恵が、ぎゅっと僕の腕をつかむ。 「じゃ、行ってきます」 「行ってらっしゃい。それと、克綺クン?」  「はい?」  「墓穴掘ってるわよ」   管理人さんの笑顔に、僕は言い返す術を知らなかった。 「お兄ちゃん、どういうこと!」   門を出るなり、恵が強い調子で話しかけてきた。  「何の話だ?」 「だから! その……相互利益って」   恵が口ごもる。  「言った通りの意味だが……何を考えている?」 「馬鹿!」   顔を真っ赤にして、恵が言った。 「あのね。お兄ちゃんが、誰とつきあっても、仕方ないけど……」 「つきあってるわけじゃない」  「あの人は……ちょっと怖い感じがする」 「形容としては正確だが、過小評価だな」   ちょっと怖いどころの騒ぎではない。 はっきりと危険だ。殺されかけたし。 「ごめんなさい。悪く言うつもりじゃないんだけど……あの人といると、お兄ちゃんが危ないことにあいそうで……」   その通りだ……というセリフを、あやうくかみころした。  「大丈夫だ」   嘘をつく。嘘をついたのは何年ぶりだろう。  「嘘」   見抜かれた。  たいがいの嘘はばれるものだ。 現実の様相は非常に複雑で、それを人為で糊塗するのは不可能に近い。 というより、そんな面倒なことはしたくない、というのが僕の偽らざる感想だ。   世界はそれでなくても複雑で、そこにあらたな複雑性を付け加えるのは、僕は馬鹿馬鹿しいと思うのだ。   しかし、今日だけは。僕は嘘をつく。 嘘とわかられても、それ故に価値がある。そんなこともあるのだと思った。 「とにかく大丈夫だ」   恵の目をみつめる。 ふと頭をなでたくなった。 だから、そうした。  「もう」   恵が頬を膨らませる。  「いい、約束して。明日は一緒に遊園地に行く」 「約束する」   僕は、もう一つ嘘をつく。 「絶対に、帰ってくる」  恵の目が見れなかった。でもきっと笑っているだろうと思った。   人間というのは嘘ばっかりだ。 →6−2へ 「ほんっとに、うらやましい野郎だな」 「なにが?」   教室で、今日の朝食の話をすると、峰雪は、心底、せつなそうな声をだした。  「管理人さんと恵ちゃん、それに、あのイグニスさんまで、揃い踏みで、いっしょにご飯食べるなんてさ」 「この前のパーティで食べたじゃないか」  「パーティはパーティだよ! 朝、こう、なにげなく集まって、普通に食事するのがいいんじゃねぇか」  「家庭環境に何か問題でもあるのか?」 「……まぁな」   峰雪は、遠くを見る目でつぶやいた。 そういやこいつは、一年中、親父と住み込みの坊さんと一緒に飯を食うわけか。 「まぁ僕ならいいが、君にはつらいんじゃないかな」 「そりゃ一体どういう意味だ?」  「僕は君の言うところの鈍感な人間だがな……それでも、あの険悪な雰囲気は感じ取れたぞ」 「険悪? 喧嘩か?」  「まぁ、そんなところだ」  「なんでイグニスさんと恵ちゃんが喧嘩してるんだ?」 「……どうやら理由は、僕らしいんだが。聞いてくれるか?」  峰雪は天を仰いだ。  「まぁ聞いてやるよ。言え」 「ふむ。なんと言ったらいいか。 僕が、人間関係に言及したとしよう」   ははーん、と、峰雪が分かったような顔をする。  「それってな、男女関係か?」  「男女関係に限定した含みを持たせたつもりはないが、客観的に言えば、男女の関係ではある」 「つまり、おまえとイグニスさんだな?」  「仮にそうだとしよう。僕は妹に彼女との関係を、親密な、感情的なものではない、単なる相互利益に基づいた関係、と説明した」  「ほぉぉ?」  「君だったら、この言葉を、どう解釈する」 「はぁ」   峰雪は、なにやら深い溜息をついている。 「そうしたら何故か知らんが、妹が怒ってな」 「そりゃ怒るだろうよ」  「どうして怒ったのか、教えてくれないか?」  「そりゃおまえの言ってることが、僕たちは恋愛感情のない、カラダだけのつきあいです、ってことになるからだよ!」   こらえていたものを吐き出すように、早口で峰雪は言った。 僕はしばらく考える。 「……そうなのか?」 「そうだ!」  「なぜだ? 肉欲も確かに相互利益に基づいた関係ではあるが、僕が想定しているのは、もっとビジネスライクなものなのだが」  「なぜだもなにも、そうとしか聞こえねーって。ていうかおまえ……」 「安心しろ。そんな関係ではない。 むしろ願い下げだ」 「そ、そうか」   僕の目の色に何かを見たのか、峰雪は、あとずさった。 「……にしても、牧本遅ぇな」  峰雪が、ふと時計を見上げて、つぶやく。 とたんに僕は、さっと血の気が引くのを覚えた。  昨日の晩。夜道の牧本さん。  なんてことだ。 あの奇妙な人形と会ったせいで、牧本さんのことをすっかり忘れていた。 「ん、どうした? 牧本とも何かあったのか?」 「いや……なんでもない」  そう言うしかなかった。  結局、その朝、牧本さんは、来なかった。  チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。 僕は、刑の執行を待ち受ける死刑囚のように、一つの言葉を待って身を固くしていた。   先生の言葉だ。      ――あぁ、それから昨晩から、牧本の行方がわからない。      どんな小さな手がかりでもいい。      知っているものは職員室まで来てくれ。   だが、待ち受けた言葉もないまま、ホームルームはつつがなく終わった。 初老の教師は、ただ「ん? 牧本は休みか」と言ったきりだった。  2限目。そして3限目。時間がゆっくり流れる。 胃のあたりに重いものがのしかかったようだった。   様々な想いが渦巻く。 事故に遭っているはずはない。 それなら報道されるはずだ。   行方不明というなら家族から連絡もあるだろう。   学生が1日外泊したくらいで連絡しないかもしれない? いや、普段ならともかく、事件の真っ最中の今ならば、牧本さんが失踪していれば、確実に連絡しているはずだ。   何度、自分に言い聞かせても、腹の中の重いものは消えてなくなりはしなかった。     かたをつけるのは簡単だ。 学生名簿を調べて、牧本さんの家に電話すればいい。 たったそれだけのことだ。   けれど、僕にとって牧本さんの家に電話することは、こめかみに向けた銃の引き金を引くのと同じくらい勇気がいった。   そして、僕には、その勇気はなかった。 「どうした? ひでぇ顔だぞ?」  3限目が終わったあと、峰雪が声をかけてきた。 「なんでもない」  僕は首を振る。 「なんでもなかないだろ、その顔は」  峰雪があきれた顔で応える。 「いったい、どうしたんだ?」  「……昨日の夜だ。道ばたで、牧本さんを見かけたんだ」  「おまえも命知らずだな。それで?」  「それだけだ。  気のせいだったかもしれないが……欠席したって聞いて、それを思い出してな」 「なぁるほどな」   峰雪が腕を組む。  「で、最近、連続殺人事件の経過はどうなっている?」  「テレビじゃ、あまりやってねぇけどな」   峰雪は、声をひそめた。 「人死にはまだでてる。ウチは寺だからな、葬式の話は入ってくるんだ」  「そうか……」   僕の感じた胸の重さ。それに比べて、家族に死なれた人の胸の重さはいかばかりだろうか。 そんな人が、今、この街にたくさんいる。そして、毎日増えている。 とても当たり前のことに、僕は、ようやく思い立った。  その時、戸が開く。  入ってきたのは牧本さんだった。 「牧本、おはよ!」  峰雪が手招きする。 「おはよう」   そして僕の顔を見て、怪訝そうにつぶやいた。  「どうしたの? 九門君」   僕は目をこする。 手の甲に、ぬれた感触があった。 牧本さんが差しだしたハンカチを受け取る。 「こいつ、昨日の晩、道で牧本を見かけたんだと」   ――結局、牧本さんは体調を崩して遅刻しただけのようだ。   峰雪から僕の様子を聞かされた牧本さんが、そっと微笑んだ。 「心配しててくれたんだ」   心配。その言葉が、僕の胸に染み通る。 そうか、僕は心配だったんだ。  「違う。安心したんだ」 「そりゃ理屈だ」  峰雪が、牧本さんが笑った。   僕も笑う。久しぶりに。 心の底から。 →6−3 ●6−3 「それじゃ、また」  校門を出る時、僕は、どんな顔をしていたんだろう。 「おう、気をつけろよ」  「行ってらっしゃい」   峰雪と牧本さんの別れの言葉は、何かに気づいているようだった。 僕は軽く頭を下げた。 「行くか」  それは紅い紅い夕日の向こうから現れた。 わずかに首を傾けて、イグニスはそう言う。真っ赤な血のような夕焼けの中で、赤のコートがなお際だっていた。  「あぁ」   僕はうなずく。  「どういう心境の変化だ?」 「なにが?」 「その顔だ」 「……はっきり言え」  「心ここにあらず、という顔だったのだが、今日はずいぶんとやる気がある」   心、ここにあらず、か。 僕は胸に手を当てる。   力強い鼓動がそこにあった。  「僕は……死にたくない」  口に出すとはっきりした。   生きて、恵に会いたい。 牧本さんにも。 管理人さんにも。峰雪にも。  「そうだな」  「皆が死ぬのも、見たくない」  ──非論理的な思考だな。偽善的ですらある。     僕の胸の奥で、誰かが言う。   時計の響きとともに。   ──今、この瞬間にも、この日本で、あるいは異国で人は   死んでいる。おまえは、それを止めるつもりはないし、   それを悲しむことさえできない。     そうかもしれない。   ──本当に命を大切にするなら、彼らの命を救うことに一生を   捧げるべきだ。     そうかもしれない。     ──人が死ぬのがいやなら目をふさげ。   これまでそうしていたように。   これからもそうするように。     そうかもしれない。   ──おまえは、たった数人の命を助けるために、多くの命を   奪おうとしている。おまえはそれを喜んでいる。     そうかもしれない。  僕は胸に手を当てる。  力強い鼓動がそこにあった。   秋の冷たい空気が火照った顔を冷やし、息を吸い込めば風が胸に踊った。   胸の温もりが、僕に教えてくれる。 それは、たった一つの、本当に簡単なこと。   僕は生きる。   ──ならば戦いを避けるべきだ。   死の危険を冒すことは生きることにつながらない。 息をしてることが生きてることじゃない。  ──定義せよ! 生を定義せよ!   僕は、僕だけで生きているんじゃない。   僕の中に恵が、牧本さんが、管理人さんが、峰雪が、イグニスだっている。みんなみんな生きている。 僕は、その死を願わない。   ──理解。おまえの生はおまえだけでは完結しない。   そうだ。だから僕は、僕の生のために、皆を助ける。   ──だがなお、それは非論理的だ。明日、おまえが生き残れば、友は作れる。今日、おまえが死ねば、おまえの生は、そこで終わりだ。  明日がどうした。 明日の僕は僕じゃない。 まだいない僕なんかのために、どうして僕が考えてやる必要がある。 僕は、僕だ。 そして、僕は、今の僕は、皆を助けなければ、ここで死ぬんだ。それで明日の僕は幸せになるかもしれないが、それは別の僕だ。   だから。   僕は、命を懸けて生きてやる。      ──勝手にしろ。     その言葉を最後に、時計の音は止まった。 あきれたようなその一言は、多分、精一杯の祝福の言葉だったのだろう。 過去の僕が、今の僕に言うのに、もっともふさわしいその言葉こそが。   そう、僕は勝手にする。 「結論は出たか?」   イグニスが僕を見ている。  「あぁ」  「最後の最後まで、理屈っぽいやつだな」  「性格だ。そうそう変わりはしない」   昨日の僕が、どこか遠くで笑った気がする。 「はっきり言っておく。おまえが、己の身を守る器でなければ……魚たちに負けることがあれば、私がおまえを殺す」  「勝手にするさ」   イグニスが、妙な表情を浮かべ、そして笑った。  「その通りだ」 →6−4  アスファルトに真っ黒な穴が開いていた。   赤錆びた梯子がわずかに見えるだけで、その下は夕闇の光を吸い込む黒い淵となっていた。  イグニスが懐中電灯で中を照らした。 細い光に、壁面がわずかに浮かび上がる。 「この下にやつらが?」  「あぁ。ついてこい」   そう言ってイグニスは闇の奥に下る。  それは、古びたマンホールだった。 イグニスが刀を梃子につかってこじ開けると、錆び付いた蓋が、みしみしと音を立てた後に転がった。 「ここはどこなんだ?」   声が反響して、妙な具合だ。  「地下水路だ。気をつけろ。降りたら敵だらけだ」 「しゃべっていていいのか?」  「気づいているさ。蓋を開けて風が入った時からな」 「どれくらいいるんだ?」  僕は、水面を見下ろした。 狼の目を使えば、数十メートル下に、かろうじて黒い水面が判別できる。  「どれくらい? 見ればわかるだろう」 「なにが?」 「そろそろだ。いくぞ」   イグニスは、懐中電灯を、宙に高く放った。 どういう仕組みなのか、電灯は大音響とともに、まぶしい閃光を放つ。  閃光を浴びて、黒い水面がぶるぶると震えた。   ざんぶと水を巻きながら、黒く丸く膨れては、水面は固いものを産み落とす。  水面? いや違う。 それは水中を埋め尽くした魚人たちの背だったのだ。  光を浴びた魚人たちは、苦しんでか、あるいは怒ってか、次々と立ち上がった。  下水道の脇の狭い岸。  イグニスが、梯子を蹴り、そこに降り立った。 たちまち魚人たちが殺到する。   鰓から水を吹きながら宙を泳ぐ魚人たちの間を、イグニスが駆け抜けた。  一瞬後に、五匹の魚人たちが倒れる。  狼の目を持ってしても、その両手の動きは見切れなかった。 ただ、倒れゆく魚人の目に、鰓に、首に、鋭い暗器があったのを分かるのみだ。 「早くやれ。こいつらの急所は〈鰓〉《あぎと》だ」  僕も、イグニスの脇に降り立つ。 息を吸って、力を使う。   ここで使うべき力は…… ・水の力→6−4−1 ・風の力→6−4−2 ●6−4−1  ──水だ。 水ならあたりにあふれている。   心臓が脈打つ。蒼く、冷たいものが、僕の胸を満たす。 目を閉じて、あたりの水を感じ取ろうとする。   ──水よ。常しえの水よ。   足下を流れる水に、力の限り呼びかける。  たちまち蛇のように水柱が伸び上がり、僕は手を差し伸べる。  が。差しだした僕の腕は、したたかに撲たれた。冷たい痛みが肌を刺す。   ようやく僕は思い知る。 魚人のまっただ中で、縄張りの水を操るのは愚かだと。  水には既に主がいた。  魚人たちは、急がずに遠巻きに輪を狭めてきた。  無数の触手が閃き、次々と水柱が生まれる。  泥色に濁った水面。 水面の蛇だけは、水晶のように美しく透き通っていた。 「受け取れ!」   イグニスの声とともに、宙を跳んで飛来したそれを、僕は掴み取る。  ペットボトル!  炭酸飲料が、僕の手の中で弾ける。  魚人たちがあとずさった。   これは人の手になる水。 泉を汚す毒の水だ。   ほとばしる黒い水は、きらきらと糸を引き、僕を守る刃となる。  魚人たちが腕を振り、大量の水蛇が襲いかかる。  手を振る必要さえなかった。  黒の蛇は、自らの意志を持つかのように、鎌首を振り、水晶の蛇を残らず撃ち落とした。  ぱしゃり、と、音を立てて、蛇たちが水になって崩れる。  時ならぬ霧雨が下水道に満ちた。  魚人たちの口から、雄叫びが洩れる。 それは牛の呻きに似て、低く地を這った。 宙を泳いで無数の魚人が殺到する。     一匹、二匹は悼みもした。  三匹、四匹、きりがない。  五匹、六匹、涙も枯れて。   そこから先は笑いっぱなしだ。  飛びかかる魚よりも、黒の蛇は早かった。  最初の一匹を脳天から真っ向に切りおろす。 のぞいた身は、つきぬけるように白かった。  蛇が、黒の蛇が、魚人の生き血を吸い上げる。  心臓が破裂しそうに脈打った。  魚人の心。 そこに秘められた恐怖と怒りが僕を強くする。   黒の蛇が顎を開いて吼えた。 もっと血を寄越せとあざけりさわぐ。   無論、蛇は腹を空かせることはなかった。   餌はあったからだ。 それも、たっぷりと。   ぱきっ。ぺしっ。しゅぽん。   気の抜けた音とともに、首が飛ぶ、腕が落ちる、足がもげる。  黒の蛇は、いよいよ獲物を弄ぶ。  尻尾の一振りで首を飛ばし、また、絡みついて雑巾のように絞り尽くす。 そうして生まれる血と肉と血と肉と血と肉と臓物を、蛇は喉を鳴らして飲み干す。   吐き出される骨また骨、また骨。 さながら蛇は時の化身。 その口腔は、ありとあらゆる獣を呑み込む。 それは血を乾かし、肉を砕き、ただ白い骨を後に残す。   蛇の顔に紅い眼が生じる。 それは僕を見て、にやりと笑った。 →6−4−3へ ●6−4−2  ──風だ。   腐臭の澱むこの地の底で、風を選んだのは何故だっただろう? ここにも、いや、ここにこそ、風がある。 そう告げたのは、誰だったか?   遙かなる天から地の底まで、ありとあらゆる〈虚〉《うろ》を満たす風を、僕は、この手に掴む。  左胸に当てた手が熱を帯びる。 鼻から吸い込んだ風が肺を揺すり、心臓を燃やし、全身の毛穴から噴き出してゆく。 喉の奥から、かすかな唸りがもれる。   密閉するほどに閉めきられた下水道の中、風と呼べる風はない。  だが、それがなんだ? かすかにも空気のある限り。 窒素と酸素と二酸化炭素がある限り、そこには常に音速の風が吹いている。   右向きの風、左向きの風。足してゼロ。それが無風だ。 ならばその無風を、右と左により分ければ、そこに音速の風が生じる。 必要なのは、ちょっとした後押し。   細く、弱々しい風を、僕は歌で編み上げる。  か細い糸は、その鋭さを宿したまま、大きな網となる。 僕はマクスウェルの悪魔を気取り、一迅の風を編み上げる。  魚人たちは、急がずに遠巻きに輪を狭めてきた。  無数の触手がゆらゆらと揺れ、次々と水柱が生まれる。 泥色に濁った水面。水面の蛇だけは、水晶のように美しく透き通っていた。  愚かな魚たち。 やつらには網が見えていない。 ナイフのような真空で織られた無双の網が。   水蛇たちは、自らの勢いで寸断された。 凝集力を失った清水が、僕の足下で砕け、滴り落ちる。  時ならぬ霧雨が下水道に満ちた。 目に見えぬ網に水気が絡み、その姿を露わにする。   現れたそれは──。   爪。牛ほどもある爪。 その先に、牙。そして喉。 暗い下水に、瞳が〈炯々〉《けいけい》と輝く。 狼の瞳は緑の眼光を放って、あたりを〈睥睨〉《へいげい》した。   魚人たちの口から、雄叫びが洩れる。 それは牛の呻きに似て、低く地を這った。 宙を泳いで無数の魚人が殺到する。     一匹、二匹は悼みもした。  三匹、四匹、きりがない。  五匹、六匹、涙も枯れて。   そこから先は笑いっぱなしだ。  白の狼は、一声吼えて、顔を上げる。   しゃらんしゃらんと音を立てて、爪が魚人を撫でた。 魚人の群れが消滅する。  寸断。 分断。  粗微塵。   爪に触れた魚は、たちまち、賽の目切りの肉片となって、四散した。   血も肉も骨も臓物も、蒼い霧となってふわりと広がる。 大地に突き立てられた牙が、竜巻となって、その全てを吸い込む。  ごうごうという風のうなりが、悲鳴すらも呑み込んだ。 恐怖の叫びも、殺到する足音も、しゃらんしゃらんと鳴る風が掻き消した。   それは、音も震えも匂いすらもない死。 清潔で、確固とした死。   狼に、胃の腑はなかった。 だからそれは、ずっと腹を空かせていた。 波のように押し寄せる魚たちを、狼は喜々として呑み込んだ。   涼やかな風と共に、狼が宙を舞う。 白い狼の姿は神々しくさえあった。 緑の両目が、僕を見て、かすかに笑ったように思えた。 →6−4−3へ ●6−4−3  時を遡ること数分前。  風を巻いて、イグニスは下水道に降り立った。 膝を折り曲げて猫のように降り立つと、ポケットの隠しから暗器を抜く。   上を見ていた魚人たちの顔が、ようやく、こちらを振り向く。  ──遅い。   個体としての魚人の能力は、人間を……イグニスを……遙かに凌駕する。 深海の水圧に耐える皮膚には鋼も通らぬ。長い触手の一撃は鉄を貫き、手足のように操る水は、肉も骨もたやすく砕く。   ──全ては取るに足らぬこと。  イグニスは駆けた。魚人の群れのただ中に飛び込み、片端から急所に針を刺す。  神経節をえぐられた魚が、全身を痙攣させ、ばたばたと倒れてゆく。 「早くやれ。こいつらの急所は鰓だ」   そう克綺に叫ぶ。   イグニスは、魚たちを憐れんだ。   所詮は、水底で這い暮らす生き方を選んだ隠遁者たち。 戦いというものを知らない。   死力を尽くす競い合いでも、生きるための狩りでもなく。 ただ殺すために殺し、殺すだけ殺す戦いというものを。   その証拠に──。   仲間を失った魚人は、とまどい、驚き、死体を助け起こそうとさえした。 やがて天を仰いで慟哭する。   なんと愚かな魚たち。 イグニスは、その隙に、もう五匹、殺す。  ようやく立ち直った魚たちが周りを囲んだ時、イグニスは克綺のほうを〈窺〉《うかが》う余裕さえあった。 ・克綺が水の気を使った。→6−4−3−1・克綺が風の気を使った。→6−4−3−2 ●6−4−3−1  魚群に沈む克綺。水の気を集めようとして、圧倒される姿がちらりと見えた。 ──水の民の縄張りで、その水を使うとは。   相変わらず機転の利かぬ馬鹿だ。  懐から炭酸飲料のペットボトルを取り出し、放り投げる。  魚群の中から白い手が伸び、次の瞬間、群が弾けた。   黒々とした水の気が立ち上るのが見える。  この分なら大丈夫だろう。 →6−4−4へ ●6−4−3−2  魚群に沈む克綺。何をしている、と、イグニスが眉をしかめた瞬間。  よどんだ下水の中を、涼やかな風が通り抜ける。  次の瞬間、魚の群は音もなく砕けた。 かすかな風音とともに魚は肉片に変わり、克綺のほうへ吸い込まれてゆく。   風の狼が咆哮した。  この分なら大丈夫だろう。 →6−4−4へ ●6−4−4 ・イグニスが負傷していない。→6−4−4−1へ・イグニスが負傷している。→6−4−4−2へ ●6−4−4−1  さて、とイグニスは振り返る。  魚人たちが、ひたひたと距離を詰める。 その数、ざっと七十。  イグニスはコートを天高く投げた。 中の仕掛けが、下水道中に散らばる。   ……1、2、3。   イグニスは数えながら、片手で鯉口を切った。  呪言を唱えれば刀身に光が宿る。刀に賦した呪は、折れぬこと、曲がらぬこと。 それのみ。  左右から伸び上がる魚たちの触手。   四方から伸びる触手を、たった一振りの刀が迎撃する。  殺到する触手の、そのかすかな隙間に自分をねじ込み、刀を閃かせる。  斬ったのではない。 いかな名刀でも、魚人の鱗に傷一つつけられぬ。  イグニスが狙ったのは、触手の先端だった。 斬るでも受けるでもなく、横から打って、そらしたのだ。  わずかに軌道をずらされた触手がもつれあい、魚人たちは互いの胸を貫いた。  呆然とした、もう一匹の顔を掴み、その目に親指をこじいれる。  野太い悲鳴があがった。 鼓膜に痛みを感じ、イグニスはかすかに眉をしかめる。  ……4、5、6。 殺到する魚人たちの群れ、群れ、群れ。  その中に、イグニスは一筋の活路を見出し、走る。   触手を避け、あるいは逸らし、あるいは手で引き込み、同士討ちを誘い、体勢を崩した魚人の急所を指でえぐる。 敢えてとどめは刺さず、手負いを残す。   苦悶の声を上げる魚人が十数匹に達する内には、魚人たちも少しは学んだらしい。 不用意に襲いかからず、輪を作って包囲を狭める。 前面の魚人たちは攻撃せず、もっぱら後陣の魚人たちが水球を放る。  こうなると少し厄介だ。  イグニスは、水球を避けながら退却を始めた。   やがて、背に壁があたる。 冷たいコンクリの感触と、金属の梯子。 入ってきたのと同じ場所、ちょうど出発点に戻ってきたというわけだ。  万事、計算通り。   ……28、29、30。   数え終わって、イグニスは片腕で目を覆った。   爆音とともに、水柱が吹き上がる。 まばゆい閃光があたりに満ちる。   コートを投げあげた際、水に落としておいた照明弾だ。 といっても、生のマグネシウムの塊を水溶性の膜で覆ったものだ。   ようやく水に溶けたというわけだ。   2Mg+O2=2MgO   マグネシウムは、水中で激しく酸化し、激しい光を放ちながら燃える。  それが夜行性の魚人におよぼした影響は、〈覿面〉《てきめん》だった。 多くの魚人が目を押さえ、転げ回る。   なかでも手負いの魚人たちは完全に狂乱し、目の見えぬままに、あたりの仲間を襲い始める。 やがて、それは連鎖反応と化した。   あとは高みの見物と洒落込もう。 イグニスは、落ち着いた足取りで梯子を登る。 →6−4−5へ ●6−4−4−2  さて、とイグニスは振り返る。  魚人たちが、ひたひたと距離を詰める。その数、ざっと七十。   イグニスはコートを天高く投げ捨てた。中の仕掛けが、下水道中に散らばる。   ……1、2、3。   イグニスは数えながら、片手で鯉口を切った。  呪言を唱えれば刀身に光が宿る。刀に賦した呪は、折れぬこと、曲がらぬこと。 それのみ。  左右から伸び上がる魚たちの触手。   四方から伸びる触手を、たった一振りの刀が迎撃する。  殺到する触手の、そのかすかな隙間に身体をねじ込む。  急激な加速と、無理なひねりに、胸の傷がうずいた。  唇を噛んで集中し、刀を閃かせる。  斬ったのではない。 いかな名刀でも、魚人の鱗に傷一つつけられぬ。 イグニスが狙ったのは、触手の先端だった。 斬るでも受けるでもなく、横から打って、そらしたのだ。  わずかに軌道をずらされた触手がもつれあい、魚人たちは互いの胸を貫いた。  呆然とした、もう一匹の顔を掴み、その目に親指をこじいれる。  野太い悲鳴があがった。鼓膜に痛みを感じ、イグニスはかすかに眉をしかめる。  ……4、5、6。 殺到する魚人たちの群れ、群れ、群れ。  その中にイグニスは跳びこんだ。   認識から攻撃に至る間の一瞬の死角。 その一瞬に攻撃を誘い、同士討ちを発生させ、孤立した敵にとどめを刺し、そして次の死角へ移る。   それは、細い細い一筋の道。 爪先一つの置き場所。首を曲げた角度。 伸ばした指先の指す方。 その一つでも狂えば、たちまち生の道を踏み外す。  死の中でイグニスは踊る。  胸の痛みは、ますます強くなっていた。   苦悶の声を上げる魚人が十数匹に達する内には、魚人たちも少しは学んだらしい。 不用意に襲いかからず、輪を作って包囲を狭める。前面の魚人たちは攻撃せず、もっぱら後陣の魚人たちが水球を放る。  ……13、14、15。   予定より遅れているな。イグニスは唇を噛んだ。  イグニスは、水球を避けながら退却を始めた。額にじとりと冷たい汗が流れた。精妙な踊りが、やがて崩れ、無理な体勢を強いられて、さらに体力を失う。   ……28、29。  壁際に追いつめられたイグニスに向かい、無数の触手が殺到した、その時。   ……30。   数え終わって、イグニスは片腕で目を覆った。  爆音とともに、水柱が吹き上がる。 まばゆい閃光があたりに満ちる。   コートを投げあげた際、水に落としておいた照明弾だ。 といっても、生のマグネシウムの塊を水溶性の膜で覆ったものだ。ようやく水に溶けたというわけだ。   2Mg+O2=2MgO   マグネシウムは、水中で激しく酸化し、激しい光を放ちながら燃える。   それが夜行性の魚人におよぼした影響は、〈覿面〉《てきめん》だった。 多くの魚人が目を押さえ、転げ回る。   なかでも手負いの魚人たちは完全に狂乱し、目の見えぬままに、あたりの仲間を襲い始める。   やがて、それは連鎖反応と化した。   ……とりあえずは間に合ったか。  予定では、マンホールに続く梯子を登って安全圏に逃れるはずだったのだが。   イグニスは、ちらりと視線を飛ばす。 梯子までには、約50メートルの距離があった。絶望的な50メートルだった。   視力を失い、一斉に狂乱した魚人たちは、これまでよりよほど厄介だ。 狙っていない攻撃であるが故に、どこにあたるかわからない。   駆け引きが通じない以上、確率統計の問題だ。 一発一発が当たる確率は低いが……梯子に辿り着くまでに当たる確率は、高い。 そして、その一発が死を意味する。   さて。   イグニスが刀を構えなおした時、視界の隅に何かが見えた。 くるくると回る模様。それは、この地の底の地獄にふさわしからぬ、小綺麗な傘だった。   ──気が早いぞ?   イグニスは苦笑して、魚人の群れに突進した。 →6−4−5へ ・克綺が水の気を使った&イグニスが負傷している。→6−4−5−1へ・克綺が水の気を使った&イグニスが負傷していない。→6−4−5−2へ・克綺が風の気を使った&イグニスが負傷している。→6−4−5−3へ・克綺が風の気を使った&イグニスが負傷していない。→6−4−5−4へ   あれから、どれだけ時間が経っただろう。 幾匹倒したかはわからない。   泥色の水面が白茶けて、骨と髑髏が水をせきとめるほどに積まれた頃、僕は、ようやく手を止めた。   さっきまで下水に満ちていた苦鳴も悲鳴も絶え果てて、いまはただ静寂だけがあった。   両の肩に疲労が重くのしかかる。   石の床にがっくりと膝をつく。 床は、ほおずりできるほど綺麗だった。 垂れ流された血も肉汁も、蛇が残らず舐め取ったのだ。   きちきちと音を立てて、黒い蛇が鎌首をもたげた。 しゅうしゅうと音をたてて、蛇が餌をねだる。   品切れだ。 僕はつぶやく。   魚はもう、残らず、釣り上げた。   みちみちと蛇が首を振る。 じゅるじゅると涎を垂らす。   あった。餌が。 黒い蛇は、顎を大きく開くと、最後に僕を呑み込んだ。   否。 呑み込んだのは、僕だ。   蛇が……魚人の魂を喰らって、肥え太った蛇が、僕の心臓に還ろうとする。 けれど、その力はあまりにも強く、僕の身体を苛んだ。   びりびりと衝撃が走る。 指先が痺れ、膝が折れた。 脳天を、鋭い痛みがつきぬける。   胸の奥で、凶暴な力が渦巻いていた。 四肢がびくびくと痙攣する。   ──こんな大きなものが入るものか。   四肢がびくびくと痙攣する。 骨が折れるほど足がそり、極限まで伸びた腱が、ぶちりと破断する。 伸ばした指先の神経が、ぷちぷちと切れるのが分かる。   目が眩む。 網膜の細胞の一つ一つが焼き焦げてゆく。   痛み、痛みを感じる何かが、次々と失われる。   ──イグニス!   僕は、叫んだ。 あるいは叫んだつもりだった。   耳は、鼓膜は、とうに破れていた。   見えぬまま伸ばした手に、何かが触れる。 胸にかき寄せて、形を確かめる。   丸いもの。濡れたボール。 長く伸びた柔らかな糸。髪。長い髪。 頭。   僕は、ようやく悟る。 イグニスはもういない。 とうに死んでいた。   ぱりん、と、音を立てて、金時計が割れた。                       僕は、死んだ。       ●6−4−5−2  黒の蛇がうなる。そして殺す。 無慈悲に殺し、無為に殺し、無益に殺し。 無我に、無碍に、無辺に、無間に、殺し、殺し、殺し、殺し。   殺しているのは蛇なのか。それを操る僕なのか。 蛇が笑う。魂を啜って笑う。僕の喉から笑いが洩れる。笑っているのは僕なのか。それとも黒い蛇なのか。   泥色の水面が白茶けて、骨と髑髏が水をせきとめるほどに積まれた頃、僕は、蛇は、ようやく止まった。  さっきまで下水に満ちていた苦鳴も悲鳴も絶え果てて、いまはただ静寂だけがあった。 両の肩に疲労が重くのしかかる。 石の床にがっくりと膝をつく。床は、ほおずりできるほど綺麗だった。垂れ流された血も肉汁も、僕が、蛇が残らず舐め取ったのだ。  きちきちと音を立てて、黒い蛇が鎌首をもたげた。 しゅうしゅうと音をたてて、蛇が餌をねだる。   その飢えは、僕のものでもあって、こみ上げる空腹感に僕はつばをのみこむ。 けれど、魚は、もういない。もう餌はない。仕方ない。   みちみちと蛇が首を振る。 じゅるじゅると涎を垂らす。   蛇の視線は僕を見る。僕は蛇を通して僕を見る。   あった。餌が。黒い蛇は、顎を大きく開くと、最後に僕を呑み込んだ。  否。呑み込んだのは、僕だ。   蛇が……魚人の魂を喰らって、肥え太った蛇が、僕の心臓に還ろうとする。   僕は蛇を喰らう/蛇が僕を満たす。   びりびりと衝撃が走る。指先が痺れ、膝が折れた。脳天を、鋭い痛みがつきぬける。 胸の奥で、凶暴な力が渦巻いていた。四肢がびくびくと痙攣する。   僕の身体は蛇に小さすぎた。蛇は僕に大きすぎた。   稲妻のような力が背骨を駆け上る。脳みそがかき回される。目の前の景色が点滅し、吐き気とかゆみが襲う。  ──イグニス!   僕は、叫ぼうとした。その口が、唐突にふさがれた。      暖かな感触が唇から、その中へと広がってゆく。髪がなでられた。それだけで、全身をかけめぐる衝撃が、嘘のように和らいでゆく。   口の中に吐息が吹き込まれた。それは、とても暖かい吐息で、僕の胸の中に落ちて、そのまま全身に広がってゆく。 蛇の尾が、胴が、あばれるのを止める。それは、ゆっくりと丸い目を閉じて、僕の胸の中で眠りにつく。  視界が、ゆっくりと戻ってくる。 →6−6へ ●6−4−5−3   それは雪に似ていた。 爪に切り刻まれ、牙にすりつぶされ、喉に水気を絞られ、宙に撒かれた魚人のなれの果て。 それは宙に浮かび、ゆらゆらと舞い続ける。   下水の水気を吸った灰は、雪のように膨らみ、とめどなく落ち続ける。   水面は淡い白に染まり、コンクリートの床にも、くっきりと足跡が残るほどに、灰は降りしきっていた。   雪が、全ての音を吸い取ったようだった。   さっきまで下水に満ちていた苦鳴も悲鳴も絶え果てて、いまはただ静寂だけがあった。   両の肩に疲労が重くのしかかる。   石の床にがっくりと膝をつく。 白い灰が頬を染めた。    吠え声がした。 見上げれば、灰を浴びて白く浮かび上がった狼が天に向けて吼えている。   魚人を喰らった狼は、尋常でない大きさに成長していた。   口の中一杯に死体をくわえ、牙の間から血を滴らせ、それはなお、餌を求めていた。   だめだよ、もう。 僕は呟く。   魚は残らず食い尽くした。   狼は、ゆっくりとこちらを見た。 緑の瞳が僕をなぞるように動く。   血の匂いがゆっくりと近づく。 白の狼は、その口を大きく開けると、僕をそのまま呑み込んだ。   否。呑み込んだのは、僕だ。   左胸に、強い衝撃を感じた。 狼は……巨大な狼は、僕の心臓から出た力だ。 その力が、今、心臓に還ろうとしていた。   びりびりと衝撃が走る。指先が痺れ、膝が折れた。 脳天を、鋭い痛みがつきぬける。   胸の奥で、凶暴な力が渦巻いていた。 四肢がびくびくと痙攣する。   ──こんな大きなものが入るものか。   四肢がびくびくと痙攣する。 骨が折れるほど足がそり、極限まで伸びた腱が、ぶちりと破断する。 伸ばした指先の神経が、ぷちぷちと切れるのが分かる。   目が眩む。 網膜の細胞の一つ一つが焼き焦げてゆく。   痛み、痛みを感じる何かが、次々と失われる。   ──イグニス!   僕は、叫んだ。 あるいは叫んだつもりだった。   耳は、鼓膜は、とうに破れていた。   見えぬまま伸ばした手に、何かが触れる。 胸にかき寄せて、形を確かめる。   丸いもの。濡れたボール。 長く伸びた柔らかな糸。髪。長い髪。 頭。   僕は、ようやく悟る。 イグニスはもういない。 とうに死んでいた。   ぱりん、と、音を立てて、金時計が割れた。                       僕は、死んだ。       ●6−4−5−4   下水道に雪が降っていた。 揺れる懐中電灯の灯りに、粉雪が舞う。   雪の奥に浮かび上がる巨大な影。 その影を何と呼ぶべきだろう。 狼というには、それは、あまりにも大きく、そして、あさましかった。   血にまみれた牙をつきだした巨大な口は太い喉につながり……そして、その先はなかった。   巨大な狼。 神の遣いとされる獣の、緑の瞳に映るは飢えばかりだ。    振り回される爪は、ごちそうを探る箸のように、あっちをつつき、こっちをつつく。   肉と骨がまとめて寸断され、粉々になる魚人の遺骸を、狼は喰らった。 歯を噛み鳴らし、喉を鳴らして、ごくりと呑み込んだ。 血も魂も、すっかり喉に吸い尽くされ、したたり落ちるのは灰ばかりだ。  灰が舞う。 きらりきらりと灯りを受けて、雪のように輝く。   狼が叫ぶ。悲しい叫びをあげる。   口には血と肉を感じ、喉には呑み込む快感があり……けれども、からっぽの腹だけは満たされない。 だから、いくら食べても狼は空腹で、その空腹に耐えかねて、僕は叫んだ。   叫びが応える。魚人たちの叫びだ。 それは怒りの叫びで、悲しみの叫びで、恐怖の叫びで、生き続けようという決意の叫びだった。   でも狼は聞いていない。  狼は、舌なめずりして獲物を喰らうだけ。   やがて、下水道の廊下が真っ白になり、水面が白一色に染まる頃、狼の視界から動くものが消えた。   石の床にがっくりと膝をつく。白い灰が頬を染めた。   ひときわ高い吠え声がした。見上げれば、灰を浴びて白く浮かび上がった獣は天に向けて吼えている。   どれだけの血と肉と魂を喰らったか、狼は尋常でない大きさに成長していた。   口の中一杯に死体をくわえ、牙の間から血を滴らせ、それはなお、餌を求めていた。   だめだよ、もう。 僕は呟く。 魚は残らず食い尽くした。   狼は、ゆっくりとこちらを見た。 緑の瞳が僕をなぞるように動く。   血の匂いがゆっくりと近づく。 白の狼は、その口を大きく開けると、僕をそのまま呑み込んだ。   否。 呑み込んだのは、僕だ。   左胸に、強い衝撃を感じた。 狼は……巨大な狼は、僕の心臓から出た力だ。 その力が、今、心臓に還ろうとしていた。   稲妻のような力が背骨を駆け上る。 脳みそがかき回される。 目の前の景色が点滅し、吐き気とかゆみが襲う。  ──イグニス!   僕は、叫ぼうとした。  その口が、唐突にふさがれた。     暖かな感触が唇から、その中へと広がってゆく。   髪がなでられた。 それだけで、全身をかけめぐる衝撃が、嘘のように和らいでゆく。   口の中に吐息が吹き込まれた。 それは、とても暖かい吐息で、僕の胸の中に落ちて、そのまま全身に広がってゆく。  狼が、あばれるのを止める。 それは、ゆっくりと丸い目を閉じて、僕の胸の中で眠りにつく。  視界が、ゆっくりと戻ってくる。 →6−6へ ●6−6  ようやく僕は理解する。 唇に触れたのが何だったか。  髪をなでていたのはイグニスの手だった。 かすかな幸福感が全身を包んでいた。  ゆっくりと幸福感は去り、身体が自己主張を始めた。 端的に言えば、それはひどい気分だった。 指一本動かしたくない疲労感が全身を包んでいたし、身体の節々が痛んだ。 吐き気は、まだ去っていなかった。  痛みの中で、僕が最初にしたことは、自分でも予想外だった。   僕は、笑ったのだ。 「なんだ、それは? 命の恩人に対する態度か?」 「だって、さっきの……顔……」  極度の緊張から解放された時、人間は、笑うものだと、そう聞いた時はあった。 多分、これがそれなのだろう。 理性でそう思っていても、笑いは止まらない。 押し殺そうとしても、腹の底からわきあがる笑いだ。 「だって、その顔……心配そうな……似合わないって」  ようやく、それだけ言えた。 傲岸不遜の代名詞たるイグニスが、人並みに心配そうな顔をするとは。 僕の想像を超えた出来事だった。 「……その元気なら大丈夫だな。立て」  満面に笑顔を……。  いつもの皮肉な笑みを浮かべて、イグニスの蹴りは、僕の脇腹をえぐった。  とてつもない激痛に僕は転がり回る。  容赦なく迫るイグニスの爪先を交わして、なんとか立ち上がるが、とたんに、くらりと来て倒れそうになる。  僕をイグニスが支えた。  首根っこをつかまれ、そのまま足を払われて、地べたに叩きつけられる。  かろうじて受け身は取った。 肺が、空っぽになって息が詰まる。  ようやく起きあがった僕に、イグニスが蹴りを放つ。  頭を振ってかわし、内懐に入り込んだ。 「さっきから何をする!」  「疲れは取れたか?」   言われて僕は、ようやく気がつく。 さっきまで感じていた痛みも、だるさも、身体から引いていた。   全身に力が脈打つ感覚。  心臓が、どくどくと血を送り、それが細胞を賦活する。   深呼吸して、動悸を鎮める。 「力の扱い方を覚えろ」   相変わらずの口調でイグニスが囁いた。  「今のおまえには」   イグニスの指が僕の胸をつつく。  「魚人族全体の霊気が宿っている。 使い方をあやまらねば、怪我も疲労も、簡単には受け付けない」 「ずいぶん人間離れしたものだな」   僕は率直な感想を述べる。  「いやなら死ね」   返事もまた、率直だった。  「おまえは、これから、生涯をかけて、魔物と戦うこととなる。そのために必要な力を是が非でも身につけてもらう」   僕は、かるくうなずく。身体の奥底で、獣がかすかに吠えたような気がした。 けれど、その声はかすかなもので、直に止んだ。 「待て」    帰ろうとした僕をイグニスが止める。  「なんだ、まだいるのか?」 「今、倒したのは兵隊だ。魚人は、女王がいる」  「女王?」 「あぁ。群れを統率する」  「どこにいるんだ?」 「この先に道がある」  そう言ってイグニスは、さっさと歩き出した。 無論のこと、僕も、そのあとを歩く。 「どうやったんだ?」   歩きながら、僕はイグニスにたずねた。  「ん?」 「どうやって、魚人の未練を……怨念を鎮めたんだ?」   狼の未練を鎮めた時には、命懸けの芝居を打ったというのに、あの魚人たちの力を、イグニスは口づけ一つで鎮めた。 「呪文だ。言霊だ」 「言霊?」  「あぁ。魔法を使えぬ人が編み出した技だ」 「魔法? 魔力とは違うのか?」  「まぁ聞け」   イグニスは、ゆっくりと語り出した。 「魔物の持つ魔力とは、すなわち、その意志の反映だ。逆に言えば、魔力が指向性を持ったものが魔物である、と言ってもいい」  「一方、人には、個人の意志だけで世界を変えるほどの魔力はない」  「じゃぁ、どうやって魔法を使うんだ?」  「基本的には、魔族の使役だな。魔族、あるいは、魔族を為していた魔力と契約、支配して、それを己の意のままに使う。そのための法が、魔法だ」 「結果的には同じじゃないか?」 「全く違うものだ。魔族の魔力は、その意志と共にある。故に、意志していないことはできない」  「意志していないことが、できないのは当然じゃないか?」 「人が魔法を行使する場合、失敗することもあれば暴走することもある。身を以て味わったばかりじゃないか?」  「魔族の魔力は、失敗したりはしないのか?」 「しないな。魔族の魔力は、その意志の通りにしか働かないのだ」 「じゃぁ、自分のしたことを、あとで後悔することは?」  「それならある。だが、自己の存在意義を否定する魔族は、やがて魔力を失って滅びる」   まだわからない。 「こう言い換えよう。魔族にとって魔力を使うことは、おまえたちが息をすることや手を動かすことと同等だ。できて当然で、手足をもがれて息ができなくなれば、やがて死に至る」  「おまえたちの魔法は、道具だ。扱いを間違えれば意志に反することが起きる。……というより、年中起こしているな」   イグニスは面白そうに笑った。  道具と意志か。 確かに、人類の発展の歴史……いや発展というのは身びいきか。   少なくとも変化の歴史は、おおむね、道具と環境の歴史だと言っていい。 道具を使うことは環境を変え、環境が変わることで、また新たな道具が模索され、文化と文化が出会うことで、その道具と環境が交流し。 どの時代の人間も、その時々の問題に答えるのが精一杯で、それが後々どんなことにつながるかまでは責任を持てない。   人間は、そういう生き物だ。  ……逆に言うと、魔物は、そうでない、ということになる。  「そういうことか」  「何がだ」  「何の失敗もなく、完全に意志だけで周りの環境に好きなように干渉できるなら……変化の必要がないな」  「そういうことだ」   イグニスは、うなずく。 「意識せずとも環境を変え、その変化に踊らされるのが人なら、魔物は、その逆だ。環境を完全に調和させてしまうが故に、変化もない」   吐き捨てるような物言い。 僕は、ふと思い当たる。  「じゃぁ、この魚人たちは、どうしたんだ?」 「なにがだ?」  「昔から、こんな風に、おおっぴらに人を殺していたわけじゃないんだろう? 魔物たちが己の生き方を変えないなら、何で、今頃、人間を殺し始めたんだ?」  イグニスは、歩みを止める。  「ここだ」   何の変哲もないコンクリの壁。 しかし、イグニスが手を入れると、抵抗なく突き抜けた。  「この先に女王がいる」  「……一族ごと滅ぼすということか?」 「そうしなければ事件は終わらん。見ろ」   イグニスに手を引かれ、僕は、壁の内側に入る。  ぶつかる、と思って目を閉じた顔に、生ぬるい風があたった。  足の下で、何かが砕ける音がする。  おそるおそる、目を開いた。   そこには壁も天井もなかった。べとべととした粘膜の中に僕は、いた。 吐き気をこらえて見つめれば、粘膜に見えるのは、無数の小さな突起だった。虫の卵に似た半透明のぶよぶよした塊が、壁と天井全てを丸く覆い尽くしていたのだ。   びっしりと生み付けられた卵は、どろりと濁った緑色だった。 大きさは様々で、スイカほどに成長したものもあったが、そのほとんどは、拳くらいの大きさだった。   卵は、かすかな風に揺れて、ふよふよとなびいていた。   緑に揺れる壁は、見た目にもおぞましく、僕は吐きそうになって身を折った。 足下だけが白かった。   僕の踵の下で砕けたのは、小さな骨だった。 まっぷたつに折れたこれは、手か足の骨だろう。   そばには、小さな頭蓋骨があった。   「立てるか?」   相変わらずの冷徹な声。 気が付けば、僕は、身を折って膝を付いていた。   僕は骨を拾い上げる。綺麗な白骨だった。   幾つくらいだろう。この子は。 3歳か? 4歳か?   魚人に追われた時、その触手に貫かれた時、どんな顔をしたんだろう。   悲鳴をあげる暇はあったのか。 それとも恐怖さえも感じる前に意識を失ったのだろうか。   この子の親は、今も、我が子の帰りを待っているのだろう。 あらゆる理性的判断、論理的帰結に背を向けて。 ひたすらに理不尽な希望にすがって。   骨は、磨いたように白く、一片の曇りもなかった。   真っ白に、輝くほどに、骨をしゃぶる魚人を、僕は思い浮かべた。   胸が悪くなった。 拳が震えた。   僕は、両の足に力を込めて立ち上がった。   「いくぞ」   そう言ってイグニスが背を向ける。   顔にはあの、見透かしたような笑みを浮かべているのだろう。 自分は、彼女の思惑通りに乗せられている。そのことが分かった。   いいだろう。 掌の上で踊ってみようじゃないか。  ぺきり、ぱきりという足音が耳につく。 「イグニス」 「なんだ?」  「骨を踏むのを止めてくれないか?」   僕は、さっきから、骨を避けて、爪先立ちで歩いていた。 ひどく疲れる、無理のある姿勢だったが、イグニスのように歩く気にはならなかった。 「なぜだ?」   ぺきり、と、また音がした。   僕は足を止める。   なぜだろう。 つまるところ、骨は……骨だ。   踏まれた骨が痛むわけでもない。 痛んでいるのは……僕の胸だ。 「不合理な感傷だ」   口にして呟く。  「知りもしない人間に感情移入して、胸を痛めることに意味はない。この人たちが気になるのは、たまたま目に入っただけで、それ以上の意味はない」  「僕は、この骨を見て、悲しみを感じる。でも見なければ感じなかったし、考えもしなかった。そして、見ても見なくても、この人たちは同じように苦しんだ」  胸の痛みは揺るがなかった。 鼓動の一つごとに、やりきれない想いが広がる。  「結局、それは機械的な反応に過ぎない。そんなものを思いやりと名づけて、なにか普遍的な意味があると勘違いする。多分、人間は、そうやって生きてきた。そうやって増えてきた」  「だけど……僕には、それが悪いとは思えない。それは嘘で、何一つ本当のことはなくて、だからって嘘をつかずには生きられない。だったらまっすぐ前を向いて、本気で嘘をつくしかない」  イグニスは、めずらしく真顔で僕を見た。  「そうだな。私も悪いとは言わないよ」  それだけ言うと、背を向けて歩き出した。歩み始めたハイヒールはこそりとも音を立てず、かえって僕の足音だけが響いた。  内臓めいた通路を抜けると、急に冷たい風が当たった。 下水道のすえた匂いは消え、そこには清冽な風が流れていた。 僕は、新鮮な風を胸一杯に吸い込んだ。 水際の風の匂い。海ではなく、湖か。  目の前に広がるのは、広大な地底湖だった。 波打ち際に広がる白い砂浜。 空……天井は、かすかな光で輝いており、淡い薄明かりに、その風景を閉じ込めていた。  足下で、砂が泣いた。 きゅうきゅうと音を立てて、何かを訴えるように。 「この砂は……」 「あぁ、わかる」  白い砂は骨だった。 骨が波に洗われ、粒になって積み重なったものだ。  どれだけの骨が、この砂浜を作ったのだろう。 人の知れぬ歴史の裏で、何人の人間が、魚人の餌となったのだろう。 たとえそれが魚人には食事であって、彼らが人を喰わねば滅びていたとしても……。  僕は魚人たちを許すことができなかった。  水面で、風が騒いでいた。 「来るぞ」   イグニスが静かな声で囁く。   静かな湖面は、一瞬にして深紅に染まった。  血のように紅い水面が丸く盛り上がり、やがて、割れる。  滝のように流れ落ちる紅い水の中から現れたのは、みたこともないほど巨大な獣だった。  ぬめぬめとした鱗を持った巨大な胴体。 その先端には、あたかも船首像のように、女に似た何かがそびえていた。  見上げるほど高みから見下ろすその瞳は、真っ赤な涙を流しながら、ただ凍てついた視線を浴びせていた。  したたり落ちるしぶきが、中空で固まって槍となる。 「ぼぅっとするな」   イグニスが僕を突き飛ばす。  足下に、深紅の槍が何本も突き刺さっていた。  「まだ迷いがあるか?」 「……大丈夫だ」  擬態なのだろうか。 あの、人に似た姿に、僕は一瞬だけ困惑した。   目から流す涙に、悲しみを感じたのだ。  そんなわけはない。 あれは擬態の一種だろう。 魚人たちと戦った時のこともある。  僕は、胸に手を当てて風の力を呼び出した。 腕を振る。振った先に、巨大な爪を思い描く。  それは怪物の横腹を襲い……弾き返された。  透明な皮膜が、さざ波のように揺れるのが見えた。   水の力が爪を押し戻したのだ。 かすかに傷はついたものの、敵の巨体においては微々たる傷でしかない。  お返しに放たれた矢を、僕は風の盾で防いだ。  不可視の風に遮られ、空中で静止した槍は、それを貫こうと震えた末に、ただの水に戻って地面に落ちる。   イグニスの言葉を信じるなら、こいつ一体の魔力は、配下の魚人全員に匹敵することとなる。 「かろうじて拮抗か」   魔力のぶつかりあいを、イグニスは冷徹に観察していたようだ。  その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。  「ならば、こちらの勝ちだ」  「援護しろ」   そう言ってイグニスが走り出す。  ……来たれ、凍てつく風。北の風。 眠らずの大蛇の吐息。   僕の胸の中で呪言が響く。   ……来たれ、木枯らしの風。 松の青葉を潰す風。 地の底の井戸を絶やす風。   血色の槍が、イグニスを四方から襲う。  僕は、片手を振って、それを退けた。  イグニスが砂浜を蹴った。 空中を飛ぶように跳躍し、怪物の脇腹に向けて飛ぶ。  寸前。  イグニスの眼前に、あの水の壁がそそり立つ。  振るった剣は、あっさりと弾かれた。 体勢を崩したイグニス。  狼の目は見た。 刀を放した手に、小さな包みが握られていた。 それは、水の壁に放り込まれる。  黄色の粉末が広がるのが見えた。  水の壁が、泡立ち、ぶるぶると震えたかと思うと、大穴が開く。 「撃て!」   そう言ってイグニスは水中に没する。  ……風よ。御霊を〈攫〉《さら》い、山の彼方へ送る風よ。  貫け!  思いがけないほど大きな音がした。 大砲のような衝撃に、天井が震える。  爆風に、付近の水ごとイグニスが吹き飛ぶ。  僕は風を差し伸べて、彼女の着地を助けた。  怪物の巨体には、大きな穴が開いていた。 白い骨がのぞき、その間から、緑色の粒がのぞいていた。 見覚えのあるあの形は……さっきの通路で見た卵だ。  その全身が蛇のようにのたうち、そのたびに、激しく血が迸る。  やがて、その血が勢いを無くす頃、巨体は力無く水面に浮かんだ。  水から上がったイグニスが、僕の横に立つ。 「今のは、どうやったんだ?」   僕は彼女に尋ねる。 イグニスは、深く息をつく。  「水の性質を変えただけだ」 「何か撒いていたな。あれは、なんだ?」  「ああ、あれは、ただのカドミウムだ」   なんでもないことのようにイグニスは言った。 「カドミウム? 確か、毒じゃぁ……」   僕は記憶を掘り起こす。   毒どころの騒ぎじゃない。 原子番号47。重金属であり、摂取された場合、腎臓障害や骨軟化症などの症状を引き起こす。 公害病の原因ともなった。 「毒であることに意味はない。妖精と鉄の伝承を聞いたことがあるか?」   僕は、うなずく。 イギリスの伝承では、妖精たちは冷たい鉄に触れられないという。蹄鉄などを戸口に吊して魔よけにするのは、そのためだ。  「鉄やカドミウムに、魔力を防ぐ力でもあるのか?」   イグニスは再び首を振った。  「一般的には違うな。鉄に魔力を及ぼす者はいくらでもいる」  僕は、焦れて聞きただす。  「じゃぁ、いったい、何が言いたいんだ?」  「魚人族が操れるのは自然な水だけだ。だから、自然じゃない水にしたのさ」   イグニスの言葉は簡潔だった。  「魔族の力は、その意志そのものだ。あれは、自然の水に生きることを誓った。だから、自然の水以外のものには力を及ぼせない」 「男の魚人たちは、どうしたんだ? 下水の中で力を使っていたぞ?」  「だから狂ったのさ」   イグニスの声は、小さくて聞き取れなかった。  「なんて言った?」 「待て」   イグニスの表情が変わる。  僕も、海を見た。 魚人の死体から流れ出す血は、水面を染めていた。  ふと、気づく。 何かが足りない。何だ?  その時、歌声がした。 高いソプラノの柔らかな響き。 それは天井に反響して、何重もの合唱に変わる。 「伏せろ!」  イグニスの声がする。  それと同時に、湖が、あふれた。   水が、巨大な津波となってそそり立つのがかろうじて見えた。 その突端にいるのは……あの人魚だ。   怪物の死体に何かが欠けていると思ったのも道理。 人魚の部分だけが離脱していたのだ。   その人魚は今、歌を歌いながら、波に乗っている。 風を呼ぼうとした時は、すでに遅かった。  圧倒的な量の水が、僕を薙ぎ倒した。 波は僕を翻弄した。 一度だけ宙に舞った時、僕はありったけの力で風をかき集めた。  次の瞬間、波が触手のように僕を引きずり込んだ。  ボールのような泡の中に僕はいた。 視界の中を、一瞬だけ銀色の矢のようなものが走り抜けた。   次の瞬間、がつんと顔を殴られたような衝撃が走る。 泡の先端を、水の槍が突いたのだ。   二撃目は背中からだった。  三撃目は足下だ。  全身に脂汗が出ていた。 ただでさえ不安定な泡を保ちながら、どこから来るのかわからない攻撃を受け止めるのは、つらすぎる。  泡の酸素もいつまでも持つわけじゃない。 気は焦るが、こっちには向こうの姿も見えやしない。 時折、視界をよぎる、銀色の光がそうなのだとしたら、とても捉えられるスピードじゃない。   唯一の心の慰めは、イグニスだった。人魚の攻撃がこっちに向かっている限り、イグニスは安全な可能性が高い。  とりあえず僕は、泡を水面へ向けて上昇させた。  次の瞬間、泡が揺れた。 視界を銀の矢がよぎる。  何度も。何度も。  回転する人魚が作っているものは……渦だ!   巨大な〈大渦巻き〉《メールシュトローム》が、僕を水底に引きずり込んでゆく。この巨大な力を前にして、僕の足掻きは無に等しかった。  水底の水は、血のように紅く汚れていた。 視界が、まったく効かない。   水の槍が僕の泡を刺す。 衝撃は増していた。 胸に鋭い痛みが走り、息が詰まる。   敵の力が増している、のではない。 僕の力が減っているのだ。   風を攻撃に使えば、僕は守りを失うことになる。 姿も見えぬ敵に、チャンスは一度だけ。これでは勝ち目がない。  息が荒くなってきた。 顔が熱く、火照るように感じる。   酸素が、そろそろ尽きてきたのだろう。 いや、正確には二酸化炭素分圧が上がった、というべきか。   人間が窒息死する原因は、酸素の不足ではなく、二酸化炭素の上昇である。 無論、酸素がなくなっても人間は死ぬが、閉めきった空間で呼吸する場合、酸素が減るよりも、二酸化炭素中毒が起こるほうが早い。  僕は笑う。目の前に死が迫っているというのに、それでも僕は、些細な定義に拘っている。 九門克綺らしいといえば、克綺らしい死に様だ。   焦っていたせいだろう。 僕は、正気の頭では考えられないことを実行に移した。   風に……僕の集めたささやかな風の群れに触れる。 そして僕は風に問う。   「おまえは何だ?」  「我は北風。凍てつく北風」   僕は、北風に向かって罵る。  「北風だと? いったいおまえのどこが北風なんだ? 小さな泡に固まって、どこからどこへ吹くのかもわからない癖に」   北風は去った。   「答えろ。おまえは何だ?」  「我は悠久の風。時のはじめより数多の人間の死を看とった風」  「時のはじめだと? それはいつのことだ? 時のはじめには地球もなかった。風などが吹いているものか」   悠久の風は去った。   「答えろ。おまえは何だ?」  「我は風。かつては大地を吹き、今は水底によどむ風」  「おまえは風じゃない」   目の前が暗くなってきた。 僕は急いで罵倒する。  「風などというものはどこにもない。それは、でたらめな分子の動きの総体だ」 「おまえは何だ!」  「我は分子。その気まぐれな動きの総体」 「おまえは何だ!」   今度の問いは、3つあった。  「我は不活性なるもの。触れども変えぬ者」  「我は炎の源。あらゆるものを貪欲に掴む者」  「我は燃えがら。大地に重く澱む者」   3つの内、僕が生きるのにつながる選択は、ただ一つ。 ・僕は、一番目の分子に退去を命じた。→6−7−1・僕は、二番目の分子に退去を命じた。→6−7−2・僕は、三番目の分子に退去を命じた。→6−7−3 ●6−7−1 「去れ、不活性なるもの」   僕は叫ぶ。  泡の中で、すさまじい風が吹いた。 分子レベルの選別が行われたのだ。  やがて、驚くほど大きな泡が、ごぶりと音をたてて離脱する。   鼓膜に鋭い痛みが走った。 泡の大きさはかろうじて僕を包むほどだ。  泡は、空気の8割を占める窒素を失い、酸素濃度が、ほぼ100%に達していた。 吸う息は、芳醇に甘かったが、顔の火照りは相変わらずだ。   どん、と、胸に衝撃を感じた。 胸からは、紅い水の槍が生えていた。 縮小した泡では、攻撃を防ぎきれなかったのだ。  やがて泡が弾け、僕の血は、流れ込む水と混ざり合った。       ●6−7−2 「去れ、炎の源」   僕は叫ぶ。   泡の中で、すさまじい風が吹いた。 分子レベルの選別が行われたのだ。  やがて、大きな泡が、ごぶりと音をたてて離脱する。   僕の目の前が瞬時に暗転する。  泡は、空気の2割を含む酸素を失った。 人間は、酸素濃度が減ると、瞬時に昏倒する。 全ての酸素を失った僕が、どうなったかは考える必要もないだろう。   泡が弾け、水が流れ込んでくる。  無防備な僕の死体に水の槍が、何本も何本も突き刺さっていた。       ●6−7−3 「去れ、燃えがら。大地に重く澱むものよ」  僕は叫ぶ。  泡の中で、すさまじい風が吹いた。 分子レベルの選別が行われたのだ。  やがて、小さな泡が、ぷかりと僕を離れる。  途端に呼吸が楽になった。  僕は、安堵の吐息をついた。 二酸化炭素の比重は空気より重く、低いところにたまる性質がある。 僕が退去させたのは、空気中の二酸化炭素だった。 →6−8 ●6−8  いくつもの槍が泡に突き刺さり、僕は、気を取り直した。   呼吸の問題は解決したが、危地に立っていることに変わりはない。 敵が捉えられないのも相変わらずだ。   ふと閃くものがあった。   人魚が操れるものが天然の水だけならば……。  右手を振って、熱い南方の風を集めた。   心臓から力を注ぎ、その勢いを強める。   たちまち、泡の中の温度があがった。 汗が出る。   ……まだ足りないか。  左手に北風を集め、僕の周りを覆う。その一方で泡の外側に南風を集め、全力で熱する。   凍てつく北風を通してさえ、熱は流れ込み、額から汗が流れる。   人魚が操れるのは水だ。 熱湯は、天然の水に入るだろうか?   あるいは水蒸気ならば?  視界が紅く染まった。 空気が赤熱しているのだ。   紅いかげろうごしに見える水面は、泡だらけだった。 周りの水が、瞬時に沸騰しはじめているのだ。   僕は、泡を浮上させる。  たちまち槍が泡に突き刺さる。  だがどれも、熱湯に触れた瞬間、ただの水となり……そして蒸発して吸収された。   水蒸気だって風の仲間だ。 僕の泡は、急速に大きさを増していった。   もはや泡の中は溶鉱炉のごとき有様で、僕は目を開けているのもつらかった。  急速に抵抗が減り、僕は水上に出たことに気づいた。 急いで南風と北風を解除する。  足下に風を集め、僕は宙に浮いていた。 見下ろす水面は、真っ赤に染まっていた。   水の中から歌が聞こえた。 ゆっくりとした、どこか物悲しい声。   澄んだ声が天井に反響し、天然の合唱を作り出す。  言葉は分からなくても、なぜか意味が伝わった。 錯覚かもしれないが、それは、母親の歌だった。   子供を夜に寝かしつける歌。 そして寝た子が朝、無事に目覚めることを祈る歌。   かすかに僕は涙ぐんだ。   僕は選ばなければいけない。 ・凶行は、今、ここで止める。→6−8−1・母親である人魚を手にかけることはできなかった。→6−8−2  多分、人魚にも、守るべき子供がいるのだろう。 小さな命を養うために獲物を捕るのだろう。   けれど、人魚の歌を聞いて僕が思い出したのは、あの小さな骨だった。骨を待っている家族だった。   人魚の歌は、水辺にさざ波を立たせた。 水面に衝撃が広がり、水が空高く舞った。 水滴の一つ一つが必殺の槍に変じ、文字通り、雨あられとふりそそぐ。   僕は首を振る。 それに意味はない。   人魚の力の限界は分かってしまった。   左手に北風を集める。  極低温の壁を前に、水の槍は、次々と凍り付き、粉々に砕けた。  ──疾く駆ける東風よ。   氷の槍は、穂先を翻し、その主の元へ向かう。 すでに、終わりを感じ取っていたのかも知れない。 人魚は、それを避けなかった。   胴体に無数の穴が開く。 そこから流れる血が、深紅の湖に注がれ、湖水とまじりあう。  血を流してなお、人魚は頭を上げていた。 自らの鰭で、くねるように水面を走る。   勝てないことは分かっていたはずだ。 それが無意味な行動であることも。  何のために、彼女は戦うのか。 復讐? 本能? 一族への忠誠?  心臓のない僕なら、それを多分不合理な行動と呼んだだろう。 自暴自棄とも。   今の僕は、それを、ただ悲しいと思った。  僕の右腕に風が集まる。  それは、狙い過たず、人魚の心臓を貫いた。   歌は、かすかに続いていた。 物悲しいその歌は、母親の喜びを唄っていた。   身の内に子供を養うことの不安と喜び。 生まれた子供を、その手に抱きしめた時の晴れがましさ。 子供が腕の中から逃れ、自らの足で歩んだ時の、誇らしさと寂しさ。   そんなものがないまぜになって僕の身体に満ちていった。  心臓が脈打つ。 それは今、人魚の魂を貪欲に喰らっていた。 →6−9 ●6−8−2  多分、人魚にも、守るべき子供がいるのだろう。小さな命を養うために獲物を捕るのだろう。 そう思うと、目から涙が流れた。とめどなく流れた。   思うにそれは油断ではない。僕自身が望んだ結果だ。   人魚の歌が水辺にさざ波を立たせた時も、僕の視界は霞んでいて気が付かなかった。水面に衝撃が広がり、水が空高く舞っても、僕は歌を聴いていた。 やがて水滴の一つ一つが必殺の槍に変じ、文字通り、雨あられとふりそそいだ時、僕が呼んだ風は、わずかに遅すぎた。  無数の槍が、僕を貫く。   紅い血が滴り、湖水とまじりあった。   宙から落ちる僕は、多分、微笑みを浮かべていたと思う。        人魚が倒れた瞬間。  静かな湖面に、さざ波が走った。  波はやがて、うねりとなり、大きな渦巻きとなっていく。 水際が、遠ざかってゆく。 轟々という音を立てながら、膨大な水が消えていく。  ほんの、わずかの間に、まるで、栓を抜かれた風呂桶のように、湖は消えていた。  人魚の身体さえも、地の底に吸い込まれたように見あたらなかった。 「済んだか?」 「どこにいたんだ?」  僕は振り返った。  イグニスは、あの卵のあった通路の前に佇んでいた。  「産卵場にな」   狂乱した人魚さえ、自らの卵は傷つけない、と踏んだわけか。 相変わらず、合理的で、そして悪辣だ。  「おまえが水に引きずり込まれた時は、もう駄目かと思ったが。どうやったんだ?」   他人事のように話すイグニス。 なぜか胸が熱くなる。  僕が語ると、イグニスは笑い出した。  「風を……分子に分けるか。 愚かしい。まったくもって愚かしい行いだ」  「魚人には効いたぞ?」  「そもそも魔力は、そういう風には働かないものだ。あれは、己の属する世界を構築するだけのものだ。風の諸侯を召喚して、分子の理を説くだと? こんな馬鹿な話は聞いたことがない」  「どうして?」  イグニスは、これ以上面白いことはない、というように、あの皮肉な笑いを顔いっぱいに浮かべていた。 その顔を見ると、なぜか胸の奥に、熱いものを感じる。  「いいか? あの馬鹿な狼は、風に宿る精霊を信じていた。すべての風は、世界の果ての山の奥から吹いてくる、と信じていた。いや、知っていた。だからこそ風の力を使えたんだ。精霊を知るものが、熱力学と分子科学の技を信じられるはずがなかろう」  「僕は、あの子じゃない」 「科学を信じるなら、迷信の力を使えるはずがない。どっちか一つだ。両方信じるなんてことは、それこそ馬鹿馬鹿しい」  「うまくいったじゃないか」  「だからこそ……人間だ、と言うのさ。この地上のあらゆる言葉ある生き物の中で、随一の嘘つき。 神も精霊も騙して使い捨て、自分たちさえ騙したつもりでいる愚か者たちだ」  胸の鼓動は、どんどん高鳴ってきていた。 イグニスの顔を見ようとすると、頬が火照り、僕は顔を伏せる。   なんだ、この感覚は? 「何はともあれ、おめでとう、だ」   イグニスの手が、僕の手を取る。   柔らかな指先が触れた瞬間、僕の胸で、何かが弾けた。 僕は、かろうじて、手を振り払う。  「来ないでくれ」   身体が熱い。 今すぐにも上着を脱ぎ捨てたかった。 両足の間で、熱いものが蠢くのがわかる。 今、来たら。 僕は。 「無理するな」   そう言ってイグニスが、僕の頬をなでる。  電気のような手触りに、背筋に甘い衝撃が走った。  「知って……いたんだな?」  「女王の魂と、魚人たちの魂を吸い込んだろう? そのツケだ」  「ツケ?」  「やつらの未練がなんだと思う?」  脳裏に光が弾ける。 並んだ卵。 愛おしい子供達。 残すべき血筋。 「イグニス、僕は……」   匂いが、僕をうちのめした。 いつのまに抱き寄せられていたのか。 僕の頭はイグニスの胸に埋まっていた。   甘やかな雌の匂い。 指が、唇が、うずいた。 血が沸き立つ。 こめかみを叩くように、鼓動が響いた。  身体の奥で、破裂寸前の何かが、求めていた。   目の前の女を。 たわわに実った胸を。 見せつけるように尖らせた唇を。 くびれた腰を。 豊かな尻を。   両腕が、力強く女を抱きしめる。   かすかな嬌声が唇から洩れた時、僕は迷うことを止めた。   水は暖かく、心地よかった。 撒き散らされた花の匂いが、甘く喉をくすぐる。   それよりも甘いのは、目の前から漂う女王の威厳だ。 大いなる乙女にして母となる女王の全身が、かすかに水を桃色に染める。  「女王よ」   僕は、呼びかける。   ──違う。 これはイグニスだ。 僕は魚人じゃない。   桃色の水はあまりにも柔らかく、僕の肌を撫でてゆく。 女王が/イグニスが、かすかに口を開く。  「克綺」   ──僕は克綺。 九門克綺。 僕は魚人じゃない。 だけど……。   その想いを、断ち切ることはできない。 僕の中の、僕でないものが、求めている。 狂おしいほどに、命を懸けても惜しくないほどに。   イグニスは/大いなる乙女は、水底を行く。 艶めかしい笑みを浮かべながら、誘い、試す。   水になびく豊かな髪が、その裸身を隠す。 海草の森ごしに、長い足が見え隠れする。   やわらかな線を描くふくらはぎが、力強く水を蹴る。 両の腕は白い乳房をかばい、その顔には、からかうような笑みがあった。   僕は/克綺は/水の民の男の子は、イグニスを/大いなる乙女を、追う。 矢も楯もたまらず、彼女を追う。  両の腕で水を掻き、両の足で水を蹴り、全身の力で乙女に迫る。   桃色の航跡が水中に描かれる。 螺旋を描いて続く桃色の道を黄金に変えながら、僕は泳ぐ。 自分の中の獣に任せるよう、彼女の身体に触れるべく、渾身の力を込めて。   乙女は逃げる。 最初はゆっくりと、そして力強く。   くねる足に、もう少しで腕が届くその時。 閉じた腕の間から、乙女は蛇のようにすばやく抜け出した。 両腕の間に残ったのは、無数の泡だけだ。 鈴を鳴らすような笑い声がこだまする。   僕は笑わない。 熱いものが胸を満たしていた。   ──試されている。   僕は今、秤にかけられているのだ。 見定められているのだ。 果たして自分が、あの乙女にふさわしい力を持つか否かを。   全身が、震えた。 巡る血が、沸騰するほど熱く、熱く。 周囲の流れが、熱に淀むほどに。   乙女が逃げれば逃げるほど、僕が追えば追うほど、たがいの身体は火照りを増す。 求め合う互いの距離が、徐々に縮まっていく。 狭い岩場をすりぬけ、強烈な水流を遡り、僕は乙女を追う。   最初に触れたのは髪だった。 春の小川よりも柔らかな感触が、指の間を撫でる。 その感触に酔う内に、乙女は先に進む。   ──まだ、足りない。   次に触れたのは、爪先だ。 形のよい爪先を愛でるよりも早く、大きな力で僕を後ろに蹴飛ばした。   ──もっと、近く。   そして、僕の手が、乙女のくびれた腰に触れる。 乙女が、組んでいた腕を解き、僕の手に触れる。   まろやかな白い乳房、深いその谷間が僕を惹きつけた。 そのまま対の膨らみを掴み、吸い付こうとした僕の唇を、黒い手袋が唐突に導いて。   導かれた先は、彼女の唇。   自分の身が、蒼い水を婚姻色に染める。 ゆっくりと広がる蒼い水が、桃色の水と交わった時、黄金の光が弾ける。   僕の中の、僕でないものが喜びにうちふるえる。 婚姻は認められた。 女王の臥所は開かれた!   乙女の柔らかな唇が、熱く燃える舌が、優しく撫でる。 その感触に、僕は/水の民は、忘我する。 優しい腕が僕の手をほどく間、僕は、痺れたように立ち尽くしていた。   乙女が再び泳ぎ出す。 両の腕も使って、全力で。 身をくねらして、ぐんと進むたびに、無数の泡が彼女を包む。 泡ごしに、かすかに見えるのは、豊かに実った胸が揺れるさま。 ひきしまった腰が震えるさま。   僕は追う。 両の腕と両の足に燃える思いをこめて、重い水を蹴って乙女に迫る。   水底の、岩と海草の迷宮から、乙女が急上昇する。 月の光がかすかに差し込み、乙女の姿を照らし出す。 そこへ向かって僕は急ぐ。   逃げる乙女が螺旋を描く。 僕は、その足を掴もうとする。 二人の航跡が円を描き、僕は、乙女を追っているのか、乙女に追われているのか、一瞬、わからなくなる。   ゆっくりと、ゆっくりと、円は小さくなる。 僕の目の前を、乙女の爪先が、胸が、形のよい耳が通り過ぎてゆく。 水の中に満ちるくすくす笑い。 閉じてゆく輪の中で、僕は泳ぎ続ける。 あと3回……あと2回……今だ。   両の腕が、今度こそ乙女をかき抱く。 二人の速度が一体となり、僕たちは勢いで、海中から飛び出す。   水飛沫を上げてふたりは、岩場の台座へと倒れ込んでいた。   乙女が、こちらを見上げる。 くすくす笑いは影をひそめている。   衣服のように纏っていた水を脱ぎ捨てて、かすかに不安な影が覗いた。 水の舞姫は、岩場に上がりその素顔をさらけ出す。   濡れた瞳、頬に張り付いた髪。 僕は、その髪を優しく梳く。 そうしながら、考える。   ……イグニスなのか? はじめての婚姻を前に、不安げな表情を浮かべ、僕にすがりついているのは。 それとも、本当のイグニスは、違う表情を浮かべているのだろうか?   迷いが、彼女まで伝わったのだろう。 乙女が/イグニスが立ち上がり、ゆっくりと僕の顎を持ち上げる。   岩壁を背にして、僕と向かい合う彼女。 その瞳に浮かぶのは、先ほどまでの挑発の色ではない。 僕を受け入れ、求めている。   今は、婚姻の時。 疑問を挟むのも思い悩むのもお門違い。  「……克綺」   かすかに聞こえた声は、誰のものだっただろう。 唇に当たった手が、頬をなでて、首を引き寄せた時、迷いはなくなった。   桜貝の色をした唇が、かすかに開いて誘う。 蘇るあの感触に、僕は抗えない。 抗おうとも思わない。   唇が、重なる。   しばしの間、僕たちは、同じ息を重ねあった。 抱擁が二人を近づけ、僕の胸に、乙女の乳房が、おずおずと触れる。   舌が探りあうと、二人の腕に力がこもった。 豊かな乳房が潰れるほどに。 ゆっくりと寄りかかる、彼女の身体。   感じ取りたかった。 この愛おしい生き物を。   濡れた唇、絡みつく舌、しがみつく腕、こぼれ落ちる胸、情熱の瞳。 そのすべてを自分のものにしたかった。   唾液が絡み、吐息がかかる。 彼女の指先が、まるで焦らすように、ボタンを外していく。 上着を脱がせ、張りついたシャツに指を這わせると、濡れた布越しに爪が肌をさする。   その間も、僕は彼女の感触を執拗に求めた。 ひとつ、ひとつ降りていく指の感触に、いてもたってもいられない。   やがて彼女の唇は、頬に、首に、耳を刺激する。 肺から押し出される熱い吐息が、僕の火照った肌よりさらに熱い。   僕は本能の求めるまま、彼女の胸に手を這わせる。 円を描くように、熱く火照った乳房を撫でる。 布越しに感じるかすかな突起を、指先で弾く。  「──ぁ」   彼女は吐息を漏らして、身体をもたれる。 僕の肩に顔を乗せて、乱れ髪が背に張りつく。   ちらりと瞳を覗けば、彼女に先ほどまでの余裕は、どこにも見あたらない。 立っていることさえ困難であるかのように、僕の身体に身を預けて、その視線は遥か遠く。   肌から漂う彼女の香が、鼻腔の奥をくすぐった。 それは媚薬のように、僕の理性のタガを外す。 抗う術はなかった。   僕の指が彼女の胸を乱暴に掴みあげる。 胸を覆う薄布から、弾けるように露わになる、双の乳房。 薄桃色の先端は、宙に固く突き出している。 海水か、汗か。 突起を舌で転がすと、彼女の味が広がった。   同時に、僕の片手は彼女の胸から這い降りる。 布越しにヘソの窪みへ、胸をねぶりながら、爪先で彼女をくすぐる。  「ん──」   僕の耳が唇で挟まれる。 濡れた髪が小さく揺れて、荒い息が水滴を掠めて、僕の首を刺激する。 背筋がぞくりと痺れる。   彼女はたたみかけるよう、僕の身体を撫で回す。 震える指先が脇腹をなぞり、ゆっくりと落ちてゆく。 僕の背を、脇を、腿を、彼女の指が滑ってゆく。   僕の手も、動きをやめない。 すべらかな曲線をなぞり、さらに下へ。 スリットに手を滑り込ませ、まくり上げる。 下着に指をねじ込ませ、羽毛のような繁みを抜ける。   指の腹がそこに達した時、小さな声が聞こえた。 「克綺……」  僕は、乙女の/イグニスの目を見据える。 熱く潤っていた。  指の腹が割れ目をなぞってゆく。 僕の指が、突起を探し当てる。 指の腹が、まるく、周囲を押し揺らす。 「ん、あ──」  彼女が/イグニスが/乙女が応える。 声には、震えがあった。 初夜を迎える乙女のものか、あるいは皮肉好きの女の仮面の奥の声か。  僕に身体を抱きしめられて、彼女は逃げ場もなく悶える。 指の動きに合わせるよう、大きく揺れる彼女の長髪。 すがるような、彼女の声色。 「んはっ、ん──ん!」  指に蜜を絡ませて、泡立つほどの音を立てて、彼女の秘裂を掻き回す。 彼女の表情が、苦悶に近い形に歪む。  動きが激しくなるに連れ、力が抜けていく白い脚。 彼女の膝が小刻みに揺れる。  助けを求めるよう、僕に寄りかかる彼女。 目が細められ、黒い拳が握られた。  僕は、動きをやめない。 もう逃がさない。 胸に唇を這わせながら、指先で肉芽を直に触れた。 「ふぁっ、んぁ……!」  電気を流されたよう、彼女が身体を震わせる。 荒い吐息が濡れた髪を揺らす。 必死に身体をよじるが、僕に抱えられたままどこにも逃げられない。  水を奪われた大いなる乙女は、水を蹴って舞い上がることもできない。 その代わり、裏返りそうなか細い声を揺らし、爪を立てる。 肋が折れるほどに抱きしめ、首筋に歯形を残す。  わずかな抵抗も、すぐに途切れた。 蜜に滑る指先が、彼女の突起を間断なく刺激する。 刺激は直に、彼女の身体を揺らす。 強弱に合わせて声色が漏れる。  いくら逃れようと藻掻いても、逃がさない。 びしょ濡れになった下着の中、僕の動きは止まらない。  ゆらゆらと揺れる彼女の前髪。 その律動に合わせるよう、口から漏れるかすかな吐息が、徐々にリズムを取り始める。 「んはぁ、んぁっ、んっ、ん──」  肩を抱き、口づけし、指の動きをさらに早く。 僕の腕を掴んだ指先が、爪を立てて丸まった。 その痛みすら、心地いい。 僕は懸命に、彼女の敏感な部分を攻めたてる。  彼女の身体が、さらによじれる。 声は、か細く、切なく、今にも途切れそうに。 追い立てられるように背を僕に押しつけ、涙目で宙を見上げる。 「んは、んぁあ、んんん──!!」   急激に上り詰め、そのまま軽く痙攣。 惚けたように表情を緩めて、乙女は僕に力無く寄りかかる。   緊張から解き放たれ、弛緩した彼女の身体。 突き立てた指をもう一度広げ、肌を撫で回す。 まだ余韻の残る潤んだ声が、不意に僕の名を呼ぶ。  「克綺──」   耳の奥に舌でも差し入れるかのような、優しい囁き。 耳たぶを甘く噛む。   肌を滑る指は、背から脇腹をくすぐり、やがて焦らすように僕の股間へ。 彼女の余韻が分け与えられるかのよう、唇が重ねられる。   そのまま彼女の指先が、布越しに僕の屹立を包んだ。 思わず口から漏れた溜息を、彼女はその唇で受け止める。   軽くさすられるだけで、快感に意識が遠のきそうだ。 十本の指は、今にもはち切れそうなそれを、焦らすように、嬲るように。  ゆっくりと、バックルが外される。   僕の中の、水の民が、求めている。 彼女の唇を味わいながら、舌と舌を絡ませながら、静かに顔を引き離す。   乙女はまだ息も荒く、胸を激しく上下させている。 上気した肌が、濡れた瞳が、さらに求めている。   僕たちは見つめ合う。 重なる前に、一つになる前に。 僕は、目の前の彼女を確かめたかった。   鼓動が聞こえた。 彼女の鼓動が。  僕の鼓動と彼女の鼓動。 二つの律動は共鳴し、周囲の空間を満たしていた。   それでも、まだ、足りない。 もっと、もっと近づきたい。 側にいたい。   僕が/克綺が/水の民が、言った。  「重なりたい」   彼女は/イグニスは/乙女は、言葉を放たずにただ、微笑んだ。   誘うような、表情のまま。 僕に背を向けた。   その光景に、呆然と、見入るしかなかった。   す──と微かな音。 彼女は腰に手を当て、その指を徐々に這わせた。 前屈みになり、腿の下まで下着を降ろしてから、一呼吸。   再び上体を起こす。 長い髪をまとめるように、大きく頭を振るわせてから、まるで焦らすようさらに一呼吸。   岩壁に片手を当てて、ゆっくりと身体を折り曲げる。 黒い手袋が岩壁を掴み、反動のように形の良い尻がこちらを向いた。   突き出された。   腰に当てていたもう片方の腕が、自身の臀部を撫でる。 挑発するように。  「来て……」   彼女は先ほどと変わらない、微笑み混じりの顔で振り返った。 ひらり、とわずかに風をなびかせて、片手が自らドレスをめくりあげる。   濡れた秘裂が覗いた。 ひくひくと小刻みに揺れながら、今か今かと待ち受けていた。   僕の中で、何かが弾ける。   「いくよ」   僕は、白い臀部に身体を密着させた。 片腕で、彼女の肌をしっかり掴んだ。   柔らかく、汗ばんで、ほんのりと赤みが差した彼女の肌。 片腕で自分のペニスを導いて、濡れそぼった彼女の亀裂に、差し込む。 「あぁっ、うんッ」  悲鳴に近い愉悦の声。 その声に、僕は一瞬頭が白くなる。  堅く屹立したものが、たまらなく柔らかなものに受け止められている。 包み込み、絡みつく襞。 潤った彼女を存分に味わいながら、静かに押し入れる。  僕は身体を折るようにして、後ろから彼女と密着させた。 振り返る彼女は、既に息切れするようにこちらを見上げ、唇を求める。 奥まで繋がったまま、貪るように、彼女の身体をしっかりと感じて。  僕は、動く。 求めるままに、身体を揺さぶる。 白い肌をわしづかみにし、腰を打ち付ける。 「ふぁっ、ん……ん!」  髪を前後に揺らして、彼女は声を漏らす。 名残惜しく背後に向けられていた彼女の顔が、耐えきれないようにうつむく。  腿が固く強張っている。 苦悶の色を濃くしていく彼女の声色。  だが僕は、止まらない。 ひたすら身体を前後させる。 僕は、もっと強く、もっと深く。 求めるまま、彼女に身体を打ち付ける。 「あぁっ、ん、んぁ、んん──!」  こぼれ出した乳房が、宙に激しく輪を描く。 後ろに回した指先が、僕の太腿に爪を立てる。  最初は、どこかバラバラに感じられていたふたりの身体が、同調していく。 乾いたリズムに合わせて、追う動きと離れる動きが重なり合う。 僕たちは一体となって、腰を振り、また引き寄せあう。  壁に掛けた手が滑り落ち、藻掻くように岩を掻く。 滑り落ちていく彼女を、後ろから突き立てるように、僕はさらに強く押し込む。 「んはっ! んぁっ、ん!」  一際大きな喘ぎ声。 背が仰け反り、跳ねるように髪が踊る。 潤む瞳が、耐えきれないように背後を向く。  だが──もう、彼女の動きも、止まらない。 「はぁっ、んぁっ、んは、あっ──!」  貫く僕の動きに合わせて、自ら前後に身体を揺らす。 根本まで僕を飲み込み、舐め回し、離さない。  乙女は/イグニスは、貪欲に求める。 この快楽を一滴も逃すまじと、ひたすら押しつける。 「もっと、んはぁ、もっと──」  立っているのもやっとというように、岩壁に寄りかかりながら。 それでも、彼女は艶やかに見返る。 僕を誘う。  鷲掴みにした僕の指が、白い肌に赤い跡をつける。 腿に立てていた彼女の指を、空いた片手でつかみ取る。 絡み合う、指と指。 彼女は顔を上げて、僕は上体を折って、軽い口づけ。  それが、合図。  互いの指を絡ませたまま、リズムをとるよう身体を動かす。 僕が貫き、彼女が受け入れる。 痺れ、溶ける結合部から、感情があふれ出るように蜜が漏れる。 「はぁっ、ん、ん……」  彼女の/乙女の/イグニスの感情が、絡められた指と指の狭間を縫って。 自分の/水の民の/克綺の中に、流れる水のように伝わってくる。  他人の心を感じることのできない僕も、水の民の想いを通じて、理解できる。  ふたりは、互いに、知っている。 この感情は、ただふたりだけのものではなく、延々と受け継がれてきた愛の形なのだと。 自分たちは、この瞬間のために、生まれてきたのだと。  彼女が手を握りしめ、一層強く締め付ける。 それに応えるよう、僕もさらに早く律動する。 彼女と溶け合うほど、身体が痺れるほど、強く。 「はぁっ、んっ、あっ、あはっ──」  彼女の膝は震えている。 動いていなければ、求めていなければ、そのまま倒れてしまうほどに。 反り返る彼女の背で、髪が踊る。  僕は泡立つほどに彼女を掻き回す。 彼女の中を貫き、壊してしまうほどに。 自分の身体が、バラバラになっても構わない。 ただこの瞬間だけに、命のすべてを注ぎ込むように。 「ああっ、んあっ、んあっ、んあっあっ──」  全身に痛みに似た何かが満ちる。 引き絞られる弓弦のように、圧倒的な力が腹の底にたまってゆく。  首筋から背筋を通り、胸から腹を螺旋に降りて、絡めた足先から腰へ登ってゆく。 脊髄が焼かれ、視界が白く染まる。  耳のそばで、がんがんと鳴り響く鼓動が、終わりの近いことを知らせていた。 二人の鼓動は、高まり、やがてひとつになる。  僕たちは、同時に、互いの名を強く念じた。 「克綺……ッッッ!」  稲妻が僕を打つ。 細胞の一つ一つが刺激に震え、つんざく音響が鼓膜を破る。  深く、奥の奥まで貫いた先端から、腹の底に貯まった熱いもの、その全てが、どくどくと音を立てて放出される。  彼女は全て受け止め、いまだ痙攣が収まらない。 大きく背を反り、声にならない声で、昇りつめている。 その姿は、まるで生の歓喜にうちふるえるようだ。  長い髪をひとつ振るわせながら、僕の唇を求めた。 互いの感触を感じながら、完全に重なったことを喜びながら、今までのどれよりも長く、そして切ない口づけ。  誰よりも近く、感じていたはずなのに。 唐突に、望まないまま、身体が離れてしまう。 抗うことはできない。  すさまじい喪失感が、僕を襲う。 指一本さえ、動かない。  僕の鼓動が、ゆっくりと弱まり、そして消える。  それでも、意識を失う僕は、純粋な喜びに包まれていた。   水の民に栄えあれ。   深く、暖かい鼓動に、僕は目を覚ます。 僕は、まろやかな胸と、細い腕に包まれている。 乳房の間に顔を埋め、僕は、幼子のように安らぎに包まれていた。   とくん、とくん、とくん。 優しい鼓動が耳に届く。 鼓動に合わせて息を吸う。そして吐く。 ゆっくりと手が髪を撫でる。 背中を這う手が、僕の傷の一つ一つを確かめ、愛おしむように撫でてゆく。   僕は、ゆっくりと目を開ける。 「起きたか?」 「うわぁぁぁぁぁっ!」  僕は、飛び離れる。 そして全身の痛みに顔をしかめる。  ひどい有様だった。 背中も足も、砂にまみれて泥だらけだ。  手足は重く、肩や腰は動かすだけで痛んだ。 身体中に擦り傷ができている。 当然ながら、素っ裸で、腰のあたりが、べとべとしていた。 「さかりは、おさまったか?」   意地悪い声で聞くイグニスのほうは、憎たらしいほどに整った恰好をしていた。 髪は整えられ、白い肌には見える範囲で傷一つない。   どこから手に入れたのか、砂浜の上にクッションを敷いて優雅に座っていた。 「服はそっちだ」   あたりをみても、身体を隠す岩陰一つない。 当然か。   丁寧にたたんだ服を僕は無理矢理着込んだ。 服の下に砂が残って、ひどく気持ちが悪い。  「さぁ、帰るぞ」  そうやって歩き出すイグニスに、僕は思わず距離を取る。 「何をびくびくしている? 悪くなかったぞ。初めてにしては」   僕は、痛む頭を振って、からからの喉から言葉を絞り出した。  「おまえ……知っていたな? こうなるのを」  「知っていたとも。それがどうした?」   あの時、僕を突き動かしたのは、魚人たち、そして人魚の怨念だ。 ただひたすらに、子を為したい、という、その思いだ。 「言霊で、怨念を鎮めたんじゃなかったのか?」 「あれはな、契約を結んだんだ。性欲を満たす機会を与えるから、とりあえずは鎮まれ、というな」  「それで……そんな約束をしてよかったのか?」 「よいもなにも、鎮まらなければ、おまえは死んでいたぞ?」  「そうじゃない。そんなことは聞いていない」 「安心しろ。子供ができても認知しろとは言わん」   大声をあげようとして、ようやく、からかわれていることに僕は気づく。  「……先に相談してくれてもよかったと思うが」  「わだつみの民はな、一生に一度だけ交わるんだ」   イグニスは、涸れた湖の底に目を転じて、囁くように言った。 「男達の中で、競争に勝った一人だけが、女王と交わる。その短い間に命を燃やし尽くし、身も心も、女王に捧げる」   身も心も。 今の僕には、その意味が分かる。 あの時、夢の中で、僕は、死んだ。 その身は、あの人魚の栄養となるのだろう。  「それほどまでに身を削り、命をかけて行う交わり。話の種に味わっておこうと思ってな」 「……それで?」 「言っただろう。悪くなかった、と」   僕は、あまり人を憎んだことがない。  ひどいことをされたことならあるが、相手に相応の理由があるなら仕方ない、と思うし、また、理解できない理由であるならば、そもそも疑問のほうが先に立って、憎むという気になれないからだ。   しかし。 この時ばかりは。   僕はイグニスを憎んだ。   この女──いつか、殺す。  産卵場の廊下は、相変わらず静まりかえっていた。 父も、母も失った卵たちの静寂は、耳に痛かった。  「これは、どうする?」   ここから卵が孵って、再び人を襲うのなら……。  「鼻をつまんで、よく見ろ」   言われた通りに、僕は、緑の卵を見た。  「……死んでる」   卵の中は、すべてどろりと濁っていた。  イグニスが短剣でたたき割ると、卵の黄身に目鼻のついたような塊が、べちゃりと床に落ちて潰れた。 一つ一つのぞいても、どれもこれも死んだ卵だった。  「いったい、どうしてこんなことが起きたんだ?」 「知らん。だが、想像はつく」   先を歩くイグニスが、背を向けたまま、語り出す。  「わだつみの民は、清い河に住む水妖の一族だ。普通は深山幽谷にいるものだが、この街では、ずいぶん長い間、街の中に住み着いていたようだな」 「清い河なんてあったのか?」 「調べてみろ。江戸には、町中に綺麗な河と水路が走っていた。それでなくても田んぼがある村なら、澄んだ用水路が通っているものだ。この街にも、河童の言い伝えの一つや二つはあるだろう」  「そうか」  「やがて時代が進み、水が汚れても、彼らはここを動かなかった。水路が埋め立てられ、下水に変わっても、地底湖から出なかった」  「どうしてだ?」 「魔物は、己の生き方を、おいそれとは変えられんのさ。 自分で自分を否定すれば、魔力を失って野垂れ死ぬことになる。しかしまぁ……残ったところでジリ貧であることは間違いない」  「魔力の強い成人であれば、下水の中でも、なんとか生きてゆけただろう。汚水の影響は、まず卵と子供に出る」   イグニスは、言葉を切った。  その言葉の意味するところを、僕はゆっくりと思い浮かべる。   孵らぬ卵、幼くして倒れる子ら。 その悲しみは、健やかな子を求める想いは、どれほどのものだっただろうか。  「やがて、大人にも影響が出始める。地上に出て暴れ始めたのは、その末期だ」  「何のために、彼らは、人を襲ったんだ?」  「誰にもわからんさ。狂っていたのかもしれん。恨んでいたのかもしれん」 「……じゃぁ、この骨は?」   僕は、もう一度、足下の骨を見る。   すべて、小さな子供の骨だ。 大人のものは一つもない。   いくつかの骨は、人間にしては、あまりにも小さすぎた。  「子供の……骨か」   イグニスがうなずく。  「……どうして、今頃言うんだ? 最初に言っていたら……」 「何かできたか?」 「できた、かもしれない」  「よせ。やつらは、滅ぶべくして滅んだだけだ。なら、死ぬ人間を減らす算段をするほうがいい」   ここに来る前、確かに、僕も、そう思っていたはずだった。 だけど、今は、それが正しかったのかどうか、疑っている。  「行くぞ」   そう言ってイグニスが先へ進んだ時。  僕の目の前で、卵が一つ、割れた。蛙に似た頭が、顔を出した。 とっさに僕は手を差し出す。   僕の手のなかで、幼生は、身をくねらせて逃げ、手をこまねいて見る内に、それは地面の上を素早く走り去った。  「行くぞ」   もう一度、イグニスの声がした。  僕は、一度だけ後ろを振り返った。  「あぁ、今、行く」 「お帰りなさい」  僕を迎えてくれたのは、管理人さんだった。イグニスは、寄るところがあると言って、途中で消えた。 「恵ちゃん、心配してるわよ」  管理人さんが、声を潜めて、言った。 「恵は、どうしてます?」 「部屋に閉じこもってるみたい。 あとで行ってあげて」  僕がうなずく。 「あら、どうしたの、その服? 泳ぎにでもいったの?」  「これは……」   服も僕も泥まみれだった。  「まぁいいけど。 ちょっと、動かないでね」   エプロンから取りだした布巾で、管理人さんが、僕の顔を拭く。 「はい。男前になったわよ」  「ありがとうございます」  僕は、足を引きずるようにして部屋に戻った。  ドアを開けて部屋に入り、汚れた服を脱ぐ。 隣に音は聞こえているはずだが、恵は来なかった。  僕は、思い切り熱いシャワーを浴びた。 いつもより多めにボディーソープを使い、全身から砂を払い落とすと、やっと人心地がついた思いがした。  着替えて、隣のドアを叩く。 「お兄ちゃん?」  恵の、沈んだ声がした。 「あぁ」  ドアが開く。 「お帰り」 「ただいま」   微妙に会話が途切れる。   どうしてか。 胸の鼓動が大きく聞こえる。恵と目を合わせられない。  「なに、してたの?」 「色々だ」  「もう、終わったの?」 「あぁ」  僕は、力強くうなずいた。 僕に関する限り、事件は終わった。 これ以上、恵を悲しませるようなことはしない。  「じゃ、明日は大丈夫だよね?」 「もちろんだ」  「よかった」   恵が、小さく溜息をつく。  「言ったよね。終わったら、全部話してくれるって」   僕はうなずく。 「聞きたいか?」  「うーん、今はいいや。また、今度ね」 「そうか」  「じゃ、お兄ちゃん、また、明日」 「またな」  僕が、背を向けて帰ろうとした時。走りよる音がした。 「お兄ちゃん、待って」   振り向く僕のマフラーを、恵が手に取る。  「なんだ?」   恵は、そのマフラーを、するするとほどいた。  「これ、なに?」   露わになった首筋を風が撫で、かすかな痛みを伝える。 たぶん、そこにはイグニスの歯形が、くっきりと残っているのだろう。 「噛まれた」 「何に?」 「人」 「誰に?」  「……イグニス」   恵は、マフラーを思い切り引っ張って、僕の首を引きずりおろす。 正面から見る恵の笑顔は、今日見た何よりも怖ろしかった。 その口が大きく開く。  恵は、こともあろうに僕に噛みついた。思い切り歯を立てて、がっちりと肉を噛む。 僕は悲鳴をこらえて歯を食いしばる。目尻から涙が、ぽろぽろとこぼれた。 「じゃぁね、お兄ちゃん、また明日」  冷たい言葉と共に、ドアはばたんと閉じられた。  廊下に取り残された僕は、しばしの間、思索に耽る。   ──一体なぜ、僕が恵に噛み付かれなければならないのだ?  メルクリアーリ神父は、早足で廊下を歩く。 町の勢力図に動きがあったためか、普段に比べて警備が多い。 地下施設には、いつになくピリピリとした雰囲気が漂っていた。  途中、何度か警備員に呼び止められるが、神父の顔を認めると、皆が頭を下げて道を譲る。 そもそも地下施設の存在を知る者は少ない。 頻繁に出入りする神父の顔を、見知らぬ者はいなかった。  メルクリアーリ神父は、迷うことなく廊下を進むと、会議室の扉を開く。  味も素っ気もない、実用本位の会議室。 テーブルの向こうの彼は、しかし、この緊急時にも動じない。 部下に指示を伝え終えてから、悠然と神父に振り返った。 「夜分遅く、すまないね」 「いえ、お構いなく。むしろ今は、我々の時間ですから」 「なるほど、それもそうか」  男は神父に着席を勧めると、自らも深く椅子に座り、溜息をつく。 「おい、希羽君」 「は。なんでしょう」 「お茶を差し上げなさい」  「いいや、結構です。そうお手を煩わせることもないでしょう」  「ふむ。それでは早速、本題に入ろうか。君も既に、状況は掴んでいるだろう?」 「わだつみの民の件ですね」 「ああ。以前から論争の的となっていたように、近年の彼らは暴走が過ぎる。いくら蚊帳の外に置かれているとはいえ、このままでは我々の協定にも、重要な影響を及ぼしかねない。 そこで、わだつみの民の掃討を、決議したわけだが――」  「襲撃は、明日に予定されていたはずです」 「その通り。もちろん、誰がやったかも、わかっているな?」  「さて、私にはさっぱり」 「ふん。まぁ、君はそう答えると思っていたがね」   男は、メルクリアーリを弄ぶかのように、微笑む。  「私が手に入れられる程度の情報は、君も持っているだろう? なにせ、君は九門克綺の教師だ」 「教師が生徒の全てを知り尽くせるとでも?」  「一般的には、否だ。 だが、君は“最強の”メルクリアーリなのだろう?」 「さて、誰がそんな名で呼ぶのやら」   はぐらかす神父に、しかし、男は微塵もいらついた素振りを見せない。 互いに、互いの性格は、知り尽くしていた。  「既に我々も、九門克綺がイグニス ――“最も気高き刃”との間に、なんらかの関係を結んだことを、掴んでいる」 「そのふたりが手を組むのは、非常に不都合だ。我々にとっても、そしてもちろん、君たちにとっても」  「私に、生徒を売れと?」 「そう、使命感に燃えられては困る。君は教師である前に、夜闇の民」  「単純に考えたまえ。これは、我々との取引だ」  「なるほど、取引ですか」   メルクリアーリは、小さく微笑んで、テーブルに背を向けた。 「ならば私は、ここで失礼します」  「……我々との関係を、破棄する気か?」  「蝕は近い」   扉の前で足を止め、メルクリアーリは告げる。 背後で、男が舌打ちしたのが聞こえた。  「取引ならば、ぎりぎりまで好条件を引き出すべく努力する。それが、上策でしょう?」 「これ以上の好条件はないと思うがね。実験体の完成は間近だ。我々は、力に訴えてもいい」  「ならば、そうすればいい。私も教え子に手を下さずに済みますからね」 「やれやれ、とんだ仮面教師だ」   わざとらしい溜息に、メルクリアーリは扉を開けて、言い放つ。  「私は、取引相手としてのあなたを信頼はしていますが、あなた個人のことが好きなわけではない。むしろその逆ですね」 「なるほど、そうか。道理で我々が、今までうまくやってこれたわけだ」  「私も、君と同じでね。君と話していると、正直胸クソ悪いよ。吐き気がする」  「私も、好き嫌いがないタイプを自称してはいましたが、正直あなたの血だけは願い下げですね」  そのまま振り返らず、廊下を行く。 険しい表情に、警備兵の身体が硬直する。 まるで、魔法をかけられたかのように。  メルクリアーリは振り返らない。 これで、長年続いてきた両者の関係は、断絶してしまうかもしれない。 相手もこちらの力を知っているから、今日明日に事態が動くことはないだろうが、将来的にはどうなるかわからない。  だが、たとえここで相手のいいなりになったところで、事態が一族に有利に働くかは微妙なところだ。  今のところ、両者は利害関係の一致で動いているに過ぎない。 そうして、蝕は迫っている。永遠の安寧は夢のごとし。 少なからず、事態は動くことになるだろう。  肌を刺すような緊張感が満たす地階。 メルクリアーリの靴音が、ただ静かに鳴り響いた。  久しぶりに夢を見ずに眠った。  朝日がカーテンを暖め、ゆっくりと部屋に明るさが満ちる頃、僕の目は覚めた。  鏡に向かう。  一日経っても、恵の歯形は消えていなかった。 というか、痣になるな、これは。 「お兄ちゃん、起きてる?」 「あぁ」 「よかった」  着替えてドアを開けると、恵が入ってきた。 「お弁当作ろうと思ったんだけど……材料、そっちの冷蔵庫に入れっぱなしだったの」  そういや、朝飯はいつも、こっちの部屋で作っていたな。  恵は冷蔵庫の中から色々なものを取り出すと、リュックに詰めて部屋を出る。 「どこいくんだ?」 「管理人さんと一緒に作るの」  「朝ご飯は?」  「下でみんなで食べるって。出来たら呼びに来るから」  言われて、僕は、ベッドに戻る。 ふと思いついて、テレビをつけた。  朝のニュースを見る。 ニュースキャスターが、連続殺人事件の動向について読み上げていた。 特に進展があったようには見えなかった。   結局、犯人は見つからないわけだ。 被害者の家族には、やりきれないことだろう。   匿名で、あるいは、実名で、犯人を倒したと、警察に名乗り出ようと考える。そんな考えを弄んだ挙げ句、僕は枕に顔を埋めた。   無理だ。いや、無理じゃないかもしれないが、そこまでの手間をかけるつもりが僕にはない。  結局のところ、僕一人ができることには限りがある。   神ならぬ身としては、それを受け入れようと思う。  「ごはんですよ」   管理人さんが、フライパンを打ち鳴らす音がする。 「はい」  そう言って僕は、下へ降りた。 「よう、克綺」  「峰雪。来てたのか」 「ああ。朝っぱらっから、馬鹿親父に追いかけ回されてな」  「また悪いことでもしたのか?」 「別になにもしてねぇよ。ただ、ちゃらちゃらした髪は駄目だって、バリカン手に追い回されてな」  「捕まったら即刻丸坊主だ。やってられねぇよ!」  僕は、頭を刈られた峰雪の姿を想像してみる。 さすがは血筋というか、頭を刈っただけで、人相の悪い坊主のできあがりだ。  「その方が似合うんじゃないか?」  「てやんでぃ! もし髪を切るとしても、そんときゃ自分の意志でやってやらぁ! そん時ぁ、坊主じゃなくスキンヘッドだ!」   物は言い様であるなぁ、と思う。 「で、それはいいとして。この……一触即発な呉越同舟は、なんだ?」   峰雪は、声を潜めていった。  「昨日説明したろ」   昨日! この食卓で、イグニスと恵と一緒に食べたのは、昨日のことだったのだろうか? もっと、遠い昔の気がする。 「さ、ご飯ができましたよ」  「はい」   僕達は、席につく。  僕が食卓につくと、恵がズボンの裾を掴んだ。傍目には見えないだろうが、多少、きまりが悪い。 僕は、テーブルの下で、そっと、その手を握った。  恵が勝ち誇った顔でイグニスを睨む。  睨まれたイグニスは、どこ吹く風で、かえって峰雪のほうが、顔を蒼くしていた。 「さ、揃ったわね」  皿を並べ終わった管理人さんが、エプロンを翻して席についた。 「では、いただきます」 「いただきます」  声が唱和した。  今日の朝食は、豪華なことにローストチキンだった。 あらかじめ包丁が入っていたので、箸で取れる。 つけあわせのタレが、また、面白い。甘酸っぱいたれだ。 「アップルソースか。紅玉だな」   イグニスが、感服したようにうなずく。 「ええ。クランベリーの代わりにって思って」 「これ、私も手伝って焼いたんだよ」   恵が主張する。 「惜しむらくは火加減が、わずかに甘い。オーブンを三度開けたな」 「あら、そうでした?」  のんびりと管理人さんが応える。恵の歯を食いしばる音が聞こえてきそうだ。  昨日は、これで食欲を無くしたものだが、今日は、峰雪がいた。   人の不幸を見ると、自分の不幸が緩和される。 非論理的だが、人間心理としては一般的なものだ。 だからといって他人の不幸を望むのは浅ましいが、この場合は、峰雪の自業自得というものだ。  僕は、かすかな優越感を味わいながら、料理を平らげる。 アボガドとトマトのサラダは、シンプルながら後をひくおいしさだ。  イグニスの言葉を借りるなら  「ハーブソルトが絶品だな」   ということになるのだろう。 「そういや、お墓参りはどうすんだ? 一緒にするとかいってなかったか?」  「え、そうなの? だったら和食のほうがよかったかしら」  「うんと……それは……また今度にするわ」  「恵がいいなら、それでいいや」   シーフードリゾットを平らげた頃には、僕は、ずいぶんと楽観的になっていた。  食後、管理人さんが、大きなお弁当を僕に託す。 「それじゃ、いってらっしゃい。 みんな、仲良くね」 「はい」   うなずいた恵は、露骨にイグニスを見ていた。  「なんだ、私にも来てほしいか?」  「いえ、それにはおよびません」   恵が僕の腕を取って、引きずるように外に出た。 「いい日和だねぇ〜。絶景だ」   メゾン前の並木道は、確かに綺麗だった。色づいた落ち葉が道を覆い、黄金色に塗り替えている。  「秋の眺めは価千金とは小せえ。小せえ。この俺の目からは……」  「峰雪さんも、来るんですね」   寸鉄人を刺す、のたとえ通り、恵のさりげない一言は、峰雪の胸をえぐったようだ。 「まったくだ。どうして来るんだ?」 「おまえというやつは!」   峰雪が僕の頭をはたく。  「ったく恵ちゃんと二人っきりがいいなら、最初から、そう言え」  「ふむ」   峰雪が勝手な先入観を持つのは彼の問題だ、と思うが、まぁいいだろう。  「だいたい、最近危ないだろ……その……事件とか」   峰雪が声をひそめる。 「男一人より二人のほうが安心ってもんだ」 「おまえ、いいやつだな」   そう言うと、峰雪がイヤな目をして、こちらを見た。  「なんか悪いモンでも喰ったか、おまえ?」  「……色々あったんだ」 「そうか……」   峰雪が、深くうなずく。 「坊主が頷くと、含蓄深いな」  「坊主じゃねぇ。スキンヘッドだ!」  そんなことを言っていると、恵に袖を引っ張られた。 「お兄ちゃん、ちょっと」 「ん、なんだ?」  「あの女がいる」   小さな声で、恵が囁く。  「あの女? イグニスか?」   こくりとうなずく恵。 「考えすぎだろ」   あの女が、今日の我々に貼り付く必然性がない。  「でも、いるの。感じるの」   そう呟く恵の背を、僕は軽く叩いた。  「いたところで、気にしなければ問題ない。あの女に何ができるわけでもない」 「……そっか」  僕は、恵の手を握る。 恵の顔が、少しだけ驚く。  イグニスの影、か。 つけてくるのがイグニスなら問題ない。あとで文句を言えばいいだけのことだ。 恵の気のせいでも問題はない。  問題があるとしたら、イグニス以外のものがつけてくることだ。   イグニスは言っていなかったか? 「おまえは、これから、生涯をかけて、魔物と戦うこととなる。 そのために必要な力を是が非でも身につけてもらう」  早速現れた、ということも考えられる。 「お兄ちゃん? いくよ」  恵に手を引かれて、僕は自分の置かれた状況を思い出す。 「あぁ」  僕は、恵の手を強く握り返した。  恵の安全を守るには、二つの方法が考えられる。 一つは、遠く離れること。 もう一つは、常に側にいることだ。  どちらにせよ、中途半端は良くない。 恵がロンドンに帰るまでは、できるだけ近くにいたほうがいいだろう。 「近場に、こんなとこがあったんだな」  電車に乗って数駅。降りて数分。 峰雪が選んだのは、なかなか雰囲気のある遊園地だった。 「この遊園地……本当にやってるの?」  恵が言うのも、無理はない。 元から寂れた場所であるのに加えて、客の姿がまるでなかった。 必然的に、従業員もやる気がない。  おまけに、故障かなにか知らないが、遊園地の真ん中にそびえる観覧車は、ぴくりとも動いていない。 ここまで来ると、廃墟に紛れこんだ気さえしてくる。 「懸念は分かるが、受付で金は払った。そんなことはないはずだ」 「戻ってみるとよぉ、誰もいなくて、無人の受付に、ぽつんと金だけ置いてあるんだぜ」  峰雪が、混ぜっ返す。 「仏教徒が幽霊を語るな」  本来、仏教には幽霊どころか、霊魂という概念自体、存在しない。  霊魂というのは、そもそも、肉体と、それを動かす精神を別のものと捉え、仮の肉体に霊魂が宿る、という心身二元論的な考えが背景にあるわけだが、仏教は、そうした分類はしない。 人間というのは色々ひっくるめて人間なのであり、二つに分かれたりはしないのだ。 「いいんだよ。 うちはフレンドリーな宗派なんだから」  ……無論、世俗化された仏教においては、その限りではない。 「馬鹿みたい」  恵が、ぽつりと呟く。 「行きましょ」  口調は抑えているが、足取りは軽い。今にも走り出しそうだ。 「好評なようだぞ」  「お、おう」   峰雪が自信なさげにうなずく。  「なんつっても空いてるのがいいよな。乗り放題だ。貸し切りみたいなもんだ」   峰雪は、遊園地の美点を並べ上げる。  「全くだ。あの事件のおかげで、郊外まで出かける人間が、めっきり減ったからな」  峰雪が、僕のほうを見て嫌そうな顔をした。   恵が、僕のほうを見て嫌そうな顔をした。   吸い殻を拾っていた用務員のおじさんまでもが、僕のほうを見て嫌そうな顔をした。   そうか。事件が解決したことを知っているのは、僕一人か。 「お兄ちゃん、何に乗ろうか?」  僕は、左右を注意する。  幸い、さびれた遊園地で客も少なく……というか、我々以外おらず、怪しい人影を察知するのは、そう難しくない。 とはいえ、用心が肝要だ。 「ふむ。観覧車は……狙撃された場合に逃げ場がないな。ジェットコースターは……途中に何か仕掛けられた場合が危険だ。メリーゴーランドは……」  峰雪が、俺の額を手で触る。  「克綺……おまえ、大丈夫か?」 「なに、当然の用心だ」  「おまえは遊園地来て、狙撃される用心をするのか!?」 「無論だ」   しんとした空気が流れる。僕は、仕方なく付け加えた。 「今のは冗談だ」 「お兄ちゃん?」  「なんだ、恵?」  「今日は、冗談はなしね?」 「わかった」  ジェットコースター「ブルーライトニング」は、スリル満点だった。 顔を蒼白にしていたのが峰雪で、僕も似たようなものだ。 恵だけが、無邪気に喜んでいる。 「レールの錆び具合がリアルなんだよな……」  峰雪がぽつりと洩らす。同感である。 三回転ひねりも、ゆれるレールも、スリリングではあった。 どうにも、レールの錆びやら、細かい傷やらが、気になるのだ。  安全係数と耐久年数の微妙なせめぎ合いだ。 これで、人が多ければ、それらも「演出」として、あまり気にならないのだろう。 人間心理の奇妙な点として、これだけ閑散としていると「事故が起きてもおかしくない」という気になってくるから不思議なものだ。 「写真、買って来たよ」   写真?  「途中にカメラがあったの、見えなかった?」   そういえば坂を下りたところに、あった気がする。 危険防止のための監視カメラだと思っていたが、そういう意味があったのか。 先頭に乗り込んでいたので、はっきり写っている。 「お兄ちゃん、黙り込んでどうしたの?」  「いや……遊園地という空間の非日常性と、そこにおける往復運動の意味についてな」  「は?」  写真というものが、対象の本質を、一つの瞬間として表すことと思えば、この写真は、まさしくそれに成功していた。   恐怖というのは、もっとも原初の感情であり、それと向き合った時、文明人として身につけたうわべの教養は失われ、その人間本来の性質が現れる。  つまり、この写真は、人間に、己の真の姿と対決することを強要するのだ。  そもそも遊園地というものは、非日常の空間の中で、抑圧された自己を解放する場である、と言えるだろう。 その体験を非日常の中に置き去りにするのではなく、己に対する戒めとして持ち帰ることを奨励するとは、志の高いことだ。 「しっかし、この克綺の顔、最高だな」  「お兄ちゃん、昔から、怖いと固まるんだよね」  「峰雪の場合は、顔面が崩壊するわけだな」   錯乱した薄笑いを浮かべた坊主というのは、なかなかのインパクトがある。 「じゃ、もう一回行こうか」  恵の言葉に、沈黙が流れた。  行ってらっしゃい、というのは、簡単だ。 がしかし、万一のことがある。今日は、恵を、側から離したくない。 「……僕も行こう」  そう言うと、峰雪が、世にも情けない顔をする。  「峰雪は、待っていてくれていいんだぞ?」  「わーったよ、俺もいく」  「誤解するな。僕は、待っていていい、と言ったんだが」  峰雪は、小声で、ぶつぶつ呟きながら、僕と恵の後ろに並ぶ。どうやら呪いの文句のようだ。  結果。 恵は4回ほどジェットコースターに乗った。 「この写真……並べてみると面白いね」  恵はそう言ったが、僕は丁重に遠慮した。 真の自分に向き合うのも限度がある。そうじゃないだろうか? 「んじゃ、このへんで飯にしようぜ」   まだ顔が蒼い峰雪が、おそるおそる切り出した。  「あのジェットコースター……揺れる場所が毎回違っていたな。してみると、あのレールが軋んで揺れるのは演出ではなく……」 「黙れ」   僕は黙った。  ピクニックエリア、というらしい。 一面に広がる緑の芝生の上に、僕たちはシートを敷いて弁当を広げた。 「気持ちいいわね」 「あぁ。虫一匹いない。定期的に農薬を散布しているんだろう」  「おまえ最近、わざとやってないか?」 「そんなことはない」 「……いいから、二人とも手を拭いて」   おしぼりを渡されて手を拭く間に、恵は、お弁当を広げる。 「人間は舌だけで料理を食するわけではない。食欲というのは、心のあり方であり、その日の精神状態は、大きく味を左右する」 「それがわかってるなら食前に農薬とか言うな」  「……なるほど。以後、考慮しよう」  ともあれ、彩りというのも、重要な要素の一つである。 さすがは管理人さんの料理。 並べられた弁当は、美しいとさえいえた。 「私も作ったんだけどな」  「全体の構想は管理人さんだろう。恵は手伝っただけじゃないのか?」 「……そうだけど」 「であれば、この場合、彩りの評価の対象は管理人さんであって、恵ではない」 「……そろそろ、殴っていいかな」  大皿を使う晩餐が、一幕のタペストリーだとしたら、小さなお弁当箱を並べるピクニックの食卓は、無数の宝石箱に喩えられるだろう。   その箱の一つが開く。入っているのは、フランスパンのサンドイッチだ。 一つは朝のローストチキンを冷製にしたもの。もう一つは、管理人さんお得意のレバーペーストだ。   白いサンドイッチと、きつね色にトーストしたパンの二種類が、互い違いに並んで、見目麗しく、見た目にも食欲をそそるものとなっている。  もう一つの箱は、ポテトとアボガドのサラダ。一口サイズにまとめられているのは、食べやすさだけではない。緑と白、そしてトッピングされたプチトマトの三色が、見事な模様を彩なしているのだ。   3つ目は、ゆで卵だった。黄身と白身の取り合わせ。その間には、ウサギさんにしたリンゴが詰められて、心地よいアクセントとなっている。  「そいじゃ、いただきまーす」  「いただきます」  ローストチキンサンドは、まったくもって素晴らしかった。 焼きたての、肉汁のしたたるチキンもおいしかったが、これは冷製にしたことで、さっぱりした鶏の味が表にでている。そのくせ、噛めば噛むほど、コクがあるのだ。 「おいしい?」   ローストチキンをぱくつきながら、僕は何度もうなずいた。 「それ……私が作ったんだよ?」 「さすが恵」  「よろしい」 「あ、そうだ。飲み物」   恵が水筒を取り出す。 「水筒で飲むと、ピクニックって気がするよな」   峰雪が感慨を洩らす。そういえばそうだ。 自販機もゴミ箱も、すぐそばにあるのだが、やはり、ここは水筒でなくてはならない。  水筒の中身は、薄く入れたアップルティーと、冷たいミネラルウォーターだった。   香りのいいアップルティーは、お弁当に、よくあった。 「んじゃ、次はどこいく?」 「何があるんだ?」  「アトラクションがあるぞ」 「何の?」  「銀河刑事ベーオウルフショー。歴代シェリフ勢揃い!」 「却下」   目をうるうるさせて言う峰雪に、恵が冷徹な裁きを下す。 「恵は、どこに行きたい?」   恵が指したのは、回転木馬だった。  回転木馬は、園の反対側だったので、しばらく歩いた。 「こうしてみると、すんげー廃墟っぽいよな」  無人の乗り物が、ひたすら並ぶ様は、確かに、そのようだ。  遊園地というのは、もともとが、日常の外にある、祝祭的な空間である。 屈託なくはしゃぎ回る子供を配してこそ、それは完成する。 逆に言えば、子供のいない遊園地というのは、理解不能な空間であり、一種の恐怖を呼ぶといえなくもない。  たとえば、動物を模した不格好な着ぐるみを着て、風船を配る人間。 遊園地の中で、子供になつかれればこそ、一服の絵ともなるが、あれが無人の街路に立っていれば、不安をかきたてる存在でしかない。  無人の街路が、閑散とした遊園地でも同じ事だ。 ウサギを模した着ぐるみが、独特のオーバーアクションで、手を振って通り過ぎてゆく。 その様は、不気味というか、むしろ哀れというものがあった。 「映画だと、こういうとこで、ブツの引き渡しとかするよな」 「非合理的な設定だが、雰囲気としては理解できるな」  遊園地の廃墟の持つ不気味さは、非日常なスリラーに、きわめて近いところにある。 つらつらと、そんなことを思った瞬間。  鳴り響く。   銃声。  僕は、咄嗟に恵を押し倒していた。  風を呼んで身を守り、恵が頭を打たないようにする。  「お、お兄ちゃん」 「しっ!」  僕は、銃声に耳を澄ます。狼の耳を。  パン、パン、パンと、気の抜けた爆発音が続く。  都合、6発の炸裂音が鳴り響いた。 けれど、どれ一つとして僕たちには当たらなかった。  こほん、という咳払いの音が聞こえた。 「仲のいいのはいいんだけどな……場所柄っつーか、その」   峰雪が意味不明なことを口にする。   僕は、ゆっくりと立ち上がり、恵に手を差し伸べる。 顔が真っ赤だ。   ついでに、峰雪の足を思いっきり踏んづけた。 「なんだったんだ、今のは?」 「ヒーローショーだろ?」   銃声がした方向にはステージがあり、五色の煙がたなびいていた。  「なるほどな。人騒がせなことだ」  「……人騒がせなのは、おまえだ」 「恵、急に、押し倒して悪かったな。 怪我はないか?」  「お兄ちゃん、今日は、いつにもまして変だけど、どうしたの?」  「恵が心配でな」   僕は、本当のことを言う。 「変なお兄ちゃん」   恵は、心底、変そうにつぶやいた。 「やっぱり、最後はメリーゴーランドだよね」  目の前のメリーゴーランドは、びっくりするほど大きかった。 「侘び寂びだな、こりゃぁ」  峰雪が呟く。 確かにその通りで、規模は大きいものの、色とりどりの馬たちからは、微妙にペンキが剥げ、木目がのぞいているものさえある。 客が少ないせいで、回転を止めてあるのも、強者共が夢の後、という感じだ。 「乗りますか〜」 「乗ります!」  係員の投げやりな声に、恵が返事した。  ゆっくりと回り始めるメリーゴーランドに、峰雪が走りよる。 よくみると、馬以外のものも沢山並んでいる。 ユニコーンに、ペガサス。それと……なんか形容しがたい生き物たち。 峰雪の乗ったのは、ありゃなんだ? サイだか恐竜だかわからん生き物だ。 「恵、一緒に乗ろうか?」 「え?」   遠くに離すのが不安だったからそう言ったのだが、恵はなぜか動揺した。  「い、いいよ」  「それじゃ、どれにする?」  「あれ!」   恵が指したのは……ひときわ大きな乗り物。鷲に似た鳥だった。  僕が登り、恵を引っ張り上げて、膝に載せる。  ゆったりと流れる音楽に、僕は身を任せた。 「重くなったな」   しみじみと言うと、恵が肘をいれてきた。  「大きくなった、でしょ?」 「同じことだろう。体積と質量には、おおむね強い相関関係があるものだ」  「違うの」  「そうか。じゃぁ……大きくなったな」 「……お兄ちゃんも、ね」   木馬が上下するたびに、恵の背中が僕に触る。 「今日は、楽しいか?」  「どうしたの、改まって?」  「いや、恵に楽しんでもらおうと思って、来たわけだからな」  「……うん、楽しいよ」  「それは、よかった」   木馬は揺れる。甘ったるい音楽は、沈黙を埋めてくれた。 「イギリスの暮らしはどうだ?」 「うん、まぁ、悪くないよ」  「就職はどうする? 向こうでするのか?」 「どうして就職するって決めつけるかなぁ。結婚とか進学とか色々あるでしょ」  「ふむ。で、進学の予定は?」 「今のところないけど……」  「結婚は?」 「……べ、別に。それに国際結婚って、大変そうだし」 「じゃぁ、就職か?」 「まだ決めてないよ。進路指導の先生みたいなこと言って、どうしたの?」   僕は、深呼吸を一つする。  「いや……卒業して、日本に帰ってくるなら、また一緒に暮らさないかと思ってな」 「え?」 「その頃には、僕も就職してるから、峰雪のおじさんに迷惑をかけることもない。もちろん、向こうでやりたい仕事とかが決まっているなら、無理にとは言わない。僕がそっちにいってもいいわけだしな。邪魔でなければ」 「邪魔って……邪魔なわけないよ」 「一応、英会話の授業には身を入れているが、うちの英語教師はイタリア人だからな。今ひとつ自信がない」    「帰ってくるよ」 「そうか」  「あと一年だし。あっという間だよ」 「そうだな」  膝の上の恵の顔は見えなかった。 木馬がふわふわと揺れる。 胸に押しつけられた恵の鼓動が、いやに早く感じた。  「恵?」   僕は、恵の耳元でささやく。  「なぁに、お兄ちゃん?」 「おまえ、熱あるか?」 「は?」  「動悸が速いぞ」   僕は恵の手首を取って脈拍を計る。  「うん。こりゃ早いな。心臓が二つあるみたいだ。大丈夫か? 無理してこじらすと大変だぞ?」  「だ、大丈夫よ」  僕は恵の顔をのぞきこむ。  「顔、赤いぞ? 本当に大丈夫か?」  「お兄ちゃん?」  「なんだ?」 「いつも私のこと心配してくれて、とっても感謝してます」  「うん」  「だけど」  「はい」  「その話は、もうしないで。 わかった?」 「わかりました」  遠くのほうで、破裂音がした。 ヒーローショーは続いているらしい。 そもそも客は、どれくらい入っているのだろうか?   事件のことを考えると、子供の客は、ほとんどいないだろう。 事実、今日はほとんど見かけていない。   そうすると……峰雪みたいな大人のマニアが、最前列にずらりと並んでいたりするのだろうか。   それはそれで、一見の価値はあるかもしれない。そんなことを思った。   ゆっくりとフェードアウトする音楽。木馬の揺れが、徐々に、徐々に、おさまる。  ぷしゅーという音とともに、木馬が止まる。  「止まっちゃったね」 「あぁ」  「もう少し……乗っていたかったな」 「なら、もう一回乗ってくか?」   客は少ない。乗り放題だ。  「……そういうんじゃないの」   冷たい返事が返る。  「そうか」  木馬から離れる時、恵は、ものほしげに回転木馬を見つめていた。 言葉とは裏腹に、どこか未練がある眼差しだった。  未練のある眼差しといえば、峰雪だ。  坂を登り、観覧車の側、ヒーローショーの広場前を通り過ぎた時、やつの目がきらりと光る。   この遊園地で、初めて見かける人の列がそこにはあった。握手&サイン会をやっているらしい。ちなみに子供は一人もいない。  「……すぐ終わるから、行ってきていいか?」   そわそわした声で言われたら、黙ってうなずくしかないだろう。  脱兎のごとく飛び出す峰雪を、僕たちは観客席で待った。  ……待てよ。あいつ、最初からこれが目当てってことはないだろうな。  観客席を歩きながら、僕はふとしゃがむ。 「どしたの、お兄ちゃん?」  「ん、ゴミだ」   ポケットにしまう。  「汚いよ。ゴミ箱に捨ててきたら?」  「あぁ」  周りを見ると、吸い殻、飲み残しのジュースの類は、結構、落ちていた。 一つ一つ拾っていると、係員が跳んできて、しきりに恐縮しておわびをしていった。 「なんか、悪いことしちゃったかな」 「手伝って悪いってことはないだろう」  ふと振り返って、ほんのわずかに臭いがしたような気がする。 人間にはわからないだろう。人狼の力を宿して、微かに感じた嗅ぎ覚えのある臭い。  僕は空を見上げる。紅く染まりはじめた西の空を背に、観覧車が立っていた。 少し見た限りでは、どのゴンドラにも異常が見られない。まるで時の流れを止めるかのように、ゆっくりと回っている。 なんの変哲もない、日常。恵はこの世界に魔物が存在することを、知らない。 「お兄ちゃん? どうしたの?」 「いいや、なんでもない」  僕がぼんやりとゴンドラを見上げている内に、峰雪が戻ってくる。  「おかえり」  「おう!」   色紙をしっかり胸に抱きしめている。 はやくしまえ。  「それじゃ、帰るか」 →7−3へ 「それじゃ、俺はこのへんで。また明日な」  「あぁ。またな」  「峰雪さん、今日は、ありがとう」  「なぁに、恵ちゃんのためなら、たとえ火の中、水の中」   なにやら胸を叩く峰雪に、手を振って別れた。 「お兄ちゃんは、明日から、学校?」 「あぁ。そういや恵は、いつまでいるんだ?」 「お休みは、結構あるけど……どうしようかな」   滞在費次第で予定を決めるつもりだったらしい。 目下のところ、管理人さんのおかげで、お金はほとんどかかってないから、いつまででもいられるわけだ。 「新学期の予習とかしなくちゃいけないし……あんまり長くはいられないと思うけど」  「そうか……こっちは一日くらい欠席しても平気だからな。また、どこか遊びにいこう」  「ずる休みは、よくないよ、お兄ちゃん」  「正直に言うさ。イギリスから妹が来てるからって」  「あ、そういえばさ。お兄ちゃんは、今日は楽しかったの?」  ふむ。 心配のし通しで、あまり気が休まらなかったが。それにしても。  「あぁ、楽しかったな」  「楽しい時は、嬉しそうな顔をするといいよ」  嬉しそうな顔、か。 表情を作るのは苦手だ。あまり成功した経験がない。 けれど、今日は。今は。素直に笑える気がした。  胸に手を当てて鼓動を感じる。 無理に表情を作るのではなく、胸の暖かさが顔に伝わるのを待つ。  ゆっくりと、顔がほころんだ。  「うん、その顔だよ、その顔」   恵が、笑った。僕は、その顔が嬉しくて、もっと笑った。 夕日に浮かぶ恵の笑顔を、僕は心に焼き付けた。  メゾンに帰った僕たちを待っていたのは、管理人さんと……そして、イグニスだった。 「おかえり」 「あら、お帰りなさい。遊園地はどうだった?」 「管理人さん、ただいま。おかげで楽しかったです」   恵が、あえてイグニスと視線を合わさずに答える。 「どうしたんだ、イグニス? わざわざ出迎えるなんて」 「出迎えるんじゃない。出るところだ」 「え?」   恵の目が、驚きに丸くなる。  「こっちでの用が片づいたんでな。転勤だ」 「そうか……」   イグニスが来たのは、僕を鍛えるためだ。なら、僕が力を得た今、彼女がここにいる必然性はない。 考えてみれば、それだけのことだ。 「そうなんですか、残念ですね」   言葉とは裏腹に、恵の声には嬉しさが充ち満ちているのがわかる。  「でね。お別れ会をしたいんだけど……」 「いらん。すぐに出る」   イグニスはにべもない。 「そう言わないでね。ほら、克綺クンも頼んでよ」 「イグニス?」   恵の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、僕は言った。  「少し、話がある」  「よかろう」   イグニスは笑った。 「お兄ちゃん、ちょっと」  イグニスを送る前に、僕は、恵に引っ張られた。 「やっぱり、そうなの?」  「なにが?」  「あのイグニスって人と、お兄ちゃん」 「イグニスと僕がなんだって?」  「だから、そういう関係なの?」 「いやだから……」   口を挟む間もなく、恵は話し始める。 「もし、お兄ちゃんが、本当に、あの人を好きなら……私も考えるけど。でも、それなら最初に言ってくれればいいじゃない」  「いや……そういうわけじゃないんだけど……」 「じゃ、好きでもない人の歯形つけて、夜中に帰ってくるわけ? そうなの?」   恵が、怖いものでもみるように僕のほうを見る。  「あれは……なりゆきで……」 「なりゆき!?」  おかしい。 僕に落ち度はないはずなのに。 話せば話すほど墓穴を掘ってる気がするのはなぜだ?  「お兄ちゃん、正直に答えて。あの人と、し、したの? してないの?」   声はうわずったが、目は、まっすぐこっちを見ている。  「事情があるんだ。話せば長くなるんだが……」 「したの? してないの?」 「……した」  「した……んだ」   重苦しい沈黙が流れ、僕は、そわそわする。  「で、これからどうするの?」 「どうするとは?」  「国際結婚は難しいよ? 向こうの同級生にも、そういう人がいたけど、色々と……あ、うちは家族の問題はないか」 「もしもし?」  「イグニスさんの家族は? 出身は? 日本に住んで、どれくらいなの?」  「おまえは僕をイグニスと結婚させたいのか?」  「そんなわけないでしょ!」   その声は、多分、メゾン中に響いたと思う。 恵は、しばらく胸を押さえて、息を整えた。 「とにかく。イグニスとは、おまえが思ってるような関係じゃない」  「お兄ちゃん。そこに座って」  「はい」  「こういうのはね。お兄ちゃんが、そう思っていても、相手の人は、違う風に思ってるかもしれないんだよ? それでなくても、お兄ちゃん、空気読めなくて、思わせぶりなことを言うから、いつか、こんなことになるんじゃないかと思ってたけど……もっと気を使わないと駄目だよ。女の人は傷つくんだからね」  あの女は、それくらいじゃ傷つくようなやつじゃない、と言おうと思ったが、第六感が、その言葉をとどめた。  「わかった。……あまり待たせるのもよくないから、そろそろ行ってくる」  「うん。こういうことは、きちんとしとかないとだめだよ。ちゃんと話しあってきてね」   恵がうなずく。 まだ、話が通じてない気がする。 が、これ以上の進展は望めないだろう。 「帰ってきたら、話すよ」   恵は、小さくうなずいた。 →7−6 「待たせてくれたな」   イグニスは、例の皮肉な笑みを浮かべて待っていた。刀を入れたケースと、旅行鞄一個という身軽な出で立ちだ。  「妹に説教でもされたか?」   返事も待たずにイグニスは大笑いしやがった。 「で、話とはなんだ?」   歩きながら、イグニスが切り出す。  「今日、僕たちを尾けていただろう?」  「知らないな。何の話だ?」   僕は鼻で笑う。  「……話は後で聞こう」  気のせいかもしれないが、夜の街は、少しずつ活気が戻っている気がした。 「少し、人が増えた気がしないか?」 「外出禁止令は解かれたらしいな」  「警察は、知っているのか?」  「一部はな。まぁ、あのお節介な吸血鬼あたりが、教えたんじゃないか」   確かに、今日の夜の街には、制服や、装甲車は、ほとんど見かけなかった。 「活気が戻るには、もうしばらくかかるだろうな」  「おかげで、遊園地は、空いていてよかったけどな」  「ほう、それはよかった。ここだぞ」   着いたところは、駅前のホテルだった。  扉を開けて、僕は中を見渡した。  尋常じゃない大きさの広間が、そこにあった。 毛足の長い絨毯は、趣味のいいクリーム色だった。 いかにもアンティークな家具類が並ぶ。  一瞬、入るところを間違えたと錯覚する。 「スイート・ルームは初めてか?」   イグニスはベッドの端に腰掛ける。 あぁなるほど。 言われて、ようやく納得する。  「……こんな駅前の安ホテルに」  「内装は自前だ」   こともなげに言い放つ。 そう言えば、あの椅子は……あのトラップだらけの廃墟で殺されかけた時に、見た椅子だ。 「イグニス……」  「多少、長生きはしてるからな。 黙っても金は貯まる」  「あの椅子は……」  「あぁ。16世紀のチェコの職人の作品でな。気に入っている」  「わざわざ、あのビルに運び込んだのか?」  「悪いか?」  あの意地の悪いトラップの設置は、おいそれと人に頼めるものでもなかろう。 イグニスが、あの重そうな椅子を背負ってビルを登る様を想像すると、僕は笑いをこらえきれなかった。  「……それで、何の話だ?」  「あ、そうだ。そうそう」   僕は、ポケットから手を抜いて、掌を開いた。  「これについて、説明してほしい」  それはヒーローショーで拾ったゴミ。 煙草の吸い殻ほどの大きさの金属の筒。 銃の薬莢、というやつだ。  イグニスの顔は見物だった。  「この薬莢からは、どこかで嗅いだような臭いがする。 ひとつは、イグニス、君の臭いだ」  「そうしてもう一つは、あの夜メゾンの前で嗅いだ、犬のバケモノの臭い」  「何が言いたい?」   僕は現場の情景を思い出す。 峰雪が喜び勇んで出かけたヒーローショーの広場の側には、大きな観覧車が立っていた。 「止まった観覧車というのは、いいロケーションなんだろうな。密室の中から、ゆっくりと狙いをつけられるし、高度も取れる」  「私があそこから撃ったとでも言うのか? ならばなぜ、誰も異変に気づかなかった?」  「ちょうどあの時、観覧車の側ではヒーローショーが爆音を立てている」  「僕の記憶が確かなら、爆発音は六つ。しかし、舞台から立ち上る煙は五つだった」  そして何より、あの時。 恵をかばった時。 僕の耳に届いたのは、確かに銃声だった。 あの日、イグニスに路地で狙撃された時の、あの銃声だ。 忘れられるはずがない。  「君のことだ。最初から敵に存在を気取られることはない」 「遠距離から、爆発のタイミングに合わせて、まず一発。敵がそれに気づき、即座に観覧車へと接近する」   空薬莢には、しっかりとあの犬の体臭がなすりつけられていた。 さすがのイグニスも、一撃では仕留められなかったのだろう。 「敵は空を飛ぶことができる。 ほんの数秒間で、回転中のゴンドラに飛び込んだはずだ」  「バカバカしい。あんなものがガラスを破れば、騒ぎにならないはずがない」  「だから君は、ガラスをあらかじめ取り外しておいたんだ」  ぼんやりと眺めた限り、観覧車に異変はなかった。 窓ガラスにライフルで穴を開けた痕跡も、体当たりしたあの魔物がガラスを突き破った形跡も、見られなかった。  なぜなら、イグニスの乗っていたゴンドラには、ガラスが張られていなかったのだから。  ガラスの衝撃は、ライフルの照準を狂わせかねない。 敵が飛びかかってガラスが割れれば、周囲の人間も異常に気づくだろう。 だからイグニスはあらかじめ、窓ガラスを外しておいたのだ。 「なるほどな。狭いゴンドラに敵を呼び込んで、それからどうする?」  「ガラスを外しても、手すりがある。 敵はゴンドラに飛び込む瞬間、身体の一部が手すりに触れるはずだ」  「ならば、金属製の手すりに、高圧電流でも流しておけばいい」   つい先日、暗闇の中で見た暗器の数々。 イグニスはコートの裏に、対人外用に改造したスタンガンを持ち歩いていた。 「動きさえ止めてしまえばどうとでもなる。あの狭い空間ならば、月牙をナイフ代わりに使うのが一番手っ取り早い方法だな」  「なるほど、なるほど。さすがの名推理だ。そこまでなら満点をやっても良い。  だが、それだけでは物足りんな」   イグニスは、まるで弄ぶように笑う。  「肝心の動機が解明されていない。 なぜ私は、そんな面倒なことを?」  動機――。 推論は得意だが、人の心を推測するとなると、僕は途端に自信がなくなる。  「動機は、わからない。ただ、君の行為のおかげで、僕は助かった」  「君がいなければ、戦っていたのは僕だっただろう。恵と峰雪は、護れたかもしれない。けれど間違いなく、僕の力は、ばれていた」  「おまえの妹は、なにも知らないまま、おまえから離れるべきだ。それが、おまえ自身のためにもなる」  イグニスの声色が、唐突に厳しくなった。  「あいつは真実を知ったら、おまえから離れないだろう。 絶対に、足手まといになる」  「それが、動機か? だから、魔物をひとりで?」 「ああ、そうだ」  「それだけか?」 「それだけだ」  「……確かめたいことがある」  僕は唐突に、イグニスの肩に手をかける。 彼女は、逆らわなかった。   あの空薬莢に染みついていたのは、魔物の体臭だけではない。 いつか嗅いだ、血の臭い。  「これは?」   ボタンを一つ一つ外し、やけに重いコートを外す。 右の肩から二の腕にかけて。 真新しい包帯がしてあった。  高圧電流を流し、刃で眉間を貫いても、獣は止まらなかったのだろう。 鋭い牙は、ほんのわずかに掠めただけで、ザックリと肉を裂く。  「かすり傷だ。 おまえのところの管理人のお節介だ」  「気にくわないな」 「何がだ?」 「そうやって、何もかも僕に隠す態度だ。 僕を殺そうとした時も。昨日の……魚人のことも」   顔が熱くなる。 心臓が喉につっかえそうだ。  「勝手にお膳立てを整えて、全部終わってから、説明するその態度だ」 「事は、人類社会の滅亡に関わる。おまえの感傷などにかかずりあう暇はない」  「自分の目的と効率のためだけに動く、冷酷な機械。僕たちはお互い利用しあうだけの関係。そう言いたいんだろう?」  「まさしく」  「今日のこともか?」   イグニスが顔をしかめた。 「やっと気づいたよ。イグニスは、冷酷でも冷徹でもない。単に、とんでもなく意地っ張りで、負けず嫌いなんだ。違うか?」   図星だったらしい。 いままでで、一番、嫌そうな顔をしている。 「いい加減に黙らないと……」   イグニスの手が、左腕のアームバンドに触れる。   折りたたまれていたバッジ状の月牙は、その刃を伸ばして即席のナイフになる。   黒光りする暗器が、手の中でくるくると回った。   武器を見せられて血が沸き立った。  僕の右手が風より早く伸びて手首を掴む。  武器はおとりで、イグニスは僕の股ぐらを蹴り上げていた。 が、いい加減、付き合いも長い。 それくらいのことはわかる。  伸びた蹴り足をブロックしたが、敵もさるもの、足を払われる。   僕たちは、バランスを崩す。   宙でベッドへ倒れ込みながらも、ふたりの攻防は続く。 イグニスの腕が伸び、黒い刃が喉を狙う。 躊躇はない。微塵も、だ。 このまま無為に倒れれば、間違いなく月牙に喉を切り裂かれるだろう。   僕はベッドに受け身をとるべく、腕を伸ばした。   だが、待っていたのは予想外の感触。 僕の受け身を予見したように、イグニスの左手が先んじてベッドを押していた。  ビジネスホテルの安ベッドからは予想もつかない柔らかなスプリングが、真下に押し込まれる。   受け身を取り損なった僕の右手。 ほんのわずかに計算が狂う。 「おまえも、まだまだ甘い」  ほんのわずかな計算の狂いでも、イグニスにとっては十分だった。 僕は仰向けに押し倒されている。 息が肌で感じられるほどの近距離。  だが、イグニスの手に、もう月牙は握られていない。 その代わり、手袋をした指先の感触が、顎を撫でた。 「ヒントは与えたはずだぞ? 『内装は自前だ』とな」   おそらくこれも持ち込んだのだろう、特注の柔らかなスプリングに、僕の身体が沈み込んでいる。 四つんばいになるように、覆い被されている。 イグニスが言葉を発するたび、白いシーツがゆらゆらと波打つ。 「人の態度に腹を立てるより、まず自分の未熟さを恨め。 私がもし、おまえの命を狙うものだったとしたら──?」  「その仮定は無意味だな」   唐突に、口が、そう動いた。 混乱する。 そんな言葉を紡ぐつもりなど、どこにもなかったというのに。   だが、理性を嘲笑うかのように、僕の口は次々に言葉を接いだ。 「おまえは、僕を殺さない。 だから、避けなかった」  「バカな。相手が私でなければ、逃れられたとでも?」  「もしも敵なら魔力を使った。 だがおまえは敵ではないし、僕はまだ完全に自分の力をコントロールできるほど、魔力の扱いに自信はない」   つい先日、イグニスの服を脱がせようとして、人差し指に風を呼ぼうとしたことを思い出す。 あの時、危険を感じて僕を制止したのは、誰あろうイグニスだ。 「道具は扱いを間違えれば意志に反することが起きる」  「ふん、信頼されたものだ。 ならば、私が月牙を捨てると、なぜ確信できた?」  「おまえが、僕を信頼したからだ」   全く論理的ではない。 そんなことは、自分でも十分理解している。 飛び出した予想外の言葉に、イグニスも目を丸くしている。 「僕があの時、魔力を使えば、おまえは避ける術がなかった。 命を失う蓋然性も低くはない」  「それでもおまえは、僕を試した。 僕がそんな危険な対処法を選ばないことを、おまえは確信していた。 それを僕は、信頼と解釈する」 「私がおまえの魔力を見くびっていたのかもしれんぞ。 あるいは、さらに私が罠を仕掛けるつもりでいたのかも――」  「構わない。いずれにしろ、おまえは僕を殺さなかった。 あのビルにおびき寄せられた時とは、既に関係が異なっている」 「はは、はははははは」   イグニスは、笑った。 腕を突くベッドが揺れ、髪が前後に震える。  「どうした? おまえらしくもない。 論点が大きくずれているぞ」  「理解している。わざとずらしたんだ。 いいや──ずらされて、いるのかもしれない」  自分がこんな行動に出るなんて、夢にも思わなかった。 今までの僕は、こんな曖昧で、非論理的なやりとりを、忌み嫌っていたのだから。   だが、今僕の心を動かしていたのは、論理を超えたもの。   昨日、人魚と交わったときの記憶だった。  心の底から愛し合い、愛のためなら命を投げ出していいとすら思う、倒錯した感情。 身体を操ったのは魚人の未練。 交わったのは幻の人魚。   理解している。 それは、理解しているのだが。   命を捧げた彼女が、今目の前にいる。 舐めるように見下ろしている。 相手の息づかいさえわかる至近距離で。 「ふん、なるほどな」   イグニスの右手がベッドを離れる。 身体が傾く。 黒い指先が触れたのは、予感に固くなりかけた股間。 つい先日の甘美な記憶が、脳裏を一気に満たす。 「昨日の未練が、まだ後をひいているな? 私に、欲情しているわけか」  「客観的に、そう判断して間違いないだろう」  「それで、これからどうしたい?」  「おまえと性交したい」  「はは。その率直な物言いだけは、変わらんな」  イグニスは苦笑。 片手を僕の股間に這わせながら、片腕で上着を脱がしていく。  「いいだろう。 おまえにその感情を植え付けさせたのは、私だからな。その程度の責任は持ってやる」   指先が合わせ目をさすり、ボタンのまわりをゆるりと撫でる。 まどろっこしくなるほどに時間をかけて、ひとつひとつ、外していく。   回りくどいことなどせず、両手で一気にボタンを外せばいい。 以前の僕なら、間違いなくそう判断し。行動していただろう。   だがもちろん、今は違う。   時間が経つに連れ、わずかずつ深さを増していくイグニスの呼吸を、愛おしく感じている。 まどろっこしいその時間を、愛しく感じてさえいる。 空気を伝わって、ふたりの心臓の鼓動が同調するような錯覚。  「おまえも、興奮しているな?」   それまで滑らかに形をなぞっていた左手が、止まる。 シャツのボタンを全てはだけさせたところで、イグニスの瞳が僕を睨みつけた。 「バカを言うな。私はただ、おまえの望みに付き合ってやるだけ――」  「『悪くなかった』。昨日は、そう言ったよな?」  「な――」   みるみるうちに、イグニスの口が歪んでいく。 吊り上がる唇の角度に連動するように、その顔も徐々に火照っていく。 「どうした? 顔色が変わったが」  「別にどうもしてない」  「一般的に顔色が赤くなるといわれるのは、アルコール分を摂取した場合、あるいは憤怒や羞恥といった感情を抱いた――」  「黙れ」  イグニスの唇が、僕の言葉を塞いだ。 抗議する間も、抵抗する間もなく、イグニスの舌が口内を蹂躙する。   理不尽だ、と思った。 だがこんな理不尽になら、身を任せてもいい。  唇を吸い、吸われ、溶け合う。 唾液が注ぎ込まれ、息をする間も惜しい。 唇の角度を変え、より深く、より近く。   イグニスの舌は、まるでそれ自身が意志を持つ生き物であるかのように、僕の心を奪った。 喉に出かかっていた疑問を全て吸い尽くし、飲み干してしまった。 「下らんことを聞くな」   反論が、いくつも頭を掠めた。 だが僕は、それを言葉にすることができない。   ただ静かに、頷いた。 身体の芯を震わせる、もやもやとした激情。 この感情の行き場所を教えて欲しい。 高みまで、導いて欲しい。  首筋を撫でる指に身を任せ、彼女の瞳に吸い込まれる。 イグニスは僕の瞳から目を離さない。 はだけたシャツの隙間から胸をなぞる。   僕の肌は汗ばんでいる。 芯を震わせる情動だけが、行き場を失って膨らむ。 指はゆっくりと胸を降り、ヘソをくすぐり、さらに下へ。   手袋に包まれた両手はベルトで重ね合わせられ、バックルを静かに外す。 「相変わらず、立派なものを持っているな」   チャックを開け、下着を半分下ろし、充血したペニスが飛び出した。 血に滾ったそれは、外気に触れてなお熱い。   だが、宙にさらけ出させておきながら、イグニスは一度も触れようとはしない。 硬直した様子を観察するように、一度軽く息を吹きかけただけ。 行き場を失った僕の衝動が、身体を突き破らんばかりに暴れる。  僕のそれは、一刻も早く鎮まることを願っている。 彼女と重なり、溶け合ってしまいたい。 熱く蠢くその身体を、ひと思いに貫きたい。   僕の身体を、魚人になった時の、あの記憶が急かす。 「なぁ、イグニス――」  「そう、焦ることもなかろう?」   起きあがり、一気に組み伏せようとした僕の身体を、イグニスは唇で押しとどめる。 身体が反動で、ベッドに沈んだ。  イグニスは浅く口づけて、唇は頬をなぞり、昨日の記憶をなぞるように耳を食む。   吹き出そうとしていた感情が、無理やりせき止められる。 なま暖かい息が宥め、くすぐるような感触が騙す。   窮屈に押し止められた衝動は、身体の奥底に熱をためながら、やがてさらにその勢いを増し――。 「痕が、残ったのか?」   舌を首筋に這わせたところで、唐突に、イグニスの動きが止まった。 彼女の視線は、首に向けられている。  僕の首筋には、痣に残るほどはっきりと、歯形が残っているはずだった。 「それにしても小さい気がするが――」  「妹に、やられたんだ」  「妹?」   イグニスが声を裏返す。 「ああ」  「しかしなぜ――?」  「わからない。昨日家に帰って首を見られた途端、妹に突然噛まれた」   返す返すも、あの行動は不可解だった。 なぜ恵は、わざわざ首筋に噛みついたりしたのだろうか? 妹に身体を噛まれた記憶など、それまで一度もなかった。  もちろん、人魚の乗り移ったイグニスがやったよう、性行為の一環として歯跡を残すことはあるかもしれない。 しかし、悲鳴を漏らしてしまいそうになるほど強く、愛する人の首を噛んだりするだろうか?   まして、恵の噛んだ首筋は、既にイグニスに噛みつかれた場所だ。 推測するに、あの恵の行為には、何かもっと象徴的な意味が込められているような気もする。 「……くっくっく」  「なんだ? なにがおかしい?」  「はは、あっはっはっは!」   イグニスは腹に手を当てて、笑う。 僕の困惑を嘲るようだ。 長い間、意志の通じないテレパスの間で暮らしてきた僕は、こういうすれ違いは何度も経験した。 だが、理由もわからないまま笑われるのは、やはり気持ちのいいものではない。 「ははは、そうかそうか。なるほど、な」  「なにがなるほどだ。なぁ、なぜ恵が僕の首に噛み付いた?」  「嫉妬さ」  「嫉妬……?」  「遅い時間に帰宅して、その首の傷を見られれば、私とおまえの間になにがあったかは自明だろう?」  恵は先ほど交わした会話の中、「僕がイグニスとしたのかどうか」を執拗に尋ねた。 昨日、首の傷を見た時点で、ふたりの関係は推測されていたのだろう。   年頃の男女が互いに引かれ合う。 客観的に見て、当たり前のことだ。 性交渉で歯形が残るのも、不自然なこととは思えない。 「だが、それに気づかんようでは、おまえも噛まれ損だな。はっはっは」   イグニスはぶり返したように笑い出す。 僕はただ、彼女の発作が収まるのを待ちながら、妙な気分に襲われた。   嫉妬。 イグニスは、恵が僕に嫉妬を抱いていると断言した。 それはつまり、恵も年頃の男女として、僕と性交渉を望んでいるということだろうか?  しかし、恵はもちろん、僕の妹だ。 生物学的にも民族学的にも、近親相姦は禁忌とされている。 恵だって、その程度の分別がない年頃ではないはずだ。   わからない。 他人の心は、全く、理解の範疇を超えている。 「ん? 元気がないな」   イグニスの手が思い出したよう、ペニスに触れた。 宙に剥き出しになったそれは、いつの間にか熱を失いかけている。  「妹のことを思い出して、萎えたか?」  「直接の因果関係は断定できないが、興奮が醒めたことは確かなようだ」  「自分勝手なやつめ」  ベッドが波打つ。 イグニスの身体が持ち上がり、音もなく背後へと下がる。 「ならば、妹のことなど思い出せんようにしてやろう」  しぼんだペニスを両手で包み込み、イグニスは艶やかに笑う。  微かに触れる、黒い指先。 カリを撫でただけで、背筋を電気が走る。 押し込まれていた情動が、再び行き場を求めて暴れ出す。  しぼみかけていたペニスが、みるみる堅さを取り戻していった。 「ふん。現金だな」  イグニスは手袋をはめたまま、膨張するそれを弄ぶ。 強く刺激するわけではない。 熱を計測し、大きさを確かめるかのように、幾度も持ち替える。  敏感な先にほんのわずか触れたかと思うと、すぐさま周囲の長さを測るように指で輪を作り幹を撫でる。 裏筋を指先でなぞり徐々に下へ、袋を両手で優しく包み込む。  焦らすようなその動きに、僕の欲望は行き場を求めて暴れ出す。 一度押さえ込まれたからこそ、その勢いは一層激しい。 だが、いくら心が求めても、イグニスは嬲るように指先で弄ぶだけ。  昨日の記憶が、急きたてる。 一気に押し倒してしまえ。 無理やりねじ込み、欲望のありったけを注ぎ込め。 身体を痺れさせた快楽が、僕の身体を動かした。 「イグニス、僕は――」 「焦るなといっただろう?」 「――ッ!」  瞬く間に、身動きがとれなくなる。 持ち上がりかけた僕の身体は、再び、ベッドに沈む。 「油断したな?」  イグニスの指先が、袋をきつく締め上げていた。 鷲掴みになった指の中、双玉が踊る。  苦痛と快楽の狭間。ほんのわずかに勝った快楽。 だが、あと少しでもあの指に力を込められれば――。  激痛の予感に、背筋が竦む。 そんな僕の様子を見て、イグニスは唇を歪めてさえ見せる。 「逆らわんことだ。 言うことをきけば、昨日の交わりにも劣らぬ快楽を約束してやる」  圧力が去って、全身の力が抜けた。 思わず溜息が漏れる。  満足げに、イグニスの瞳が細められた。 手がそっと先に触れ、敏感な部分をくすぐりながら数度行き来する。  指を立て、熱を冷ますように息を吹きかける。 挑発する瞳。  再び僕の中で、抑えきれない衝動が暴れ出す。 先ほど、背筋が凍るほどの恐怖に襲われたことなど、忘れてしまったかのように。  指先でなぞられた程度では足りない。 行き場を求め、さらに堅く屹立する欲望。  黒い指先は、輪郭を写し取るように。 触れているかどうかさえ、確かに思えないほどで。  懸命に、欲望を押し止める。 だが、手綱を手にしているだけで精一杯だ。  欲望は犯す。 イグニスに抑圧されたまま、何度も何度も、妄想の中で彼女を犯す。     ――無理やり彼女を組み伏せ、上からのしかかる。唇を奪い、好きなだけ舐る。   ――風のメスでドレスを切り裂く。オートクチュール? 構うものか。   ――こぼれだした乳房を揉みしだく。放漫な胸を鷲掴みにし、ありったけの力を込めて蹂躙する。   ――跡が残るほど胸を吸い、歯形が突くほど乳首を噛み、逃げるよう悶える彼女を無視する。逃げ場はない。  弾けんばかりに堅さを増したペニスに、イグニスの刺激はいよいよ強く。 左手で袋を包み、そこから伸ばされた人差し指は肛門を撫でる。  右手は軽く握られ、隙間に亀頭がすっぽりと包み込まれる。 滑らかな布越しに感じる、彼女の感触。  その感触が、欲望をさらに加速させる。     ――下に手を突っ込むと、あのときと同じく、彼女の茂みは濡れている。身体は正直で、前戯の必要すらない。   ――僕は覆い被さり、重ねる。潤み、蠢く彼女の中へ、己のものを押し込む。貫く。   ――欲望のまま、前後させる。突き入れる。強く、深く、さらに深く。   ――粘膜がこすれ、音を立てる。苦悶、悲鳴。彼女が漏らす呻きにも、構わない。ただひたすら、犯せ、犯せ。 「どうした? 触っただけで、果ててしまいそうだぞ」  嬲るように言って、イグニスは指先に力を込める。 指の隙から見えるカリが押しつぶされ、そのまま、軽くしごかれる。  僕の口から、思わず息が漏れる。 全身を舐める快感。  だが、こんなものじゃ足りない。 全く足りない。 欲望は、彼女の顔を睨め付ける。  屹立したペニスを見下ろす、イグニスの顔。 手綱のように指を上下させる。絡みつかせた五指は縛め。 操る悦びに、彼女の唇の端が吊り上がった。     ――この顔を、快楽に歪ませる。生意気なこの女を、滅茶苦茶にしてやる。   ――逃げようと藻掻く彼女の髪を掴んで、引き寄せる。漏れる涙を、舌で掬い取る。   ――喘げ、叫べ、声が枯れるまで。やがてその咆哮は、愉悦の色に染まるだろう。   ――何度も何度も、突き刺す。限界を超えても、終わらない。     ――僕は射精する。欲望のありったけを注ぐ。彼女の奥の奥のさらに奥へと。   ――もちろん、一度ではすまない。何度でも、貫いてやる。   ――彼女の子宮が壊れても。彼女の声が裏返り、意識が遠のいても。   ――欲望のままに、犯し、犯し、犯す。 「それほどまで、いきたいのか?」  妄想を割って、一際鋭い刺激。 ぴくぴくと震えるペニスの先に、イグニスが舌を突き出していた。 赤い唇の先端が鈴口に触れ、唾液と絡まり糸を引く。  僕の息は荒い。 「できれば、一刻も早く、おまえに挿入したい」 「サイズの割には、堪え性がないな、まったく」  言うが早いか、唇がペニスに近づいた。 片手で竿を扱きながら、舌が軽くカリに押しつけられる。  ざらついた感触。 新たな感触に、僕の興奮は一気に高まる。 触れあった場所が熱く、火種は燃えるように全身へと伝播する。  唾液を含ませ、先端を濡らし尽くすよう動く舌。 舌はぴちゃぴちゃと音を立てて下り、反り上がった幹へ。 指での刺激をやめないまま、丹念にその全てを舐め終えると、呆れたように顔を上げた。 「無駄に大きいというか、なんというか。これではくわえるのも一苦労だ」  てらてらと光る竿を右手で強く扱きあげて、イグニスは吐き捨てる。 「まあ、おまえにはこの程度で十分だろうが」  それまでにない、激しい指の上下。 合わせるように、イグニスの舌がチロチロと先端を刺激する。  休みなく上下する腕、絞り上げるように強く扱く指、それを待ち受ける口内。 イグニスはあくまで挑発するように、僕の顔を見下ろしている。  唾液を絡ませ出入りする舌の音に、心臓の鼓動が同調する。 扱く指の動きに合わせ、深く息を吸い込む。  出入りする舌は、首を撫で、裏筋をくすぐり、休むことがない。 こぼれ、垂れ落ちる唾液に、手袋が濡れる。 屹立したペニスは、弾けんばかりに充血している。  だがこのままでは、イグニスの顔にそのまま射精して――。  衝動を抑える手綱が、切れた。 構うものか、と欲望が叫んだ。 ありったけを、顔にぶちまけてやれ。  高まる感情に合わせて、イグニスの動きが急激に速くなる。 熱い。熱い。目の前が白く霞み、意識が薄れていく。 全身に波のようたゆたう快感が、重ね合わさり、深く、高く。  限界を超えて高まるその波は、やがて身体の自由を支配する。 絞り出すように全身が揺らぎ、ただイグニスだけが、僕の意識を支配している。  僕は全身を硬直させ、全身を走る快感の予兆に身を打ち振るわせ、そして――。 「がはっ!」  唐突に、頭を殴られたような衝撃。 予想もしないその感覚に、僕はなにが起こったのか、把握できない。 苦痛なのか、快楽なのか、判断がつかない。 「イグニス、おまえ――!」 「おまえは学習能力がないのか?」  イグニスが、ペニスの根本と双玉を、鷲掴みにしている。  遅れて認識する、激痛。 今までに感じたことがないほどの。  身を硬直させたまま、僕は言葉を継げないでいる。 言葉を放つことすら、思いつかない。 先ほどまでの衝動は、即座に霧散していた。  いたぶる、イグニスの声。 「勝手にいこうなんて、考えるな」 「……この」 「ん? なんだ?」 「だったら、おまえを――」  僕は身体を起こし、イグニスの肩を掴む。 目を見開いた彼女はなすがまま、仰向けに押し倒された。 「ちょっと、待て! なにをする!」  イグニスは我に返り、咄嗟に反抗しようとする。 だが、大きく波打つベッドは、それを許してくれなかった。  勢い、イグニスは無防備に、僕に覆い被されることになる。 「僕がおまえを達させてやればいいんだろう?」 「なにをバカなこと――」  イグニスにのしかかったまま、反論を無理やり唇で塞ぐ。 強張った唇にねじ込み、驚きに萎縮した彼女の舌を解きほぐす。  彼女の唇は思いの外、頑なだ。 それまでと異なる消極的な素振りを意外に思いながら、僕は脇の下へと両手を回す。 「――んぁ、ダメだ!」  唐突に、イグニスが唇を突き放し、大声を上げる。 「また、切る気だろ!」 「仕方がない。僕には脱がせ方がわからない」 「私が脱げばそれで済む!」 「いいや、しかしこれは――」  僕はあの日と同じく、柔らかな胸の感触を感じながら、両の指先を持ち上げる。  もちろんそれは、正しい脱がせ方ではないのだろう。  十分に肌から離すと、風を呼ぶまでもなく、ブチリと音がしてドレスが弾けた。 「意外と簡単に、外れたな」 「――ッ!」  イグニスの表情が、なぜか、みるみるうちに赤くなる。  彼女が突然アルコールを摂取したという可能性はない。 怒りをおぼえたと推測するのが妥当か。 確かそのドレスは、オートクチュールだと言っていた。 やはり壊してしまうのはまずかっただろうか?  しかしそれにしても、ほんのわずか伸ばしただけで弾けるとは予想外だった。 そもそも強度に構造上の問題があったと言わざるを得ない。 これでは日常の使用にさえ、耐えるかどうか。 「ケガを、していたからだ」  俯き加減のまま、唐突にイグニスが口を開く。 脈絡がつかめないまま、初めて見る彼女の表情に、僕は言葉を忘れた。  あれは本当に、怒りの時に浮かべる表情か? 顔色は最早、赤を通り越してしまっているようにも思える。  アルコールでも怒りでもないとすれば、消去法から導かれる帰結は――羞恥?  イグニスは、視線を合わせない。 包帯をした手を見つめて、つっけんどんに言う。 「ケガしていたから、上手く縫えなかったんだ」  そこでようやく、納得がいく。 僕が服を切った翌日から、当たり前のようにイグニスはドレスを着ていた。 あれはきっと、自分で裁縫したのだろう。 「なるほど。あの裁縫は、おまえが縫い合わせたんだな」 「な――!」  イグニスは、なぜか舌打ち。 顔を赤く染めたまま、吐き捨てる。 「そうか。おまえは、そういうやつだったな」 「そういうやつ? なにが言いたいんだ?」 「なんでもない。ただ、余計なことを言わなければ良かったと後悔している」  イグニスが「ケガをした」と告白しなければ、僕は単に「壊れやすい服だ」と思うだけだったかもしれない。 なぜ「余計なこと」だったのか、イグニスの心を知らない僕には、推測するしかないが。 「道理で、簡単に壊れると思った。あれでは商品として失格だろう」 「うるさい」 「しかしそれでも普通、裁縫というのはもっと頑丈に縫い合わされるものでは――」 「だから、ケガをしていたと言っているだろう!」 「ケガをしていたなら、管理人さんに頼めばよかった」 「あれ以上、迷惑をかけられるか!」  イグニスの顔色は、赤く染まったまま。 その様子は、明らかに普段からかけ離れている。 小さく握り込まれた、両拳。  普段、悪辣な罠や必殺の武器を手に、人外のものを手玉にとるイグニス。 時には、人の命を秤にかけることすらなんの躊躇もなくやってみせる。  その彼女が自分の部屋で、裁縫針を手に、ドレスと悪戦苦闘する姿を思い浮かべてみる。 「ふふん」  唐突に。 僕の口から、思わず笑いが漏れた。 「な――おまえ今、私をバカにしたな!」 「バカになど、していない。ただ単に、滑稽だと思っただけだ」 「き、貴様――!」 「だが、それだけではないな」  顔をそらしたままのイグニスから、覆い被さっていた服を退ける。  彼女は抵抗しようと、身をよじらせる。 だがほんの少し押しただけで、波打つスプリングにバランスを崩した。 「不得手を恥じることはない。人は誰も、弱みを持つ。ごく当たり前のことだ」  服を脱がされながら、イグニスは僕を睨みつける。 「……私が裁縫下手で、そんなに嬉しいのか?」 「裁縫だけのことを言っているのではない。イグニス、おまえは弱い」 「弱い、だと?」 「ああ。だが、それを懸命に押し隠しているだけだ」 「バカなことを言うな。弱いならば、私はなぜ魔族と戦える?」 「人間は弱いから道具を使う。違うか?」  イグニスは、答えない。 ただ、静かに唇を結ぶだけ。  僕は、今まで目にした彼女の戦いを、延々と思い返している。   イグニスは策士だ。 地形、罠、武器。 あらゆるものを利用して、いつも魔族たちと互角以上の戦いを繰り広げる。   だが逆にいえば、策を持たないイグニスなど、魔族にとってなんの障害にもならないだろう。 彼女は魔族に対抗するため、罠を張り、武器を使う。   そうしてイグニスの中身は、意外なほど脆い。 ここ数日、彼女はケガをしてばかりだ。 いくら罠を駆使したところで、人間の能力自体が底上げされるわけではない。   彼女は間違いなく、人間なのだ。 「おまえは弱みを見せない。 身の回りを繕って、全てを自分の手ひとつでまかなえるような顔をしている」 「その身体は、傷だらけだというのに――」 「だから、気にくわないというのか? 私を裸にして、弱みを覗き込もうとでも?」 「気にくわないわけではない。 ただ、おまえのことが、知りたいだけだ」  それは、偽らざる僕の本心だ。 イグニスを、もっと知りたい。 「わざわざ、自分の弱みを他人に預ける? ばかばかしい。 全く、論理的ではないな」 「僕が、おまえに刃を向けるとでも?」 「信頼しろと言うのか? それで私になんの得が?」 「他人への愛情は、利害関係で計りきれない。昨日、思い知ったばかりだ」  わだつみの民。 幻想の中で交わった、魚人と女王の記憶。 命をかけた情交は、鮮明に身体の芯まで焼き付いている。  あの情熱を、今更無碍に扱うことはできない。 「今日のおまえには、調子を狂わされっぱなしだな」 「普段と様子が違うことは、自覚している。 だがそれでおまえに近づけるなら、問題はない」 「私が拒めば?」 「ねじ込むまでだ」 「ひゃっ!」  僕は、イグニスの両足をめくり上げる。 勢いよく腿を持ち上げられ、彼女の身体がベッドに沈んだ。  イグニスの悲鳴はいつもの冷静さを失っている。 顔を真っ赤にして、イグニスは抗議する。 「貴様、なにをする?! 今すぐ放せ!」  僕の目の前に広がるのは、イグニスの恥丘。 両足をがっしりと捕まれて、濡れた秘裂が蠢いている。 「本気で離して欲しいなら、力ずくで退ければいい。  強いおまえになら、できるだろう」  もちろん、イグニスがいくら藻掻いてみたところで、体勢は動かない。 武器を奪ってしまえば、彼女はただのひ弱な人間だ。  目に涙すらためて、イグニスは抗議する。 「こんなことをして、ただで済むと――ふぁっ」  最後まで続かない。  僕は、濡れそぼった彼女の茂みに、舌を這わせる。 見ているだけで垂れ落ちる、芳醇な蜜を味わう。 割れ目を押し広げるように、下からゆっくり舐め上げる。  イグニスの身体は強張っていた。 懸命に脚を伸ばし、僕の顔を退けようとするが、僕の腕と柔らかなベッドがそれを許さない。  そうして舌が、彼女の秘裂を掬うたび彼女の力が抜けていく。 「既に、かなり濡れているな」  震える声を繕って、イグニスは反論する。 「ふ、さっきのおまえのザマよりは、まだましだ」 「だが、昨日よりもよほど、湿っているぞ」 「わ、私が知るか――ッ!」  既に、抵抗を諦めたのだろうか。 逃げようとはせず、ただせめてもの反抗とばかりに、押さえつける腕を拳で叩く。  腰も入らず、ぽん、と拍子抜けするほど軽い音。 「あのときも、ここを攻めたのだったな」  細められた僕の舌が、彼女の亀裂を舐め上げ、端に達する。 強く押しつけ、先端を踊らせる。 包皮の下、突起の感触を確かに感じた。 「ぁは、ちょ、やめ……やめろ!」  裏返りかけた彼女の声に、構うことはない。 僕は舌で、彼女の肉芽を攻め立てる。  先を窄め、細かく震わせながら、包皮ごと押しつける。舐め上げる。 彼女の苦悶に踊る身体を、波打つベッドを、完璧に制御する。  泡立つほどに音を立てているのは、僕の唾液か、それとも彼女の蜜か。 舌先が疲れるほど激しく攻めると、充血した芽が姿を現した。 ツン、と尖った彼女の肉芽を、舌全体を使うように舐め上げる。 「ひゃぁ! んぁ、こ、こら、やめろと言っているのが聞こえないか!」 「やめる? なぜだ?」 「なぜって、それは……」 「おまえは僕に、ひとりで達するな、と言った。 つまり、おまえが達させられたい、ということだろう?」 「都合のいいときだけ、論理的になるな! ともかく、その手を放せ」 「理由もなくやめたくはないな。 おまえも苦痛を感じているわけではないだろう?」 「――ぃや、やめろっ!! 頼む!」  再び陰部に顔を近づけた僕に、イグニスは真っ赤な顔で怒鳴りつける。  顔をうつむけたまま、何か言葉を紡ぎ出そうとする。 痛々しいほど必死に動こうとする口元。 だが、声は届かない。 ただ、微かに唇が震えるだけ。 「なにが言いたい?」  剥き出しになった肉芽を舐めるようにして、その奥のイグニスの顔を見下ろす。  イグニスは、蚊の鳴くような小さな声で、答える。 「……しいんだ」 「ん? 聞こえない。なんと言ったんだ?」 「恥ずかしい」 「もう一度、もっと大きな声で言ってくれ」 「恥ずかしいんだ!」  自棄になったように、イグニスは怒鳴りつける。 その瞳には、大粒の涙さえ溜めて。 「おまえがいきたいんだったらいかせてやる、だから、頼むからこの格好――ひゃあっ!」  交渉など、受け入れるはずがない。 濡れてひくひくと震える秘裂を舐め上げる。 舌でこすり上げるように、刺激する。 興奮に震える肉芽を、何度も先でいたぶり、押しつぶす。 「いやっ、こんなことをして……ふぁっ、ん、んん……」  イグニスは、ベッドの上で身体をよじりながら涙目。 赤く火照ったその顔が、苦悶に歪む。  片手で僕の手の甲を摘む。 片手が堅く握り拳をつくって、胸の前に震える。 いつもの彼女からは想像もできない、弱々しい素振り。 「やだ……んはぁ、ん――やめろって……ふひゃっ!」  逃げようとしても、逃げられない。 僕の思うがまま、願うまま、イグニスは踊り続ける。  やがて踊り疲れた彼女は、必死に探していた逃げ場が、どこにもないことを知る。苦悶が、悦びの色を帯びていく。 「ぃやだ、んぁっ、こんな、格好、恥ず、はずかしぃ、のに――」  抵抗することすら忘れて、うわごとのように呟く。 刺激に合わせて、粘膜がぬちゃぬちゃと音を立てる。 小刻みに下半身が揺れる。  良い場所を探すように、自ら脚が開かれる。 胸の前で握られていた腕、求めるように胸に押しつけられている。 人差し指が行き場を求め、頬の隣を引っ掻いた。 「ふぁ、私……ダメ、もう、はず――ふぁぁっ!」  イグニスは震える。 宙を焦点の合わない瞳で見つめたまま、全身が硬直する。 びくり、と一度背が丸まって、大きくベッドが揺れる。  それでも、僕は動きをやめない。 震える腿を押しつけて、身体ごとベッドに沈めてしまうほどに、攻める。 攻めつづける。  苦悶と快楽が混じり、乱れに乱れた彼女の吐息が、一息もつけない。 荒い息に、掠れ混じりの言葉がのる。 「ふひゃ……ぃや、いや、もうだめだって――ぅぁっ」  言葉とは裏腹に、恥丘はさらに押し迫る。 指先が震え、引っかかりを求めるように、濡れた唇に添えられる。 もう片手は宙をさまよい、行き場を求め、シーツに指が絡んだ。  波が去ったばかりだというのに、瞬く間に次の波がやってくる。 肩が狭められ、胸が弓なりになる。 柔らかなベッドに、深く身体がめり込んだ。 「また……ぁ、んぁっ、あっ、ん、んんんんん!」  再び、彼女の動きが固まった。 びくん、と二度三度揺れて、動きが止まる。 真っ赤な顔を背けられたまま、呼吸に胸が上下する。  瞳は拗ねたよう、あらぬ方を向いている。 か細い彼女の吐息だけが、時が動いているのを知らせた。  シーツを指に絡ませたまま、唇が尖る。 「……この、馬鹿が。人の言うことを、聞きもしないで」 「お互い様だ」 「うるさい! その手を放せ!」 「まだ、恥ずかしいのか?」 「なっ――!」 「あんな格好で、達しておいて。しかもまだここは、震えて――」 「黙れッ!!」  イグニスは渾身の力を込めて、僕の身体を蹴り倒した。 抵抗はしない。 両腕で受け止めて、そのままベッドに横になる。  ごろん、と転がった僕は、いつまでも仰向けに転がったまま。 ただずっと、イグニスが起きあがるのを待っている。 「……なんだ、その目つきは?」   普段のペースを取り戻そうとするように。 懸命に、言葉を繕い、イグニスは問いかける。   だが、鈍い僕にも、ようやくわかる。 彼女の本当の姿を知っている。 強がり――そう、それはきっと、強がりなのだろう。 自分の弱さを認めるのが怖くて、彼女はずっと、取り繕ってきたのだ。   だから僕は、剥ぐ。 「早くしてくれ」  「早くって――なにをだ?」  「僕はおまえを達させた。 ならば次は、おまえの番だ」   イグニスに焦らされたまま、吐き出し所を失った衝動は、まだ燻ったまま。 僕の股間には、堅くなったそれがしっかりとそびえ立っている。   イグニスは、断固とした口調で言う。 「……入れたければ、入れればいい。拒みはしない」  「よく言うな。本当は、挿入して欲しいのだろう?」  「そんなわけがあるか! 私はただ、その、責任をとるだけ――」  「ならば、おまえが、入れろ」   僕の一言に、イグニスの顔が歪む。 「さっきは僕が動いた。次はおまえが、奉仕する番だ。何か問題でも?」  「問題だらけだ! 問題だとか、問題じゃないとか、そういう問題じゃなくて、だから……」   イグニスは独り言ように呟きながら、僕のペニスから目を離さない。 顔を真っ赤にして、もごもごと語尾が濁る。 「おまえのは、その……普通より、大きいんだ」  「それがどうした? 入りきらないわけではない」  「それに、『悪くなかった』のだろう?」  「黙れ! それとこれとは、話が違う!」   昨日も彼女は、こんな表情をしていたのだろうか? 人魚と一体になったイグニスと交わったとき、僕は彼女の素顔を見ていなかった。  想像してみる。  イグニスは、誘うような表情を取り繕いながら、緊張に身体を強張らせていた。 本当は、目の前のそれが自分に入ることを、信じられないでいた。 彼女は貫かれる場面を見ていられず、岩壁に手を当てて目をつむり、そして――。 「怖じ気づいたのか?」  「なっ!!」   僕の問いかけは彼女にとって、おそらく、挑発になる。   他人の心なんて想像もできなかった。 自分のことを、ひとり、テレパスの惑星に紛れ込んだ異星人だと思いこんでいた。 つい、先ほどまでは。  だが今、僕は、イグニスがわかる。 彼女の心に、共感できるような気がする。 幻影に覆われて、覗くことのできなかった彼女の素顔。 それを、確かめたい。   心臓が、どくん、と鼓動を刻んだ。 「なにを、言っている!」  「わからないならば、正確に説明してやろう。僕に跨れ。勃起した男性生殖器を、充血した女性生殖器の中に挿入しろ。性器を上下に動かし、摩擦させ、僕の性的興奮を最高潮にまで引き出し、射精せしめろ。以上だ」   呆気にとられた表情の彼女に、駄目を押す。 「それともやはり、怖いのか? 僕に後ろからねじ込まれるのが望みか? 先ほどのよう、自分の制御ができない快感に身を任せながら、興奮に喘ぎたいのか?」  「この、馬鹿が……」   イグニスは、挑発に乗った。 あるいは、欲望に負けたのだろうか。 唇をかみしめて立ち上がると、息も荒く僕の腿にまたがる。  ベッドが沈み、僕の腰が遠ざかった。 彼女の躊躇を表すように。  先ほどとはまるで調子が違う。 充血したペニスに、イグニスの指はこわごわと触れる。 弾力に逆らえぬよう、両手で掴んでそのまま躊躇。 改めてその大きさを計り、彼女は一度大きく息を整えた。 「ならば、入れてやる。本当に、いいのだな?」  整えきれない。 口の端が、声と共に震えている。 予感に潤む瞳。  そろり、と。 割れ物を運ぶように。 はち切れんばかりのペニスを秘裂の入り口まで導く。  熱く充血した、イグニスの感触。 垂れ落ちる愛液が、僕の先を濡らす。 「気絶するほど、いい目を見せてやる」 「楽しみだ」 「楽しみにしてられるのも、今のうちだぞ」  気丈に言葉を放ちながらも、いつまでも、イグニスの腰は落ちない。 先端に、裂け目を当てたまま、指先が震えている。 呼吸を整え、震える語尾を押し隠しながら、何とか優位を保とうとしている。 「早く漏らしてしまわないよう、気をつけるんだな。 おまえにはどうも、焦りすぎるきらいがある」 「見せてやりたかったぞ。さっき袋を鷲掴みにしたときの、おまえの顔――」 「御託はいい」 「きゃあっ!」  僕の片手が、イグニスの状態を支える膝を、押した。 左に大きくバランスを崩し、彼女の腰が下りた。 躊躇なく押し下げられ、半ばまで埋まる。  急激な圧力。 彼女の膣が、ペニスを包み込む。 燃えるような熱さが襲う。 「くはっ、なっ、あっ!」  口が開かれ、まぶたが細められる。 急激に押し広げられ、イグニスの全身が跳ねる。 大きく横隔膜が揺れ動く。 そのたび、髪が踊った。 「かはっ、くぅ、んんん!」  呼吸は、呼吸にならない。 言葉を紡ぐことなど、できない。 衝撃をこらえようと、痛みに堪えようと、懸命に、息を継ぐ。 瞳は焦点を結ばない。 目尻に涙が堪る。  その素振りが、暴れる僕の衝動をさらに掻き立てる。 「どうした? まだ、半分しか埋まっていないぞ」 「こ、このぉ、あほうがぁ!」  イグニスは怒鳴りつけ、身体が揺れる。 そのたび、細かく彼女の膣がうねり、発声がままならない。 自分で自分を追いつめるように、うわずった声で続ける。 「わた、私に、こんなことぉして、ただで――」  彼女のうわごとを遮る。 先ほど投げかけられた言葉を、そのまま、返す。 「おまえは学習能力がないのか?」 「――へ?」  まだ、衝撃から回復しないイグニスは、惚けた顔で僕を見下ろし、気づいた。  僕の両腕は掴んでいる。 状態を支え、震える彼女の膝を。 混乱する彼女が、その意味を悟る前に。 「――――ッッ!!」  僕は、彼女の膝を押し開く。 百八十度、開かれる。  腰が落ちる。 前屈みになって、僕のペニスが貫く。 拒否するように狭まった膣道を、押し広げた。 「――ぁッッ! ――ぁッ、かはっ!」  両腕を僕の胸につき、前髪をだらりと垂れ下げて、ひたすら、イグニスは堪える。 息を整え、咳き込むたびに、肩が揺れ、肘が震える。 肌を、彼女の苦悶の吐息が撫でた。  呼吸に合わせて、イグニスは僕を締め付ける。 奥の奥、限界まで貫きながら、僕は堪えることで精一杯の彼女の髪を撫でる。 垂れる前髪の奥から現れたのは、意識の飛びかけた彼女の顔。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  犬のように喘ぐその唇から、真っ赤な舌が覗いている。 口元から垂れる唾液に、かまけている余裕すらない。 唇の端から僕の胸に、糸を引いて垂れた。 「だらしがないな」  その一言が耳に届いて、イグニスは瞳を見開く。 涙目で僕の顔を睨みつけ、反論しようと大きく息を吸い込む。  少しだけ、腰を揺らしてやればいい。 「――ぁはッ!」  まだ慣れない大きさのそれが、イグニスの中で揺れ動く。 ただそれだけで、言葉を紡ぐ余裕もなく、彼女の息は全て吐き出される。言葉にならない言葉になって。  一度生み出された揺れは、収まらない。 深呼吸が震えを呼び、震えは合わさり波となる。 波を収めるべく深呼吸しても、またその息が震えを呼ぶだけ。 「なにか、言おうとしたんだろう? なんだ?」 「くぅぅぅ……!」  僕の言葉に、イグニスはただ、拳を握った。  ぽん、ぽん、と胸を叩く。 だが、揺れ動くのを恐れて、その抗議はあまりにも無力だ。 「口頭で説明してもらわないと、理解できないな。一体、なにが望みだ?」  大きな呼吸を繰り返して、イグニスは動けない。 いつまでもやってこない返答に、僕は口を開いた。 「僕に、動いて欲しいのか?」  イグニスが、顔を上げる。 唇が、瞳が、歪んでいる。  彼女はなぜ、あんな顔をしているのだろう? 苦しんでいるのか、悦んでいるのか。 それとも――その両方か。  身体が硬直し、時が止まり、喉の奥から吐き出される息が、かろうじて言葉を絞り出す。 「――――ぃや」 「なにがだ?」 「――んんんッッ!!」  僕は、突き上げた。 衝動の赴くまま、本能の貪るまま。 うねる彼女の中に、その奥の奥まで、突き刺した。  彼女は、固まる。 前屈みになったまま、爪を胸に突き立てて、言葉も上げられず。 なすがままに、貫かれている。 人形のよう、無抵抗に跳ねる。 「――ッ! ――ッッ!!」  限界以上に開かれた彼女の口から、音は出ない。 ただ、人間の可聴域を超えたような、か細い、甲高い悲鳴。  僕は、加速する。波打つベッドに押されるように、突き上げる。 リズムを刻む。早く、さらに早く。 彼女は踊る。糸の切れた人形のように。  ステップが重なる。胸に当てた手が、僕の心臓を掴む。 鼓動が合わさる。 彼女の意識が、波の動きをとらえはじめる。 「ん――ッ! んんッッ!!」  イグニスの上体が、ゆっくりと反っていく。 貫く衝撃を、身体の芯で受け止める。 背で、おもしろいように長髪が踊る。 ピンと張った胸が、黒い薄物から飛び出したまま、大きく跳ねる。 「んっ――ああ、んあっ」  僕は突き上げる。 彼女の鼓動を感じながら、今にも吹き出してしまいそうな熱を堪えながら。 頭をギリギリと締め付けるような快感に堪え、イグニスを揺り動かす。 「ぁはっ、ん……あんっ、あっ、んあっ」  突き上げるたび、彼女は動きをコントロールしていく。 ひとつひとつ、ステップを覚えていくように、彼女は僕の上で舞う。  最初は、動きを和らげようと動いていた腰が、イグニスの意志とは無関係に、動く。 受け止めるだけだった襞が、僕のペニスに吸い付き、蜜を絡ませる。 「んぁっ、いやっ、あっ、だめっ、あっ、やめっ」  言葉とは裏腹に、彼女の動きは止まらない。 なすがままに任せていた腰を自ら揺り動かし、奥まで密着させ、肉芽を押しつける。 サイズに慣れた襞が、根本から搾り取る。  いつの間にか、イグニスは動きをリードしている。 強く、弱く。 緩急をつけ、僕の全てを奪い取る。 思考も、理性も。 「あはっ、だめな、のに、んぁっ、んっ、ぅあっ!!」  彼女の声音に合わせ、僕も徐々に自分を抑えきれなくなる。 波打つように、早く、強く。 乱れるイグニスを、滅茶苦茶に突き上げる。  イグニスは我を忘れたよう、身体を震わせる。 心臓の鼓動が、ふたりのリズムが重なり、上り詰めていく。  行き場を失っていた衝動が、僕を突き破る。 秘されていた裸の彼女が、僕に重なる。 ふたりは、絶頂の中で、溶け合う。 「だめ、あっ、い、いく、いっちゃ――ぁぁああッッ!!」  激しく舞って、イグニスは硬直。 衝動は、子宮の奥に突き刺さり、爆発する。  僕は、全てを、彼女に注ぎ込んだ。 どくん、どくんと波打つたびに、垂れ下がった長髪が揺れた。 「ぁつい……よぉ」  串刺しにされ、背筋を伸ばしながら、惚けた瞳で僕を見下ろす。 普段の澄まし顔からはかけ離れた、イグニス。 彼女の素顔が、僕には、愛おしい。  僕は身体を起こし、繋がったまま、イグニスを抱き寄せた。 濡れた唇に、唇を重ねた。 深く、深く、そのまま溶けてしまうほどに。  心臓の鼓動が、重なった。 ふたりの時間を、重ね合わせるように。 「――っん」  名残惜しく、唇が離れる。 僕は、イグニスの上気した頬を撫でながら、微笑んだ。 「予告の通りだな」 「なにが……だ?」 「気絶するほど、よかった」 「か――からかうな!」  そこで再び、カッと顔が赤くなる。 突然身体を硬くして、わずかに目を反らす。 「くそ、不覚だ。まったく、なんで私はこんなザマを見せて――」 「悪くはなかった、だろう?」 「黙れ」  はっきりと言い切って、イグニスは僕の口を塞いだ。  押し倒され、崩れ落ち、僕たちはそのまま、ベッドに横並びになる。 余韻を味わうように、名残を惜しむように、口づけを交わしてから、静かに天井を見上げる。  まだ、身体中が火照っている。 激しい鼓動が収まらない。 すぐ側に、イグニスの息が聞こえる。  浅く、高い。肩に掛かる、乱れ髪。 重なり合わさった彼女の指は、その見た目からは想像できないほど強く、頑なに、僕の指を掴んで離さない。 ひとつ間違えば、そのままポキリと折れてしまいそうなほどに。  愛おしい。守りたい。 ごく自然に、そんなことを思った。 「克綺。ひとつ、聞きたいことがある」 「なんだ?」 「おまえはこれから、どうする気だ?」 「指示対象が漠然としていて、返答に困る。ごく短期的な予定ならば、これからこの部屋を出て、自宅へ帰る気でいる」 「長期的には?」 「特に、取り決めてはいない。だが――」  遅くなってしまった。 これまた、わざわざ内装に合わせて変えたのだろう、アンティーク調の置き時計を眺めて思い出したのは、恵の姿。 「一年経ったら、恵が――妹が、留学から帰ってくる。彼女はまだ若い。放り出すわけにはいかない」 「それで?」  遊園地での約束。  メリーゴーランドで感じた、彼女の胸の鼓動が、蘇る。 「一緒に、暮らそうかと思っている」 「以前、言ったはずだぞ。『おまえは、これから、生涯をかけて、魔物と戦うこととなる』」 「憶えている。だが――一年も、時間があるんだ。僕は魔族に負けないよう、自分の力をコントロールできるだろう」 「そうして一生、おまえの妹を危険にさらすのか? 近くにいたい。ただそれだけの、貴様のエゴで?」 「愛するからこそ、遠ざかる。そんな愛情の示し方が、あるはずだ」  イグニスの理屈に、反論の余地はない。 僕は、恵を愛している。 命を引き替えにしてでも、僕は恵のことを守りたい。 そうして、恵と離れて暮らすことほど、彼女の安全性を高める方法はない。  全く、論理的だ。最初から、わかり切ったことだった。 それなのになぜ、僕は、あんな約束をしてしまったのだろう? 「ただの人間が、おまえと一緒に暮らせるなどと思うな」  イグニスの言葉が、追い打ちをかける。 「できることなら、ひとりで暮らせ。山里に籠もり、人恋しさを捨てろ。愛するもの、誰も傷つけてしまわぬようにな。一番楽な道だ」 「だがもし、それがだめなら――」  イグニスは、何か言葉を続けようとして、やめた。そんな風に見えた。 僕には、そのあとにどんな想いが綴られていたのか、わからない。  ただ、僕は、上着を手に取った。 自分でも、その理由が判然としない。理解できない。 けれどもそれ以上、その部屋にとどまっていられなかった。 「忠告、ありがとう」  立ち上がり、上着を羽織る。  勢い、ベッドが小さく揺れる。  僕は、横になったイグニスに背を向ける。   彼女はベッドの上で、引き留めず、見送ろうともしない。  「家に帰ったら、これからの長期的な予定について、熟考してみる」  言い残して、イグニスの香りのするその部屋から、逃げるように外へ出た。   心臓が、締め付けるように鼓動を打っていた。  ホテルを一歩出ると、夜の街は、静まりかえっていた。 さっきは、少し活気があった気もするが、さすがに、深夜ともなると、こうなるか。  すっかり遅くなってしまった。恵に会ったらなんて言われることやら。  身体の内が暖かく、夜風が心地よかった。かすかに乾いた風が、首筋をくすぐる。  狼の鼻で、夜の空気を胸いっぱいに吸い込む。 繁華街の残飯の甘酸っぱさ。それを漁る、しょぼくれた野良犬の塩辛い臭い。アスファルトのべったりとした臭い。  それらに混じって、風に乗って漂う、いがらっぽい臭い。 燃え上がる灰の臭い。   焚き火じゃない、焼却炉でもない。 火事の臭いだ。それも……かなり大きな。  僕は、鼻を風上に向けて、耳を澄ませる。消防車の音はしなかった。  代わりに聞こえてきたのは、咳き込むような声。自動小銃の銃声だ。  胸を押さえる。熱い塊が湧き出して僕の全身を覆う。  考えるより早く、両足は大地を蹴っていた。   ──恵!   ほとんど何も考えられなかった。 かすかに残った理性は、できる限りの大声で、僕を責めていた。 魔物の力を狙うやつがいる。恵から離れちゃいけない。 そんなことは知っていたはずだった。   身を切るような祈りに反して、メゾンに近づけば近づくほど、銃声は近づいた。   僕は、ただ走る。いつのまにか両手は大地についていて、四本の手足で走っていた。  胸をかきむしるような時間の後、メゾンが視界に入った。 月が雲に隠れていても、狼の目には関係ない。 メゾンは既に囲まれていた。関係ない。  僕は、包囲網を一気に飛び越した。 「恵!」  力の限り、僕は叫ぶ。 「克綺クン! 来ちゃだめ!」  悲痛な声に、僕は振り向く。 血を流して横たわる管理人さんと、その横に横たわる。   恵。  ──恵。  熱い迸りが、心臓から全身に巡る。指先が燃えるようだ。 それでいて、頭だけは冷え切っていた。   弾丸が、僕の足下をえぐる。 「うるさい」   僕は、風を、止めた。   あらゆる音がやんだ。 放たれた無数の弾丸が、ぴたりと宙に止まる。 管理人さんが、悲痛な表情で何かを叫ぶ。その声は、耳に入らなかった。   右足と左足が、憑かれたように前に動いた。  僕は、恵を抱え上げる。 思ったより、重かった。 ──鉛玉の分だ。 乾いた声が脳裏で囁く。 「……うるさい」  血は、まだ、暖かかった。 「恵」  僕は、精一杯の声で囁く。 「もうだいじょうぶだ。すぐ手当してやるからな」  僕の腕の中で、恵が目を開く。 「恵? 恵?」  その目には光はなかった。 ──あきらめろ。 ──安物の人形と同じだ。 ──ゆさぶった拍子に、まぶたが開いただけだ。 乾いた声が語りかける。 「……黙れ! まだだ!」  口に出した言葉に驚く。 そうだ。まだだ。血が。血がいるんだ。僕の血が。 血で、蘇る。  僕の足が、掴まれた。 時間がないんだ。邪魔するな!  苛立たしげに払うと、それはボロ布のように吹き飛んだ。  音のない世界で、僕は見た。  血塗れの管理人さんが、宙を舞い、ぐったりと地面に倒れるのを。  僕の腕から、恵が……恵の死体がすべりおちる。 何をやってるんだ? 僕は。  喉の奥から叫びが迸る。それは凍り付いた空気を揺さぶり、そして解き放った!  次の瞬間。 全身を焼け火箸のような痛みが貫いた。 宙に止まった弾丸が、その目標を見つけたのだ。  耳を聾する銃声は、あとからやってきた。  無数の火線が僕を中心に交錯する。  身を引き裂く痛みは、望むところだった。 こんな痛みなど。こんな痛みなど。  火線が僕を踊らせる。 恵を見殺しにした僕にふさわしいのは、こんな痛みではない。 上着がボロ布のように裂け、紙吹雪のように散った。 「……おまえたちか?」   僕は、敵に振り向く。 「おまえたちなのか!」  声は、銃声を圧して響き渡った。  背中に異音があった。  灼けつく痛みの中で骨の髄に響くのは、鋼が肉にめり込む音。そして、悲鳴を上げてちぎれる鋼の音。   肉が、鋼を喰っていた。 タングステン鋼を受け止め、筋肉の間で挽きつぶし、体内へと取り込んでいる。   握った右拳が、ぎりぎりと音を立てる。腕が節くれ立ち、鋭い爪が伸びて掌を刺す。 開いた五指は、人のものではなかった。指よりも長い爪が、夜に光る。 擦れ合う爪が、耳障りな音を立てる。爪は、鋼だった。鋼色の爪に、メゾンの炎が赤々と映りこんだ。  両足が大地を蹴り、爪が赤く染まった。  空中から叩きつけた爪は、男の頭蓋骨をたたき割り、顔面を6つに裂いて、脊髄まで埋まった。  痙攣した腕は銃を放さず、ばらまかれた流れ弾で、悲鳴が上がる。  右腕を振って、男を放り出す。  風が啼いた。   宙を駆けるたびに。血と脳漿にまみれた爪を振るたびに。 風は金切り声の悲鳴を上げた。  音が人を切った。 鼓膜を潰され、顔をすだれに切り刻まれ、悲鳴を上げる喉を、遠慮無く爪でえぐった。   花火に似た音に振り返る。  爆裂弾を味方の真ん中に打ち込むとは、錯乱したか。 それとも覚悟を決めたか。  起爆するグレネード。 酸化剤が爆薬を酸化させ、猛烈な勢いで酸化反応が起きる。  それは爆炎を伴って、金属片を飛散させる、はずだった。  僕は片手でグレネードを受け止める。  広がった爆炎は、空気の壁に防がれた。  拳を握れば、爆炎は空気ごと圧縮される。     真っ赤な炎が輝きを強め、やがて真昼のような白熱の輝きを伴う。   男たち、一人一人の表情が見えた。 ナイトスコープを通して、その目までが見えた。   闇雲に怯える瞳。 眼前の状況を理解せず、呆然とする瞳。 同胞が殺されたことに、身勝手な怒りを抱く瞳。        ごく、わずかな瞳だけが、正気を保っていた。 その口が動く。   ヤ・メ・ロ。 やなこった。   だって、おまえたちは……恵を殺したのだろう?     僕は、白熱した塊を放った。   全ての顔が、恐怖と、狂気に塗りつぶされる様を、ゆっくりと味わった。   風のシールドを張る。 僕と、それから管理人さんに。      かすかな悲鳴は爆音に掻き消された。 三千度の超高温が、肉も骨も金属も、即座に蒸発させる。 停めてあった装甲車がアメのように溶け流れ、沸き立つアスファルトと混ざり合う。   続いて生じた凄まじい上昇気流が、死体も装備も何もかもを巻き上げた。  全てを消し去った竜巻が一段落しても、空気の熱はなかなか引かなかった。 門は、まるごとなくなっていた。 そこに兵士達が……人間がいたという痕跡は、いまや、全くなかった。  熱風が吹きつけ、額に汗が流れる。  僕は、がっくりと膝をつく。 焼けた地面が掌を灼き、立ち上がった拍子に目眩をおぼえる。 両の手の鋼鉄の爪が、ぽろぽろと抜け落ちた。  心臓は、いままでにないほど、激しく脈打っていた。喉からは血を吐きそうだ。力を使いすぎたのだ。  てん、てんと音を立てて、足下に転がるものがあった。 焼けこげた人の首。  爆発に、ぎりぎりのところで巻き込まれなかったものだろう。 僕は、ほとんど無意識に、それを拾い上げた。 皮膚のほとんどが焼けこげ、唇のないそれは、猿のように歯を剥きだしていた。持ち上げた拍子に、その歯がぽろぽろと落ちる。  手から、首が落ちた。思いの外、湿った音を立てて、焼けた地面に落ちる。 ジュウジュウという音と、肉の焼けこげる臭いが食欲を誘い……次の瞬間、僕は、吐いた。  かすかな音がした。 沼地から長靴を引き抜くような、粘着質の足音。 あたりの風景を歪ませる陽炎の向こうから、溶けたアスファルトを踏んで、それは現れた。  それは人の形をしていた。 全身を覆うゴムのようなスーツは、装甲の役割を果たすとは思えなかった。 顔のあるべき位置には、目も鼻もない白い仮面があった。  機械仕掛けの人形のように、両の足が、前に進む。 手も足も、滑らかで、確かな動きだったが……どこか機械じみていた。  首筋の毛がちりけだつ。  胸の中の獣が、哀れっぽい叫びをあげる。 尻尾を丸めて逃げろ、と叫んでいた。  胸を叩いて黙らせる。  僕は、呼吸を整えると、ありったけの風を右手に集めて、投げた。 鋭く尖った槍のような空気圧が、巨人の胸に触れた瞬間。  巨人が、揺れた。前後左右に、がくがくと。 輪郭がぶれるほどの高速震動は、大地を伝わって、僕にまで感じられた。  ゆっくりと巨人の震動が収まる。 頭が止まり、手足が止まり、やがて胸の中心がかすかに震えるのみとなった。  最後に胸が一度大きくへこみ……次の瞬間、僕は吹っ飛ばされた。  風を……撃ち返された!  メゾンの玄関にめりこみながら、僕は悟る。 敵は、風の衝撃を身体に取り込み、そっくりそのまま僕に跳ね返したのだ。  風の盾が間に合わなければ、僕は瓦礫の中の挽肉になっていただろう。 しこたま打ち付けた後頭部のせいで、吐き気がとまらなかった。  足音が、近づいてくる。 額に感じるぬるぬるとした血。それが入って目が開けられなかった。  手足に力を込めて瓦礫の中から立ち上がれば、身体全体が震えた。風を呼んで、背を支える。  ──どうすればいい?  その時。  甲高い金属音とともに、巨人の首が傾いた。額がべったりと胸につく。 わずかに遅れて、銃声が響く。  巨人の首は、ぶるぶると震え、やがて復元する。  巨人の首が、ぎりぎりとねじれ、真後ろを振り向く。 そこには──。  メゾンに続く並木道は、すでに火が回っていた。 道の両側の並木は、松明さながらに燃え上がり、燃える落ち葉が蛍のように舞っていた。  ひときわ高くそびえる銀杏の天辺に、イグニスがいた。  コートの裾に紅蓮の炎を従え、黒光りする銃口は、まっすぐに巨人を狙っていた。 巨人を睨むレンズに、炎が映りこむ。  巨人が振り向く。あの、焦りというものを知らないゆっくりとした動作で。  ──イグニスは知らない。 巨人が、衝撃を反射することを。待ち受ける巨人に放った弾は、間違いなくイグニスの元に返る。  大きく息を吸って叫ぶより早く。  引き金が引かれていた。  風を引き裂いて飛来する弾丸が、僕の目に映った。  胸に手を当てて、残りわずかな力を集める。 チャンスは一度きりだ。  僕は、最後の力を振り絞って── ・イグニスを助けた。→7−7−1・巨人を襲った。→7−7−2 ●7−7−1  時間にすれば、一瞬のできごとだ。  弾丸が、ゆっくりと飛来する。それは、吸い込まれるように巨人の胸を撃った。  胸は、ゴムのようにへこみ、そのまま膨らむ。 弾かれた弾丸が、己の弾道を忠実になぞり、射手を襲う。 「飛べ!」  渾身の力で、僕は風を飛ばす。 圧縮空気の塊が、音速を超えて弾丸に追いつき、かすかに弾く!  弾丸は、イグニスの肩を浅くえぐった。 押し殺した悲鳴とともに、イグニスがバランスを崩す。 銃を捨て、肩を押さえながら背を向けるイグニスが、僕の見た最後のものだった。  眼前に、巨人の腕が迫っていた。  それは僕の顔を掴み、鼻と口を覆う。 かすかに甘い匂いがして、僕の意識は、ゆっくりと、途絶えた。 →8日目 ●7−7−2  時間にすれば、一瞬のできごとだ。  弾丸が、ゆっくりと飛来する。それは、吸い込まれるように巨人の胸を撃った。胸は、ゴムのようにへこみ、そのまま膨らむ。 弾かれた弾丸が、己の弾道を忠実になぞり、射手を襲う。  イグニスの持つ銃が、炸裂した。銃身が千々に砕け、金属片が、胸となく顔となく一斉に貫く。 悲鳴さえなく、イグニスは落ちた。  喉から叫びが迸る。  圧縮された空気が刃となって右腕を覆う。 渾身の力で打ち下ろした爪は、しかし、柔らかく受け止められた。 ぐにゃりと曲がった巨人の肩が、跳ね返る。  ――GAAAAAAAN!  その瞬間、僕の耳は、かすかな悲鳴を捉えた。 それは、巨人が初めて発する声だった。 そう考えたのは一瞬のこと。  次の瞬間、僕の爪は僕の首をまっぷたつに切り裂いていた。       →バッドエンド  静寂の中にいる。  秒針と秒針の定義する時間の間に、僕は、たゆたっていた。   僕の胸が白いメスで開かれる。   緑の手袋をはめた手が、中のものを掻きだしてゆく。 黒い靄。ざわざわと騒ぐ烏の声。 いつまでも飛び続ける色とりどりの蝶。   みんなみんな、胸の中からでてゆく。 黒い靄が朝日に溶ける。 烏の声は、唐突にやむ。蝶は、天に昇って陽に灼かれる。 空っぽになった胸が、針と糸で縫われた。   そしてぼくは目を開ける。  そこは真っ暗な部屋だった。  寝返りをうって気づく。シーツの糊がききすぎだ。ここは、どこだ?  耳慣れた、時計の響きに手を伸ばす。冷たい感触にぼくは安堵する。 鎖を引き寄せて首にかけた。 ひやりとした感触に、ぼくの意識が、ゆっくりと覚醒した。  ──ここは、どこだ?  病院なのは、間違いない。 ゆっくりと、あの戦いのことを思い出す。  頭が重い。 怒りも、悲しみも、どこか遠いところに行ってしまったようだ。 「あら、起きた?」  管理人さんの声だった。ベッド脇の椅子で、目をこすっている。 声だけは、いつもと同じだった。張りのある、優しい声。 けれど、明るすぎる蛍光灯の下では、目のしたの隈までは、隠せない。  エプロンに眼鏡。いつもの管理人さんだった。 右手を吊っているほか、大きな怪我はなかった。 「管理人さん、無事だったんですね……」   ぼくは、喜ぶ。どこか他人事のように。   うるさくて、お節介なぼくが、ささやく。  メゾンの銃撃戦。あれが現実なら。  管理人さんは、ぼくが力を使うところを見たはずだ。  そして、恵が死んだことも、現実だ。  頭が痛い。余計なことまで考えられない。 「克綺クン……なかなか起きてこないから、心配しちゃった」  「ね、汗かいてない? 身体、拭いてあげようか?」   管理人さんの手には、白いタオルがあった。 「だいじょうぶです」  「じゃぁ、喉は、かわいた? 湯冷まし飲む?」  ここはどこですか? そう言おうと思った。 代わりに口をついて出たのは違う言葉だった。 「恵は……」   管理人さんが、目を伏せる。膝に置いた手が、タオルをちぎれるほどに握りしめる。  ぼくは、ぼんやりと思う。   そうか。やっぱり恵は死んだのか。 「ごめんね……」  管理人さんが、ぼくを抱きしめる。 「私、恵ちゃん、守れなかった」 「あんなにそばにいたのにね。私、動けなかった」  管理人さんの声は、嗚咽に消えた。  柔らかな胸に押しつけられて、痛いほど背中を抱きしめられて。 ぼくの胸では、金時計が、カチカチと時を刻んでいた。  恵が、死んだ。 そのことをぼくは、管理人さんほどにも、悲しんでいない。  そう思うと、少しだけ寂しかった。 でも、涙はでなかった。 「じゃ、これ、着替えね。また来るからね。何かあったらいつでも呼んでね」   そう言う管理人さんに、僕は機械的にうなずいた。  灯りを消し、僕は、闇の中に横たわる。   ひっそりと胸に手をあててみる。 掌に、鼓動は感じなかった。 昨日まで、そこにあふれていた熱いものは、影も形もなかった。   ──そうか。心臓を無くしたんだ。   その言葉が僕の脳に染みこむ。   秒針が、時を刻む。  僕は……今まで、どうやって生きていたんだっけ? これまで……イグニスに胸をえぐられ、心臓が脈打ち始める前。 僕は、確かに生きていた。時計の針に従って、心を乱さず、ただ、まっすぐに。   あの時は、心臓はなかったが……それは、ただの不便だった。歩く道を自分で選び、手と足を前に出すことで、僕は、生きていた。   今となっては、その時の気持ちさえ、思い出せない。 明日が、思い浮かばない。 ベッドを降りて、ゆきたいところも浮かばない。 恵は、もういない。  身体の力が抜けてゆく。手も、足も。 指の一本さえ動かせない。動かしたくない。 まぶただけが開いたまま、暗い天井を見つめていた。   秒針が、時を刻む。   生きていることと、死んでいること。 ただ横たわっていることの区別が、次第に曖昧になる。  病室の戸が、音もなく開いた時も、僕は、身動き一つしなかった。   足音はしなかった。 ただ、かすかな衣擦れの音と、空気が揺れる気配。   息を殺して患者に忍び寄る看護婦はいまい。 敵。危険。死。   ぼんやりと、そんな単語が浮かぶ。 けれど、それらは、単なる空虚な音の羅列だ。 手も足も、動かす気にはなれなかった。   腕が伸びる。僕の肩を掴む。                      「起きろ、克綺」 「イグニス……なのか?」  「すぐ支度をしろ。急いで、ここを出るぞ」  引っ張り起こされて、僕は、のろのろと身を起こした。 言われるままに、制服に袖を通す。 「恵のことは……すまなかった」  僕の背で、イグニスが、囁くようにいう。 「いいんだ」  ぞっとするほど平たい声だった。  パン、と音を立てて、頬が鳴った。イグニスだ。  僕の身体の中で、かすかな怒りが燻った。 にらむ僕を、イグニスは見下ろした。  「……目は覚めたか?」  「あぁ」  「ここがどこだか知ってるか?」   正直、どこでもよかった。 僕は首を振る。  「敵のまっただ中だ。ついてこい」  イグニスは、僕の手を引いて廊下に出る。 ドアの前には、白衣の医者と、看護婦が、倒れていた。 「これは?」 「敵だ」   イグニスが短く呟く。 ※5−6−1で、ストラス製薬の徴を見ていれば)→8−2−1へ※そうでなければ→8−2−2へ  倒れた医者の白衣に、ふと、目がゆく。 社章かなにかだろうか。どこかで見た覚えがある。 「この社章……あいつらと、同じだ」 「ストラス製薬の社章だからな」 「ストラス?」  聞いたことはある。 郊外にでかい建物を構えている会社が、その名前だったはずだ。 「ここは会社の管理する社員病院。 おまえを襲ったのは、ストラスの特殊部隊だ」 「社員病院? 特殊部隊?」 「耳を澄まして、ついてこい」  イグニスは歩きながら話し出す。 →8−3 「敵?」  「ストラスの社員だ」 「ストラス?」   聞いたことはある。 郊外にでかい建物を構えている会社が、その名前だったはずだ。  「ここは会社の管理する社員病院。 おまえを襲ったのは、ストラスの特殊部隊だ」 「社員病院? 特殊部隊?」  「耳を澄まして、ついてこい」   イグニスは歩きながら話し出す。 「魔物の存在に気づいている、人の組織は幾つかある。ストラスは、その一つだ」   イグニスは、小声で語り続ける。 複雑な廊下を曲がり、階段を探して降りる。  「製薬会社が?」  「〈四六〉《しろく》の〈蝦蟇〉《がま》を知らんのか? 薬効というのは、ほとんどの場合、植物や動物の一部から発見される。熱帯雨林のジャングルの中に、未知の薬草を求める狩人がいるのは知っているだろう」 「ストラスの場合、狩り場は都市。街の中に紛れ込んだ魔物だ。様々な魔物の生体反応から、薬効成分を抽出したのさ」  「人間……なんだな?」 「あぁ、そうだ」  「メゾンを襲ったのも、おまえをさらうつもりだったんだろう」 「イグニスは……あのあと、どうしたんだ?」 「生き延びたさ」   皮肉な口調は、変わりない。 「ついでに警察に通報しておいた。 やつらも、まともな警察の目の前で、人を拉致する権力はない」  「そこで救急車を出して、気絶したおまえを、この病院に運び込んだわけだ」  「……じゃぁ、ここは、本当に病院なんだな?」 「一応は、普通の病院としても営業している。だが、やつらの膝元であるには変わりがない」  「それより人間が、僕に、何の用があるんだ?」 「私の予想より、彼らの技術が進んでいた、ということだ」   イグニスは、苦々しく吐き捨てる。  「どういうことだ?」   言い終わるより早く、僕の口は手で、ふさがれた。  廊下の曲がり角の先から聞こえてきたのは重い靴音だった。  「力は使えるか?」   囁き声でイグニスが尋ねる。 僕は無言で首を振った。 「なら……ついてこい。離れるなよ」  イグニスが両手を交叉させた。指先には、月牙。 カーブを描いて飛ぶ月牙は、曲がり角の先に飛ぶ。  かすかな悲鳴と、人が倒れる音。肉だけでなく、金属の塊が床に落ちる重い音が響いた。 「いくぞ」  イグニスが走る。僕も、その後からついていく。  悲鳴が聞こえなかったのも道理。 四本の月牙は、見事に四人の喉を刺し貫いていた。 例の制服の男たちが、血の海に倒れている。  喉から血の泡を吹き、声にならない声でのたうつ男たちから、イグニスは、小銃を奪って肩にかける。  一人が月牙を引き抜いた。ホースのように血がしぶき、男が、がっくりと崩れ落ちる。  ──何も、感じない。   今、目の前で、男たちが死んでいるというのに、僕の胸にはさざなみ一つ立たなかった。 「ぉっ、おい、なんだぁ?!」 「きゃあああ!」  悲鳴が上がった。  扉から顔を出した、寝間着の男だ。なんだなんだと、他の扉も開いていく。 入院患者たちだろう。扉を閉めて部屋に逃げ帰る者もいれば、走り出す者もいる。  白衣の医者が駆け寄ってくる。 「どうしたんだ、君たち……」  血だまりの死体を見て、顔を蒼くする。 イグニスが、両手を挙げる。  走り寄る医者たちが、顔を蒼くしたまま銃を抜く。  銃声が轟く。 「うぉっ! なな、なにをっ……?」  悲鳴を上げて倒れたのは医者たちだった。喉に月牙が生えている。 「悪くない演技だ」   イグニスが吐き捨てる。 医者も、敵か。  「これからどうするんだ?」 「待て。そろそろだ」  「……3、2、1」   一階で、爆音が轟いた。  吹き抜けからのぞけば、真っ赤な炎が床を舐めるのが見える。  「患者を殺す気か?」  「非常口への通路は空けてある」   イグニスはそう言って走り出す。 「どこへ行くんだ?」 「出口は固められてるからな。屋上だ」   イグニスと僕は、廊下を奥へと走り出す。 「……地震か?」 「違うな」  足の下から突き上げる衝撃。廊下が揺れる。 ひときわ大きな揺れとともに、爆音が轟いた。  コンクリートの床を瓦礫に変えて、それが、現れた。 「無茶をするな」   イグニスが呆れたように呟いて、回れ右をした。  「おまえが言うか」   軽口を叩くのが精一杯だった。 巨人の姿は、僕の背筋に大きな悪寒をもたらしていた。 走ってイグニスの後を追いかける。 「どうするんだ、あれ?」 「騒ぐな。手はある」  イグニスがコートの中から取りだしたのは、ジッポライター――改造型の、手榴弾だった。 蓋と蓋の間を、一本のワイヤーがつないでいる。 「これなら弾けまい!」  ふたつ同時にホイールを押し回し、イグニスは手榴弾を投げる。  ぐるぐると回る手榴弾は、見事、巨人に絡みついた。 身体を揺らしたところで、ワイヤーは、なお深く食い込んだ。 「隠れろ!」  イグニスは病室のドアを開けて盾にした。 僕も、その脇に飛び込む。  爆音。そして一瞬後。 ドアを押さえる手に、鋭い音が響いた。 「ちっ無理か」  ドアには、金属片が無数に突き刺さっていた。 巨人の上半身が、ゆっくりと震えていた。爆発した手榴弾の破片を、残らず反射したわけか。 「次の手は?」 「用意はしてある」   手品のように、イグニスは、もう一つ手榴弾を取りだした。 さっきのものとは形が違う。  「……どう違うんだ?」 「見ていろ」   巨人の首に、再びロープが絡みついた。 うるさそうに、巨人がワイヤに手をやる次の瞬間。  ワイヤが千切れるより早く、巨人の上半身が火を吹いた。 火炎手榴弾というやつか。  粘着性の油脂が、黒煙を上げて燃え続ける。  巨人の全身が震動するが、炎はかえって酸素を取り込み、勢いよく燃えた。  巨人の震動が止まる。 そして、上半身を燃やしたまま、ゆっくりと歩き出した。 「次の手は?」 「まだない」  返事は明瞭だった。 どうすれば、あれを倒せる? 「克綺。あれについて分かったことを言え」 「衝撃を吸収、反射する。物理的な衝撃は、まず受け付けないと考えられる」 「それと?」 「熱と炎に強い」 「それだけか?」 「……そうか。少なくとも首では、呼吸をしていない」  黒煙を上げる炎に巻かれながら、巨人はゆっくりと近づいてくる。 少なくとも、窒息寸前には見えない。 「そうだな。となると、酸欠や毒ガスは効かない。打撲、斬撃、高温、窒息以外の攻撃手段は?」 「感電。溶解。中毒。冷凍。老衰。神経系へのショック」   思った単語を並べ立てる。 「ふむ……そうだな」   どこに賛同したのか、イグニスがうなずいた。 「なら、まとめていくか」  イグニスが、アンダースローで放ったのは発煙筒だった。  床を、白い煙が埋め尽くす。  手近の病室に僕とイグニスは飛び込んだ。薬品庫、と、プレートにはあった。  鍵のかかったガラス棚を、イグニスは、無造作に叩き割った。  茶色い薬瓶を取り出し、床に何本もぶちまける。   途端に、鼻をつく刺激臭がする。健康に悪そうだ。  床から、棚にまでまんべんなく薬品をぶちまけると、イグニスは、マッチで火をつけた。   火は、あっという間に燃え広がり、びっくりするほど大きな音を立てて、棚が次々に弾けてゆく。 部屋の片隅の大きなボンベを見て、イグニスは大きくうなずいた。  扉の裏で、僕たちは息を潜めて待つ。  廊下では煙が晴れる頃だ。あの、悠然とした足音が、再び響き始める。 巨人は、急がない。分かっているのは、それだけだ。 煙が晴れた時、僕らの姿がなければ、ドアを一つずつ開けて確認するだろう。 それが、付け目だ。   果たして、遠くでドアが開く音がした。再び足音。  そして、ドアの開く音。  徐々に近づく足音が、ドアにかかったその時。  僕は耳をふさいだ。今日、最大級の爆音が、廊下を、僕たちの部屋を、揺るがす。扉が破裂しそうな勢いで揺れるのを僕たちは必死で押さえた。 爆風が収まって、おそるおそる扉を開ける。  廊下は真っ暗だった。爆風が、この階の蛍光灯という蛍光灯を、残らずたたき割ったのだ。一階で燃えさかる火事が、真っ赤な光となって照らし出し、病院の一角を地獄の底のように見せる。 「……バックドラフトか」  僕は、ようやくイグニスの作戦を理解する。 薬品庫を火事にしたあと、イグニスが開けたボンベは、液体窒素だった。 そして僕らは、その隣の部屋に逃げ込んだのだった。  燃えさかる炎によって、薬品庫内の空気は高温に熱される。 だが、それと同時に、液体窒素が蒸発して床下にたまり、薬品庫の酸素をシャットアウトする。 発火点を超えた高温の状態で、炎だけが消える。  巨人が扉を開けた瞬間。 外の新鮮な酸素を受けて、文字通り爆発的な燃焼が起きたのだ。  巨人の姿は、どこにもなかった。 ドアの前の手すりは、吹き飛んでいた。床をえぐって二本の筋が、奈落の向こうへ続いていた。 「どうだ、吹っ飛んだか?」   イグニスが、淡々と尋ねる。 倒す必要はない。 屋上に出る時間稼ぎになればいいのだ。  「……イグニス、あれ!」   奈落の淵に、かすかに見えるのは、巨人の指だ。  「ちっ!」  鳥の啼く声を立てて月牙が飛ぶ。が、鋭い刃は、巨人の指一本に跳ね返された。 筋肉の軋む音がした。指一本で捕まった巨人が、全身を屈伸させて反動をつける。  思いがけない素早さで、巨人が廊下に飛び出す。 「克綺?」 「なんだ?」  「逃げるぞ!」   言われるまでもない。 僕とイグニスは全速力で駆け出した。  巨人は、燃えていた。火炎手榴弾の名残か、バックドラフトのせいか。 上半身は、真っ赤な炎を吹き上げ、暗い廊下の中に、くっきりと浮き上がっていた。  人間松明と化した巨人の足が止まる。 「動くな」   祈りの言葉が口をついてでる。  巨人が震える。今度ばかりは、苦悶のふるえに見えた。  ゆっくりと巨人が、膝をつく。 「よし!」   僕とイグニスが快哉の声をあげる。   巨人は、糸が切れたかのように前のめりに倒れた。 僕とイグニスは顔を見合わせると、恐る恐る巨人に近づいた。 横たわった巨人は動く気配がなかった。 その背には、大きな裂け目がある。その中は……なにもなかった。   空だ。殻だ。巨人の身体は空っぽだった。 「イグニス!」   叫んだ瞬間。  吐息のような音を立て、紅い闇が天井から降ってきた。 それは、赤黒い血糊の塊にみえた。   べちゃりと床に広がったそれは、瞬時に人の形をとると、関節を感じさせない滑らかな動きで床をすべり、そのままイグニスに飛びかかる。   紅い影の右腕が、振られる。その先端が鋭く尖った刃と化す。  イグニスは、その右腕を取って内懐に入った。うまい。   それた右腕は、半ばまで床にめりこむ。  イグニスの肘が閃く。 切り裂くように影の喉をえぐる。   影の喉が凹み、肘が通り過ぎると同時に、復元した。   その信じがたいほどの柔軟性と、水のような柔らかさは、巨人とうり二つだった。 やはり、こいつが中身か!  影の胸が波打った。  鋭い棘が突き出し、イグニスの胸をえぐる。  「ぐぁっ!」  悲鳴と同時に、血がしぶいた。 イグニスは、影の両肩をとって、そのまま後ろに倒れ込む。  ぴん、と両足が伸び、見事な巴投げが決まった。 影は、一瞬宙に舞い、奈落に向かって落下する。 「イグニス!」  僕は、近寄ってイグニスを助け起こす。 傷を確かめるためにコートを脱がせる。  僕は顔をしかめる。 硬貨ほどの穴が、いくつも腹に開いていた。 内臓を痛めていないとしても、出血だけで命に関わる傷だった。 「大丈夫か?」 「……痛っ」   イグニスが、ゆっくりと立ち上がる。血がどっと出る。 「じっとしてろ!」 「そうも、言ってられん、だろう」   声にはさすがに苦痛がにじみ出ていた。  「今、止血する。そうしたら背負ってやる」 「……いや、先にいけ」   イグニスの顔には、あの皮肉な笑みがあった。 「誰が!」  一階から爆発が響く。 ごぉっという音とともに炎が吹き上がり、闇の中のイグニスを照らし出した。 その右足を、紅い手が、しっかりと掴んでいた。 「急げ、このグズ」  イグニスは、思い切り、僕を突き飛ばし……次の瞬間、自ら、奈落に身を投じた。 紅い影が、その身体によじのぼるが、既に遅い。二人はもつれ合いながら、炎の深淵に消えてゆく。 「イグニーーース!」  喉の奥から、振り絞るように叫ぶ。 僕は走りながら、風を呼んだ。 ──来たれ、優しい南風よ。我が手の先のものを掴め! だが、風は、そよとも吹かなかった。  僕は、奈落に向かって右手を思い切り伸ばす。 ぴんと伸ばした指先が、イグニスの手に、かすかに触れる。  全身が痺れた。 時間が、止まる。指先に、どくどくと力が流れ込む。 人外の力。魔物の力。永劫の歳月が刻まれた禁じられた力は、僕の心臓から溢れ、身体を蝕み、心さえも苛む。  ブレーカーが落ちるように。 僕の意識は、一瞬で、闇に閉ざされた。 →9日目      たゆたっている。 それは暖かな水の中。 身も心も溶けてしまうような流れの中に。 たゆたっている。   かすかな波に、あらわれている。 柔らかな春風のように、頬に触れ、髪をくすぐり、背をすべる。      寄せては返し寄せては返し、寄せては返す波の中。 ずっと、そのまま、そうしていてもよかった。   目を開いたのは、なぜだっただろう。 上方から射すかすかな光のせいか。  それとも、波音にまぎれて聞こえてきた声のせいか。   声は泣き声だった。      小さな子供の泣き声。 火のついたような泣き声じゃない。 泣き疲れるほどに泣いて、しゃくりあげ、それでも、また、こらえきれずに、涙がとまらない。 かみ殺しても、目を押さえても、口からもれる、泣き声。 静かな静かな泣き声は、波を渡って、耳に届いた。   僕の耳に。      僕は、目を開け、そして、まばたいた。 瞳を水が痛めつける。 叫びをあげた口に、水が入る。 しょっぱい! 海か。僕は、海の中にいるのか。   不思議に息だけはできた。 あたりに満ちる水を、僕は、喉一杯に吸い込む。 体の中が、ほんのりと暖かくなった。  ゆらゆらと揺れる視界の向こうには、少女がいた。   両手で顔をおおい、背中を揺らして、少女は泣いた。   おそらくは、ずっと昔から。 そして、ずっと先まで。  ようやく気づく。 ここは……涙の海だ。   僕は、その涙の中にいる。 涙は、こんなにも暖かく、優しいのに。 なにが、そんなに悲しいのだろう。 わけもなく、僕の目が熱くなる。 涙があふれて、少女の涙とまじりあった。   僕は、泳いで、少女に近づいた。 「どうしたんだい? なにが、そんなに悲しいの?」   少女は、顔を伏せたまま。小さく首をふる。  「よかったら、話してくれない?」   少女の口が、かすかに動いた。 洩れる泡に僕は耳を傾ける。  「……死んじゃったの」   そう、聞こえた。 「誰が、死んだの?」  「みんな、みんな、死んじゃったの!」   少女が両手をはなす。 そのしたにあったのは、深紅に染まった二つの瞳。 泣きはらすうちに血の色に染まった、その目から、涙が、あふれる。       体が吹き飛ばされそうになる。 少女の慟哭と、涙の激流が、僕を吹き飛ばす。   両手を必死にかいて、両足を蹴った。 この子は、この海の底で……海ができるほどに、ずっと泣き続けていたのだ。 両手で顔をおおって。 その少女の真っ赤な目が、僕を見ている。 悲しみに削り尽くされた心が、僕を認めた。       だから、僕は、必死に泳ぐ。 肺に涙を吸い込んで、口から涙を吐き出して、一生懸命に体を伸ばす。   激流の中、前も見えやしないが、少女の差し伸べた手が、かすかに見える。 痛む体に鞭打って、最後の1センチを、僕は詰めた。 力の限り、右手を伸ばす。 指と指とが、からみあう。 その瞬間。  水が、涙が、血の色に変じた。      全身を、握りつぶされるようだった。 透きとおった涙は、いまや、ドロドロとした血糊となり、肌をぎりぎりとしめつけた。 目も耳も鼻も口も、容赦なく血が塗りつぶす。   喉に血が詰まって、僕は声を奪われた。 耳を貫く血の槍が、僕に声を聞かせた。      それは呪いの言葉だった。   己を滅ぼした者を呪っていた。 長い艶やかな髪を。白いうなじを。形のよい爪を。細いが力強い手足も、その皮肉っぽい笑みも、なにもかも。 それは、その両足が歩む大地を呪っていた。 腕の間につかむ者を呪っていた。 照りつける陽光が、過酷であれ、と。 ふりそそぐ風雪が、すべてを凍えさせよ、と。 それの見聞きする全てが、醜く、汚れた、あさましいものであれ、と、呪っていた。      それは悼みの言葉だった。   過ぎ去ったものを惜しみ、その美しさを哀しんでいた。 北極の地下に栄えたオーロラの王国を。 いかなる山々よりも高くそびえ立った螺旋の塔を。 蜘蛛女の紡いだ虹色の織物を。 月夜に踊る犬狼のステップを。 かつて存在し、今は滅び行く、すべてをいとおしんでいた。      それは嘆きの言葉だった。   触れるすべてが砂に変わる、己の定めを嘆いていた。 この世の、ありとあらゆる良き想いが、悲惨な終わりを迎えることを憎んでいた。      言葉。言葉。言葉。   無数の言葉が、がんじがらめに僕をしめつける。 言葉が僕を絞め殺す。 血肉も骨も搾り取り、呪いの一つに変えようとする。   肌という肌を血糊にまかれ、天地上下も分からず、力の込めようもなく、何の抵抗もできず、僕は、ただ、ぐずぐずと潰れてゆく。   そうなるはずだった。       けれど。 体の全部が縛られていたわけじゃない。 血糊の槍が触れ残したところが、一カ所だけあった。   それは右手の指先。 少女の指と、僕の指が触れた、その一点。 その一点に力を込めて、僕は、血糊の海を泳ぐ。       両手がわずかに動いた。動いたことが分かった。 それが分かれば、あとは簡単だ。 皮膚に貼り付いた血糊を、ひっぺがすように力を込める。   産毛が一本一本引き抜かれる鋭い痛み。 生皮がひっぱられ、ねじられる、痛み。 べりべりと音を立てて、皮膚が破れてゆく。 僕の血が噴き出し、まわりの血糊と拮抗する。 血で血を洗いながら、僕は、自由になった両手を大きく広げる。 その手に少女が触れる。          「話の続き……聞かせてくれるかな?」   赤い目の少女は、僕を見上げ、そして、うなずいた。 「……こんなところにいたのか」  聞き慣れた声が、耳朶をうつ。 紫電一閃。  血色の闇が、一直線に切り裂かれ、まぶしい光が、見えてきた。 「……イグニス?」  差し込んだ白い光の中で、僕は、腕の中の少女と、裂け目の向こうの顔を見比べた。 ……似ている?   イグニスが顔をしかめる。  「まだ、残ってたとはな」  長い刀を頭上に構え、問答無用に振り下ろすと。 腕の中の少女は、一刀両断に切り裂かれた。 右半身と左半身が、煙のように薄くなり、そして、消える。  あまりのことに、あっけにとられる。 イグニスの強い手が、僕の首根っこをつかみ、引っぱり出した。 「くだらないものを見るな。この覗き魔が」   いつも通りの憎まれ口。 けれど、声の調子が、かすかに、弱かった。   なにがなんだかわからないが──。  「さっきの、ひょっとしてイグニスか?」 「……忘れろ。今すぐ忘れろ」   刃の切っ先が、喉に触れる。  「いや、忘れるつもりはない。なんだか、説明してもらおうか」   僕がにらみかえすと、イグニスは困った顔をして──似合わない──ためいきをついた。 「まぁ、死んでから、見栄を張ってもしかたがないな」  「死んだ?」  僕は、ゆっくりと思い出す。  燃える病院。  その奈落に、巨人とともに落ちるイグニス。 「おまえが、これを見ているということは、私の魔力を吸い込んだ、ということだ」  「つまり、ここは……」  「私の記憶の中、というわけだ」   イグニスが笑う。いつもの皮肉な笑みよりも、少しだけ、素直な顔だった。 「可能性はあった」   イグニスは、ゆっくりと語り始める。  「おまえが、私の魔力を吸い込む場合だ。長生きだけはしているからな。おまえが私の記憶に呑み込まれて、我を見失う可能性があった」  「君は?」 「その時に備えて、準備をした。私という案内人を配置したわけだ」  「じゃぁ、君はイグニスじゃなくて……その、案内人?」 「厳密にいうなら、本人の記憶を元に合成された存在だ。しかしまぁ……たいした違いはなかろう。本体が死んでいるなら、なおさらだ」  「さっきの子は?」  「悪い思い出、というやつだ」  「説明……いや、案内してくれる?」  「してやるとも。時間は、たくさんある」  イグニスが手を差し出す。  虚空に、ゆっくりとテーブルが生まれた。 イグニスは、あの椅子に座る。 「さぁて、何から語ろうか」  「そうだな、まずは、r戦略、K戦略という言葉を知っているか?」  「聞いたことはないな」  「やれやれ……生態学を学んだことはないのか? 人の作った知識の成果だぞ?」   イグニスは、首を振ると、語りだした。 「あらゆる生物は、子孫を作る。 その時に、どんな方法で、個体数を増やすか、という戦略だ。 r戦略というのは、例えば、魚だな。 小さな卵を無数に作って放つ。 成長する割合は、そのうちのごくわずかだが、その分を数でカバーする。 数撃ちゃ当たる、という方法論だ」  「一方、K戦略というのは、人などの哺乳類に顕著だ。できるだけ能力の高い子供を少数生み、それらが、確実に成長するように育てる、というものだ」 「魚や虫みたいなのと、人や犬猫みたいなものか。 それが、どう関係あるんだ?」  「優れた理論は、様々な状況に適合する。この場合も、その例に漏れることはない」 「すこし歩こうか」  イグニスが差し伸べた手を僕は取る。 虚空の中に道ができ、闇の中に光が生じ、やがてそれは像を結んだ。  ……吹雪だ。 乾ききった氷雪が、縦横に吹雪いている。  思わず目をつぶると、途端に吹雪は消え失せた。 こわごわと目を開ける。 吹雪はそこにあった。 が、肌に触れはしなかった。音の一つもしない。 「過去の、幻だ」   どこまでが、幻なのだろう。 僕たち二人の足跡は、雪の上にくっきりと記された。 たちまち吹雪が、その跡を消してゆく。  「適切な環境があれば、生物の個体数は増殖する。しかし、そこにはおのずと上限がある。環境の限界だな」   生身の体であれば一瞬で凍り付くような吹雪の中を歩きながら、イグニスは、場違いなことを講義する。 「上限に達したところで、平衡が生じる。個体の数は、全体として増えも減りもせずに、安定する」  「一つの調和だな。 世代は進むが、何も、変わらない」  「なぁ、克綺。 この世に、調和と安定が存在するなら、進化がなぜ起きるか、知っているか?」   僕は、首をひねってから、答える。 「永劫に続く、安定なんて、ないからだろ?」  「その通りだ。 気候が変動すれば、環境が激変する。 飢饉が起きて、森の植物が根絶やしになることもある。 外来種が現れて、生態地位が入れ替わることもある。 遺伝子の変異が蓄積すれば、新たな能力を持つ子が産まれる」 「そんな様々な刺激で、調和は破壊され、しばらくして、再び、新たな調和が生まれる」  「人がいい例だな」   イグニスの口調には……かすかな憧れがあった。 「環境を激変させるだけなら、ビーバーでもやってのける。人間は技術の蓄積で、自覚的に環境を変化させる術を覚えた。道具を使って己の肉体的能力を書き換え、知識という形で、変異を蓄積し続ける」  「それが、どうしたんだ?」  「仮に、だ。すべての環境変化の要因を無視できる生物がいたとする。環境の変化を無視できるほどに完全に適応し、しかも、それ自体は一切変化することがない。そのうえ、他のあらゆる種を排除できるほど強力だ。K戦略の理想の形だ」 「そんな種があったとするなら、どうなる?」  「もし、そんな種があったのなら……時間が止まるな」   僕の答えに、イグニスは、大きくうなずいた。  「その昔、魔物とは、そんな存在だったのさ」   イグニスが足を止める。 視界をふさぐ吹雪の向こうに目をこらすと、ようやく、それが見えた。  目の前に、崖があった。 あまりにも垂直で切り立った、巨大な崖。 それは、あまりにも巨大で、一望するだけでは視野に収まりきらなかった。  左右を見渡せば、崖は地平線の彼方にまで続いて、かすかに丸くなっているのがわかる。  首をあげて天を見れば、それは、一本の糸に見えた。 遙か天空の彼方から、地上に垂れる一本の糸。 きらきらと水晶のように輝く、細い細い糸。  ゆっくりと首を落とせば、糸は、やがて、太さを増してゆく。 それが大地につく時には、地平線の端から端を覆う山となるのだ。  見つめるだけで、目が回った。 目の前にあるものの巨大さが、把握しきれないのだ。 「魔物というものは……魔力が形を持った存在だ。 私は、そう説明したか?」 「あぁ、聞いた気がする」  イグニスは、ゆっくりと氷の塔に近づく。 どこまでも広がる崖の真ん中に、音もなく巨大な裂け目が現れた。 高層ビル一つが入るほどの、巨大な裂け目だ。  雪の城に、僕たちは、ゆっくりと足を踏み入れた。  城の中は暗かった。 おそらく、この城に住む者には、灯りは要らなかったのだろう。 「表面的には、様々なことが言える。 我々は愛しあった。陰謀を企み、蹴落としあい、時には殺し合った。 美を愛で、詩を吟じ、絵画を描いた」  イグニスを中心に、かすかな光が広がってゆく。  巨大な城の中には、大小さまざまな柱が立っていた。 それらは、ある時はねじくれ、絡み合い、また、真っ直ぐに、天を目指している。  その柱の中に、僕にはかすかな姿が見えた。 ……翼持つ民。  イグニスのかざした灯りは、あまりにもささやかで、彼らの顔は見えなかった。 見えるのは、かすかなシルエット。 翼をふるわせ、かろやかに、柱を上下する影。  優美、という言葉が、これほどふさわしい者はいないだろう。 触れただけで砕け散るほどの、繊細な柱の中を、踊るように舞い進むその影は、思わず涙ぐみたくなるものがあった。 「けれど、結局のところ、我々は、調和していた。 安定していた。新しいものは生まれず、古いものが積み重なるだけだった」  我々、か。 イグニスの背に、うっすらと翼が見える。 「昔って、いつのことだ? 人間は、いたのか?」 「いたとも。それが、そもそもの問題だ」 「魔物、と、人が呼ぶ者が、当時の地球を統べていた。 魔力、というのは、つまり、意志で空間を左右できることだ。 意志力がぶつかりあい、空間を奪い合い、やがて、そこに均衡が生じる」 「人間は、どうだったんだい?」 「奴隷……というのも違うな。 芸を覚える動物。あるいは、蟻のようなもの。 そう思っていた」 「魔族は、退屈していたのだよ。 我々は、己の支配する空間においては、限りなく全能だ。 望むことは、即ち得ることだった。 唯一興奮することは、支配域を奪うことだが、何世代も前に、すべての力は完全に拮抗していた。何の変化もない日常というやつだ」 「そうなのか……」  僕は天を見上げる。 氷の城に天井はなかった。 見上げる限りの高みの先には、星の光が見えた。  翼ある民は、その星の間を飛び回る。 その様は、快活で、とても退屈していたようには見えなかった。 「人間は、恰好の退屈しのぎだった。なにせ人は、不器用だった。 何一つ、己の意志を通すことができなかった」 「水を飲もうとして井戸を掘れば、地盤が緩み、かえって洪水を招く。 子を護るために大地に種を蒔けば、子供が増えすぎて、かえって子を殺すことになった。  その一つ一つの仕草が、滑稽で、哀れで、面白かったのだよ」 「イグニスは? イグニスは、どう思ったんだ?」  イグニスは、その言葉には応えなかった。 「当初、人間は、まるきり魔力を持っていない、と、思われていた。 それ故に、数が増えることも黙認された。 人間が、転びながら前に進む様は、我々の、ほとんど唯一の娯楽だった」 「蟻の巣をいじったことはあるか? 行列を通せんぼし、乗り越える様を見つめたことが。巣の中に水を撒いて、這い出る蟻を笑ったことは。 無論、我々は、そうしたとも。 そうして悪戯がゆきすぎて絶滅に近づくことがあれば、無論、手を差し伸べて護り育てた」 「彼らは……いや、あなたたちは何なんだ?」 「言葉は、移り変わる。 当時ですら、人は、様々な言葉を持っていたのだからな。 とはいえ、彼らの言葉の内、我らを現す語彙は、今となっても無数の言葉に跡をとどめている。 訳すのであれば、これが適当だろう。神、あるいは、悪魔、だ」  僕は、うなずくにとどめた。 「そのうち、ある者が気づいた。人にも、ごく微弱な魔力がある、とな」 「そうなのか?」 「あぁ。気づかれないほどのものだから、たいした意味はない。一対一で立ち向かえば、どんな低級の魔族にも叶わないほどのものだ」 「だから、誰もが無視した。最初はな」  イグニスは、言葉を切る。 「魔物がK戦略の理想だといったな。人類はr戦略の体現者だったのだよ」 「r戦略? 数で勝負するほうか?」 「そうだ」 「魔物の個体は数少ない。魔力が大きいものから、大きな空間を切り取ってゆく。つまり、同じパイを、より少ない人数で切り分けるように、競争が進むわけだ」 「それが?」 「全盛期であっても、我らの民は、百に満たなかっただろう。もっと魔力の少ない下級の種族をあわせて数千、というところか。当時の人類の人口が、約一億。魔族は滅多に死なないが、人類は、たった数十年で全ての世代が入れ替わる」 「人類の、その無数の個体の中から、ごくわずかに、強力な魔力を持つ者が生まれることがある。その者は、人類という種族全体の持つ魔力の焦点となる力を持つのだ」 「それが、おまえだ」   何気なしにうなずいた僕は、いきなり指をさされて一歩下がった。  「僕が?」  「あぁ。おまえこそが、r戦略の切り札だ。確率論的にしか生まれない、凶悪な個体だ」  「それに……何の意味があるんだ?」 「計算の結果、人族全体の魔力が顕現した場合、この地上を占有することがわかった」 「我々には、二つの選択があった。一つは、人類を滅ぼすこと。もう一つは……生かしておいて、その強力な個体だけ、取り除くことだ」  「理性的な選択は、人類を滅ぼすことだっただろう。けれど、我々は、人を生かすことを選んだ。人類無しの生は、生きる価値がない、と、皆、判断したわけだな」  「それほどまでに、我々は、何も生み出さなかった。その時点で、我々は滅びていたのかも知れない」  イグニスの目は伏せられ、何の表情も読めなかった。  「我々は待ち、探した。人の中に生まれ、強大な魔力を持つ者を」   イグニスは遠くを見るように語りだした。  「そう、私は探したのだ」  「我々は、悠久の時間に生きていた。人にとっての数十年が、〈須臾〉《しゅま》の〈間〉《ま》だ。人が蟻の営みを見るように、我々は人の営みを見ていた」 「けれど、蟻を見下ろすだけでは、一匹一匹の蟻のことなどわからない。そこで、私は、人に混じることを選んだ。人と同じ目線で、人と同じ時間に生きることを選んだ」  「そうして、私は見つけた。魔力を持つ突然変異……門を開く者だ」   「最初に見かけた時は、幼子だった。 ハシバミ色の目をしていて、よく笑う子だった。 細く長い指で、粗末な小刀を使って、どんな不思議な形でも作りだした。 争いは嫌いで、焚き火の回りで歌を歌うのが好きだった」  「私は、力と翼を隠し、部族の守り神となった。 彼らと共に寝起きし、その願いに耳を傾けた。 情が移った、というのだろう? 彼らと同じ時間を生きる内に、私は、彼らに魅了された」  「言葉を学ぶ手間はかけなかったが、彼らの望みを理解することは簡単だった。 それは、あまりにもちっぽけでわかりやすいものだ」       「畑に実りをもたらしたまえ。 我らの子らより、獣を遠ざけたまえ。 私は力を使った。たった、それだけのことで、彼らは幸せになるのだった。そして、それは、直に、私自身の幸せともなった。 彼らの生き死にが、我がことのように感じられるようになった。それらは、この千年で、私が初めて感じる愛しさ、というものだった」    「人の人たる所以は、己の分際をわきまえぬことだ。限界を見ようともせず、ただ、闇雲に、突っ走る」  「その頃、人族は、発展期にあった。神の鉄槌……我らの干渉が一時的に止み、どんどん数を増やしていた。そして、人は忘れてはいなかった。己の同胞が、ただ、楽しみのためにだけ、獣に喰われ、火に焼かれたことを」  「彼らは、神々に抗うことを決意した。愚かなことだ。魔力の一つもない人間が、多少の武器を握って、それで、神に逆らおうとしたのだ」       「彼らの叛乱自体に、私以外の神は気づいていなかった。気づいていたとしても放置しただろう。種が力を合わせて無益な試みをすることほど、悲惨で、哀れで、滑稽なものはない」  「ほんの数十年の内に、鉄の船が造られ、海にでた。 そこには、人族最高の戦士が乗りくむことになった」  「ハシバミ色の目をした若者も、それに乗り組むことを選んだ」    「私は止めようとした。女神として。言葉は通じなくとも、その無謀さを、無意味さを、教えようとした。わかってくれた、とは思う」  「彼は笑った」  「言葉をつぶやいた。男と女が婚礼の時にかわす言葉を。そして私の手を取り、引っ張ったのだ」  「彼は信じ切っていた。部族を護る私が助けてくれることを。あるいはせめて、祝福をくだすことを。私こそが、残酷な神々の一人であるとは思ってもいなかった」  「そうして、私は手を貸した」 「結局のところ、私は自分を偽っていた。当時の人族は、まだ甘く、私が手を貸せねば、氷雪の地に辿り着くこともままならなかっただろう。人類が自滅するよりも、手を貸して、途中まで導いたほうが、娯楽としては面白い。そう言い聞かせた」   イグニスは、城の入り口に手を振った。  「聞こえるか?」   聞こえる。かすかな叫びが。 人間たちの〈鬨〉《とき》の声。 やがて、彼らが、入ってきた。  それは、ちっぽけな軍勢だった。 地平線から地平線まで広がる城の中で、小さな染みにしかみえなかった。 毛皮をまとい、貧弱な武器を構え、それでも、彼らの意気は軒昂だった。 なぜならば──。   先頭には、女がいた。 民衆を導く解放の女神。  「……イグニス」 「何度も、途中で、置き去りにしようと思った。彼ら全員を無理矢理にでも故郷に送り返そうとも思った。だが、私は、ここまで来てしまった」   天を舞う者たちが、一斉に動きを止めた。その容赦ない視線が、下界に注がれる。   虐殺が、はじまった。   男達は、投げ槍を投じた。 弓を構え、天に向けて狙い撃った。 投石機が組み立てられ、たわんだ腕が岩を投げ挙げた。 その武器は、天に届きさえしなかった。 翼ある民は、あまりにも遠かった。   天が歪み、雷鳴が轟いた。 虹色に輝くオーロラが獣の形を成し、六本の首と四本の爪で男達を引き裂いた。   男達は、逃げなかった。 冷静に戦い、陣を崩さずに、武器を放ち続けた。   先頭で声をはりあげるのは、若者だった。 雪に焼けた肌の中で、ハシバミ色の目が輝いていた。 どれだけ同胞が血を流しても、彼は叱咤し続けた。   男のそばに寄り添う女神。 なぶるようにふりそそぐ雷も、七色の獣も、男に触れることだけはない。 しかし、それだけだった。   次第に、男の顔に絶望と焦燥が現れ始めた。 懇願するように女神を見る。 圧倒的な力を前に、部下達も浮き足立っていた。 だが、逃げようとする者を、雷は優先的に狙う。 男たちの目に、自暴自棄の色が現れ始めた。   彼らを護るイグニスも、無事ではいられなかった。 本性を隠したイグニスを、翼の民たちは、容赦なく嬲った。 それはイグニスが本性を現すことを望んでいるように見えたし、あるいはただ単に、本性を現さない内に殺し尽くすつもりだったのかもしれない。   いずれにせよ、女神の額には、かすかな汗が生じ、その肌にも傷が現れる。 「やつが私に助けを求めたら、私は嗤ってやるつもりだった。だから言っただろう、と。人の身で神に戦いを挑む不遜な者よ、と。それで、すべては終わり。かくも長く時間をかけて見せ物を準備した私は、我らの中で大いなる地位を得ただろう」  「けれど、あの時……」   男は女神の前に立った。 両手を広げて。雷電の前に。 真っ赤な光が弾けて、男は枯れ木のように打ち倒された。 「私は誤解していたことに気づいた。彼が心配していたことは、自らのちっぽけな冒険での結末ではなかった。死地に、私を連れ込んだことこそを後悔していたのだ」   そう語るイグニスの声は、静かで、そして力がこもっていた。  「そこで、私は、裏切りを冒した。 史上最大の裏切りを」  女神が光を発すると、あたりに舞う雷電が一瞬でかききえた。 静寂の中で、女神は倒れた男を抱き起こした。 その耳に、かすかに囁く。   黒こげの、もはや人とは言えない男の首が二、三度、上下する。 「男の願いを、私は、叶えた。 眠れる力を呼び覚まし、門を開くのを手伝った」   再び雷電が落ち、イグニスの体を燃え上がらせる。 その手の中で、男の体は燃え尽きた。 生き残りの男達も、すべて、炭となり、獣に引き裂かれている。 「その日、一つの審判がくだされたことを、私だけが知っていた」  「そして、私は、城から去った」   女神の姿が消えると、城は、再び、静寂に閉ざされた。  「男は、何を望んだのだ?」  「あぁ、彼は……神々のいない世界を望んだのさ」  音が聞こえた。無音の、幻の世界に、今、はじめて音が聞こえた。  足下が震え始める。  男とイグニスを中心に、虹色の光が弾けた。 それは、一瞬で城全体を覆い、その外にまで広がってゆく。  足下の床に、かすかな亀裂が走り始めた。  唐突に、亀裂が止まった。 氷の城全体が掻き消えて、元の虚空に消える。 「すまない……これを思い出すのは、つらいのだ」   そう言ったイグニスの目には、涙があった。  「男達のせいで、地球は変わった。 人族の魔力は、我らの魔力を打ち消し、魔力を打ち消された我らは、存在自体が不可能となった」  「じゃぁイグニスは?」 「私は、全ての力を封じて、人として生きることを選んだ。我が同族で、その道を選んだ者は、いなかった」  「そう……」 「神々が消えたことで、下級の魔族は一時的に繁栄した。彼らは、その魔力で、人々を怯えさせ、夜に支配した。けれど、それさえも一時的なものだった。人とともにある限り、彼らの魔力は弱まり、やがて、消え去る運命だったからだ」  「じゃぁ……人の魔力は、魔力を消し去る、という魔力だったのか?」  「そういうことだ」   イグニスは、うなずく。 「そして、おまえには、それを変える力がある」  「僕に?」  「おまえは、全人類の魔力の焦点となる者だ。 全ては、おまえに任されている」  イグニスの声が、段々と遠くなる。  目が覚めたのは、夕刻。 駅前の繁華街、その路地裏の隅っこだった。  どこをどう逃げたのか、制服は、あちこち穴が開いていて、生ゴミの匂いが染みていたが、傷はなかった。  生きていた。 頭痛がした。 昔、峰雪に騙されて焼酎を飲まされた時の、翌日。その二日酔いみたいだ。  胸に手を当て、金時計を確かめる。秒針の刻みが、僕を落ち着かせた。  頭が、ぐるぐるしていた。 多分、こんなところで休んでいる場合じゃないんだろう。 彼らは……あの制服の男たちは、僕を捜しているはずだ。 今すぐ逃げなきゃいけない。  カチカチカチ、と、時計の秒針が時を刻む。僕の中の歯車は、動け、と言った。 けれど、手も足も胴も怠け者で、全然歩こうとはしなかった。 錆び付いた人形みたいだ。 ネジを巻かれても、軋むだけ。いずれゼンマイがはじけ飛ぶ。  夕日がまぶしいけど、顔をそらす元気もなく、僕は、目を閉じた。 ふと、その光がさえぎられる。  目を上げた。見慣れた傘があった。 「そんなところに寝てると、風邪、引きますよ?」  少女が手を差し出す。 僕は、その手を取らなかった。身体中が重かった。 「……来る頃だと思っていた」 「何がです?」 「お迎えなんだろう?」   そう言うと、少女は困った顔をして、笑った。 「仕事じゃありません。今日は、友達として来ました。迷惑でしたか?」  僕は、なにもかもおっくうで首を振った。 「どうして、こんなところへ?」 「通りすがりです。道を歩いていたら、このあたりから泣き声が聞こえたんです」 「泣き声? 誰の?」  少女は、指を伸ばして、僕の頬に触れる。  「誰のだと思います?」   触れられて、はじめて気づいた。 僕の頬は濡れていた。 目から、とめどなく滴る、涙。   気づくと同時に、せきを切ったように涙があふれた。 喉から、ひっきりなしに嗚咽がでる。 「立てます?」  僕は無言でうなずいた。 しばらく、奥歯を噛みしめて、涙を止める。 はじめて触れる少女の手は、暖かかった。それが、少しだけ意外だった。 「久しぶりですね」  「そうかな。すぐ前に会った気もするけど」  「そうですか?」   僕たちは、笑いあう。 彼女の名前さえも知らないのに、ずっと昔からの知り合いみたいな気がした。 「どうして、泣いていたんですか?」 「どうしてだろうな」   僕は、考える。 何が悲しいのだろう。恵が死んだこと。イグニスが消えたこと。そして……。  「あ、気にしないでください。泣くのに理由なんか、いりませんもの」 「そうなのか? 僕は、てっきり悲しいから泣くものだと思ってた」 「あら、違いますよ。人は、泣いてるうちに、悲しかったことを思い出すんです」   少女の言葉は、鳥の羽のようにかろやかだけれども、胸の奥に響いた。  「泣いている内に悲しくなったら、また泣くじゃないか」 「いつかは泣き疲れます。涙がなくなれば、悲しい気分も、どっかに行くものですよ」 「泣かなくなると、悲しくなくなる、ってことかい?」  「そうです。だから、人は泣くんですよ」  「簡単にできてるもんだな。人間って」  「簡単なほうが、いいこともあるんですよ」   そう言って少女は笑った。傘が、黒い傘が、くるくると回る。  「さ、涙はとまりました?」   僕は頬に触れた。涙は、とまっていた。 「悲しかったことを、思い出したよ」   僕は、ゆっくりと話し出す。  「妹がいたんだ。恵って。知ってるかな?」   少女は、うなずいた。どこか、すまなそうに。  「そうか……知ってるよね」  「恵は、こっちに来てから、怒ってばかりいた。僕は、ろくに恵と話す時間も作らなかった。こうと知っていれば……」 「克綺さんにも、事情があったのでしょう?」  「事情? くだらない勢力争いに巻き込まれただけだ。魔物も……それから人間も、僕の力が欲しくて仕方がないやつがいるらしい。そのために僕は、人も、殺した」   そう言って、僕は、気分を悪くする。 少女の手が、やさしく僕を包む。  「そして……恵を殺してしまった。僕には、世界を変える力があるそうだ。冗談じゃない。そんな力のせいで……恵が」   わきあがる怒りと裏腹に、奇妙な虚無感と、安堵が、僕を包んでいた。 「僕の力は……イグニスの言う通りなら、危険すぎる」  「僕は……いないほうが、いいのかもしれない」   僕の胸の奥で、あの、意地悪い声が聞こえた。 ──そんな殊勝なことを本気で思っているのか? 僕は首を振る。 そうじゃない。 ──おまえは、何もかも投げ出して休みたいだけだ。ついでに、恵を殺したやつらの鼻をあかせればいいと思っている。 そうさ。それの何が悪い。  「今、ここで死ねば、その両方が叶う」  僕は少女に向きなおる。 少女は、口をつぐんだ。そして悲しい目で、僕を見た。 僕は、構わず、彼女の手を取る。  「お願いだ。連れて行ってくれ。向こうに行けば、恵と会えるんだろう?」   握った手は、氷のように冷たかった。 少女が、僕の手を振りほどく。 「どうして? 僕のために来てくれたんじゃないのか!?」  「言ったでしょう。私は、通りすがりです」   どこか遠く、表通りから、救急車のサイレンが聞こえる。  「さっき、向こうで交通事故があって、それで通りかかったんです。そうしたら克綺さんの泣いてる声が聞こえて。それだけです」  「そう、なのか……僕は、てっきり」 「克綺さんは、何も知らないんですね。私が、仕事で来たと思ってたんですか?」  「あぁ……」  「生きてる人のところにゆくわけがないじゃないですか」  「そうなのかい?」  「えぇ。私がみなさんのところに行くんじゃないんです。みなさんが、私のところに来るんです。……まぁ、たまに迷われる方もいますけど」 「だから、私が、今ここにいるのは、仕事とは関係ないです。ただ、克綺さんが気落ちしてたみたいだから、お話に来ただけです」  「これだけは言っておきます」   少女は、精一杯怖い顔を作る。指を立てて、振ってみせる。  「私を、理由にしないでくださいね」   歳の離れた姉にうなずくように、僕は、首を縦にふっていた。 「少し、元気はでました?」   出るわけがない。何も事情は変わっていないし、肩と背に、重いものがのっかったような気分もそのままだ。 だけど、それでも、僕は、うなずいた。 うなずいて、嘘をつくくらいの元気はある。そういうことか。 「それじゃぁ……また」   考えようによっては、限りなく不吉な挨拶は、とても暖かい声だった。  「あぁ、また会おう」  僕は、一つうなずいて、彼女の背に手を振った。 傘が、くるりくるりと回る。 夕闇の中に、回る傘が溶けていくのを、僕は手を振って見送った。  我に返れば、夜の中に一人。風は冷たく、疲れは大きかった。 いまさらながら、腹が減っていることに気づく。 管理人さんがいたら……。  反射的にそう思って、ふと、管理人さんの安否が気になった。 管理人さんは、今、どうしているのだろう? やつらが管理人さんを人質に取ったとしたら?  そこまで考えて、僕は苦笑する。飯の心配をしてから、人の心配をするとは、僕という人間は現金にできている。 ──簡単なほうが、いいこともあるんですよ。 少女の声が耳に蘇る。  あぁ、きっとそうなのだろう。 僕という人間は、欲望の歯車で動いている。人の命の心配よりも、自分の飯のほうが大切で、それは、多分、そういう風にできているからなのだ。  だからといって、何もできないわけじゃない。 僕は、管理人さんのことを強く胸に思い描いた。 あの制服の男達。そして巨人。それと戦った末に、管理人さんのご飯が待っていると思う。  僕の身体に、元気がよみがえった。ひどく現金で単純な身体だ。だが、それが、ありがたい。  ようやく、頭が回り始めた。  僕が生き延びるなら……生きて管理人さんのご飯を食べるのであれば。  ストラス製薬と対決する必要がある。 逃げ続けることは難しい。ストラス以外にも、僕の力を求める者は数多いだろう。  であるなら、僕は示さなくてはならない。僕を相手取ることの意味を。 誰もが二度と、僕を追う気にならないように。  路地裏でいじけていた子供が、大企業に一矢報いる。 馬鹿げた誇大妄想だ。僕は笑う。その笑いさえ、僕を奮い立たせる力となる。  胸に手を当てれば、心臓が脈打ち始めていた。   ここに、力がある。  まだ、弱い力だ。魔物を倒すことはできても、恵を守ることも、あの巨人に勝つこともできない。 けれど、力というものは使いようだ。これだけあればまずは十分だ。  僕は、ストラスについて知らなくてはいけない。 イグニスがいれば、知恵をもらうところだ。 でも、今は、イグニスはいない。  彼女に匹敵する知識と影響力の持ち主。   思い当たるのは、一人だけだった。  時刻は午後7時。微妙な時間だ。 すでに校門は閉まっていたが、ちらほらと学生の姿はある。 久々に見る校門が、懐かしかった。その先にあるグラウンドは、聖地に思えた。 ほんの数日のことなのに、何年も会っていないような気がした。  衝動的に教室に行きたくなった。自分の机の端に刻まれた、小さな落書きを確かめたくなった。 僕は、息を吸って、心を落ち着ける。 今は目立ってる場合じゃない。行く場所は、そっちじゃない。 「おい」  顔をしかめる。 今、一番、聞きたくない声だった。 「どうしたよ、学校休んで」  峰雪の声に、僕は、仕方なく振り返る。 「やぁ」  「……ひでぇ恰好だな。なにがあった?」  「峰雪、よく聞いてくれ」 「なんだ?」  「頼みたいことは二つある。まず、メルクリアーリ先生の居場所を聞きたい。それと、上着を取り替えてくれ」 「……説明する気はねぇのか?」  「ない」   峰雪は、一瞬、殴りそうな目で僕を見つめた。僕も精一杯の力でにらみ返す。  「おまえ、前に、事情を説明してくれるって言わなかったか?」  「恵の次にな」  「恵ちゃんには打ち明けたのか?」  僕の握りしめた拳が、峰雪をぶん殴った。 鈍い音がして、峰雪がさがる。その目に凶暴な色が宿った。 「逆ギレか?」  これ以上ないくらい、理不尽な行動だった。 殴る理由も意味も全くない。峰雪は何も悪くない。  自己嫌悪の波が全身を洗った。 あやまる言葉すら思いつかず、僕は、その場に立ち尽くした。  峰雪は無言で上着をぬぐ。 僕が身構えると、やつは、自分の上着から財布を抜き出した。 そのまま、すっと上着を差しだす。 「ほらよ、持ってけ」 「あぁ」  てっきり殴られると思った僕は、それしか言えなかった。  ぼろぼろの上着をぬいで、峰雪のものと取り替える。 「いっとくが、この一発は貸しだかんな」   その言葉が、戻ってこいよ、と、聞こえた。 熱いものが胸にこみあげる。  「メルなら、まだ、職員室にいたぜ」  「ありがとう」   僕は、やっと、それだけ言った。 「峰雪……」  「どした?」  「いや、いい。それじゃぁ、また」  妙な顔をする峰雪を置き去りにして、僕は職員室へ走り出す。 こう言いたかったのだ。   ──心臓があるのはいいものだな。  廊下を走り、トイレに入って、最後にもう一度、自分の姿を確認した。 上着は峰雪のものだから問題ない。ズボンは、多少、傷が目立つが、見とがめられるほどではない。転んだとでも言い訳しよう。目につく泥だけはたいておく。  髪は、乾いた血糊で固まっていた。固まった部分に櫛を入れると、毛が何本も抜けて痛かった。  最低限の身だしなみを整えて、僕は、職員室に入る。 「失礼します」  メル神父の机は、職員室の隅にあった。 「あぁ、九門君。待っていましたよ」   そう言われても、いまさら驚くようなことはなかった。  「相談があるのですけれども」 「ふむ……こみいった話ですか?」  「はい」 「じゃぁ、場所を変えましょう。 礼拝堂に行きましょうか?」   何気ない言葉に、僕は、身を固くした。 ゆっくりとうなずく。  「……お願いします」  校庭に出てから礼拝堂につくまで、僕は、一言も口を利かなかった。メル神父も、あえて声をかけはしなかった。  吸血鬼メルクリアーリ。  イグニスのいない今、僕と、裏社会のつながりは、彼だけだ。  ──叩けよさらば開かれん その言葉の通り、本来、教会の扉は、常に開いているものらしい。 神の国への扉は、誰にでも開かれているべき、というわけだ。  さすがに、物騒な地域では、そうも言ってられずに鍵をかけることもあるそうだが、ここは違った。 神父が戸口を押すと、それは音もなく内に開いた。 「中へどうぞ」 →9−6  蝋燭を掲げた神父が、階段を降りる。 黄色い炎につれて、ゆらゆらと揺れる影は、どこか原初的な恐怖を誘うものがあった。  「どこまで降りるんですか?」 「しばらく先です」   地下への階段は、別に隠されているわけでもなく、廊下の隅にあった。 それにしても、ずいぶん長い階段だ。  「いつのまに、こんな階段を作ったんです?」 「最初からありましたよ。教会には地下室がつきものですしね」  「もっとも、最初は、もっと小さな物置でした。もっぱら本と、漬け物を置いてましたね」  「漬け物?」 「ええ。毎年、梅干しをつけてましてね。うちで漬ける梅は評判がいいんですよ」   真っ赤な梅干しの汁を口から滴らせる神父を想像して、僕はげんなりした。  「それから住人が増えてきたので、こっそり増築しました。さぁ、ここです」  階段のどんづまりに両開きの扉がある。 神父が、蝋燭を僕に預け、両手で、その扉を押した。  湿った、夜の風の匂いが漂ってきた。 学校の校庭ほどもある広間が、そこにはあった。これを人知れず「増築」したというのなら、人ならぬ技を使ったのだろう。  その間に、規則正しく並べられた、石の棺。 目算で、百かける百はあるから……一万人の吸血鬼? 「地下墓地、というやつですよ」  「あの全部に……仲間が?」   神父は首を振る。  「ほとんどは、空です。なにせ棺桶ですからね。主が滅びれば、墓標代わりになります」  「ここで、始めるんですか?」   風が騒いでいた。棺桶の中には、無数の命が感じられる。 もしも、彼らが一度に僕を襲ったら? 「……勘違いしていませんか? ここは寝室ですよ。うるさくして皆を起こすつもりはありません」   僕は警戒を解かない。風に耳を澄ます。  「大事な話があると思ったので、安全な場所に来たまでですよ」   メルクリアーリ神父の様子は、完全にリラックスしていた。 「あなたがたが、僕を襲わない理由が思いつかない」 「……というと?」  「僕の魔力を狙うために」 「なるほど」   メル神父は腕を組んだ。  「では、どうして、あなたは、こんなところまで来たんです?」  「思い知らせる必要がありました」 「イグニスは言っていた。僕は、この先の人生、魔力を狙う魔物と戦い続ける必要がある。 であるなら。僕の守りは逃げることじゃありません。戦うことです。 戦って、僕を狙うことは高くつく、と、知らしめる」  「……我々と戦うつもりできたわけですか?」   僕は、無言でうなずいた。   神父は、困った顔で首を振った。 「うぬぼれるな小僧」   首筋に、冷たい鋼。 僕は悲鳴をかみ殺す。  次の瞬間、強い力が僕の腕をねじりあげる。   周りの気配はずっとうかがっていた。風はそよとも揺れなかったのに。 肩がきしむ。  「雪典さん、それくらいで結構です。 さがってください」  腕が放され、背後の気配が瞬時に消えた。  「失敬。九門君の覚悟はわかりましたが、我々にも守るべき評判はありましてね」  「あなたの魔力は強大ですが、所詮は、人の身体です。忠告ですが、あまり力を過信しないように」   僕は、背に流れる冷たい汗にじっと耐えていた。 「で、用件はそれだけですか?」   僕は、かぶりを振る。  「思い知らせたい相手が、まだある」  「ストラスですか?」   吸血鬼の瞳が、妖しく光った。   僕は、うなずいた。  これは賭けだった。吸血鬼がストラスに親しければ、僕を売って罠にかけるだろう。   もっとも、僕のほうにはたいして失うものはない。どのみち彼らは僕を待って準備をしているだろうから。  「僕と彼らがつぶし合えば、あなたにも損はないはずでしょう」  「社屋の住所と間取り、潜入路くらいは教えられます。携帯にメールしておきましょう」   吸血鬼は、かすかに息をつく。 「感謝します」 「どういたしまして。これは取引ですからね。くれぐれも死なないでくださいよ」  「努力します。保証は、できませんが」  「それにしてもあなたは……なぜ、僕を殺さないんです?」  「九門君。あなたは、自分で思うより大きな護りがあるのですよ」 「イグニスのことですか? 彼女は死にましたよ」  「あの性悪女が? ほう。それはめでたい、と言いたいところですが……」  「あなたは、まだ、魔物が死ぬ、ということをわかっていないようですね」  「といいますと?」 「魔力とは、そこに存在しようとする意志です。意志が尽きない限り、魔物は決して滅びはしません」  「つまり、あきらめの悪さが肝心ってことです。 私には、あの女が、何かをあきらめるところが想像つかないのですよ」   僕は、かぶりをふる。  「僕には、その魔力自体を吸い取る力があります」   メルクリアーリ神父は笑った。 「イグニスの魔力を? 全部? そんなことができたとしたら、あなたは、今頃、人の形をしてないはずですよ」   イグニスが生きている。 その言葉は、僕の胸に染み通る。  「どうしたら……帰ってきますか?」  「死体を探しなさい」   神父は言う。  「ストラスに倒されたのなら、おそらく死体は回収、封印されているでしょう」 「それを取り戻せば、帰ってくるんですか?」  「ええ、いつかは」  「大きな傷を受けた魔族は、じっと待つことで力を蓄えるものです。彼女が、どれだけの力を失って、癒えるまでにどれほどかかるかは、神のみぞ知る、です」  来た道を逆に戻り、僕は、礼拝堂に戻る。 「これをあげましょう」   神父が放ったのは、学校の校章だった。  「襟につけておきなさい」 「なんですか?」  「ピンに毒が塗ってあります。楽に死ねますよ」   そう言って神父は眼鏡に触れた。 「我々は、世界が変わることを望んでいないのですよ」  「長年、人と暮らしてきましたからね。 大規模な変化は手に余ります」  「あなたが戦って死ぬならよし。万一、彼らの手に落ちることがあったら、それを使ってください」   言われることは納得できる。僕としても、死ぬならともかく、彼らが世界を変える道具とされるのは耐えられない。 けれど。  僕は、校章を投げ返した。 「せっかくですが、いりません。僕は、負けるつもりも、死ぬつもりもありません」  「お好きなように」   神父は、首をすくめた。 「あぁ、それと……」   背を向けた僕に、思い出したように神父が声をかけた。  「今日の授業、宿題が出てますよ。木曜の授業までに、きちんと提出してください」  「わかりました。では、さようなら、先生」  「さようなら、九門君」  九門克綺を送り出して、メルクリアーリは、ふと、振り返る。 「そんなところで、どうしたんですか?」 「……」  影の中に生徒がいた。背の高い男子生徒。見覚えのある顔だ。 ただでさえ柄の悪い顔一杯に、少年は渋面を浮かべていた。 すごんでいるつもりとすれば、微笑ましい。 「ちょっと聞きてぇことがあるんだけどよ」  「先生、でしょう?」   メルクリアーリは、にこやかに笑った。  「メルクリアーリ先生」   峰雪は、歯の間から絞り出すように、そう言った。 「九門君のことですか?」  「決まってんだろ」   その剣幕に、メルクリアーリは、肩をすくめた。  「仕方ありませんね。中へどうぞ」  神父に続き、峰雪が礼拝所に入る。  扉が、ゆっくりと、閉まった。  ストラス製薬の本社……メル神父によれば、拠点となる基地は、郊外にあった。 距離的には電車かバスでゆく距離だが、僕は、徒歩を選んだ。  駅やバス停には、彼らの目が光っているだろう。 徒歩でいけば、少しは、ましかもしれない。  幸い、魔力は復活していた。 両の足に風をまとって、僕は走る。 人混みの中をすりぬけて走っても、誰一人振り返りもしない。 つむじ風の速さで、音を立てずに走るものを、人は見ないと知った。  風に追いすがる風が一つ。 音も立てず、空気も乱さず、それでも一筋の風が、僕の後ろにあった。  僕は速度をあげた。 下り坂を、落下するより速く走る。そのままスピードを落とさずに大通りに入り、車の間を縫うように渡る。  対向車線を逆走し、ビルの壁面を走る。 どれほど危険な道を辿っても、その気配は振り落とせなかった。 しかも着実に、一歩ずつ、距離を縮めてくる。  仕方がない。  僕は、大通りから道をそれた。  郊外に出て、森の中に入り、立ち止まった。  心臓に手を当てて力を引き出し、両手に風を握る。 風の先を糸に織り、鉄鋼よりも強靱な鞭と化す。  両手を振りかぶり、音速で飛来する気配に思い切り叩きつける。  蜘蛛の巣よりも細く、鋼線よりも靱い糸が巻き付く……捕らえた、と思った瞬間、指先が引っ張られた。  手から、風が奪われる。こんなことはあるのだろうか?   人影は、コマのようにくるくると回り、僕の手にした風を根こそぎ奪い取った。  回転が止まった時。 そこに少女がいた。 さやさやと木の葉が鳴る。 尖った耳が、ピンと、こっちを向く。構えた腕に爪が光った。 「久しぶりだね、カツキ。ボクの力を返してもらうよ」     狼の喉から洩れる唸り声。 僕が腕をあげるよりも速く、つむじ風が走る。  喉には尖った爪があてられていた。  「あの女は、どこにいる?」  「……イグニスか?」   少女はうなずく。  「ボクを殺したヤツ」  「殺されたよ」  ふっと殺気が和らいだ。 爪が引っ込まれる。 「なぁんだ。ボクは、てっきり君があいつと組んでるのかと思った」 「色々誤解があるみたいだな」 「少し話を聞かせてもらえる?」 「あぁ」  彼女には聞く権利がある。  森の中を歩いて息を整えながら、僕は、いままでのことを語った。 イグニスと出会ったこと。少女と一緒に殺されたこと。 そのあとの特訓。 そして……。 「風のうしろを歩むもの。 君も、僕の力が欲しいのかい?」  「うん。探してたんだ」   そう言って少女は、無造作にうなずいた。 僕は、とっさに構えた。  「あ、今、やるつもりはないよ」   少女は、僕の殺気を、ふわりと受け流した。 「人間にカツキの力を使われるのは気にくわないからね」  「それに、カツキには志がある。手伝うよ」  「志?」  「妹の仇を討つんでしょ? ボクにはカツキの助けがいる。手伝うのは当たり前だよ」   屈託のない声に、僕は、躊躇した。 「仇を討ちにいくなんて、そんなたいそうなわけじゃない。僕は死にたくないから、先手を打つ。それだけだよ」   少女はうなずいた。  「生きてる人は生きないとね。まずは、やっかいごとを片づけようよ」 「それが終わったら、殺し合いかい?」  「そうだね……でも、必ずしも殺しあわなくてもいいかもしれない。事が済んだら、ボクの話を聞いてくれるかい?」 「あぁ、約束する」  そう言った瞬間、恵の顔が浮かんだ。 すべて説明すると誓った約束は、結局、果たさなかったな。 「じゃぁ、いくよ」  少女は走り出した。 →9−9  それは荒れ野にそびえ立つ城だった。 堀はないが、そびえ立つ塀がそれに当たるだろう。 背の高い、鋼の塀のてっぺんには、監視カメラが仕掛けられている。  仕掛けられているのは監視カメラだけではない。 近づいてよくみれば、リモートコントロールの機銃の銃口が確認できるはずだ。 近づくことができれば、だ。  塀の内外は、地雷原だ。 ほんのかすかな圧力変化で、3000発の鋼球が放射状にばらまかれる代物だ。  普段は、地雷も機銃も隠蔽され、待機状態になっている。   午後5時。両方に起動信号が送られた。 午後10時現在、起動状態は続行中である。 午後8時45分。野犬が一匹、無惨な爆死を遂げた以外は変化無し。  致死警戒ラインの、わずか先。地雷原の淵に、少女が立っていた。  監視カメラがズームアップする。 少女の唇は大きく動いていたが、マイクに入感はない。 少女の両腕が、何かを抱きしめるように大きく広げられる。大きく掲げられた両手が、胸の前で交叉された瞬間、  全てのカメラが死んだ。  風のうしろを歩むものが唄う。   声は、風を震わせるもの、というのは、物を知らぬ猿たちの物言いだ。   風そのものに語りかける声は、音を伴わない。 それは、風そのものを揺り動かすのだから。   ──風よ、風よ。凍土の淵を渡る、猛き北風よ。  両の手の間に、凍えるような風が集まる。   少女は、無数の風の秘められた名を、一つ一つ呼ばわった。   目に見えぬ風も、その姿を現すことはある。   少女の腕の中は、陽炎のように歪んでいた。 膨大な気圧変化に伴う屈折率の上昇だ。  ほんのわずかな空間に込められた空気は、数百気圧に達していた。 その暴悪な反発力の塊を、少女の腕が優しく包みこむ。   なおも、少女は唄う。 風を招き、腕の中で嵐と為す。   少女の歌が最高潮に達した時、その腕が、高気圧を解き放つ。  辺り一面の風景が歪んだ。  巨人の鉄槌に等しい一撃。目に見えぬ衝撃波が大地を撫でる。 一瞬で、監視カメラのレンズが粉々に砕け散った。  次の瞬間、無数の地雷が、同時に起爆する。  監視システムの対応は迅速だった。予備の望遠カメラが起動し、爆心地を走査する。 だがそれさえも、爆風の中を見通すことはない。  少女は、地雷原の淵で微笑んだ。   真っ赤に吹き上げる爆風の中を、駆け抜ける影が、あった。   土煙に混じった無数の鋼球をくぐり抜け、音も立てずに走るその姿に、少女は手を振った。  「カツキ、頑張ってね」  土煙が収まるとともに、ビルの門が開く。  重武装の兵士達が、なにはばかることなく姿を現した。  無数の銃口が一点を指し、やがて火を吹いた。 あたり一面に硝煙が満ち、地面さえもがえぐれてゆく中。  閃光がスポットライトのように、少女のシルエットを切り取る。  その影は踊っていた。  両手を伸ばし、宙を跳び、胸をそらし、また戻し。  すべての弾丸をよけきって少女はステップを踏む。  掃射が止むまで、約30秒を要し、五〇〇〇発の弾丸が浪費された。  人波を駆け抜けて、巨人が現れる。 2体、3体。  無表情な仮面をまとった巨人兵士は、ゆっくりと散開すると、幽鬼のように、のろのろと動き始めた。  少女は、不敵な笑顔を浮かべた。 「人間モドキが、いち、にぃ、さん……八匹か。相手にとって不足はない」   短距離走者のような前傾姿勢を取り、全身をばねにして飛びだす。  巨人の一匹に襲いかかる瞬間。 動かぬ仮面が、にやりと笑った。  螺旋にうずまく風が、僕には見えた。 海の底にあいた穴のように、それは貪欲に空気という空気を呑み込んだ。   ねじれた風が、ほどけぬように堅く縫い合わされ、腕の中で鞠となる。 鞠は大きさを増さず、ただ、その重さを増した。   風景が歪み、少女の胸がゆらゆらと揺れてみえる。  ……これが、風を使うということか。   僕は、少女の力に驚嘆していた。 吹きすさぶ風を心から信じ、語りかけることで、あるがままの風を己の味方につけること。   僕には、そんなことはできやしない。   風に心があるなんて、本気で考えることはできない。 道理で対抗できないわけだ。  ……そろそろだな。  僕は、自分の周りの風を引き寄せて、身を守る盾とする。魔力を持って風という実体を引き寄せる。 その手際の乱暴さに、我ながらげんなりした。  すい、と、彼女の手が胸の前で交叉し、それと同時に、風の鞠が解き放たれた。  巨大な質量が一気に解放され、強風となって吹き荒れる。  風の結界を張っていなければ、まず鼓膜を、次に身体を吹き飛ばされただろう。  無音の世界で、一拍おいて、地雷原に爆風が吹き荒れた。 真っ赤な炎が、音を立てずに僕の鼻先で荒れ狂う。 爆音は、遮断している。  ……驚いている場合じゃないか。  僕は、走り出した。   風の結界で、爆炎と破片をいなし、地雷原を突破する。 「カツキ、頑張ってね」   その小さな声は、地雷原の爆風を貫き、僕のささやかな結界の内側に届いた。 結界を張ったまま返事をするほど器用じゃない。 僕は、軽く頭を下げた。  白亜の廊下は無限に続くように思えた。 僕は、その間を走り抜ける。  あの時。地雷に紛れて距離をつめた僕は、メル神父のくれた地図に従い、研究所の裏口に回った。 五分も待つ内に、扉が開いた。   顔をだしたのは、三十がらみの白衣の男。 眠そうな顔をしていた。 手にコンテナを抱えていたから、ゴミを出しに来たのだろう。  背後に回り、その口を手で覆う。  一瞬で、男の身体から力が抜けた。  手の中に集めた風は、酸素の割合をわずかに減らした混合ガスだ。 たったの一呼吸で人間は昏倒する。 鼻に指をあてて、呼吸を確かめる。   入り口の横に横たえて、僕は、男のポケットを探った。 あった。 カードキーだ。  所内のセキュリティは、拍子抜けするほど甘かった。  監視カメラはあるのだろうが、人間が監視しているなら、僕の姿は目にとまらないだろう。 廊下で時折、研究者たちとすれ違ったが、彼らも、すれ違うつむじ風に、一瞬とまどい、そして、忘れた。  全館放送がした時は、さすがに一瞬、身を固くしたが、内容はなんということはない。  “ただいま戦闘中です。外にでないでください” というものだった。  あの研究員は、不注意だったのか、それとも、放送を聞きそびれていたのか。  まずは、イグニスを取り戻すことだ。 あいつが目覚めれば、大きな力となるし……そうでなくても、それはそれだ。  目を閉じてイグニスのことを思う。  すると血が騒いだ。 文字通り、心臓が脈打ち、音を立てて血管の中を駆けめぐる。  真珠色の力が僕の全身を覆った。 ──イグニス。  力と力、血と血が呼び合っているのだ。 深く息を吸って、手と足を血の導きに任せる。  途中、いくつか隔壁があったが、どれもカードキーを差し込むだけで開いた。  ──こんなものか。  刑務所でもなんでもない、人間が普通に寝泊まりして、通勤する施設であれば、面倒なセキュリティは、いつか省略されるということだろう。  四つ目の扉にカードキーを差し込んだ時、扉は開かず、代わりに警報がなった。   耳障りなサイレンと共に、呼び出しが始まる。   構っている暇はない。  無造作に扉に蹴りを入れる。 圧搾空気が鉄鋼板を喰らい尽くし、真っ白い閃光が飛んだ。 二度、三度と蹴る内に、扉は融解し、やがて真ん中に大きな穴があいた。  いまや、血のうねりは耐え難いほどで、こめかみはずきずきと脈打っていた。   穴を、くぐる。  閃光で目が眩んでいた。 最初に耳に入ってきたのは、獣の鳴き声だった。 ──動物園? いや、実験動物か。 聞き慣れた猫や犬の声に混じり、甲高い鳥の声、象の声まで聞こえる。 赤ん坊の声と、大人の悲鳴。  驚かせたのは……自分か。 大音響とともに、ドアを灼ききったのだから、悲鳴もあげるのだろう。  二、三度瞬くうちに、目が慣れた。  長い通路の左右は、透明な隔壁で仕切られた牢屋だった。 そして、通路の真ん中には、白衣の男が腰を抜かしていた。 大人の悲鳴は、こいつのか。  僕をみて、後ずさる。逃げられるはずがないのに。  床を蹴って研究員の背後を取った。 男の目からすれば、瞬間的に移動したように見えたかもしれない。  「……イグニスは、どこだ?」  「イグニス?」   ここにいるのは間違いない。血がそう告げていた。 「死体だ。女の」   男は、おそるおそる、通路の奥を指した。   もう一つドアがあった。 ドアというより隔壁というべきだろう。 通路一杯に広がるそれは、いかにも分厚そうだった。  「ありがとう」  僕は礼を言って、男から手を離した。ずるずると崩れ落ちる。 牢屋をのぞきこんだのは、何の気なしだった。 ふと、気づいたのだ。  ──悲鳴が止んでいない。  動物たちの色とりどりの叫び声は、全く止む様子がなかった。 ドアを壊したのに怯えたんじゃなかったのか?  強化プラスチックの向こうに、蠢くものがあった。 拘束着からはみ出た手足は、黄色と黒の斑だった。 足の間からはみ出しているのは尻尾だ。  豹。   最初はそう思った。  拘束着の裾は、床に固定されていた。床をひっかく豹の爪は血だらけで、たえず悲鳴をあげていた。 豹がもだえる。黄金色のたてがみが、はらりと広がり、その下の顔が見えた。  薔薇色の唇は、ひびわれ、血を流していた。白い肌は汗にこわばり、澄んだ蒼い目は恐怖に濁っていた。 顔をあげる目が、僕を見る。少年の目が。  少年が、かっと口を開く。上下に並ぶのは、鋭い牙だ。開いた口から洩れるのは、獣の叫び。 いや、違う。喉から下は、黄金色の柔毛におおわれていた。 人の言葉は、すでに奪われていたのだ。  何よりも最悪なのは、その少年から、僕は、魔力をまったく感じなかったということだ。それは、自由を奪われた魔物ではありえなかった。  つまりこれは──。   人。人だったのだ。  内なる獣が吠えた。いつのまにか、口からうなりがもれていた。   研究者を見た。 男は、顔を手で覆った。   右手が動いて、男を殺しそうになるのを、僕は懸命にこらえる。  「これは……なんだ?」   平板な声がでた。 男のくちが、ぱくぱくと動く。 声は、でない。 「実験材料なのか?」   両手をあわせて、男は、何事かを懇願した。 かすかな声は、「俺じゃない」と、そう聞こえた。  僕は、男を捨てて、障壁に向かう。  右手で、障壁の真ん中を力いっぱい殴る。 吹きすさぶ熱風に、男があとずさりをする。  二発。三発。拳から血を流しながら、僕は、障壁を切り裂いた。 汗みずくになった頃に、ようやく隔壁は融け落ちた。 部屋に入る前に、一度だけ僕は振り返った。  風の刃を飛ばす。 それは男のそばをすりぬけて、左右の牢屋に向かった。   耳障りな音を立てて、風が、障壁を切り裂く。   獣たちの拘束具は、一度に切り裂かれた。  後ろから聞こえた動物たちの雄叫び。   それは悲鳴ではなかった。   息が詰まるほど小さな部屋だった。 床から天井まで、分厚い鉄板で覆われている。  「……イグニス?」   僕は、呼びかけた。 鋼鉄の壁に声が響きあった。消えない残響の中で、僕は、目の前のイグニスに手を差し伸べた。   無数の鎖が、それを床に縛り付けていた。 鋭い杭が胸を貫き、楔は足を、鋼鉄の床に縫い止めていた。 その肌は、ブロンズ色に輝いていた。   封印、なのだろうか。 イグニスの身体は、像のように固まっていた。 手に触れるのは、冷たい金属の感触だった。 心臓は、これが、イグニスだ、と、告げていた。   炎の中で、彼女は何を見たのだろうか。 両手は何かをさぐるように前につきだされ、よろけるように立っていた。 そのつややかな髪は乱れ、前髪が顔を覆っている。   僕は、その下の顔をのぞきこんだ。 形良い顎の上に、唇があり……そこには、あの皮肉な微笑が宿っていた。  「イグニス……」   僕は、像の手を取った。   君は、何を笑ったのか。   それは、死の淵の恐怖にあって、なお、敵を笑うためか。 それとも、人を愛し、人の守護者として全うした、己の生き様を、誇るためか。   握った手は、冷たく、堅く、動きはしなかった。 心の裡を語る鼓動一つも、汗の一つも、ありはしなかった。   数千年の時を超えて、ただ人を護るために、生き続けた女に対する仕打ちがこれか。  怒りを込めて僕は振り返る。 そこには、あの白い仮面が音もなく姿を現していた。  ようやく、気づく。 あれほどやかましかった鳴き声は、かきけしたように消えていた。   巨人の全身は、朱に染まっていた。  八つの仮面は一騎打ちを望むようだった。  七体が彼女の回りを囲み、残り一体が彼女と相対する。  東風の勢いを乗せた突きを、小柄な仮面は軽々と交わした。 二人の突きが交叉して、真空波が大地をえぐる。  真正面からの攻撃は互いに弾かれあい、致命傷に至らぬ。  そう悟って二人は飛びすさり、距離を取って牽制しあう。  互いの背後を取るべく、円弧を描いて走る。  螺旋の走りが渦を巻き、竜巻となって天の高みに達していた。 夜空の雲が残らず吹き飛ばされ、高みに月が姿を現す。 さやかな月光の元。  ──不様だね。  風のうしろを歩むものは、ひとりごちた。  互いの速度は互角。 だが、彼女が、真名の通り、風のうしろを歩み、風音一つ立てぬのに対し、仮面の走りは、風をかき分け、砕きながらのものである。  走りが音速に近づくに連れ、衝撃波があたりに飛び散った。 壁となる七体の仮面は、身動きもせずに受け止める。  走る仮面の身体が煙を噴く。手足の動きがリズムを乱す様を、狼は冷静にみつめた。  ──頃合いだな。  口に祈りを唱え、少女は速度を倍加させた。 瞬時に背後を取り、その右腕を引き、必殺の気を込める。  必殺の間合いに踏み込んだ瞬間。  急に身体が重くなった。 水の中を動くように全身が押しやられる。   その隙に、仮面は易々と距離を開ける。   ──今のは、なんだ?  仮面が放った衝撃波をかわしながら、狼は、再び周回する。  全力で間合いを詰めた瞬間。  今度は、したたかに吹っ飛ばされた。  声も立てず、そぶりにも出さず、しかし、仮面が嗤う。  狼は、宙で体勢を整えて、着地した。  ──防御? 結界?   狼は、両の足に力を込めた。声高らかに歌って風を呼ぶ。   すべてを突き破るほどの鋭い力を。速さを超えた迅さを。 氷河よりも重く、吹雪よりも鋭い一撃を。   東風が、その身を包み、 西風が、先触れとなる。 北風が、その背を押し、 南風が、胸に燃える炎となった。  狼の終端速度は、マッハ5を超えていた。 大地を蹴り、高々と宙に舞う。 月光を浴びながら、仮面の正面から、蹴りを見舞った。  言うまでもなく、それは、最悪の選択だった。  がつん、と、殴られたような衝撃を感じ、その次の瞬間、全身が火を噴いた。  ──何かがおかしい。 気づいたのは、しばらく後だった。  仮面の横を擦り抜け、僕は走る。イグニスといた時とは違い、今度は魔力がある。 ストラスに後悔させるには、この敵は、今、倒さなきゃいけない。  廊下を走りながら、僕はポケットを探る。 手の先にあったのは、イグニス特製のジッポライターだった。  ホイールを手前に引っぱり、火花を散らす。 火のついたジッポを指先に持って、天井付近を焦がすように動かす。 効果はすぐに現れた。  スプリンクラーが作動したのだ。 シャワーのように降り注ぐ水は、すなわち僕の味方だった。  足を止めて、僕は仮面に相対する。  水煙の向こうから、ゆっくりと、それが現れた。 白い仮面のかすかな傷は、あの時、イグニスと戦った時のものか。  両の掌に水気を集める。 床にたまった水が、怒濤のように僕の手に流れ込む。霧が晴れ、すべてが乾ききってゆく。   僕は、無造作に両の手をあわせた。 人の背丈よりも高い水が波を立てて仮面を襲った。  一瞬にして、仮面は、水の球の中にいた。 とまどったように手足を前にだすが、球は仮面を逃がしはしない。 手の動き、足の動きに逆らいもせず、ただ包み込む。   伸ばした腕の先がぶれ、やがて、全身が震動を開始する。  水球の中に、無数の泡が生じるが、球は破れることはない。   あらゆる衝撃を跳ね返すのであれば、衝撃を与えず、ただ、包み込めばいい。   無論、水に沈めるだけでは死なない相手だ。  スプリンクラーは、今、なお、動いていた。 おびただしい水が、僕の腕を通じて、水球に流れ込んでゆく。 だが水球の大きさは変わらない。 増しているのは水圧だ。  全方向から同時に、同じ圧力をかければ、どれだけ柔軟な身体をもってしても、衝撃を逃がすことはできない。 両腕に力をこめ、力の限り叫んだ。 「〈圧潰〉《あっかい》しろっっ!」   両の掌に力を込めて、水の球を押しつぶす。  仮面の腕が、妙な形にねじれ、潰れる。仮面の口から水を通じて、異様な苦鳴がもれた。  その時、水球が、爆発した。 かろうじて風を呼んで壁を作った次の瞬間。  凄まじい水圧で打ち出される水滴が、散弾のように放たれる。 周囲の壁に穴が穿たれ、ジュウジュウと音を立てて水蒸気が当たりに満ちた。  ──何が起きた?  僕は、掌をみる。 判断がつかなかった。 手にこめていた水の力が、急に、かききえたようになくなった。  水煙の向こうから仮面が現れる。 装甲は剥がれ、あの影のような姿となっていた。  思ったより、背丈は小さい。 少年、と言っていいほどだ。  足止めのつもりでつららを呼び、投げつけた。  影は、かわしもしなかった。  ぱしゃり、と、その顔に水がかかる。 必殺の強度を持ったつららは、ただの水に戻っていた。  ようやく、僕は理解する。 あれの力は、魔力の無化だ。  さっきの爆発も……ただ水球を保つ魔力を掻き消しただけだ。 自然の状態に戻れば、当然、圧縮された水が解き放たれ、あたりに飛び散ることになる。  僕は、風を呼びながら廊下を疾走した。 装甲を脱ぎ捨てた仮面の人影は、その速度に易々と追随する。  その手が、僕に触れる。  その瞬間。 僕は、吹っ飛んだ。  廊下を転がり、あちこちの壁にたたきつけられ、ようやく止まる。 息ができなかった。全身が熱く、やがてそれが刺すような痛みに変わる。  やつのしたことは、ただ触れただけだ。それが、風の魔力を掻き消した。 時速数十キロで走っている状態で、風の守りを失えば、バランスを崩してすっ飛ぶことになる。車に轢かれたのも同じことだ。  指一本動かせなかった。 痛みに耐えて、身体をまるめることしかできない。 視界が暗くなる。  仮面の人影が、近づいて、僕を見下ろしている。 「──そこまでか?」   目の前は紅く染まり、がんがんと鳴る頭痛が音をかき消していた。 それでも、その声は、しっかりと響く。 声は胸の奥からしていた。  「──ああ、無理はするな。そのまま、寝ていればいい」  「──私の見込み違いだったということだ」   見込み、違い? 「──ああ。これくらいでくたばるような男だとは思わなかったがな」   声は、いつになく饒舌だった。  「魔力が、効かないんだ」  「──だから、どうした」  「身体が動かないんだ」  「──それが?」  「イグニスだって、負けたじゃないか」 「──負けたつもりはない。 おまえを生かすことはできた。それが私の勝利だ」  「もっともまぁ、後で死ぬなら、同じことだったな。 とっとと見捨てて、逃げておけば、よかったよ」  「克綺。おまえを選んだのは間違いだった」  「負け犬は、這いつくばって、死ね」  全身は悲鳴をあげていた。 右腕の肘から先は動かず、焼けた鉄の手袋をつけているようだった。 左足も似たようなものだ。 腰には何か重いものが乗っかったように動かない。  それでも僕は、懐かしい声を聞いている内に。 笑いがこみあげた。   唇の端をつりあげる。 僕は、かすかな声で、笑った。   無理に動かした肋骨が悲鳴を上げる。 血まじりの咳がでて、全身の筋肉が痛みに痙攣した。   それでも、その価値は、あった。 僕は、戦う方法を思いついた。 勝つ方法を。    見下ろす仮面は、とまどうように首を振った。   彼らは僕の能力が必要なのだ。   ならば、殺す意志は最初からなかったのだろう。 僕が勝手に転んで死にかけただけだ。   近くに来れば、全身が黒いグレーの皮膜に覆われていることが、分かる。 これでは、駄目だ。 どこか一カ所でも。   僕は目だけを動かして、その全身をくまなく探す。  「──よくみろ。顔の脇だ」   相変わらずの憎まれ口に、僕は目を皿にしてさがした。 確かに、仮面の脇に、かすかな破れ目があった。 あの時、イグニスがつけた傷、か。   鋭く息を吸う。 痛みを忘れ、かすかに動く左手に意識を集中させる。  「──外すなよ」   外すもんか!   身体を振って、反動で左手を跳ね上げる。  指先が顔に突き出される。   油断、したのだろう。 この距離では、何の魔力も使えない、と。   実際、その通りだった。 腕を動かすために風を呼ぶことさえできなかった。  いずれにせよ、仮面の人影は、指を避けなかった。 それは、肌の覆いをたどり、かすかな裂け目を探り当て、そのしたの素肌に、触れた。 それだけで、十分だった。  僕の腕が、敵の魔力を吸い取る。 魔物の魔力を一瞬にして消し去る力。 それ自体が、彼らの持つ魔力だった。 「──それは、人の魔力だ」  皮肉な声がささやく。 遠い昔に、この地球に放たれた、人類の魔力。 魔物の力を封じ込めた、あの呪い。 彼らは、その力を強化し、装備したのだろう。 それが魔力であるならば……僕の胸に吸い込むことができる。  風も、水も、再び自由に動くようになった。 僕は風の力を借りて身を起こし、体内の水を操って血を止めた。 痛みと頭痛はどうにもならない。だが、それは、問題じゃない。  頬に触れた指からは、どくどくと力が流れ込んだ。  それと同時に、仮面の人影が、崩れ落ちる。  目の奥で、光が、瞬く。人影の記憶が、流れ込み、ゆっくりと像を結ぶ。  最初に感じたのは、手触りだった。頬をなでる暖かな風。 どこか懐かしい思い出。僕も感じたような感触。 木漏れ日に浮かぶ風景が、像を結ぶ瞬間。  ぼん、と、小気味良い音が響いた。 爆発を、かるくいなして、まばたきすると、仮面は、無くなっていた。 頭部全体が消滅し、焼灼された首の傷から、とろとろと血が流れていた。  焼けこげた仮面が、からりと落ちる。 口止め、あるいは、証拠隠滅の、爆薬。  吐き気がした。 顔中に、血と肉片、それから焦げた髪がこびりついていた。 風と水で、洗い流す。 唇をなめると、鉄錆の味がした。  ふらり、と、僕は、立ち上がる。 イグニスの気持ちが、少しだけ分かった。 怒るには虚しかった。泣くには疲れすぎていた。  口の端には、あの笑みが浮かんでいた。   こんな時は、笑うしかないじゃないか?  無人の廊下を歩く。 スピーカーは、緊急避難を怒鳴っていた。資料とサンプルを持ち出して、所員は、避難通路に出ろ、と。  人がいないのなら、ちょうどいい。  僕は、歩きながらスピーカーを壊す。窓を破り、部屋に侵入し、片っ端から端末と実験装置を破壊した。  ……少しは、思い知ったか?  重い身体を引きずるように、研究所を一つ一つ潰してゆく。  耳慣れた、ひどく場違いな電子音が、響いた。 携帯だ。 着信は……管理人さんから? 背筋に嫌な予感がした。 「九門克綺君だね」   聞き覚えのない男の声がした。  「誰だ? 管理人さんをどうした?」 「ストラス製薬代表の神鷹だ。ミズ・ハナワの身柄は確保してある。我々は君の投降を望みたい」 「断る」   角の向こうから、足音が近づいた。  「君に選択権はない」   足音が、ゆっくりと、止まる。  背広の男が、携帯を持って立っていた。 僕に、うなずいて見せる。   こいつが、神鷹か。   その背後には、八体もの仮面を従えていた。 ひときわ大きな仮面の巨人は、肩に、管理人さんと、狼の少女を抱えていた。  僕は、後ろに組んだ手を動かし、風の槍を作って放った。  それが神鷹に届くより速く、小柄な仮面が動いた。前に飛びだし、神鷹を庇う。  と、風の槍は一瞬で消え去り、無害なそよ風となって、男の髪をなぶる。  全員が、あの力を持っている、というわけか。 「正直、君が、ファンタスティカを倒すとは思わなかった」  「ファンタスティカ?」 「我々の強化実験体だよ。仮面をしていた兵士、と、いえば、わかりやすいか?」   男の声は、力強かった。  「我々は、血を流しすぎた。こんな戦いは、もう終わらせるべきだ」   言葉には、奇妙な力があった。 信念が感じられたのだ。  管理人さんはともかく、狼少女の怪我がひどい。   仮面の男……彼も実験体なのだろう。 その一人が手錠をかけるのを、僕は黙って受け入れた。  神鷹が、なれなれしく僕の肩を叩く。  「九門君。君を歓迎する」  「彼女たちに、早く手当を。それと、その歓迎の用法は、僕の知っているのとは違う。メインディッシュに涎を垂らすのは、歓迎とは言わない」  「誤解があるようだな。我々は、あの低俗な魔物とは違う。君の命を奪うつもりはない。我々が欲しいのは君の力なのだ」 「無事に返すと?」  「危険はあるが、そうならぬように全力を尽くす」   男の声は、相変わらず力強かった。  「分かってほしい。我々は君の力を役立てたいのだ。お互いに協力することができるはずだ」   うんざりして、僕は、そっぽを向いた。 「演説はごめんだ」 「いや、聞いてもらう。ことは、君の人生に関わることだ」  男が、指を鳴らす。 「オーケー、ボス」  いやに軽い声とともに、仮面の実験体の一人が前に出て、手をかざした。 真っ赤な光が生まれ、床をえぐる。  えぐられた床から、黒い影が弾けるように離脱した。 ふわりと宙を舞って天井に逆さに着地する。  蝙蝠のように立ったのは、白い羽織に金髪の男だ。 あれはメル神父の部下の。 かっと見開いた目は、赤く、その口もとからのぞく牙までが見えた。 「彼方左衛門尉雪典、見参」  しゃらん。 金髪の男の手に、鎖鎌があらわれる。 「お命頂戴ッッ!」   躊躇なく分銅が投じられ、僕の眉間を襲う。  思わず目を閉じ、そして開く。  仮面の一人が僕の前に立っていた。その手には、分銅の鎖が掴まれている。 「どうします?」   軽いノリの男の声。 神鷹がうなずいた。 「捕獲の必要はない。ヒューマンフレア、始末しろ」 「OK!」  ヒューマンフレアと呼ばれた男の腕が、ぐん、と、引かれる。  侍は、逆らわず、逆に鎌を投げつけた。 投げた鎌が男に届くより早く、鎌が白い光を放った。  鎖も、鎌も、みるみるうちに、ぐにゃりと歪んだかと思うと溶け落ちる。 白い床がみるみる変色し、ジュウジュウと音を立てる。 滴る雫は、見事な直線を描いていた。 「ちっ」  天井を蹴って走る雪典が、どこからともなく取りだしたのは巨大な和弓だった。  走りながら一掴みの矢をつがえ、天井を蹴る。雪典は、宙にあって弓を引き、ぎりぎりと振り絞り、そして、離した。  ぶおん、と、太い音とともに、矢が放たれる。 いかなる手練の技によるものか。 五本の矢は、花のように開き、それぞれ、弧を描き、螺旋の道を通って、ありえない角度から襲い掛かる。  ──風! とっさに集めた魔力は、僕の手の中で霧散した。実験体の力は、誰彼お構いなしか。 「Pheeee」  ヒューマンフレアが、口笛を吹いた。  矢が、一瞬にして火を噴く。 炎上した矢は、軌道が乱れ、あらぬ方向に舞い始め、それぞれ壁に激突した。  雪典の表情が、歪んだ。 懐から何かを取りだし、投げる構えを取る。 手に握っていたのは、棒手裏剣。 だが、投げられたのは、それではなかった。   宙に、雪典の手首が舞う。 それは天井に達する内に、微塵に分かれ、ふわり、と、広がって、地面に落ちた。 澄んだ音を立てたのは、無傷の手裏剣だ。  「くっ!」  身を翻して逃げる雪典の体が、つんのめる。左の太股が、転がり落ちた。 分解されたのは、膝だ。 右膝。右肘。左肘と、見えない刃物は雪典を襲った。 「お手伝い、サンクスね」  ヒューマンフレアは、後ろの誰かにうなずいた。 「じゃ、仕上げ」  軽いノリで、男がつぶやく。その右手から、赤い光線が走った。 赤い光線が、ゆっくりと、舐めるように床を這った。男の手を、足を、じっくりと撫で、灰に変えてゆく。 「をををををををっっ!」  悲鳴は耐え難いほどだった。 金髪が燃え、苦悶に歪む男の顔が炎の中に浮かび、そして崩れた。  やがてできた白い灰を、風が、吹き飛ばした。 「見たかね、克綺君? これが、彼らの、遣り口だよ」   僕は、肩をすくめる。あのメル神父なら、いざという時の対策くらいは用意していたはずだ。例えば、僕が、ストラスの手に落ちた時など。 それは、理解することができる。 理解できないのは、この男たちだ。  「時間はある。ゆっくりと話そう」  その部屋は、研究所の地下にあった。 地下一階全体が、一つのフロアとなっているのだろう。  僕が座らされたのは椅子。 まさか電気椅子ではないだろうが、簡素な椅子にバンドで拘束されると、気分は沈んだ。 とどめに白衣の助手たちが、あちこちに電極を貼り、針を刺してゆく。  椅子の周りには、魔法陣、というのだろうか。白い床には、僕の知っているあらゆる文字とは違う、幾何学模様が、様々な色で塗り分けられていた。 例の仮面たちは、のしかかるように、僕の背後に回り、力を封じている。  そして……僕の前には、神鷹がいた。 滔々と語るその声は、ひどく、鬱陶しかった。 「君は、世界の成り立ちを、どこまで知っている?」 「かつて地上は、魔と呼ばれるものに支配されていたという。遠い昔、我らの祖先……そう、君のような力を持った者が、魔をうち破り、その力を持って、あらたな世界を築いた。 我々は昼の光の中に生き、魔は闇に封印された」 「だが……それでも、奴らは滅びなかった。彼らは、決して、昼の世界に現れ、人の世を覆すことはできない。だが、人の知らぬ夜の中で、彼らは生きのび、無法な行いを続けている」 「克綺君。我々は君に感謝しているのだ。かの魚人たちのことだよ。あの殺人事件が、司直の手によって裁かれることは永遠にないだろう。確かに、この小さな街で、人が毎日数人死んだところで……人の世は変わらずに続く。だが、残された人、家族にとっては、それは、一生を変える忌まわしい事件だ」 「我々も、あの魚人の掃討を計画していたが、君が先にやってくれた。だが……この地上を徘徊するのは、あの魚人だけではない。人を喰らう魔物は、都市の中にも、無数に存在するのだよ。あの汚らわしい吸血鬼、しかり、だ」 「我々は、彼らを滅ぼさなければならない」  彼の言葉は、論理的には、理解できる。 僕も、そう考えて、あの魚人たちと戦ったのだ。 だけど、確かめたいことが一つだけある。 「なぜ……恵を殺した?」   神鷹は、眉をひそめた。 「民間人を巻き込んだのは、不幸な事故だ」 「軍隊で砲撃したのが、事故、か?」 「あのメゾンに、君の能力を狙う魔物が潜んでいることは明らかだった。よって我々は大規模な反撃を予想していた」  イグニスのことか。 「君の留守を狙って攻撃を敢行したのだが……妹さんについては、不運としかいいようがない」  不運、か。 「あの実験室の……あの子たちは?」 「彼らと同じ、実験体さ」  そう言って神鷹は、後ろの仮面たちを指した。 「何のために、あんなことをした?」 「彼らと戦える戦力を作るためだ」 「そのために、子供を……」 「一般に、子供の細胞が、もっとも変異に耐えやすいのでね」 「非道な行いだとは思うよ。けれど、一方では、今、この瞬間にも、魔物に殺された子供たちがいるのだ」 「彼らの研究を通じて、我々は魔物と戦う戦力を手に入れた。人の世の闇で死ぬ人の数を、一人でも二人でも減らすことができるのだ」 「その報いがあるというのなら、私は甘んじて受けよう。だが、それは、彼らを全て、葬りさってからだ」 「そして、無論。君の協力があれば、あのような実験は止めることができる」  神鷹の声は、高揚感があふれていた。 うっかりすれば、僕も巻き込まれそうになるほどの、喜びに満ちた声。  喜び。   ……そうか。  神鷹は、僕を恨んでいない。 彼の部下……兵士や研究者や実験体を殺したことを、何とも思っていない。恵が死んだことを何とも思っていないように。  彼は、本当に、心底、魔物を殺すことに酔いしれている。否。それこそが善と信じ切っている。他のいかなる悲劇も、死も、彼の心を動かすことはない。  この男は、危険だ。  白衣の男たちが、点滴針を僕の腕に刺す。   魔法陣の向こうには、無数の端末と、研究者達が並んでいた。それぞれが、忙しくキーボードに向かっている。端っこには、生き残りの兵士が、縛った管理人さんと、狼少女を確保していた。 人質というわけか。 「まず、君が、魔物たちから奪った魔力をすべて吸い出す。心の器を空っぽにする」 「次に、そこに人類が普遍的に保つ魔力を注ぎ込む」 「その魔力は、空間を歪め、別の世界への門を開く。その門から、魔力が、この世界に流れ込む」 「君の力を使って我々は世界を変える。魔物の存在を完全に否定しつくす世界を、今度こそ作り出すのだ」 「どうして僕に、わざわざ、そんな話をするんだ?」 「何?」 「世界を変えるのなら、僕に余計な情報を与えないほうが確実だろう? どうして、つまらない演説をする?」  神鷹の顔は変わらない。しかし、変わらないこと自体が一つの答えだ。 「単純に考えれば、おまえは僕を味方にし、同意させようとしている。つまるところは、僕の魔力で現れる世界は、僕の望む世界なんだろう?」 「君の言うことは、半分だけ当たっている。君が同意してくれることが、もっとも安全で望ましい。ただし、君が同意しない場合に備えた処置はしてある」  神鷹は、背後の研究者達に手を振った。 「綿密な計算を行うことで、門に我々の望む性質を持たせることが可能だ。ただし、そうした無理を強行した場合、儀式に不安定さが残るし、なによりも君の命に危険が及ぶ可能性が高い。だからこそ、君には我々の大義を理解した上で、協力してほしいのだ」  僕は、神鷹がしゃべりおわるのを見て、ゆっくりと言った。 とっておきの微笑を浮かべてやる。イグニスの、あの、微笑みを。 「ありがとう、よくわかったよ」 「おまえたちの問題が」 「なんだと?」 「おまえのいうことが本当なら、時間をかけて僕を洗脳するはずだ。専門のネゴシエーターをつけて、一ヶ月でも一年でもゆっくり説得すればいい。社長が直々に語るなんて馬鹿馬鹿しい真似はしないはずだ」 「それは……」  僕は、手を振って彼の言葉を遮る。 「つまり、おまえたちには、今、この場で儀式を強行させる必要があるということだ。時間がないんだろう?」 「それで?」 「考えられる理由は二つ。儀式を行うのに時間的な期限があるか……あるいは、外部の牽制があるか。そうだな……例えば、事態に気づいた魔物たちが、ここに攻め入るとか」  神鷹が面白そうな顔をして肩をすくめる。 「希望的観測は結構だが、それでは妄想に過ぎん」 「さっきから足音が気になっていたんだけどね。僕の後ろの実験体は、何人残っている?」  神鷹の右の頬が、ぴくり、と、動いた。 鎌をかけただけだが、当たりか。 「つまり、危機にいるのは、神鷹、おまえだ。千年に一度のチャンスのために、何十年かかけた準備を行ったにも関わらず、土壇場の数分で、その全てを失う瀬戸際にいる」 「……それはつまり、協力する気はない、と、考えていいんだな」  僕の中のイグニスが、答える。 「いまさらわかったのか。馬鹿が」  唇を丸め、唾を吐く。唾は、神鷹の頬に命中した。 「処置を急げ。儀式を断行する」  神鷹は、ポケットからハンカチを取り出すと、何度も何度も頬を拭った。 「おまえの命は、あと五分で終わる。新しい時代の礎となるがいい」 「五分? それはどうかな……」  軽口を叩き終わるより早く、電気椅子のスイッチが入った。 血が、沸いた。  体全体が無茶苦茶に揺さぶられる。 揺れているのは椅子のせいじゃない。 僕の、体の根っこが何か強い力で揺さぶられていた。  目を開ければ指一本動いていないのに、閉じれば、洗濯機の中に放り込まれたようだ。 肉が揺れ、内臓が震えた。肉をつなぐ骨が、きりきりと捻れてゆく。 「やめろぉぉぉ!」  絶叫する声にさえビブラートがかかる。 体を芯まで揺さぶられる激痛の中で、僕は気づく。どれだけ揺さぶられても動かない中心が、僕の中にある。  胸で脈打つ心臓こそは、僕をつなぎ止める楔だった。 全身をシェイクされ、僕の血が、心臓に集まってゆく。  どくん、と、心臓が脈打つ。  耳元で響く心音は、大砲のようで、鼓膜に痛みが生じた。 全身の揺れが、同期し始めていた。 心臓の大きな鼓動と、体を揺らす揺れが、ゆっくりと重なってゆく。 僕の力、そのものが、体の中からえぐりとられてゆく。  心臓が、ゆっくりと動き始めた。胸を焼きながら肺を潰し、喉をえぐって口の中を目指す。 やがて、それが脳天を突き抜けて、宙へ飛んだ。  とてつもない脱力感が全身をおおう。ただ、細胞そのものをすりつぶすような痛みだけが、意識を支えていた。 朦朧とする意識の中で、視覚だけが鮮明に見える。  神鷹が、哄笑する。   僕が注目するのは、その後ろだ。  さっきから気になっていたんだ。 白衣の男女にまじって行き来する、一人の研究者。職員中では見慣れない、見事な金髪頭をしていた。 どうしてここにいるのかは、わからないが。いるものは仕方がない。  研究者達は、皆、端末に取りついて必死で作業していた。兵士は、僕が呻く様に気を取られている。神鷹もだ。   僕は、神鷹に中指を立てた。  金髪頭が、ゆっくりと、管理人さんたちを捕らえた兵士の背後に忍び寄る。 構えた手には、木刀があった。  さぞかしいい音だっただろう。  兵士が、ゆっくりと崩れ落ちる。 「な、誰だ?」   神鷹が振り返る。 「知らざぁ、言ってきかせやしょう、とくらぁ!」   峰雪は、木刀を研究者達に向けた。 ブラウン管の内部は、真空になっている。よって、気密を壊せば、爆発する。より正確には、爆縮する。 研究者の使っていたのは液晶ではなく、普通のモニタであった。 それが不幸の始まりだ。峰雪が、一振りするたびに、爆発が起きた!  端末と、モニターと、なにか、でかくて高そうな器具を、かたっぱしから峰雪の木刀が叩き潰してゆく。  僕は、大きく息を吸う。 魔力を使おうとすると、全身が痛んだ。 胸の中は、空っぽだったが、ほんのわずかな脈があった。  ──それだけあれば十分だ。  風を呼んで、全身の拘束帯を切り刻んだ。思った通り、背後に実験体の姿はなかった。  頭を振って立ち上がる。峰雪は、管理人さんと少女を抱いて、スクラップと化した端末のただ中に立っていた。遠巻きに囲むのは研究員たちだ。 「ヤアヤア、遠からんものは、音にも聞け! 近くばよって目にも見よ! 我こそは、天地に冠たる峰雪家、峰雪群雲が一子。峰雪綾なるぞ」 「死にたいやつから、かかってきやがれ!」  木刀を青眼に構え、高らかに名乗りを挙げる峰雪の姿は、凛々しかった。 「峰雪!」  僕は、峰雪に走りよる。ついでに、あわてる神鷹の頭を、思い切り蹴飛ばしてやった。 「〈盲亀〉《もうき》の〈浮木〉《ふぼく》。〈優曇華〉《うどんげ》の〈華〉《はな》。ここであったが百年目。おい、克綺。今度こそ、全部、聞かせてもらうぞ!」  「四面楚歌に千載一遇。願ってもない助け船。喜んで話してやる、と、言いたいところだが……」   僕は、右手に風を集める。かすかな力しか残ってないが……。  軽い銃声が響いた。 弾は、きわどいところで峰雪を逸れた。頬を血が伝う。 「話はあとだ」  「ガッテンだ!」  二人で管理人さんと狼の少女を抱えて、僕らは、出口に向けて走り出した。 及び腰の研究者たちは、いい。 「実験体を呼び戻せ! 早く!」   神鷹が狂ったように叫ぶ。 やつを人質に取るか、と、考えたが、逃げることが先決だ。  僕たちは、階段を駆け上り、一階に到達した。 「おい、大丈夫か?」  階段を上りきったところで、僕は、倒れた。 僕は、声も出せずにうなずく。 体が悲鳴をあげていた。胸の奥から全身の精気を吸い取られた形だ。 「掴まれ!」  峰雪の肩につかまり、這いずるように歩く。  いまや峰雪は、完全に気絶した管理人さんと、狼の少女、そして、僕の3人を引きずって歩いていた。 「重くないか?」  「重いに決まってんだろうが! おまえは黙ってろ」   そう言って峰雪は、歯を剥いた。  「峰雪……どうやって、ここへ来たんだ?」 「黙ってろって」  「いや……しゃべってたほうが意識が保つ」 「そうか。メル公しめあげて、おまえの居場所を聞いたんだよ。研究所の裏口に回ったら、気絶してるやつがいたから、白衣を拝借してきた」  「それだけか?」 「あぁ」  「強運だな」 「そうなのか?」   吸血鬼や人狼、僕の行動が、陽動になって、うまく潜入できたということか。 「もうすぐだぞ、しっかりしやがれ」   足を交互に前に出すのが、これほどつらいこととは思わなかった。だが、いつ追っ手がかかるかは、わからない。  このまま玄関まで突破できるか? そう思ったのが、甘かった。  規則正しい靴音が、廊下の向こうから響く。 こっちの武器は、峰雪の木刀だけ。 「……峰雪。二手に分かれるぞ」  「二手って、どうすんだよ?」  「僕が隙を作るから、玄関まで突破しろ。そこまでいけばメルクリアーリ先生がいるはずだ」  「メルが? どうして?」  「細かい話は後だ。なんとしても、二人を、安全なところに送り届けてくれ」 「任せとけ……といいたいとこだが、一人で二人を運ぶのはつらいぜ?」  「これで……どうだ?」   僕は、なけなしの風を集めて、管理人さんと、狼に憑ける。  「お、急に軽くなった!」  「ようし、いいか、峰雪。僕が、合図したら……」  角から現れたのは、完全武装の兵士達だった。浴びた血の量が、外の戦闘の過酷さを思い知らせた。 だが、実験体はいない。ありがたいことに。 「君の援軍も、力尽きたようだな。降伏したまえ」  館内放送で、神鷹の声が響く。 いや、それは違う。実験体達が戻ってこないということは、まだ、吸血鬼たちと戦っているのだろう。 「降伏? やなこった!」  峰雪が、先に答えた。 「殺さずに、生け捕りにしろ!」  神鷹の声が響き渡る。  先頭の男が、おそらくは援護として小銃を撃つ。その銃口をふさぐには、ほんのわずかな空気玉で足りた。 炎さえ伴う暴発は、男と、そのそばの兵士を、一瞬で血のミンチに変えた。  残りの男達が、無言で銃を捨て、ナイフを構える。   後は、全身で突っ込むのみだ。  元より勝てる見込みはなかった。 敵は戦闘のプロで、僕には格闘戦の心得はなかった。 振るう拳は堅い肉に阻まれ、石のような一撃がふりそそぐ。  意外だったのは峰雪だ。  閃くナイフに怯えもせず、青眼に構えた姿には、あたりを払う威風があった。  残像さえ残しながら、木刀が走る。  瞬間。 切っ先が蛇のようによじれるのを確かに見た。  たった一度の突きがナイフを叩き落とし、そのまま水月をえぐる。  善戦する峰雪に目をやる余裕はなかった。 拳が腫れあがり、肘は血塗れになった。膝を腹に受け、うつむいた僕の首筋に重い拳が決まる。  僕は、床に倒れる。 たちまちのうちに、兵士達が群がり、リンチが始まる。 隊長も隊員もなく、全員が、僕の急所という急所に蹴りを落とそうとしていた。  訓練された部隊の行動ではない。 戦闘を作業として行う者であれば、全員が一人にかかる無益さ、危険さは理解してしかるべきだ。  けれど、彼らは、怯えていた。 今の今まで、彼らは、吸血鬼たちと人智を超えた戦いを繰り広げていたのだ。そして、ついさっき、味方を失ったばかりだ。  恐怖が理性のたがを緩め、半ばパニックとなって襲いかかる。   ──そこが、付け目だった。 「峰雪!」   僕は、渾身の力を込めて叫んだ。 最後の魔力を振り絞り、両手に集める。 全力を込めて、胸の前で、打ち合わせた。  パン、と、音をたてて、兵士達が耳から血を噴いた。 今の僕の力では、巻き込めるのは、せいぜい数メートル。だから、全員をそばに寄せる必要があった。  平衡感覚を失った兵士達が、一斉にぶっ倒れる。 峰雪が、その上を駆けるのを、僕は、かろうじて見つめた。  がんがんと痛む頭を押さえ、目が眩むのを忘れ、目の前の敵に、最後の一撃を叩き込む。  顎が、削りとられるような衝撃があって、それきり目の前が暗くなった。  目覚めは悲鳴と同時だった。 それが、自分の口から出ている、と、気づくのに、しばらくかかった。 胸に鋭い痛み。 「起動実験を開始します」  味も素っ気もないアナウンスが響いた。  僕は、再び、あの椅子に縛り付けられていた。 さっきと違うのは、左胸から生えた、金属の杭だ。 杭の先には無数のコードが巻き付き、それは、地面をくねって遠方へ伸びていた。  悲鳴が止まったのは、肺活量が限界に達したからだ。 荒い息をつきながら、僕は、必死で正気を取り戻す。  あたりを見回す。足下の魔法陣は、さっきのままだ。 白衣の男たちは、壊れ残ったコンピュータをかき集めて、ミッションを続行していた。 管理人さん、狼、峰雪の姿がないのは、まずは吉報だろう。 「お目覚めかい、克綺君?」   のぞきこむ神鷹の顔には、隠しようもない憎悪があった。  「ずいぶんと手間をとらせてくれたが、これから、実験の第二段階に進む。準備はいいかな?」   そう言って神鷹は哄笑した。 「この期におよんで、おまえは人外の味方をするのか?」  「僕は人間の味方だ。だけど、おまえとは違う」  「魚人を族ごと滅ぼした君と、私の、どこが違う、と、言うんだね?」  「あれ自体、望ましいことだとは思ってない。ただ僕は、できることの精一杯をやろうとした、それだけだ」  「おまえのやっているのは、ただ明日を消し去ることだ」 「綺麗事を言ってくれるな。今、この瞬間にも、やつらの手にかかって死ぬ者たちがいるんだぞ」  「彼ら故に命を救われたものだっているだろう。ストラスは製薬会社じゃなかったのか?」  「だからどうした? 彼ら故に苦しむ者のほうが、多いのだよ。わずかな例外のために、おまえはやつらを、みすみす生かしておくのか?」 「違う、それは、例外とか、大小とかの問題じゃない。何をしても誰かが死ぬし、手をこまねけば、もっと悲劇が起きる。解きほぐせないほど、絡まったジレンマに正しい答えはないかもしれない……だから」  「だから、根底から消し去るしかないだろう?」 「違う。重要なのは、そこから目を逸らさない勇気だ。悲惨と不幸の連鎖を、見つめ続ける忍耐だ。絡まる糸は、ほぐさなければいけない」  「ゴルディアスの結び目を解く方法を知らないのかね?」  「いったい何世紀の話をしている? 誇大妄想の支配者の時代はすでに終わった」 「おまえは、結び目を見つめる勇気がない臆病ものだ」  「私が……私が、悲惨から目を背けただと!」   神鷹の声に、はじめて怒りが混じった。  神鷹が、椅子を蹴飛ばす。 椅子の震えが胸の杭に伝わり、激痛とともに、僕は血を吐いた。 白衣の助手たちが、あわてて装置を調整する。  神鷹が僕に背を向けて歩みさるのを、僕は、ただ見ていた。 「ミッション開始。第二段階だ!」  最初に生じたのは、音だった。 ピアノに似た、澄んだ音が杭を振わせ、僕は、痛みに顔をゆがめる。 単発の音が、やがて連なり、重なって、高周波となってゆく。 「第一次励起開始。次元振動パターンA3からC7へ」 「カウント開始。5、4、3、2、1、起動!」  次に、光が生じた。足下の模様が、無数の色に輝き始める。様々な色がめくるめく入れ替わり、これも、やがて、白色に似た虹色に溶けてゆく。 「第一次励起成功。霊子状態の遷移を確認。続いて第二次励起開始。次元振動パターンG9からK12」 「カウント開始。5、4、3、2、1、起動!」  突然、体が宙に浮く。 一瞬の浮遊感と、それに続く落下感。 椅子の肘掛けを思い切りつかむ。  いや、椅子は動いていない。 僕の感覚が狂っているか……さもなければ、ここの重力がなくなったかだ。 「第二次励起成功。霊子パターン、拡大を開始」  胸を貫く杭が、火傷しそうに熱くなった。 ジリジリと焼かれるような熱さは、肋骨と背骨を伝わって、全身に回ってゆく。  「第一フェイズ、終了。続いて第二フェイズ、霊子パターンの誘導成型を開始します」   淡々と読み上げる声。  杭の輪郭が歪み、視界が虹色にぼやけ始める。 さっきまで熱かった杭が、凍えるように冷たくなった。   全身の筋肉が痙攣を起こし、歯を引っこ抜かれるような激痛が走った。 冷気と熱気は、交互に僕を襲い、そのために身もだえする。   見ると、研究者達の前で、神鷹が僕のほうを見ていた。 双眼鏡などかざしている。  僕は、精一杯の嘲笑を顔に浮かべた。 合わない歯の根を押さえ込んで、唇の端を、歪めて見せる。  いまや杭は、七色の光を発し、麗しい音色を奏でていた。 冷と熱、陰と陽の暴虐な変化が、ゆっくりと、僕の中で鼓動を作っていく。  GAN.  一度脈打つたび、全身がぶるぶると震えた。 拘束されていなければ、人形のように手足を投げ出していただろう。  GAN.  脈とともに、胸の奥を、何かが切り裂くのが感じられた。 それは体の芯に潜り込み、熱気とも冷気とも違う、感覚を与えてゆく。  GAN.  音が、光が、空間そのものが渦を巻いて、杭に吸い込まれてゆく。 僕は、空っぽの袋のようなものだった。 杭が吸い込んだ力が、内臓を切り裂き、手足の肉をえぐりながら、全身にぎゅうぎゅうと詰め込まれてゆく。  拘束具が、音を立てて千切れ跳ぶ。 振動が、椅子をばらばらにしてゆく。  胸の杭が、するりと抜けた。 音を立てて地面に落ちると、じゅっと音を立てて溶け落ちる。  血は、出なかった。 ただ、吐き気がした。   「超弦調和子起動。1番より8番、起動準備」  「一番“〈乾〉《けん》”臨界スタンバイ」 「二番“〈坤〉《こん》”臨界スタンバイ」 「三番“〈艮〉《ごん》”臨界スタンバイ」 「四番“〈巽〉《そん》”臨界スタンバイ」 「五番“〈震〉《しん》”臨界スタンバイ」 「六番“〈坎〉《かん》”臨界スタンバイ」 「七番“〈兌〉《だ》”臨界スタンバイ」 「八番“〈離〉《り》”臨界スタンバイ」 「全調和子、臨界スタンバイ」  「超弦調和子起動準備完了」  「カウント開始。5、4、3、2、1、起動!」  魔法陣の頂点が七色の光を放つ。 それとともに、全身が押しつぶされた。 あたりから閃く無数の光が、質量さえ持って、体を押しつぶし始める。 全身、くまなく満たされていた塊が、体の中で、ゆっくりと押しつぶされ始めた。  数万年のマグマの圧力が、炭素からダイヤを生むように、ゆっくりと僕の体の中の魔力が、心臓の位置に、圧縮されはじめた。 →9−16 「なんだよ、こりゃ」  入り口の扉を開けた峰雪は、呆然と、たたずんだ。 腰に木刀を差し、両の肩に、管理人さんと、見知らぬ少女を引き連れ、かろうじて、研究所を出てみたが……。  研究所の正面は、燃えていた。峰雪の背丈を超える真っ赤な炎がじりじりと燃え、ときおり間欠泉のように、巨大な炎が爆発を起こす。 真っ赤な霞の向こうに、かいま見えるのは、人外の戦いだった。  人よりも大きな四足の獣。宙を舞う、鳥とも爬虫類ともつかぬ異形の鳥たち。 幽鬼の如く歩く者たちに影がないことに、峰雪が気づいたかどうか。 炎の中心にいるのは、白い仮面をつけた異形の集団だった。 身につけたボディースーツの表面は、すでに炎に包まれている。  峰雪の腰で木刀が、わずかに、揺れた。 脳裏に渦巻く血と肉と屍の像。刀は戦いを求めていた。  こいつは出かける時にメルにもらった餞別だ。 インチキ神父は、古の魔剣だとか言ってたが……まぁ、今となっては、なんだって信じられる。  実際、いやに手に馴染むし、さっきはずいぶん役に立った。 人外相手の戦いに、どこまでやくに立つかはわからないが……。  峰雪は、息を吸って性根を据えた。 腰の木刀に手をかけたその瞬間。 「あれ……私、どうしたの?」   峰雪の左肩で、声がした。 「俺ですよ、峰雪です」 「峰雪クン? 何が起きてるの?」 「起こしちゃってすいません。ちょっと、立て込んでますが、すぐ何とかしますよ」 「あなたまで巻き込んじゃったのね。ごめんなさい……」 「さ、あとは私に任せて」  するり、と、肩から降りて立つが、膝がゆれていた。 峰雪は、その手を掴んで、言い聞かせた。  「いいですか、管理人さん。怪我人は、余計な心配しないで、寝ててください。この峰雪にお任せを」  「ほんとうに、手伝わなくていいの?」  「ええ」  「わかったわ。峰雪クン。よろしくね」  目がすうと閉じ、崩れ落ちる管理人を、峰雪は、かろうじて抱きとめた。 「ねぇ、ボクは?」  ……とと、忘れてた。右肩の少女も、起きていた。 今、改めて見ると、肌は、赤く、火傷のあとがあちこちに残っており、服も黒く焦げてぼろぼろだ。 「俺は、峰雪ってんだ。克綺の知り合いっていや、わかるかな?」 「カツキの? そうなんだ!」 「色々怖い目にあったかもしれないが、なぁに、ここから先は、俺がついてる。 大船に乗ったつもりで、いてくれ」 「……安心できないなぁ」 「そう言われるとつらいけどよ」  峰雪は、ためいきをついて、火の海を見つめた。 「禅僧〈快川〉《かいせん》曰く、心頭を滅却すれば火もまた涼し……とくらぁ」 「〈快川〉《かいせん》って信長に火をかけられて焼け死んだ人でしょ? そんなの引き合いに出していいの?」 「嬢ちゃん、よく知ってんな。そうだな、〈快川〉《かいせん》じゃ、ダメだな。となると……」 「〈焦眉〉《しょうび》の〈急〉《きゅう》ってとこだね」 「うまいこといいやがんな」  ぶつぶつと唱えながら、峰雪は、入り口から、あたりをうかがう。 前庭を越えて山へ入ることができればまだしも、いずれも火の海で、まわりこめそうにもない。 「で、何か、方法あるの?」 「……ない。克綺はメル公に頼めって言ってたが」   見回す限り、メル神父の姿はなかった。 「それより、おまえ、歩けるのか?」 「うーん、ちょっと無理かな」  峰雪は、少女の足を見て、絶句した。 足首から先はなく、少女の足は焦げた杭のような姿をさらしていた。 「……悪ぃこと言っちまったな」 「気にしないで。もうちょっとすると生えてくるから」 「そうか……となると……」 「あそこを突っ切ればいいんだよね? だったら、方法があるよ」  峰雪は、両の肩に、少女と管理人を背負った。 「よぉい……」  少女の声にあわせて、全身をたわめる。 「どん!」  その声とともに、全身を風が包んだ。  突風が、火の海の中に道を作る。 峰雪の右肩で、少女が、ぐったりと崩れるのがわかった。 全力を使い切ったのだ。  ……悪ぃな、嬢ちゃん。 峰雪の胸に、ちくりと痛みが走る。 その目は、前を向いていた。  峰雪は、走る。 両手両足を振り、全速力で、炎の海の中を。 海を割って現れた、細い、一筋の道を。 「喉が……焼けやがる」  炎はなくとも風は熱く、火の粉は顔や腕に貼り付いた。 息をするたびに、鼻と胸の奥に痛みが走る。 「……畜生、どこまであるんだ?」  走れば走るほど、道は狭くなっていった。 道がなくなるまでに走りきれるか。それが、問題だ。 ぐったりともたれかかる少女に頼ることは、もうできない。  炎の向こうに、木々が見える。 あと少し。そう思って、足に最後の力を込めた瞬間。 「……最悪だぜ」  立ちふさがったのは、仮面の巨人だ。 全身は炎を浴びて燃え立っており、実験体の中でもひときわ大きなその巨体は、風の道を完全にふさいでいた。 威嚇するように両手を広げる。 「やるってのかぁ!」  虚勢を張り上げるが、敵は、ただ道をふさぐだけだ。 そうするうちにも風の道は、どんどん狭まり、管理人と少女の足を焼き焦がしはじめる。  ──ええい、ままよ。 峰雪は、腰の木刀を引き抜き、天にかざした。  炎を浴びた木刀は、紅く煌めいた。 紅光が戦場に威風を払う。 と、その時。 「えぇっとぉ、君は、ひょっとして……峰雪君かい?」  光に呼ばれたように現れた影は、場違いな、気の抜けた声を発した。 峰雪が振り向くと。  男が立っていた。 くたびれきった背広をひっかけ、ひざの抜けそうなズボンをはいた、すだれ頭の中年。  「峰雪だけどよぉ、アンタ、何だ?」  「あぁ、私、田中義春ともうします。メル先生のほうから、峰雪さんを見送るように、と、言われましてね」  「メル公が?」  「メル公?」  田中は眉を上げながら、前に出る。 動かなかった実験体が顔を向けた。  「あなた、年上の人に、そういう態度は、よくないですよ。お若くて、気丈なのはよいことですけどね。いつか、年を取る日が来るんですからね。ええまぁ、こういうと、老人の繰り言に聞こえるかもしれませんが、いつか、あなたも、そう思う日が来ますよ」   田中は、ぽん、と、峰雪の肩を叩く。  「どうでもいいけど、おっさん、危ねぇぜ」 「ちょっと、さがってもらえますか?」  何気ない言葉に、峰雪は、気圧された。 足が、一歩さがっている。  田中が、構えを取る。 鋭い呼気とともに、足が踏まれた。   大地を揺るがす震脚が、嵐を呼んだ。 峰雪の頬を風が過ぎ、迫っていた炎を吹き散らす。   実験体の体から炎が吹き消された瞬間。  するり、と、田中は内懐に入っていた。 実験体の巨大な両手が、まるで罠のように閉じようとするその瞬間。 「せいっ!」  田中の拳が、えぐるように打ち込まれる。 響いた音は、巨大な鐘をつく音だった。 「おっさん、すげぇじゃねぇか!」  峰雪は、早速駆け寄った。 「なぁに、これくらい、年の功ってやつですよ」 「よっしゃ、行こうぜ」 「……そうしたいんですけどねぇ」  田中の膝が、崩れる。 「おい、おっさん、どうした!」  倒れる田中を掴んだ手を、べっとりと濡らすものがある。 どす黒い血だった。 田中の腹は、無惨にも穴が開いている。 「これじゃ、見送り役失格ですね」  苦渋に満ちた口調で、田中が囁く。  目の前には、再び巨人が現れていた。 その背後には、さらなる実験体もついている。 「ちっ」  峰雪は、寺の息子で、ミッションスクールに通ってはいたが、何かを祈るということとは、ついぞ無縁だった。 それが、今、この一瞬だけ、空を仰いだ。  けれど、それは、ほんの一瞬のこと。 峰雪は、前を見た。前方をふさぐ実験体たちを。 両の手と、両の足に力をこめる。 「てめぇら、そこをどきやがれ!」   ──白いスーツの少女  ──血塗れの父  ──ベールの母  ──マントの兄  ──鎖につながれた夫  ──笑う妻   克綺の目の前を無数の顔が高速でフラッシュする。   ──愉……喜……恐……悲……怒……頷……哀……楽……肯 ……悦……怖……訝……笑……否……快……苦……痛   その一つ一つに感情が生じては入れ替わる。        見知らぬ記憶が僕を支配してゆく。 脳細胞を薄皮一枚ずつ上書きし、切り刻み、焼き焦がしてゆく。   ──僕ぼくボクはダれダ?        怒濤の返事が脳の底から現れる。 数千もの名が、彼を押しつぶしてゆく。 かすかな記憶に、捕まろうとする。   ──ココここ此処はケんキュうジョ。 ジんルいゼんタいノ魔力ガ、ボク僕ぼくノ胸ノ中に。     何か大切なことを思い出せず、克綺は胸をかきむしった。   ──僕ぼくボクは__ヲおモう。   まぶたの裏に浮かぶ、かすかな面影。 赤髪の下で、いたずらっぽい瞳が光る。  その面影が焦点を結ぶや否や、数千の顔が記憶を上書きしてゆく。   ──チがウ! __が!     消える記憶の中から、克綺は、その一つにしがみつく。 皮肉な笑みをたたえて揺れる唇が、かすかに動いて、言葉を形作る。 ノイズの中で、彼は、一心に目を凝らした。   ──か、つ、き。   ──かつき! かつきカツキかツきカつキ克樹香月甲木和紀賀津樹……克綺!   大切なことを思い出しそうだった。        ──カツキかつき克綺は__を慕う想う願う悲しむ叫ぶ。 ──__を! __が! __よ!   舌の端に名前が乗る。   ──イグニス! 「目標体内に、汎次元結晶生成を確認。密度、真度ともに拡大中」 「結合密度7000を突破。なおも上昇中」 「次元貫通の理論値を突破しました」  神鷹はうなずく。 「ミッション第三段階開始!」   声には、抑えきれない愉悦があった。 「これよりミッション第三段階を開始します。全研究員は、亜空間結界内に退避」  克綺を中心に荒れ狂う光が、急に消え失せた。 暗闇の中で、ただ、克綺の体だけがぼんやりと光る。 ぐにゃり、と、風景が曲がった。 「疑似重力場生成確認。亜空間結界起動」  神鷹たちの足下を、青い光が走る。  まるで、液体が渦の中に吸い込まれるように。 克綺の周囲の床が、天井が、空気が……空間そのものが、エッシャーの絵のようにぐにゃりと歪み、その胸へと吸い込まれてゆく。  研究所の床が、みしみしという音を立て始める。 「建物は保つんだろうな?」  神鷹は、口の中で呟いた。 強度計算がされていることは知っているが、それでも不安になる。 「計算では、建物全体が崩壊するより早く……あれに呑み込まれます」  オペレーターが言わずもがなの返事を返す。 「シュバルツシルト半径、順調に拡大。疑似質量、t五乗に比例して拡大中」  克綺の頭上は、荒れ狂う嵐だった。 その心臓を中心として巨大な竜巻が成長する。 末広がりに拡大する竜巻は、なにもかもをぐにゃりとねじ曲げて呑み込む。  天井が、消えてなくなった。 空の星さえも歪んでみえる。 「目標、特異点、顕現します!」     空に、〈罅〉《ひび》が入っていた。 暗い夜空であったものの間に、無数の微細な罅が入り、脈動する光がそこから洩れ出しはじめた。  「特異点、誘導開始!」   克綺の力……全人類の魔力を束ねた槍が空間に穴を開け、新たな世界への門を開く。 その世界の魔力が……法則が地上に雪崩れ込み、古い時代の法則を駆逐する。 あとは、正しい世界への門を開くだけだ。 計算は、七年前に終わっていた。 「疑似重力場の制御に問題発生!」 「近傍にて、次元抗体の発生を確認! 干渉します!」 「馬鹿な! 魔物どもは、隔離したはずだ!」   神鷹が血を吐くように叫ぶ。  「発生源は……研究所一階です!」  研究所の前庭を、巨大な爆風が通過した。 紅蓮の炎が、ことごとく吹き消される。 「……なんだ?」  咄嗟に管理人と少女をかばって倒れ込んだ峰雪は、それきり絶句した。      空は昼のように輝いていた。 血糊と泥に汚れた手足が、白茶けてみえる。 峰雪は、空を仰いだ。   それは、暗い夜空の中、深い青に輝いていた。 全天を覆う翼と、細い手足。 そして、下界を見下ろす目。 正視することができないほどの眩しさをもちながら、峰雪には、そのすべてが手に取るように分かった。        膝が、崩れる。  峰雪は、頭を抱えてうずくまった。 見るな。目がつぶれる。 声を出すな。気づかれる。 それは本能にまで刻み込まれた恐怖。 隷従の記憶。        ザ・ロード・ハズ・カム。 主は降臨せり。   ──畜生。祈るなんて、しなけりゃよかったぜ。   恐怖に打ち震えながら、峰雪は、大地に横たわった。 焦げ臭い地面は、焼けるように熱い。        その熱さが、ふい、と消えた。 空気までもが冷えてゆく。   ゆっくりと、あたりに闇が戻る。 峰雪は、おそるおそる顔を上げた。 「……イグニス、さん?」  いや、違う。 目の前にいるのがイグニスのはずはない。 背筋に走る震えはどうだ。 叫んで逃げ出したくなるこの気持ちはどうだ。  一糸まとわぬ裸体は光り輝き、劣情よりも、恐怖と絶望を呼んだ。 その背には、いまだ蒼く輝く翼があった。 「みねゆき……」  赤子が言葉を繰り返すように、イグニスは呟いた。 放心したような目に、意志の輝きが現れる。  ──和光同塵。 光が。圧力さえもつ耐え難い光が。 その服によって多少なりとも遮られ、内へしまわれた。  神々しく輝くかんばせは、未だ、直視するのはためらわれたが、それを美しいと気づく余地が生まれた。  峰雪は何度も唾を飲み込む。 あの皮肉な笑みは、そこにはない。 イグニスの顔は、今生まれたばかりの赤ん坊のように無邪気で。 同時に、数千年の時を閲した深い智慧を感じさせた。  何も飾らぬ素顔。 目の離せない無邪気な笑顔。 ただ、それを見ることは、遙か深い谷をのぞき込むにも似て。  心が凍る。 ただただ、圧倒されるのだ。 「克綺はどこにいる?」  その言葉に、峰雪は、かろうじて我に返る。 震える手をあげて、研究所を指した。  周囲を取り囲む炎も、居並ぶ仮面の巨人たちも、もうまったく意中にない。 そんなものよりも、峰雪はただひたすら、目の前の女性が恐ろしかった。 「そうか」  炎の壁を蹴散らして、実験体が迫り来る。 光の装束を身に纏うイグニスの前に、立ちはだかる八つの巨躯。 「ふむ?」  その偉容にようやく気付いたかのように、イグニスは仮面のひとつひとつを眇め見る。 値踏みするように、その意思を問うかのように。  巨人たちは戦慄した。 それぞれが大量殺戮兵器ばりの破壊力を備えた超人たち。  その八人もの集団が―― 徒手空拳の女を前にして、まさに蛇に睨まれた蛙の如く硬直する。  異形の巨人たちは、それでもかつて人であったが故に、理解せずにはいられなかった。 その遺伝子に刻み込まれた恐怖の記憶、血の中に眠る太古の悪夢を、思い出さずにはいられなかった。  それでも雄叫びを上げて戦意を奮い起こしたのは、人間としての尊厳か、最強の兵士としての自負か。 ――それとも、ただの錯乱だったか。 「よかろう」  女は微笑んだ。 ほんのかすかに口元を緩めて。 そのとき実験体たちは破滅を悟った。  恐怖に理性のタガのはずれた巨人たちは、だが最後に残された生存本能に駆られて、その肉体のすべてを解き放つ。 渾身の最大出力、ただ一撃に賭けた必殺の攻撃。  灼熱の炎は四千度以上。 閃く雷電は二千万ボルト。 七百万ジュールの轟きを上げる衝撃波。 二千気圧で迸る超高圧搾の水流。  山すら穿つ大破壊力が、紗に包まれた、細くたおやかな女の肢体めがけて殺到する。 「無茶をするな」   イグニスは片手を差し上げた。 ただ、それだけのことだった。  髪を揺らす微風ほどの力も、彼女には届かなかった。 炸裂したすべてのエネルギーは、残らず掌に阻まれる。  炎も雷も運動量も、すべて荒れ狂うがままに凝縮され、逃げ場すらも失って、細く長い指の隙間へと収束されていく。  あとには、超新星の如く輝きを放つ純粋エネルギーの凝結が残った。 イグニスは悠然と微笑んだまま、ワイングラスの中身を弄ぶかのように、ゆっくりと掌の上で転がす。 「消え失せろ」  言霊は、ただ一言。 その顕現は速やかに――  避けることも、身構えることすらも叶わず、八体の巨人たちはイグニスの手から拡がる光を浴びる。  悲鳴が上がる暇さえなかった。 隣り合う細胞どうしが交互に破裂し、圧壊し、その構成分子はナノセカンドの周期で沸騰と凝固を繰り返し、もはや元素レベルでの結合すら許されず――科学の粋たるその肉体は、残骸すら残さずに消滅した。 「……なんだ、ありゃ」  ただ呆然と、峰雪は呟くしかなかった。  むろん彼は知る由もない。 そは、最も気高き刃。 かつて神と崇められ、あるいは悪魔と畏怖された荒魂の、現世に生き残る最後の一人。  幾星霜に渡り人に身を窶し、封印され続けてきたその力が、いま縛めを解かれて復活を果たしただけのこと…… 「世話になったな」  イグニスが肩を叩いた時、思わず、峰雪は、身を固くした。 だが、その接触は、峰雪を狂わすことも融かすこともなく。 ただ、力強い掌の感触が残った。  峰雪は、呆然とへたりこみ、ついで、立ち上がる。 アレが何だったのかはさておき、今の彼には、果たさなければならない役目がある。 「約束は、まだ終わってねぇもんな」  管理人と少女を担ぎ上げた。 例の魔法が切れたのか、二人とも、ずっしりと重い。 「克綺の野郎。あとで、覚えとけよ」  憎まれ口をたたきながら、峰雪は、一歩ずつ歩き始めた。 「次元抗体、接近中」  オペレーターの緊張した声を、僕は、夢うつつに聞いた。 ゆっくりと目を開く。   「うわぁ!」   恐怖の叫びが口をついて出た。   僕は床に横たわっていた。 頭上には、果てしない黒い闇が広がっている。 それは見慣れた夜空ではなかった。   夜空に、罅がはいっていた。 誰かが写真に無造作にカッターを入れたように。 星々の間には、いわく言い難い溝があった。    しかも……縦横に走る罅は、蠢いていた。 ぎしぎしと歪む罅の向こうからは、脈動する虹色の光が見える。   ──まるで卵だ。   夜空は、何かを孕んでいた。 それが、世の尋常のものでないことだけは、確かにわかった。   脈動する宇宙。 僕は、胸に手を当てた。  手のひらが、ジュウジュウと音を立てる。 鉄よりも熱く灼ける何かの鼓動は、夜空の鼓動と一致していた。 「戻れ! おまえは自分のしていることがわかっているのか!」   神鷹の声が、遠くから響いた。 ぐにゃりと歪む視界の向こうで、必死で手を振る様が見えた。  「次元抗体、なおも活性化。 干渉率70%を突破」  「位置だ! 位置を言え」  「……地階に侵入。来ます!」  神鷹の背後の扉が、飴細工のように歪み崩れ、次の瞬間に弾け飛ぶ。 「イグニス!」 「待たせたな」  自分で言っても、それがイグニスだとは、なかなか思えなかった。  荒々しい香りが漂う。 それは荒野に落ちる雷に似て、人を打ち倒す、そんな香りだ。 紅い髪も、紫の瞳も、見慣れた姿だが、そのまとう気配が圧倒的に違っていた。  毛の先にまで満たされた圧倒的な力。 そむけずに直視するだけでも、勇気がいった。  その身を包むのは、いつものくすんだ緋色ではなく、純白のコートだ。 イグニスの名が焔を表すというのなら、今の彼女は、解き放たれ、白熱する太陽だ。  ──女神。 夢に見た光景がよみがえる。 「どうやって……帰ってきたんだ?」 「おまえに魔力を分けてもらっていたからな。戻るのは簡単だった」  「魔力? 血を吸わせた覚えはないけれど……」  「血よりも濃いものをもらっている」   イグニスが顔を伏せる。 「……相変わらずだな」   僕は、イグニスの顔を見て、そう言った。  イグニスが、笑う。 それだけは見慣れた笑いだった。  「どこが相変わらずなんだ?」  「負けず嫌いで意地っ張りなところさ」 「止まれ!」  遅れて部屋に飛び込んできた警備兵たちが、一斉にイグニスへと銃口を向け――そのままの姿勢で凝固する。  いまのイグニスの威圧感は、その立ち姿を目にしただけで人間を凍りつかせるほどに猛烈だった。 「手間を取らせるな」 「動くな!」  どこか優しげですらあるイグニスの言葉にも、警備兵たちは悲鳴じみた声で反駁する。 だがいくら怯えていようとも、すぐにも銃口を下げなかったのは、彼らにとって最大の過ちだった。 「やれやれ……」  すいと腕を差し上げるイグニス。  その掌の上に火が点る。 炎はまるで生あるモノのようにうねり動くや―― 「……陽焔」  ――次の瞬間、警備兵たちは一斉に炎に包まれた。 燃焼はほんの一瞬。 あとには消し炭すら残らない。  あれが……僕がイグニスに与えたという、魔力? あんなにも凄まじい力を?  生き残った研究者達は、すでに地に伏せていた。  ただ、神鷹だけが立ち上がる。 全身を震わせながら、声を張り上げる。 「やめろ!」 「ん?」   イグニスが眉をあげて神鷹を見る。 あの目で、見すえられれば……卒倒は免れ得ない。   神鷹は、倒れなかった。 かろうじて立ち続けた。  その顔色が暗くなる。 いや、あれは血だ。 顔面に、びっしりと、血の色の汗を浮かべていた。  「やめてくれ……あと少しなんだ。 もう少しで……私は……魔物たちを……葬れる。ほんの一歩なんだ!」 「あと一歩は、永遠に届かない一歩だ。 私がいる限りな」   イグニスが呟くと、ついに、神鷹は、全身から血を噴いた。 それでも倒れない。 膝を掴んで、持ちこたえる。  「おまえの心臓を……寄越せ!」   ぎくしゃくと、人形のように、神鷹が近づく。 「どうする?」   僕は、胸の中に手を当てた。 そのまま潜らせる。   痛みが、走った。 指先が、とてつもなく熱く、痺れる。  それは、僕の手の中で大きく脈打っていた。 一気に引き抜く。 「今のおまえは限りなく全能だ。地上で意志の及ばぬことは何一つない」  イグニスが厳かにつぶやく。 「こんなものが、欲しかったわけじゃない」  僕は、吐き捨てた。 「それを! それを……渡せ!」   神鷹が飛びかかる。 避けようとして、僕は、立ちくらみに襲われた。   手から、心臓がこぼれ落ちる。 神鷹が、触れた瞬間。  すさまじい悲鳴が響き渡った。 神鷹のまわりに、霧のようなものが浮かんだ。 それは、血の汗だ。 渦を巻いて心臓へと吸い込まれてゆく。  吸い込まれるのは血だけではなかった。 神鷹の腕は、もはや肘まで心臓に入り込んでいた。 喉から、野太い悲鳴が洩れる。 「掴まれ!」  とっさに差しだした手は、血の汗で滑った。  肘から肩が埋まり、首が没すると同時に悲鳴が止んだ。 両足が大地から離れ、すごい速度で呑み込まれてゆく。 ばたばたと振る足の動きはとまらず、最後に爪先が吸い込まれた。  僕は、おそるおそる心臓に手を差し伸べる。 「大丈夫だ。それは、おまえのものだ。おまえなら、扱える」   声が、やけに小さかった。  まばたきすると、イグニスの体が、透き通っている。 「……どうした?」  「予想された事態だ。もともと人類の魔力は、私を封じるためのものだからな。人のふりをして欺いていたが……そろそろ限界が来たようだ」  「限界って……また、死ぬのか?」  「消滅、と、いっておこう」   イグニスが肩をすくめる。 「魔力を封じれば? 人間のふりをしたら?」  「無駄だ。もう、気づかれてしまった」   イグニスの姿が、徐々に薄くなる。  「なんて、顔をしている。心配しないでも、この騒ぎを見届けるくらいはする」  「だって……せっかく帰ってきたのに、なんなんだよ、それ!」 「おっと……そろそろ時間がないぞ」   イグニスはおどけた顔で、翼を振る。 その先は天を指していた。  無数の罅は、いまや全天を覆っていた。 その一角が、また剥がれ落ちる。  現れたおぞましい触腕は、数限りなく、全てがありえぬ角度に身をよじり、こちらへにじみ出ようとしていた。  鉤のついた先端は、触れる端から時空を汚染してゆく。 地球という空間の一角が喰われ、異形の色に染め上げられてゆくのを僕は感じた。  僕には分かっていた。 あれさえも、先触れに過ぎない。  罅割れの奥にいる何者かに比べれば。 その爪先。 否。細胞一個分以下の存在に過ぎない。  罅割れた空が、膨らむ。 空の奥の名状しがたい圧力が、いまや、こちらに割って出ようとしていた。  そうなったらおしまいだ。 人も人でないものも。 この地球……あるいはその先の全てが、喰われる。 「さぁ、九門克綺。 おまえは、その心臓を使って何を為す?」 「世界を変える力、か」  手の中で燃えるように光り輝くもの。 宝石のように無数の面を持ちながら、脈動、伸縮している。 「不満か?」   薄れゆくイグニスを見ながら、僕は苦笑した。 こんな時でさえ、イグニスは、僕をからかう。 悪魔のように意味もなく誘惑する。 「あぁ、こんな力はいらない」   もっと、もっと小さな願いだったら……僕は使おうと思ったかもしれない。 けれど、これは世界を変えてしまう力だ。  「多分、この心臓は、“時代”みたいなものだ。  望もうと望むまいと、この世のあらゆる者に瞬時に影響を及ぼす力」  「時代は、一人が決めるものじゃない。みなで動かすものだろう?」 「僕は、これを捨てる」  「そうか……」   薄れゆくイグニスの姿は、ほとんど見えなかった。 けれども、その唇に浮かんだ笑いだけは見違えようがなかった。 それは、いつもの皮肉の影のない、本当の笑顔だった。 「さよなら……」   僕は、手にした心臓に力を込める。   爪が食い込む瞬間。 目が眩む。   心臓は、声を上げていた。 それは、消されることを望んでいなかった。 「くっ……イグニス、これは……なんだ?」  「人類の魔力の顕現……すなわち、人の生きようという意志。つまりは欲望だ」      無数の声が、僕の耳元で叫んでいた。   飢えた者は食物を。 母を亡くした子が、暖かな抱擁を。 家族を失った者は、血の復讐を。 飽食した者は、動乱と世の終わりを。 満足した者は、永遠の今日を。   どれ一つとして、欲望の形は同じではなく、声は延々と、続いた。      一つだけ、はっきりと聞こえたのは神鷹のものだった。  「魔を消さねば、人は生きられぬのだ」   エコーのように、無数の声が連なる。 すべては殺戮を望む声だった。 自分以外の誰かへの恐怖と、排除の欲望。   全ての声は僕をぎりぎりと縛り付ける。 どれ一つとして同じ欲望はなく。 いまや世界は、無数の方向へ引っ張られていた。      世界が揺れる。軋む。 そして、今にも砕け散る!   穴が。 無数の穴が開き、次々と触腕がまろびでる。 無数の触腕は、ねじれ、よじくれ、紡ぎあわされ、巨大な一本の腕となる。 巨大な腕の先に。 瞳が開いた。     (帰れ)   僕は腹の底から声を出す。 心臓を。その力を僕は腕に掲げる。  (帰れ!)   腕が。体が。 無数の方向へ引っ張られ、みしみしと骨がなった。 欲望の叫びは、あまりにも数多く、対する僕は、たった一人だった。      空を覆う怪腕。その開いた瞳が僕を見る。 光が。巨大な光が降った。氷のような冷気。 名状しがたい圧力が僕の全身を貫いてゆく。   わんわんと耳元で声が鳴る。 男の声。女の声。年老いた声。幼い声。 世界の終わりを前にして、人々の心は千差万別で。 僕は、それが無性に。   ──いとおしかった。      力を。 力を貸してくれ。   五十億の心の一つ一つに僕は語りかける。 どれほどに疲れた心でも。どれほどに悲しい心でも。 あなたの望む明日が、どこかにあるはずだ。 その明日のために。   力を。 ただひとたびの力を!      腕が、少しずつ上がる。 五〇億の混沌は、ほんの少しだけ、前へ進んだ。 あと少し。もう少し。 もう少しで、あれを……。  (ぐぁぁぁぁぁぁっっ!!)   ようやく、「それ」は、僕に気づいた。 僕が握る力の意味を知った。      僕はようやく気づく。 瞳は、僕を見てなどいなかった。 ただそれは、視線を僕の方向に彷徨わせていたに過ぎない。   今こそ、瞳は、僕を見ていた。 見つめるだけで世界を歪めるその力のすべてを一点に、僕に集める。  全身が揺れた。 貫く冷気。 吐き気が止まらない。 耳元にべったりとしたものを感じる。血だ。       耳元で、神鷹の声がする。  「世界を変えようと言うのは、人の摂理だ。何故逆らう?」  「世界? おまえに世界が見えているのか?」   僕は叫んだ。 ほんの十日前まで、夜の闇に魔物が潜んでいることも知らなかった。 彼らの脅威も、その苦しみも。 いまだって、ほとんど何もわかっちゃいない。      知らないものを、知らないまま、消していいはずがない。 今、僕が、倒れれば、すべては。すべては無に帰るのだ。  「そんなのは嫌だ!」   掲げた腕は。揺れて。揺れて。 歯を食いしばっても意識が遠ざかる。その瞬間。   少しだけ、体が楽になった。       イグニスだ。 翼が、僕を覆っていた。 空から降り注ぐ光は、翼に弾かれた。 苦痛に張りつめた顔は、長くは保たないと言っていた。   息を吸って、右手を挙げる。 ぶるぶると全身が揺れる。 世界が。世界がよじれる。 膨らむ。孕む。 おぞましい腫瘍が今この世に産まれ落ちる。 腕が。ああ、腕の先にあるものが。  ──間に合わない。  そう思った瞬間だった。 「助けてあげる」  溜息のように響いた、小さな声。 けれど、その瞬間、右手が急に軽くなった。  誰かが。誰かが僕を支えていた。 二人で支えれば、力は半分になる。  その一瞬で、僕は、心臓を掲げ、渾身の力で握りしめた。  びくびくと蠢く心臓を握りしめると、僕の手から煙が上がった。 流れた血が焼き焦がされ、黒い煙となって立ち上る。  痛みは……もはや、感じなかった。熱さもない。 ただ、限りない冷たさが、じわじわと広がっていった。 感覚が薄れる手に、無理矢理力を込める。  小気味よい音とともに、心臓は光を発した。  五〇億の声がした。 喜怒哀楽の全てを乗せた声が。 ひとつひとつはか細い声は、光となって撚りあわされ、やがてそれは巨大な拳となる。  拳は上空で怪腕とぶつかりあう。 人の光が、彼方の光とぶつかりあった。 耳には捉えられぬ精妙な響き。  ──勝負は、一瞬でついた。  怪腕の悲鳴が僕を打ち据える。 痛みという痛みが僕を塗りつぶす。 だが、それさえも心地よかった。  ゆっくりとそれは退き、空の向こうへ還っていった。 残された人の光。  光の尾を引いて、それは天に昇る。  しゅるしゅると回りながら、それは広がっていった。 面の一つ一つが、紙細工のように、開いてゆく。 それは開けば開くほど大きくなっていき、やがて、太陽のように大きく輝きはじめる。  虹色の織物が全天を覆い、夜空のヒビを消し去った。  星が、流れた。 虹色の空から、流れ星のように、光が落ちてゆく。 もつれた糸玉をほどくように、光が一筋ずつ、落ちて消えてゆく。  全てを見届けて、膝が崩れる瞬間。 耳元に声が聞こえた。 「お兄ちゃん……」  倒れそうになる僕を、イグニスが支えた。 首から回されたかすかな手が、僕の手を掴む。 羽根のような感触に、右手の突き刺すような痛みが、すこし、和らいだ。 「きれいだな……」 「そうだな……」  吐息のような声が耳をくすぐる。 「なぁイグニス? この10日で、僕の身にいろいろなことがあったよ。 恵は……死んだし、僕は、はじめて、人を殺した。 その二つとも、一生忘れられないだろう。」 「もっと他にやりようがあったんじゃないかって。そう思うことはたくさんある。 この先もずっと、そう思って生きていくんだろう」 「だけど……もしかしたら、僕たちのしたことは、そう悪くないのかもしれない。  下手をすると、もっとひどくなっていたかもしれない。 もっと大きな間違いが起きたかもしれない……そう思わないか?」 「だから僕は。最後に、こんなきれいな空を一緒に見られて。嬉しい。  会えて、よかったよ。 好きだ……イグニス」  返事があったとしたら、風が運び去って、僕の耳までは届かなかった。 握りしめた手の中には、何もなかった。  僕は、少し泣いて。 そして、這うように歩き出した。  くるくるくる、と、傘が回る。 「そろそろ、行きますけれど?」  少女がたずねる。 「待って、もう少しだけ」   恵は、自分の大好きな人を見ていた。 「お気持ちはわかりますけど……そろそろ出発しないと間に合いませんので」 「うん。わかった……」  恵は、差し出された手を取る。 「お兄ちゃん、私がいなくても、だいじょうぶかな?」  「いろいろあるでしょうね。生きてるんですから。 楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、つらいことも」  「心配だな……」  「直に、会えますよ」   少女は、笑った。  「ほんとに?」 「ええ。絶対に」   くるくると傘が回り、それっきり、二人の姿は消えていった。 「よぉ。目は覚めたか?」 「……峰雪?」 「他の誰だと思ってんだ?」 「今度という今度は、逃がさねぇ。洗いざらい吐かせてやるから、そう思え」  峰雪は、隣のベッドで身を起こす。  「ここは?」  「病院だよ。安心しろ。 ストラスからは遠いとこだ」   僕はあたりを見回す。 病院の二人部屋だが、確かに、あの時とは違う。  あの後、峰雪が僕を見つけ、管理人さん、狼の少女と3人分担いで、運んだらしい。  それから丸三日。 何度か意識は戻ったらしいが、その間のことはよく覚えていない。 半分夢うつつだったらしい。 「管理人さんは? あの子はどうした?」 「管理人さんは、さっさと退院していったよ。あの人もタフだな……」  「あの子は?」  「あいつは速攻でバックれやがった。 置き手紙で、おまえによろしくって言ってたよ」   僕は、心臓に手を当てる。  弱々しい鼓動は、そこにあったが、魔力の片鱗も感じない。 あの儀式のせいで、僕が持っていた力は根こそぎ奪われたようだ。 「事件は、どうなった?」  「警察沙汰にはなってねぇよ。なぜかな。ストラスの会社の爆発も、報道されてねぇ。空が虹色に光った、なんてこともねぇようだぜ?」  「なぁおい、克綺。おまえ、見たよな。 イグニスさんが……その、なんだ……羽根生やしてよぉ」  「あぁ」   峰雪は、目に見えて安堵した。 「よかった。メル公は学校から消えたらしいし……」  「メルクリアーリ先生が?」   僕も、彼には聞きたいことがたくさんある。  「あぁ。だから、こんな話できんのも、おまえだけなんだよ。今度こそ、今、ここで聞かせてもらうぜ」   峰雪が、詰め寄る勢いで、語る。 「わかったよ……約束だからな」  その日から、僕は、峰雪に、話を始めた。 峰雪が、しょっちゅう、口を挟んで確認するので、話し終わるまでには何日もかかったが、そこは入院中のことで、時間は、たっぷりあった。  退院の直前、話を聞き終わった峰雪は、こう言った。 「それでおまえ……これからどうするよ?」  「どうするかな」   頭が、ぼうっとして何も考えられない。   ほんの一寸先の夜の闇に、彼らがいることを僕は知ってしまった。   これから先、どうやって生きてゆくかなんて、想像もつかない。 「まずは恵ちゃんの葬式出さないとな。 イグニスさんの葬式も、内輪でやるか? 親父に頼めば何とかならぁな」   坊主の息子の言葉は、現実的だった。  「そりゃそうだな」   仏式の葬式をあげられるイグニス! 戒名でもつけられるんだろうか?  僕は、思わず、吹きだした。 「おい、泣くなよ。それから、ガッコだ。中間試験、近いぜ?」  「中間試験程度なら、問題ない。 君と違ってな」  「けっ。ほざきやがれ」   僕らは、その晩、徹夜で語り合った。 消灯時間を過ぎた布団の中で、学校のこととか、将来のこと、昔のこと、思いつくままに、何でも語った。   翌朝、眠い目をこすりながら、まずい朝食にありつく頃には(管理人さんの朝食が懐かしい)、僕は、何かが終わったことが、理解できていた。   イグニスのこと。ストラスのこと。 人ならぬものたちとの戦いと悲しみ。   事件は終わったわけじゃないし、魔物たちは、今も、人の世の闇に君臨し、あるいは苦しんでいるのだろう。  けれども、僕は僕で生きてゆく。 一日ずつ、一日ずつ。  月日の流れは、僕に優しかった。 メゾンは結局、建て直されなかった。 管理人さんは、僕にあやまって引っ越した。  どういう具合か、恵が死んだことも、メゾンが壊れたことも、公にはならず、僕は何も言われなかった。 僕は、峰雪家から金を借りて、一人暮らしを続けたし、学校もなんとか卒業した。 「やぁ、九門君」  ある秋の、その晩、僕は、BARの扉をくぐった。 久しぶりの日本語が、耳に快かった。 「お久しぶりです、メルクリアーリ先生。お変わりなく」  BARの奥のテーブルで、神父が苦笑した。 五年ぶりに見る神父は、まるで老いた様子がなかった。 つややかな黒髪も、形の良い肩も、そのままだ。 三人がけのテーブルに、腰を下ろす。 「よく、ここが分かりましたね」   スペイン語を覚えるのには2年かかった。 今回が、はじめての海外旅行だ。  「ご冗談を。 招いてくださったんでしょう?」   神父は、肩をすくめて肯定も否定もしなかった。 相変わらず、食えない人だ。 「僕の力だけで、ここは見つからなかったでしょう。あなたが、手がかりで導いてくれたんだ」  「些細な手助けですよ。本気でなければ、ここまで来られなかったでしょう。  それで、何のご用ですか?」   知っている癖に。 「おっと、その前に」   神父が身振りをすると、バーテンがうなずいた。  サーバーから生ビールをグラスに注いでゆく。  「〈ポルファボール〉《ありがとう》」   そういうと、バーテンがウインクした。 ふと思う。この男は……。   注いだのが誰だろうと、握ったグラスは、キンキンに冷えていた。 「本場のカーニャは呑みました?」  「いや、はじめてです」   テーブルに、〈3つ〉《・・》グラスが並んだところで、メル神父がおごそかに言った。  「では……我らの人生を踏みにじった、あのいまいましい疫病神に」  「消えると寂しい疫病神に。乾杯!」  グラスのビールを一気に飲み干す。 香り高いが、のみくちはさっぱりしていて、いくらでも入りそうなところが怖い。   さっそくバーテンが、お代わりをついだ。 「それで……用というのは?」  「さっきので、半分ですよ」   今日は、イグニスの命日だった。   知らないはずはあるまい。 わざわざ今日、ここに来て、僕と会っているからには。 「もう半分を聞きましょう」  「あれから五年。あの事件の……関係者については、先生を除いて、影も形も掴めませんでした」   メル神父が、にこやかに笑った。 紅い瞳だけが、笑っていない。  「あなたは、もう、こちらの人間じゃぁない。裏の世界に来るのは、やめておきなさい。たまに飲むくらいならいいですけどね」 「先生には感謝しています」  「何をですか?」  「あれから魔物の追撃がないのは、多分、先生のおかげでしょう。僕は魔力を失いましたが、それを知らずに襲いかかるものも一匹くらいはいたはずだ。 事件の追及をされなかったのも、多分、そう……」   メル神父は、例によって肩をすくめるだけだった。  「ですがね。先生は、一つだけ勘違いをしてます」 「ほぉ。なんですか?」  「世界に、表も裏もないんですよ。すべて、つながっている。知らなければ、知らずにすますしかないですが、僕は、知ってしまった」  「忘れることですよ」  「忘れられやしません。僕たちは同じ星に住んでるんです。5年前みたいな危険が、いつ、起きるとも限らない。そうしたら、それは、裏も表も関係なく、多くの人に……人でないものにも危険が及ぶ」 「あなたは、あの女の真似をするつもりですか?」  「人類の守護者ですか? ええ、そう名乗ってもいい」  「よしなさい。人の身で」  「イグニスも、生身で戦ってましたよ」   イグニス、という言葉が、まるで、猥語でもあるかのように、メル神父は顔をしかめた。 「あれは特別だ」   今度は、僕が肩をすくめる番だった。   イグニスには、数千年の経験と知識があった。 僕には、そんなものはない。   だからといって。 立ち止まることなどできるはずがないじゃないか。 「それにしても、なぜ、私に? 人の世を護りたければ、ストラスはどうです? あそこ以外にも、我々を知っている人間たちは、結構いるものです」  「人の組織は、所詮は、人の目でしか見られませんから。 それじゃぁ……足りない」  「君は、我々と共存するつもりなのですか? 肉牛と人間が共存できるとでも?」 「共存が可能か不可能かは知りません。もしかしたら、神鷹が正しいのかもしれない。僕は、あなたを殺さないといけないのかもしれない。でも、試してみなきゃわからないことはたくさんあるでしょう?」  「それに……僕と先生は、共存している。あとは、その規模を十億倍に広げるだけですよ」   メル神父は、グラスを掲げた。 「酒の上で語る法螺話としては、上等の部類ですね」   そう言って笑う。 どこか疲れた、それでいて、透き通った笑みだった。 「では、九門君の一夜の夢に、乾杯!」  「夢に終わらせるつもりはありませんよ」   僕は応じる。  ……ねぇ、イグニス。君はどう思う?  もし、あいつが、今、ここにいたら。 身の程知らずの夢物語を僕が語ったら、どうするだろう? 決まっている。  3つ目のグラスが、テーブルの上に置かれている。 乾杯の響きにあわせて、かすかに泡が揺れた。  その揺れは、あたかも、笑い声にも似て。  瞬間、あの皮肉な笑みが。 僕には、はっきりと、そこに見えた。        薄れかけたイグニスの手を、僕は取った。  「決めたよ。僕は、おまえを助ける」   イグニスがあわてるところを見たのは、これが初めてかもしれない。 「何をするつもりだ!?」  「イグニスが、生きられる世界を作るのさ」  「無理だ。そんなことは」  「やってみなくちゃわからないだろう?」  「もし、できたとすれば……」   僕は、首を振って、イグニスから目を逸らす。 もはや話している時間も惜しい。 「心臓よ。僕に力を貸せ」  僕は、胸に触れる。  瞬時に血が炎と変わった。 灼熱した固まりが、胸を焼き、脊髄を焦がし、脳に達して視界を真っ赤に染める。  産毛が逆立ち、指先が痺れる。 かつてないほどの魔力が全身をかけめぐってゆく。 「僕は……イグニスが生きる世界を作る。何が起きようと、知ったことか!」  一言ごとに、心臓が脈打った。 一打ちごとに、身体を駆けめぐる血の流れが感じられる。  胸の金時計が割れて、地に墜ちた。 差しだした手の中で、時計が融け崩れて地に滴る。 途端。  螺旋を描いて経巡る血脈が、その速度を増した。 ごうごうと音を立てて大河のように僕の中のなにもかもを押し流してゆく。  血の道が破れ、たちまち肉がえぐられる。 骨が砕かれ、脳が沸騰した。 皮一枚を隔てて、圧倒的なエネルギーが流れていた。  深紅に染まった視界の中で、かすかにイグニスの姿が見えた。 僕は、笑う。精一杯。  気は満ちた。 為すべきことは。 あるべく世界を掴み取ること。  僕は、右手を胸に当てた。 五指を立て、ゆっくりと埋めてゆく。  骨も肉もすでにない。 貫く指に抵抗はなかった。  掌で、心臓の鼓動を感じる。 火山に蓋をして抑えるような巨大な圧力が、手の中で脈打っていた。 「僕は望む。イグニスと僕が生きる世界を!」  空を見上げる。 ひび割れた空の向こうで、無数の触手が蠢いた。 ……これじゃない。 僕は、握った心臓に力を込める。  空の色が変わった。 棘だらけの触手は苦痛に呻いた。 ゆっくりと空の向こうへ帰ってゆく。  ダイヤルを回すように、僕は心臓を撫ぜた。 空の色が次々と変わり、やがて全てが混ざる灰色となる。  ──見つけた!  パズルのピースがはまるように、僕の手と心臓と空が、かちりと音をたててあるべき位置に組み合わさる。  門が、開く。 無数の亀裂が次々とつながってゆく。 夜空の破片が、星々をまとったまま、次々と剥落する。  鮮紅色の輝きが、夜空を覆う。  それは異形の太陽だった。 全天の半分を覆うそれは、宝石のように無数の面を持ちながら、生き物のように脈動していた。  光が、地上に降り注ぐ。 空が、大地が、紅い光に満たされていた。 地をくまなく覆うその光。  紅色の光に照らされて、無数の黒文字が現れる。  僕の目の前に、大地に、空に。 空中に現れた呪言の網は、くまなく視界を覆い、収縮を繰り返しながら、視界すべてを覆っていた。  今、地球を包む結界が露わになったのだ。 目を上げる。  イグニスは、無数の文字に囲まれていた。 それは手足を縛り、腹を貫き、胸を切り裂き、目をえぐっていた。 皮膚の毛穴から入り、その身体を貪り尽くす。 「消えろ」  喉の奥から太い声が出る。 網は、びくり、と、震えた。 「消えろ!」  もう一度、力を込める。 紅い太陽が大地を揺らした。  呪言の網が震撼する。 イグニスが苦しげに身を揺さぶった。 「消えろ!!」  僕は右手で心臓を握りつぶす。 光の箭が、無数に降り注いだ。 質量さえ持つ鋭い光が、呪言の網を切り刻む。 空間が張りつめ、拮抗した。  足の先から鼓膜。 頭蓋骨まで震わせる響きとともに、網が、破れる!  頭上で太陽が砕けて消えた。  夜が、戻る。 耳が痛いほどの静寂。 目の前が残像で埋まり、前が見えない。  目をこすり、息を整え、僕は、顔を上げた。 血みどろの右手が、だらりと垂れ下がる。  倒れる僕を、抱き留める手があった。 顔が、胸に埋まる。 吐息がうなじをゆらす。 「おまえは……何をしたのか分かっているのか?」  声には張りがあった。 力があった。 そして大きな怒りが。 「何のために私が魔物からおまえを護ったと思う! これをさせないためだ! それを……」 「よかった……」  僕は、イグニスを抱きしめる。 「な、何をする!」 「本当に……よかった」 「泣くな!」  両の腕で抱きしめるイグニスの身体は、思ったよりも細かった。 僕は、無言で抱きしめ続けた。 ひとしきり涙が流れ落ちるまで。 「これは……予想外でしたね」   教会の地下室の中。 メルクリアーリ・ジョヴァンニは、静かに夜空を見上げていた。  見えるのだ。 堅い石の床と重い土を見通して。 空に輝く星々と、その間に満ちる精妙な大気が。  昂揚感が全身を満たしている。 空気の澱んだ部屋で、窓を開け放ったような。濡れた衣服を脱ぎ捨てたような。 そんな新鮮な快感が全身を包んでいる。  背筋をかけのぼるぞくぞくする刺激は、ほとんど声を漏らすほどだった。 「備えを置いておいたはずですが……まさか、九門君が、ここまでやるとは」  吐息とともに、背に翼を生やす。  天井を抜け、土を潜り、瞬く間に校庭に姿を現す。 「イグニスが残り、ストラスは消えた」  そう呟いて苦笑する。 細々とした計算も、姑息な権謀術数も、今となってはいらないものだ。  宙を仰げば、星を横切る影があった。 気の早い者たちが、姿を現したのだ。  鳥とも違い、人とも違う、異形の影。 昆虫に似た羽根と、二つの首が、くっきりと浮かび上がる。  ──あれは……。  この街を統括するメルクリアーリですら知らぬ魔族だ。 他から渡ってきたか、あるいは、人の時代を嫌って冬眠していた古の魔族か。 いずれにせよ。 「新しい……時代が来ますね」   メルクリアーリは微笑む。   どんな時代かは、分からない。   ただ、ひどく、元気な時代だ。  遠くから、悲鳴が聞こえた。 幼い子供の声。  夜空に薫る血の匂いに、メルクリアーリは、しばし陶然となり、それから翼を大きく羽ばたいた。  研究所から出るあいだ、イグニスは文句を言いっぱなしだった。 「今まで人の世の闇に、あるいは人里離れた奥地に、身を潜めていたものたちが一斉に牙を剥くぞ? 数千年の怨念が、人に刃向かう。そして、人を護る結界はもはやないのだぞ?」 「あぁ」 「何が、あぁだ。おまえは、わかっていない!」 「わかるわけがないさ!」 「世界がどう変わるかなんて、僕に、わかるわけがない」 「大勢人が死ぬぞ!」 「でも、イグニスは助かった」  僕はイグニスの視線を受け止める。 「……過ぎてしまったことだ。 私を助けたことを否定はできんし、おまえを罰することにも意味がない。だが……」 「昔、誰かさんがしたことと同じだよ。 僕は、まだ、同族を滅ぼしたわけじゃない」 「人はね、生き残るよ。 イグニスが言った通り。人間は、変わるから、強い。 だとすれば……魔物が現れるようになったとしても、決して、負けやしない」 「詭弁だな。おまえは自分の種を売って、魔物に与したのだ」 「違う」 「何が、違う」 「違うのは、一つだけだ。確かに、僕は、人類を売ったかもしれない。 けれど、魔物に与した覚えはない」 「なんだと?」 「僕が与した魔物は、ただ一人。君だ、イグニス」  僕は、笑った。 「おまえは……」  言葉は切れた。 僕が唇をふさいだからだ。 「行こう。イグニス。いまこそ、人類の守護者の力が必要だ」 「行ってやるとも」 「よく見ておけ。あれが、おまえが今日から暮らす街だ」  赤黒く濁った空を、咆哮が揺るがす。  白々と輝く月を遮って、ひどく長い影が、夜空を横切る。 輝く鱗。長い尻尾と、鋭い爪。そして、首。 「竜……」  すでに、街は燃え始めている。 その炎は、多分、これから、どんどん大きく燃え広がっていくのだろう。  焔の時代へ、僕は、第一歩を踏み出した。 傍らにイグニスを伴って。        会ったからといってことさらに追うこともない。 僕は、そのままゆっくり歩き続けた。   くるくると回る傘は、あっという間に雑踏の中に消えた。 鮮やかな傘はとても綺麗で、少しだけ残念な気がした。  空きっ腹を抱えたまま、歩き出す。   昨日食べた蓮蓮食堂は、なかなかだった。 今日も、あそこにしようか。 あるいは──。   頭上から声がしたのは、そんな時だった。 「あ、お兄さん!」   声は若くて熱くて力に満ちていて、ふらふらと漂う僕をぐらぐらと揺らす。 揺れが収まるのを待って、ゆっくりと歩き出す。  「ちょっと待ってよ! ラーメンのお兄さん!」   声が、僕を指していると気づくのに、しばらく時間がかかった。 「あ……」   間抜けな声が出る。  声の元は電柱の天辺だった。ちょこんとしゃがんで、まっすぐな目が僕を見ている。  「ちょっと待っててね」   わけもわからずうなずく僕。 「うーーん」   少女は、気持ちよさげに伸びをすると、頭から先に飛び降りた!   ごうっと風が吹いた。血が湧くような感覚とともに、僕は両手を広げる。  髪を残らずかきあげるような突風とともに、少女が飛び込んできた。 思ったより軽い手応え。 ふわりと、じわりと、どすんと、熱い塊がぶつかる。  一瞬、胸に熱い体温を感じた。時計がカチリと秒を刻む。 「ありがとう」   尻餅をついて倒れかけた僕を、少女が掴みとめた。 「こちらこそ」   少女の手を掴んで、僕は立ち上がる。 「君は……あの時の」   ラーメン屋であった彼女。 そう言えば名前を聞いていなかった。  「うん。あの時は、ありがとうございました」   ぺこり、と、帽子のてっぺんが見えるほどお辞儀する。 「あ、えーと、お金、お金」   くるくると動き回る少女を、僕は、じっと見ていた。   彼女のリズムに身体がついていかないのだ。   意識して、頭のギアを変える。 どこかで、ぐきっと音がした気がする。 「これで……足りるかな?」   少女は、心配そうに、がま口から、しわくちゃのお札をひとつかみ取り出した。  「どれどれ……」   財布から、ラーメン屋の領収書を取り出して、金額を見比べる。  「うん、ありがとう。これ、お釣り」 「ありがとう。この恩は、一生忘れないよ」 「そんな大層なことじゃない。 忘れてくれていいよ」 「ううん、ゴハンをもらうのは、命を助けてもらったのも同じ。一生ものの恩だよ」  「……そうなのか?」  一宿一飯の恩義というが、僕のは、宿抜きの一飯だけだ。 飢えて死にそうになっていたというわけでもあるまい。  「そうだよ!」   少女は、きらきらとした瞳で、大きくうなずいた。 それだけで、熱い風が吹きつけた気がして、僕は一歩よろめいた。 「そうか、わかった」   そう言うと、頬が緩んだ。  「なになに? 何がおかしいの?」   好奇心たっぷりの顔で、少女がのぞきこむ。 「いや、そういや名前も聞いてなかったなと思って」   その瞬間、少女の顔が、鮮やかに紅くなった。 片手で顔を隠しながら、ちょっと距離が開く。  「僕は、九門克綺。君は?」 「えっと……それ、本名?」 「あぁ」   僕は軽くうなずく。  「ごめん。ちょっと考えさせて」 「……? 別に構わない。 好きなだけ考えてくれ」  今の時代、個人情報の管理は重要だ。 安易に本名を聞くのはまずかったかもしれない。 おおざっぱな子かと思ったが、意外としっかりしているようだ。  「まぁ立ち話もなんだし、どこか座れるところにでも行こうか? ええっと……」  「ボクは、風のうしろを歩むもの。 そう呼んでください」 「じゃぁ、よろしく。風のうしろを歩むもの」   僕は、その奇妙な名前を口にした。 「よろしく、カツキ」   僕たちは、おごそかに握手した。 小さな手は、暖かく、それでいて力強かった。 「ねぇ、どこ行く?」   僕は、ゆったりと歩き、彼女は、飛び跳ねるように走る。 ばらばらな足の長さと、心臓の鼓動。 やがてそれが、ゆっくりと調和する。 僕が二歩進む間に、彼女は五歩進む。 ちょうど十歩の周期で、僕たちの歩みは同期する。 美しい最小公倍数。 「どこでもいいけど……」   心配なのは、彼女の懐だった。 あまり大金を持ってるようには見えない。  「じゃぁ、この前のラーメン屋」  「蓮蓮食堂か。構わないよ」 「よし、決まり」   少女の歩みが速くなる。 「それはそうと……どうして、あんなところに?」   登るのも大変だろうに。  「ちょっと見張りをしてたんだ」  「何を見張ってたんだ?」 「悪いヤツ」   単純明快な返事が返ってくる。 「悪いヤツって……どんな?」  「ちょっと説明が難しいけど。 ええと……殺し屋っていうのかな?」 「殺し屋? それは暗殺を生業にしてるということを意味するのかい?」  「いや……お金じゃなくて、趣味かなんかだと思う」 「じゃぁ……殺人快楽症?」  「多分、そのカイラクショーだと思う」   少し興味がわいた。  「どんな人なの?」  「意地悪で、ずるがしこくて、とにかく汚いヤツ。誇りのかけらもない人だね」  言い換えると機転が利き、スタイルにこだわらないということか。有能ではあるのだろう。  「それを見張ってたわけか。危なくないか?」  「危ないっ!」  少女が、僕を突き飛ばす。   鉄板をすりあわせるような音が轟いた。 少女は両手を合わせていた。   掌を開くと、何かが路上に落ちてちりんという音がした。   それは暮れゆく夕日に、金色に光っていた。 先の尖った円柱は、目にするのは初めてだが、銃弾、というものだろう。  「見つかった! 速く逃げないと」  少女に手を引かれて、僕は走り出す。   轟音……銃弾。 ああ、狙撃、か。ようやくそこまで頭の中でつながる。   待てよ……じゃぁ、さっき。この少女は、狙撃された弾を、掌で挟みとめたのか? 「そんな馬鹿な」   口に出して見る。 トリック、と、考えるのが、もっとも単純だろうが……そんなことをするのに何の意味がある? 疑問を抱いたまま、僕は走り続ける。 「こっち!」   少女が、すごい力で手を引いて、僕は振り回される。足下では、アスファルトの路面が、音を立てて砕け散る。   殺し屋。 少女なりの表現、ある種の比喩だと思っていたが、俄に現実性を帯びてきた。 「大丈夫?」   気が付くと、少女は……走りながら僕の顔をのぞきこんでいた。 僕は、かろうじて首を縦に振る。 さすがに息が切れてきた。  「あと、ちょっとだよ」   腕を引っ張る力が倍加した。 どたどたと足が動いて、つんのめる寸前でついていく。 「さ、ここならしばらく休める」   僕たちは、壁を背にして立ち止まった。 建築中のビルだ。起重機やらトラックやらが、やかましい音を立てている。  肩で息をしながら、僕は足を止めた。   銃声は、止んでいた。 「こんなことに巻き込んじゃって、本当にごめんなさい」   少女が深々と頭を下げるのを、僕は当惑したまま見つめた。 現実感がない。  「僕たちは……狙撃されたのか?」   呼吸が整うと同時に僕は聞いた。 「そうだよ。あのカイラクショーの節操なしときたら……」   少女は、ぶつくさとつぶやく。  「どうして、命を狙われてるんだ?」 「あいつはボクらを憎んでるから……」  「僕らって?」 「うーんと……ボクの一族かな」 「どういう一族なのか、聞いていいかな?」   少女が困った顔をする。  「ええっと。一族は一族だよ」   不明瞭な返事に、どう言葉を継ごうかと思った時、頭上から音が響いた。  錆びた鉄の軋む音。 小さな音が、やがて鉄鐘を打ち鳴らすような轟音となった。 見上げた僕は呆然とする。  鉄骨だ!   ビル工事の鉄骨が、頭上からまとめて降ってきていた。  腹に、重い衝撃を感じると同時に、景色が水平移動する。 首筋に鞭打ちの痛みが走る。   少女に突き飛ばされた。 そう気づいて、振り向いた時には。  耳を聾する轟音とともに、目の前を、鉄の塊が跳ね回っていた。 トランポリンのように弾みながら、路面を大きくえぐりとってゆく。 魅入られたように、僕は、その様を見つめていた。   うち一本が、大きく弾んで僕の目の前に飛ぶ。 瞬間、音が消えた。 なにもかもがスローモーになり、ゆっくりと鉄塊が近づく。  僕は、やきもきしながら身体を振り、横へ跳んだ。  ゆっくりと身体が動く。  地を蹴って、着地するまでの時間が、悪夢のように長かった。 ゆっくりと近づく鉄塊を、紙一重で避ける。  飛び散る破片が足に刺さるのを、意識しながら僕は走った。  水銀の海を動くように、跳ね回る鉄塊の二本目、三本目をかわす。  足下を揺るがす音がとまって、ようやく、僕は立ち止まった。 ズボンに刺さったアスファルトの破片を取ると、思い出したように痛みが走った。血が、靴下に染みている。   今は動かない鉄骨の山を見て、ようやく僕は、少女のことを思い出した。 僕を突き飛ばしたあの子は、無事に逃げられただろうか?   僕は……。 ・即座に、少女の元に走った。→2−4−1・身を翻して、逃げ出した。→2−4−2へ ●2−4−1  そもそも鉄骨が落ちたのも、狙撃を受けたのも、彼女を狙った攻撃であろう。 となれば、彼女の側に居続けることは危険を意味する。  僕が彼女のそばにいたところで、助けられるわけでもなく、足手まといになるだけだ。 であれば、論理的な行動としては、二手に分かれて逃げることだろう。  しかし。 もしも彼女が今の攻撃で怪我をしているのであれば、敵がとどめを刺す前に、僕が助けられることもあるかもしれない。   それは当然、危険を伴う。 敵に顔を覚えられれば、僕まで抹殺の対象になるかもしれない。   近づくか、離れるか。 二つの選択の内のどちらがより正しいかは、人それぞれの価値基準によるだろう。  まずは評価基準を抽出し、その上で損得を計算し、比較することだ。 多面的な視点と、綿密な考察が必要となる難解な命題だ。   そんなことを考えながらも、僕は、走っていた。 最後に少女を見た方向に、だ。   人間というのは、論理通りに行動できるものでもない。 心臓のない、時計仕掛けの僕でさえ、だ。 「大丈夫か?」 「ん?」   少女は、鉄骨の中で座っていた。   「生命に関わるか、あるいは重大な後遺症を残す可能性のある怪我はないか? 軽傷であるならば、それはこれからの逃走に支障を来すほどのものか?」 「いや、えっと……」   少女は、混乱した顔で僕を見て、それから、ようやくうなずいた。  「助けに来て、くれたの?」 「必ずしもそうとは言えない」 「君の身体能力が万全であれば、僕が来たところで助けにはならない。かえって足手まといになるだろう。 君が負傷していたのであれば、助けることができる。 前者の可能性に思い至らなかったのであればともかく、その両方を考慮した上で、僕はここに来ている。 よって、助けに来た、という表現は正しくはない。 助けになる可能性を考慮した、というべきだろうな」  「つまり、心配して来てくれたんだ」   しばらく少女の言葉を反芻し、僕はうなずいた。 「あぁ」 「ありがとう」   少女は、目を輝かせて僕の両手を取った。 その飾らない言葉は、僕の身体全体に響くようだった。  「先の質問に応えてくれ。健康状態はどうだ?」 「ばっちり!」   そう言って、少女がガッツポーズを取った瞬間。  お馴染みの音とともに、地面が弾けた。 「こっち!」   僕と少女は、再び走り出す。 「どこへ逃げるんだ?」  「逃げるんじゃないよ! 追いつめる!」   少女が、大きな声で言う。  「わかった」 「えっと……それから、さっきの話ね」 「さっきの……? どの話だ?」   息を切らしながら、僕は応える。  「えっと……本名の」 「あぁ、なんだ、こんな時に?」  「ボクの返事は、はいです。ふつつか者で、迷惑もかけちゃうと思うけど……よろしくお願いします!」  意図を理解しかねる返事に、僕が首を傾げて聞きかえそうとした時、  少女が僕を止めた。   鋭い殺気に、僕は口をつぐむ。 →2−5 ●2−4−2  そもそも鉄骨が落ちたのも、狙撃を受けたのも、彼女を狙った攻撃であろう。 となれば、彼女の側に居続けることは危険を意味する。 僕が彼女のそばにいたところで、助けられるわけでもなく、足手まといになるだけだ。   であれば、論理的な行動としては、二手に分かれて逃げることだろう。 僕は、彼女が鉄骨の下敷きになってないことを祈りながら、走り出した。  人通りが少ないわけでもない道のこと。 物見高い連中が集まってきていた。 数多い人混みの中に、ふと、気になるものがあった。  日傘だ。くるくると回る藍色の傘。 朝会った、あの子か。 こっちは危ない。そう言おうと思って、手をあげた。   が、手が上がらない。右腕が痺れている。  ……なんだ? 痺れてるのは右腕だけじゃない。足も腰も、右半身が、痺れている。  氷水に浸かったような衝撃が背骨に走った。   景色が、ゆっくりと右側に、かしぐ。 ぐんぐんと、地面が近づいてくる。  頭がぶつかって、ぐらぐらする。痛みはない。痺れている。 なにもかんじない。  なにかが変だ。 いや、なにも変じゃないのか。 胸が、びしょぬれだった。おなかをつたって足までぬれている。 どうしてぬれているのだろう?  撃たれた? 誰に?  血。あかい血。 目のまえがあかくそまってゆく。  傘。くるくるとまわる傘。   のぞきこむ目は、つめたくもやさしくもなかった。 唇が動いた。 紡がれる言葉に、僕は、じっと耳を傾けた。左の耳を。       →エンド  空気がいやに生ぬるかった。 工事が終わったばかりなのだろう。真っ黒なアスファルトが、湯気を立てている。  夕日をねじまげる陽炎の中から、女はにじみ出るように現れた。 「見つけたぞ、殺し屋!」   紅いコートは夕日に溶け、ただ、脇に抱えたライフルだけが黒光りする。 〈炯々〉《けいけい》と光る目は、殺し屋にふさわしかった。  「〈豺〉《やまいぬ》が吠えるな」   声は歌うようだった。 落ち着いた声には、どこか面白がっている響きがある。  風のうしろを歩むものが、僕の前にすっくと立つ。 「この人は関係ない。行かせてあげてくれ」 「関係ない? 関係ないだと?」  女──殺し屋は、さもおかしそうに笑った。 「気づいていなかったのか? こいつが門だ」   言われた瞬間、風のうしろを歩むものは、何かで殴られたかのように、後ずさった。 僕は、一歩前に出る。  「おまえは誰だ?」 「我が名はイグニス。〈羅馬〉《ローマ》人の言葉にて、〈焔〉《ほむら》という」 「九門克綺」 「どうして僕の名を……」  「私と共に来い。 その〈豺〉《やまいぬ》に喰われたくなかったらな」   喰う? この子が?  「おまえの言うことは理解できない」 「だろうな」  イグニスが笑った。   僕には心臓がない。 恐怖というものがわからない。 けれど、危険なら分かる。 目の前の女は、足が震えるほどに危険だった。 「大丈夫」   風のうしろを歩むものが、僕の肩に触れた。  「風のうしろを歩むものは、彼方の氷河を泳ぐ〈鰐〉《わに》にかけて誓う。 カツキには、指一本触れさせない」   そう言って少女は、僕の前に立った。   「今日は死ぬにはいい日だ」   顔は、見えなかったが、背中が微笑んでいた。 さっき会ったばかりの僕を守るために、かくも雄々しくも彼女は立つ。  風が吹く。   それは少女のほうから吹いていた。 残暑の熱気を吹き飛ばす、〈清冽〉《せいれつ》にして厳しい冬の風。 風花さえ散らして、少女は構えを取った。  「願わくば、山の向こうの三柱の女神が、あなたの道行きに微笑みますように」 「馬鹿め」  イグニスが微笑んで、銃を取る。   ふいに突風が吹いた。  銃声と風音が交錯する。  まばたきした瞬間、少女はイグニスの背後に現れた。   掲げた右腕が、銀光となって振り下ろされる。   閃光。  少女の一撃を、イグニスは長い銃身で受けていた。 つばぜり合いの要領で、ライフルと爪が押し合う。   その隙に、イグニスが逆の手で拳銃を抜きだした。  「危ない!」   声が届いたかどうか。  銃声が連続し、少女が跳びすさる。 「つまらんな」   イグニスが癇に障る笑みを浮かべた。  「殺したくなかったんだけどね」   少女が顔を伏せた。  顔を上げた少女の瞳は、緑に光っていた。 ぴんと尖った耳が左右に動く。桜色の唇からは牙がのぞいていた。  人外の相を露わにした少女に、イグニスは、これみよがしに、拳銃を捨てた。 「来い。遊んでやろう」  イグニスは静かに構えを取った。 両足を前後に開き、拳を前に出す推手の型だ。  少女がそれを受けた。 ゆっくりと近づく。  少女が足を揃えた瞬間。  鉄と鉄が噛み合う重い音が響き、獣にも似た苦鳴が洩れる。  焼けたアスファルトを突き破って、虎鋏みが顔を出していた。 少女の足をがっちりとくわえこみ、骨まで達する傷をつけている。  たまらず膝をつく少女から、イグニスは悠々と距離を取った。  「〈豺〉《やまいぬ》には、罠がお似合いだ」  薄笑いしながらイグニスは、懐からナイフを取り出す。   半月状に反り返った黒い刃を振るう。  血が、しぶいた。  少女の振るう爪をステップして避ける。  風のうしろを歩むものの周りを執拗に回りながら、イグニスは、慎重に斬りつける。そのたびごとに血がしぶき、かすかなうめきが洩れた。  それを見ながら、僕は、足音を殺して、ゆっくりと近づいた。 イグニスに向かって、ではない。彼女が捨てた拳銃にだ。  拾い上げようとした瞬間。  黒光りする刃が、拳銃をアスファルトに縫い止める。 「馬鹿な真似をしなければ、もう少しは生きられる」   イグニスが振り向きもせずに言った。  「カツキ。逃げるんだ」   痛みを耐える声は、まだ、しっかりとしていた。 「吠えるな」   イグニスが短剣を振るうと、少女は唇を噛んで悲鳴をこらえた。  「私が卑怯だと思うか?」  「卑怯というのは主観的な概念で、前提として、双方が同じ立場だと認識することが必要となる」   僕は、のろのろと答えた。 「ふむ、正解だな。おまえの言う通り、人と獣の間に卑怯というものは成り立たないんだよ。人が、獣を襲うのに知恵を絞るのは、卑怯とは言わないだろう?」   イグニスが短剣を構えた。腕を引いて投げつける構えだ。  「やめろ!」   僕は、イグニスの手を取った。  途端、天地が逆転する。  一瞬の浮遊感の後、背中から叩きつけられたと気づいた時には、イグニスが僕の喉を踏みつけていた。 「おまえには二つ道がある。 私と共に来るか、その犬ころの味方をして、ここで死ぬか、だ」   声は、あくまで静かで、それだけに凄みがあった。 「選べ」   僕は…… ・言うままにイグニスを受け入れた。→2−5−1・あくまで、イグニスを拒んだ。→2−5−2 ●2−5−1  ……逆らっても仕方がない。 そう悟って僕は、時間を稼ぐ手に出た。 「助けてくれ」   口に出してそう言うのは勇気が要った。 「どうする? 私につくか?」  「つく」 「その命と生涯を私に従う、と、誓えるか?」   躊躇した瞬間、喉にかかる圧力が増した。 「ち、誓う」   苦しい息の下から、僕は、そう囁く。 「そうか……それなら」   イグニスの声には、落胆の色があった。 「死ね」  喉仏が押しつぶされ、鋭い痛みが脳天につきぬけた。続けて訪れる窒息の苦しみ。 イグニスの腕が、短剣を放るのがみえた。  短剣は、視界の中で、ゆっくりと大きくなり、眉間に命中する。 「カツキ!」   遠くから響く声をかすかに聞きながら、僕は意識を失った。       ●2−5−2 「それは無意味な質問だ」   そう口に出すのには勇気が要った。 「私につくか、やつにつくか。簡単な問題だと思うが?」  「過度に単純化した二択は、複雑な現実を〈捨象〉《しゃしょう》し、単純な世界観を刷り込む洗脳の常套手段だ。 そんな単純な手法に答えるのが無意味だと言っている」 「よく動く口だ」   イグニスの靴が、より深く喉にめり込む。 鋭い痛みとともに、咳がこみあげた。 「もう一度だけ聞く。よく考えろよ。おまえは、どちらの味方だ? 私か? やつか?」  「選べと言うなら、決まっている」  「ほう?」 「僕は、彼女の……風のうしろを歩むものの側に立つ」  「人喰いの〈豺〉《やまいぬ》に身を預ける、か」 「見解の相違だな。僕の見る限り、彼女は誰も傷つけてない。 傷つけてるのはおまえだけだ」  「確かにそうだな。納得して死ねるように手を尽くしてやりたいところだが、いささか時間がない」   踵が喉にめり込み、痛みが全身を貫いた。  暗くなる視界に、短剣を構えるイグニスが見える。 「死ね」  「やめろ!」  鋭い声とともに、嫌な音がした。 ぶきぶきと肉が千切れる音。みしみしと骨が鳴る音。 耳の裏にへばりついて離れないその音は、僕の、すぐそばからしていた。  投じられた短剣を、爪が弾く。  「ボクの背の君にさわるな!」   そこに、少女がいた。 片膝をつき、おびただしい血を流しながら、それでも澄んだ瞳は、まっすぐに前を……イグニスをにらんでいた。  「背の君だと?」   少女が僕の肩を取る。片足で少女が跳ねた。  ごう、という風のうなりとともに、何メートル跳んだだろうか。 少女は、そっと僕を道の脇に置く。 「また、かばってもらったね」   風のうしろを歩むものは、囁いた。 僕は首を振る。   ──かばってもらっているのは自分だ。   少女の右足の足首は、ささらにちぎれて骨が見えていた。 真っ赤な血が、鼓動の一拍ごとに噴き出す。 それを見ながら僕は、声も出せずに喉を押さえていた。 「ちょっと待っててね。すぐに終わらせる」   ふらりと少女が立つ。 体重を感じさせない立ち方で、構えを取る。 「死に損ないが」   イグニスは、長い太刀を取り出し、コートを脱ぎ捨てた。 地に落ちたコートが、じゃらり、と、重い音を立てる。  太刀の〈拵〉《こしら》えは日本刀のようだったが、イグニスはそれを片手で持った。  半身になって刀を前に突きだし、逆の手を腰にあてるフェンシングに似た構えだ。  ──あれならば、少女の間合いの外から突ける。  対する少女は、イグニスのほうを見すえたまま動かない。  息詰まる緊張の中、かすかな水音が時間を刻む。 少女の足首から血の滴る音だ。  ふいに、イグニスが動いた。  腰の後ろに隠した手が、短剣を放つ。  少女の位置からすれば、短剣は無から現れたように見えただろう。 くるくると回る短剣が、歪んだ軌道を描いて少女に襲いかかる。  少女は目をイグニスから離さずに左手で短剣を弾く。   イグニスが突いたのは、その刹那だった。  疾風のような突きを、少女は、身を開いて躱す。  イグニスがほくそ笑んで手首を返した。 突きから斬りに転じ、少女の上体を切り裂く体勢だ。 破滅の予感に僕は身をよじった一瞬。  吹き飛んだのはイグニスのほうだった。  少女が蹴り足を戻す。  宙に血のしぶきが弧を描いていた。 ちぎれた足首で、蹴りを放った。 そう理解するまでに、一瞬、時間がかかった。   蹴りならば、太刀との間合いを埋められる。軸足さえ確かなら、傷ついた足でも蹴りは放てる。 理屈はその通りだが……そんなことができるものなのだろうか? あるいは、痛みを感じない体質なのか。 少女の額には、玉のような汗がはりついていた。 痛みを感じていないわけがない。  イグニスが、地に手をついて立ち上がる。 身を逃がしながらの蹴りでは、致命傷には至らなかったようだ。  「やってくれたな、犬が」   眉をひそめ、怒りをあらわにしてイグニスが刀を構える。 「大丈夫か?」   大丈夫なわけがない。 そんなことしか言えない自分がもどかしかった。  「うん、平気だよ」   少女は汗の下から笑ってみせた。 「肩、貸してくれるかな?」  「あぁ」   肩に置かれた手は、小さく、熱かった。   ぽん、と、手が肩を叩いた。  それが合図だったかのように。 少女が跳んだ。  軽やかな風が吹く。僕の肩を台にして、一直線にイグニスのほうに。  風のように飛ぶ少女を迎え撃つイグニス。  太刀と爪の一瞬の交錯。  両の腕を交叉させた少女と、太刀を振り切ったイグニス。 微動だにしない二人の間を、軽やかに風が吹いた。  その風に吹かれるように、ゆっくりとイグニスが膝をつく。 口から血を吐いていた。 地に刺した刀にすがるように立ち上がったかと思うと、脱兎の如く駆け出す。  それを追うより何より、僕は、少女の元にかけつけた。  「平気か? いま、救急車を呼ぶ」   携帯を取りだした手を、少女が押さえた。  「うん、もう、だいたい平気だから。 人は呼ばないで」  普通だったら、どんな事情があっても病院に連れてゆくところだが、少女の声には、不思議な説得力があった。 足下をみれば、すでに、血は止まっていた。  「ちょっと、そこの電柱まで、肩、貸してくれるかな?」 「ああ、これでいいか?」   言われるままに、電柱に少女を連れて行く。 「多分、ここの裏だと思うけど……あった、これだ」   のぞきこむと、そこには大きな黒い羽根がガムテープで貼ってあった。 羽根は、多分カラスのものだろう。 「それ、剥がしてくれるかな?」   言われるままに剥がすと……すぅっと冷たい風が通りを抜けていった。 「これは何かな?」 「風切りの法だよ」   少女の声には、これまでにない力があった。気のせいか血色もよくなっている。  「道理で、風が死んでると思った。まったくあの女ときたら……」   少女は一人でうなずくが、わからないことだらけだ。 つぶやく少女は、どうみても重傷を負ったばかりには見えなかった。 だから僕は聞いた。 「少し説明してくれるかな?」 「うん、いいよ」  「どこで話そうか?」 「えーと、ボク、お腹すいちゃったかな」  「つかぬことを聞くけど……その足は大丈夫なの?」 「ん、これ? だいじょぶだよ。後は舐めとけば治るから」   血で汚れた足は、傷がふさがっていた。その意味を、考える気にもならない。  「そうか」  少女は、虎鋏みに近づいた。  両腕でこじ開けて、靴を取り出す。  「穴開いちゃった……」   さみしそうにつぶやいて靴を履いた。  「とりあえず……この前のラーメン屋にするか」  「賛成!」  夕食時のことで、蓮蓮食堂は混んでいた。学生とサラリーマンのごった返す中、僕らは、カウンターに腰かけた。 「好きなだけ注文してくれ」   お金は途中でおろしてある。  「え、いいの?」 「命の恩人だからね」  「そんな……いいのに。 じゃぁ、まずは、塩ラーメンと醤油ラーメン、全部載せで!」 「了解」  豪快に積み重なるドンブリが一段落したところで、僕は切り出した。 「で、話だけど、ここでいいのかい?」 「ん、なんで?」 「人に聞かれたくない話になるんじゃないか、と思っただけだ」 「あ、ここの話は、外には聞こえないよ」  風に頼んであるから、と、少女はつけくわえた。 まぁ当人が納得してるなら、構わない。 「わかった。その風というのは何なんだい?」 「うーんと、どこから話したらいいかな。 まず、ボクの一族からだね」 「もう分かったと思うけど、ボクたちは人間じゃないんだ」 「待ってくれ」 「え?」 「“人間”という言葉には、様々な〈含意〉《がんい》がある。例えば人間性という言葉だ」 「にんげんせいって?」 「主に、話が通じて、情けがあるという意味だな」  そうした定義からすれば、僕という人間は、人間性が無い、ないしは少ないことになるわけだが。 「へぇ。人間は、そう言うんだ」 「君が、種としてのホモ・サピエンスと違う、ということは受け入れてもいいが、安易に人間じゃない、というのはよしたほうがいい。分かり合える心を持っていない、という意味にも取れるから」 「わかった。とにかくまぁ……えーと、違う生き物ってことでいいのかな?」 「それは了解した」 「昔は、人間とも付き合いがあって、その時は、大神って言われてたな」 「狼?」 「大神。大きな神。けものの狼が、神様になったもの、って思われてたみたい。ちょっと違うんだけどね」 「人狼なのかな」 「最近だと、そう言うの? まぁ、そのジンロウってやつ」 「さっきから言っている風というのは?」 「ボクの一族は、昔から風の神様と仲がいいんだ。だから、頼むと力を貸してもらえる」  「さっきは、あの性悪女が、風を止めてたからね。ずいぶん苦戦しちゃった。ごめんなさい」  「あやまる必要はない。風切りの法とか言っていたけど、あのカラスの羽根か?」  「うん。カラスは、風の神様の遣いだから、あんな風にすると、神様が寄ってこないんだ。ほんっと、ひどいことするよね」  風。 言われてみれば、彼女のそばでは、いつも涼やかな風が吹いていた。 「風があると、どうなるんだ?」 「うん、気持ちいいよね」  「質問を間違えた。風の神様の力を借りると、どんなことができるんだ?」  「お願い次第だけど……あの性悪女を切り刻むくらいは簡単だよ?」   ずいぶん物騒な話だ。 もっとも、あのイグニスという女のほうが物騒だったわけだが。 「で、人狼の君が、どうして人里に来たんだ? 最近は、隠れているんだろう?」 「うん。一つには、お婿さんを探しに来たんだ」   少女は、それは嬉しそうに語った。  「都会にも、人狼がいるのかな?」 「ううん」   少女はかぶりをふる。 「あ、いるかもしれないけど、探しに来たのは、人間のお婿さん。ん、どしたの?」 「いや、遺伝と交配について考察しただけだ。その場合、人間と人狼の子は、何になるんだ?」  「育て方次第だよ」   ぐっと、拳を握る、風のうしろを歩むもの。 よくわからないが、そういうものらしい。 「で、どうやって見つけるんだ?」   どうも、この子は、俗世にうとそうだ。 危なっかしいこと、このうえない。  「うん、ボクも、それが心配だったんだけど……案ずるより産むが易しだね」 「というと?」 「こっちに来るなり見つかったし」 「ほう、それはよかった」  「うん」   にこにこして笑う少女。  「で、それは誰だ?」 「カツキ!」   元気に言ってから、少女は顔をあからめて、うつむいた。 「何だ?」   急に名前を呼ばれ、僕は聞きかえす。  「だから、カツキ」 「カツキがどうした?」  「だから、ボクのお婿さん」   しびれを切らした口調で少女が言う。 言葉の意味が、徐々に染み通る。 「僕が、風のうしろを歩むものの、お婿さん?」  「そう。だって約束してくれたよね?」   純真そのものの瞳で、少女は僕のほうを見る。何も疑わない、すべてをこっちに預けた仔犬の目。尻尾があれば、ぶんぶんと振れていただろう。 さすがに罪悪感が芽生えた。  「……どこかに誤解があるようだ」 「え?」   少女が、しぼんだ。  「一つずつ解決していこう。僕が、君のお婿さんになる、と、理解したのは、いつだ?」 「え、だって……」   少女の目に涙があふれかける。 それを手の甲で、ごしごしとこすった。 「……最初から行こう。まず、ラーメン屋で会ったな。その時かい?」   そういえば、一生の恩がどうとかと言っていたはずだ。 食事をおごると、将来を約束したことになる、そんな文化圏があるのだろうか? 「ううん、その時は、いい人だなって思ったけど」 「じゃぁ、その次は……今日会ったな」  「うん」   少女が、ぶんぶんと首を振る。  「話していたら、イグニスに襲われて……」 「その前だよ」   その前? その前に何かあっただろうか? 「最初に会って……電信柱から飛びつかれて」   高いところから飛びつくのが求婚の徴? バンジージャンプなら成人の儀式だが……  「その後」  「じゃぁ、お金を返してもらって……」 「そうそう、その後」  「えーと……名前を聞いた」   名前?  その瞬間、少女の顔が、鮮やかに紅くなった。 片手で顔を隠しながら、ちょっと距離が開く。  「僕は、九門克綺。君は?」 「えっと……それ、本名?」 「あぁ」   僕は軽くうなずく。  「ごめん。ちょっと考えさせて」 「……? 別に構わない。 好きなだけ考えてくれ」 「それ! カツキが、本名を聞いたよね」   風のうしろを歩むものは、本名にアクセントを置いた。  「あぁ」   不安そうな顔で、僕を見る少女。  「それか!」  「そう、それ!」   にこにこと少女が笑う。 「自分の本名も教えてくれたし」  「本名を聞くのは、結婚の申し込みになるということなのか?」  「うん。だって……連れ添う人でもないのに、本名なんて教えられないでしょ?」   ──名前の掟、というやつだろうか? 「じゃぁ、その、風のうしろを歩むもの、という名前は、何なんだ?」  「言い名だよ」  「いいな?」  「カツキのための言い名。だから、ボクはカツキの、いいなづけ」  かすかに頬を染めて僕をみつめる少女。 僕は、慎重に言葉を選んだ。  「僕たちの言う本名と、君たちの本名とは、違うみたいだ」  「え? なにそれ?」  「君たちの本名は、めったに明かさないものなんだろう?」  「うん。だって、悪い神様に知られたら、大変でしょ?」  こういうのは、もしかしたら峰雪が詳しいのかもしれないが……。 昔の人は、本当の名前を隠して、決して名乗らなかったという。本名を知られるということは、その実体を支配されることと同じだ、と考えたのだ。 であれば、お互いの本名を知らせあうのは、最大限の信頼を示す好意であり……男女の場合であれば、婚姻を意味するというのも理解できる。  「僕の九門克綺って名前は、色々な人が知ってる、誰にでも気軽に知らせる名前なんだ」 「そ、そうなの?」   少女が目に見えて動揺する。  「だから……君たちの呼び名に近いのかもしれない」  「へぇ……。じゃぁ、町のニンゲンは、ほんとの、ほんとの名前のことは何て言うの?」  「ない」   僕が言うと、少女は呆然としたようだった。 「えっと……カツキは、自分のほんとの名前を、知らないの?」  「そうも言える。僕だけじゃないけどね」  「それじゃ……こんなに、こんなにたくさん人がいるのに、だーれも自分の名前を知らないの?」  「そういうことになるな」   少女は、うつむいて……顔を上げる。 なぜだか、涙ぐんでいた。 「どうしたんだ?」 「だって、かわいそうだよ。生まれてから死ぬまで、自分の名前も知らないで、暮らすなんて。それって……さびしくないの?」  「主観的な問題だな。僕は、それで寂しいと感じたことはない」   ……というか、考えたこともないというのが正しいだろう。  「ううん、絶対、さびしいはずだよ!」   風のうしろを歩むものは、譲らなかった。 「その話は、また今度聞かせてもらおう」  「話を戻すと……そういうわけで、九門克綺という名前を告げた時、僕には求婚の意志はなかったんだ。わかってくれるかな?」  「わかった……」  少女は、どこか上の空でうなずいた。色々ショックだったようだ。 ぶるぶると頭を振って、ようやく笑顔を浮かべる。 「うん、カツキには、色々、迷惑かけちゃったみたいだね」 「迷惑はかかっていない。誤解が一つあっただけだ。命も救ってもらったし」  「それじゃぁ、ボク、ちょっと出直してくる」  「お婿さんを探しにかい?」  「それもあるけど……他の用事もあるんだ」 「じゃぁ、何かあったら、相談しに来てくれ。電話の使い方は……わかる?」  「うん、それくらいは」  「それなら、前に渡した番号で、呼び出してくれ」  「わかった。じゃぁ、ラーメン、本当にごちそうさま」  少女は席を立ってから、振り返った。 「そうだ……カツキも、本当の名前が見つかるといいね」  「いいかどうかは見つかってみないとわからない」  「さがすの、手伝ってあげようか?」  「暇な時にでもね」   僕はうなずく。 「じゃ、お婿さん見つけたら、また来るね」  「うん、見つかるといいね、それじゃ」  混んでいるラーメン屋の中、少女は、ひょいひょいと人混みを抜けて入り口に消えた。 ラーメン屋の中に、一時、冬山の匂いがたちこめたが、すぐに鶏ガラのいい匂いにまぎれて消えた。 「あら、克綺クン、お帰りなさい」 「ただいまです」  門の前には管理人さんが待っていた。箒を抱えている。  「この季節は、掃除がたいへんで、たいへんで……」 「どうしてですか?」  「ほら、この銀杏の葉」   道一杯の銀杏の落ち葉を、管理人さんは寄せては掃いていた。 「銀杏が問題なのですか」 「問題っていうか……綺麗だから植えてるんだけどね」  「すると、同じ葉でも、木に生えている間は綺麗で、地面に落ちると、ゴミになるわけですか」 「うーん……そうなるのかな?」   管理人さんは考え込む。 「失礼します」   僕は、頭を下げて通り過ぎる。  「……ちょっと待って。 その足、どうしたの?」 「え?」   言われてようやく気づいた。 さっき、右足を怪我したのだった。 なにせ、風のうしろを歩むものの怪我を見ていたので、たいしたことはないと思いこんでいたが……普通の基準で考えてみれば、結構、深い傷だ。 「転んだの? それとも喧嘩?」  「ええっと……」   しばし悩んで、僕は真実を告げた。  「殺人快楽症の女に殺されかけました」   管理人さんが、眉をひそめた。  「と、とにかく、消毒しなきゃだめよ。さ、いらっしゃい」 「はぁ」  腕を引っ張られて、僕は、管理人さんの部屋に向かった。 「あれ、お兄ちゃん」 「あぁ、ただいま、恵」 「あら、恵ちゃん」  「どうしたの?」 「ちょっと怪我したんだ。管理人さんに手当してもらうところ」  「あ、あの……」 「恵ちゃんも来る?」 「はい」   僕の怪我は見せ物か? そう思ったが、口には出さなかった。 「はい、それじゃ、そこに寝て」  寝っ転がった僕を、恵が覗き込む。 足は、管理人さんの膝の上だ。  「あら……」   管理人さんは、怪我を見るなり、眉をひそめた。 改めて見ると、靴下の足首のところが、血で固まって貼り付いていた。  「ハサミじゃないとダメね」  ジャキジャキと靴下が切り刻まれていく。  「ちょっと痛いわよ」   最後は力任せだった。痛みに涙がにじむ。 「お兄ちゃん……どうして、こんなとこ怪我したの?」 「アスファルトの破片が刺さったんだ」  「転んだの? 器用ね」 「転んだわけじゃない」  「じゃ、どうしたの?」 「殺人快楽症の女に狙撃されて、外れた弾がアスファルトをえぐったんだ」  管理人さんが、脱脂綿で、ポンポンと傷をぬぐう。 消毒薬がしみて、首筋がちりちりした。  「はい。縫うほどの怪我じゃないわね。男の子だし。 お風呂は入らないほうがいいわよ」  「ちょ、ちょっと待ってよ。なに、その殺人快楽症って」 「言った通りだ。ライフルと日本刀を……」   言いかけた僕の口を管理人さんが、すっと押さえる。 「はい。お話は、それぐらいね。怪我してるんだから、ゆっくり休みなさい」   まぁ怪我をしていることは確かだし、休むことには異論がない。 管理人さんは、手際よく包帯を巻いてくれた。  「お兄ちゃん、だいじょぶ? 立てる?」 「大丈夫」   と言っているのに、恵は僕の手を取った。 「それじゃ、管理人さん、ありがとうございました」 「いいえ。あんまり無茶しちゃだめよ」  「できる範囲でそうします」  「あの、ありがとうございました」  「はいはい」 「お兄ちゃん……ご飯は?」   管理人さんの部屋を出て、階段を上れば僕の部屋だ。恵は僕の手を握りっぱなし。  「ラーメンを一杯食べてきた。何か軽いのがあったら食べたいな」 「わかった。あとで持ってってあげるね」  「ありがとう」 「……なにかあったら呼んでよ?」 「あぁ、約束する。それじゃ」  「じゃ、あとでね」  部屋に入り、電灯をつけてベッドに倒れ込む。  思い出したように傷が痛んだ。  ──あの子、今頃どうしてるかな?  そんなことを思う。 思ったより疲れていたようだ。寝っ転がると頭が重く、本を読む気にはなれなくて……滅多につけないテレビのスイッチを入れた。 「……これで犠牲者の件数は5件目となり、戦後最悪の惨劇となりました」   キャスターの左上には、白黒の顔写真が浮かんでいた。人相の悪い三十男の顔だ。もう少し良い写真が用意できなかったものか。   僕は急いでチャンネルを変える。   今朝方、峰雪の言っていた事件だろうか。 それにしても、5件とは。   ニュースを聞くうちに判明した事実は、さらに脅威的なものだった。  一つ、事件が起きているのは、すべて町内。 そして、その全てが、この一週間の内に起きている、ということ。   これは、ほとんど、ありえない、といっていい。   警察は、現場に残された情報から、犯人を絞り込んでゆく。 だから複数の犯罪を行う場合は、同一犯だとバレないようにするのが基本だ。   たとえば東京に住んでいる人間が、大阪と北海道と熊本で、期間をおいて違った方法で人を殺せば、犯人の特定はしにくくなるだろう。 いわゆる連続殺人事件が成立するのは、こうしたパターンだ。   逆に言うと、手口などから、同一犯と推定された時点で、ほぼ逮捕は秒読みとなる。   それが、今度の事件の犯人は、狭い町内で短期間に5件もの犯罪を行い、同一犯だと推定されているにもかかわらず、まだ捕まっていないことになる。   繰り返すが、これは、ほとんどありえないことだ。   日本の警察の優秀さを考えれば、人間では、ほぼ不可能といっていい。   「これまでの犠牲者は、いずれも鋭利な刃物で全身を切り裂かれており、死体の一部は食いちぎられていました。警察では同一集団による犯行との見方を進めており、宗教団体の関連も……」   鋭利な刃物。 ふと、心に閃くものがあった。 「質問を間違えた。風の神様の力を借りると、どんなことができるんだ?」  「お願い次第だけど……あの性悪女を切り刻むくらいは簡単だよ?」  切り刻まれた、人。   この目で確かめたわけではない。 けれど、あの鋭い爪があれば、容易に人を切り裂けることは分かる。   警察は、逮捕の対象が人間であることを前提とする。 逆に言えば、人間の常識を越える存在を、探そうとはしていない。 「私と共に来い。 その〈豺〉《やまいぬ》に喰われたくなかったらな」  そして、喰いちぎられた死体。   そこまで思って僕は首を振る。  連続殺人犯なら、あの女……確か、イグニスと言ったか?……あれのほうが、よほどふさわしい。 あのイグニスが死体を喰う姿は想像しにくいが……有り得ないことではなかろう。 なかろうとは思うが……。  ドアを叩く音に、僕は振り返る。 「どうぞ」 「お兄ちゃん、私」 「どうしたんだ、恵?」  ドアを開けて恵を中に入れる。  「晩ご飯」   そう言う恵は手ぶらだった。  「よく考えたら、材料はお兄ちゃんの部屋にあるんだよね」 「そうだったか」  「作るからちょっと待ってね」 「あぁ」  ベッドにごろりと横たわる。 目を閉じれば料理の音が、間近に聞こえた。  かちゃかちゃと鳴る食器。とんとんという包丁の音。それに恵の足音。   それら全ては煩わしくもあり、また、心が安らぐ気持ちもした。 「お兄ちゃん、できたよ」  言われて僕は立ち上がる。ゆっくりと伸びをして。 「はい。サラダと……あと、シチュー暖めなおしたから」 「見ればわかる」  「そ、そうだけど……。シチュー食べられる? 軽いのがいいっていってたからサラダにしたけど……」  「両方いただく」  「いただきます」 「いただきます」 「おいしい? お兄ちゃん」 「あぁ」   シチューというものは一日おけば味が染みて、よりおいしくなるものだ。 ニンジンの甘みも、スネ肉の味わいも、格段に深くなっている。  「そぉ?」   恵が、猜疑心に満ちた目で、こちらを見る。 「おいしくなっていると思ったから、そう言った。 無論、これは主観的な感覚の表現であるから、一般性は主張しない。 恵は、おいしいと感じなかったのか?」  「そういうわけじゃないけど……」 「では、どういうわけだ?」 「お兄ちゃん、時々変なこと言うから」  「主観の相違だな。僕からすれば恵が変なことを言っているように思える」  「だって、さっきも……」   言いかけて、恵は口をつぐんだ。  「どうした? 何か言いたいことがあるなら、言ったほうがいいぞ」 「お兄ちゃん……遠慮とかデリカシーって言葉、知ってる?」 「語彙としては理解しているが、用法については自信がないな」  「そう……」  「これまでの会話から察するに、今、恵は、遠慮しているわけだな?」   恵は、陰々滅々とした顔でうなずいた。 遠慮…… 「遠慮している内容は……僕の怪我についてか」   またしても恵はうなずく。 それにしても分からない。  「何を遠慮しているんだ? 普通に聞けばいいと思うが」   恵は、一つ溜息をついて、僕に向きなおる。 「さっき……ライフルで撃たれた、とかいってたけど……」 「あぁ。狙撃された。外れたけどな」  「当たったら、そんな顔してないもんね」 「その通りだ」  「それ……冗談じゃないよね」 「冗談ではない」  そもそも冗談とは何だろうか?   辞書には「ふざけて言う、不真面目な言葉」とある。その一般的な効果は、笑いやリラックスを広げることだろう。   であるとしたら、僕には冗談が言えない。 「冗談を言う」とされている行為を模倣したことはあるが、周りの人間は、ついぞ笑うことがなかった。 何度か試した後、冗談を言おうという試みは止め、今に至っている。 「少なくとも主観的に僕は真実を告げているつもりだ」  「主観的には……って?」 「記憶の混乱や妄想の可能性は排除できない」  「そう……」   恵は、ためいきをつく。 「とにかく……これ以上、面倒にまきこまれないでね」  「それは難しい……」  「どうしてよ」  「遠方からの狙撃を避ける方法を知っていたら教えてくれ。参考にしたい」   恵が無言で僕をにらんだ。 仕方なく僕は口をつぐむ。 「ごちそうさま」 「ごちそうさま……」   食べ終わったあとも、恵の顔は暗かった。 「恵?」  「なぁに?」 「顔が暗いぞ。何かいやなことでもあったのか?」 「あったわよ!」 「それは聞いていない。教えてくれ」  「だって、お兄ちゃんが、すっごい怪我して、しかも銃で撃たれたとか言ってて」 「ふむ……つまり、僕への心配が心労の原因というわけか」  「べ、別にお兄ちゃんが悪いわけじゃないけどさ……」 「わかっている。責任ではなく、原因と言っただろう?」  「……だからって、そこで開き直られても、なんか嫌だなぁ……」 「僕の事故は僕が望んだわけではないから、どうにもならない。気晴らしに、遊んできたらどうだ?」 「そう思うけど……」   恵はテレビのほうに首を振った。  「今、なんかすごい事件が起きてるんでしょ?」 「あぁ。戦後最悪とか言っていたな……そうか、女性の一人歩きは危険か」  「うん、ちょっとね。管理人さんと一緒に買い物に行くくらいかな」 「それは……つらくないか?」 「うん、ちょっとね。なにも私が来た時に、起きなくてもいいじゃないって思うよ」  「そうだな……」  「ごめんね」 「なにが?」  「こんな話、しにきたんじゃなかったんだけど」 「ふむ。何をしにきたんだ?」  「怪我のお見舞い」  「そうか。僕なら大丈夫だ」  「いいから、無理しないでね。 お兄ちゃん、おやすみ」 「おやすみ、恵」   立ち上がる恵を、僕はドアまで送った。   ゆっくりと、ドアが閉まる。  灯りを消して暗い部屋の中で、僕は天井を見つめて思う。  連続殺人事件……当事者にとっては不幸だろう、という認識しかなかったが、見えないところで恵にも不便を強いていたというわけだ。   なんとかしないとな。  少女の顔が、浮かんだ。  その建物に、地階があることを知る者は少ない。  この町の深部を知る、一握りの者。 ごくわずかな例外だけが、この町の真の姿を知っている。 「入りたまえ」   黒い、大きな執務机。 実用本位のデスクで、男は書類に目を通していた。 軽やかなノックの音に、顔も上げずに返答する。  「は、失礼します。報告にまいりました」  「例の九門克綺に関してですが――」 「九門、克綺……?」   それまで、休む暇もなく書類をめくり、視線を行き来させていた男の動きが、止まる。  「あくまで未確認ではありますが、九門克綺が“最も気高き刃”と接触した、という情報がありました」 「なに? “最も気高き刃”? やつがとうとう、この町へ?」  「いまだ、確認は取れておりませんが」 「早急に事実関係を確認しろ。 最優先事項だ」  「は、承りました。 それともう一つ、ご報告が――」  「構わん。続けろ」 「蝕を目の前にして、人外の動きが活発化している様子です。今日も一体、新たな草原の民が確認されました」  「ふん、門を探しに、こんな辺境までやって来たか」  「協定内には含まれていない要素です。いかがいたしましょう?」  「捨て置け。今は、些末にかかずらわっている場合ではない」 「何よりもまず、“最も気高き刃”だ」   ――無論、簡単に尻尾を掴ませるわけもないだろうが。   男はそう呟いて、小さく唇を歪めた。 「計画は完成目前だ。下手に手出しはするな」 「時間はないが、我々も慎重に動く必要がある」  「は、承りました」  「わだつみの民は、どうだ。夜闇の民との決議は、届いているだろう?」  「そちらの方も、順調に準備が進んでおります」  「これ以上余計な注目を浴びたくはない。速やかに準備するように」  男は秘書を下げると、背もたれに身体を預け、机の上に足を投げ出す。  積み重なった書類が、音を立てて床に崩れた。  「これで、三つの護りが揃ったか。さすがにコードマスターを、見捨ててはおかないな」  ひとりごちて、自分でも気づかないうちに、顔が歪む。 全てが順調に進むなどと、考えたこともなかった。 だが、それはそれとして、目の前に障害が立ちはだかると、やはり気落ちするものだ。   来るべき障害を目の前にして、男はひとり、忌々しく呟いた。  「……それにしても、厄介なものがやってきたものだ」  もう、朝か。  カーテンから差し込む朝日が、なんとも言えず心地よい。 思わず身をまるめて二度寝したくなる。  が。時計を見れば、寝ていられる時間ではなかった。  僕は、眠い目をこすりながら身体を起こした。  控えめなノックの音。 「お兄ちゃん、朝ご飯は?」 「食べる。いま、着替えるから、ちょっと待ってくれ」 「はい」   大きく伸びをして、服を着る。  昨日の晩、ネットで事件を調べるうちに、つい時間を忘れてしまった。 が、結局のところ収穫は、ほとんどなし。  新聞記事のバックナンバーで、基礎的な事実は集まったが、それ以外は、からっきし。  ノイズばかり大きく、情報といえるような情報はない。 元情報は警察がしっかり握っているということだろう。 「お兄ちゃん、もういい?」 「あぁ」  ドアを開けて恵を入れる。  「朝ご飯、何にする? ビーフシチューは、もう食べちゃったから……」  「何ができるんだ?」  「ええっと……トーストと、野菜スープが簡単かな?」 「じゃぁ、それ」 「お兄ちゃん、それ投げ遣りすぎ。もっとちゃんと考えてよ」 「選択肢なしに考えても仕方ないと思うのだが」  「とにかく、なんか、これが食べたいってものないの?」  「作れないものを言っても仕方あるまい」 「いいから!」 「じゃぁマグロの赤身」   なぜだろう。恵は目に涙をためている。  「本気……だよね?」 「あぁ」  「ちょっと待って。動かないでよ!」  言われたままに、僕は立ち続けた。   ちょっと、という時間の定義は主観的になるが、十五分であれば、ちょっとといっても差し支えなかろう。 「ただいま……って、お兄ちゃん?」 「なんだ?」  「もしかして、ずっとそこで立ってた?」 「動くな、と言わなかったか?」  「待っててって言わなかったっけ?」 「正確には、ちょっと待って。動かないでよ、だな」  「だからって、ロボットじゃないんだからさ」 「気にするな。僕の勝手だ。 それより……どうしたんだ?」 「ふふふ……これ!」   恵は、紙包みを軽く叩いた。  「角の魚柾は、朝八時からやってるのよ!」  「察するに、その中は、マグロの赤身か?」 「もちろん!」   勝ち誇ったように恵は、うなずいた。 「ご飯、あったよね」 「ないぞ」  「え?」  「昨日、夜中に腹が減ったので、食べた」   調べものの途中で、茶漬けにした。  「そんなぁ……」   恵が、がっくりと肩を落とした。 「ご飯炊いてる時間は……ないよね」   僕は、うなずく。さすがに遅刻する。  「残念だったな」   人を慰める、というのは難しい。 時として、心から相手を案じてかけた言葉が、理解されないことがある。 この時も、それだった。 「……ばか」  「何だ?」  「お兄ちゃんのっ! 馬鹿!」   恵は顔を紅くして、涙を流しながら、そう言い切った。 しょげた顔に、心が痛む。 僕は、恵を悲しませたくないのに。 「朝から、どうしたの?」   声とともに、ドアが開いた。   「あら、恵ちゃん」  「お兄……ちゃんが……」   泣きじゃくる恵が、発音に支障をきたしていることを鑑み、僕は割って入った。 「恵に、マグロの赤身を朝食としてリクエストしたところ、ご飯がなかったのです」   管理人さんは、一瞬、きょとんとした。さもありなん。僕も、なぜ恵が泣いているかがわからない。  「そうだ、管理人さん、ご飯あります?」   恵が僕の袖を引く。どうやら、放っておけ、と言いたいらしい。 「ごめんなさい。うちもご飯は炊かないとないけれど……」  「そうですか」  「でも克綺クンは……赤身のマグロが食べたいって言ったのよね?」  「はい」  「鉄火丼でなくてもいいなら……ちょっと待ってて」 「いただきます」  わずか10分足らず。三人で声を揃える頃には、恵の涙も引いていた。  管理人さんの手際は、神速というべきだった。  消えたかと思うと、食材をもって現れる。 持ってきたのは、アボガドにトマトにレタスに香草。  パンをトースターに放り込む一方、ドレッシングをかき混ぜる。 マグロを刻み、野菜を刻み、ドレッシングとあえれば、シーフードサラダのできあがりだ。 コンソメスープを注ぎ(誓って言うが、いつお湯をわかしたのか、僕には見えなかった)、サラダとトーストを並べれば、立派な朝食だ。  調理時間、しめて8分と24秒。 「簡単でごめんなさい」   僕も恵も、ぽかんとした顔をして管理人さんを見つめる。  あ、言うまでもなく、サラダは最高だった。 ドレッシングに馴染んだマグロは、弾力を残しつつも、味が染み、アボガドや香草と、よくあった。   それを、カリカリのトーストの上に載せて食べると、口からお腹に、あたたかな満足感が広がる。 「すっごーい!」   恵が、感極まったように叫んだ。  「同感です」  「で、さっきはどうしたの?」   管理人さんは、今度、恵に話を振った。首を振りながら、耳を傾ける。 「それは……克綺クンが、ひどいわね」   おもむろに、結論を下した。 そうか。僕はひどかったのか。  「未だに、何が悪かったのかわからないんですが」   そういう僕を見て、管理人さんと恵は、これみよがしに溜息をつく。 しかし、二人の頬には微笑があった。 「まぁお兄ちゃんだし」  「仕方ないわね」   不当な評価を下しながら二人は笑う。   まぁ僕としても恵が泣いているより笑っているほうがいい。  魔法のように現れた食卓は、魔法のように無くなり、気がつくと僕たちは食後のコーヒーを啜っていた。 ……これも誓って言うが、食事中、管理人さんが立ち上がったところを見た覚えがない。 「あ、そろそろ行かないと。ご馳走さまでした」  「すいませんが、後かたづけをお任せします」  「いいけど、克綺クン?」 「はい」  「あんまり、恵ちゃんを泣かせちゃだめよ?」 「善処します」 「じゃ、行ってらっしゃい」  「お兄ちゃん、行ってらっしゃい!」  「行ってきます」  僕は、意識して速く歩いた。 管理人さんのご飯とはいえ、なにせ起きたのが遅かった。 少し急がないと遅刻する。 「よぉ!」  この時間帯には、こいつと出会う可能性が高い。 「峰雪か。少しは急いだらどうだ?」  「なぁに、〈早牛〉《はやうし》も〈淀〉《よど》、〈遅牛〉《おそうし》も〈淀〉《よど》、だ。要は学校に着けばいいんだ」  「……遅いと遅刻するんだが、ふぁぁ」   そう言った端に、あくびがでた。 峰雪が大笑いする。 「目が赤いぞ。何してたんだ?」  「調べものを少し、な。例の連続殺人事件だ」  「なんでぇ、たいしたことないんじゃなかったのか?」  「それは僕の誤解だった」  僕は、現在起きている連続殺人事件が、いかに特異なものであるかを語った。 「なぁるほどなぁ」   峰雪は腕を組んでうなずく。  「待て。ってこたぁ、この町はヤバイってことか?」  「その通りだ。原因は、大きくわけて三つ考えられる」  「お聞かせ願えやしょうか?」 「一つは、警察は犯人を知っているが、捕らえられない場合」  「なんだそりゃ?」  「政治的取引の結果などが考えられる」  「よく知らねぇけどな。人殺しをもみ消すくらいなら、ともかくよ。連続殺人事件だぞ? そんだけ殺し続けても文句言われないほどヤバいやつってのは、日本にいるのか?」  「だとすると警察が犯人を捕まえられない場合だな。この場合、二つのパターンが考えられる」 「一つは、警察が著しく無能な場合」  「それも、いいかげん、無理がねぇか? 警察だってメンツがかかってんだ。 使えるヤツを送り込んでくるだろ」  「そうだな。この町の警察能力……というならともかく、警察庁全体の能力が低下している、というのは考えづらい。 また、その場合、ほかの場所でも検挙率が低下しているはずだが、そういうこともないようだ」  「はいはい。もったいぶるな。それで、三番目の可能性ってのはなんだ?」 「警察に問題なく、犯人が逃げ延びているとすると、その犯人は、常識外の能力を持っていることになる」  「その、つまり、なんだ。犯人は、バケモノか超能力者ってことか?」  「必ずしもそうである必要はない。要は、捜査の盲点、常識の外をつくことだ。これまで誰も思いつかなかったような犯行方法、逃走方法が一つでもあればいいわけだ」 「……まぁな」  しばし考えてから、峰雪は言い返す。  「で、そりゃ、なんだ?」  「それが分かるくらいなら警察に通報している」   これは嘘だ。  「おめぇの話を真面目に聞いた俺が馬鹿だったよ」  「そうか」 「どうでもいいが……おまえが、事件に興味を持つなんざ珍しいな」  「なぁに、ちょっと……犯人らしき人物に出会ったんでな」  「あぁ?」   峰雪が妙な顔をして立ち止まった。 「時間がない。走るぞ」 「おい、待てコラ!」  校門は、いましも閉じられようとしていた。 閉じているのはメルクリアーリ神父だ。 僕は、歩みを緩めた。 「うおりゃぁぁぁぁ!」  後ろで、うなり声がした。峰雪だ。  歩調を緩めずに、校門に向かって突進する。  見事なフォームで大地を蹴り、空中で身を翻した。太陽を背にして、華麗な跳び蹴りを決める。   神父は軽く構えを取った。  その口に不敵な笑みが浮かぶ。  蹴りが閃く瞬間。 両の手は円の形に動いた。 宙を跳ぶ峰雪の足は、フォークの前のスパゲッティのように絡め取られる。  軸をいなされ、余計なモーメントのついた峰雪は、きりもみしながら、校舎の塀に自爆した。 「おはようございます、メルクリアーリ先生。通ってよろしいですか?」   そう言うと、神父は時計を見た。 今は8時44分42秒。門が閉まるまでは、あと18秒あるはずだ。 僕が歩いたのは、そういうわけだ。  「ぎりぎりですね。今度からは、もっと早く来なさい」 「わかりました。では」 「……ちょっと待ちやがれ!」  校門の向こうから峰雪が叫ぶ。不屈の生命力だ。 「峰雪君、遅刻ですね」  容赦のない声と、それに応じる罵声。 それを背に聞きながら、僕は校舎へ入った。 「こら克綺!」   はぁはぁと息をつきながら、峰雪は教室に現れた。 クラスは一瞬にして静まりかえる。 「どうしたの?」   おずおず、と、代表で聞いたのは、牧本さんだ。 「そいつはな、俺を、先公に売りやがったんだ」  「え? え?」  峰雪の声は、大きかった。皆が、僕のほうを向く。 「それは事実に反するな」 「ちょっと、きちんと説明してよ」  クラス中の視線を集め、僕は、しかたなく立ち上がる。 「門限直前だった。 校門が閉まりかけていた。 僕は歩いて通った。 峰雪は、先生に跳び蹴りをして外し、怒られて遅刻した」   一瞬の間を置いて、クラスが爆笑した。  「あぁ?」   峰雪が四方を〈睥睨〉《へいげい》する。 クラスが静かになった。 「そもそも、君は何が言いたいんだ?」  「放っとくことねぇだろ」   さすがに声をひそめて、俺に語りかける峰雪。  「どうして?」  「人情ってもんだ」  「すまないが、その人情という概念は、どうにも、うといんだ」 「人情ってのはよ。ツレが極悪教師に捕まってたら、身を張ってでも救うことを言うんだよ!」  「峰雪君」   限りなく優しい声がかかった。 その男が近づくのは無論、僕からは見えていた。さきほどからクラスが静かになっていたのには気づいていた。   峰雪が、おそるおそるといった様子で振り返る。 「げ、メル!」  「授業が始まっていますよ」   峰雪が反射的に立てた中指を、メルは掴んでねじあげた。 片手一本で軽く押さえてるように見えるが、峰雪の形相はただごとではない。   ようやくチャイムが鳴った。 「前々から一度、君には紳士という言葉の意味を教育したいと思っていたんですけどね」  「るせぇ、糞教師が。授業しないでいいのかよ?」  「それでは、クラスの皆さんに聞いてみましょうか。授業時間を少し割いて、峰雪君に個人授業をつけることを許していただけますか?」   即座に教室は歓呼の声に包まれた。 メル神父が人気があるのか、峰雪に人望がないのか。 「九門君、どうしました?」   僕は手をあげていた。  「先生の提案に反対です」  「というと?」  「今すぐ峰雪君を離して授業を進めてください」  「いいでしょう」  メル神父は、手を離した。峰雪が無言で腕を押さえる。よほど痛いようだ。 「理由を聞いてもいいですか?」  「人情です」 「は?」  「先ほど彼が言っていました。友人が捕まってたら、身を張ってでも救うことを人情という、と」  なぜか、後ろからどよめきが聞こえた。 歓声のようだ。   ……先ほどまで、峰雪が責められることを望んでいたのと同じ生徒が、今、僕の言動を支持している。 人間というのは、わからない。  「……なるほど。九門君、放課後、職員室まで来ていただけますか?」  「わかりました」  それっきり授業は、つつがなく続いた。 僕が座る時、峰雪が、こっそりとささやいた。 「ありがとな」 「おぅ、克綺、職員室いくんだろ?」   放課後、峰雪が声をかけてきた。  「あぁ」 「つきあうぞ」 「なぜだ?」   素朴な疑問に、峰雪は、妙な顔をした。嬉しがるのでもなく、怒るのでもなく……ある種、恥ずかしがっているような顔だ。  「気色悪い表情だな」  「るせぇ」 「で、なぜだ? 呼ばれたのは僕だけだが」  「だってよぉ、おまえが呼ばれたのも、元はといえば、俺のせいだ。道理百遍義理一遍ってやつよ」  「よくわからないが……峰雪は、僕が職員室に呼ばれて叱責されると思っているのか?」  「あぁ……まぁな」 「どうして?」 「どうしてって……違うのか?」 「違うだろう。理由がない」  難しい顔をして考え込む峰雪に、僕は結論を告げた。  「だいたい峰雪と違って、僕は、先生に怒られるようなことはしていない」  「は! わかったよ。勝手にしやがれ」  「もとより、そのつもりだ」 「ま、気をつけろよ」  「そうしよう」  職員室の入り口は、教室の戸と違い、大きな両開きのドアだ。 やましいことは何もなくとも、多少は緊張する。  メルクリアーリ神父の机は……あった。 「こっちですよ」   手を振る神父に頭を下げる。 「九門克綺です。お呼びにより参上しました」  「九門君、急に呼んですみませんでした。少し時間はありますか?」  「程度によります。用件の重要性によりますが、一、二時間程度は割けると思います」  「そんなにかかりません。ちょっと、教会のほうまで来てくれませんか?」 「わかりました」  小さな木の扉。鍵は開いていた。 「珍しいですか?」 「ええ。初めて来ます」   ミッション系の学校なので、キリスト教に準じたイベントは幾つかある。 クリスマスや〈復活祭〉《イースター》なんかは知っていたが、灰の水曜日、なんて行事は、学校に入るまで知らなかった。 いずれにせよ、それらは全校生徒が集まる講堂で行うので、この小さな教会は、結局使われないのだ。   信者の学生は、毎朝、ここでミサをしているらしい。 他には卒業生が結婚式に使うことがあるらしいが、それも当分、縁がない。   「確かに、未信者の人は、あまり来ませんね」   “未信者”という言葉も、入学して初めて知った言葉だ。   うちの学校は、ミッション系とはいえ、信者の人間は数少ない。 信者じゃない人間は、まとめて“未信者”と呼ばれる。 未だ信じてない者。いつかは信じる(べき)者ということだ。   神道だろうが先祖伝来の浄土真宗だろうが関係なく、“未信者”だ。 このへんにキリスト教が世界宗教となったバイタリティを感じる。 「まぁ落ち着いて。別に叱るために呼び出したんじゃないですから」  「落ち着いています。 叱られる理由などありませんから」  「九門君は、ずばりと核心をつくタイプですね。性格なのですか?」 「性格というよりは、単なる欠落です」  「はっきりいわないと不安なのですか?」 「はっきり言わないことができないんです」  テレパシーのある人間は、はっきり物を言わなくても通じさせることができる。 “ほのめかす”というらしい。僕には無理な芸当だ。  「まぁ、お茶を飲んでください」   メル神父が入れたお茶は、かすかに薔薇の香りがした。 「どうですか?」 「おいしいです。用件は何ですか? 時間はどれくらいかかりますか?」 「そうですね」   そう言って神父は紅茶に口をつける。  「時間は、それほど取らせません。非公式の進路相談とでも思ってください」  「思いました。しかし、いくつか疑問があります。どうして急に進路相談などをしようと思われたのですか? 担任でもないのに?」   神父は、あきれる顔もせず茶を飲んだ。 「そうですね。何から話しましょうか。私は神父で、告解の秘蹟というのを長年、執り行ってきました。いわゆる懺悔というものです」   僕は、軽くうなずく。  「懺悔というと、深刻に聞こえますが、信者の人は毎週しています。ちょっとした相談の時間みたいなものですね」  「はい」   つまるところはカウンセリングみたいなものなのだろう。 「そうは言っても、やっぱり深い悩み、人に言えないことを抱えている人も見てきました」  「それがどのように僕と関連するんですか?」  「そうしている内に、私は、悩んでる人のそぶりがわかるようになってきましてね」  「僕が……深く悩んでいるとでも?」 「えぇ。悩みというのとは違うかもしれませんが、何か、もてあましていることがありませんか?」  ちょっと眉をひそめる。 この質問自体には、さほど意味がない。   一時期、僕は、僕以外の人間が持つテレパシーについて知りたくて、勉強したことがある。 その時、知ったことだが、今、メル神父が使ったのは、コールドリーディングと呼ばれるテクニックだ。   たいていの人間は、もてあましているものを抱えているわけだから、こう言われれば、「はい」と応える。そうやって、さも相手についてよく知っているかのように振る舞うことで、相手を信用させるわけだ。 占い師のテクニックと聞いたが、考えてみれば、神父にとっても使えるテクニックかもしれない。 「メルクリアーリ先生」 「なんですか?」  「それは本当にそう思われているのですか? それとも僕を信用させる手管のおつもりですか?」  「本当に核心から入りますね」   面白そうに笑うメル神父。 「別に引っかけようとしたわけじゃありません。今日の九門君の顔は、本当に、深刻でしたから、聞いてみたまでですよ」  「そうですか……確かに、もてあましてることはありますが、先生に相談するようなことではありません」   殺人犯に関する件は、未だ仮説の段階だ。 目の前の神父に協力を要請する必要性を感じなかった。 「わかりました。ただし、自分で世界を狭くしないほうがいいですよ。いつ誰が助けになるかはわかりませんからね。私はいつでも、この教会にいます。もし相談したいことがあったら声をかけてください」   僕は、うなずいた。 世界を狭くしないほうがいい、という言葉には考えさせるものがあった。 「長居させてすみませんでした。よかったらまた遊びに来てください」  「わかりました」  僕は、紅茶を飲み干した。 少し冷めてはいたけれど、心地よい薔薇の香りは、そのままだった。  外へでれば、すっかり日は暮れていた。 ぼちぼち星が見える頃だ。 「おい、どうだった」   教会を出ると、峰雪が駆け寄ってきた。なぜか隣には牧本さんもいる。 さて、どう説明したものか。   僕が考え込むと、峰雪と牧本さんが景気の悪い顔をした。 「お、おい、なんかまずいことでもあったのか?」 「ん? いや、まずいことは何もない。そうだな……早めの進路相談とか言ってた」   峰雪と牧本さんの顔が、ますます深刻になる。  「立ち話もなんだ。そろそろ帰らないか?」 「あ、あぁ」   二人は、どこか釈然としない顔をした。 ゆっくりと歩き出す。  校門を出たあたりで、おそるおそるといった様子で峰雪が口を開いた。 「さっき、進路相談って言ってたよな」 「メルクリアーリ先生がそう言ったと僕が言った」  「なんだよ、その進路って。 おまえ、ここ卒業するんじゃなかったのか?」 「そのつもりだが?」  「何か……問題があるんだったら、私も、クラスのみんなも手伝うよ?」   牧本さんが真剣な顔でいう。 なにか誤解があるようだ。 「なぁ峰雪?」  「おう」   答える彼の顔は真剣そのものだ。  「最近の僕は、なにか悩んでるように見えるか?」  「いや……気づかなかったが。おまえ、なんか悩んでるのか?」  「いや全然」  二人の真剣な顔が、するりとゆるんだ。 人が呆ける瞬間、というのを、僕は、はじめて目にしたかもしれない。  次の瞬間、二人の顔はけわしくなる。 峰雪は激怒そのもの、牧本さんはちょっと眉をひそめた顔に。  「なんだそりゃ!」  「どうやら順を追って説明したほうがよさそうだな。質問も受け付けよう」  「何様だ、テメェは!」  「ええっと……はい」   牧本さんが律儀に手をあげる。 「なんですか?」  「九門君は、メル先生に怒られたの?」 「怒られたわけじゃない。そもそも、牧本さんはなぜそう考えるのかな?」  「え? え?」  「僕自身は怒られるようなことをした覚えはないのだが、もしも牧本さんに心当たりがあるのなら、後学のために教えてほしい」  「ううん……別に……ないけど。ごめんなさい」 「あやまる必要はない。僕としては、ただ、怒られる事情もないのに、怒られた、と、考えた根拠を聞きたいだけだ」  「えっと……」   なぜか牧本さんが泣きそうになった。  「いい加減にしろ!」  峰雪がデコピンを放った。正確には、デコ……額ではなく、鼻筋の上、眉間だ。結構痛い。かなり痛い。  「なにをする!」  「いたいけな女生徒を理詰めで追いつめてんじゃねぇ!」  「……僕としては単なる疑問の表明だったんだが」  「おまえの疑問は、人を壊すんだよ!」  ふぅ、と、僕は溜息をつく。  「君の言っていることは論理的に矛盾しているが、にも関わらず、事実としては正しいようだ」  「わかったら、あやまれ」 「牧本さん」  「は、はい」  「気分を害していたらすまない。さっきのは、単なる疑問であって、特にあなたの落ち度を責めたり、人格を否定したりする意図はなかった」  「はぁ」   呆然とする牧本さんの肩を峰雪が叩く。 「なぁ牧本。信じられねぇかもしれねぇが、こいつは裏表ってのがないやつなんだ。文字通りな」  「信じられないだけ余計だ」  「だから、こいつが悪気がないっていう時は、本当に悪気がないし、質問してる時は、ほんっとに質問しかしてないんだ」  「当たり前だろう?」  「うるせぇ、この朴念仁の木仏金仏石仏。生身の人間ってな、裏も表も西も東もあるもんなんだよ」 「峰雪君」   牧本さんが割って入った。  「その言い方は……ひどくない? 九門君が悪いわけじゃないでしょ」   峰雪は、苦笑いを浮かべた。  「まぁな。ともかく、ちょっとやそっとじゃ驚かないようにしたほうがいいぜ」   うんうん、と、牧本さんはうなずく。 「で……怒られてねぇなら、なんて言われたんだ?」  「僕が何か悩んでるように見えたそうだ。悩み事があるなら相談に乗る、と言われた」  「はぁ」   峰雪が変な顔をする。 牧本さんもだ。 「なんでまた?」 「わからん」   本当にわからないのだから仕方がない。 あのイタリア人神父に興味を持たれるような、あるいは心配されるようなことはないはずだが。  「メルがねぇ」 「メル先生が……」   期せずして二人の声が揃う。 三人で理由を考えたが、特に何も思いつきはしなかった。 「多いな」   峰雪が呟く。 「17人目だ」   僕は答える。 「え、なに?」  「さっきから出会う、サツの数だよ」   峰雪が言う。  「警察だけじゃない。警備会社なども駆り出されてるようだな」   帰り道には、制服の男がやたらに多かった。角ごとに二人。その他にもいろいろ。 私服の刑事なんかもいるんだろうか? 「まだ、捕まってねぇみてぇだな」   峰雪が、眉をひそめる。  「で、でも、だからって、ここが危険ってことでもないんだよね」   牧本さんが僕のほうをみた。  「牧本さん、それは僕が昨日説明した件だね」  「そうそう」 「あれはデータ不足による間違いだった。この街は今、非常に危険な状態にある」   みるみるうちに泣きそうになる牧本さん。  「おまえなぁ」   峰雪が呆れた声をだした。 「なんだぁ?」   最初に見つけたのは峰雪だった。  通学路の途中の通行止め。 警官が整理に当たっていた。  パトカーが何台も止まって、その奥には……いやに背の高いごつい車が見える。  救急車じゃない。 救急車は、あんなグレーの色をしていない。 「なんだろ」 「ここは通行止めです。立ち止まらないでください」  警官の声にしぶしぶと人並みが動くが、現場前で、一瞬静止する。  牧本さんの顔が青くなる。 なるほど、新たな殺人事件というところか。  僕も、通りすがりに覗き込む。 現場の奥は……夜のことだし、ふさがれていてよくみえない。 かすかに毛布がみえた。  その回りに立つ制服の男たち。 看護士とも警察とも違う……どちらかといえば軍服に似た制服。 「はやく」  せき立てられて、僕は歩みを早めた。   その時。  通りの向こうに何かが見えた気がした。 風に揺れる、あの銀髪と、白い髪かざり。 折からの月光をうけて、それは水銀のように輝いていた。  気のせいだったかもしれない。 けれど──。 「九門、くん?」  牧本さんの声に、僕は我に返った。 「どうした?」  「いま、すごい顔してたよ?」  「すごい顔?」  「してた、してた」   峰雪がしたり顔でうなずく。 「そうか」  「……いや、そうか、じゃなくてな」  「何だ?」  「……まぁいいけどな」   峰雪は肩をすくめた。 「それじゃ、また明日」 「またな」  二人に手を振られて、僕は、ふと、一つの事実に気づいた。 「そういえば……なぜ牧本さんがここにいるんだ?」  「おまえなぁ」   峰雪が嘆息する。 牧本さんが、指で額を押さえて考える。 「先生に呼び出された九門君が、心配だったから」  「なるほど。心配してくれてありがとう」  「どういたしまして」   そう答える牧本さんの顔には、どこか疲れがあった。 「おまえといると疲れるよ」   峰雪は、牧本さんと同じ表情を浮かべていた。  「そうか」  僕は、そう言って手を振った。 少し、気分がよかった。 「あら、克綺クン、お帰りなさい」   メゾンの前では、管理人さんが掃除していた。  「今晩は」  「早く、帰ってあげたほうがいいわよ」  「はぁ」  階段を上ると、部屋から恵が跳びだしてきた。 「お兄ちゃん、お帰りなさい」 「ただいま」  「ご飯できてるけど、食べる?」  「あぁ」  部屋に入って着替える。  ゆっくりとシャワーを浴びて出ると、ノックの音がした。 「お兄ちゃん、ご飯もってきたよ」  恵は、大きなお盆に、湯気の立つ夕食を載せていた。 「お入り」  部屋に入り、テーブルに置いて、ふぅ、と息をつく。 「じゃ、冷めないうちに」  「あぁ」  「いただきます」   声を揃えていうと、僕はフォークを取った。 ふと思い出して、僕は恵のほうをみた。 「お祈りはいいのか?」  「……えーと、うん。気にしない」   どこか嬉しそうに恵は答えた。  「まぁいいけどな。それにしても豪勢だな、今日は」  並んだ料理は、端からほうれん草のソテー、ステーキ、つけあわせにゆで野菜、そしてトマトスープ。 一品一品は比較的簡単に作れる料理ではあるが、恵の料理の腕からすると、時間がかかるのではなかろうか。 「暇だったしね。ちょっと気合いいれて料理でもしようかと思って」  「習おうかじゃなくてか?」  「うん……まぁ、管理人さんに手伝ってもらったけど」 「おいしいな」   ほうれん草のソテーは、かすかに歯ごたえを残し、自然な甘さがあった。 ステーキは、模範的なミディアム・レア。バター醤油をつけるとおいしいのなんのって。  「ステーキは、お兄ちゃんが帰ってきてから焼いたんだよ。ほかは暖めなおしたけど……」  「どうりで、いい味だ」  「よかったぁ」 「ごちそうさま」 「おそまつさまでした」  ゆっくりとお茶を飲みながら、僕は恵のほうを見た。  「こっちにきて調子はどうだ?」 「うん。悪くないよ。 管理人さん、すごくいい人だし」  「そうか」  「でもま、ちょっと退屈かな。なんか物騒だし」 「どこか観光にいってきたらどうだ?」  「お兄ちゃんも来る?」 「学校がある」  「じゃ、やだ。せっかく久しぶりに会いに来たのに、わざわざ離ればなれになるなんて、さ」  「なるほど」   僕は熟考する。 「つまりは、殺人事件がいけないわけだな」  「……えっと……そうだね」   恵はしばし考えてうなずく。  「わかった」  僕は立ち上がる。 「どこか行くの?」   声には心配の色があった。  「あぁ」  「えっと、どこへ行くの?」 「目的地はまだ決めていない」  「じゃなくて! 何しに行くの?」 「恵の憂鬱の原因を取り除こうと思う」  「え?」  僕は、靴を履いた。 「殺人犯を見つけられたら、と、思ってな」  「ちょ、ちょっと……」  「恵?」 「なに?」  「後かたづけは帰ってきてからやる」  そう言って僕は背後でドアを閉じた。  あてがあったわけじゃない。それは恵に言った通りだ。 ただ……こうして出歩いていれば、彼女に出会えるかもしれない。そう思った。  時計をチェックすると、午後九時。 駅の近くは、それなりに人通りはあったが、恰好を見ると、サラリーマン、そしてOLだ。  皆、脇目もふらず一直線に家路を辿っていた。 牛丼屋とコンビニの灯りだけが虚しく明るい。  蓮蓮食堂は……もう閉まってるか。なら、どこだろう? まず、あの子は、どこで寝泊まりしてるのか? 世間知らずで、ラーメン代にも困っていた。ホテルの類とは思えない。 となると……公園かどこかだろうか?  僕は、公園のほうに向けて歩き始めた。  大通りを一歩外れると、急に暗くなった。 夜気が、わずかな足音も吸い取るようだ。 「もしもし」   と後ろから声をかけられた時には、さすがに全身が震えた。 「なんですか?」  懐中電灯の光が僕を照らす。 逆光で男の顔は、よく見えない。  かすかに見える足下はブーツで、その上は、あの緑の制服だった。 「警備会社のものです」  灯りに目が慣れると、男たちは二人組だった。どちらも、肩幅の大きい、がっしりとした男だ。  「何のご用ですか?」 「市からの依頼で、連続殺人事件の警備にあたっております。ご協力いただけますか?」   僕はうなずく。  「お名前とご住所を」 「九門克綺。住所は──」  うしろにいる方がPDAを操って、なにか照合しているようだ。 前の男に合図する。  「九門さんですね。本日は警戒中なので、もし緊急のご用事でなければ、ご帰宅いただけますか?」  「よろしければ、メゾン・フォレドーまでご案内しますが」   男たちは有無を言わせぬ口調で言ってきた。  僕は思案する。 家に帰っては目的が果たせないが、さりとて、ここで逃げ出すのも、あまり得策とは思えない。   救いの神は、その時、訪れた。   後ろの男が携帯を耳にあてていた。 みるみる、その表情が険しくなる。   肩を叩いただけで、前の男には通じたらしい。 「──申し訳ありません。急用にて失礼します。くれぐれも、早くお帰りになりますよう」   その声といったら、なかった。 死線を潜った歴戦の傭兵と言われても信じただろう。   目は、まっすぐに僕を見ていた。 わざとらしい〈恫喝〉《どうかつ》ではない。 ただ、とてつもなく冷たいだけだ。 心臓が凍るような視線、というのかもしれない。  けれど僕には心臓はない。 声も視線も身体を震わし、空っぽの胸で共鳴し、やがて消えた。   男達は走りながら、やってきた車に乗り込む。  それを見送って、僕は、ゆっくりと歩き出した。 車の後を追って、だ。   昼にはあれほど多かった制服は、今は、まったくなかった。 おかげで、車を見失ったあとは、勘で歩くしかなかった。   制服部隊は、あの二人のように車に乗り込んでいるのだろうか? そもそも、あの二人は、どこへ向かったのか?   順当に考えれば「殺人現場」だろうが、殺人現場が見つかったのなら、普通は包囲を固めるために散らないだろうか?  歩く内に見知らぬ通りに出た。 これ以上歩いても仕方がない。  そろそろ帰ろうか、と、思った時。  するり、と、なにかに、鼻と口が覆われた。 息が、できない。 「静かに」  声は、耳元で囁いた。 聞き覚えのある声。どこか幼さを残し、それでいて毅然とした声。  僕は……  僕は無言でうなずいた。 それを確認して、ようやく手が離れた。 僕は、ゆっくりと振り返る。  そこに、少女がいた。   夜の灯りを浴びて、銀髪は月光のように光っていた。 ゆれる髪留めを少女は押さえ、すこしだけ笑った。   ──また会ったね。 唇だけで、少女は、そう語った。 僕は、うなずく。   少女の手招きに従い、僕は歩き出した。  僕は、身をひねり、思い切り手に噛みついた。 「ひどいなぁ」  どこかとぼけた声とともに、背後から声がした。 首を回すより早く、少女はくるりと宙を舞って、僕の前に現れる。 「ボクだよ。風のうしろを歩むもの」  「どうして、ここにいる」   我知らず、大きな声がでた。  「し、静かに」   少女はあわてたように囁いた。 「いま、見つかるとまずいんだ。あいつらったら見境ないから」   僕の胸の中の、嫌な予感が、どんどん膨らんでゆく。  「それはおかしいな。あの時、ラーメン屋で……」   少女は言ったはずだ。 風に頼めば、声は外に洩れない、と。 「いまは、まずいんだ」   少女は、あわてた声で囁く。  「なんだ、また結界か?」  「少し静かに……」  それを裏付けるように、真っ白な光が僕を照らした。  サーチライトの白い光が、肌に熱かった。  目もあけられない光芒の中、車……装甲車の到着する音が聞こえた。 僕は、黙って両手を挙げた。 「カツキ。一緒に来て!」  少女の声は、ほとんど哀願と言ってよかった。 が、僕は首を振る。 もしも彼女が……連続殺人犯であるならば。  両手をあげてじっとしている内に、徐々に目が慣れた。  少女は、僕をかばうように立ち、両手で構えを取っていた。   降伏勧告の代わりに、白いものが転がってきた。  「なに?」   一瞬、少女が気を抜く。  次の瞬間、それは、爆発した。  サーチライトとは比べものにならない、熱い白光が全身を貫いた。 大音響が鼓膜を破る。  閃光手榴弾。 暴虐なまでの光量と音量は、人間の思考を、瞬間的に停止させる。 そして……人によく似たものの思考も。  少女がどうしたかは知らない。 最後まで僕をかばおうとしたか。 それとも抵抗できずに打ち倒されたか。 あるいは逃げたか。  それを思考する意識は僕にはなかった。  意識がないことは幸いだった。 続く数瞬、銃弾が僕の全身を貫き、人形のように踊らせたからだ。        二、三本、道を曲がったところで、少女は、ようやく息をついた。 「あーびっくりした。まさか、カツキに会うなんて」  「僕は、君に会いに来た」 「ボクに? どうして?」   僕は、少女の目を見た。 前に会った時とおなじ、無邪気な目。 何も隠している様子はない。   けれど……聞いてみなければわからない。 「この街で起きてる殺人事件。それに君が関わってるんじゃないかってね」  「カツキはどうしてそう思うの?」   少女の顔には、怒りも、疑念もなかった。単なる興味とも違う、まっすぐな問いかけ。  「殺人者の能力は、人間を超えている。僕の知ってる限り、それができるのは、君か、イグニスだ」   少女は、小さくうなずいた。 「うん。確かにそうだね。 カツキがそう思うのもしかたないかな」  「一度だけ聞く。風のうしろを歩むものは、この街で人を殺したか?」   少女が、小さく微笑んだ。  「ボクはボクの名にかけて誓う。風のうしろを歩むものは、未だかつて、この街で人を殺したことはない」  「カツキは、ボクを信じる?」 「あぁ」  少女の眼にうながされて僕は続けた。  「僕は、九門克綺の名にかけて誓う。風のうしろを歩むものの言葉を信じる」  「よかった」   少女が破顔した。  「それで……」 「しっ!」  少女が再び唇に指を当てる。 「カツキ……絶対に声を出さないって、誓える?」  僕はうなずく。 「じゃぁ、こっち」  少女は、僕の手を引いて走り出す。 革のブーツは、こそりとも足音を立てず、僕の足音と息づかいだけが騒々しく響いた。 「このへんで、いいかな……」  少女が連れ出したのは、例の公園だった。 「カツキ、登れる?」  「もちろんだ」  ジャングルジムの上に、僕は少女と並んで座る。 「何が始まるんだ?」 「ん? あっち」   少女は指さす。 公園の外には夜の街が広がっている。 「あっちって?」 「……あ、そうか。カツキには見えないね。うーんと、どうしようかな」  少女が腕を組んで悩む。 「あ、そうだ」   手を叩く。  「ちょっと眼をつぶってくれる?」  言われるままに、僕は眼をつぶった。 少女の手が僕の首筋に触れる。びくりと電流が流れた気がした。  小さな息づかいが近づいてくる。 それは僕の喉に触れ、頬へとあがる。 唇に近づき……そして、鼻へと伝わった。  ぴちゃり、と、右の瞼に暖かな感触が走る。 接吻と呼べるようなものではなかった。少女が犬のように、僕の目を舐め上げたのだ。  そして、左目にも。 「あ、まだ眼を開かないで」  暖かな感触が、じわりと広がった。 瞼から、瞳へと、熱が伝わってゆく。 それが目から脳へとつながり、背筋を貫いた時、僕は、ぶるりと身体を震わせた。 「はい、開けていいよ」  少女の顔が、真昼のようにはっきりと見えた。 あたりを見回すが、灯りは公園の街灯だけだ。  「狼の目。どう、よく見える?」 「見えるとも」   少女の周りには、かすかに緑色の靄があった。 目の錯覚かと思ったが、少女以外のものには見えない。  「今夜一晩しか保たないけど……あ、早く、あっちあっち」  少女が指さすほうをみた。  今度は、見えた。夜の闇を透かし、無数の距離を縮めて、遙か彼方の通りで起きている出来事が、間近に見えた。  何の変哲もない裏通り。  最初に動いたのは、マンホールだった。  錆びて、飴色になった大きなマンホールの蓋。 ゆっくりと、それは下から持ち上がった。  その先に、男がいた。 この寒空にTシャツで歩く体格のいい男。顔が、紅い。  うしろの音に、男が振り向く。 「待て!」  僕は、手を伸ばす。 が、むなしく空を切る。それは数百メートル先のことだ。  マンホール蓋が、ゆっくりと傾き、ごろごろと転がった。 道の端にぶつかって、停止する。  マンホールから腕が伸びていた。 いや違う。  関節のない、ぬるりと青黒い腕は、先端が尖っていた。 敢えていうのなら、触手。 青黒い触手が生えていた。  ゆらゆらと海草のように動くそれが、ぐいっと盛り上がる。  シャツの男は腰を抜かしていた。 悲鳴が聞こえるようだった。 喉が、胸が、腹が、ありったけの空気を吐き出していた。  ずるり、と、それが姿を現した。  蛙にも似たその姿。  ふいに路地裏が明るくなる。  無数のサーチライトが道を明るく照らし出す。 装甲車がタイヤを軋ませて停止し、前後をふさいだ。  男の口に、驚きとも笑みともつかないものが浮かんだ。 「よかった……」  そう言った僕の肩に、少女が手を置いた。 「どうしたんだ?」  装甲車からバラバラと降り立った制服の男達。 その脇には……機関銃、というのだろうか。 銃身のながい銃が抱えられていた。  誰一人、口を開かなかった。 だから、警告の言葉もなかったに違いない。  男達は、即座に銃を撃った。 「どういうことだ!」   僕は、少女に向きなおる。  「どうって……ボクに聞かれてもわからないよ。君たちがやってることだろ?」  「君たちって、なんだ?」 「だから、君たち、人間」  「人……間?」  僕は、いまや戦場となった路上に視線を戻した。  シャツの男の姿はどこにもなかった。  粉々になった血肉の塊。それが彼の全てだった。  魚人も無事ではない。銃弾は、その肉の半分をえぐりとっていた。 それでも、身を包む青いオーラは、健在だった。  顔の半分が削れ、ちぎれたはらわたが風になびき、長い尾でバランスを取りながら。 魚人は立っていた。  魚人の、残った触手がひらひらと動く。  途端に、爆発が起きた。制服の男達の一角が吹き飛ぶ。 炎はなく、ただ、血と肉と骨が、平等に降り注ぐ。 「今のは……」  「わだつみ」   少女が小さく呟いた。 わだつみ……海、を、あらわす古語だったか。  もう一度、爆発が起きる。  今度は見えた。魚人の触手から、かすかな線が飛んだのを。  そして、爆発現場は、濡れていた。  同胞の血を浴びた制服の男達は、いまなお、銃の連射を続けていた。 魚人の触手がついにちぎれ、頭が吹き飛ぶ。  いまだ魚人は立っていたが、もはや、その身を包む青いオーラはなかった。 最後の連射を受けて、ふわりと地に伏す。  男達の口が開いた。歓声、だろう。その唇が凍り付く。  地面が揺れていた。マンホールを中心に、地割れが走る。 装甲車が、あわててバックした。  アスファルトの大地が、無音のまま陥没した。  土煙の中、青い光を感じた。 「あいつら、いったいどれだけいるんだ?」  「そんなに多くはないよ」   少女の言葉には、はじめて聞く冷たさがあった。  さきほどのより大きな魚人。それが五体。  一体が触手を左右に広げた。 その間に、きらきらと光る虹が現れる。  猛射が再開した。殺到する銃弾を、虹が弾いた。  否。虹ではない。 無数の水滴が、サーチライトを浴びて虹を作り出していた。  銃弾を弾いていたのは、その水流だった。 いかなる効果によるものか、銃弾は、魚人たちに触れもせず、片端からひしゃげて、地面に転がった。  男達が後退をする。 魚人たちは、悠々と距離を詰め始める。  その時、装甲車の扉が開いた。  現れた白衣の男達が四人で担いでいるのは……スピーカー? 「なんだ、あれ?」 「知らないってば。君たちの道具でしょ?」  少女にそう言われると返す言葉がない。 僕の知識では、それはスピーカーとしか言いようがなかった。  それも、劇場に据え付けるような、巨大なサイズだ。 棺桶ほどもある、黒い直方体で、その上方には、黒く丸いコーンに似たものがある。  スピーカーは、どんと地面に置かれ、スイッチが入った……ように思えた。 ここからでは見ることができない。  兵士達の期待の目が、スピーカーに……そして魚人たちに等分に注がれているのがわかる。  果たして、魚人たちは、ぐらり、とバランスを崩した。  銃の斉射が、その〈鰭〉《ひれ》を削り取る。 ……が、それだけだった。  腹立ち紛れに触手が振られ、スピーカーはたちまち爆発した。  白衣の男達が、血と骨となってふりそそぐ。  僕は、思わず拳を握りしめた。 「なんとかならないのか?」  少女を見て……その視線に僕はたじろいだ。 「なんとかって……なに?」   そこには焦りも怒りもなかった。 怯えも恐怖もない。   その時、僕は、ようやく理解したんだと思う。   この子は……風のうしろを歩むものは、どれだけ似ていても、僕と同じじゃない。 種としての人間、ではないのだ、と。 「僕は」   そう声に出すのは勇気がいった。  「気を悪くするかもしれないが……僕は、あの人たちを助けたい」  「気を悪くはしないよ。同じニンゲンなんだから、当たり前じゃないかな」 「君に頼むのは、おかど違い、ということかな?」  「友達の頼みだったら考えるよ。けれども……うん。ボクは助けたいとは思わない」  「わだつみの民とニンゲンの喧嘩に、肩入れする義理はないからね」   少女は、悲しげに笑った。  「でも、見てご覧よ、ほら」  言われて目をこらせば、制服の兵士たちが撤退するところだった。 ほとんどの兵士は装甲車に乗り込んでいた。  ……が、負傷で乗り遅れるものがいた。 片足から血を流している。  最後尾の男は、まよわず拳銃を抜いて、男を撃った。  逃げる装甲車を、魚人は襲おうとしなかった。  ただ。 ありあまる死体に、触手を振り向ける。  一薙ぎごとに、肉がちぎれ、骨が折れた。  やがて、食事が始まる。  僕は、意識して、その光景から目をそらした。 「どうして……これを見せたんだ?」 「カツキは、殺人犯を捜してたんでしょ?」 「……そうだったな」 「いったい、何が起きてるんだ? 最初、魚人が通行人を襲おうとしてるようにみえたが」 「襲ってただろうね。たぶん、食べるつもりだったと思う」 「なぜだ?」 「なぜって……あぁ。カツキは知らないのか」 「なにを……」  少女は僕の手を掴んだ。  あらがうこともなく、小さな唇が指をなぶる。 「痛っ……」  犬歯が指先に食い込み、血が流れた。 少女の舌が、ぴちゃぴちゃと、それをなぶる。 僕の胸が……ないはずの心臓が鼓動を打つ。 えもいわれぬ快感が、指先から、背筋に走り抜けた。 「ふぅ」  少女は、陶然とした表情で、指を離す。 唇の端からしたたる紅い線を、舌が舐め取った。 「あの女の言っていた通りだ。 やっぱりカツキが門だった」   少女が、ひとりごちる。  「何のことだ?」  「──ボクたちはね。ニンゲンを食べないと生きていけないんだ」  「なかでも、カツキは最高の餌なんだよ」   爛々と輝く瞳が、僕を見定める。 夜風に髪が膨らんだ。 「君は、僕を喰らうつもりなのか?」  「ボクだけじゃない。ボクたちみんな……カツキを狙ってる」  「僕たち、だと?」   遅れて、からからの喉から、そんな声が出る。  「ボクたちは、ボクたちさ。大神もわだつみの民も……ニンゲンにとって、いないはずの、全部だよ」   静かな声が告げる。 「ほら、みんな来てる」   声の調子は、あまりにも静かで、意味が分かるまで、数秒を要した。  音がしていた。 静まりかえった、この街の、僕のすぐ後ろで。   しゃかしゃかと箒を掃くような音がした。 犬の爪が、床をこするような音。 あるいは、巨大な虫が歩んだとしたら、そんな音がするだろうか。   遙か頭上から感じるなま暖かい息づかい。 それは、肉食の獣を思わせた……だが、もしそうなら、どれだけの大きさなのか。 そして、羽ばたきの音。 巨鳥が風を打つ、ゆっくりとしたリズム。  それら全ては、気を緩めれば、一瞬で、ホワイトノイズに消えそうな、かぼそい音だ。 けれど、僕は、その実在を疑わなかった。 音の主の存在も。   なぜならば──。   そこに視線があったからだ。   物理的な、力さえもって押し倒す視線。 首から背をなめ、手足をねぶるようになめ回す視線。   しびれるような痛みが、全身を貫く。 指一本動かせない。   夜なお紅く光る目が、視覚ではなく感じられた。 獣の目は、ぎらぎらと輝き、複眼が、無数の角度から僕を見回す。   牙が、鳴った。 涎がすすられた。 顎が動き、舌が伸びる。   人狼。 魚人。 いないはずの生き物。 人に似て、人にない異能の力を持つ者。   僕は、目の前の少女を見て、それらが人の世の異物に過ぎないと思っていた。   どうやら、それは間違いらしい。 そのことに、僕は遅まきながら気づいた。   それらは、常に人に寄り添うように存在していたのだ。 ただ……「いないはず」になっていただけで。 「だめだよ、あげないよ、これ、ボクのだから」   歌うように少女が笑った。 その視線は、背後から感じるのと全く同じだった。   すなわち──食欲。  その時、少女の眼が曇った。 眉根がよる。   続いて背後で……異音が響いた。   布団を叩くような音。 小枝をへし折るような、乾いた音。   大地を擦る足音が増し、息づかいが荒くなる。 暗闘が始まったのだ。  「いないはず」のものたちの戦いは、静けさに満ちていた。   規則的に響く打撃音。 乾いた音が、やがて、何かをかきまわす湿った音に変わっても、悲鳴一つ響かなかった。   耳にかかる息づかいが、時折乱れ、そして消える。   それが全てだった。    コツ、コツ、と、アスファルトに足音が響く。   それ以外のすべての音は消えていた。   きりきりと歯車の回る音。   冷たく堅い何かが肩に置かれた時、僕の金縛りが解けた。  弾かれたようにふりむく。  虚ろな目と、目が合う。 虚ろなのも道理。それは、象牙色の仮面だった。   端正に彫られた瞳は、あらゆる視線を吸い込み、何も映さなかった。 整った鼻筋も唇も、硬く凝って動かず、氷の壁のようにそびえ立っていた。   僕の肩を掴んだのは、その腕だった。 黒光りする鉄の指が、肩の奥に食い込んで離さない。  咆哮が辺りを揺るがした。  少女だ。 耳をピンと立て、全身の毛を逆立てている。 唇の端からは、再び牙がのぞいていた。   ──怯えている。   僕は、直感する。 目の前の少女……風を駆る狼は、この人形に怯えている。 尻尾があれば、それは自信なさげに揺れているはずだ。 自由な獣であれば、即座に逃げていただろう。  けれど、少女は逃げない。 禍々しい人形の仮面を精一杯見返している。  「帰れ。これは、ボクのだ」   言葉は繰り返す。 その意味は考えたくなかったが、頼もしく響いた。  対する人形は、無言。   きりきりと、人形が動いた。 一歩歩むごとに、歯車が軋む。   ゆっくりと……悠長とさえいえる動きで、人形は少女に近づいた。  先に動いたのは、少女だった。 その唇から歌が洩れる。  「風よ……芽吹きの風よ。この腕に力を!」   右腕が、緑に輝いた。 五指が、五本の輝線を描く。  人形は、かるく身体をひねったのみ。 衝撃はなく、音さえも響かなかった。  少女の一撃は、紅い外套に受け止められていた。 外套は手首を捕らえ、ぎりぎりと絞り上げる。  ごり、と、音がする。何かが磨り潰される音だ。  痛みに顔が歪んでも、少女の口から叫びは洩れなかった。 代わりに、血の筋が垂れた。 左手が、人形を突き飛ばす。  解放された右手は、絞った雑巾に似ていた。 吸い込まれたように血の色はなく、ピンクの肉片と白い骨が混じりあっている。  「まいったな……」   少女がつぶやいて、腕を振る。  たったそれだけで、フィルムを巻き戻すように、腕が戻ってゆく。   ねじれた肉と骨の塊が、ゆっくりと解けた。 白い骨がくっつきあい、五指が現れて、最後に表皮が再生する。  自動人形は止まらない。  ゆっくりと近づき、その左腕を振り上げた。 それはひどく緩慢な動作で、それでいて、止めようのない重さを感じさせた。 「はっ!」  少女が気合いを入れた。  両手を交叉して左腕を受け止める。  左腕は、止まらない。 まるで、水の中を動くように、ゆっくりと沈み続ける。   少女の顔に、汗が流れた。   みしみしと腕が音を立てた。 人形の手刀が落ちるに連れ、少女の腕がたわんだ。 完全にU字型を呈した後に。   ぷちん、と、音を立てて腕が砕けた。   だらんと垂れ下がる両手を無視して、手刀はなおも降下する。 愛おしむように少女の胸を撫で、速度をゆるめずに、沈んでゆく。   「やめろ!」   我知らず、僕は叫んでいた。   腕が、止まった。 五指は、半ばまで胸に潜り込んでいる。  きりきりと、音を立てて、首が回転した。   瞳のない仮面が、僕を向く。  その時、少女が動いた。  胸の穴から、音をたてて血を噴いた。  そのまま大地を蹴ると、少女は僕の襟首に噛みつく。  勢いよく少女が走ると、僕の身体が浮いた。 親猫が仔猫を運ぶように、少女は、僕を連れて大地を走った。  あいもかわらぬ緩慢な動作で動く人形を置き去りにして。  少女は無言だった。 僕をくわえているのだから当たり前だ。  僕も無言だった。 車より早い速度で、じかに風に触れていた。  やがて、少女が足をゆるめると、僕の靴が地面に触れて白い煙を立てた。 完全に止まって、初めて、少女は僕を放した。 「大丈夫か?」  普通であれば、無意味きわまりない質問だろう。 けれど……見た限り、少女の腕は折れていなかったし、胸の穴もふさがっていた。  服には大きな穴があるにもかかわらず、その先にのぞく素肌には、傷の一つもなかった。 「うん」  少女は僕の視線を追い、胸の穴をかきあわせた。 「命を救ってくれてありがとう。僕を食べるつもりかい?」 「食べられるなら、お礼を言わなくてもいいんじゃないかな?」   のんびりとした声で、少女は答える。 「助けてもらったことは助けてもらったことだ。 その目的とは別に、僕はお礼を言いたい」 「ふぅん。やっぱりカツキはいい人だね」 「よく言われる」   僕は真顔でうなずいた。 「それはそれとして、二番目の質問だが」 「うん。食べるよ」   屈託のない顔でそう言われると、さすがに戦慄が走る。 「でも、今日は、やめとく」  一瞬の沈黙。 どこか遠くから、あの歯車の響きが聞こえた気がする。 「今日は、早く帰ったほうがいいよ。それと……外を出歩く時は気をつけて」  正しいが、守ることが難しいアドバイスを残して、少女は地を蹴った。 風がふわりと僕の髪をまきあげる。 塀の上を走る少女を、僕は見送った。  髪に残る風は、初夏の香りがした。  少女が僕を残した場所は、メゾンにほど近かった。 夜のこととて、入り口は閉まっていた。  鍵を開けて中に入る。  ぎぃ、と、扉が、開く。  と、その時。暗い広間に灯りが点いた。 「お兄ちゃん……いったい、どうしたの?」   飛びだしてきた恵。  「ひぃやぁぁぁ!」   その語尾を悲鳴がぶったぎった。  「峰雪?」   どうして、こんなところにいるんだろう。  悲鳴は、長く長く尾を引いて、やがて、途切れた。 恵は、その間に、平静さを取り戻したようだ。 「お、お、おまえ……平気なのか、それ?」 「それとは何か明確にしてくれないか?」  「……お兄ちゃん、シャツ、シャツ!」   ああ。 僕は、ようやく気づいた。   少女が僕を運んだ時、胸には大きな穴が空いていた。その時に浴びたのだろう。制服は〈血塗〉《ちまみ》れだった。 なかんずくシャツの裾は、だんだらに染まっている。 「たいしたことはない」   返り血……というのとは違うな。なんて言うんだろう。  「たいしたことないって、おまえなぁ……」  「たいしたことないならいいけど……」   恵が、ためいきをつく。 「あら、克綺クン、お帰りなさい」   管理人さんが、入り口から入ってきた。  「管理人さんも、お帰りなさい」 「お兄ちゃん、ちょっと来て!」  恵が僕の耳を掴んで引っ張った。 背後で峰雪が、ふわぁと、あくびをしていた。 「早く着替えて」  言われるままに着替え、シャワーを浴びた。 制服は……これは洗濯しても無理だろう。 新しいのを、また買わないと。  僕が出るのを恵は仁王立ちで待っていた。 「お兄ちゃん、座って」  言われるままに僕は座る。 「大変だったんだからね。わかってる?」 「いや、わからない。何が大変だったんだ?」   メゾンで何か事件でもあったのだろうか?   恵は目をつぶった。 多分、数字を数えているのだろう。 精神を落ち着かせる必要に迫られたらしい。 「お兄ちゃんのせいで、大変だったの」 「僕のせい、というのは、どういうことだ?」  「心配したの!」 「心配? なにをだ?」  「お兄ちゃん、変なこと言って出かけたでしょ。殺人犯を捕まえるとかなんとか」 「正確には違うが、その通りだ」 「そのせいで、みんな心配したのよ! 探しにいったり、あちこちに聞いたり! あとで峰雪君と管理人さんにも謝っといてよ!」  「なるほど。僕の行動に対して、君たちは心配し、独自の行動を取ったというわけか。それはすまないことをした」  「それで?」 「これからは心配しないことを勧める」  恵は無言で殴った。まっすぐに突き出された拳。 きれいなストレートが、胸元に入る。 息が止まるような一撃に、僕は思わず前屈みになった。 「お兄ちゃんのことだから、ひょっとして知らないかもしれないけど! たいていの人間は、心配せずにはいられないの! スイッチ切るみたいに心配しないなんて、できないし、できてもしたくないの!」  「わかった」  「だから! 心配してほしくなかったら、心配されないようにしてよ!」  「同感だが……難しいな、それは」   僕には、人の心がわからない。 「参考までに聞くが……今回、恵たちは、どういう理由で心配したんだ?」  「殺人犯を捕まえにいくって聞いたからよ。もし、殺人犯と出会ってたら、お兄ちゃん、殺されたかもしれないじゃない。それとも……」   恵は、こわごわと続ける。  「出会ったの? 殺人犯に?」  「肯定とも否定ともいえる」 「説明しなさい」 「今度の殺人事件を行うには特殊な能力が必要だ、と、僕は考えた。その特殊な能力の持ち主に心当たりがあった。だから、その人物が殺人犯かもしれないと考えた」  「警察に連絡とかしなかったの?」  「警察に捕まるなら、とうに捕まっていただろう。それに、彼女を疑うのは単純に犯行が可能だ、という一点であって、積極的に疑う要素があるわけではない。もし僕の勘違いだとしたら、彼女に不便をかけるのは許し難い行為だ」 「いいけど……その人が、本当に犯人で、お兄ちゃんを殺そうとしたら、どうするの?」  「僕を殺すような人には思えなかったし、その人は犯人じゃなかった」   結果的には、僕を殺すような人、だったわけだが。 もっとも、食べるための殺しは正当化される、というのは、一般的な道徳かもしれない。 人喰いは罪だが、種が違えば、それも問題ない。 「あの血は?」  「彼女の血だ。彼女は元気だから心配には及ばない」  「何があったの?」  「そのへんはプライバシーに属する。彼女の許可を得るまでは話したくない」 「私にも、話せないの?」  「必要がない限りは」   恵は、深々と溜息をついた。 「お兄ちゃんは、私が、血塗れで帰ってきて理由を言わなかったら心配する?」  「心配する」  「じゃぁ、私が心配してるって分かる?」  「僕が恵だったら心配するだろう。しかるに恵は僕ではないから、心配すると断言はできない。多分、心配しているだろう、と、推測することはできるが、それは、他人の気持ちを分かる、というのとは違うかもしれない。なんとなれば、心配という言葉の指す意味内容は、人それぞれの経験と思考によって違うだろうからだ」 「……お兄ちゃん、難しく考えすぎ。心配する気持ちなんて、みんな、そんなに変わるもんじゃないよ」  「……そうかもしれないな」   無論、そうでないのかもしれない。 けれど……一つの生き方として、そうである、と、信じることはできる。そう信じられる恵は、僕にはまぶしく見えた。  ノックの音が、僕の物思いを破った。 「恵ちゃん、克綺クン、ご飯、食べる?」 「はい」  返事したのは恵だった。 「ほら、いこ、お兄ちゃん」  「あぁ」  卵焼きと、アジの干物。白いご飯に、味噌汁と、ゴーヤ・チャンプルー。 管理人さんの今日の夕食は、シンプルな和食だった。 「よう、怪我は平気か?」   予想通り、峰雪がいた。   やつの視線は、夕食に釘付けだった。 よほど、おいしいご飯に飢えているらしい。  「最初から怪我はしていない。 あれは、単に血を浴びただけだ」 「単にって……おまえ、恵ちゃんが、どれだけ心配したと思ってるんだ?」  「そうよ、克綺クン。 用もなく、夜、出歩いたら、みんな心配するでしょ?」 「もういいんです」   恵が、言った。  「そのことは、よっく言い聞かせておきましたから。今日は、本当に兄がご迷惑をおかけしました」  「すまなかった」 「はい、それじゃ、ご飯にしましょ」   管理人さんが、やさしく声をかけた。 「いただきます」  4人の声が揃った。 「夜中といえば……峰雪、おまえはいいのか? ずいぶん遅い時間だが」   僕は、アジの干物をほぐしながら聞いた。 刺身用のアジを、管理人さんが、軒先で干したものだ。 天日で、じっくりと炙った干物は、そうするだけで香ばしい香りが立ち上ってくる。 「あら、泊まっていくんでしょ?」   管理人さんの声に、峰雪の顔から笑顔がこぼれる。 「あ、それじゃ、お世話になります」   峰雪が味噌汁を啜る。 「克綺クン、泊めてあげてくれる?」 「わかりました」   僕は、軽くうなずく。 「へぇ、ほう」   峰雪は、僕の部屋をみて、しきりに感嘆した。  「何を驚いてる? 初めて見るわけじゃないだろう?」  そう声をかける間にも、うっとりとした顔をして、ベッドをさすりだした。 「個人の趣味にとやかく言うつもりはないが……その行動には生理的嫌悪感を感じる」 「ん? あ、ワリィ」   峰雪は、顔をあげた。目がとろんとしてる。  「何がしたいんだ?」  「……あー、その、なんだ」 「ベッドが珍しいのか?」   峰雪は、無言でうなずく。 「うちは板の間にせんべい布団だからな。畳ですらねぇんだぞ」 「ほう」  「文句言ったら、薪の上でないだけマシと思いやがれって言われた」   峰雪のことわざ好きは、やはり父親の影響のようだ。 臥薪嘗胆。 薪に臥して、肝を嘗める。目的達成のために、苦しい試練を自らに課すこと。 「一度でいいから、ふわふわのベッドに寝るのが夢だった」   遠い目をして語る峰雪。  「好きにしろ」   たまには床で寝るのもいいだろう。  灯りを消して、僕は横たわる。 「克綺、起きてるか?」   峰雪が、小さく声をかけた。 「寝ようとしてるとこだ。どうした?」  「いや、眠れなくてな」   声には浮き立つような調子があった。 長年の夢がかない、うれしくて眠れないのだろう。  「なら寝なければいい。僕を巻き込むな」 「わーったよ。友達甲斐のねぇ野郎だ」  「友達甲斐とは、不眠を共にすることを言うのか?」 「おうよ」 「わかった。僕には友達甲斐のないことを認める。だから黙れ」  「……黙る前に、一つ言わせろ」 「なんだ?」  「あんま恵ちゃんに心配かけるな」   僕は、小さく息をついた。  「努力しよう」 「おまえさ……本当は、殺人犯を見つけたんじゃないか?」  「見つけてないと言った覚えはないが」   沈黙は、たっぷり五秒ほど続いた。  「で、それ、警察に言ったのか?」 「警察か……それに類するものは、犯人を知っている。 ただ単に拘束できていないだけだ」  「で、誰なんだ犯人は? あ、いや、待て、言うな」 「わかった。言わない」  「前からおまえに言いたかったが、もうちょっと会話の接ぎ穂というもんを理解したほうがいいぞ」 「この場合、なんて答えればいいのだ?」  「普通は聞きかえすんだよ。なんで、とかな」  「わかった……やってみよう」 「よし。やり直しだ」   きっかり五秒おいて、峰雪は、話し出した。 「で、誰なんだ犯人は? あ、いや、待て、言うな」  「なぜだ? おまえの言ってることは、非合理的だ」  「なんだ、その非合理的ってのは?」  「危険について知識を得たほうが、危険を避ける確率が上がるだろう。自ら危険を増やすことは、自殺行為であり、不合理な行為だ」  「おめーらしい言い草だよ」   峰雪は、これみよがしに溜息をついた。 「安全を最大にすることは、基本原則の一つじゃないのか?」 「いいや、違う」   坊主見習いは、自信たっぷりに言った。   「人間は、まず怖いものを避けるんだ。危険なものじゃねぇ」  「その二つに違いがあるのか?」  「危険ってのは……危ねぇだけだ。慣れれば、どうってことねぇし、根性決めてかかれば、なんとかなる。てか、そんな気がする」 「けど怖ぇってのは、よくわからねぇことだ。よくわからねぇものは、触れたくもないし、知りたくもねぇ。そっとしときたいのよ」  「未知の恐怖のほうが、既知の危険より怖ろしい、と言いたいのか?」  「そんなとこだ」  「それはおかしい。未知の恐怖は未知であるが故に、危険を見積もることができない。であるから、なるべく避ける、ということなら理解できる。けれど……未知の恐怖が常に既知の危険に優先するというのは変だ。その理屈では、人間は未知の恐怖を避けるために、確実な破滅を受け入れる、ということになる」 「受け入れるんだよ。人間ってのは」   重々しく峰雪が託宣を垂れた。 こういうところは真に坊主らしい。  「怖ぇと危ねぇは違うんだよ。人間は、怖ぇ時は、あっさり首吊る生きモンだ」  「だから、な。克綺。俺や恵ちゃんみたいな凡夫は、知らねぇことを減らして、知ったかぶりするために頑張るんだ」   そういう方向から考えたことはなかった。 ……が、言われてみると、その通りかもしれない。  人ならぬものが生きるという現実の未知の局面を、僕は受け入れることができる。 なんとなれば目の前の現実を否認することは、危険を増やすことだからだ。   峰雪の言う通り、僕は危機感を感じることはできても、真の意味での恐怖は感じられないのだろう。  「未知を増やすくらいなら、危険を無視したほうがいい?」  「そこまでは言わないがな。できるんなら、そうしたい」  「なるほど。君の立場はよくわかった」 「おう、わかってくれたか」 「確認したいことが一つある」 「なんだ?」  「未知の恐怖に怯えて真実から遠ざかるのは、現実逃避、と言うんじゃないか?」 「ん? まぁ、なんだ、その……」  「図星か?」 「図星だよ、悪かったな、べらんめぇ」  「わかった。峰雪が現実逃避をしたいのであれば、犯人の正体は知らないほうがよいだろう」  「……そうか」 「あぁ」 「じゃ、おやすみ」 「おやすみ」  あれほど眠れないと言っていた峰雪は、わずか五分で、寝入った。 僕は、と言えば、その五分後に、自分以外の人間と寝室を共にすることの潜在的な脅威を思い知らされた。  すなわち──峰雪は、いびきをかく男だったのだ。  寝付くには、もうしばらく時間がかかった。      未知の恐怖と既知の危険。 峰雪が言った言葉は、その晩、僕の頭の中で、ぐるぐると回っていた。 ゆっくりと思考が溶け、とりとめのない妄想が夢に変わったその翌朝。 僕は、未知の恐怖の一端を知ることとなる……。  ひどく苦しい思いがして目が覚めた。 靴底に押しつぶされる蟻。 まどろみから覚醒に移る一瞬の間の中で、僕の頭を支配したのは、そんな印象だった。  吐き気がした。痛むのは腹だ。 何か重く、大きなものが、ぎりぎりとはらわたを締め付けていた。  息が……できない。 鼻も喉も、真綿のような何かにくるまれて、目も開けられなかった。  どこか遠くで、鋭い金属音が響く。 鉄と鉄を擦り合わせたような、高く、神経に障る音。 音の意味を、もう少しで思い出せそうで、それでいて、思い出せなかった。  ゆっくりと理性が目覚めるに連れ、圧潰と窒息の恐怖は、理不尽な状況への戸惑いに変わった。  何が起きているのか──。 何故、苦しまねばならないのか──。  理由。僕がここにあり、ここで苦しむ理由。 それは、あと少しで手が届きそうで……それでいて、指の間をすりぬけてゆく。  世界は理性を裏切り──。 理性は世界に届かず──。  その時、僕は、恐怖していたのだと思う。 身体に感じた苦痛ではなく。 この白い闇でたたずむことそれ自体が。  ──この上もなく怖ろしかったのだ。  恐怖は理性を麻痺させ、僕の手足を突き動かした。 僕を覆う白い闇が、かすかに持ち上がる。  同時に、耳を刺す金属音が、明瞭に、意味を持って響いた。 その源を理解した時、すべては、明らかになった。  鳴っているのは目覚まし。 ここは僕の部屋。  普段と違う目覚めの原因は、普段と違う要素の存在。  僕は、身体を振って、どける。 胸と腹に、どっしりと置かれた、峰雪の足を。 「ふあぁわ?」  得体の知れない声を峰雪は出した。 僕は、その頭を、はたいた。 「起きろ、峰雪」  布団ごと落っこちるとは、たいした寝相の悪さだ。 二段ベッドだったら、首の骨を折って死ぬタイプだ。 ──ベッドを許さないのは、むしろ親心なのか? 「なはんだ、かつきかよ」   緊張感のない声を出して、峰雪は、起きあがった。 「早く着替えろ、朝飯だぞ」 「おう」  そう言って峰雪は、顔を張って気合いを入れた。 その時は、いつもの不敵な面構えに戻っていた。 「お寺の息子は、朝が早いと思っていたんだが?」   僕は、顔を洗う峰雪に声をかけた。 「おうよ。今日も夜明けに目が覚めたんだけどな。さすがに起こしたら悪いと思って二度寝した」 「なるほど」 「克綺クン、峰雪クン、起きてる?」  戸を叩いたのは管理人さんだった。 「朝ご飯できてるけど、よかったらどうかしら?」 「いただきます!」   峰雪の声には、特大の感嘆符がついていた。  「いただきます」  「はい、それじゃ、下で待ってるわね」  とんとんと階段を降りる足音を聞いて、峰雪は溜息をもらした。  「どうした?」  「なんでもねぇよ」 「お兄ちゃん、おはよ」   管理人さんの部屋では恵が待っていた。  「おはよう、恵」 「恵ちゃん、おはよう」  「峰雪さん、おはよう」   恵が、思い出したように返事をする。 「さ、できたわよ」  管理人さんが、両手に皿を載せて現れる。 湯気の立つ皿から、香ばしい匂いがする。 「峰雪クン、お腹空いてる?」 「はい! 空いております!」  「よかった。ちょっと作りすぎちゃったから、ちょうどよかったわ」 「管理人さんは、ああ言っているが、あれはいわゆる社交辞令であって、本当に分量を間違えたわけじゃない。意図的に峰雪にご馳走しようとしたわけだから、勘違いしないようにな」   僕が解説を加えると、峰雪は、一瞬、呆けた顔をして、しかるのちに僕の頭をはたいた。  「痛い!」  「それくらい、わかってるっての」 「ならばいい」   管理人さんは、苦笑していた。 「克綺クンも、峰雪クンも、遠慮しなくていいからね。ご飯は、大勢で食べたほうがおいしいでしょ」  「そうっすね!」   峰雪が、嬉しそうにうなずく。 「いや、それは必ずしも正しくない」   僕は、口を挟んだ。 峰雪は、よく、お寺のお坊さんたちと一緒に朝食を食べている。 もし食事のおいしさが参加人数に比例するのであれば、峰雪は、家で朝食を食べたほうがおいしいはずである。   だが、峰雪は、明らかに管理人さんと食べる食事のほうがおいしいと考えているようだ。 これは即ち、人数とおいしさは単純比例ではないという証拠であろう。 「はいはい、お兄ちゃん、あとでいいからね。さ、いただきます」   そんな僕の異議は、一瞬で流された。 「いただきます」  皆の声が一つになる。 「ごちそうさまでした」  いつもながら、管理人さんの食事は、ご馳走と呼ぶにふさわしかった。 なかんずく、ピザトーストが絶品であった。 「ほいじゃ、行ってきます」 「行ってきます」  「行ってらっしゃい」 「お兄ちゃん、今日、帰りは?」 「特に用事はない」  「じゃ、早く帰って来てね。ご飯作ってるから」   僕は恵にうなずいて、メゾンを出る。  すると……。 「くぅっ!」   なぜか、峰雪が感極まっていた。  「どうした、峰雪?」  「なんて、うらやましいやつだ」 「何がだ?」  「管理人さんの手料理を食べられて、家には可愛い妹がいて」 「ふむ」  「ふむ、じゃねぇ。俺も引っ越そうかな」 「どうだろうな」   メゾンの家賃は格安で、峰雪が言ったように条件もいい。 それでも空き室は多く、入れ替わりは激しい。   その理由は、管理人さんの面接にある。 誰でも入居できるわけではなく、どうやら管理人さんの眼鏡にかなわない人間は入居できない仕組みらしい。 かといって、その条件は、お金がある、とか、身元がしっかりしている、というものでもない。   むしろ、その逆で、どこにも居場所がない人間を積極的に受け入れているように思える。 そういった意味では、両親のいない僕もそうだ。 そう考えると……。 「峰雪は、多分、無理だな。管理人さんが入れてくれないだろう」  僕は、メゾンの事情をかいつまんで説明した。 「……そういうことなら、ま、しゃぁないな」   峰雪はうなずいた。  「まぁ入る可能性が、なくもない」 「あんのか!?」  「例えば峰雪が父親に勘当されて、天涯孤独の身になること。あるいは寺ごと没落する場合などが……」 「訊いた俺が馬鹿だった」  「ちなみに恵を妹にする可能性は……」 「言うな。聞きたくねぇ」  どんな事態であっても、可能性は常に存在している。それが僕の持論だ。 無論、追及したくなる可能性か、と言えば、それは違うわけだが。  さしあたって僕は、遅刻の可能性を避けるために、走り出した。  退屈な授業を終え、僕は家路に就いた。 何ともあわただしい一日だった。  未だに続く連続殺人事件を鑑み、全課外活動は一切中止。 全校生徒は、授業終了後、すみやかに下校、と、いうことに相成った。 帰り道の近い者は、できるだけ一緒に帰るように、というお達しは、あまり守られていないようだったが、ともかく一斉下校だ。  満員電車並に混んでいる階段と下駄箱を抜け、校門を出て、僕は、ようやく息をついた。  携帯を取りだして電源を入れる。  新着メール。  恵からだった。  内容は……買い物メモだ。 量と種類からいって、恵の料理じゃぁない。となると、管理人さんか。  久しぶりに来る商店街は、妙に殺気立っていた。   夕方は主婦の買い入れ時なのだろうが、それだけじゃない。 レトルトや冷凍食品が、がさがさと大量に詰め込まれる。 そのほか、食用油に日用品。あちこちに、売り切れの札が立っていた。   そこで店員に食ってかかる人たち。 まるで籠城でもしようという勢いだ。   心理的には似たようなものかもしれない。 夜間が外出できないだけにせよ……いつ、それが昼になるかはわからない。  僕の買い物も量は多いが、そんなせっぱ詰まったものではない。 むしろ、珍しい食材が多いくらいだ。   メインの肉や野菜のほかに、聞いたことのないハーブだか野菜だかの名前が一面を占めている。   閑散とした通路を歩いて、僕は、ハーブを集めた。   続いて肉屋と米屋に寄ったが、こちらは管理人さんから聞いてるらしく、名前を出すだけで品を渡してくれた。 「お帰りなさい」   案の定。 荷物を買って帰ってきた僕を迎えたのは、管理人さんだった。  「……重かったです」  「あら、男の子でしょ。それぐらい軽い、軽い」  「男の子ですが重いです」  実際に荷物は重かった。 両手に米20kgと、山のような野菜類を抱え、背には豚肉を丸々一頭背負っている。 スーパーの帰り道は、かなり過酷な道行きだった。  「今日は、パーティですか?」  「そう! 新しい人が入ったの。 あと、この際、恵ちゃんの入居祝いも一緒にね」  そういいながら、管理人さんは、米袋を受け取ってくれた。 部屋に入ると……。 「よう!」   峰雪が出迎えた。 鼻歌を歌いながら、入り口にリボンをかけている。  「なぜ、おまえがここにいるんだ?」 「なぜたぁ挨拶だな」  「あら、迷惑だった? 人手があったほうがいいと思ったんだけど」   管理人さんが小首を傾げる。 「別に構いませんが。 目敏い男と思っただけです」  「なんだと、コラ」 「お兄ちゃん、お帰り」   恵が、奧から顔を出す。手には包丁を握っていた。  「ただいま。これ、ここに置いとけばいいのか?」  「あ、うん。お願い」   巨大な肉の塊を置いて、僕は一息ついた。 テーブルには、僕が買ってきた以上の具材が広がっており、結構広いキッチンが狭く見えるほどだ。 「新しい人って何人来たんだ?」 「え? 一人だけだよ」 「とすると、よほどの大食漢か?」   峰雪がいるにせよ、数人で食べるには多すぎる量だ。 豚の丸焼きを豪快に〈啖〉《く》う巨人を、僕は想像する。 丸太のような両足に、はちきれそうなTシャツ。  「女の子だと思ったけど」 「大食漢の女性というわけか」  僕は、Tシャツの主を女性に変更した。 シャツごしに背筋が、くっきりと浮かび上がり、その上には太い首と、あらゆるものを噛み砕く巨大な顎が鎮座ましましている。  「とっても可愛い子よ」   管理人さんが、入ってきた。   そうか。可愛いのか。 さらに変更をくわえる。  身長2メートルの、筋骨隆々とした少女。 山が盛り上がり、大地が裂けるごとく、唇がつりあがり、頬が隆起し、角張った顎が広がる。  筋肉の織りなす山脈に、かすかに現れるえくぼ。 ついでに頭には黄色のリボン。 「個性的な子なんだろうな」 「そうね。とってもいい子よ」  「何か手伝うことはありますか?」  「ちょっと待ってね。もうすぐ盛りつけだから、その時、お願い」  「わかりました」  部屋に戻ってしばし休む。 考えてみれば、おかしな話だ。 このご時世、この街から引っ越そうというのならともかく、わざわざ、ここへ引っ越してくるとは。  あるいは引っ越し準備が整うまでの間の、短期滞在だろうか? まぁ身長2メートルの女〈偉丈夫〉《いじょうふ》であれば、殺人犯を怖れていない、という可能性もありうる。  メールチェックが終わった頃に、ドアがノックされた。 「克綺クン。ご飯よ」 「はい、今行きます」  管理人さんの部屋に一歩はいるなり、おいしそうな匂いが鼻をくすぐった。 キッチンテーブルを埋め尽くすように、ボールや皿が置かれている。 おさまりきらない皿は、床に置かれ、うっかり歩くとひっくり返しそうだ。 「あ、克綺クン!」  管理人さんが、フライパンを振りつつ手を振る。 ……そこまで歩いてゆくのが大変そうだ。 「そこのお皿、どんどん持ってってくれる?」 「これですか」 「そのグリーンのお皿、ね。庭にもってって」 「わかりました」  グリーンの大皿は四枚あった。一度に持つと、ちょっとしたウェイター気分だ。 皿に載ってるのは、サーディンのマリネだ。 香ばしく焼き上がったサーディンが、オリーブオイルとバジルソースで、鮮やかな緑に染まっている。  メゾンの庭には、テーブルがある。 入居者が増えると、歓迎パーティを開くのは、このメゾンの習わしだ。  いつもは一つで足りるテーブルだが、今日は、いくつも置いてつないでいた。 そのテーブルの一つに、僕は皿を置いた。 「案外、器用だな」  峰雪が、こちらは皿を二枚持って、現れた。豚の丸焼きがのっかっている。  「案外、ということは、僕は不器用に見える、ということか?」  「手先以外のとこで不器用だからな、おめぇは」   手先以外、か。 「それより聞いたか? 入ってくるの、可愛い女の子らしいぞ」  「聞いたが?」 「この幸せ野郎がっ!」   皿を置いた僕を峰雪がつつく。  「入居者が、若年の女性であることと、僕の幸福に関係があるのか?」  「魚心あれば水心ってやつよ。 綺麗な女の子がいれば目の保養だろうが」 「なるほど。つまり、峰雪は、身長2メートルで、鉄のような顎をした女の子を見たいわけだな」  「……そうなのか?」   峰雪が、目に見えて落ち込んだ。  「僕の予測だ」  「予測で妙なこと言うんじゃねぇ!」  そう言いながらも、峰雪は、四方を窺っていた。 「油を売ってる暇はない。次の料理を取りにゆくぞ」 「わーったよ。……身長2メートルねぇ……」  煮えきらない峰雪と共に、僕は、キッチンと庭を往復した。 伸ばした腕が痛む頃、ようやく、運搬が終わった。 「はぁい、二人とも、ありがとう」   管理人さんのねぎらいの言葉とともに、僕たちはテーブルについた。 恵も一緒だ。  「いえ、これくらい当然っすよ」 「確かにな。入居者でもないのに、このご馳走を食べようというわけだから、多少の肉体労働くらいは義務といえる」 「……克綺クン、こういう時は、細かいこといわないの」 「こういう時というのを、具体的に定義……」   言いかけたあたりで、むこうずねに鋭い痛みが走った。  恵がこっちのほうを見て笑っている。 「じゃ、ちょっと待っててね。今、呼んで来ます」  そう言って管理人さんがメゾンに戻る。 僕たちは、湯気を上げる皿の前で、3人取り残された。  適度な労働は食欲を誘う。 管理人さんの料理からは、魔法のように素晴らしい香りが立ちこめている。 僕たちは、吸い付けられたように料理を見つめていた。  最初に動いたのは、峰雪だった。 その右手が、すっと皿のほうへ伸びる。  「やめろ、峰雪」 「おう」   そうすると、今度は左手が伸びる。   恵が無言でフォークを握ると、峰雪の手の甲に振り下ろした。  峰雪が、歯を食いしばって悲鳴をこらえた。  「峰雪さん、はしたないですよ」   そういう恵も、食い入るように料理を見つめている。  「おお、痛ぇ」 「やめろと言ったのに」  「だけどなぁ」 「気持ちはわかる。が、ここは待つべきだろう」 「豚の丸焼き、いい匂いだなぁ」 「ガーリックトーストもな」 「私、あのトマトオムレツ」  「プレーン・ピザもいいよな」 「マルガリータと言う」  「なぁ、克綺。 うまいものは宵に食えって言うなぁ」  「旬を逃すな、ともいうな」 「これだけうまいものを、放っておいて冷ますのは……こりゃぁ一種の罪悪とは言えまいか」 「坊主が悪魔の誘いか」  「でも……そうかも」   恵が、魅せられたようにうなずく。  「ちょっとくらい……味見してもいいかな」  僕は…… 「確かに、おいしい料理は、もっともおいしい時に食べるべきだ。放置して冷ますのは、料理に対する冒涜とさえ言える」  「だよな?」 「そうよ」  「よって、我々が、ここですることは、単なるつまみ食いではない。いやこれは、救済措置なのだ」  「全くだ」 「お兄ちゃん、たまにはいいこと言うね」 「で、誰から取る?」   一瞬の沈黙が場を支配した。 さきほどまでは、争ってもつまみ食いしたかった二人(いや僕もか)だが、はたと動きが止まった。 「さぁて、義を見てせざるは勇無きなりってな。克綺、どうだ?」  改めて見ると、皿の上の料理は、つまみ食いが利くようなものは少ない。 つまり、一口でも食べれば、痕跡が残るものばかりだ。  サラダなら、足がつかないだろうが、なんというかサラダを単品で食べたい気分ではない。 「どうして僕に勧める?」 「そりゃおめぇ……」 「読めたぞ」   僕は峰雪に指をつきつけた。 「誰かが口をつけたあと、相伴に預かり、責任だけを押しつけるつもりだな」 「いやまぁ、言わなくてもそうなんだけどな」   僕が全力を振り絞った推理を、あっさりと峰雪は肯定した。 「お兄ちゃんは、どれから食べたい?」   なにげない恵の一声は、しかし質問ではなく、牽制だった。 「恵は、昔からオムレツが好きだったな」  僕は切り返す。 瞬間。  二人の視線が絡み合う。  もし僕に心臓があれば……そしてその中に、肉親の情を司る一角があったとしたら、それは、この時、音をたてて凍り付いていただろう。 「お兄ちゃんは、オムレツ嫌い?」   ちなみに大好物だ。 「恵ほどじゃない」   にらみあうこと数十秒。  ふと峰雪を見ると、可哀想なくらい縮こまっていた。 それに気づいた恵が悪魔の笑みを浮かべる。 「峰雪さん、オムレツ好きでしたっけ?」  「俺か? えー、なんだ、その。〈蓼〉《たで》食う虫も好き好き、じゃねぇ。好きこそものの上手なれってやつ?」   なんだか混乱しているようだ。  「好きですよね?」 「……はい」   恵の視線に勝てず、峰雪はうなずいた。  怯える仔犬のような瞳が僕に助けを求める。 僕は、人として最低に卑劣なことをした。  目を、そらしたのである。  恵の笑顔に押されるままに、峰雪は、フォークを取り、ゆっくりとオムレツの皿に近づけた。 フォークが、徐々にさがる。ミルクをたっぷり含んだ、色白でやわらかなオムレツの肌に、鋭い鋼が突き刺さってゆく。   そして、惨劇。   峰雪の刺したフォークの痕から、血のようにトマトソースが〈迸〉《ほとばし》った。 いかにもつらそうな表情で、峰雪が、フォークを動かす。 「峰雪クン?」  「うおぉぉぉぉ!」   管理人さんに肩を叩かれ、恐怖そのものといった表情で、峰雪は絶叫した。  「だめじゃない、つまみ食いしちゃ」   峰雪は、物も言わずにうなずいた。半ば涙すら流しながら、放心したような表情を浮かべている。 恵が、かすかに舌打ちした。 →4−5 「確かに、おいしい料理は、もっともおいしい時に食べるべきだ。放置して冷ますのは、料理に対する冒涜とさえ言える」  「だよな?」  「そうよ」  「しかし」 「しかし、なぁに? お兄ちゃん」  恵の声は、あくまで静かで、それでいて、不穏な気配を放っていた。 たとえるなら、豪雨の予兆の、湿った空気。あるいは、雪原に、雪崩を呼ぶ、一個の小石。  口を開こうとして、喉がからからなことに気づいた。 僕は、唇をなめて、深呼吸した。 「管理人さんは、もうすぐ来るだろう。そのわずかな時間、待ったところで、料理の質が下がるわけではあるまい」 「ふぅん」  突き刺さるような「ふぅん」だった。 「でもよぉ……さっきから待ってるけど、遅いじゃんか」 「主観的な時間は、状況と感覚によって左右されるものだ。このような状況では、時間が経つのが遅く感じられる、ということだろう」 「いつまで?」   恵が、冷たい声で問う。 「あと一分、というところか」 「なら、一分経ったら、お兄ちゃん、つまむのね?」  嫌とは言わさぬ口調に、僕は、思わずうなずいていた。 「よっしゃ。あと60秒〜」  峰雪が、馬鹿正直にストップウォッチをスイッチする。 「50秒」  恵が僕をにらむ。その視線は圧力となって感じられた。 豚の丸焼きの匂いの香ばしさと来たら、耐え難いほどだった。 「40秒」  焼きたての豚からは、時折、脂がしたたり落ちて、じゅうじゅうと音を立てている。 「30秒」 「お兄ちゃん、はい」  恵が差し出したのは、ナイフとフォークだ。 ゆっくりと僕は、それを手に取る。 「20秒」  油を塗って香ばしく焼けた皮は、月明かりの下、明るい茶色に輝いていた。 口の中に唾があふれ、僕は、二回にわたって、それを呑み込む。 「10秒」  恵が、うなずく。 すると、僕の腕が……ナイフとフォークが、自ら意志のあるもののように、豚の丸焼きに近づいた。  恵自身も、ナイフとフォークに手をかけている。 僕が。僕が食べたあと、相伴に預かるつもりなのだ。 そうしておいて、最初につまみ食いした僕に責任を押しつけるというわけか。 なんたる巧妙な罠だろう! 「8、7、6……」  僕の失われた心臓に、かすかに宿る肉親の情を利用した狡猾きわまりない悪鬼の所行。  僕は、助けを求めて、峰雪を見た。 が、無駄だった。 やつは、手元の時計の秒針を、食い入るように見つめていた。 「4、3、2、1……」  時間が停止する。 豚の丸焼きが、僕の視界の全てを占める。 鼻は、その薫りに溺れ、両手のナイフとフォークが、ぶるぶると震えた。 「0!」 「はい、お待たせ」  「うわぁっ!」   管理人さんに肩を叩かれ、僕は、押し殺した悲鳴を上げた。  「克綺クン、ナイフなんか持って気が早いわよ?」  「はぁ」  僕は、恵の冷たい視線を浴びながら、ナイフとフォークをテーブルに戻した。   ……他に何ができただろう? 「それじゃ、紹介します」  「こんにちは!」   現れたのは、身長2メートルの女偉丈夫ではなかった。 顎は四角くなかったし、背も高くはない。 「また会ったね、カツキ!」   というより、見覚えのある姿だった。  「あら、知り合いなの? よかったわね」   管理人さんが、にっこりと笑った。 峰雪が、眉をひそめた。噛んだ下唇からは、今にも、「うらやましい」という言葉が洩れそうだ。 「お兄ちゃん、この方は、どなた?」   恵の声は、慇懃無礼の見本とでもいうべきものだった。   声は荒げず、あくまで滑らかに。 滅多に使わない、よそ行きの声で。 しかし、皮肉と敵意は隠しようもなく。   僕が答えるより早く、少女が恵の手を取った。 「ボクは、風のうしろを歩むもの。 君は?」   あけっぴろげなジェスチャーに、恵は一瞬たじろいだ。  「九門……恵ともうします」 「メグミだね。へぇ、カツキの妹なの?」  「はい。兄とはどちらで……」  「カツキとはね、ラーメン一緒に食べたんだ」 「ラーメンを?」 「それよりさ、メグミは、お腹空かない? ボク、お腹すいちゃった」  「いえ、私は……」   世に、完璧なタイミングがあるとしたら、この時の恵だろう。   この時、この瞬間を狙いすましたように、主の言葉を裏切って、ぐぅと、腹の虫が鳴いたのだ。 「自己紹介は後にしたほうが良さそうね」   管理人さんが笑っていった。  「そうっすね。せっかくのご飯がさめちゃうっす」   峰雪が、うきうきとうなずく。  「はい、それじゃ……」 「いただきます」  皆の声が唱和した。  声が、途絶えた。 管理人さん以外の4人は。 思い思いの姿勢で、フォークを口に入れたまま、完全に静止していた。  時間にして数秒が経っただろうか。 僕にもわからない。  四人が四人とも、笑った。 目尻がさがり、自然と頬が緩んだ。  「ふぁぁ」とも「ふぉぉ」ともつかない声が漏れる。 正気に返ったものから、フォークを動かしはじめ、やがて、皿の上は喧騒に満ちた。 「おいしいねぇ」   少女……風のうしろを歩むものが、笑顔で語る。  「いや、まったく」   峰雪が深々とうなずく。   恵は……オムレツを食べながら、生まれて初めて雪を見たような顔で、空を仰いでいた。  大きく口を開けて、豚の丸焼きに、かぶりつく。  「そうだな」   口持ちが緩んでいることが自覚できた。   聞くところによると、僕以外の人間……心臓のある人間は、理性と肉体が、別の方向性を持つことがあるらしい。   確かに、多くの物語の根本は、それだ。  単純な行き違い。感情を排して話し合えば済むだけの誤解が、最後まで続き、それが極大に達したところで、破局、あるいは、大団円が訪れる。   僕自身は、そうした体験がほとんどなく、故に、そうした物語にリアリティを感じなかった。   だが、今日という今日は、理性と肉体の相剋を味わっていた。   なんというか僕は……逃げ遅れたわけだ。  あの時の少女の言葉は、いまでも、はっきり思い出せる。   ──ボクたちはね。ニンゲンを食べないと生きていけないんだ。   少女の旺盛な食欲は、僕自身にも向けられている。 それは分かっている。 分かっているのだが……。  目の前の豚の丸焼きは、こんがりと焼けた皮の香ばしさもさることながら、詰め込まれた香草が、あふれんばかりの肉汁に香りをつけ、口に入れると、サクっとした食感と同時に、〈馥郁〉《ふくいく》たる肉の滋味が広がり、歯を入れるだけで弾けるように裂け、一度噛めば、口中に美味の華が咲き、二度噛めば、全身が震え、最後に呑み込むと、なんともいえない暖かさが、喉から胸に滑り落ちるといった具合。  理性は逃げろ、といっていた。 だが、肉体は、それを許さなかった。   足は、動こうとしなかった。 手は、フォークを進めたがった。 胸は、香りを味わいたがった。   なにより、舌が。貪欲な舌が。 目の前の全てを味わいつくさんと口の中でうねり猛っていた。   意志を肉体が超えたのではない。 肉体の意志こそが僕の心の全てとなった。  皿の上の料理は無尽蔵とさえ思えたが、しかし、一箸ごとに、少しずつ、少しずつ、その白さを晒した。   かすかに冷めた脳の片隅で、「最後の晩餐」という言葉が閃く。   避けえぬ結末を、せめて遅らせようと思っても、電光石火のごとく、料理を運ぶ右腕を止めることは不可能だった。  カン、と音を立ててフォークが止まる。 尖った先端が噛んだのは、柔らかなサーディンではなく、今一本のフォークだった。  美味を絶たれた舌が、その乾きが僕を動かす。  両の目に怒りを込めてにらむ先には、峰雪がいた。   残るサーディンは一匹。フォークは二本。 すでに、躊躇はない。   僕は右腕に力を込める。 同時に峰雪も。 握りしめた指が赤くなり、手首に筋が浮き上がる。  「二人とも、はしたないわよ」   管理人さんの声に、峰雪は、硬い笑いでうなずいた。 「なぁ克綺、フォークを退けろや」  「峰雪こそ力を弱めろ」   僕たち二人は、腕の力を倍加した。 フォークの鋼鉄の先端が、ぎりぎりと歪んだ。  「やめよう。これは論理的な行動ではない」  「おう、やめよう」   フォークの先端は、いよいよ折れ曲がり、互いに譲らぬ力が、食器を前衛芸術の三次元オブジェに変えてゆく。 「サーディンいただくね」   小さな声で囁きつつ、恵がさりげなくフォークを伸ばす。  一閃。 恵のフォークは、二本のフォークに防がれた。  押し合う力を微塵も緩めず、ただ、位置だけを水平に移動させる。 僕と峰雪の華麗なコンビネーションだ。 「峰雪、こういうのはなんて言うんだ?」  「呉越同舟か?」 「同床異夢かもな」 「ミザリー・ラブズ・カンパニー」   恵が、ぼそっとつぶやく。 直訳では、不幸は仲間を求める。 “他人の不幸は蜜の味”だったか?  「ちょっと、お兄ちゃん、どいてよ」   そう言いながら恵も譲りはしない。 椅子から腰を浮かせ、体重をかけてフォークを押し込む。   ……前衛芸術に、また一つオブジェが加わった。 「あれ、みんな食べないの?」   風のうしろを歩むものが、あくまで無邪気に言った。 僕ら三人は、目と目でうなずきあう。 三本のフォークは一本のフォークに勝る。   いかなる一撃も、我ら三人の壁を貫くことは敵うまい。  少女の右腕に集中していた僕は、しかし、完全に意表をつかれた。   少女はフォークを取らなかった。  手づかみ? 素手であろうと容赦する我らではない。   もしその右手が宙に伸びていれば、フォーク(あるいはかつてフォークであったところのオブジェ)は、その掌に血の刻印を刻んだだろう。 だがしかし。  彼女の手は、低く地を這った。 少女の狙いに気づいた時は、手遅れだった。 「将を射んとせば馬を射よ」の言葉通り、少女は魚よりもまず、皿を掴んだのだ!  振り下ろされた三本のフォークは、テーブルクロスを噛んだ。 今度こそフォークをつかんで、少女はサーディンを突き刺した。 バジルソースを、拭き取るようにまぶし、あーんと開いた口の中に放り込む。  僕たちの口も、開き、そして、閉じる。 「うぅん、おいしい!」  喉が、ごくりと、鳴った。 「あら、みんなきれいに食べたわね」   管理人さんの言葉に、ふと、我に返る。  「ごちそうさまでした!」   立ち直りの早い峰雪が、元気な声を出した。  「ごちそうさま〜」 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまです」 「おそまつさまでした。 お茶入れてくるわね。 自己紹介でもしててくれるかな?」  「はい」   無駄に元気に峰雪がうなずいた。 「えっと……ボクは、風のうしろを歩むもの。ってさっき言ったっけ。君たちは、えーと、カツキと、メグミと……」  「俺、峰雪綾。克綺とはガッコのタメだ」 「リョウね」  「えっと……風の……」  「風のうしろを歩むもの、だよ」 「風のうしろを歩むものさんは、兄とは、どちらで知り合われたのですか?」  「カツキにはね。おいしいラーメンをもらったんだよ」   それで説明が済んだ、というように少女は、にこにことして沈黙した。  恵が僕のほうを見る。 「この前、ラーメン屋で会った。ラーメン代を貸してあげたことがある」   その後、共に、殺人狂の女性に襲われ、再び出会い、喰われかけたわけだが。  「へぇ、そうなんですか」   そう言って恵は、じろじろと少女を見た。 が、少女は全く意に介さない。 「カツキ、ちょっと、ボクの部屋に来てくれるかな?」   にっこりと笑う。白い歯がまぶしい。  「わかった、行こう」   そう答えたのは何故だったか? 逃げても逃げ切れない、とは、思った。 人目のないところで襲われるよりは、メゾンの中で決着をつけたほうがいい。 ……どんな形の決着であっても。  僕が決心を固めて立ち上がると、テーブルの下で恵が臑を蹴飛ばした。  「すぐ戻る」   ぷいと横を向く恵。その顔が、もう一度見られるかな、と、僕は案じた。 「気持ちいい家だよね。草原みたいに、やわらかくて、涼しい風が吹いている」  少女の部屋は、手を入れておらず、備え付けの家具があるきりで。 それはつまり、僕の部屋と、ほとんど同じということだ。 「どうして、ここに?」 「ん? あの人に誘われたんだ。 家がないなら、来なさいって」   管理人さん……あの人、街角で店子をスカウトしてるんだろうか? 謎は尽きないが、要点はそこではない。  「つまり……僕を探しに来たんじゃないのか?」  「ううん、違うよ? 来たらカツキがいるんだもん。びっくりしちゃった」 「それで、これからどうするつもりだ?」 「おなかいっぱいだから、そろそろ眠くなってきたところ」   そう言って風のうしろを歩むものは、ぽんぽんとベッドを叩いた。  「カツキ、毎晩、こんなので寝てるの?」 「そうだけど?」  「こんなに柔らかい寝床は、ボク、はじめて。おひさまを浴びた秋の落ち葉より柔らかいよね。お母さんのおなかみたいだ」 「君は峰雪と話が合いそうだな」  「リョウと? へぇー」  少女は、ころりと、ベッドに寝転がった。 頬をこすりつけて、ふんふんと匂いをかぐ。 くりくりとよく動く目が、だんだんと動きを止める。 瞼が、いまにも落ちそうだ。 「寝る前に、聞いておきたいことがある」   僕は釘を刺す。 「うん、なに?」  少女は、大きく伸びをすると、ベッドの上に、ちょこんと座った。  「経過はどうあれ、君は僕を見つけたわけだ」  「えっと、見つけたっていうか……カツキの匂いは覚えてるから、この街のどこにいても、すぐ辿れるよ」   なるほど。逃げ場はない、ということか。 「僕を、食べるつもりなのか?」   少女の耳が、ぴんと動いた。  「そうだね。その話をしないといけなかった。でも……」  「でも、なんだ?」 「なにしてるの、メグミ?」   少女の声は、扉の向こうに向けられていた。  ゆっくりと、音を立てて扉が開く。  「ご、ごめんなさい」   顔を真っ赤にした恵が、そこにいた。  「ん? ボクは別にいいけど」   少女が笑った。 本当に、邪気のない笑顔。  逃げるように廊下を走る恵に僕は駆け寄った。 「こんなところで、何してたんだ?」   それが不思議だった。 このメゾンは、風通しが良すぎるのが問題だ。 今の時間、こうして廊下に立っていると、すきま風が身に染みる。  「だって私……お兄ちゃんが心配で」   恵は、うつむいて消え入るような声で言った。 「心配なのは分かったが、行動の説明を聞いている」  「盗み聞き……してました」  「盗み聞き?」   恵は、こくんとうなずく。  「なるほど。つまり、僕の安全を確保するために、会話の内容を把握しようと思ったのだな。会話の内容に影響を与えないために、姿を隠した、と」   ようやく僕は納得がいった。 「普通に聞けばよかったのに」  「だって、気になるよ……匂いとか……たべるとか」  「そうか、恵の気持ちはわかった。恵は僕を心配してくれているわけだな」   僕は、冷静に事実を検討した。 「それについて心配することは正しいが、恵にできることは何もない。だから、このことは忘れたほうがいい」   そう言うと、恵の顔が白くなった。  「ごめんなさい……」  そう言って恵は、部屋に入った。 目の端に盛り上がっていたのは……あれは、涙か?  どうやら、また、間違ってしまったようだ。 仕方なく、少女の部屋に戻る。 「カツキはひどいなぁ」   少女が、あきれたように言った。 どうやら、聞こえていたようだ。  「よく言われる」  「どうして、あんなこと言うのさ?」 「単なる事実だが?」   恵が、どう頑張っても、人狼の少女を止めることはできないだろう。 であれば、心配する意味もない。 「事実だって? メグミがカツキのためにできることがないなんて、嘘だよ。きっとあるはずだよ」  「恵の力では何もできない」  「そんなことないよ。メグミにできることだってきっとある。メグミはカツキを想って、いい匂いをさせてるんだよ? それがわからない?」  「わからない」  「もう、カツキのわからずや! だいたいカツキの心配ってなんなのさ?」  顔を紅くして、少女は僕に怒る。 僕は、間髪入れずに押さえた。  「君に食べられること」   少女の顔から、すっと朱が退いた。 かわりに、目が爛々と見開かれる。  「少し、歩こうか?」  少女の差しだした手を、とにもかくにも僕は握りしめた。 少女の手の甲は、柔らかく、かすかに毛皮の感触があった。  気まぐれな雲のせいで、月は、隠れていた。 「真っ暗だな」 「そお? 明るいよ?」  高台にあるせいか、メゾンの周りは星が綺麗だ。 染みいるような銀の光が、青黒い空に刺さっていた。  星の光は孤高だ。 その輝きは、己以外の何一つ照らさず、かえって夜の闇を深める。  けれど、彼女にとっては違うのだろう。 星の光を友として、夜空の下で狩りをするのだろう。 狩人と獲物。それが僕らだ。 「そろそろ教えてくれないか?」  獲物は狩人に問う。 「うん、えーと……何から話そうか?」 「最初から、頼む」 「そっか。最初の、お話だね」   少女は、少し顔を紅くしてうつむいた。 「カツキ?」 「ボク、まだ、お話がうまくないから……笑わないでね」  そういうと、少女は、片足を踏み出した。  たん、とん、たん、と、大地を叩く。踊る右足、跳ね上がる。  しゃん、しゃん、しゃん、と、手を叩く。拍手の音は鈴のよう。  流れるように揺れる首。ぴんと張った胸は、弓のよう。  星降る大地で始まったのは、見たこともない、舞踏だった。      Luuuuuuu   誘う声音。   Laaaaaaa   甘い響き。   歌は風に連れ、風は歌に連れ。 つむじの風が巻き上がり、少女の回りに陣を敷く。   くるくるくると回る風は、僕も包んで転がした。   早くもなければ遅くもなく、風のまにまに漂う僕に、少女が、その手を差しだした。   〈天鵞絨〉《びろうど》のように柔らかな手。 指と指が絡み合い、絡んだ指は天を目指した。   しん、と、冷たいものが、掌に注がれた。 降る星が、こぼした薄緑の光の粒。 砂が積もるように、それは二人の結んだ掌に降り積もった。  どれくらいそうしていただろう。 星の粒には重みがあった。   腕を痛める重みではない。 ただ、それが、とてつもなく重く、力を持っていることだけが、身体の芯に感じられた。   少女の口が開く。喉から発せられた声は、あまりにも澄んでいて、僕の耳には届かなかった。 だから僕は、首を近づけた。 唇が、近づく。 桜色の唇の間から、のぞく犬歯が広がった。僕は、そこに唇を重ねる。   少女の吐息を、僕は感じた。耳には届かない精妙な声は、僕の喉をかけおりて、胸を満たした。  ──今だよ。  掌と掌が、ぎゅっと合わさり、押しつぶされた星の粒が閃光を生じた。  透き通る光が、なにもかも溶かしてゆく。 腕が溶け、肩が溶け、その切なさに、僕は身震いした。 胸が溶け、足が消え、最後に首だけになった僕は、消える寸前、小さく息を吐いた。  これはね、ボクの、ひいおばあさんのひいおばあさんが、そのまたひいおばあさんから聞いた話だよ。   いちばん、さいしょは、ヒトのはなし。 かなしかったヒトと、さびしかった大神のお話。   時の頃は、おおむかしのむかし。 あめつちを治める、よこしまな神さまが、ヒトの、わるものに、たいらげられたあと。   よこしまな神さまがいなくなって、ヒトも、獣も、みんなが、喜んだ。  「よくやってくれた。これで、夜だって、安らかに、眠れる。 子供たちも、つつがなく育つ」  だけど、すぐにヒトは、悲しくなった。   よこしまな神さまはいなくなったけど、やっぱり、子供は、育たなかった。   ヒトが夜、寝ている間に、獣は、子供を引いていった。 ヒトの子は、毛皮もなくて柔らかで、喉にひっかかる鋭い爪もないものだから、獣は、みんなヒトの子をむさぼり食った。   そんな頃、ヒトの男がいた。男は、さめざめ泣いていた。 すっかり髪を白くして、赤子を一人抱いていた。 七人の妻を娶って、七人ずつの子供をもうけたけれど、どの子もどの子も、獣に引かれて、七人の妻も亡くなった。 最後に残った、子を抱いて、男は、森へと旅だった。  ──少女の語りは歌うようで、僕は、風に舞う木の葉のように、その中を漂った。 言の葉の音が根を張り、まほろばのまぼろしが、顕現する。  森の中で、男は、大神に出会った。 それはとても大きな雌狼で、しかも、とっても、お腹をへらしていた──。 「……いや、ちょっと待ってくれ」 「なに?」 「これは、何の話だ?」 「いったはずだよ? 一番最初のお話。ボクのご先祖さまのお話だよ」 「君の種の起源について聞いたわけじゃないんだけど」 「え、でも、カツキ、最初から話してくれって言ったよ?」 「……なるほど。それは僕の間違いだ。もう少し限定すると、君が僕を食べることの顛末について、最初から語ってほしいんだ」 「うーん、わかったよ」  すぅっと風が吹いた。 目鼻を覆っていた霧が吹き払われる。  二、三度、瞬きすると、僕は、メゾンの前に戻っていた。 「お話を途中で止めるのは、ほんとはいけないんだよ」   少女は、ちょっと不機嫌だった。 頬を膨らませている。  「それについては謝罪する」  「まぁいいや。えっと、ボクとカツキのお話だね」  「できれば、普通に、口で説明してくれるか?」  「うーん、やってみるよ」  少女は、しばらく考えて、首をひねり、なにごとか指で数え始めた。 「……説明って苦手」  「簡単なことだ。起きた出来事の中から、関連する出来事のみを抽出して、因果関係に気を配りながら時系列順に語ればいい」  「うー」   風のうしろを歩むものが、ホウレン草を前にした子供みたいな顔をする。 「……じゃぁ、こちらで適宜質問するから、それに応えてくれ。それならできるな?」  「たぶん……」  「まず、最初の質問だ。風のうしろを歩むものは……僕を食べるつもりなのか?」  「うん。ボクはカツキを食べに来たんだ」   少女は邪気なくうなずいた。 「ふむ。僕は食べられたくない」   本心だった。  「逃げたほうがいいのか?」   聞く相手を間違えている気もするが、少なくとも目の前の少女は、常に正直だった。  「かけっこで決めるの? ボクはそれでいいけど」   冗談じゃない。 本気になった人狼の足にかなうはずがない。 「かけっこ?」  「昔、昔の約束だよ。狼と兎のお話、してあげようか?」  「いや、要点をかいつまんで説明してくれ」   僕が急いで口を挟むと、少女は、しゅんとした。 「あのね。兎さんは食べられたくないけど、でも、だからって兎さんを食べないとボクたちも飢えて死んじゃう。だから、そういう時は、恨みっこなしのかけっこで決めようねってお話。 カツキ、かけっこする?」   狩猟の起源に関する神話というわけか。 「いや、徒競走は遠慮しておく」 「そう?」  「それより、どうして僕なんだ?」 「うーんとね、カツキは、特別なんだ」  「特別を定義してくれ」 「ええっと、そのお話はね、七番目の贈り物っていってね……」 「お話はあとにしてくれ」   少女は、ちぇっと舌打ちした。 「ボクたち大神はね、胸の中に、門があるんだ」  「門?」  「うん」  そう言って、少女は僕の手を取った。自分の胸に近づける。  触れる前から、それがわかった。 小さな胸にも、服にも触れる前から、僕の掌は、熱い塊を感じていた。 手の甲に汗が噴き出す。 「ここだよ。ここ」  掌が左の胸に触れ、僕は、少女の鼓動を感じ取る。 「ここにね、小さな小さな穴が開いていて、普段は、入り口が閉まってるんだ。だから、門。ボクが風に頼み事をする時は、その門を、ぐいっと開けるんだ」  小さな吐息とともに、風が吹いた。 掌が、ほとんど吹き飛ばされそうになった。 少女が押さえていなければ、はじけ飛んでいただろう。 「こうすると、力が湧くんだよ」  力……魔力ということか。 「ボクたちだけじゃないよ。人外の民は、みんな、門があるんだ。門が大きければ大きいほど、強い力が湧いてくる」  「それと僕と、どういう関係があるんだ?」  「ニンゲンはね、そういう門がないんだ」 「だろうな」 「だけど……時たま、とっても大きな門を持ってるヒトが生まれる時があるんだ」  「それが、僕か?」  「そう」   少女はうなずく。 「大きな門の持ち主が生まれる時はね、強い風が、この星の隅から隅まで吹くんだ。 だから、いるっていうことはわかってた。ボクも、その門の持ち主を探しに来たんだ。 分かったのは、この前、会った時だよ」  「僕は、生まれてこの方、人外の力を使ったことはないが」  「カツキが力を使えないのは当たり前だよ。もし、カツキの門が開いたら、カツキの身体なんか吹き飛んじゃうもの」  少女は怖ろしいことを笑顔で言ってのけた。  「じゃぁ門なんかあっても意味がないだろう」 「うん。カツキが持っていてもしかたがないよ。だから、ボクがカツキの門をいただくんだよ」  「いただく?」 「おいしくね」   結局、そこに来るのか。 「カツキの血でも肉でも、少しでも味わうと、ボクたちの門は、より大きくなるんだ」  「人違い、ということはないのか?」 「ううん、それはないよ。確かめたから」  「確かめた?」 「昨日の晩。 カツキの血を少しもらったんだ」  記憶が蘇る。 僕の指を、まるで飴のようにしゃぶった少女。 その時、背筋をくぐりぬけた快感。  「それで、力が増したのか?」 「うん。ほら、そのあと、すぐ戦ったでしょ?」  「ああ、あの人形か」   ボロ布のように巻き込まれ、そして再生した腕。 「うん、あの時は、ホント、やばかった。 カツキの血をもらってなかったら、今頃、ひどい目に遭っていたよ」  「いつも、あんなに回復できるわけじゃないのか」  「全然。さすがのボクでも腕一本、粉々にされたら、まずいよ」   少女は右手をひらひらと振る。 「そういうわけだからさ、カツキ、ボクに食べられてくれないかな?」  「選択の余地はあるのか?」  「もちろんあるよ?」   少女の答えは意外なものだった。 「だってカツキはボクの命の恩人だもん。ラーメン代ももらったし、昨日の晩も、カツキがいなかったら死んでたし」   僕は、詰めていた息を深々と吐いた。 両足が、ぐらぐらして、倒れそうだった。 「カツキ、だいじょぶ?」  風のうしろを歩むものが、僕の背中を支える。 「いや大丈夫だ。緊張のしすぎだな。命の恩人として頼みたいが、僕を食べないでくれ」 「うーーん」   少女は難しい顔で考え込んだ。 僕の胃が、ちくりと痛む。  「他ならぬカツキの頼みだから、聞いてあげたいんだけど、ボクにもボクの事情があるんだよね。痛くしないから、食べられてくれない?」 「拒否する」   僕たちは、互いの顔をみあわせて、ためいきをついた。 「うーんとさ、カツキは、今、死にたくないんだよね?」 「その通りだ」  「この先、ずっと、そうだ、とは限らないよね」 「論理的にはその通りだ。ただし、自殺する予定はない」  「自殺なんて、そんな!」   少女は、目を丸くした。 ショックを受けた様子だ。 「ボクがいいたいのはね。カツキって、何のために生きてるのってことだよ」  「哲学的な問いだな」  「そう?」  「僕の生きる目的と、君の食事の間に、どういう関係があるんだ?」 「うーんとね。もし、カツキに、これを果たせたら、もう、人生、なんっにも、悔いはないっていう、目的があったらさ。それさえ果たしたら、ボクに食べられてくれてもいいわけだよね」   僕は、その言葉をしばらく噛みしめた。  「確かに、生きる目的を果たしたのなら、論理的に、そこで死んでも構わないはずだな。君の言う通りだ」   ──朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。 峰雪なら、そういうかもしれない。 「ねね、カツキ、そういう目的、ない?」 「……今のところは、ないな」  「そっかぁ。残念」   少女は、一瞬だけ落ち込んで、また、すぐ顔を上げた。  「じゃぁさじゃぁさ、カツキに、目的が見つかるまで、ボク、ずっと一緒にいるよ。目的を見つける手伝いする」  「断る、と、言ったら?」 「うーん、そうしたら困るなぁ。でもでも、カツキも困ると思うよ」 「どうして?」  「カツキを食べよう、と、思ってるのは、ボクだけじゃないからさ。 他のみんなは、ボクみたいに遠慮がないから、道で会ったら、カツキをぱくっと食べちゃうと思うよ? そうしたらボクも困っちゃうし、カツキも困るでしょ? 同じ食べるにしても、ボクだったら、食べる前に、首のところの血の筋を、きゅっと噛んであげるからチクっとするだけですむけど、ボクじゃないと、きっと痛いよ? それに、それに……」  「──確かに、そうだな」 「それじゃ、カツキ、これから、よろしくね。ボクたちは、死ぬまで、ずっと一緒だよ」  「あぁ、よろしく」  僕は、複雑な思いで、少女の手を取った。 それさえすれば死んでもいい。 そんな風に感じることが、果たして僕にあるのだろうか? 何かが果たされれば、さらにその上を貪欲に求めるのが、人間の性だ。  心臓のない僕にだって、そうした欲望くらいはある。 いまわの際であれば、少女に食べられてやってもいいが……果たして、そんなに待ってくれるものだろうか? 「一つ聞きたいんだが?」 「なに?」  少女に、尋ねようかと思ったが、すんでのところで僕はおもいとどまった。 “藪蛇”という言葉が脳裏をよぎったのだ。 代わりに思いついたのは、こんな質問だ。 「君には……風のうしろを歩むものには、死んでもいいような目的があるのか?」 「もちろん」 「それはなんだ?」 「カツキを食べること」  愛くるしい笑顔を残して、少女は、屋敷に向けて歩き出した。 背の髪留めが、星の光を受けて、静かに輝いていた。  寝る前に幾つか調べ物をした。 主に、狼の生態についてだ。  人の形をした狼にどこまで当てはまるかはわからないが、何かの参考にはなるだろう。  狼は月に吠えるというが、それは俗説であり、基本的には群れの仲間と交信し、縄張りを知らしめるものらしい。  狼の鼻は、数十キロ先の獲物の匂いをかぎつける。 狩りの際は、そっと近づいて、一瞬で飛びかかって仕留めるが、持久力もあり、数キロに渡って速度を維持することもできる。   基本的に狼は夜行性であり、狩りは、夜から明け方にかけて行われる。  そこまで調べて、僕は床に就いた。  だから、これは予想外だった。 「カツキ! カツキカツキカツキ! 朝だよ、起きてよ!」  突き抜けるような声が、僕の目を覚ました。 声に混じって、かりかりと、扉をひっかく音がする。  大きく伸びをして、僕は、起きあがった。  扉に歩くまでの間にも、声は止まなかった。 「おはよう、カツキ!」  「おはよ……う」   本当に早い。 見れば、まだ、明け方だ。 狼は夜行性じゃなかったのか? 「どうしたの?」   恵が、顔を出した。  「あ、メグミ、おはよう」  「おはようございます。 風の……風の……」  「風のうしろを歩むもの、だよ」  「風のうしろを……歩むもの……さん」   恵は、最後に大きくあくびをつけくわえた。 「あら、みんな早いのね」   階段から管理人さんが顔を出す。  「ねぇ、朝ご飯まだ?」   風のうしろを歩むものは、当然のように聞いた。 「はいはい、今、作るわね。 お二人もどう?」  「はい」   恵は、目をこすりながらうなずいた。 多分、何も分かってないな。  「いただきます」  「それじゃ、ちょっと待ってね」 「うん、ボク待つよ」  風のうしろを歩むものは、階下に消える管理人さんの背中を、じっと見つめていた。 管理人さんが上がってくるまで、そうしているつもりだろう。 「お兄ちゃん? おはよう」  「おはよう、恵」  「おやすみなさい……」  「ああ、おやすみ」  恵は、ふらふらと自室に戻った。  僕も、恵に習って、部屋に戻る。  くたくたとベッドに倒れたのは覚えている。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」  せっぱつまった恵の声で僕は目を覚ました。 「大変。遅刻だよ!」  はっと飛び起きて、僕は、枕元の時計を見る。 九時三〇分。  遅刻だ。 完全な遅刻だ。 「いま行く」  急いで着替えてドアを開ける。 「ごめんね、お兄ちゃん。 私、寝坊しちゃったみたい」  「恵に責任はない。寝坊したのは僕だ」   二度寝したのが悪かった。 目覚ましが鳴ったのに気づかなかったようだ。 「ご飯は? お弁当は?」 「弁当はいらない。朝食も食べない」 「そう? 大丈夫? お腹空かない?」 「ああ。大丈夫だ。お腹は空くだろうが、昼にはパンを食べる」  質問に順番に答えながら、僕は階下に降りた。 「あら、克綺クン。今日は学校は?」   管理人さんが、のんびりと声をかける。  「あります。遅刻です」  「あら、そうなの? 私、てっきりお休みなのかと思った」   管理人さんが、そう思った理由は、すぐに分かった。 「よぉ、克綺」   管理人さんのうしろから、峰雪が顔を出す。  「今頃、何をしてる?」  「ご挨拶だな。 せっかく迎えに来てやったのに、ぐーすか寝てやがるから、ここで待っててやったんだ」 「それは僕を起こすのが面倒だったのか、それとも、さぼりの口実が欲しかったのか、どっちだ?」  「両方だ」   ほう。真顔で言い切ったか。  「わかりました。 峰雪さんってそういう人だったんですね」   途端に峰雪が、しまった、という顔になる。 「あ、カツキ、遅いよ。 もうご飯全部食べちゃったよ?」   風のうしろを歩むものが、顔を出した。  「ひょっとして、さっき起きてから今まで、ずっと食べてたのか?」  「うん。 管理人さんのゴハン、おいしいよね」  「太らないの?」   あきれたように恵が聞く。 「ボクは太らないよ。 でも、メグミは、もう少し太ったほうがいいね。 そんなんだと、いい子を産めないよ」  「余計なお世話です!」 「克綺クンも、ご飯食べる? 今、作るわよ」  「結構です。学校に行きます」  「おし、じゃぁ、俺も行くか」 「学校? 学校ってなに?」   風のうしろを歩むものが、興味津々と言った顔で、聞きかえす。 恵と峰雪が、怪訝な顔をした。 それはそうだろう。  「学校とは、子供が社会に参加するための一般常識および技能を学ぶところだ」  「あなたは、学校行ったことがないんですか?」   恵が、口を挟む。 「狩りの長と語り部さまならいたけど……」  「風のうしろを歩むものちゃんはね、田舎の出なの」   管理人さんが、フォローにならないフォローをする。 いやしかし、どこの田舎の義務教育に狩りがあるのか。 いやそれより、ちゃんづけなのか。  「ふぅん」   恵が、猜疑に満ちた顔で、相づちをうつ。 「ねぇカツキ? そのガッコウに行くって、カツキの生きる意味と関係あるの?」  「直接は関係ない。しかし、生きる意味を見出す手段を得るために学校はある、と言えるだろう。無論、そのように機能するかどうかは授業環境および各個人の心がけに依存するので、しかとはいえないが……」 「よくわからないけどさ。 つまり、カツキはガッコウに、命、懸けてるの?」  「いや、懸けてない」  「なら、ガッコウなんて行くのやめたら? もっと大切なことを探そうよ?」  恵はあきれたが、僕は返答に窮した。 僕は、峰雪と違い、教育機関および教養の意義は高く評価するものである。   学校で身につけるような学問は実生活の役に立たないと言われるが、それは必ずしも正しくない。   第一に、教育において重要なことは知識それ自体ではなく、それを獲得する方法論だ。  知識を得るためには、どうすればいいかを知り、また、得た知識を自分自身で活用し、身につけてゆく。 その経験が、将来、新たな知識を得る時に生きてくる。   また、知識それ自体にも価値はある。   語学は、人や書物と接する機会を増やし、数学や物理は、現実を理解する重要な物差しの一つとなる。  歴史や社会を学ばねば、よりよい未来を作ることなどできやしない。   全ては学ぶ者の意識次第であり、教育を軽蔑するものは、結局、己の無能力を誇っていることになる。  だがしかし。 たとえそうであっても。   今、この瞬間、僕にとって最も重要なことが学校に行くことかと問われれば……そうだ、と言い切れるほど勉学に愛着はない。 「お、いいこと言うねぇ!」   教育と人生に関する高度なジレンマに僕が直面している隙に、峰雪が口を挟んだ。  「こんないい天気に学校いくなんざもったいねぇや。遊びいこうぜ!」  「いかにも君らしい、長期目標を欠いた、快楽主義的な意見だ。 がしかし、同意したい気持ちもあるな」 「カツキ、遊びにいくの? ボクもいく!」 「峰雪さん、お兄ちゃんを誘惑しないで!」  「お、そうだ。 恵ちゃんも、一緒に来ないか? せっかく日本に来たんだからさ。 メゾンにいるだけじゃつまんないだろ」  「うん。それがいいよ。メグミも行こ?」  「ちょ、ちょっと引っ張らないで」 「あら、お出かけ?」  「はい。 生きる意味を探しに旅立ちます」  「はい、いってらっしゃい」  「いってきます」  その日、僕が学校をさぼったわけは、かくのごとき理由であった。  さて、家を出たというものの、命を懸けるに足る人生の目的は、そうそう見つかりはしなかった。 どこに行こうかと思い悩む僕を、峰雪が、ぐいぐい先導する。 「どこへ行くんだ?」 「風の向くまま、気の向くまま。 肩で風切る四人旅とくらぁ」 「つまり、何も考えてないわけだな?」  「有り体に言や、そういうこったが……そうだな、カラオケでもどうだ?」  「カラオケって……なに?」   風のうしろを歩むものが首をひねる。 「歌を歌うとこだな」   僕の説明に、目が輝いた。  「歌なら得意だよ!」   彼女の言う「歌」は、多分、流行歌の類ではあるまい。 少なくともカラオケに入っているとは思えない。   僕が、どう説明したことかと思ってる間に、恵が口を挟んだ。 「私……カラオケは、ちょっとパス」  「ん? 恵ちゃん、カラオケ苦手か?」  「行ったことないの。 それに……歌も知らないし」  「そっか。イギリスにゃカラオケはないもんな……。どうすべぇか。 おい、克綺? なんかアイディアねぇか?」 「解が発散する時は、境界条件を定めるのが肝要だ」  「あぁ?」  「物体の運動ならば、初速と位置。 束縛条件とも言う」 「おまえの言うことは、さっぱりわからねぇ」  「つまり、だ。峰雪。 君の所持金はいくらだ?」 「……!」   痛いところをつかれたか、峰雪が口をつぐんだ。  「僕も、たいして金があるわけじゃない。 そこから逆算したほうが早かろう。 日が暮れる前に帰りたいしな」  「安くて長いこと遊べるか……」  思案ののち、峰雪が手を叩く。 「一個あったぜ。ついてこい!」 「どうした?」   僕はボタンを押さえたまま、風のうしろを歩むものに語りかけた。   ここは、駅前商店街の端っこ。 峰雪に連れてこられたのは、なんとも、風情のある雑居ビルだった。 僕たち以外には、客の影もない。   エレベーターに、どやどやと乗り込んだ僕たちは、ふと、少女がついてきてないのに気づいた。 初めてみる困惑の表情がそこにあった。 「その箱、なに?」  「これはエレベーター。 垂直移動に使う乗り物だ」  「すいちょくいどう?」  「箱の上に紐がついていて、引っ張ったりおろしたりする仕組みだ」  「ふぅん」  少女は、疑わしそうにエレベーターを見ると、ふんふんと匂いを嗅ぐ。 「乗らないのか?」  用心しいしい、といった様子で、少女は爪先だちでエレベーターに入った。   僕は「閉」のボタンを押す。 「わぁっ!!」  狭いエレーベーター内に風が吹いた。 服が翻り、髪が揺れ、風景が溶ける。 腕が、がくんと、引っ張られ、足が地面から離れる。  一瞬の浮遊感のあと、僕は、かろうじて着地した。 「カツキ、あれ、罠だよ! 入り口、閉まっちゃった」   少女が、指さして力説する。 僕は、ようやく理解する。   脱兎の勢いでエレベーターから走り出し、ついでに僕の手を掴んで引っ張ったのだ。 「あれは、閉まるものだ。 目的地に着いたら開く」  「嘘だよ! 油臭くて、鉄の匂いがするもん! あんな狭いとこに、わざわざ入るなんて、捕まえてくれっていうようなものだよ!」 「おい、お二人さん、どうすんだ?」   開いたエレベーターから峰雪が、声をかけた。 「ちょっと待ってくれ」  僕は、少女に向きなおった。  「そっちに階段があるが……」 「それ!」   少女は即答した。 僕は、峰雪に手を振った。 「階段で行くよ。何階だ?」 「7階」  そう言って、エレベーターの扉は無情に閉じた。 「ふぅ」  古ぼけた階段は、打ちっぱなしのコンクリで、おまけに段差が急だった。 「カツキ、平気? 疲れた息してるよ?」   そういう少女の足取りは軽い。  「疲労は感じているな」  「ボクは全然平気。 おんぶしてあげようか?」 「お願いしようか」   少女の力は、よく知っている。 あるものを利用しない手はない。  「いいよ、じゃ、捕まって」 「いや、いい」   風のうしろを歩むものの申し出を、僕は断った。  「どうして? ボク、落としたりしないよ」  「君の力は信用している。 これは社会的な慣習の問題だ」  「慣習は大事だよね」   少女は、うなずいた。 「で、どんな慣習?」  「僕の知る限り、人が人をおぶうのは、年長者が年少者を、あるいは、男性が女性をおぶう場合が多い。 この場合は、その両方に反している」      人間社会には、多くの非合理的な慣習が存在する。 それらは、常に僕の悩みの種だった。 なぜなら、そうした慣習は、どこにも明記されておらず、にも関わらず、僕以外の人間は、皆、知っているからだ。 僕以外の人間の持つテレパシーが関連するのだろう。   故に僕としては、慣習の存在を知るためには、一旦、それを破るしかなく、明らかに合理的な行動をした結果、後ろ指を指されたことが何度もある。 「ふぅん。そうなんだ。 でも、それって、どうして?」  「力が強い者が弱い者を保護するためだろうな」  「……だったら、問題ないんじゃない? カツキよりボクのほうが、力は強いよ」  「言われてみれば、その通りだな」  慣習のルールは複雑怪奇で、ある時は合法なことが、別の時には認められないことは多々ある。 男が女をおぶうという慣習は確かに存在するはずだが、果たして、それが、今の自分の局面に適用されるか、といえば、正直、あまり自信はない。  「じゃ、おんぶしていい?」   しばらく考えたが、僕には拒否する理由が見あたらなかった。  少女の首に手を回したところで、僕は単純なミスに気づいた。 ──身長差がありすぎる。 「これじゃ無理だな」 「ちょっと待って」  少女が僕の足の裏をつかんで、ぐいと持ち上げる。 急に視点が高くなった。僕は首に回した手を肩に置く。 ちょうど、騎馬戦の騎手のような体勢だ。 「さ、しっかり掴まってて」  少女の眼に闘志が燃えていた。 僕は、それを見て、一抹の不安を感じる。 「姿勢に問題はない。安定性があるし、君の力なら問題なく僕を運べるだろう。 だが、それ以外の局面からも、問題を検討したほうがいい。 僕が思うに、何か忘れていることが……」 「行くよ!」  少女が一瞬しゃがんだ。 たわんだ身体を、伸ばしてスタートダッシュを決める。  急激に狭くなる視界の中で、急速に大きくなるものがあった。  ──天井。  次の瞬間、強烈な衝撃が、僕の目鼻を揺らした。 ずきずきと痛む額。  ゆっくりと打ち鳴らす太鼓のように。打ち寄せる波のように。 痛みには、大きなリズムがあった。  脈打つ痛み。脈打つ血。胸の奥に広がる潮騒の音。 鼓動。 鼓動とともに、額の痛みが脈打った。  おかしいな。 僕は思う。  僕には心臓がないのに。 脈打つ心拍は、どこから来るんだろう。  ぼんやりと、なにか柔らかなものに包まれたまま、僕は、痛みの中にたゆたっていた。 その時、鋭い痛みが、僕を貫いた。 痛みと、そして、暖かな、濡れた感触。  それが額を舐める舌だと気づいた時、僕は、目を開けた。 「カツキ? だいじょぶ?」  心配そうに見つめる瞳。 僕は、仏頂面でうなずいた。  頭は少女の膝の上にあった。 起きあがろうとする。 「まだダメだよ。もうちょっと」  少女は僕の髪を引っ張って、後頭部を膝枕に押しつけた。  小さな唇が近づいて、僕の額を舐める。 ひと舐めごとに、鋭い痛みと、そして甘やかな快感が交互に押し寄せる。  流れのままに、僕は、身体の力を抜いて、少女に身をゆだねた。 ひと舐めごとに少女は首をふり、その長い髪が僕の胸に舞った。 僕は、手を伸ばして、その髪に触れる。 「あ、ごめん。くすぐったかった?」 「いや……」  手に触れた髪は、細く、しなやかで、人の髪というよりは、長く伸びた毛皮のようだった。 どれだけ短く切りつめても、ふわふわとした柔らかさを失わないだろう。  髪を辿ると、その先に髪留めがあった。  その歳にしては飾り気のない少女の、唯一の、アクセサリ。 初めて触れたそれは、思った以上に重かった。 ぎゅっと握ると、指が痺れた。 「痛っ!」  一瞬、手の中で、髪留めが、ぱちぱちと弾けたように感じた。 が、手を放したそれは、翡翠色のまま沈黙している。 「あ、だいじょぶ? カツキは触っちゃだめだよ」 「これは?」  僕は少女に尋ねる。 「それはね。ボクのお守り。お母さんの形見なんだ」 「触って悪かったな」 「ううん。ボクのほうこそ、言えばよかったね。ごめん。 さ、これで終わりだよ」  少女は、最後に大きく額を舐めて、言った。  僕は、慎重に身を起こす。 目眩も吐き気もなかった。   指を額に触れたが……なんの傷も感じられない。  「治った?」  「ああ、治ったみたいだ……不思議だな、君の力は」  「カツキの力のほうがスゴイけどね」   そう言って少女は笑った。 「さ、早く行かないと。 メグミとリョウが待ってるよ」  「そうだな」  僕は、前方にそびえる階段を、憂鬱な気持ちで見つめた。 「遅ぇぞ克綺! 何やってたんだ?」   ようやく階段を制覇すると、峰雪が待っていた。  「階段の天井に額をぶつけていた」   峰雪は上を見上げた。  「……おまえも器用な男だな」  「僕だけでできたわけじゃない。 彼女の協力が必要だった」 「リョウ、メグミ、遅れてゴメンね」   いやいや、と、手を振ってから、峰雪は僕に言う。 「おい克綺。 おまえ、どうして、この子みたいに素直になれねぇんだ?」  「僕は質問に答えたまでだ。 謝罪を要求するつもりだったのなら、なぜ最初からそう言わない?」 「はいはい、お兄ちゃんも峰雪さんも、そのへんでね」  恵が、口を挟む。 「おっし。じゃ、全員揃ったところで、いこっか」  峰雪は、バン、と、扉を開ける。  “ピンポンスペース:ローハンド” そう書かれていた。 「いらっしゃいませ。何名さまですか?」  くたびれた顔の茶髪のバイトは、それでも、一応、まじめな口調で聞いてきた。 「4人。ラケットとボールはレンタルで」  「ラケットは……」 「ペンホルダー2つと……」   峰雪は、僕のほうに聞いてきた。  「その子は?」 「知らん」  「じゃ、ペンホルダー2つとシェークハンド2つで」  「はい、かしこまりました。 では、一番台で」  卓球台は4台ほど並んでいたが、客は他にはおらず、貸し切り状態だった。 「卓球か……ほんとに久しぶりだな」  僕はつぶやく。 「だろ?」   峰雪がえらそうにうなずく。   卓球は、恵が大好きで、僕ら二人は、よくつきあわされていた。 あの頃の恵は、まだ卓球台の上に、肩が出るかでないかの背丈だったのに、僕ら二人は、さんざん、きりきりまいした。 「向こうじゃ卓球はどうなの?」  「イギリスは卓球発祥の地よ。 学院の娯楽室にも、卓球台はあったよ」  「ほう。 それじゃ、恵ちゃんが、英国野郎を、コテンパンに……」  「私、向こうじゃ、卓球はやらなかったの」 「どうして?」   驚いて僕は聞く。 あれだけ卓球が好きだったのに。  「どうしてかな。 お兄ちゃんは、卓球やってた?」  「いや、さっぱり」  「どうして?」  「理由はない。 強いて言えば、恵に誘われなかったからか」 「……私も同じ、だよ」   小さな声で恵は囁く。 頬を染めていた。  「それはおかしいぞ。 僕と恵の関係は、対称ではないから、その論理は成立しない。 僕と峰雪は、恵に誘われる側だが、恵は誘う側だ。 よって、誘われなかったから卓球をしないというのは……」   峰雪に頭をはたかれて、僕はとりあえず黙った。 「カツキって、バカだね。 いつも、こうなの?」   風のうしろを歩むものが、しみじみと呟いた。  「おうさ。 こいつは、朴念仁の女泣かせだからな」   峰雪と少女は、顔を見合わせてうなずいた。 異境の人狼にも、あのテレパシーはあるようだ。 僕は、いまさらながら、己の孤独さを噛みしめた。 「何にせよ、続けなかったのは、勿体ねぇな」  「メグミって、そんなにうまかったの?」  「あたりきよ。 〈栴檀〉《せんだん》は〈双葉〉《ふたば》より〈芳〉《かんば》し! 卓球の〈麒麟児〉《きりんじ》ったら、恵ちゃんのことよ」 「昔のことよ」   恵が、静かに囁く。 今頃になって、僕にも、ようやく、恵の言いたかったことが、わかった気がした。  あの頃、僕たちは、いつも三人一緒だった。   二人が試合。一人が審判。 恵は僕ばっかり〈贔屓〉《ひいき》して、峰雪は、反則ばっかりして、僕は僕で、三人の中で一番下手っぴで。   恵が留学して、僕は、卓球に興味を失った。   二人でする卓球は……僕の好きな卓球と違うのだ。 「で、卓球って何?」   一瞬の沈黙を、明るすぎる声が、打ち破った。 ぴょんぴょん跳ねそうな勢いで、少女が寄ってくる。  「……球技だ……つまり、ボール遊びだな」 「ボール遊びは好きだよ」   見えない尻尾を振るほどに、喜色満面にうなずく少女。 「そりゃ、よかった」   峰雪は、どこかぎこちない笑みを浮かべた。  「ええっと、風の……風の……」 「風のうしろを歩むもの」   今度は恵が訂正した。  「風のうしろを歩むものさんは……」   言いかけて、峰雪は首を振った。 「なぁ、風のさんって呼んでいいか?」  「ダメだよ、リョウ。 名前は大切にしなくちゃ。 ボクは、風のうしろを歩むもの。 風のさんじゃないよ」  「……コブが引っ込むような名前だな」   〈寿限無〉《じゅげむ》、か。 ふと思って、僕は聞いてみた。 「もし、緊急の時に、名前を呼ぶ必要があったら、どうするんだ? 長い名前を呼び終わるまで待ってるわけにはいかない時もあるだろう?」  「そういう時は、こうするんだよ」  少女が、指を唇に当てる。 次の瞬間、思いも寄らない高音が響き渡った。  ガラス窓がびりびり震え、僕たちは耳を押さえる。 鋭い口笛は、変化しながら長く尾を引き、やがて消えた。 「今のは、名前なのか?」 「うん。 それと危ないよっていう、知らせ」  「あの……どうかしました?」   フロントから、バイトが入ってくる。 眠そうな目を見開いていた。  「何でもないっす」   峰雪がごまかした。 「なぁ、克綺。 こいつ、どこの出身なんだ?」   峰雪が小声で聞く。  「僕に聞くな。彼女に聞け。 違う文化圏だろうな」 「どうでもいいじゃない、そんなの」  「風のうしろを歩むものさん、今日は、改めて、よろしくね」   そう言って恵が手を差しだした。 「うん、メグミ。楽しくやろうね」  「んじゃ、お手本見せるからな。 恵ちゃん?」  恵は、ラケットを握って、手の感触を確かめていた。 「ひさしぶり……」  久しぶりなのは僕も同じだ。 「いくぜ!」   峰雪のサーブ。 ラリーを意識した安定したサーブだ。   対する恵は、まったく容赦しなかった。   最初の一、二球ほどは、勘を取り戻すために、正確に打っていたが、あっという間にスピードが上がり、峰雪は、台の端から端まで追い立てられた。 腕は落ちていないようだ。  最後に見事なスマッシュが決まり、追いつけなかった峰雪が、べちゃりと潰れる。 恵は、ふん、と、言いたげに、髪をかきあげた。 「ふぅん。 攻め手と受け手があるんだね」   少女の理解は、間違ったほうにいっていた。  「違う。 卓球は……つまり、競争なんだ。 お互いに攻め合って、打ち返せなくなったら負けだ」  「負けたらどうなるの?」 「負けたほうが、勝ったほうの言うことを聞くってなどうだ?」   ちょっと待て、峰雪。  「え、それでいいの? だったらボクはカツキが欲しいな」   やはり、そうなるか。   卓球で負けて喰われるのはご免だ。 そもそも運動能力で、人狼に勝てるわけがない。 「スポーツはスポーツ、それ自体のために行うものだ。 余計な要素を混ぜるのは、その純粋性を損なう。 プロスポーツの堕落には目を覆うものがあるし、そもそも恵の意見も……」 「私はいいわよ」  「は?」  「それと、私も勝ったらお兄ちゃんを、もらうから」  「よっしゃ、決まり」  峰雪が、  「俺が勝ったら……めぐ」   かろうじてそこまでは聞こえた。 峰雪の表情が凍り付き、おほんと、咳払いする。 「俺が勝ったら、克綺にメシ、おごってもらうぜ」 「よーし、じゃ、はじめよ」 「負けないわよ?」   少女と恵が火花を散らした。   最後まで、誰も、僕に何が欲しいかは聞かなかった。   まぁ、それはいい。 僕の欲しいのは、この命だ。  協議の結果、試合は、10点先取のダブルスで行うことになった。 峰雪、風のうしろを歩むもの組、対、恵、克綺組だ。  ウォーミングアップにシングルで恵とプレイする。 恵の表情は、真剣そのものと言っていい。 「お兄ちゃん?」 「なんだ?」  「あの子……なに?」  「質問の範囲が広すぎる。 もう少し限定してくれ」 「お兄ちゃんと! どういう関係!」  スマッシュが僕の耳元をかすめた。 僕はボールを拾いに走る。 「偶然知り合った友人だ」  「それだけ?」 「少なくとも僕は彼女を友人と見ている。彼女が僕をどう見ているかは……」   恵のボールがネットに当たる。 「いいわ」   ボールを拾い上げて、恵は冷たく囁いた。 「友人なら、遠慮はいらないわよね?」  「万一……手を抜いたりしたら、承知しないからね」  「心配する必要はない。 今の僕は、これ以上ないくらい真剣だ」   より一般的には、命懸けという。 「よっし、そろそろ始めっか!」   峰雪の声に、僕はうなずいた。  「頑張ってよ、リョウ」 「任せとけ、風のうしろを歩むものちゃん!」 「負けないわよ、風のうしろを歩むものさん」   寿限無じみたやりとりの末、僕たちはジャンケンでサーブ権を決めた。 →5−8  試合は、怖れていたような、一方的展開にはならなかった。  人狼の速度で来られたら手の打ちようがなかったが、さすがにそれじゃ試合にならないことは分かっていたようだ。  かといって、単に手を抜いてるわけでもない。 風のうしろを歩むものは、僕の球をきちんと受け止めて、絶妙な位置へ打ち返してくる。  あたかもコーチをつけるように、受ける恵の運動能力を読み切って、ぎりぎりのところへ打ち込むのだ。  恵は、眉根を寄せながら、なんとか打ち返す。  返し球が甘ければ、峰雪がスマッシュを決める。  そうでなければ、峰雪と僕の勝負になる。  少女は、僕と恵と峰雪、全員の能力を引き出しながら、白熱した試合を作っていた。  肉体面が拮抗すると、勝負は、メンタルな部分に依存し始める。 「ねぇ、カツキは誰が好きなの?」  その一言に、メグミがすごい勢いで空振った。 「どうした、恵?」 「なんでもない」  恵のサーブは鋭く、にやにや笑いを浮かべた峰雪の手の甲を、したたかに打ちすえた。 「ねぇねぇ、カツキ?」 「好きといえば恵だな」 「ふぅん」  恵のレシーブが甘く、高く上がった球に、峰雪がスマッシュを決める。  追いかけたが、間に合わない。 「克綺、おまえ、意味分かってるのか?」 「わからん」  そう言ってサーブすると、ものの見事に峰雪が空振った。 「おーまーえーなぁ」 「感情的な意味はよくわからない。ただし」  レシーブ。 「通常、僕は、基本的に、他人に公平であろうとするが」  レシーブ。 「恵の身体的精神的安定に対する配慮は、他人へのものより優先させる」  会心のスマッシュ。  風のうしろを歩むものが、かろうじて受け止めたが、無理な返球に、恵がスマッシュを決めた。 「通常、こうした行動方針を指して、好き、と言うのではないか?」  ……息が、切れた。 運動しながら、しゃべるものじゃない。  気が付けば点数は、9−8。10点まで残り僅かだ。 「私も、お兄ちゃんのこと、好きだよ」   小さな声で恵がつぶやいた。 「知っている」  そう言うと、恵が、ますます顔を紅くした。 「うーんと、そういうのじゃなくてさぁ」   無邪気な声が降る。 「カツキが、連れ合いにしたい人って誰?」  しんと、静まる卓球場に、ボールの音だけが、しばらく響いた。 僕は、動きながら考える。 「連れ合い、か」 「特に、いないな」  その言葉に、恵が空振る。  これで9−9。 「デュースはなしだな?」 「えぇ」  あの頃、僕たちは、デュースなしでプレイしていた。 理由は、審判が退屈するから、だ。 「じゃぁ、これで最後か」 「カツキはもらうよ」  「負けないんだから」   小さくつぶやいて、恵がボールを握る。  鋭く、正確な一撃が、峰雪を襲う。 「真諸刃流青眼崩し!」  妖しげな技を叫びながら、峰雪が、迎え討った。 両手を交叉させての妖しげな構えから、鋭く切れた球が繰り出される。 「こんなことで……死ねるか!」  生き物のように跳びはねる球に、僕は飛びつくようにして打ち返した。  少女の眼がきらりと光る。 「勝負だよ!」   小さな身体が伸び上がった、遙か高みから打ち下ろすように、少女は腕を振る。 ラケットの赤が宙に溶ける。  一陣の旋風が、ボールごと恵を襲う! 「負けるもんかぁ!」   恵の右手がきりきりと引き絞られた。 前に出た左手が宙を撫でるように弧を描く。  その五本の指は、ゆらゆらと揺れながら、うずまく風の中心を探っていた。  指が止まる。 と同時に、その右手がえぐるように突き込まれた。  手首の返しは旋風の回転に逆らわず、ラケットは、渦の中心に吸い込まれるように前進する。  そこに、ボールがあった。  澄んだ音は、むしろ鈴の響きに似ていた。  一歩も動けぬ峰雪の胸に、ボールが食い込んだ時、鈍い音がした。  ここに、僕ら二人の勝利が確定した。  胸に食い込んだボールに、どれほどの威力があったのか、峰雪はゆっくりと膝をついていた。  が、恵は、そんなものは見てもいなかった。 「お兄ちゃん、勝ったよ!」   そう言って僕の首にとびつく。 やわらかな頬が、ぎゅっと押しつけられ、その暖かさは、恵が離れても残っていた。 「あぁ、勝ったな」  僕は恵を抱き上げる。 腕の中の確かな量感。 恵が成長していることを僕はしみじみと感じる。 「お兄ちゃん、背が伸びたね」 「恵は重くなったな」 「なにそれ」  恵が、ふてくされて、腕から降りた。  「私、そんなに重くなってないよ」 「自乗立方の法則だ」  「え?」  「身長比が同じで、二人の背が伸びたとする。 恵の体重は、身長の三乗に比例するが、僕の筋肉は自乗に比例するから……」 「わたし、文系だから」  「とにかく。 恵の体重が平均以下であっても、僕にとっては、昔より重く感じられるということだ」   僕は、一つ息を吸う。  「大きくなったな、恵」 「どうして、最初から、そう言わないの?」  『質問に答えたまでだ』   恵が僕の口まねをする。  「わかってるじゃないか」  「わかってるんだけどね」 「メグミも大変だねぇ」   風のうしろを歩むものが、声をかける。  卓球台に手をかけて、ただそれだけで、ぴょんととんぼを切って、こっちまで跳んできた。  「何が大変なんだ?」   少女は僕の質問を堂々と無視した。 「負けるとは思わなかったよ。 やるね、メグミ」  「お兄ちゃんは、渡しません」 「もらうよ」   なにげない少女の言葉は、鋼のように強かった。 瞬間、恵が言葉を失う。 「ボクの使命だからね」 「よく、わからないわ」  「ごめん。メグミは気にしないで」  「気にするわよ」  絡み合う二人の視線を避けて、僕は、ふと思い出す。 峰雪はどこへ行った?  卓球台の向こうから、手首が顔を出した。 息も絶え絶えな様子で揺れる指は、かろうじて端をつかむ。 曲がった指が身体を支え、ぐっと手首を持ち上げる。  手首が上がり、肘が見え、もう少しで肩……と思ったところで、腕が落ちた。  台の向こうで、ゴンと音がする。力尽きたか。 「大丈夫か、峰雪?」 「おう」  不屈の闘志で持ち上がる手首。 今度は、うまく、肘をひっかけ、そこを支点に身体を持ち上げた。 ようやく顔をだす。 「生きていたか」 「なんとかな」   制服の胸には、くっきりと跡がついていた。 いや、むしろ、焼けこげている。 ……どんなボールだったんだ?  「あ、リョウ、大丈夫?」   風のうしろを歩むものが、非常に今さらな声をかける。 「あたぼうよ!」   まぁ本人が嬉しそうなら構わないが。  「第2試合いこうぜ」 「ようし、今度こそ、カツキをもらうよ」 「あげません!」 「断固拒否する」  「あ、カツキ、ずるいよ、メグミが勝ったからって」  「俺、俺、俺が賞品」 「リョウはいらないや。カツキがいい」 「だから、あげません!」  「克綺、恵ちゃんを賭けて勝負だ」  「メグミのケチ。ちょっとぐらいいいだろ」 「ちょっとも全部もだめです」 「そこまで言うなら、卓球で勝負だよ!」  「受けて立ちます」  「二人とも落ち着け。論理が破綻しているぞ」  「どうした! 臆したか克綺!」 「なぁ、峰雪」 「なんだ?」  「これは質問なのだが。 今のおまえのような状態を、浮いている、と言うのか?」   あ、泣いた。  恵と風のうしろを歩むものは、相変わらず言い合いを続けている。 その噛み合わない会話と、尽きない熱情に、僕は既視感を覚えた。  ……そうか。シロに似てるんだ。 シロ。   あいつは、いつも、大きな体で、恵の我が侭を受け止めていた。 決して僕たちに吠えたりはしなかったが、無理しそうな時は身を張って恵を止めた。   長い髪を揺らしながら、恵の言葉を受け流す少女は、どこか、あの犬に似ていた。   そう思うと、少しだけ可笑しかった。 「お兄ちゃん……今、わらった?」  「笑う、の、定義によるな」  飛び交う白球を追って、どれだけの時間を過ごしただろう。 最初の数試合は、まともにやったが、段々と、いい加減になっていった。  奇声を上げる峰雪。 踊り出す峰雪。 両手にラケットを持つ二刀流峰雪。 ボールを二つ取り出し、いっぺんにサーブする峰雪。  ……いい加減なのは、峰雪か。  風のうしろを歩むものは、風のうしろを歩むもので、背面打ちや目隠し打ちの妙技を披露する。 中でも壮観なのは二面打ちだった。  二つ繋げた卓球台の、片側に僕と恵が陣取る。 向こう側は、もちろん、風のうしろを歩むものだ。 コート二つに、ボールが二個。  少女は、長いコートを往復しながら、僕と恵を相手に、同時にラリーをやってのけた。  別に、少女が人外の力を発揮したわけじゃない。 その動きは、すべて人の域にとどまっていた。  違ったのは、その技だ。  絶妙な打ち込みで、僕たちのレシーブをコントロールして、うまくボールを集め、最小限の動きでラリーを行う。 僕たちのほうが走り回された。 「この分なら、三面打ちも行けんじゃねぇか?」   峰雪が適当なことを言う。 「それは、ちょっと……ね」 「ねぇ、ひょっとしなくても、さっき、手を抜いてた?」   一試合終えて、恵が少女を問い詰めた。  「うん。ボクが本気出すと、終わっちゃうから」   なんとも人懐こい笑顔だ。 そのせいか、恵も腹を立てなかった。 「手加減がうまいな」   僕の言葉に、恵もうなずいた。 こちらの実力を見極めて、それを引き出すように、うまく試合を運ぶその手際は素晴らしかったし、何より、試合をしていて楽しかった。  「慣れてるからね。 弟たちの相手、よくしてたから」  「兄弟がいるの?」   恵が聞きかえした。 過去形に気づかずに。 「今はいない。 みんな死んじゃった」   笑顔は変わらず、声は沈まず。 飄々と少女は応えた。  「……ごめんなさい」  「あやまることないよ」   少女が笑った。 髪飾りが、揺れる。 「それにさっきはね、最後に、ちょっとだけ本気だしちゃった。 だから、びっくりしたよ」   不敵に笑う少女。  風のうしろを歩むものが恵の前に立つ。  「ちょっと、いいかな」  「え?」  風のうしろを歩むものは、恵に歩みよると、しゃがんで、その胸に耳をつけた。 母親によりかかる子供に見えなくもない。 「な、なによ?」 「鼓動」 「え?」 「メグミの心臓の音を聞いただけ。さ、帰ろ」   そう言って、少女は立ち上がった。 「もぅ、心臓が、なんなの」   恵は、かすかに不満な呟きを残し、胸に触れた。  卓球場を出ると、ずいぶん時間が経っていた。 「お腹空いたよ〜」  「ふむ。確かに大量のカロリーを消費したな」  「おまえはロボットか?」  「比較の意図がわからない。 質問は明確にしてくれ」 「で、どこに食べに行くの?」  「二人とも、ラーメンは好きか?」 「うん、好き好き!」  「私、脂っこいのは、ちょっと……」  「蓮蓮食堂なら、問題なかろう」  「お兄ちゃんが言うならいいけど……」 「風のうしろを歩むものちゃんは、蓮蓮食堂でいいか?」 「蓮蓮食堂って、カツキと会ったとこだよね。いいよ」   恵が、きっと、僕をにらんだ。  「どうした?」 「なんでもない」  「説明しなかったか?  風のうしろを歩むものとは、ラーメン屋で会ったって」  「なんでもないっていってるでしょ」 「そうか」 「……おい、克綺、ちょっと来い」   手招きする峰雪に、僕はついて行った。 「なぁ、克綺?  何でもないっていう時は、普通、何でもなくはないんだぞ」  「反語表現というやつか。 しかし、何かあるなら、何故、そう言わない?」  「何かあるけど、言いたくない時に、何でもないってゆーんだよ!」  「不合理だ。非論理的だ」 「……人間ってな、そういうものだろ? 克綺、おまえだって、頭っから尻尾まで、理屈だけで生きてるわけじゃなかんべ?」  「非論理的なことは一向に構わない。 だが、論理的推論を廃して、どうして、コミュニケーションが成立する?」  「そりゃ、アレだ。気は心ってやつよ」 「気も心も、僕にはわからない」  「ま、おまえは、そういうヤツだな」 「わかっているならいい」 「威張るなよ。 とにかくさっきのはな、恵ちゃんが、おまえに言いたいことがあるってことだよ」  「ふむ。言いたいことがある。 だが言えない。 ならば、僕にできることは何もない」  「切るな! 聞いて欲しいってことだよ!」  「どう聞いたらいいものか、さっぱりわからない」 「そういう時は、だ。 あやまっときゃいいんだよ」  「あやまる? 何に対して?」  「気にすんな。 とりあえずあやまってから、ワケ聞きゃいいんだよ。 それが、女の子とうまくやってく秘訣だ」  「……残念だが、そのアドバイスは聞けないな」 「なんで?」  「確率統計の問題だ。 峰雪、君が女の子とうまくやっているところは、あまり見たことがない。 故に、その助言は信用できない」  「言いたい放題いいやがって」  「論理的推論だ」 「どうでもいいけど、聞こえてるわよ」   恵が顔を出す。  「おっと、こりゃすまねぇ」 「峰雪さん。 あんまり、お兄ちゃんに変なこと吹き込まないで」  「わかっちゃいるんだけどな……こいつの朴念仁っぷりは、見てて、歯がゆいんだ」 「それはそうだけど」   そうなのか。 「そこがお兄ちゃんのいいところなんだから」 「そうかなぁ?」   風の後ろを歩むものが、首をかしげる。  「そうなの」   一喝して黙らせる。 「ふむ。ところで、恵」  「なぁに、お兄ちゃん」 「結局のところ、何か、言いたいことがあるのか?」   返事の代わりに、恵は、僕の向こうずねを思い切り蹴飛ばした。   ……なるほど。 言いたいことはなくても、蹴りたいものはあったわけだ。 「いらっしゃい!」  痛む足をひきずりながら、僕は、のれんをくぐった。 「何があるの?」   恵は、メニューを繰る。 「親父、塩ラーメン一丁!」 「僕もだ」 「じゃぁ、私も」 「塩と醤油! あとチャーシューご飯! 全部大盛りで」  「はいな!」   無茶な量の注文を聞きかえさなかったところを見ると、少女のことは覚えているのだろう。 もっとも、忘れるのも難しいだろうが。  待つほどもなく、ラーメンはやってきた。 「はい、塩四つ。醤油とチャーシュー、今すぐお持ちしますね」 「おじさん、ありがとう」 「いただきます」  なんともいえない素晴らしい香りを胸一杯に吸い込んで、パキンと、箸を割る。  最初の一口は、絶対にスープだ。 レンゲに一口、胸一杯に、スープを味わう。 「おーいしーい! おいしいね、カツキ!」  「ここは、当たりだな」 「あぁ」   〈滋味〉《じみ》、と、呼ぶのがふさわしい。  かすかな塩味が、疲れた身体に染み渡る。 「……」  「恵、どうだ? 大丈夫か?」   沈黙を守る恵に、僕は呼びかけた。  「びっくりした」 「何が?」  「ラーメンじゃないみたい。 すごく、さっぱりして……おいしい」 「だよね。お魚の骨が、こんなにおいしいって、ボクも知らなかったよ」 「それは、日本語で、ダシという」  「恵ちゃんがイギリス行ってる間に、ラーメンもずいぶん進歩したからな」   峰雪が、したり顔で講釈する。  「へぇ。新しいゴハンなんだ」   感心しながら、少女は、塩ラーメンを飲み干す。 「はい、醤油とチャーシューご飯お持ちしました。 ご注文は以上で?」 「うんとね……追加で……」 「ちょっと待て。お金はあるのか?」   小声で聞くと、風のうしろを歩むものも、小声で答えた。  「うん。管理人さんに、お小遣い、もらっちゃった」   店子にお小遣いをやる管理人か。 管理人さんが何を考えているのか、さっぱりわからなくなった。   ……あるいは、わかってやっているのだろうか。  そもそも、この子の素性は、どこまで聞いたのだろう? 少女はポシェットから、小さな袋を取り出す。  「はい」   渡されたので、とりあえず中を開けてみた。 千円札が数枚と……メモ?  「克綺クンへ。使ったらレシートを入れておいてね」   なぜか宛名は僕だった。 行動が読まれているようだ。 「それじゃ……あんまりお代わりしちゃだめだぞ」 「うん、わかったよ」  結局、僕らがラーメンを食べ終わる間に、少女は醤油2杯塩3杯、チャーシューご飯2杯を平らげた。  管理人さんのお小遣いに、僕の手持ちを足して、ぎりぎり足りた。 本当に、ぎりぎりだった。 「あぁ、おいしかった!」 「おいしかったけど……」   恵は、少女のほうを、信じられないものを見る目つきで見ていた。   どちらかといえば小食のほうだ。 あの喰いっぷりに当てられたのか。 「ラーメンって、みんな、こんなにおいしいの?」  「店次第だな。 今度、トンコツ醤油のおいしいとこでも、行ってみるか?」  「トンコツって何?」 「豚の骨で、ダシを取ったラーメンだ」  「おいしそうだね。ボク、いくよ!」   風のうしろを歩むものが手を挙げる。 「うぉっし、連れてってやる」  「やった。リョウ、大好き」  「さぁて、と。次は、どうするよ?」 「私、ちょっと、疲れちゃった」  「じゃぁ、早めにお開きにすっか」  「それがいい」  夕暮れというには、まだ早く、けだるい午後の日差しが、僕たちを照らしていた。  運動、食事と来れば、次は睡眠と相場が決まっている。 「春眠暁を覚えず。 処処啼鳥を聞く。 夜来風雨の声。 花落つること知りぬ多少ぞ」   朗々と峰雪が歌い上げる。  「春でもなきゃ暁でもないし、雨も降ってないから花も落ちないぞ」 「黙りやがれ。食後の一睡万病円ってな」  「寝る子は育つということだな」  阿呆な会話も、ひとくさりで途切れる。 ぼんやりと歩き続ける僕は、ふと鼻をかいだ。 「……克綺? なんか、うまそうな匂いしねぇか?」 「そうね……ローストビーフみたい」   恵がうなずく。 「ローストビーフというよりは焼き肉だな」  香ばしい、肉と、脂の匂い。 いまにも、ジュウジュウという音が響きそうな、そんな食欲を誘う匂いだった。 「うーん、そうかな」   少女が考え込む。  「嫌いな匂いか?」 「ん? すごくおいしい匂いだよ。 けど……そっちには行かないほうがいいと思うな」  「って言われてもよぉ、帰り道だからな」 「そう」   なおも、難しい顔をする風のうしろを歩むもの。 「用心したほうがいいかもしれないな」 「用心って……なによ」   そう言って恵が、僕の腕を取る。  「用心の必要はないよ。 いざとなったらボクがいるし」 「おう、俺さまもいるしな」  「お兄ちゃんには私がいるよ」 「そうだな」 「……おい、普通、逆じゃないのか?」   峰雪が口を挟む。  「そうとも限らない。 耐久力、筋力は、僕のほうが恵より上だが、運動神経は恵のほうが高い」  「それに、お兄ちゃん、いっつも、ぼーっとしてるから、心配だし」  「言い換えるなら、危機に際した場合の判断力も、僕より恵のほうが優れている、というわけだな」 「おまえ、女に自分守らせて平気なのか?」  「誰であれ自由意志は尊重すべきだ。 恵が僕を守ることに反対する謂われはない。その代わり、僕も恵を守る。 それだけのことだろう」  「はぁはぁ、そうっすか。ごちそうさま」  「わかればいい」 「しっかし……すげぇ匂いだな」   歩いていく内に、うまそうな匂いは、どんどん強くなってきた。 峰雪なんか、しきりに舌なめずりしている。 「お兄ちゃん……あれ、火事じゃない?」  「火事、か」  空に、一筋の黒煙が立ち上っていた。 煙突はないから、何かが燃えているのだろう。 火事の可能性は、極めて高い。  角を曲がると、唐突に人が増えていた。 人混み……そして、警官達。 「この先、通行止めだってよ」  誘導に従い、僕らはじりじりと、人混みに沿って移動する。  ──ひとごろし…… ──よく焼けて…… ──バラバラ…… 「なんだろうな。肉屋でも火事になったか?」   峰雪の軽口は、明らかに平静を欠いていた。  こうして近くまで来ると、肉の匂いに混じる金属臭さが、はっきりと分かった。 つんと来るガソリンの臭いが鼻孔を刺す。  奇妙といえば奇妙なことに、サイレンの音はしなかった。 救急車も消防車も来ていない。  代わりに、通行止めの向こうには、大きな装甲車があった。 ちらりと、あの緑の制服がのぞく。 そういうことか。 「事件、よね」  恵が呟く。何の事件かは聞くまでもない。 「こんな昼間っからかよ」 「昼間ではない。既に夕方近い」 「こんな明るい時間にってこったよ!」 「確かに、これまでの事件は夜に起きていたが……考えてみれば、その必然性はないな」  あの魚人達であれば、昼日中に人を屠って逃亡することなど、造作もあるまい。 「いいや、ヘンだよ」   少女が小さく言った。  「何が?」   そう聞いても、少女は小さくかぶりを振るだけだった。 「あ、九門君」   角を曲がったところで、会ったのは牧本さんだった。  急ぎ足で駆け寄ってくる。 もうそろそろ下校時間か。 「あの……何があったか聞いていい?」 「俺たちは無視かい」  「だって、峰雪君はズル休みでしょ」  「こいつも一緒だよ」 「嘘! だって、九門君は……」   牧本さんは、言葉を切って目を見開いた。 「おい、克綺。 てめぇ、何て言って、学校休んだ?」  「ん? あぁ。生きる目的を探してくるって」  「九門君、言い訳するような人じゃないから……何があったのかと思って」  「気にすんな。何もなかったから」  「様々なことは起きた。卓球をし、命拾いし、ラーメンを食べた」 「そういうのを、何もなかったてんだ、この唐変木が!」 「ね、カツキ。この人、誰?」   そういえば、風のうしろを歩むものが牧本さんに会うのは、初めてだ。  「あぁ、同級生の牧本さんだ。 牧本さん、彼女は――」   紹介するよう、後ろを向く。 「ボクは風のうしろを歩むもの」   遮って言う少女の言葉は、どこか鼻声だった。 よく見ると、目が赤い。  「どうした、大丈夫か?」 「うん、ちょっと。目が痛くて」  「ひどい臭いだよね。ガソリンかな」 「重油の類だろうな。火炎放射器だろう」 「……火炎放射器?」 「克綺!」  峰雪が僕の肩を掴む。 「いいから、それ以上、余計なこと言うな」  峰雪の言い様は不愉快だったが……僕は口をつぐんだ。 牧本さんと、恵。二人とも、肩を落として怯えていた。  峰雪の言葉が耳によみがえる。 「俺や恵ちゃんみたいな凡夫は、知らねぇことを減らして、知ったかぶりするために頑張るんだ」  知らないことか。 殺人事件という言葉の裏に、人と、そうでないものの争いが隠されていること。 日も暮れぬうちに、ここで行われた戦い。  それらすべて、峰雪も恵も、牧本さんも、知りたくないことなのだろう。  僕たちは、口を利かないまま、それぞれに家路を辿った。 →5−13 「あら、お帰りなさい」   いつものように管理人さんは門の前で待っていた。 「どうだった? 生きる目的、見つかった?」  「いえ……」  「そう。若い内は色々あるわよ。 気長に頑張りなさい。 恵ちゃんと風のうしろを歩むものちゃんは?」  「うん、楽しかった! カツキがいっぱい遊んでくれたし」  「楽しかったですけど……」 「何かあったの?」 「確かなことはわかりませんが、また事件があったみたいです」   僕は口を挟んだ。  「事件って……こんな時間に?」  「はい。通行止めで、警察が大勢いました」 「それは……困ったわねぇ」   管理人さんも眉をひそめる。 「ま、心配してもしょうがないわね。 早く入りなさい」  「はい」  僕たちはうなずいてメゾンに入った。 「犯人だって、明日にも捕まるかも、しれないじゃない」 「可能性は常にあります」   ……しかし、それは極めて低いと言わざるをえない。 夕食は、管理人さんに呼ばれた。   目の覚めるようなスズキのソテーだったが、食卓の口数は少なく、味も……本来、あるべきほどにはおいしくなかった。 「ごちそうさま」   小さな声で、恵が立ち上がった。 まだ皿に半分も残っている。  「おそまつさまでした」   そういう管理人さんも、声が小さい。  「メグミの分、もらっとくね」   風のうしろを歩むものでさえ、どこか遠慮ぎみだ。 「克綺クンは、おかわり、もういい?」  「はい。ごちそうさまです」  しばらく悩んで、僕は、風のうしろを歩むものに声をかけた。 「あとで話がある。部屋に行っていいか?」  スズキをぱくつく少女は、手を止めて振り返った。 ただ一言。 「うん、わかったよ」   と。 「克綺だ」   僕はノックする。 「入って」  ノブをひねる。  鍵はかかっていなかった。 電灯はついておらず、カーテンが開いていた。  闇の中で目が光る。 丸く、黄色い光を放っていた。 「灯りをつけていいか?」 「いいよ」  僕は、手探りで電灯のスイッチを入れる。  白熱灯の光に浮かび上がった少女の部屋。 それは相変わらず殺風景で、寝床以外の生活用具は、何一つなかった。  部屋からは、なぜか夜露に濡れた土の匂いがしたが、それは、ちっとも不快じゃなかった。  少女は、そのベッドの上に、ちょこんと座っていた。  「何の用?」   僕は……クッションも椅子もないので、ベッドの上、少女の横に、座った。 「昼間の事件について聞きたい。 あれは、どういう事件だったんだ?」   少女は小首を傾げる。  「カツキは知ってたんじゃないの? わだつみの民と、ニンゲンの争いだよ」  「気になることがある。 あの事件はニュースで報道していなかった」  「ふぅん」 「ニュースで報道できないようなことがあった、ということだろう。  もう一度聞く。あそこで何があった?」  「ボクだって細かいことはわからないけど……」  「鼻が利くんだろう? あの焼けこげた匂いは、魚人のものか、人間のものか?」 「あ、だいたいはニンゲンだよ。 脂の匂いが違ったもの」  「そのニンゲンは、兵士だったか?」 「?」 「緑の制服を着た男たちだったか?」 「多分、違うと思う。 歳とかバラバラだから。 子供もいたし……お爺ちゃんもいたよ」  「それは全部で何人だ?」 「二十と六人」   予想の範囲ではある。 報道が規制された時点で、そうしたことだろう、とは、思っていた。 戦闘の詳細はわからない。 二十六人は、既に、殺されていたのか。 あるいは、魚人と一緒に焼き殺されたのか。  いずれにせよ……それだけの人間が死んだということだ。  「どうしたの? 顔色悪いよ」  「悪いのか?」 「うん、とても」   ふいに、焦げた肉の匂いが蘇った。   ──すごくおいしい匂いだよ。  吐き気がこみ上げる。 「カツキ、横になったほうがいい」   少女の両手が僕の頭を導いた。 風のうしろを歩むものの膝に乗る。 「ごめんね。カツキにはつらいよね。人間なんだもの」  僕は首を振る。  「理不尽に死ぬ人間は、彼らだけじゃない。戦争も紛争も絶えることがない。 今この瞬間に死んでいる人はいる。たまたま近くにいただけの人間に選択的に感情移入することは、非合理的だ」 「カツキは考えすぎだよ」   少女は微笑んだ。 「頭だけで考えてる。 身近で人が死んで怖いのは、ちっともヒゴーリテキじゃないよ」 「怖い……そうか」   僕は、危険性の増大に反応していたわけか。 「……ねぇ、カツキ、他にも言いたいこと、あるんでしょ?」  テレパシー。 不合理な、しかし的確な推測。 僕にないもの。  非言語コミュニケーションは、人が獣から進化する間に大きく退化させたものらしい。 声や身振りから、そこにこもる感情を受け取る力。  飼い犬は、人間などより、よほどうまく主人の気持ちをくみ取って先回りする。 風のうしろを歩むもの、大神の力を持つ少女。 彼女には、そうしたテレパシーに対する、常人より鋭い感覚があるのかもしれない。 「なぜ、そう思う?」 「顔みれば、わかるよ」  僕にはわからない。 顔を見てもわからない。 だから口にする。 「僕は、この戦いを止めたい」 「ニンゲンと、わだつみの民の?」 「あぁ。そのために、君の力を借りたい」 「ボクは草原の民、大神の末裔だ。 ニンゲンに肩入れする理由もないし、他の民に口出しする資格もない」 「そうだろうな」 「ねぇカツキ。それは、カツキの心からの願いなの? 命を懸けた目的なの? それだったらボクは、どこまでもカツキについて行くよ」  澄んだ少女の眼が、僕を射抜くように見つめた。  何も偽らない目。何も飾らない目。 それ故に、あらゆる見せかけもエゴも通じない瞳。  その瞳に向けて、僕は、ゆっくりと喉から声を絞り出した。  少女は僕の瞳をじっとみて、それから言った。 「ダメだよ、カツキ。カツキは、それに命を懸けられない」  断定形の言葉は、ゆっくり時間をかけて僕の中に染み通った。 「わだつみの民と、ニンゲンの戦いが終わったら、カツキはボクに食べられてくれる?」  僕は無言でかぶりを振った。  僕は、人を助けたいと思う。 だけど、命までは捨てられない。  もしかしたら……弾みでそうすることはあるかもしれない。 けれど、今、時間をかけて熟慮して、より多くの命のために死ぬことは選べない。 「すまない。僕は今、嘘をついた。利己的な嘘だ」 「リコテキ?」 「自分のために、嘘をついた。僕の都合だけで、君を動かそうとした」 「それは違うよ。カツキは自分のために嘘をついたんじゃない」 「カツキは、誰かを守ろうとしてウソをついた。それはよくない」 「嘘に、いい嘘と悪い嘘があるのか?」 「あるよ、もちろん! はじまりの狼が、どうやって、タンポポから毛皮をせしめたと思うのさ?」 「なんだ、それは? かいつまんで説明してくれ」 「うーんとね、むかし、むかし、まだ、この世に毛皮というものがなかった頃。 だから、冬になると、四本足は、みいんな、よりあつまって、暖をとってたんだ」 「その頃、ウソつきの狼がいて、いっつもウソばっかりついていた。ある時、ウソつきの狼は、自分は、すべての狼のご先祖で、一番えらい狼だ、って言い出した。 そのウソは、あんまりひどかったんで、ウソつきの狼は群れから追い出された」  「群れから追い出された狼は、寒さにぶるぶる震えたよ。 見れば、凍えているのは自分だけじゃない。 草も木も、寒さにぶるぶるふるえて、葉を落としたりしてた。 けれど、タンポポだけは、暖かい綿毛があった。 だから、はじまりの狼はね、その綿毛があったら暖かいだろうな、と思ったんだ」  「タンポポさん、タンポポさん、あなたの綿毛は、暖かそう。 雪が降ってもへっちゃらでしょう……」 「狼は、たんぽぽから綿毛を騙し取ったんだな?」  少女は、まるで頭をはたかれたように、僕を見た。 まん丸い目には、涙さえ浮かんでいる。 「ひどいよ、カツキ! お話を止めるなんて」 「すまない。けれど、少し、端折ってほしい」 「うー。とにかく、はじまりの狼は、タンポポと三つの競争をして、ウソをついて勝ったんだよ。 そのたびごとに、綿毛を毟ったもんだから、最後にはタンポポは丸裸になっちゃった。 だから、今でも春になるとタンポポの綿毛は、花から離れて飛ぶんだよ」  僕は軽くうなずく。  典型的なトリックスター伝承だ。 神話に登場する英雄は、嘘や盗みを通して、大きな恵みをもたらす。 「その嘘つきの狼のおかげで、四つ足はみんな毛皮が持てるようになったんだ。狼が狼らしくなったのは、その嘘つきの狼のおかげ。 だから、その狼は、はじまりの狼って言うんだよ」 「だからね、カツキ。自分のためにウソをつくのは、いいウソだよ。 はじまりの狼だって、他の狼のことなんか、なーんにも考えていなかった。 ま、その代わり、群れを追われたり、凍えたりするかもしれないけどね」 「悪いウソは、誰かのためのウソ。もっと悪いのが、みんなのためのウソ。 そういうウソはね、自分もつらくなるし、みんながつらくなるんだ」 「ボク、思うんだ。 カツキがさっきついたウソは、誰かのためのウソじゃないかな」 「……そうだな。その通りだ」  僕が嘘をついたのは……この街で、次に犠牲になる誰かのためだ。 その人のためになることをしようという気持ちに嘘はない。 だが、そのために、できないことをできると言い張った。 「いいことを教えてくれて、ありがとう。 ゆっくり寝て、考えてみよう」  僕がベッドから降りると、少女が、跳ね起きた。 「おっと、待って、カツキ。実は、ボクも少しだけ気になることがあってね」  「ちょっとだけ、調べてみようと思うんだ。一緒に来る?」   少女は、いたずらっぽく笑う。 僕は、一も二もなくうなずいた。 「僕の使命じゃない」 「僕は、この街の人が死ぬのを、これ以上見たくない」 「だけど、そのために命は懸けたくない。 君に食べられるわけにもいかない……正直だね、カツキ」 「正直なんじゃない。僕には、嘘をつく人間のことが、よくわからないだけだ」 「どうして?」 「世の中というのは複雑なものだ。思い通りにならないことがいっぱいある」 「うんうん」 「入力と出力が線形じゃない。 狙った通りに、ことは運ばないし、努力の分だけよくなるとも限らない」 「まぁね……だから、嘘をつくんじゃないかな。 ニンゲンは、よく、壊れた機械を蹴っ飛ばすでしょ。 故障が故障してマシになるかもしれないって」 「エントロピー増大の法則からいって、それは統計的に有り得ない。 壊れた機械はますます壊れるだけだ」 「世界が複雑だからこそ、せめて、人間同士のコミュニケーションくらい、単純にとどめたい、と、僕は思う。論理的な言葉は単純で美しい。 どうして、わざわざ嘘を混ぜて複雑にする?」 「うーーん。でもさ。カツキの言い方って……かえって誤解を招いたりしない?」 「それは、僕以外の人間が非論理的だからだ」 「……うん、確かに、それはそうだけどさ」  少女は微笑んだ。 「そうなんだ」 「むかしむかし、狼にも、カツキみたいなのがいたよ。 その狼は、いつも本当のことを言うので……」 「それは、お話か?」 「うん。正直狼と、黒髪姫のお話。聞きたい?」 「全部はいい」 「……そう」  風のうしろを歩むものが、眉をしかめる。 「長居したようだな。魚人の件については了解した」 「それなんだけどね、カツキ。実は、ボクも少しだけ気になることがあるんだ」  「カツキの手伝いをするわけじゃないけど、ちょっとだけ調べてみようと思う。どう、一緒に来る?」  「あぁ」   僕はうなずいた。  「よし、決まり!」  風のうしろを歩むものは、ぴょんと跳ねると、正座の体勢から、跳ね起きた。   ドアを開け……あとずさりする。 「ど、どうしたの、メグミ?」  「あぁ、びっくりした。ちょうどノックするとこだったんだけど……」  「お兄ちゃん、どこ行ったか知らない?」  「カツキ? カツキは……」  「僕なら、ここにいる」  僕はベッドの上から声をかけた。 風のうしろを歩むものが手で顔を押さえる。 「ちょっ……どいて! お兄ちゃん! こんなとこで何してんの?」  「話しあいだ」   恵は大またで歩いて、僕の肩に手をかけた。 「お兄ちゃん、この人とは何でもないって言ってなかった?」 「何でもないと言った覚えはない。 ラーメン屋であってお金を貸しただけのつきあい、と言ったまでだ」 「じゃ、なんで、こんなとこで内緒話してるの?」 「連続殺人事件とその解決法について協議していた」 「お兄ちゃんの嘘つき!」  ぱん、と頬が鳴る。  恵は大またで歩きながら、部屋を出て行った。  最後に、きっと、風のうしろを歩むものをにらみつける。  音を立ててドアが閉められ、僕は頬をなでた。 熱が、徐々に痛みに変わる。 「なぁ、風のうしろを歩むもの」  「なに?」  「その正直狼は、最後にどうなったんだ?」  「骨という骨を砕かれてから、荒野の真ん中に捨てられて、禿鷲に目玉をほじくられて、三日三晩かけて死んだよ」  「……そうか。一つだけ聞きたいんだが」  「なぁに、カツキ?」 「正直狼に、妹はいたのか?」   風のうしろを歩むものは、答えなかった。 ただ、無言で僕を見つめた。 とても気の毒そうな目だった。  門をくぐって外に出ると、夜霧が顔にはりついた。 濡れタオルを頭からかぶったような天気だ。 「カツキ、絶対に離れたらダメだよ」  「危ないのか?」  「忘れたの? メゾンから一歩出たら、カツキは、いつだって危ないんだよ」  「メゾンにいる間は平気なのか?」   ふと浮かんだ疑問を口にする。 「とにかく離れないで。 これをつかんで、放したらダメだよ」   言われるままに、僕はポシェットの紐を、ぎゅっとつかんだ。  「母親についてく子供みたいだな」  「そうだね」   少女は声に出さずに笑った。 「で、どこへいくんだ?」 「このあたりの元締めさんのところ」  「元締め?」  「ちょっと大きな街なら、元締めさんがいるんだ」  「魔物の王か?」  「ちがう、ちがう。 いろんな民のもめごとを抑えたり、仲立ちしたりするのが元締めさん」 「元締めか。どんな人なんだ?」  「知らないよ。 ボクも初めて会うんだもん。 ただ、すごいらしいよ」  「すごいとは?」  「若いのに、いろいろなところに顔が利くんだって。 うちの長老も、一目おいているっていうくらいだから」  「君の一族は勢力があるのか?」 「ううん、全然。 めったに街には来ないしね。 そんな田舎に住んでても、気になるくらいすごいってこと」   今ひとつイメージが湧かない。 「……着いたよ」  少女のポシェットをつかんで、着いた先は……学校だった。 「ここに?」 「うん、そう聞いたけど」   ポシェットから手を放し、閉まった校門に手を触れた瞬間。  銀光が閃く。 鋼の噛み合う音が、遅れて響いた。   気が付けば、少女は僕に背を向けて守るように立ちはだかっていた。 目は、校門の向こう。そこに広がる闇を見ている。 かすかな星明かりに、鋭い爪が光った。   彼方から飛来した飛び道具を、咄嗟に少女が弾いた、と、僕はようやく理解する。 「放しちゃだめだっていったじゃないか」 「すまない」   僕は、改めて少女のポシェットをつかむ。   少女がすうと息を吸った。 「ボクは、風のうしろを歩むもの。 母は、雲間の踊り女。 母の母は、片腕の稲妻殺し。 これなるは、九門克綺。人にして友。 ぬばたまの夜闇の民よ、作法によって、門を開き給え」   凛とした声が、風とともに吹き抜けた。  門が一人でに開いてゆく。 闇の中で、かすかに光が凝り、人の形を取った。  金の髪が闇にひかり、白い肌を顕す。 裸の胸にひっかけた羽織は、裾と袖を紅く染め抜いていた。   ──異人。   そんな古風な言葉が似合う男だった。つけくわえるなら、侍、か。   その両手には、鎖鎌が握られていた。 しゅるしゅると、男の手の中で分銅が回る。 さきほどの銀光は、それだったか。 「畜生風情が、何の用だ?」   けだるげに男が呟く。   にぎったポシェットの紐を通して、少女が怒りに震えるのが分かった。 「夜闇の民は、礼儀も知らないのか!」 「吠えるな、犬っころが」   金髪の侍が、半身に構える。  その右手から迸った紫電。実に五条。 打ち合う音は一つに聞こえた。  四度の往復を経て、五撃目が、少女を捉える。捉えたのだろう。  気づいた時には、少女の首に、幾重にも鎖が巻き付いていた。  「犬っころには、似合いの鎖だ。 くれてやる」   ぐいと引かれる腕に、少女の首は動かず、ただ、喉から、かすかな唸りが洩れた。  それは、とても楽しげな唸りで──。 小さく背を丸めた少女の表情が、僕にはありありと浮かんだ。   頬には、あの、ひとなつっこい笑みを浮かべ、瞳は、まっすぐに前を見て。 口元からは小さく牙がのぞき。   涼やかな風が吹いた。 まとわりつく夜霧が、一瞬にして吹き払われる。  首の鎖が地面に落ちた。 僕の手に、ポシェットだけが残る。   風の重さに押されるように、少女が倒れ込む──そう見えた瞬間、  少女の姿は消えていた。  風のうしろを歩むものよ。  風に乗って風を乱さず、歩むように大地を駆け。 少女は、百歩の間を一瞬で詰めた。  心にも止まらぬ人外の攻防。  少女が宙を駆けるわずかな時に、侍は、鎖鎌を捨て、袂に手を入れざま、手裏剣を放っていた。 十の指に、八つの刃。  綺羅星のように放たれた、そのことごとくを打ち落とし、風のうしろを歩むものは、右の手を振りかぶる。  弧を描くその爪を、抜き打った脇差しで、侍が迎え撃つ。   双方共に退くことを知らぬ必殺の一撃。 相討つは必定。   すべてはあとで聞いた話だ。 僕の目に留まったのは、消えた少女。   一瞬の光芒。 そして……。 「双方、そこまで!」  腹の底をふるわす大音声。 がしかし、その声には聞き覚えがあった。 「先生? メルクリアーリ先生、ですか?」 「やぁ、九門君。深夜の外出は歓迎できませんね。なんといっても……」  侍と人狼の間にあって、陽気な神父は両の手で、二人の手首を掴んでいた。 「物騒なご時世ですからね」   見慣れた笑顔を、その目が裏切っていた。 紅い、紅い瞳が、夜闇の中で輝く。  炯々たる眼光を形容する言葉は、一つしかない。  ──それは、血のように輝いていた。 「民長だね?」  「いかにも。 配下の者が、粗相をいたしました」  すっと神父の腕がひかれる。 少女は手首をなでた。  「名乗らず、〈御境〉《みさかい》をまたいだのはボクのほうだ。ゴメンね」  「ありがたいお言葉です」  神父は侍に振り返った。  「ユキノリ。 私は、お客様をお連れするように、と、言ったはずですが」  「このような下賤な犬ころ、聖上のお目汚し」   神父の親指は、侍の手首に半ばまで食い込んだ。 滴る血は星明かりに青くきらめき、脇差しが、ぽろりとその手を離れた。  「さがっていなさい」  侍は一礼する。 わずかにのぞいた瞳には、強い憎しみの色があった。   そのまま姿が薄らいで消える。 「では改めて。何のご用ですか?」  「元締めさんに聞きに来たんだ。 この街の様子についてね」  「そちらの人間は?」  「これはボクの餌。 手を出しちゃダメだよ」  「承りました。 さ、九門君も、こちらへどうぞ」   先生に手招きされて、僕は二人に近づいた。 「こんなところで先生に会うとは思いませんでしたよ」  「私もですよ。 九門君、しばらく見ないうちに、波瀾万丈な人生を送っていますね」  「二人とも知り合いなの?」  「僕の学校の先生だ」  「へぇ。ここがガッコーなの」 「いいところですよ」   神父の微笑みは、どこか首肯できないものがあった。 「さぁ、こちらへ」   神父の案内したのは、校庭の片隅にある小さな礼拝堂だった。 扉が開く。  外の夜露は礼拝堂の中には及んでいなかった。 冷たく、乾燥した空気の中に僕たちは入ってゆく。 「ポシェット、返すよ」 「いいよ、まだ持ってて」  礼拝堂の中を進み、説教壇を越えた前方右奥に、小さな扉がある。 そこが、神父の個室だった。 「狭いところですが、楽にしてください」  神父は机に腰掛けた。僕らの椅子は、小さな丸椅子だった。 「ここって何? お寺?」   風のうしろを歩むものは、物珍しそうにあたりを見ていた。  「ええ。神を祭るところですよ」  「へぇ。どんな神様?」 「ここって何? お寺?」   風のうしろを歩むものは、物珍しそうにあたりを見ていた。  「ええ。神を祭るところですよ」 「へぇ。どんな神様?」  「神の御子として、地上に使わされ、道を説いた方です」  「へぇ。はじまりの狼みたいな神様だね」 →5−19へ 「ここって何? お寺?」   風のうしろを歩むものは、物珍しそうにあたりを見ていた。  「ええ。神を祭るところですよ」 「へぇ。どんな神様?」  「常に真実と愛を説いたが故に、人々によって磔にされた方ですよ」  「へぇ。正直狼みたいなものだね」 →5−19へ ●5−19 「行為面での類似はともかく、ニュアンスにおいては多少の差がある気がするぞ」  「これは、カツキたちの神様なの?」 「いや、違う」  「えっと、じゃぁ、なんで、ここにお祭りしてるの? 土地神様?」 「本拠地は多分イスラエル……海を渡ったずいぶん向こうだ」  「じゃぁ、渡って来たの? マレビトさまを、お鎮めしてるの?」 「そういうわけでもない」 「えっと、つまり、カツキは、この神様の何なの?」   僕は、少しだけ考えた。  「……なんでもないな」   風のうしろを歩むものは、数学の難問にぶちあたったような顔をした。 「それって、よく……わからない」   神父は十字を切った。  「人間のすることに驚いているときりがありませんよ?」   少女は、何か失望したような顔で僕を見た。  「ボクにはカツキが、よくわからないや」   少女に対し、僕は答える術を持たなかった。 「失礼します」  ノックの音とともに声がした。渋い声だ。 「あぁ、田中、お入りなさい」 「お茶をお持ちしました」   現れたのは、妙にうらぶれたサラリーマンだった。 細腕には茶盆を持っている。  せせこましい手つきで、机に湯飲みを並べていく。 「それでは」  一礼したサラリーマンの、頭のバーコード髪が、見事に垂れ下がる。 「今のは……どなたですか?」 「あぁ、田中ですよ。何分にも、手が足りませんでね」 「あ、このお茶おいしい」 「確かに」  湯飲みの緑茶は、ぬるくも熱くもなく、ひとくち含むだけでさわやかな香気が鼻に抜けた。 「田中に言っておきます」  神父は、そう言って、一口茶を啜った。 実に様になっている。 「さて、聞きたいことがあったのでしょう」   そう言って神父は、僕らを見回す。 「九門君、何か言いたそうな顔をしていますね」  「先生には色々質問があるので」  「よろしい。まずはそちらから答えましょう。では、なんなりと」  「先生は、何者ですか?」   風のうしろを歩むものが、僕の手を、ぎゅっと握った。 膝の上でポシェットが、かすかに動いた気がした。  神父は、常に変わらぬ笑顔を僕に向けた。  「さて、九門君。 自分が何者か、というのは、なかなかの難題です」  「ボクは知っている。 ボクは、風のうしろを歩むものだ。 ボクの祖は、悲しみの父。 ボクの祖は、愛しさの母。 夜闇の民は、忘れちゃったの?」 「人狼の民は、覚えているのですね。 我々は……ずいぶん人に近づきましたからね」   神父は、嘆息した。 「要点を、簡潔に、まとめていただければ」  「私は……我々は、君たちが吸血鬼と呼ぶものです」   神父の目が赤光を放った。 牙が、長い牙が唇から伸びる。   膝の上で、今度こそ、はっきりとポシェットがざわめいた。 「驚いていないですね」   拍子抜けしたように神父は言った。 牙はそのままだが、目には、あの優しさが戻る。 あるいは、そちらが見せかけなのか。  「論理的推測です」   学校に着いた時。 校門に先生を見た時。 まさか、通りすがりということもなかろうし、あの侍と少女の間に割って入った以上、人外の力を持っている。 「いくつか疑問があります」  「かいつまんで説明しましょう。 ええ、私たちは陽光の下を歩きます。 私たちにとって禁忌なのは、陽光それ自体ではなく、日のあるうちに目立ってしまうことなのです」  「いえ。先生は、生きるために、人を殺すのですか? だとしたら、どれくらいですか?」 「否定しても始まりませんね。 私は人を殺します。 どれくらいかは……ご想像にお任せします」  「そうですか」  殺人の告白をされても、不思議に僕の心は動かなかった。  峰雪だったら、なんというだろう。恵だったら。 恐怖に怯え、逃げまどうのだろうか。 それとも怒るのだろうか。  恐怖。 否、単なる危機感さえ感じないのは、なぜだろう。 「カツキ、平気?」 「……僕は」  平気と答えようとして、吐き気がこみ上げた。 「よしよし」   風のうしろを歩むものが、僕の背をさする。  「おかしい……妙だ」   再びこみ上げた吐き気に、僕は口をつぐんだ。   何かがおかしい。   心は平静だ。 ただ、胸だけが苦しく、目の前が暗くなった。 「あんまり、しゃべらないほうがいいよ」   僕は首を振る。 「私を……蔑みますか?」  僕は、首を振る。 狼に草を食えと迫るのに意味はない。 種の違う生き物に、人の道徳律をあてはめることに意味はない。 それが、論理だ。 「人を殺すのは何のためですか?」   すらすらと、優等生のように僕は質問する。  「血を吸うためですよ、もちろん」  「単純な栄養の問題なら、殺さずに血を得る方法はいくらでもあると思いますが」  「単純な栄養の問題ではないからです」 「我々は、ヘモグロビンや生理食塩から糧を得るわけではないのです。 人の血によって生きているのです」   神父は、小さな十字架を取りだした。  「──主は杯を取って言われた。 飲みなさい。それは私の血だ」  「〈形而上学〉《けいじじょうがく》ですか?」  「現実ですよ。 魚人が人を襲うのも、同じ道理です」 「さて、九門君に伝えられるのは、このくらいです。 では……そちらのお嬢さんの話をお聞きしましょうか」 「ボクが知りたいのは、この街で何が起きてるかだよ」  「殺人事件ですか?」  「うん。狩りを、こんなに人目に触れさせるなんて、何があったの?」  「街にはね、街の悩みがあるのですよ。 山奥に隠れ住むあなたがたには、わかりますまい」 「わだつみの民が、日のある内に狩りをするなんて」  「食いつめた者が、掟破りをしでかしたのですよ。 私も頭が痛いんです」   世間話のように語り合う二人に、腹の底の何かがうずいた。 「先生」  気がつくと、声が出ていた。 「なんですか、九門君」  「僕は……」   僕は何だ? 舌がからからに乾いて、喉が詰まった。   震えている。 腕が、震えている。   握りしめた拳が、みっともないほどにがたがたと揺れていた。   止まらない。  その手に、そっと手が重ねられた。 暖かな指にほぐされるように、拳の力が抜ける。ようやく、指先の感覚が戻る。それは、べったりと濡れていた。  腹の中でうずくもの。 それは怒りとも恐怖ともつかず。 やっとのことで、僕は口を開いた。 ・「僕は、先生を許せません」→5−19−1・「共存は、望めないのですか?」→5−19−2 ●5−19−1 「僕は、先生を許せません」   そう言った瞬間、神父は嗤った。 優等生を誉めるような、よくできました、とでも言いたげな笑顔。 一瞬、非論理的な怒りが胸を焦がした。  「九門君は、人食いの我々が許せませんか?」  「はい。たとえ先生が吸血鬼で、血を吸わなくては死ぬとしても。僕は、人殺しを許せない。 人殺しをするものを許せない」 「もとより許しを得るつもりもありませんがね」   神父は握った十字架に祈った。  「赦しを与えられるのは、主、のみです」  「あ、ここは笑うところですよ」  僕の拳が揺れていた。 違う。揺れているのは、そこに置かれた手。  風のうしろを歩むものの、小さな掌が揺れていた。 僕は、ようやく、そのことに気づいた。 「そう、人殺しのけだものとは、共存できませんよね。 それが人の答えです」   視線は、あきらかに少女のほうを向いていた。  「カツキは人だよ」   風のうしろを歩むものが凛とした声で言い切った。 「人が、人として立つのは、当たり前だよ」  「その当たり前が問題なのですよ。 あなたに語る必要もないでしょう」   軽い口調に、しかし、少女は押し黙った。 「九門君。あなたは多分、こう考えている。 あわれな人間を、我ら人外の民が、好き放題に食い散らかしている、と」  「人は、君が思うより強いものですよ。 この事件も、いずれ終息するでしょう。 私も全力を尽くしますが、たとえ、私がいなくても」 「共存は、望めないのですか?」   僕の口をついて出た言葉はそれだった。  「我々は共存していますよ。 十分にね」   神父は笑う。 ああ、そうなのだろう。 狼が羊と共存するように。 羊が草と共存するように。 人と、人を喰うものは共存しているのだろう。 「でも、僕らは、獣じゃない」  「であれば、どうだというのです?」  「無意味な死を、食い止めることはできないのですか? 話し合うことさえできれば……」  「話し合って、どうします? 我々に食事をやめろと? それとも自殺志願者と死刑囚でも恵んでくれるのですか?」  「それは……わかりません。でも……」 「いいですか、九門君。 あなたは、今、人の死を交渉しようとしている。 人が、喰われて死ぬことを前提に、その数を調整しようとしている。  それはつまり、我々の生と、人の死を交換することを認めることです。 殺人それ自体を、認め、許すことから始まる立場です」 「あなたは、人として、そこに立てますか? そこは、とても厳しい場所ですよ」   言葉もなかった。 「カツキはただ、優しいだけだよ。 死ぬ人を減らしたいだけ」  「ああ、そんな顔をしないでください、二人とも」  「九門君。あなたが思っているより、人間は、よほど強い生き物ですよ。 この事件も、いずれ終息するでしょう。私も全力を尽くしますが、たとえ、私がいなくても」  そう言って神父は立ち上がった。 「そして、人は殖えつづける。私は、私なりに取り組みますがね。 だからといって、人間に肩入れするとは思わないでください」   僕も、立ち上がった。  「では、九門君。また明日、学校で。 もうずいぶん遅いですが、遅刻してはダメですよ」  「失礼します、メルクリアーリ先生」   音もなく、ドアが開いた。  ドアを押さえているのは、田中さんだった。  陰気な仏頂面を、深々と下げる。 僕も、軽く会釈した。  ゆっくりと、個室のドアが閉まる。  と、ふいに、部屋は闇に包まれた。 「なぜ喰わない?」  背後から響く声に、メルクリアーリ・ジョヴァンニは、椅子に座ったまま答えた。  「これはこれはイグニス殿、我が〈陋屋〉《ろうおく》に、ようこそ」  「貴様らであれば、狼の一匹など造作もあるまい」  「あれの血は古いですよ。 簡単には倒れないでしょう。 犠牲は出したくありません」 「犠牲? むやみに数が多いのが、夜闇の民だろう?」  「数が多いのは、家族を大事にするからですよ。 血族を捨て駒にはできません」   闇の中で、気配が動いた。 笑ったか。あるいは、あきれたか。  「それに、あの少年。 彼には護りがついています。 三大の二つを敵に回すほど愚かではないですよ」 「勘違いするな。 私は、やつを守るつもりはない」  「私にとっては同じことでしょう」  「わかっていればいい。 貴様らの穢れた牙が、わずかにでも克綺に触れることがあれば……ご自慢の家族のことごとくを根絶やしにする」  「承りました。 では、この一件、お預けしますよ」  椅子を回して振り向く。闇を見通す吸血鬼の目に、人影は映らなかった。 メルクリアーリは、小さく息をついた。 「やれやれ婆さんは、やることがまわりくどい」 「聞こえたぞ」  いたずらっぽい声に、顔をしかめながら、メルクリアーリはあたりを探った。 どこぞに盗聴器とスピーカーが仕掛けてあるのだろう。 「本当に……まわりくどい」  メルクリアーリは、そう呟いて苦笑した。  礼拝堂の外に出て、校門を外に出た瞬間、風のうしろを歩むものが、大きく息をついた。 「あぁ、つかれた。 カツキ、度胸あるね」  「度胸?」  「ボクなんか、いつ襲われるかと思って、どきどきだったよ」  「度胸の問題じゃない。 単なる僕の錯覚だ」   メルクリアーリ先生に襲われるという事態は十分に有り得たが、実感として感じられなかっただけだ。 「それにしても、ひどいこというよね、あの元締め」  「何がだ? 論理的な整合性はおおむね取れていたと思うが」  「そんなことじゃないよ。 まるで、人と魔物が仲良くできない、みたいなこと言ってさ」  「捕食者と被捕食者に、友情は成立するか、という問題だな」 「狩人と獲物なら、心が通うよ」  「そういう神話、文化体系があると聞いたことがある。 だが、それは罪悪感をそらすための自己欺瞞じゃないのか?」 「あのね、ボクはカツキが好きだよ」   少女は立ち止まって、僕を正面からのぞきこむ。  「それはつまり、僕が獲物だということか?」  「うん。でも、一緒にいると、すごく嬉しくなるよ。カツキは?」   この子に嘘をついてはいけない、と、思った。 僕は空っぽの胸を探し、正しい言葉を探り当てる。 「僕も、風のうしろを歩むものと一緒にいると、楽しいな」  「そう?」  「あぁ。君といたおかげで、楽しい経験、愉快な経験、不愉快な経験、それに、危機的な状況や肉体的苦痛などを味わった。総合的に見ると……」  「みると?」 「快感より苦痛、安全性より危険性のほうがまさる」   少女は、肩を落としてしょげた。  「ただし、君といることによって、まったく未知の体験を、いくつも味わうことができた。それは、単純な危険性をおぎなってあまりある、と、判断した」 「……それって、ボクといると、ひどい目に遭うから楽しいってこと?」  「そうだ」  「一緒にいると、ふわふわーって心が安らぐとか、どきどきするとかは……ない?」  「心が安らぐのと、どきどきするのとは、相反しないか?」  「まじめに答えてよ!」 「僕は常に真面目だ。 危険に巻き込まれた時は、どきどきと興奮する。 危地を切り抜けると、ふわふわと心が安らぐな」  「……ごめん。それでいいよ」  「そうか、それはよかった」   僕は、うなずいた。 「だからね、もしカツキがボクを好きなら……ボクのことを食べてくれる?」  「は?」   さすがに一瞬、絶句する。  「その食べるというのは、性交を意味する比喩表現なのか?」  「セイコー? ヒユ?」   じっとりと額に汗が浮くのがわかる。 「交尾、つがい、交わり……」   そういうと、少女は顔を真っ赤にした。ぱたぱたと手を振る。  「ちがうよ、カツキ。 そうじゃなくて」   少女は、頬を染めて、目を逸らした。  「その、もし、ボクがカツキより先に死んだら……」  「死んだら?」 「ボクは、カツキに食べてもらいたいなって」  「よく意味がわからないんだが」  「どこが?」   少女は首を傾げた。  「字義通りに解釈すると、僕は君の死体を咀嚼することになる」  「うん」   にっこり笑ってうなずく。 「僕に死体を食べろ、と?」  「そうだよ……ひょっとして迷惑だった?」  「いや、迷惑以前に……予想を超えた状況に混乱している」  「ゆっくり考えていいよ」  「いや、そうじゃなくてだな」 「僕たち人間は、基本的に、同じ人間を食べる習慣を持たないんだ」  「え、そうなの? じゃぁ、人間は死んだら誰に食べてもらうの?」  「誰でもない」  「え? じゃぁさじゃぁさ。 たとえば好きな人が死んじゃったとして……お肉はどうするの?」  「骨になるまで焼く」 「そんなに焼いたら食べられないよ!」  「食べないんだよ」  「……じゃぁ、その骨はどうするの?」  「埋める。なるべく地面に深く」   少女は、理解できないというように首を振った。 しばらく悩んだが、感想は一言に落ち着いた。 「ヘンなの」  「両者の関係は対称的だ。 つまり、お互いさま、というやつだ」 「うーん、そうなんだ。 ボクたちはね。誰かが死んだ時は、家族とか、好きな人とか、みんなで集まって、食べるんだよ」  「なるほど」  「好きな人が、自分の中で生きますように。ずっと一緒にいられますようにってね」  「概念的に理解はできるが、視覚的な想像が追いつかないな」 「だから、一人っきりで死んで、誰にも食べられないのは、とっても寂しいんだ。 それでも、山には虫も鳥もいるけど……ここじゃ無理そうだし」   少女は、黒いアスファルトを指さす。 確かに、人間サイズの死体が、自然分解するのは難しいだろう。 いや、そもそも、身元不明の死体として収容、焼却されるか。 「だからね。もし……ほんとに、もし、ボクが、ここでカツキより先に死んだら、ボクは、カツキに食べてもらいたいんだ」  「カツキだけじゃなくて、リョウやメグミや管理人さんにも食べてほしいけど……」  「……やめておいたほうがいい」  「じゃぁ、やっぱりカツキにお願い」 「仮に食べるとしても、いっぺんに全部は無理だと思う」  「そうだね。 じゃぁ、カツキは、どこが食べたい?」  「いや、食べるのは仮の話であって、本当に食べると決めたわけではないのだが……」 「カツキは、ボクのこと、嫌い?」  少女の手が、僕の手を包み込む。 柔らかな包帯の奥に、脈打つ暖かさがある。 「嫌いというほど積極的な悪意はもっておらず、むしろ好意の占める部分が大きいと自覚しているわけだが、ただし、それとこれとは……」 「ねぇ、カツキ。 どこがおいしそう?」 「好きな相手を食べるのか?」  「うん。 えっと、ニンゲンは食べないの?」  「基本的には、その通りだ。 人間の慣習には様々な種類があるが、少なくとも僕の属する文化圏では食べない」  「ふぅん。 じゃぁ、誰に食べてもらうの?」  「食べてもらわない」 「じゃぁさじゃぁさ。 たとえば好きな人が死んじゃったとして……お肉はどうするの? 食べないの?」  「食べない。骨になるまで焼く」  「骨? 骨にしてどうするの?」  「埋める」  「ニンゲンって……野蛮だね」 「その物言いは対称的だな」  「タイショーテキ? なにそれ?」  「僕たちの間では、人間を喰らう人間が、野蛮とされている」  「うーんとつまり、お互い様ってこと?」  「その通り」  「なら、そういえばいいのに。 変なカツキ」 「対称的という概念は、数学的、物理的な美しさの根本を為すんだ」  「よく……わかんないんだけど」  「相手から見た自分と、自分から見た相手が、ある点で一致していた、ということだな、この場合」  「それって、お互い様って言うんじゃないの?」 「お互い様という言葉は、二つの立場を包含する系を、最初から前提としている。 たとえば、それは、共通の道徳律であったり、いわゆる世間であったりだ。 だが、対称性は違う。 そこには、二つの系を含むような新たな系は、仮定されていない。 そうした系は、対称性を見出し、それを普遍化することによって初めて生まれるのだ。 つまり、そこに共通基盤を築くのは互いの努力であって、それ以外ではない」 「ねぇ、カツキ。 カツキが今、言ったこと、はじめっから最後まで、何一つわかんないよ」  「そうだな……」   僕は、頭の中で言葉を整理した。 「お互い様、という言葉は、だから、仕方がない、というニュアンスがある。 たとえば、僕は、君の習慣を野蛮だと思い、君は僕たち人間の習慣を野蛮だと思う。 この時、お互い様、という言葉でくくってしまうと、互いに主張を認め合い、立場を尊重したことになる。 だが、どんな立場であっても譲れないこともあるだろう」   うーん、と、少女は、しばらく考えてから、口を開いた。 「口のうまい狼と、足の速い羊の話だね」  「どんな話だ?」  「うんとね、狼が、足の速い羊にいうんだ……」 「ねぇねぇ羊クン。 君はボクが悪いヤツだというけれど、君だって草を食べてるじゃないか。 お互い様だろ?」   言われて羊は思いました。   確かに、その通りだ。 狼がボクを食べるのは、ボクが草を食べるのと同じだ。 お互い様だ。  そこで、狼は言いました。   「ところで、草は動かないで君に食べられてるんだから、君だって、動いたらずるいよ」   言われて羊は思いました。   確かに、その通りだ。 草は動かないのに、ボクが動いたら、ずるいや。 それがお互い様ってものだ。  狼は、動かない羊に噛みつきました。 最初はまず、前足です。   「狼クン、痛いよ!」   たまらず羊が悲鳴を上げます。   でも、狼は言いました。  「草だってきっと痛いと思うよ。 君が痛いのもお互い様だ」  確かにそうだ。 草だってきっと痛いはずだ。 ボクが痛いのもお互い様だ。   こうして、羊は、一歩も動かず、立ったまま、狼に喰われました。 「ね、カツキの言うのは、そういうこと?」  「……あぁ、そうだな」   僕は、哀れな仮想上の羊に瞑目してから、言葉を継いだ。 「タイショーテキだとどうなるの?」  「羊は狼に、こう言って逃げればいい。 なるほど、草は動かないが、僕は動く。 対称性は、そこで破綻する。 それじゃ、さよなら狼さん!」  「なるほどね」   少女は、大きくうなずいた。 「というわけで、だ。 我々の関係には対称性はあるが、お互い様、と、いえるかどうかは定かではない。 文化の差異は、往々にして、お互い様の一言で片づけるには重いものだ」  「うん、まぁ、そうだね」  「まずは、互いの意識の差を知ることが重要だと考える」  「わかったよ」 「そこで、質問なんだが、君たちは、なぜ、死体を食べるのだ?」  「だって、食べたら、ずっと一緒にいられるじゃない」   少女は、当たり前と言った顔で、答えた。 「霊魂の連続性を信じているのか?」  「あのね、カツキ。 食べるということは、魂を受け継ぐことなんだよ」  「魂を?」  「うん。だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」  「僕たちは、そう考えない」  「いや、だって、強くなるんだもん」 「その点に関しては、検証したことがないから、一歩譲るな。 がまぁ、事実はともかく、そう考えてはいない」  「へぇ。じゃぁ、死んだ人の魂は、どうなるの?」  「僕の行ってる学校の宗教では……そして、多くの人のイメージでは、死後、魂は、別の世界にいく、と、されている」  「ふぅん。なんだか、さみしいね」 「必ずしもそうではない。 死後の世界には、先に死んだ者が、たくさんいる理屈だ」   少女は、しばらく考えて、  「それって、お母さんと、お母さんのお母さんと、お母さんのお母さんのお母さんも、そのまたお母さんも、みんないるってこと?」  「その通り」  「そんな世界やだよ。狭そうだよ。 人間なんて、数が多いから大変じゃない?」 「必ずしもそうじゃない」 僕は口を挟む。  「人類の人口は、現在、幾何級数的に増加している。 第一世代の人口をa1、現在の世代をan、世代ごとにr倍になるとして、死者の数は、たかだか……」  「ゴメン、カツキ。 結論だけ言ってくれる?」  「計算上、このまま人類が殖えつづける限りにおいて、死後の世界の総人口数は、現在の総人口より少なくなるのさ」  人類の人口が、一世代ごとに、1,2,4,8,16人と鼠算式に増えていくとしよう。 この場合、1+2+4+8=15が、死者の数で、16が現世の人間となる。   現世の人間の数は、死者の数より多い。  次の世代で考えると、死者の数は、15+16=31。 現世の人間の数は、16*2=32。   そのまま世代を増やしても、常に、現世の人間の数は死者を上回る。 条件を変えれば、死者の数が、現世の人口を上回ることもあるが、ともあれ、死者の合計と、現世の人間の数の比は、一定の値に収束する。 「今まで、死んだ、人間全部より、今、生きてる人のほうが多いっていうこと?」  「あぁ。理論上はな。 現実には、完全な等比級数ではないので違うだろうが、それにしても、死者の数は、数十倍程度に過ぎない。 人がこのまま増えていけば、直に本当に、逆転することもありうる」   ……まぁ、地球の広さと資源には限界があるし、人口抑制の努力もしているから、そうはならないだろうが。 「ニンゲンって、つくづく無茶苦茶だね」   少女は、げんなりとした顔で言った。  「いくらなんでも多すぎだよ! 増えすぎだよ! 慎みってものがないの?」 「……減らす努力はしている。 そして、確かに慎みは欠けているな。反省しよう」   僕は、全人類代表として、あやまった。   一個人が、全人類を代表できるというのは思い上がった考えかもしれないが、この場合、相互理解の一助として認めてもらおう。 「……えっと、何の話だっけ?」  「死生観の違いについて、だ」  「あ、そうだそうだ」   僕は、文化的間隙を埋めるべき、質問を続けた。 「君たちのところでは、誰かが死んだら、どうするんだ?」  「ううんとね。みんなで踊るよ」  「踊るのか」  「それから、お話するよ」  「お話か」   少し想像して僕は言った。 「楽しそうだな」  「楽しいよ。 家族も友達も、みんな集まって、夜通し、遊ぶんだ」  「家族に、友達か」   死んだあとに世界がある、とは、僕は思わない。 だから、僕の死体が、どうなろうと実質的な意味はないが……そのように葬られると確信することは、日々の生活を、少しだけ楽しくするかもしれない。 「だからね、カツキ」  「なんだ?」  「ボクが死んだら……カツキに食べてほしいんだけど。ダメ?」  「言っただろう。 僕のところでは、そういう文化はない」  「そこをなんとか……ってわけいかない?」 「検討しよう。 僕が約束できるのは、そこまでだ」  「カツキ、えらい!」  「なに、検討するだけだ」  「だけなの!?」  「正直、考え直す可能性は低いと考えてくれ」 「ううーん……じゃぁさ、じゃぁさ」  「なんだ?」  「もう一つ約束して。 ボクがもし、ここで死んだら……体は焼かないでほしいんだ」   僕は、しばらく考えた。 少女の肉を食うことに比べれば、たやすい約束だ。 「烏にでもやって、余った分は、河に流してほしい」  「あぁ」  「約束してくれる?」  「約束する」  死体遺棄が犯罪だ、という知識は僕にもあった。 しかし──法の遵守が全てではあるまい。 どこか山奥にでも運べばいいだろう。 車があればいいんだが。 方策を考える必要がある。   考え込む僕を見て、少女は、はじめて微笑んだ。 「よかった」  「先に死んだら、の、話だろう?」  「うん。これで、安心だよ」  嬉しそうにうなずく少女の手を取って、僕は家路についた。 「腿だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、弁解しようとした。 「腿。肉の部位でいえばハム。筋はあるが、その分、味が深い」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間、目は、いやおうなしに少女の太腿に吸い寄せられる。 細身だが、力強い太腿。 「ももね。わかった」  少女の手が、僕を内股に導く。  「腿はね、汁気があって、おいしいよ」  指の先が、僕の意志とは無関係に、少女の肌を撫でる。 いつのまにか、僕はひざまずいていた。 ふっくらとした肌触りに、僕は目を閉じた。  熱をもち、かすかに汗ばんだ太腿は、つややかに指の下ですべった。 押せば、柔らかさの奥に、弾力があった。  僕は、その腿に頬を寄せる。 〈和毛〉《にこげ》は、頬をくすぐり、甘やかな匂いが僕を包んだ。 「おいしそう?」 「あぁ」   言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「カツキは足、速い?」 「100メートル走は13秒。速くはないな」 「そう。じゃぁ、ボクを食べると、きっと速くなるよ」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「うん、これで、安心だよ。ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。  「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの太腿は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「二の腕だな」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「牛や豚なら、四肢はよく筋肉が発達した部位だが、人においては、腕は、足ほどには使われない。二の腕の柔らかさは、その弾力と相まって、無類の味となる」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? 日頃、そんなことを考えていた自分に、僕は感心した。  なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。 脳が空転を続ける間も、白く、細い、その腕は、僕の目を捉えて離さない。 「二の腕? さわってみる?」  少女の差しだした右手に、僕は両手を差しだした。 改めて触れれば、片手の掌で、ほぼ包めるほどに細い。 しかし、華奢にみえるその腕から、必殺の一撃が放たれるところを、僕は何度も見ている。 「二の腕は、柔らかいよね」  肘から肩の線が、僕を魅了する。指の先が、ついと肌をなぞった。 軽く触れただけで肌はへこみ、離せば、ふるふると震えた。 「もう、くすぐったいよ」 「おいしそう?」  その言葉は、僕の背筋をぞくぞくと震わせた。 口が、ゆっくりと開いてゆく。 白く、柔らかな、その二の腕に、僕は、紅く歯形を刻みたいと思った。  二の腕に、口づける。 上気した肌は、唇に熱く、かすかな汗の味が舌先を刺した。  歯を立てようとして、僕は、ふと、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「カツキの腕は、太いよね」  少女の掌が、僕の二の腕に添えられる。 白魚の指先に撫でられ、僕は唇を離して答える。 「君よりは」 「でも、力は、あんまり強くなさそうだね」 「君に比べれば」 「ボクの腕を食べれば、きっと、もっと強くなるよ」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「うん、これで、安心だよ。ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの腕は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 ●5−22−3 「腰だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「肉の部位でいえばランプ。 肉質は柔らかく肉汁も豊富。ステーキとしても一流の素材だ」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間に、目は、いやおうなしに少女の腰に吸い寄せられる。 かすかにくびれた腰と、そこから続く膨らみ。 少女は、その視線を避けるように、一歩、僕に近づく。 「すまない」   僕は、そう言って目を逸らす。 そんな僕に、少女は、もう一歩進んで抱きついた。  干し草の香りが広がった。 胸に広がる暖かさが、一瞬、僕を硬直させる。 「腰だね」  少女の左手が、僕の右手を取った。 その手が、シャツの内側に導かれる。 指先は、背骨を辿って、さらに奥へと進む。 「少し、恥ずかしいや」  そこは、じっとりと汗ばんでいた。   五本の指先が、ふっくらとした丸みを感じる。 その丸みはマシュマロのように、僕の指を埋めた。  指が、勝手に動いた。 マシュマロのような柔らかさの奥には、プラムのような弾力があった。 五本の指が動くたび、少女の口から吐息がもれる。  なだらかな丸みを辿るうちに、親指と人差し指が、双丘の溝をさぐりあてる。 「ひゃん!」   少女は犬のように鳴いた。 「くすぐったいよ、カツキ」 「すまない」   僕は、するりと手を抜く。 指先には、まだ、熱さと柔らかさが残っていた。 僕たちは、抱き合ったまま、しばらくかたまっていた。  先に沈黙を破ったのは少女だった。 「ねぇ、カツキ。ボクは、おいしそう?」 「あぁ」   言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」 「食べるということは、魂を受け継ぐことだから」 「魂を?」 「そうだよ。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」 「腰を食べるとどうなるんだ?」 「女だったら、いい子をたくさん産めるよ」 「男なら?」   少女の身体が固まった。 顔は見えなかったが、真剣に考えていることだけは分かる。 「栄養たっぷりだよ」 「……そうか」 「たっぷり食べて、元気になってね」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「先に死んだら、の、話だろ?」 「うん。備えあれば憂いなし。これで、安心だよ。 ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの腰は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「胸だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、 「肉の部位でいえばバラ、そしてカルビ。 骨ぎしの身は、肉本来のうまみがたっぷりつまっていて、なおかつ脂肪もある」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間、両の目は、少女の控えめな胸から離れなかった。 マフラーの下に息づく小さな二つの膨らみ。  少女は、僕の視線を避けるように、一歩前へ踏み出した。 「すまない」  僕は、そう言って目を逸らす。 そんな僕に、少女は、もう一歩進んで抱きついた。  干し草の香りが広がった。両腕の間に広がる暖かさが、一瞬、僕を硬直させる。 胸板に、やわらかいものが触れる。服の奥に、僕は、確かに、やわらかい何かを感じた。 「胸、わかる?」 「わからないか」  くすりと笑い声。 腕の中で、少女は、くるりと半回転して、僕に背を預ける。 左手でするりとマフラーを解きながら、少女の右手が、僕の右手を取った。  僕の手が、少女の手に導かれる。 細い喉に触れた瞬間、指先に電撃が走った。  次の瞬間、手は胸元をくぐっていた。 少女は下着を身につけていなかった。そこは、しっとりと汗に濡れていた。 「すこし、恥ずかしいや」  その声は、どこか遠くから響いたように思えた。 親指は、鎖骨のくぼみを探り当て、人差し指と中指が肌の熱さを確かめる。  白くすべらかな肌。 鍛えた身体に似合わず、その肌はあくまで柔らかで、僕は指先に〈肋〉《あばら》を確かめる。  少女の手に導かれ、脇から胸骨へ、指は、肋のくぼみをレールのようになぞった。 「ふぁ……」  腕の中で、少女が身震いした。 胸骨を下になぞり、僕は手首を返した。  掌に、すっぽりと収まる小さな膨らみ。 その中央の、やわらかな突起。 二本の指の間に、それはあった。  ゆっくりと指を閉じ、その頂点をなぞる。 「ひゃん!」  とたんに、少女は、犬のように鳴いた。 「くすぐったいよ、カツキ」  ようやく僕は気づく。 少女の手は、既に、僕から離れていた。 「すまない」  上目遣いで見上げる少女に、僕は、思わずあやまっていた。 急いで抜こうとする腕を、少女が両手で抱きしめる。 「どう? おいしそう?」 「あぁ」  言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」 「食べるということは、魂を受け継ぐことだから」 「魂を?」 「そうだよ。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなるんだよ」 「胸を食べると、どうなるんだ?」 「豊かな胸を食べると、いいお母さんになれるよ。子供をいっぱい育てられる」 「僕は男だが……」 「そっか……そうだね」 「現時点では、あまり豊かでもないし」 「ひどいよ! カツキが選んだんじゃないか!」  涙目で抗議する少女に、僕は、非論理的な罪悪感を覚えた。 「僕は別に力が欲しいわけじゃないからな」 「魂は?」 「ずっと一緒にいられるなら……悪くないな」 「よかった。これで、いつ死んでも安心だよ」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの胸は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「指がいい」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「その細い指を味わいたい。 指先から根本まで、しゃぶりたい。 薄い肉を噛みちぎり、骨を囓りたい。 指の腹を舐めて、爪の裏の柔肉に歯を立てたい」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。 脳は空転を続け、口から勝手に言葉が洩れた。  少女の右足が、一歩引かれ、腰の落ちた構えを取る。 かざした右手から、風が吹いた。白い包帯が渦を巻いてなびく。   僕は、目の前に置かれた掌を、息を詰めて見つめた。 この手が、爪が、必殺の一撃を振るうところを何度も見ていた。  包帯が破れ、爪が顔を出す。 間近で見るそれは、太く、鈍く、むしろ鈍器を思わせた。 本来、狼の爪は、地を噛むためのものであって獲物を貫くためのものではない。   そうであっても──風の力を借りずとも、先の尖った爪は、僕の顔くらいは容易に引き裂くであろう。  吹きつける風に、僕は一歩さがった。 渦を巻いていた包帯が次々に解け、細く、しなやかな指が露わとなった。   少女の手の甲は、銀色に輝いていた。かすかな和毛が、風になびく。 そう見えたのは一瞬で。  まばたきするうちに、長い爪は消えていた。白い肌がのぞく。 「どうかな?」  はにかむような少女の声に、僕は、無意味にうなずいていた。 細く、しなやかな指は、見るからに華奢で、握っただけで折れそうだった。  両手をそうっと重ねて、僕は、ひざまずいた。 姫の手を取る騎士のように、その甲に口づける。  白い甲と、伸ばした指には、くっきりと赤黒い傷が走っていた。 指と直角に走る四筋の傷は、癒えてはいたものの、無惨と思わせた。  ふと、手が引かれる。反射的に掴むと、手は止まった。 「ごめん。恥ずかしくて」 「傷が?」 「勲の傷は、恥ずかしくない。けど、それは違う」  かつて侍は、背の傷を恥じたという。逃げる時についた傷と、みなされたからだ。 しかし、少女の手の傷は、逃げてついたようには思えなかった。 「うしろ傷の類には見えないけれど?」 「誇りのある戦いでついた傷なら、どんな傷だって恥ずかしくない。けどね……その傷のついた戦いは、してはいけないものだったんだ」  しょうがなかったんだけどね、と、少女は息を吐く。 うつむいて微笑む顔は、その時だけは、ひどく頼りなげにみえた。 「ゴメンね、カツキ。こんな指で。あんまりおいしくなさそうでしょ?」  答えの代わりに、僕は、少女の指先を含んでいた。 「あ……」  かすかに少女がもだえた。引かれる腕を、僕はすがりつくように押さえた。 中指が口の中で踊る。それを唇が吸い込み、舌が巻きつく。 唇が、肉の柔らかさを味わい、舌先が、その形を愛でる。 甘噛みして、華奢な骨の在処をさぐっても、細い指は拒まなかった。  少女の左手が、僕の首筋に置かれた。 ふるふると震える、その指先に、中指をはさむように、唇は指先から、指の中程へと移る。 第二関節の傷跡を撫でた時、少女の腕が硬直した。首筋に置かれた指が、激しく震える。  一瞬にして、少女の指が引き抜かれる。口の端から銀の糸が宙に跡を引いた。 「ダメだよ、カツキ」  そういう少女の顔は蒼白で、言葉は震えていた。 僕は、ゆっくりと立ち上がる。 「僕は、その指が好きだ。礼を逸したのなら、すまない」  「違う、カツキのせいじゃないんだ」   少女は、犬のように身震いして、気を鎮めた。 「ボクの一族ではね、食べるということは、魂を受け継ぐことなんだ」  「魂を?」  「そう。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなる」  「だからね、カツキ。 ボクの指は食べない方がいい。 食べると、卑怯さがうつる」 「関係ないな」  「第一点。僕は、その迷信を信じない」   そんな、と、抗議する少女に、僕は、指をつきつけた。 「第二点。 風のうしろを歩むものが卑怯なはずがない。 きわめて限定された経験に基づくものではあるが、僕は君が卑怯な行動をしていたところは見たことがない。 卑怯な人間にできないことなら、見てきた。 よって、その指に、君の心が入っているなら、僕は、その心が好きだ。 その心と一つになりたい」  「カツキ……」 「第三点。 なんと言われようと、僕は、その指が好きだ。 食べたい」   少女の顔が、みるみる真っ赤になる。 僕は、それに対し、裏腹な微笑み、というのを浮かべた。 少女に好意をもちながらも、人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 現代世界においては、殺人よりも食人の禁忌のほうが重いはずだ。 「ほんとにいいの? ボクの指、食べてくれるの?」  「約束する。万一のことがあったら、風のうしろを歩むものの指は、僕が食べる」  「よかった。これで、いつ死んでも安心だよ」   少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「僕を食べるんじゃなかったのか?」  「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」  「だから、安心して死ねと?」  「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」   僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。 僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。 一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。 ボクの指は、十本全部カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「唇だ。舌だ」  思うより先に、言葉は口を衝いて出ていた。 自分で言った言葉に驚いて、僕は、言葉を重ねた。 「舌は、肉の部位でいえばタン。 独特の弾力と、味がある。 先端ほど固く、付け根ほど柔らかい。 通常は、薄くスライスするが、上タンといわれる付け根は、刺身にすることもある。唇なら……」  待て待て。僕はいったい何を言ってるんだ? なるほど、これが、墓穴を掘る、ということか。はじめて理解した気がする。  脳が空転を続ける間に、目は、いやおうなしに少女の唇に吸い寄せられる。 きりりと結ばれた唇は、僕の目の前でおもむろに開き、白い歯がのぞいた。 「唇はおいしいよね」  少女は考え深げに言った。 「里だと、唇は、歯の弱い、赤ちゃんが食べるところだったからね」 「大人になると、なかなか食べられなくてね」  耳は言葉を聞いていない。 ただ、桜色の唇を、真珠のような歯の奥から、かすかに見える桃色の舌を見ていた。 上の空で、返事をする。 「君もまだ、子供じゃないか」 「ひどいな! ボクは、もう大人だよ」  怒ったように少女が、一歩踏み出す。膨れた頬は、赤ん坊のもののようだった。 その柔らかな頬を、気が付くと、僕は両手ではさんでいた。 「おいしそう?」  無言でうなずくのが精一杯だ。 「味見、してみる?」  言われて、僕は、前にかがむ。 きらりと光る瞳をみながら、ゆっくりと、唇を近づけてゆく。 「待って!」   少女は、そう言って顔をそらした。 僕は、待った。 非論理的な感情が……なんとも名づけようのない熱いものが身体の中を駆けめぐる。 「どうした?」   やっと、それだけいう。  「ボクの一族ではね、食べるということは、魂を受け継ぐことなんだ」  「魂を?」  「そう。心と、力を受け継ぐんだ。 だから、速い足を食べると、足が速くなるし、強い腕を食べれば、力が強くなる」 「それが?」   僕は、顔を近づけた。  「唇と舌には、言葉が宿る。 語り部の舌なら、弟子が受け継ぐけど、ボクは、戦士だから、しゃべるのは苦手なんだ」 「それで?」  さらに近づく。少女の鼻息がくすぐったい。 「ボ、ボクの舌を食べると、カツキも口べたになるかもしれないよ」 「もとより、口はうまくない。知っているだろう?」 「うん。でも……」  それ以上、言わせずに、僕は目をつぶり、少女の唇に覆いかぶさった。 柔らかな唇が、僕の中で踊った。  こぶりの上唇を、端から甘く噛んでゆく。 ふわりと柔らかな舌に歯を立てるたび、両手の中で、少女が、ぴくりと跳ねた。  しっかりと閉じた歯の間を、舌でなぞってゆく。 弱々しい抗議が、吐息の形で発せられた。 開いた口の隙間から顔を出した舌を、僕は思いきり吸った。   少女が、震え、その膝が崩れる。僕は、両手を背に回した。 甘い唾液が二人の間を行き来した。  舌が、舌を味わう。 にげまどっているのか。自ら絡んでいるのか。 柔らかな舌は伸び上がり、また縮み。 尖ったその先端も、広がった舌の平も、僕は、存分に味わい尽くす。  唇を離せば、舌の先から銀の糸が引いた。  目を開ければ、紅く上気した少女の顔があった。 いつも元気そうな目は、とろんとしている。 どれくらい、そうして見つめ合っていただろうか。 「カツキ……腕、もういいから」   恥ずかしそうに少女がそう言った。  腕をほどくと、少女は……ぺたんと尻餅をついた。 「あれれ……おかしいな」  僕の差しだした手を、少女は掴み、立ち上がり……ふたたび、後ろに傾く。 「危ないな」  尻餅をつく前に、僕は背に手をまわした。 「ちょっと、ふらふらするや」 「そうか」  そういう僕も、かなり膝が震えていた。 「ねぇ、カツキ。ボクは、おいしかった?」 「あぁ」  言ってしまってから、眉をしかめた。 人としてあるべき姿について、ふと疑問を持ったのだ。 これではメルクリアーリ神父と会談した時よりも、もっとひどい。 「……よかった」  少女がにっこりと笑う。 ふと、その声音に、かすかな、翳りがあった気がして、僕は顔をあげた。 「先に死んだら、の、話だろ?」 「うん。備えあれば憂いなし。 これで、安心だよ。 ボクが死んでもカツキが食べてくれる」 「僕を食べるんじゃなかったのか?」 「うん。カツキが死ぬ気になったら、いつでも食べてあげる。 指も、爪先も、首も。お腹も、手も、足も。みんな、食べてあげる」 「だから、安心して死ねと?」 「ちがう、ちがう。何があっても、ボクたちは一緒だってこと」  僕は、立ち上がって、答えた。 「それは論理的に欠陥があるな。僕と、風のうしろを歩むものが、同時に死亡した場合は、どちらも、相手を食べることができない」  「カツキは理屈っぽいなぁ。一緒に死ぬんでしょ? だったら、一緒じゃない」   奇妙な理屈に、僕は、吹きだした。 「確かに、そうかもしれないな」  「じゃ、約束だよ。ボクの唇は、カツキのものだからね」  「約束する」  メゾンに帰るまでの間、少女は、ずっとご機嫌で、綺麗声の鼻歌を歌っていた。  僕はといえば、肉は生で食べるのだろうか? もし持ち帰ったら、管理人さんは、料理してくれるだろうか、とか、そんならちもないことを考えていた。 「選べない」  僕は、人肉食を……たとえ、目の前の少女が、厳密な意味でのヒトでないにせよ……選ぶことはできなかった。 「ボク、まずそう?」  「そういうわけじゃない。 僕という人間は所属する文化に多くを規定する。 この場合、僕は、文化の外にあるものを受け入れられなかった、というだけだ。 個人的な好意は関係ない」  「好きなら食べてよ」  「無理だ」  「……どうしても?」   はじめてみる、心細げな顔。 目の端にじわりとにじんだのは、涙だろうか? 「どうした?」  「だって……ここじゃ、死んだら焼いて、骨にするんでしょ?」  「普通は、そうだな」   「そんなのいやだよ! 血にも肉にもならないで、ただ埋まるなんて」   涙がこぼれた。     その姿に、ふと恵が重なった。 小さい頃の、恵。   夜の闇。あるいは、その暗示する死、そのものを怖れ。 眠れぬ夜は、あの子は、お気に入りのぬいぐるみを引きずって僕のドアを叩いた。 なにを言っても泣きやまず、最後には泣き疲れて、僕の腕の中で眠る恵。 少女の顔にあったのは、そんな深いさびしさだった。     僕は……小さい頃の恵にしたのと、同じことをした。 両手で、優しく抱きしめたのだ。 そうして口を開いて、はたと悩んだ。 言葉が、浮かばなかった。浮かぶ言葉は、論理的な、意味のない事実の羅列ばかり。 あの頃、僕は、なんといって、恵を、なぐさめていたのだろう。   目を閉じても言葉は思い出せず、僕は、右手で、少女の髪を梳き、左手で、ゆっくりと、その背を叩いた。 「ありがと……」   しばしして、少女は顔をあげた。涙はもうない。  「ねぇ、カツキ。約束してくれる?」  「ボクがもし、ここで死んだら……体は焼かないでほしいんだ」  「わかった」  「烏にでもやって、余った分は、河に流してほしい」  「あぁ」 「約束してくれる?」  「約束する」   死体遺棄が犯罪だ、という知識は僕にもあった。 しかし──法の遵守が全てではあるまい。 どこか山奥にでも運べばいいだろう。 車があればいいんだが。 方策を考える必要がある。 考え込む僕を見て、少女は、はじめて微笑んだ。 「よかった」  「先に死んだら、の、話だろう?」  「うん。これで、安心だよ」   嬉しそうにうなずく少女と、人肉食が、僕の頭の中では、どうしても結びつかなかった。 文化的間隙を埋める努力が必要だ。 「風のうしろを歩むもののところでは、誰かが死んだら、どうするんだ?」  「ううんとね。みんなで踊るよ」  「踊るのか」  「それから、お話するよ」  「お話か」   少し想像して僕は言った。 「楽しそうだな」  「楽しいよ。家族も友達も、みんな集まって、夜通し、遊ぶんだ」  「家族に、友達か」   死んだあとに世界がある、とは、僕は思わない。 だから、僕の死体が、どうなろうと実質的な意味はないが……そのように葬られると確信することは、日々の生活を、少しだけ楽しくするかもしれない。 「お酒は呑むのか?」  「お酒? お酒は呑むよ! 酔っぱらたっていいんだ。 お弔いだからね」  「料理は?」   言ってから僕は、後悔した。 「みんなで、お腹いっぱい食べるよ。なんてったってご馳走があるからね!」  祭壇にささげられた、血塗れの肉にむしゃぶりつく少女が脳裏に浮かぶ。 その口は真っ赤だった。 「最初の一口は、一番近い家族がもらうんだよ。父なら娘。母なら息子」  気分が、悪い。 ひどく、悪い。  血が。血を染めた口が。  気を紛らわすために、口を開いた。 「両親がいなければ、どうするんだ?」 「父も母もいないなら、姉は弟が、兄は妹が……」      血塗れの口が、かっと開く。 血があふれる。 あふれる。   あふれあふれた血が、顎を被い、胸を汚し、大地をぬらす。   ──痛い。  僕は胸を押さえた。無いはずの心臓がずきずきと痛む。 頭痛と同時に吐き気がこみ上げ、僕は、げぇげぇとえずいた。 「カツキ、だいじょぶ?」  少女の声が遠ざかる。 世界が歪む。遠ざかる。頭痛。 紅い闇が、脳の奥から広がって、目の前を覆いつくした。  涼やかな風が頬をなでていた。 遠いところから、笛の声が届く。  か細く、どこか物悲しい音色に、僕は、しばし浸った。 どこだろう。ここは。 耳を澄ませば、さやさやという葉鳴りの音が聞こえる。  草原。 果てしなく続く夜の草原だ。 月明かりに浮かぶ緑の海が、ありありと思い浮かぶ。 「……カツキ」  僕は目を開ける。  途端に、まぶしい街灯の光に顔をそむけた。 「だいじょうぶ? もう気持ち悪くない?」  風が吹いていた。 少女の髪をさやさやと響かせながら、僕の身体をやさしくさます。 「もう、平気だ」 「よかったよ」   少女のほうから吹いていたそよ風は、ぴたりと収まった。  「笛」  「え?」  「さっき……笛の音が聞こえていたと思ったんだけど……」  「あぁ」  少女がうなずいて、口笛を吹く。 あの音色が再び聞こえる。 「それは……」  何の曲か、と聞こうとして、僕はやめた。 答えるには、口を開かなくてはいけない。 そんなことより、もう少し、その旋律を聴いていたかった。 「いい曲だね」  少女は、口笛を吹きながら、ゆっくりとうなずいた。 僕は、少女の手を取って、家路を歩んだ。  胸の痛みは、とうに去っていた。  夢は、血に塗れた臓物の色をしていた。 だから、それが破れた時は、一種、安堵を感じた。 「お兄ちゃん! 学校遅れるよ!」   ドアを叩く恵の声に、僕は、感謝をつぶやいた。 「いくらなんでも、二日連続で、ズル休みはダメだよ!」 「今いく」  手早く制服に袖を通し、顔を洗ってカバンをひっつかむ。 「早く、早く」   扉の外で待っていた恵が、我がことのように足踏みした。 「あら、克綺クン。ご飯は?」  「遅刻しそうなので急ぎます」  「そう。ちょっと待って」 「待てません」   恵が返事をして、僕の背を押した。 言われるままに、僕は玄関に急ぐ。 「お兄ちゃん、土曜だけど、お弁当いる?」 「必要ではないが、望ましい」   そう言って僕は、弁当包みを受け取った。   渡す時、一瞬、恵が躊躇したのは、なぜだろう。  靴ひもを結んで、戸を開けたところで、管理人さんが追いついた。 「克綺クン! キャッチ!」  右手はカバン。左手は、恵の弁当。  僕は、一瞬の機転で、フリスビーのように飛来したトーストに噛みついた。 フランスパン。分厚く切った真ん中をくり貫いて、ドライカレーが入っている。  カリカリに焼き上げたパンは香ばしく、くわえているだけで腹の虫が鳴いた。 「それじゃ、行ってらっしゃい!」  「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」  僕は、トーストに噛みついたまま、学校へ向かって走り出した。  試してみるとわかるが、トーストを保持したまま走るのは、意外と難しい。 そもそも通常の食パンで作ったトーストであれば、長距離は維持できない。  端っこをくわえれば、強度の関係で、そこで折れてしまう。 かといって、真ん中に近いところをくわえれば、そこから唾液が染みて、全体がぐにゃりと曲がる。  管理人さんは、素材の補強によって、その問題を解決した。 よく焼いたフランスパンの強度は大したもので、端っこを唇と歯で保持していても、折れ曲がることはなかった。  涎が垂れないように、僕は、わずかに上を向いた。 そうすると、視界の多くが、フランスパンに覆われることになる。  僕が、角にさしかかった時、向こうから走って来る人影に気づかなかったのは、それが理由だ。  衝突はかなりの勢いだった。 お互い、肩からぶつかったとはいえ、僕は、吹き飛ばされて、尻餅をつく。 そこに、馴染みのある声が降ってきた。 「おいテメェ! 何のつもりだ!」   あやまろうとして、僕は、口がふさがっていることに気づいた。 「ん……克綺じゃねぇか? なんだ、そのナリは?」   立ち上がった峰雪は、僕を見て、顔をしかめた。  「ふぉふぁふぉう」   峰雪は挨拶に答えず、眉をひそめ、深刻な表情で後ろを向いた。 なにごとかブツブツと呟いている。 しばらくして、心の整理がついたらしく、くるりと向きなおった。 「克綺……おまえ、いったい何やってんだ?」  「ふぉふふぁ」  「いいからな。トーストを放せ」   峰雪は、僕のカバンを受け取り、それによって空いた右手で、僕は、トーストを手に持った。 「見ての通りだ」 「見たがわからん!」  「管理人さんから、朝食にトーストをいただいた。 両手がふさがってたから、口にくわえた」  「そうか……」   峰雪の全身が脱力した。  「どうした。何か変だぞ。当たり所が悪かったか?」 「……なんで、朝っぱらから、俺が、テメェと運命の出会いをしなきゃいけねぇんだよ!」 「運命的なところは何もない。 通学路が同じで、通学時刻も同じなら、出会う可能性は統計的に高い」 「なんで、トーストくわえてんだよ!」 「説明したはずだが」 「おまえと恋に落ちろってか? ひとめぼれか? 確かに俺ァ、絵に描いたような不良だよ。 だったら、お次は何だ? 雨の日に仔猫を拾えってか?」 「さっきから一体何を言っている?」 「だったらテメェはなんだ? 知的でクールで、ちょっとドジな委員長か? 委員長なら委員長らしく、眼鏡をしやがれ」 「峰雪。君の言動は、非論理的だ」 「黙れ黙れ、何が非論理的だ。 テメェの耳は尖ってんのか! おかっぱ頭か、コラ」 「それとも、アンドロイドか? アンテナか? アンテナなんだな!」 「君の精神は病んでいる、助けが必要かもしれないな」 「畜生! 男の純情を返しやがれ! 今すぐ!」  さめざめと泣く峰雪を放っておくこともできず(我ながら見上げた友情だ)僕は、手を差し伸べた。 「いい加減にしないと学校に遅れるぞ」 「おっと、そうだった」  一瞬で、真顔に戻る。  気を取り直して角を曲がった時、そこに、彼女がいた。  最初に見えたのは、傘だった。くるくると回る傘。  朝の陽光を吸い込むように浮かび上がる藍色の円。 すいと傘の縁があがり、見覚えのある顔が覗いた。 「おはようございます、またお会いしましたね」  「おはようございます。4日ぶりですね」 「はじめまして。峰雪綾です」   ドスの利いた笑顔をたたえて、峰雪が言った。 聞くところによると、当人としては、親しみやすい笑顔のつもりらしい。  「お久しぶりですね」  「あれ! 覚えていてくださったんですか?」   そういえば、五日前。 峰雪は、この人の顔を見ていた。 「ええ。覚えています」   うなずかれ、峰雪は胸を張った。  「克綺、今日はいい日だな」  「必ずしもそうとは限らない」 「それはどうでしょうか」   二人に言われて、峰雪は、固まった。 「今日という日は始まったばかりだ。総合評価は、終わるまでわからない」  「ちぇっ。二対一じゃ、分が悪ぃや」  「そういえば、今日は、どうしてここへ?」  「仕事です」   僕は、うなずく。 前にも、そんなことを言っていた気がする。 「ご苦労様っす」   峰雪復活。  「お仕事、頑張ってください」   そう言われると、なぜか傘の女性は、嬉しげに笑った。 「ありがとうございます。そうおっしゃってくださる方は、滅多にいません」  「そんなことないっすよ。 世の中、要らない仕事なんかないっすから」  「有害な仕事もあるとは思うが、一般論としては、おおむね賛成だ」  「そう言っていただけると仕事に身が入ります」  その女性は、そう言って、つい、と、頭を下げた。 つられて、僕たちも礼をする。 「それでは。またお会いしましょう」  「ういっす!」  「ではまた」  女性は、角の向こうに消えた。 くるくると回る傘が、楽しげに揺れていた。  その様子を見送ってから、僕は、ふと大事なことに気づいた。 峰雪と顔を見合わせる。 「名前聞き忘れた!」  前方には校門。 閉門時刻まで、あとわずか。 不敵に立ちはだかる黒髪の男。  「最強の」メル。 「せりゃぁぁぁ!」  峰雪が走る。 固く、固く握りしめた右拳に体重と速度とプライドを乗せて。  迎え撃つメルクリアーリ先生の口の端に笑みが浮かぶ。  五指を閉じた峰雪に対し、メルクリアーリ先生の構えは二指。 中指と人差し指を揃えた剣指の構えだ。  シャツが風を巻いて膨らみ、黒手袋をはめた手が閃く。 メルの手は、螺旋を描いて襲いかかった。  峰雪の拳を包み込むように回りながら、二本の指は、まず手首の急所を打ち、握力を殺した。 そのまま、しっぺの要領で手の甲を打つ。 たまらず開いた五指に、二本の指は蛇のように巻き付いた。  終わってみれば、いつものごとく。 涼しい顔のメルクリアーリ先生は、指二本で、峰雪を地に這わせていた。 しっかりと極めた指に、峰雪が脂汗を流す。 「メルクリアーリ先生、おはようございます」   紅い瞳を僕は見つめる。 その瞳も、表情も、昨日までと何一つ変わることはなく。 それでいて、背筋に走る冷たさは、すなわち、僕が変わったということだ。  「九門君。前にも言いましたが、もう少し早めに来たほうがよいですよ」  落ち着いた声にも、その正体を現すものは何一つない。 見ていると、昨日のことが、まるで夢だったような気がする。 だが夢ではない。夢ではないのだ。  「わかりました。それでは失礼します」  「こら、克綺、待て!」 「……なんだ?」   僕は、校門の中に入ってから、振り向いた。  「〈刎頸〉《ふんけい》の友を置いておく気か?」  「峰雪。おまえのことは、よい友人と思っているが、おまえのために首が斬られてよいとは思っていない」  「義を見てせざるは勇なきなりだぞ! テメェには、この淫祠邪教の糞祭司を倒そうという気は……」  語尾は、苦鳴に消えた。 教訓。 関節を極められている時に、宗教論争をするのは危険だ。 「九門君。いきなさい。授業が始まりますよ」  「はい。メルクリアーリ先生」  僕は、頭をさげ、教室へと向かった。  二日ぶりの教室は、どこか、しんとしていた。 しばらく観察して、ようやく理由がわかった。 生徒数が机に比べ、明らかに不足している。  席についているものばかりではない。 間をうろついてるもの。隣のクラスへ行って、まだ帰ってこないもの。 そうした分を考えても、明らかに数が少ない。 「九門君、おはよう」   牧本さんは、学校に来ているようだ。  「生徒数が少ないようだが?」   何気ない一言で、教室は静まりかえった。  「ほら……昨日の事件で」   牧本さんが、小さな声でいう。 「よく聞こえない。 昨日の事件というと、例の殺人事件か? 日が落ちる前に起きた」  「そう、それ」  「関連が見えないんだが」  「あれで……いよいよ、この街が危ないって、みんな思ったんじゃないのかな」 「つまり……今までは、どれだけ事件が続いても、昼であれば安全だという誤った仮定を持っていたが、その仮定が崩れ去ったことにより、危険性を強く認識するようになったということだな」  「う、うん……恵子とか、引っ越したって話だし。 準備してる人なら、他にも大勢」 「ふむ。このペースで生徒が減った場合、どうなるんだろうな。 学級閉鎖か? いや、それを認めると、二度と授業が開けないか。 そもそも私学は、年度の途中に破産を認められるのだろうか? 授業料の契約は、どうなっているんだろうな」  「九門君は、どうするの? 引っ越しとかする?」  「僕は、授業料の元手を取る」  「死んじゃうかもしれないよ?」  僕は、その言葉を検討した。 確かに危険はある。 例の魚人たちによる殺害事件は、無差別に行われる。   しかし、逆にいえば、それは無差別でしかないということだ。   風のうしろを歩むものの言葉を信じるなら、僕は、無数の魔物に狙われているということになる。 それは、この街を出ても同じだ。   であるならば。 「命の危険に関する限り、僕の場合は、どこへ行ってもあまり変わりはない」  「どういうこと?」  「僕は、今現在、命を狙われているからだ」  「へぇ……そうなんだ」  「牧本さんは? 引っ越しとかしないのか?」  「私は……お父さんの仕事の都合があるから」 「よぉ、生徒諸君! 元気でやっとるかね!」   足でドアを開けて峰雪が顔を出す。 クラスは、完全に静まりかえった。  「峰雪。そのパフォーマンスの意図がわかりかねる」  「……おはよう、峰雪君」   牧本さんが用心しいしい声をかけた。 「なんだなんだ、元気ねぇなぁ」   教壇にたって、〈睥睨〉《へいげい》する峰雪。  「身近に死の危険を感じ、また、取り残されたことの不安感を感じているんだ」  「そういうことか。 道理で、人が少ねぇと思ったぜ」 「眼前の事件の危険を鑑みて、峰雪は、引っ越しを考慮しないのか?」  「あぁん。 うちの親父の仕事知ってんだろ?」  「その心は?」  「坊主丸儲け」   どっとクラスが湧いた。 「……僕の知っている限り、それは不謹慎、というのではないか?」  「いーんだよ。 湿っぽいよりゃぁ、怒ってるほうが、まだマシだ。 ちったぁうけたみたいだしな」   再びクラスの戸が開いて、先生が入り、峰雪が席につく。 こうしてみると、本当に人がいない。席の数は半分程度だろう。  始まった授業は、どこかぎこちなかった。   職員室の前には、「試験問題製作期間につき、立ち入り禁止」の札があった。 生徒は、入り口で教師を呼び出すことになる。   試験期間には少し早い。 事実、札が立てられたのは今日からだ。 生徒を職員室に入れない〈窮余〉《きゅうよ》の策だった。   人が減ったのは、教室だけではないのだ。 職員室においても、教師の数はめっきり減っていた。 病欠届けが多かったが、中には無断欠勤もある。   「はい、わかりました。本日11時半ですね。ええ、お待ちしています」   メル神父は、携帯を切って、あたりを見回した。   人間観察は、彼の趣味だ。 より正確に言えば、生存の上で獲得する必要があった技能であった。   出てきている教師の顔を確認し、見えない教師を一人一人思い出してゆく。   興味深い。非常に興味深い。     若い、熱血型の教師に、休んでいるものが多かった。 来ているものも、どこかおどおどしている。 一方、受験対策として評判のいい授業をしている、中年の教師たちは、ほとんどが来ていた。 趣味的な授業をしている老人達も、顔を出している。   4人に3人。思ったより率は高い。     メル神父は、もう一度、教師達を見直した。 答案を採点しているもの。 いらいらして煙草ばかりふかしているもの。 鼻毛を抜いているもの。   どのような理由があれ、いかなる状況においても自らの本分を貫くことを選んだものたちだ。 総じて、死ぬのは、もったいない人間たちだ。   メルクリアーリ・ジョヴァンニは、立ち上がり、給湯室へ向かった。 「おや、メル先生」   声をかけたのは日本史の多田だ。   この初老の教師は、安土桃山時代を一年かけて教える。   彼の授業には、平安も鎌倉も二次大戦も存在しない。 授業内容はともかく、進学校にいることが非常に不思議だ。 「お仕事中のところ失礼します。 お茶をいかがですか?」  「こりゃ、ありがたい、いただきます」  「先生は……恐ろしくはないのですか?」  「なぁに。 あたしゃ、こりゃ、チャンスだと思っとるんですよ」  「チャンス?」 「人間、死ぬときゃ死ぬってことを、今時のガキどもは知りませんからね。 教えるには丁度いい」  「失礼ですが、それが日本史とどのような関係が?」  「わたしゃ歴史を教えてるんじゃないです」  「ほほう?」 「どの科目だってそうでしょうがね。 歴史だの年号だの式だのってのは、ホントはネタに過ぎないんです。 ネタだけ知ったって、しょうがない。 あたしたちは、そいつを使って、あいつらに、物の見方ってのを叩き込むんですよ」  「安土桃山時代の平均寿命は、四十いかなかった。 そんだけ簡単に人が死ぬ時代があって、それでもみんな、どうにかこうにか生きてたってね。 物を考えるってのは、今、ここが、すべてじゃないって思うことですよ」 「〈朝〉《あした》に紅顔あって夕べに白骨となる。 そういう時代の歴史を学ぶにも身が入るでしょうや」  「和漢朗詠集は、平安時代と記憶しておりますが」  「おっと……こりゃ一本取られましたな」   初老の教師は、ずず、と、茶をすする。 茶を持つ手は、かすかに震えていた。 「えらそうなこと言いましたが、どうやらあたしも興奮してるみたいだ」   教師が笑う。 心底照れた笑みだった。  「メル先生は、どうするつもりで?」  「特別なことは考えていません。英文法を教えようと思いますが……」  「ふぅん……それもいいかもしれませんなぁ。 あたしなんか、こういう時は、つい色気をだしちまいますが」 「ま、おたがい、頑張りましょうや」   多田が、笑うと前歯に金歯がのぞいた。  「ええ、お互いに」  メルクリアーリ・ジョヴァンニは、頭を下げる。   口元に微笑が浮かぶ。  「人が簡単に死ぬこと、ですか」   小さな声で呟く。 それを、生徒に教える必要があるなど、思ってもみなかった。   彼のしてきたことは、その逆だ。 不条理な死を隠蔽し、安全の幻想を維持し、餌場を維持すること。 「教師失格かも知れませんね」   教師の皮を被った吸血鬼は、皮肉げに、そう笑った。  ──眠い。   三限の体育で、ほどよく身体を動かした後のこと。 土曜の四限は、心地よい睡魔に包まれていた。   おまけに、授業は白木先生の数学だ。 窓から柔らかな光が差し込むこの状況で生徒を集中させるには、達人級の授業力が必要だろう。 それに対し、彼の授業は……下手とは言わないが、退屈なのだ。   数学というのも不利な要素だ。 文系科目の試験内容には恣意性があるので「ここはテストに出るから覚えておくように」と言えるが、数学の場合、範囲を自習さえすれば、授業内容を聞く必要はない。   無論、学問としての最先端の現場では、数学者個々人の講義に大いなる意味があるのだろうが、まぁ、そうではないし。   彼はまだ若い。経験が足りない。 あと10年経てば、或いは、その域に達するかもしれないが……それまでは。   僕は寝る。断固として寝る。 僕は腕を組んで、目を閉じた。  寝ようとすると、雑音が気になった。 「何だ? あれは」   峰雪に小声で囁く。 「多田のポン史だろ」 「……なるほど」  多田先生の日本史は、趣味的な内容のせいで、進学を目指すものからは、あまりよく思われていないが、内容自体は人気がある。 今日は、いつにもまして、テンションが高いようだ。  どっと笑う声が、壁越しに響いた。 多少気になったが、眠気を押し流すほどではなかった。 僕は、再び目を閉じる。 「……おい、克綺、克綺」  うっとうしくこづかれて、僕は、目を開けた。峰雪がつっついている。 「九門克綺君!」 「はい」  気が付けば、白木先生が見ていた。 「次の問題を解いてみなさい」 「はい」  僕は、わざとゆっくりと立ち上がり、おもむろに教科書をめくった。 峰雪が目配せし、教科書のページを指さしてくれる。 その問題か。ならば簡単だ。 「x=3√7」  「途中式は?」   僕が、よどみなく答えると、白木先生は、苦虫をかみつぶしたような顔をした。  「座れ」  「はい」  ゆっくりと座ると、僕は、再び腕を組んで目を閉じた。 「九門!」 「はい?」   うるさい声に、僕は答える。 「居眠りするな」 「布団があれば、そちらで寝ますが」  「何が言いたい?」  「布団があれば、きちんと寝ますが、ない以上、机に座って居眠りするしかありません」  「俺の授業は、そんなに眠いか?」 「眠いのは主に時間帯と体調によるものです。 先生の授業が退屈であるのも、原因の一つではあります。 もっともそれは、学力の違う生徒に、まとめて授業を行う以上、避け得ない帰結の一つですから、かならずしも、先生の能力の問題ではありません」  「九門」  「はい」  「黙って寝てろ」  僕は、無言でうなずいて、眠りについた。 「うまくやりやがって……」  峰雪が毒づく。 その〈罵詈讒謗〉《ばりざんぼう》も気にならず、僕は、ようやく、安らかな眠りを手にした。  けたたましいサイレンに眠りを破られた時、僕は、少しだけ機嫌が悪かった。 「みんな、静かに」   白木先生が言う。 『避難警報を発令します。避難警報を発令します。 全校生徒は、ただちに、教員の指示に従い、下校してください』   聞き覚えのある声は、メル神父のものだった。 『カバン、荷物は教室に残してください。 2階、3階の教室は、南の第2階段より下校します。 1階に降りた後は、下駄箱によらず、上履きのまま、廊下端の非常口より退出し、そのまま、誘導に従って、学校から離れてください』  僕以外にも、寝ていた連中が頭を振って起きあがる。  白木先生は、緊張した面持ちでスピーカーを見つめている。  いつも思うのだが、先生という職業は過酷だ。 退屈しきった青少年は、たった一つでも人格的弱点を見つけると、鮫のように襲いかかり、食いちぎる。  この場合、生徒から視線を離したのがまずかった。 「おい、見ろよ!」  窓際の生徒が叫んだ時に、反応が遅れたのだ。 のみならず、本人も窓際を振り返る。  自然、生徒は、窓際に殺到した。無論、僕もだ。 集団行動は重要だが、情報も重要だ。 この状況で、白木先生に命を預けるつもりは、僕にはない。  校門……正門には、無数のパトカーが詰めかけ、封鎖されていた。 制服の警察官が、あたりをうろつくのが見える。 「……マジかよ、おい」 「パトカー来てるぞ」 「えー?」 「おまえら、静かにしろ」   そういう白木先生も、目が泳いでいる。 窓にへばりつきたくてしょうがないのだ。 「出席番号順に並べ。全員、ゆっくり廊下に出るぞ」   誰も、白木先生の言葉を聞いていなかった。 聞くはずがなかった。  皆が見ていたのは、校門の向こう、パトカーが集まった一点だった。 「なんだ……あれ?」   白と黒の塊が宙を舞っていた。 二つ。三つ。 3階の窓からみるパトカーは、まるでミニカーのようで、まるで現実感がなかった。  小さな小さなパトカーは、悪夢のようにゆっくりと滞空し、大地でバウンドすると同時に火を噴く。  轟音はここまで届き、ようやく白木先生が窓を振り返る。 紅い炎をバックに、さらにパトカーが宙に舞う。  何かが、動いていた。 その移動と共に、パトカーの壁が、切り裂かれ、こじ開けられ、四散する。 窓からは、一本の紅い線が、はっきりと見えた。  残ったパトカーが動き出す。 校門前に、ぞくぞくと集まり、動く隙間もないほどに壁を作る。   それは……文字通り、火に油を注ぐだけだった。  連続する爆発音。燃えさかる炎の音と共に、阿鼻叫喚のノイズが混じった。 どこか遠くから、サイレンが間抜けな響きを立てた。 『全員、窓から離れて!』   最大ボリュームの放送が、僕たちをつかの間の正気に返した。 僕も、峰雪も、牧本さんも、白木先生ですらが、スピーカーのほうに振り返る。 『現在、手配中の殺人犯が、本校に近づいています。 すみやかに、東門より、下校を続けてください』   持ち前の甘い声と、命令形の断言。 その組み合わせが、パニックを封じ込めた。  ぶつくさ言う声。 不安な囁き。 たったそれだけで、クラスは静まった。 「いくぞ」  白木先生が、囁き声で言った。それは、クラス中に響いた。 怯えた草食動物のように、クラスは沈黙を選んでいた。 万一にも音を立てて、注意を引きたくない。 「克綺」   小声で峰雪が袖を引く。  「先に行っててくれ。用事ができた」   僕は、つぶやく。  炎は既に校門に達していた。 バウンドするパトカーが校庭に雪崩れ込み、黒煙を放って燃えていた。 その赤黒い炎を切り取って。 くっきりと、人影が浮かんでいた。 豆粒のような人影。 その輪郭は、炎に縁取られている。   校庭に踏み込んで、それは、炎を脱ぎ捨てた。 服とおぼしきボロ布が、炎の中で消えた。 下から現れた肌は、濁った海の色をしていた。  それは、丸く大きな目で、僕をにらんだ。 まっすぐに、僕をにらんだ。  強い力で、僕は引っ張られた。 窓枠の下に押し倒される。 「何、ぼーっとしてやがる!」   峰雪が、小声で怒鳴る(器用な男だ)。  「すまん」  「おまえの用事ってのは、アレか?」  「そうだ」 「……なにやらかした?」  「未知の恐怖については知りたくないと、言っていなかったか?」  「ここまで来て、んなこと言ってられっか。毒喰らわば、皿まで、だ」  「それはそうと峰雪。 君の現実把握能力は、僕が思っていたより高いな」  「るせぇ。俺たちも、とっとと行くぞ」  気が付けば、教室に残っているのは、僕ら二人だけだった。 ぐいぐいと峰雪に引きずられながら、僕は思案した。  僕は……。 「おい、どうした、ぼーっとして?」  「生存確率の最適化について考えている」  「……死にたくねぇなら、ぼさっとすんな」  「ふむ。それも確かだ」  これまで得た情報を僕は整理する。   学校に魚人が現れた。 問題は、その目的だ。 これまでのように無差別(と思われる)殺人を行いに来たのか、それとも。 もう一つ重要な可能性として、僕の持つ魔力を目当てに来たというのが考えられる。   前者であれば、注意を引かないことが肝要となる。 単独行動で見つかるよりも、このまま皆とともに行動したほうが、生き延びる確率は上がるだろう。  後者であれば、僕には、二つ道がある。 隠れることと逃げることだ。 隠れることは、望み薄に思えた。 僕を狙って来たのであれば、僕の居場所を知る方法くらいは持っているだろう。 例えば、匂いを嗅ぐこと。 下手にどこかに隠れるより、大勢にまぎれたほうがよい気がした。 追いつかれた時の時間稼ぎにもなる。   つまりは、草食動物の思考だ。 仲間が襲われている間に逃げればいい。狼は、一度に一匹食べれば満腹する。  振り返って考えれば、僕の間違いは、そこだった。 狼は一度に一匹食べれば満腹するが、この敵は違ったのだ。 「九門君、峰雪君!」   廊下には、牧本さんが待っていた。 「すまねぇ。このバカのせいだ」  「バカではないが僕のせいだ」  「いいから、早く、いこ」  僕たちは手を取り合って駆けた。 足音を立てぬよう、しかし、できるだけ早い速度で。  避難先は、南の第二階段だ。 ここからだと、廊下の奥から二番目にあたる。  しんと静まりかえった廊下を、僕たちは、ひたすら駆けた。 口はきかず、脇目もふらない。後ろを振り返るのが、恐ろしかった。  階段が見えた時、僕たちは、安堵の吐息をついたと思う。  手すりにすがり、息を整えた時。 階下に見えたもの。 それが何であるか、しばらくわからなかった。  泡。人ほどもある巨大な泡が、階下を埋め尽くしていた。  人ほどもある……否。巨大な泡の一つ一つには、死体が入っていた。 泡は、ふわふわと揺れ、時に、たがいにぶつかりあいながら、決して落ちることも弾けることもなかった。 泡の中の死体には、あらゆる死に様があった。  すっぱりと喉を切り裂かれ、皮一枚で、ぶらぶらと首の浮いているもの。 内臓を切り裂かれ、長い腸をはみださせているもの。 腹の膨れた水死体。 それに、ボロ雑巾のようにひねられた、人ともなんともつかないもの。  幸い、というべきか、悲惨な死体であればあるほど、泡は、濁っていた。 動脈の鮮血に染まったものは紅く、静脈血や、内臓の混じったものは、ドス黒い色を浮かべている。  見え隠れする眼球、肝臓、そして、歯。  泡の一つに、白木先生の死体があった。 顔や手足はそのままに、ワイシャツの胸が、ぱっくりと口を開け、空洞を晒していた。  気まぐれ、なのだろうか。 腹は、単に裂かれたのではなかった。 解剖されたのだ。  鋭い刃は、皮膚も脂肪も腹膜も綺麗に切開し、その隙間から、内臓を一つ一つ取り出すところまでやっていた。  羽根を広げた鳥に似てるのは、肺臓か。 ふわふわと、頬のあたりに浮いていた。 煙草を吸わないだけあって、ピンク色の、綺麗な肺臓だった。 「〈南無遍照金剛〉《なむへんじょうこんごう》」  峰雪が小さく呟いた。 その小さな声で、僕の呪縛が解けた。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  牧本さんが悲鳴を上げた。  その悲鳴が、泡をびりびりと震わせる。 もっとも近くにあった泡が、大きく変形し、そして……弾けた。  ぬれ雑巾の落ちるような音がした。階段に血反吐と肉がぶちまけられる。 それが皮切りだった。 すべての泡は、弾けて地面にその中身をさらしたのだ。  鼻が曲がりそうな糞の臭いが、むわりと押し寄せた。 真夏の公衆便所の便器に、鼻先を押しつけられたような。  吐き気が、全身を駆けめぐった。  ああ、なるほど、と、僕は、頭の隅っこで考える。 泡は、そのためにあったのか。 狩りの痕跡を隠すため。 愚かな獲物が寄ってくるのを待つため。  しんと静まりかえった階段の下のほうから、ぴちゃりという音がした。 ゆっくりと近づくそれが足音と悟るより早く、僕たちは駆け出していた。  固い床に、上履きをたたきつけるように、僕は逃げた。 たちまち全身が熱くなり、喉がやけつく。 ごうごうという血のうなりが、すべての音を掻き消し、目の前は、紅い靄に覆われる。   肌も目も耳も舌も焼けるように痛んだが、臭いだけは消えなかった。 あの死体の臭いは、制服に、肌に、毛穴の奥にまで染みついたように思えた。  気が付けば。 峰雪も牧本さんも、いなかった。 僕が駆け込んだのは、馴染みの教室だった。  机によりかかって、僕は吐いた。 喉の奥を、胃の腑をひっくり返す勢いで、吐き続けた。  耳鳴りが静まり、自分の荒い息が聞こえだした時。 その奥に、僕は、もう一つの音を聞いた。                   ぴちゃり。                 ぴちゃり。                      ぴちゃり。  立とうとして。膝が動かなかった。 僕は、膝と手で、窓のほうへと這い進んだ。  どこか、脳の奥で、冷たい声が言っていた。 そっちに逃げても駄目だ。逃げるには、戸口を開け、廊下にでないと。  言葉は頭をぐるぐると駆けめぐったが、僕は、窓際に進んだ。 前の戸が、がたがたと揺れた。  ──嫌だ。  戸口から、一本の細い触手がまろびでる。 青黒い紐のようなそれは、ガタガタと揺れながら、ゆっくりと隙間を広げてゆく。  ──あれだけは嫌だ。  戸口の向こうにあるものが、僕にはありありと想像できた。 青黒い鱗。くねる触手。まばたきしない瞳。  ──嫌だ。嫌だ。嫌だ。  僕は、窓の外を見た。 窓を開ければ。ベランダに出れば。そこから飛び降りれば。  駄目だ。死ねない。  下は校庭の土だ。3階から落ちたくらいでは、死ねないだろう。 痛みにのたうつまま、あの触手に触れられる。 そう思うと、鳥肌が立った。  戸の隙間は、拳一個分ほどに広がっていた。  赤銅色の眼球が、僕を見つめる。冷たく、なめまわすような視線。  ──殺せ! 僕を殺せ!  ああ、誰か僕を。       ●6−10−2 「先に行け」 「あぁん?」   峰雪がすごむ。  「敵の狙いは、有意に高い確率で僕にある」  「それで?」  「行けば、皆が一緒に襲われる」  「おまえは、どうすんだよ!」 「単独行動で、あれを引きつける。 しかるのちに生き延びる」  「テメェ、死ぬ気か?」  「峰雪、君は人の話を聞かないという悪癖があるな。 生き延びると言っている」  「無茶だっつってんだよ!」  「最大多数の最大幸福というやつだ」 「いいのか、おまえ、それで?」  「原理原則は、確率や状況に優先する。僕はそう思っていたが?」  僕は走り出す。 「どこいくんだ?」   峰雪がついてきた。  「峰雪、もう一度言うが、君は人の話を聞かないという悪癖があるぞ」   やつは、無言で僕のことをぶん殴った。 論理を解さない上に野蛮な男だ。 「下の階にいって、おびきだす」  「よっしゃ」  「何をしている」   僕は、ついてくる峰雪に、問いかけた。  「俺もいく」  「最大多数の最大幸福の観点からして、それは意味がない」   走りながら僕は答える。 「人数が増えることによる生存率の増加と、失敗した場合の死亡者数の増加を勘案したっっっ!」   舌を噛んだ。 ついでに息が切れた。  「ぐちゃぐちゃ言うなっ!」   僕は、峰雪の言う通りにした。 今回ばかりは彼が正しい。 「九門君っ!」  廊下の向こうから声が響いた。牧本さんの声だ。 僕は、軽く手を振り走り出した。  公道を、四本足の獣が疾駆していた。 四本の足を優美に運び、尻尾を風に流し、それは投じられた短剣のように、優美に陽光を切り裂いた。  音速に迫る速度でアスファルトを蹴りながら、それは何一つ音を立てなかった。 風は、彼女の前で二つに分かれ、その尻尾の先で、静かに一つになった。  人の目には銀色の風。 地も震わさず、髪も揺らさず、ただ一瞬に過ぎ去るそれを、人は幻とのみ感得する。  まだ小さな幼子が、ただ、無心に狼の消えた先を見ていた。 母親が、その腕を引っ張っても、幼子は、なかなか動こうとはしなかった。 「そこまでだ」  銀風の前に、紅いコートが立ちふさがった。  それは小さな公園広場。 噴水の縁に、腰掛けた女。その背には、長く禍々しい太刀を背負っている。 「また、おまえか」  銀風は、一瞬で人の形を取る。 鼻が、くんくんと風を嗅ぐ。   噴水からは潮の臭い。 目の前の女からは冷たい鉄の臭い。 アスファルトとかいう、油っぽい石の臭い。   罠は、ない。ここにはない。 「通してくれないかな。ボクはカツキを助けにいくんだ」  「ほぉ、カツキを?」  「わだつみの民が、カツキのそばにいる」  「知ったことではないな。いや、知っているからこそ、通せん」   邪悪に微笑むイグニス。 「悪いけど、手加減はできないよ。 今度こそ、殺してしまうかもしれない」   淡々と少女は語る。 この前のような結界はない。 他の敵の臭いもない。 少女が全力を出せば、目の前の女を狩ることは、あまりにも簡単だ。  「獣風情が、どうして私に勝てると思う?」  「キミじゃボクについてこれない」  イグニスは、空を向いて笑った。  「速い? 速ければ勝てると。 四つ足は言うことが違う」   答えの代わりに、少女は、風に乗った。  踊るようにステップを踏み、イグニスの背後に回り込む。 腕が、その喉首に巻きついた。 「これで、わかった?」  噴水に足を浸し、少女は、イグニスの耳元で囁いた。 細い腕は、その首をひねる力を持て余し、口元の牙は、白い喉を狙っている。 「わかったとも」   イグニスは余裕の口調を崩さない。 「貴様ら、獣は、どうしようもなく愚かだ。 年ごとに一族を減らしながら、なぜ、そうなったかもわかっていない。 何かを学ぶ気力も何もない」  イグニスの言葉に、少女は動じなかった。油断なくイグニスのみに目を注ぐ。 ゆっくりと水は靴から染みこみ、しょっぱい噴水のしぶきが徐々に背中を、首を、帽子を濡らした。 「……時間稼ぎ? それとも、陽動のつもり?」  少女は、腕に力を込めた。 イグニスの手が自由を奪われる。その手には、黒光りする道具があった。 袖口から、こっそりと掴みだした隠し武器。 「たとえば、おまえは、これが何かも知らない」  少女が力を入れると、それは水面に落ちた。 ばちばちと火花を散らすスタンガンが、ゆっくりと塩の水に落ちた。  電撃が、少女を震わせた。  イグニスは、全身のバネを効かせて、噴水から跳んだ。 先ほどまでの余裕をかなぐり捨て、真剣な構えを取る。 言うまでもなく、コートとブーツは耐電仕様だ。  「どうした、その程度か?」   スタンガンのバッテリーは、すぐに切れた。 所詮、安物。 大出力改造した分、寿命も短い。  少女は、ふい、と、身体を揺らすように、噴水の前に降り立つ。 犬のように全身を震わせて、水滴を残らず振り飛ばした。  たいしてダメージがあるようには見えない。が、それは予想の内だ。  慎重に、距離を取って、イグニスを見すえる。  ──思うつぼだ。  両手の袖口から、暗器をすべらす。 半月型の刃を黒く塗った月牙。  イグニスが投じれば全くの無音で宙を飛び、夜ともなれば、その一撃は必殺である。 が、今は昼だ。  イグニスが、回転をかけて投げた月牙を、風のうしろを歩むものは、真正面から見すえ、拳で弾いた。 精妙なベクトルを加えられ、月牙は、少女の後方へ飛び去った。  白い包帯が、風に散った。  ぱっくりと口を開けた紅い線に、少女の顔が驚愕に歪んだ。 もう一投。  今度は左手。落としきれずに、角が指をえぐる。 「安心しろ。毒は塗っていない。卑怯だからな」  少女の顔が、驚愕から真剣なものに戻るのを待って、言葉を継ぐ。 「触覚は殺した。もはやおまえに勝ち目はない」  人狼の戦い方はよく知っている。 人間同士であっても、ぎりぎりの接近戦では、視覚よりも体感が重要なものとなる。  まして人狼の民は、風の御子。 彼らは目を瞑っても銃弾を避けることができる。  全身で風を感じ、その動きに沿って攻撃を「感じ取る」のが彼らの戦い方だ。 スタンガンによる電撃は、その触覚を封じるためのものであった。 「それでも」  少女は微笑む。 「ボクのほうが速い」  無論、その通りだ。細かく避けることができなければ、大きく避ければいい。 最速の一撃を正中線に打ち込めば、イグニスに避ける手だてはない。  イグニスは、両手の月牙を投じた。左右から大きくカーブして少女を襲う。  月牙が届くより速く、少女は、突進した。イグニスへの最短距離を。 愚かにも。  少女の動きには、一切の幻惑が欠けていた。 回避の所作は全くなく、一直線上を踏破してくる。相打ち狙いだ。  いかにも単細胞な考えだが、確かに強い。 月牙や銃弾を投じても、急所を外して受けられ……それでイグニスは終わりだ。  無論、イグニスには切り札がある。 切り札は常にあるのだ。  それは小さく、掌にすっぽり収まっていた。 小出力の、いわば子供のおもちゃだが、必要にして十分な威力を備えている。  両手に武器を構えた瞬間、少女は油断なく身構えた。 イグニスがスイッチを押す。 「くぅっ!」  少女の悲鳴が響き渡った。  繰り出された手刀を、イグニスはやすやすと避けた。   少女が転げ回って押さえたのは、その眼だった。 「おまえは人を舐めすぎだ」   イグニスは、両の手からレーザポインタを捨てた。 プレゼンテーション等に使う、紅い光点を投射するタイプのものだ。   電源は、単4電池が2つ。たった3Vの出力でも、位相、波長が完璧に揃えば、わずかの間に網膜を灼ききる強度を持つ。  変幻自在のフットワークで接近されれば手も足もでないが、愚直に正面から来るとわかっていれば、狙うこともできる。   手の中の小さな玩具は光の速度で人狼を貫き、弾丸も暗器も為しえぬ一撃必殺を成し遂げたのだった。  目から涙を流しながら、人狼は立ち上がった。 かろうじて、イグニスの声の方向を向く。 「まず触覚を殺した。次に視覚だ。見えまい? わかるまい?」  その耳に、嘲る声が届く。 「口が乾くか? 胸が詰まるか? それが恐怖だ。 愚者がまず学ぶべきは、その恐怖だ」  遠ざかり、また近づく声。 風のうしろを歩むものは、全身の毛が逆立つのを感じた。 「感覚が回復するまで、約10分。 その10分の間、おまえに本当の恐怖を教えてやる」  声と同時に、何かが風を切って飛来した。 その軌跡を寸前で感じ取り、風のうしろを歩むものは、不器用に、爪で薙いだ。  爪先に触れたのは、硬いガラスの感触だった。  両断したガラス瓶から、液体があふれる。 凄まじい臭いが、鼻を灼き、目を潰し、喉を焦がした。 「アンモニアだよ」  転げ回る少女にイグニスの声が響く。 「これで味覚、そして嗅覚も殺した。あとは聴覚だけだ」  涙を流し、咳き込みながら、少女は立ち上がる。両手で耳を守っている。  足が震えていた。 こんなことは初めてだった。  手負いの黒熊を倒した時も。 同族と命を競った時でさえ、今ほどの恐怖はなかった。 「どうした、逃げないか? 逃げるなら今のうちだぞ」  含み笑い。 「ボクは、逃げない。カツキを、護る」   口に出して叫ぶ。声が勇気に変わる。  「ご立派なことだ。 では。怖れるがいい」  「古人曰く、勇者は一度だけ死に、臆病者は何度も死ぬ」  「あと8分と47秒。 貴様は、何度死ねるか?」  ばさり、と、音を立てて、イグニスはコートを翻した。  鯉口が切られ、長大な太刀が引き抜かれる。   風のうしろを歩むものは、息を殺して、攻撃を待った。 全神経を集中させ、残ったわずかな感覚を展開させる。  ボクにはまだ、この耳がある。 風の声に耳を澄まし、そこにすべてをゆだねれば、勝機はある。   今度こそ、不覚は許されない。 生き残るために。 なによりカツキのために。   視覚は、徐々に回復しつつあった。 ぼんやりと浮かぶ紅い影に全神経を集中させ、少女は待った。 「ふふ……」  視界が完全に回復した時、少女が浮かべるだろう顔を想像して、イグニスは小さく笑った。  その姿は、黒のドレス。長い太刀も持っていない。   ああ、あの純朴な田舎者は、どんな顔をするだろう。   アスファルトに突き立てた太刀と、その上にひっかけたコートを見つけた時。   自分が8分と47秒の間、ずっと、即席のかかしに、必死な顔をしていたと知った時。 想像し、イグニスは、なんとも愉快な顔になった。  ──あとで、じっくりと鑑賞するとしよう。 次の現場……学校に向いながら、イグニスは、そう思った。  現場には、無論、隠しカメラが仕掛けてある。 イグニスという女は、万事において手抜かりがないのだ。  廊下の一番端の階段を僕らは駈け降りる。 「運が良ければ、回り込める」  魚人が正面玄関から入った場合、廊下の真ん中あたりに出ることになる。 僕らは、その右端。避難組は、魚人を挟んだ反対側、というわけだ。 「で、おびきだすのか」 「おびきだす」 「そのあと、生き延びるのか」 「その通り」 「どうやって?」 「ふむ」 「ふむじゃねぇ!」  言い合いする内に、一階に着いてしまった。 長い廊下の向こうから、悲鳴が聞こえた。  南第二階段は、パニックに陥っていた。 我先にと逃げようとする生徒たちが、折り重なり、狭い出口に殺到する。 あの人の山の中には、確実に転んで潰された人間がいるだろう。  教師達が、必死で、統制を回復しようとしていたが……まだ時間が必要なようだ。  なぜ、そうなったかは一目瞭然だった。  僕と、生徒達の間にある一個の影。 それは、足はなく、ただ長い尾びれがあり、両の手が触手のように伸びていた。  ゆっくりと、宙を泳ぐように、それは、廊下を進んでいた。 身をひねるたびに尾びれが地面に触れ、ぴちゃりと音を立てる。  魚人が、生徒の山に近づくには、まだ時間がある。 そう確認して、僕らは、ひとまず階段の影に隠れた。 「峰雪、携帯はあるか?」   僕の携帯はカバンの中だ。 動転していたようだ。  「あるが……」  「牧本さんを呼び出してくれ」  「おう」  小さな携帯のコール音が、滝の響きに思えた。 僕は、魚人に見つからないことを祈る。 峰雪が携帯を放って寄越す。 「僕だ。九門だ」  「九門君! 何してるの!」   声は、驚くというより怒っていた。 どうやら、避難を終えたらしい。  「君に頼みたいことがある。身の危険があることだ。断っても構わない」  「……いいよ。何?」 「全員の避難が終わったら、教えてくれ。 この番号にコールしてほしい」  「いいけど、九門君は? それとこれ、峰雪君の携帯でしょ?」  「僕たち二人は、あれをおびきよせて時間を稼ぐ」  「なによそれ!」  悲鳴に近い声に、僕は、急いで携帯を切った。 峰雪が、ゆっくり廊下の向こうをうかがう。 「だいじょうぶそうだぜ」  「よかった。着信は振動にしておけ」  「あぁ」   言ったそばから、携帯が揺れる。 「あぁ、俺だよ。ん? なんだ、その。匹夫の勇だよ。背水の陣だよ。 ここは俺に任せて先に進めってな。いいから、避難終わったら連絡くれ。じゃ」  早口で言って電話を切る。 「んで……どうやって、あれをおびき寄せるんだ? 飛びだして騒ぐか?」   僕は首を振る。  「確実性がないし、教師に見つかる危険がある」  「センコーがどうしたよ」  「我々を助けにこっちに来る可能性がある。 その場合、彼の危険が増すし、避難も遅れることになる」 「そら理屈だな。で、どうする?」  「一つ考えがある。 水を入れるのに適した容器はないか?」  「自販機があんだろ」  「ペットボトルを2、3本買って来い。 中身を捨てて、水を入れてな。 ついでに真空注射器はないか?」 「……おまえ、俺を何だと思っている?」  「ここ数分の評価は、頼りになる男だ。 なければ刃物でいい」  「……おう」  峰雪は、見事なナイフをポケットから放って寄越した。  「校則違反だぞ」   そう言った声は、無論、届きはしない。 ナイフの刃を引っ張り出し、僕は、切っ先を手首に当てた。 「待たせたな」   峰雪は、僕を見て、眉をしかめた。  「なにやってんだ」  「臭いだよ」  「あん?」  「音と姿を見せたくない。 となると、臭いで場所を知らせるしかないだろう」  ナイフを返すと、峰雪は、ハンカチで丁寧にぬぐった。  手首から小さく滴る血を、僕は、ペットボトルの中にたらす。 透明な水に、黒い血が、糸細工のように広がった。   キャップを甘く締める。 「あとは、これを投げればいい。生徒達に見つからないようにな」 「よっしゃ。〈南無八幡大菩薩〉《なむはちまんだいぼさつ》……」 「弘法大師じゃなかったのか?」 「黙れ。日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、この瓶、外させ給うな!」  峰雪の願いを天が聞き届けたかどうか。 ペットボトルは、うまいぐあいに宙を飛び、僕の血を混じった水を、撒き散らした。  からんからんと音を立てて落ちたところは、魚人の遙か後ろだ。  さて、どうなるか。 僕は、固唾を呑んで見守った。  魚人は、ほぼ、廊下の端まで歩ききっていた。 非常口に固まった生徒たちは、もはや、身動きが取れていなかった。 狭い出入り口に殺到し、将棋倒しになっている。  このままでは──そう思った瞬間、魚人の動きが止まった。  両腕を真上にあげる。 奇妙に長い両腕を、魚人は、ゆらゆらと揺らした。 非常口付近で、さらに悲鳴が上がる。  揺れながら、水かきのある手は、左右にくりくりと回転する。 やがてそれは後ろを……僕らのほうを向いて止まった。  両腕を挙げたまま、くるりと魚人が半回転する。 丸く、まばたかない目は、何を見ているのかは、わからない。 だが、魚人は、今、ゆっくりと廊下のこちらに向けて動き始めた。 「第一段階は成功だ」   生徒たちは気づいていない。 ただし、恐怖が去ったことでパニックが終わり、ゆっくりと……しかし着実に人の山は動き始めていた。 「第二段階の時間稼ぎだが……」  「おう」  「方法は二つある。逃げることと話し合うことだ」  「話し合う、だぁ?」   峰雪は、まるで、アサガオが知的生命体だ、と、言われたような顔をした。 「あぁ。同じ知的生物だ。コミュニケーションが取れるかもしれない」  「こみゅにけーしょん、だぁ?」   峰雪は、まるで、アサガオが歌って踊ってるナイスガイだ、と言われたような顔をした。 「ありゃ化け物だぞ」  「外見で決めつけるのは、正しくない」  「パトカーでお手玉したぞ」  「不幸な行き違いかもしれん」  「さっきおまえを狙ってるとか言ってなかったか?」  「確かめたわけじゃない」 「おまえ、それ本気で……」  「僕は君たちと違って、言った言葉に言外の意味とやらはない。 つまり──僕が言ったからには、僕は本気だ」   峰雪は肩をすくめた。  「テメェのほうがアイツについて俺より詳しいのは確かだな。任すぜ」   僕は小さくうなずき 「とりあえず二階に上がるまで待つ。 あとは、それからだ」   僕は、もう一度、ペットボトルに血を垂らし、水と混ぜてよく振った。 階段の下の段から、垂らしてゆく。  二階についても、峰雪はまだ壁のほうを見て、ぶつぶつ言っている。  「どうした?」  「〈山川草木悉皆成仏〉《さんせんそうもくしっかいじょうぶつ》」   悟ったらしい。  〈山川草木悉皆成仏〉《さんせんそうもくしっかいじょうぶつ》とは、すべての生命および無機物にすら、成仏の可能性があるという話だ。 確かに、それに比べれば、魚人と話し合うのも些細なことといえなくもない。   しかし。 「それは天台宗じゃなかったか?」  「宗論はどちらが負けても釈迦の恥。 細けぇことは気にすんな」   まぁ日本の主な仏教は、釈迦本来の教えからすれば、既に異端というか特殊なので、それが正しいかもしれない。  「それはそうと日本語、通じるのか?」  「知らん」 「そ、そうか。 んじゃ、ボディ・ランゲージは?」  「さぁ」   峰雪は、両手を大きく挙げた。  「襲いかかる熊のポーズか?」  「いや害意はねぇってことなんだが」 「そのポーズは、人間が、武器を持たないことを示すためのポーズだろう」  「なるほどなぁ。 道具使うようには見えなかったなぁ」  「体長を大きく見せるポーズは、基本的に攻撃や威嚇の意味が多いぞ」  「するってぇと……」 「一定の行動が降伏を意味することがある。犬なら、腹を見せて転がるな。 孔雀は首を差し出す」   昔、読んだ本に、そうあった。 孔雀のほうは未見だが。 「敢えて弱点をさらすことで、相手の攻撃衝動を止めることができる」  「弱点か。 するってぇと、人間だと土下座か?」  「そうだな。 土下座してる人間は蹴りにくかろう? 首筋と後頭部をさらして攻撃衝動を抑制しているという点では、起源は近いのだろう」  「よっしゃぁ」   峰雪は、階段を向いて土下座した。 気が早い男だ。 「ただし……種が違えば、降伏の姿勢が通じないことがある」  「するってぇとどうなる?」  「土下座してる時に、攻撃されたらどうなる」  「ぶるる……冗談じゃねぇ!」   峰雪は、ぴょこんと立ち上がる。 「臨機応変に構えるしかあるまいな。 相手を信じて」  「失敗したら?」  「逃げる。足は遅いようだ。 なんとかなるかもしれない」  ぴしゃん、と、音がした。 ぬれ雑巾を叩きつけるような、湿った音。 ぴしゃん、ぴしゃん、と、足音は近づく。  僕は峰雪と顔を合わせた。  「土下座か? 土下座だな」  「あわてるな」  階段の向こうから、のっそりと、それが姿を現す。 青黒い鱗に覆われた身体。   足のように伸びた二本の触手は、移動には使わず、太い尾びれで、地を這うように進む。 踊り場を渡り終えると、それは、階段を登り始めた。 「……危なっかしいな」   峰雪の述懐する通り、その動きは、みるからに、不安定だった。  狭い階段の幅に、尾びれを載せるのにだいぶ苦労しているようだ。 三段進んでは一段ずり落ちるというように、ゆっくり、ゆっくりと階段を上る。  たった二階までやってくるのに、これだけ時間がかかったわけを、僕はようやく理解した。 「見てらんねぇぜ」   峰雪が、階段を降りる。僕も一緒だ。  魚人が、びくりと震えて、我々を見る。  「なにもしやしねぇよ」   そう言って峰雪が両手を挙げた。 魚人は、身体を震わせて、峰雪を見る。 と、その両腕を、急に上方に突きだした。 「んだっテメェ、やるってか?」   峰雪が、妙な構えを取る。  「落ち着け、峰雪」  「そ、そうか。万歳は、ダメだったんだな」   峰雪が早合点して、土下座を繰り出す。 階段の途中で土下座をするとは器用な男だ。 「ちがう。あれは威嚇じゃない。おまえを真似してるだけだ」   両手を高くあげた魚人は、いまや、地面にうずくまり、身体を折りたたもうとしていた。 尾びれは人の足のようには畳めないらしく、土下座というより、単に這いつくばっているように見える。  「なるほどな」  峰雪が、立ち上がると、魚人も立ち上がった。  「忘れていたが、模倣はコミュニケーションの基礎だ」  「よし、こんな階段で立ち話もなんだ。ちょっとあがれや」  そう言って峰雪は手を差し出した。  魚人が、躊躇しながら、片腕を差し出す。 腕の先は、〈鰭〉《ひれ》そのものに見えた。   近づいてみれば、水かきの張った「てのひら」は、ひどく華奢にみえた。  「指を掴まないほうがいい。その〈鰭〉《ひれ》は、物を掴むようにはできていない」  「そうだな。おい、肩貸せ、肩」  峰雪は、そういいながら、自分の肩を、魚人の下に割り込ませる。  「克綺は、そっちだ」  「あぁ」   僕も魚人に肩を貸す。 鱗は、冷たく、わずかに湿ってはいたが濡れてはおらず、それほど不快ではなかった。 ぷん、と、強い水の匂いがする。  近づいて気づいた。 魚人は、服らしきものは全く身につけていなかったが、ただ一つ。 首からは紐で貝殻をつけている。   小指の先ほどの小さな桜色の貝殻で、気づかなければわからないが、気づいてしまえば、奇妙に目立った。 それは電灯の光を跳ね返し、きらきらと虹色に光っていた。 「いくぞ。おいっちに、おいっちに」   峰雪の号令に従い、魚人を階段の上に運び込んだ。 魚人の身体は信じられないほど重かった。 峰雪と僕、二人で運んでさえ、肩に食い込む重みは、鉄の塊のようだった。  何度か休みながら、ようやく、上についた時は、僕も峰雪も息を切らしていた。 魚人の足……触手が揺れる。 「いいってことよ」   峰雪がうなずく。 その解釈が正しいかどうかはさておき。   階段まで辿り着くと、魚人も普通に歩き出した。  「廊下で立ち話もねぇだろ」  その言葉に従い、僕たちは、手近な教室に入る。 僕たちは椅子に座り、魚人は、器用に教壇にもたれた。 その姿勢が楽なようだ。  峰雪を見ると、案ずるより産むが易しという言葉を思い出す。 種の違いを乗り越えてのコミュニケートも可能な気がしてきた。  「さて……」  「っとと」   その時、峰雪が、震える携帯を取りだした。 「ん? そうか。ちょい待ち」  「どうした?」  「牧本から。避難終わったとよ。あと外を見ろって」  言われて僕たちは窓に寄った。 「おい、なんかスゲーの来てるぞ」  校舎は既に包囲されていた。 校庭には巨大な装甲車が、何台も何台も並び、丸い防衛線を作っている。 その周りには、緑の軍服の男たちが活発に動いている。  異様だったのは、装甲車の群れに積まれたパラボラアンテナだ。 お椀型のアンテナは、すべて、斜め上を向き……ちょうど僕たちのいるあたりで焦点を結ぶ。 「おい、こりゃ、なんだ?」  牧本さんが知っているとも思えないが、ともかく僕は、峰雪の携帯に耳を寄せた。 「なんか制服の人が、もう帰れって。みんな摘み出してる。ちょっと!」  雑音。 ノイズ。  牧本さんはどうなったのか、と、思うより早く。  すべての音が、消えた。否。駆逐された。  全身を震わすボディーソニック。 可聴範囲よりさらに低い音波は、その強度で僕の全身を揺らしていた。  天井の蛍光灯が残らず砕ける。 だが聞こえない。その音は聞こえない。 無音の音が全ての空気を支配していた。  両手で耳をふさいでも、振動は消えない。 肉ではない。骨が揺れているのだ。  吐き気がこみ上げる。両の顎ががくがくと動く。 叩きつけられた歯と歯が、唯一の「音」だった。  はらわたがねじれる無音の振動と、がちがちと鳴る歯の間に、僕は、小さな小さな音を聞いた。  鈴を鳴らしたような。瀬戸物が割れるような。 小さな、澄んだ音。  音が、止んだ。それを待っていたかのように。 ピンと張られたゴムが手放されたように、身体を揺らす振動を失って僕は、その場に倒れた。  峰雪も一緒だ。 それが命を救った。  窓を割る一斉射撃。  ガラスの破片が、背に舞い散る。 反射的に指で払い、僕は痛みに顔をしかめた。 大きな破片で指先をえぐったのだ。  僕たちは這いつくばったまま、振り向く。  魚人は、その尾びれで立っていた。 全身の鱗にいくつもの穴が空き、青黒い血が染み出している。 「おい、だいじょうぶか?」  人は、時として愚かなことを聞くものだ。 虚ろな目が、僕を捉える。  単発の銃声。 そして爆発音。  峰雪の頭の脇では、床が大きくえぐれていた。  思い出したように、どこか遠くから第二の銃声が響く。 「な、なにしやがる」  両腕で、しゃかしゃかと後退する峰雪。器用だ。 僕も、身体を回しざま、後に続く。  虫のように地を這いながら、僕は、ふと気づく。  ──校庭にいる軍隊が、どうやって二階の床を、撃ったんだ?  床への一撃は、本気だった。 直前の射撃によって、魚人が上半身をのけぞらせなければ、間違いなく、峰雪の頭をえぐっていただろう。  一斉射撃が再開した。 鼓膜をなぐりつけるような衝撃の中、僕らは、必死で床を這う。  恐怖に振り返れば、魚人は未だ立ち尽くしていた。 その胸には、あの桜色の貝殻がなかった。  無数の着弾に身体を揺らしながら、両の腕をたかだかと挙げている。 宙をかきまわす腕に、黒い霞がまとわりつく。 みるみるうちに、霞は雲と化し、あたりに水の匂いが満ちた。  超常の風景に、僕の目が吸い付けられる。  雲からは雨が降り、魚人の上に降り注いだ。 弾丸が壁をえぐる破裂音に、水音が混じり始める。 水音は、ゆっくりと勢いを増し、やがて滝となり瀑布となる。  いまや、魚人の姿は、ふりそそぐ大量の水に浮かぶ幻でしかなかった。  水が、床に満ちる。 きらきらと光る硝子の破片を避け、僕は机の間を泳ぐように這った。 足を、腹を、冷たい水が濡らす。  冷たく光る水の中、ふと、目にした黄金色の輝きに、僕は手を伸ばす。 ──弾丸。  金色の紡錘形の塊。小指の半分ほどのそれは、まだ熱かった。 見回せば、それは、いくつも浮いていた。  耳を澄ます。 いまや銃声は遠くから響くものだった。  魚人を狙う弾は、すべて水の壁に叩き落とされ、虚しく水音を立てるのみ。 無駄を悟ったか、銃撃が止んだ。  魚人が、いまも天井から滝のようにこぼれ落ちる水の塊の向こうで、ゆっくりと回転する。 水面の一点に波紋が生じ、触手の先端を生やす。  神速の勢いで繰り出された触手は、有り得ぬほどに伸び、僕を襲う。 濡れた空気を灼き、飛来する触手の音を、僕は聞いた。  峰雪に腕を引っ張られなければ、それは僕の額を貫いていただろう。 頬を殺いだ触手が、たちまち引き戻される。 「三十六計目だ」  檀公の三十六計中、敗戦の計の内六の計こそが、走為上。 〈走〉《に》げるを以って上と為す。  もともと三十六は象徴的な数であり、三十六個すべてが決まっていたわけではないらしいが、ともあれ、峰雪の言うことには賛成だ。  僕は立ち上がって、峰雪のあとについて走りだす。  魚人の足は遅い。うまくすれば逃げ切れる。 その考えが甘いことは、すぐに思い知らされた。  足下の水は、徐々に嵩を増していた。 上履きに水が染みこみ、足を抜くたびに、ごぼりと音を立てる。 それでも最初は、まだ走れた。 「死ぬ気で走れ!」  峰雪が叫ぶ。 その言葉の意味は、僕にも分かった。いつ銃撃が再開するかもわからない。 僕は腕を大きく振り、全力で走る。  愚かなことに教室の戸は習慣で閉じていた。 水が染みた戸を開けるには、意外に力がいった。  転がるようにして教室の外に出る。  水は、すでに膝下まで達していた。 こうなると、もはや走るのは不可能となり、水中歩行を余儀なくされる。  そして。 魚人が泳ぎ始めた。  大きく姿勢を前傾させ、尾びれと両足をくねらせて進む。 その巨体で机の間の細い隙間をくぐりぬけ、ひとたびくねるごとに、魚人は、凄まじいほどに加速した。 衝撃が背後の机を天井まで吹き上げる。 「かいっっだん!」  峰雪が悲痛に叫ぶ。 階段までは、あと数メートル。  数段登れば、水は来ていない。 その数メートルが、命の分かれ目だった。  一歩ごとに全身をひねり、動かない足を交互に前に進める。 水の重さが、鉛のように足にまとわりつく。 「っしゃぁ!」  最後の一歩を峰雪が跳躍する。  差し出された手を取って、僕は、階段に……乾いた床に足をつけた。  見上げた峰雪の顔色が、みるみるうちに変わるのがわかった。  震えて言うことを聞かない足を無理矢理動かし、最後の力で階段を駆け上がる。  空気を裂く鋭い音。そして崩れる足場。 顔をしかめて僕は走った。  ほとんど予期していた痛みは、しかし、生じず、僕は、踊り場を曲がって、三階に辿り着く。  そこで、膝が、折れた。 膝と腕をついて、僕は、息を整える。  酷使した膝と……腰の筋肉が、鋭く痛んだ。 峰雪も、壁に手をついて休む。  幸い、水面は遥か下で、あのぴちゃぴちゃという足音も聞こえなかった。 「登るか」  「んだな」  僕らは、肩を貸しあって階段を上り始める。 流れる水音……ふりそそぐ滝、あるいは、勢いよく水を注ぐバスタブに似た重低音は、たえず背後からつきまとった。   水面は、上昇している。 常識で考えれば、窓から流れ落ちそうなものだが、常識ではないのだろう。  痛む足を押して僕たちは、階段を一段一段踏み越えてゆく。 そうしながらも、ひっきりなしに後ろを振り向く。 まだ、そこに水面が迫っていないか確かめるために。   非効率的だと思っていても、つい、そうしてしまう。 水音が耳障りだ。 「なぁ、克綺」   峰雪が、あえてゆっくりと切り出した。  「なんだ?」  「あいつ、さ。例の事件の犯人なのか?」  「どうしてそう思う?」 「テメェが言ってただろ、犯人は常識外のバケモンだとかなんとか。 アイツ以上に常識外がいたら、お目にかかりてぇぜ」  「妥当な推理だな。 だが、犯人かどうかは、保留だ」  「保留?」 「あれ……仮に魚人とするが、魚人の誰かが、事件に関わってるらしいことは確かだ。 だが、あの個体が人間を殺したことがあるかは、わからない」   かつて僕が見た「殺人犯」は、特殊部隊に射殺された。  「魚人の誰かって……あれが沢山いるのか?」 「そういうことだ」  「なるほどな」   峰雪は、しばらく黙った。 「なぁ克綺。死にたくねぇなぁ」  「あぁ死にたくないな」  「あいつも多分、同じだろうな」 「異種族に人間の感覚を当てはめるのが正しいかどうかは分からない。 ただし、かなりの確率で個体は自己保存を行うべく進化するだろうし、あの魚人も、そうした行動を肯定する行動体系を……」  「だから、よ」   峰雪は、僕の言葉を遮った。 「こんな乾いた陸まで、わざわざやってきてよ。階段一杯登ってよ。 そこで窓から撃たれたら、そりゃ、頭に血も上るだろうよ」  「そうした感情移入が当てはまるかどうかは……」  「結論だけ言え、結論だけ」  「おおむね賛成だ」  「うし」   峰雪が、うなずいた。 「血ぃ流すのはごめんだ。 うまいことやろうぜ」  「それが最上だな」   僕たちは、うなずいた。   気が付けば、屋上へ通じる扉があった。 僕たちは階段を上りきったのだ。 水面は、まだ、遠かった。 「うっしゃぁ。広いってな、いいねぇ」   峰雪は、足をストレッチしている。 合理的な行動だ。僕も見習うことにする。 「我々は追いつめられたわけだが」 「テメェのマイナス思考はさておいてだ」  「合理思考だ」  「アイツは今、頭に血が上ってる。 怪我させずに取り押さえりゃいいわけだ」  「望ましいな。で、その方法は?」  「うまいこと二人でかかって、ロープでぐるぐる巻きにする」 「幾つか矛盾点がある。 まず、あの魚人は、僕と峰雪をあわせたより力がありそうだ」  「ンなもんは気合いよ!」  「それと、ロープはあるのか?」  「……」  峰雪は、必死にポケットを探った。 出てきたのはケースに入った包帯だった。 「これで、どうよ!」  「強度的に不安が残るが、まぁやるしかあるまい」   それにしても几帳面な男だ。  「何メートルだ?」 「6.5メートル」  峰雪が、目を近づけて、表示を読む。 「さっきの攻撃を見る限り、射程距離は4メートル以上。ギリギリだな」 「大丈夫だ。安心しろ」  「一応聞くが、根拠は?」  「なぁに、俺は死ぬ時は畳の上。 娘2人と孫4人に囲まれてって決めてんだ」  「息子は?」  「二人姉妹で、息子はいねぇ。 娘婿は、仕事で遅れて間に合わねぇって寸法よ」   細部まで作り込まれた妄想のようだった。 「まぁいい」   僕は溜息をついた。  「時に峰雪。 さっきおまえは、うまいこと二人でかかって、ロープでぐるぐる巻きにする、と言ったな」  「おう」  「うまいこと、の部分に、何かアイディアはあるか?」 「ねぇ」   簡潔な答えが返ってきた。 「仕方ないな」  僕は辺りを見回す。 「重りになるようなものはあるか?」  ほぼ何もない、コンクリ床の屋上だが、片隅に、ビニールシートにくるまれた山があった。 「あー、学祭用の建材だな」  峰雪が、その下をめくる。 「使えそうなものはないか?」 「煉瓦と角材だな」  重りになるか、と、思ったが、煉瓦は案外固かった。 欠いてる暇はない。 「峰雪、携帯と包帯を貸せ」 「おうよ」  僕は、開いたドアの前に立って、呼吸を落ち着けた。 片手には、包帯が握られている。 先端には重り用に、峰雪の携帯を結んである。  心の中で、何度も手順を反芻する。 すればするほど粗が目立つ計画だった。  何度目かの溜息をついた時、ざぶり、と、入り口から、水が溢れた。  ──来たか。  ゆっくりと水が広がってゆく。 広がり切った時には、もう、勝ち目はない。 その前に──おびきだす。  僕は、戦う構えを取った。 ゆっくりと、ゆっくりと、後ずさりする。 魚人が、尾びれをひねり、特有の動きで近づく。  距離を保ったまま、僕は、少しずつ、少しずつ下がる。 入り口と、魚人の距離が、わずかずつ空いてゆく。 今は1メートル。2メートルは欲しい。だが。  水は、ゆっくりと僕の足の裏を浸した。 限界か。 「峰雪!」  僕は叫ぶなり、携帯を投げつけた。  しゅるしゅると広がって、包帯が宙を跳ぶ。 包帯が、魚人の脇を擦り抜ける。 「よっしゃ!」  ドアの裏から飛びだした峰雪が、見事にキャッチした。 そのまま魚人の後ろを走り越しながら。 「克綺!」  僕に返球。 返球と同時に。魚人が触手を放った。  見て〈躱〉《かわ》す、なんて真似はできやしない。 動いた気配を感じた途端、僕は、右に跳んだ。  爆発。こめかみのあたり。  引き戻される触手は目に見えた。 血は出ているが、生きてはいる。  目で携帯を探す。 あった。左上方。  手を伸ばす。掴む。すべる。抱きしめる。 なんとかゲット。 「行くぞ、オラァ!」   峰雪と僕は、全力で包帯を引っ張る。 輪になった包帯が、魚人の胴を締め上げた。 これで倒れてくれれば……と思った、そうはいかなかった。   魚人は、根が生えたように動かない。   ……となれば、第二弾だ。  僕と峰雪は、包帯を握ったまま走った。 魚人のまわりを、ぐるぐると。   細い包帯が締め上げたのは魚人の胴で、両の触手も腕も全く自由だった。 だが、僕らがどたどたと走り回る間、攻撃は全くなかった。   魚人の表情は読めないし、異種族に過度の感情移入は禁物だが──おそらくは、あきれていたのではないか。 とまれ、数回転の後、僕らは、魚人をぐるぐる巻きにした。  僕と峰雪は、顔を見合わせた。 「作戦成功!」   峰雪が小さくガッツポーズを取る。  「ふむ」   かすかな希望は、次の瞬間、もろくも崩れ去った。  軽く、ほんとうに軽く触手が閃き、包帯は完全にちぎれ跳んだ。  「!!」  声にならない悲鳴を上げ、僕たちは走る。  闇雲に走り、フェンスに激突して止まった。 「峰雪。僕らの行為は非論理的だ」 「るせー、わかってんだよ、んなこた!」  入り口の前には、魚人がいる。 かといって、フェンスの外は……校舎の裏、垂直な壁だ。  魚人は動かない。 遅い足で動けば、僕たちは、回り込んで校舎に入ることが可能になる。 だが動く必要はないのだ。  ひたひたと、水はくるぶしを浸した。 ざわざわと波が押し寄せる。どうどうと水音が轟く。  視界の端では、例の学祭用の角材が、ぷかぷかと浮かび始めていた。 水が、膝に近づいた頃。  あれが動く。 フェンスを乗り越えるか?  水しぶきを浴びたフェンスは、つるつると、よく滑った。 「ちっきしょう」  峰雪が、歯がみした、その時だった。 ざわざわと鳴る波に、どうどうと轟く水音に、僕は、どこか違和感を感じた。  水音。轟き。 違う。水音に混じる、これは違う。水音ではなく──  爆音。 明確なリズムを持った爆音は、フェンスの向こうから轟いていた。  それは、一瞬で、僕の頭上に姿を現した。 ヘリコプター。  兵器には、あまり詳しくないが、左右から押しつぶしたように、縦に平べったいその形は、戦闘用だからと推測された。 前方投影面積を減らし……要するに、弾に当たりにくくする工夫だ。  兵器と判断できる材料は、もう一つあった。 正面下についた機銃だ。  銃座が回転するのを、僕は、しっかりと見た。  大口径の機関銃が、僕のほうを、ぴったりと向く。  次の瞬間、我に返り、両耳を押さえて水の中へ飛び込んだ。  衝撃は、水を通してさえ伝わった。 目、鼻、耳が、荒れ狂う水に叩かれる。 揺れが収まった頃、僕は、おそるおそる顔を上げた。  機関砲が狙ったのは、当然ながら僕ではなかった。そうであれば、僕は今頃死んでいる。 それは、僕の向こうの魚人を狙ったのだ。  恐るべきことに、魚人は、まだ、生きていた。 左の脇腹に、大きな穴が空いているが、それだけだ。  機関銃弾を避けた。 あるいは防いだ?  魚人が、両の腕を上げた。 屋内にさえ雨雲を呼んだその腕は、一瞬で空を暗くした。  沛然と、雨が降り始めた。 大粒の雨が、痛いほど顔を打つ。 目を開けていられない。 「峰雪!」   大声で叫んだ。 「克綺!」   怒濤の向こうに、かすかに声が聞こえた。 あっという間に、水が胸まで達する。  轟音が轟く。 骨の髄まで走る衝撃とともに、視界が白く染まった。  雷。かなり、近い。  もう一発。 赤々とした光が目に飛び込む。  額を熱気が叩く。冷たい雨の中に現れた熱さに、僕は本能的に近づいた。 「危ねぇ」   峰雪に腕を掴まれて、はじめて気づいた。 それは、炎上するヘリだった。  ローターは煙を噴き上げ、フレームは、ぐにゃりと溶けていた。 シュウシュウと蒸気を噴き上げる機械は。  雷光。  今度こそ、完全な鉄くずと化した。 それは、まるで昔見た、子供向けのアニメのようで。  崖っぷちを歩くコヨーテが。獲物に気を取られ、そのまま宙に一歩を踏み出す。 数歩踏み出してからコヨーテは、初めて足下に何もないことに気づくのだ。  両足ををじたばたと振り回し、両手は何かを掴もうと、空に向き。 しかして、その後、落下するのだ。  炎と黒煙を噴き上げるヘリ。 そのローターは、完全にねじまがっていた。  不規則な回転で、ヘリコプターは、痙攣するように上下し、一瞬だけ、宙にとどまるかと思えた。 だが、それは幻想に過ぎない。 一瞬後、重力が追いついたそれは、炎の残像だけを残して視界から消えた。  最後の瞬間。  炎から、何かが分離した。   灰色の人型。  それは宙を跳び、魚人の前に着水した。 波が、僕を持ち上げ、そして落とす。 ゆらゆらと波間に漂いながら、僕は、がたがたと震えていた。  歯の根があわない。 今や、僕は完全に泳いでいた。水は冷たく、かすかに潮の臭いがした。  魚人と灰色の巨人。 その戦いは、分厚い雨に阻まれて、ほとんど見えなかった。 広がる波だけが、戦いの証だった。 決着は、唐突についた。  雲間から陽光が差し込む。 現れた時と同じ唐突さで、黒雲は消え去った。  髪からしたたる水をぬぐって、僕は、空に顔をかざした。 暖かな日差しが身体の細胞にひとつずつ、ひとつずつ染みこんでゆく。  何も考えられなかった。 僕は、呼吸に酔った。   雨も風もなく、ただ、新鮮な空気が肺に入ってくる。 そのことが、たまらなく嬉しかった。 魚人たちのことを思い出すには、しばらく時間がかかった。  平泳ぎで方向を変え、あちこち見渡す。   水面は、鏡のように静かで、何一つなかった。  その真ん中で、ごぼり、と、何かが浮かんだ。 細長く、先端が扇状に広がったそれ。 腕、と認識するまでに、しばしかかった。  ごぼり、と、もう一本。 そして、首。 雨水を青黒く染め、ちぎれ落ちた死体の破片が次々と浮かぶ。  その真ん中から、灰色の頭が顔を出した。 灰色と見えたのは、一種のボディースーツだと、僕は、ようやく理解した。  身体が、がたがたと震えた。 胃がねじれるようだった。   暖かさを感じた身体が、ようやく寒さを思い出し、それが生理的嫌悪感と混ざって、手のつけられない悪寒となった。  ──逃げる。   しかしどうやって?  その時、波が来た。  魚人が、死んだ。 それによって、水を縛り付けていた力も解けたのだろう。 しかし、水そのものはなくならない。  その結果は──津波。 目の前に、そびえたつ水の壁。 泳いで越えることは、論外だった。  逃げようと僕は、振り返り、硬直した。 水面の高さは、とうにフェンスを越えていた。  ──流される。   膨大な水。そして水。 プール一つ分の水の質量が、位置エネルギーとなって、波に変わる。  僕は、泳ごうとした。 無駄だ。意味がない。 垂直の壁を登るようなものだ。  水の壁が、崩れる。 頭上からのし掛かるそれは僕を、振り回し、もみくちゃにし、揺さぶった。 「南無遍照金剛!」   何かが僕の腕を取った。  時間にして、多分、数秒程度のことだったのだろう。 「克綺……克綺!」  徐々にはっきりとする声に、僕は顔を向けた。両の耳が、水で一杯だ。 僕は、こめかみを叩いて水を出す。 「危ねぇところだったな」  僕は峰雪にぶらさがり、峰雪が両手でしがみついているのは……一本の角材だった。  フェンスのど真ん中に突き刺さっている。 おそらくは、あの水流で流された勢いだろう。 「ああ、ありがたい。一本の、お材木で助かった」   峰雪が意味不明の感想を吐く。 「九死に一生を得た、というところか」  僕は呟く。 見回したところ、灰色の巨人の姿はなかった。水で流されたか……。  僕は、足を伸ばして、角材にすがりつく。まだ、降りないほうがいい。 あらかた流れたとはいえ、水の流れは急だ。足をすくわれかねない。 「見ろよ。すげぇぜ」  峰雪が、下を指して呟く。  窓は、すべて割れていた。水門のように、あらゆる窓から、水が、どうどうと滴る。  そして、校庭には、クレーターとも言うべき大穴があいていた。 中心にあるのは、かつてヘリだった鉄くずだ。 焼けこげ、歪んだヘリのフレームからは、もはや、元の形は想像できなかった。  峰雪は、どちらを指してすごい、と、言ったのか。 「あ、いたいた! カツキ、生きてる?」  耳に馴染む声に、僕は、振り返った。 僕らが屋上に入ってきた出入り口。 その天井に、風のうしろを歩むものが、ひょっこりと立っていた。  「生きている」  「よかった」  声には、めずらしく、疲れた響きがあった。 よくみれば、目が紅い。 包帯も、ところどころ黒く濡れている。  「どうした?」  「ううん、ちょっとね。よっと」  少女は、水面を蹴るように、数歩で僕たちのところまで来た。 「風のうしろを歩むものちゃん、どっから上がって来たんだ?」   峰雪がいぶかしげに聞く。   単純に考えれば、校舎の裏を、登って来たのだろう。 彼女ならそれくらい苦もなく行うはずだ。 「なんか、銃もった人に、回りは囲まれてるよ」  「なるほど」   あの緑の軍服だろう。  「だから、どっから入って来たんだ?」   峰雪が、控えめに言う。 「お休みなさい」   少女が顔を近づけ、小さく息を吐く。 「お、おい……」   峰雪は、そう呟くやいなや昏倒する。 「ゆっくり寝て。今日のことは忘れて」   抱き留めた少女が囁く。 「忘れさせたのか?」 「忘れさせる、なんて、できないよ! 忘れてもらったの」  「誰だって、いやなことは忘れたいからね。それを後押ししただけ」  「ふむ……となると、この男が、とてつもない脳天気で、今日の事件に、何らトラウマを感じていなければ、忘れない、ということだな」 「とらうまって、何?」  「とっても嫌な思い出だ」  「うん、じゃぁカツキの言う通りだよ。 でも、そんな人、滅多にいないから大丈夫だよ」  「滅多に、か」  僕の知る限り、峰雪というのは、一般人の規格から微妙に外れた変なやつだ。  考えれば考えるほど、嫌な記憶を素直に忘れてくれるような男には思えなかった。 が、それはいい。 「カツキ、そろそろいかないと」   階段を登る靴音が、かすかに響いた。  「あんまり関わり合いになりたくないでしょ?」  「あぁ。だが、どうやって包囲を突破する?」  「目をしっかりつぶって、ボクをつかまえて。腰のとこがいいや」  少女は、両腕に峰雪を抱え、僕は少女の腰に抱きつく。 ウェストに腕を回せば、自然とヒップが頬にあたる。 頬に触れたそこは、暖かく、自然な弾力があった。 「か、軽くでいいよ、軽く」   少女が、どこかあわてた声で言う。 「さ、いくよ」  目をつぶったまま、僕は、うなずいた。  少女が、ぐぐっと足をたわめ、そして、跳んだ。  身体が宙に浮く。  少女は跳んでは駆け、駆けては跳んだ。 その一歩一歩は、夢見るように長く、高かった。  暗闇の中で、僕は、宙を舞った。 少女が上へ跳ぶ時は、足が地面を向き、大地に戻る時は、両足が空を蹴った。  数メートル。数十メートル。百メートル。  僕は気づく。 今、少女の足下に、屋上の床があるはずがない。僕の足下にも。 この娘は、どこを、なにを、蹴っているんだ?  好奇心に負け、僕は、目を開けた。そして後悔した。  体感では、僕は、ほとんど動いていなかった。 ただ、少女の腰に捕まって、ゆるやかに浮沈を繰り返していただけだ。  目から飛び込んだ景色は、回っていた。  青い空と、米粒のような町並みの両方が交互に見える。 少女は、木の葉のように風に舞いながら、複雑に姿勢制御をしている。  危険なほど大地に近づくたびに、器用に身を翻し、足から着地した。 そのまま少女は地を蹴り、その身を空に飛ばす。  途端に景色が逆回転し、空が、太陽が近づきはじめる。  その間も、僕の体感は、僕が、ほとんど動いていないと告げていた。 きりもみ回転する少女に振り回されることも、空に舞うほどの大加速で少女が地を蹴ったことも、すべては有り得ないことだった。  見当識喪失。 すさまじい吐き気と恐怖が、僕に襲いかかった。  組んだ両手が、少女の腰から離れる。 身体が、ゆっくりと少女から離れ……そして。  空気抵抗と重力が、うなりをあげて僕に襲いかかった。 耳元では、轟々と風が鳴り、僕は、頭を下に、煉瓦のようにまっすぐ落下した。  少なくとも、と、僕は思う。 視覚と体感は一致した。 風が目をふさぎ、耳をつんざき、肌を削る。 思考が、空転した。  ふいに、静寂が訪れる。 柔らかな風が僕とともにある。暖かな、新緑の薫風が、僕を包み込んだ。 「手、放しちゃダメだよ、カツキ」  細い手に抱きしめられて、僕は、困惑する。 小さな胸に顔をうずめて、僕は、無重力の空に漂っていた。 安らぎに身をゆだねて、僕は、ふと気づく。 「峰雪は?」  ここは空中だ。少女は、僕を両手で抱きしめている。 では……あの男はどこへ行ったのだ? 「ん、だいじょぶ。さ、カツキ」  うながされて僕は少女の腰を掴む。 上空から悲鳴が聞こえた。 「ぎぃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁ!」  豚のような悲鳴。低めの金管楽器を、思い切り吹き鳴らしたような不協和音。 ……目を覚ましたのか。 不幸な男だ。  少女は、身体をひねり、プールサイドでターンするように宙を蹴った。  石のように落下する峰雪を両手でつかむ。 赤子のように身体をまるめる峰雪に、少女はそっと囁いた。 その身体の震えが止まる。  くるくると回る景色に、僕は、再び目をつぶった。 それから三歩の跳躍を経て。 「カツキ、降りるよ」  言われて、僕は、下(と思われる方向)に足を突っ張る。  柔らかく着地。  風のうしろを歩むものも、僕の前に着地した。   ずっと風に吹かれていたせいか、びしょぬれだった制服も、とりあえず水が滴らない程度には乾いている。   あたりの景色にはかすかに見覚えがあった。 学校から数キロ離れた住宅街の一角だ。 メゾンからは、ずいぶん離れている。 「遠いな」  「でも、ここは網の外だよ」   包囲網が、町中に広がっていたということか。 僕は、空と、学校の方向を眺めた。  「いくつか聞きたいことがあるんだが」  「なに?」   少女は、峰雪を抱えたまま、答えた。 「学校に、何をしに来たんだ?」  「なにって、カツキを助けに来たんだよ! ガッコウに、変なニオイがしたから、てっきり何かに襲われてるって思って」  「その通りだ。戦闘には間に合わなかったようだが」 「……ゴメン」   しゅんとする少女に、僕は首を傾げた。  「何をあやまっているんだ?」  「カツキ、怖かったでしょ? 痛かったでしょ。 もうちょっと早く着いていたら、カツキを助けられたのに、ほんとにゴメンね」 「多少の恐怖はあった。それほど痛くはなかった。むしろ疲労が深い。 僕を助ける義務を君は負っていない。 よって、それは後悔の対象ではあるかもしれないが、あやまる必要はない」  「カツキ……それ、怒ってるの? それとも、なぐさめてるの?」  「どちらでもない。単に事実を指摘しただけだ」   僕は、しばらく考えて、つけくわえた。 「それはそうと、来てくれて助かった」   少女は、それを聞いて嬉しそうにうなずいた。  「よかったよ、カツキが無事で」   小さな舌が、ちろりと唇をなめる。 かすかな寒気を感じて、僕は話題を変えた。 「さっきは……空を飛んでいたな」  「ボクは鳥みたいには飛べない。 跳んだだけだよ」  「風の力を使えるのは知っていたが……明らかに重力および慣性が変化していたように思えるのだが」  風で身体を動かし、外気を遮断するのはともかく、あれだけ振り回されていることに僕は気がつかなかった。   もし、僕の主観ではなく、慣性自体が打ち消されたのであれば、ニュートンからアインシュタイン、そして現在に至る、あらゆる物理学の基盤が打ち崩されたことになる。 「ジューリョクってナニ?」   答えは予想を超えていた。  「物を地面に引きつける力だ」   僕は、ガリレオとニュートンとアインシュタインに心の中であやまりながら、かなり誤った要約を述べた。  ちなみに問題なのは、重力ではなく慣性のほうだ。   つまり、風を操って重力に逆らい、ふわふわと浮くことはできるが、その場合でも、さっきのように回転したり、急停止、急加速すれば、僕は、そのことを感じていたはずだ。 なのに、僕は、滑らかな移動しか感じなかった。 気になる点は、そこだ。 「つまり、どうやって身体を軽くしたかって、聞きたいの?」  「そうだな」  「簡単だよ。 風に好かれればいいんだよ」  「意味がわからない」  「え?」 「風に好かれることと身体が軽くなることの関連性が掴めない」  「む〜」   少女は、額に指を当てて考える。 空はなぜ青いの、と、幼子に聞かれた大人のようだ。   しばらくして、こっちを向いたその顔は、晴れ晴れとしていた。  「あのね、空を見て」   僕は言われるままに空を見上げる。   まだ陽は高い。 風がなく、日差しが暖かいのは幸いだった。 濡れた制服を、少しずつ乾かしてくれる。  「お空のてっぺんには、お日様とかがある、炎の国があるんだ。 そのすぐ下にあるのが、風の国」  「ほう」   他になんと答えることができただろう? 「その下が水の国で、一番下が、ボクたちのいる土の国」  「ふむ」  「カツキやボクの身体は、ほとんど土でできているんだよ。 だから、風の国からは追い出されるし、土の国には好かれる。 それが、物が落ちる理由」  「独創的な宇宙論だな」   あるいは古典的というべきか。 「でね。さっきボクは風にお願いして、ちょっとボクたちのことを好きになってもらったんだ。 だから、ボクらは、風の国にいやすくなったんだよ」   少女は、わかった? という顔を浮かべた。  「……カツキ、どうして黙ってるの?」  「文化的相対主義と、その帰結について悩んでいる」  「なにそれ?」  僕は、この少女に、微積分の概念を叩き込んで、ケブラーの法則と、慣性の法則とニュートンの運動方程式と、特殊相対性理論をわからせるには、どれくらいの時間が必要かを考えていた。   こうした考え方は、ある種の傲慢なのだろう。 少女は、自分の世界観を持ち、しかも、それは、彼女に関する限り正しいのだ!   先ほどの飛翔はそれを証明している。 だが……しかし……。 「なに、なんか文句あるの?」  「君と僕では、宇宙観が大きく違う、と言っておく」  「カツキの宇宙は、どうなってるのさ?」  「宇宙の起源をどこに求めるかは難しい問題だが、とまれ空間相転移で解放されたエネルギーが、ビッグバンを生み……」 「ビッグバンって?」  「原初の火の玉だ」  「じゃぁ、やっぱり最初は、火なんだね。ボクたちと一緒だ」  「……そのあたりで手を打とう」   僕は小さく溜息をついた。 「さて、僕は疲れた。そろそろ家に帰ろうと思うが……こいつは、どうする?」  僕は峰雪を見た。 少女の腕の中で、気持ちよさそうにいびきをかいている。 「リョウは、ボクが送ってくよ」 「疲れてないのか?」 「身体は、そんなに。さ、起きて」  少女は、峰雪を降ろし、その耳元に囁いた。  峰雪が寝ぼけた顔で、起きる。 ふらふらと上体を揺らしながら、なんとか立っている。  「さ、これからおうちに帰って、ゆっくり寝るよ」   少女の声に、峰雪は、がくがくとうなずく。  「よっし、じゃ、いくよ」  少女は峰雪の手を取って、歩き始めた。 峰雪も、半ば目をつぶったまま、その後を追った。 「大丈夫かな?」  僕は首を傾げた。 そういえば、何か忘れている気がする。が、まぁ、考えてもしょうがない。 僕は、家路に着いた。 「逃げよう」   僕は、峰雪に言った。 峰雪の言う通り、向こうが僕もしくは人間一般に敵意を持っている確率は、有意に大きい。 そしてその場合、コミュニケーションに至るより早く、身の危険がおよぶ可能性が高い。 「合点承知之助だ」   峰雪がうなずく。  「で、どうするよ?」  「さっきと逆をやる」  僕は、ペットボトルに血を注いだ。  「行くぞ」  二階に上がり、ペットボトルをよく振ったのち、蓋をゆるく閉めた。  「投げろ、峰雪」  「おう」  ペットボトルは、血の混じった水を振りまきながら、廊下の奥へ転がった。 囮になってくれればいいが。 「僕らは、3階……いや4階を回って、違う階段から下りよう」   魚人の足が遅ければ、うまく回り込んで避難通路に出られるはずだ。  3階、そして4階へ。  あとは、長い廊下を全力疾走だ。  中途まで来た時、峰雪が、携帯を取りだした。  「おう……そうか……わかった。じゃな」  「どうした?」 「牧本だ。避難があらかた終わったとよ」  「ふむ。吉報だ」   あとは、階段を駈け降りて、逃げればいい。  「それと……校庭を見ろってよ」  「ん?」  僕たちは手近な教室に入った。 峰雪が身体を低くして、ゆっくりと窓に近づく。 僕も、それに習う。  窓の外にあったものに、僕は、息を呑んだ。 予想はできたことだ。がしかし、していなかった。 つまり、驚いた。  校舎は既に包囲されていた。 校庭には巨大な装甲車が、何台も何台も並び、丸い防衛線を作っている。 その周りには、緑の軍服の男たちが活発に動いている。  異様だったのは、装甲車の群れに積まれたパラボラアンテナだ。 お椀型のアンテナは、すべて、斜め上を向き……ちょうど僕たちのいるあたりで焦点を結ぶ。 「おい、こりゃ、なんだ?」   牧本さんが知っているとも思えないが、ともかく僕は、峰雪の携帯に耳を寄せた。 「なんか制服の人が、もう帰れって。みんなつまみだしてる。ちょっと!」  雑音。ノイズ。 牧本はどうなったのか、と、思うより早く。  すべての音が、消えた。否。駆逐された。  全身を震わすボディーソニック。 可聴範囲よりさらに低い音波は、その強度で僕の全身を揺らしていた。  天井の蛍光灯が残らず砕ける。だが聞こえない。その音は聞こえない。 無音の音が全ての空気を支配していた。  両手で耳をふさいでも、振動は消えない。 肉ではない。骨が揺れているのだ。  吐き気がこみ上げる。両の顎ががくがくと動く。 叩きつけられた歯と歯が、唯一の「音」だった。  始まった時と同様に、唐突に音がやむ。 ぴんと張った弦を放したかのように、僕らは、がくがくと揺れて、ぶっ倒れた。  ガラスの破片に手を切らなかったのは、ただの運だ。 「痛ぅ! 驚天動地の震天動地だ!」   地面は揺れた。天井は震えた。 正確な形容というべきだろう。 「なんだ、今のは?」   答えるより早く、連続した爆音に足下が揺らいだ。  「やつら……撃ってやがる」  耳をふさぎながら、窓をのぞけば、装甲車から無数の火線、そして煙が立ち上るのが見えた。 火線は、下の階に注がれていた。避難が完了していればいいんだが。 「なんだか知らねぇが、こうなりゃ三十六計目だ」   檀公の三十六計中、敗戦の計の内六の計こそが、走為上。〈走〉《に》げるを以って上と為す。   もともと三十六は象徴的な数であり、三十六個すべてが決まっていたわけではないらしいが、ともあれ、峰雪の言うことには賛成だ。  僕たちは廊下に走りだす。   その途中。  ふと、視界の端に見たものに僕は足を止めた。 「おい! 何してる?」   峰雪が心配そうに立ち止まる。  「いや、なんでもない」  僕は走り出す。 気のせいだろう。こんなところにあるはずがない。  ふと、くるくると回る藍色の傘が見えたのだ。 それは、廊下の柱の影に吸い込まれるように消えた。 「んだっ……てんだ!」  峰雪が、ぶつくさ呟く。 「すまん」  僕も、足に力を込めて廊下を走る。 次の瞬間。  廊下が揺れた。景色が回った。 天井に、放り出されたと気づいたのは、冷たい床にたたきつけられてからだ。  立ち上がろうとして、僕は血を吐いた。驚くほど大きな血の池ができる。 白いものが二つ。前歯だ。  痛みはなく、目眩がした。 血が、穴にしたたり落ちた。  穴。固い、廊下の床には、頭ほどの大きさの穴が空いていた。 不粋な灰色のコンクリと、ねじれた鉄骨がのぞいている。 どれほどの力で貫かれたのか、鉄骨の断面は紅く光っていた。  穴のその奥に、青黒い巨体が覗いた。 目が。瞬くことのない目が、こちらを見つめる。  尾びれの横に生えた、脚に似た触手が、ふいにぶれた。 感覚が加速される。時間が引き延ばされる。  亜音速で飛来する触手が、徐々に大きくなるのを、僕はこの目で確認した。 全神経が告げていた。 ──動け。さもなくば死ぬ。  右腕は折れていた。左腕で床を支え、のろのろと、足が地面を蹴る。 少しでも、それから遠ざかるように。  穴を越えた触手が、その尖った先端が僕の視界の中でみるみる大きくなる。 身体を傾け、限界まで首を曲げ、その軌道から身を離す。  ざっくりと触手は顎をえぐった。痛みより先に、失血で目が眩んだ。  まだだ。 逃げなければ。 その思いは、唐突に断ち切られた。  背中に鋭い痛みが走ったのだ。 通り過ぎた背中で、空中は方向を転じ、僕を襲っていた。  一秒にも満たぬ、かすかな時間。引き延ばされた瞬間。 ゆっくりと、ゆっくりと、尖ったものは、脊髄をえぐった。 全身が……文字通り、指先から脳天まで、全身が、炎に灼かれたように痛んだ。  業火に焼かれる苦痛は、のたうちまわることすら許さず。 僕は、触手の侵入する1ミリ1ミリを感じた。 痛みが限界に達した瞬間。  ぱきん、という、乾いた衝撃とともに、首から下の感覚が、失せた。  痛み。歯の痛み。頬の痛み。首の痛み。 だがしかし、それは耐えられる痛みだ。  脊髄が破壊され、限界を超える痛みが遮断されると、いやに耳がよく聞こえた。  ずぶずぶと触手がはらわたをえぐる音。 飛び散る血の滴り。 峰雪の叫ぶ声。  その声さえも薄れ。 もとより目も利かず。 僕は、暗闇の世界に取り残された。  ──ああ、ここには──がいない。 意識が消えるまでの、わずかな間。 僕は、痛烈に孤独を意識した。  小さく、柔らかで、生意気な少女。 名前さえ思い出せないそれがいないことに、僕は、泣いた。        帰り道は、小一時間ほどかかった。 午後の日差しを浴びながら、服を乾かして帰るには丁度いい散歩だった。  おおむね乾いた頃、僕はメゾンについた。  門を開ける。 「克綺クン?」  管理人さんが、目をまるくして僕のほうを見た。  「ただいま」  「克綺クンなの?」  「見ての通りですが」  管理人さんが、あまりにも意外な顔をするので、僕は、自分の姿を点検する。 服は……かすかに湿っているが、いつもの学生服だ。 髪は、それなりに乱れているかもしれない。 いくつかかすり傷はあるが、容貌の変化は少ないはずだ。 鏡を見ていないから定かではないが。   つまり、管理人さんが驚く理由は、外見上のものではない。 となると、状況的なものか。 僕がここにいるはずがない、という。 「恵ちゃん、早く! 克綺クンが帰ってきたわよ!」  数秒の間を置いて、恵が文字通り飛びだして来た。  身体ごとぶつかるように、僕を抱きしめる。 僕は、その背に腕を回し、背を叩いた。 「何が、悲しいんだ?」  恵の目は、泣きはらしたように赤かった。 「何言ってるのよ! 心配したんだから!」 「僕を、か? なぜだ」  恵は、しゃくりだして泣き始めた。その背をそっと押さえる。 「学校に、殺人犯が入ったのでしょう?」   管理人さんが、説明してくれた。  「避難が始まっても帰って来ないし、あちこちから電話があって大変だったのよ」  「そうですか」 「それと、あとで牧本さんに連絡してあげなさい」  「牧本さんに?」  「ええ。九門君は、まだ帰ってませんかって、心配してたわよ」  「はい」  なるほど。事情が分かった。 僕たち二人が取り残された、と、牧本さんが伝えたわけか。 「死んじゃったかってっ思ったんだからっ」   鼻声で、恵が囁いた。 心の読めない僕にも、恵の心痛は分かる。   家に連絡しなかったのは他意はない。 携帯は教室のカバンに入ったままだ。 今頃水浸しだろう。  「僕は無事だ」  「お兄ちゃん……」  恵は、涙に濡れた顔をあげて、こくんとうなずいた。 その髪を、僕は撫でる。 ずっと昔に、こうしていた気がする。   撫でながら、僕は思う。   恵が好きだ。 この暖かな温もりが、呼吸が、不安と悲しみに向けられることは、なんとも耐え難かった。  僕は、恵に心配してほしくない。 僕の妹に、つらい思いをかける心配など、あってほしくない。   その時間に、もっと、楽しい、暖かい思い出を作ってほしかった。   だから僕は言った。 「無駄な心配をしたな、恵」   そう言った瞬間、恵の顔が変わった。 僕は、かけるべき言葉を間違えたことに気づく。  音を立てて、頬が鳴った。   恵は、僕の足を思い切り踏みつけると、背を向けて、メゾンに入っていった。 「克綺クン? 怪我してるわね」  「たいした傷じゃありません」  「いいから、ちょっと来て」  管理人さんの声音に、常ならぬものを感じて、僕は、部屋についていった。 「手首、怪我してるわね」  「これは、自分でつけた傷です」  「いいから」   僕は上着を脱いで、シャツの袖をまくる。  「あら、ひどいわね」   シャツをまくると、ぴりりとこびりついた血が剥がれ、あちこち出血した。 「ガラスが入ったんだと思います」   割れた蛍光灯のガラス片。 あれが、服の中に入ったのだろう。  「その分じゃ、背中も、怪我してるでしょ。はい、ばんざい」  言われるままに、僕は、両手を挙げた。 管理人さんが、シャツを脱がしてゆく。  背に、ぴりぴりとした痛みが走った。 「あ、ほんとに、ガラスね。危ないわよ、これ」  「手当は自分でできます」  「背中の手当ができるわけないでしょ。ちょっと来なさい」  管理人さんは、僕の腕を引っ張るようにして風呂場へ連れ出した。  慣れた手つきで、ベルトのバックルを外し、ズボンを一気に下げる。   ……さすがに動揺した。  「入って、入って」   管理人さんは服のままシャワーを取り出す。 「そこに手をついて」  言われるままに、僕は浴槽に手をついた。 尖った鉄が、背に触る。 そのたびに、痛みと、何か、それ以外の刺激が背筋に走った。 「結構あるわね。背中じゅう、きらきらしてるわよ」  ふさがりかけたかさぶたを、ピンセットでかきわけ、小さな小さなガラスの粒を拾い出す。 管理人さんの手際は完璧だったが、それは、かすかに痛く、むずがゆく、じっとしているのがつらい刺激だった。 「ガラスは危ないわよ。身体の中に入ったら大変でしょ。もうちょっと、こっちね」  腰を押されて、僕は少し右に姿勢を変える。 「そうそう、見えるわ。次は、こっち」  背中のガラス片を取り終わったらしく、管理人さんは脱脂綿での消毒に移った。 こちらは単純に痛かった。 「痛」 「さっきの……克綺クンにしても、ちょっとひどかったわよ」 「恵ですか?」 「そうよ。恵ちゃん、ずっと心配してたんだから。 ここで私と一緒にテレビ見ながら、顔を青くして、震えてたわ」  確かに恵の部屋にはテレビがない。 顔を青くして震える恵。僕は、その姿を克明に思い描けた。 あれは……まだ事故があって間もない頃。 「それじゃ、前向いて」   物思いは、管理人さんに優しく断ち切られた。  「え?」  「前も、傷、あるでしょ」  「結構です」 「そうはいきません。命に関わる問題よ!」  「それは飛躍です」  「いいえ。傷口から血管に入ったらどうするの? さ、こっち向いて」   滅多にみせない剣幕に負けて、僕は振り返った。  「恥ずかしかったら、目、閉じてていいのよ」  言われて僕は目を閉じた。 管理人さんのピンセットが、胸元をまさぐってゆく。  ふむ。 目を閉じていても恥ずかしい。 むしろ、目を閉じるから恥ずかしいのではないか。  僕は目を開けた。 管理人さんと目があう。 「あら、痛かった?」 「……」 「男の子だもん。我慢しないとね」  僕は意志力を結集して、口を閉ざした。 が、意志で操れるのはそこまでだった。  人間には随意筋と不随意筋、交感神経と副交感神経がある。 意識的に動かせる部分と動かせない部分という区分だ。  高度な精神統一で、後者を制御できるという話もあるが、少なくとも僕には無理な芸当だ。 何が言いたいかというと、僕の下着の中身が膨らむのは、単なる意志では止まらないということだ。 「……あら、元気ね」  「管理人さんの治療行為が性的刺激になったんです。他意はありません」  「……他意がないというのは、本意ってことカナ?」  「違います」 「違うって……断言されると、私、悲しいな」   管理人さんが身体を寄せる。僕の裸の胸に、管理人さんの胸が近づいた。 唐突に僕は、風呂場にこもった熱気を意識した。額から汗が流れる。 「ここは暑いですね」 「ま、いいわ。あんまり克綺クンからかうと、恵ちゃんに怒られちゃう」  その言葉が、僕を暑さから解放した。 「恵は、どうしてテレビなんか見たんです?」  「あら、見ちゃいけないの?」  「見せなければよかったんです」  「どういうこと?」  「僕は、無事に帰ってきたんです。あとから気づけば、笑い話にもなったでしょう」   管理人さんは、一つうなずいた。 「ああ、そういうこと。 それでさっき、無駄な心配なんて言ったのね」  「ええ。ほんのわずかな偶然さえ作用すれば、恵は、悲しまないですんだ。 だから、そんな心配は無駄だったんです」  「無駄な心配なんてないのよ」 「心配自体が何かを変えるわけではありません。 僕は、生きて帰ったし、それは恵が心配したからじゃない。だったら……」  「克綺クン、わかってない」   管理人さんは、そう言って、僕の額を弾いた。  「好きな人を心配するのは、無駄じゃないわ。それは、特権なの」  「特権……?」 「ええ。恵ちゃんは克綺クンのことが好きだから、精一杯心配するの。 それを止めなさいっていうのは、嫌いになれってことよ」  「前後につながりが見出せません」  「克綺クンは理屈っぽいけれど、時々、おばかさんよね」  「僕にはわからないんです。本当に」 「いいえ、これはわかるはずよ。たとえば……克綺クンならどっちがいい? 外国にいる恵ちゃんが事故にあったとして。 事故の話を聞いて、何もできなくて心配だけするのと、死んだ後から聞かされるの」  「話を聞きます。 隠した人がいたら、僕はその人を恨みます」 「どうして? 心配自体が何かを変えるわけではないでしょう? だったら、心配は無駄じゃないの?」   管理人さんは、優しく問いかける。  「それは僕が恵の兄だからです。 兄が妹を心配するのに理由はいりません。 無駄でもなんでも、僕は心配したい」  「ほら、わかってるじゃない」  「なにを言ってるんです?」 「克綺クンのよく言う対称性よ。 自分で言ったことの、兄を妹に置き換えてみたら?」   僕は頭の中で置き換えてみた。 対称性は成立しない。  「それでは筋が通りません。 妹は兄を心配することなんかないですから」 「……重症ね」   管理人さんは、ピンセットで傷口をさぐりながら、そう言った。  「かすり傷です」  「そうじゃなくてね」   管理人さんは、消毒薬を別の傷に押しつける。僕は悲鳴をかみ殺した。 「ま、とにかく。世の中に、無駄な心配なんてないってこと。 だから、心配するな、なんて言っちゃだめ」  「はい、おしまい」   絆創膏を貼り終わって、管理人さんは、そのうえを、ぽん、と叩いた。 「ありがとうございました」  「あとで恵ちゃんに、あやまっときなさい」  「あやまるべき言葉が思い当たりません」  「言葉じゃなくてもいいでしょ。 たとえば──」  そう言って管理人さんは、僕を抱き寄せた。   柔らかな胸に顔がうずまる。 管理人さんの胸の中は暖かくて、日に干した洗濯物とご飯とおみそ汁の匂いがした。 優しく指が髪をなでる。  「何を、しているんですか?」   もごもごと声が響いた。 「こうしてると、落ち着かない?」   確かに、落ち着く。 身体の力が抜けてゆく。 自分でも気づかずに、肩肘張っていたところが、ことごとく緩んでいく。   ──気持ちいい。ずっとこうしていたい。   僕は、頬を、その気持ちいいものに押しつけた。 「克綺クンは、甘え上手ね」   言われて僕は、身を離す。 「僕は、甘えていたんですか?」  「そうよ」   そうか、あれが甘える、ということか。   僕は両親の記憶が薄い。   “甘え”た記憶は、ほとんど残っていない。 「僕の理解によると、確か、無関係の大人同士で甘えるのは、社会的に問題のある行為ですね」  「そんなことないわよ」  「僕の理解はおかしいですか?」 「ううん。克綺クンは店子。私は大家。 大家といえば親も同然。店子といえば子も同然。 だから、克綺クンは、思いっきり甘えていいの」   僕は、その言葉を検証した。 論理的な間違いは、とりあえずない。 がしかし、どこか納得がいかない。 「元気でた?」   僕は、ゆっくり立ち上がる。 さっきより、手足が軽かった。 息をするのが楽だ。 「僕は……元気がなかったんですか?」  「ええ。顔に書いてあったわよ」  「ほう」   僕は他人の表情がわからない。 無論、自分の表情も。 「さ、ちゃんと、恵ちゃんにあやまってきなさい。 おいしい夕ご飯、つくってあげるから」  「そうします」   僕は、管理人さんに頭をさげた。 「その服、まだ濡れてるわね。こっち着てきなさい」  「はい」  管理人さんが取りだしたジャージを僕は身につけた。 「では」  廊下に出ると、上の階から恵が見下ろしていた。 「あ、お兄ちゃん……」  そう言いかけて、急に身を翻し、部屋に戻る。 何か……大きな誤解がある気がするが、僕は、ひとまず部屋に戻った。  部屋について考える。 管理人さんのジャージは、快適ではあったが、どこか落ち着かない。  いつもの制服が一番いい。 そう思って僕はジャージを脱ぎすてた。  洋服ダンスを開けると、窓を閉じた室内に、一陣の風が吹いた。 それはベッドのシーツをふわりと膨らませ、僕の髪をかきあげて、ハンガーに吊した制服をかすかに揺らした。  窓が開く。 「カツキ、ただいま」   少女は、くるりと窓枠から部屋に入った。  「その窓には鍵をかけてあったはずだが……」  「あ、これって鍵なんだ。入りにくいと思ったよ」   どうやら、さっきの風は、彼女の仕業らしい。 「鍵は、人に入ってほしくない時にかけるものだ」  「ふーん」   少女は、興味深げに聞いてから、疑問を発した。  「カツキは、ボクを部屋にいれたくないの?」 「そういうわけではないが、予告なしに入られると困ることもあるな」  「どんな時?」  「着替えてる最中とか」   僕は、とりあえず制服のズボンに足を通し、ベッドに腰掛けた。 「だから、これからはノックしてくれ」  「わかったよ」   少女は元気にうなずいた。  「それで、何の用だ?」  「うん。リョウは無事に家に着いたよ。それだけ」  「わかった」  控えめなノックの音が響いた。  「……お兄ちゃん」  「あ、メグミ!」  風のうしろを歩むものが、ドアを開いた。  恵は、顔を紅くして、無言で扉を閉めた。  僕は考える。 今、恵の見たものは、上半身裸でベッドに座る僕と、その前に立つ風のうしろを歩むもの。  その前に恵が見たものは、管理人室から服を着替えて現れる僕。 一筋の汗がこめかみから滴った。 「メグミ、なんか悲しそうだったよ。 どうしたの?」  「話すと長くなる」  「話してよ」  そこで僕は話した。 今日、メゾンに着いてからのことの経緯を最初から話してゆく。 「そりゃ、カツキが悪いよ!」   聞き終わるなり、風のうしろを歩むものは断言した。  「君が窓から入ってきたのが原因の一つなのだが」  「そうじゃなくて! カツキが無駄な心配とか言うのがいけないんだよ」  「何が悪いんだ?」 「無駄な心配なんてないよ!」  「管理人さんにもそう言われた」  「当たり前だよ! メグミにあやまらないと!」  「しかし、どう、あやまったらいいのか」  人間同士が持つテレパシーのうち、もっとも、よくわからないのが、この「あやまる」という行為だ。   どうも僕があやまればあやまるほど、人は「反省していない」とか「生意気だ」とか理不尽な怒りに駆られるらしいのだ。  「僕が何か言うと、人を怒らすことが多いんだ」 「カツキはあやまるの下手そうだよね」   風のうしろを歩むものは、憐れむように言った。  「あぁ」  「だったら、こうすればいいんじゃないかな。 とにかくメグミに喜んでもらうことをするんだ」  なるほど。怒りというマイナスを平常心というゼロにもっていくのではなく、とにかく、数を加えて、ゼロを越えることを期待するわけか。  「風のうしろを歩むもの」   僕は、少女の手を取った。  「な、なに?」  「そのアイディアは素晴らしい。 さっそく実行しよう」  「うん。そうするといいよ」 「それはそれとして……恵は、どうすると喜ぶだろう?」  「メグミとカツキは兄妹でしょ?」  「あぁ、血はつながってないがな」  「そうなの? へー、そうなんだ。ふーん」   少女は、興味深げに何度もうなずく。 「どうした?」  「ん? ちょっとびっくりしたんだ。 匂いが似てたから」  「匂いについてはよくわからないが、とにかく義理の兄妹だ」  「ま、兄妹だったらさ。 一緒に遊んであげるのが、一番いいと思うよ」  「建設的な助言に感謝する」 「いいよ、これぐらい。 だから、早くカツキも生きる目的を見つけてね」  「努力しよう」  風のうしろを歩むものが部屋に帰ってから、僕は携帯を探し……峰雪の携帯を見つけた。  そういえば、屋上で預かったままだった。 水に濡れたせいで、故障していた。  僕の携帯は、カバンごと学校だ。 あれもどうせ水浸しで使えないだろう。  さて。 峰雪の自宅の番号は何番だったか?  苦労して思い出し、滅多に使わない室内電話のボタンを押した。 「もしもし九門ですが」 「九門君か。久しぶりだな」   電話を取ったのは、峰雪の父だった。 声は柔和だが、隠しきれない迫力がある。 「お久しぶりです」 「綾なら、学校から帰って寝込んどるよ。 なにやら大変だったそうだな」 「ええ、大変でした」 「相変わらず、正直ものだな。今、起こしてくるよ」 「いえ、寝ているなら結構です」 「なぁに、すぐだ」  オルゴールのメロディのあとにでてきたのは、不機嫌そうな声だった。   「おう、俺だ」   途端に、電話の向こうで、はっ倒される音がした。  「友達に、そんな言い方があるか!」 「うっせぇ、この糞親父が」   低い響き。 肉弾相撃つ、乾いた音。 「もしもし、克綺君ですか?」 「峰雪、似合わんぞ」  「それは親父に言え。で、何の用だ?」  「おまえの対人交渉能力を見込んで知恵が借りたい」 「嬉しいこと言ってくれんじゃねぇか」  「恵を喜ばせるために遊ぼうと思うんだが、何かいい方法はないか?」  「喧嘩したか?」 「なぜわかる?」   電話越しにテレパシーが伝わるとは。 「初歩的な推理というやつだよ、ワトソン君。 うまいとこ仲直りしてぇってんだろ?」  「ふむ、その推理は、おおむね正しい」  「で、どうして喧嘩ンなったんだ?」   僕は、本日二度目の説明をする。  「そりゃ、おめぇが悪ぃ。 だいたい無駄な心配ってのは……」   テレパシーは、やはり存在する。 彼らは、裏でつながっていて、全員、口裏を合わせて、僕を馬鹿にしようとしているのではなかろうか? 「いや、それはもういい。 だから、仲直りの方法を教えてくれ」  「そうだな。じゃ、どっか誘ってやれよ。 恵ちゃん、きっと喜ぶぜ」  「どっかとはどこだ? 明確にしろ」  「二人でいて楽しいとこだろ」  「恵がどこを楽しいと思うかがわからない」  「……兄妹だろ?」  「それが?」 「じゃぁ克綺、おまえはどこに行きたい? 自分が楽しめないとこいっても、ぎくしゃくするぜ?」  「そうだな……行きたいところはさしてない。 しいていえば自室でくつろぎたい」  「おまえに聞いた俺が馬鹿だった」  「全くだ」   僕らは電話越しに笑いあった。 「……遊園地。おまえら遊園地行け」  「遊園地? なぜだ?」  「不易流行。 流行にして定番。 基本にして奥義よ」  「ほう。そうなのか」   よくわからないが僕は感心した。 「わかったら、二人で行ってこい」  「峰雪は来ないのか? 遊びなら多人数のほうがよかろう」  「それ本気で言ってんのか?」  「僕は常に本気だ」   峰雪が聞こえよがしに溜息をつく。   「いいか。耳の穴、かっぽじって、よぉく聞きやがれ。 これから、テメェに、仲直りの秘訣を教え込んでやる。 言われた通りにしろ」  「これは勘違いかもしれないが、その言い方にはかすかな悪意を感じる気がする。言われるままにしていいのか?」  「テメェはともかく恵ちゃんを俺が悲しませると思うか?」  「思わん。失礼した」   峰雪の助言は、基本的に意味不明だったが、まぁ元から自分にわからないことを聞いているのだ。 相手を信用して、素直に受け入れるしかあるまい。 「……ってところだ」 「わかった」 「いいか、言った通りにしろよ。 そうすりゃ恵ちゃんもイチコロだ」 「死ぬのか?」 「……いいから、とっととあやまってこい」 「そうしよう。それでは、さらばだ」 「あぁ。幸運を祈ってるぜ」 「恵」 「どうしたの、お兄ちゃん?」   どこか疲れた声。 「あやまりにきた」 「待って」  ぱたぱたという足音。それからドアがゆっくりと開く。  恵が顔を出した。 怒ってはいない。微妙な表情だ。   警戒されている? 「椅子とかないけど……」  恵は、ベッドに腰掛ける。僕も、その隣に座った。 部屋を見回す。  僕の部屋と、そう変わりはない。来たばかりだから、当たり前だ。 小さな机と、ベッド、それに箪笥が家具の全てだった。  机には、綺麗なクロスがかけられ、その上に、人形の家があった。 持ってきたとは思えないから、このへんで買ったのだろうか? 「あれは?」  「管理人さんの。 可愛いっていったら、貸してくれたの。 部屋が殺風景だからって」  「確かに殺風景だ」   僕は同意する。 恵が、ぴくりと動いた。   そして、ひとつ溜息をつく。 「お兄ちゃんって、ほんと悪気がないよね」  「無論だ。他人に悪意を抱くことはあるが、恵に抱くことはない」   恵が、小さく息を呑む。  「すぐ、そういうこと言うよね」  「思っている通りのことだ」  「うん。わかってる。だから……」  「だからなんだ?」 「さっきのことも、ほんとはわかってたんだ」  「心配しない方が望ましいわけだから、心配したことは無駄だった。 だから、そう言っただけだ」   恵が僕の口まねをする。  「そんなとこでしょ?」  「その通りだ。素晴らしい。 僕たちの意志は通じ合った」   僕は重々しくうなずいた。 「理性でわかっても感情的に納得できないってことない?」  「あるが、それがどうした?」  「今、そういう気持ちなの」  「ふむ。感情的な疲れはたまると身体にもよくない。 ストレスは解消すべきだ」  「うん、そうだね。 お兄ちゃんのお話は、おしまい?」   恵の声には、疲れがあった。 「いや、それでだな」  「明日、遊園地に行かないか?」   恵が、目を丸く見開く。  「峰雪君にでも誘われたの?」  「いや、二人でだ」  恵の目は大きく見開かれて僕を見ている。 首と肩は前に出ているが、腰は微妙に浮いて、いつでも動ける体勢だ。 その姿勢の意味するところは、たぶん警戒心。  「恵には心配かけたからな」  「お兄ちゃん?」  「なんだ? 行かないのか? 用事でもあるか?」  「ううん、行く。絶対行く」 「それはよかった」   僕が微笑むと、恵の頬がみるみるうちに染まった。  「急に、どうしたの?」   峰雪の指示には、これも織り込み済みだった。  「恵の喜ぶ顔が見たくてな」   恵は、いまや、顔一面に疑念の表情を浮かべていた。 「……喜んでないようだな」  「ううん、嬉しいよ?」   疑問形だった。言葉も。表情も。  「じゃぁ、明日の10時半。駅で待ち合わせだ」  「待ち合わせって……一緒に出ればいいじゃない」  「そうしたほうが雰囲気が盛り上がるだろう」  今度こそ、恵は、あとずさった。 はためにわかるほど深呼吸する。  「誰?」  「九門克綺。おまえの兄だ」  「じゃなくて! 誰の入れ知恵?」  「聞きたいか?」   峰雪だ。 「……ううん、いい」  「そうか」  「うん」   僕は、ゆっくりと立ち上がった。  ドアへ向けて歩くと、恵の視線が、僕の背を追う。  言うだけ言ったら、なるべく早く、部屋を出ること。  それが、峰雪の指示だった。  だが、僕は、いたたまれなくなって振り向いた。 「なぁ恵」  「なに?」  「おまえに喜んでもらいたいことだけは僕の本心だ」  「つまり、ほかは違うのね?」  「……」  なるほど。 峰雪の忠告の意味がよくわかった。 僕は、恵の顔を注視する。 疑念から怒りへ。   そうなると思っていた。 だが。  驚いたことに、恵の表情は、柔らかくなった。   かすかに微笑んでいる。 微笑んでいるのだろう。 微笑んでいてほしい。   よく笑顔で怒る時の冷たい笑みではない、と、僕は信じたかった。 「お兄ちゃん?」  「な、なんだ?」  「ありがとう」   僕は、ほっと息を吐いた。  「どういたしまして」  そう言ってドアを閉める。  早足で部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。  僕には心臓がない。 だが、もしあったのであれば。  今は、きっと、激しく脈動しているだろう。 「カツキ! 管理人さんが手伝ってって」  元気な声に呼ばれるまで、僕はベッドに倒れていた。 「今いく」  答えて階下に降りる。  管理人さんの部屋には、すでに、恵と風のうしろを歩むものが来ていた。 「はい、これ」   風のうしろを歩むものが、僕に渡したのは……うちわだった。  「なんだ?」  「管理人さんが手伝ってって」  見れば、二人もうちわを持っている。 どこでもらったのかわからないが、墨で黒々と格言が書いてある。   恵のが「〈捨身飼虎〉《しゃしんしこ》」 風のうしろを歩むものが「〈暴虎馮河〉《ぼうこひょうが》」 そして、僕のが「〈騎虎之勢〉《きこのいきおい》」   ……虎か? 虎なのか? 「あら、克綺クンも来たのね。じゃ、そこに並んで」  管理人さんが現れる。なぜか、ねじりはちまきだ。 テーブルの上の大きな木の寿司桶の前に、僕たちは並ぶ。 「はい、ご飯が炊けました」  大きな羽釜を取り出し、管理人さんが蓋を取ると、白い湯気と、おいしそうなご飯の香りが、部屋中に漂った。  管理人さんが、間髪いれず、しゃもじでご飯をよそい、桶に平たく移してゆく。 全部移した後、用意してあった合わせ酢を取る。  しゃもじを振るい、桶のご飯を切るように混ぜながら、合わせ酢を混ぜ込んでゆく。 ご飯は、綺麗なピンク色に染まった。 「さ、やさしく扇いでね」  管理人さんの言葉に従い、僕たちは、ぱたぱたと酢飯を扇ぐ。 風のうしろを歩むものは、あおぎながらも興味津々といった顔で、酢飯を見ていた。 「すごいや。いい匂いといい匂いがふれあって、もっといい匂いになるよ」  「確かに」   僕はうなずく。  「まずね。お米でしょ。お米のお酢でしょ。梅干しと、赤紫蘇。ショウガ。 あと海のお塩。それとお醤油」   目をつぶりながら、一つずつ数え上げる風のうしろを歩むもの。 「わかるの?」   恵が、半信半疑で管理人さんのほうを見る。  「あら、よく、隠し味までわかるわね」  「へぇ、隠してるんだ」   少女が感心する。  多分、この少女に「隠し味」という概念は、通用しない。 どんな微量な味も、鼻と舌で見つけ出すだろう。  「はい、克綺クン。手が止まってる。ちゃんと扇いでね」   僕は、言われて、扇ぐ手を早める。管理人さんは、さっきから、軽やかにご飯をかき混ぜている。 「これって、なんで扇ぐの?」   風のうしろを歩むものが、根本的な疑問を口にする。  「湯気を吸うと、ご飯が、べったりしちゃうでしょ? だから、ちゃんと扇いで、湯気を取ってあげるの」  「冷ませばいいの?」  「ううん。熱くないと、今度はお酢が馴染まないの。だから、力任せに扇いでもダメよ」 「わかったよ!」  少女の扇ぎ方が、わずかに変わった。 手首の動きが柔らかくなり、うちわがくねるように動く。 ふわりとした風が、僕たちまで届く。 「そうそう、そんな感じ」  管理人さんも、酢飯をかき混ぜる手を早めた。 段々と、その手際が、寿司職人というよりは、中華に近づいてゆく。  ご飯は、中華鍋の炒飯のように、宙を舞った。 ただし、中華のように荒々しくはない。  管理人さんの振るうしゃもじはあくまで優しく、ご飯は、空気を含んで、ふわりと宙に舞う。それは中空で風に吹かれて、また、ふわりと桶に戻った。 「こんなの見たことない」   恵が呟く。 「そうだな」  管理人さんと、風のうしろを歩むもの。 いずれ劣らぬ二人の技量があって、はじめて成し遂げられる技……なのだろう。きっと。 「二人とも、手を止めない」  ぼうっとしていると、風のうしろを歩むものに怒られた。 彼女一人で十分じゃないかという気がするが、そういうものでもないらしい。  いずれにせよ、しばらくして、湯気が切れた頃には、腕は、ずいぶん疲れていた。 「はい、お疲れ様でした。ご飯、もうちょっと冷ますから待っててね」  部屋で悶々と待つ十分は地獄の責め苦……というのは言い過ぎか。 とにかく、ご飯の香りに食欲中枢が刺激され、お腹が空いて空いて仕方がなかった。 「さ、みんな、ご飯よ」  階下から、その声が聞こえてきた瞬間に、僕は階段を駈け降りる。 恵、風のうしろを歩むものも、すぐ後ろからついてきた。  勝手知ったる人の部屋。 扉を開けて、食卓の席に座り込む。 「ほう」   思わず吐息がもれた。期待を裏切らない現実。  食卓には、三つのお椀。その中には、海鮮丼。 それも、中身がそれぞれ違う。   一つ目は、ウニ丼。 きっちりと形を保った新鮮なウニが、これでもかとばかりに載っている。そこへ、香ばしく焼いた焼き海苔が、これまた細切りでなみなみと。   二つ目は、まぐろの山かけ。 独特の色合いは、ヤマイモではなく〈自然薯〉《じねんじょ》だろう。 出汁で延ばした中に、色鮮やかな、まぐろがのぞく。   三つ目は、アジだった。 新鮮なアジを、きっつけの立った刺身にし、青紫蘇と胡麻を、思い切り刻んで入れてある。 酢飯との相性は最高だ。  僕は、二人のほうを見る。恵は、陶然とした目で、山かけをみていた。 そういえばあいつ、寿司屋にいくと、いつも赤身を頼んでた。 風のうしろを歩むもののほうは……微妙な顔をしていた。 「はい、みんな来たわね」   管理人さんは、にっこりわらってそう言った。  「それじゃ、いただきます」 「「「いただきます」」」  皆の声が唱和する。食事前に長い話はいらない。 僕は、アジ丼を手に取る。  ──うまい。   ネタと包丁の両方がよいのだろう。 アジの刺身は、ごはんにまぶされていても、微塵も弾力を失っていなかった。 ほのかに塩味のついたその身は、口の中ではじけ、うまみを迸らせる。 梅酢の酢飯との相性が最高だ。   さわやかな青紫蘇と胡麻がアクセントを添え、なんとも幸せな感触が口いっぱいに広がってゆく。 「これって……生のお魚?」   風のうしろを歩むものが、箸で、アジをつっついていた。  「あら、嫌いだった?」   管理人さんが、やさしく言葉を添える。  「お魚って、生で食べていいの? ムシ、湧かない?」   恵が、顔をしかめる。 「このお魚は大丈夫よ」   管理人さんが、怒った風もなくうなずいた。  「お寿司、食べたことないの?」   少しだけ怒った声で恵が聞く。 「ないよ。これ、海の魚でしょ?」  「う、うん」   恵がとまどったようにうなずく。  「ボク、山で暮らしてたから」 「なるほど。川魚は生で食べたら、いかんっていうしな」  「うん。お魚はたまに食べるけど、焼くか燻すかするね」   ふぅむ。獲物の肉は生で食べてるような印象があったが……少なくとも魚は料理するらしい。 人狼の文化圏は、よくわからない。  「食べてみたらどうだ? おいしいぞ」 「わかった。それはいいけど、こっちはなに?」   少女が、ウニ丼からウニをつまみあげる。 新鮮なウニは、少女がつまみあげても、まったく形を崩さなかった。  「ウニだ。〈棘皮〉《きょくひ》動物だな」  「キョクヒ動物? けものなの?」  「違う。棘皮はトゲにカワと書くな」 「トゲ? ハリネズミみたいなもの?」  「あながち的はずれではない。 棘皮とはラテン語のエキノデルマータの訳だ。エキナスはハリネズミ。 つまり、ハリネズミのような皮を持った動物という意味だ」  「ってことは、ハリネズミじゃないの?」  「脊椎動物ではない。海に生息する」 「足は何本?」  「足はないが、管足が無数にある。 外骨格の穴から身の一部を出し、ものに吸い付いて移動する。 身体は五角形の放射相称だ」  「なんだか、さっぱりだよ」  「ヒトデはわかるか? あれが放射相称だ。 ウニと同じ棘皮動物だ」 「お兄ちゃん……もういいよ。 なんか私まで、食欲なくなってきた」   恵がつぶやく。  「生物学は重要だぞ?」  「食事中はやめて」 「まぁまぁ。 風のうしろを歩むものちゃん、わかった?」  「わからないけど……わかったよ」   用心しいしいといった様子で、風のうしろを歩むものが、箸を使う。 ウニの身を掴み、ふんふんと鼻で匂いを嗅いだ。  「……おいしそうな匂いだけど」  眉根に皺をよせながら、風のうしろを歩むものが、一心にウニをにらむ。 にらみ鯛ならぬ、にらみウニか。   少女は、ウニをじっと見つめたまま、動く様子がない。 時折箸は口に近づくが、最後の最後で警戒心が邪魔するらしい。  「風のうしろを歩むものちゃん?」  「なに?」  管理人さんが、席を立って、つと手を伸ばす。 伸びた指が、むぞうさに少女の鼻をつまんだ。 「わっ!」  思わず開いた少女の口。そこへ管理人さんの右手が閃く。  二本の箸は、狙い過たず少女の口に、ウニを放り込んだ。  そのまま少女の頭をコツンと殴る。 ……それは犬の薬の呑ませ方だ。  少女は目を白黒させながら、ウニを呑み込んだらしい。 僕と恵は、はらはらしながら、その様を見守った。 「……おいしい! すごくとろっとしてる! あとしょっぱい!」  「でしょう?」   管理人さんがにっこりと笑う。   しかし……知らないとはいえ人狼の鼻をつまむとは。 改めて考えてみると、一体何者なのだろう?  風のうしろを歩むものが、馬力をかけてウニ丼に取りかかる。 小さいお椀だから、食べ終わるのも早い。 ものの三秒もしないうちに 「お代わり!」   と来たものだ。 それを見て、恵も、箸を早める。 無論、僕もだ。  「たくさんあるから、ゆっくりね」   その言葉が気休めなのは、僕ら三人ともわかっていた。      ──ペース配分を間違えた。   つくづくそう思った。 より単純に言うと、食べ過ぎた、ということになる。 一般に、食物を摂取してから満腹中枢に信号にいくまでには、しばらく時間がかかる。 それまでの間に、大量に食べれば大食いとなるし、ゆっくり、よく噛んで食べれば、少量でも、満腹となる。 ゆっくり食べればよいものを、僕は、少女の食べっぷりに、影響されていた。     無論、管理人さんのアジ丼が、とてもさっぱりして、おいしかったことが、もうひとつの原因なのは言うまでもない。 酢飯は梅酢だけで、砂糖は一切入っていない。 これは、米がよくないとできないことだ。 まあアジがもともといいアジだから、それほど脂っぽくなく、青紫蘇と胡麻が、あとくちをさっぱりさせる。 ついついおかわりを繰り返した後、ようやく満腹信号に追いつかれ、僕は、ぐったりと椅子にもたれ込んでいた。   幸せではあった。だが、苦しい。 「あら、みんな、よく食べたわね」   管理人さんが感心したように言う。  「お腹一杯です。もう入りません」  「私も……」  「ボクは、まだ食べるよ?」  「いや、少し控えたほうがいいと思うぞ」  野生の狼には、食いだめの能力があるというが……逆に言うと、野生動物を飼い、好きなだけ餌を食べさせると、肥満状態になる場合がある。   地球の動物のほとんどは「できる限りの栄養を摂る」という方向で進化しており、「慢性的な飽食による害を避ける」というスイッチはついていない。 そんな例外的な事象には進化圧が働かなかったわけだ。  進化というのが盲目的な過程であって、神の手によるものでないことの一つの例ではある。   無論、これは人間を含めて、のことだ。 だが人間には理性と意志の力がある。 過去と現在を理解し、未来を作り出すことで、肉体の単純なギミックに抵抗することができる。 「最後、お茶漬けどう?」  「いただきます」  理性と意志は、あっけなく破れた。 そう見えるかもしれない。 だが、その実は、そうではない。 僕は、実際に出されたお茶漬けに破れたのではない。 管理人さんの言葉によって想起された、想像上のお茶漬けに破れたのである。   目の前にないものを、言語によって、はっきり想起し、それによって、己の行動を変えるのは、進化の過程で人間が獲得した、人間独自の営みと言えよう。  まぁ、この世には人狼や吸血鬼、あるいは魚人もいるようなので、それほど独自ではないのかもしれないが。 いずれにせよ、想像力は人間の最大の力であり、また、急所でもある。 これまで人類が繁栄してきたのは間違いなく想像力のせいであるし、いずれ滅ぶとしたら、それもまた想像力のせいであろう。 「カツキが変な顔してる」  「お兄ちゃん、どうかしたの?」  「アジ茶漬けと人類の興亡について思考を巡らしていた。聞きたいか?」  「別にいいよ」  「私は……あとでね」  「そうか」 「では、召し上がれ」   管理人さんが、これは酢飯ではない白米に、アジと紫蘇、大葉をのせ、こぽこぽとほうじ茶をつぐ。 桃色のアジの身が、かすかに白く染まる。  箸をつけ、訪れる沈黙。 酢飯で冷えた身体に、暖かな茶漬けは、ありがたかった。   一口すすれば、お茶にアジの出汁が染み、噛みしめると口の中に、優しい噛みごたえとともに、えもいわれぬ旨みが広がる。   さらさらといただき、はむはむと噛みしめる。 その一口一口が幸せだった。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまー」 「はい、おそまつさまでした」  食べ終わっても、しばらく席を立ち上がる気になれない。 「そういえば、明日は日曜ね。恵ちゃん、どうするの?」  管理人さんに水を向けられて、恵が笑顔になる。  「ちょっと、出かけてきます」  「お弁当、作る?」  「私、作ります……あの……手伝ってもらえます?」  「ええ、もちろんよ。誰といくの?」  「僕と行きます」 「じゃ、二人分でいいのね」  「へぇ。カツキとメグミが?」   なぜか嬉しそうにする風のうしろを歩むものを、恵が、一瞬、にらんだ。  「よかったね。行ってらっしゃい」  「う、うん」   笑顔で祝福されて、恵が調子を崩した。 「そういえば……事件は、どうなったのかしら?」  「事件?」  「例の殺人犯。克綺クンの学校で捕まったんでしょう?」  「捕まったんですか?」   そういえば、そういうことになっていたんだった。 「校舎、包囲されたんでしょ? 捕まったんじゃない?」  「僕は知りません」  「私も……」   恵の部屋には、テレビもネットもないはずだ。  「じゃ、テレビつけてみる?」  管理人さんが、テレビをつける。  チャンネルを選ぶまでもなかった。 テレビには、「連続殺人犯射殺!」と、大きなテロップつきで、僕の学校の校門が映っていた。  警察ががっちりガードして、中に入れないため、せめて校門だけ映す、ということらしい。 女性のレポーターがなにやら実況中継していたが、要するに「射殺という発表だけあって、他は不明」ということらしい。  ネットで書けば二行で終わる情報を、延々となんども繰り返している。 こういう時、テレビという媒体は、つくづく、非効率的だ。 「ふぅん、死んじゃったんだ」   風のうしろを歩むものが、呟く。  「これで明日は安心ね」   管理人さんの言葉に、恵は真面目な顔でうなずいた。  さて学校を襲った魚人は死んだが、魚人たちが全滅したわけではない。 もし、明日以降、また事件が起きたらどうするつもりなのだろう?  「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」  「なにがだ?」  「顔、青いよ」  「ふむ」   どう答えようかと悩み、僕は真実に落ち着いた。 「あの殺人犯が最後の一人とは限らない。 いつまた第二、第三の殺人犯が……」  管理人さんが、ぷちん、と、テレビを消した。 僕のほうを気の毒そうな目つきで眺めている。 「あの……お兄ちゃん……今日は、いろいろ疲れたよね」   恵までもが優しい目をしている。  「早く寝て、嫌なことは忘れたほうがいいよ」  「その意見には賛成だ」   多少の誤解があるような気はするが……疲れていることは確かだ。 「先に寝ることにしよう」  「うん。私はお弁当作るから」  「ボク、味見してあげる」  「結構です!」 「じゃぁ、お休み」 「お休み、カツキ」 「お休みなさい」 「お休みなさい、お兄ちゃん」  部屋に戻ると、留守電のランプがついていた。 電話連絡網で、月曜が休校だという知らせだった。 学校は現在、現場検証で閉鎖だそうだ。  学校全体が水浸しになった、という事実を、今頃、誰かが必死に隠蔽しているのだろう。 そう考えると、火曜や水曜に学校が開くとも思えない。  居間で恵たちにいった通り……魚人たちは滅びたわけではない。 で、あれば、多分、事件は終わらない。  魚人たち。吸血鬼たち。あの特殊部隊。 考えると頭が痛かった。 考えたところでどうにかなるわけでもない。  僕は電気を消し、眠りについた。  階段を上り終わり、恵は、息を殺して兄のドアの前を通り抜けた。 その先の自分のドアを越え……目指す部屋に辿り着く。  控えめに扉を叩けば、返事もなく、ドアが開いた。  中から風が漏れ出る。  ドアの先には誰もいなかった。 部屋は、ただ、暗い。 「風のうしろを歩むものさん……」 「なぁに?」  人なつっこい声が、闇の奥から帰ってきた。 恵は、勇気を出して、部屋に一歩はいる。  うしろで、音もなく扉が閉じて、恵は悲鳴を噛み殺した。 少しずつ、目が慣れてくる。  かすかに見える部屋の輪郭。ベッドと、開け放たれた窓。 その中に、黄色い瞳が光っていた。 「あの、電気つけてもいい?」 「ボクは、これでいいけど?」  闇から響く屈託のない声は、昼間とは別物に思えた。 「そう」  恵は、精一杯の対抗心をかき集めて、黄色い灯りを睨む。 「座ってよ」  ひゅん、と、何かが音を立てて飛ぶ。 顔面めがけて飛来するそれを、かろうじて恵はつかんだ。  ──クッション。いや、枕だった。 「ゴメン、座布団なくてさ」  たぶん、悪気はないんだ、この人は。 「私、床でいいから」   恵は、枕を置いて床に座った。 「えっと……それで、何の用かな?」 「お兄ちゃんについてです」   恵は居住まいを正す。  「カツキがどうかした?」  「風のうしろを歩むものさんは、お兄ちゃんと、どういう関係なのですか?」  「関係? どういったら良いかな」   黄色い灯りが斜めになった。首を傾げたらしい。 双眼が、真横に戻るのを恵は無言で待った。 「ボクはカツキが好き。そしてカツキの全部が欲しい。 カツキもボクのこと、好きみたいだけど、身体はくれない。そんなとこかな」   率直な答えに、恵は、息を呑んだ。 「お兄ちゃんが……好きなんです、か?」  「カツキは好きだよ。 すっごく頭がいいんだけど、肝心なとこで抜けてて、放っておけない感じ。 目が開いたばかりの赤ん坊みたいだよね」  「そういうことじゃなくて……」 「男と女としてってこと? うーん、あまり考えたことがないな。 どっちかというと、姉と弟みたいなものでさ。それより」   目の前の少女は、さらりととんでもないことを言い放つ。  「メグミはどうなの? カツキのこと、好きなんでしょ?」   立っていれば、一歩下がっていただろう。 座っていたから、恵は、動けなかった。 「ほら、鼓動が大きくなってる」  「そんなこと言われたら、誰でも、びっくりします!」  「血はつながってないんでしょ? カツキに聞いたよ」  「お兄ちゃんたら……そんな余計なことまで!」  「うん?」  「私の兄に対する気持ちは……肉親としてのものです」 「汗、かいたね今。 あと言葉遣いが変になった」  「丁寧と言うんです!」   嘘発見器か、この女は。 小さな吐息とともに、二つの瞳が、上昇する。伸びをしたらしい。  「だいたい、私が兄に恋愛感情を抱いたら、風のうしろを歩むものさんだって困るんじゃないんですか? 恋敵になりますよ」   逆襲を試みる。何が逆襲かわからないが。 「ボクはね。カツキに生きる目的を見つけて欲しいんだ」  「生きる……目的?」  「うん。カツキが死ぬ時にはね。 何かを成し遂げて、心底満足していてほしいんだ」   言葉遣いが妙に物騒だが、言っていることは、なんとなくわかる気がした。 「充実した人生ってことですか?」  「そんなとこ。 カツキって、今一つ、何したいんだか、わからないんだよね。 メグミはどう思う?」 「お兄ちゃんのしたいこと……」   恵は考える。 久しぶりに会ったが、兄は、ほとんど変わっていなかった。 何についても冷静で、滅多に感情を見せない。不器用さも相変わらずだ。   したいこと以前に、そもそも向いてる仕事が思いつかない。 学者などは似合いそうだが、やる気があるのだろうか? 「メグミにもわからないか」  「で、でも……そんなの、みんな同じじゃないですか? 学生のうちから、人生の目的なんて」  「メグミは違うよ」 「え?」  「メグミはカツキが好きで、一緒になりたいと思ってる。違うかな」  「……」   口を開くが声に出てこない。 深呼吸をして、落ち着く。 「日本の法律では、義理の兄妹でも結婚はできません!」  「ホーリツ? 掟ってこと?」  「規則です」  「そんなの破っちゃえばいい」  「そんな簡単に!」  「うーん、そんなに難しいかな。 やろうと思うかどうかだとボクは思うな」  反論しようとして恵は、はっと気がつく。 これじゃお兄ちゃんと恋人になることが前提だ。  「とにかく。 私はお兄ちゃんが好きだけど。 別に、そういうんじゃありません!」 「ねぇメグミ。ボクはね。 生き物の生きる意味って、殖えることだと思うんだ」  「増える?」  「うん。連れ合いを見つけて家族になって。子供を作って、大人になるまで育てるんだ」  「それって、精一杯の力がいることだし、そうやって精一杯生きたあとなら悔いなく死ねる。 ボクのお母さんはそうだったし、お母さんのお母さんもそうだった」 「それって古い考え方ですね」  「旧いよ。 ボクたちは、とっても旧いんだ」   白い歯が、星の光に光ってみえた。 一瞬だけのぞいたそれは、妙に尖っていた。  「だからボクは、カツキにも、連れ合いを見つけてほしい。 それがカツキの生きる意味になると思うから」  「それが……」 「メグミとカツキってぴったりだと思うけどな」  「何度も言いますけど、私と兄は兄妹です。そういう関係じゃありません」  「そっかぁ。 じゃぁ、ボクがもらってもいいのかな?」   闇の中で、瞳がいたずらっぽく瞬いた。  「……!」 「ボクがカツキの生きる意味になる。 カツキとなら、きっといい子供を作れるよ」  「やめてください!」   思わず大声が出た。 克綺の部屋まで届かないかと心配になる。 「どうして?」  「どうしてって……いきなり子供とか。 早すぎます」  「早すぎるってことはないと思うよ。 メグミもボクもカツキも大人だし」  「それにね。 ボクが明日死なないなんて、誰にもわからない。 もちろんメグミもカツキもね」  「極論です!」 「そうかな。ボクはそう思わない。 ねぇメグミ、メグミはカツキが好きなんだろう? ボクに取られたら怒るくらいに」  「だったらカツキをつかまえてよ」   闇の中、すっと黄色い灯りが細くなる。  射るような視線を、恵は渾身の力でにらみ返した。 「私が、お兄ちゃんを、どうしようが、私の勝手です。 でもあなたにはあげません!」   くっくと笑う声。  「確かに、勝手だね」  「勝手で、何が悪いの! 家族だもん!」   ふっと、瞳が開いた。 刺すような気配がゆるむ。 「うん、メグミは全然悪くない。 家族で……兄妹だものね」   自分に言い聞かすような声。  「いろいろヘンなこと言ってゴメンね」   瞳がさがる。 頭をさげた、と、わかった。 こうも素直にあやまられると、恵も怒りのやり場がなかった。 「わ、私もいろいろ言っちゃったから」  「でさ、今のことは、二人の秘密にしたいんだけど……いいかな?」  「あ、うん」   一も二もなくうなずく。 どちらかといえば秘密にしてほしいのは恵のほうだ。 「ボクの言いたいのは、メグミも、もうちょっと積極的になったらってだけだから」  「そ、そうかな」   恵は、口の中でつぶやいた。  「話は、もういいかな?」   闇の中、こくりとうなずく。 「じゃ、おやすみ、メグミ」 「おやすみなさい、風のうしろを歩むもの、さん」  扉を閉め、恵は、大きく溜息をついた。 よく考えると、肝心なことは何も聞いていない気がする。  ──まぁいいか。 明日はお兄ちゃんとデートだ。二人きりで。  恵は、力強く拳を握って、部屋に戻る。  ふわりと、名残の風が恵の髪をなでた。  目覚ましの音に、僕は、眠い目をこすって起きた。  時間は7時半。 早いというほど早くはいないが、なにせ昨日は、ひどく身体を使った。 両足が、痛く、全身がまだ眠いと訴えていた。  顔を洗って、意識をしゃっきりさせる。 少しずつ、夕べのことを思い出す。  待ち合わせは10時半。 だが、出かけるのは早めにする必要がある。  僕は、シャワーを浴び、着替えてドアを開けた。 「あ、お兄ちゃん……」  音を聞きつけたか、隣室から恵が顔だけ出す。 眠そうだ。今にも瞼がくっつきそうだ。 「恵は寝てていいぞ」  言い捨てて、僕は下に降りる。 「あら早いのね」   管理人さんが、廊下を掃除していた。  「おはようございます」  「朝ご飯、できてるわよ。食べる?」  「いただきます」  「ちょっと待ってね」  こんな早い時間になぜ、と、僕は首をひねる。  が、管理人さんの部屋に入って謎が解けた。 風のうしろを歩むものが、まっしろな皿をなめていた。 早起きの彼女にせがまれた、というところか。 「おはよう、カツキ!」  「おはよう、風のうしろを歩むもの。 皿を舐めるのは一般に行儀が悪いとされているぞ」  「今日は、メグミと逢い引き?」  「逢い引きという単語には、忍んで会うというニュアンスがある。 別に忍んでいるわけではないな」 「ふぅん。じゃぁ、忍んでないのは何て言うの?」  「風のうしろを歩むもののところでは、なんていうんだ?」  「うーん、おつき合い、かな」  「だとすると、デートという単語が近いかもしれない」 「ふぅん。デートって言うんだ。 じゃぁ、メグミとカツキがデート?」  「しかしデートには男女交際というニュアンスがあるが……」  「カツキは男でメグミは女でしょ」  「確かにそうだな」   論理的に正しい指摘に僕はうなずいた。  さて、朝食は、と見ると。 テーブルの上には、料理の……形跡があった。  つまりパン屑のこぼれた皿とか、コーンスープの跡のついた深皿とか、ドレッシングの残ったボウルとか。 「僕の分はないのか?」  「カツキの分……?」   少女はきょとんとした顔をする。  「何か残ってないか?」  「あれとか」  少女が指したのは、リンゴを盛った鉢だった。 「ふむ。朝食のリンゴは医者要らずというからな」  僕は、リンゴを一個取る。 紅玉。酸味に優れた味は人を選ぶが、僕は好きだ。 洗って磨いた、つやつやとした紅さは、名前の通りルビーのようだ。  管理人さんのリンゴだから無農薬だ。僕は、そのままかじりつく。  甘酸っぱい果汁が口中に広がる。 香りがいい。   急いでいたからちょうどいいといえばちょうどいいか。  僕は、部屋を出る。 「じゃ、カツキ、いってらっしゃい! デート、がんばってね」  ドアを開けたところで、恵と鉢合わせした。  「おはよう、お兄ちゃん」   さっきよりは、しゃっきりとした顔をしている。  「おはよう。そしてさらばだ」  「どこ行くの?」  「デートだ」 「デート? 誰と!」   恵が顔をひきつらせる。  「おまえとだが」  「え?」   恵の表情がくるくると変わる。 「一緒に行かない……んだっけ?」  「あぁ。昨日言った通りだ。 駅で待ち合わせる。 一緒に出たら意味があるまい」  「そ、そうだね」  「恵は、ゆっくり来るといい。 ではさらば。またあとで」  「あ、い、いってらっしゃい」  玄関を出た時、恵がかすかに呟いた。 「デートかぁ……」  心細げな、それでいて嬉しそうなその声が、しばらく耳に残った。 「あら、克綺クン、どこ行くの?」   門のところで管理人さんと会う。  「恵とデートです」  「一緒にいかないの?」  「ええ。待ち合わせようと思いまして」  「克綺クンにしては、いい心がけね。楽しんでらっしゃい」   管理人さんは、大きく笑顔を浮かべた。 「今日は、遅くなるの? 泊まり?」  「遅くなると思います。泊まる予定はありません」  「あら、泊まってきてもいいのよ。 ここ、壁薄いでしょ?」  「壁の薄さと泊まりの関係が理解しかねます」  「恵ちゃんを、可愛がってあげなさいってこと」 「可愛がる、という、言葉があてはまるかどうかはわかりませんが。 恵を喜ばせるつもりです」  「そうね。悦ばせてあげなさいね」  「はい。それでは行ってきます」  「はい、行ってらっしゃい」  門を出て、時計を確認する。時刻は8時過ぎ。 「さて……」  僕は、急ぎ足で駅に急いだ。 早めに出た理由は、ただ一つ。 峰雪の指示に従って買い物をするためだ。  常の買い物なら時間が読めるのだが……今回の目的は、今までしたことがない物だ。 よって、どれだけかかるか、時間が読めない。  そのため、僕は、多めに時間を見積もった。 それ故の早起きだ。  店に着いた時は、ちょうど開店作業の途中だった。 前垂れをつけた店員が、大きなバケツをいくつも運び出している。  今、声をかけたら邪魔になるかな、と、思って、脇に控えるうちに、店員の一人が、僕に声をかけてきた。 「いらっしゃいませ。お花をお求めですか?」  ポニーテールにそばかす、眼鏡をかけた女性の店員。 歳は、僕と同じくらいか。  僕は、深呼吸した。  ここは花屋。 普段の自分には全く縁のない場所だ。  野生動物が、自分のテリトリーの外で弱気になるのと同じ理屈だろう。 僕も、客であるにもかかわらず、謂われのない不安を感じていた。  峰雪のアドバイスを思い出す。 「……なぁに、テメェが床屋に行く要領だ。向こうもプロだから、任せときゃいいのよ」   うむ。確かに、その通りだ。 「あの……」  「花束をください」  「はい」   店員さんが、にっこりと微笑む。  僕は、一つ溜息をつく。 「何の花束になさいますか?」  「適当でお願いします」   僕は、峰雪のアドバイスに従う。 床屋なら、これで済む。  「……何にお使いですか?」  「はい?」  「お見舞い用ですか、ご贈答用ですとか」   的確な質問だ。 「贈答です」   一瞬の沈黙。 まだ入力すべきデータが足りなかったか。  「よろしければ、どういったご贈答かお聞きしていいですか? 何かの記念ですとか……誕生日ですとか。 あと、どういった方にお贈りするかですね」 「それによって変わるんですか?」  「ええ。お知らせいただければ、ぴったりの花束を選ばせていただきます」  「女性。年齢は僕の三つ下。これから会うところです」  「わかりました」   にっこりと店員が微笑んだ。 どうやら必要十分なデータの入力が終わったらしい。 「あとは……ご予算ですけれど……」   しまった。 これは全く予想していない質問だった。 僕は財布の中身を思い浮かべる。 「えと……」  「こちらにカタログがございます」   ……プロだ。  「女性の方にお贈りするのでしたら、このあたりになります」   しかし、目の前でカタログをめくられても、僕には、それの善し悪しが、さっぱりわからなかった。 値段は、おおむね大きさに比例していたが、そもそも、どれくらい大きければよいのかも僕にはわからない。 「相場はいかほどですか?」  「そうですね。こういったものですと……相場というのも難しいですが。 ただ、よくご存じでない方に、あんまり高価なものを差し上げましても、お困りになられるかもしれませんし」  「それは問題ありません。 向こうは、これ以上、ないくらい、僕をよく知っています。 それに関しては、この世で一、二を争うと言っていいと思います」 「そうですか。 それでしたら……こちらはいかがですか?」  「それでお願いします」   店員が指し示したものに、僕は、一も二もなくうなずいた。  「はい、ではお作りします」      ──案外と、早く済んだな。 僕は、時計を確認して、そう思う。さすがはプロだ。 買い物に必要な最低時間というのは、必要情報と、それに対する買い手の知識で決まる。 たとえば、電化製品を選ぶのに必要な知識は、それぞれの製品の持つ機能と、その差だ。こちらがスペックに詳しく、要求仕様を決めていれば、すぐに選べるが、詳しくなければ、機能を理解する時間、そしてそれを選ぶ時間が必要となる。      花束というものが、いかなる機能を持つかの知識を、僕はまるで欠いていた。 そのため、買い物時間を長めに見積もったわけだが。   今回の経験からすると、必要スペックは、三種類。 目的と贈答相手と予算だけのようだ。 無論、僕の知らない細かなスペックがあるのかもしれないが、まぁ、それはいい。  そんなことを考えながら僕は電車に乗り、待ち合わせの駅に着いた。 恵が来るまでの間、ぼんやりと時間を潰す。  恵は、10時27分の電車で駅に着いた。 大きなバスケットを持っている。 管理人さんから借りてきたのか、妙に年代物だ。  バスケットにはテーブルクロスがかけられて、おばあちゃんのお見合いにいく赤ずきんちゃんといった風情だ。 「お兄ちゃん!」  改札の向こうから手を振る。 「恵」  迎えに行きたいところだったが、僕は、峰雪の指示に従い、壁際で、そのまま待った。結構、つらい体勢だ。 「待った?」  「待った」   僕は右手で携帯を開き、時間を確認した。 「約23分と20秒」   そういうと、恵が、鼻の頭に皺を寄せた。  「あのね、お兄ちゃん」  「なんだ?」  「こういう時は、僕も今来たところ、って言うんだよ?」  「そうなのか?」  「まだ、時間前でしょ?」 「確かに時間前だが、僕は、それよりさらに早く来たのだ」  「自慢することじゃないと思うけど……」  「自慢はしていない。 聞かれたから答えただけだ」  「だいたい、どうして、そんな早く出たの?」 「買い物だ。予想より早く終わってな」  「買い物?」   僕は、背に回していた左手を、恵に向かって差しだした。 「プレゼントだ」 「え?」  恵の表情が、驚きに変わる。目を丸くしている。 完全に不意をつかれた、という様子だ。 「受け取ってくれ。僕の気持ちだ」  峰雪の伝授した台詞を、僕は繰り返した。 みるみる頬が赤く染まってゆく。 頬が、ゆっくりとゆるむさまを見るのは、快かった。 「もう、なに言ってるのよ」  ほう。言葉と表情が矛盾している。 「受け取ってくれないのか?」 「え?」 「手がつかれた」  そういうと、恵は、ふうと息をついた。 「やっぱりお兄ちゃんだね」  「僕は僕だ」  「うん。お兄ちゃん、好きだよ」  「よかった。僕も恵が好きだ」  恵は、両手でかきいだくように花束を受け取った。 「わぁ、いい匂い」 「気に入ったか?」 「うん。でも……これ、高くなかった?」   おずおずと恵が聞く。 「相場だと思うぞ」 「そ、相場ね」 「ありがとう、お兄ちゃん」 「どういたしまして、だ」  ふと、恵が、気づいたように言う。 「これから、遊園地行くんだよね?」 「そうだ」 「お花、どうしよう? 持って回るわけにはいかないし……どこか預けられるかな?」 「恵にもわからないのか?」 「え?」 「僕も疑問に思っていたところだ。 これから遊びに行くのに花束なんか渡したら不便だ、とな」 「思ってたって……」 「ああ、気にするな。こっちの話だ」  峰雪のやつは、とにかく口を挟むな、と、言うので、言う通りにしたわけだが。 まぁ恵が喜んだことは確かと思われるので、許すとしよう。 「ま、だいたいわかるけどね……」  恵が、あきれて呟く。 「コインロッカーに入れたらどうだろう」 「そんなことしたら、お花が痛んじゃう。 せっかくお兄ちゃんにもらったお花だもん。早く生けてあげないと」 「なぁに切り花だ。どうせ長持ちはしない」 「……お兄ちゃん」 「なんだ、恵?」 「さっき、これ、僕の気持ちだって言ってくれたよね」 「なるほど。比喩を〈敷衍〉《ふえん》すると、僕の恵への気持ちは長持ちしないことになるな」   僕は、恵の指摘にうなずいた。 やはり、他人の言うことを鵜呑みにすると間違いが起きる。 「そうだよ」 「さきほどの比喩は適当ではない。訂正しよう。  恵。その花束は僕のおまえに対する気持ちではない」 「うん。お兄ちゃん、ごめんなさい。 ほんとうに悪いんだけど、少しだけ黙ってくれないかな?」 「あぁ」  僕は従順に沈黙した。 恵は、うつむいて考えているようだった。  眉根をよせているようでありながら、どこか、頬がゆるんでいる。 興味深い顔だ。 「おっ! そこにいるのは九門兄妹。 こんなとこで出会うたぁ、千載一遇、〈盲亀浮木〉《もうきふぼく》。 珍しいこともあったもんだぜ。こいつぁ秋からめでてぇなぁ」 「我々は縁起物か?」  妙な見栄を切る峰雪に、僕は、とりあえず、そうつっこむ。 「おはよう、カツキ!」   なぜか、風のうしろを歩むものも一緒だった。 「何しに来たんですか?」   恵が、用心しいしいという様子でたずねる。 「なぁに、ただの通りがかりよ。だが……」   峰雪が、顎を撫でる。 当人が思い描くところの、決めポーズらしい。 「困ったことがあるなら相談に乗るぜ」  「乗るよ!」   少女もうなずく。  「そうか。丁度頼みたいことが……」 「ちょっと……待ってよ、お兄ちゃん」   恵が僕の手を引く。 「どうした? 花束を持って帰ってもらおうと思ったが」  「あの二人、待ち伏せだよ」  「ふむ。確かに偶然出会った可能性は低いな。 意図的行為であるとしたほうが自然か。それがどうかしたか?」  「いいの?」  「何か問題なのか」 「せっかく二人っきりなんだから。邪魔されたくないじゃない」  「見られて困るようなことをするわけではあるまい。積極的な妨害に出られたら、その時は、また、排除すればいいだけのことだ」  「排除って……まぁ、お兄ちゃんがいいならいいけど」 「あぁ、僕はいい」  「うーん、わかった」   悩みを断ち切るような口調で、恵が言い切る。 「相談は終わったか?」  「頼み事がある。これから遊園地に行くんだが、この花束が邪魔でな」  「邪魔っていうか……早めにちゃんと生けたいなって」  「おう。メゾンに持ってって、管理人さんに渡しとくぜ」  「そうしてくれ」 「それじゃカツキ、またね」  「あぁ、またな」   二人は、来た時と同じように、唐突に帰っていった。 「アフターサービス、なのかな?」   恵が、妙な顔をしてつぶやく。  「アフターサービス?」  「花束勧めたの、峰雪さんでしょ?」  「うむ、その通りだ」 「勧めてから気がついたんじゃないかな。デート前に渡されたら困るって」  「なるほど。しかし、なぜ、そんな間違いを」  「お兄ちゃんと同じじゃない?」  「なに?」 「デートしたことないんだよ、きっと」  「ふむ──なるほど。知識と実践の間に矛盾が生じたわけだな」   僕は、ふと、思いついて聞く。  「恵はデートしたことがあるのか?」 「今、してるよ」  そう言って恵が、僕の腕を取る。 「今以外で、だ」 「他の人のことは、デート中は言わないものなの」 「そうなのか」 「そうなの」 「そうか」  人は日々、新しいことを学ぶものだ。 正直、話題に制限をかけるのは理不尽であると思うが、なにはともあれ恵は嬉しそうだ。  両者の間に関係があるのであれば、その言葉に従うのはやぶさかではない。 僕は恵と一緒に歩き出した。 「……す、すっごく趣のあるところだね」  遊園地の門を抜け、恵がつぶやいた。 「寂れているな。客も少ない」   僕が感想を述べると、なぜか恨めしそうな顔で見上げる。 「人が少ないと、待たないでいいね」  「待ちたがる人間が少ないことの証左でもあるな」  「……」  「……どうかしたか?」  「もうちょっと……ポジティブに考えられない?」  「努力しよう」  そうは言ってみたものの。 からっぽの遊園地というのは、痛々しい。 そのことを、僕は今日、はじめて認識した。  立ち並ぶ原色の建物は、日の光の前に色褪せていた。 その間を、おどけた仕草の着ぐるみの従業員が歩く様は、昼間の夢のように、空々しく見える。  遊園地には熱気が必要なのだ。 質の悪いスピーカーから流れる甘ったるい曲を駆逐するほどの熱気が! それは子供達の笑い声であり、それに振り回される大人達のためいきであり、乗り物からの悲鳴だ。  まぁないものは仕方がない。 「ポジティブに考えてみよう」  「うん」  「今、この遊園地が寂れて見えるのは、実際に痛んでいることもさることながら、人が少ないという点が大きい。集団幻想には集団が必要ということだ」  「それって……ポジティブなのかな?」  「僕の精一杯だ」 「逆に言えば、普段であれば、この程度の遊園地であっても、心がときめくはずだ。 つまり、我々に足りないのは、信じる心だ」   いもしない子供たちに手を振りながら歩いていた、擬人化されたウサギの着ぐるみの脇を通り過ぎる。 手を振ると、脇の下の縫い目が、微妙に解れているのがわかった。  「信じる心……ねぇ」   恵が、眉根を寄せる。 「確かに簡単ではなかろう。だが、意志の力の前に不可能なことはない」  「考えても見ろ。 人間の歴史は、想像力の勝利の歴史だ。 歴史が始まるその瞬間には、つねに夢想する者がいた。 荒れ地に畑を夢見る心。 砂漠に不夜城を夢見る心。 そして、海の向こうに新天地を夢見る心。 そうした虚空に理想を描く意志こそが、すべて人間的なるものの基盤なのだ。 そう考えれば……」 「この遊園地に、夢の園を視ることなど造作もないことだと思わないか?」 「そういえばさ」   恵は、軽く話をそらす。  「なんだ?」  「子供の頃、よくやったよね。ごっこ遊び」  「やったか?」   僕は首をひねる。 「やったよ!」  「やったとして、僕はあまり覚えていないな。 さしつかえなくば、その頃のことを教えてくれないか?」   子供の頃のことは……事故の起きる前のことは、ほとんど覚えていない。 もしかしたら覚えているのかもしれないが、今まで思い出す必要に駆られたことがない。 今まで、昔話をする相手がいなかったわけだから、しかたないか。 「おままごととかしたんだよ」  「ほほう」  「お兄ちゃんが、毎日テーマ決めて」  「テーマ?」   妙な子供だ。 「今日は、アメリカの大金持ちのお家だよ、とか。今日は、お城の城主様だよ、とか」  「想像力豊かな子供だったのだな」   僕は自分に感心した。  「私がゴハンよそって出すと怒るんだよ」  「どうして?」 「大富豪のゴハンは、こうじゃないって」  「まぁ、確かにアメリカの大富豪は、米の飯は食べないだろう」  「よくわかんないって言うと、私に本押しつけて、読めって」  「それは……ひどい」   幼少時において、三年の年齢差は、身体的、精神的に大きな違いとなって現れる。 当時の僕は、本で読んだシチュエーションから想像を巡らしていたのだろう。 だが、三つ下の妹に、それについてこい、というのは過大な要求だ。 「だがまぁ子供のしたことだ。 許してやれ」  「うん、まぁいいけど。覚えてないの?」  「あぁ。で、読んだのか?」  「ううん、わたし、漢字とか、あんまり読めなかったから、お兄ちゃんに読んでもらった」  「そうか。僕は妹に本を読み聞かせる兄だったわけだな。よい話だ」  「よい話じゃないよ。 私、必死だったもん」 「そうか。そういえば……峰雪もいたよな。それにシロも」  「シロはね。馬車の馬とか、番犬とか、ドラゴンとか、いろいろ」   ドラゴン?  「あれは賢い犬だったからな」   シロは、僕らの面倒を見てくれていた。 危ないところにはいかせなかったし、いざという時は身体を張っていた。 ある意味、生存本能の発達していない幼児より、よっぽど賢かっただろう。 「で、峰雪は?」  「峰雪さんは、ミネユキをやったよ」  「は?」  「峰雪さんは……大金持ちとか、よくわからなくて、本も読まなかったから。しまいに、お兄ちゃんが、峰雪は、ミネユキでいいっていって」  「子供は残酷だな」   僕は嘆息した。 「楽しそうだったけどね、ミネユキ。 私がお姫様でも農場主でも大統領夫人でも逃亡ユダヤ人でも探偵助手でも地下レジスタンスでも。 とにかく、いつも、ミネユキで」  「トリックスターというやつか」   それはそれとして、僕は、幼い恵に何を読み聞かせたんだ? まぁ、今から心配しても始まらないが。  「ひさしぶりに、さ。おままごとしない?」  「やろう」   僕は軽い気持ちでうなずいた。 「じゃ、テーマ決めて」   恵が、いたずらっぽく囁く。  「ねぇ、お兄ちゃん、今日のテーマは?」   不意をつかれて、僕は、顔をしかめる。  「テーマか。テーマねぇ」 「テーマは、そう……」   恵の話を聞く限り、おままごとでは、僕ら二人は、夫婦を演じていたようだ。   せっかく恵がおままごとの話を持ち出したのだから、その線でテーマを考えるのが良いように思える。  もう一つ考慮すべきは、現在のシチュエーションだ。   維新の志士と、置屋の女郎、なんてテーマだと、遊園地を巡るのは難しいだろう。   遊園地にふさわしい設定といえば、やはり現代の恋人同士ではなかろうか。 「恋人同士というのでどうだ?」   恵が、はっと息を呑む。  恵が、僕の腕に顔をうずめた。  「いやか? なら違うテーマにするが」   小さな小さな返事が返った。  「うん、それにしよ」 「よし。これより我らは恋人同士だ。 天、我らを引き裂くとも、その心は永久に一つだ。 ゆくぞ、恵!」  「はい、お兄ちゃん」  「恋人同士で、お兄ちゃんはなかろう」  「じゃぁ、克綺?」   自分で言って、恵は顔を紅くする。 「なんだ、恵?」  「ずるいよ、お兄ちゃんは、恵のままなのに、私だけ……克綺……なんて」  「日本語における非対称性だな。 リクエストがあれば、これから恵のことを妹と呼ぶことにしてもいい。 どちらがいい、妹よ?」  「私、妹より、恵のほうがいいな」  「では、それでいこう」  「うん、お兄ちゃん」 「だから、恋人同士でお兄ちゃんはないだろう」  「……やっぱり、恋人でなくていいよ」  「いいのか?」  「うん。やっぱり、お兄ちゃんはお兄ちゃんがいいよ」  「そうか」  恵が身体を寄せる。 客観的に見た場合、恋人と兄妹に、さして、違いはない気がしてきた。 であるならば、それはそれでよいか。 「じゃぁ、おままごとを始めよう。僕が兄だ」 「私が妹だよ」 「二人は、まったく寂れておらず、〈人気〉《ひとけ》がないわけでもない遊園地に着いたところだ」  僕は、恵の肩に手を伸ばし、遊園地を、きっと美しい遊園地を、歩き始めた。 「テーマは、そう……」   正直、何も思いつかない。   恵の話を聞く限り、おままごとでは、僕ら二人は、おおむね夫婦を演じていたようだ。 幼い子供は無邪気である。   だが、さすがに、この歳で繰り返すのは面はゆい。 夫婦、恋人以外の男女関係となると……。  互いの命を狙う仇同士。 あるいは、護送中の刑事と犯人。 結婚詐欺師と乙女。   ふむ。 どれも刺激的ではあるが、恵が喜ぶかどうかは自信がない。   あまり余計なことは考えないほうが良さそうだ。 「兄妹だ」  「兄妹?」  「あぁ、兄妹だ」  「ふぅん。それは、どんな兄妹なの?」   設定の詳細を突くか。 「とても仲のいい兄妹だ」  「どんな風に?」  「遊園地に一緒に遊びに来るくらいな」  「その、お兄ちゃんは、妹のことを、どう思ってるの?」  「とても大切に思っているな」 「妹は?」  「さぁ」   と言うと、爪先に痛みが走った。 「ちゃんと決めてよ、お兄ちゃん」  「妹は、たぶん、兄のことを、好きなんだな。 一緒に遊園地に来られて幸せだと思っている」  「たぶんとかは余計じゃない?」  「そうか。じゃぁ、兄が好きで、遊園地に来て幸せな妹だ」  「じゃぁ、わたし、それね」  恵が身体を寄せる。 「恵が妹で、僕が兄だ。 そして、二人は、まったく寂れておらず、〈人気〉《ひとけ》がないわけでもない遊園地に着いたところだ」  僕は、恵の肩に手を伸ばし、遊園地を、きっと美しい遊園地を、歩き始めた。 「お兄ちゃん、あれ行こ」  恵が僕の手を取って歩き出す。  その先にあるのは、年代物のジェットコースターだった。 「恵は、ああいうのが好きなのか?」 「ううん。乗ったことないけど。 向こうじゃ遊園地とか行かなかったし」  「ほう」  「でも、遊園地といったら、やっぱり、ジェットコースターじゃないかな」  「お兄ちゃんは……嫌? 下で待ってる?」  「いや。恵の安全を守るのは僕の権利だ」  高く並んだ柱は、ペンキが剥げ、赤錆びさえ吹いている。 その柱に沿って入り口へと向かう。  入り口の脇には、身長制限の看板があり、二十年近くは昔のタッチで、かわいいあひるさんが描かれていた。 「大人二人」   階段を上り、僕らはパスポートチケットを見せる。  「はい、どうぞ」 「つかぬことをお聞きしますが……」  「なんでしょう?」  「このジェットコースターの耐用年数と安全係数を……」  「はぁ」   女性は営業スマイルとおぼしきものを浮かべた。 「あ、気にしないでください。さ、お兄ちゃん」   恵に引きずられるようにして、僕は、ジェットコースターの最前列に座った。 「安全ベルトをお締めします」  入り口の人が、ベルトを締めてくれる。 このベルトが……一部切れ目が入って、ほつれているあたりがまた。 上から落ちてきたバーを掴んで、ジェットコースターは、ゆっくりと動き出した。  ゴウンゴウンゴウン、と、音を立てて坂を登ってゆく。 ゆっくりと世界が後ろに傾き、待ち受ける落下を否応無しに意識させられる。きしきしと微妙な音を立てるレールが、耳障りだった。  僕には心臓がない。人の気持ちというのがわからない。 だが、感情がないわけではない。 特にこう、間近に迫った危機というのは、いかんともしがたく全身を揺さぶる。  確実に来るとわかっている衝撃をただ待つのは、歯医者の椅子に座らされた気分だ。  僕の震える手を、恵の手がそっと握った。 「めぐ……」  右を向こうとした瞬間に、ジェットコースターが落下した。 身体を大地につなぎとめる健全な重力が失われる心持ち。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  恵があげたのは歓声だった。 僕があげたのは悲鳴だった。 「おぉ、やってるやってる」   峰雪は、悲鳴のほうを見て、にやにやと笑った。 「お待たせ」 「お、おう、早かったな」   風のうしろを歩むものが、現れる。 少しだけ汗をかいていた。  「お花、届けといたよ。 カツキとメグミは?」  「仲良くやってるようだぜ」  峰雪は、手を振った。  歓声と悲鳴の二重唱が、風に乗ってやってくる。 「仲いいの、これ? カツキ、本気で怖がってるみたいだけど」  「吊り橋効果ってやつがあってな」  「なにそれ?」  「好きなやつに会うと、どきどきすんだろ?」  「うん、どきどきするね」  「逆もまた真なり、でな。 一緒に、どきどきしてると、そのうち、好きになるって寸法よ」 「へぇ。共に死線をくぐった者同士に友情が生まれるみたいなもの?」  「あぁ、たぶんな」  「つまり、好きになりたい人とは、一緒に、どきどきするところに行けばいいんだね。 リョウはよく知ってるなぁ」   風のうしろを歩むものは、何度も小さくうなずいて、言葉を繰り返した。 暗記しているらしい。 「克綺のこと、気になるのか?」   峰雪は、少女に問いかけた。 駅で隠れていた峰雪に、声をかけてきたのは少女のほうだった。  「うん」  「デートの邪魔しようってんなら、ダメだからな」   一言、釘を刺す。 「恵ちゃんも、久々の里帰りだ。 ちょっとくらい待ってあげな」  「ううん、邪魔なんてしないよ」  「そっか。そいつぁすまんねぇ。 妙なこと言っちまったな。 俺ァ、てっきりあんたが、克綺に気があると……」 「ボクが欲しいのは、カツキの〈肉体〉《からだ》だけだよ」   何気ない一言に、峰雪は、かちこちに固まった。  「ちょ、ちょっと待て。 若い娘さんが、なんだ、その物言いは」 「ね、リョウ。ボクたちも、なんか乗ろ」   聞いちゃいねぇ。 先に立って駆け出す少女。 その背中を見ながら、峰雪は、小さく息をついた。 「お兄ちゃん、だいじょぶ?」  「人は、もっと謙虚であるべきだ……」   恵に心配そうな顔でのぞきこまれ、僕は、ふらふらと歩きながらつぶやいた。  「どうしたの?」   平気そうな顔の恵が、恨めしい。 「肉体に由来する錯覚というのは、論理的根拠が無くても否定できない、ということだ」  「そんなに怖かったの?」  「あぁ。加減速および見当識の喪失自体は、それほど恐ろしくない。 ただ……コースがな」  「あ、ぶつかりそうな気がしたよね」  コースターは、後半、乱立する鉄骨の中を突破した。 鉄骨と鉄骨の間の通路は、遠くからみれば、小さな小さな隙間に見える。 それは── 「錯覚だとは分かっているのだが」  あの鉄骨の中を引きずり回される恐怖といったら。 論理ではなく、肉体が叫ぶのだ。  逃げろ。頭が砕ける。腕が折れる。足が飛ぶ。 できる限り全身をすくめても、警告は止まない。 そして、一つの隙間を抜ければ、次の隙間が待っているのだ。 「こわいよね」   全然怖くなさそうな顔で、恵がうなずく。  「じゃ、別のところ行く?」   どこか名残惜しげな恵に、僕はつぶやく。 「恵は、まだ乗りたいのか?」  「うん……でも、お兄ちゃんと一緒がいいし」  「問題ない」  「怖いんじゃないの?」 「なに、こうした乗り物は、恐怖を楽しむものだ。 僕は存分に恐怖を味わっている。 乗り物の目的に合致しているだろう?」   恵は、しばらく首を傾げたが、やがてうなずいた。  「お兄ちゃんがいいっていうなら」 「ね、お兄ちゃん、も一回、も一回」   笑顔で腕を引っ張る恵に、僕は、力無くうなずいた。  二、三歩歩きかけて、崩れ落ちた。  「……お兄ちゃん、だいじょうぶ?」   恵が、はっとした顔で言う。  「だいじょうぶ、だ。 単に三半規管が機能していないだけだ」  何回乗ったかは思い出せない。数えたくもない。 なにせ、人がいないので、降りたらすぐに入り口へ直行。  数を重ねれば、慣れるかと思ったら……そんなことは全くなかった。 しかも、何度も乗る内に、気づいてしまったのだ。  コースターが、全力疾走しながら、咳き込むようにガタガタと揺れる。 てっきり演出かと思っていたのだが、揺れるタイミングが毎回違う。  気のせいかとも思ったが、さっき確信した。あれは演出じゃない。 ガタだ。蓄積された疲労だ。 「このコースターは危険……だ」  「私は、平気だけど……」 「そろそろ……別のところに……いこう」 「あと一回……だめ?」   妹に、とっておきの顔で頼まれては拒否もできない。 「よし……じゃぁ次で最後だ」  想像するだけで目の前が暗くなったが、恵のためだ。 「すいません……大人……2枚……」  が、入り口にはチェーンがかかっていた。 現在、停止中、とある。 「どうかしたんですか?」   恵が入り口の従業員にたずねる。  「いえ。ちょっと……アトラクションで使うものですから。 14時から、また開きますので」  「そうなんですか」   恵は、少し残念そうな顔をした。 僕は、ほっと安堵の息をつく。 「次は、どこにしようか?」  「急加速、急減速を伴わないものがいい」  「そんなのあるかなぁ……」  しばし、マップとにらめっこする恵。 「あれは?」  指の先にあるのは、見上げるほどの大きな観覧車。 「多少老朽化が気になるが……」  それを言ったらこの遊園地にいること自体が間違いか。 「あれに乗ろう」  例によって列はない。 遊園地の経営状況を心配しつつ、僕は恵と観覧車に近づいた。 「透明ゴンドラだって」   恵がはしゃぐ。  「ほう?」   多数あるゴンドラのうち、10台に1台程度が、「透明ゴンドラ」で、料金が高いらしい。 まぁパスポートで入場した我々には関係ないが。  「それにしよ」  「よかろう」  しばらく待ってゴンドラに乗り込む。  従業員が、がちゃりと扉を閉める。 床にも窓があるゴンドラ、というのが、正確な形容だろうか。 ちなみにシートは普通に不透明なので、下からのぞかれる心配はない。 「見晴らし良さそうだね」  バスケットを膝の上において、恵は床をのぞきこむ。 まだ、地面が遠くなるのが見えるばかりだが……。 「それはそうと、これは何だろうな」  僕は、窓のカーテンを弾いた。 両方の窓、そして、床にも、カーテンが備え付けてあった。 「なにって……カーテンじゃない?」 「観覧車というからには、観覧して楽しむものだろう。 どうしてカーテンが必要なんだ?」  恵が困ったような顔で笑う。 「ムードを盛り上げるためでしょ」 「ムード?」  ムード、雰囲気、と言った言葉は僕にとって鬼門である。 それらがテレパシーと関係するらしい、ということはわかるのだが。 「ほら、カーテンしめると二人っきりになれるから」 「我々は今二人きりじゃないのか?」 「カーテンを閉めると密室になるじゃない」 「してどうする?」 「……」   恵は微妙に目をそらす。 「見られては困ることをするのか?」 「……」 「あるいは、口で言えないようなことをするのか?」 「……たぶん、その両方じゃないかな」  しばらく考えて、ようやく僕にも腑に落ちた。 「なるほど」  恵が、溜息をつく。 「しかし……逆にいうと、カーテンを閉めているということは、そういう行為をしている、と、周囲に知らしめているのではないか? また、カーテンを備えることで、そうした行為を奨励するのも、いかがなものかと思うが」 「お兄ちゃん、話題変えていい?」 「あぁ、いいとも」  とりあえずカーテンは開けたままにしておこう。疑われたくない。 「……で、何の話をする?」  僕は、恵をまっすぐ見つめて言った。 恵は、しばし口ごもる。 「なにって……」 「新しい話題だ。変えると言っただろう? 何について話すのだ? さぁ?」 「お兄ちゃん、それ、言葉の暴力」 「……そうなのか」  当人が暴力と認識している以上は、暴力なのだろう。 「うそ、ごめん。気にしないで」 「わかった。気にしないことにする。 ではもう一度聞くが、新しい話題はなんだ?」 「ちょっとは気にしてくれてもいいかな……」 「ちょっとというのは難しいな」   僕は首をひねった。 「僕の行動および言動に、問題があったら言ってくれ」 「あんまりそう……じっと見られると、居心地悪いかな」 「話す時は人の目を見るのが礼儀と教わったが?」 「あんまり、じろじろ見られても……別にいいけど」 「いいのか?」 「いいけど、よくない」  どっちだ? まぁ、「よい」というのが「よくない」で上書きされている以上、よくないのだろう。 「あと、もうちょっと落ち着いて、ゆっくり言ってほしいな」 「そうか。気が急いていたようだな」  僕は、相対的に恵のほうを見つつ、微妙に目をそらしながら、ゆっくりと答えた。 「お兄ちゃん、それ不気味」   僕の苦労は失敗したようだ。 悲しい。 「そんなに目ぐるぐるさせなくても、もっと気楽に、ね」 「無論だ。せっかく乗った観覧車だ。僕は、恵と楽しみたい」 「そうだね……外、見よっか」 「あぁ」  僕は、窓の景色を見て、安堵の吐息をついた。 これで、視線の問題は解決された。  まだまだ天辺には間があったが、観覧車は、ずいぶん高くまで登っていた。 遊園地が一望できる。 「しかし……こうしてみると、本当に人がいないな」  地面を見ても、従業員がいる他は、客の姿が、ほとんど見あたらない。 いなくはないのだが……全部数えても十数人程度ではないのか。 「あ、あれ」  恵が、床を指す。 指さす先は、遊園地の一角。 すり鉢状の観客席と、舞台とおぼしきもの。 「野外劇場か」  そういえば、入り口にヒーローショーがどうとか書いてあった。 「その奥」  これも舞台裏というのだろうか。 大きなステージの書き割りの裏には、空き地があり、そこで人が戦っていた。 ジャージ姿の男が、剣を振り回し、鋭いアクションを繰り広げている。 「……舞台稽古というやつか」  さすがプロ。 構え。突進。受け。攻撃。そして決め。  倒す側も倒れる側も、豆粒ほどの大きさではあったが、動作の一つ一つが映えていた。 「珍しいもの、見れたね」  ひとしきり練習が終わったのか、隅のストーブに集まって暖を取っている。 「ああ、いい動きだった。あとで見に行こうか」 「うーん、お兄ちゃんが見たいならいいけど」 「恵は嫌いか?」 「子供向けだし……目立っちゃわないかな?」 「子供の中で目立つ心配はないな。なぜなら、子供自体少ないからだ」 「それって……結局、目立たない?」 「我々は客だ。迷惑をかけるわけでなし。大きな顔をしていればいい」 「うーん、それはそうか」   恵がうなずく。 「決まりだな、そうしよう」  観覧車を降りて、客席まで歩く。 途中、プラカードの従業員と出会う。 「ヒーローショーが始まりますよ。どうぞ、見て行きませんか?」  虚しく声をかけている。 なぜ虚しいかというと、回りに人間がいないからだ。 我々以外に。 「あ、どうですか? ヒーローショーですよ」  「はい。見にいきます」   そう答えた瞬間、驚くのはいただけない。 もっとも驚きは一瞬で、次の瞬間は、きれいな笑顔を浮かべた。  「楽しんでいってくださいね」  「そうする予定です」 「あ、あの、お疲れさまです」   従業員は、会釈してから、また、客を捜しに出かけた。  着いてみれば、客席はガラガラだった。 親子連れが、かろうじて三組。 あとは……なぜかスーツのサラリーマンが二、三人。  それに……。 「お兄ちゃん、いこっか」   恵の声が冷たい。だが。  「避けることもあるまい」   最前列真ん中に陣取っているのは、風のうしろを歩むものだった。 横に峰雪がいる。 「あ、カツキだ!」   少女が、くるりと振り向いて手を振る。  「メグミも、いい匂いだね」   少女は、目をとじて、しきりに鼻をふんふんとさせる。  「え、私?」  「そのかご。 おいしい匂いがつまってる」  「かごね……」 「あちゃ……」   峰雪が、しまったという顔をする。  「で、峰雪さん、こんなところで何してるの?」   恵の声が妙に冷たい声で問い返す 「あのね、リョウは、ひーろーしょーを見たいんだって」   無邪気な声に、峰雪があわてる。  「どうした? 何をあわてている?」  「いや……その……二人っきりンとこ邪魔して悪ぃな、ってな」 「邪魔したのは我々だ。 気にする必要はない。 それはそうと、なぜ遊園地にいる? 偶然か? それとも故意に我々を見張っていたわけか?」  「すまねぇ」   峰雪が大きく頭を下げた。 「のぞいてたわけじゃねぇ。 ただ……心配だったからよ」  「心配?」  「リョウのせいじゃないよ。 ボクが来たいって言ったんだ」  「そうなの?」   恵が少女を見つめる。 少女が、こくんとうなずいた。 「遊園地に来たかったの?」  「うん。あと、ボクもカツキとメグミが心配だったし」  「心配せずとも、僕と恵は仲がいい。 問題が起きる可能性は少ない」  「いや、おまえの場合、おまえに悪気がなくてもな……」  「お兄ちゃんの言葉遣いにはなれてます」   恵が、きっぱりと言った。 「ま、邪魔しちまったな。 あとは二人で仲良くしてくれ」  「えー。 ひーろーしょー、見ないの?」  少女の悲しげな声に、恵がしょうがないという風にうなずいた。  「一緒に見よ」  「ああ。追い出すのも気が引ける……というか、もう始まるな」  舞台の上には、マイクを持った女性……司会のおねえさんが、現れていた。 「みんなー。今日は、銀河刑事ベイオウルフショーへようこそ!」  えらくハイテンションなしゃべりを繰り広げる。 僕はリラックスして、ショーの行く末を見始めた。 「なかなか素晴らしかったな」   終劇のあと、僕は、立ち上がって膝を伸ばしながら、言った。  「うん、すごいすごい」   風のうしろを歩むものが無邪気にうなずく。 壇上にしかけられた爆薬や火焔、ジェットコースターからの登場といった、派手なギミックも楽しかったが、何より素晴らしかったのは、やはりアクションだ。 「やはり、実戦と演技は違うな。 演技には演技の素晴らしさがある」  「実戦って、おまえ。見てきたようなこと言いやがって」   見てきたわけだが。   イグニス、風のうしろを歩むもの。 夜の学校で出会った、あのサムライ。 ここ数日、達人と呼ぶにふさわしいものたちの戦いをいくつも見てきたが、感動を呼ぶ美しさということなら、今見た演技がもっとも上だ。  美しい構え。 静から動、動から静への動き。 その見栄えの一つ一つが計算されている。   その点、実戦というのは、動く瞬間が悟れなかったり、目にも留まらぬ素早さだったりするわけで、どうにも華に欠ける側面がある。 やはり、演舞はいい。 命の心配の必要がないのもいい。 「恵はどうだった?」  見ると、微妙に暗い顔をしている。  「私はちょっと……恥ずかしかったかな」  「ん? どこがだ?」  「呼びかけるとこ。お兄ちゃんたち、すっごい大声だすんだもの」  「指示に従ったまでだが」   僕は首をひねる。 声を出したのは、司会のおねえさんの、呼びかけに応えてだ。 「あ、ベイオウルフがやられてるよ! みんな、もっと応援してあげて。 そおれ! ベイオウルフー!」  事前に応援は大きな声で、と、頼まれていたので、僕も峰雪も風のうしろを歩むものも、迷わず精一杯の声で叫んだ。 「ベイオウルフー!」  と。 「そういえば、あの時、恵は黙っていたな。どうしてだ?」  「恥ずかしかったの!」  「恵ちゃんの気持ちもわかるが、ああいうのは、ノッたもん勝ちだからな」  「そりゃそうだけどさ……」   ぶつぶつとつぶやく恵。 「きりのいいところで、昼飯にしよう。どこで食べる?」 「おっと、俺達はここで別れるぜ」   峰雪が、顎に手をあてた妙なポーズで言い張った。 「そうか? 食事は人数が多いほうが楽しいというが」  「デートん時は別だ。 二人っきりになっとけって」  「そういうものなのか?」  「そうだ」 「そうだよ」 「そうだけど……」 「そうなのか」   僕はうなずいた。 理論的根拠がさっぱり見えない。   まぁ世の常識というのは、内容自体に根拠があるわけでなく、それこそ多数派であるというだけが存在理由なので、いたしかたあるまい。 「わかったら、仲良く昼飯食べてこい」  「うん。もう安心だよ」   少女が、大きくうなずく。  「よくわからないが、安心したのなら何よりだ。じゃぁ、またあとでな」  「それじゃ、またね」  風のうしろを歩むものが手を振る。 「ちょっと待って」   恵が、二人を呼び止める。  「ん、なんだ?」  「あなたたち、お弁当は?」  「……や、そんなシャレたもんはねぇが」  「ボクは、二、三日食べなくても平気だよ」  はぁ、と恵が溜息をつく。  「お弁当、たくさん作ってきたから、みんなで食べましょ」 「わ、メグミ、優しいね」  「だって、あなた、さっきから、ずっと物欲しそうな顔でこっち見てるんだもん」   恵が、どこか嬉しそうにいう。 「ゴメン。すごくおいしそうでさ。 シャケと……」  「ストップ。 先に言ったら、楽しみがなくなるでしょ?」  「そうだね。じゃぁヒミツ」  「ふむ、楽しみだ。では食べに行こう」  ピクニックエリア、というらしい。 一面に広がる緑の芝生の上に、僕たちはシートを敷いて弁当を広げた。 「いい風。いい気持ち」   風のうしろを歩むものが、ささやいた。 両の腕に風をつかまえ、髪をゆらしている。  「まぁ座れや」  「うん」   峰雪に言われて、ぴょこんと座る。 レンタルのレジャーシートを2枚広げ、4人でゆったり座る。 「でも、ほんと気持ちいいわね」  「あぁ。虫一匹いない。 定期的に農薬を散布しているんだろう」  「おまえ、それ、わざと言ってねぇか?」  「わざととはなんだ?」  「……いいから、三人とも手を拭いて」  おしぼりを渡されて手を拭く間に、恵は、バスケットを開く。 「おおっ!」 「わっ!」 「ほぉ!」  バスケットから取りだしたのは、銀紙の包み。 一つ開けるごとに、違ったサンドイッチが顔を出す。 紙皿に並べるほどに、調和した彩りが広がってゆく。 「目で食するというのは本当だな」  「そりゃ日本食だ」  「なんの。原理は同じだ」  「人間は舌だけで料理を食するわけではない。食欲というのは、心のあり方であり、その日の精神状態は、大きく味を左右する。」  「それがわかってるなら食前に農薬とか言うな」  「……なるほど。以後、考慮しよう」  ともあれ、彩りというのは重要な要素の一つである。   トーストの焦げ茶色は、白い皿に映え、そこから覗く、色とりどりの具が、また陽をあびてきらめくほどに美しい。 「管理人さんが作ったのか?」  「私が作ったの! そりゃ……手伝ってはもらったけど」  「全体の構想は管理人さんということだな」  「作ったの、私だもん」  「料理においてもグランシェフは手をくださない。監督するだけだ。しかし、料理はグランシェフのもの、とされる」 「……そろそろ、殴っていいかな」   僕の述べた理解に、恵が物騒なことを言う。 「ゴハン前に喧嘩しちゃダメだよ」   風のうしろを歩むものが、まっとうなことを言う。  「はやく食べよ、ね、メグミ?」  「はいはい。 飲み物注ぐから待ってね」   バスケットからは、魔法のように赤ワインの瓶が現れる。 「お、こりゃありがたいね」   紙コップになみなみと注がれるのを、峰雪は平然と受け取った。  「一応、まだ、昼間なのだが」  「かてーこというな、御神酒だ、御神酒」  「向こうじゃ水みたいなものよ」 「ボクも飲む!」  「はい、どうぞ」  「まぁ別にいいが」   急性中毒になるようなことはなかろうし、慢性中毒になるほど頻繁に飲んでいるわけでもない。 たまにはいいとしよう。 「それじゃま、乾杯!」 「「「乾杯!」」」  空きっ腹に赤ワインが染みた。 甘すぎない、しっかりとした香りが、鼻を抜ける。 「おいしいな、おかわり」  「もう?」  「乾杯だろう?」   杯を乾すと書いて乾杯。 僕は、一息で、紙コップを空にしていた。 「お、克綺、漢だな。俺も、おかわり」  「はいはい」   あきれた顔をしながら、恵は、僕と峰雪にワインを注ぐ。 「おいしーい!」   風のうしろを歩むものが、サンドイッチにぱくつく。  「みんなの分だからな。 あまり一人で食べるなよ」  「わかってるよ」   わかってるかどうかよくわからない返事が来た。  僕も、サンドイッチに手を伸ばす。   スモークサーモン。 レモンとケッパーが香ばしい。  「ふむ、これは……」  「どう?」 「これは確かに、恵の仕事だ」  「わ、わかる?」  「あぁ。まず断面が、わずかによれている。 包丁で切る時に、まだ力が入ってるんだな。 管理人さんの包丁なら、これだけ時間が経っても、きちんとした断面になる」  「……」 「おかげで、サーモンから汁が僅かに染みだし、パン全体が、柔らかくなっている。 結果、トーストのさくっとした歯触りが、わずかに失われている。 それとこのバターが……」  「文句を言う人は、食べないでいいから」  恵が、僕のサンドイッチを取り上げた。  「理不尽だ。僕は評価を聞かれて評価を返しただけだ」  「料理の味聞かれた時は、うまいって言っときゃいいんだよ」   峰雪が呆れたように言う。  「だが、それでは、価値を聞く意味があるまい?」 「メグミー、これおいしいね。 なんていうの?」  「あ、それはねアボガドサンドよ」  「アボガドっていうんだ。 コクがあっておいしい」 「な? ああいやいいんだ」   峰雪が囁く。  「納得はできないが、理解はした」  「そこ、何言ってるの?」  「うへぇ」 「うむ、恵。 このサンドイッチは、おいしいな」   恵が、僕のほうを、疑惑の目で見る。  「お兄ちゃん、無理してお世辞言わなくてもいいから」  「いや、お世辞を言うつもりはない」  「さっき、あんだけ文句言ったじゃない」  「あれは文句じゃない」  「じゃ、なによ?」 「さきほど述べた通り、このサンドイッチを作ったのが恵であることは疑いない。 加えて、このバターだ」  「な、なによ」  「サンドイッチ全体の味を決めているのは、このバターだ。 湯煎したバターに、わずかにマスタードを加えたものが味を引き締めている。 管理人さんであれば、微量のスパイスを加えるところだが、恵はそれをしていない」 「わ、る、かったわね!」   恵が殺気を放射する。 峰雪の表情が固まった。 風のうしろを歩むものが、ここぞとばかりにサンドイッチをほおばる。 「グランシェフや花板は、料理の基本となるスープの味を監督するものだ。 それゆえに、料理の代表者、責任者たりうるのだ。 だが、このサンドイッチの基本であるバターは、まぎれもなく恵が作った恵独自の味だ」  「……え?」  「故に、この料理は管理人さんのものではなく、恵の料理だ。 そう言いたかったのだが」   恵が、目をぱちぱちさせた。 「回りくどいな、テメェは」   峰雪がぼやく。  「論理的に説明したまでだ」   恵が僕の前で深呼吸した。  「で、お兄ちゃん、その私のサンドイッチは、おいしいの?」  「ああ、うまい。さっき言っただろう?」 「どうして最初から、そう言わないわけ?」  「うむ。どうせ管理人さんの料理だろうと、恵に失礼なことを言ったからな。 謝罪しようと思ったのだ」  「謝罪……してないよね」  「そういえばそうか。 さっきは失礼なことを言ってすまなかった」  「うん、いいよ。許してあげる」  恵が差しだしたサンドイッチを僕は受け取る。 キュウリとハムのサンドイッチ。 基本中の基本だが、だからこそ、味が出る。  「うむ。おいしい」  「よかった」  マスタードバターとハムの相性は当然として、キュウリの歯ごたえが素晴らしい。 丁寧に塩をして水気を取ってあるので、べちゃべちゃにならず、噛めば、こりこりとして、さっぱりとした後味を残す。  「キュウリがいいんだな、これは」   峰雪が手で顔を覆った。 「まぁいいけどね」   恵が嘆息する。  大きなバスケット一杯のサンドイッチは、あっという間に片づいた。 「ワインは? あと少しだから、誰か飲まない?」 「俺、俺がもらう」   そういう峰雪の顔は、すでに結構紅い。 あと言葉尻が微妙に怪しい。  「峰雪さんは……ちょっと……」 「じゃ、ボクがもらうよ」   少女は、まるで変わっていない。 恵が、ついだワインを、ゆっくりと飲む。 「赤ワインにバスケットとくると、赤頭巾を思い出すな」   僕は、つい感想をもらした。 狼もいることだし。  「私、赤頭巾?」  「するってぇと……俺が、狩人か」   峰雪が、仮想のライフルを狙い撃つ。 「狼は、おまえな」   峰雪が、そういうと、全員がうなずいた。  ふむ、僕の考えた配役とは異なるな。  「えー。じゃぁ、ボク、おばあちゃん?」   風のうしろを歩むものが驚いて見せる。 赤頭巾の童話は知っていたらしい。  「いやそれはそうと、僕が、狼なのか?」 「たりめぇだ。 テメェ、何人、女を泣かしたと思ってんだ?」  「え、そうなの?」   恵が、どこか嬉しそうに峰雪を見る。  「へぇー、カツキ、やるぅ」  「誤解があるようだが……」 「コイツは、なまじ顔がいいからな。言い寄って振られるやつが跡をたたねぇ」  「僕は、言い寄られた経験も、振った経験もないんだが」  「……だいたいわかるわ」   恵が溜息をつく。 「その気もなく期待させること言って、その気もなく、ひどいこというんだよね」  「その通り」   峰雪が、腕を組んでうなずく。 「繰り返すが、そんなことをした覚えはないのだが」  「覚えがねぇから、大変なんだよ、テメェの場合! この罪作り!」   峰雪が僕の頭をはたいた。 ずいぶん酒が入っているようだ。  「苦労してるのね」   恵が、納得したようにうなずく。 「苦労していたのか」   僕の気づかぬところで不和が起き、僕の気づかぬところで、それを修正するものがいる。 峰雪に限ったことではないのだろうが、ありがたい話だ。  「まぁな。 振られた子に声かけてあわよくばって……あわわ」   恵と少女ににらまれて、峰雪は口をふさぐ。 「そのわりに、彼女を作ったところを見たことがないが」  「見る目がねぇんだよな……」   愚痴り酒か。 「心配しなくとも、寺の跡継ぎなら、伴侶を捜すには困るまい」  「そーゆーんじゃなくてな。 もっとこー今しかできない甘酸っぱい出会いというのをだな……」  「いや、ンなこと言ってる場合じゃねぇな」  目がすわっていた峰雪は、そう自己完結すると立ち上がった。  「すっかりデートの邪魔しちまったな。 じゃ、まぁ、あとはしっかりな、お二人さん」  「何をしっかりするのだ?」  「しっかり恵ちゃんをエスコートしてやれ」  「わかった」 「じゃ、ボクも。 メグミ、お昼ゴハン、ありがとね。 おいしかったよ」  風のうしろを歩むものは、そう言って駆け出していった。 「多少意外だったな」  去る二人を見て僕はつぶやく。 「なにが?」  「恵は、あの二人と接触するのに否定的だと思っていた。 だのに昼食を共に取るとはな」  「そりゃ、お兄ちゃんと二人っきりがいいけど……」  「けど、なんだ?」  「お弁当、作りすぎてたからちょうどいいかなと思って」 「作りすぎたのなら置いてくればよいものを。晩ご飯に回してもよいことだし」  「いやよ、デートのお弁当を、晩ご飯に使い回すなんて」   そういうものか。 「さ、これからどうする? なにか乗りたいものはあるか?」  「うーんと……」   恵はバスケットを持って悩む。 「そういえば、そのバスケット。 預ければよかったな」  「え?」  「風のうしろを歩むものだ。 どうせメゾンに帰るんだから頼めばよかったなと」  「……」  「いや、そうすることがデートにふさわしくないのであれば仕方がない。 敢えて持っていたいというのなら別に構わないのだが」 「そうね。うっかりしてたわ」   恵が言う。  「そうか。うっかりしてたのか」  「繰り返さないでよ。 ね、次、乗る?」  「そうだな……食後であることだし、あまり、きつい乗り物は遠慮したい」  「そうだね」   恵がお腹をなでる。 「じゃぁ……えっと、なんて言うんだっけ。Merry go'round」  「メリーゴーランドで通じる。 敢えていうなら、回転木馬だ」  「うん。メリーゴーランドがいいなぁ」  「よかろう」  意外、と、言っては失礼だが、メリーゴーランドは、びっくりするほど大きかった。 「微妙……かな」  恵が呟く。 規模だけは大きいものの、色とりどりの馬たちからは、微妙にペンキが剥げ、木目がのぞいているものさえある。  客が少ないせいで、回転を止めてあるのも、侘び寂びに拍車をかけていた。 きらびやかな原色が色褪せ、薄れているところは日本人好みといえなくもない。 「乗りますか〜」 「乗ります!」  係員の投げやりな声に、恵が返事した。  ゆっくりと回り始めるメリーゴーランドに僕たちは駆け寄る。  よくみると、馬以外のものも沢山並んでいる。 ユニコーンに、ペガサスをはじめ、様々な神話上の生物と、出典不明のモノたち。  ワシの頭にライオンの胴体は、グリフィンか。 身体が馬なのはヒポグリフ。尾っぽが蛇なのはキメラ。 蝙蝠の羽根が生えた人型のは、悪魔、あるいはガーゴイルか。 のっぺらぼうのガーゴイルが気になる。 「恵はどれにする?」  「あれがいいな」   恵が指したのは、大きく羽根を広げた白鳥だった。  「お兄ちゃん、一緒に乗らない?」  「よかろう」  おそらく家族用なのだろう。巨大な白鳥の背は、二人分以上のスペースがあった。  僕が先に登り、恵に手を差し伸べる。 席にゆったりと腰掛けて、僕は流れる音楽に身を任せた。 「少し、寒いかな」   恵がつぶやく。 「酒を飲んだあとだからな。火照りが抜けると寒くなる。それと、風が強いな」 「もうちょっといい?」   そういいながら、恵が身をすりよせる。 「待て」 「え?」  するりと僕は、制服のタイを外す。  タイとは言っても毛糸地で、登下校の寒い時は、よくマフラー代わりにする。 僕は、そのタイを恵の首に巻いた。 「これで、暖かくなる」 「……ありがと」   恵が、身を寄せたまま、黙った。 「お兄ちゃんって、いい人だよね」 「そうか」 「あのね、いい人っていうのは、あんまりよくない意味なんだよ。わかってる?」 「わからない。というか、それは矛盾しているだろう」 「八方美人ってこと」 「八方、どこから見ても、非のうちどころのない美人、ということだな」 「皮肉なのよ。だれからもよく思われようって、取り繕う人」 「僕は、外面を取り繕ったことはない。 そもそも取り繕うことができるなら、これほど苦労はしていない」 「それはわかるんだけどね……」 「どこがわからない?」 「たとえば、お兄ちゃんってさ。 寒いって人がいたら、誰彼かまわずマフラー貸してあげるでしょ」 「まぁ、貸せるものなら貸すな」 「貸されたほうは嬉しいわけ」 「それは何よりだ」 「嬉しいのは、特別に親切にされたと思うから」 「恋愛感情ということか?」 「それもある。 とにかく、あ、この人は特別に私のことを思ってるんだな、と思うわけ」 「なぜだ? 僕は単にマフラーを貸しただけだ」 「そう思っちゃうのが人間なの!」 「そうか」 「だから、特別じゃないって分かると、裏切られた気持ちになるのよ」 「一方的だな」 「そりゃそうだけどね」  恵は笑う。 「好きな人に優しくされると、この人も好きかなって思っちゃうものなの」 「なるほど。それは理解できる。いや待て」 「なに?」 「だとすれば、僕が誤解されたということは、僕を好きだと思った人間が多いということにならないか?」 「そうよ。お兄ちゃんは、もてるの。昔から」 「そうなのか」 「なに、しまったって顔してるの?」 「いや、多少意外だったんでな」 「わかったら、少しは控えてね」 「ふむ。これから他人に優しくする時は、個人的な好悪の情はない、ということを明確にして行おう」 「ゴメン。やっぱり今の忘れて」  音楽が、ゆっくりとフェードアウトする。  どこかで蒸気の音がして、ゆっくりと白鳥が速度を失う。 「そうだ。恵は、他人に入るのか?」 「え?」 「恵には、普通に優しくしていいのか? できないと……その……悲しい」 「あーもう!」   恵が怒る。なぜだろう。 「いいに決まってるでしょ、お兄ちゃん!」  そういって、恵は僕の首を抱いた。  メリーゴーランドを降りて、幾つか乗り物をはしごする。 空には雲がかかり、風は肌寒く、かつ、湿っぽかった。 「雨、降りそうだね」 「降る前に帰るか?」 「うん。だいたい乗ったしね」 「じゃぁ出よう」  電車から降りると、外は、灯りが落ちたように真っ暗だった。 日が落ちる前なので、街灯やネオンがついていない。 それ故に、暗い。 「空、すごいね」 「あぁ」  遠くで、重く、くぐもった雷鳴が響いた。 「晩ご飯は?」 「ディナーの予約を入れてあるが……ここらで時間を潰すより、いったんメゾンに戻ったほうがいいな。なんならキャンセルしてもいい」  そう言っている内に、大粒の雨が額を叩く。 アスファルトに、硬貨ほどの染みが、次々と浮きだした。  とりあえずコンビニで傘を買った。 僕は黒い傘。恵は女物の赤い傘だ。  コンビニから出た頃には、もう、外は真っ暗で、雨は豪雨のように降り注いでいた。 「……傘さしてても、ぬれそうだね」 「夕立だな。どうする? 帰るか? 雨宿りか?」 「帰ろ。うち帰ってシャワー浴びればいいよ」 「そうだな。そうするか」  僕は、傘を差す。 横なぐりの風のせいで、傘は、あまり役に立たない。 ないよりはましと言ったところか。 「お兄ちゃん、うちまで競争だよ」  そう言うなり、恵が駆け出した。 まぁ、どうせ濡れるなら、それもいいか。 僕は恵の後を追って駆け出した。  雨の幕は、町並みを灰色に染め尽くし、その向こうに赤い傘が揺れる。 その様を見て、ふと、僕は不安になる。 なぜだろう。   僕は、急いで走り出す。 早く恵に追いつかないと。 何か取り返しのつかないことが起きる気がした。   理由がない。 妄想にさえならない、形のない不安。 なぜだ?  雨の日に特有の危険はある。 たとえば交通事故。 スリップした車に轢かれる恵を想像する。   いや、これじゃない。 今感じてる不安は違う。 じゃぁなんだ?  とにかく、追いつけばいい。 家路を急ぐ人の中を通り抜けるように、僕は、すべりやすい道を走った。   傘が揺れる。赤い傘。   ようやく気づく。 臭いだ。この雨の臭い。 雨の臭い。台風の臭い。 湿ったアスファルトの臭い。   それだけじゃない。  そこに混じっているのは……澱んだ池の、腐った水の臭い。    「恵!」   僕は、絶叫した。 この雨は自然のものじゃない。 ならば──恵が危ない。 僕はそう直感した。 すべてをかきけす雨音の中で、低い蛙のような鳴き声が木霊していた。  僕は走る。制服は水を吸い、身体が重かった。 靴は滑り、足下がおぼつかない。     それでも走る。 不思議に自分が襲われている、とは思わなかった。 魚人の狙いが僕なら、恵に近づけば、かえって危険かもしれない。 冷静な声が、そう言っていたが、僕は従わない。 早く。 一刻でも早く。 恵に追いつかないと。 ──危ない。     雨足はいよいよ強く、水滴というよりは水流だった。 顔を上げて前を見るだけで、目にあふれた水で視界が曇る。 両手で顔をぬぐいながら、僕は走る。 黒い傘とすれ違う。   その先に、赤い傘。 傘が、角を曲がる。 あと少し。 あと少し。 僕も、角を曲がる。 そうすれば追いつける。 そうすれば……。     悲鳴はなかった。 あったとして、それは雨音に掻き消されていた。 角を曲がった時には、恵の姿は既になかった。   道の真ん中にあるマンホール。   そのそばに、赤い傘が転がっていた。     僕は、震える手で、それを拾い上げる。 貯まった水を捨てれば、傘は、どこも痛んでいなかった。 柄も握りも歪んでいない。 ただ、持ち主が、ついと手を放しただけに思える。   ──傘を、落としたのかもしれない。   僕は、妄想を膨らます。   ──この大雨の中。傘はかえって邪魔だ。 ──だから、捨てた。     そんなはずはない。傘が邪魔なら、たたんで持つはずだ。 開いたまま道の真ん中に捨てるようなことをするわけがない。   ──じゃぁ、違う傘だ。 傘を捨てたのは、マナーの悪い別人だ。 拾い上げるまでもなく、恵と同じ傘だったが、なぁにコンビニの量産品だ。 同じ雨に降られ、同じコンビニで、同じ傘を買う確率も低いというほどではない。   赤い傘をかざすと。  唐突に、唐突に雨が晴れた。 絶え間なく続いていた雨音がぴたりと止む。 夕立が、上がる。  雲間から、血のように赤い夕日が顔をのぞかせる。 そこここの水たまりが、血のように光る中、僕は、傘を手にして立ち尽くしていた。  ──向こうの角に。恵が待っている。 全身を濡らして、肩で息しながら。 そして僕に言う。 「かけっこは、私の勝ち」  妄想だ。 意味のない妄想。  そのことは僕にはわかっていた。なぜなら。 大きく重いマンホールの端から。布がはみ出ていたからだ。  紫色のそれは。 僕が恵に巻いたマフラーだった。  呆然としていたのは、時間にして1、2秒だっただろうか。 「カツキ!」  鋭い声に背を叩かれて、僕は、ぶるりと震えた。 空っぽの胸の中で荒れ狂う不安を退け、僕は振り返った。 「どうした?」  風のうしろを歩むもの。 その姿は、どうかしたかと思うくらいびしょぬれだった。  確かに雨は強かったが……たとえ傘をささなくても、ここまではならないだろう。  まして、彼女の足ならば。 駅からここまで、ほとんどかからないはずだ。  服は、吸い込めるだけ水を吸い込み、大きく膨らんでいた。 綺麗な髪は、べったりと貼り付いていた。 「無事で……よかった」 「僕じゃない。恵が」   そう言うと、少女の顔が、引き締まった。 「わかった。ちょっとどいてて」  言われた通りにすると、少女は身震いした。  人間のするような身震いではない。水をかぶった犬がするような。 左右の塀が、びっしょり濡れるほどの、鋭く、長い身震い。 「ふぅ」   水気が抜けた少女が呟いた。  「メグミが、どうしたって?」   僕は無言で、マンホールと、はみでたマフラーを指さした。 「あれ、カツキのじゃない?」  「恵に貸していたものだ」  「なるほど……」   少女が考え込む。  「何が起きたか教えてくれ」  「メグミは、まだ無事だよ。 カツキ、落ち着いていいよ」  肩に手を載せられ、僕は、深呼吸した。  「手、いたいでしょ?」   言われて気づく。 握った右拳の中から、血が滴っていた。 「貸して」   少女が、僕の手を取った。 優しく柔らかな指で、僕の固まった拳を、ほぐすように、一本一本開いていく。 指先についた血を、少女が、ぺろりと舐めた。  「説明してくれ」   恵が無事。 否。まだ無事。 「わだつみの民、だね」  「あの魚人のことか?」  「うん。急に結界を張るから、急いで来たけど、間に合わなかったみたい。ゴメン」  「いや……」   少女に怒る気にはなれなかった。 「僕は、忘れていた」   人外の化け物に狙われていること。 魚人たちが、まだ生きていること。 忘れ、たかったのだ。   どうせ考えてもどうにもならない。 なら、そんなものは無いと思いこむ。 非論理的な思考に、僕ははまりこんでいた。   いや、そんなことはどうでもいい。 今は、恵だ。 「恵が無事だと、なぜわかる?」  「争った跡がない。 血の臭いもしないし、傘も壊れてない」  少女は、その片手で、軽々と、マンホールの蓋を持ち上げた。 「はい」  マフラーを絞って、僕の首にかける。 僕は、マフラーを制服指定通りに首に巻き直した。 何度となく繰り返した動作をなぞるうちに、もうすこしだけ気が落ち着く。 「だからって……どうして無事だとわかる?」  「あのね。わだつみの民は……勘違いしたと思うんだ」  「勘違い?」  「カツキだと思って、さらったんじゃないかな」   脳が沸騰した。 怒りがふつふつとこみあげる。 「僕とだと?」  「ボクもびっくりしたんだけど、カツキとメグミって、すごくニオイが似てるんだよね。 だから、わだつみの民もきっと……」  「それで……どうなる?」  「間違いに気づいたら、きっと、手を出さないと思うよ」  「きっと? きっとだと」  右腕が伸びる。 少女の喉首を捕まえる。 爪を食い込ませ、喉を押しつぶす前に。 すんでのところで、僕は自分を抑える。  「落ち着いて、カツキ」   少女は怒った風もなく、そう言うと、小さく唄った。  暖かい風が、その両手の間から生じて、僕の顔をなでる。 「じっとしてて」  「……」  「そんな風にびしょぬれだと、いい考えも浮かばないよ」  「……あぁ。すまない」   髪を梳く少女の手に身を任せ、僕は、できる限り息を整えた。 「はい、終わり」   髪は軽く、ふわふわとしてきもちよい。  「それじゃ、ここでお別れだ」   僕は、地面にぽっかりと開いた穴をみつめた。 下水道の構造はわからないが、魚人の目的が僕であるなら、すぐに捕まえてくれるだろう。 「ボクもいくよ」  「これは僕と魚人の問題だ。 君を巻き込む理由がない」  「理由はあるよ!」  「僕の魔力が必要だからか?」 「じゃなくて。 メグミはボクにゴハンくれたもの」  「は?」   僕は、思わず目を見開いた。  「ゴハンをもらうのは命をもらうのと同じ。だから、ボクはメグミを助ける。 カツキは関係ないよ」   そうか。僕の時も、そうだった。 この少女は、1杯の……否。 ラーメン7杯他サイドメニューのために、僕の命を助けると誓った。 「カツキはメゾンに戻ってたほうがいいよ。あそこならボクも安心できる」   僕の表情を見て、少女は小さく笑った。  「でもま、来るよね」  「あぁ、行くとも」 「じゃぁ、ついてきて。 その代わり、絶対ボクの側を離れちゃダメだよ」 「わかった」  地の底に続く梯子は、永遠に続くように思われた。 不思議なもので、ぬるぬるとすべるはしご段に集中すればするほど、頭の中では、様々な考えが浮かんでゆく。 「ひとつ聞きたいんだが……」 「なぁに?」 「あの雨は、なんだ?」 「結界だよ。邪魔が入らないためのね。おかげで、入るのすごく苦労したよ」 「そうじゃなくて……これまで起きた連続殺人事件で、一度も雨など降ったことはない。なぜ急に、そんな手間を踏むんだ?」 「今までのほうがおかしいんだよ」 「どういうことだ?」 「人外の民は、人目についちゃいけない。それが掟なんだ。 だから、狩りは、夜にするし、昼は姿が目につかないように結界を張る」 「……僕には、おおっぴらに活動しているように見えるが」 「そうなんだよね。おかしいなぁ」  少女の声に、憂鬱が混じる。 「その掟というのは、そもそも根拠があるのか?」 「理由もなにも」   僕の下で、少女がつぶやいた。 「守らないと、滅ぶんだ」 「……滅ぶ?」 「そうだよ」  少女が、梯子を蹴って飛んだ。  どうやら、底についたらしい。 「暗いな」  見上げれば、マンホールの出口が、小さく見えた。 茜色の丸は、いまや握り拳ほどの大きさだ。 僕らのいる場所は、水路の「岸」にあたる足場だった。  さっきの雨のせいで、水路は増水し、轟々と音を立てて流れている。 少女ならともかく、僕が巻き込まれたら、一瞬で溺れそうだ。 「あ、カツキは見えないんだっけ」   かろうじてわかるのはそれくらいで、滑りやすい足場がどこまで続いて、どこからが水路かも分からない。 このままだと、ただ歩くのも難しい。  「ああ。灯りはないか?」  「じっとして。頭をさげていて」   少女の言葉は、いつものように何の気負いもなく、故に、僕は、一瞬、その意味がわからなかった。  蒼白い光。 暗い闇の奥から、音も立てずに飛び来る鬼火。  それは、少女の眼前で、ぱしゃん、と音を立てて弾けた。 否。少女が弾いたのだ。 僕の顔に水滴が、跳ねる。   闇の中で鋭く光る鋼色の刃。 頭上の出口から注ぐかすかな灯りが、少女の爪をきらめかせていた。 「ボクは、風のうしろを歩むもの」   少女の声が、地下水路にこだまする。  「母は、雲間の踊り女。 母の母は、片腕の稲妻殺し。 これなるは、九門克綺。 人にして友。 わだつみの民よ、道を開けよ。 平らかに進ませ給え」  返事はない。 ただ、闇の奥で、鬼火が灯った。 一つ、二つ、三つ……。  目が慣れてきたのだろう。 無数に灯る鬼火の下に、かすかに見えた。  魚人たちの群れ。その数、数十! 「るぅぅぅぅぅおぉ!」  少女が吠えた。  鬼火が一斉に消えた。  次の瞬間。 目の前の河が、ぱっくりと割れ、無数の魚人が宙に閃く。 「あ……」  思考が追いつくのは、もどかしいほど遅かった。 押しつぶすほどの勢いで、魚人たちが、宙から襲いかかる。  ──魚人たちは。  風のうしろを歩むものは、その全身で、魚人たちを弾き返していた。   拳が。肘が。膝が。   炸裂するたびに。 笛のような音が響き、魚人たちを吹っ飛ばす。  ──流れに。  仲間の身体を擦り抜けて。   否。   時には貫いて。 鋭い水流が飛ぶ。  蛇のようにくねりながら急所を狙う水の鞭を、少女は残らず切って捨てた。  ──身を投じたんだ。  ようやく思考が完成する。 魚人たちは、水路の流れに身を投じ、一瞬で水底を渡り、そして僕の前に現れたわけだ。  そして。今。 文字通り殺到する魚人の群れを、少女は一人で押し返していた。  魚人の力強い尾の一撃を。 両足の触手を。 数十の水の鞭を。  人智を越えた速度で受け、止め、叩き落とす。 風の力を乗せた一撃は、触れるたびに、まとめて魚人を吹っ飛ばす。  やすやすと。いともやすやすと。 少女は、魚人の群れに相対していた。   その風よりも早く動く顔に、一瞬。 苦しみの色が見えたのは何故だったか。 「だいじょうぶか?」   人間の脳の認識は、他人の表情、および、感情の把握に特化する。 心臓のない僕ですら、それは真実らしく。   気づいてしまえば、少女の表情は、目に焼き付いたように離れなかった。 ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、こみあがるものを押さえるように。 少女は、前を見ていた。  うなりをあげる風は、しかし、損害を与えていなかった。 魚人の巨体を吹き飛ばしはするが、すぐに立ち上がり、向かってくる。 つまりそれは、少女が防戦一方ということ。 一歩も引かずに、敵の攻撃を受けきってはいるが、何一つ損害を与えられないのであれば……。 「カツキ、耳をふさいで」   少女が囁く。 両耳をふさいだ瞬間。 少女の右手が刃と化した。  音を立てて気圧が減る。空気が喰われる。集積する。 ぎゅんと音を立てて、引いた右手に風が装填される。 ねじれた風がまとわりつき、何者をも貫く槍と化す。 「……ごめんね」  かすかな囁きを聞き取れたのは、僕だけだっただろう。  唸りをあげてつきだされた抜き手は、螺旋の颶風と化し。  喰らった魚人の足が浮く。 胸板を貫かれながら、魚人は吹っ飛んだ。  その肉体は水平に回りながら、後ろの魚人たちを巻き込み、彼岸にぶちあたる。それをさらに、風がえぐった。  鋭く尖った風は、数匹の魚人を、えぐりながら串刺す。 風穴の空いた肉塊が、コンクリートに落ちて、耳障りな音を立てた。 「さがれ!」   鋭い叱咤は、しかし、無意味だった。 魚人たちを止めたのは、恐怖でも悲しみでもなく、単なる驚きと警戒だったのだろう。 少女が手を止めたと見るや、魚人たちは再び躍りかかった。  背を向けて僕を守る少女の顔は、今は見えなかった。 ただ、その小さな肩が、小刻みに揺れていた。  その瞬間。僕は理解した。 少女の苦悶の意味を。  それは、悲しみだった。 無為に命を奪うことへの、悲しみ。 横殴りの風が、刃と化して襲う。  それは飛びかかった魚人を、まとめて両断した。   どろりと垂れ下がる臓物も、しぶく血潮さえも、風に阻まれて、むなしく水に落ちた。  それでも魚人は止まらない。  たん、と、少女が、床を踏みしめる。 顔をあげて、魚人たちに向かい合う。 「これは破る風。 これは砕く風。 これは潰す風。 これは崩す風。 これは喰らう風」   詞に合わせて少女の指が開かれる。 「これは病みの風。 これは迷い風。 これは惑い風。 これは傷み風。 これは祟り風」  両の五指に、あわせて十の風が宿った。 踊るように振るう腕の先。 謡うように流れる指先から、昏い光がこぼれた。  十の光が、少女の前方に、絶対不可侵の陣を編みあげてゆく。 「来るな。来れば死ぬ」   少女の叫びは、懇願のようだった。  届かない。  先頭の魚人が、身体を踊らせる。  十色の陣は。  その鱗を飛ばし、肉を断ち、骨を削り。 粉砕されたその肉体は炎を吹き。  煙となって風に消える。  水っぽい風音は、まるで、獣の舌なめずり。 頭を喰い肩を喰い腕を喰い。 胴を喰い足を喰い鰭を喰い。  ほんの一瞬で、魚人は、宙に掻き消えた。 それでも彼らは止まらない。 ずいぶん数は減ったが、それでも、憑かれたように、死の行進を続ける。 「くぅっ!」  少女の喉から、悲痛な声が洩れる。 その力は、魚人を圧倒していた。  殺すのなら。 殺すだけであるならば。 少女は、一瞬で、彼ら全員を屠ることもできただろう。  それを避けたのは、無益な殺戮を避けるため。 向い来る魚人の意気を殺ぐために。 一匹ずつ。殊更にむごたらしく、殺してみせる。  小さく震える背に、手をかけることもできず。 僕は、ただ、その様を見つめていた。  数十匹の魚人が数匹となった時。 唐突に、最後が訪れた。  何の前触れもなく、水面が、剣山と化したのだ。 滑らかに水面に、鋭く尖った柱が、一瞬で顕現する。 それは、生き残った魚人と、水面に漂う肉塊を、すべて、まとめて串刺しにした。  一瞬、呆然とした。何が起きたのか。  少女の横顔も、驚いていた。 彼女の技では、ない。  水面から天井まで伸びる無数の柱。 それらは、まるで、百舌のはやにえのように肉を縫い止めていた。  次の瞬間。 ぎちぎちと音がして、無数の肉塊が爆発した。  柱は、いまや、無数の枝を生やしていた。 縦横無尽に空間を埋める、微細なる氷の刃。 それらは貫いた肉塊をさらに寸断したのだ。  最後に響いた音は、水音だった。  水の柱は、出た時と同じく無音で掻き消え、もはや動かなくなった肉塊が、水面に落ちる音。  少女が無言で構えを取る。  ひときわ大きな魚人が数人、そびえるように立っている。 それに守られるように、一つの大きな影がある。  人魚、と、呼ぶべきだろうか。 これまでのものが垂直に立つ以外は人と似ても似つかぬ姿をしていたのに対し、それは、人間の女に似ていた。  下半身は、魚に近く、二本の足の代わりに鰭があったが、腰のくびれや、ゆたかな胸の膨らみは、人そのものだ。 両の腕は、人に近い関節と指があった。  その腕が抱えているのは……小さな人間の少女。 ぐったりと動かないそれは──恵。  一瞬、目の前が赤くなる。 思わず拳を固めた僕に、少女が柔らかに語った。 「見て。メグミは、生きてる」  この距離、この暗さだ。僕にはわからなかった。 けれど、少女にはわかっているのだろう。 規則正しく動く、胸の上下が。  どうすべきか。 恵を人質に取られたまま戦うのは避けたい。  ……だが、人質があるのなら、なぜ、同族を向かわせた? そしてとどめを刺した? あるいは、魚人は一枚岩ではないのか? 人に争いがあるように、魚人の間にも争いがある?  僕の思考は空転する。 道理のつながらないところが多すぎる。 「どう思う?」 「わからない。怒ってはいないみたいだけど」  片腕に恵を抱いたまま、人魚の左手が、つい、と、あがる。  下水の表面が、ぶくぶくと泡だったかと思うと、盛り上がり、大きな杯のような形を取る。  杯は、ゆっくりと僕らのほうに流れより、足下で止まった。 ……船、か。 「どうする?」  「行くしかないだろう」   人質が握られていることに変わりはない。 今は乗るしかない。  「これ、放さないでね」   少女の差しだしたポシェットの紐を、僕はゆっくりと掴んだ。 紐を通して、身体全体が、柔らかな風に覆われる。  少女が、船に一歩足を踏み入れた。  足下が、ぶくぶくと泡立つ。 その靴は、船に触れず、わずかに浮かんでいた。  続いて入った僕も同じだ。  僕たちが乗り込むと、船は、ゆっくりと動き始めた。  魚人たちが僕らに背を向けた。  先導するように、ゆっくりと波を立てて滑ってゆく。 入り口から離れるほどに、だんだんと暗くなっていった。  直に、僕の視界は、まっくらになる。 目を開けてもつぶっても同じ、混沌の色がうずまく。 行く途中、船は、何度か曲がり、また、登り、下がった感触があった。  ふいに、空気の臭いが変わる。 そろそろ鼻が慣れていた下水の悪臭が消え、代わりに、生暖かい風が吹きつけた。  誰かの吐息のような、暖かい風。 必ずしも悪臭ではないが、どこか生臭い。 「……ここは?」 「カツキは、見ないほうがいい」  きっぱりと少女が告げる。ポシェットがかたかたと震えていた。 僕は、彼女の言葉を信じることにした。  やがて、もう一度風が変わった。 生臭さが消えていた。清浄な風。  僕は、新鮮な風を胸一杯に吸い込んだ。 水際の風の匂い。海ではなく、湖か。  ゆっくりと僕は、目を開ける。  そこは、白い砂浜だった。 目の前には巨大な地底湖があり、青い波が打ち寄せていた。 空……天井は、かすかな光で輝いており、淡い薄明かりに、その風景を閉じ込めていた。  足下の船が、水に吸い込まれるように消えた。  僕の両足が大地につくと、きゅうきゅうと砂が鳴いた。 鳴き砂、か。 「地底湖か」  地の底に広がる広大な空間。 それにしても大きい。  向こう岸は、薄明かりにけぶって見えないほどだ。 これだけの空洞が自然にできたとは思えなかった。 地底湖の中心には、小さな島があり、石の祭壇とおぼしきものがしつらえてあった。 「〈幽宮〉《かくりのみや》だね」   澄んだ風を、少女は胸一杯に吸い込む。  「〈幽宮〉《かくりのみや》?」  「ええっと家っていうか、基地なのかな。 とにかく、わだつみの民が、ふだん住むところだよ」  「危険なのか?」 「危険といえば危険だけど……そもそも〈幽宮〉《かくりのみや》に、余所者は招かない。 ここを汚されたら困るのは向こうだからね」  「信用されてるのか?」  「少なくとも礼は尽くしてるね」  少女は、困った顔で、湖を見つめる。 湖面に立つ人魚は、魚人の一人に、恵を預ける。  魚人が、水面を渡り、島の祭壇に恵を横たえるのを、僕は目で追った。  恵を祭壇においたのち、魚人たちは、十分に距離を取った。 いきなり恵を人質に取るつもりはない、という意思表示だろう。 今のところは信用するしかない。  人魚が、こちらへ向かって歩き出した。 いや、歩いたというのは正確ではない。 滑るように泳いだというべきだろう。  背後に魚人たちを残し、悠々と近づくその風格は、女王然として、僕は、彼女が一族の長であると確信した。  たった一人で砂浜に降り立った人魚は、天井の光を浴びて、金色に輝いていた。 人に似ている、とは言ったが、いま、こうして間近でみれば、その流麗な身体の線は、明らかに人とは異なっていた。   背は見上げるほど。 すらりと伸びた胴体は、かすかにくびれてはいるものの、美しい曲線を描いている。 その腕は、人の常よりも長く、長い袖に見える鰭を備えていた。  僕は、一歩前に出て言った。  「恵を返してほしい」   握ったポシェットの紐は、揺れていなかった。 人魚の右手が動いた。 泳ぐようにゆっくりと、大きく弧を描きながら、僕の前に差し出される。  その掌には、真珠が乗っていた。 数は三つ。 左手が、同じように非人間的な滑らかさで動き、掌の真珠の一つを取った。 指が、口に運ばれる。 人魚は、自らの真珠を呑み込んだ。 「……ボクたちにも呑めってことかな?」  「そうだろうな。何か、感じるか?」  「うーん、力は感じるけど……」  僕は、ひょいと手を出して真珠を摘む。 口元に持って行くと、人魚は、それが正しいというようにうなずいた。   覚悟して、呑み込む。   真珠は、口の中で、泡を出して弾けた。  炭酸のように、しゅわしゅわと溶けるそれを僕は呑み込む。  最初は、何も起きなかった。   次の瞬間。   胸の奥で、深い深い波音が聞こえた。  水が、溢れてゆく。 真珠は、真珠と見えたものは、魔力を帯びた水の塊だった。 それは、僕の胸の中でほどけながら、こんこんと水を湧かす。  澄んだ、冷たい湖水が、僕の中に染み通る。 僕の中の常の水と混ざり合い、ゆっくりとそれを染めてゆく。 「カツキ?」  そう呼ぶ声が、波音に掻き消される。 やがて体内に染み通った水が、身体にあふれだす。 全身から水が噴き出す感覚に僕は襲われた。  鼓膜が水に覆われ、すべての音が消えた。  しきりに涙が出て、目をこする。 そうして僕は気づいた。  目の前には、女性。  幼い少女が立っていた。 和服を着た清楚な少女は、ついと服の裾をつまむと、僕に会釈した。  耳元で鳴っていた波音が、ゆっくりと人の声に収束する。 「ようこそ、九門。汝に礼を言う」  「おまえは……誰だ?」  「妾は、わだつみの民を束ねる者。 名は──」   名のところで波音が混ざった。 否。声が波音に戻った。  ようやく理解する。 さきほどの真珠は、僕の身体の中で、一種の翻訳機となっているのだと。 体内に広がった水は、視覚と聴覚に干渉し、少女の言葉を、姿を変えている。   つまり、目の前の少女は、あの人魚なのだ。  「僕は、恵を返してもらいに来ただけだ。礼とは、何だ?」 「あ、カツキだ。平気?」   僕は、唐突に現れた風のうしろを歩むものに、うなずいた。 彼女もまた真珠を飲んだのだろう。  「君がわだつみの民の長だというなら、僕たちは……ついさっき、わだつみの民を殺してきたばかりだ」  「カツキ、それは……」  「いや、妾から言おう」  少女は毅然として顔を上げる。  「あれらは狂っていた。 狂っていたが故に人の子を襲った。 それは、民を束ねる妾の落ち度だ。 重ねて礼を言う」 「狂って……いた?」  「狂っておらねば、白昼人を襲うようなことはない。 あれらは……殺すしかないものだったのだ」   僕は、唇を噛んだ。 その物言いは気に入らない。   殺すしかないなんて、決めつけるのは間違いだ、と思う。 だが、それは殺した僕らが言っていいことではないだろう。 「恵をさらったのも……狂っていたからなのか?」  「いや違う。 あれは汝を迎えるためであった」   人違い、か。考えていた通りだ。 そこで僕は、一つ思いつく。  「迎えるというよりは、攫われたように思えるが」 「昨日、汝には使者を使わしたが、戻って来なかった。 それ故の手荒な手段だ」  「使者?」   僕は首をひねる。  「もしかして、学校の?」   少女がうなずく。 「人の子のことはよく知らぬが、多分、それだ。あれは、どうなった?」   僕は、深呼吸する。  「最初は話が通じるかと思ったが、急に襲いかかってきた。その内に……」  「死んだか?」  「あぁ」  「──すまないことをしたな」   少女の表情は変わらない。 「いかなる理由があったかは知らぬが、人の子の土地にあって狂い、そなたたちを襲ったのは、我らの落ち度だ」  「それはいいけれど。 人違いだったのなら、恵は解放してくれ」   少女は、一瞬だけ、つらそうに、うつむいた。 そして言い放った。 「九門よ。 我らには、汝のその血肉が必要だ。 それを渡すなら、誓って、あの女は無事に帰す」  「血肉、だと?」  「あぁ。汝の命だ」   少女の声は、重かった。 「ダメだよ」   柔らかな声が、それを遮る。 「カツキの体はボクがもらうんだから」   少女が、ずい、と、僕の前に出る。 表情は変わらない。   風のうしろを歩むものは、いつもの気さくな笑みを浮かべているし、わだつみの民の長は、相変わらずの無表情だ。   だが、二人の間には決意があった。 一歩も譲らぬという決意が。   その間にある賞品としては、いたたまれない気分だ。 「とりあえず……説明してくれないか? なぜ、僕の血肉にそんなに拘るのか」   二人の少女は、僕のほうを見て、決まり悪そうにする。  「この男は……何も知らぬのか?」  「うーん、あんまり」 「そうか。なら、妾から言おう」   少女の顔は変わらない。 表情は、「翻訳」されないのかもしれない。  「そなたは、我らのような人外の者とは、あまり近しい付き合いでないように見えるが、どうだ?」  「その通りだ。 存在するのを知ったのが、この一週間だ」  「では、なぜ、我らが人目につかぬかを疑問に思ったことはないか?」  僕は、考える。 そして愕然とした。   そんな理由は存在しない。   人に似て、人を解し、かつ、人よりも大きな力を持つ彼らが、なぜ、かくも完璧に人の目から隠れるのか?  掟? 無意味な掟であるならば、破るものがいるだろう。   迫害? 人の力で彼らを殺すのは難しい。 それは、今度の連続殺人事件を見ても明らかだ。 彼らが団結すれば、それなりの勢力を維持できるはずだ。   利益? 人の闇に隠れたほうが都合がいいというのはあるかもしれない。 ではあっても、変わり者はどこにでもいるだろう。 「……なぜだ?」  「簡単なことだ。 我らは、人の目につくと、死ぬのだ」   表情は、変わらない。 能面のように整った少女は、その小さな唇だけを動かして、そう言った。  「それは具体的にどういうことだ? 僕は君を見ているが、君はまだ死んでいない」 「人に触れることは、我らにとって毒となる。 より多くの人に見られ、知られるほどに、その毒は早く回り、我らの体を蝕み……やがて、死に至る。それ故に、我らわだつみの民も……そこなる草原の民も、人里離れた〈幽宮〉《かくりのみや》にて、過ごしておるのだ」  「それは、わかった。 だとして、なぜ、僕が必要なんだ?」   風のうしろを歩むものが、小さく溜息をついた。 「人の数は、年々増えておる」  「知っている」  「故に、その毒も、〈猖獗〉《しょうけつ》を極めている。 〈幽宮〉《かくりのみや》となる地にも、人の穢れは押し寄せた。 幼いものほど、その毒に弱い。 我らの子は……皆、死ぬか狂い果てた」  「……」  なんと答えるべきか、わからなかった。 僕は、沈黙し、そして思い当たった。   風のうしろを歩むもの。 彼女もまた、目の前の人魚と同じ悲劇を経てここにいるのだろう、と。 「疑問が二つある」  「言ってみよ」  「一つ目は、地上を襲った、わだつみの民だ。 さっき狂っていると言ったが……」  「左様。人の毒に当てられたのよ」  「それが何故、人を襲う?」   言って、僕は、一つ矛盾に気づいた。 「そうだ。それに、あの神父は?」  「神父?」  「夜闇の民と言ったか? 彼は、僕の学校の教師をしている。 白昼堂々と人の中を歩き、人として振る舞っている」 「カツキ。 人の毒を避けるには、二つ方法があるんだ」  「なんだ?」  「一つ目は、人からうんと離れること。 人の知らないところで暮らすこと。  そしてもう一つは……人を食べること」  「人を……喰らう?」   神父の言葉が耳に蘇る。  ――我々は、ヘモグロビンや生理食塩から糧を得るわけではないのです。 人の血によって生きているのです。  「そう。人の毒はね。 人と違うものを襲うんだ。 だから、人の血肉を喰らって、人の気をまとえば、しばらくは毒にかからない」   僕は目を細める。 毒、というには妙な挙動だ。 ある種の免疫反応のような。 人でないもののみを襲う、そんな力。 世界の免疫反応。 「馬鹿げている」   思わず、口から文句が洩れた。  「人といえども動物に過ぎない。 人が環境を傷つけ、他の種を圧迫することもあるが、それはあくまで物理的作用だ。 ただ見るだけで他を傷つけるなどと……」  それは、人が世界の中心である、という思想だ。 天の星は、地球の周りを回るわけではない。 人類は万物の霊長ではない。   そうした偏狭な考えを、人類は、長い時間をかけて捨て去って来たのではないか。  「理由は知らぬ。 神代の過ちが故ともいうが、妾のあずかり知らぬところだ」  少女の言葉は重い。 理由がどうであろうが、彼女は、それによって苦しんできたのだろう。  「とまれ、それ故に、人の毒を浴びて狂った者は、人を喰らって痛みを癒そうとする」   それが、あの魚人たちか。 自らの存在を隠すことも忘れ……傷みに駆り立てられて、人を襲い始める。 それは、ひどく、痛ましく。 僕は、ふと思いついて尋ねる。 「風のうしろを歩むものは平気なのか? こんなに長い間、人の中にいて?」  「ボクは、平気。 あんまり長くいるとまずいけどね」  「そうか。状況は理解した。 だが、なぜ、僕の力がいるんだ? 人間への復讐か?」   言って僕は、間違いに気づいた。 わだつみの民はわからないが、少なくとも風のうしろを歩むものが、そんな魂胆で僕を狙っているということはないだろう。 「復讐に意味などない。 我らが滅ぶのは、我らが滅ぶだけのこと」   淡々と少女が言う。  「だが、そなたの血肉があれば、我らは助かるかも知れぬ」  「助かる?」 「我らの力は、心に門を開き、彼方よりの力を招き入れること。 それは聞き及んでおるか?」  「ああ」  「そなたの門を開く力は、我らの誰よりも強い。 その力をもってすれば、真に異界への門を開くことができる。 人のおらぬ、穢れのない、異境のな」   息を吸う。そして吐く。 「だが、それには、そなたの力すべてが必要だ。 命も残らぬほどに」  「つまり……僕が死ぬことで、君たちの一族が助かるわけだな」  「いかにも」 「風のうしろを歩むものも……目的は同じ、と考えていいのか?」  「黙っててゴメン、カツキ」   そういって少女は、小さく頭を下げた。 「僕は……死にたくはない」  「妾は、死んでもよいと思っている。 弟と妹のために。 娘のために。 息子のために」   少女の言葉には迷いがなく、おそらく、風のうしろを歩むものも同じなのだろう。 「このままでは、我らは春を待たずして滅ぶだろう」   その言葉は、僕を打ちのめした。  「すでに、幼き者たちは消え、若きものたちも消え失せた。 次の卵だけが我らの心の支えだ。 それが砕ければ……我らは、あさましくも、人食いの悪鬼と化そう」   言い換えれば、連続殺人が再び……より強い魚人たちによって繰り返されるということか。 「いや……この言い様は、卑怯であったな。そなたの力さえあれば……我らの子さえ助かるならば、我らは胸を突いて死んでもよい」   無表情だった少女の顔に、小さな小さな微笑みが浮かんだ。 「妾は思う。 伝えに言う、竜神の郷を。 濁りなきわだつみをしろしめすは、人にあらざる竜の民。 蒼く輝く月の元、どこまでも青く深い海に、童たちが泳ぐ様を。 海の彼方に広がる水平線を目指し、童たちは、どこまでも泳いでゆく。 その海に果てはなく、ただ、泳ぎ疲れ、母の胸に帰ることがあるのみ」   少女が、僕を見る。 人の姿を取ってはいても、その目は瞬かない。 決して逸れない眼差しが、僕を射抜く。 「恥知らずな願いとは思う。 だが……我らのために死んではくれぬか?」  「僕は……」  突然。景色が乱れた。  目の前の少女が、ゆらりと歪み、視界に気泡が混ざる。 か細い声は、ごぼごぼという泡に還元されてゆく。  急に息が苦しくなって、僕は、胸を押さえた。 全身を悪寒が包む。 「げぇっ」  僕は、水を吐いた。 体内に溶け込んでいた人魚の真珠が、急激な拒否反応を起こす。  ごぼり、と、音を立てて、大量の水がこぼれた。 まじった血の薄いピンクが目に焼き付く。 目から、鼻から、毛穴から、水は滴っていた。  水という水を吐き尽くしても、全身の悪寒は取れない。 体が、動かない。  全身を覆う痺れと、濡れた耳たぶを揺らす重低音。 指一本動かせず、立ったまま全身が絞られていく。  ──この感覚は。  記憶と記憶が、かすかにつながる。だが。 脳が揺さぶられる。思考が詰まる。 論理が塞がり、解答に至らない。  震動にぶれる視界が、目の前の存在を捉えた。 さっきまで、黒衣の少女であったそれは。 いまや金色の鱗を纏った人魚の正体を露わにしていた。  非人間的な均整のまま、長く伸びた体躯は狂おしく震え。 それは、丘に上がった魚そのもので、僕は、一瞬、それを醜いと感じた。  その思考を後悔した瞬間、呪縛が解ける。  極限の緊張を強いられていた全身の筋肉が一瞬で解放され、僕は、ねじれたバネが飛び出すように、宙に舞った。  世界が逆転し、地面に叩きつけられる寸前。  僕は、襟首を捕まえられてかろうじて足から着地した。 「カツキ、平気?」  「あぁ」   聞き慣れた少女の声には、どこかに緊張の色があった。  目の前に、人魚が立ちはだかっていた。 白い砂の上に、すっくと体を伸ばし、遙か上から見下ろしている。 表情は、無論、読めない。   能面のように整った瞳は、いま、青く光っていた。 狂おしいほど、冷たい光。   にらみあう瞬間。 緊張が張りつめる。  僕は、恵のいる島を目で追う。 あそこまで……間に合うか?  緊張を破ったのは、背後からの爆音だった。  壁からは、大きな突入孔が口を開け、見覚えのある緑の軍服が走り寄る。 背にタンクを、顔に防毒マスクらしきものをつけたその姿は、人の形をした虫のようだった。 「危ない!」  少女が、猫のように僕の襟に噛みつき、地面へと引きずり倒す。  頭上を爆音が通過する。  それは悪夢のようだった。  黒々とした炎が、僕の目の前で荒れ狂う。 熱せられた空気が空に舞い、低い天井にぶつかり、対流を起こす。 ナパームの炎が巻き上げられ、気の狂った蛍のように、真っ赤に空を埋め尽くす。  ガラス越しに見る地獄のように。  すっぱりと切り裂かれた三角形の世界の外は、炎上していた。  三角形の頂点に立つのは少女。 かざした片手が、襲い来る炎を切り裂いていた。   ぴしり、と、何かに〈罅〉《ひび》の入る音がした。 その意味まではわからない。 「走れる?」   少女の声に、かすかに疲れの色を聞いたのは気のせいだったか。 僕は、うなずく。  「恵を!」  「う、うん」  汗。 砂浜を踏みしめて立つ両の足に、無数の水滴がついていた。  いまや砂浜は炎に覆われ、水面にさえも炎が荒れ狂っていた。 火だるまになった魚人が、全身をばたつかせるのが視界の端に見えた。 付着したナパームは、水に潜ってさえ、すぐには消えず、泡を立てながら、肉を喰らい続ける。  ぐらり、と、大地が揺れた。  僕は振り返る。 湖に立った人魚。その眼前に、巨大な水柱が吹き上がる。  湖の底が覗く。  天地が逆転する。空が水となる。 巨大な水柱は、天井にぶつかるや、無数の槍と化して、大地へと降り注いだ。  澄んだ音を立てて、砂浜が穿たれる。  文字通り、雨のように降り注ぐ槍の中を、僕たちは手に手を取って走り抜けた。  風が僕たちを包み、暴虐な熱風から、充満する二酸化炭素から、ふりそそぐ槍から、僕らを守る。  狭い地底湖の壁に達した時、少女が跳ねた。  片腕で僕を抱いて、壁を蹴る。  二度。  三度。  何度か振り回されたのち、僕の足には大地があった。  膝が折れ、腰が落ちて、背を壁にあずける。  僕は、大きく荒い息をついた。 ここは。 地底湖の壁面。張り出した岩棚のようだ。 「カツキ、だいじょうぶ?」   少女が、心配そうに僕をのぞきこむ。  「風のうしろを歩むものこそ、大丈夫か?」  思わず僕はそう尋ねていた。   少女の顔は、汗に濡れ、前髪が貼り付いていた。 無論、誰だって汗はかく。   くわえて、この熱気だ。 僕自身、全身が汗ばんでいる。   ただ、それだけじゃない。 そんな嫌な予感がした。 だから。 「少し、ここで休もう」   少女がそう言った時も、僕は、うなずいた。  眼下には、相も変わらぬ地獄が広がっていた。 貫く氷は炎に屈さず、蝕む炎は氷にゆらがず。 ただ、霧だけが生じる。 炎を映した紅い霧。   その中を、一陣の影が駆けた。  ──あれは、巨人?  燃えさかる砂浜が、墜落するヘリの記憶と重なった。  陽炎の向こうを走り去る、ひときわ大きな人影は。 昨日、炎上するヘリから屋上に飛び降りた灰色の巨人に他ならなかった。  間断なく降り注いでは、砂浜を剔っていた槍が、急に行き先を変える。 あたかも雷電のように。 巨人という一点を目指して降り注いだ。  針鼠のように、巨人は水の槍に刺し貫かれた。   そう思った。   だが、身を起こしざま、巨人が、その体躯を震わす。  めり込んだ針は、すべて、前方に跳ね返ってゆく。  人魚の前に、槍が返る。 人魚の前で、槍が還る。  水の刃は、人魚に触れる前に、柔らかな水に還っていた。 ふりそそぐ水の幕が人魚を覆う。  人魚が天を指す。  再び飛来した槍の群れは、巨人に触れさえしなかった。 それらは、その灰色の肌に触れた瞬間。一瞬で、溶け去った。 無害な雨が、巨人の足下を洗う。  無貌の巨人は、前進する。 こうして見ると、全身を覆うのは、ある種のボディースーツであることが分かる。  では、あれをまとっているのは人間なのだろうか。 それもありえない。  スーツの表面には傷一つついていなかったが、先ほどの槍は、確かに巨人の全身にめりこんだのだ。  どれほど柔軟性のあるスーツであっても、骨と内臓がある限り、あれだけの槍を避けられた道理がない。スーツの中で串刺しになるか、あるいは引っ張られて粉々になるか、そのどちらかだ。  つまり。 あれの中身は人間ではない。  前進する巨人の足が、ついに湖に及んだ。  人魚が腕を振る。 此度、飛んだのは、槍ではない。 巨大な水の塊だった。   いかなる表面張力によるものか、車ほどの水の塊が、崩れもせずに巨人に叩きつけられる。  巨人は、避けない。 正面から受けとめる。  槍の時と同じように、巨大な水の球は、巨人に触れた瞬間、ただの水となって溶け崩れた。  ただの水? 違う。  一歩踏み出そうとして、巨人は、それができないことに気づく。  解き放たれた水は、巨人の足下を凍り付かせていた。 「──過冷却」  「なにそれ?」  「液体の性質の一つだ。水は、本来、氷温で凍るが、純粋な水を徐々に冷やすと、液体のまま、氷温以下になることがある。そうした水は、ほんのわずかな衝撃を与えただけで、固体になる。つまり、氷となる」  人魚が、魚人たちが。あらたな水球を投げつける。  無数に投げ込まれる水が、つながる。  傾いた滝が、宙に踊り、虹が見えた。 過冷却水が、次々に叩きつけられ、巨人の体に、ごっそりと霜がはりつく。 やがてそれは、巨人の全身を封じ込めてゆく。  巨人が、もがいた。 その全身が、異様な速度で振動する。 全身を覆う霜が、弾き飛ばされる。  あびせかけられる水は、止まらない。 巨大な水の固まりが次々と固着し、巨人の新たな重石となってゆく。  滔々と浴びせられる水と、吹き飛ばされる氷。 そのせめぎ合いが、あたりの空気を白く染め上げる。  苛烈な勝負の行方は、しかし、明らかだった。 体を震わす巨人は、前に進むことができない。   故に。 弾き飛ばした霜は、徐々に、その回りに積もっていった。  降り注ぐ水は、それさえも取り込んで、氷の柱を作ってゆく。 瞬く間に、巨大な柱ができあがり、巨人の姿を隠した。 柱の中で、巨人が動く。 その上から、さらに、水が注ぎ込まれる。  何度か大きく揺れながらも、柱は崩れもせず、ついに、動きを止めた。  数十トンに及ぶ氷は、白い牢獄として、湖岸にそびえ立つ。  人魚たちの動きが、止まる。   宙に踊っていた水が、ばしゃんと湖水に還り、つかのまの氷山となる。  だがその時は、すでに、軍人たちが前進していた。 まだ熱い火炎放射器のノズルを、湖に漬ける。  シュウシュウと濃い湯気の奥で。  湖水が、ゆっくりと黒く染まってゆくのを、僕は見た。 冷たく青い湖水を、またたく間に、黒が覆い尽くす。  人魚が、空を仰ぐ。 付き従う魚人は、もはや数匹。 そのことごとくが、身をよじって叫んでいる。   目からしたたり落ちる青黒いものは、涙ではなく、血だった。 暴々と炎が鳴き、轟々と風が呻く。 それさえも圧して響く牛の呻くが如き、阿鼻叫喚。 「毒か」   言わずもがなのことを口にする。 風のうしろを歩むものの風に守られて、この岩棚までは、戦場の熱も及ばない。 だが。 「恵が、危ない」   炎も氷も、幸い、恵のいる島までは及んでいなかった。 だが、それも時間の問題だ。 「メグミを……助けないと」   少女が、小さく自分に言い聞かせるように囁く。 大きく肩で息をしている。  「怪我をしたのか?」  「ううん、それはないよ」   少女は振り返って小さく笑う。 「しかし……」  「今は、メグミだよね?」  「……あぁ」   僕はうなずいた。  少女は、僕の額に口づける。 「お守りだよ」   柔らかな唇の感触。 それは、ほのかに熱く、そして涼やかな風に包まれていた。  「じゃ、行ってくる。 カツキはここで待ってて」  それだけ言い残し、風のうしろを歩むものは、宙に身を躍らせた。  洞窟の澱んだ風は、火に炙られ、悲鳴を上げていた。 荒れ狂う嵐をなだめるのは、草原の民ですら手こずるほどだ。  だが彼女の名は、風のうしろを歩むもの。 泣き叫ぶ風の目から目を渡り、軽やかに大地に着く。 「今日は、死ぬには、いい日だ」   誓句を唱える。 間一髪で避けた炎が、ちりちりと肌を焼く。 身を護る風は、もはや少ない。 ほとんどは、カツキの護りに預けてきた。 あとは、この足が頼りだ。 「夜が暗いと、さびしくなる」  荒れ狂う炎を縫い、飛び交う氷槍をかわし、少女は走る。 「あなたのぬくもりが、恋しくなる」  炎に弾丸が混じり始めた。 タンクを空にした侵略部隊は、銃撃に切り替えたのだ。  一斉射撃の合間をくぐる時、髪の一房がもってゆかれた。  血が、こめかみから噴き出す。 「今日、ボクは、独りだ」 「ここは暗い。ここは寒い。ここは悲しい」  行く手を魚人がふさぐ。 目から青い血を流し、見境無く触手を撃つ。  鋼鉄よりも鋭いその一撃を、少女はかろうじて躱した。 「ここには、あなたがいない」  縮む触手を掴み、少女は、反動で蹴りを叩き込む。 もとより倒すことなど期待はできない。  ひるんだ隙に肩を蹴って、その前へと躍り出る。  銃撃に、魚人が倒れ、その先の少女を襲う。  風だけを頼りに身をひねるが、脇腹に灼熱の痛みが走った。 大きく息を吸い込み、少女は歌う。 「けれど。 こんな暗い夜だから、夜明けを想う」  水面を走る。 残るすべての風を足に回し、水を切る石のように跳び続ける。  点々と、水面に、紅い血が散った。  一歩進むごとに、足は沈み、毒の水が靴の奥に染みこむ。 「こんな寒い日だから、朝日を想う。こんな悲しい時だから、あなたを想う」  ざぶり、と水が割れて、人魚が巨体を現す。 毒の水を浴びたその鱗は、ささくれ立ち、人に似た顔は、溶け崩れていた。  だが、少女を見つめるその瞳にはなお力があり、青い瞋恚が燃えていた。 狂気が見境無く怒りをかきたてるのか。  あるいは。破滅を呼び込んだ彼女を恨んでいるのか。 いずれにせよ、人魚の瞳は、通すつもりはない、と、語っていた。  人魚の背後には、メグミの島。 逃げ回るわけにはいかない。  狂乱した人魚が、メグミを襲うかもしれない。 流れ弾が、毒の波が、メグミに触れるかもしれない。  そんなことは許さない。 メグミを助けると誓ったから。  カツキの前で誓ったから。  だから。 油臭い煙を吸い込みながら。 血の噴き出る脇腹から手を放し。 少女は、最後の力を両足に集めた。 「あなたに朝が訪れますように。 暖かな風がありますように。 愛しいぬくもりを得られますように」  「ここは、こんなにも冷たくて、あなたはここにいない。 だから。それはきっとよいことで」  「今日は、死ぬには、いい日だ」   そう言った少女は、いつものように微笑んでいた。 「待て!」  叫んだ時には遅かった。 風のうしろを歩むものは、とうに身を躍らせていた。 くるくると宙を舞いながら、軽やかに大地を踏む。  やはり、何かがおかしい。 少女の動きは、どこか、ぎこちなく、 特殊部隊が、水からノズルを上げる。背後に収納し、銃撃に切り替えた。  その火線が交叉した時。 少女の体が、ぐらりと揺れた。  脇腹を押さえる手が痛ましく、僕は、助けに行こうと一歩踏み出し……そして、身が竦んだ。  ここは地上数十メートルの、岩棚の上。 壁はオーバーハングしており、装備無しで降りるのは、少なくとも僕には無理だ。   躊躇する内に、少女は水面を走り抜ける。 魚人を通り過ぎ、あと少しで島にたどり着く。 そう思った時。 湖が割れ、巨大な人魚が、姿を現した。  上半身は……あの時、見たのと同じ、人に似た姿だったが、巨大なのは、その体だ。 胸から下に広がる巨体は、まるで一艘の船のようだった。  水面が、ささくれ立つように波立ったかと思うと。 次の瞬間。  生えた槍が、少女の体を縫い止めていた。   僕は……。  凍れる槍に突き刺さった少女は、あまりにも小さく。 その手足は、かすかに震えていた。   腹から噴き出る血までが凍りつき、紅い華を咲かせる。 手が、足が、白い霜に覆われ、凍りつく中で、槍だけが透き通っていた。  ──助けなきゃ。 思っても、体は動かなかった。 歯を食いしばって、岩棚を這う。   ──その行動は非論理的だ。 頭の中で、冷たい声が言う。   ──第一に、おまえはそこから降りられない。 淡々と呟く声を、僕は、歯を食いしばって無視した。  岩棚からぶらさがり、壁面のでっぱりを足で探る。 無理だ。 壁面はオーバーハングしている。 手を放せば、落ちる。   だが、それでも。 僕は、岩棚から手を放し、ゆっくりと進む。  ──おまえは、そこから降りられない。   破局は、わずか三歩で訪れた。 硬い岩を掴む指は限界で、伸ばした足の、手がかりは見つからず。 岩棚に戻ろうとして、さらにバランスを崩した。     気味の悪い浮遊感が全身を包む。 頭を下にして、僕は落下する。 無意味に思考が加速した。 死の淵に置いて人を生かすその作用は、僕には無用のものだった。 岩の染みの一つ一つが目に入る。 この分だと、首の骨か。 苦痛はないだろう。 そんなことを考える。 迫り来る地面にぶつかる瞬間。  僕は、大きく弾んだ。 「!?」  厚手のマットに飛び降りたような衝撃で、僕は、宙に投げ出される。  今度は、腹から落ちて、地面で弾む。  三度目の着地は、足から決めた。 膝で衝撃を吸収する。  死を乗り切ったショックで、一瞬呆然とする。 何が起きたのかわからない。 ままならないものだ。今こそ、高速思考が必要だというのに。  僕の落ちたのは、兵士達のど真ん中だった。 驚いた顔をしながら、兵士達が整然と下がり、次々と僕に銃口を向ける。  さすがに、足が動いた。 洞窟の湖岸を、僕は走る。  銃声。  だが、弾丸は逸れる。  走りながら、ようやく僕は理解する。   風だ。 少女の風が僕を護っている。   旅立つ前の口づけ。 あの時、僕のそばに風を残したのだろう。  ──おまえは、そこから降りられない。   さぁ、降りたぞ。 次は、どうしてやろう?   ──おまえには、何もできない。   冷静な声が続ける。 たとえ、地面に降りても。 たとえ、弾丸が外れても。 今の僕に、何が出来るというのか。  ──足手まといになるだけだ。   そんなこと。  やってみなければ、わからない!  僕は、兵士たちの間を駆け抜けて、湖へ向かった。 涼やかな風が僕を後押しする。 戦場の熱気を遮断して、柔らかな風を喉に送り込む。 「風の──」   大きく息を吸う。  「うしろを歩むもの!」  氷柱の少女が動いた。  小さな腕は、ゆっくりと動き、自らを貫く氷柱を両手で握りしめた。 顔が上がる。   小さな腕に、力がこもる。  透明だった柱に、かすかに濁りが……罅が生じた。 濁りが、根本に達した時。  柱が、砕けた。  紅い雪が降る。 凍りついた血の華が、砕けて、霞のように降り注いだ。 「カツキ!」  宙に身を躍らせた少女の一声は、それだった。  再び、氷柱が、少女を襲う。  身を翻して少女は躱し、かえってそれを足場に駆ける。 湖岸へ。  僕のほうへ。  二本。三本。 追うように並ぶ柱の上を、少女は、駆け抜けた。 「カツキ!」  湖岸に辿り着いた少女を、僕は抱きしめた。 細い体は、熱くほてり、一息ごとに、胸から血があふれた。  だが。 風のうしろを歩むものは生きていた。 僕は、間に合った。  ぐったりと身を預ける少女を抱きしめて、僕は湖水に目を移す。  待ち受ける人魚。  それに付き添う魚人。  勝てる気はしない。論理が告げる。 おまえに勝つ手段はない。  負ける気もしない。 論理なんかない。 決意があるだけだ。  恵を。 風のうしろを歩むものを。 僕は、ここから連れ帰る。  少女の目は閉じていたが、風の守りは、まだ僕と共にあった。 湖水に踏み出そうとした時。  人魚の、形が狂っていた。 人に似た優美な胸。その胸に浮き出た斜めの線。 それを分割線として、上半身が、ずれていた。  丸い断面がのぞく。 ずれてゆく。人魚の上半身が、ずるりと滑ってゆく。  思い出したように青い血を宙に撒きながら、それは湖水に落ちた。 「あ……」  両断されたのだ。 人魚は、一瞬で、あらゆる護りを突破され、その上体を斜めに。 切断された。  湖水に沈む半身に、一瞬だけ、僕は、あの喪服の少女の姿を重ねた。  生き残りの魚人たちが、雷に打たれたように、振り返る。  水面を駆けるように跳び、女王の元へ集った彼らが、一斉に血を噴き上げる。  今度は見えた。 魚人たちを貫く緋色の軌跡。 まばたきするほどの間に、魚人たちを屠ったその刃の持ち主。  それは、驚くほど小柄な、人の形をしていた。 燃えさかる炎に溶け込むような、緋色の人影が、ゆらゆらと水面に浮いている。   まだ息のある魚人が、手をあげる。  指先から迸った水の槍は、影の前で、ぱしゃり、と、落ちた。   影が腕を振る。 腕は鞭のようにしなり、驚くほど長く伸びた。  縦に三度。   横に三度。 腕は動いた。 腕を上げていた魚人が、賽の目に刻まれて、ぽろぽろと崩れた。  ……あの巨人か。 僕は、直感する。    おそらく、分厚い体は装甲の一部で、あの影が、巨人の“中身”なんだろう。  ゆっくりと紅い影が、こちらを向く。 巨人と同じ仮面が僕を見つめた。  腕が、振られる。 長い腕の先端は、音速を遙かに超え、衝撃波となって、水面を伝わる。 白い波が蛇のようにくねり、岸を越えて僕に襲いかかる。  腕の中で、少女が動く。蛇に向けて両手をかざした。  びじゃん。  稲妻のような音と共に、水蛇が弾けた。 頬をかすめた水滴が、ざっくりと肉をえぐった。血が流れる。  風のうしろを歩むものの膝が、ゆっくりと、崩れる。  魔力の限界か!  恐怖が背筋を巡った。 水面を、滑るように歩む黒い影に、僕は、少女を抱いたまま、後ずさる。 ──逃げるしかない。   だが、どこへ?   前方には、影。 後方は、銃を持った兵士達。 それに恵。まだ、恵を助けていない。  銃声が、耳元に轟く。   至近弾を風の結界が弾いたのだ。 今のところ結界もまだ保ってはいるが……。  迷って足を止めたその時、崩落が始まった。  頭ほどもある岩が、僕の目の前に落ちて、硬質な響きを立てる。  一つだけではない。無数の岩が、それこそ雨あられと降り注いでいた。 「〈幽宮〉《かくりのみや》が……消える」   腕の中で、少女が囁く。 風が、岩を逸らす。 「恵!」   僕は、湖面に足を進める。  次の瞬間、僕は宙に舞った。  車ほどもある大きな岩石塊が、僕の頭上に落下したのだ。 それは、風の結界ごと、僕らを吹き飛ばした。  かろうじて、立ち上がる。 腕の中には風のうしろを歩むものがいた。 拳ほどの石が、僕の頬をかすめる。 風の結界が限界だ。  落石の勢いは増していた。 いまや、この空洞自体が、圧壊しようとしているのだ。  土煙がもうもうとあがり、僕の視界を覆っていた。 もはや、恵がどこにいるかさえ見えなかった。 「カツキ、こっち!」   風のうしろを歩むものが立ち上がって、僕の手を引く。 その手を握って、僕は走った。  無数の土塊に全身を打たれながら、前後不覚のまま僕は走った。  脳裏に、恵の姿が浮かぶ。 最後に、湖に足を踏み出したあの時。 島に横たわる恵のそばに……何かがいた。 それは、小柄な人影に見えた。  ──どうすることも、できやしない。   第一に、ここから降りることに困難を伴う。 自由落下以外の方法で降下するのは難しいし、自由落下した場合、僕は行動不能となる。  第二に、仮に無事に降りられたとして、出来ることが、あまりにも少ない。 銃を撃つ兵士たち。 その一人とさえ、僕は渡り合う術がない。 まして、彼ら、人外の者共と。 僕がいけば、それは足手まといになる。 風のうしろを歩むものに力があれば、僕を護りに戻るだろう。 それでは意味がない。  第三に、時間が足りない。 手遅れだ。 奇跡的に銃火をくぐり抜け、毒の水を渡り、少女の元に駆けたとしても。  凍れる槍に突き刺さった少女は、あまりにも小さく。   その手足は、かすかに震えていた。 腹から噴き出る血までが凍りつき、紅い華を咲かせる。 手が、足が、白い霜に覆われ、凍りつく中で、槍だけが透き通っていた。  だが。 小さな腕は、ゆっくりと動き、自らを貫く氷柱を両手で握りしめた。 顔が上がる。   小さな腕に、力がこもる。  透明だった柱に、かすかに濁りが……罅が生じた。 濁りが、根本に達した時。  柱が、砕けた。  紅い雪が降る。 凍りついた血の華が、砕けて、霞のように降り注いだ。  その中を、少女が〈翔〉《かけ》た。  いかなる力によるものか、息も絶え絶えのその体に、五色の稲妻が纏われた。   宙を蹴って加速した少女を。  人魚が、諸手をあげて迎え撃つ。   次の瞬間。  何が起きたのか、わからなかった。  少女の蹴りが到達するよりも早く。  人に似た優美な胸。その胸に浮き出た斜めの線。  その線に沿って。 人魚の上半身が、ずるりと滑った。  思い出したように血が噴き出す。  青い血を宙に撒きながら、それは湖水に落ちてゆく。  一方の少女は。 とまどったように体勢を変え、足から湖水に着地する。  水面にすっくと立ったその瞬間。  首が、転げた。  体が、水面に投げ出される。  遅れて、首が落ちる。 波紋が、広がってゆく。  ごう、と、全身に熱風が吹きつける。汗が噴き出た。 少女の残した風の護り。それが、今、消えた。 「あ……あぁ……」  喉から、声が漏れる。 悲鳴を上げるなど非論理的だ。 風のうしろを歩むものの死は、予測し、計算し、決断したはずだ。  だから、今、悲鳴など上げても意味はない。 だが、悲鳴は止まらない。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  慟哭が体を震わす。  身を引きちぎられるような後悔が、全身を満たす。 何もできないから何もしないというのなら。 何かすることに意味がないというならば。 そもそも僕は無意味だ。  がん、と、頭に衝撃が走った。  血が目に垂れる。 瓦礫?  足下が、ぐらぐらと揺れる。 頭上から瓦礫が降り注ぐ。 地底湖の、天井全体が崩れ始めていた。  拳ほどの岩の塊が、雨あられと降り注ぐ。 岩棚の上では避けることもままならない。  このまま残るか、一か八か飛び降りるか。  その決意より早く、足に激痛が走った。 頭ほどもある瓦礫が、すねを砕いていた。  眼下では、部隊が整然と撤退を開始していた。 誰も、上を見上げはしない。 壁の岩棚の怪我人など、気づきもしない。  何も決めず。何も為さず。 誰にも知られることはなく、僕は、この岩棚で死ぬ。  視界の端で、何かが回る。 くるくると回るそれは、ひどく懐かしく──。              どこをどう走ったのか。 もつれる足を、二人で支え合い、地獄のような崩落の中を、とにかく僕たちは走りきった。   どうも、意識が飛んだらしい。 登った記憶はないが。 気がつけば。  僕は地上にいた。 意識が戻ると同時に、鋭い咳がこみ上げる。  肺腑を吐き出すような勢いで血と砂と土を、僕は、吐き出した。 「平気?」  身を折って咳する僕に、風のうしろを歩むものが、話しかける。 僕よりも……よほど傷ついているはずなのに。 「平気だ。それより君のことが心配だ」 「よかった……」  少女が、微笑む。 わずかな違和感。  あぁ、そうだ、と僕は思う。 いつもの、あの黒い帽子がないんだ。  少女の顔は硝煙で汚れ、胸からは血を流しているというのに。 場違いにも、僕は、その流れる銀髪が綺麗だと思った。 本当に、そう思ったのだ。  その時、異音がした。 ぴしり、と、何かに罅の入る音。  これは……髪飾り? 少女の髪を留めていた勾玉は、あの澄んだ色を失い、黒い罅が縦横に走っていた。  異音は続き、最後に、澄んだ音と共に砕け散る。  ふぁさ、と、髪が広がる。  それと同時に、少女が、僕の腕の中に倒れ込んだ。  抱き留めた少女の体は、羽根のように軽かった。 軽いというより、手応えが、ない。 それはまるで、何か、大切なものが流れ出てしまったかのように。  このうえなく脆い、空の器。 強く抱きしめたら、それだけで砕けてしまいそうだ。  考えるな。 ──空っぽ。虚ろ。手遅れ。死。 そう思えば思うほど、暗い妄想がわきあがる。  だが。 今は考えるな。 今、考えるべきは、彼女を助けることだ。  背負ってみてわかった。軽いのは気のせいでもなんでもない。 本当に、空気袋を背負うようだ。  冷静な声が囁く。 不幸中の幸い。  人一人を運ぶのは、本来、重労働だ。 だが、これなら、いける。 軽く息を整え、僕は、メゾンに向けて走り出した。        走りながらも、黒いものが胸をさいなんだ。 黒いものは恐怖。 あの角の一つ先に。 魚人が。軍服の男達が。 待ち受けているのではないか。   そして、恵。        恵は死んでしまったのか。 もしや、今も生きているということは。 あの落盤を耐え延びて、かすかな空洞に生き埋めになって助けを求めているのではないか。 身動きもとれず、岩をひっかく指は爪が割れて血を噴き出し、酸素を吸おうとあえぐ唇は紫に……。 ヤメロ。 そのことを考えるだけで、恐怖は胸に〈凝〉《こご》り、息を妨げ、足を止めようとする。        とめどなくあふれようとする無根拠な妄想を振り払い、僕は、走った。 もし一人だったら、歩けなかっただろう。 道ばたにへたり込んで、恐怖に押しつぶされていたと思う。   背の少女の温もりだけが、僕を前に進めた。  メゾン前の並木道に辿り着いた瞬間。 僕は、安堵に倒れ込みそうになった。 「おかえりなさい、克綺クン」  声に、顔を上げる。  月の光を浴びて、管理人さんが立っていた。 いつものエプロンと、いつもの笑顔。 血染めの二人を見ても、怖じることもなく、ただ、あの穏やかな笑顔だけがあった。   説明を。 言うべき事が、多すぎて、喉につかえた。 風のうしろを歩むものの治療を。 恵が危ない。 魚人たちと軍隊。  やわらかな手が、肩に触れる。 僕は、思いついた、たった一言を、言った。  「ただいま」   その言葉が魔法の呪文だった。 はりつめていたものが途切れ、体の疲れが。 痛みが。 どっと押し寄せる。  管理人さんの胸に倒れ込む。 日に干したふとんの匂いだな、と、思ったのが最後の思考だった。     そのあとのことは、かすかな記憶しかない。  管理人さんが、どうやってか、僕ら二人を、メゾンに運び込んだこと。 床に敷いた毛布に、僕と少女は並んで横たえられた。 管理人さんが、手際よく服をぬがし、二人同時に傷を手当てしてゆく。 お湯と、包帯。そしてタオル。 熱に浮かされた記憶の中で、ピンセットが体に食い込み、尖った石のかけらを取りだしたことを覚えている。 存外に大きなかけらで、よく、動けたものだと感心する。 糸をくわえて噛みきる管理人さん。 縫われたのは僕じゃないから、少女なのだろう。     全身を暖かな布で拭かれた時は、痛みに身をよじった。 朦朧とした意識の中で、痛みと後悔は、同じものだった。 胸を押しつぶす悲しみに、僕は、何度も叫んだと思う。 僕の心の一部は、あの穴ぐらにあり、死の恐怖に怯えていた。   拭い去れない生き埋めのイメージ。 埋まっているのは、時には恵で、時には僕。 時には風のうしろを歩むものだった。 悲鳴をあげるそのたびに、暖かな手が僕の手を握り、僕は、ここが穴ぐらでないことを思い出すのだ。  明け方に、ようやく僕は、目を覚ました。 体の節々が痛く、手足が重いが、とりあえず、支障はない。 「起きた?」   首を回すと、管理人さんが小さな声で言った。  「はい」   僕も、小声で答えた。 隣では、風のうしろを歩むものが、小さな寝息を立てている。 管理人さんは、少女の手を握っていた。 「少し、代わってもらえる?」  「あ、はい」  少女の手を僕に預け、管理人さんは、立ち上がった。  「いま、ごはん作ってきてあげるからね」   そう言って見せたのは、いつもの、あの管理人さんの笑顔だった。  一晩中看病していただろうに、疲れた様子一つない。 それに、あの看病の手際。  あの人は何者なのだろう、という疑問が、久しぶりに頭に浮かぶ。 だが、それもつかの間のこと。僕は、少女を見た。  少女の手は、僕の手の中で、汗ばんでいた。 顔も紅く、つらそうだ。  うなされているのか、時折、指が震える。 そのたびに僕は手を握りかえし、乱れた前髪を、そっと直した。  少女の腕は細く、その指は、今にも折れそうだった。 触れているだけで、薄れて消えてしまいそうな、そんな予感。  ほどなく、管理人さんが現れた。 お盆に、おかゆをもって、僕の横に座る。 「はい、克綺クン、あーん」  「いえ、自分で食べられます」  「そう?」   そう言ってお盆を置いた管理人さんは、どこか残念そうだった。 「それより……風のうしろを歩むものが」  「一応、傷はふさいだし、感染症の心配はないわ。 あとは体力の問題になるけれど……」   管理人さんの表情が、真剣なものになる。  「克綺クンに相談なんだけど……」  「はい?」  「この子、病院に、運んでいいと思う?」  管理人さんの言葉に、僕は、悩んだ。 このメゾンには、怪しげな住人が多い。 端的に言えば、日本国籍もなく、パスポートもなさそうな人たちだ。 正規な病院に運ばれて身元がばれれば、国外退去になりかねない人々。 管理人さんが言ってるのは、そういうことだろう。   そして、目の前の少女は、それ以前の問題だ。 果たして、人の薬が、彼女に効くのか。 かえって害を及ぼしはしないか。 診断で、人でないことが分かっても、困る。 「病院は、止めたほうがいいと思います」   僕は、立ち上がる。  かすかな目眩がしたが、大丈夫だ。  「わかったわ」   管理人さんが、少女を抱き起こし、湯気の立つ手拭いで、顔と喉を拭いてゆく。 両手をあげさせて、シャツを脱がすのをみて、僕は、あわてて顔を背けた。 「おかゆ、いただきます」   それだけ言って、部屋を出る。  「克綺クンも、今日は無理しちゃダメよ」   管理人さんの声が、うしろから届いた。  部屋に戻ってようやく、僕は、管理人さんに恵のことを聞かれなかったことに気づいた。  おかゆは、まだ暖かかった。 かすかな塩味に、半熟卵を落としたおかゆが、ありがたく、腹の中に染みてゆく。  一杯たいらげる頃には、人心地が着いていた。 これからどうすべきか。  ほとんど習慣で、ノートを立ち上げ、メールをチェックする。  重要なメールは二通。  一通目は、峰雪のものだった。 昨日は、雨に降られて災難だったが、その後どうだ、というメール。  そういえば、峰雪は、まだ何も知らないわけか。 雨が降り、一緒にいた風のうしろを歩むものが消えたことだけ。 僕は、精読する気にもなれず、次のメールを探した。  二通目は、広告にまぎれて、危うく見逃すところだった。 アルファベットで署名された、画像添付のメール。 削除する寸前、僕は、署名に気づく。 [(no subject)/Ignis]  IGNIS……そのスペリングが、あの女と結びつくまでに、一瞬の時間が必要だった。 題名も本文もなく、添付ファイルがあるだけ。 震える手で、画像を開く。  そこに現れたものに、僕は、打ちのめされた。  安物の携帯で撮られたような、粒子の粗い画像。 時刻は夜。 背景は、暗闇の中にそびえる、白いビルだ。 その前に止まった救急車。 救急隊員が、担架で人間を運び出している。  救急隊員の陰に隠れ、担架の人影はわずかにのぞくのみ。 けれど、短い髪とピンクのコートは見間違えようがない。   それは、恵、だった。  逸る心をおさえ、メールを返信する。 聞きたいことは山ほどあったが、まとまらない。 文面に悩むよりも、ひとまず、こちらの電話番号を送り、返信待つ、と、書き添えた。  待ちきれずに、メールチェックを連打する。  返信は、わずか数秒で届いた。 [Returned mail:User unknown]   イグニスのメールアドレスは、死んでいた。 念のため、何通か送り直してみたが、どれも同じ反応だった。  葉書の差出人と同じように、送信元メールアドレスは申告制だ。 よって、存在しないアドレスを名乗るのは簡単である。  葉書に消印があるように、メールには送信経路がある。 それを見れば、ある程度の送信元はわかるらしいが……あいにく、僕は、そんなテクを持っていない。  確かなことは、恵は、あの、地下湖で死ななかった、ということだ。 イグニスが、何の目的で、この写真を撮影し、送ってきたのかはわからないが、なんらかの意図に基づくなら、また連絡があるだろう。  僕は、そう思って無理矢理自分を落ち着かせる。  ノックの音がする。 「はい?」  「克綺クン、手は空いてる?」  「えぇ」  「お買い物に行ってくるから……あの子、見ててくれる?」  「はい、わかりました」 「これ、部屋の鍵ね」  「今日は、おいしいもの作るからね。 克綺クンも、待っててね」   元気づけるような笑顔は、いつもと同じ。  「それじゃ、行ってらっしゃい」  「行ってきます」  玄関を出る管理人さんを見送って、僕は、ドアの鍵を開けた。 「……カツキ?」  風のうしろを歩むものは、毛布の上に半身を起こしていた。 その顔は、常になく白かった。 熱も汗も出し尽くし、もはや何も残っていないような、そんな蒼白な色。  「寝ていたほうがいい」  「ゴメンね。ボク、メグミを……守れなかった。約束したのに」   ふらふらと揺れる半身を僕は支える。 「心配するな。恵は生きている」   論理的には不正確だ。 写真があるから生きていると限ったわけじゃない。 だが、今だけは、そんなことはどうでもよかった。 「そうなんだ。あは、よかった」   うっすらと笑みを浮かべて目が、閉じられる。 その笑顔はあまりにも、無防備で、そのまま消え入りそうで、僕は、思わず、揺さぶった。   軽い。 背負った時よりも、なお軽い。 彼女の死が、近づいている。 「ねぇ、カツキ」   唇が開いて、僕は、動揺する。 もうしゃべるな、と、今は休めと伝えたい。   だが、その一方。 意識を失う彼女が、二度と手の届かないところへゆく。 そんな胸騒ぎが止まらなかった。 「やくそく、おぼえてる?」  「おぼえている。だけど」  「おまえは死なない」   僕は、自分に言い聞かせるように、そう言った。 「ボクが死んだら……カツキが食べてくれるよね」   その言葉で、唐突に僕は思い出す。 彼女を救う、その方法を。  「すぐ戻る。ちょっと待て」  僕は、台所に行って刃物を探す。 刃先の尖ったものがいいが、出刃は扱いづらい。 手頃なナイフを見つけて、戻る。  ナイフのきらめきに、少女が顔をあげる。 「よかった。 カツキ、ボクを食べて、くれるんだ」  「違う、その反対だ」   僕は、指先にナイフを向けた。 小さな傷といえど、自分でつけるのは勇気がいる。 刃先を刺し、引くと、たちまち血があふれた。 「あ……」   驚く少女に、僕は指先をさしだした。  少女の唇が、血で濡れる。 指がくわえられた。 喉が、こくんと動く。   僕の血が、魔力となるならば、これで──。  指先が、強く、吸われた。 少女は両手で、僕の手をささげもつ。 そして、まるで、幼子が母の胸を吸うように、無心に血を吸い始めた。 「──く」  指先の傷は小さなもので、流れる血も、命に関わるものではない。 にも関わらず。 少女が吸うたびに、僕の全身を大きな脱力感が襲った。  ただの血ではなく、なにかもっと大きなもの。生きる力そのものが吸われる感覚。 全ての感覚が指先に集中する。  僕は僕の指先であり、流れ出る血だった。 血は、九門克綺の中を流れる血であり、今、少女に流れ込む血だ。  僕の境目が広がってゆく。 僕の腕の少女は、僕に抱きしめられるボクで、ボクは僕にすがりながら、僕とボクのぬくもりが重なって──  目の前が暗くなる。景色が溶暗する。  ゆっくりと視界が閉ざされてゆく。 →8−5へ      硬く鋭い白一色。 見渡す限りの氷原。 地の果てから地の果てまで続く氷を、星灯りが蒼く染め上げる。   地平線の彼方で、無数の影が走る。 渡り。狼の群の、渡りだ。 北から南へ。 純白の凍土から、踏青の大地まで。     四本の足が躍動し、揺れる毛皮は、金、銀、そして、灰に黒。 灰色の毛皮に斑がある、まだ若い雄が飛び上がる。  宙にて転変し、裸の二本足に変わる。 ヒトの素肌は雪と氷にたちまち紅く染まり、雄は悲鳴を上げて転ぶ。  飛び上がって大笑いし、また、四本足に還える。 お調子者の道化仕草に、狼たちが吼える。   それは笑い声だった。 ゆっくりと、その笑いは、群全体に広がってゆく。     氷原の向こうから、ゆっくりと、朝日のかけらが、姿を現す。 一瞬、ほんの一瞬、蒼い氷原が、あざやかな藍色に染まる。 狼たちが、しんと静まり、朝日のかけらに頭を垂れる。 けれど、それは一瞬のこと。  朝日に紅く染まった氷は燃えるような炎の色で、狼たちは、さかんに吼えあう。   渡る人狼。 草原の、民。   ──それは夢ではなかった。     夢とは、うつろう過去に思いを馳せるもの。 夢とは、来たらざる時を思い描くもの。 触れることのできぬ不確かな時を、思い悩み、そして夢見る。 どこから来て、どこへ行くのか。 それこそが人の疑問の終着であり、故に、それが夢となる。   草原の民は、夢を見ない。 どこから来て、どこへ行くのか。 それは夢ではない。 彼らは知っている。骨の髄から知っているのだ。         我らは、憧れより現れた。 我らは、滅びへ向かう。   だから、まどろみにみるのは、夢ではない。 夢見る余地など、最初から、なかったのだ。        草原の民の伝えによれば、それは一人の男だったという。 七度妻を娶り、七度、妻子を失い、人の身の儚さを嘆いた男は、獣の力に憧れた。 戦う牙を、探る鼻を、ぬくもりを護る毛皮が、身に備わればと願った。 男の願いは叶えられ、そこに草原の民が生まれた。  そうして、草原の民は、人の憧れとなった。 人は彼らを妬みながらも祭り上げた。 けれど、やがて、人は数を殖やし、過去を忘れ、その憧れを捨て去った。 牙よりも鋭い槍を鍛え、夜を照らす炎をかざし、獣を狩って毛皮を纏った時、人は獣になろうとは思わなかった。 人の憧れを失った時、草原の民の滅びが決まった。 いまや地上を統べるのは人であり、人の認めぬものは、その有りようから消されるのだ。   広がる草の海は、人の畑になりはてた。 草原の民は、山や森の中に潜むものとなりはてた。 そうしていてさえ、人の毒は、彼らを蝕んだ。  〈智慧〉《ちえ》無き獣であれば、何もわからずに滅び去っただろう。 智慧持つ人であれば、己の智慧に負け、絶望に心砕かれたであろう。 けれど、彼らは智慧ある獣。 生を渇望し、絶望を踏み越える野生と、困難を乗り越える智慧があった。 不条理に際し、彼らは呪わなかった。 絶望に面し、彼らはあきらめなかった。 獲物を食み、子を成し、ただ来る日も来る日も頭を北風に向け、緩慢な死を耐え忍んだ。   ──それこそを悲惨と呼ぶべきだろう。 希望はすでになく、滅びを知ることが彼らの心の支えであり……そして、命を奪う毒であった。   毒は、常に、弱い者を蝕んだ。 母子が御産に倒れるたび、幼子が狂い果てるたび、草原の民は、より深く身を隠した。 人の目のとどかぬところへ、人の毒の及ばぬところへ。 毒は、常に、彼らより速かった。 幼子は育たず、母は倒れた。 生き残った老人は、黙って、その理不尽を噛みしめた。   草原の民の、その最後の若者。 その名を、風のうしろを歩むものという。 「克綺クン……?」  いつのまにか眠っていたらしい。 なにがどうなったのか、僕の腕の中には、風のうしろを歩むものがいた。  寝息は安らかで、顔にも赤みが戻っていた。 なにより、腕の中には、しっかりとした重みがあり、あの薄れて消える感じがなくなっていた。  安堵の溜息をつく。  いましがたの夢を思い出す。 いや、幻視というべきか。  今、見たものが本当の歴史であることを、僕は一瞬たりとも疑わなかった。 どうしてかはわからない。ただ、僕は、そう信じた。  遙けき時を渡って滅びの道を歩み続ける草原の民。 彼女が、その、最後の一人。  その一人が、今、僕の横で眠っている。 そのあどけない寝顔は、心に暖かいものをあふれさせた。 「克綺クン?」  遠慮がちな声に、僕は、顔をあげた。 買い物かごをさげた管理人さんが、すぐそばで、のぞきこんでいた。  「邪魔しちゃった?」  「いえ」  反射的に答えてから、僕は、自分の状況を客観視点から考察する。 一つの布団の中で、抱き合っている男女。   ふむ。 非常に誤解を招く状況といえそうだ。 僕は弁明を試みる。 「僕の現状が、ある種の解釈を誘導しがちであることは認めますが、それは違います。このように僕と彼女が同衾にいたった結末だけ見れば、あたかも僕が病人の寝込みを襲ったように思えるでしょうが、その経緯は、いたって潔白なものであり、無論、僕も無意識であったため、すべての過程を記憶しているわけではないのですが、それはそれとして」  「克綺クン」  「はい」 「お昼ごはん、食べる?」  「……いただきます」  僕は、そっと少女から腕を放した。 柔らかな抱き心地が、名残惜しいと思ったのは秘密だ。  昼食は、キャベツのスープだった。 味付けは、塩胡椒と、じっくり煮込んだ豚バラだけ。  丁寧に脂とあくを取った澄んだスープが、キャベツの甘みをひきだし、栄養が体の中に染み渡る思いがする。 食欲が出てきた頃に、管理人さんが出してきたのが、一口サイズのコンビーフサンド。   これが、後を引く。 自家製のコンビーフと溶かしバターが絶妙の風味で、腹ごしらえにちょうどいい。 つまるところ、メニューは管理人さんの一流の技。 文句のつけようがないのだが。 ただ。  食べてる間中、じっとこちらを向いているのは、いただけない。  「……なんでしょう?」 「風のうしろを歩むものちゃん、ずいぶん具合がよくなってたわね。 びっくりしちゃった」  「そうですね」  「病は気からって言うじゃない? 帰ってきた時は、二人ともすごくつらそうな顔してたけど、今は、だいじょうぶそうね」  「そうですね」 「克綺クン、何したのかな?」  「……」   血を飲ませた、といっても、通じはしまい。 「克綺クン、どこまでしたのかな?」  「一緒にいただけです」  「そうなんだ」 「……それにしても」   ひたすら問いかける瞳に、僕は、無理矢理、会話の方向をずらす。  「聞かないんですね。 何があったとか。恵のこととか」 「聞いてほしかった?」  「いえ。ただ、僕が管理人さんだったら、聞くだろうと思っただけです」  「それはどうして?」  「一つは単純な好奇心。 もう一つは心配、ですね。 何か手伝えることがないかと」  「管理人さんが心配していないというのではありません。 その反対です。 きっと心配しているだろうに、どうして、何も、聞かないかということです」 「あら、私に手伝えることがあったら、克綺クンがいうでしょ? 手伝ってって」   流れるように、管理人さんは、お茶を入れる。 ジャスミンティーの香りが、部屋を満たした。  「……確かにそうです」   それは論理的に正しく、僕は、うなずくしかなかった。 「私ね、人が人にできることって、案外、少ないと思うの」   まっすぐに、管理人さんが僕を見る。  「克綺クンには克綺クンの悩みがあって、それは私には代わってあげられない」  他人の悩みを代わることはできない。 論理的に、それは正しい。 それは管理人さんと僕の間だけではなく、誰にとってもそうなのだ。 そんな冷厳な論理に対し、僕の中のどこかが、反対していた。 しばらく考えて、理解する。   なるほど。その論理が正しければ、僕が、風のうしろを歩むものにできることも、わずかであることになる。 なぜだか、それは認めたくなかった。 「私にできるのはね。 克綺クンを気持ちよく送ってあげることくらいだと思うなぁ。……はい」   差し出されたお茶を、僕は、ゆっくりといただいた。 「お腹一杯になった?」  「はい」  「これから、出かけるんでしょう?」   この人は、どこまで見通しているのだろう?  「はい」 「じゃ、行ってらっしゃい。 晩ご飯、おいしいの作って待ってるからね」  「もしかしたら……遅くなるかもしれません」  「シチューにするわ。 ずぅっと煮込んでおくから、おいしくなってるわよ」  「だから、必ず帰ってきなさいよ」  「はい。行ってきます」  僕は、頭を下げた。  行く場所は決めていた。 学校の教会だ。  イグニスの居場所はわからない。 他に恵の居場所を知っていそうな人物となると、メルクリアーリ先生くらいしか思い当たらない。  時刻は午後。 うららかな日差しが、心地よい。 この時間の通学路は、滅多に通ったことがないので、新鮮な気持ちがする。  おまけに、事件の余波もあり、道はひたすら空いていた。 無人の道をひた走る。  ──恵が、生きてる。 そのことを、ゆっくりと噛みしめる。  冷たい声が疑問を呈する。 教会は危険だ。 僕の血肉は、人外の民にとって大きな価値がある。 あの吸血鬼の巣窟に近づくことは、情報以前に、命の危険がある。  そもそも、あの救急車の写真が、本物だという保証はない。 リスクは大きい。賢い取引とは言い難い。  だから、どうした。 僕は、自分に向かって叫ぶ。 恵が生きている可能性があるのならば。 それがどれほど小さくても、賭けるに価する。  校門に辿り着き、僕は、息を整えた。 礼拝堂は、すぐそこだ。  これから、メルクリアーリ先生に……吸血鬼に対峙する。 仮に恵が生きているとして、救い出さなければ意味がない。  しかし──手札は何もない。 戦う手段も、身を守る術も、今の僕には、全くない。  いや、悩んでいる暇はない。 僕は、礼拝堂の扉を開けた。  柔らかな光が、教会の中を満たしていた。  青に赤に緑に黄。 ステンドグラス越しに差し込む陽光が、色をおびて、説教壇を照らし出す。 「九門君ですか。 そろそろ来る頃と思いましたよ」   光の輪は、先生を照らし出し、その背後に、黒く濃い影を落としていた。 先生の返答に、僕は、  「ということは……僕の用件も、ご存じですか?」  「そうですね。積もる話もあることですし……お茶でもいかがですか?」   とぼけた声で告げる先生。 この期に及んで、焦っても仕方がないだろう。 「いただきます」  「ほう」   先生が面白そうに笑う。  「思ったよりも、冷静ですね」  「あわてることは非論理的です」   何がおかしいのか、先生は、ふきだした。 「失礼……いや、その通りです。 まずは、こちらへどうぞ」  司祭室に僕は座って待った。 直に先生が、茶盆をもって現れる。 「どうぞ」  「いただきます」   メルクリアーリ先生がさしだしたのは、たっぷりとジャムを溶かしたロシアン・ティー。 ぬるめに入れた甘い紅茶を飲み干すと、疲れた体に力が戻る思いがした。 「確認しますが……ストラスの件ですね」  「ストラス……?」   どこかで聞いた覚えがあるが、思い出せない。  「ストラス製薬ですよ」   それで、思い出した。 確か、この狭祭市に本社を持つ製薬会社だ。 市民の中には、結構な割合で社員がおり、大きな産業となっている。 「それも知りませんか。 先日、この海東学園に突入した特殊部隊。 彼らの母体がストラス製薬です」  「製薬会社が? 軍備を?」  「ええ。あの会社は、我々人外の民の天敵でしてね」   先生が苦笑する。 「製薬会社がなぜ?」  「ユニコーンの角に、ドラゴンの目。 この国では、〈四六〉《しろく》の〈蝦蟇〉《がま》というのを、ご存じありませんか?」   イタリア出身の先生は、妙に古いことを言い出した。 「昔から、珍しく危険な生き物には、薬効があることになっていますからね。 彼らにとっては、我々は生薬の材料、というわけですよ」  「おかしいですね。 安定供給できないものなど、製薬会社にとって意味はないでしょう」 「直接、薬にするなら、そうですね。 正確にいうなら、彼らのするのは、生体実験です。 我々を生きたまま切り刻み、薬の元を探すわけです」   メルクリアーリ先生は、苦笑して身震いして見せた。 それなら、うなずける。  既存の薬品の薬効成分は、そのほとんどが、元を辿れば生薬から分離されたものである。 自然の多様性は、人類の化学実験を遙かに凌駕するのだ。 未知の植物や生物から、新たな薬効成分が見つかることも数多い。   そう考えれば、自然の理さえ越えた人外の民から薬物を抽出するというのも理解できる。 「いま、恵さんは、ストラスに確保されています」   僕はうなずく。 先生が恵の名前を知っていることは気にくわないが、それを言っては始まらない。 「ストラス製薬は、恵さんと引き替えに、あなたの身柄を求めています」  「僕の?」  「忘れたのですか? あなたの血肉を求める魔物は数多くいる。 強大な力を魔物に与えることは、彼らにとって不利益だ」 「ストラスの内情に詳しいようですね」  「ああ、さきほど、ストラスから、あなたを引き渡すよう、要請があったんですよ」   相変わらずの、とぼけ顔で、先生は言い放った。 「天敵と、取引を?」  「友とは親しくしろ、敵とはもっと親しくしろ、と言いましてね。 敵対する仲だからこそ、ねばり強い交渉を保つ必要があるのです」   なるほど。 ストラスの目的が、無差別な狩りではなく、あくまで、人外から利益を得ることなのであれば、交渉の余地がある、ということか。 「一応、この海東学園は、我々の縄張りですから、彼らも気を使ったのでしょう」   僕は、小さく息を吐く。  「それで、僕を引き渡すつもりですか?」  「どうしましょうかね」   眼鏡の奥で、目がいたずらっぽく光る。 「我々としてもストラスを敵に回すのは得策ではない。 かといって、九門君を差し出すというのもね」  「いうのも、なんですか?」  「いや、教師としてどうかと」  「……」   真面目な顔で言う先生に、僕は無言をもって応えた。 「いや、冗談ですがね」  「そうですか」   正直、メルクリアーリ先生が何を考えているのかがわからない。 彼には、守るべき利益と同族がいる。  であれば、僕をストラスに差しだして当然。 迷う要素がない。 「メルクリアーリ先生。 あなたは、私をストラスに渡したくない。それは何故です?」   先生は、渋い顔で笑った。  「ストラスの他にも、敵に回したくない相手がいるんですよ。 あなたが死ぬと悲しむ人に、心当たりはありませんか?」   少女の姿が浮かぶ。  「それは……」   言いかけた僕を先生が遮る。 「言う必要はありません。 とにかく、私としては困っているのですよ。 君の処理についてね」  「提案があります」  「はい、なんでしょう?」  「僕が、自由意志でストラスに下れば、あなたがたの利益は保たれると考えていいのですか?」 「さすが、九門君。話が早い。 それであれば、ストラスも満足し、あなたの守護者との関係も保たれる」   迷うことはない。 ここに来た目的は一つだ。  「僕は、この身柄と引き替えに、恵の解放を要求します」   メルクリアーリ先生は、人差し指で、眼鏡を直した。 「理想的な回答です。 即座に受け入れたいところです。 狭祭の民長としてはね」  「何か、問題でも?」  「君の教師としては、考え直すことを勧めます。 ストラスでのあなたの扱いは保証できない」 「より具体的にいえば、あなたは生体実験の対象となるでしょう。 血を抜かれ、体の端から切り刻まれ、様々な薬品を投与され、病原菌の苗床として使われ……死ぬよりもつらい目というのを端的に味わうことになりますよ」  「人を救うというのは立派なことですがね……あなたは、他人のために、そこまでするつもりがあるんですか?」   眼鏡の奥から覗く目には、ふざけた色がなかった。 今日、はじめてみた先生の本意かもしれない。 「抵抗しないと確約はしません。 それに……僕には守護者がいるのでしょう?」   やれやれ、と、メルクリアーリ先生は、肩をすくめた。  「恵さんの解放交渉をセッティングすることはできます。 そこに我々は関係しない。 あなたがゆく。 それでいいですか?」  「最高の条件です。感謝します」  僕は、頭を下げた。 「時間その他は、のちほどメールを送りましょう」  「あぁ、迎えが来たようです」   先生の言葉が終わるやいなや、強い風が、司祭室のドアを揺らした。  嵐のような勢いで、机の書類が飛ぶのを、先生があわてて押さえる。  「早く行ってあげてください」   うなずいて、僕は、礼拝室に戻る。 「カツキ!」   涼やかな風に髪をゆらし、少女は立っていた。 その顔が、僕をみて、大きく笑顔になる。 と思ったら、みるみる険悪な顔になった。 「カツキに何をした!」  「何をした、とは、失礼ですね。 単純な取引ですよ」   顔を出したメルクリアーリ先生は、あくまで偽悪的に言い返す。  「何も問題はない」  「そう、ならいいけど」   風が、ゆっくりと止む。 「恵の居場所がわかった。帰ろう」  「ホント、よかった!」   風のうしろを歩むものが僕の腕の中に飛び込む。 柔らかな草原の匂いが広がった。 「元気になったみたいだな」  「うん、カツキのおかげだよ」  「無理はしないことですね」  メルクリアーリ先生を、少女はきっと睨む。  「道反玉は、もうないのでしょう?」  「いこう、カツキ」  「あぁ」  少女に手を引かれ、僕は、教会を出た。  メゾンに戻るまで、少女は、ほとんどしゃべらなかった。 おかげで、僕は、少女の動きをゆっくり観察することができた。   寝ていた時とは比べものにならないが、やはり、疲れが残っている。 いつもの、力強く、それでいて体重を感じさせない軽い足取りに比べ、今の足取りは、どこか重く、疲れた様子があるのだ。 「ただいま」 「ただいまー」  メゾンに戻ったが、珍しく管理人さんは留守だった。 珍しく、とは言うが、管理人さんとて買い物もすれば用事もあるだろう。 単に、日中は、僕が学校に行ってるから、気づかない、ということに過ぎない。  とりあえず、僕の部屋に戻り、二人並んでベッドに腰掛けた。 僕が、メルクリアーリ先生とのやりとりを少女に告げると、少女は軽くうなずいた。 「そっか。メグミが人質なんだね」  「あぁ」  「じゃぁ、あとはメグミを助けるだけだね」  少女の力を、僕はよく知っている。 彼女の風の力は、一軍に勝り、その速度は、常人の反射神経を凌駕し、一斉射撃の間をくぐる。 人質の奪還は児戯に過ぎないだろう。 本来の力、で、あれば。   けれど、気になる点がある。 「さっき、メルクリアーリ先生が言ってたな。道反玉ってなんだい?」  「あぁ、あれは……なくても大丈夫だよ」  「説明してほしい」  「ボクの髪留めだよ」  そう言って少女は髪を撫でた。 長い髪が、さらさらと指の中で流れる。   僕は、ようやく思い出す。 少女の髪を留めていた、あの翡翠色の勾玉。   そういえば、地底湖で調子を悪くしたのは、あの玉を失ってからか。 「あれは、どんな意味があったんだ?」  「餞別にもらったんだ。 それだけ」  「地底湖では、妙に調子が悪かったな」  「あそこは……わだつみの民の〈幽宮〉《かくりのみや》だったから。 力がうまくつかえないんだ」 「それだけじゃないだろう。 あの重低音を浴びて、勾玉を壊してから、急に調子を悪くした」  「うう……」  「それに、もう一つある。 前に僕の血を吸った時は、潰れた右腕を治癒してみせたが……それに比べて、今回は、治りが遅かった」 「ひどいなぁ。 お腹を貫かれたんだよ、ボクは。 それに、もう元気だし」  「総合的に考えると、あの勾玉は、風のうしろを歩むものを守る働きをした、と、考えていいのか?」  「……うん」   しょんぼりとした顔で、少女がうなずく。 「人外の民は、人目につかぬように隠れるか、あるいは人を喰わねば生きてゆけない。 今まで平気だったのは、玉の働き、ということか?」  「そうだよ。でもでも、あんまり無理しなければ大丈夫」  「無理か」   僕たちは、これから戦いにいくのだ。 「念のために聞くが、代わりはないんだな?」  「うーん無理だと思う」   少女が首を振る。  「でも心配しなくていいよ。 メグミは、ボクが絶対に助けるから……」  「違う」   僕は顔をしかめる。 胸の奥が、疼く。 「え?」  「心配しているのは、君に対してだ」  僕は、少女の肩を掴む。  「確認する。これから魔力を使いすぎると、命にかかわるのだな」  「うん。でも……」  「でもはなしだ。 どうして、それをあの時、言ってくれなかった?」 「ゴメンね、カツキ」   少女が目を伏せる。 少女に罪はない。 そんなことは分かっている。   緊迫した状況で、時間がなかったのだ。 であれば、言っても仕方がないことを言うべきではない。 「いや違う。君があやまる必要はない。 あの時は、ああするしかなかったし、細かな話をする余裕など、なかった」   胸が疼く。 がんがんと肋骨に叩きつけるような痛み。 思ってもいないこと、いや、思ったままのことが口から飛び出す。 止まらない。  「つまり、意図も過程も行動も間違ってはいない。 僕が気に入らないのは、僕が否定したいのは、その結果だ!」 「風のうしろを歩むもの」   真名を呼ばれ、少女が、びくりと体を震わせる。  「君が傷ついた。 その結果が気に入らない」  「ボク……?」  不思議そうに、信じられないものを見るように、少女が僕を見上げる。   わけもない怒りがわきあがる。 空っぽの胸が、締めつけられるように痛む。  「命を粗末にしないでくれ」   我ながら、非論理的だ。 「命は大切にしてるよ」   少女が、初めて怒った顔をみせる。  「どこでどう使うかは、ボクが決める。 それだけはカツキにも譲れない」  「あぁ、君は命を大事にしている。 生きるものはいつか死ぬ。 故に、生きるために生きるというのは矛盾している。 よく生きるということは、つまり、いかに死ぬかということだ」  言うまでもないことだ。 この娘は、そのことを知っている。 誰よりもよく知っている。   風のうしろを歩むものが、カツキとメグミを救うために命を懸けるとしたら、それだけの価値があると決めたからだ。   命を粗末にしているわけではない。 誰かのために生きてるわけではない。 自分自身の幸せのために、自分の信じることをしているのだ。   その決意は揺らぎはしないだろう。  だけど。 それが気に入らない。 意図も過程も行動も間違ってはいない。   だが、未来が気に入らない。 それが招く結果が気に入らない。   そんな感情に意味はない。 全く意味がない。   僕が否定しようというのは、単なる現実で、理由も意味も所以もなく、ただ、そこにあるだけのもの。  それでも。 胸が疼く。   そんなものは認めないと轟き叫ぶ。 呼吸よりも速く、リズムさえ伴い、怒りとも悲しみとも違う何かが、胸の中心から全身に行き渡ってゆく。  それが、鼓動。 無くしたはずの心臓だと、僕は、ようやく理解した。  心臓が脈打つ。 目の前の少女の、悲しげな微笑み。 どこか申し訳なさげな、顔。 それが、鼓動を早くする。   理不尽な思いが、やがて、言葉となってかたまってゆく。 風のうしろを歩むもの。 僕は、その瞳をのぞきこんだ。 「僕の生涯の願いを言う。 ストラスに乗り込み、恵を助けて、三人一緒に帰ることだ」  「九門克綺から、風のうしろを歩むものへのお願いだ。 僕の願いを叶えてくれるか?」   どくん、と、心臓が、脈打った。 鼓動一つ分の時間をかけて、少女が顔をあげた。 「誓うよ。 ボクはカツキの願いを叶える。 北風のうしろの国にかけて。 山のむこうの大フクロウにかけて誓うよ。 この体がちぎれても、克綺の願いに尽くす」  「……その誓いは無効だ」  「なんでさ!」  怒る少女を、僕は、両手の間に抱きしめた。  「体がちぎれちゃだめだろう? 僕の願いは三人一緒に帰ることだ」  「あ、そっか」   うなずく少女をなおも強く僕は、抱きしめた。  この娘は本当に風のようだ。 風は自分のためには吹かない。 誰かのため、何かのために、いつも笑顔で吹き過ぎて、気がつくと、跡も遺さずに消えてゆく。   それでは、だめだ。だめなんだ。 「ねぇ……カツキ? 怒ってるの?」   少女が不安そうに、僕の腕の中で身をよじる。  「怒っているとも。 僕に断らず死にかけた。 もう、絶対、そんなことは許さない」  「だから、もう、絶対に」  「逃がさない」  両の掌に、少女の顔を捕らえる。 紅く染まった頬は柔らかで、その瞳が、驚きに見開かれる。 桃色の唇に、僕は、衝動的に口づけた。   一瞬の感触。 羽根よりも柔らかで、桃よりも潤んだものが、僕の唇を通り過ぎる。 腕の中の少女は、身をもぎはなすように、顔をそらしていた。 「逆だよ、それ。 ボクがカツキを追ってるんだよ! ボクが生き残ったら、カツキは食べられちゃうんだよ!」  「それでもいい」   そう言った瞬間、少女の力が抜けた。 その手が、僕のうしろで組まれた。 「じゃぁ、カツキ……つかまえた」  狩人が獲物を捕まえる。 どちらが狩人で、どちらが獲物だったのか。 いまとなっては、どちらでもいい問題だ。        溶けるように抱きしめる腕と腕。 僕は少女の、少女は僕の形を確かめる。   少女が僕を探る。 小さな手が、僕の腰を、背を、撫でる。 僕も掌に、少女を探る。 引き締まった腰を、小さな背を、なだらかな肩を。        まだ遠い。もっと近づきたい。 腕に力をこめて、僕は少女を抱き寄せる。 痛いほどに押しつけあう互いの胸に、鼓動が響いた。   どくん、どくんと、血が脈打つ。 鼓動の一つごとに、僕の形が変わってゆく。 足の間で、雄々しいものがそそり立つ。 服越しにわかるほどに膨らんだそれが少女にぴたりと密着し──。  僕は、あわてて身を離した。   目の前の少女が、欲しい。 心の底からそう思う。 その細くしなやかな手足も、細い腰も、幼い胸も、柔らかな唇も何もかも。 その身体を、心を、僕の手で貪りたい。   劣情、という言葉の意味を、生まれて初めて理解する。 僕のこの気持ちは、卑しく、劣ったものだ。  なぜなら。 これは愛しさじゃない。 これは単純な独占欲で、それ以外ではない。 僕は、少女の幸せを願っていない。 少女の意志も尊重しない。 あらがうなら、そのあらがいごと、僕は少女を欲している。 叶うなら、少女の、その運命を、僕は奪いたい。  理性という理性が、矛盾を指摘する。 おまえにそんな権利はないと糾弾する。 だが。 その衝動は、あまりにも強烈で、僕は、自分を押しとどめるのに、力の全てを使う。 呼吸する。 吸って、吐く。 それだけで、全身が沸騰するようだった。   欲しい。この身体が。 欲しい。欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい──。  くすくすという笑い声が、僕のジレンマを一時停止する。 「カツキ、変な顔」  「そうか。変な顔か」   そういえば、顔が妙な具合に固まっている。 どんな風に固まってるかは知りたくもない。 かすかに戻った理性に僕はすがる。 「僕から、今すぐに離れたほうがいい」   言ってから、その無意味さに気づく。 逃げようと思えば、少女はいつでも逃げられる。 僕なんかより。 人が及ぶあらゆる領域を越えて、風のうしろを歩むものは、強く、速いのだ。 けれども、少女は離れない。  かわりに、再び僕の胸に顔を埋める。  「ニオイがする。 カツキのニオイ、オトコのニオイだね」  「要は発情しているということだろう」  「うん」  自己嫌悪に吐き気がする。 その一方で、柔らかな身体を抱きしめたいと、余すところなく触れたいと思う自分がいる。   矛盾だ。 どうして、こんな矛盾がある?   決まっている。 この心臓だ。 真っ赤な血潮を送り出す心臓のせいだ。 「だけど、きらいじゃないよ」   顔をすりつけながら、少女がいう。 声色が、かすかに揺れていた。  「ボク、カツキが食べたいな」  「その食べるというのは、性交を意味する比喩表現なのか?」  「バカ!」  両の拳が胸を叩く。 論理的に解釈すれば、馬鹿という罵倒は、僕の言葉を否定するものであり、故に、少女が僕に抱いているのは、性欲ではないということになる。   けれども、心臓は、僕に違うと告げていた。 罵倒は遠隔な肯定であり、少女は、僕の言葉が正しいが故に憤ったのだと。  迷った末に、僕は、心臓を信じた。 論理的な選択ではない。 単に、信じたかったから、そうであって欲しかったからというだけの、きわめて現実逃避に近い行為。   だからどうした。 「僕も、君を食べたい」   いや、違う。 僕は言い直す。  「僕が、君を食べたい」   潤んだ瞳が僕をみて、そして、わずかにうなずいた。  背を向けて、衣を脱ぐ。脱ごうとした。 うまくいかない。  ボタンを外す指が焦り、シャツを引きちぎりそうになる。 意識すればするほど、指はもつれていった。 「きゃ」  背中に、思い切り、何かがぶつかる。  振り返ると……顔のない、お化けがいた。 上着をぬごうとして、頭が引っかかったらしい。  「カツキー」   服の奥から、もごもごと声がする。 両袖は、盛大にもつれていた。  確か、腕組みしたままシャツをぬぐと、シャツの袖に結び目ができるという手品があったはずだ。 それに挑戦して、おもいきり失敗したような有様だ。   思わず、笑みをもらし、僕は、からまった両袖を解きほぐした。   うーんと伸びをする少女にあわせ、上着をはぎとった。 「助かったよ」   風のうしろを歩むものが、ほほえむ。 不器用、という言葉とは縁がないと思ったが。 あわてていたのか。僕と同じに。 少女が、ふと顔そむける。 「ずるいよ、カツキだけ」   裸の胸を隠すようにして、少女がささやいた。 僕は、かろうじて上着をぬいだだけで、他は着衣だ。  「指が、動かなくて……」   無意味な言い訳。 「カツキも?」   柔らかな笑い声。  「外して、あげるよ」  「ありがとう」   小さな小さな声に、僕はうなずいた。  上から下までと、袖口のボタン。   少女の指にかかると、シャツのボタンは魔法のように外れた。  シャツを脱ぎ捨て……僕たちは、再び背を向けた。 「し、下は、手伝わなくていいよね」 「……あぁ」  じっと見たくて。けれど、見るのが怖くて、恥ずかしくて。 これから起きることを考えるだけで頭が白くなり。  呆然としながら、制服の下をぬぐ。 ボタンは簡単に外れ、重力の法則にしたがって服が落ちる。  心の準備ができていない。できるはずがない。 一刻も早く先に進みたい気持ちと、この期に及んで怯える気持ちが、ぎりぎりと僕の中で引っ張りあう。  脳と心臓の綱引きだ。 引っ張りあうが……それは身体の内側だけ。 指も腕も、迷わず動いた。  下着を捨てて、身軽になる。 「いいか」 「いいよ」  か細い声に振り返る。 そこに、少女がいた。  ベッドに横たわる白い裸身。 肌はうっすらと上気し、僕の目の前に晒されていた。   息を呑む。 甘やかな匂いは、鼻から吸い込まれ、脳を直接ぶんなぐった。   花のようにかぐわしく、そのくせ淫らで。 僕を誘う匂い。   唾を飲む。飲めない。 口の中がからからだ。  視線が絡み合う。 言葉が出ない。 潤んだ目から視線をそらし、ゆっくりと、その曲線をなぞる。   首筋のうぶげが、かすかに銀色に光る。 胎児のように横たわる少女の全身は、余すところなく愛しかった。   引き締まった手足は、どこか柔らかさを残し。 ぴんと張りつめた肌に、浮きでた肩胛骨。 それが、息づかいとともに、上下するさまが、なにより愛おしかった。  細い腕が目の前で組まれ、胸を隠している。 小さな胸の膨らみは、僕ならおおいつくせるが、少女の手には、わずかに余っていた。   その細く、繊細な指の間からのぞくのは……桜色の突起。   ごくり、と、唾をのむ。 その音は、大きく響いた。 響いたはずだ。 少女は、身を縮めて、指を閉じたからだ。  それでもなお、少女の掌と、それが包む膨らみは、僕の目を捕らえて離さなかった。   もう一度、唾を飲む。 両の目をもぎはなすのにしばらく時間がかかった。   ふっくらとしたお腹と、くびれた脇腹。 その先にあるのは……一枚の布。 「ずるいな」   僕は囁くと、少女は顔を手でおおった。  「ゴメン。恥ずかしくて。 ほら、人間ってさ、毛皮ないし」  「毛皮?」  「ほら、狼だから」   草原の民は、人狼。 狼の力を得た人だと思っていたが……。 「狼の姿になれるのか?」  「うん」   話すことで、少しだけ、緊張がほぐれた。  僕は、少女の横に、横たわる。 間近に見た顔に、再び僕は動けなくなる。  鼓動は、もはや、乱拍子。 血は煮えたぎり、胸の中で熱いものが燃えていた。 今、手綱を離せば、この目の前の小さな身体を滅茶苦茶にしてしまいそうで──。  僕は、背を向ける。 「カツキ……?」  心細い声が、ひびく。 「ボク、どこかヘン? ニンゲンと違う?」  背に、指が触れる。 それだけで、全身に電流が走った。 ついと指が、背を撫でる。 それだけで達してしまいそうになる。 「……やめろ」  思いがけず喉から出た声は、荒かった。 指が、去る。 たったそれだけのことで、凄まじい喪失感が身体を包んだ。  非論理的だ。 やめろといって、離せと望んで、今は、その指が、狂おしいほどに欲しい。  たまらずに、僕は振り向く。   悲しげな少女の瞳が、僕を見ていた。 宙に差しのばされた手が、震えている。   僕は、ようやく気づく。 その指は、僕を嬲ったわけではない。 幼子のように、ただ温もりを求めて伸びていただけなのだ。  刺すように胸が痛んだ。 何てことをしてしまったのか。   胸の想いは言葉にならず。 せめて……震える指を、両の手で、包み込んだ。 「ボク、ヘンかな?」  「変じゃない」   ようやく、それだけ言えた。 両手の間に、少女の温かみを、僕は感じる。 指は未だ、震え、怯えていた。   ──僕のせいだ。 背を向け、拒絶の言葉を吐いた僕のせいだ。 どうすれば、この怯えを消せるのか。 「──」   頭の中で、言葉がぐるぐると回る。 単語の羅列の無意味の順列。 今は、今だけは言葉だけじゃ足りない。   答えは、心臓が知っていた。 掌をそっと引き寄せて、その甲に口づける。 「好きだ」   意味不明。 文脈無視。 論理飛躍。 矛盾の極致。   それでも、その言葉が正しいことが分かった。 びくりと、指が……少女の全身が震えたからだ。 「ボクも……カツキが好きだよ」   囁くような声に、僕の身体が震えてゆく。 互いの震えを指先で触れあい、分かち合う。 ゆっくりと、ゆっくりと緊張が解けていった。 「ちょっと……待ってね」  少女が、下着に手をかける。 ゆっくりと腕を下げ、両の足を引き抜きにかかる。  かすかに胸を、下腹部をかばいながら、身をよじるその様が、僕の脳の全ての理性を溶かした。 獣のように僕は襲いかかる。 「ま、待った。絡まっちゃう」  細い……僕に比べれば華奢とさえ言える腕が僕を阻む。 無理だ。止まらない。  胸に押しつけられた小さな手。 そのわずかな力が、かえって僕を煽り立てる。 僕は、その腕を掴み、引き寄せ、熱い半身をぶつけようと──。  急な風が僕を持ち上げ、吹き飛ばした。 風は、僕を、くるくると振り回し、ベッドの外に落とす。  急速に近づく床。  最後の最後で、風は、ふわりと僕を包み込んだ。  さて。 人間の……男性の前面部は、完全に平らとはいえない。 膨らみもあれば凹みもある。  優しい風は、体表のほとんどを守ってくれた。 つまり、顔と手足と胴は、無傷だった。  僕にとって不幸なのは、残った凸部に、重要な……この場合、一番重要ともいえる器官があったことだろう。  ペニスの先端に、凄まじい痛みが走る。 「────────!!!」 「ゴ、ゴメン」  嫌な汗が額から染みた。 身を刺すような痛みが、肺腑から空気を押し出す。 「カツキ、だいじょうぶ? どっかぶつけた?」  無言で転げ回る僕を見て、少女が心配げな声をかける。 僕は、歯を食いしばって笑みを見せた。 「たいした……ことはない」   ベッドの縁に手をかけて、ゆっくりと起きあがる。 「あのね……もういいよ」  少女が囁くように言う。 僕は、その横へ這い登った。  確かに。 下着は、もうなかった。   目が動く。 僕の視線が少女を辿る。   胸の膨らみをなぞり、なだらかなお腹を撫でて、脇腹のくびれを愛でてから、腰を過ぎ、ひきしまった太腿を味わい、ついにその内側……両足の間の淡い繁みに至る。  僕の視線を感じたのか、少女が、その足をもじもじと閉ざす。 けれども、僕は目が離せず。 神秘の秘奥を見極めたくて。   思わず、乱暴に腕が伸びた時、ずきりとしたペニスの痛みが僕を正気に返した。   これじゃ、さっきと同じだ。 乾いた唇を舌で示して口を開く。  だが。 問いかけの言葉が浮かばない。 心臓が脳に反逆していた。   鼓動は、全身に響くほど。 指先まで血が脈打っているというのに、脳だけに血が回っていない気がした。 「欲しい」   ようやく、そう言えた。  「えっと……」   そういう少女の瞳は、僕のほうに……より正確に言えば、僕の下腹部へ向けられていた。 顔が紅潮するのがわかる。 「ソレ、カツキのだよね」   論理的には矛盾した言葉だ。 ただし、今度ばかりはさすがの僕も、ソレが何を指すか聞きかえさなかった。  「然り」   なんだかよくわからない返事を返す。 「……」   少女の躊躇の一瞬一瞬で、理性が焼け爛れていくのが分かる。  「男のヒトって、みんな、そんななの?」  「あぁ。見たことがないのか?」  「ひどいよ。カツキはボクをなんだと思ってるの?」  「いや……なんとなく、その」  僕は早口で、つぶやいた。 何を言っているか、自分でもよくわからないが、とにかくしゃべっていないと、身体が抑えきれない。  「早熟のイメージが。 あぁ、えーと、こいびと……とか、いなかったのか?」  「うーん、あんまり、友達とかいなかったから」   少女が困ったように笑う。  ──あぁそうか。 異性の恋人など、いるはずがない。   衰えゆく一族の……人の世界に忌まれた草原の民の、彼女は、最後の若者だった。   胸を、身体を満たす劣情が、急速に消え、代わりに、何か別のものが満ちた。 暖かな想い。 目の前のものを見守りたいという願い。  今、この瞬間は、柔らかな胸よりも細い首筋が愛しかった。 僕が、手を伸ばし、ゆっくりと少女の髪に触れようとした瞬間。   僕の物思いは、あっけなく破られた。 「あ、すごい」   少女の視線は、依然、下方にあった。 目は、好奇心に輝いている。  「なにが?」  「その……小さくなった」   語尾は、ほとんど聞き取れないほど。  互いの顔が紅くなってゆく。 「さっきはさ、ほら、大きすぎて、ちょっと怖かったから」   早口で少女が言い……言うだけいって目をそらす。  「いや、すぐ大きくなるが……」   何を口走っているのか僕は。 言葉通りの事が起きて、僕は深刻な自己嫌悪に陥った。 少女が息を呑むのが、わかった。 「あぁ、えーと、だから。怖いなら、その。触って、みる、とか?」  「いいの?」   口を衝いて出た妄言。  だが思いがけず、潤んだ瞳で見つめられて、僕は、ぶんぶんと首を縦に振った。   他に、何ができただろう?  くるりと、少女が身体を返してゆく。 膝を立てて、僕に腰を向けてゆく。  こうして見ると思いがけず豊かな腰が。 その奥にある淡い繁みが、ふりふりと揺れながら僕の眼前に立ちはだかる。 「あぁ……」  思わず声が出た。声は出たが、手は出さなかった。 綺麗なふくらはぎと、形のいい足の裏にも、僕は指一本触れなかった。 「なに、カツキ?」  少女が振り向く。足が止まる。 「いや……なんでもない」  そう言うだけにとどめた僕を、僕は大いに誉めたたえるべきだと思うのだが、どうか? 「そう?」  それだけ言って、少女は、僕の腰に近づいた。 「へぇ」  感心したような声が響く。 この時ほど、視線というものを感じたことはない。 少女の視線は、微弱な電流のようなぴりぴりする刺激だった。  風のうしろを歩むものが、僕のペニスを眺めている。 遠慮無く、隅から隅まで、舐めるように見渡す、その視線の全てを僕は感じた。  自分の無防備さに、身体が震える。 それすらも、快感となって、ペニスをそそり立たせる。 「ねね、これって大きいの?」 「知らないな」 「どうして?」 「どうしてとは、ひどいな。僕をなんだと思ってるんだ?」 「ゴメン……っていうか、カツキ、それ考えすぎ」 「そうか?」  無邪気な会話に、僕は理性を集中した。 今さら考えるまでもなく、僕は爆発寸前だった。  がしかし。 緊張をほぐそうとする少女に、いきなりかけるのは問題だろう。 だから、僕は、耐えなくてはいけない。  僕は、少女の挙動の一つ一つを見守った。 急な刺激は禁物だが、予期していれば、なんとか耐えられるだろう。 次の動作は何だ?  少女が、ゆっくりと顔を近づけた。 まさか──。  次の瞬間、僕を襲ったのは、舌よりも柔らかで、指よりも鋭い刺激だった。  少女の息。 ペニスに顔を近づけた少女は、目を閉じて、一心に匂いをかいでいた。 一息吸い込み、吐き出すたびに、甘やかな刺激が僕の身体を揺らす。  僕は、歯を食いしばって耐えた。 じりじりと焼き焦がされる理性の一部が考える。 嗅覚に重きを置くとは……さすが、草原の民、獣の力を持つもの。  やがて、満足するまで嗅いだのか、少女は一つうなずき、そして……僕のモノに頬を寄せた。  再びの予想外。 柔らかな刺激が、先端から半ばまでを覆う。 「あ……」  洩れた声を、拳を握りしめて耐えた。 頬で包み込んだそれに、少女の両手が添えられた。  頬がゆっくりと上下し、十本の指が僕を撫ぜる。 呻きたくなるような刺激を伴って、僕は、僕の形を感じる。 少女が、僕の形を感じていることが、わかる。  拳をいよいよ強く握った。 とうに爪は肌に食い込み、汗に血がまじるのがわかる。 「やっぱり……大きい」  なにごとか、考え込むような声。 少女の頬が離れた。 その間にも、指は僕をなぞるのを止めない。 「なにか、でてるよ?」 「い、言わなくていい」  透明な雫が先端を濡らしていることぐらい、わかっている。 物珍しいのか、少女が、再び、ふんふんと匂いを嗅ぐ。 そして、ゆっくりと口をあけ、桃色の舌をつきだし──。 「待っ!」  僕は、手を伸ばす。 マシュマロのような尻を、指で擦った。 意外に汗ばんでいることに僕は気づく。 「ひゃん!」  仔犬のような悲鳴は、それ自体快楽だった。 「ひどいよ、カツキ?」  いじめられた仔犬の目が、上目遣いに僕を見る。 とにもかくにも、舌は、止まった。 「ちょっと待った。それは、無理だ」 「え?」  小首を傾げる。 「だから。舐めたら、無理だ」 「何が無理なの?」  この時ばかりは、よく峰雪が怒る理由が、少しだけ理解できた。 答えられない問いかけをされると、人は、理不尽な怒りを覚える。 「とにかく無理だったら無理だ」 「何が、無理なの、かな?」  歌うように、少女が僕をつつく。 限界はとうに越え、食いしばった歯は今にも折れそうだ。 「カツキ……緊張してる」  その通りだ。だがしかしそれは、因果関係を誤解している。 「あのね、無理しなくて、いいんだよ」  そう言って、少女は、小さな舌を僕に這わせた。 諺に言う、重荷の上の藁一本。  否。 それは藁ではなく、鉄でできた、特大の重りだった。 しかも、ビルの屋上から落ちてきた。  ぴちゃり、と、湿ったものが、ペニスを這う。 先端の先走りを舐め取った。  快感よりも、むしろ痺れに似た刺激が、骨という骨をぶっ叩いた。 木琴のように、頸椎から脊椎が、かき鳴らされる。 それが、腰骨に辿り着いた時……僕は、達していた。  真上を向いていたそれは、盛大に噴き上げ、少女の髪を、顔を、汚す。  僕は、唇を噛んだ。 無理だ。不可能だ。 あの衝撃に耐えることは、どんな雄であってもできなかった。  だが、それでも。 親しみを与えるべき時に……僕は、怯えさせてしまった。  おそるおそる、少女を見る。 未だ屹立するペニスのそばで、少女は、二、三度、目をぱちくりすると、嬉しそうに笑った。 「怖く……なかったか?」  恐る恐る声をかける。 「ううん。カツキのニオイだもん」  少女は、頬についたそれを、指ですくって匂いをかぐ。 そうしてから指先を口に含む。 「美味しいか?」  呆然と、馬鹿なことをたずねる。 「うーん」  首を傾げたところを見ると、微妙なようだ。 「でも、カツキの味がする」  ぱっと顔を輝かせる。 怯えてないのは幸いだが、嬉しそうなその顔に、僕は罪悪感を感じた。 「拭いたほうがいい」 「そぉ?」 「固まると厄介だ」 「うん、わかった」 「シャワーにしよう」  言って気がついたが、僕も、かなりの汗をかいている。  幸いなことに、浴室は、二人並んで入れる余裕があった。  蛇口をひねってシャワーを出すと、風のうしろを歩むものが、しげしげと、見つめた。  シャワーヘッドで分かれた水が珍しいのか、指を触れて、くすぐったそうな顔をした。 「見たこと、ないか?」  「うん、はじめて」   彼女の部屋は、ここと同じ間取りのはずだが。  「シャワーを浴びてないのか」  「管理人さんが、危ないから触っちゃだめだって」   なるほど。 下手にガスを扱うと空焚きの可能性もある。 「身体は、どこで洗ってたんだ?」  「だから、管理人さんと一緒」   管理人さんは、シャワーを使わなかったわけか。  「シャワーはきらいか?」  「ううん」   ぶんぶんと少女が首を振る。 「面白くて、くすぐったくて、好き」  「そうか」   僕は、蛇口をひねって湯温を調整する。 シャワーヘッドを高くかかげて、二人一緒に湯を浴びた。 「わぁっ!」   少女が、はしゃぐ。  「雨みたい。あったかい雨」  「ああ。シャワーとは、にわか雨、という意味だからな」  「へぇ、カツキ、物知り」   僕は、タオルを少女に渡す。 「身体をぬぐったほうがいい」  「うん」  「髪は……シャンプーだな」   そう言った瞬間、少女の背がピンと伸びた。 「ボク、もういい」  「なにが?」  「髪、綺麗になった」  「まだだろ。ちゃんと洗わないと、もつれるぞ」  「うん、わかった、大丈夫だよ」  「その返答は矛盾している」  僕がそう答えるより速く、少女は僕の脇を、すりぬけて出口に走る。 湯に濡れた裸の肌を、僕が掴む。 指は、滑らかな肌の上で、つるりと滑った。 「や……」  脇の下を滑った指に、少女が悲鳴をあげる。あげながらも走る。 とっさに伸ばした手が掴んだのは……少女の髪だった。  長く垂れた髪を、指に絡める。 ぴんと、髪が張った。 「痛い!」   泣きそうな顔で、少女が振り向く。 その顔が、あんまり可愛くて、僕は、湯を浴びせかけた。  「わっ……ぷっ。 ひどいよ、カツキ!」   怒った顔は、なお、可愛かった。 「逃げたりするからだ。 さ、シャンプーするから座れ」   さすがに観念したか、少女は風呂椅子に腰を下ろした。  「シャンプーきらい」   子供みたいにつぶやく。 「シャンプーしたことないのか?」  「するわけないよ! 管理人さんが……いやだっていうのに、ボクにムリヤリ……」   そう言うと、微妙に違った行為に聞こえるから不思議だ。   察するに、人里に来てから、生まれて初めて、シャンプーというものを知ったので、慣れていないのだろう。 「カツキもだよ。どうしてシャンプーなんかするの?」   シャワーヘッドを向けて、少女の長い髪に、ゆっくりと湯を含ませる。 それからシャンプーを手にとった。  「髪が綺麗になる」  「ボクの髪は昔っから綺麗だよ」   ふむ。それも理屈だ。 どこで洗っていたのかは知らないが、初めてあった時から、少女の髪は綺麗だった。 「いい匂いがするようになるぞ」  「いいニオイ? カツキはシャンプーのニオイ好きなの?」   ふんふんと少女が鼻をうごめかせる。  「あぁ、好きだ」  「うーん、じゃぁわかった」   少女が、それはもう、しっかりと目をつぶる。 「カツキのためだからね」  「あぁ、わかった」   苦笑しながら、僕はシャンプーを髪にまぶした。   四本の手が、泡をかき混ぜてゆく。 時折、少女が、くすぐったがって身をよじる。 風のうしろを歩むものの髪は、健康かつ艶やかで、指先で梳くと弾力さえ感じた。        人の髪を洗うのは、久しぶりだ。 久しぶりというのは、もう十年以上になる。   あの頃の恵も、シャンプーが嫌いだった。 今は、どうだろう。   そう考えて、胸が、きりりと痛んだ。 「ダメだよ、カツキ」  しっかりとした少女の声が、僕に呼びかける。 「気持ちは分かるけど……今だけは、他の〈女〉《ひと》のことは、考えちゃだめ」 「……そうか。そうだな」  気まずい沈黙が流れた。 お湯を浴びせかけ、泡を髪から洗い流す間も、その沈黙は続いた。  バスタオルは一枚だけだった。 大きなタオルに、僕らは互いをくるみこむ。 お互いの身体を意識し、しかし言葉はなく。  僕らは自分の身体を拭いた。 これから始まることが、ふたたび怖くなる。 ベッドへと歩む足が、わずかにすくむ。  その気配を敏感に察したのか、少女が囁く。 「あのね……ボク、もう怖くないよ。カツキの……ソレ」  声は朗らかで、しかし僕の心臓は、それゆえに、少女の怯えを察した。  奥歯を噛みしめる。 僕は何を怯えてるんだ。 少女のほうが、よほど恐ろしいだろうに。  決めた。 もう、怯えは見せない。  僕は、少女のそばにひざまずくと、その両足と首に手をかけた。 一気に両手で抱き上げる。 「きゃっ」  小さな悲鳴をあげて、少女は僕の首に抱きついた。 軽くはない。だが、なんとかなる。 ベッドまでの数歩を僕は歩いて、少女を寝所に横たえた。  決然と、ベッドに登り、少女を腕のしたに組み敷く。 「──大丈夫だよ、カツキ」  そうまでした僕の虚勢は、なんなく見透かされた。 ふぅ、と溜息をつく。 「何でもわかるんだな」 「ニオイでね」  少女の鼻は、汗をはじめとし、あらゆる分泌物を感知するのだろう。 僕の感情は、少女に筒抜けなわけだ。 「すごいんだな」 「カツキにも、分けてあげようか?」 「嗅覚をか?」  僕は驚いて言った。 「うん、少しの間だけだけど」  考えてみれば、驚くほどのことはない。 前にも……ずいぶん前に思える……視覚を強化してもらったことがあった。 「やっていい?」 「あぁ」  僕は、うなずく前に考えるべきだった。 少女は、「やってほしい?」と聞いたのではない。 「やっていい?」と聞いたのだ。  身を起こす少女。 僕らはベッドの縁に並んで腰掛ける。  「じゃ、こっち来て」   言われるままに、僕は少女に顔を近づける。 少女は唇に手をかざし、何かを吹くように、そうっと息を吐いた。   涼やかなものが僕の鼻孔を通り抜ける。 びりびりと電流が通り、神経が活性化してゆくのが分かる。     ふと、僕は、怖れにも似た感情を抱く。 犬の嗅覚は、人間の百万倍という。 野生の狼がそれに準ずるなら……百万倍もの刺激を受けて、僕は平気でいられるのだろうか? そもそも人間の認識というのは、感覚器から得られた情報を、脳などで処理した結果である。 対応する脳の部位をそのままに、単に感覚器だけ鋭敏にしても意味がない。 また、嗅覚のために脳までも変化させたのなら、それは「僕」自身の人格を根底から改造することを意味しないか。   雑多な思考は、現実の前にリセットされた。  最初にやってきたのは、鼻をぶん殴るような衝撃だった。 地獄のような嗅覚空間。  肌を爛れさす酸の臭い。 刺すような金属臭。吐き気を催すアンモニア。  数十に及ぶ臭いを僕は瞬時に嗅ぎ分け、しかも、その全ては、限界を超えた不快な臭いだった。 「が……く……」  息を止めても、臭気は鼻をえぐる。 逆に、鼻から息を吐く。  だが、それですら臭気は食い止められず、肺の中の空気を僕は全部失って、悶絶しかけた。  ゆっくりと。 ゆっくりと衝撃は過ぎ去り……僕は、そのことに感謝した。  僕を揺さぶった数十の臭い。 人の言葉では表せない、無数の化学薬品の悪臭は、少女の髪から発していた。  つまり。 シャンプーの臭いだ。 「納得した?」   いたずらっぽい囁き。 崩れ落ちる僕を、少女が見下ろしていた。  「あぁ」   僕は、頭をくらくらさせて言った。 シャンプーをいやがる訳だ!   人間の百万倍の嗅覚を持つ生物にとって、薬品臭は耐え難く、香料は、粗雑すぎた。 喩えていうなら、あらゆる種類のトイレの芳香剤で風呂桶を満たし、頭からその中に漬けられた挙げ句にガソリンのシャワーを浴びせられた……いや、そんなもんじゃない。   人間の鼻は、よくよく注意しないと、ニオイというのを、混ざった、一つのものとして捉える。 絵の具を混ぜて、一色にするような、そんな鼻だ。 今の僕の鼻は、あらゆる悪臭の、その一つ一つが、はっきりと嗅ぎ分けられた。 一つ一つのニオイが責め苦で、かつ、数十の責め苦を同時に味わうこの感覚は、人間の言葉には伝えきれない。 「こんなのがカツキは、いい匂いなんでしょ?」   少女が嬉しそうに言う。  「人間の限界だ」   僕は、淡々と認めた。     ようやく、普通に息を吸えるようになった。   嗅覚には面白い性質がある。 強い音を聞けば鼓膜が破れ、フラッシュを焚かれれば、視覚が麻痺する。 だが嗅覚の場合、継続的な臭いに対し、嗅覚全体ではなく、その臭いに対する感覚だけが麻痺する特性がある。 人間が、人混みのなかで、特定の声を聞き分けるように、特定の臭いのみシャットダウンする機能が嗅覚には備わっている。   それが、今、僕に起きていることだった。 シャンプーの臭いが、嗅覚から消えてゆく。 僕は、ようやく、鼻が利くようになった。     世界が、広がってゆく。 いまや、僕は、ニオイで地図が描けた。 壁も、床も、天井も、ベッドも……すべて細かく違うニオイを放っていた。   目をつぶっても、部屋の様子が、ありありと浮かぶ。 視覚ほどの解像度はない。カタチとしては、ぼんやりとした、雲のようなイメージ。 だが、その雲の繊細さ、精密さは、視覚や聴覚を遙かに上回っていた。   シーツに染みこんだニオイの一つ一つが……いや、やめよう。  もっとも豊かなニオイの源泉は……目の前の少女だった。 刺激的な汗のニオイ。 誘惑のフェロモン。 甘やかな香り。   人の語彙は、あまりにも限られていて……僕は、自分が感じたことを言葉にしそこねる。  五本の指それぞれに、違うニオイがあることを、僕は、初めて知った。 柔らかな首筋は、それだけでニオイの交響曲だ。 一つ一つがメロディのように心を響かす、そんなニオイが、数百集まって合奏する。   細い肩から腋。 かすかに膨らんだ胸、両の足と、その奥に隠された泉。 それら全てのニオイについて語ることは不可能に近い。  敢えて言うのなら少女を包む雲は、蜂蜜のように甘く、僕は、その中に、頭の天辺から爪先までつかっていた。   胸一杯に吸い込む。 それだけで全身が震えた。   ねっとりとした雲をかき分け、僕は、少女の頬に触れる。  かすかに少女の身体が震え……黄金色の雲を、虹色の光が流れる。 かすかな怯えと、大いなる期待。   そして、尽きせぬ信頼。 自分と、自分が選んだものへの自負。 多彩な輝きが絡まりながら、澄んだ色を失わない。   多分、それは、愛というもの。  少女の手が、僕の頬に触れる。 僕の、心の揺れが、伝わってゆくのが分かる。   灰色の焦りが、酸っぱいためらいが、自己欺瞞の不協和音が、僕のニオイを満たしてゆく。   それは、少女のニオイに比べて、あまりにも汚れていると、僕は思う。 かすかに身を引こうとする僕を、頬に置かれた手が、そっと押さえた。 「カツキ、どこいくの?」   吐息さえもかぐわしく。 それは僕にはもったいないように思えて。  「君と、僕じゃ釣り合わない。 ニオイが違う。僕のニオイは、汚れている」   少女が優しく語る。 「カツキは、とっても、いいニオイだよ」   信頼と、いたわりが、僕に伝わる。 その言葉には嘘はない。  「自分のニオイは自分じゃ、よくわからないからね」  「そうなのか?」   僕の汗に、疑惑のニオイが混じる。 少女を信頼しようとしながら、僕は、その言葉さえも信じられない。 「だからさ……まぜちゃえばいいんだよ」  「え?」  「自分のニオイが分からない時はね。誰かとまぜちゃうんだ」  少女の眼が閉じる。唇が、何かを求めて開く。 言葉は要らない。 心は伝わる。 その吐息は、僕を誘っていた。  蜂蜜のニオイに身を浸して、僕は、そっと少女に口づけた。  唇が重なる。吐息が混ざる。 風のうしろを歩むものの唇は、果物のニオイがした。 甘酸っぱいリンゴ。 十分に色づいて、そのくせ、どこかにまだ硬さを残した、若い実。  僕は、そのニオイを貪る。 目をつぶれば、ぴったりと重なった唇は蕩けるようで、どこまでが僕で、どこまでが少女かわかりはしない。  舌が、交叉する。 おずおずと互いを確かめ合い、わずかな勇気をだして進み、そして互いに絡み合う。 優しく、強く、嬲り、嬲られ、時に撫であげ、また絞りあう。  すぐに、わからなくなる。 絡まる舌のどこまでが僕が。 どこまでが彼女か。  どちらがどちらを導いているか。 どちらがどちらを責めているか。 責めたつもりが、誘われて、屈したつもりが抱きしめられて。  根本から先端まで溶け合って一つになった舌を伝わって、唾液が滴る。 少女の唾液を、少女のニオイを僕は受け入れる。  それは、優しい春風のような「好き」のニオイ。 小さな身体につまった勇気のニオイ。 それはとてもいいニオイで、僕は、幸せな気持ちで飲み干した。 口の中に、喉の奥に。 身体の中に広がるように。  僕の唾液を、少女に渡す。 隠せはしない。 この胸の中の、愛しい気持ち、奪いたい気持ち、壊したい気持ち、そのすべてを、奥まで届くように。  深い、深い、吐息とともに、僕たちは、離れた。 身を斬るような痛みと、サビシサ。 指先を失ったような、不安な気持ち。   それは、少女も同じだろう。 けれど。 「わかる?」  「あぁ、わかる」   僕はうなずく。 少女を包む蜂蜜のニオイの中に、鋼のような青い輝きがあった。 それが、僕のニオイ。  鼻をうごめかせて、確かめる。 鋼色の輝きには、大きな不安と怯えがこもっていた。 渦巻く欲望。 今、生まれたばかりの、愛情。   それは、みすぼらしく、ひよわで、あまりにも頑なだったが。 こうしてみると、悪くはない。 悪いニオイじゃない。 「ね、いいニオイでしょ」  「風のうしろを歩むものは、このニオイが好きなのか?」  「大好き!」   言葉とともに、ニオイが輝く。 広い広い草原。 その見晴らす限りの緑を育む夏の風のように、それは僕を吹き抜け、芯まで熱くした。 「カツキは、ボクのニオイ、好き?」  「好きだ。大好きだ。だから──」   二つの唇が、同じ言葉をつぶやく。 「混ざりたい、もっと」  僕は、少女を押し倒す。   血が滲むほどに、爪を立てたい。 強く抱きしめて、壊したい。 熱い血潮を、飲み干したい。 身体を貫いて、砕きたい。 何もかも、一つになりたい。   心臓が、脈打つ。 指先にまで染み通ったマグマが、僕を突き動かす。 組み敷いた腕の下で、優しく待つ彼女の身体を暖めること。 どろどろに溶かすこと。 そのために、どうしたらいいか。  雄としての本能が、僕を導いた。 僕の指が、僕の舌が知っていた。 伸びた腕が、脇腹に指を這わす。 引き締まった肉と、その下の肋骨を数えながら、すばやく撫で上げる。  「ひあっ……あふぅ……」   のけぞる背。 差し出された白い喉に、僕は遠慮無く歯を立てた。 「や、カツキ……だめだよ」  「なにが、だめなんだ?」   紅くなった歯形に、舌を這わせる。  「だって、そんな、急に……」  弱々しく声が抗議する。 両手で脇腹を撫ぜる。 掌の間に、細い身体を確かめながら、絹のような肌触りをゆっくりと味わい尽くす。   蜂蜜のニオイが変わってゆく。 より熱く、より甘やかに。 雌の香りへ変わってゆく。 「予告すればいいのか? なら、言う」  「ちょっ……待っ……そうじゃなくてさ……」   返事を待たずに、僕は、右手で少女の首筋を押さえた。  「耳たぶを、犯す」  左耳に口を近づける。 少女が逃げる。 けれど、その首筋は、僕が押さえている。 難なく追いついて、根本まで紅く染まった耳たぶを、ゆっくりとしゃぶる。   耳たぶの柔らかさを楽しみ、耳全体を舌で撫ぜる。 先の尖った耳の凹凸を楽しみながら、唾を広げてゆく。 僕のニオイに染めてゆく。 掌の中の少女の首筋が、硬く緊張し、やがて弛み、また、緊張する。 「あうぅぅ……」   少女の両腕が、宙を掴む。 僕は、左手で、その腕を僕の背に導く。 すがるものを見つけて、少女の腕は、僕の背で組み合わさる。 再び耳たぶを口に含み、舌で優しく、もみしだく。 安心したように、少女の力が抜ける。 抜けきった時を待って。僕は。   少女に告げた。 「噛む」  「!」   噛んだ。 強く。  「あ……カツキ……っくぅっ……カツキ!」   びくびくと震える身体から暴風が吹いた。  惑乱から放たれた、手加減なしの風。 本来だったら、最初のように、僕をベッドから吹き飛ばし、ついでに壁に叩きつけていたはずの風は、しかし、前髪を嬲っただけだった。 風が吹きすぎる。  「ゴ、ゴメン……カツキ」   あやまる少女の耳に、僕は、まんべんなく歯を立てる。 「あれ……なんで……カツキ……」  「何でとは何がだ?」  「なにって……今の……か……くぅんっ……かぜっっ!」   耳の穴に舌を差し込み、仔犬の鳴き声を味わう。  「平気だったぞ」  「どうして……あ……そこ……じゃなくて!」  弱々しい抗議に耳を貸さず、僕は耳たぶを囓り続ける。  「待って……あぅぅぅ……これじゃ……話、できないよ……」  「わかった。待つ」  僕は、舌を離した。少女の耳から、ついと銀色の糸が伸びる。 「はぁ……はぁ……」  犬のように……いや狼のように、少女は舌をだして、荒い息をつく。 「どうした? 止めたが」 「非道いよ、カツキ」   ようやく息をついた少女が口をとがらす。  「何が非道い?」  「カツキって、いじめっ子だったんだ」  「その話、だったのか?」  「うぅ……違うけどさ」 「風の話だな」  「そうだよ。どうして、カツキ、さっきの風で飛ばなかったのさ。絶対ヘンだよ」  「ふむ……」   僕は、しばらく考える。 そして、唯一にして絶対の結論に達する。 「今、考えてもしょうがない。 あとにしよう」  「そうだね」   少女が、あっさりと同意する。 「で、話はそれで終わりか?」  「えっと……」  「あ、そうだ。 カツキがボクをいじめるって話だよ」  「いじめては、いけないのか?」  「え?」 「いじめられて、嫌だったのか?」   僕は、まだ歯形の残る耳たぶを、軽く舐めた。  「その言い方が、いじめっ子だよぉ……」  「じゃぁ、どうしてほしい?」   舌は、耳の先まで舐めあげる。 「こっち」  「何が?」  「今度、こっち」   真っ赤な顔で、少女が右の耳たぶをさしだした。 「わかった」   微笑むと、少女が、怒った顔で目をそらす。 けれど、耳までは、逃げていない。   羞恥と怒り。 ないまぜになったニオイを飲み干し、僕はピンク色の耳に、口をつけた。   左耳と同じように、丹念に味わい尽くし、僕は耳から舌を離した。 息づかいにあわせて揺れる耳に、言葉を囁く。 「乳房を、犯す」  力の抜けきった身体が、その一言に飛び起きた。  「待って! カツキ、ストップ!」  「待つ」   僕は待った。 「あのさ……犯す……とか、そういうの、ナシ。 もっと優しく言ってよ」  「心得た」  「それと……言うだけじゃなくて……えと、ボクに聞いてよ」  「許可を取れ、というのか?」  「う、うん。だめ?」 「いや、当然のことだろう」  「そ、そうだよね。当然だよね」  「では──」   僕は、頭の中で文章を組み立てる。 心臓と脳が、協力して事に当たる。 「乳房に触れる。 十本の指で裾野から撫で上げる。 少しずつ力を込めてもみほぐす。 螺旋を描いて、ゆっくりと中央に近づく。 二本の指で先端をこする。 舌で舐める。歯を立てる」  「以上の行為の反復および、状況に応じた即興の対応について、許可を求める。 応か否か?」 「え……あの……待って。 早口で、よくわかんないよ。 もう一回」  「乳房に触れる。 十本の指で、裾野から撫で上げる。 少しずつ、力を込めて……」   僕は、ゆっくりと口の中で転がすように繰り返した。  「あの……もういいから」   消え入るような声で、少女が言った。 「では。応か否か?」  「うん……いいよ……して」  両手を、そこに差し伸べる。 まずは下から包み込み、しばし、その柔らかな感触を味わう。 手を離し、指先だけで触れる。   すばやく上から下へ撫で降ろす。 中指が、かすかに乳首に触れた。 「きゃうっ!」  「そこ……あとでって……いった……きゃんっ!」  「そことは、ここか?」   ささやかな胸の突起。 乳頭を残し、その裾野を中指の腹で、触れるか触れないかくらいで撫ぜてゆく。 「即興の対応についても許可を取ったはずだが」  「うぅ……カツキがいじめるよ……」   両の乳房をもみしだく。 少しだけ強めに。  「痛っ……強いよ……もっと……やさしく……ふぁあぁぁっっっ!」   力は緩めない。 けれど、語尾が喘ぎに溶ける。 「認める。どうやら僕はいじめるのが好きらしい」   両手を離す。乳房に、かすかに指の跡が残っていた。  「風のうしろを歩むものは、いじめられるのが好きか?」   目に涙をためながら、少女はうなずいた。 「うん。ボク……カツキにいじめられるの、好きみたい」   乳房に触れる。 今度は、優しく、ゆっくりと、焦らすように、ほぐしてゆく。  「でもカツキだけだからね!」  「僕は……どうだろう」  これまで、他人をいじめることに快感を覚えたことはない。 と思う。がしかし……。  と、悠長に考えていると、背に痛みが走った。 「つ、爪!」  人の爪ではない。鋭く尖り、肉を切り裂く人狼の爪だ。 「ボクだけだよね!」 「なにがだ?」 「カツキがいじめるのは、ボクだけだよね!」 「状況次第ではあるが……」  無意味に人を虐めることは本意ではないが、結果的にいじめてしまうこと、あるいは、いじめざるをえない状況に追い込まれることが無いとは言えない。  故に、確約はできない。 すべては状況次第だ。 「ボク、だけ、だよね!」  爪が食い込む。血が噴き出る。 「いたい、いたい、いたい」  僕は、脳の論理ではなく、心臓のお告げに従うことにした。 「君だけだ」  細いあごを捉え、軽くついばむようなキスをする。 「え?」  狐につままれたような表情。 無防備なその顔が、また可愛い。いじめたくなる。 「だから、いじめる」  二本の指で、乳頭を挟む。 力は、こめない。 少女が身を竦ませる。 恐怖のニオイが伝わる。 僕が、この指で、はさみ潰すと思っている。 その痛みに怯え……半ば期待している。   目をつぶって痛みを待つ、その表情が、愛しい。 僕は、潰すのをやめて、優しく擦りあげる。 「ふぁ……」   両の手を右の乳房に集める。 八本の指を這わせながら、親指の腹で、乳首を弄ぶ。 多少、乱暴に。 リズムをつけて、弾く。 「あ……やだ……」   眉をひそめながら、少女が身をよじらせる。 僕は、残った左の乳房に口をつけた。  「ひゃん!」   少女の背筋が反り返る。 指が乳房に食い込み、軽く、歯が当たる。 「やめて……カツキ……やめて……」   言葉とは裏腹に、少女の腕が、僕を引き寄せる。  「ふわ……だめだよ……ボク……溶けちゃう……」  ゆっくりと、じわじわと、狂わすように、僕は、少女の肌に僕のニオイを刻んでゆく。 乳房から腹へ。 脇腹から肩へ。 細い二の腕から指先までも。   指を這わせ、舌で嬲り、爪を立て、甘噛みし、白く柔らかな肌の全てに、僕のニオイが染み渡るまで容赦しない。 背中に回した少女の腕が、僕の背に爪跡を刻む。 流れる血のニオイに、互いの興奮が震える。 「そこ……だめだ、よ……カツキ、お願い……」   拒絶と哀願が交互に繰り返される。 僕の責めに、その身体は、跳ね、反り返り、もだえ、そして、どろどろに溶けてゆく。 汗と汗が、まざりあう。 ニオイとニオイが溶け合う。  「カツキ……カツキ……」   繰り返される睦言が、不意に途切れた。 「えーと……カツキ……」  「なんだ?」   僕は、腋の下をくすぐるように、指を這わせた。  「きゃぅっ……あの……やめて」  「なにをだ?」   首筋をくすぐり、頬に口づける。 「だから……その……それ」  「それじゃ、わからん」  「あ……そんなとこ……だから……もう、我慢……」  「何だか知らないが我慢は良くないぞ」   僕は、尖らせた舌で、乳首をつついた。 「うぅ……やめてよ……」   哀願が、本気のものだと僕は気づく。 「何をやめるんだ?」  手を休めて、一応、聞く。 「だから……指とか、舌とかで……触るの」 「どうかしたのか?」  もじもじと、少女が両足をこすりあわせる。 「聞かないでよ」  僕は鼻をうごめかせる。 緊張のニオイ。羞恥のニオイ。 両足の間から洩れるニオイに、雌のニオイ以外のものが混じっている。  少女がこらえているものの正体が、わかった。 「よくわかった」 「わかんないで!」  少女の手が、僕の胸を押しのける。 困る。 何が困るといって、その顔が、愛しすぎる。 眉根をひそめ、何かを我慢しながら怒る顔。  約束は破りたくないが、しかし。 「いじめたい」  口に出して言うと、少女の顔色が変わった。 「ダメだよ、カツキ! 絶対ダメ! 指一本でも触れたら絶交だよ!」  ますます愛しい。 けど、そうまで言われては、触れるわけにはいくまい。 ああ、だけど……。  少女が、身体を起こそうとする。 汗に濡れた体が、露わになる。 限界が近そうだ。  ほんの一カ所。 たとえば、あの、喉とあごの境目。 尖った耳のすぐ下。 乳房の谷間の一点。  ほんのわずか、柔らかく羽根のように触れるだけで、少女の身体は決壊するだろう。 押しとどめていたものは、とめどなく溢れるに違いない。 ふるふると震える身体が、あまりにも愛しくて。  心臓が、そうしろと囁いていた。 黒い炎が身体に満ちてゆく。  だが。 今度ばかりは、僕は、灰色の、分からず屋の脳に従った。 それは、してはならないことだ。  世には信義というものがあり、いじめるのと傷つけるのは別のことだ。 そう、自分に納得させながら、僕は、深くためいきをつく。  風が吹いた。 「あ……」  僕の口から洩れた吐息は、渦を巻いて台風となり、一枚の巨大の舌となって、少女の全身を舐め上げた!  その喉を。 鎖骨のくぼみを。 乳房を、脇腹を、僕の知ってる限りの少女の性感帯を、ざらり、と、舐め上げ、吹きすぎる。  予想外の出来事に驚いたのは、僕だったか少女だったか。 「ばかばかばかカツキのばか!」  まぁ、順当に考えて少女だろう。 少女は、僕の首にしがみつきながら、達する。 「もれちゃ……もれちゃう……ふぁぁぁぁぁぁ! ……あふぅ」  安堵の吐息と一緒に、僕の下腹を、暖かいものが濡らす。 思わず、目を下に向けると……。  少女のささやかな繁みから、黄金色の放物線が伸びているのが見えた。 「……」 「……」  放物線は、上向きの初速を徐々に失っていった。 結果、飛距離が徐々に失われ、やがて、線は、水平に近づき、途切れ途切れとなり、そして消えた。 「不幸な事故……」 「バカ!」  思い切り……本当に、思い切り頬を張られ、僕の首が、ぐるりとねじ曲がった。  しかも爪を立てている。五筋の線が頬に引かれた。 「バカ! バカ! バカ! カツキのバカ!」  往復ビンタに、僕の首が左右に弾け飛ぶ。 「いや……それは、さすがに、死ぬ」  というか、常人なら死んでいる。 「死んじゃえ」  それは、見事な一撃だった。  少女の両の足指はシーツを掴み、そこを起点に全身をひねりあげる。 太腿が、腰が、首が、摩擦を利用して、力を貯める。 あらゆる筋肉のベクトルが完全に合成され、一片のロスもなく、全く同時に、一点に集中する。  透徹した、勁。 渾身の力を込めた肘鉄を胸板に受け、僕は、思い切りベッドから放り出された。  今度こそ壁に激突し……僕は、くたりと倒れ落ちる。 立ち上がろうとして……いかん、世界が回っている。  目をつぶり、十数えて、ようやく立ち上がった時。  ベッドの上に、カタツムリがいた。 寝転がったまま勁を放った少女は、頭から毛布を被って、殺意を放射していた。 「どうした?」  毛布の裾をめくった瞬間、頭が後方に吹っ飛んだ。 痛い。  額を撫でながら、毛布から飛びだした蹴り足が、僕を蹴ったのだ、と、認識する。  仕方ないので、僕は、用心しいしい、ベッドに登り、カタツムリの脇に腰を下ろす。 「さきほどの件に関しては、僕の過失だ。あやまろう」   カタツムリが、かすかに揺れる。  「かしつ?」  「あんなことになるとは……いや、あんなことができるとは思わなかった」  「どうして、カツキが風を使えるのさ」  「僕にも、わからない。が、仮説としては、幾つか考えられる」 「仮説の一は、僕の中に、そうした力が内在していたというもの」  「仮説の二は、何らかの理由で、僕に、そうした力が宿ったということだ」  「僕自身は、ただの人間だから、仮説の二が妥当だろう。 この力は……多分、風のうしろを歩むものに、もらったんだ」  少女の言葉を思い出す。   ──ここにね、小さな小さな穴が開いていて、普段は、入り口が閉まってるんだ。 だから、門。 ボクが風に頼み事をする時は、その門を、ぐいっと開けるんだ。  僕は、胸に掌を当て、その鼓動を感じる。 わかる。 この胸の中に、風が渦巻いている。   掌から、その力を引き出す。 鼓動と共に、僕の掌に何かが湧き出てゆく。 熱くて冷たくて硬くて柔らかな感触。  未だ定まらぬモノ。 因果の因のさらに前。 未発の機。   不安定なそれに、僕は、〈容器〉《かたち》を与える。 涼やかな〈微風〉《そよかぜ》よ……。  成った。 かすかな風が、部屋に渦巻き、汗に濡れた肌を吹きすぎる。   毛布の裾が、少しだけ開いて、瞳だけが僕を見る。 「ホントだ。ボクの、風だ。 でも、どうして?」  「僕が聞きたいくらいだな。 僕が力を吸収する性質があるのか、君が僕に力を与える性質があるのか」  「普通のヒトに、いきなり力を与えるなんてムリだよ。 壊れちゃうし……壊れなくても、ヒトじゃなくなっちゃう」  「そうか」 「でも、カツキは、ただのヒトじゃないから……そういうのもアリなのかな」   得体の知れない力が、身体に満ちている。 論理的には、僕は、これを怖れるべきかもしれない。 が、そんな気持ちは感じなかった。   この事態を、僕は二つのレベルで、理解していた。 心臓と脳の、二つだ。  ロマンチストの心臓が告げる。 僕の胸は空っぽだった。 想いが胸に満ちた時、この鼓動が、この力が生まれたんだ。   リアリストの脳が告げる。 僕が力を得たのは、倒れた少女に血を分け与えた時だ。 あの時、僕の中に、少女の記憶が入ってきた。 この力も、同じ時に入ったのだろう。 体液を媒介として、僕と少女の間を、力が行き来する。 そんなところだろう。 「いずれにせよ、意識して使ったのは、今が最初だ」  「じゃぁさ、さっきの、アレ……わざとじゃ、ないの?」  「誓って。多分」  「どっち!」 「いや……意識した行動ではなかったのだが、無意識の欲望……いや違うな。 この上なく意識された欲望が、つい、出てしまったと。 そう考えられる。 無論、僕に、こんな力があると分かっていれば、決してしなかったわけだが」   毛布の隙間が閉ざされる。 このうえなく、きっちりと。 「すまない」   かすかな隙間から、瞳が覗く。  「もう、いじめたりしないから」  「ほんと?」  「あぁ」   僕はうなずく。 「やめてって言ったら、やめてくれる?」  「やめる」   僕は請け合った。  「風のうしろを歩むものの、言う通りにする。 それ以外のことはしない」  「ほんと?」   首が出る。 カタツムリから亀に進化する。 「ほんとうだ」  「絶対?」  「この世に絶対はない」  「……」  「……が、僕の全力の及ぶ限りにおいて、僕は、この約束を守る」  「誓って」  悩む。 僕には誓うべき信仰対象もないし、誓いの言葉も知らない。 いや、一つくらいは知ってるか。  「手を、出してくれ」   亀から、右手が生える。 僕は、その小指に、自分の小指を巻き付ける。 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」  「げんまんって何?」  「なんだっけな」   少女の顔が、むすっと不機嫌になる。  僕らにとって、「誓い」というのは、ただの約束で、意味のない儀式に過ぎない。   けれど、草原の民にとって「誓い」というのは、きっと神聖なものなのだろう。 故に、意味もわからない「誓い」など、有り得ない。   僕は、必死で記憶を探る。 昔、峰雪が何か言っていた気がするな。 あれはなんだっけ。 「……げんは拳で、まんは、数の万だ。 誓いの証に指を切り、破れば拳で撃ち殺される。 そういう意味だ」  「へぇ。ニンゲンは、そんな誓いをするんだ」   少女は、絡み合った指を、しげしげと見つめた。 「指切った」  「え?」  「これで誓いは満たされた」   少女は、僕と彼女の小指を見比べる。 それから、晴れやかに笑った。 「あのね、ボク、カツキ、好き!」  毛布から這いでた少女が、両腕を首に絡めてくる。 「僕も、だ」  僕は、微動だにせず、答えた。 胴の上にまたがり、少女が、僕の胸板に顔をこすりつける。 ニオイが、ゆっくりと混ざり合う。 「さっきの続き、しよっか?」 「無論だ」  僕たちは互いの目を見つめ合う。 少女が、僕の横に横たわる。 「カツキ……来て……」  言われるままに、僕は少女の上に身を乗り出す。 僕の影が、少女に落ちる。 やわらかな手が、僕の背を抱きしめる。   僕は少女を見下ろす。 白く、小さな裸体が、期待に打ち震える様を、じっくりと堪能する。 ニオイが満ちる。期待が高まる。 僕は動かない。 「あのさ……」  「なんだ?」  「カツキ……なんで。 そんなに固まってるの?」  「……? 約束したからだが」  「約束って?」 「もう忘れたのか? 君は」  「え、えっと……」  「九門克綺は、風のうしろを歩むものの、言う通りにする。 それ以外のことはしない」  「だから?」  「命令されない限りは何もしない」 「……それで、止まってるの?」  「無論だ」   少女は、くすりと笑った。  「動いてもいいよ」  「そうか。では……」   僕が、両手を伸ばすと、少女が固まる。 「やっぱり待った!」   僕は、ぴたりと止まる。  「何だ?」  「今、ニヤって笑った。ニヤって!」  「笑ってはいけないか。表情筋を制御するのは難しいな。 努力はするが」  「いや、そうじゃなくて。カツキが悪巧みしてるみたいで……」   僕は肩をすくめる。 「動いていいと言われたから動いたまでだ。 動かないことが望みなら、それで構わない」  「ボクがいいたいのは、カツキに優しくしてってことなんだけど……」  「優しい、というのは、主観的な評価だな。 もう少し具体的に、指定してもらえないと、行動のしようがない」   石のように固まる僕に、少女は悩んだ。 「じゃぁ……ボクを、触って」 「どこを?」 「どこって……あの……」  少女が顔を赤らめる。 「し、下のほうだよ」 「範囲が明確じゃないな。もう少し特定してほしい」 「やっぱり、カツキはいじめっ子だよぅ……」 「誓いを守ろうと努力しているだけだ」 「じゃぁ……右手を、お腹において。おへそのところ」  言われるままに、僕は右手で少女のへそに触れる。 「人差し指で……そのまま、真下に……ゆっくりね」  言われた通りに、指を下げる。 ゆっくりと、少しずつ、緩慢に。  指先に全神経を集中し、柔らかな肌を味わいながら、1ミリずつ、1ミリずつ。 その指の下で、少女は身悶えする。 「あうう……もうちょっと早くてもいいよ……」  僕は、少しだけ指を早くする。 やがてそれが、柔らかな繁みに到達する。 ほとんど産毛のようなそれは、泉から湧いたもので、暖かく湿っていた。  指先をくすぐる感触の中を、ゆっくりとかきわければ、やがて、秘裂に達する。 幼いそれは、十分に潤いながら、未だ、閉じていた。 「はぅ……う……ん」  指を止めず、通り過ぎる。 熱く潤った細い割れ目を、優しく撫でてゆく。 「カツキ……ボク……」  啜り泣くような声。 だが、それは指示ではない。 故に、指は止まらない。  やがて、それは割れ目の終わりに達した。 その下の肌に、僕の指は潤いを塗り広げてゆく。 「きゃうっ! ちょ、ちょっとカツキ! そこ、行きすぎ! 行きすぎだってば!」  指示に従い、僕は指を止める。 きゅっとすぼまった窪みに、指の膨らみが、ぴったりと合う。  指先に、少女の息づかいが感じられる。 吸って吐くごとに、それは蠢動し、潤いを持った指を吸い込もうとする。 「だから……ソコ、違うってば」  指示はない。僕は待つ。 置いているだけの指先が、つぷつぷと埋まり始める。 「ゆ、指! 戻して!」 「わかった」  僕は、ゆっくりと指先を引き抜き、中指を少女の秘裂に這わせた。 「そこを……」 「どうしてほしい?」 「指で……きもちよくして、ほしい」 「どうすれば、気持ちよくなる?」 「どうしてって……撫で……たり、こすったり……」 「そうしよう」  僕は、細い亀裂の両側をなでてゆく。 何度も指を往復させ、それから、時間をかけて、こすり合わせた。  蜜が、あふれだす。 ゆっくりと、それが口を開けてゆく。 たちまち香りが広がってゆく。ニオイが、僕を挑発する。  桃のニオイ。口の中に、甘みが広がる。 欲望のボルテージが上がってゆく。 白い肌の中の、桃色の秘部。  雨に映える南国の花のように。 しとどに濡れたそれは、その美しさをいや増していた。  そのピンク色には指を触れず、僕は、二本の指で、秘裂を開き、閉じ、こすりあわせてゆく。 「あ……はぁ……ふ……」  少女の喘ぎ声に、徐々に、水音が混じりはじめた。 指をこすりあわせるたびに、くちゅくちゅと湿った音がする。 「なか……触ってよ……」 「何で?」  こすりあわせる指に、緩急をつける。 「何でも、いいからっ……」 「そうか。何でもいいんだな」  僕は、顔を下げる。 麗しいニオイを胸一杯に吸い込み、秘裂に舌をつける。 ぴちゃぴちゃと、音を立てて、泉の蜜を舐めとる。 「ず、ずるい……」  少女の腕が、僕の頭を掴む。 両腕は、拒むようでいて、その実、僕を押しつける。  細い、亀裂の奥を割けて、僕の舌は上下する。 やがてそれは、小さな小さな突起を探し当てた。  指で皮を剥き、思い切り吸い上げる。 「はぅぅっっっっっくぅぅぅぅん!」  これ以上ないほどに背を反らし、少女は、がっくりとベッドに倒れ込む。 僕の背で強く爪が立てられ、やがて、腕も解けて、ベッドに落ちた。  しばらく待つが、ぴくりとも動かない。 「達したか?」   僕は、唇を離して問いかけた。  「……」   唇が、かすかに動くが、声さえも出ない。   さて。指示は未だ有効だ。 僕は、両の指を、秘裂にかける。 二本の指で、それを広げ、かすかに顔を出す核を、嬲ってゆく。 「ぅぅ……」   少女の身体が揺れる。 唇が、囁く。 耳を近づけると、それが、僕の名だと分かった。 「中を、触る。いいな?」   耳元で囁くと、こくんとうなずく。 力の抜けきった肉体に、僕は、中指を差し込んだ。   細い、細い道を、徐々に開拓してゆく。 肉は、潤みながらも、ねばりつくように、僕の指を包み、絞り、立ちふさがった。 「痛いか?」  「う、ううん……」   声には出なくとも、ニオイで分かる。 かすかな痛みを、少女は噛みしめている。   だが、止めるわけにはいかない。 この道は、これから指よりも、もっと太いものを受け入れるのだ。   僕は、幼い芽を指で弾いた。 と同時に、奥まで一気に中指を差し込んだ。 「あぅぅっっ!」   少女の身体は、痛みを感じながらも、逃げはしなかった。 僕の指を受け入れるように前に出る。 ちゅぽんと音を立てて、指を、引き抜く。 「さて……」   そろそろ、限界だろう。 風のうしろを歩むもの。 そして何より僕が。 「中を触れ、と、言ったな」  「う、うん」  「何で触ってもいい、と、言ったな」  「う、うん」   少女の視線が僕の瞳を見る。 その視線が、ゆっくりと下がり、胸から腹へ。   そして腹の上にそそり立ったものを見つめる。 ごくり、と、唾を飲む。 「……おおきいよね」  「絶対的にどうかは分からないが、相対的には大きいな」   何と何を比べてかは言うまでもない。  「バカ。おおきいけど……ボク、こわくないよ」  「そうか」 「お願いがあるんだけど……」  「なんだ?」  「あのね……手、握って」  「あぁ」   両手が、少女の手を固く握る。 こうして握りしめると、驚くほど小さな手を、指を、僕は愛しいと思った。 「じゃぁ、行くぞ」  「カツキ、来て……」   少女の指が僕の指に絡まる。 二人の体温と、二人の鼓動が、やがて近づき、一致する。 僕は、少女の中に侵入する。  両手を組み、もどかしげに位置を合わせる。 切っ先は定まらず、少女の腹をなぞりながら、収まる鞘を探す。   ようやくそれは、熱い泉に触れる。 僕が動き、少女が動く。 亀裂をなぞりながら、入り口を見つけ出す。 「……ここだな」  「……そこだよ、カツキ」   熱い声が、僕の最後の理性を奪った。   ゆっくりと腰を沈める。 熱く、猛り狂った切っ先を、少女に押しつけてゆく。 次元の違う快感が、僕の脳みそを真っ白に焼き尽くす。 「ひぁ……ふ……くぅ……ッッ!」   そこは。   これほどに熱いのに。 これほどに柔らかなのに。 これほどに潤っているのに。 これほどに悦んでいるのに。  それでもなお、それは、強く、強く、僕を拒んだ。 まだ切っ先さえ、入りきっていないのに、無理矢理に広げられた入り口は、これ以上は無理だと訴えるよう。   焼けるように熱い肉が、ぴったりと僕を包み、押し返す。 鋭すぎる圧迫が、僕を、さいなんだ。  快感と痛み。 その区別が無くなってゆく。 区別はなくとも、身体は動く。   雄の本能が、僕を駆動する。 力を入れかけた、その一瞬。   唇を噛みしめて、痛みをこらえる少女の顔が、見えた。 見えてしまった。  心と、身体に、ためらいが走る。 それは、伝わった。 ニオイで、少女に伝わる。   指が、痛くなるほどに僕を掴んでいた少女の指が、ゆっくりと解け、優しく僕の手の甲を包む。 「だいじょぶ……だから……もっと……カツキが、欲しいよ……」   途切れ途切れの声に、僕は後悔した。 今、退いて、また、この痛みを繰り返させるのか。 そんなことはできない。できるわけがない。   進む。進むしかない。 「息を吐け」   そう言って僕は、少女を刺し貫いた。  「くぅん!」   肉を裂き、えぐり、ありえないほど小さな隙間に、なんとか切っ先を潜り込ませ、ようやく安定する。 「お腹……いっぱいだよぅ……」   涙さえ浮かべながら、少女が言う。  「まだまだ」  「え?」  少女の情けない顔が、あまりにも綺麗で、僕は、その頬に舌を這わせた。 汗の味。 痛みのニオイ。 恐怖のニオイ。 でも、その中には、僕に身を任せる信頼のニオイがあり……。   なんだか自分が、無罪の人間を手に掛ける、死刑執行人のような気がしてくる。 死刑執行人。 それで、一つ思いだした。 「痛いか?」  「だ、だいじょぶだよ」   汗を浮かべながら、少女が答える。  「三つ数えろ。 一つ数えるごとに息を吐け」  「う、うん」   こっくりと、少女が、うなずく。 「ひとぉつ……」   少女が数える。 痛いほどの緊張を感じる。 恐るべき苦痛に耐えようとして、身体に力が入ってゆく。  「ふぁぁぁぁ」   ゆっくりと息を吐かせる。 身体の力が、抜ける。 心なしか、ペニスへの圧迫が弱くなる。 「ふたぁつ……」   再び恐怖に、身体が竦む。 指が、僕の手を、ぎゅっと掴む。  「吐け」  「ふぁぁぁぁ」   従順に少女が息を吐く。 頑なな表情がわずかに緩む。 肩から、背から、強ばりが取れる。 「もっとだ」  「ふぁぁぁぁぁぁぁ」   指が、僕の手のなかで柔らかく脱力する。 肘が、だらりと垂れる。 まだ大丈夫。 あと一つ数えるまで。 そう思って、僕に身を任せきっている。  そうして息を吐ききった瞬間、僕は、思いきり、少女をえぐった。   速度が、肝要だ。 脱力しきった少女の身体を、痛みに強ばるよりも早く、最奥まで刺し貫く! 「きゃんっっっ!」   少女が叫び、手の甲に爪を立てたのは、すべてが終わったあとだった。  「これで……ぜんぶ……?」   息も絶え絶えに、少女が囁く。 「あぁ。僕の、全部だ」  「そう……よかった」  少女の腕が、僕の背に回される。 僕も、少女を抱きしめる。 固く。固く。 溶け合うまで。 裸の胸に少女の胸がつぶれ、肋骨さえぶつけあうように、僕らは抱擁した。   ゆっくりと、僕は身を離す。 そそり立ったものを、少女から引き抜く。 血塗れのそれは禍々しく、僕は、征服感と同時に、大きな罪悪感を感じた。 「ひどいよ、カツキ。 二つで、入れるんだもん」  「三つ数えろ、と言っただけだ。 何もしないとは言ってない」  「そんなのばっかりだよ。 カツキのいじめっこ!」 「まぁ意図的に誤解させたのだから、僕が悪いな。 だけど……予告通りにやったら、もっと痛かっただろう」  「そっか……そうだね」  僕のやったのは、斬首人の手管だ。   あらかじめ、死刑の手順を、囚人に詳細に伝える。 囚人が、自分の斬られる瞬間を知れば、暴れるかもしれない。 それでなくとも、人間の首は、本気で緊張した時には、恐ろしいほどに固くなる。  それによって斬りそこなえば、囚人は苦しむし、また、斬首人の不名誉でもある。 だから、偽の手順を教えると聞いた。 そして、油断している首を、一太刀で落とすのである。   道徳的かどうかはさておき、一つの方法ではある。 「あのさ……」   少女の視線が、いまだ、そそり立つ僕のモノにそそがれる。  「なんだ?」  「元気だね」   微妙なニュアンス。 「気にするな。 こんなものは処理すればいい」  「そうはいかないよ。 カツキには……その……いっぱい、きもちよくしてもらったし……」   僕も、少女を見る。 足の間。 白いシーツが、小さく紅い染みを作っていた。 「無理する必要はない。 今度というものもある」  「ないよ」   少女は柔らかに答えた。 「何だと?」  「カツキ、明日が来るとは限らないよ。 それに来た明日は今日なんだから、ほんとは今日しかないんだよ」  「うむ」   独特の論理についていけずに一瞬悩んだが、言っていることは、きわめて正しい。 そんな気がする。 「つまり……今日できることは、今日するべきだ、ということだな」  「うん」   少女が嬉しそうにうなずく。  「だから、ね、カツキ……」   潤んだ目で見つめられなくても、僕に否があるわけもない。  「じゃぁ……行くぞ」  〈狭隘〉《きょうあい》な道に、再び分け入る。 だが、道がついているだけ、さっきに比べれば、よほど、楽だった。 風のうしろを歩むものが、うまく、力を抜いているせいでもあるだろう。 「さっきので……あん……だいたい、わかったっっ……からぁ……」  それでも、時折は痛みに顔をしかめながら、彼女は僕のモノを受け入れてゆく。  愛しい。愛しい。愛しい。 小さな身体が、その健気さが、愛しくてたまらない。 僕は、その頬をなで、汗にはりついた前髪を、梳かしてやる。 「きゅうぅ……」  最奥に達すると、少女が、小さく鳴いた。 僕は、そこで止まる。 「えと……あの……どうすれば、いいのかな?」 「無理はするな。何もしなくても、いい。 つらかったら言ってくれ。好きだ」  思ったことを片端から口に出す。 少女の驚いた顔を見つめながら、僕は、ゆっくりと動き始めた。 「あのね……ボクも……カツキのこと……好き」  とっておきの秘密を打ち明けるように、少女が耳元で小さく囁いた。 きつく締めつけるだけの抵抗が、ゆるやかに、変化する。  一本道は、柔らかに形を変えながら、僕を受け止め、また、送り出す。 熱い潤いが、隅々まで染み通ってゆく。  狭いとだけ感じていた時には気づかなかった、道の微妙な起伏に、僕は初めて気づく。  それは、とてもとても気持ちのよいことで。 小径の襞の、その全てを征服したくて、思いきり僕はかき混ぜる。 「くぅ……カツキ……おねがい……もっと……あぅぅぅ」  睦言も耳に優しく。 柔らかな身体が僕の下で蠢いた。  満ちてゆく。 この上なく熱いものが、僕の中に満ちてゆく。 脈打つマグマのようなそれは、腹の中全体をかき回し、出口を求めて、荒れ狂う。 「溶けるよ、カツキ、ボク……ボクたち、溶けちゃう」  少女の言葉が分かる。 いままで、混ざり合うだけだった二つのニオイが、溶け合いはじめている。  〈黄金色〉《かのじょ》と、〈鋼色〉《ぼく》。 鋼が黄金を溶かすのか、黄金が鋼を吸い込むのか、溶け合う二つが、別のモノに昇華してゆく。 「こんなの……うぅ……ボク……はじめて……だよっっ」  変わってゆく。 ニオイは僕で、その僕が変わってゆく。  身体を満たす、熱くどろどろした炎が、僕の内臓を根こそぎ融かしてゆく。 心臓も胃も腸も、すべて融け、それでも炎は満足せずに、僕の中身を、錬り、鍛えあげてゆく。 「カツキ……ボク、ボク……もうっっ」  少女のニオイが変わってゆく。 僕とともに変わってゆく。 内なる炎で、とろとろに融かされ、僕の腕の中で、バターのように柔らかくなる。 「あついよぉ……カツキが……あついよぉ……」  かすかに残っていた脳味噌が嗤う。 熱力学の第二法則。 熱は、一方にしか流れない。 彼女が熱いなら僕は冷たく、僕が熱いなら彼女は冷たいはず。  どうして分からない? 心臓が答える。  現実が、理論を凌駕する。 彼女が、僕が、同時に熱いと感じること。 二人の間に生まれた炎。  それは、小さな奇跡で、その奇跡が僕らを近づけてゆく。 僕の中の炎が、その圧力が一点に……刺し貫く先端に収束してゆく。 「──」  潤んだ瞳を僕は見つめる。 限りなく愛しいそれの、名を、呼ぼうと思う。 開いた口から飛びだしたのは、言葉ではなく──。  うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん。  高く、尾を引く獣の咆吼だった。 風のうしろを歩むもの。 その咆吼の、人の耳には捉えきれぬ、旋律こそが、少女の真名であると僕は理解する。 「くぅぅっ、カツキ、カツキ、カツキィィィィィィィ」  言の葉が溶け、咆吼に変わる。  きゅおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!  互いの叫びの中に互いの名を認めた時、僕と少女は、同時に達していた。  爆発が、起きる。 骨を揺さぶり、身を削り、魂さえ吹き飛ぶ放出。 嵐のようなその余波を、僕たちは、抱きあって耐えた。  長い長い一瞬のあと、僕たちは、同時に、ぶるりと身体を震わせ、互いを見つめ合う。  「きれいだな」  「え?」   汗と、涙に濡れ光る少女が、小首を傾げる。 その額の汗を、一筋すくって、僕は味わった。 苦みの中に感じる、安堵の味。 優しさのニオイ。 「ボクも……」   少女の指が僕の喉をくすぐった。 それが、口に運ばれる。  「一緒のニオイだね」  つながったまま、僕たちは抱きしめ合う。 そっと触れるだけの、柔らかな抱擁。 「ずっと、こうしていられるな」 「そうだね──だけど、だから」 「あぁ、行かなくちゃな」  決着をつけに。 「メグミが待ってるよ」  少女は、その言葉を口にして、ちょっとだけ……ほんのわずかだけ、眉をしかめた。 複雑な気持ちが、少女のニオイに波紋を作る。  でも、最後には笑った。 僕たちは、最後に一度だけ強く抱きしめ合った。  ゆっくりと身体を離してゆく。 ぴったりと溶け合ったものが、やがて二つに分かれる。  とろり、と、足の間から洩れたものを、少女は不思議な顔で見つめた。 血と蜜に溶けた白いものを、少女は指ですくう。 ふんふんと鼻に近づけて、ひょいと舐める。 「──美味しいか?」  さっきも聞いたな、と、思いながら、僕は問いかける。 「おいしくないけど……ちょっと、しあわせ」 「幸せ?」 「ボクのニオイとカツキのニオイが、一つになってるから」 「そうか」  ふと僕は重要なことに気づく。 いや、もっと早く気づいていてしかるべきなのだが。 都合よく忘れていた。脈打つ心臓の仕業か、それとも脳も共犯か。 「そういえば、その……避妊とか、していなかったな」  「ヒニン?」   無邪気な顔で聞きかえされると、返答に苦しむ。   いや、そもそも、まさかとは思うが。 そもそも、風のうしろを歩むものが、生殖の仕組みについて無知ということもありうる。 なにせ、彼女は、同世代の若者を全く知らずに育ったのだ。 「つかぬことを聞くが……男女の仕組みについて聞いているか?」  「さっき、ボクとカツキがしたこと?」  「あぁ。その意味についてだ」  「子作りでしょ?」   つい、と、汗が頬をしたたり落ちる。 「で、ヒニンって何?」  「よく聞いてくれ。 人間の現代社会では、その過程において、性交と、婚姻と、生殖とが分離していったんだ」  「ふぅん。連れ添わない人とも、しちゃうんだ。 それで、人間って、こんなムチャクチャに殖えたんだね」 「そう。そして、それにより、快楽のみを目的とし、生殖を避けた性交も求められるようになる」  「子供、作らないの?」   少女は、眉をしかめながら、考える。 「そういうことだ。 妊娠を避けると書いて、避妊という」  「へぇ。ニンゲンって、うまいこと考えるものだね」  「あぁ……で、その、我々は、先ほど避妊をしなかったわけだが」  「うん。別に、しなくていいんじゃないかな」   少女が平静な顔でうなずいた。 「いい子が生まれるといいね」   少女の眩しい笑顔に、僕の鼓動が一瞬止まる。 目線がずれる。   その一瞬に、笑顔が笑顔でなくなった。 いや笑顔は笑顔のまま、何か、鋭い殺気を感じた。 「あれ、カツキ、どうしたの?」  「いやなに。 一回で受胎するとは限らないだろう」  「だから、そうなったらいいねって言ったんだよ? カツキは、いや?」   いつもの笑顔。 全身が震えた。  ひどく冷たい風が、少女の方から吹いているのは……きっと気のせいだろう。 シーツがはためいて、机のスタンドが、きしきしと鳴っているのも──。 「カツキは……おとうさんになる気もなしに、ボクのこと抱いたの?」  「その通りだ」   嘘がつけない自分を、僕は少し恨んだ。  風の動きが、止まった。 力が消えたわけではない。   僕には見えた。 無数の風の刃が、張りつめた弓の弦のように引き絞られ、僕を向いているのを。 ほんの、わずかな身振りで、その全ては、部屋の全てを、一センチ立方に切り裂くだろう。 「誤解があるようだ」   僕は、少女に向かって、滔々と演説した。  ──全ては繁殖戦略の問題なのだ。 あらゆる生物は、自分の遺伝子を、より多く残す方向に進化している。 雄と雌の違いは、繁殖の際のコストだ。 雄にとって繁殖のコストは小さい。 故に、より多くの雌を孕ますことが、遺伝子を多くすることに近づく。  一方、雌は、産卵/出産にかかるコストが非常に大きいので、雄を選ぶ必要がある。 選ぶ基準となるのは、その能力である。 良い子が生まれるような、最高の雄を選び抜くのが、雌の基本戦略となる。 ここにおいて、男は浮気性で、女性は一途、という方向性が生まれる。 やり逃げは、利己的進化論による必然なのだ。 「へぇ、そうなの?」   どこまで理解したのか。 初めて聞くであろうお話を、少女は、目を輝かせて聞き入った。   その無邪気な知的好奇心を裏切りたくなくて。 「いや、そうでもない」   正直に、僕は答えた。   遺伝子の戦略は、唯一でもなければ絶対でもない。 それは、生物を進化させる無数の要因の内の一つでしかない。 特に人間の場合、遺伝子の支配が大きいとは言い難い。 意志の力は、たやすく遺伝子を凌駕するのだ。  考えてみればいい。 人間が本当に、遺伝子に支配されているのなら、それこそ避妊一つできないはずだ。 生殖と性交を切り離すことに成功する以前から、人類は、ありとあらゆる快感を追及してきたのだ。   故に、遺伝子に組み込まれた命令が、というのは、ほとんど説得力がない。  「せいぜい、こういう時の言い訳に使えるくらいだな」 「言い訳、なんだね?」   あ、また風が。  「いやまぁ、その……」   僕は、しばらく考える。 「あさはかにも、先のことを予想していなかったので、とまどったまでだ」   少女は、僕の瞳を、じっと見て、ふんふんとニオイを嗅いで、それから笑った。  「わかったよ。許してあげる」   何を許されるのかは、よくわからなかったが、とにかく僕は、ほうと溜息をついた。  それを見て、少女が、また笑った。  別々にシャワーを浴び(シャンプーは無しでだ)、僕らは服を着る。 疲れは、感じていなかった。むしろ、調子がいいくらいだ。 多分、少女からもらった力のせいだろう。  嗅覚は少し落ちたが、風を操る力は消えていない。 「疲れてないか?」 「ボク? すっごく元気だよ」   確かに──少女も、元気そうだ。 こうして座っていても、渦巻く熱が伝わってくるような、そんなたたずまいだ。  「もう、大丈夫なのか? 調子が悪かったんじゃないのか?」  「カツキに、えと、もらったから」   顔を紅くして、うつむく。 そうだった。 僕の血肉は少女の糧となる。  メールをチェックすると、神父からメールが届いていた。 時刻をチェックする。 「場所は、ストラスの本社。時刻は30分後」 「そこに、メグミが待ってるんだね」 「あぁ。幸いなことに、人数の指定はない」  風のうしろを歩むものと、僕が組んでいることを知らないのか、あるいは、それさえ歯牙にかけていないのか。 どちらにせよ──。 「さぁ、行こう。蹴散らしてやろう。 僕の一生の願いを叶えにゆこう」  「カツキの望みはなに? カツキの願いはなに?」  「ストラスに乗り込み、やつらに一発喰らわせて、しかるのちに恵を助けて、三人一緒に帰ることだ」  「叶えてあげる。 カツキの願い、ボクが叶えてあげる。だから──」 「帰ってきたら、カツキはボクのものだよ」   微笑んだ少女の唇から、牙がこぼれる。 背筋に冷たいものが走る。 なおかつ、胸は熱く燃える。   それが、どんな意味でも、僕の返事は一つだった。  「決まってる。僕は、おまえのものだ」              ──数時間前。 「入りたまえ」  黒い、大きな執務机。 実用本位のデスクの向こうから、男は低くつぶやいた。 「は、失礼します。報告にまいりました」   報告書を片手に現れたのは、目つきの鋭い秘書。 それに──。 男は、鉄のような顔に、かすかに疑念を浮かべた。 「鳥賀陽君まで、どうしたのかね?」   それは質問というよりは詰問であり、詰問というよりは糾弾であった。 ストラス製薬社長、神鷹士郎の抱く疑念は、時に人を殺す。   鋭い意志を向けられ、鳥賀陽、と、呼ばれた研究者は、子供のように震え、秘書の陰に隠れる。 「希羽君……」  「報告に参りました。それから、鳥賀陽博士が提案がある、と」   男が軽くうなずく。 「例の、特異点確保の件ですが……土着種との交渉は終了しました。 食餌の受け入れを、来期のみ、3%増しということで決着です」   狭祭市の人口は、約六万。 うち、ストラスの社員の割合は目立って多い。  人口減が囁かれる中で、狭祭市は、ストラス社の大躍進に伴い、大きく成長をしている。 誕生・死亡・移転・転入を含めて、年間二、三千ほどの人間が、入れ替わっている。 活気のある市。 新陳代謝の激しい市だ。   しかし、それさえも、注意深く操作された数値に他ならない。 この街の知られざる特徴は、その行方不明件数にある。 決して。 決して表に出ることはないが、それは三桁に達するのだ。  外国人労働者は、積極的に誘致される。 注意深く選ばれた独身者が、それに続く。 係累のない家族が誘致され、家族ごと消え去る。 立ち寄った旅行者は、市境を跨ぐことがない。   行き届いた事前調査があり、戸籍までも操作できるのなら、人間の痕跡を無くすことは、案外、たやすい。  そのようにして、市は、年間、五百を越える人間を呑み込んできた。 その全ては、ストラスによって消費され、土着の人外の「食餌」となる。  「がめついことだ」   神鷹は、あのにこやかな神父を思い出し、そして、鋭く笑った。 ストラス社が、狭祭に拠を定めて以来、あの堕落した神父は、目障りだった。 ことあるごとに、こちらの弱みにつけこみ、血と肉を、ごっそりともってゆく。  今頃、あの神父は、例の、罪のない笑顔で微笑んでいることだろう。 取引に成功したと思いこんで。 だが、今度ばかりは。  「つまり、我々の勝利、ということだな」  「はい。九門克綺の確保は、ほぼ、確定しました」   秘書が、微笑む。 肉食獣を思わせる凄絶な笑み。   九門克綺。 人の形をした特異点。 核にも匹敵すべき、力の源。  人外の、どの勢力が手に入れても、それは強大すぎて、バランスを崩す。 故に、あの神父は、それを厄介払いしたがった。 その上、処理をこちらに押しつけ、有利な条件までもぎとっていった。   ストラスとしても、九門を人外に渡すわけにはいかない。 渋々と言った調子で引き受けた。   だが、その理由は別にある。 「報告はそれだけかね?」  「はい。九門克綺との“交渉”をセッティングしました。 それに関して、鳥賀陽博士から、相談が」 「あのぉ……」  「なんだね?」   鳥賀陽は、びくりと白衣を震わせる。  「恵ちゃんなんですけど…… 〈開発調整課〉《うち》に、もらえませんかぁ?」  「恵を? なぜだ?」  「はい。えっとぉ、特異点の検査をしたらぁ、陽性の、反応でぇ」 「恵というのは、確か、妹だったな。 特異点・克綺のスペアとして使えるか?」  「特異点と恵に、血縁はありません」   希羽が口添えする。 「適性D−ですから、そんなに、おっきい反応じゃないんですけどぉ」   鳥賀陽も、あわてたように手を振る。  「D−?」   平均よりはマシという程度だ。 「実験しよっかなと思ったら、希羽さんが、社長の許可がないとだめだって」  「不可だ」   神鷹は言下に言った。  「え〜」 「今回の実験が、もし成功すれば……これ以上、実験体を製造する必要はなくなる。 無駄に人の命を奪うことは許可できない」  「あの……それって……」   鳥賀陽は、丸い目を大きく見開く。 「話はこれだけだ。希羽君」  「私の実験は……中止、なんですかぁ?」  「万事うまくいけば、だ。 心配することはない。 その場合の君のポストは用意してある」  「失礼しますぅ」  しょげた調子で退出する鳥賀陽。 扉の閉まる音を聞きながら、神鷹は、机の書類を取り上げる。 サインをしながら、モニターを見つめる。  処理すべき雑務は山のようにあった。 全世界を救済する、記念すべき晩であっても、それは、変わらないようだった。 「おーい」  目が覚めた時、最初に見えたのは、きらきら光る眼鏡だった。 「おーい、恵ちゃん?」  呼ばれているのが、自分の名前だと、ようやく理解して、意識の焦点が合う。 「ぺんぺん」   自分を見ているのは、大きな眼鏡をかけた白衣の女性だった。 小脇にレポートパッドを抱え、私の頬を叩いている。  「おきたぁ?」   のんびりとした声は優しそうで、私は少し安心する。 ここは、どこだろう。  思い出せない。 頭がぼんやりする。 何があったのか。 自分がなぜここにいるのか。 記憶に霧がかかったように、すべてが曖昧だ。   わかることは一つ。   寒い。 ここは、ひどく、寒かった。 「ここは……どこですか?」  「病院だよ。 恵ちゃんはね、大けがして、運び込まれたの」   にっこりとした笑顔は、誰かを思い出させた。 そう、管理人さん。 管理人さんって……誰だっけ? 「強いおくすり使ってるから、少し、頭がぼうっとすると思うけど、だいじょうぶだよ」   そうか、だいじょうぶなんだ。 でも、寒いな。 「あの……誰、ですか?」  「私? 私はね、おいしゃさんだよ」   おいしゃさん。 頭のなかで繰り返す。   おいしゃさん。 おいしゃさん。 あぁ、お医者さんか。   ぼうっとする。 力が入らない。  震える私を、眼鏡の奥から、お医者さんが、見つめる。 なんだろう。 その目が、ちょっと怖い。  きゅぽん、と、音がする。 お医者さんは、マジックの蓋を取って、私に近づく。  「くすぐったいけど、我慢してね」   ペン先が、ふとももに何事か書きつけてゆく。  「あの……なんですか……?」  「恵ちゃんの、お名前と、あと、じっけんばんごう」  じっけんばんごう。   じっけん、の、番号。   でも、じっけんって、何だろう? 事件みたいなものかな。   私、どうして、けがしたんだっけ? 「えむいーじーゆーえむあい。けーゆーえむーおーえぬ。さんぷるばんごう、しりーず・てんっと」   鼻歌を歌いながら、お医者さんがマジックをすべらせる。  「それじゃお写真取るから、こっち向いて」   お医者さんが、白衣の中からカメラを向ける。  フラッシュが、いろいろな角度で私をてらす。  私はわらう。 わらったつもり。 「恵ちゃん、お注射するよ。 ちくっとするけど、我慢できるよね」  「うん。がまん、できるよ」   太い針が、腕に突き刺さる。 黄緑色の薬液が、ゆっくりと押し出される。 「痛いっ!」 「だめでしょ、動いちゃ。お姉ちゃんなんだから、我慢して」  違う。 痛いのは注射針じゃない。  腕を中心に、痛みが広がってゆく。 まるで、全身の肌が針に刺されているみたいに。  涙が、頬を伝う。 その涙さえ、鋭く肌を突き刺して、私は身震いした。  手首が。足首が。 錐を差し込まれたように痛む。  薬のせいか、痛みのせいか。 少しだけ意識がはっきりしてくる。 革のベルトが、私の四肢を固定していた。 「お薬回って来たかなぁ〜」  医者が、私の乳房を弾く。 「きゃっ、くぅぅっっ!」  動けば、手足のベルトがなお食い込む。 私は、歯を食いしばって痛みを受け流した。 「うん、効いてるね、よしよし」  無邪気な、子供のような笑顔で、レポートパッドに書きつける。  ──寒い。  どうして気づかなかったのだろう。 私は、一枚の服も着ていなかった。 下着さえもはぎ取られて、斜めになった台に固定されている。  実験、番号。 言葉の意味が、ようやく染み通る。 全身から血が退くのが、わかった。  ここは病院じゃない。 目の前の人は、医者じゃ、ない。 そして、私は。 モルモットだ。 「は、離して!」  反射的に暴れて、その愚行の報いを受けた。  手足の痛みが倍加する。 「うんうん、意識が、はっきりしてきた? よかったよ」  医者の手が、近づいてくる。 噛みついてやろうと思うけど、それは、慣れたように、私のあごを取った。 指は、さやさやと、撫でているのだろうけど、激痛が全身を貫く。 「よぉく、聞いてね。大事なことだから」 「恵ちゃんにはね、すごい才能があるの」 「さ……さいのう?」 「そう。超能力って言ったほうがいいかな。 どんな力かは分からないけど、それを、これから、私が引き出してあげる」 「力なんて……いら……っっっっ!」  指先が、喉をつねり、私は悲鳴さえもあげられずに悶える。 「方法は、簡単。これから、恵ちゃんの身体を、どろどろに溶かしちゃうから、自分を強くもって立ち向かってね。 私が言えることは、それだけかな。じゃ、会えたら、また会おうね」  無邪気な笑顔で、そいつは手を振った。 違う。 これは管理人さんには絶対似ていない。 「おやすみ、恵ちゃん」  そう言って、指が、私の額をこずいた。 脳がぐらぐらと揺れるほどの痛みに、私は悶絶する。 「いいんですか? 社長の許可はないんでしょう?」  「ふふーん、いーんだもん。責任は、私が取るから」   責任、という言葉と、ほど遠い振る舞いに、助手は首をすくめた。 「だってひどいんだよ。 今日の実験が成功したら、プロジェクトはキャンセルだっていうんだよ」  「キャンセル……ですか?」   助手たちの間にざわめきが広がった。 「そ。だから、今日のが最後の実験になっちゃうかもしれない。 みんな、気を引き締めてね」  「わかりました。手伝います。それで、今度のやつは、保ちますかね?」   助手の言葉に、鳥賀陽は、首を振る。 「たぶん、無理だよ。あんまり点数良くなかったし」  「D−でしたっけ?」 「ほんとは、E+」   えへ、と、鳥賀陽が笑う。  彼女が立っているのは、強化硝子の壁。 その先には、殺風景な気密室があった。 狭い部屋の壁は鋼鉄で囲まれ、唯一の出口もシャッターで閉じている。   部屋の中心には、恵が横たわっていた。 分娩台のようなものに手足を固定され、足を広げている。   口が、開き、なにごとか叫ぶ。 怒りに満ちた目がにらむ。 鳥賀陽は嬉しそうに、手を振った。 「ま、本人のやる気はあるみたいだから、あとは運次第だよね。じゃ、注入して」  「は」  男が端末を操作すると、恵の背後の壁の絞りが開き、丸い穴を開ける。  かすかな水音が響く。 それは床にあたって、ぺちゃり、ぺちゃりと音を立てる。  水音に気づいたか、恵が振り向こうとする。 が、その首も、固定されていて動かない。 「見えないよね〜、怖いよね〜」   鳥賀陽がつぶやき、とんとんとレポートパッドを叩く。   音が、動く。 ずるずると、床を這いずる音。 音は、あたかも意志があるように、分娩台に向かって、近づいていた。   首輪。腕輪。足輪。 固定された各所が、焼けるように痛んでいた。 両手首を貫く鋭い痛みは、何かのセンサーだろう。 背の台は、滑らかなガラスかプラスチックのようなものだったが、それとて、息を一つするたびに、やすりですり下ろされるような痛みが走る。   全ての衣服をはがれ、屈辱的な姿勢で固定されながら、恵は、前方をにらんだ。 しっかりと固定された首では、それしかできない。   「放してください! ……っっ!」   叫ぶ。   身体が震え、背中が削れる。 知覚過敏とわかっていても、血が吹き出ないのが不思議な、リアルな痛み。  目の前の壁には、大きな窓がある。 窓越しに見えるのは、あの自称医者。 それと、席に着いた白衣の男女の一団。 医者が、手を振るのを見て、怒りに震えた。   だめだ。 ゆっくりと意識を落ち着ける。 何とかして、ここから出ないと。 生き残らないと。   視界の端から端までを探るが、鋼鉄の壁しか見えない。 強化硝子は、はめ殺しなので、出口があるとしたら、死角になっている背後だろう。  叫んでも、もがいても無駄だ。 痛みが増すだけだ。 万一脱出のチャンスが来た時、痛みに気絶していては、何にもならない。 あの医者は、なんと言っていたか? そう。   ──これから、恵ちゃんの身体を、どろどろに溶かしちゃうから、自分を強くもって立ち向かってね。   ──私が言えることは、それだけかな。じゃ、会えたら、また会おうね。   溶かす。 気にくわない言葉だが……いかなる実験にせよ、生き残る可能性がある、ということだ。なら、生き残る。   「お兄ちゃん……」   小さく、聞こえないように口の中でつぶやく。 それだけで勇気が湧いた。   せっかく日本に来たんだから。 お兄ちゃんにも会ったんだから。   絶対、絶対、戻ってやる! そう考えると、次第に落ち着いてきた。 身体の震えが取れてゆく。   医者と、目が合う。 こっちをじっと見つめている。   眼鏡の奥から、嬉しそうに。   満足なんか、させてやらない。 怒りも恐怖も見せてやらない。   目をつぶりたかったが、それはできない。 脱出のチャンスを、見落とすわけにはいかない。   だから、恵は、無表情の仮面をかぶった。 奥歯を噛みしめ、表情を殺してゆく。   あたりの景色に集中し、じっと耳を澄ます。   鼓動の音が、邪魔だ。   背後で、モーターの音。 カシャンと、何かが開く音がした。   誰か、来るのか。 実験を、あるいは手術をしに。   怖い。 お腹の中が、きゅっとなる。   だけど、チャンスだ。 どうにかして、そいつを……。   けれど、いつまで待っても足音は響かない。 代わりに聞こえてきたのは、もっと湿った音だった。   じゅぷじゅぷと、詰まったパイプから何かを押し出すような音。  ぴちゃん、ぴちゃんと、床に何かが滴ってゆく。   ──何? いったい、何?   考えても分からない。 水責め? それも、変だ。   密閉された部屋といっても、それなりには広い。   溺れさせたいなら、もっと簡単な方法がある。   そもそも、どうして人間が入って来ない?   ごぼり、ぽちょん。   背後の穴から、どろどろとしたものの最後が、吐き出された。  恵は、全身を耳にして、様子をうかがう。   ずるりという音。 生肉を、地面に、こすったような。 そんな音。   音は、ゆっくりと大きくなった。   ──近づいてる。   ぞっとする。 パイプからしたたり落ちて、ずるずると這いずるもの。 それが何かがわからない。   窓の先の、あの女が、にっこりと笑う。 闘志が蘇った。   お腹の中の、ふるえを、飲みくだして、ぐっと身体に力を入れる。  音は、ほとんど耳元まで近づく。 まだ見えない。 真後ろから近づくものの正体が、見えない。  「……っっっ!」   何か、湿ったものに首筋をなでられ、恵は、悲鳴を噛み殺す。 女が、横の研究者と話しながら、何事か書き付ける。   ──何、これ……。   どろりとしたものが、ぬりつけられる。 首から肩が、ぬるぬるしたものに浸かってゆく。 けれど。 見えない。聞こえない。   いかに真後ろにいても、この距離なら、わかる。 そばには、誰もいない。 人間は、いない。 腕が、指先が、粘液に包まれてゆく。 そうされていてさえ……何も、見えない。 かろうじて視界に入る肘には、何も触れてはいないのだ。    「………っっ!」   背筋を、どろりとしたものが伝い、恵は悲鳴を噛み殺す。 全身が、揺れる。 痛みを予期して、歯を食いしばる。 だが。 足首のベルトこそ傷んだが、シートに触れた背に走ったのは、もっと、おぞましい感触。 快感、だった。   「ひあぁぁっっっ」   思わず、声が漏れる。 一度出ると、止まらなかった。  「なにこれ、なに? 気持ち悪いよ。とってよ! ねぇ、とって! お願い!」    粘液は、脇腹をまさぐるように伝い、恵の前半身を包み込む。 ぬるま湯のような液体が、お腹の上に流れてゆく感触に、恵は、身をよじった。   腹から胸に。 胸骨をたどり、乳房を包み、喉までおおう。 それから液体は腰に流れ、たちまち、下半身を覆いつくした。         ──気持ち悪い、気持ち悪い、キモチワルイ。   頭の中で繰り返す内に言葉は呪文となる。 残ったわずかな意識で、恵は、思う。   透明な液体。 目に見えない粘液。 そんなものがあるはずがない。 多分、これ、薬のせいだ。 さっき気絶した時に、身体に塗られたんだ。 それが、アルコールが蒸発するみたいに、効いてきたんだ。   そうに違いない。 そう思えば、耐えられる。 そう思わないと、耐えられない。 どろどろした粘液が、身体の上で蠢いているなんて。 そんなことが、あるわけはないから。   最後に残った正気に、恵はすがりついた。   目を、閉じる。 首から下を、ビニールの薄膜が被ったような感じ。 ビニール膜は、ぴんと引っ張られ、身体の凹凸に食い込んでゆく。   最初に、胸を意識する。 乳房が、絞られてゆく。   乳首の形を否応なしに意識させられる。 刺激に反応し、ゆっくりと膨らむ、その一瞬一瞬が、分かる。   胸だけではない。   曲がった肘も、手がかりを求めて差しのばされた指先も。 大きく広げた足も。   ぎゅっと曲げた足の指の一本、一本も。   身体の輪郭の一つ一つが鮮明に浮かび上がる。  薬だ。 肌の感覚がおかしくなってるんだ。   目を閉じたまま、かたくなに恵は、そう信じようとする。  「あっ……くっっ」   腹の上を、何かが動いてゆく。 柔らかな下腹が、押され、へこむ。 ちがう。 これは……きっと錯覚だ。薬の影響で。 押される箇所が増える。 無数の蛇のように、それは、恵の上をのたくり回る。   耐えきれず、恵は、目を開けて。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ」   長く尾を引く悲鳴を上げた。   乳房と柔らかな下腹が、へこんでいた。 誰かが指を立て、縄をかけたように。 はっきりとした窪みが、恵の肌を移動してゆく。 悲鳴をあげながら、恵は、首を振ろうとする。 瞬きして、幻影を追い払おうとする。   ゆっくりと、それは姿を現した。 腹に。乳房の上に。 ぽつぽつと、ピンク色の肉塊が現れる。 無数のナメクジにも似たそれらは、恵の白い身体に、蠢いていた。  目をつぶる。 目を開ける。 ナメクジは、さっきより数を増して……。   恵は、唇を噛みしめて、悲鳴をこらえた。   ……あれは、ナメクジじゃない。   目に見えない、どろどろとしたもの。 身体は、すっぽりと覆われていて……それが、血を吸って、少しだけ見えるようになったんだ。   ぞわり、と、乳房を撫でられ、恵は、身をよじった。  途端に背に、激痛が走る。 「はぅっっっっ。くぅ」   生皮を引きはがされるような痛み。 背中は、ぴたりと、シートに貼り付いていた。 ……いや、シートではない。 指を……曲げた指を伸ばそうとすると、同じ痛みが指全体に走る。   この、ぬるぬるとしたものは……肌に、ぴったりと貼りつくんだ。 動いて、はがそうとすると……。 抵抗する。   息を吐き、力を抜いて、背を預けると、痛みは消えた。 おぞましい快楽を、恵は、その背に、身体に、感じる。  目をつぶると、はっきりと、分かる。 ぴったりと身体に張りついた薄膜。 その上から、這い回るナメクジ。 少しでも、薄膜に逆らう動きをすると、その部分に激痛が走る。   ……お兄ちゃん。   涙がでそうだった。だすつもりはない。 あの女が見ている前では。   きっと見つめる、その先で、女は、嬉しそうにレポートをめくる。 「そろそろ効いてくる頃だけど……反応は?」  「妙な波形が出てますね。 何を〈投与〉《くわせ》たんですか?」  「最後なんだから、色々入れたよ。 〈V系〉《ちをすうの》と、〈G系〉《おさかな》と、あと、いろいろ、カクテルで三百単位」 「さんっ……。 そりゃ、普通でも保ちませんよ」  「だって時間がないんだもん。 普通にやったって、無理なんだもん」   頬を膨らます鳥賀陽に、助手は肩をすくめた。  鳥賀陽の受け持ちである、人間を作り替える作業。 人に、人外の力を与える、その作業は、人体に、異種蛋白質を投与するところから始まる。   異種蛋白。 すなわち、人でないものの、血肉である。   培養された細胞を、活性を保ったまま、人体に投与する。 当然、拒否反応が起きる。  その大きさは、適性検査で、予想できる。 適性の高いものに、慎重に経過を見ながら投与し、徐々に量を増やし、体に馴染ませてゆく。 それが、本来の手順である。   恵の場合、適性も低ければ、手順も踏んでいない。 いきなりの、直接、大量投与だ。 「恵ちゃん、だいじょうぶかな?」   鳥賀陽は、本気で、恵の身を案じている。 モニタの波形は、いちじるしく揺れている。  「あ、ここちょっと〈G系〉《おさかな》、出てるかも」   鳥賀陽が、興奮した様子で、グラフを指す。 「そりゃ、三百も入れれば、〈着床〉《つ》きますよ。 E+にしちゃ、反応はいいです。 けど、保つかな……」  「すぐ、わかるよ」  「そうですね」   うっとりと、鳥賀陽は硝子の向こうを見つめる。  「がんばってね、恵ちゃん」  指が、動いている。 幼い赤子のように、ぐーとぱーだけを交互に繰り返している。 指を覆う薄膜が、恵を締めつけ、指の動きを促していた。 少しでも抵抗しようとすると……。  「っっっっ!!」   指先に焼けるような痛みが走る。 爪の間に針をねじこまれる痛み。   恵は、指を動かす。薄膜の操るままに。 何度、握り拳を作っただろう。 やがて指が、一本ずつ、動きだす。 足の指が、それに連動する。 そうする間にも、全身をまさぐる触手は止まることがない。  力を抜けば。 余計な力を抜きさえすれば。 ──楽になれる。 快楽に身をゆだね、全部、忘れられる。   指の動きが、止まる。 糸の切れた操り人形のように、くたりと指が落ちる。 ……飽きたんだ。 恵は、そう思って慄然とする。 飽きたって、誰が? それに。指に飽きたら、次は?   答えは、すぐに出た。  両足が……大きく広げられた両足が、さらに押し広げられてゆく。 「……やぁ」   膝が、腿が、薄膜に押され、恵は、小さく喘ぐ。 触手が、下腹部に達し、恵の裂け目をまさぐり始める。  「やぁ! やめて! いや! お願い!」   ぬるぬるとしたものが、裂け目をかき分け、小さな芽をさぐりあてる。 皮に包まれたそれに、薄膜が浸透する。  「あぅっっっうっ……」   全身に走った痺れが、恵の脳裏を白くした。   「そこ……やめて……いや」   弱々しく首を振ろうとする。  けれど、それさえも恵には許されない。    四肢を固定されたまま、いまや大きく口を開けた裂け目の奥に、何か熱いものが流れ込む。 身体が内側から熱くなる。  じゅぶじゅぶと音を立てて、満たされてゆく。 それは、恵の小径を傷つけずに分け入り、細く狭い道を、みっちりと満たしてゆく。   「いやだよ……やめてよ……」   そう言いながらも、全身の力が抜けてゆく。   身体の奥を、柔らかな湯で洗われている。   その感覚が、ささくれ立つ恵の神経を休めてゆく。 「はぁ……ふ……くぅぅ」   熱いものは最奥に達し、波のように快楽が身体を揺らす。 処女のまま、子宮頸部を犯される歓びに、恵は、喘いだ。   いつのまにか、腰が動いている。 薄膜に押されているからか、それとも、自ら望んでか。 そんなことも、分からなくなる。   快感が続いたのは、ほんの、わずかの間だった。  「あれ……なにこれ」   熱く流れ込むものは、止まらない。 膣の全てを満たしても、なお、止まらない。 「あ……くぅぅ」   体内で増す圧力。 膣口が押し開かれてゆく。  「い、痛い……やめてよ……」   容赦なく、容赦なく、粘液は恵の中に押し入った。 柔らかな水は、硬さを増し、恵の中を拡張する。   細く、柔らかな触手が、何本も、ねじ込まれてゆく。   すでに膣口は限界まで広がり、透明な触手の隙間から、血がしたたり落ちる。   やがてそれは、血を吸収する。   ピンク色の太い肉の束が、可視化してゆく。 それでも、触手は止まらない。 一本、また、一本。   「無理だよ……もう、いっぱいなの……はいらないよぉ……」   何度、懇願したことか。   一本ごとに、破瓜の痛みを与えながら、触手はねじ込まれ続けた。   腹が、膨れて、弾けるかと思う。 両足に力を込めて、閉じようとする。   太腿に、引きちぎれるような痛みが走ったが、恵は、それでも抵抗した。     細い触手が、ようやく止まる。新たな触手は、広がりきった膣口に隙間を見つけられず、ゆっくりと、その周囲を探り出す。 別の入り口を探して。  「まって……そこ……だめなの……お願い……いや……」   懇願は、しかし、聞き入れられない。 「ぎゃんっっ!」   恵は、今度こそ激痛にのたうった。 二つの排泄口が、同時に犯されたのだ。   細い触手が尿道を押し広げた。 太い蛇が肛門の内部で暴れていた。  「そんなとこ……太いよぉ……壊れちゃうよ……私……」   壊れはしなかった。 腹腔には、まだ、余裕があった。 肛門を犯した触手は、直腸を満たし、ぐにゃりと曲がって、S字結腸に達し、そこから螺旋を描きながら、体内を満たしてゆく。  そしてもう一本。膣に戻った触手が、再び動き出す。 「いやぁ……なに、それ……」   子宮頸管が押し広げられるおぞましい感触に、恵は、ただただ身を震わせた。 固く閉ざされた門を、触手は、押し通り、やがてそれは、空洞を見つける。 抵抗を失い、触手が殺到する。   子宮と腸が、同時に満ちてゆく。 体が内から押し広げられる。  「やめてよ……死んじゃうよ……」   懇願する口に、太いものが、ねじ込まれた。 あっという間に口腔に満ち、喉から食道を犯してゆく。 「がっ……くんっっっ……」   もはや言葉にさえならない悲鳴を上げて、恵はのたうつ。   胃が、膨らんだ。 喉を犯した触手が、肛門からの触手と合流する。   身体が、膨れあがる。 空気を詰めすぎた風船のように、はじけ飛ぶかと思う。 だが、弾けない。 体内からの力に呼応し、恵の体表を覆う薄膜が、収縮する。   痛みというよりは、圧力。 肉を潰し、血まみれのパルプに変える凶暴な圧力。 それが、体内をかけめぐる。  鮮明に。 これ以上ないほど鮮明に。 痛みという形をとって、恵は、自分の輪郭を理解する。 足の先から乳首から指先から頭頂まで。  自分を形作る肉の、その形が、体外と体内とを犯すもので浮き彫りにされる。   わずかに。 触手から逃れた肺があえぐ。 心臓が、どくどくと脈打つ。 紅く染まる視界の中で、恵は、ちいさく大切な人の名を呼んだ。 それは、誰にも聞かれることなく、恵の胸の中で消えた。 「……かつ……き……」 「カツキ、遅いよ!」 「そっちが……早すぎる」   轟々と渦巻く風に逆らい、僕は、走り続ける。 「下手だなぁ」   風のうしろを歩むものが、こともなげに言う。 僕よりも速く走っていながら、髪一つ乱れていない。 「空気抵抗は、速度の自乗に比例する」   僕は反抗する。  ストラスへの距離は、電車で数駅分。 本来、徒歩の距離ではないが、僕が得た、ささやかな力の練習がてら、走ってゆくことにした。  風のうしろを歩むものの説明を受けながら、全身を風で加速する。  自転車やバイクに乗った時と同じで、速く走れば走るほど、向かい風が、全身を包む。ただの空気が、水のように絡みつくのだ。 「それは、カツキが風に逆らってるからだよ」  空気抵抗という言葉を知らぬげに……いや知らないのだろうが……少女は説明する。  スケーターのように、少女は、走りながら、くるくると回ってみせる。 回転の頂点にあってさえ、少女の長い髪の一筋も揺れない。 「もっと風を味方にしないと」 「具体的には?」 「吹いてくる風に当たらなければいいんだよ」 「いや、それは無理だ」 「簡単だよ! ほら、こう!」 「簡単であっても不合理だ」   僕は、小さく呟く。 「不合理って何が?」 「いやいい」  少女にとって、「風」は、一種の実体なのだろう。 だから、避けることができる。  僕にとって、「風」というのは、空気の流れであり、空気というのは、無数の分子の集まりだ。  時速50kmで走れば、人間の前方投影面積が2平方メートルとした場合、ええと、毎秒7.5*10の26乗個の分子にぶつかっている計算だ。 それを「避ける」のは、僕には無理だ。  僕の扱える風は、(感覚的に)両の腕で掴めるくらい。 その中で、身体を加速していた分を少し減らし、前方に流線型の盾を作る。 盾を支えるのに力がいり、速度は落ちたが、これで顔に当たる風は減った。 「そんなことしなくてもいいのに」   少女が不満げに言う。 効率が悪いのは確かだろう。 「多分、認識の違いだ」  僕は言い返す。 同じ「風」を操る力であっても、その現れ方は、人の認識に拠るようだ。  僕には、風をよけたり、いつかの彼女みたいに慣性を消し去ったりすることはできない。  それが不可能だ、と、知っているので、そうしたイメージが抱けない。 彼女ができる以上、不可能だというのは無意味ではあるのだろう。  何度かやってみようとはしたが……しかし、人間の心は、そう便利にはできていないようだ。 僕にとっての「風」は、扱いにくい無色透明の空気の塊に過ぎない。  ストラスの本社は、結構な敷地面積を誇っていた。 背後には山がそびえ、暗い森となっている。  正面から侵入するのは躊躇われたので、僕たちは、大回りして、山側のルートを使うことにした。  人狼の力がなければ、分け入ろうとは思わなかっただろう。 山の中は、本当に暗く、鬱蒼と繁る森の中からは、星さえも見えなかった。  風のうしろを歩むものは、繁る木々に触れもせず、高速で駆け抜けた。 僕も真似して森を駆ける。  ニオイと反射神経を頼りに、心臓に悪い速度で迫る枝を、幹をかわす。  無理だ。速度を緩めよう。 そう思った瞬間。  僕は思いきり、太い枝に頭をぶつけていた。 「うーん、どうしてぶつかるかなぁ」   無言で痛みに耐える僕に、少女が残酷な声をかける。 「……というか、どうやったら、あんなに避けられるんだ?」  「風の流れだよ」  「流れ……ねぇ」   人間が感じるのは、肌に触れた空気の末端の状態であって、気流、それ自体ではない。 それだけの情報から、気流全体の状態。はたまた、それに影響を与えた障害物の形を逆算するのは、どう考えても無理がある。 「どうやったら、その流れが分かるんだ?」  「風の気持ちになって考えるんだよ」   いちばん聞きたくない答えを聞いて、僕は、顔をしかめた。  「……無闇に無機物に感情移入するのは忌むべき習慣だと思いたいのだが」   風のうしろを歩むものは、きょとんとする。 「わからなかったら、まず、聞いてみるのも、いいかもね」   彼女にとって、風は生きて語りかける存在なのだろう。それは分かる。が。  「風に気持ちなんか……」  「しっ」  見たこともないほど厳しい表情で、少女が鋭く言った。 怒られたかと思って首をすくめたが、そうではないらしい。   風に、少女はニオイを嗅ぐ。 僕も遅れて気づく。 あたりに満ちるのは……刺激臭。 化学薬品の臭いだ。 意識すればするほど、それは強く鼻を刺した。 「……なんだ?」  「多分、アイツだと思う」  「アイツ?」  「えーと、あの、カイラクショー。 性悪女」  「イグニス……のことか?」  「そうだよ。ボクたちの鼻を利かせないコンタンだね」 「あの女なら……毒ガスくらいは使いそうだな」   手持ちの風を、目鼻にあてがって、ガスマスク代わりにする。 少女も同じようにする。  「今度は、負けないんだから」  「今度は?」  「あ、えっと……」   コツコツと足音が聞こえた。  カシャン、と、ガラスの割れる音が、鋭く響いた。 途端に、あたりの空気が変わるのがわかった。 かすかなニオイからすると、アンモニアだ。  幸い、あらかじめ、目鼻を守っていたせいで、ほとんど影響はない。 夜の闇の中に白い肌が浮き上がる。  黒いドレスの女……イグニスだ。 背には闇色の太刀を背負い、小脇には……なんだろう。 バスケットボールくらいの大きさの、紙袋を抱えている。 「──爆弾かな?」   僕は、風を使って少女だけに声を届ける。 「──気をつけないとね」   構えを取る僕たちに、女は、無造作に近づいた。 「どこへ行くつもりだ?」   相変わらずの、からかうような声。  「そこをどいて!」   風のうしろを歩むものが、かばうように僕の前に立つ。 「僕たちはストラスに行く。 恵を取り戻しにゆく」   僕は一歩前に出て、そう言った。  「無駄だ。やめておけ。 おまえの力では、やつらの餌となるのが関の山だ」  「僕がどうなろうと、おまえには関係ないはずだが?」  「そうでもない」   イグニスは笑った。 「どうやら、ストラスは、おまえの魔力を使う準備を整えている。 それは……少し、困る」  「どうだ? ここで引き返さないか? 逃亡するなら協力してやる。 別人にして外国まで送ってやろう」   蛇の舌のように、滑らかで、甘い声。 「それはできない」  「ほう、なぜだ?」  「ストラスには恵がいる。 恵を助けないと」  「そうか。 なら……これで理由はなくなるな」  イグニスが、小脇の紙袋を放る。 「カツキ、伏せて!」  少女が、そう言って、風の刃を放った。  宙空で紙が切り裂かれ、中身が露わになる。  そこに現れたものに、僕は、息を呑んだ。  ごろり、と、丸いものは、僕の胸に飛びこんだ。  あらゆる種において、同じ種を見分けることは、子孫を残すことに直結する。 故に、同族を認知する機能が発達するのは進化の必然といってもよい。  特に人間の場合、大脳皮質の発達と合わせて、人間の表情を瞬時に見分け、解析することには、卓越した性能を発揮する。  その一方で、人は、ランダムなノイズの中にも「人の顔」を「発見」する能力があり、「心霊写真」と称するものの原因ともなっている。  その機能は、僕に対して容赦なく働き。 宙を舞って転がった一瞬の映像を、僕は誤解の余地無く認識した。 いや、させられた。  転がったのは、首。 人の首。  短めに刈った髪だけで。 やわらかな、うなじだけで。  凍りついたような瞳をみなくても。 悲鳴の形に開いた唇をみなくても。  誰かは、わかった。 「め。ぐっっ」  息が詰まった。 その一言が出なかった。  僕は、ゆっくりと膝をつく。  胸に抱きしめたものは、冷たく、硬く。 僕の中の恵とは、何一つ結びつかなかった。  これは恵じゃない。 恵であるはずがない。 腕の中にあるのは悪いユメだ。  この腕さえ放さなければ。 ずっとこうしていれば。  悪寒が走る。歯の根が合わない。 気分が悪い。ひどく悪い。 「カツキっっ!」  どこか遠くで声が聞こえる。 風のうしろを歩むものの……焦ったような声。  何をあわてているのだろう。 いまさら、焦ることはなにもない。  いやちがう。そうじゃない。 僕たちはこれから恵を。  冷たい指に、顎を、持ち上げられた。 見下ろすイグニスの顔は、ぞっとするほど冷酷だった。 首には、赤い刃が当たっていた。   どうでもよかった。 「動くなよ、〈獣〉《けだもの》」   その声に、風のうしろを歩むものが足を止める。 ぎりぎりと、歯を噛みしめる音が、僕にまで伝わってくる。  「呆けるな」   耳元で、声が囁いた。  イグニスの踵が、僕の向こうずねを蹴る。 火のついた痛みに、僕は、悲鳴を噛み殺す。 腕の中の荷物が、揺れる。 「めぐみを、たすけるんだ」  そう呟くと、膝が、胃をえぐった。 痛みに腕は身体をかばい、両手の間から、首が、落ちる。  蒼白い首が、転がる。髪が、うなじが、鼻筋が。 転がってゆく。  ちがうちがうちがう僕は、そんなものを見たくない。 「これはなんだ?」  「それは違う。違うんだ」  「そうか。なら」   イグニスの足が、ゆっくりと振り下ろされ。 首を、踏みにじる、前に。  「やめろ!」  僕は、彼女を突き飛ばす。 首の刃など、忘れていた。  「どうした? 何をかばう?」   叫びとともに、僕は、詰まった何かを吐き出していた。 「めぐみに……めぐみに、触るなっっ」   転がって、泥にまみれたそれを、僕は拾いあげる。   冷たくこわばったものが、恵だと、恵だったと、自分に言い聞かせる。 胸の中の熱いものが、少しずつ、怒りに変わってゆく。 「わかったようだな」   嘲る声が響く。  「道は二つだ。九門克綺。 ストラスをあきらめて去るか、ここで死ぬか。選べ!」 「なぜ……」   構えを取る少女を、僕は、手で制した。 「ん?」  「なぜ、殺した!」   目の前の女をにらみつける。  「さぁな」   その口元の歪みを、僕は、心の底から。   ──消したいと思った。  風を呼んで、首の刃を弾き飛ばす。 ぐるりと回った刃は、イグニスの腕を切り裂きながら、彼方へ落ちる。   同時に僕は、拳を振るう。 指先に、鋭い風を纏わせて、イグニスの胸を狙う。 「しっ!」  呼気とともに、イグニスの指が、僕の肘をえぐった。   心臓を狙った腕の力が抜け、だらりと垂れ下がる。   両の指が、僕ののど笛に潜り込む。 「がっっっ!」  口の中に血があふれる。 イグニスは指を離さない。  その指で僕を振り回し、一度突き放したかと思うと回し蹴りを放つ。  僕の身体は、なすすべもなく大地に叩きつけられた。 「カツキ!」  声は出なかった。 心配そうな声のほうをにらみつけ、僕は、唸り声で応えた。 「がぁっっ!」  ──手を出すな。 この女は。 僕が、やる。 「動きが遅い」   いらついた声とともに、脇腹に爪先がめり込む。   息が、できない。 喉を血がふさいでいた。   風を無理矢理に通し、肺に酸素を送り込む。  激痛とともに、全身が活性化した。 「がはっっ!」   血を噴き出して立ち上がり、構えを取った。  再び殴りかかった僕を、イグニスは、あっさりといなし、腹に鉄拳を突き込まれる。  「……少しは、工夫しろ」   痛みに首が縮む。  「急所を見せるな」  容赦なく、後頭部に肘が落とされる。 骨まで響く衝撃が、全身をぐらぐらと揺らす。 やがてそれは熱い痛みとなる。  鼻から息を吸い、血を吐く。 生きている。まだ生きている。 人狼の活力が僕を動かす。  イグニスから距離を取る。 右手はしばらく動かず、左手は、恵の首をまだ抱えていた。  悠々と近づくイグニス。 「恵を、たのむ」   風のうしろを歩むものに、首を、渡した。  「わかった」   少女が神妙にうなずく。  急いで考えなければいけない。   どうすれば勝てる? どうすれば殺せる? 風の利点はなんだ?   一つには……見えないこと。 指先に集めた風を、僕は、紐のように長くした。   手首を返して、イグニスめがけて風の鞭を振るう。  瞳と瞳が、あう。   その一瞬に、僕の狙いが、鞭の軌跡が盗まれる。  イグニスは、見えない鞭を軽々と躱した。   二撃目っっ!  だがイグニスは、無造作に、爪先で土砂を蹴上げる。  土砂の中に浮かんだ風の軌跡を悠々と躱し、瞬時に間合いを詰める。  くるりと回り、ダンスのように腕を伸ばし、瞬時に僕の手首を極める。 あわてて鞭を戻し、盾に変えようとするが間に合わない。 「油断が過ぎる」   再び。指が。喉を。 全身が、あの痛みを、苦しみを予期して固くなる。 二本の指は、ざわりと傷跡を撫でる。  「あきらめるな」  飛んできたのは、前蹴りだった。 太腿を鋭い痛みが貫き、僕は、手をつく。  後頭部に落ちた肘を、今度は躱した。  「はぁっっ。はぁっっ」  転がるようにして距離を取る。 全身を、疲労感が満たしていた。 喉の奥にせりあがるもの……冷たい恐怖を、僕は、飲み下す。  風のうしろを歩むものに、ちらりと視線が流れる。 助けを。求めるか?  否。 胸の中で何かが答えた。 退かない。  冷たい声が囁く。 何がしたい? 全ては無意味だ。 目の前の女をどうしたところで、恵が蘇るわけじゃない。  だから、どうした、と答えてやる。 怒りに酔いしれることは甘美で、なにより、胸の痛くなるような喪失感を消してくれた。  現実逃避だ。 冷たい声を、ぶっちぎるように、僕は地を蹴る。  瞬間速度は、こっちのほうが速い。  木々を蹴り、宙を跳んで、イグニスの背後に回り込む。  背後から薙いだ風の剣をイグニスは、しゃがんでかわし、そのまま真下から僕を蹴り上げる。  その蹴り足を風の盾で──  今度は間に合った。  畳みかける連撃を、僕は、後ろに跳んで躱した。 再び距離を取り、隙をうかがう。 「だいぶマシになったぞ」   声が嘲笑う。  一歩。たった一歩歩んで、イグニスは木の陰に隠れる。  「さぁ、どうする?」   声は、闇の奥からした。 木の裏に……いや、いつまでも、そこにいるはずがない。 かすかな足音が、木立をざわめく。 それは、木々の間を反響し、回り中のどこからでも響いてくるようで……。   どこだ? 少女の言葉が蘇る。   ──風の気持ちになって考えるんだよ。  無理だ。 馬鹿馬鹿しい。 風に心はない。 それは、ただの空気の塊に過ぎない。   考えろ。 空気の塊にできることは何だ? 目の前の悪魔を、一瞬でも、ひるませるには、何がいる?  腕の先に剣を作りかけて、ふと、ボイル=シャルルの法則が思いつく。 今まで無意識に、硬く、重いものを作ってきたが、これを、柔らかく、薄く、したら、どうなるのか?   空気であるならば、気圧をさげれば、体積が増す。 考える暇はない。 やるのだ。  全身から、無数の風を、糸のように放つ。 力は弱く、薄く、だが、それは、僕の触感の延長だ。 かすかな風の動きを、僕は三次元的に把握する。   木々を渡る風の流れ。 緩やかに流れる風の中のかすかな淀み。 乱れが、あるべきでない乱れがあるほうへ、僕は、ゆっくりと風の糸を伸ばした。 糸の先が、人の身体に触れる。  イグニス!  気取られたか、イグニスが、その一瞬、動き始める。 だが、もう遅い。  僕は、イグニスのいるほうへ走る。  風の糸を集め、縒り合わせ、網として引きずり落とした。  無防備に横たわるイグニス。 網だった風を刃に変え、左手でその胸を……。   その胸をっっ。  「殺せない、か」   イグニスが鼻で笑う。 「動くなっっ」   叫びを上げる。 指を、胸に食い込ませる。   あと少しで、殺せる。   そうなると、指が、動かない。 こんな決着を望んではいなかった。  全力を尽くした戦いの中で、手加減ができず、ある種の事故として命を奪ってしまうような。 そんな決着を、僕は、夢想していた。   甘かった、と、思い知らされた。 「殺せぬものが、戦うな」   イグニスの声が、厳かに響いた。 その腕に、あの赤い刃が握られていた。   偶然? いや、違う。   刀が落ちた場所を、イグニスは覚えていた。 だから、そこへ走った。  僕は見落としていた。 それだけのことだ。   その刃が、喉をえぐる瞬間に。 僕は、腕に力を込めた。   左手の指先に熱いものがあふれる。 ぶつかった骨を砕きながら、指先は前に進み……。 「カツキ」   暖かな手が、僕の腕を止めた。 ゆっくりと、引き抜かれる。  「……なんで」   言葉にならない。 心臓の動悸が、ようやく意識される。   今頃になって、指先の、肉をえぐる感触を思い出す。 背中に悪寒が広がる。 「どうした、なぜ、止める?」   イグニスの言葉は、僕の疑問でもあった。  「カツキに、弱いものいじめは、させないよ」   赤い刃を指先で挟み止め、風のうしろを歩むものは、答えた。  「弱いもの?」   僕は、弱々しく笑った。 この女が、僕より弱い? 「殺さないものは、戦っちゃいけない」   イグニスの台詞を少女は、ささやく。  「なら、戦っちゃいけないのは、あなただ」  「わかるか。 まぁ、わかるだろうな」   イグニスは、顔を歪めて笑った。 「どういう……」   言いかけて、頭の中で整理がついた。 もし、イグニスが、単に僕を殺したいなら……さっきの戦闘で、殺せる機会はいくらでもあった。   イグニスは、好機に乗じず、助言さえ与えて、僕の戦いぶりを検分していった。 そうやって僕の未熟さを暴き立てること。 だが……それに、何の意味が? 「イグニスは、メグミを殺してない」   風のうしろを歩むものが、言う。 恵の名で、心が、ずきりと痛む。 だが、倒れはしない。  「イグニスからは、生きたメグミのニオイがしない」  「どういうことだ?」  「殺したのなら、生きてるメグミと死んでるメグミの両方のニオイがするはず」   つまり……死体に触れただけということか?  イグニスは、大地に手をつき、けだるげに立ち上がる。 「メグミを連れてきてくれて、ありがとう」   風のうしろを歩むものに頭をさげられ、イグニスは、露骨に嫌そうな顔をした。  「そう……なのか? もしかして、恵を助けようとしてくれたのか?」  「ストラスを調べていただけだ。 それは、ついでだ。 間に合わなかったのは残念だ」 「恵は、どうなったんだ?」  「苦しんで、死んだ」   イグニスの言葉に、僕は、打ちのめされた。  「そんな言い方って……」  「いや、いい。 本当のことが、知りたかった」 「悲しむのも、呆けるのも、明日にしておけ。 憎悪で手足が動くなら、動かしておけ」   イグニスの浮かべた笑みは、奇妙に優しかった。  「ストラスを、〈陥落〉《おと》すのだろう?」  「あぁ」 「なら、ゆけ」  「イグニスは、来ないのか?」  「道具が揃わないんでな。 その代わりと言ってはなんだが、先に、少々、暴れておいた」   歪んだ笑いは、痛みをこらえている、と、知れた。 「その傷は……」  「自分の手当は自分で出来る。 さっさといけ」   イグニスは、馬鹿にした様子で、手を振る。 「カツキ、行こう」 「あぁ」  僕は、うなずく。 「カツキのほうは、身体はだいじょうぶ?」   森を歩きながら、少女が問う。  「だいじょうぶだ。手足は動く。 傷の治りも、早くなってるみたいだな」   強くえぐられたと思った喉でさえ、ほとんど、支障がない。 手加減も、されたのだろう。 「ごめんね、約束守れなくて」  風のうしろを歩むものが、小さな声でいった。 今まで聞いたこともないような、弱々しい声に、僕は、その手を握った。 「恵を……守れなかったのは、僕も同じだ」  恵。口にするたびに、胸が痛み、何か重い物に押しつぶされそうになる。 恵。足が重くなる。 めぐ……僕は、息を吐いて、意識を切り替える。  今は、悲しみに浸る時じゃない。 「ストラスは、潰す」  「復讐?」  「恵のようになる人を、これ以上、出したくない」   それは偽善だ、と、冷たい声が呟く。 ストラスが潰れたところで、代わりは幾らでもある。   対処療法では、構造的な問題は完治しない。 人が魔物を食い物にし、魔物が人を食い物にする以上、この輪廻は変わらない。   違う。 僕は反論する。 その論理はおかしい。   長い目で見れば人は皆死ぬし、地球も滅びる。 長い目で見れば、あらゆることが無意味だ。   僕は、今、できることをするだけだ。 たとえストラスに代わるものが現れるにせよ、それまで、少しの時間を稼ぎ、一人でも命を助けることができれば、それには意味がある。   それも偽善だ、と、声が言う。 ストラスを潰すのは恵を殺されたからだ。 そうでなければ、ストラスを潰して人を救おうなどと思うまい。 そうだな。 僕は、うなずく。 結局のところ、僕は利己的な存在だ。 自分の回りしか手に負えない。 手を動かしてできることには限界があるし、心の器は、もっと小さい。   だが、それは、それだけのことだ。 この手で、この心で、及ぶだけのことをするしかない。 「やっぱり、復讐だな」   ストラスを潰そうという僕の気持ちは……社会悪への怒りなんかじゃない。 それは、恵への気持ちから出ている。 だからどうした。  「うん、わかった」   風のうしろを歩むものが、おごそかにうなずく。  森の切れ目は近い。 僕たちは、足音を殺し、ゆっくりとそこへ近づいた。 「……どうしたものだろうな」   崖からストラス社の様子を見下ろし、僕は、呟いた。  「どうするって?」  「いや、どうやって思い知らせようかと、な」   具体的な戦略があったわけじゃない。 ただ大暴れして、社屋を壊し、社長を脅そう、くらいのことしか考えていなかった。  眼下に広がる社屋は……すでに、壊れていた。  白く清潔な印象の横長のビル、だったのだろう。 大きさは学園と同じくらいだろうか。 その中心、四分の一ほどが、巨人の手でえぐりとられたように、球形に消滅していた。  傷跡からは、むき出しの鉄骨が、長く伸びている。  爆破や衝撃であれば、鉄骨は、傷の外へ、広がるだろう。 だが、長く伸びた鉄骨は、すべて、消滅した中心へ伸びていた。  内側に向けて、ぐにゃりと湾曲した鉄骨は、文字通り鉄の骨……巨大な生物の肋骨を思わせた。  残らず割れたガラス窓のいくつかは、煙と炎を吐き出し、ビルの前には、無数の瓦礫が積みかさなっていた。  ──少々、暴れておいた。 なるほど、その結果が、これか。 いったい、どうやったら、こんな破壊が可能なのか。 「限度を知らない女だな。今度会ったら言ってやろう」 「そうだね」   風のうしろを歩むものが笑う。  生き残りのサーチライトが点いた。 それは、ぐるりとあたりを回転し、僕たちを照らし出す。  ぞろぞろと這い出る兵士達。 「行こうか」  眩しい灯りに目をかばいながら、僕は囁いた。 「そうだね」  地面を銃弾がえぐるよりも速く、僕らは宙に舞っていた。  ──ストラス社地下司令室。 「ひどいものだな」   神鷹が呟く。  「地上部の施設は、ほぼ、全壊と考えてよろしいかと」   秘書の言葉に、神鷹は、手を振った。  「見ればわかる」  執務机の前の巨大なスクリーンは、ワイヤーフレームの画像を映しだしている。 建物を支える鉄筋および構造材。 赤の線は、直方体を描く、本来の姿。 緑の線は、現在の姿だった。   だが、それは、なんという姿か。 緑の線は、ぐにゃりと内側に歪み、中心部で消滅していた。 消滅した中心部に近いフレームほど、大きく歪んでいる。 「被害ですが……総額にして……」  「金はどうにでもなる。 人材は?」  「一般社員および研究所員は、ほとんど避難しています」  「性格の悪い犯人だ」 「は?」  「所員を巻き込まずに、設備のみを破壊する。 示威行為……嫌がらせだな」   こともなげに、神鷹が言う。 「犯行グループについて分かっていることは?」  「所内の警備システムがダウンされたため、正確な記録が残っていません。 ですが……現場の報告を総合すると、単独だった、と」  「単独? 単独で、これだけの破壊を行ったのか? どんな種類の能力だ?」  「申し上げにくいですが……被害のほとんどは、我が方によるものです」  「ほう?」 「投入した強化実験体の能力を逆用されました。 指揮系統を寸断され、それぞれの個体が、単独で攻撃した結果、同士討ちおよび施設の破壊を招きました」  「装備と能力だけでは、だめということか」   神鷹は、ぼやく。  ストラス特殊部隊が狩るのは、たいていの場合、知性を失った人外であり、狡猾きわまるテロリストは対象外だ。   強化実験体も、個々の能力は優れているが、その名の通り実験体であり、効率的な運用は、まだ、模索中である。 「で、その、単独犯というのは、どんなやつだ?」  「交戦時の証言は、みな、曖昧です。 ですが、こちらに、目撃者がおります」   ワイヤーフレームが消え、透明になった。 スクリーンの向こう、部屋の隅にいた白衣の女性が、びくり、と、身を震わせた。 「今回の事件は、君の実験室から始まったらしいが?」  「はい。えーと、あのー」   指先を合わせながら視線を逸らす。  「隅っこにいないで、こっちに来たまえ」   あきれた神鷹が言う。 「ええっと……最初は、順調だったんです」   冷徹な視線に見つめられ、鳥賀陽は胃を押さえた。  「なにがだ?」  「あの、めぐみちゃんの実験です」  「恵の実験を許可した覚えはないが……」   鳥賀陽が、首をすくめた。 「詳しく説明してもらおうか」  「わ、わかりました」           ──1時間前。 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ」 「はぅっっっっ。くぅ」  気密室内の音声は、観察室に中継されていた。 一部の研究者が居心地悪そうにするなか、鳥賀陽は陽気に鼻歌を歌う。 「めぐみちゃん、その調子だよ。 がんばって」   数値をチェックし、めぐみの反応をメモしていく。   細胞電位に見られるスパイクは、変異の前触れだ。 植え付けられた各種細胞が、母胎の危機に瀕して活動を開始する。   それらは、未だ知られざるプロセスによりエネルギーを得て、急速に分裂し、人間の細胞に同化・吸収を開始する。  人外の細胞には、人間にない特殊な能力……擬態が存在する。 生きたままの人外の細胞を人体に投与すると、細胞は、人間の細胞を喰らいながら分裂し、喰った細胞そっくりに擬態するのだ。 骨を喰えば骨となり、筋肉を食えば筋肉となる。   続ける内に、やがて、全細胞は、人外のものと入れ替わる。 成功すれば、人外の細胞と人間の意識を持った存在が出来上がる、はずだ。  だが、ほとんどのケースで、被験者は侵食に耐えられず、ショック症状で死亡するか、あるいは、不完全な擬態により、蠢く腫瘍の塊と化す。   はなはだ、非科学的ではあるが、個々の細胞の擬態・分化の過程は、被験者の意志、自己像に大きく左右されるという実験結果が出ていた。 被験者が、願ったイメージに従って擬態は行われる。 つまるところ、侵食中は、被験者に強く自分というものをイメージさせる必要がある。  それ故に、恵は、全体表を、同時に侵食される必要があった。 その痛みは、彼女に自分自身の肉体のイメージを与える。   成功すれば、恵の肉体は生まれ変わる。 失敗すれば……それはまぁ、いつものことだ。 「……かつ……き……」 「37分経過。体表変化なしっと」   この段階になると、鳥賀陽にできることは、観察くらいしかない。   強化ガラスに鼻をくっつけるように、恵の動きの一部始終を見つめる。 「何が出るかなぁ〜」   通常、変身は、投与した細胞の性質を現す。   〈V系〉《ちをすうの》であれば、肩胛骨の変化、〈G系〉《おさかなさん》を投与すれば、皮膚表面に鱗が見える。   今回のように、カクテルで投与した場合の結果は、鳥賀陽にとっても未知数である。 「……ん?」   肩を叩く手。 鳥賀陽は前を見たまま鋭く応えた。  「余計なことで邪魔しない! 報告は、はっきりと!」  返事は、頬への鉄拳だった。 「ひぃっ!」  勢いで、ごろごろと転がる。 鳥賀陽は頬を押さえながら、振り返った。  黒衣の女。長い刀の切っ先は血に塗れていた。  「ひぅっっ!」   鳥賀陽は、もう一度、声を上げた。 女の背後は血の海だった。   血色の足跡が、白い床を埋め、壁から天井までに伸びている。 その足跡に沿って、部屋の助手たちは、すべて、斬り伏されている。 「あれを解放しろ」   イグニスの囁きは、ひんやりと鳥賀陽を凍らせた。  「かいほう、ですかぁ?」  「いいから、やれ」  鳥賀陽の頬に、鈍い衝撃が走った。 痛みとともに、舌に違和感を感じる。 吐き出したものは、折れた奥歯だった。  「あ……え……な、殴った?」  「ひどいよ、ひどいよ。 あなた、私になにするの?」   鳥賀陽は泣き声ですがりつく。  逆から、もう一発。 今度は平手だった。 鋭い痛みが走る。  「どうにかしろと言った」  「で、でも……」  「できないなら死ね」  「やります。やりますからぁ」  鳥賀陽はモニタに飛びつく。 「〈生命〉《ヴァイタル》反応は、まだ、ありますから……」  鳥賀陽はキーボードを叩き、吸収体に帰還信号を出す。 どちみち、もう、実験は終了寸前だった。 あとは恵が反応していたかどうかだ。  ちらりとデータを見れば、定着率は、比較的高かった。 相性の割には健闘している。 「早くしろ」   イグニスの見守る中、宙に浮いていた恵の手足が解放され、力無くうなだれた。  肌、胸を覆うピンク色のナメクジが散開し、開け放された性器と排泄孔から、ざわざわと触手が伸び出す。   体内、体外に密着し、第二の皮膚と化していた触手の解放は、大きな痛みを伴う。 「くぅぅぅぅ……はぁぁぁ……ん」   恵の喘ぎが室内に響く。  「あ、あううう。ひぐぅ!」   やがて、触手の先端が吐き出されると同時に、ひときわ高い悲鳴を上げ、恵は、ぐったりと崩れ落ちた。   その胸が、かすかに上下していることを確かめ、イグニスは、白衣の研究者に向きなおった。 「次は?」  「ま、待つだけです」  「どれくらいだ?」   刃が、ゆっくりと喉を這う。 「わかりません。 このまま死んじゃうかもしれないし……」   鋭利な刃が喉に食い込む。 ごくり、と、唾を飲み込む。 それだけで、刃が食い込むのが感じられた。  「適合してれば……そのうち、目を覚ますと」   イグニスの瞳が、無言でにらむ。 「できることは……もうないです……う、うそです。 あの。生きてたら、手当とか」  鳥賀陽はモニターに視線を落とす。 心電図のグラフを、はじめて、祈るような気持ちで見つめた。  それは鳥賀陽の見る前で、平坦になる。 「死ね」  妙に平坦な声と同時に、鳥賀陽は、意識を失った。 「実験現場からは、研究員全員の斬殺体と、意識を失った鳥賀陽博士が発見されました」  「なるほど。 その侵入者は……鳥賀陽君にとどめを刺さなかったわけだね」 「はぁ」   鳥賀陽は、思い出して身を震わせた。  「君自身に心当たりはないのかね?」  「えっと……殺さなかった理由ですか?」  「そうだ」  「わかりません」   泣きそうな顔で、鳥賀陽が答えた。 苦しそうに腹をさする。 「胃痛かね?」  「はぁ……ストレスみたいで」  「胃に来る体質なのかね」  「あ、普段は、違うんですけどぉ、今日は、胃が重くてぇ」  「そうか。なるほどな」  「な、何ですか?」 「希羽君。 鳥賀陽博士のチェックは?」  「もうしわけありません。 ボディチェックのみです」  「今後は気をつけるように」  「は」 「あ、あの」   鳥賀陽は、一歩踏み出して、透明なスクリーンにぶつかった。  「あ痛っ!」   鼻をぶつけてうずくまる。 「あれ、あれれ?」   いくら透明といっても、スクリーンがあることは分かっている。 けれど、なぜか、足が動く。  「どうしたのかね?」  「あのぅ、中に、入れていただけませんか?」  「なぜだね?」   鳥賀陽は、しばらく考える。 「えっと……それは」   考える間にも、手足が動く。 焦燥感を感じる。  「私に、抱きつきたい、とでも、思ったのかね?」  「え?」   顔を赤らめてから、鳥賀陽は、まさにその通りであることに気づいた。 神鷹社長に抱きつきたい。 触れたい。近づきたい。 「そ、そうです」  「後催眠だな。君の専門だろう?」  「え、と……」  鳥賀陽は言われて考えこむ。 暗示による後催眠では、被験者に、特定の行為をさせることが可能となる。 ただし、通常の暗示では、被験者本人が、直接、拒否する行動……例えば殺人や自殺を命じることはできない。   鳥賀陽が、神鷹に抱きつくのは、許容範囲ではあるだろう。 しかし、それに何の意味が……。   胃が痛む。しくしくと痛む。 どうして、こんなに痛いのか。 はやく、近づかないと。 「入れてくださいよぅ」   鳥賀陽はガラスを叩きながら、左手で胃を押さえた。  「君の胃の中にあるのは爆弾だ」  「え?」   鳥賀陽の膝が、落ちる。 「そのイグニスという女は、君を殺す、と言ったのだろう? なら、それが答えだ」  「ば、ばくだんですか……」  「古典的なブービートラップだな」  「そんな。とってくださいよう……」 「鳥賀陽博士、君は自分のしたことがわかっているのかね? かけがえのない人の命を、何の意味もなく奪ったのだぞ?」   無数の殺戮を命じた男は、なんのてらいもなく、そう言った。 「そんなぁ。 いじわるいわないでくださいよ」   鳥賀陽は、泣きじゃくりながら、ガラスを叩いた。 鳥賀陽は、しきりに胃を押さえた。 中の痛みが、だんだんと、熱く、大きくなる。 そんな気がする。 「さようなら、鳥賀陽博士」   声は、どこか遠くから聞こえた。 ストレスから、腕は、ますます強く、腹を押さえ、やがて、その力は臨界を越え、スイッチを起動させる。  べしゃり。  小気味良い音とともに、肉塊が、スクリーンにへばりついた。 真っ赤な血が、内臓が、重力に従って、ゆっくりと落ちてゆく。  血の霞みごしに部屋を見れば、鳥賀陽の足だけが、二本。 ばらばらに倒れていた。 「人殺しめ」   神鷹が言ったのは、それだけだった。 「神鷹様。地上部より連絡です。 侵入者が二名、接近中。 交戦中です」  「お客様かね?」  「画像、転送します」  神鷹の前から血と臓物が消滅し、代わりに、夜の風景が表示される。 ストラス社前庭。 瓦礫が飛び散る中を走る、人影が二つ。 レタッチおよび拡大。   学生服の男と、ジーンズの少女が現れる。 九門克綺の顔写真が、参考画像として表示。 見比べるまでもなく、二つの写真は一致した。 「ターゲットと、護衛というところか」  「両名ともに、次元歪曲反応を確認。 行動速度および反射速度も、人間領域を凌駕しています」  「ふむ。 取り憑かれたか、あるいは、吸収したか。 どちらにせよ、好都合だ」   九門克綺に、人外の能力が宿っている。 すなわち、簡単には死なないということだ。 「全力で、やれ」  「は!」  一気に坂を滑り落ち、夜の闇を駆けた。 見上げるほど高い塀を、僕も少女も軽く飛び越す。  銃撃が始まっていた。 塀の監視塔から。機関砲の射撃が。 そして、瓦礫の向こうの兵士たちからも。 「カツキ、気をつけて」   少女の囁き声が、銃声を貫いて聞こえた。 風のうしろを歩むものが、天に唸って風に呼びかける。 右腕にまとった見えない爪が、大地に穴を穿つ。  即席の塹壕に、僕らは飛び込んだ。  頭上を飛び交う弾は、もはや弾幕だ。 「あれを突破するのか……」  僕の目では、弾の全部を落とすのは無理だ。 「簡単だよ。見て!」  鞭のように少女は風を振るった。 飛来する銃弾のことごとくが、鋭い金属音とともに跳ね飛ばされる。 「僕には無理だな」 「どうして? カツキならできるよ」  全てはイメージの問題だ。  僕の五感は強化されている。 飛び交う弾丸を感じ、風を操って落とすことは、理論上可能なはずだ。 だが……そのイメージが、まだ見えない。  頭上に飛び交う弾を見つめ、全神経を集中する。 一筋の風を呼び、弾丸に向けて振りかざす。  だめだ。 いちいち目で追っていたのでは、間に合わない。 意識する時間が無駄だ。反応速度が縮まらない。  飛んでくる弾丸を、よく見ようとして、自然に頭が上がる。 「危ないよ、カツキ!」   あわてる声は、どこか遠くから聞こえた。  その一発は、ちょうど、僕の真正面に来た。 槍の穂先が迫るように、僕は近づく弾丸を正面から見つめていた。  それが、肌に迫る瞬間。 風が、動く。  僕を狙撃した銃弾は、眼前で停止し、そして粉々に砕け散った。 僕の風。そして、僕を守るべく繰り出された少女の風。 その二つが、同時に弾丸を挟み込んだ結果だ。 「やったじゃない、カツキ!」   興奮した声。 袖を掴まれ、塹壕の中に引っ張られながら、僕は、首を振った。 「なんとかな……。  全神経を集中して、ようやく一発だ。 これじゃ、動けやしない」  「カツキは、全部、自分でやろうとするからいけないんだよ。 風に任せないと」   風に心がない、というのは簡単だ。 だが、現に少女は、それをやっている。 イメージを作ればいい。   彼女の世界ではなく、僕にとってのイメージを。翻訳する。 「風はね。カツキに応えてくれるよ」  「この力は……僕の心に従う」  「ボクだって、一つ一つ風を操っていったら、身が保たない。 風にお願いして、任せないとね」  「人間は一度に一つのことにしか集中できない。 逆に、集中せずに、無意識に使えるようになれば」   僕は、自転車をイメージする。 乗り始めたばかりの頃は、自転車に乗っていること自体に集中する必要がある。 握ったハンドルを、重心変化自体を、しっかり意識して動かさないといけない。 慣れてくると、自転車に乗ってること自体は、意識しなくなる。 意識が「右折」を選べば、重心変化とハンドル捌きは、無意識の内に、自動で行ってくれる。   そういう境地が必要なんだ。 今の僕はといえば……自転車に乗ってるだけで精一杯。 右へ左へ蛇行しながら、かろうじて転ばないでいるくらいだ。 もっと無意識に自転車を扱うには……経験と熟練か。  だめだ。このイメージは、ネガティブすぎる。   僕は、再びイメージする。 人間の身体は、並列処理にたけたコンピュータだ。 そこに走る無数のプロセス。   呼吸。 鼓動。 各種ホルモンの分泌。 体温調節。 オートバランス。   そのプロセスの一つとして、対弾防御を意識する。 「〈来たりて内に留まれ〉《プロセス・レジデント》」   集中して、風を呼び、弾を弾く。  幸い的には困らない。 足を止めてるものだから、集弾していた。   ぎゃんぎゃんと弾ける金属音が耳を痛める。 ぞわぞわと肌を危機感が走る。  落ち着け。 無数の弾丸を、意識して落とす必要はない。   いや、無理に意識しようとすればするほど、取りこぼすだろう。 自転車と同じだ。   ──風に任せればいいよ。   そうだ、その通りだ。 僕を護る一筋の風。 その名を紡ぐ。 「〈すみやかなる風の護り〉《ニフティー・ウィンディー・フォート》よ」   ぷつり、と、何かが、切れる、手応えがした。 僕の手の中から生じた風が、今、命を持つ。  それは、喜々として跳ね回った。 「もう、大丈夫だ」  「うん。いい風だね」   僕は、少しだけ嬉しくなった。  「じゃ、行くよ」  少女が走る。 僕も、走ろうとして、ふと、気づく。 「〈高速機動プロセス命名〉《デファイン・プロセス》、         “〈軽やかなる足〉《ライトフット》”」  「〈空気抵抗低減プロセス命名〉《デファイン・プロセス》、       “〈我が肌は柔らかに〉《スムースボディ》”」  「“〈軽やかなる足〉《ライトフット》”起動、          〈常駐開始〉《アクティベイト・アンド・リザイド》」  「“〈我が肌は柔らかに〉《スムースボディ》”起動、            〈常駐開始〉《アクティベイト・アンド・リザイド》」  制服の袖が、風を受けて帆のように膨らむ。 耳元で轟々と風が鳴った。 「どっからいく?」  「片端から……と言いたいところだが、相手は、ただの人間だ。突っ切ろう」  宙を踏んで、僕らは、塹壕から飛びだした。 飛び交う弾丸の中を、僕たちは手を取って走り出す。  一斉射撃の銃声が全身を震わす。 連続した炸裂音は、ある種の圧力として、ずんと腹に響き、鼓膜を押した。  甲高い音が混じるのは、制空権内の弾丸を風が弾いた音だ。  四方から押し寄せる鋼鉄の雨の中、顔を上げて立つのは、名状しがたい恐怖を伴った。 暗闇の中、手探りで歩く時の、いまにも身体に何かがぶつかるのではないかという危機感に似ているが、何せ、飛んでくるのは弾丸だ。  躱せると分かっていても、足が竦んだ。 風のうしろを歩むものが、手を取ってくれなかったら、僕は、その場で、うずくまっていたかもしれない。  小さな、暖かい手を握り、二歩、三歩と進むうちに、恐怖は麻痺し、やがて愉悦に変わった。  だから。  足が地雷を踏んだ時も。 感じたのは、驚きであって、恐怖ではなかった。  一瞬の衝撃に、脳のモードが切り替わる。 全てのプロセスが停止され、リソースを防御に注ぎ込む。  炸裂した無数の鉄片は、意識するより先に弾いていた。 紅蓮の爆風を浴びて、僕は、宙に舞う。  冷ややかな風が、僕を包み、熱気を相殺する。 「ありがとう」 「どういたしまして」  もう一度、地雷を踏んではたまらない。 僕らは、大きなクレーターに着地した。  一瞬の逡巡を置いて、銃撃が再開する。 「邪魔だね」   風のうしろを歩むものが、優しくつぶやいた。  「カツキ?」  「なんだ?」  「目、つぶって」  言われるままに目を閉じると、細い指が僕の顎を引き寄せた。 柔らかな唇が僕に重なる。  ぴったりと寄り添う細い身体を、僕は両手で抱きしめた。 唇から、硝煙が香った。  絶え間なく響く銃声と焦げた鉄の臭いの中で、僕たちは、熱く舌を貪り合う。 ゆっくりと顔が離れ、僕は目を開ける。  頬を染めた風のうしろを歩むものが、そこにいた。  「ちょっと、力を使うからね」  照れ隠しのようにそう言って、少女は、敵に向きなおる。 膝をついて、大地に指を触れる。 「年老いた空は、血を流して生まれ変わる」   風が低くうなった。 可聴音ぎりぎりの重低音。 とてつもなく重い風が、少女の回りを渦のように回り始める。 「痛みに震えながら、生まれ変わる」  少女を巡る渦が、段々と重みを増す。 それは徐々に広がりながら空に登り、巨大な入道雲になってゆく。 湿った土のニオイがたちこめる。 やがて、飽和した大気から、水が、あふれだす。  ぽつり、と、大粒の水が、顔にあたって弾けた。  あっという間に雨は勢いを増し、豪雨となる。 叩きつけるような雨の中。 少女の声が、あたりを圧して響いた。 「ひび割れた古い肌を、風が切り裂く。炎が焼く」  暗かった。 一面の雲が、あらゆる光を押し隠していた。 目を開けても閉じても変わらない、真の闇夜というものを、僕は初めて知った。  豪雨の中で、雷鳴が轟き、同時に稲妻が閃く。 映し出された空に、僕は絶句する。  天が、落ちる。 手を伸ばせば触れられる……それくらいの近さに、雲がうねっていた。  月も星も、全てを覆い隠した闇色のうねりが、渦を巻き、螺旋を描き、最後には一本の線となって天と地を結んでいた。  少女の祈りに応え、忽然と生じたのは、まごうことなき竜巻だった。  いったいどれだけの力を使えば、どれほどの風を編めば、晴天に竜巻を起こせるというのか。 雨粒が、小石のように、肌を叩く。  足首まで来た水と、凄まじい風が、僕をさらおうとする。 それでも、ここは、渦の中心に過ぎない。  煌めく雷光が、すべてのものを白と黒に塗りつぶす。 静止した光景の中に、瓦礫の山は、もう、なかった。 鉄筋の入った、巨大なコンクリートの塊。 そのすべては、宙にあった。  風が……とぐろを巻いた二頭の竜が、僕には見えた。  一頭は昇竜。 中心部に走る強烈な上昇気流。 もう一頭は降竜。 渦の外側の、叩きつけるダウンバースト。  二頭の竜の絡み合う境に、あらゆるものを、へし折り、噛み砕き、粉々にして消し去る逆鱗があった。  目も眩む閃光とともに、連続する落雷が監視塔を焼き焦がした。 まっぷたつにへし折れた塔の半分が、天に昇り、もう半分が、大地に叩きつけられる。  まさに切り裂く風。焼き尽くす炎。 生まれ変わる空を、僕は、見上げた。 「血と悲鳴の中で、新しい空が生まれる。やさしい、空が」  星。 それは、砂粒ほどの小さな星で、〈天鵞絨〉《びろうど》のような暗黒の中、ささやかな光を放っていた。  その光が、まっすぐに少女を射抜く。  風のうしろを歩むものは、踊るように立ち上がった。 降る星を浴びるように、空に手を差し伸べる。蒼く長い髪が、さやかな光をとらえ、宝石をまぶしたように、きらきらと輝く。  ぴんと伸びた指先の、その手におさまりそうな、小さな晴れ間。 それは、みるみるうちに広がった。  ──竜が、天に昇る。  暴風が吹き荒れ、雲を駆逐する。 大地に爪痕を穿ち、あらゆるものを砕きながら、澄んだ夜空は広がってゆく。  やがて、それは全天を覆い、晴朗なる夜空が姿を現す。 耳の痛くなるほどの静けさが、あたりを満たした。  無音。まったくの無音。 あらゆる音が禁じられ、鼓動の音さえ響かない、厳粛なる静寂。  凍りついた空気の中で、ゆっくりと。 ゆっくりと、少女が手を下ろしてゆく。  その動きは、あまりに幽かで、かえって静けさに満ちていた。  きれいに揃った指が、ゆっくりと大地を向く。 空をみつめていた少女が、わずかに頭を下げる。 それが、儀式の終わりだった。  凍りついていた空気が、流れ出す。 僕は、詰めていた息を、ようやく吐き出した。 風のうしろを歩むものの伸びた背筋が、少しだけ前にかがむ。 「……大丈夫か?」  後ろから、肩を抱く。 「うん。ちょっと、疲れただけだよ」 「どうすればいい? 魔力の補給が必要なら……」 「それはいいや。ちょっとだけ……このままでいてくれる?」 「あぁ」  細く、小さな肩を抱きしめながら、僕は、ゆっくりと鼓動を数える。 「……綺麗な星だな」 「そう? よかった」   嬉しそうな声に、僕はうなずく。 「こっちじゃ、空は濁ってるからな」  降るような星というが、一つ一つの星が、本当に鋭く、突き刺すように輝いていた。 その光は、夜空の闇と、まったく混じりあわずに、かえってお互いを際だたせる。  人が星座を作るのは、きっと、寂しいからだろう。 唐突に、そんなことを思う。  ひときわ明るい六つの光を別とすれば、夜空の星々は、すべて、孤独だ。  たとえばペガサスの胴。秋の四辺形の四つの星。 数百光年を隔てた星々は、互いを知らずに、ただ、無窮の空間を行く。 人の心だけが、それを、星座という幻想の中に捉え、つなぎとめる。  角度と光度の、恣意的な、関連づけ。 四つの星は、互いを知らない。 地球という星から、四つ並んで見えると知らない。 この星空は、ここにしかない。  虚空の中で星は、ただ、星として輝き続ける。 「カツキ、どうしたの?」  知らぬ間に、腕に力が入っていた。 少女の手が、僕の手に重ねられる。 「自己完結した美の前に、孤独を再認識しただけだ」 「さびしいってこと?」 「……そうだな」 「ボクがいるよ」  やわらかな声と、腕の中のぬくもりに、つかの間、僕は満たされた。 今の僕が、望める限りのものが、ここにある。 そう思う。  けれど。 望める以上のものを望むなら。 この星空を共にしたい人がいた。  ──恵。  僕は、小さく息を吐く。 「カツキ?」  囁くような声で、少女が問う。 「あぁ。気づいている」  清冽な夜気に、濁りが生じていた。 生ぬるい風が、前方から漂う。  赤黒い影が凝る。 あの時、地底湖で女王を屠った異形の影。 あれが、ストラスの切り札か。  「気をつけて、カツキ。嫌な、予感がする」  「あぁ、そっちこそ」 「北の最果てのフクロウのしっぽ」   詠唱とともに、少女の指先が冷たく輝く。 きらきらと輝く五本の線。 鋼よりも鋭い氷雪の矢。  矢は風に乗り、えぐるように紅い影を貫いた、と、見えた。  紅い影が、微風を受けたように、揺れる。 それだけだった。 「〈長距離射撃プロセス命名〉《デファイン・プロセス》、“〈風礫〉《バラージ・ドラフト》”」   イメージしたのは、圧縮空気のつぶて。 弾着した瞬間に爆発する。 それを指先から数十発飛ばした。  影は、再び揺れる。 「何だ……防がれたのか?」  「いや、届いてないよ」   少女の言葉に僕もうなずく。 確かに……風は、影に触れる寸前で、霧散したように感じられた。  「何が起きたんだ?」  「ボクにもわからないや……カツキ!」   紅い影が、ぐにゃりと沈んだ。  足下に強い殺気を感じて、僕らは、左右に飛び離れる。  風が、悲鳴を上げた。 音速を超える鞭の響き。 とっさに下げた頭を、紅い影がかすめていく。  僕らの足下から生えたもの。それは長く伸びた紅い鞭だった。 旋回を止めた鞭は、ゆっくりと膨らみ……そして、人の姿を取る。  仮面が、ゆっくりと僕のほうを向く。  喉が、つまった。身体が動かない。 背中が冷たいもので串刺しにされた感触。  これが……。 恐怖か。  心臓から流れる血が、冷たい毒に変わった。 手足が痺れるような感触。 おかしい。 この恐怖はなんだ?  敵の能力は正体不明だが、鞭の攻撃ならば見て躱せる。 戦えないこともないはずだ。 なのに感じる、この恐怖は。  ──天敵?  をぉぉぉぉぉぉん。  遠吠えとともに恐怖を吐き出し、飛びすさって少女と合流する。 目配せに、意図が通じた。   遠距離攻撃が消されるなら、直接、叩くしかない。 あとは役割分担だが、瞬間的な攻撃力からいえば、僕は風のうしろを歩むものに及ばない。 僕は陽動。少女が接近して攻撃。   あとは、そのタイミングだ。 「〈風礫起動〉《バラージ・ドラフト・アクティベイト》!」   風礫を、地面に向けて放つ。 泥濘が、あたり一面に飛び散る。  紅い影が、立ち尽くす。  風のうしろを歩むものが、その死角に滑り込む。 泥の一滴すら浴びずに人外の速度で接近する。  かすめるように走る通りすがりの一撃離脱。 風を伴った爪の一撃が今にもめり込むと見えた時。  風のうしろを歩むものが、転んだ。 ──転んだ?  紅い影の足下で、急に速度を落とし、足をもつらせて、思いきり地面に転んだ。 何だ? 何が起きてる?  勢いを殺せずに、ごろごろと地面を転がる少女。 僕は、急いで駆け寄った。  影の右腕が上がる。 振り下ろされるに従い、信じがたい長さに伸びて僕を、少女を襲う。  ……間に合った。  背中に灼熱の痛みが走った。濡れた服の感触が伝わる。 切られた。 だが、死ぬほどではない。 「だいじょうぶか?」 「う、うん。カツキは?」  意識を集中すれば、血は止まる。傷もふさがる。 僕の中の狼の力は未だ健在だ。 「たいしたことはない」  走りながら、僕は言う。 「何が起きたんだ?」 「ボクにもわからない。 近づいただけで……風をはぎとられたような感じだった」  十分に距離を取って、僕は足を止めた。呼吸を整える。 「立てる?」  「平気。カツキのおかげだよ」   少女は、犬のように、身体を思いきり震わせて、染みついた泥を弾き飛ばす。  紅い影は、その足を震わせて、流れるように、近づいてくる。 その速度は、ごくゆっくりで、ことさらに急ぐ必要などないかのようだ。 「あれに近づくと、多分、魔力を消されるんだ」  「消される……確かに、そんな感じだったよ」   高速移動の最中、風の護りを無くしたら……強大な空気抵抗に打ち倒されるしかない。 「危ないところだったな。 もっと速く走っていたら、消し炭になっていたかもしれない」  「消し炭? どうして?」 「いやいい。あとだ」  考えろ。どうすれば勝てる。   魔力を「消す」というのは簡単だが、それは具体的にどういうことなのか? 風のうしろを歩むものが走り寄った時、その身を包む風は消えたが、身体に宿った運動量までは消えなかった。   風礫は消されても、泥を跳ね飛ばした時は、一瞬ひるんだように見えた。  つまり。   あいつは、魔力……吹いている風を消すことはできても、起きた結果までは消すことができない。   ならば──。 「建物、行くぞ」  「うん」  僕らは走り出す。イグニスが破壊し尽くした社屋だ。 あそこなら、勝機がある。  ガラスのドアの残骸をくぐり抜け、廊下に入る。 四方の壁は、微妙に歪んでおり、走っていると目眩がした。  あちこちに、兵士の死体が散らばっている。  銃弾を浴びた穴だらけの死体。 こんがりと焼けた焼死体。 巨大な力で引きちぎられたもの。  すっぱりと四つに斬られた死体。 その鋭利な断面から、はらわただけが長々と伸びている。  薄明かりの中に浮かぶ地獄絵図は、普段の僕なら、吐き気を催していただろう。  だが、今、この瞬間。 血の匂いは、甘く、かぐわしかった。 焦げた肉の匂いには、食欲さえ感じた。  舌なめずりさえする自分が嫌になる。  狼の力。狼の心。 僕は、段々と人から離れていっている。  頭を振って思考を切り替える。 膝をかかえてうずくまる暇はない。 体調の変化は、むしろ好都合だ。 (どうするの?)  風で声を隠し、外に洩れないようにしながら、少女が話しかけた。 同じやり方で僕も答える。 (このビルを壊す) (できないことはないけど……気づかれるんじゃないかな?) (だいじょうぶだ。そっちは僕に任せてくれ)  攻撃は前触れもなく訪れた。 音もなく前方の壁が破れ、紅黒い鞭が僕らを襲う。  急いで風を呼び、方向転換。  間に合った!  背後の風が、はぎ取られるのが感じられた。  ぐるりと刳り抜かれた壁が、落ちて大きな音を立てた。 現れた紅い影が……走った!  それは走るというのとは違った。 左右の壁に腕を食い込ませ、ゴムのように伸び縮みして前に跳ぶ。  その繰り返しで、影は恐ろしい速度に達した。 空いた二本の足は、びゅんびゅんとうなり、壁と言わず床と言わず、あらゆるものを切り裂いてゆく。  その速度は、僕らと互角だった。  悲鳴のような触手のうなり。 切り裂かれ、崩壊するビル。 気のせいではなく、天井が、ぐらぐらと揺れ始めている。  僕は、走る。 狼の力を得ることの効用の一つは、方向および距離感覚の増大だ。 ビルの廊下をジグザグに曲がり、階段を上りながらも、僕は自分の位置を見失わなかった。  狼の力があっても、全力疾走は全力疾走だ。 荒い息をつく。 僕の足が、徐々に遅くなる。 「カツキ! 危ない!」   風のうしろを歩むものが、大きく叫ぶ。  「だいじょうぶだ! 先に行け!」  「やだよ」   少女は簡潔に答えた。 「そうか」   僕たちは目を見合わせる。 (次の角だ) (うん、わかってる)  声を風に包み、少女にだけ届ける。  ほとんどぴったりと、紅い影が背後に張りつく。  僕は、つんのめるように角を曲がった。 曲がると同時に、左右に飛び離れる。  場所は頭に入っている。 角度も申し分ない。   僕は、風の糸を放った。  体勢を崩した僕たちを見て、紅い影が勝ち誇ったように腕を振りあげる。  次の瞬間、銃声が響いた!  紅い影は気づいていたかどうか。 この場所に来るのは二度目だということを。 僕らはぐるりと走って、同じ場所に戻ってきていた。   どこに何があるかは、頭の中に叩き込んである。 走りながら狙えるほどに。 僕が狙ったのは、兵士の死体に握られていた銃だ。 それは、紅い影の背後で、音もなく持ち上がり、そして引き金が絞られた。  細身の身体に、フルオートの銃弾が、残らず吸い込まれる。 紅い影は、スタッカートでのたうった。 「やった……か?」   いまや、紅い影は全身を震わせていた。 断末魔の痙攣。   いや、違う。 傷ついたものの動きじゃない。 紅い影は、輪郭がぼやける。 それはバイオリンの弦のように、超高速で震動していた。  なんのために? 答えはすぐに解けた。  紅い影から、無数の弾丸がばらまかれた。  風の護りが、その全てを叩き落とす。  ばらばらと弾丸が落ちるより早く、僕たちは走り始めた。 今度こそ全力疾走だ。  魔力が効かないなら銃を、と、思ったのだが。 おそらく、銃弾の運動エネルギーは、すべて、あの柔らかな身体で吸収されたのだろう。  魔力は消される。 衝撃は吸収する。 (──無敵じゃないか)  僕は、呟く。  走った拍子に、床が大きく崩れ落ち、僕は、宙に投げ出される。 「カツキ!」   差し出された手の暖かさが、心を支えた。  「落ち込んでる場合じゃないな」  「落ち込んでたの?」  「少しな」   僕は笑う。 元はといえば、この戦いは僕のためのものだ。 この娘のためにも、負けるわけにはいかない。 「こっちだ!」 「うん!」   僕は、足に最後の力を込めて走り出した。 「ここだ!」   ビルの中心部で、ようやく僕は足を止めた。 「風が、吹いてる」  少女が嬉しそうな顔をする。 吹いているどころの騒ぎではない。  頭上には星が見えた。 イグニスが破壊して、ぱっくりとえぐられたビルの中心部。 その真下に僕たちはいた。 「あいつを足止めしてほしい」   僕は少女に囁く。  「いいよ」   少女は、いともたやすくうなずいた。 「できるのか? 風は使えないんだぞ?」  「分かってれば、やりようはあるよ」  前方の床から、深紅の鞭が顔を出す。  ゆっくりと円を描き、空いた穴から、人影がずるりと顔を出す。 「5分だ。5分でいい」  「わかった。いくよ!」  少女が走り出す。 それと同時に、僕は、肺腑に大きく息を吸い込んだ。  足場は、ひどく悪かった。 瓦礫だらけの床は、全体がねじれており、あちこちが陥没していた。  風のうしろを歩むものは、ゆらゆらとした足取りで、その上を歩む。   対する紅い影は、二本の足先をどろりと溶かし、液体が這い進むように移動する。   仕掛けたのは、紅い影だった。 右腕が鞭と化して、しゅるしゅると伸びる。  それを、少女は、かるく上体を躱して避けた。  「キミに恨みはない。 でも……カツキは渡さないよ」   両腕。鞭は二本。 少女は、それを動かずに待ちかまえる。  掌底が二度ひらめき、鞭は少女の両脇をえぐった。 鋭く硬化した鞭の、その峰を叩いて、軌道を逸らした瞬間は、僕にも見えなかった。  再び二本の鞭。 今度は、それぞれ斜めから、ひねりこむように。  変わらない。 少女は、軽く叩き落とす。  二本の鞭が回転する。  縦。横。斜め。 空間を編み目のように切り裂きながら、止まることなくふるわれる鞭の網。  少女は、初めて前に出た。  高速で飛来する鞭の一本一本を、まるで縄跳びでもするように、リズミカルに躱してゆく。  舞うように歩みながら、危なげなく、一歩一歩近づいた。 そして。  軽く足を払い、胸を押す。  それだけで、紅い影は大きく転倒した。  「まだ、やる?」   少女の言葉は冷徹だった。   紅い影は、ゆっくりと立ち上がる。  腕を振り上げるより早く、少女の拳が顎を弾いた。 頭が揺れ、胴が揺れ、やがて、全身が突き立ったナイフのように大きく揺れた。   その様をじっと見守る少女が、一つ、鋭く息を吐く。  掌底。  ぴたりと、影の動きが止まった。 打たれた腹を中心に波紋が走った。  揺れが四肢の末端に伝わって、小気味いい破裂音がした。 ――QWOOOOOOOOOONN!   影が、はじめて声を上げた。 濡れた指で風船を撫でたようなその異音は、苦悶の声に他ならない。  身体から、あの柔らかさが消えていた。 影は、糸の切れた操り人形のように、膝をつく。 「芯を打てば力は逃げない」   少女は淡々と言った。  「風を使えなくたって見ることはできる。声も聞こえる。 その程度じゃ、草原の民は屠れないよ」  「じゃぁ、コレは見えるか?」  声とともに、爆発音が響いた。  一瞬早く飛びすさった少女が、顔を上げる。  「誰だ!」 「俺かい? 俺は、ヒューマンフレアだ」   闇の奥から、仮面の巨人が顔を出した。 一体、二体……全部で五体か。 「そっちの、お嬢さんに負けたのがファンタスティカだ」  「ボクは風のうしろを歩むもの。 刃向かうなら容赦しないよ」  「おっと気の強いお嬢さんだ」   巨人は、芝居気たっぷりに肩をすくめた。  「だが……無謀だ」  少女の足下に、連続して爆発が起きた。 明らかに、嬲っている。 「お偉いさんからは、降伏勧告しろって言われてんだ。 だけどまぁ、降伏しないほうがいいぜ?」  「どうして?」  「降伏したら、うちの実験材料になるからな。 若い女の子にゃ勧められねぇ。 俺に任せてくれたら、この場で、こんがりと灰にしてやるよ」 「死ぬのは怖くない。 けど、まだ駄目だ」  「そうかい」  風のうしろを歩むものが、足下の瓦礫を蹴り上げた。 「無駄だよ」  高速で飛来する瓦礫は、ヒューマンフレアの前で、全て弾け飛んだ。 土煙があたりに満ち、視界をふさぐ。  その一瞬を狙って、風のうしろを歩むものが飛び出す。  足音一つ立てず、土埃すら乱さず、神速で間合いを詰める。  その爪がヒューマンフレアに届くかと思えたその瞬間。  轟音が轟いた。 ジェット機にも似た爆音は、大きく重いものが空気を切り裂いて移動する音だ。  煙の向こうで、二つの影が交錯する。  それは一秒にも満たない時間だっただろう。 けれど、その一秒は糖蜜のようにゆっくりと流れ、僕は、大気に刻まれた二本の軌跡が伸びる様を、しっかりと見届けた。  風のうしろを歩むものと灰色の巨人。 二つの流星のように、それらは床を蹴り、壁を走り、天井に跳ね返り、縦横無尽に部屋の中を駆け抜けた。  時に近づき、時に離れ、互いのうしろを取るべく、円の軌道を描く。 ゆっくりと縮む螺旋が点となった時。  爆発が、起きた。  煙が晴れた時。  地に伏していたのは、風のうしろを歩むものだった。 その背に馬乗りになり、腕をねじあげているのは、巨人の一人だった。 「遅い」   低く地を這うような声が、背の巨人から発せられる。 「速いね」   少女の声には、賛嘆の響きがあった。 よくみれば、全身からかすかに煙を吹いている。 「カツキの言った通りだ。 速く走ると身体が燃えるんだね。ボク、知らなかったよ」  少女は、楽しそうに言う。闘志は失っていない。 高速移動の頂点で、魔力をキャンセルされたようだ。  してみると、紅い影……ファンタスティカだけでなく、あの巨人達全員が、魔力を消す力を持っているということか。 厄介といえば厄介だ。 「どうだい、スピードスターの走りは? いかしてるだろう?」   ヒューマンフレアがまくしたてる。 「あんまり」   少女は不敵な顔で首を振った。 「走り方が汚いね。風をいじめてる」 「ほざけ」   巨人が腕に力を込める。 「くっ」   さすがに少女が顔をしかめる。 「ヘイヘイ、そっちの彼氏」   ヒューマンフレアが僕のほうを向く。  「せっかく彼女が頑張ってるのに、オタクは何もしないわけ? ぽかんと口なんか、開けちゃってさ」  「……」 「そりゃ、俺たちも、無事に連れて帰れって命令は受けてるけどね。 腕の一本二本、ちぎれたってまぁ、事故の内だぜ? 何とか言ったらどうだい、クモンカツキ?」   ヒューマンフレアの挑発と同時、肩の制服がぼっと火を噴いた。 「カツキに触るな!」   少女が鋭く叫ぶ。 「いや、もうだいじょうぶだ。ありがとう」 「なんだ、口利けるんじゃない」 「さっきからずっと叫んでたさ」 「は?」  今度は、僕が肩をすくめる番だった。 「僕には彼女と同じ、空気を操る力がある」  「知ってるさ。 その力は、俺たちには通じないけどね」  「音というのは空気の振動だ。 そして、ある種の振動は、物体に蓄積される」  「ホワット?」  「共鳴というやつだ」 「魔力が効かなくて幸いだった。 耳には聞こえないだろうが、骨には響いていたかもしれない」   そうしていたら気づかれていたかもしれない。  「さっきから、何言ってるんだい?」  「超音波ってやつだよ」  ビル中の鉄骨。 その全てを共鳴破壊するのに五分かかった。  僕は、笑った。少女も笑う。 笑いながら、僕は、ゆっくりと、力を込めて足を踏み降ろした。  それが、最後の一撃だった。  床が、天井が、壁が。 その全てが一斉に崩れ落ちる!  轟音があたりを揺るがす。 視界が一瞬にしてゼロになる。  一瞬で床は瓦礫の山と化し、僕らは宙に放り出される。 バランスを崩し、ヒューマンフレアが吐き捨てた。 「Shit!」  巨人達が、ゆっくりと落ちてゆく。 注意すべきは、ただ一人。  スピードスターだ。  そこらに浮かぶコンクリの塊。 床と壁だったものを、僕は、思いきり蹴飛ばす。  音速で飛来する礫が、スピードスターの手足を貫く。 組み敷かれていた、風のうしろを歩むものが、スピードスターの胸を蹴って、宙に跳ぶ。 「上だ!」  風のうしろを歩むものに、僕は叫ぶ。 ビル全体が崩れているのだ。前後左右に逃げ場はない。 ぽっかりと天井に空いた穴。そこだけが脱出口だ。 「〈三次元機動〉《スカイウォーカー》起動、〈常駐開始〉《アクティベイト・アンド・リザイド》」  風のうしろを歩むものが、くるくると瓦礫を蹴り昇る。 僕は、そこまでうまくはできない。  風の噴射を三軸にして、空中を移動する。 下を見る。 出鼻を挫かれたスピードスターは、もはや瓦礫の下だった。 「フレームオン!」  轟音の向こうから声が聞こえた。  下半身から紅い炎を吹いて飛翔するのは……ヒューマンフレアか。 原理は僕と同じ。熱した空気を一方向に放射して空を飛んでいる。  なるほど。 彼らも……僕と同じ。 異能の力は使えても、それはヒトの常識……科学を覆すには至らない。  彼女……風のうしろを歩むものとは違う。 僕は、そのことを心に刻みつける。  人外の民が炎を操る時は、炎の精霊に乞い願うかもしれない。 だが、ヒューマンフレアは……ストラスの強化体は科学の産物。 あいつが爆発を起こす時……そこには、なんらかの科学原理が働いているはずだ。  ヒューマンフレアの指先が、かすかに光ったように見えた。  空中のブロックが次々と爆破される。 爆発が起きる。  風のうしろを歩むものは、くるくると回って、勘だけで回避する。  ヒューマンフレアが、これ見よがしに、僕に指を向ける。 僕の速度じゃ、爆発を回避することはできない。  風のうしろを歩むものの心配そうな顔に、僕は、手を振って応えた。  喉に力を込めて叫ぶ。  宙をただよう瓦礫の数々が一瞬で粉になった。  ヒューマンフレアの指先と僕を結ぶ線。  その線に沿って、ジュン、と、音を立てて、熱線が、「見えた」。  ヒューマンフレアの炎の力が、レーザーによるものならば。 レーザーは、媒質中で減衰する。 濃いコンクリの粉を通過したそれは、無数の粉に当たって散乱し、その本来の力を失ったのだ。  二発、三発、と、熱線が飛ぶが、いずれも効果はない。 僕は、これ見よがしに、中指を立てて見せる。 ヒューマンフレアは忌々しげに、腕を下ろす。  ……その瞬間。  背後に跳んでいた風のうしろを歩むものが、思いきり巨人の頭を蹴り上げた。 意識を失ったヒューマンフレアが落下し、瓦礫の山に呑み込まれる。 「やったね、カツキ!」  少女の声が風に乗って僕に届く。  瓦礫を駆け上ってゆく。  ヒューマンフレアは計算違いをしていた。 僕のように、少女が風の力で飛んでいたなら、ヒューマンフレアに近づくだけで落下しただろう。  だが、彼女が宙を舞っていたのは、純粋な体術だ。 荒れ狂う風の中で気流を読み、足場となる瓦礫を蹴飛ばして、宙を跳んでいただけだ。  草原の民の力を甘く見た、彼の負けだ。  何度か、僕も宙を跳び、風のうしろを歩むものと合流する。  崩れ落ちるビルを足下に、僕らは、ゆっくりと、着地した。  巨大なビルの名残を踏みながら、僕は、砂利と瓦礫の上にへたり込んだ。 砂利と瓦礫は、夏の日向のように熱かった。  熱は、エネルギーの墓場という。 かつて、コンクリの塊が持っていた位置エネルギーは、運動エネルギーとなり、地面に叩きつけられた今、そのほとんどは熱となる。  熱は風を呼び、コンクリの細かい粉が、陽炎に乗って宙を舞った。 埃と粉は灰色の霧のように視界をふさぎ、風の力がなければ、息をするだけで倒れるだろう。 「これで……終わりか」 「すごいや、カツキ」   風のうしろを歩むものが、僕のうしろに、ふわりと落ちる。  「こんな大きなビル、いったいどうやって、崩したの?」  「風の力さ」   僕は説明を放棄して、そう応えた。 「ボク、やっとわかったよ。 カツキの風と、ボクの風は違うんだね」  「カツキの風は、ボクのできないこともできるんだ」  「逆もあるがな」 「ふぅん」   無邪気に少女は、風に手を差し伸べた。 たちまち、その手に風が渦巻き、埃を払って清浄な空気を呼び寄せる。  彼女が見えている世界……それは風が生きていて、願いに応えてくれる世界だ。  僕にとって、風は……空気の流れに過ぎない。 分子同士の盲目のぶつかりあい、ブラウン運動の、かすかな偏りだ。  いつか、僕は、彼女の世界を見られるだろうか? 彼女は? 「行こうか」   僕は、立ち上がる。  「ストラスも、少しは思い知っただろう」  「そうだね……メグミも、きっと喜んでくれる」  どうだろう。 もし人に魂があるとして。 死者の魂が、どこかへ消えるとして。 それは現世のことを気にするのだろうか?   僕にはわからない。 だけど……もし、どこかで恵が僕らを見ているのなら。 「喜んでくれると、いいな」   僕らは、今、ここで生きているから。 生き続けるから。 心配はいらないと、そう伝えられたら。  「うん!」   少女の笑顔が、僕の視界一杯に広がる。  駆け寄るその身体を、僕は、力一杯抱きしめた。  腕の中の身体は、火のように熱かった。 戦いで昂った血。火傷しそうなその血が、ゆっくりと収まっていく。 息を吸って吐くたびに、腕の中の熱さが、快いぬくもりに変わってゆく。  そんな風に、僕らは、互いを感じるのに夢中で。 灰色の埃と、あたりに満ちる熱気。 その向こうで、何かが動いたことに気づきもしなかった。  それは、瓦礫の隙間から、砂利一つ乱さず現れた。 赤黒い槍の穂先は、一直線に飛び、気づいた時には既に遅かった。  咄嗟に張った風の護りは、あっさり消され、槍は、僕らの喉を、一直線に貫いた。  火のような痛みが、喉に満ちた。 胸の奥底から咳がこみ上げる。  ふさがれた喉の中で、咳が潰れ、僕は、血の塊を吐く。 喉を締め付けるような窒息の苦しみが、傷の痛みをいや増してゆく。  刃は、喉から肩へ抜け、やがて胴をま二つにし、足を剔ったと思う。 脳裏に火花が散る。視界が紅く染まり、そして急速に暗くなる。  油断。 わずかな。致命的な油断。  僕は。死ぬ。 僕だけじゃない。 なんてことだ。  喉に満ちた血が胃に逆流し、食道が焼けた。 暗くなる意識の中で、僕は、手を伸ばした。  その手は、ついに届かなかった。  真っ白なところにいる。  霧? ちがう。 霧はもっとミルク色だし、濃淡がある。  銀世界? ちがう。 雪なら、陽の光で、きらきらと虹色に輝く。  そこには何の陰影もなく、どんな色のグラデーションもなく、ただ一面、真っ白な世界。  なにもない、世界。 僕さえない。 手も足も胴もなく、見つめる瞳すらない。 白一色の世界は、どこまでも白一色で、なにもなかった。  ……いや、あった。  そらに、つき。 くるくると、まわる、七色のつき。  月には柄があり、鉤型の柄には、添えられた指があった。 「あぁ……久しぶり……というべきかな」  僕は、空に向かって呼びかける。 傘が、三度回る間に、しゅるしゅると縮んだ。  七色の傘の下から、少女が顔をあげた時、姿は、いつもと同じだった。 少なくとも、そんな感じがした。  二つの瞳が、僕を見下ろす。 「こんにちは」  「迎えに来たのかい?」   空が、揺れた。 傘の少女は無言で、首を振ったのだ。   ゆっくりと、少女が縮む。 少女の背中に、かすかに、何かが見えた。 人見知りする幼子が、母の背に隠れるように。  傘の影に隠れながら、こっちをのぞき見するその顔は……恵?  めぐみ!  叫び声とともに、僕は、目を醒ます。  白一色の部屋。 壁も床も、ぴかぴかに磨き上げられ、消毒された白い部屋で、唯一の例外は、その天井だった。  手足、首は、何かのベルトで、しっかりと固定されていた。 おかげで上しか向くことができない。  どうやら、この部屋をデザインしたのは、よほどのサディストだったに違いない。  僕は確信する。  僕の頭上には、等身大の鏡が下げてあった。 鏡の中の僕は手術台の上に縛り付けられていた。 周辺の床には、びっしりと、妙な魔法陣らしきものが描かれている。   そもそも、僕は、なぜ生きているのか? あの場で、喉を刺され、胴体までも両断されたのではなかったか。  答えはすぐにわかった。 喉にぱっくりと空いた傷口は、赤黒くどろどろとしたものが埋めていた。 それは僕の呼吸に同調し、ひくひく蠢いていた。   それだけじゃない。 僕の手足は、子供が放り出したオモチャのように、バラバラだった。  胴体は、袈裟懸けにまっぷたつ。 二つの破片は、一応並べてあるが、拳が通るくらいの隙間はある。   生きているのは……断面を覆う赤黒い皮膜だろう。   千切れた胴体の皮膜同士を、数本の細い線がつないでいた。 膝の中途で斬られた両足、肩から落とされた両腕も同じだ。   ついでに、左胸からは、太い銀色の杭が生え、無数のコードを生やしながら天井にまで続いていた。  ピン留めされた昆虫標本。 解剖模型。   それが今の僕だった。  目をつぶってみる。 身体は五体満足に思えた。 ばらばらに千切れて、糸でつながっているなんて実感はない。   おそるおそる、足の指、手の指を、動かしてみても、普通に動く感触がある。  今度は、目を開けて、同じことをする。 皮膜がびくり、びくりと動き、わずかに遅れて指が動く。   そのズレに吐き気がした。  白い壁の一面に、すいっと四角形の線が現れる。 それはスライドして大きな窓となった。   窓辺に、男が立っている。 灰色の髪をした男だった。 三十路過ぎといったところか。 唇は固く引き締まり、寄せた眉根の皺は顔の一部となっている。 そんな強い意志を具現化した顔は、もう少し歳のいった印象を与える。 「九門克綺君だね、はじめまして」   どういう仕組みか、僕の耳に直接、声が響く。 奇妙な感覚だ。 男のきまじめな瞳が僕を見る。  「私は、神鷹士郎。 ストラスの支社長をしている」   喉の奥から、唸り声が洩れそうになる。 右手に風の力を集めようとし……そして、気づいた。  風が、集まらない。 否。 空気がない。 この部屋は、完全な真空だった。 そういえば……さっきから呼吸をしていない。   急に息苦しくなった。 拘束されたまま、僕は、無茶苦茶に暴れる。 「やめたまえ。傷に障る」   その言葉と共に。   ──右手が死んだ。   ガクンと肩に衝撃が走った。   誰かがブレーカーを落としたように、肘から指先までの感覚が、すべてシャットダウン。   痛みよりも激烈な喪失感。 僕の体は、驚きで止まる。 「無理はしないほうがいい」   悠然とした口調で男が言う。  「これは……なんだ?」   自分の声も、不思議な響きがした。  「ファンタスティカの細胞だよ。 現在、君に寄生している。 酸素を与えているのも、この声を伝えているのもファンタスティカだ」 「ファンタスティ……カ?」   言葉がイメージを喚起する。 あの紅い粘液。 ビル一つ分の瓦礫に埋まっても死ななかったもの。   それが、僕に寄生? 「元々ファンタスティカの超流動体質は、他の生物の体内に入り込み、補食するために進化したものでね。 獲物を腐らせたくない場合は、何日でも生かしたまま麻痺させることができる。 ちょうど、今の君のようにね」   ゆっくりと右手の感覚が戻ってきた。 指先が動く。 額に汗がにじみ出ていた。 あの、おぞましい麻痺の感覚は、指先一本だけでも味わいたくない。  さっき、なんと言った? 何日でも生かしたまま麻痺? 手も、足も、切り離され、何の感覚もなく、ただ虚無の中で浮かぶ日々。 たまに目覚めるのは医師が身体を切り刻む時。   嫌な汗が噴き出した。 歯の根が合わない。 どれだけ奥歯を噛みしめても、顎ががちがちと鳴る。 「安心したまえ。 君の未来を奪うつもりはない」   絶妙のタイミングで神鷹が優しげにいう。 肉体的な痛み、精神的な脅迫、そして、懐柔。 完全な洗脳の手口だ。  そんなことはわかっているが、それでも、全身が緩むのはいかんともしがたかった。 口から小さな溜息が洩れる。 神鷹の言っている言葉には何の保証もないというのに。   僕は、彼を信じたくてたまらない。 震える心を抑えつけ、僕は、声を吐き出す。 「実験材料に、どんな未来があるんだ?」   声を出して気づく。 真空中に声が響くはずがない。 さっきから響きが妙だと思ったが、神鷹の声と同じく、ファンタスティカの細胞が伝えているのだろう。  「実験材料? とんでもない。 我々は、君に同志になってほしいんだ」 「同志?」   意表を突かれた。 あさましく、媚びるような声で答えた自分が、悔しかった。 心臓が囁く。   死ぬのはいやだ。 闇に閉ざされるのは、もっと嫌だ。 あがけ。媚びろ。生き抜け。   神鷹は、優しい目で僕を見る。 「実験材料なんて言ったのは誰だ?」  「メルクリアーリ」   神鷹が、侮蔑の表情を浮かべる。  「あの神父も、悪ふざけが過ぎる。 そもそも我々が闘う要素はない」 「恵は……」  「恵君のことは残念だった」   神鷹が頭を下げる。  「おまえらがっっ!」   思わず、叫び声が出た。  「おまえらが、殺したんじゃないか」  「そうだ」   神鷹は、眉一つ動かさず肯定した。 「恵を攫って……殺して……」  「攫った?」  「あの洞窟から……」  「攫ったのではない。 救出したのだ」  「なに?」 「我々は、魚人による殺人事件を食い止めるため、その本拠地に突入した。 そこに一般人がいたので救出した」  「そして……殺した?」  「スタッフの一人が暴走した。 すでにそのスタッフは死亡した」   窓の向こうで、男が頭を下げる。  「すべては私の監督不行届だ。 本当に、もうしわけない」  怒りよりも、悲しみよりも、包み隠さないその態度が、逆に不気味だった。 毒気を抜かれた、と、言ってもいい。 どうして、そんなことまで言うのだろう? 僕を誘導しようというのなら、いくらでも取り繕えるはずだ。  「それで……僕をどうするつもりなんだ?」  「少し長い話になるが、聞いてほしい」 「人と人外の違いは何か、それは知っているかね?」  「魔力じゃないか?」  「魔力……それが一番いい名だな。 うちの〈専門家〉《スタッフ》は、どいつもこいつも、やれ変位時空だ認知干渉だと、適当な名前をつけてるが……魔力というのが、一番通りがいいだろう。 第一わかりやすい」 「それで、人と人外は、どう違うんだね?」  「魔力の有無、だろう」  「それは間違いだ。 人にも魔力はあるのさ。 種類が違うだけでね」  「種類?」 「あぁ。 人外にとって、魔力は、その意志の顕れだ。 通常魔力は、人外と共にある。 うちの専門家に言わせると、個体を中心に閉じた変位時空を構成する、というわけだ」   なんとなく、理解できた。 風のうしろを歩むものは、風を操る。 それは、彼女の心のあり方、彼女の知っている世界のあり方なのだ。 「じゃぁ、人は、どうなんだ?」  「人の魔力は、人の間を循環するんだ。 それが、まさしく、人間の力となる」  「人外の意志の力は、強いエゴでもある。 即ち、唯一無二の己足らんという意志だ。 故に、彼らは、互いに協力できない。 その魔力は無双のものであるが故に、交わることがない」 「そうすると人間は……」  「人間の一人一人は、貧弱な意志、微弱な魔力しか持ち得ない。 だが、人の魔力は、重なり合うことで、その力を相乗することができる」  「力が……重なる?」  「そうだ。 人の心は弱く、たやすく迎合する。 故に、その魔力は、ごくわずかなものだ。 だが、人の数が増した時、その総量は、あらゆる魔物の力を凌駕するものとなる」 「想像してみたまえ。 地球上の五十億の人の間を含むネットワークを」   網の目のように張り巡らされた銀色の糸。 それは、人と人の間をつなぎ、この地球を覆う。  「人類全体の膨大な魔力。 それは、今も、私や君の間を流れているのさ」 「感じたことは、ないな」  「無論、その通りだ。 無数の魔力は、ただ君を通って流れるだけで、何もすることはない。 だが、もし……一人の人間のところで魔力をせき止めたらどうなると思う?」  「ネットワークとやらの種類による。 五十億人を一直線に繋ぐだけの単純なネットワークなら、どこか一カ所詰まれば、すべてがそこで止まる。 それに対し、冗長性のあるネットワークなら、別のルートを通るだけだろう」 「呑み込みが早いな。 無論、魔力のネットワークには冗長性がある」  「ならば、せき止めることはできないはずだ。ただし……」  「ただし?」  「ただし、その一点が、ネットワークの要所ならば、別だ」  「そういうことだ」   神鷹は、うなずく。 「魔力のネットワークには要所がある。 一本の線しか通っていない人間もいれば、無数の線の中継所になっている者もいる。 そして、九門克綺君。 君という存在は、中枢中の中枢。 人類のネットワークにおける、唯一つの〈絶対中枢〉《クリティカル・パス》」  「故に。 君という一点を押さえることで、全人類の魔力の循環は停止する。 君のところに全ての魔力が集中する」  「その力は……この世界を変革する量と規模を持つ」 「おまえの目的は、なんだ?」  「我らの先祖の為したことの完遂だよ」  「完遂?」  「かつて、この地上は、魔と呼ばれるものに支配されていたという。 遠い昔、我らの祖先……そう、君のような力を持った者が、魔をうち破り、その力を持って、あらたな世界を築いた。 我々は昼の光の中に生き、魔は闇に封印された。」 「だが……それでも、奴らは滅びなかった。 彼らは、決して、昼の世界に現れ、人の世を覆すことはできない。 だが、人の知らぬ夜の中で、彼らは生きのび、無法な行いを続けている」  「君も知らないわけじゃあるまい。 人外の民が、人間に何をするかを。 たとえ種としての人類は護られても、個としての人間は、常に、彼らに喰われ続けるのだ。 恵さんも、やつらに攫われたのだろう?」 「この世から、人外を、一人残らず排除する。 それには君の力が必要だ。 手伝ってくれないか?」   僕は…… ・神鷹に従う→8−36−1・神鷹を拒む。→8−36−2 ●8−36−1 「わかった」   僕は自分に嘘をついた。 現状、僕の命は、目の前の男に握られている。 余計な抵抗は死を招く。 現状できることは、少しでも時間を稼ぐことだ。 「よかった。 言うまでもなく、魔力を集中する際は危険が伴うので。 我々もできる限り安全を期すが、君が抵抗した場合、命の保証ができない」  「ゆっくりと力を抜いて、受け入れたまえ」   僕は、ゆっくりと力を抜く。 →8−37 ●8−36−2 「その前に、ひとつ、聞きたいことがある」  「なんだね?」  「風のうしろを歩むものは、どうした?」  「風の……君と来た人外のことか? ああ、それなら……」   頭上のスクリーンが鏡に戻る。 それは傾いて部屋の隅を映し出す。  僕と同じ形の台にくくられているのは、彼女だった。 この真空の空間に、いつから置き去りにされていたのか。 閉ざされた目と耳からは血が流れ、ぐったりと動かない。 喉にぱっくりと空いた傷口は、見るだに痛ましかった。  「彼女の力は危険すぎるのでね」  「彼女はまだ、生きている。 人外の生命力には驚嘆するものがある」   神鷹が、なれなれしくいう。 「恩着せがましく言うな。 僕の力を使えば……彼女も死ぬんじゃないのか?」  「君が望むなら、彼女だけは助けてもいい。 適当な隔離装置を作れば……」  「一生、檻で暮らせというわけか」  「彼女を生かせば人を喰うぞ」   神鷹の言葉は、重く、胸に沈んだ。 「ならば、いっそ、君の手で倒すのが、思いやりというものかもしれん。 決断は君に任せよう」   その言葉に、僕は、うなずいた。  「もう決めたよ」  「では、どうする?」  「おまえに従うつもりはない。 僕の力を渡しはしない」  「理由は?」 「僕は彼女が好きだ。 彼女を助けると誓った。 それで、理由は十分だ」  「君は、一つ大きな勘違いをしている。 君の協力がなくとも、君から魔力を引き出すことは十分に可能だ。 だが、その場合、君自身の生命の保証ができない」  「君という人間を殺したくない。 これは私の本心だ」  神鷹の声には、沈痛な響きがあった。 おそらく、この男は、何人もの人間を殺してきただろう。 そのたびに、つらく思っていたのだろう。 この男は、本当に、心の底から、人が死ぬことを食い止めようと思っているのだろう。   それでもなお──。 「選び給え。 九門克綺は人の味方か、それとも人外の味方かを」  「あなたの言葉に、どこかが、引っかかっていた」  「なに?」  「それが、ようやく、わかった」   僕は、ゆっくりと、自分に言葉を確認する。 「あなたは言った。 今の世界は、人類を護っても、人までは護っていないと」  「そうだ。 だからこそ、人外を滅する必要がある」  「そうじゃない。それは違う」  「何が違う? 人が死ぬことを見過ごせというのか?」 「人外は人を殺すばかりじゃない。 人を救うことだってあるかもしれない」  「そんなことは、ただの言い訳だ」  「もちろん、そうだ。 人外がいる限り、喰われる人間もなくならないのだろう。けれど」  「僕は、風のうしろを歩むものに救われた。 僕の人生にとっては、それがすべてだ。 恵は、ストラスの手で死んだ。 恵にとっては、それがすべてだ」 「何が言いたい?」  「結局……あなたのやり方で救えるのは、人類だ。人じゃない」  「何を言うかと思えば。 私は仏じゃない。 一人一人の人間を、あるがままに救うことなどできはしない。 荒療治かもしれないが、明日の人類は、きっと我々に感謝する」 「明日という日はない」   今なら、風のうしろを歩むものの言葉が理解できる気がした。 明日は来るが、来た明日は今日だ。   だから、僕たちは、今日を生きることしかできやしない。  確かに……この世界から人外が消えてなくなれば、人と人外の争いは消えるだろう。 明日の子供たちは……生まれた時から人外のいない世界で暮らす子供達は、幸せかもしれない。 今日、僕が手を血に染めれば。今日をなかったことにすれば。 明日の人類は、幸せに生きられるかもしれない。   けれども。 僕は、やっぱり今日に生きているのだから。 今、目の前にいる者を殺すことなんて、できやしない。 「魚人の女王も、風のうしろを歩むものたちも、みんな今日を生きていた。 その向こうに明日があった。 けれど……あなたは、明日のために今日を捨てている」  「君も、彼らの側に立つわけか」   吐き捨てるような声。  「僕は、今日の側に立つ」  「では、お別れだ」      部屋のライトが落ちた。 全てが暗黒に閉ざされる。 胸に突き刺さった杭だけが、薄青い光を放っていた。 杭が、ゆっくりと熱くなる。   無機質な声が響いた。  「第一次励起開始。次元振動パターンA3からC7へ」  「カウント開始。5、4、3、2、1、起動!」      次に、光が生じた。 足下の模様が、無数の色に輝き始める。 様々な色がめくるめく入れ替わり、これも、やがて、白色に似た虹色に溶けてゆく。  「第一次励起成功。霊子状態の遷移を確認。 続いて第二次励起開始。次元振動パターンG9からK12」  「カウント開始。5、4、3、2、1、起動!」     突然、体が宙に浮く。 一瞬の浮遊感と、それに続く落下感。 いや、僕の全身は、ベッドに固定されたままだ。 僕の感覚が狂っているか……さもなければ、ここの重力がなくなったかだ。  「第二次励起成功。霊子パターン、拡大を開始」   胸を貫く杭が、火傷しそうに熱くなった。 ジリジリと焼かれるような熱さは、肋骨と背骨を伝わって、全身に回ってゆく。    「第一フェイズ、終了。 続いて第二フェイズ、霊子パターンの誘導成型を開始します」   淡々と読み上げる声。   杭の輪郭が歪み、視界が虹色にぼやけ始める。 さっきまで熱かった杭が、凍えるように冷たくなった。 全身の筋肉が痙攣を起こし、歯を引っこ抜かれるような激痛が走った。 冷気と熱気は、交互に僕を襲い、そのために身もだえする。  いまや杭は、七色の光を発し、麗しい音色を奏でていた。 冷と熱、陰と陽の暴虐な変化が、ゆっくりと、僕の中で鼓動を作っていく。  ――GAN.   一度脈打つたび、全身がぶるぶると震えた。 手足をつなぐ、ファンタスティカの赤黒い細胞が、ぶくぶくと泡立ちはじめる。 「ファンタスティカ……代謝異常です。保ちません」  「構わん。続けろ」  ――GAN.   脈とともに、胸の奥を、何かが切り裂くのが感じられた。 それは体の芯に潜り込み、熱気とも冷気とも違う、感覚を与えてゆく。 僕は大声で悲鳴を上げた。 ――GAN.   悲鳴は、ますます大きくなる。   何か大きなものが僕の体の中に流れ込む。 視界が虹色に染まった。  膨大な力が、僕の心臓へ流れ込む。 それは手足の肉をえぐりながら、全身にぎゅうぎゅうと詰め込まれ、そして杭に吸い取られてゆく。  心臓に達する魔力の流れ。 僕の心臓の上では、無数の光が踊っていた。 数十億もの糸の織り上げる光のタペストリ。 目をこらせば、糸に乗った想いまでもが目に見える。   小犬を抱えた少年の希望。  疲れ果てた中年の絶望。  枯淡の老人。  子を持つ母親の焦燥と愛。   その全ては、混ざらずに折り合わされ、僕の胸の中に吸い込まれてゆく。  僕は、空っぽのパイプだった。 恐るべき量の力が流れ込み、そして、杭の上に抜けてゆく。   全身が震えた。 骨の髄から強烈に揺さぶられる。 その振動に、拘束具が、音を立てて千切れ跳んだ。  僕は……五つの肉片が、ベッドの上で跳ね回る。 断面から赤黒いものが、じゅうじゅうと音を立てて蒸発してゆく。   僕を満たす力はぎりぎりと全身を締め付け、声を出すことさえままならない。 それなのに。   悲鳴が、小さな悲鳴が、僕の鼓膜を、ひっかく。  ようやく、わかった。 耳元に聞こえる悲鳴は、僕のものじゃない。   それは、僕の体を包むファンタスティカのものだ。 「超弦調和子起動。1番より8番、起動準備」  「一番“〈乾〉《けん》”臨界スタンバイ」 「二番“〈坤〉《こん》”臨界スタンバイ」 「三番“〈艮〉《ごん》”臨界スタンバイ」 「四番“〈巽〉《そん》”臨界スタンバイ」 「五番“〈震〉《しん》”臨界スタンバイ」 「六番“〈坎〉《かん》”臨界スタンバイ」 「七番“〈兌〉《だ》”臨界スタンバイ」 「八番“〈離〉《り》”臨界スタンバイ」 「全調和子、臨界スタンバイ」  「超弦調和子起動準備完了」  「カウント開始。5、4、3、2、1、起動!」     魔法陣の頂点が七色の光を放つ。 それとともに、杭が持ち上がった。  「がはっっ!」   最大級の苦痛が僕を襲った。 心臓に至る魔力の流れ。 空っぽの胸に絡みついた糸が、根こそぎ、引き抜かれる。 かろうじて残っていた魔力の全てが、僕の中から吸い上げられ、命そのものが薄れてゆく。    「霊子流移植成功。 対象の体内より、上階結界に移転完了」  「結界内に、汎次元結晶生成を確認。 密度、真度ともに拡大中」  「結合密度7000を突破。 なおも上昇中」  「次元貫通の理論値を突破しました」     声が、段々と遠くなる。   耳から、どろどろとしたものが流れ出していた。 ファンタスティカは、僕の中で死にかけていた。   小さな命が、恐怖に怯えていた。 何が起きたのかもわからず、劫火に焼かれて細胞の一つ一つを焼却され、残った魔力を根こそぎ吸い上げられ、不死身に近い生命体は悲鳴をあげていた。   僕は、それが悲しかった。  (生きたいか?)   幻覚かも知れない。 勝手な解釈かもしれない。 けれど、僕の体の中からは、応えが聞こえた。 そう感じた。   杭は完全に、心臓から抜けていた。 吸い殻のように捨てられた僕。 胸の底には、かすかに魔力が残っている。 どっちみち、僕には使えない力だ。 僕は、それを、ファンタスティカに与えようとする。 腕を、胸に当てようとする。   遠くで、かすかに指が動いた。 忘れていた。 腕はもう、千切れていたんだった。   右腕は、肩の後ろに転がっていた。 紅く細い糸でつながれた腕を、僕は、必死で動かそうとする。   肘を曲げ、指で這いずり、引き寄せようとする。  わずか1メートルの距離は、地獄のような長さをもっていた。   遅々として進まない腕の動き。 息が、つらい。   僕を真空から護っているのはファンタスティカだ。 その命が、弱まっているのだ。   ──あと少し。   あと、少し。 その少しが、ほんの少しだけ遅すぎた。   紅い糸が、切れる。     肩の断面から血が噴き出した。 続いて、足と喉も、血を噴く。   ゆっくりと目の前が暗くなっていった。           遅々として進まない腕の動き。 息が、つらい。   僕を真空から護っているのはファンタスティカだ。 その命が、弱まっているのだ。   ──あと少し。 歯を食いしばって、意識を新たにする。 暗黒に溶けかける意識をはっきりと保ち、少しでも、腕を動かす。 腕が、指先が、肩を掴む。     ──あと少し。 体は血の海に横たわり、食いしばった歯の感覚さえ消えてゆく。   意識の灯火が消える寸前。   小さな声に、名を呼ばれた。 そのわずかな声が背を押した。   心臓に達した指先に、ほんの数滴の雫が触れる。 僕は、それを、ファンタスティカに注ぎ込んだ──  歓喜の声が、体の中で轟き渡る。  異種の細胞が僕の体の中で蠢く。 四肢の傷口がふさがれ、ちぎれた足が、腕が、ぞわりと引っ張りよせられる。  右手が、まず、右肩にくっついた。 境目を覆うファンタスティカの体が、僕の体内に吸い込まれ、やがて傷口が衝突する。  次に、左手。  そして右足。  ──いけない。  僕は、胸騒ぎを感じた。 ファンタスティカに与えた力は、ほんのわずかなものだ。 四肢を再生するような、そんな力は残っていない。  ファンタスティカの細胞が、僕とまざりあう。 それは心臓に宿り、血の流れに添って、僕の体の隅々を満たしてゆく。 四肢に、力が満ちる。  ──やめろ、そんなことをしたら。  血流が、脳に回る。 意識が流れ込む。  一つの幻視が、顕現する。 それは、どこか見覚えのある後ろ姿。  紫髪の少女。 白い光に少しずつ薄れながら、ゆっくりと振り返る。 「──」  僕は、その名を呼ぼうとして……。 振り返った彼女の顔は、光に溶け、なにもみえなかった。 最後に、小さな声が、僕を呼んだ気がした。  ──くもん、くん   目覚めて、最初に感じたのは、圧倒的な苦しさだった。 息が、できない。 ──ファンタスティカは、もういない。 僕の体をつなぎあわせ、そして僕の中に消えた。 なぜ、彼女がそんなことをしたのかは、見当もつかない。 僕の体の中で、やり過ごすこともできたはずなのに。 耳が痛んだ。 鼻と喉が焼けた串を突きこまれたように痛む。   血液には、かすかに酸素の蓄えがあるようだった。 僕は、光る魔法陣に手をついて、ゆっくりと立ち上がろうとする。   立ってどうするのか? 今、ここで、何ができるのか? 部屋には出口がなく、あったとしても、四方の壁はあまりにも遠い。 暗い想念が心を塗りつぶす。 膝の力が抜けそうになる。 歯を食いしばり、顔を上げた。 すると、見えた。   床に横たわった少女の横顔。 長い髪は床に広がり、その顔は血に汚れ。 それでも安らかに眠るかのような表情を浮かべた、風のうしろを歩むものが、そこにいた。  ──あそこだ。 僕は、あそこに行く。 たとえ、そこで死ぬとしても。 僕は、あそこに行かなくちゃいけない。 喉は焼け、心臓が早鐘のように打つ。 燃えるような焦燥感が全身を満たすが、体はあまりにもゆっくりとしか動かない。 膝の力が抜ける。 せめて、できるだけ遠くに、僕は体を落とす。  がん、と、顎を打つ。 響いた痛みは鋭くて、僕は、つかのま意識を取り戻した。   少女までの距離はあまりに絶望的で。 見ているとくじけそうだったから、僕は、目を瞑った。   胸に力を込めて、息を、止める。 筋肉に残った酸素を全て使い、全力でもがく。 足は、棒のように動かなかった。   だから肘で、床を這いずった。  右肘を落とし、その痛みが残るうちに体を引っ張り、左肘を落とす。 頭痛がした。 こめかみを錐でえぐられるような頭痛。 その痛みの前に、肘の痛みさえも消えてゆく。   限界が近づく。 肘がもう、動かない。 だめだ。もう無理だ。   頭が、落ちる。 倒れ込むように、地面に落ちた時。 額が、何か固いものに触れた。   床じゃない。 床よりも、少しだけ柔らかく、暖かい何か。   僕は、うっすらと目を開けた。 少女の顔が、そこにあった。   ──よかった。   間に合った。 手も、足も、動かない。 死はもはや、僕の背にべっとりと張りついていた。   視界の端で、くるくると回る傘が見えた。   最後の、本当に最後の力で、僕は、少女に口づけた。 「カツキ、カツキ!」  僕は、死んだ。 だから、これは夢だろう。 「起きてよ! カツキ!」  風のうしろを歩むものが、泣きそうな声を出していた。  僕は、神に感謝した。 たとえこれが夢でも、死んだあとに会えるのなら、こんなに嬉しいことはない。 つぶった目から、涙が、一筋流れる。 「よかった! カツキ!」  唇が、熱く柔らかいものでふさがれる。 そこに至って、僕は、ようやく目を開けた。 「ここは……」  天井から伸びた杭と、光り輝く魔法陣。 ストラスの地下施設だ。 「でも、どうして?」  そう言ってから僕は、妙なことに気がついた。 僕はまだ息をしていない。 けれど、体は苦しくない。 「カツキが……ボクに魔力をくれたんだよ!」  「僕が……魔力を……」   死ぬ前に、彼女に口づけた記憶がある。 だがしかし。  「じゃぁ、これは君の力なのか?」  「うん。 あまり長くは保たないけど……」  「そうか……」  魔力を直接、生命力に変換しているのだろうか。 だとすれば、限界がある。 僕らに与えられた時間は、あとどれくらいなのだろう。   そして僕にできることは。 「風のうしろを歩むもの」  「なぁに、カツキ?」  「好きだよ」  「ボクも好きだよ」   そう言った笑顔は、まぶしいほどに綺麗で、僕は幸せに包まれた。 今日できることが、彼女に寄り添って死ぬことなら、それは素晴らしい今日だろう。 「さ、ここから出ようか?」   まだ、少女はあきらめていない。 それもいいだろう。 最後の瞬間まで、僕たちは足掻くことができる。  「そうしよう。 魔力は完全に封印されているが……なにかできることがあるかもしれない」  「どうして?」   少女が首を傾げる。 「だってここには空気がない。 風を操る力は、役に立たないんじゃないか?」  「空気と風と、何の関係があるの?」  「……」   絶句した僕を見て、少女が噴きだした。 「カツキ、なんて顔してるの?」  「いや……風は、空気の流れじゃないのか?」   そう言いながらも、少女の応えは見当がついた。 そしてそれは当たっていた。 「ヘンなカツキ。 空気は空気。 風は風だよ。 決まってるじゃないか」   僕は吹きだした。(空気なんかないのに) 大声で笑った。(声なんか届かないはずなのに)  そして風のうしろを歩むものを思いきり抱きしめた。 匂いなんて届かないはずなのに、彼女からは太陽をたっぷりと吸い込んだ菜の花の匂いがした。  あぁ、風は風だ。 風のうしろを歩むものにとっては、空気なんて関係ないのだ。  彼女のほうから、風が吹いた。 長い髪を優しくゆらして、暖かな春風が、僕の顔を撫で、服を揺らす。 「カツキ……いいかな」  ほおを染めて差し出された手を、僕は手に取る。 少女は顔を上げる。 そして、朗々と歌い出す。 「今日は死ぬにはいい日だ」  つないだ手と手の間に熱が満ちた。 「こんなに暗い夜だけど」 「今のボクには、つなぐ手があるから」  ぎゅっと握った指から、風が吹き出す。 五色の光を伴った、春の息吹が。 それは、未だ光を噴き出す魔法陣と大きく激突する。 「こんなに寒くて、悲しくても」 「ここにはあなたがいる」  風が、螺旋を描く。 魔法陣の回りをぐるぐると締め付ける。 「あなたを見れば、朝日が見える。 あなたの手から、ぬくもりが伝わる」  力を増した風の螺旋は、ついに魔法陣を打ち砕く。  光の粒が粉々に崩れて、花火のように散華する。 天井に伸びていた杭が、完全に砕け散った。 「夜は、こんなにも冷たくて。 けれど、ボクには、あなたと一緒の朝が見える」  風の螺旋が広がる。  少女の声だけが無音の真空に鳴り響き、四方の壁と天井に、無数の爪痕が刻まれてゆく。 「だから。 それはきっとよいことで」 「今日は、死ぬには、いい日だ」  天井が、崩落した。 それと共に、どっと風が雪崩れ込む。  真空刃から体を護りながら、僕は、新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。 「いくよ、カツキ!」 「あぁ!」  風のうしろを歩むものが、ひょいと僕の体をかつぐ。 崩れ落ちる瓦礫の中を、ぼくらは天井に向けて駆け上った。  部屋の中央から生えた銀色の柱。 その直上に、渦巻くものがあった。  鼓動する渾沌。  目で見る限り、それは陽炎のように見えた。 無数の陽炎を、螺旋のように練り合わせ、こね上げ、両手に持てるほどの球となしたもの。  球の向こうの風景は、どろどろと歪み、かと思うと、万華鏡のように砕かれ、鼓動の一つごとに、姿を変えた。  それは歌っていた。 無数の声を揃えた合唱。 たった一つの声の〈独唱〉《アリア》。  あるいは、雑踏のごときざわめき。 突然の悲鳴。  その全てが、一つの歌となり、あたり一帯に響き渡る。  渾沌は完全な球形を保ちながら、膨張・収縮の鼓動を繰り返していた。  渾沌の台座たる銀の杭。 その基部からは無数のコードが伸びて、様々な装置、そして研究者たちの端末に繋がっていた。 「疑似重力場生成確認。 シュバルツシルト半径、順調に拡大。 疑似質量、t五乗に比例して拡大中」  ゆっくりと渾沌球が成長する。 空間の歪みが大きくなる。 ごうごうと音を立てて風が吹き始める。  光が、風が、空間そのものが、球の中に吸い込まれ始める。  その時。 銀の台座が、急に震え出す。  それとともに、球体が、揺れ始めた。 右に、左に、ふらふらと揺れ動き、完全な球が歪む。 「霊子炉に異常発生!」 「原因はなんだ!」  神鷹が叫ぶよりも速く、オペレーターの報告が舞い込む。 「霊子炉崩壊! 三番か六番。 一番、八番……全霊子炉、崩壊!」 「圧縮場が持ちません。 汎次元結晶……分解します」  声が途絶えた。 皆、一斉に息を呑んだ。  銀の杭が、いとも澄んだ音とともに砕け散る。 渾沌球は、いまや、人の背丈よりも大きく、無数の棘を生やしていた。  がりがりと音を立てて、シャッターを下ろした窓が揺れる。 やがて、シャッターは、まっぷたつに両断された。  そこから姿を現した者を、神鷹は、苦々しげに、にらみつけた。  研究所に入った瞬間、目眩を感じた。 トンネルに入った時のように、鼓膜を押される感覚。  何かが強く眼球を押し、喉を絞めたような圧迫感。  その源は、僕の前方の、奇怪な空間にあった。  空間、としかいいようがない。 それは、実体を持たず、ただ、霧のように、あたりの風景を歪め、ねじ曲げながら、ごうごうと空気を吸い込んでいた。  人類の魔力の総和。 かつて僕の心臓だったもの。  そのことが、僕には直感できた。    「神鷹!」   僕は、腹の底から叫ぶ。  「九門克綺」   神鷹が、靄の向こうから僕をにらみつける。 「どうやって、陣を破った?」  「ボクが風を呼んだんだよ」  「気密が……完璧じゃなかったか」  「完璧だったかどうかは知らないけどね。 空気は、僕に使える空気はなかったよ」  「ではなぜ……」 「世界が違ったのさ」  「世界……だと?」  「おまえには、人外はわからない。 人の外にあるものを消し去り、忘却しようとするおまえには、決してわからない」  「それがどうした。 あとわずかで、あとわずかで、私の願いは叶うのだ!」  神鷹が叫ぶ。  それと同時に、ばらばらと部屋に軍服が侵入する。  手にしているのは、例の、あの、アンテナにも似た武器だ。 人魚や魚人を狂わせ、少女のお守りを砕いた、あの兵器。  風のうしろを歩むものが身構える。  「だいじょうぶだ」   僕は、彼女に囁く。 腹に来るような低周波が、あたり一帯に響き渡る。  「あれ……」   少女が、気抜けしたようにいう。  「なんともないだろう?」 「なぜだっっ! なぜ効かない!」  「思うのだが……あなたの、その武器は、人類の魔力を集めるものじゃないのか?」   わだつみの民や、草原の民を蝕む人間の毒。 その源が、人類全体の持つ魔力だとしたら。 そして、あのアンテナは、それを集め、局所的に集中させるものだとしたら。 「今、この瞬間。 すべての人類の魔力は、そこにある」 「なら、彼女に効くはずがない」  僕は、靄を指さす。  それは、いまや、生き物のように、ぐにゃぐにゃと揺れていた。 それは、ウニのようにつきでた無数の触手を、ひょいと伸ばすと、軍服の一人を貫いた。 「うわっわっわっわぁぁぁっ!」   不可視の魔力を注ぎ込まれた男が、ぷぅと膨れあがる。  風船のように膨れた男が、ぴちゃり、と、血膿になって弾け飛んだ。 「オペレーター! 何をしてる! 制御系を回復しろ!」   神鷹が叱咤した。  研究者の数人が、放心したようにキーボードをたたき出す。  「あきらめろ。 制御できない力に意味はない」  「黙れ! あと少しなんだ! あと少しで、貴様らを滅ぼせるんだ」   いまや、神鷹は、涙さえ流していた。  いびつな形をした靄が、ゆっくりと動き出す。  それは、次々と研究者を捉え、血膿に変えていった。  足下で、血膿が、蠢く。 それらは……生きていた。  ずるずると血膿が交わる。 その中から、骨や臓物が、時折、浮かび上がっては、力尽きるように、元の血膿に戻る。  吐き気が胸を襲った。 「ひるこだ……」   少女が、つぶやく。  「ひることは、なんだ?」  「人になれなかった人だよ」   悲しそうに、少女がつぶやく。  少しずつ僕にも合点がいく。 目の前の人類の魔力。 あれは……純粋な魔力だ。   なんら方向性のない純粋無垢の力。 そして、それは触れたものを変える。   魔力は、意志に反応し、そのものの形を変える。 風のうしろを歩むものが、風のうしろを歩むものであるのは、彼女がそうあることを心の底から望み、確信しているからだ。  ではもし。 意志の弱い人間が、純粋な魔力の塊に触れたら。 自分自身の姿さえイメージできなければ。   あのような血膿と化すのではないのか?  すでに、部屋からは、ほとんど人の姿が消えていた。 制服も、研究者も、腰をぬかし、いざるように出口に殺到する。 動かなかったものは、ほとんど全員が喰われていた。  意志のない願い。 不安定な魔力は、己を叶える拠り代を探していた。  神鷹と目が合う。 やつも、同じことに気づいたようだ。  「やめろ!」   僕は叫ぶ。 だが間に合わない。 神鷹が、手を伸ばし、魔力の塊を迎え入れた。 「殺す! おまえら人外を殺してやる! 一匹残らず殺してやる」   魔力の触手が、神鷹を捕らえる。 あれほど大きかった魔力球が、みるみる神鷹に吸い込まれてゆく。  その体が膨張する。 服は、すでに消えて、全身の肌が暗褐色の色を帯びた。  ごぎり、と、音を立てて、背骨が伸びてゆく。 両の手指が鋭く尖り、鋼色の光を帯びる。  五本の指の一本一本が、ねじくれた刃と化す。 異形の指を備えた腕は、関節が三つに増え、肘の先から、骨が突き出た。  顔面の変化はさらにおぞましいものだった。 鼻と口は溶け落ち、顔の下半分は黒い仮面と化す。  曲がった背と言わず腹と言わず、びっしりと鱗が生え、その一つ一つが、ぎちぎちと音を立てた。  僕は、今、憎しみの形というものを目の前にしていた。 「カツキ、さがって」   少女が、みたこともないほど厳しい顔で僕の前に出る。 「北の風は、鳥を喰らう!」  その指先から氷雪が吹き荒れる。  かつて神鷹であったものが、その異様に長い腕を、無造作に振った。  轟々と、真っ黒い風が吹き寄せ、それは氷雪を消して、少女を襲う。   風のうしろを歩むものは、両手を眼前で組んだ。  その手の肌が、酸を浴びたように血を噴く。 「逃げるぞ!」 「う、うん」  僕は、手を取って走る。 掌が熱を持ったように熱かった。  走るだけで汗が飛ぶ。 ほんの一瞬、そばにいただけで、風のうしろを歩むものは、恐ろしいほどに消耗していた。  僕らが出口にむかうより速く、暗黒の異形は、大地を蹴って前に立ちふさがった。 「カツキ、危ない!」  叫ぶ少女の足がもつれる。  僕は、少女の眼の前に立って、黒い風を受け止めた。 憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎!憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎!憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎!憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎!憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎!呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪!呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪!呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪!呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪!呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪!死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死!死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死!死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死!死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死!死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死!  真っ黒な憎悪が吹きつけて、体が崩れる感覚に襲われる。  いや、違う。 僕の腕は、体は、まだある。 真っ黒な風は、僕を焼かなかった。  ──人間だからか。  あれは、神鷹の怨念の塊。 人外を喰らうもの。 ならば。  僕は拳を固めて、真っ黒な胸に撃ち込んだ。 神鷹は避けようともしなかった。  指先の骨が砕けるほどの硬さだった。 その顔には口がない。 口がないから悲鳴もない。   目は、ぽっかりと開いた穴で、苦痛の色は見つからなかった。  腕が、長い腕がしなり、手刀が、僕の肩に垂直に叩き込まれた。 衝撃は、腹にまで響き、腕が落ちたかと思った。  僕は、膝をついて倒れる。 肩から、どくどくと血が流れるのが、分かった。 「カツキ!」   風のうしろを歩むものが、僕の前に立った。  「待て!」  「だいじょうぶだよ。 カツキは、そこにいて」  少女は、あのポシェットの口を開けた。  眩しい光が、少女を包んだ。 七色の光が、親しげに少女の体を包む。 「ごめんね」  誰に向けてだろう。 少女が小さく呟いた。 「GAAAAAAAA!」  神鷹が吠える。  黒い風は少女を吹き飛ばそうとする。  少女は、掌を突き出した。 七色の光が指先に集まり、大きな盾を作る。  色がくすむが、かろうじて少女を護りきった。  大地を蹴って、少女は、神鷹に近寄る。 「夏の風は熱く染みる!」  血に染まった真っ赤な拳が白く光った。 それを無数の鱗が受け止める。 「くっっ!」  先に手を離したのは少女だった。 拳の先から血が流れる。  黒い鱗にピンクの肉片がへばりついていた。 否。 ぎちぎちと動く鱗は、血と肉を喰らっていた。  ぶん、と、振る手と、黒い風を、少女は跳びすさって避けた。 大きく息を吸って、あの誓句を唱える。 「今日は、死ぬにはいい日だ」  「やめろ!」   僕は、叫んだ。 今の神鷹は、人外の天敵だ。 目の前の少女が、勝てる姿が思いつかなかった。 無論、少女は、そのことを知っている。 そして、絶対に手を緩めることがない。 それは僕を護るためで……。  少女の手刀が速度を増す。 目に見えぬ速度で叩き込まれる無数の手刀は、食いちぎられるより速く、その肉体に衝撃を与える。   と同時に、彼女を包む七つの光が動いた。  高速で渦巻く七つの光が、神鷹の体に食い込んだ。 七つの光のそれぞれが、狼のカタチを顕す。  大きなアギトが鱗に噛みつき、喰らい尽くす。   ──かに見えた。  少女の一撃も、七匹の狼も、神鷹は、全く意に介さなかった。  ぎちぎちと鱗が動いた。 七匹の狼が、逆にむさぼり食われた。 「そんな!」   少女の悲痛な叫びとともに、神鷹の腕が動いた。  しなるように振るわれた三節の腕が、空中で有り得ぬ角度に曲がり、少女の右腕を捉えた。 「くっ!」   少女の口から、押し殺した悲鳴が洩れる。   五本の指は、少女の腕にめりこんでいた。 親指が骨を貫いた。 人差し指が表皮を切り裂き、その傷口を中指が広げる。 その隙間を、薬指がえぐりぬき、小指が肉を骨から剥いてゆく。 「WOOOOOOOON!」  苦鳴をあげて、少女は、両足で、神鷹の胸を蹴り飛ばした。 少女は、受け身も取れず、僕のそばに崩れ落ちる。 「もう動くな!」  僕の言葉に、少女は首を振った。 右手の肘から先は、ささらのように垂れ下がり、完全に使い物にならなかった。  足先からはとめどなく血が出ている。 蹴った時に喰われたのだ。  立ち上がろうとして果たせず、大地に手をつく。  神鷹がこちらを見た。 目は動かず口もなく、それでもやつが笑っているのが僕には分かった。   あれに勝つ方法は……。  僕は、魔力球を探す。  あった。 最初見た時の、半分ほどの大きさになっている。 いまや魔力球は、眩しい銀色の光を放っていた。  僕は、大地を蹴って魔力球に飛びつこうとする。  音よりも速く、神鷹が僕の前に現れる。  左の肩にチョップ。  悲鳴すらあげられず、僕は、そこに倒れた。  血の海で、僕は考える。 腕はもう動かない。 肉も骨も断たれていた。  だからって。 倒れているわけにはいかないんだ。  膝の力と全身のバネで、ぎくしゃくと立ち上がる。  途端に立ちくらみがした。 腕で、バランスが取れない。 ぬめる血の中で、僕は足に力を込めた。  神鷹は、傲然と僕を見下ろしていた。 魔力球は、その胸の前に、たゆたっている。   魔力球の眩しい光が、その鱗の一枚一枚を照らし出す。 鱗というよりは、無数の小さな牙に似て、舌さえもあることに僕は気づく。  「カツキ……ボクに任せて」   背後で声がする。 「いや、任せられない」  「死んじゃうよ!」  「死んでも退かない」  魔力は、ほんのわずかだけ回復していた。 僕は、このなけなしの魔力で……  僕は、魔力球に突進した。 かすかに残った魔力で、全身を加速する。  誘われているのは覚悟の上だ。 もしかして……万が一、間に合うかもしれない。  無論、それは間に合わなかった。 神鷹は表情一つ変えず、僕の首に、両の抜き手を叩き込んだ。  五本の指が、首の肉を剔り、刻み、剥がしてゆく。  吹き出た真っ赤な血が、神鷹の胸を濡らし、青黒い鱗がそれを呑み込んだ。 最後に神鷹が、手首をぐいとひねると、僕の意識は暗黒に閉ざされた。        今の神鷹は、人でないものの天敵だ。 風のうしろを歩むものでは、決して勝つことができない。 かといって、僕の力でも無理だ。   ならば。  慎重に息を吸った。 魔力の残りはほとんどない。 失敗すれば、これが最後だ。  足下に泡立つ血をすくい上げ、身構える神鷹の眼前に、それをかざした。  空気の壁を二枚作り、その間に血を挟み、丸く引き延ばす。 光源は、ある。 魔力の球は、神鷹の姿を照らしている。  神鷹の動きが止まる。 とまどっているのか。  やがて、その腕が振り上げられる。 三節の腕が、高く、高く、振り上げられる。  振り上げられた腕が止まった。  空洞の瞳が、血の塊に見入る。   僕は、息を詰めた。   あらゆる物質は光を反射する。 表面が粗ければ、反射は乱反射となる。   だが、滑らかな表面であれば、角度が揃って反射する。 それこそが鏡面の原理だ。  滑らかな表面はなんでもいい。 現在、使われる鏡は、ガラスに銀の皮膜を塗布している。   もっと原始的な鏡は、磨いた金属。 それさえない時は水だけが、体を映す頼りだった。   液体は、その性質上、均一な表面を持っている。 僕がかざした血の盾は、神鷹のおぞましい姿を、あますことなく映していた。  三節の腕は、振り下ろされた。 それは、かきりとねじ曲がり、胸に……神鷹の胸に突き立てられた。  目の前の化け物に口はない。 だから苦鳴もない。  五本の指は、容赦なくその肉体を解体した。 全身の鱗が、ぎちぎちと蠢き、己の肉を喰らい始める。  ぎちり、ぎちりと、鱗が喰らう。 くちゃり、くちゃりと、肉が喰われる。  悲鳴の一つもなく。 血の一滴もなく。  神鷹であったものは、徐々に、その大きさを無くしていった。 胸にめり込んだ右腕は、吸い込まれるように消えた。 左肩は徐々に縮み、最後に指先が肩に消えた。  足が縮み、胴体がなくなり、頭だけが残った。 床に転がる神鷹の頭は、顎から、頬から、頭から、どんどん、その大きさを減じ、虚ろな目だけが、最後に残り……そして、それさえも無に帰した。 「カツ……キ?」  少女が、呆然とした声で囁く。 僕はといえば、もはや立っている力もなく、ぐったりと腰を下ろし、大の字に寝ころんだ。 「だいじょうぶか?」   僕は、少女に囁く。 風のうしろを歩むものが、僕の顔を上から覗き込んだ。 「ボクは、もう、大丈夫」   腕も足も血に濡れ、到底だいじょうぶとは思えなかった。 だが、少なくとも立って歩いてはいるのは、人狼の生命力か。 「今のは……何だったの?」  「血鏡さ。 神鷹が見たのは、自分の姿だ」  「それはわかるけど、どうして、それで死んじゃうの?」  「神鷹が変わったのは魔力の力だ。 あいつは、多分、こう思ったんだ」  「あらゆる化け物を殺してやるってね」  「それで……?」 「神鷹の願いは叶った。 あいつの力は、風のうしろを歩むものを凌駕した。 多分、地上のどんな人外でも、あいつには敵わなかっただろう」  「でも……願いの叶ったあいつは、もう人間じゃなかった。 だから、僕は鏡を見せた」  「鏡を見た神鷹は……自分が人間じゃないと悟った?」  「そう。 だから、やつは、自分自身を倒すはめになった」   僕は、深く息をついた。 すぐそこには、未だ魔力球が残っていた。 「さてと……これを、どうにかしないとな」  強大な魔力のカケラ。 想いを形にするチカラ。 「これで……門が開けるかな?」 「きっと開けるさ」  僕はうなずいた。 「ボク……少し、怖い」   風のうしろを歩むものが、囁くような声で言う。 僕は、神鷹がいた場所に目をやった。 床には、鱗一つ残っていなかった。   僕は、少女の手を取る。 「だいじょうぶだ。 君は神鷹じゃない」  「う……ん」  僕たちは、重ねた手を、球に向けて差しだした。 「風のうしろを歩むもの……君は何を願う?」  重ねた指が球に触れる。 それは熱くも冷たくもなく、くすぐったいような、そんな感触とともに、僕らの中に入ってきた。 「ボクは……風のうしろを歩むものは、一族の楽園を願うよ」  光が、あふれる。 それは、まばゆい柱となって、天に昇っていった。 「そこには、広い広い野原があるんだ。 遠くには丘があって、冷たいけど透き通った河がある」  天井が溶け去って、暗い夜空が見えた。 秋空に、白い光の柱が突き通ってゆく。 僕らは、握った手を天に掲げる。 「春には、草は柔らかくて、生まれた赤ん坊を、ふんわりと包んでくれる。 草の上で転がって、遊んで、じゃれあって、生まれた子は、少しずつ大きくなる」  天から降る光が、僕らの手を包んでゆく。 「夏には、草が伸びて、背が高くなる。 草と風下に身を隠して、ボクらは狩りをするよ。 小さな子たちを連れて、獲物を追う。 降り注ぐお日様に、血を熱くして、どこまでも追ってゆくよ」  光は、徐々に降り積もって、少しずつ重さを増した。 「秋には、草原が黄金色に染まるんだ。 降るような星の下で、ボクたちは踊るよ。 踊って、踊って、子供たちは、大人の仲間入りをする」  僕らの手が、輝くなにかを掴みとる。 「冬は、きっと雪が降る。 ボクたちは、おじいさんと、おばあさんと、お別れの挨拶をするよ。 月の丸い晩に、みんなでお話しして、血と肉をいただくよ。 白い骨を雪の中に埋めて、ボクらは、旅をするんだ。 春に向かって」  風が吹いていた。 僕らの手から、この地下室へ。  それは、草原の匂いがした。  萌え出る春草の匂い。 夏草の青臭さ。 乾いた秋の香り。 降りしきる雪の気配。 「春に向かうから春が来て、ボクたちは、柔らかな草の上で恋をする。 そうして、新しい子が生まれる」 「暖かな草の上で、子を抱きしめて、乳をやって、おしりをぬぐって。 そうして一つずつ歳をとるんだ」 「これがボクの願い。 ボクの望むすべて」  その言葉とともに、光はひときわ大きく輝き、僕らはその輝きに目をつぶる。  ようやく目を開けた時。 僕らの手の中には、小さな緑色の玉があった。 「これが……」  僕は、手の中の玉を見つめた。 翡翠に似ていたが、重さは軽く、ちょっとした風で飛びそうだった。 けれど、触れていれば、その小さな玉の中に、確かな魔力の鼓動が感じられた。 「よかった……」  風のうしろを歩むものが、小さな微笑みを浮かべ、ぐったりと倒れ込んだ。 あらゆる力を使い尽くしたその体は、羽根のように軽かった。  荒れ果てた地下室。 床にも天井にも大きな穴が空き、ねじくれた鉄骨が顔をのぞかせている。  部屋を満たすのはむっとする血の臭い。 床に散らばった血と臓物の山は、早くも腐り始めていた。  人影が二つ。  長身の男が、小柄な少女に肩を貸して、出口を目指している。 何度も倒れそうになりながら、一歩ずつ、出口へ近づこうとしている。  死に満ちた部屋。 生きて動く影は、その二つだけだった。 生きて動く影は。  くるり、くるりと傘が回る。 七色の光を振りまいて、傘が回る。  優雅な足取りで歩く彼女。 そして、もう一人。  コツコツと響く小さな足音。 それに気づく生者は、ここにはいない。  九門克綺は、歩き続ける。 「……お兄ちゃん」  その危うい足取りに、小さな手が差し出される。 克綺は、気づかない。  足を引きずる床に、体を支える壁に、血の筋を刻みながら、それでも、出口を目指して歩き続ける。  小さな手は、ゆっくりとひっこめられた。 「もう、いいですか?」   傘の主が、恵に声をかける。  「もう少し……もう少しだけ、いいですか?」  「どうぞ」   あっさりと、傘の女はうなずく。 「あのね、お兄ちゃん……」   恵は、振り返らない背中に囁いた。 「聞こえないだろうけど、聞いてね」 「私ね、いま、少し、ほっとしてるんだ」 「お兄ちゃんって、損な性格だから、私、ずっと心配してた」 「どんな嫌なことでも、理屈で割り切って、言葉では気にしないって言うんだよね。 だけど、そうやって言葉にしちゃうから、ずっと心に残っちゃう。 お兄ちゃん、律儀だから」 「だからね、私が死んだ時も、そうするかなって思ってた」 「死んだ人のことを思っても仕方がない。 だから忘れることにするって。 涙一つ流さないでそう言って。 でも、その分、ずっと忘れないで、何年も何年も悩むのかなって」 「でもね、お兄ちゃん、さっき怒ってたよね。 理屈とかじゃなくて、本気で怒ってたよね」 「お兄ちゃん、怒れるようになったんだよね。 好きな人もできたみたいだし」 「だから、お兄ちゃん、泣いてよ。 私のために泣いてよ。 三日は泣いてくれないとやだな。 でも、そうやって思いきり泣いたら、私のこと全部忘れていいよ。 そうして、その人と一緒になるといいよ」 「他の〈女〉《ひと》に取られるのはやだけど、こうなったら仕方ないよね」 「お兄ちゃんとのことは、私が全部覚えてるから。 だから、ずっと年が経って、また会えたら、私が全部話してあげるから。 だから、私のことは忘れていいよ」 「さようなら、お兄ちゃん。 ずっと好きだったよ」  克綺は、ようやく、出口に辿り着く。  震える手でドアを開け、廊下にまろびでる。 「さぁ、恵さん、行きますよ」   傘の女が手を差し出す。  「やっぱり、ちょっと心配だな……」   おぼつかない足下をみて、恵が口を尖らせる。 「克綺さんなら、だいじょうぶですよ。 これでしばらくは、会う予定がありませんから」  「しばらくって、どのくらい?」  「守秘義務です」   真面目な顔で女が答える。  恵は、眉根をよせる。 「早く会いたいですか?」  「少しだけそう想ったけど……」  「死人の想いは誰も傷つけません。 それが仕事ですから」   女は、小さく笑った。  「さ、行きましょうか。 迎えも来てますよ」  恵は驚いた顔で足下を見る。 毛の長い白い犬が、嬉しそうに吠えながら、恵に飛びついた。 さしだした手を、ぺろぺろと舐める。  「シロ……待っててくれたんだ」  恵は、飛びつく犬を腕に抱きながら、ドアの向こうを見た。 「私、これから、どこに行くの?」 「悪いところじゃないですよ。 私が保証します」  差し出された手を、手がとる。  翼のはためく音。  その残響が消える頃、部屋は、静寂に閉ざされた。 なにひとつ、音はしなかった。  その後は、しばらく退屈な話が続く。 だから、少し端折ることにしよう。  風のうしろを歩むものを引きずって、僕は、地下研究室を歩いた。 部屋から出るだけで、何度も転び、そのたびに二度と起きあがれないかと思った。  廊下にでて、壁に手をついたことまでは覚えている。  僕を最初に見つけたのは、管理人さんだった。 メゾンの真ん前に倒れていたそうだ。 風のうしろを歩むものとともに、おおざっぱな手当がされていたらしい。  誰がそこまで運んだかはわからないが、思い当たるのは、一人しかいない。  管理人さんは、特製シチューを作って待っていたそうだが、僕が、それを食べるのには、もう少し時間がかかった。  僕らが負っていた怪我は、さすがの管理人さんでも手に負えるものではなく、その場で、即、入院するはめになったからだ。  僕らが運び込まれたのは、管理人さんの知り合いの小さな個人病院だった。 消毒液の臭いがする狭苦しい個室で、僕は、何日も寝込んだ。  管理人さんと峰雪が、代わる代わる見舞いに来て、僕は、ここ数日にあったことを全て話した。  僕の力は、さっぱりと消えていた。 心臓の鼓動は感じたが、そよ風を呼ぶこともできない。 だから、「力」を実演することもできなかった。  信じがたい話だとは思うが、二人とも反論はしなかった。 魚人と遭遇した峰雪はともかく、管理人さんは、どこまで信じたのだろうか。  もっとも、重傷の怪我人の話を疑ったからといって、いちいち反対尋問する人でもない。  そうやって僕が寝ている間に、管理人さんと峰雪が、いろいろ動き回ってくれたらしい。  恵のことは、内々で処理された。  目撃者がいたわけではなく、僕以外の身よりもないわけで、届けなければ何も起きない。 海外旅行中ということも幸いした。  峰雪の寺の墓に、密かに銘が一つ増えることになった。  一週間経って、メゾンに戻る許可が出た時は、風のうしろを歩むものは、いなかった。 風のうしろを歩むものは、入院して二日目に、窓からいなくなっていたという。  残されていたのは、一通の手紙。 そして地図だった。  重いリュックを背負い、電車を乗り継ぐこと四時間。 風のうしろを歩むものが残した地図を広げて、僕は、あたりの景色を見つめた。   いったいいつ頃書かれた地図なのだろう。 黄ばんだ和紙に書かれた古文を解読するには、峰雪の手伝いが要った。   舗装された道を逸れ、獣道に分け入る。 長袖の学生服というのは案外頑丈で、藪をこぐのに重宝した。 森の中の一本松を探して、夕日が沈む瞬間に幹を叩け、と、地図にはあった。  目の前の一本松は、笑ってしまうほど大きかった。 幹の太さと来たら、五抱えはあるだろう。  高さも……下から見上げているから正確な高さはわからないが……下手なマンションより高いのではないか。  麓から見た時は、こんな松は見えなかった。 普段は見えないのかも知れない。  僕は、太い根の上に腰を下ろして、夕暮れを待った。  あたりは、いかにもといった野山だ。 黒い土と、濃緑色の葉が鬱蒼としげる日本の森だ。 あの時、夢で見た、明るい野原とは似ても似つかない。  草原の民。 今の日本に、彼らが暮らせる草原なんて、どこにもないのだろう。  うとうととしている内に、眩しい夕日に目が覚めた。 掌が紅く染まっている。 僕は、一つ伸びをすると、一本松の幹を、軽く叩いた。  おおぉぉぉぉぉん。  触れた感触は、固く乾いた木のものだったが、響いた音は、澄んだ鐘の音だった。 けれど、それだけだった。  ゆっくりと、夕日が沈み、あたりは、暗闇に閉ざされる。  夜闇の中に浮かぶものがあった。 蒼い二つの光。  それらが、点々と、夜に、宙に浮かぶ。 声も出さず、物も言わず、瞳は、僕を見つめていた。  ふと思いついて、ポケットに手を入れる。  つかみだしたのは、緑の勾玉……あの死闘の末に手に入れた、魔力のカケラだ。  それは、一番星の光を浴びて、きらりと光った。  狼の声が、こんなに優しいとは知らなかった。 空に向かって放たれた遠吠えは、優しく、そして物悲しげな響きだった。  それに応え、一つずつ、声が加わる。 絡み合った声に、胸が熱くなる。  それが、過去を悼む嘆きなのか、あるいは、新たな未来を〈言祝〉《ことほ》ぐ喜びなのかは、聞いている僕にはわからなかった。  あるいは、きっと、その両方なのかもしれない。  やがて、遠吠えの合唱は終わった。 一つの声が尾を引いて消え、それとともに、蒼い目が消えてゆく。 そのようにして、ゆっくりと森は静寂に包まれ、蒼い目は、すべて消えた。  たった二つを残して。  瞳は、ゆっくりと僕に近づいてくる。 暗闇の中で、形が見分けられ、ニオイさえも伝わるほどの距離で。 「……カツキ」   声がかけられた。 僕は、手を振る。  「急にいなくなるから、心配した」 「ゴメンね」  「いや、理由はわかっている。 人間の毒に触れすぎたのだろう」  「うん。 傷はすぐ治ったけど、人がいすぎて、少し疲れたんだ」  「僕はいいのか?」  「カツキ一人なら、平気だよ」   風のうしろを歩むものが、にっこりと笑う。 「それにしては……他の者たちが、帰ったようだが」  「気を利かせてくれたんじゃない?」  「気を利かせるとは?」  「相変わらず鈍いなぁ」   風のうしろを歩むものが驚いてみせる。 「せっかく久しぶりに会えたのに」  「会ってから十日。 別れて七日だ。 客観的には、久しぶりとは言い難い」  「キャッカンテキとか知らないよ。 カツキはどう思ったの?」  「七日は長かった」  僕は、少女の手を取って、木の根に並んで腰を下ろした。 「そっちのみんなはどう?」  「たいした変わりはない。 管理人さんは、相変わらずだし、峰雪は……とうとう親父さんにとっつかまって、頭を剃られたらしい」  「どうして? 悪いことでもしたの?」 「言ってなかったか? あいつは寺の跡継ぎだ」  「あ、そうか。 でも、ちょっと想像できないな」   風のうしろを歩むものは、そう言ってくすりと笑った。 「……確か、ここにあったはずだ」  新しく買い直した携帯を取り出す。 メモリーに、峰雪の写真が入っている。 「なになに?」  液晶の中で、峰雪は、首を傾け、顔を歪めて、中指を立てていた。 当人によると、坊主頭ではなく、スキンヘッドということらしい。  しかしながら、写真の峰雪は、スキンヘッドのパンクロッカーというよりは、ふてくされたお坊さんに見えた。 これも人徳というものだろうか。 「意外と似合ってるね」  「同感だ」  「いいお坊さんになるかも」  「それは現在のところ積極的には肯定しかねる」  「その言い方、カツキっぽい」  「あたりまえだ。僕は九門克綺だ」 「ほかには、なにかない?」  「あるわけがない。 僕だって、病院のベッドに寝てただけだ」  「じゃぁ、えーと……」  「そっちでは、何かあったか?」  「そっちって、ボクのとこ?」  「あぁ。 故郷に帰って、何かあったか?」 「うーん、爺さん連中は、まだ元気だし、あんまり変わりはないかな。 あ、そうだ。 従姉妹のところに、子供が生まれそうなんだ。 もう、みんな大喜びして……」  「そうか」  「何年も子供なんかいなかったからね。 みんな興奮してるんだ。 それに、カツキの……」   少女は、はっとしたように口を噤んだ。 「これだろう?」  僕は、ポケットから玉を取り出す。 「うん……」  少女がうなずく。 少女の肩が緊張する。  これを出せば、話が終わる。 いやおうなしに、意識してしまう。 別れを。  そのための世間話。 意味のない会話。 「生まれた子供は、体が弱いからすぐ死んじゃうんだ。 ここにいる限りね」  「向こうに行けば、いいわけだな」  「うん」   風のうしろを歩むものが、目を伏せた。 「そんな大切なものを、どうして忘れていったんだ?」   僕は、少女に、緑の玉を渡そうとする。  「忘れたんじゃないよ」   少女は受け取らない。  「なら、どうして?」  「勝手に持っていったら泥棒だよ」   少女は心外な顔をする。 「カツキなら……来てくれるって思ってたし」  「……そうか。 じゃぁ、改めて。 九門克綺から、風のうしろを歩むものに。 これを渡す」  「風のうしろを歩むものは、草原の民に代わって感謝するよ」  少女は、両手で捧げ持つように受け取った。 物珍しげに撫でると、頬にすりつけて、鼻でニオイをかぐ。 「小さいよね」 「穴があるだろう。 のぞいてみな」 「うん」  言われるままに、少女は、玉の穴を見る。 「見えるか?」 「……」  応えはなかった。 少女は、放心したように、じっと玉を見つめている。  一呼吸。 二呼吸。 時間が一分にも達しようとした頃、僕は、肩に手を触れた。 「どうした?」  びくり、と、少女が、震える。  ゆっくりと、そこから目をそらす。 瞳は赤く、濡れていた。  「ゴ、ゴメン」   無理に浮かべた笑顔の裏に、隠しきれないせつなさがあった。 痛々しいまでのあこがれ。 「何が見えたんだ?」  「カツキと同じだと思うよ。 青い、草の海」  「ただね……ただ……それを見て、思ったんだ。 ボク、帰って来たんだなって。 ボクたちは、ずっと昔、ここにいたんだ」  「そうか」   僕には、それくらいしか言えなかった。 「僕にも見せてくれ」  もう一度、穴の中をのぞきこむ。  風になびく青々とした草。 「向こう」は、まだ朝らしい。  雲一つ無く澄んだ青い空と、眩いほどに鮮やかな緑の草が、日の光を浴びてきらきらと輝いている。  美しいとは思う。 けれど……僕にとっては郷愁を誘うようなものではなかった。  無言で、少女に渡す。 風のうしろを歩むものは、それを大事そうに、そっと両手で包み込んだ。 「いつ、出るんだ?」   日本語は便利だ。 主語を特定する必要がない。 「明日には。 従姉妹のお腹は、ずいぶん大きいんだ」  「急だな。 準備とかはないのか?」  「あんまり。 ニンゲンと違って、荷物とかないしね」  「身一つの旅というわけか」  「そうだね」  僕は、少女の肩に、ゆっくりと手を伸ばす。  力を込めて抱き寄せたかった。 けれど、触れただけで、消えてなくなりそうな気がした。 だから、ゆっくりと手を伸ばした。  触れた肩は、消えも逃げもしなかった。 少女が顔をすりよせる。 その髪を、僕は、撫でる。  しばらく、言葉が、途絶えた。 頭のなかで、たった一つの言葉がぐるぐると回る。 「……明日か」  つい口に出て、僕は赤面する。 「すまない。 無意味な言葉だったな。 忘れてくれ」  風のうしろを歩むものが、少し寂しそうに微笑んだ。 「ねぇ、カツキ。 カツキは、ボクたちに、明日をくれたよ」  「そうか……」  胸の中で、ぐらぐらとしたものが煮え立っていた。 明日なんか。 明日なんか来なければいい。   僕がこれを渡さなければ。 明日は来なかったのに。 ずっと一緒に……たとえ短い間でも、明日よりは長くいられたというのに。   そう思う自分が、呪わしく、僕は、拳を握りしめた。 「でもね、カツキ。 今日は、ボクたちのものだよ」   小さな、小さな声で少女が囁く。   僕が振り向くと、急に目線を逸らした。  「そうだな。 明日は先の話だ。今日は今日だ」  僕らは、もう少しだけ、身を寄せ合う。 膝を近づける。  風のうしろを歩むもの。 その顔に振り向くとき、生まれてから一番、緊張した。  目を閉じた顔に、僕は、優しく口づけた。 「カツキ、大好きだよ」 「僕もだ」  どちらがどちらの手を取ったのか。 僕らは、もつれ合うようにして、草むらの中に転がった。  優しい風が吹いていた。  僕らは競うように服を脱がせあい、あっと言う間に生まれたままの姿となる。 緑の草は、僕らをふんわりと受け止めた。  星明かりの中で、少女の体は黄金色に輝くように見えた。  ふざけて僕は、その指を舐め上げる。 風のうしろを歩むものが、僕の首筋を甘く噛んだ。  それで緊張が解けた。 くすくすと笑い、じゃれ合いながら、僕らは抱き合った。 重なったまま転がりあった。  滑らかな肌の重みと暖かさ。 それを腕に感じながら、ぐるぐると回るのは、とんでもなく楽しかった。  二人の汗は大地に滴り、草の汁が肌に馴染んだ。 「いい匂いだ」  胸に顔をうずめ、僕は、少女の香りを吸い込む。 甘酸っぱい汗の匂いと、草いきれが混じり合って、夜風にただよう。  狼の鼻はもうないけれど、人の鼻であっても、それは、ずいぶんいい匂いだった。 「カツキも、いいニオイがするよ」 「そうか?」  胸から顔をあげて、僕は、風のうしろを歩むものを真正面から見つめる。 顔を紅くして瞳を閉じる少女。  その小さな唇を、僕は、ゆっくりとなぞった。 薄目をあけた少女に、顔を近づけ、鼻と鼻をこすりあわせる。 「なにそれ」  くすくすと笑いながら、少女が、僕を腕に抱き、耳元に口を寄せる。 「カツキ、目をつぶって」 「あぁ」  言われるままに、僕は目をつぶる。 少女の顔が近づくのが感じられた。  吐息が鼻にあたる。 頬が、額が、ぴりぴりとした。 「おいしそう。どこから食べようかな」  声が、遠くから聞こえる。 「どこからでも」  僕は答える。 「じゃぁねぇ……ここ!」  耳たぶが、熱いもので包まれ、甘く噛まれる。 「うぉっ……」   予想していなかったところに舌を這わされて、僕は声を漏らした。  「お返し……だよ」  「お返し?」  「はじめての時……カツキが、ボクの耳を、いじめたんだよ」   そういえば。 僕も思い出す。 「草原の民は執念深いんだな」   からかったつもりが、少女は大きくうなずいた。  「うん。 意外と執念深いんだよ、ボクたちは」   さばさばとした顔で笑いながら、少女が言う。 「カツキには、さんざん、いじめられたものね」  「いじめられるのが好きな癖に」  「好きだけど! でも、いじめは、いじめだよ!」   真っ赤にして、少女が反論する。 「好きなことをするのならいじめじゃないんじゃないか?」  「それは違うよ」   堂々と、少女が言い返す。  「どう違うんだ?」  「えーと……うーんと……」   自分でもよくわからないらしい。 「つまり……いじめられた結果、それが好きだったとしても、最初にいじめたという行為は正当化できない、ということか?」  「そう、それ!」   少女が嬉しそうにうなずいた。 「なるほど。 だが今はもう、いじめられるのが好きと、わかっているのだろう?」  「そ、そうだけど……」  「なら、僕が、いくらいじめても、それは、いじめたことにはならないわけだ」  「あれ? そ、そうなのかな」  とまどう少女を、僕は思いきり抱きしめた。 「ごめんな。 つい……いじめたくなるんだ」 「カツキの、いじめっ子」  囁く唇を、僕はふさいだ。 腕と腕が絡み合い、僕らは、体を重ね合わせる。  互いの体は、知り尽くしていた。 唇と指が行き来し、そうして、互いの体に滑り込む。  穏やかに、また激しく。 草の上を転がりながら。 上になり下になり、体を入れ替え転がって。  そんな風に、僕らは、何度も達して、何度も果てた。 そうして月が空高く昇る頃、遊び疲れた子供のように、僕たちは、草むらに転がった。  草の寝床に二人。 僕らは、空を見ていた。  裸の少女が、僕に寄り添う。 その体温に、心からの安らぎを感じた。  こんな風に安らいだのは、ずっと昔。 まだ恵と……母さんがいた頃か。 「なに、考えてたの?」  風のうしろを歩むものが、そう言って、僕の頬を指でつつく。 「昔のことだよ」 「ボク以外のこと、考えちゃダメ」  そう言って、風のうしろを歩むものは耳まで真っ赤になった。 「それは難しい注文だな」  少し尖った耳に触れ、長い髪をゆっくりと指で梳く。 「ボクのこと、どう思ってる?」 「前に述べた。 それから心境の変化はない」 「口に出して言って」 「非効率的だ」 「カツキ、大好きだよ」  風のうしろを歩むものが言う。 僕の鼓動が、一瞬で、高まる。 「いま、嬉しかった?」 「……あぁ」 「ボクが好きなのは知ってたよね」 「知っていた」 「でも、嬉しいでしょ」 「そうだな」 「だから、ボクにも言ってよ」  何度も言った気がするが、改まって言われると、緊張する。 「す、す」 「……」 「好きだ。愛している」 「ありがとう」  少女の言葉は、優しく染みいるようだった。 しばしの沈黙。  互いの体温と、鼓動だけが、僕らの言葉だった。 鼓動が百を数えた時。 僕は、少しだけ笑った。 「どうしたの?」 「あぁ、全然変わってないな、と思ってな」  風のうしろを歩むもの。 その無邪気な笑顔は、本当に変わっていない。 「ボクはボクだからね」  僕は、少女と最初に会った時のことを思い出す。 と、その時。  くぅ、と、小さな音が響いた。 「今、ラーメンのこと考えてただろ」 「あれ、どうしてわかるの?」 「僕も思い出してたからね」 「蓮蓮食堂のラーメン。 あれは……おいしかった」 「また……」  食べに行こうか、という言葉を僕は、呑み込んだ。 それは、明日の言葉だ。 「あのあと、イグニスに襲われて……」 「カツキがプロポーズしたんだよ」 「名前を教えたことか……そんなこともあったな。 そういえば、あの時は、お婿さんを探してるとか言わなかったか?」 「うん。 門の持ち主も探してたけど、ついでにお婿さんも探してたんだ。 草原の民は数が少ないからね」 「それで?」 「竜神の郷には、ボクらの同族もいるって聞いてるから。 もう、人間のお婿さんは探さなくてもよくなったんだ」 「そうか……それにしても、メゾンに越してきた時は、びっくりしたぞ」 「ボクだって! カツキがいるなんて知らなかったもの」 「どうしてメゾンに入ったんだ?」 「あのね。 橋の下で寝てたら、管理人さんが、うちに来ないかって」 「それで?」 「おいしいゴハンの匂いがしたから、ついてったんだよ。 いい人だよね。管理人さん」 「いい人ではあるだろうが……」  いったい何者だ、あの人は。 「ちなみに家賃とかは?」  ラーメン代に困る子に家賃があるわけもないだろうし。 「ヤチン?」 「……部屋を借りるには、お金がいるんだ。 人の世界だと」 「へぇ、そうなんだ」  深く追及するのは止めにしよう。 世の中、知らないほうがいいことがある。 「あの時は、妙に恵が攻撃的だったな。 どうしてだろう」 「どうしてって、それはお兄ちゃんを取られると思ったからじゃないかな」  くすくすと風のうしろを歩むものが笑う。  そして、ふと気づいたように、バツの悪そうな顔をした。 「ボクは悪い狼だ」 「急にどうした?」 「カツキとの約束を……一つも守れなかった」 「約束?」 「メグミを守る約束。 カツキに食べてもらう約束。 みんな、みんな、守れなかったよ」  しゅん、と、首をすくめる少女の頭を、僕は撫でた。 「恵のことなら……原因と責任は別だ。 風のうしろを歩むものに責任はない」 「原因は、あるんだね……」 「原因は、いくらでもある。 僕の正体がストラスにばれたこと。ちょうどあの時、恵が日本に来たこと。 僕らが生まれたこと。ストラスがあったこと。日本ができたこと。 地球ができたこと……因果関係は無限に連鎖し、かつ、そのどれ一つが欠けても何事も存在はできない。だから、そんなもので自分を責めるのは間違いだ」 「カツキの言うことは難しいよ……」 「じゃぁ、こう言おう。 気にしなくていい」 「ありがと……」  ちいさな声で、風のうしろを歩むものがいう。 その顔に、そっと微笑みがうかぶまで、僕は、頭を撫でた。 「あとは……えっと、タッキュウだっけ? あれ、面白かったね」 「あぁ。 生きた心地がしなかった」 「生きた心地?」 「恵と二人で、僕を賭けただろ。 負けたら喰われると思ったからな」 「うん。 ボクも、食べられると思ったんだけどな。 メグミ、結構、強かったね」 「そうだな」 「リョウも面白かったし」 「僕は?」 「カツキ? カツキは、うーん、普通だったな」 「なるほど」 「なるほどって?」 「生まれてこの方、普通、一般と評価されるのは、初めてでね。 ちょっと嬉しいんだ」 「へぇ、カツキって変わりものなんだ。 やっぱり」 「やっぱりとはなんだ?」 「うん、カツキが変わってる、とは思ってたけど。 人間の中でも、やっぱりそうなんだって思って」 「自覚はないんだが、どうも、そうらしい」  僕は、ためいきをつく。 「ボクは変わってるカツキが好きだよ」 「あぁ。 可愛い彼女もできたことだしな」  顔を紅くする風のうしろを歩むものを、僕は、じっくりと鑑賞する。 「なに、見てるの?」 「いや。 顔が可愛いなって」 「あんまり、見ないでよ」  僕は、じっくりと正面から、少女の顔をみつめる。 「カツキのいじめっ子」 「変わり者の、いじめっ子だ」 「すねるし……」 「すねて、悪いか?」  小さなキスで仲直り。  そんな風に、僕らは、夜通し語り合った。 恵のこと。峰雪のこと。管理人さんのこと。 彼女の知らない学校のこと。 僕の知らない里のこと。  話すたびに僕らは笑った。 なんだか、とても、楽しかった。 一つ、楽しさを吐き出すたびに、胸の中に、小さな熱いものが育っていった。  やがて、どちらからともなく、言葉が途切れる。 瞳と瞳が見つめ合う。 僕は、胸にたまった熱いものを、囁きにして吐き出した。 「どうしてだろう?」 「なあに、カツキ?」  「自分の心と体の状態が、自分でわからない」  「話してごらんよ」 「矛盾してるんだ。 僕は今、すごく満たされている。 首筋からお腹から指先まで、暖かいもので満ちている。 だけど、心臓だけは苦しくて、涙が出そうだ」  「それ……わかるよ」  「わかるなら教えてくれ。 これは、一体、どういう感情なんだ?」 「それはね、幸せっていうんだ」  「幸せ?」   僕は、眉をひそめる。  「僕は、幸せじゃない。 心配なんだ。明日……」   言いかけた僕の唇に、少女の指が触れる。 「ほんとうの幸せは、二つしかないんだよ」  「ほんとうの、しあわせ?」  「そう。 一つはね。 今が不幸せで、明日が幸せになるってわかってる時だよ」  「なるほど。 もう一つは?」 「もう一つはね、今日幸せで、その幸せが、明日なくなるってわかっている時」  「そうなのか? 失われるとわかっていたら、幸せな気分にはなれないんじゃないか?」  「幸せは、いつか、無くなるものだよ」   少女が微笑んでいう。 「だけど、ずっと幸せに浸かってると、そのことを忘れちゃう。 そうすると、自分が幸せってことも忘れちゃうんだ」  「だからね、カツキ。 明日失うと分かっているなら、その日が一番幸せなんだ」   暖かい手が僕の手を握る。 その熱が僕を暖めてゆく。  「そうか……そうかもしれないな」   僕は、ふと思いついて聞く。 「だけど、寂しくないのか?」  「ほんとうの幸せは、寂しいんだ」   少女の笑顔は、ほんとうにきれいだった。 愁いもなく惑いもなく、ただひたすらに嬉しそうで、少しだけ寂しさのまじった笑顔。   ほんとうの幸せの笑顔。  それを見て、僕も、少しだけ笑った。 あんなに綺麗には笑えてないかもしれないけど。   僕は、笑った。 「君と出会えて、よかった」  「カツキと出会えて、よかったよ」   組んだ指に、力がこもる。 明日のことなんか知らない。 昨日の涙は、もう忘れた。  僕は。 九門克綺は。 確かに、今日、幸せだ。   組んだ指を引いて、胸に抱こうとした時。  僕は、目を細める。 紫色の光が僕らを包んだ。  夜が明ける寸前の、薄明。 山肌から太陽が顔を出す、わずか手前。  紫の光に浮かび上がる少女の裸身は、このうえなく美しく。 抱き寄せることなんてできなかった。  暁闇が、消える。  曙光。 朝陽の紅い光に、少女は手をかざした。  緑の玉が、解けてゆく。 小さな穴が段々と広がり、景色にもう一つの景色が重なる。  向こう側は、夜だった。 真っ黒な闇と茫漠たる草原。 わずかに、草の露が、月光に輝く。  こちらから差し込んだ朝日の光が、緑の草原の一角だけを紅く染めた。 「本当に行くのか?」  「うん」   唇をひきしめて、少女は僕に答えた。 「向こうが住めるところとは限らないぞ」  「なんとかするよ」   優しい微笑み。 緩やかな死に耐えて、幾世代もの間、子を成してきた〈毅〉《つよ》い一族。  くだらない、引き留めの言葉が、僕の中で消えた。 彼女には、そんな言葉はいらない。   あとわずか。 あとわずかで。 結んだ手がほどかれる。   身を引き裂かれるような思いだった。 今、僕の為すべきことは。  深紅の光の中、陽炎のように門は震えていた。  さわさわと草を広げる音。 姿を現す獣が、一匹、また一匹。  こうして曙光の元でみれば、悲しいほどに少ない一族が。 知恵ある獣たちが、僕らの回りに現れる。  少女の手が解ける。 「サヨナラ、カツキ」 「いや、ちがう」  僕は、そう言って少女の横に並ぶ。 「カツキ?」  「僕も、行く」   からからの喉から、その一言を絞り出す。  「だめだよ、カツキ」  「どうして」   だだっ子のように、僕は言い張る。 「向こうには……人は行っちゃいけないんだ」   人の穢れを避けるために、向かう郷だ。 人が入るのは禁忌。 考えてみれば当然だ。 だが。 「一人くらい、なんとかなるだろう。 だいたい、草原の民は、人から婿を取るんだろう?」  「そ、そうだけど……」  「結婚してくれ」  「え? え?」   四方から、鋭い視線が僕を刺す。 「でも……ボクたちと来ても、死んじゃうかもしれないよ!」  「それは草原の民も同じだろう」  「違うよ。 カツキは、こっちで生きていけるだろう」  「風のうしろを歩むものがいないと僕は死ぬ。 そう決めた」   しがらみは少ない方だ。 恵も、もういないし。 「カツキ……本気なの?」   真剣な目。 裏も表もなにもなく、ただ、真摯な心をかざす問い。  「本気だ」   腹の底からそう言った途端。  背後から、吠え声が聞こえた。  尾を引く叫びは、恐怖に満ちて。 背筋が震え、膝をつきたくなるような咆吼。  もし今が、夜であったら、僕は、その場に倒れるか、それとも逃げ出していただろう。  叫びの意味は、わかった。 根は、少女と同じだ。  この世で、もっとも恐ろしい問い。 僕の覚悟を、僕の価値を僕自身に問う声。  僕は、逃げなかった。倒れもしなかった。 両のこぶしで膝を叩き、凛と胸を張った。 「僕は、風のうしろを歩むものを娶りたい」  姿も見えない気配に、僕は精一杯叫ぶ。 「僕の名は、九門克綺。 真の名も九門克綺。 僕は、草原の民に、婿入りしたい」  吠え声は消えない。 熱い吐息を背中に感じる。 首筋がぴりぴりとして、今にも牙が突き立てられるかと思う。 こうなればもうヤケクソだ。 「九門克綺に風のうしろを歩むものを娶らせたまえ。 いいや娶る」 「異議なきものは沈黙せよ。 異議あるものは、前に出ろ! そうすりゃ片っ端から、ぶん殴ってやる!」 「長さま……」  風のうしろを歩むものが、小さく囁く。 吠え声は消えない。  もうあとには引けない。 僕は、両のこぶしを固める。  そうして、やっと。 背後から聞こえる声が、笑い声に変わっていたことに気づいた。  堂々たる灰色狼が、僕の前に出る。 巨大な灰色狼は、大きく口を開け、舌を出して、にやりと笑っていた。 片方の肢を、僕に差し出す。 僕は、膝をついて、それを押し戴く。 ちょうど、「お手」をするような体勢で、僕は、狼の手を取った。   ずっしりとした重みと、ざらざらとした革のうちに流れる熱い血。 計り知れぬ年季を経た琥珀の瞳に、僕は、ただ、頭を下げた。   周りから、声がする。 楽しげな不協和音。 祝福の声だ。  長たる狼が、すっと手を下げた。 僕は、ゆっくりと立ち上がろうとして、尻餅をついた。  どうやら、だいぶ無理をしていたらしい。 心臓の鼓動が早すぎて、喉が痛いほどだ。 「はい」   差し出された手を、僕は取った。  「長さまがね。 カツキは、いいニオイだって。 肝のすわったいい雄だって」 「……そうか」   なんとかそれだけは言えた。 足はふらついていたが、風のうしろを歩むものの手は温かく、僕に安らぎを与えてくれた。 「言葉も、おいおい覚えなきゃな」  草原の民が、どう暮らすかを僕は知らない。 荒野を走って獲物を獲れと言われても困るし、生肉もちょっと勘弁だ。  まぁ、そんなことはなんとかなるだろう。 してみせる。 「教えてあげるよ。 全部ね」  僕には、風のうしろを歩むものがいる。 「なに、泣いてるんだ?」 「ボク、ボク、ちょっと嬉しくて……」 「そうか」 「それに、カツキだって」  言われてみて、僕は、頬に伝う熱いものに気づく。 指ですくったそれは、確かに涙だった。  陽炎のように揺れる門の両側に、列ができていた。 頭を垂れた狼の列。 一番先頭、門の前には長が立っていた。 「じゃぁ、行こうか」  「僕たちが最初でいいのか?」  「ボクたちが持ち帰った門だから、ボクたちが最初に行っていいって」  「そうか」  僕らは、手に手をとって、歩んでゆく。 狼たちの作る花道のその真ん中を。 未知なる門に向かって。  ふと、思いつく。 「こういう時は……」  風のうしろを歩むものを、両腕でもちあげる。 「カツキ! なにするんだい!」 「人間の風習さ。 結婚の時は、男が女を運ぶんだ」 「降ろしてよ! 恥ずかしいよ!」 「いいじゃないか」  はやし立てるような吠え声が、響く。 長までもが、大きく口をあけて笑う。 「いいみたいだな」 「カツキのいじめっ子!」  それ以上の言葉は、唇で封じる。 抱き合ったまま、僕らは、門に近づく。 長に頭を下げ、僕は、門をくぐりぬける。  景色が、転変する。  一面の緑。 柔らかな風を踏んださなか。 僕らは、声を聞いた。  さやさやと草をなでる風の声。 やさしく流れるせせらぎの響き。 澄んだ空に響き渡る無数の鳥たちの歌。獣の叫び。  数えきれない命の声は。 新たに来た僕らを祝福していた。  快哉をあげながら、僕は、風のうしろを歩むものを振り回す。 たちまち僕は逆に振り回される。 あとから現れた狼たちが、たちまち踊りの輪に加わった。  この地には命がある。 僕らを知る仲間がいる。 たぶん、僕らはここで生きていける。  明日は、どうなるかわからないけれど。 今日の僕らは幸せで、たぶん、それが、きっと、全部だ。         去る者は日々に疎し、たぁ言ったもんだ。 七年も経ちゃぁ、人も変わる。 貧乏暇なし。応接に暇あらず。 生きてるやつぁ生きてることに精一杯で、死人を想う日なんて、ありゃしねぇ。   かくいうこの俺、峰雪綾も、この七年は忙しかった。 やれ大学だ、単位だ、卒業だで六年間。   それが済んだら、御山に放り込まれて、〈得度〉《とくど》だ、〈四度加行〉《しどけぎょう》だ、〈伝法灌頂〉《でんぽうかんじょう》だと、忙しいことこのうえねぇ。 やっとのことで、〈阿闍梨〉《あじやり》様ンなって、実家に戻りゃぁ、もっとひでぇ修行の毎日だ。   たまにクラスの野郎に会うと、夢は捨てたのかって言われる。 ミュージシャンは廃業かってな。   やつらは、何もわかっちゃいねぇ。 昔っから、寺と芸能は、切っても切れねぇ仲がある。 理由にゃ色々あるが、ま、要するに、坊主ってのも芸人の一種だってことだ。   法要だの仏事だのってがあるな。 ありゃ要するにパフォーマンスだ。 ライヴだ。 モゴモゴムニャムニャな説教漬けで、足が痺れて、みなさん居眠りこっくりってのは、ありゃニセモンだ。   モノホンはすごいぜ。 なにせキンピカにドレスアップしたスキンヘッドが、ヘヴィなボーカルでギャラリー泣かせるんだぜ。 これがパフォーマンスじゃなくてなんだってんだ。   坊主頭は、ありゃ、世間と縁切ってる徴だから、パンクでロックな代物なんだ。 ほんとはな。   うちの親父の本気の読経は、そりゃぁ、すげーもんで、聞いてると血が沸いてくる。   涙も出る。 鼻水も出る。 大声で叫びたくなる。 16ビートで木魚をブッ叩きたくなる。   我慢できなくて一度やったら目から火が出るくらいぶん殴られた。   ……ま、そんなわけで坊主の修行はライヴの修行。 ミュージシャンの夢は捨てちゃいねぇ。   おっとっと、話がそれたな。   ま、そんなこんなで忙しくて暇がねぇからこそ、年に一日くらいは、偲んでやろうってのが、命日ってもんで。   てなわけで、今年も、恵ちゃんの祥月命日がやってきた。 身内っつったって、俺と管理人さん。 あとは親父くらいしかいないんで、まぁ内々でひっそりやろう、と、そういうわけだ。  門前を掃除してたら、見知った顔が、やってきた。 「峰雪クン、おひさしぶり」  「あ、管理人さん。 どうも」   ほんっとに、この人は変わらない。 いつまでも若い、てぇのも違うな。 落ち着いて、しっとりしてて、それでいて変わらない。  「これ……皆さんでいただいてください」  「あ、いつもいつも」  受け取った袋は、ずっしりと重かった。 こんな重いものを、よくもまぁ……。 脇で仕事してた坊主が、物欲しそうにこっちを見る。 あぁみっともねぇ。   管理人さんは、毎年、お〈斎〉《とき》をご馳走してくれる。 精進料理まで、レパートリィたぁ、ほんとに恐れ入る。 うちの坊主たちときたら、毎年、この日を心待ちするようになりやがった。 ま、俺もそうなんだが。 「じゃ、ご挨拶していいかしら」  「行きましょうか」   お重を、坊主に預けて、(勝手に喰うなよと顔で念を押して)、俺たちは、墓地に向かう。  九門家代々之墓 そこには、そうあった。 黒い墓石に打ち水をする。 「今年も、顔を出さないのね」  管理人さんが、つぶやく。 「去年の七回忌くらいは、顔出すかと思ったんすけどね」  俺もうなずく。  恵ちゃんが亡くなって……ということは、あの野郎が、駆け落ちしてから、八年目。 どこで、何やって暮らしてんのか知らねぇが、顔くらい出せってんだ。 「ええい、あの三角野郎が」 「三角野郎?」 「恥かく、義理欠く、人情欠くっスよ。 俺たちゃ、どんな思いで待ってると思うんでぇ」 「そんなこと言っちゃだめよ。 きっと事情があるのよ」   そう言って、管理人さんは、そっと墓前に花を捧げる。 清楚な百合の花束だ。  「……にしても、手紙一本寄越さねぇなんざ……」   管理人さんが、優しく、どこか寂しそうに笑った。 それで俺は黙った。   てんやわんやの八年前。 何が起きたかは、俺ぁ未だに知らねぇ。 うちの親父は知ってそうだが、話しちゃくれねぇ。   おっそろしい数の人死にが出て、なんかヤバいことがあったのは間違いねぇ。 あの野郎が、そのド真ん中にいたってことは、なんとなくわかる。 あのまんま行方をくらまして、連絡も寄越さねぇのは、そのせいかもしれねぇ。 俺たちに累が及ぶのを避けようってことか。   だけど。 だけどなぁ。 「水臭ぇじゃねぇかよ!」  「そうねぇ」   管理人さんは、考え込むような顔をして、それから言った。 「峰雪クン、今日は暇?」  「暇もなにも、この峰雪。 管理人さんの、お呼びとあらば、即、参上します」  「じゃぁ、あとで、うちに来ない?」  「え? いいんすか?」  「ちょっと、見てもらいたいものがあるの」  法事とお斎を済ませてから、俺は、親父に訳言って、メゾンに向かった。 久しぶりの坂道。 金色の銀杏並木を、管理人さんと並んで歩く。 「こんちわっす」  門をくぐって言う。 「いらっしゃい、峰雪クン」   先に入った管理人さんが、笑って言った。  靴を脱ぎ、廊下にあがって管理人さんの部屋に入る。  本当に変わっていない。 八年前と同じ家具。  テーブルに座った管理人さんを見ると……俺は目をこする。  「どうしたの?」  「いや……管理人さんもお変わりなく」  「あら、ありがと」   にっこりと笑う管理人さんの前で、俺は、海東時代の俺に戻った気がした。 「この部屋も全然変わってねぇっすね。 いや、いい意味で」 「そう? じゃ、これは、どうかしら?」  管理人さんが、カーテンをめくる。  綺麗に整理された庭。 ハーブや野菜が植えられた庭園の一角に、真っ赤な大輪の花が咲き乱れてた。  名前は知らないが、少なくとも日本の花じゃねぇ。 ヒマワリを紅くそめて、さらにくどくしたような、どっか暑い国の、暑苦しい花だ。 「あ、あれは……」 「去年、うちの前に置いてあったの。 植えたら根付いちゃって」 「俺ンとこにもありましたよ」  去年。 七回忌の翌日。  朝みたら、あれと同じ花が、ひっそりと墓前におかれていた。 夜の間に来たんだろう。 だったら、声くらいかけろっつの。  管理人さんは、センスがさすがで、こうして庭に植わってても違和感がないが、真っ黒な御影石の前に、あれが置いてあった時は前衛芸術かと思ったね。  つくづくあいつはセンスがねぇ。 てか、いったい、どこに住んでるんだ、あいつは。 「今年も来ると思う?」   七年という年月。 あいつは七回忌だから来るなんて、殊勝なやつじゃねぇ。 外国だかどこだか知らねぇが、七年苦労して、やっと、こっちに来る余裕ができたってとこか。 「今年も来るかもしれませんね」  「どう、二人で、見張ってみない?」  「いいっすね」  「お酒、あるわよ。 峰雪クン、いけるくちだったわよね」  「モチのロンっす」  管理人さんが、戸棚の奥から、一升瓶を取り出す。 包み紙には、「純米吟醸:遠途」とあった。 「〈遠途〉《えんと》?」  「人生とは重い荷を背負いて、遠い〈途〉《みち》を行くが如し、ですって」  「急ぐべからずってことっすか」  「じっくり作ったってことじゃないかしら」  「なるほど」  酒はおいしく、管理人さんが出してきたつまみが、これまた素晴らしかった。 カラスミにコノワタ。 辛口の遠途には、よくあった。  酒と一緒に、話も進んだ。 ネタになったのは、近所の世間話だ。 坊主ってな、檀家との付き合いが仕事みたいなもんだ。  なかでも押さえとくのは、お迎えの来そうな爺さん婆さんと、新しく赤ん坊が生まれる家。 どっちも仕事になるからな。  その俺が、管理人さんの付き合いの良さには、驚かされた。 よく知ってるんだ、これが。  三丁目の田中の爺さんの飼い猫の、性悪っぷりについて話してる内に、日はとっぷり暮れ、庭も暗くなった。  庭のほうからは、綺麗な虫の声が漂っていた。  管理人さんが、カーテンを閉めると、その声も遠くなる。 ん、と首を傾げると、笑って答えた。 「見張ってると、来ない気がしない?」 「そうすね」  俺もうなずく。  それから、俺たちは、酒を飲んで話し込んだ。  酒は強いほうだ。 だけどまぁ、楽しかった。 雰囲気に酔った。 「なんだっけな、これ」  「なぁに、峰雪クン?」  「ガキん頃にあった気がするんすよ。 こういうの。 カーテン閉めて、息を殺して。 外見ないふりして、徹夜で見張って」  「なにかしら」 「あ、あれだ。 怪人赤爺ィ」  「赤爺ィ?」  「いや、こっちの話。 サンタクロースっすよ、サンタクロース」  「あぁ」   管理人さんも、相づちをうつ。 この人、本当に酒に強い。 「赤爺ィってなぁに?」  「昔の話っすよ。 まだ、幼稚園のいたいけな俺が、親父に聞いたんすよ。 ウチにはサンタは来ないのかって」  「そうしたら?」 「あんな怪人赤爺ィは、寺には来ねぇって」  「それは……ひどいわねぇ」   そう言った管理人さんは、本当に、悲しそうに見えた。 んで、俺はあわてて言った。  「ガキの頃っすよ、ガキの。 それに、続きがあるんすから」  「そうなの?」 「ええ。 さすがに、それ聞いて、俺も、泣いて。 あんまり、俺が泣いたんで、ウチの親父が……」  「うんうん」  「寺には来ないが、他のとこなら来るかもしれんって。 それで、仲良かった九門ン家に泊めてもらって」 「あら、よかった」   管理人さんが、本当に、ほっとした様子で胸をなでおろす。 「あん時は、まだ、あいつも可愛げがあって、サンタを捕まえようとか言うんすよ。 それで、俺たち三人は、布団に潜って、じぃっと窓を見張って……でもまぁ、ガキだから寝ちまって」  「サンタさんは、来た?」  「ばっち来ました」  「いいお父さんじゃない」  サンタ話で盛り上がっている内に、管理人さんが、ふと、遠い目をした。 唇に指を当てる。  俺も、口をつぐんで、ゆっくりと立ち上がる。  耳を澄ます。 音はしなかった。 いや、さっきからかすかに聞こえた虫の音が、絶えている。  俺たちは、並んで、ぬきあしさしあし窓に歩みよった。  唇だけで、いっせいのせ、と、囁く。  カーテンを開けた時。 正直、何かが見えると期待していたわけじゃない。  怪人赤爺ィの扮装を剥いだってしょうがない。 だから。  人影がなく、ただ、庭に、例の紅い花が置いてあったのを見て、俺はむしろ安心した。 「峰雪クン、あっち!」  管理人さんの声に、俺は、天を仰ぐ。  夜空に一瞬だけ見えたのは、くっきりとうかぶ白い影。  多分、なにかの見間違いだろう。 飛行機とか。飛行船とか。 瞬きした時には、もう消えていた。  とにかく、その見間違いは、俺には、犬の形に見えた。 あんな大きな犬はいないってんなら狼だ。 「ぶるるっ」  ぼうっと口開けて、空見てたら、秋の夜風が染みた。 「峰雪クン、戻りましょうか」  管理人さんに言われて、俺は、我に返る。 「元気そうだったわね」  なんのてらいもなくそう言われて、俺は、思わずうなずいた。 「そうっすね」   俺ももう、この年だ。   金色の狼と、銀色の狼。 夜空を走って北斗を跨ぎ、お月さまの中に消えてった。   そんなメルヒェンなこたぁ、口が裂けてもいえやしねぇ。  ただ、一つ言えるのは、俺の見た、目の錯覚の幻の気の迷いであるところの狼たちは、とても、幸せそうに見えた、ってことだ。   あ、二つだ。 銀狼の野郎。 消えざまに、俺のほうを振り返って、ウィンクしやがった。  部屋に入る寸前。 俺は振り返って再び夜空を仰ぐ! 「克綺ぃ! このバカ野郎!」   俺は、夜空に叫んだ。 「また来年ね!」   管理人さんも、口に手を当てて大声で叫ぶ。  俺たちの声は、夜風にさらわれ、森に浸みて、あっという間に消えた。 遠い遠い月のほうから、かすかな遠吠えを聞いた気がした。  気の迷いかと、耳を澄ませば、虫の音が、再び響き始めていた。        深紅の光の中、陽炎のように門は震えていた。  さわさわと草を広げる音。 姿を現す獣が、一匹、また一匹。  こうして曙光の元でみれば、悲しいほどに少ない一族が。 知恵ある獣たちが、僕らの回りに現れる。  少女が、僕の手を解く。 その口が、別れの言葉をつむぐ寸前に。  僕は、思いきり、その腕を引っ張った。 「……カツキ?」  「行かせるもんか」   口に出した言葉が、ナイフのように少女をえぐるのがわかった。 「お願いだ。 一緒にいてくれ」   僕は、ひざまずいて懇願する。 彼女を行かせたくなかった。 ここで一緒に暮らしたかった。   それが、どれだけ無理だろうと。 どれほど身勝手だろうと。 そのことだけが、僕の中の本当のことだった。 「カツキ……ボクはね、嬉しいんだ」   少女は、淡々という。 固まった、傷ついた表情のまま。  「ボクも、カツキと一緒にいたい。 だけど……」  「だけど、なんだ」   ボクは、必死にすがりつく。 「だけど……ボクはヒトじゃないし、ヒトみたいには暮らせないよ」  「なんとかなるさ。 してやる!」  「そう?」   声が、少しだけ軽くなった。 「ああ、約束する」  「そうだよね……カツキとは、約束したものね」   少女が、うーんと顔を伏せる。 数秒の間に、心臓は、百脈打った。 「よし! 決めた!」   風のうしろを歩むものは、晴れ晴れとした顔をあげた。  「ボク、カツキと一緒に行くよ!」   次の瞬間。  空が暗くなったかと思った。  背後から響く恐ろしい吠え声。 それは、聞くだけで背筋が凍り、目の前を暗くした。  猛獣の爪が、肩にかかっている。 その感触が、ありありと感じられる。 吠え声は合唱となり、どんどん大きく僕を包み、潰そうとする。 「WONG!」   風のうしろを歩むものだった。 その一声で、森は静寂に帰った。 「風のうしろを歩むものは、勤めを果たしたよ。 門を持ち帰り、婿を見つけた。 だから……ボクは、カツキと一緒に行く」   草原を渡る風のような音。 あれは多分、足音だったのだろう。 「風のうしろを歩むものは、今から草原の民を止める」   悲しげな遠吠えが生じた。 絡まり合い、哀悼の曲となる。  「じゃ、さよなら」  そのたった一言で、風のうしろを歩むものは、今まで生きてきた全てに背を向けた。  門にも同胞にも新たな故郷にも。 「じゃ、行こうか」   差し出された手を僕は取る。  「行こう」  手に手を取って、僕らは、走り出す。 人外の民の奥津城から、日のあたる人の生きる場所へ。  彼女にとっての異郷。 僕にとっての故郷。 「今日は死ぬにはいい日だ」  清らかな声で、彼女が歌いだす。 声は記憶に染み渡り、やがて、僕も思い出す。  あの時、彼女が歌っていた。 体の中から声が響き出す。 「こんなに暗い夜だけど。 今の僕には、つなぐ手があるから」  つないだ手と手の間に熱が満ちた。 「こんなに寒くて、悲しくても。 ここにはあなたがいる」  寒さも悲しさも、決してこの人に近寄らせはしない。 僕は、そう誓う。 僕自身に誓う。 「あなたを見れば、朝日が見える。 あなたの手から、ぬくもりが伝わる」 「夜は、こんなにも冷たくて。 けれど、ボクには、あなたと一緒の朝が見える」  朝日が、登り始めていた。 朝焼けが消え、こんなにも蒼い空が、僕らの前に拓ける。 僕は、最後に声を合わせる。 「だから。 それはきっとよいことで」 「今日は、死ぬには、いい日だ」  ──だから、それは、きっとよいことで。 今日は、死ぬには、いい日だ。 「親愛なる峰雪へ   そろそろまた、引っ越しの季節が来たようだ。 窓の外には、またぞろ、不吉な音が木霊するようになった。   どうどうと土の崩される音。 ぎやんぎやんと刃が幹に食い込む音。 めりめりと木々の倒れ伏す音。   今度は、油田だそうだ。 このへんは保護区のはずだったが、例の戦争のせいで、燃料価格が高騰している。 人間らしい、まったく人間らしい行いだ。  この10年の間は、ずいぶん世話になった。 知っての通り、僕の妻の体は弱い。 人に会うこと、人と触れあうことが、毒として体を蝕むのだ。   田舎で静養すれば済むことだ、と、僕は思っていた。 とても浅はかだった。 人と人とが触れあわずに暮らせるのは、都会の真ん中くらいなもの。 そんな当たり前のことを僕は知らなかったのだ。 田舎であればあるほど、文明の利器から離れれば離れるほど、人のつながりは、大切な……否、必要なものとなる。 田舎に現れる変わり者の夫婦は、好奇の目にさらされ……それは、妻の健康を直接奪っていった。  幸い、君の助けもあって、僕らは、徐々に、人里離れたところに住まいを移すようになった。 返すあてのない金を君から借り、僕らは、なんとか生活していった。 そのことには幾ら感謝してもしきれない。 君のことだから、いくら感謝しても、どうせ、浄財だとか坊主丸儲けだとかうそぶくのだろう。 だからといって、僕らの気持ちが変わるわけじゃない。 ありがとう。   君の好意にすがり、住まいを転々としながら、こんな北の果てに来てしまったはいいが、僕も、そろそろ生き方を変える必要があるかもしれない。  理由なんだが、しばらく前に娘が生まれたことだ。 なんで、もっと早く言わねぇ、と、怒る君の姿が目に浮かぶようだが、ともかく今日で一年半になる。 写真はまだ勘弁してほしい。   名はメグミとつけた。 メグミのためにも、僕は、強く生きようと思う。 身の振り方が決まったら、また手紙を送る。 それまで体に気をつけて。 元気で。                     君の友人 九門克綺                          風のうしろを歩むもの」  手紙を書いている間中、メグミは、僕の背中に、木の列車を走らせていた。 ペンを置くと、待ちかねたように列車を放り出す。 「おいで、メグミ」  僕は、ペンを置いて、片手でメグミを抱き上げる。  頬をすりよせるメグミ。 柔毛が日の光にきらきらと輝く。 僕は、その毛深い、尖った耳をなでる。 「ぱーぱ」  にっこり笑ったメグミが、次の瞬間、強く、咳き込みはじめる。 抱きついた腕の爪が、僕の首に刺さる。  咳の原因はわかっていた。 窓の外にあるものに、僕は、強い憤りを覚えた。  呼吸一つで、僕は、その気持ちを胸の底に押し込める。 精一杯の笑顔で、メグミをあやす。 「メグミ、平気か?」  背をさすりたかったが、片手では、それもままならなかった。  ゆっくりとあやしながら、メグミの咳がゆるむのを待って、僕はメグミを降ろし、指を差し出す。  柔らかな唇が、嬉しそうに僕の指をくわえる。 慣れた痛みが指先に走る。 メグミの頬に、ゆっくりと赤みが差す。  足下で、妻が吠える。 血をやるのは、週に一度の約束だった。  僕の血肉に、かすかに魔力が残っていたのは幸いだった。 それは、門を開くには遠くおよばぬ残滓だが、彼女らの命をつなぎとめるくらいはあった。  メグミが産まれた時が、一番大変だった。  人の医者に診せられるはずもない。 身重の妻を置いてもいけない。 僕は助産夫の技を独学した。  かろうじてメグミを取り上げた時、母子ともに、危険なほどに衰弱していた。 二人の命をつなぐのに、腕一本を費やした。  おかげで僕も死にかけて、あとで、妻には大層怒られたけれど。  妻は、あの時以来、ほとんどの時を、狼の姿で暮らしている。 それのほうが、体が楽らしい。  唯一、メグミに乳を与える時は、人の姿に戻る。  メグミは……まだ形が定まっていない。  人外の姿は心の顕れ。 人の父と、狼の母に育てられ、未だ、自分が何か決めかねている、ということだろう。  妻の話では、自分が家を去れば、メグミは人外の血を忘れ、人として育つだろうと言うことだ。 そういう事例があるらしい。  無論、そんなことは考えるまでもなかった。 僕は、妻とメグミを愛している。  メグミの健康はなにより大切だが、メグミのためにも妻を捨てることは考えたくもない。  メグミは、僕と妻、両方の娘だ。 鋭い牙も、黄色く光る瞳も、首筋に金に光る柔毛も、そのすべてが愛おしい。 「ぱーぱ、ぱーぱ!」  咳のおさまったメグミは、僕の手を引っ張る。 指先にあるのは、窓の外の景色。 「あーれ」  天をつくような木々は、容赦なく切り倒され、道ができていた。  煤煙を吐きながら、巨大なトラックが走る。メグミの、咳の元だ。  今度は僕は、怒りを隠しきれなかった。 かすかに肩が強ばる。 「あれは……」  口を開こうとした時、ようやく僕は気づく。 メグミの目は、窓の外の光景に大きく見開かれていた。 「あーれ、なーに?」  メグミが指さす。 それは子供らしい好奇心。 はじめてみる、大きなキカイを、驚き、畏れ、楽しんでいる。  嬉しさが伝わる。 痛いほどに。 「あれはね、車だよ。 くーるーま」 「くーるーま」  メグミは、しばらく口の中で言葉を転がす。 「くるーま!」 「まま、くーるーま!」  床下の妻の首を抱いて、窓を見せる。 妻は、柔らかな声で鳴いた。 「ぱーぱ? なーに?」  あふれた涙をみとがめて、メグミが問いかける。 この子にとって、世界は輝いている。  それは、とても嬉しいことで。 僕は少しだけ泣いた。 「メグミ、旅行にいくぞ」 「りょこー?」 「あぁ。引っ越しだ。 車もいっぱい見られるぞ」 「くるーま!」  はしゃぐメグミの頭を僕は、撫でる。 ああ、この子のためなら、どんなことをしても惜しくはない。   10年生きて、少しだけ分かったことがある。 僕と妻とメグミ。 僕らの苦しみは、そんなに特別なものじゃない。   いろいろな親が、いろいろな場所で、時代で、今もなお、ぶつかっている、そんな苦しみだ。 親は、いつだって子のために血肉を捧げるものだ。   僕は、メグミを守るには、この身、全部を投げ出して惜しくない。 ああ、ただ、僕が死んだら、妻が倒れたら、誰がメグミを守るのだ? 心配なのは、それだけだ。   この子には、時間が必要だ。 独り立ちするまでの、今少しの時間が。   妻が鳴く。 遠い昔の、あの台詞が蘇る。          ──だからね、カツキ。   明日失うと分かっているなら、その日が一番幸せなんだ。  じっと外を見ていたメグミが、ふと床をふりかえる。 転がっていた木の列車を、両の掌で、挟むように拾い上げた。 「くるーま!」  勢いをつけて滑らせた列車。 列車がころころ走りゆく。 列車の車輪はくるくる回る。  くるくる回って、ころころ進んで、やがて列車は壁に当たって転覆した。  横倒しの列車を見つめ、メグミは、やがて立ち上がった。 小さな優しい顔に、決意を浮かべて。 倒れた列車を建て直すべく、よちよちと歩き出す。  僕は、はらはらしながら、メグミを見守る。 手を伸ばして、列車をとってあげたくなる。 揺れる背を支えたくなる。  妻も、同じ気持ちらしく、ピンと耳を立てて、メグミの行く末を見守る。  けれど、僕らは手を出さない。 メグミの顔に、決意があるから。  メグミが僕らに助けを求めるまで。 あるいは大きな怪我をしそうになるまで。  そのどちらも、なかった。 メグミは、三度、倒れて、三度起きあがった。  長い長い二十歩を踏破すると、にっこりとわらって、両手で列車をもちあげた。  ああ、明日の僕は、何かを失っているかもしれない。 けれど、そこには多分、娘と妻がいるだろう。  僕の名は、九門克綺。 妻は、風のうしろを歩むもの。  娘は、メグミ。 慈しみふかき時の恵。  僕は、今日、本当に幸せだ。  メグミが、再び、列車を転がす。  その背を、僕は、じっと見つめていた。 ずっと見つめていた。        深紅の光の中、陽炎のように門は震えていた。  さわさわと草を広げる音。 姿を現す獣が、一匹、また一匹。  こうして曙光の元でみれば、悲しいほどに少ない一族が。 知恵ある獣たちが、僕らの回りに現れる。  僕は、重ねた手を解き、少女の肩を叩いた。  さよなら。 僕は、笑顔で、そう言いたかった。 気持ちよく送りたかった。  だが、だめだった。 「さよな……ら」  たよりない声。 泣きそうな顔。  少女も、しばらく目を伏せて、そうして、ようやく顔を上げる。 「さよなら、カツキ」   声は、いつもと同じく優しく、いつもと同じく暖かく。 けれど、間違えようのない寂しさがあって。 「元気で、暮らして……」   だめだ。 涙があふれる。 嗚咽で言葉が途切れた。  「カツキも、元気でね」   だめだ。 胸の中から、押しとどめたものが、堰を切ってあふれ出す。 「好きなんだ。 ずっと一緒にいたいんだ」   僕は叫んだ。 一言ずつが、少女の体を揺り動かす。 えぐるように突き刺す。   そんなことを言ってはいけないと、わかってはいたけれど。   でも、僕は言った。 今しか、今しか、言う時はないのだから。 「ボクだって……カツキと、ずっと一緒にいたいよ」  「だけど……」  「だけど」   答えはわかっていた。 けれど、口にせずにはいられない。 「カツキのところにいたいよ……ずっと」  「だめだ。 そんなことをしたら、君が君じゃなくなる。 僕だって、そっちに行きたい」  「ボクの行くところでも、カツキはカツキじゃいられないと思う」  僕が僕であること。 彼女が彼女であること。   僕が愛したのは、春風のように吹きすぎてゆく女の子で。 だから、澱んだ都会で朽ちることは望まない。   彼女も、僕が野山で獣となることを望んでいない。   こんなにも好きで。 こんなにも好きあっているのに。  歩く道は、もう交わらない。 世界が違った。   そんなことは多分、きっとよくある話で。 だからといって、胸の想いは消えるわけじゃなくて。   僕は、ようやく笑顔を作れた。 本当なら、僕らは会うはずがなかった。 だから、今、別れる。  でも会ったことが、間違いだったとは。 会わなかったほうがよかったとは。 僕は言わない。   誰にも言わせない。 「好きだよ。 愛してる。 ずっと」  「ずっとは要らない。 明日のことなんかわからないよ。 今日だけでいいよ」   僕は首を振る。 「明日も明後日も、ずっと一番好きだ」  「そう思ってるのは今日のカツキだよ。 明日のカツキは、きっといいお嫁さんを見つけて、かわいい子供を育てるよ」   首を振りかけて、僕は、気づく。 「じゃぁ、風のうしろを歩むものも、幸せになってほしい。 いいお婿さんを見つけて」  「それは明日の話。 今日のボクは今日のカツキが好きだよ。 大好き」  「僕だって、今日の君が大好きだ」   好きだから。 好きだからこそ。 僕は、もう一度、その言葉を口にした。 「さようなら、風のうしろを歩むもの」  「さようなら、カツキ」  僕らは、最後に抱きしめ合う。 腕の中のぬくもりが、今ほど愛しかったことはなかった。  僕らの回りで、狼たちが、空に吠える。 それは、遠くにあるものへの憧れの歌。 明日の幸福を願う歌。  心から楽しげで、そのくせ、どこか寂しく歌い上げる。 それは、ほんとうの幸せの歌だった。  それは、草原の民の一番古い歌で。 僕の胸の中の狼も、その言の葉を知っていた。 無数の声の中で、僕と少女だけが人の言葉で歌を歌う。  それは、こんな風に始まる。 「今日は死ぬには、いい日だ」  狼たちが、ゆっくりと門をくぐりはじめる。 「今日、ボクは、独りだ」 「ここは暗い。 ここは寒い。 ここは悲しい」 「ここには、あなたがいない」  朝日を浴びながら、清冽な風が吹いた。 少女の髪を散らしてゆく。  ゆっくりと僕らは抱擁を解いた。 僕は、顔にかかった少女の長い髪を、梳きあげる。 「けれど」 「こんな暗い夜だから、夜明けを想う」 「こんな寒い日だから、朝日を想う。 こんな悲しい時だから、あなたを想う」  風のうしろを歩むものは、一つうなずくと背を向けた。  いつものように軽やかに。 気負いなく。 ほんの近くへ散歩するかのように。  遠い一歩を踏み出した。  その背を。 僕は抱きたかった。 そして。 抱かなかった。 「あなたに朝が訪れますように。 暖かな風がありますように。 愛しいぬくもりを得られますように」 「ここは、こんなにも冷たくて、あなたはここにいない。 だから。 それはきっとよいことで」  背を向けた少女は、ゆっくりと門に足を踏み入れる。  草原の民の最後の一人。 風のうしろを歩むもの。  その全身が入った瞬間、陽炎の門が、ゆらりと溶け。 彼方の光も、風も、音さえも。  たった一瞬で消え去った。  静寂の中で、僕は、最後の詩句を歌う。 「今日は、死ぬには、いい日だ」     朝焼けはもう消えていた。   白々しい光と、青空の下で。   僕は、しばらく泣いた。   泣くだけ泣いて。   僕は、山を降りた。    「それから、どうしたんですか、おじいさま?」   膝の上で、孫娘が続きをねだる。 ああ、と、答えようとして、咳がでた。 咳払いを一つして、茶をすする。  「おつかれですか?」  「ああ、ちょっとな」   ほんの十日とちょっとの出来事なのに、話してみれば、ずいぶんと長くなってしまった。  暖炉の薪が、ほとんど燃え尽きかけている。    「それで私は山から下りた。 風のうしろを歩むものとは、それきり会っていない。 これで、この話は、おしまいだ」  「それは、おわりじゃないと思います」   妙に大人びた口調の娘に、私は苦笑する。 あれは、一つの、お話の終わりだったと思う。 けれど、確かに。 現実に、終わりはない。 生きている限り。    「なにが聞きたい?」  「そのあと、おじいさまは、どうされたんですか?」   律儀な声。  「おいおい、五十年分だぞ」  「かいつまんでおねがいします」   まじめくさっていう孫に、私は苦笑する。 「そうだな。 私は……街に帰っても、あの日見た草原が忘れられなかった」  「そうげんですか?」  「あぁ。 未練というのかな。 地球のどこかに、あんな草原を見つけたら、風のうしろを歩むものと、もう一度会える気がしてな」  「会えたんですか?」  「会えなかった」 「そうですか」  「まぁ会えはしなかったが、思うことはあった。 草原の民は、いなくなったが、同じように困っている者はいるんじゃないかな、とな」  「はい」  「それで、今の仕事についたんだ」  「今の、おしごとですか?」 「森や草むらを護る仕事だ。 水や風を見守る仕事だ。 獣も鳥も虫も魚も、それから人も。 とにかく、いきものといきものが、きちんと暮らしていけるようにする仕事だ」  「やってみると、これが、楽しかった。 つらく、苦しいこともあったが、やりがいがあった」  「ごくろうさまです」   頭を下げる、そのしぐさに私は微笑する。  「どういたしまして」 「おしごとをしていて、おじいさまは、さびしくはなかったんですか?」  「どうだったかな」   私は思い出す。 思い出そうとする。 刺すような痛みの記憶は、もはや、遠く靄のようで。  「最初は寂しかったな」   この歳になっても、気恥ずかしい台詞だが、孫の前では素直になれた。 「寂しさをまぎらわすために、仕事に打ち込んだ。 そのうち……そうだな、寂しいのは止まらなかったが、満ち足りるようになった」  「どういうことですか?」  「寂しくても、私は止まらなかった、ということさ。 やりたいことを見つけて、前に進めた。 それなら、きっと彼女も同じだろう。 彼女が寂しいかどうかは、わからない。 あの時言ったように、いい夫を見つけてくれればと思う」 「ただ、なにがあろうと、彼女も、一日一日を、精一杯生きてるに違いない」  「私と彼女は……他のすべてはなくとも、同じ時間を生きている……ということは、同じ命を生きているということだ。 会えないことが寂しい以上に、それが、嬉しかったのさ」  「少しだけ、分かる気がします」   こくり、と、少女がうなずく。 「後悔は、ないんですか?」  「後悔なら、百遍もしたよ。 あの日のことは、何度思い返したか、わからない。夢も見たよ。 草原のただ中で、彼女と目覚める夢。 あるいは、ふらりと彼女がこっちに来る夢」  「夢は、とても幸せなものだから、目が覚めるとつらかった。 そんな夢なんか見なければいいと思った。そのうちに、夢が愛しくなった。 夢の中でも、ほんの一時の幸せでも、幸せは幸せだ」 「しあわせ、でしたか?」  「私か?」   しあわせ、か。 考えたこともなかった。 「忙しかったからな。 そんなことは、ゆっくり考えなかったよ。 双眼鏡で巣を探して、枝に登って、卵を数えるんだ。 泥の中に潜って、根っこの長さを測るんだ。 体中に、かゆい葉っぱの汁をまぶして、水飲み場を徹夜で見張るんだ。 この目で見た何もかもを、写真にとってスケッチして字に書いて。 それを大勢に伝えて、お偉方を説得して、金を引っ張って。 忙しくて……楽しくて……気がついたら、こんな歳になっていた」 「独り身だから、気楽なもんだ。 好き勝手に生きて、好き勝手に貧乏ができた。 考えてみれば、こんな幸せな一生はないな」  「ずっと、愛していたんですね」  「あぁ。 仕事が恋人ってわけだ」  「仕事と……彼女のことです」 「別段、操を立てたつもりはないんだが……そうだな。 今でも、好きだ。 愛してる」   今の私を見たら、あいつ、なんていうかな。   そう思って、私は笑った。 「ともかくも……これで、本当に、おしまいだ」  「はい、わかりました」   少女はうなずいた。 その名前を呼ぼうとして、私は、ふと気づく。   私は独り身だ。養子も取っていない。 そうすると……この娘は、誰だ? 「あぁ、そうか」  私は、やっと思い出す。 「おしまいなんだな。 本当に」 「はい。 本当は、はじまりなんですけど」  膝の上の少女は、す、と、背を伸ばす。  くるり、と、傘が回る。  傘のひとまわりごとに、暖炉と部屋が薄れてゆく。  くるり、くるり、と回るほどに、僕ら二人は、虚空の中に立っていた。 「カツキ!」  暖かな風の渦巻きが、僕の首ったまにかじりつく。 「カツキ! カツキ! カツキ!」  全身で喜びを表しながら、僕を振り回す。 おかえしに僕も、彼女を捕まえて、高く高くさしあげる。 「変わって……ないな」  僕は、それだけ言う。 もしも……もしも、会えることがあったら。 涙が出てくると思っていたんだが。  涙はなかった。 ただ、胸の奥に、暖かみだけが広がってゆく。 「何言ってるの。カツキだって!」  言われてみれば。 あんな風に飛びつかれれば、骨なんかポキポキと折れていたはずだ。  腕も、足も軽い。 手を見れば。 浮いた静脈も、斑の染みも、すっかりなくなっていた。 「会いに来て、くれたのか? ずっと待ってくれたのか?」 「ううん。 ボクも、今、来たとこだよ」  僕は、傘のほうを、ふりかえる。  「どうして? なぜなんだい?」   たまたま同じ時刻に死んだわけでもあるまいし。 「よく、私が不条理だって言われるんです。 仕事熱心とか、かたくなだとか」  「あぁ、そうだな」   少女は、微笑んだ。   それは、唇の端に、ほんの一瞬だけ浮かんで、すぐまた消えてしまった。 「こうみえて、結構、融通が利くんですよ」  「ありがとう」   僕は、心から言った。 「ありがとう」  風のうしろを歩むものは、彼女を深く抱きしめるのを、少女は、いつもの無表情で受け流した。 「あぁ! ボク、カツキに話したいことがいっぱいあるよ!」  「僕もだ」 「何から話したらいいかな。 まず、メグミのことかな。 メグミは、この前、娘が産まれたんだよ。 カツキの孫だよ」  「待て。 待ってくれ。 メグミって誰だ!」  「誰って、ひどいなぁ! カツキとボクの娘だよ」  「僕の……娘?」 「うん! カツキの妹から名前をもらって、慈しみふかき時の恵」  「僕に……娘?」  「あ、まさか、認めないつもり? 身に覚えがないとか?」  「いや……そうじゃなくて……」   風のうしろを歩むものが、くっくと笑った。 「冗談だよ。 ボクも、むこう行ってから気づいて、びっくりしたもの。 それと、すごく嬉しかったよ」  「メグミ……か」   足下が、ふわふわする。 当たり前か。 「いい子に育ったか?」  「もっちろん! 言ったでしょ。 この前、孫が産まれたって」  「あ、あぁ」   頭が、ぐるぐると回っていた。 「あぁもう! じれったいなぁ。 まぁいいや。話してあげるよ。 最初から、全部。 だから、カツキもお話ししてよ」  「もちろんだとも」   僕は、ようやく、笑顔を思いだした。 肩が軽い。 体がふわふわする。 「僕に……孫か」   遺すものは、森と山。 そこに住むかけがえのない命。 それだけでいいと、ずっと思っていた。 今でも、その気持ちは変わらない。 だけど……他に、遺したものがあると知って、僕は、今、やっぱり嬉しかった。 「それで……娘の相手は、どんなやつだ?」  「うーんとね。 蛙を捕るのがうまいよ」  「蛙?」  「おいしんだよ、蛙」  「でも蛙って……」   くるくると、傘が回った。 「そろそろ行きましょうか」  その一言とともに。  虚空に、一条の道が見えた。 銀色のそれは、星の間をくぐり、黄金色の月へと続いている。  悠遠な光景に、僕らは、一瞬、言葉を失った。 しばらくして、僕は、大切なことを思い出す。 「それで……僕らは、これから、ずっと一緒にいられるんですか?」   少女は、かすかにうなずく。  「向こうに着いたら、決めてください」   僕は、風のうしろを歩むものと顔を見合わす。  「安心してください。 着くまで、しばらくかかりますから」   少女は背を向けて、道の上を歩き出した。 「お話しの時間は、いっぱいありますよ」  僕らは、手に手を取って、銀の道に、最初の一歩を踏み出した。 くるり、くるりと、傘が回る。 傘を見ながら、僕らは、心の底から言った。 「今日は、死ぬにはいい日だ」